2025年12月28日日曜日

「光輝く命の水の川」

2025年12月28日 主日礼拝説教 

聖書:ヨハネの黙示録 21:22‐22:5

 今日の第2朗読ではヨハネの黙示録が読まれました。この書物が書かれたのは、紀元一世紀の終わり頃、教会に激しい迫害が加えられていた時代であると言われています。そのような中でも、キリスト者たちは共に集まり、礼拝をささげ、祈り、聖餐を行い、信仰を励まし合っていました。ヨハネの黙示録は、そのような礼拝の中で朗読されるために書かれた書物です。

 そこには迫害の中でパトモス島に抑留されていたヨハネが、神によって見せられた幻が記されています。それは一人の人間の神秘体験に留まらず、苦しみの中にあった当時の教会全体に向けて、さらには後の時代の代々の教会に向けて語られた希望のメッセージでもあったのです。

 今日読まれた箇所は、その黙示録も終わりに近い部分です。彼が幻の中で見ているのは、聖なる都エルサレムです。それは彼が知っている地上のエルサレムではありません。神の栄光に輝く、新しいエルサレム、救いの世界です。

 もちろん、神が見せてくださった最終的な救いの世界を、人間の言葉で描写することには、本質的な限界があるでしょう。それでもなお、ヨハネが言葉を尽くしてこの幻を語ろうとしているのは、苦しみの中にあった人々に、私たちを待っている救いの世界を伝えたいと願ったからです。特にこの21章を読みますと、その熱情がひしひしと伝わってまいります。今日は途中からですが、その言葉に耳を傾けてまいりましょう。

神殿がない、太陽も月もない
 その幻の中で、ヨハネはまず一つの重大なことに気づきます。そこには、エルサレムにあるはずの神殿がなかったのです。――しかしすぐに、それはもはや必要がないのだと悟ります。ヨハネはこう語っています。「全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである」。

 ここでヨハネが見せられていることは、当時の教会にとって、極めて大きな意味を持つものでした。というのも、この幻が語られた時代、地上のエルサレムには、すでに神殿が存在していなかったからです。紀元70年、エルサレムの神殿はローマ軍によって破壊されてしまったのです。

 それまでエルサレムの神殿はユダヤ人にとっては信仰の拠り所でした。初期の教会にとってもそうでした。キリスト者となった後も、使徒たちは神殿での礼拝を続けていたのです。しかし、その神殿が破壊されてしまいました。ユダヤ教のサドカイ派は祭司を中心としていましたから、神殿の喪失と共に歴史から消えていきました。一方、ファリサイ派は残りました。律法の遵守を要として、律法の民として残ったのです。それが今日のユダヤ教の流れです。

 一方、キリスト教会もまた残ったのです。どうしてか。復活したキリストこそまことの神殿であると理解していたからです。かつてイエス様がこう言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2:19)。ヨハネはこの言葉を次のように説明しています。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(同21‐22節)。

 そのようにイエス様こそが神殿なのです。キリストの体が分け与えられる聖餐の場にこそ神殿があるのです。そして、聖餐によって形作られる信徒の共同体、すなわちキリストの体なる教会こそが神殿なのです。どんなに小さな集まりであっても、それがたとえ迫害の中で地下墓地においてひっそりと集まって礼拝をささげている小さな群れであっても、確かに自分たちは神殿にいると信じて、彼らは礼拝をささげてきたのです。

 そして、ヨハネが見た幻は、確かにその理解は間違っていなかったことをはっきりと示していたのでした。終わりの日に、目に見える神殿などないのです。主と小羊が神殿なのです。

 またヨハネはもう一つのことに気付きます。太陽も月もないのです。しかも、そこには明かりがいらない。それはなぜか。神の栄光が都を照らしているからです。「神の栄光が都を照らしている」ということが何を意味するのか、ヨハネにはわかったはずです。すぐにイザヤ60章の預言を思い起こしたに違いありません。

 そこにはこうあります。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」(イザヤ60:2)。そして、同じ章の19節にはこう書かれているのです。「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。あなたの太陽は再び沈むことなく、あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる」(同19節)。

 そうです。主が永遠の光となる時とは、「あなたの嘆きの日々は終わる」と約束されているその時なのです。夜は永遠に夜なのではありません。嘆きの夜も必ず明ける時が来るのです。太陽の光によらない朝が来る。主の栄光が照らす永遠の朝が来るのです。

閉ざされない門
 さらにもう一つの不思議な光景をヨハネは見ることになります。都の門が閉ざされないのです。地上のエルサレムにおいては、その門は夜になると閉ざされ、武装した門番によって守られるのが常でした。しかし、ここで門はずっと開け放たれたままなのです。

 一つには、もはや「夜」がないからです。しかし、もう一方において、それが開け放たれているのは、諸国の民が入れるようにです。「人々は諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る」(26節)とあるとおりです。そのように救いの門は全ての民族に広く開かれているのです。しかし、もう一方においてこう書かれています。「小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」(27節)。

 門が閉ざされて入れないのではないのです。門は開かれている。それでもなお、入れないのです。それは神の栄光が照らしているからです。神の栄光が照らす時、それは神がまことの神として自らを現される時です。だから苦しみの時が終わるのです。しかし、もう一方において、神がまことの神として自らを現されるなら、、罪ある人間はそこに近づくことができなくなるのです。

 人間の手でこしらえた偶像ならば、いくらでも人間は近づくことができるのです。罪があろうが汚れていようが近づくことができるのです。しかし、神がまことの神として現臨されるなら、罪あるまま汚れたままで近づくことなどできません。神の栄光が照らしているのが最終的な神の都なら、罪あるまま汚れたままで入れるはずがありません。

 もしキリストによる罪の贖いがなかったならば、キリストの十字架による罪の赦しがなかったら、汚れを十字架の血によって洗っていただいた人としてでなければ、神の栄光が満ちている都に入れるわけがないのです。最後までキリストを信じた人であること、そのような者として小羊の命の書に名が記されていること、それがどれほど大きな意味を持つかは、この開かれた門を前にした時に明らになるのです。

 ヨハネは先にも申しましたように、信仰のゆえにパトモス島に抑留されているのです。信仰の故に苦しみを受けているのです。しかし、キリストのゆえに、屠られた小羊の血のゆえに、罪を赦され汚れを清められた者として、神の栄光が満ちている都に身を置いている自分自身を見せていただいた時、ヨハネにははっきりと分かったに違いないのです。すべては報われる、と。この一時において、すべての苦しみも悲しみも痛みも完全に報われる、と。

命の水の川が流れていく
 そして、ヨハネはその都の中に「水晶のように輝く命の水の川」を見ることになります。その川は神と小羊の玉座から流れ出ているのです。

 ヨハネが見た光景、それはかつてエゼキエルが見た光景と同じものでした。エゼキエル書には次のように書かれています。「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた」(エゼキエル47:1)。これが流れ下るにつれて深くなり大きな川となるのです。

 そこで大事なのは次の描写です。「川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」(同9節)。さらに、その川のほとりには実を結ぶ木々が生い茂り、その実は食べ物となり、葉は人を癒すものとなる、と語られています(同12節参照)。

 ここを読みますと、もう一つの箇所が思い起こされます。イエス様がこう言われた言葉です。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)。ヨハネはこの言葉について次のように説明しています。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」

 イエス様の言葉は明らかに先ほど引用したエゼキエル書の預言を背景として語られています。神殿から流れ出る生ける水の川。それはキリストを信じる人において、ある意味では実現しているのです。イエス様は栄光をお受けになりました。十字架にかけられ、そして復活して天に挙げられました。そして、既に聖霊は降ったのです。キリストを信じる者は神殿となり、そこから聖霊の生ける水が川となって流れ出る。そのようにして確かにこの二千年間人から人へ福音は伝えられてきたのです。

 しかし、今日お読みしたヨハネの幻を見ますと、私たちが教会生活において経験していることは、やがて終わりの日に見ることになる、新しいエルサレムの先取りに他ならないことが分かります。私たちが見ていることはまだ一部に過ぎません。私たちが経験していることは、まだほんの一部です。私たちはやがて、本当の命の水の川の流れを見ることになるのです。完全な命の世界、完全な癒しと救いの世界を、見ることになるのです。

2025年12月21日日曜日

「真に幸いな人とは」

ルカによる福音書 1:39-56

 今日の福音書朗読は「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」(39節)という言葉から始まっていました。マリアは急いでいました。一刻も早く会って話をしたい人がいたからです。親戚の老婦人エリサベトです。

受胎告知
 この直前には「受胎告知」の場面が書かれています。天使ガブリエルがマリアに現れて、彼女がメシアを身ごもっていることを伝えたというくだりです。天使はマリアに言いました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」。これが第一声でした。しかし、天使が持ってきた話は、単純におめでたい話ではありませんでした。

 ガブリエルは続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。「恐れることはない」と言いますが、これほど恐ろしい話はありません。マリアはこの時、ヨセフと婚約していたのです。マリアはヨセフと共に幸せな家庭を築くことを夢見ていたごく普通の娘だったに違いない。しかし、そんなささやかな望みがこの天使の言葉で打ち壊されてしまいました。

 婚約している娘が身ごもるということがユダヤ人社会においてどのように受け止められるか、マリアが知らなかったはずはありません。天使は「聖霊によって身ごもった」と言いますが、いったい誰がそんな説明を信じるでしょう。事実、今日でも信じない人の方が圧倒的に多いのですから。彼女の場合、姦淫の罪として告発されればまず有罪は免れません。仮にヨセフが告発しなかったとしても、彼との関係は終わりでしょう。しかし、その全てをマリアは受け止めたのです。彼女は言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。これがマリアの信仰でした。

共に信じる交わり
 しかし、マリアに不安や恐れがなかったはずがありません。ヨセフとの関係が壊れてしまうことを考えたら、どれほど辛く悲しかったか知れません。そんな思いを抱えて、彼女はユダの山里へと急ぎました。エリサベトに会うために。どうしてですか。エリサベトだったら分かってくれるからです。なぜなら、エリサベトもまた神によって男の子を与えられた人だったからです。不妊の年老いた女がただ神の力によって奇跡的に身ごもったのです。彼女ならば分かってくれる。

 いや、それだけではありません。それ以上に大事なことがあります。そこで神のことを語り合えるということです。人生に起こっていることを神の御業として語り合える。マリアはそんなエリサベトに会うために急いだのです。

 マリアは間違ってはいませんでした。確かにエリサベトこそ、マリアが会うべき人でした。「そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」(40節)と書かれています。この場面は物語がかなり端折られているようにも思います。実際には挨拶の言葉に次いで、これまで起こってきたこと、自分の思いなどをマリアは語ったでしょう。あるいは不思議なことにエリサベトには語らずして事情が分かったということかもしれません。いずれにせよ、大事なことは、深刻な事態に置かれているマリアに対してエリサベトはこう言ったということです。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」(42節)。

 祝福するのは神様です。神様がマリアをも胎内の子も祝福してくださっている。そのように、神がなさっていることとして、一緒に信じて語ってくれた、それがエリサベトでした。彼女は言ったのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)。

 マリアがこれから直面せざるを得ない困難は、もちろんエリサベトにも分かっているのでしょう。しかし、エリサベトが目を向けているのはそちらじゃないのです。そうではなくて、神のご計画の方なのです。必ず実現へと向かっていく神の御業について語っているのです。そうです、困難があろうが何があろうが、神の御業を一緒に信じて、一緒に語り合ってくれる人こそ、マリアには必要だったのです。

 このエリサベトがいたからこそ、その後の「マリアの賛歌」が続くのです。そこで爆発的な喜びに満たされてマリアは歌うのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(46‐47節)。ここで初めて、マリアの口から「喜ぶ」という言葉が出て来るのです。

 事態は何も変わってはいません。困難が無くなったわけではありません。しかし、一緒に信じるところで、一緒に神の御業について語り合うところで、悩みが喜びに変えられていくのです。不安や恐れが賛美へと変えられていくのです。悩みについて語り合える人や場所はこの世にいくらでもあるかもしれません。しかし、悩み多き人間にとって、本当に必要なのは、当たり前のように神について語り合うことができ、そして、共に信じて神を賛美することができる交わりなのです。そして、それは私たちにも、こうして与えられているのではありませんか。

最も喜ばしきこと
 マリアとエリサベトの間において何が起こったのか。今日の私たちについて言うならば、教会において何が起こり得るのか。マリアが歌っている言葉に、もう少し耳を傾けてみましょう。

 マリアは何を喜んでいるのでしょう。「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と言った後、彼女はこう続けるのです。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」(48節)。そうです。彼女は主が自分に「目を留めてくださった」ことを喜んでいるのです。だからそんな自分について「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と語るのです。

 しかし、彼女が単純に自分の個人的な「幸い」を考えて喜んでいるのではないことは、このマリアの賛歌全体から明らかです。後半に入ると、例えば、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ・・・」というような、まるで革命歌であるかのような言葉が続くのです。つまり彼女の目は自分の小さな幸福に向けられているのではなくて、その目はこの世界に向けられているのです。

 この世界とはどういう世界ですか。ここに歌われているように、実際に「思い上がる者」が存在する世界です。「思い上がる者」が権力と富を追い求めている世界です。言い換えるなら、最終的にはカネと力がモノを言うと考えられている世界です。しかし、そこで彼女はこう歌うのです。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」

 マリアは何を言っているのか。――要するに、最後にモノを言うのはカネと力じゃない、と言っているのです。この世の力など、アッという間にひっくり返されるし、この世の富など、アッという間に失われるのです。では最後にモノを言うのは誰なのか。それは神なのだ、と言っているのです。ならば私たちは思い上がってはならないのです。人間がこの世界を動かしているかのように思い上がってはならないのです。

 そして、それは私たち人間にとって、本当は幸いなことなのです。なぜなら、もし人間がこの世界を動かし、その運命を握っているならば、最終的に救いはないからです。それはそうでしょう。こんな愚かで、愚かなことを繰り返している、まことに罪深い私たち人間がこの世界を動かしているならば、どう考えたって最終的に破滅しかないでしょう。

 それは個人の人生を考えても同じです。私たちの人生を動かし、運命を握っているのが、私たち自身であったり、他の人間であったりするならば、どう考えても救いはありません。ろくでもない人間が動かしているのですから。しかし、聖書は「そうじゃない!」と言っているのです。この世界を支配しているのは神なのです。私たちの人生を手にしているのも神なのです。そして、その神が、この世界をも私たちをも救おうとしていてくださるのです。

 マリアはこの世界に目を向け、この世界に生きて働いておられる神、救い主を与え、救いのご計画を進めておられる神に目を向けて歌っているのです。そうすると、「目を留めてくださった」と言って喜んでいる意味も分かるでしょう。自分はこの世においては取るに足りない小さな存在かもしれない。この世においては「身分の低い」者であるかもしれない。しかし、そんなわたしにも神は目を留めてくださって、この世界におけるご計画の中で用いてくださる。わたしは主のお役に立つことができる。そのことを喜んでいるのです。

 もし人が自分の幸・不幸だけを考えているならば、人生はまことに不可解な重荷に満ちていると言えます。なぜ自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。なぜ私ばかりがこんな重荷を負わなくてはならないのか。そう言って嘆かざるを得ないのでしょう。しかし、そうではなくて、目をこの世に転じて、この世における神の御業に目を転じ、神がなさろうとしていることを考え始める時、一方的に天使が運んできた重荷の意味もまた見えてくるのです。

 そして、既に傍らにはエリサベトが与えられているのです。当たり前のように神について語り合い、そして、共に信じることができる交わりが与えられているのです。そこにおいて、神に用いていただける喜びを分かち合い、悩みが喜びに変えられ、不安や恐れが讃美へと変えられていくことを共に喜ぶことができる。――こういう人をこそ、こういう人たちをこそ、本当の意味で「真に幸いな人」と呼べるのでしょう。そして、私たちはここにおいて、そのように生きるようにと招かれているのです。

2025年12月17日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 27:1~12

サムエル記上 27:1~12

 26章と27章を続けて読みます時に、ダビデの姿のその落差に誰でも戸惑いを覚えるに違いありません。

 26章においてダビデはアビシャイと共にサウルの陣地に下っていきます。そこで彼が目にしたのは明らかなる神の介入でした。サウルが眠っている。アブネルも兵士もその周りで眠っていた。まさに神がサウルをダビデの手に渡されたと言える出来事でした。アビシャイは自分がサウルを殺すことを申し出ます。しかし、ダビデはアビシャイに「殺してはならない」と言ったのです。理由は24章の出来事と同じです。ダビデにとってサウルは敵ではなく、主に油注がれた方なのです。

 サウルは命を救われたことを悟り、ダビデに言います。「わたしが誤っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない」(26:21)。しかし、ダビデにとってもはやサウルが危害を加える意志があるか否かは問題ではありませんでした。そうではなくて、神の約束こそが意味を持つのであり、神が約束を実現しようとされるなら、サウルが何を企んでも問題ではないのです。

 ダビデは言いました。「今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように」(26:24)。これが26章に見るダビデの姿です。信仰によって自らの命を主の手に委ねたダビデです。しかし、なんとその直後の27章においてダビデは自らの心に言うのです。「このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない」(1節)。いったいこれはどうしたことでしょう。

 もちろん、事情を考えるならば、ダビデがそう言わざるを得なかったことも理解はできます。明らかにサウルは前言を撤回し、再び追跡を初めています。ダビデに従う兵は六百人。しかし、共にいるのは兵士だけではありません。自分の家族、また兵士らの家族も共にいるのです(3節)。ダビデは彼らをも守らなくてはなりません。また、彼らに食料を調達して食べさせていかなくてはなりません。これまでの経験から言って、ユダの町々に頼れないことは明らかでした。ダビデは幾度も裏切られてきたのですから。ですので、「ペリシテの地に逃れるほかない」という考えが、ダビデにとって苦肉の策であったことは理解できます。

 しかし、問題は単に彼がペリシテ人の地に行ったことではありません。彼がどのように決断したかなのです。なんとこの章にはただの一度も主の名が現れてはこないのです。エフォドを携えるアビアタルも登場しません。ダビデは「心に思った」と書かれています。これは「自分の心に言った」というのが直訳です。彼は主に御心を問うのではなく、自分の心と語り合って決めたのです。つまり、そこには主との対話がないのです。

 この事実がすべてを物語っています。主は生ける神です。主との関係は人格的な交わりです。信仰の人であるということは信念の人であるという意味ではありません。信念はそう簡単には変わらない。しかし、信仰の命は主との生ける交わりです。昨日まで信仰の人であったとしても、主との対話を失えば、ペリシテ人と何ら変わることはありません。生ける神に向くことがなければ、ダビデに与えられている約束も意味を持つことはないでしょう。そのようなダビデとして、彼はペリシテの地へと向かったのです。

 ダビデがガトの地に逃れたのは、これが初めてではありません。21章において彼はガトを訪れています。あの時、彼は恐れに捕らわれ、狂人を装ってそこから逃れたのでした。彼は再び同じところへと向かいます。

 今度は事情が違うこともありました。既に、ダビデがイスラエルにおいては反逆者と目され、サウルに追われている身であるというニュースは、ペリシテ人の各都市に伝えられていたことでしょう。そして、ダビデのもとには少なくとも六百人の兵士が共にいます。ペリシテ軍は積極的に傭兵を受け入れておりましたし、その中には寝返ったヘブライ人が少なからずいたようですから(14:21)、いわば反乱軍とされている彼らはペリシテ人に歓迎されることでしょう。ダビデにはそのことが分かっていたのです。

 ダビデの目算はみごと当たりました。サウルは追跡を断念しました。そして、ガトのアキシュから厚遇されました。しかし、いくつか残されている問題がありました。ガトに住み、王のもとにいるならば、当然のことながらペリシテ人との交流が避けられません。ペリシテ人の神ダゴンの祭儀にも参加を要請されることでしょう。

 そして、もう一つの大きな問題があります。傭兵としてそこにいるかぎり、やがてユダの人々と戦わなくてはなりません。ダビデはアキシュのもとに身を寄せましたが、寝返ってペリシテ人の軍隊に組み込まれているヘブライ人と同じではありませんでした。ダビデがサウルをあくまでもサウルを主に油注がれた者として見なしたように、ダビデにとってイスラエルはあくまでも神の選びの民なのです。そこから自らを切り離すようなことはできませんし、戦うこともできません。

 そこでダビデは策を講じます。まずある程度アキシュのもとから離れて共同で住むことのできる場所を求めました。ダビデの言葉は巧みです。彼は謙遜を装ってこう言うのです。「御厚意を得られるなら、地方の町の一つに場所をください。そこに住みます。僕が王国の首都で、あなたのもとに住むことはありません」(5節)。アキシュは彼にツィクラグを与えました。これである程度の独立は保てました。

 そして、さらにダビデと兵士たちは、イスラエルと敵対し、しばしば被害をもたらしている周辺諸民族を襲い始めたのです。そして、彼らを全滅させ、分捕り品を携えてアキシュのもとに帰って報告したのです。ユダのネゲブを、エラフメエル人のネゲブを、カイン人のネゲブを襲いました、と。

 エラフメエル人はユダの一氏族です。カイン人はモーセの身内でしたから、歴史的にユダと親交関係にあります。つまり、あたかもユダの諸氏族やユダの味方を討ってきたかのように装ったのです。しかも、この偽りが発覚しないように、彼らを皆殺しにしたのでした。

 この記述に私たちは人道的に許し難いものを感じますが、私たちが、このダビデの行為について、現代人の感覚をもって過剰に反応することは正しくないでしょう。ダビデの展開した戦闘は、イスラエルにとって経常的な戦闘の延長でしかありませんでした。何ら特別なことをしていたわけではないのです。しかし、それにしても、やはりこれを神の命じた戦い、主の戦いと同一視することはできないでしょう。明らかにダビデは神の御心に背いているのです。

 それでもなお、結果的に見るならば、ダビデの策略はすべて成功しました。ツィクラグの地も得ましたし、アキシュはすっかりダビデを信じていました。「彼は自分の民イスラエルにすっかり嫌われたから、いつまでもわたしの僕でいるだろう」(12節)と思っていたのです。気の毒なくらいのお人好しです。ともかくアキシュの人の良さのゆえに、ダビデは当面の成功を収めたのでした。

 しかし、偽りは偽りを次々に生んでいくものです。そのうちに偽りの糸はほどけなくなるほどに絡まっていく。そして、次第に偽る者を窮地に追いやるのです。ダビデの偽りもまた例外ではありませんでした。偽りを巧みに操ったダビデの策略が、彼自身を窮地に追い込むことになるのです。ほどなくして、ペリシテとイスラエルがついに全面戦争に突入することになるからです。ペリシテ人が軍を集結させたとき、アキシュはダビデに言いました。「あなたもあなたの兵もわたしと一緒に戦陣に加わることを、よく承知していてもらいたい」(28:1)。

 そして、もう一つ。最も賢い選択であったはずのツィクラグへの居住が、恐るべき悲劇をもたらすことになります。ダビデと兵士たちがペリシテ軍と合流してアフェクに集結している間に、策略として討っていたアマレク人が報復攻撃をしかけ、町に火をかけ兵士の家族を連れ去ってしまうのです。ダビデは苦しみの中で、主に向かざるを得ないところまで追い込まれることになるのです(30:6)。しかし、それはダビデにとっては良いことでありました。それは神に立ち帰る契機となったからです。


2025年12月14日日曜日

「主の道を備えよ」 

マルコによる福音書 1:1‐8

 今日の聖書箇所には洗礼者ヨハネという人物が登場しました。ヨハネについては次のように説明されています。「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(2‐4節)。

 ヨハネはキリストより先に神に遣わされた者として登場します。何のために遣わされたのか。今日の聖書箇所によるならば、ヨハネは、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ者として遣わされた人だというのです。つまりキリストが来られる前に、人々が聞くべき声があったということです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声です。

 それは、実は私たちも同じなのです。来週、私たちはクリスマス礼拝をおささげし、キリストがこの世に来られたことを祝おうとしています。しかし、その前に聞かなくてはならない声があるのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。私たちはクリスマスを祝う前に、今日、この声に耳を傾け、二つのことを御一緒に考えたいと思います。第一は、「主の道」とは何を意味するのか、ということ。そして第二は、主の道を「整える」とはいかなることを意味するのか、ということです。

主が通られる道
 「主の道」とは何を意味するのか。このことを考えるために、この引用の元でありますイザヤ書を開いてみましょう。今日の第一朗読の聖書箇所です。若干言葉が違いますが、イザヤ書40章3節が元になっていることはすぐに分かります。こう書かれています。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ40:3)。

 「主のために、荒れ野に道を備え」るのは、主が通られるためです。では、主はその道を通ってどこに向かわれるのでしょうか。実は、主の行き先はシオン、すなわちエルサレムなのです。

 この言葉の背景を簡単に説明しておきます。この時、エルサレムには、破壊された神殿の跡があったのです。紀元前六世紀に、バビロニア軍によって、エルサレムは神殿もろとも破壊され、廃墟とされてしまったからです。なぜ神の都と呼ばれたエルサレムが廃墟となってしまったのか。それは戦争によってです。しかし、預言者は単に戦争によって破壊されたのだ、とは言いませんでした。人間の罪のゆえに廃墟になったの、と言うのです。

 しかし、神は廃墟となったエルサレムを見捨ててしまわれませんでした。神は預言者にこう語られたのです。「エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の罪は償われた、と」(2節)。苦役の時は終わったと神が宣言してくださったのです。そして、主が廃墟となった都に、破壊されてしまった神殿に、再び帰ってきてくださるというのです。ですから、「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と呼び掛けられているのです。このように、預言者が語っている「主の道・主のための道」とは、罪によってもたらされた悲惨な現実の中に、神様が来てくださるための道なのです。

 さて、その後、廃墟であったエルサレムはどうなったのでしょう。破壊されてしまった神殿はどうなったのでしょう。歴史的な出来事としては、後の時代に、エルサレムに帰還することを許された人々によって、神殿が再建されました。エルサレムの城壁も修復されました。神殿における祭儀も復活しました。彼らは新しい共同体社会を作り上げていきました。苦役の時は終わったと神が宣言してくださったことは、長い時を経て、確かに実現したように見えたかもしれません。壊れたものが元通りになることが重要ならば、これでメデタシ、メデタシ、ということになるのでしょう。

 しかし、彼らは「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と呼び掛けられていたのです。そして、その言葉がこうしてイザヤ書に記されてて、後の時代においても、それこそエルサレムが再建された後にも、読まれてきたのです。それはなぜなのか。――それは私たち人間にとって、とてつもなく大きな意味を持っているからなのです。

 私たちは誰でも、何かが壊れたなら、それが元通りになることを願います。しかし、人間の罪によって壊れたものは、ただ元通りになれば良いのではないのです。人間の罪のゆえに廃墟となった都は、ただ復興すれば良いのではないのです。破壊された神殿は、ただ建て直されれば良いのではないのです。形だけ元通りになってもだめなのです。大切なことは、神が来てくださることなのです。そこにこそ、真の回復と救いはあるのです。ですから、「主の道」が重要なのです。

 だからこそ、それから数百年後に、同じ声が荒れ野に響きわたったのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。まさに、そのように叫ぶ声そのものであるヨハネが現れたのです。なぜか。主が来られるからです。イエス・キリストが来られるからです。その御方において、神が来られるからです。そして、神が来てくださるところにこそ、真の回復と救いはあるからです。

主の道を整えよ
 では、どのようにして、主のために道を備えるのでしょう。主の道を「整える」とはいかなることを意味するのでしょうか。

 4節にはこう書かれています。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(4節)。これが「主の道を整えよ」と叫ぶ声であるヨハネが実際に行ったことでした。そして、ヨハネがそのように悔い改めの洗礼を宣べ伝えた結果として、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(5節)と書かれています。これが主の道を「整える」ということだったのです。

 「悔い改めの洗礼」と書かれています。しかし、洗礼そのものはヨハネが何もないところから思いついたものではありません。旧約聖書のレビ記にも、身を洗って清めることが定められています(レビ15:13)。当時の人々にとっても、神の前に出るために身を清めるということ自体は、決して珍しいことではなかったのです。けれども、ここを読みますかぎり、ヨハネが宣べ伝えていた洗礼は、ふだんの清めのための水浴びとは違います。罪の赦しを願い、悔い改めと結びついた、決定的な行為だったのです。

 そのように考えますと、ここに書かれているように、多くの人々がヨハネのもとに行ったということは、実に驚くべきことだとも言えます。というのも、彼らの多くは幼い時から聖書を学び、神の律法を重んじる世界に生きて来た人々だからです。彼らは律法を持たない異邦人を汚れた者と見なし、また同じユダヤ人であっても徴税人など「罪人」と呼ばれた人々との交わりを避けて生きて来た人々なのです。まさに、罪人は外にいる、問題は他の誰かにある、そう思いやすいのが人間なのでしょう。ところがヨハネは、そうした人々に対しても、「悔い改めよ」と叫び、罪を告白し、洗礼を受けることを求めたのです。それは本来、激しい反発を呼び起こしても不思議ではない行為だったはずです。にもかかわらず、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て」と書かれているのです。

 しかし、もう一方において、現実的に考えるなら、「皆」が来ることはあり得ないとも言えます。これは明らかに誇張表現です。彼のもとに来なかった者も少なくはなかったはずなのです。事実、この福音書11章には、ヨハネのもとに来なかった祭司長、律法学者、長老たちが出てくるのです。

 なぜ彼らはヨハネの言葉を受け入れなかったのでしょうか。自分が本当に赦されなくてはならない罪人であるなどと思わなかったからです。要するに、自分を正しい者だと考える者は、決してヨハネのもとには来なかったのです。「悔い改め」とは、方向転換をすることを意味します。神に立ち帰ることです。方向転換は、方向が間違っていることを認めないとできないのです。

 ローマ人の支配下にあった当時のユダヤ社会において、貴族階級や特権階級以外の民衆は、一般的に苦しい生活を強いられていたことと思います。多くの人々が救いを求めていたに違いありません。しかし、支配しているローマ人、異邦人のゆえに自分たちは苦しい生活を強いられているのだとしか考えられないなら、悔い改め、つまり方向転換はできないのでしょう。一般的に言って、自分以外の人間が皆悪いためにこのような苦しみを負っているのだ、と考えるところにとどまっている限り、方向転換はできないのです。環境が悪い、時代が悪い、世の中が悪い、為政者が悪い、あの人が悪い、この人が悪い、――そう言ってすべてを他者の責任としている限り、方向転換は起こりようがないのです

 しかし、そうではなく、ヨハネの言葉を聞いて、他の誰かではなく、そもそも自分の生き方そのものがおかしいのではないか、そもそも神との関係がおかしいのではないか、ということに気づいた人々がいたのです。自分の人生の方向そのものがおかしいのではないか、自分こそ赦しを必要としている罪深い者なのではないか、ということに気づいた人々がいたのです。そして、そのような人々が、ユダヤ人としてのプライドも、周りの人々との間のしがらみもかなぐり捨てて、ヨハネのもとに来たのです。そこに起こっていた悔い改めこそ、まさに「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ことに他ならなかったのです。

 人はキリストの前に、洗礼者ヨハネに出会わなくてはなりません。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」荒れ野で叫ぶ者の声を、私たちはこの待降節第三週に耳にしています。私たちは、クリスマスを相応しく迎えるために、この言葉をしっかりと受け止めなくてはなりません。私たちは、あのヨルダン川において、自分の罪を告白し、悔い改め、方向を変えて生き始めた無数の人々の姿を思い描くべきでしょう。そして、私たちもまた、その中に身を置くべきであろうと思います。悔い改めへの呼びかけこそ、この期間、私たちが第一に聞かなくてはならない言葉なのです。

2025年12月10日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 26:1~25

 サムエル記上 26:1~25

 今日の箇所を読むに当たっては、24章に記されていた出来事を思い起こす必要があります。その時、ダビデと600人の兵士たちはエン・ゲディの要害に潜んでおりました。洞穴の多いその地域は彼らが身を隠すのに絶好の場所でした。しかし、彼らの居場所が密告され、サウルは三千人の兵士を率いてダビデに追い迫ります。

 その途中、サウルは洞窟を見つけ、そこで用を足すために入りました。しかし、なんとその洞窟の奥にはダビデと兵士たちが隠れていたのです。サウルを殺すには絶好のチャンスでした。兵士たちはサウルを殺すように勧めます。ところがダビデはサウルの上着の端を切り取っただけで戻ってきてしまったのです。ダビデはサウルに油注いで王とされた神を畏れたのです。

 サウルが洞窟を出るとダビデも続いて洞窟を出て背後から声をかけました。そして、サウルを殺すことのできるところにいながら手をかけなかったことを示します。サウルは声を上げて泣いて言いました。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した」と。

 今日お読みした26章の内容は24章の話と非常に似通っていることがわかります。しかし、だからこそ私たちは両者の間に顕著な違いがあることを見落としてはなりません。そして、その違いにこそ、聞くべきメッセージがあるのです。

 24章においては、サウルを殺す機会がいわば偶然に訪れました。サウルがたまたま用を足しに入ってきたのです。これに対して26章では、明らかに神の特別な奇跡として、神がなさったこととして、サウルを殺すチャンスが与えられているのです。これが注目すべき第一の点です。

 サウルは前と同じように精鋭三千を率いてダビデを追ってきました。ダビデは斥候を出してサウルが来たことを確認しました。また自らサウルの陣営の近くまで行き、サウルとアブネルの寝場所を確定します。そして、夜になってアビシャイを伴ってサウルに近づいたのでした。

 それは普通に考えるならば、極めて危険なことでした。「サウルは幕営の中で寝ており、兵士がその周りに宿営していた」(5節)と書かれています。三千もの兵士に守られているサウルに近づこうとしているのです。そのうちの一人にでも気付かれたなら、ダビデとアビシャイの二人など、たちどころに捕らえられるか、あるいはその場で殺されてしまうことでしょう。

 しかし、なんと「アブネルも兵士もその周りで眠っていた」と書かれているのです。ただ一人さえも目を覚まさなかった。そんなことは通常あり得ないことでしょう。これは明らかに神の奇跡として描かれているのです。12節にこう書かれているとおりです。「見ていた者も、気づいた者も、目を覚ました者もなかった。主から送られた深い眠りが彼らを襲い、全員眠り込んでいた」(12節)。

 つまり、ダビデとアビシャイは、両方とも神の特別な御業を目の当たりにしているのです。奇跡の事実を見ているのです。ところが、興味深いことに、そこで両者の判断が分かれるのです。

 アビシャイはダビデに言いました。「神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。さあ、わたしに槍の一突きで彼を刺し殺させてください。一度でしとめます」(8節)。つまり、アビシャイはこの奇跡を、《神が敵をダビデの手に渡されたのだ》と解釈しているのです。

 一方、この事態が神によって起こっていることについてはダビデの見解も同じでした。しかし、ダビデはそれを「敵をあなたの手に渡された」とは解釈しなかったのです。サウルは敵ではないからです。「神が油注がれた方」なのです。ですからダビデは「殺してはならない」と言ったのです。「主が油注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない」(9節)。つまりここで神の任職と油注ぎについてのダビデの信仰的な判断が生きているのです。

 人は状況から単純に神の御心を判断してしまいやすいものです。特にそこに神の奇跡があり、明らかな神の介入がある時に、その出来事と神の御心を短絡的に結びつけてしまいやすいのです。

 例えば、何か望んでいることがある時に奇跡的にお金が与えられたら、その望みの実現のためにお金を使いなさい、と神が言っておられると単純に考えるものでしょう。しかし、本当に大切なことは、そこにおいて本当に神が望んでおられることは何なのか、何が神の御前で正しいことなのかを考えられることなのです。

 ダビデはアビシャイを制し、いわばアビシャイからサウルの命を守りました。それこそが、神の御前に正しいことであると信じたからです。彼はただ槍と水差しを取って立ち去りました。そして、ダビデは遠く離れた山の頂に立ち、そこから語りかけるのです。

 そこで注目すべき第2の点は、ダビデが語りかけている相手が違うことです。24章では最初からサウルに語りかけていました。しかし、ここではアブネルと兵士に語りかけているのです。なぜ相手がアブネルであり兵士なのでしょうか。それは15節の言葉から明らかです。ダビデは、アブネルも兵士も死に値すると言っているのです。なぜなら、彼らはサウルを守れなかったからです。すなわち主が油注がれた方を守れなかったからです。

 「敵兵が一人、お前の主人である王を殺そうと忍び込んだのだ」(15節)とダビデは言います。この場合、「一人」とはアビシャイのことです。ダビデは初めから殺すつもりはなかったのですから。それどころか、ダビデは油注がれた方を守ることができた唯一の人物だったのです。

 サウルも兵士も、「ダビデは死に値する」と言って追っていたことを思い起こしてください。しかし、こうなった今、唯一死に値しないのはダビデだけなのです。彼の手元にある槍と水差しはそのことを雄弁に物語っていたのです。

 この声の主がダビデであることにサウルは気付きました。ダビデはサウルに「なぜわたしを追跡なさるのですか」と問います。そして、さらにダビデは「わが主君、王よ。僕の言葉をお聞きください」と言って言葉を続けます。そこで語られる内容は24章の場合と大きく異なります。

 24章では、「わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした」(24:12)と言っていたのです。つまり重要なポイントは、ダビデが「サウルに対して罪を犯していない」ということだったのです。しかし、26章においてダビデは、ただ「サウルに対して」罪を犯していないということを言っているのではないのです。

 ダビデは言います、「もし、王がわたしに対して憤られるように仕向けられたのが主であるなら…」と。つまり、もしかしたら、サウルに対しての罪はなくても、神に対して罪を犯し、その結果、神がサウルを仕向けて憤らせているのかもしれない、ということです。もしそうならば「主が献げ物によってなだめられますように」(19節)とダビデは言います。この場合、問題は神とダビデの間のことなのであって、いずれにせよサウルはもはや怒る必要はないのです。

 そしてさらに、「もし、人間であるなら」とダビデは言います。つまり、王がダビデに対して憤るように仕向けたのが神ではなく、ダビデを追放するために誰かが策略をめぐらしたのであるなら、ということです。もしそうならば、「主の御前に彼らが呪われますように」とダビデは言います。この場合も、サウルはダビデに対してもはや憤る必要はありません。誰かの策略なのですから。いずれにせよ、サウルがダビデを殺そうとする必要はないのだとダビデは言っているのです。

 サウルは自らの誤りを認めました。そして言います。「わが子ダビデよ、帰って来なさい。この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない。」しかし、ダビデはもはやサウルのもとには帰りません。ダビデは答えます。「王の槍はここにあります。従者を一人よこし、これを運ばせてください。」ダビデにとって、サウルが「二度と危害を加えない」と約束してくれるかどうかは、もはや重要なことではないのです。

 「この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない」という21節のサウルの言葉と、「今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主も、わたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように」という24節のダビデの応答には決定的なずれがあることは注目に値します。

 ダビデの命が守られるかどうかはサウルの決意や約束によるのではなく、神の約束とその真実によるということ――これがダビデがこの二回の出来事(24章と26章)を通して悟ったことでありました。そして、サウルはまだそのことを悟っていないのです。こうして結局、サウルとダビデは最後まで異なる道を行くことになります(25節)。そして、彼らはもはや二度と生きて相見えることはありませんでした。


2025年12月7日日曜日

「神の言葉は生きている」

2025年12月7日 主日礼拝説教 

聖書:テモテへの手紙二 4:1-8

自分に都合の良いことを聞こうとして
 今日の第二朗読でパウロがテモテにこう言っていました。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(3‐4節)。この言葉は今日の私たちにも、とてもよく分かります。このようなことはいつの時代にも起こりえることだからです。

 人は自分に都合の良いことを聞きたいものです。自分に都合の良いことを語ってくれる人を求めます。誰かに相談事をする時もそうでしょう。「どうしたら良いのでしょうか」と言いながら、実はどうするかもう自分で決めている。ただ自分のしようと思っていることを肯定してくれる人を求めているだけ、ということが往々にしてあるものです。否定されたら別な人のところに行く。また否定されたらまた別な人のところに行く。そんなことを繰り返すこともあるのでしょう。

 そのようなあり方を、ともすると信仰の世界にも持ち込んでしまいます。自分の願い求めが先にあって、そのような自分の願いを肯定してくれる言葉を求めているだけ。もう先にしっかりと握りしめている自分の見方、考え方、生き方が先にあって、それと折り合いの付く言葉だけしか受け入れない。そんなことも起こります。

 ちなみに、「自分に都合の良いことを聞こうとして」というのは、直訳すれば「聞く耳をくすぐってもらおうとして」という言葉です。耳をくすぐってもらうだけならば、顔を向けている方向を変える必要はありません。向かっている方向も変える必要はありません。そのままで何を変えることもなく、心地よさを味わえるのでしょう。

 しかし、本当のことが語られる時、その言葉は必ずしも耳をくすぐるとは限りません。むしろ本当のことが語られる時、その言葉は往々にして耳に痛いことが多いのです。なぜなら私たちの生活には偽りが多いからです。他者に対してだけではありません。自分自身に対して偽っていることも多いのだと思います。本当は分かっているのに、本当は知っているのに、認めたくない、認めようとしない。そんな実際の生活があり、そんな自分の本当の姿がある。そんな自分の姿を明るみに出すような言葉、本当の言葉は耳をくすぐることはありません。

 ですから、せっかく本当のことが語られても、そのような言葉から耳を背けてしまうことも起こります。今日の聖書箇所にも、「真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」と書かれていましたでしょう。そう、パウロの言うとおり、実際にそのようなことは、後の時代に繰り返し起こってきたのです。

 しかし、本当は、それはまことに不幸なことなのです。「真理」から耳を背けたとしても、「事実」は変わらないからです。現実から目を背けて、「作り話」や神話の中に身を置いたとしても、何も変わらないからです。作り話によって、気休めの言葉によって、真理ではないものによって、たとえ一時的に気を紛らわせたとしても、そこに本当の救いはない。そんなことは分かり切ったことなのです。

御言葉を宣べ伝えなさい
 本当の救いは、私たちがリアリストになるところにあります。現実的になって、現実の自分自身を認めて、自分の暗闇の部分、自分自身の罪深さも認めて、そこから神を仰ぎ、神と向き合うところにしかないのです。そこにおいて神の赦しを求め、神の赦しにあずかり、赦された者として神と共に生きる。そこにしか救いはないのです。だからパウロはテモテに言っているのです。「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」(2節)。「御言葉」とは「神の言葉」です。神は本当のことを語られるのです。その神の言葉を宣べ伝えなさいとパウロは言っているのです。

 しかし、「御言葉を宣べ伝えなさい」とテモテに対して語られているのは、もう一方において、御言葉でないものを宣べ伝えたくなるという誘惑があるからでしょう。人々が自分の都合の良いことを聞こうとして、真理から耳を背けるという誘惑があるように、伝える側にも、人々が望んでいることを語りたくなる誘惑がある。真理ではなくても、ひとときの気休めになるような言葉を語りたくなる。しかし、教会においてそのような言葉しか語られなくなったなら、そのような言葉しか聞かれなくなったら、教会は教会ではなくなってしまうでしょう。

 ではどのようにして教会は御言葉が語られ、御言葉が聞かれるところであり続けることができるのでしょうか。そこで今日の朗読箇所の直前に書かれていることに目を向けたいと思います。こう書かれていました。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(3:16‐17)。

 聖書(この場合は旧約聖書)が神の霊の導きの下に書かれたということは、この書物の背後に神がおられ、この書を通して神が語られるということです。それはその後に新約聖書が成立した後にも教会が保持してきた信仰です。日本キリスト教団信仰告白においても次のように言い表されています。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」。聖書を離れて「御言葉を語る」ということはあり得ないし、「御言葉を聞く」ということもあり得ないのです。

 先にも申しましたように、人は自分に都合の良いことを聞きたいし、また人はそう望んでいる人に都合の良いことを語りたいものです。だからこそ、私たちは自分に都合よく変えることのできない「聖書」に繰り返し立ち戻らねばならないのです。

 それゆえに、これは今日においても私たちを試す試金石ともなります。教会の様々な営みにおいて聖書が重んじられなくなり、私たちの生活から聖書が失われていくならば、それは由々しき事態です。「御言葉を語りなさい」――これは語る者に対しては至上命令であり、聞く者にとっては命綱なのです。

折りが良くても悪くても
 それゆえにパウロは「折りが良くても悪くても」と付け加えます。先に言いましたように折りが悪くなる時が来ることが分かっているからです。だから人々が求めようが求めまいが、人々が受け入れてくれようが受け入れてくれまいが、御言葉が語られなくてはならない。聖書から語られなくてはならないのです。「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」(5節)とパウロはテモテに命じているのです。

 パウロがこのことをどのような思いをもって命じているのかは、本日の朗読の最初にこう語られていました。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます」(1節)。

 パウロは目の前のことだけを考えて、今この時だけのことを考えて語っているのではないのです。そうではなくて最終的にキリストの御前に立つ時、終わりの時を思いつつ語っているのです。私たちがどう生きて来たかが神の御前において問われる時を念頭において、パウロは語っているのです。

 その意識は、それは御言葉を語るにしても、聞くにしても、決定的に重要なことなのでしょう。実際、私たちの信仰生活において最も大事なことは何なのでしょう。何を思って聖書の言葉を聞いているのでしょう。この不安に満ちた世の中にあって、少しでも平安に生きられることでしょうか。毎日の生活に役立つ教えを得ることでしょうか。悩みを解決する手だてを得ることでしょうか。もしそれだけのことならば、何も神の言葉が語られなくても、この世の言葉や巧みな作り話でも同等の効果は得られるかも知れません。

 しかし、最終的にキリストの御前に立つ時を思うならば、本当に重要なことは、その時に自分が神との真実な交わりの中にあるかどうかでしょう。信仰を全うした者として神の御前にあるかどうかが決定的に重要なこととなるのでしょう。そのために必要なのは、自分にとって都合の良い言葉や、耳に心地よい言葉ではないはずです。そうではなくて、神の言葉が語られ、聞かれることなのです。

 そのように、パウロはイエス・キリストの再臨とその御国とを思いつつ、語っていたのです。いや、彼はテモテに対して命じるだけでなく、自らそう生きてきたのだと語るのです。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」(7‐8節)。

 ここだけ読みますと、パウロは自分のしてきたことをただ誇っているかのように見えるかもしれません。しかし、そうではないことはその直前の言葉から明らかです。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました」(6節)と彼は言うのです。つまりそれは殉教の死が間近いということです。彼は自分の人生の終わりが近いことを知っているのです。自分の人生の終わりが近いなら、人に向かって自分を誇ったところで、大して意味はないでしょう。

 むしろこの世的な誉れなどどうでも良いことが分かっているからこそ、このようなことが書けるのです。死を前にした自分があえてこう語ることによって、本当に大事なことが何かを示しているのです。キリストが義の栄冠をさずけてくださる。そして、これが単に自分のことを語っているのではないことをパウロは付け加えます。「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(8節)。


2025年12月3日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 25:18~44

サムエル記上 25:18-44

 今日は25章の後半をお読みしました。今日の箇所に入る前に、前回お読みした部分を振り返っておきましょう。

 25章の冒頭には、サムエルの死が短く報告され、続いて一つのエピソードが記されています。そこにはナバルとアビガイルという夫婦が登場します。ナバルは「羊三千匹、山羊千匹を持っていた」(2節)とありますように、裕福な牧場主でした。その頃、ちょうど羊の毛刈りの季節、すなわち農業でいうならば収穫感謝祭に相当する祝いの時を迎えていました。

 そこでダビデは従者を十人送り、「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのものすべてに平和がありますように。羊の毛を刈っておられると聞きました。…この祝いの日に来たのですから、お手もとにあるものを僕たちと、あなたの子ダビデにお分けください」(6‐8節)と伝えさせます。しかし、ナバルはこれを拒絶します。「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。わたしのパン、わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか」(10‐11節)と答えてダビデの送った従者をののしって送り返したのでした。

 ダビデのもとに戻った従者は事の一部始終を報告します。これを聞いたダビデは、すぐさま「各自、剣を帯びよ」と命じました。そして、200人を荷物に残し400人を率いて進軍を開始したのです。その意図は次のように本日の箇所に記されています。「荒れ野で、あの男の物をみな守り、何一つ無くならぬように気を配ったが、それは全く無益であった。彼は善意に悪意をもって報いた。明日の朝の光が射すまでに、ナバルに属する男を一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰してくださるように」(21‐22節)。

 さて、この章に見るダビデの姿は、24章でサウルに手をかけなかった姿とは対照的です。まことに人間というものは、強者からの脅威には耐えられても、弱者からの侮辱には耐えられないものです。しかし、本当に深い問題は「彼は善意に悪意をもって報いた」という言葉に見ることができます。サウルもかつて「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した」(24:18)と言いましたが、それは本質を理解していない言葉でした。重要なのは人間の善意とか悪意ではなく、神を畏れるか否か、裁きを神に委ねるか否かだからです。しかし、今回はダビデ自身がサウルと同じ次元で事態を見、本質的に重要なことを見失い、自ら報復しようとしていたのでした。

 今日の箇所は、その続きです。ナバルがダビデの従者たちをののしったことを聞くと、妻のアビガイルはすぐさま贈り物を携えてダビデのもとに向かいます。そして、進軍してくるダビデのまえにひれ伏して、報復を思い留まるよう願います。まず、このアビガイルの言葉に耳を傾けましょう。

 彼女は言いました。「御主人様が、あのならず者ナバルのことなど気になさいませんように。名前のとおりの人間、ナバルという名のとおりの愚か者でございます」(25節)。アビガイルが言っているように、「ナバル」というのは「愚か者」という意味です。それは恐らく本名ではなく、彼の行動を象徴的に表す呼び名として物語の中で用いられているのです。

 しかし、もう一方において、彼の行動は、この世的に見るならば、単純に「愚か」とは言えないのです。先週も触れましたように、ダビデが求めていたのは、単に祝いにあずからせてくれ、ということではありませんでした。それはヤクザがみかじめ料を求めるようなものだったのです。当時は警察が治安を守るわけではなく、羊の群れは常に略奪の危険にさらされていました。ダビデの集団はそれを防ぐ代わりに分け前を求めたのです。それを拒絶したナバルの行動は、今日で言えば、暴力団の介入を拒絶した企業のトップのような判断のようなものです。また、現実的な問題として、ダビデに利益供与することは、まかり間違えばサウルの怒りを買うことになり、ノブの町のように滅ぼされかねない危険もあったのです。その意味で、ダビデの要求をはねつけたことは、一面においては賢い合理的な行動だったとも言えるのです。

 にもかかわらず、聖書は彼を「愚か者」と呼ぶのです。それはなぜなのか。その理由については、この世的な見方ではなく、聖書が「賢い人」として見ているアビガイルと対比して考える必要があるのでしょう。アビガイルについては「妻は聡明で美しかった」(3節)とありますが、この「聡明」というのは洞察力があること、事の本質をしっかりと見ていることを意味するのです。アビガイルが洞察していたこと、彼女に見えていたこととは、いったい何なのでしょうか。

 ナバルはダビデを主人のもとを逃げ出した逃亡奴隷に喩えました。それが彼に見えていたことでした。彼には、ダビデの今の状況しか見えていなかったとも言えます。そして、その見方に従って行動したのです。しかし、アビガイルは違っていました。彼女は、ダビデを主との関係において見ているのです。彼女は言います。「主は必ずあなたのために確固とした家を興してくださいます。あなたは主の戦いをたたかわれる方で、生涯、悪いことがあなたを襲うことはございませんから。…また、主が約束なさった幸いをすべて成就し、あなたをイスラエルの指導者としてお立てになるとき、いわれもなく血を流したり、御自分の手で復讐なさったことが、つまずきや、お心の責めとなりませんように」(28‐31節)。

 これは単にダビデの怒りを鎮めるためのへつらいではありません。彼女はダビデをあくまでも主によって立てられた未来の王として見ているのです。彼女は目に見えるこの世の出来事やあり様の上に主の支配があることを見ている人なのです。ですから、最終的な神の裁きに委ねるのではなく、ダビデが自分の手で復讐することは神に対する罪になるのだ、と言っているのです。これが聖書の語る「賢さ」です。それに対して、ナバルは人の支配しか見ていないのです。人と人との関わりしか見ていない人なのです。それが聖書の語る「愚かさ」です。それは既に見てきたように、サウルの「愚かさ」でもありました。

 もう一つ大変興味深いのは、この物語が、イエス様の語られた「愚かな金持ち」の喩え(ルカ12:16以下)とよく似ている点です。11節のナバルの言葉を見てください。彼の言葉を直訳するとこうなります。「わたしのパン、わたしの水、それにわたしの毛を刈る者にとわたしが準備したわたしの肉をわたしが取って素性の知れぬ者にわたしが与えるべきであるというのか」。しかし、その翌日にはすべて「わたしの」ものを世に残したまま死んでしまうのです。彼はダビデを主との関係に見られなかっただけではありませんでした。自分の持ち物も、自分自身も、すべて主の支配のもとにあることをわきまえない人だったということなのです。聖書はこういう人を「愚か者」と呼ぶのです。

 しかし、先にも触れましたように、実はダビデもまた、その愚かさを共有する者となりかけていたのです。サウルを神の油注がれた者として見、神を畏れて自らの手で報復することをしなかった24章のエピソードの直後に、この物語が来ていることには意味があります。前の章において、危機に瀕している時、ダビデの目に映ったのは主の全き支配でした。だから、彼は神を畏れて行動し、サウルを殺さなかったのです。しかし、サウルが去り一息つくと、この章においては、主への畏れを忘れ、人間のことしか見えなくなり、自ら報復しようとしていたダビデがそこにいるのです。そのダビデの目を開かせ、立ち帰らせたのはアビガイルでした。ダビデはそこで再び主の御支配を見、自分の手で復讐することを主御自身が引き留めてくださったことを認めたのです。

 ナバルが死んだ後、ダビデが人を遣わしてアビガイルを妻にしたいと申し入れ、彼女がその申し入れに応えてダビデの妻となったこともまた、今まで述べてきたこととの関連で考える必要があります。ダビデはこの世的に見るならば、いまだ逃亡生活を続けている、ヤクザのようなならず者集団の頭なのです。その彼がアビガイルを求めたのは、彼に主の支配を指し示してくれたアビガイルという存在がどれほど大きな意味を持ったかということを示しているのでしょう。それはまさに26章のダビデの行動にもつながるのです。

 そして、もう一方において、アビガイルは逃亡者ダビデの中に未来の王を見続けたのです。それはこの世的観点からは見えてきません。あくまでも主との関わりにおいてしか見えてこないことです。アビガイルがダビデの妻となったことは、それがどれほど大きな意味を持っているかを示しているのです。そこに見えてくるのは、本当の「賢さ」です。

2025年11月30日日曜日

「救いは向こうからやって来る」

2025年11月30日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 13:28‐37

いちじくの木から学びなさい
 「いちじくの木から教えを学びなさい」(28節)と主は言われました。どのような教えでしょう。続きはこうなっています。「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(28‐29節)。ここで「これらのことが起こるのを見たら」と主は言われます。「これらのこと」とは何でしょう。それは今日の朗読箇所の前に書かれていることです。少し前に遡って見てみましょう。

 14節には次のように書かれていました。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」(14節)。そして、主はやがて来たるべき大きな苦難について語られるのです。

 ではその「憎むべき破壊者」とは何を意味するのでしょうか。これはもともと旧約聖書のダニエル書に用いられている表現です(例えば、ダニエル12:11)。細かい話は割愛しますが、ダニエル書においてそれがもともと意味していたのは、紀元前二世紀にエルサレムの神殿の中に造られた異教の祭壇のことなのです。それは当時ユダヤを支配していたシリアの王アンティオコス4世が立てたものです。それは神に敵対するこの世の権力によって立てられたのです。

 要するに「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」というのは、神に敵対する大きな権力が支配するようになる、ということです。そのことが苦難の描写と結びつけられているのです。イエス様は来るべき苦難の時代について語られるのですが、それはいわば神に敵対する大きな力によってもたらされる苦難だということです。それゆえに、その苦難は神を信じない者にではなく、むしろ神に従おうとする者に及ぶのです。

 そこに見ますように、イエス様の見方はある意味では極めて悲観的です。主は人間の努力と取り組みによってパラダイスが実現するとは決して言われない。「この世は進歩し、調和し、人々は愛し合うようになる」とも言われないのです。むしろ、世界は非常に暗くなる。終わりに近づけば近づくほど、暗く苦しみの多い時が来ると考えておられたのです。

 それは、この世界の現実、神に敵対する罪深い人間の現実世界をイエス様はしっかりと見据えておられたからだ、とも言えます。人は撒いたものを刈り取らなくてはなりません。罪を蒔けば死を刈り取ります。ある時は神なき不敬虔な姿をもって、ある時には極めて宗教的な姿をもって、そのいずれの姿においても人間は神に背き続けてきた。それゆえに、最終的な苦難を刈り取ることになる。そのように、主はやがて大きな苦難の時がやってくると言われたのです。

  そして、さらに24節以下には次のように書かれています。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(24‐25節)。

 古代の人々にとって天体は不変の秩序を代表するものでした。たとえ国家の体制が崩壊するようなことがあっても、変わることなく太陽は昇り沈みます。月と星は定められたとおりに動くのです。それは最後まで信頼できるものの代表とも言えます。しかし、その天体が揺り動かされると主は語られたのです。いわばこの世に信頼できるものはもはや何も残っていない。そのような、まったく希望のない絶望の世界、光のない闇の世界がやって来ると主は言われたのです。

 しかし、そこでイエス様が本当に言いたいのは、この世界が闇に包まれて終わってしまうということではありません。人間には絶望しか残されていないということではありません。その闇が最も深くなった時、まさにその時こそ救いのときなのだと主は言われるのです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(29節)と主は言われるのです。

 「人の子」とはイエス様がしばしば自分自身を呼んだ呼び方です。これもまた、もともとは旧約聖書のダニエル書にでてくる言葉です(ダニエル7:13)。イエス様はやがて再び来られる方として自分自身について語っておられるのです。イエス様がやがて終末において再び来られることを「キリストの再臨」と言います。闇が最も深くなったその時、キリストが再び来られ、この世界を正しく裁かれ、そして全き救いをもたらされるのです。

  さて、キリストがこれを語られた時からすでに約二千年が経ちました。いまだに再臨のキリストは来られません。その一方で、現実に目に見える様々な形で、私たちはこの世界の危機に直面しているのです。この世界が存続するために取り組まなくてはならない課題、解決しなくてはならない問題は山積しているし、実際に必死の取り組みが続けられているのです。そのような世界のただ中で、教会があれから二千年もたった「キリストの再臨」を信じ、語ることにいったい何の意味があるのでしょうか。実際、信仰を抜きにして聞いたなら、キリストが世の終わりに「雲に乗って来る」という描写は、まさに荒唐無稽なおとぎ話にしか聞こえないだろうと思うのです。

 しかし、もう一方において教会が変わることなく、時として信仰者は命をかけて、二千年もこのことを伝え続けてきたという事実があります。そして、今日この国に生きる私たちまで耳にしている事実がある。ならば、私たちは、信仰をもってその意味することをしっかりと受け止めなくてはならないのだと思うのです。教会が伝えてきたことには、いつの時代の人々にとってもそれだけの大きな意味があるはずだからです。今日は特に二つの点に心を留めたいと思います。

へりくだって待ち望む
 第一に、「キリストの再臨」は、私たちに神の御前にへりくだることを教え、時として動き回ることよりも忍耐して待つことが大切であることを教えます。「キリストの再臨」は、要するに、最終的な救いは向こうから来るということです。天から来るということです。最終的な救いは人の力によってもたらされるのではなく、神によってもたらされるのだ、ということです。このようなことがあえて語られねばならないのは、人間は常々そうは思っていないからでしょう。

 この世界は人間が動かしていると思っているならば、人生も人間の手に握られていると思うのは当然です。自分の力で成し遂げれば思い上がり、自分の力で失敗すれば失望する。誰かのおかげで成功すれば依存し、誰かのせいで人生が壊れれば憎しみに翻弄される。人間がすることがすべてだと思うなら、人間のゆえに望みを失うことにもなるのでしょう。

 しかし、そうではないのだとイエス様は言っておられるのです。この世界についても、私たちの人生についても、すべては主の御手の内にあるのです。主が最後の言葉を持っているのです。往々にして人間のすることがすべてだと思い上がっている私たちは、繰り返し悔い改め、神の権威のもとにへりくだらなくてはならないのです。救いは向こうから来るのです。だから、静まって待ち望むことが重要になるのです。そうあってこそ、苦難の中にあってさえ、本当の意味でなすべきこと、神から託されていることに落ち着いて取り組んでいくこともできるのです。

大事なのは今
  そして、第二に、主の御言葉は、私たちに「今」を生きることの大切さを教えます。

 「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」(34節)と主は言われました。もし家の主人がいつ帰ってくるかを「知っている」ならば、大事なのは「その時」でしょう。しかし、もし「知らない」ならば大事なのは「現在」です。そうです。今がその時かもしれないからです。ですから、主はこう続けられるのです。「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである」(35節)。

 そのように「知らない」ということは積極的な意味を持っています。それは「現在」に私たちの意識を集中させることになるからです。そうしますと、今日の聖書箇所でイエス様は一見「未来」のことを話題にしているように見えますが、実は本当に語りたいことは「現在」についてなのです。「目を覚ましていなさい」とはそういうことです。

 今日から「アドベント(待降節)」に入ります。週報にも書きましたが、アドベントという呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。特に世の終わりにおける主の「到来」、すなわち「キリストの再臨」を思う季節です。しかし、それがいつかを私たちが知らないゆえに、「現在」こそが重要になってきます。アドベントは、その意味で「現在」にしっかりと目を向ける時でもあるのです。それゆえに最初の日に「目を覚ましていなさい」という御言葉を聞いているのです。

 私たちはしばしば、過去にばかり目を向けて、過去に縛られて生きていたり、あるいは先のことばかり考えて思い煩いで一杯になっていたり、そのようなことをして「現在」を大切にできていないものです。しかし、本当に問わなくてはならないのは過去でもなく未来でもなく「現在」なのでしょう。問題にしなくてはならないのは、「今、わたしはどういう状態にあるのか」ということなのでしょう。特に私たちの人生において決定的に重要なのは、「神様との関係において、今、わたしはどういう状態にあるのか」ということなのです。

 ところで、マルコによる福音書では「目を覚ましていなさい」というこの言葉は今日の箇所の他にはゲッセマネの祈りの場面にしかでてきません。そこで主は言っておられます。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(14:38)。主の苦悩を横にして眠りこけている弟子たちの姿。それは私たち自身の姿かもしれません。主は弟子たちに、後の教会に、ここにいる私たちに、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と語ってくださいます。祈りの生活を失って、人は目覚めて生きることはできないということなのでしょう。

2025年11月26日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 25:1~17

 サムエル記上 25:1~17

  まずは、24章を振り返っておきましょう。ダビデはマオンの荒れ野から逃れ、死海のほとりのエン・ゲディへ移りました。洞窟の多いその地は、彼と六百人の兵士が身を隠すのに適していました。しかし密告により居場所が知られ、サウルは三千の精鋭を率いて「山羊の岩」へ進軍します。ダビデと兵士たちは羊の囲い場近くの洞窟に潜み、ただ通り過ぎてくれることを願いましたが、足音は近づき、ついに彼らの洞窟の前で止まります。緊張の極みにあったその時、洞窟に入ってきたのは兵士ではなくサウル本人であり、しかも一人でした。

 兵士たちは「主が敵をあなたの手に渡すと約束されたのはこの時だ」と促し、サウルを殺すよう勧めました。彼らにとっても命がけの状況であり当然の反応でした。しかしダビデはサウルに手をかけず、ただ上着の端を切り取るにとどめます。そして「主が油を注がれた方に手をかけることを、主は許されない」と語り、兵士たちを説得しました。ここで強調されているのはダビデの寛容さではなく、神への畏れです。ダビデがサウルを殺さなかったのは、サウルは命を狙う者であっても、なお主に油注がれた王であり、その任職は人ではなく神によるものだからです。ダビデは神を畏れたのです。

 洞窟を出たダビデはサウルに声をかけ、上着の端を示して「殺すことができたが罪を犯さなかった」と告げました。彼の目的はサウルの態度を変えることではなく、裁きを神に委ねることでした。「主があなたとわたしの間を裁き、わたしに報復されますように。わたしは手を下しません」と語ったダビデの姿は、詩編に見られる「復讐を神にゆだねる」祈りと同じ信仰の姿を示しています。人はしばしば「心から赦せるか」を問題にしますが、本当に大事なのは「裁きと赦しの権威を持つ神を畏れるかどうか」なのです。

 サウルは涙を流し「お前はわたしより正しい」と告げましたが、本質を悟ってはいません。問題は善意と悪意ではなく、神を畏れるか否かです。ダビデが王となるのも人柄ゆえではなく、神が定められたからです。サウルは一時的に悔いたものの、神への反逆を認めず悔い改めには至りませんでした。結局、彼は館に帰り、ダビデは要害に上って行きます。神との関係が変わらなければ、人間関係も本質的には変わらないのです。

 そして、25章に入ります。1節にはサムエルの死が短く報じられています。しかし、この節は直接的には2節以下に繋がりません。サムエルの死に関しては28章3節にも記されています。これがダビデの逃亡中の出来事であることは間違いないと思うのですが、いつの時点のことであるかは定かではありません。また、「パランの荒れ野に下った」とありますが、「パラン」は地図を見るとわかりますが、シナイ半島の半ばですから、南に逃げたとしても遠すぎます。七十人訳では「マオン」となっていますが、恐らくそちらの方が正しいものと思われます。ダビデは、サムエルの葬りにも当然立ち会うことはできなかったでしょうし、一つの時代の終わりを感じながら、マオンの周辺に従者たちと留まっていたものと思われます。

 続く、2節以下の長いエピソードには、ナバルとアビガイルという夫婦が登場します。「ナバル」という名前は、後にアビガイルが説明していますが「愚か者」を意味します。生まれて来た我が子に「愚か者」と名付ける親はないでしょうから、これは実際の本名ではないでしょう。彼の行動を象徴的に表す名前としてこの物語の中で特別に付けられた名前です。それは妻アビガエルの「賢さ」と対比されているのです。

 しかし、このナバルという人物は、聖書に「頑固で行状が悪かった」(3節)と描写されているように、確かにそのような人物であったとは言えますが、この世的に見るならば、単純に「愚か者」とも言えないのです。

 彼は非常に裕福な人でした。「羊三千匹、山羊千匹を持っていた」(2節)と書かれています。さらに、「彼はカルメルで羊の毛を刈っていた」と書かれています。羊の毛を刈るのは年に一度、春の終わりから初夏にかけてです。その時期は、農業で言うならば収穫感謝祭に当たります。盛大な祝いの時でもあります。

 ちょうどその頃合いを見計らってダビデは従者を十人、ナバルのもとに送ってこう言わせました。「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのものすべてに平和がありますように。羊の毛を刈っておられると聞きました。あなたの牧童は我々のもとにいましたが、彼らを侮辱したことはありません。…この祝いの日に来たのですから、お手もとにあるものを僕たちと、あなたの子ダビデにお分けください」(6‐8節)。

 丁寧な言葉に訳されていますが、要するに、ダビデはいわゆる「みかじめ料」を要求しているのです。当時の社会は、警察が治安を守っているわけではありませんから、羊の群れは常に外からの略奪者の危機にさらされています。そこで略奪者から羊の群れを守ってやる代わりに、分け前を要求するということが起こるのです。以前、ダビデを親分とする、いわばヤクザの一家のような集団が形成されていったと表現しましたが、実際、ここに見るような形でダビデは兵士たちの食べさせていたものと思われるのです。

 これに対してナバルはダビデの要求を拒否します。彼は言います。「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。わたしのパン、わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか」(10‐11節)。それは愚かなことでしょうか。いいえ、必ずしもそうとは言えません。

 彼は確かに粗野であったかもしれませんが、この世的には成功者です。単なる愚か者では裕福な牧場主などにはなれないでしょう。また、ダビデの要求を拒否したことについては、今日で言えば、暴力団の介入を拒絶した企業のトップに比することができるでしょう。また、実際的な問題として、ダビデに何かを提供することは、常にリスクを伴ってもいたのです。まかり間違えば、サウルによって滅ぼされた祭司の町ノブの二の舞になりかねません。その意味では、彼は適切な判断を下したとも言えるのです。

 しかし、それにもかかわらずなぜ「ナバル(愚か者)」と呼ばれているのか。彼の名前の意味を語るアビガエルの言葉を次回読みますので、その時に改めて考えることにしましょう。今日は、むしろこの一見賢そうに見え、正しそうにも見え、にもかかわらず聖書によって「ナバル(愚か者)」と呼ばれる人物に接した時の、ダビデの対応に注目したいと思うのです。

 私たちは一人の「愚か者」であるサウルに対して、ダビデがどのように対応したかを、この冒頭部分で少し時間をとって振り返りました。それに対して、この章におけるダビデの行動はどうでしょう。

 ダビデの従者は道を引き返して帰り着くと、言われたままをダビデに報告しました。すると、ダビデは兵に、「各自、剣を帯びよ」と命じたのです。戦闘態勢に入ったということです。200人を荷物のところに残し、400人を連れて進軍しました。その意図は、次週読む箇所にこう記されています。「荒れ野で、あの男の物をみな守り、何一つ無くならぬように気を配ったが、それは全く無益であった。彼は善意に悪意をもって報いた。明日の朝の光が射すまでに、ナバルに属する男を一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰してくださるように」(21-22節)。

 この章におけるダビデの姿は24章においてサウルに手をかけなかったダビデの姿とは対照的です。自分よりも強い者によって命を脅かされるという危機には耐えられても、自分より弱い者からの侮辱に耐えられない。そのようなことが確かに起こります。人間は自らが力をもった時、かえって誘惑には弱くなるものなのでしょう。

 しかし、それよりも問題はもっと深いところにあります。今引用した言葉において印象深いのは「彼は善意に悪意をもって報いた」という言葉です。24章において、サウルが声を上げて泣いてこう言ったことを見ました。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した」(24:18)。しかし、先週申し上げたように、サウルは事の本質が分かっていませんでした。これは善意と悪意の問題ではなく、神を畏れているか否かの問題だったからです。

 しかし、今週の箇所では、ダビデが同じ言葉を使っているのです。問題はそこにあります。「彼は善意に悪意をもって報いた」。ダビデにはそのことしか、今、見えていません。しかし、本当に重要なのは、神を畏れるか否かの問題なのです。そして、神に信頼し、裁きを神に委ねるか否かの問題なのです。

 ダビデにはそれが今、見えなくなっています。だから、主を畏れてサウルに自ら手を下すことをしなかったダビデが、一息ついた時に、自ら報復する行動に出ようとしているのです。しかし、主はダビデが自ら罪を犯さないように、一人の女性を用いて働きかけられます。そこで立ち止まることができたことは、ダビデにとって幸いなことでした。


2025年11月23日日曜日

「いついかなる場合にも対処する秘訣」

2025/11/23 主日礼拝説教 

聖書:フィリピの信徒への手紙 4:10-20

主において非常に喜びました
 フィリピの教会は、パウロの宣教の働きを積極的に物心両面から支援してきた教会でした。今日お読みした15節以下にもこう書かれています。「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました」(15‐16節)。

 そのようなフィリピの教会ではありましたが、その後パウロへの援助においてしばらくの空白期間が生じたようです。フィリピの教会の事情によるのか、あるいはパウロとの関係が一時期悪くなったのか、その理由については定かではありません。しかし、そのようなフィリピの教会からエパフロディトという人物が獄中のパウロのもとにやってきました。彼が携えてきたのは、フィリピの教会からの贈り物でした。パウロは喜びました。その喜びこそが、この手紙を書いた一つの理由でした。

 パウロはフィリピの教会にこう書き送ります。「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表わしてくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表わす機会がなかったのでしょう」(10節)。なんとも不器用な表現だと言えなくもありません。聞きようによっては随分な嫌味とも受け取られかねません。しかし、パウロにとっては彼らに精神的な負担をかけないための精一杯の配慮であると共に、最大限の喜びの表現だったのでしょう。彼はただただ嬉しかったに違いないのです。

 しかし、ここで重要なのは彼がただ「非常に喜びました」とだけ言っているのではないということです。「《主において》非常に喜びました」と彼は言います。パウロの意識の中には、与えるフィリピの教会と受け取る自分だけがいるのではないのです。これは単なる人間の善意と感謝の話ではないのです。そこに主がおられる。これは主との関わりにおける出来事であり、パウロが現しているのは主にある信仰による喜びなのです。このことを心に留めて、その先を読んでいきましょう。

わたしを強めてくださる方のお陰で
 パウロは次のように続けます。「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(11‐12節)。

 「習い覚えた」と訳されている言葉は、経験によって知ることを意味する言葉です。実際、パウロ自身、実に極貧の状態を経験してきた人でした。他の手紙において、彼はそれまでの生活を振り返って次のように述べています。「苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(2コリント11:27)。そのようなパウロが「貧しく暮らすすべを知っている」と言う時、その言葉にはまことに重みがあります。

 しかし、彼は「貧しく暮らすすべを知っている」だけではありません。「豊かに暮らすすべも知っている」と彼は言うのです。それはさらに難しいことなのかも知れません。イエス様は、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」(ルカ12:21)について語られました。多くを託された時、その多くを正しく用いることは難しいものです。人はしばしば豊かさの中で豊かさのゆえに罪を犯し、豊かさの中で豊かさによって神から引き離されるのです。「豊かに暮らすすべも知っている」とはまことに重い言葉です。

 それだけでなく、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっている」と彼は言います。いったい、パウロの言うところの「秘訣」とは何だったのでしょうか。その詳細についてパウロは何も語りません。ただ一言、彼はこう言うのです。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(13節)。この言葉にすべてが言い尽くされていると言って良いでしょう。

 パウロの生まれ故郷はタルソという町でした。このタルソという町は、当時のストア派哲学の中心となっていた場所のひとつであると言われます。ですから、当然パウロもまたこのストア派の哲学に馴染んでいたのです。11節の「満足する」という言葉はストア派哲学からの借用です。それは、誰の世話にもならず、何も欲しがらず、何にも関心を持たず、何にも心を動かされない、彼らの理想を表わす言葉でした。

 しかし、パウロが「満足することを習い覚えた」と言い、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かった」というのは、言葉はストア主義と同じ言葉を用いているかも知れませんが、内容は全く違うのです。彼にとって決定的に重要なことは、どのような心の状態を会得したかということではなくて、誰と共にあるかということだったからです。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」。そのような御方と共に生きることこそが、彼の人生における「秘訣」だったのです。そのように神と共に生き、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と言い得る生活こそ、彼が習い覚えてきた生活だったのです。

あなたがたの益となる豊かな実
 パウロはそのように主と共に生きる人として、同じように主と共に生きるフィリピの教会を見ています。それゆえに、フィリピの教会からの支援再開についても、パウロは「主において」喜んでいるのです。それはただ与える人々と受ける人との間のことではないのです。

 最初に見ましたように、パウロは15節以下でかつてフィリピの教会が行ってきた援助について言及しています。フィリピの教会は実際、パウロの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれた教会なのです。もちろん、パウロがそのことについてどれほど感謝していたか知れません。しかし、その感謝以上にパウロが伝えたかったことがあるのです。かつての支援にしても、今回エパフロディトが携えてきた贈り物にしても、これからの援助にしても、それが神の御前においてどのような出来事なのか、ということです。

 彼はこう続けるのです。「贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」(17節)。前半は文字通りには「贈り物を求めているのではない」という言葉です。

 人間と人間との関係でしか見なければ、ここで起こっているのは、《パウロの必要》を《フィリピの人々》が満たしているという出来事です。およそ援助とか支援とはそういうものでしょう。教会でしばしば行われる支援募金など、まさにそのようなものであると言えます。あるいは通常の教会の献金についても同じことが言えるかもしれません。教会の必要がある。それを人が満たす。だから必要が大きくなれば、財務部会から「献金のお願い」を呼び掛けることもあるわけです。

 しかし、本当はこのようなことは全て、人間と人間との関係だけで見ていてはならないのです。実際、パウロはそうは見ていないのです。全く違った見方をしているのです。彼は「贈り物を求めているのではない」と言うのです。「必要」という観点からだけで話をするならば、「必要はない」と言い切ってしまうのです。「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています」(18節)と。

 もちろん、パウロは獄中にいるのですから、様々な必要はあったに違いないのです。しかし、パウロは満ち足りていると言うことができる。なぜなら、満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっているからです。だから「必要」という観点から言うならば必要ない。では何を求めているのか。それは「あなたがたの益となる豊かな実」だと彼は言うのです。

 フィリピの教会の人々は、確かにパウロの必要を満たすために贈り物をエパフロディトに託したのかもしれません。しかし、それを受け取ったのは、実はパウロではなかったのです。「それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」(18節)と彼は言うのです。そうです、彼らは神様に献げたのであり、神様が受け取ってくださったのです。

 そして、神様が受け取ってくださったのなら、本当の意味で豊かになるのは献げた彼ら自身であることをパウロは良く知っているのです。それはとてつもなく豊かな神様との関わりにおけることだからです。それは「あなたがたの益となる豊かな実」となるということをパウロは知っているのです。なぜなら、パウロは自分自身の経験からこう断言することができるからです。「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」(19節)。献げる彼らは、献げた分だけ欠けるのではなく、主によって満たされるのです。

 だからこそ、パウロはこう言っていたのでした。「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表わしてくれたことを、わたしは主において非常に喜びました」と。そこには必要としている人間と必要を満たす人間だけがいるのではありません。そこには主が共におられる。強めてくださる御方がおられ、満たしてくださる御方がおられる。教会における出来事はすべて主との関わりにおける出来事です。与えることも、仕えることも、全てそれは主との関わりにおける出来事です。それゆえに、そこには人間が人間に与える喜びだけがあるのではなく、天からの喜び、主における喜びがあるのです。


2025年11月19日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 24:1~23

 サムエル記上 24:1~23

 ダビデはマオンの荒れ野で九死に一生を得て、そこから死海のほとりのエン・ゲディに移りました。洞窟の多いその地域が、600人の兵士と共に身を隠すのには適切であると判断したのでしょう。ところが、すぐにサウルの耳に「ダビデはエン・ゲディの荒れ野にいる」との密告情報が届けられます。サウルは選りすぐった三千の兵を率い、ダビデとその兵を追って「山羊の岩」付近に向かいました。

 ダビデと兵士らは、サウルの軍隊が接近していることを知ると、羊の囲い場近くの洞窟に身を隠しました。彼らは、おびただしい数のサウルの兵士らが彼らに気づくことなく通り過ぎて行くことだけを、ひたすら願っていたに違いありません。しかし、サウルの軍隊の行軍の足音は次第に大きくなってきます。彼らが隠れている当の洞穴の方に進んで来ていることは明らかでした。そして、まさにダビデの隠れていた洞窟の前で、行軍の足音が止まったのです。

 そこに潜んでいたダビデと兵士たちにとっては絶体絶命の危機でした。ここで発見されたなら、もはや逃げおおすことはできません。正面から戦っても勝ち目はありません。皆殺しとなることは免れないでしょう。ダビデたちが洞穴の奥で極度の緊張のもと息を潜めている様子が、目に浮かぶようではありませんか。

 やがて洞窟の中に人が入ってきました。それは兵士ではありませんでした。なんと、それはサウルであり、しかも従者もなく、彼一人で入ってきたのです。入ってきたのは洞穴の中を調べるためではなく、用を足すためだったのです。

 その時、ダビデの兵が言いました。「主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです」(5節)。つまり「この絶好の機会にサウルを殺すべきだ。それが神の御心だ」と言っているのです。ダビデの兵士たちがこのように強く勧めたのも無理はありません。これはダビデだけの問題ではなかったからです。ダビデと共にいる者全員が命の危険にさらされているのです。

 もちろん、ダビデもまた、これが彼だけの問題ではないことを知っています。かつてダビデのためにノブの町全体が滅ぼされた忌まわしい記憶も頭によぎったに違いありません。ダビデは促されるままに、気づかれないようにサウルに近づいていきます。しかし、ダビデはサウルに手をかけることなく、ただ上着の端を切り取っただけで戻って来たのでした。

 兵士たちの驚きの眼差しをよそに、ダビデは兵士たちにこう言いました。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ」(7節)。もちろん、ダビデがやらぬなら自分が、と言って出て行こうとする者もいたことでしょう。しかし、ダビデは彼らを説得して、サウルを襲うことを許しませんでした。

 ダビデの兵は「わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す」という主の言葉を引き合いに出しました。この言葉そのものは聖書に記されていません。ダビデに対してどこかで与えられた預言の言葉なのでしょうか。いずれにしても重要なことは、ダビデにとってサウルは、ダビデの命を狙っている者ですが、ダビデの「敵」ではなかった、ということです。サウルは主に油を注がれた王なのです。たとえ主がサウルを王位から退けられ、やがてダビデが立つにしても、まだその時には王なのであり、その任職は人の選出に基づいているのではないのです。

 ダビデがサウルを殺さなかったのは、ダビデが人並みはずれて寛容だったからではありません。神を畏れていたからです。それ以外の何らの理由もありません。22章でサウルが、神によって油注がれ任職された祭司たちを殺したのと対照的です。あの時、神を畏れる家臣たちは、手を下して祭司たちを討とうとはしませんでした。

 このように、神への畏れは単に感情的なことや観念的なことではありません。表面的な敬虔さや神妙な顔つきのことでもありません。人は宗教的な振る舞いによって神への畏れをいくらでも演出することができるのです。しかし、本当に神を畏れているか否かは、現実にどのような選択や決断をするかということに現れるのです。

 それは、ダビデに見られるように、時として生死を左右する選択であったり決断であったりするのです。それは真に神を神として重んじるのか、真にすべての上にある権威として服するのか、また真にその御手に自らを委ね信頼するのかが問われる、具体的な事柄なのです。

 さて、サウルが洞窟を出ると、ダビデは後からついて出て、サウルに背後から声をかけました。そして、自分がサウルを殺せる状況にありながら殺さなかったことを告げました。彼は上着の端を見せて言います。「わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした」(12節)。

 しかし、ダビデの目的は、寛容を示してサウルの態度を変えることにはありませんでした。これはダビデの、いわゆる「太陽政策」ではないのです。ですから、ダビデは公然と神がサウルを裁かれることを求めます。「主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しません」(13節)。

 ここには、いわゆる復讐の詩編などに見られるのと同じモチーフが現れています。詩編には復讐を求める言葉が散見します。その言葉に抵抗を覚えたり、問題を感じたりする人は少なくありません。しかし、そのような人は往々にして、一番重要なことを見落としているのです。それは、自ら手を下そうとはしていないということです。報復は神にゆだねているのです。ちょうどダビデが、「わたしは手を下しません」と言っているようにです。それは神への畏れと信頼に基づいているのです。

 私たちはしばしば他者を「心から赦せているか」「心から受け入れているか」を問題にします。それも大事なことでしょう。しかし、ここでダビデはそんなことを問題にしてはいないことを心に留めてください。もっと大事なことがあるのです。それは「最終的に裁きと赦しの権威を持っておられる神を、本当に畏れているのか」ということなのです。

 サウルはダビデの言葉を聞いて、声をあげて泣きました。そして言います。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった」。

 しかし、残念ながら、サウルは問題の本質が分かっていません。これは悪意と善意の問題ではないのです。神を畏れているか否かの問題なのです。サウルはダビデに悪意をもって対していたのではなくて、神を畏れず、神に敵対していたのです。ダビデはサウルに対して善意を示したのではなくて、神を畏れたのです。そして、神に信頼し、裁きを神に委ねたのです。

 さらにサウルは言います。「今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエルの王国はお前の手によって確立される」。サウルは悟ってはいません。サウルが見ているのは、ダビデの驚くべき行為です。サウルはそこに王となるべき人物を見ただけなのです。しかし、ダビデが王となるのは、その人となりの故ではありません。神がそう定めたのです。王国が確立されるのは、人によってではなく、神によることであることを、サウルは最後まで悟らないのです。ですから、彼はダビデが王となるべき人であると言いながら、26章で再びダビデを抹殺しようとするのです。神によることを悟らないからです。

 サウルは涙を流して自らの行いを悔いました。しかし、悔いることと悔い改めることとは異なります。涙を流して悔いたとしても、悔い改めない人はたくさんいます。悔い改めるとは神に立ち帰ることです。サウルはダビデに対する悪意を認めましたが、神に対する反逆を認めていません。ゆえに、「今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう」などと言うのです。

 神に対する罪を認めなければ、神に立ち帰ることはできません。結局、サウルは自分の館に帰って行き、ダビデとその兵は要害に上って行きました。これは、サウルが悔いたことが、彼らの関係を本質的には変えなかったことを示しています。そうです。神との関係が変わらなければ、本質的には何も変わってはいないのです。

2025年11月16日日曜日

「『わたしは主である』と言われる神」

2025年11月16日 主日礼拝説教 

聖書:出エジプト記 6:2-13

わたしは主である

 神はモーセに言われました。「わたしは主である。」今日の聖書箇所において繰り返されています。それはモーセがどうしても聞かなくてはならない言葉でした。そこには、どうしても聞かなくてはならない事情があったのです。そこでまず、「わたしは主である」とモーセに語られるまでの出来事を簡単に振り返っておきましょう。

 イスラエルはエジプトの国における奴隷の民でした。苦しみ叫ぶイスラエルを救うため、主はモーセを選ばれました。ミディアンの地で羊飼いをしていたモーセに主は言われました。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(3:10)。

 それは人の目から見るならば、どう考えても不可能でした。だからモーセは断るのです。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(同11節)。すると帰ってきた答えはこうでした。「わたしは必ずあなたと共にいる」。

 細かい話は割愛しますが、結局モーセは神に押し切られ、神に従うのです。彼はファラオのもとに向かったのでした。モーセはファラオに言います。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい」と」(5:1)。もちろん、そのような要求をファラオが受け入れるはずがありません。案の定、ファラオは要求をはねつけました。

 いや、それだけではありません。次のように書かれています。「ファラオはその日、民を追い使う者と下役の者に命じた。『これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。・・・』」(同6‐8節)

 わらはれんがを作る時のつなぎです。それまでは脱穀した後に残ったわらを与えられていました。これが与えられなくなったら、畑に残っている切り残しを自分で抜いて来るしかありません。これはれんが作りよりもさらに辛い作業となります。モーセが主に従ったために、イスラエルの民は苦境に立たされることになりました。モーセはイスラエルの民から責められることになりました。

 モーセは主に従ったのです。しかし、それは結果的にイスラエルの民を救うことにはなりませんでした。いや、かえって彼らを苦しめることになったのです。それはただ自分が苦しむこと以上に苦しいことだったに違いありません。モーセは苦しみの中から主に訴えます。すると主は言われたのです。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる」(6:1)。

 「今や」と主は言われます。その「今」とは、事態がますます悪くなっていくように見える「今」です。モーセもイスラエルの民も苦境に立たされている「今」です。しかし、そのような「今」こそ、「あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう」と主は言われるのです。「わたしがすること」すなわち「神がすること」を見るであろう、と。

 そこで主はモーセに言われたのです。「わたしは主である」と。

「主である」とは
 「主」と訳されているのは「ヤハウェ」という言葉です。「わたしはヤハウェである」と神はモーセに言われたのです。アルファベットで言うならばYHWHという子音4文字の単語なので、どう発音するか正確には不明です。学者は恐らく「ヤハウェ」と読んだのだろうと推測します。しかし、大事なのは発音よりも意味です。その意味するところは、既にモーセに知らされているのです。

 3章まで遡ると、こんなことが書かれています。まだファラオのもとに行く前のことです。モーセは主にこう尋ねました。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。すると主はこう答えたのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(3:14)。

 これこそまさに「ヤハウェ」という神の名前の意味するところなのです。「わたしはある」。普通の言い方ですと「わたしはいる」となります。しかし、「わたしがいる」と言っても、自分と無関係な神がどこかに「いる」ということならば大した意味はないでしょう。明らかにここで言われているのはそういうことではありません。「わたしがいる」とは、モーセと共にいる、ということです。「ヤハウェ」という神は、「共にいる神」なのです。そのような意味において、今日の箇所においても「わたしは主である。わたしはヤハウェである」とモーセに語っておられるのです。「わたしは共にいる神だ」と。

 いや、「わたしは主である」という言葉は、ただモーセだけが聞けばよいのではありません。イスラエルの民もまた聞かなくてはならないのです。ですから、主はモーセに言われるのです。「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である」と。主はイスラエルの民にも「わたしはヤハウェである。共にいる神である」と語ろうとしておられたのです。

イスラエルの人々に言いなさい
 6節から8節にかけて、モーセが民に語るために与えられた言葉が記されています。それは「わたしは主である」という言葉に始まり、「わたしは主である」という言葉に終わります。そこには「わたしは主である」という言葉が何を意味するのか、神が「共にいる神」であるとはどういうことかが明瞭に語られているのです。

 「わたしは主である」と言われる主は、さらにこう続けます。「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」(6節)。そのように神は腕を伸ばされる神なのです。「腕を伸ばす」とは、神がこの地上の現実において力を現すことを意味します。

 神はこの世界の歴史に介入し、この地上において営まれる私たちの生活に介入される神なのです。神は観念の神でもなければ、ただ心の中におられる神ではありません。神は腕を伸ばして、奴隷であったイスラエルをエジプトから解放される神なのです。

 主の言葉はさらにこう続きます。「そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」(7節)。このような関係を聖書は「契約」と呼びます。「わたしは主である」と言われる神は、人と契約を結ばれる神なのです。

 「契約」と聞きますと、私たちの感覚からすると、なんとなく心の伴わない、冷たい、法律的な関係に聞こえるかもしれません。しかし、聖書の言わんとしていることに一番近いのは、恐らく結婚関係なのです。なので、聖書には神とイスラエルの民との関係が、しばしば結婚関係に喩えられているのです。

 結婚をすると、お互いはお互いにとって単なる「一人の男性」、単なる「一人の女性」ではなくなります。「あなたはわたしの夫」「わたしはあなたの妻」という関係になるのです。主はそのような関係を求められる神なのです。神を信じて生きるとは、単に「神が存在する」ということを信じることではなくて、「あなたはわたしの神、わたしたちはあなたの民」と言って生きることなのです。それを聖書は「契約」という言葉で表現するのです。

 さらに主はこう言われます。「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える」(8節)。「土地を与える」。それは彼らが世代を超えて地上に存続するためです。「あなたはわたしの神です。わたしたちはあなたの民です」と言って生きる人々が、具体的に目に見える形で、この世界のただ中に存続することを主は望んでおられるということです。皆さん、モーセの時代から三千数百年を経た今日もなお、教会が存在し、私たちたちがここに集まって主を礼拝しているとは、そういうことなのです。

 「わたしは主である」。苦しみの中にあったモーセに神はそう語られました。モーセは苦しみの中にあるイスラエルの民にこの主の言葉を伝えました。「わたしは主である」。ファラオが支配しているとしか見えないエジプトの世界のただ中において、彼らは「わたしは主である」という言葉を確かに聞いたのです。

 もっとも、「彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」と書かれています。しかし、彼らはやがて見ることになるのです。神が「わたしは主である」と言ってくださるということは、どういうことであるか。彼らは目の当たりにすることになるのです。それが出エジプト記に記されている出来事です。

 そして、同じ言葉を私たちは今日、耳にしているのです。「わたしは主である」と。もちろん、私たちはエジプトの奴隷であったかつてのイスラエルの民とは置かれている状況は異なります。しかし、私たちが自らの力ではどうすることもできない様々な力の支配のもとに置かれ、しばしば振り回され、翻弄されて生きているという意味では変わらないとも言えます。私たちは実際、この世界のことはおろか、わが身一つどうすることもできない者ではないですか。しかし、そのような現実のただ中で、私たちは「わたしは主である」という言葉を聞くのです。そう言ってくださる方がおられるのです。

 その神こそ、イエス・キリストを通して御自身を現された神です。まさに私たちと共にいてくださる神であることをキリストによって現してくださった神です。だから私たちは今週も、「あなたはわたしの神です。私たちはあなたの民です」と信仰を言い表して生きて行くのです。

2025年11月12日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 23:1~28

 サムエル記上 23:1-28

 ダビデの逃亡生活は続きます。アドラムの洞窟に難を避けていたダビデは、一旦モアブのミツパに行き、自分の両親の安全を確保した上で、ユダの地にあるハレトの森に身を隠しました。アドラムにいた頃からダビデのもとには困窮している者、負債のある者、不満を持つ者などが集まり始め、その数が400人ほどになり、さながらダビデを親分とするヤクザの一家のような集団を形成していたことは、先週お読みしたとおりです。今週の箇所に入りますと、その集団はさらに大きく膨れ上がり600人ほどになっていることがわかります(13節)。

 そんなダビデのもとに、ペリシテ人がケイラを襲い、麦打ち場を略奪している、という知らせが届きました。ケイラはアドラムの南方にあるユダの町です。ダビデにとって同族の町が危機にさらされていました。そこでダビデは主に託宣を求めました。

 既にダビデのもとには預言者ガトだけでなく祭司アビアタルもおります。託宣は通常、祭司がエフォドに収められているウリムとトンミムによって問うのです。(ちなみに、6節で「アヒメレクの子アビアタルが、ケイラのダビデのもとに逃げてきたとき」と書かれていますが、逃げてきた時点では、まだダビデはケイラにはいなかったので、聖書の記述は若干出来事が前後しています。)

 祭司を通してダビデが「行って、このペリシテ人を討つべきでしょうか」と問うと、主はダビデに答えられました。「行け、ペリシテ人を討って、ケイラを救え」。

 ダビデがケイラを助けに行こうとしたのは、もちろん同族の危機を見過ごしにできないという道義的な理由によることは言うまでもありません。しかし、それだけではないのです。現実的なもう一つの理由がありました。それは「食糧」の問題です。

 ペリシテ人が麦打ち場を略奪していることから分かりますように、時期はちょうど刈り入れの直後、麦打ち場に穀物がある時です。ダビデは彼らを守ってやることにより、その見返りとして共にいる600人を養うための食糧の提供を受けることができると考えたのだろうと思います。(ダビデはそのような方法によって従者の生活を支えていたことを、後に25章において見ることになります。)

 しかし、そうとは言え、現実的に考えますならば、これは極めて危険な決断であったことは確かです。第一に、戦闘に入れば当然のことながらダビデの居場所がサウルに知られることになります。あえて居場所を知らせてやるようなものなのです。第二に、ダビデと共にいる者はの時点で六百人に膨らんでいるとはいえ、それでもペリシテの略奪隊と闘うには十分な戦力とは思えなかったに違いありません。

 ですから、これはあまりにも危険すぎると、従者たちは考えたようです。「我々はここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラまで行ってペリシテ人の戦列と相対したらどうなるでしょうか」(3節)。従者の言い分はダビデにも理解できたので、ダビデは再び託宣を求めることにしました。

 すると、主は再び答えられました。「立て、ケイラに下って行け。ペリシテ人をあなたの手に渡す」(4節)。「あなたの手に渡す」――これは主の戦いにおける決まり文句です。そこでダビデは、ついぞ忘れていた「主の戦い」の原則、そして「主による勝利」を再び思い起こします。ダビデは主に信頼し、兵を率いてケイラに下っていくのです。そして、結果的にはペリシテ軍に大打撃を与え、ケイラの住民を救うことができたのです。

 さて、予想されていたように、ケイラでの戦いはサウルに知れるところとなりました。サウルにとっては、ダビデとその一隊が城壁のある町に籠城してくれる方が、荒れ野を逃げ隠れされているよりはありがたいことです。しかし、サウルが進軍してくることは、いち早くダビデの耳に入りました。そこでダビデは主に問います。「サウルはケイラに下って来るでしょうか」。主は「下って来る」と答えられました。そこでさらにダビデは問います。「ケイラの有力者らは、わたしと兵をサウルの手に引き渡すでしょうか」。主は「引き渡す」と答えられました。

 このエピソードは、この時のダビデの逃亡生活が極めて厳しい状況にあったことを示しています。彼はもはや同族の町、しかも助けてあげたばかりの町をも信頼することができない状態にあったのです。

 しかし、ケイラの人たちの不義理と不人情を責めることもできません。ある意味でそれは無理もないことだったのです。既に祭司の町ノブが滅ぼされているのです。ただ一人の祭司がダビデにパンと剣を与えたという理由によってです。その悲惨な出来事をケイラの町の住人が知らなかったはずがありません。もしダビデの側につけば、ケイラの町自体、滅びることは免れないでしょう。結局ダビデはそこを逃れ、荒れ野をさまよい、ジフの荒れ野の山地に留まることになりました。

 ダビデが国家のヒーローであった時には多くの町々、多くの人々がダビデを愛し、ダビデを称えていたものでした。しかし、ダビデが逃亡者だと知れた今、自らの身を危険にさらしてまでダビデを守ろうとする町はありませんでした。危機から救ってもらったばかりのケイラの町でさえそうだったのです。それがこの世の現実なのです。

 しかし、そこで聖書は次のように語っているのです。「神は彼をサウルの手に渡されなかった」(14節)。最終的には人間がどうするかの問題ではないのです。主がどうされるかなのです。主はあくまでも計画を進められます。主はダビデと共におられ、彼を守られるのです。

 そして、そのような状態にあったダビデに、主は深い慰めを具体的に備えておられたのです。ヨナタンが訪ねて来てくれたのです。逃亡しているダビデの居場所をサウルよりも早く突き止めることは極めて困難なことだったでしょう。しかも、単独で隊列から離れてダビデのもとに赴くことは非常に危険なことであったに違いありません。

 しかし、ヨナタンはその危険を冒してまでしてダビデを訪れ彼を励ましたのです。「神に頼るようにとダビデを励まし…」(16節)という言葉は印象的です。まさにダビデに必要なことは、そのことだけだったのです。二人は主の御前で契約を結び、そして別れます。ここで交わした言葉は、二人にとって最後の言葉となりました。彼らはこの地上では、二度と顔を合わせることはありませんでした。

 そのような慰めに満ちた一時があった一方、ジフの荒れ野はまたダビデにとって悲しみの場所ともなりました。同族のジフの人々もまた、ダビデをサウルに売り渡したのです。彼らはサウルに言いました。「ダビデは我々のもとに隠れており、砂漠の南方、ハキラの丘にあるホレシャの要害にいます」(20節)。ダビデはそのゆえに、さらに南方のマオンの荒れ野に逃れざるを得ませんでした。

 サウルはそのことを聞き込み、ダビデを追跡しました。そして、ついに山をはさんだところにまで追いつめたのです。ダビデは急いで逃れましたが、既にサウルの兵はダビデを包囲していました。もはやダビデが捕らえられることは時間の問題でした。しかし、まさにその時、使者がサウルのもとに到着して告げたのです。「急いでお帰りください。ペリシテ人が国に侵入しました」(27節)。そこでサウルはダビデを追うことをやめて、戻らざるを得なかったのです。

 ペリシテの侵入そのものは殊更に特別なことではありません。王国た絶えず経験してきたことでした。しかし、この瞬間に「ペリシテ人が国に侵入しました」というニュースが届けられたことには、まさに神の介入以外の何ものでもありませんでした。主は確かにダビデをサウルに渡されなかったのです。そのためには、ペリシテ人の侵略さえも用いられたのです。

 サウルは「神がダビデをわたしの手に渡された」と言いました。実際、そのようにしか見えない状況だったのです。また、ジフの人々は「王の手に彼を引き渡すのは我々の仕事です」と言いました。それが世知辛いこの世の現実です。しかし、本当は人が何を言おうと何をしようと問題ではないのです。「神は彼をサウルの手に渡されなかった」からです。確かにヨナタンの言うとおり、ダビデに必要なことは、神に頼ることだけだったのです。

2025年11月9日日曜日

「神を信じるということ」

2025年11月9日 こども祝福礼拝説教 

聖書:創世記15:1-6 
 

神の約束
 今日は聖書に出てくるアブラハムという人の話をしたいと思います。教会では時々耳にする名前です。聖書に出てくる有名人ですから、ぜひ覚えておいてください。

 アブラハムはもともと「アブラム」という名前でした。今日の聖書箇所では、まだ「アブラム」と呼ばれています。アブラムはもともとカルデアのウルというところに住んでいました。やがて父に連れられてハランに移りました。ハランはとても豊かな土地でした。親戚も一緒に住んでいました。そこには知っている人が沢山いました。アブラムも、そこでみんなと一緒に生活していれば安心でした。

 しかし、神様はアブラムに言われました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。神様はそこを離れて、お父さんの家族や親戚からも離れて旅に出なさいと言われたのです。アブラムが安心していられるその場所を離れて「わたしが示す地に行きなさい」と神様は言われたのです。

 神様がどこに連れて行こうとしているのか、アブラムは知りません。先のことを考えると不安にもなったでしょう。怖くもなったでしょう。しかし、アブラムは神様を信じて、言われる通りに旅に出ました。これからどうなってしまうのか全く分からないけれど、とにかく神様を信じて一歩を踏み出したのです。

 そのようなアブラムに、ある時神様はこう言われました。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」。そして、こう続けられたのです。「見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える」(13:5)。

 その時、アブラムは小さな土地さえも自分の土地として持っていませんでした。旅をしている人ですから。目に見える形では自分が子孫に受け継がせることのできる土地などありません。そもそも子孫などいないのです。アブラムには子どもがいなかったからです。今はまだまだ土地もなければ子どもいない。しかし、神様はさらにこう言われたのでした。「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」。

 そのように神様は、アブラムがまだ子どももなく土地もない時に、子孫が増えること、そして、見渡す限りの土地を与えることを約束してくださいました。

恐れるな
 さて、どうなったでしょう。しばらくの時が流れました。アブラムは年を取りました。でも相変わらず自分の土地を持たない旅人でした。そして、アブラムの家にはまだ一人の子どもも産まれていませんでした。

 そんなアブラムの心の隙間から疑いが入ってきました。神様を疑い出したら恐れがやってきました。旅になど出なかった方がよかったのではないか。神様を信じたのは間違いだったのではないか。これから先、どうなってしまうのだろう。神様を疑い出したら、これからのことがとても心配になりました。そうです、神様を信じられなくなりますと、いろいろな恐れがやってくるのです。

 そんな時でした。神様がアブラムに語りかけてくださったのです。「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」(1節)。そうです、恐れと不安で一杯になっていたアブラムに神様はこう言われたのです。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」。

 神様はアブラムのことをよくご存じでした。恐れで一杯になっていることをご存じでした。だから言われたのです。「恐れるな」と。どんなに沢山の矢が飛んできても、大きな盾があったら大丈夫でしょう。神様が「わたしはあなたの盾である」って言ってくださいます。ならば大丈夫です。そして、誰が報いてくれなくても、神様が報いてくださる。「あなたの報いは大きい」と神様は言ってくださったのです。だから恐れる必要はないのです。「恐れるな」と主は言われるのです。

天を仰いでみなさい
 しかし、アブラムの心の中には、まだ疑いが残っていたようです。アブラムは神様に皮肉たっぷりに言いました。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」(3節)。

 多くの子孫と言っても、現実には子どもひとり与えてくださらないではありませんか。家の跡継ぎすらいないんですよ。どう考えたって不可能ではないですか。――アブラムは神様にそう言いたかったのでしょう。アブラムの家にはエリエゼルという召し使いがいました。現実的に考えるならば、その召し使いが跡継ぎになるしかないのかな、と思っていたのでした。

 しかし、主は言われます。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(4節)。そして、アブラムを外に連れ出して言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」

 ここを読みますと、アブラムが見上げた星空はどのようなものだったのだろう、と思います。東京の夜空とは明らかに違うでしょう。東京の夜空を見上げても満天の星空という感じはしません。空気は澄んでいませんし、まわりが明るいので、あまり多くの星が見えません。

 しかし、地方に行くと違った夜空が見られます。昔、ある夜、兵庫県の山奥を車で走っていたときに、途中で車を止めて、夜空を見上げたことがありました。車のライトを消したら、文字通り真っ暗なんです。そこで見上げた星空をわたしは忘れることができません。ちょうど今頃です。空気の澄んだ秋の夜空には、天の川がはっきりと見えて、まさに空は大小の星でびっしり埋め尽くされていました。まさに星空に圧倒されていました。また、そこに立っている自分のなんと小さなことかと思わされました。

 アブラムが見ていた星空もきっとそのような星空ではなかったかと想像します。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と主は言われました。アブラムはその数え切れない星を造られた神様の御前に立っているのです。数えきれない、神様の圧倒的な御業を目にしながら立っているのです。これが神様のなさることなのだ、と。

 星を数えきることができないように、神様のなさることを人間は計り知ることはできないのです。神様の知恵と力がどれほど大きいかを、私たちは知り尽くすことはできないのです。それゆえにまた、神が人の未来に何を成し得るかということもまた、人の計り知ることのできないことなのです。ならば、私たちにできることは、ただとてつもなく大きな御方に信頼することだけなのでしょう。その計り知れない知恵と力を誉め讃えることしかできないのです。本当はそうなのです。

アブラムは主を信じた
 そこで今日の聖書箇所にはこう書かれているのです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。

 実は聖書に初めて「信じる」という言葉が出て来るのはこの箇所なのです。その「信じる」という言葉は「アーマン」というヘブライ語に由来します。「アーメン」と似ていますでしょう。この二つは深いつながりがあります。祈りの最後に唱和する「アーメン」は「そのとおりです」という意味です。そのように「信じる」とは、主の言われることに対して「そのとおりです」と信頼して、受け入れることです。

 アブラムは主を「信じた」。それは主のなさることが理解できたからではありません。常識的に考えるならば主の言われることは不可能なのでしょう。彼の経験からすればあり得ないことなのでしょう。現実を見るならば、多くの子孫はおろか、子ども一人生まれていないのですから。そして、アブラムも奥さんも既に年を取っているのですから。しかし、それでもなおアブラムは主を信じたのです。無条件で「アーメン」と言って受け入れたのです。そのように主とその約束に全面的に信頼したのです。ならば、信頼したように行動するのです。主の御言葉を信じる者として生きて行くのです。

 アブラムは主を信じた。そして、主はそれを彼の義と認められたのです。「義と認める」というと難しいけれど、簡単に言えば神様が大きなマルをつけてくださったということです。「それでよし。あなたは正しい」と言って、ハナマルをつけてくださった。神様に信頼しているアブラムは、神様の目から見たら百点満点だったのです。

 しかし、それはまた全て神様のおかげだとも言えます。既に見てきたように、アブラムは常に主を信じて揺るぎない人ではありませんでした。アブラムの内には疑いがありました。アブラムの内には疑いから来る恐れがありました。しかし、そんなアブラムに「恐れるな」と言ってくださったのは神様でした。皮肉たっぷりに言い返したアブラムに、それでもなお語り続けてくださったのは神様でした。神様の言葉があってこそ、初めて「アブラムは主を信じた」があるのです。

 そして、神様は私たちにも語りかけていてくださいます。その究極の語りかけ、神の言葉はイエス・キリストです。神はその御方によって、十字架と復活によって、決定的な仕方で語られたのです。そして、復活されたキリストによって今も御言葉が語られています。キリストの体である教会によって、神の言葉が語られているのです。かつてパウロもまたこう言っていました。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。

2025年11月5日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 22:1~24

サムエル記上 22:1-24

 前章では、逃亡者となったダビデの姿を見てきました。彼はまず祭司の町ノブに赴き、祭司アヒメレクのもとを訪れてパンを求めました。しかし、そこには折悪しくサウルの家臣であるエドム人ドエグが居合わせていたのです。逃亡者であるダビデがアヒメレクと接触するのを目撃されるということは、アヒメレクにも危害が及ぶ可能性があることを意味していました。

 それにもかかわらず、ダビデはそのことを承知しながら、自分が逃亡者であることを隠したままパンを求め、さらにはゴリアトの剣まで受け取ってその場を立ち去ったのでした。その結果、どのような事態が起こったのかが、この22章に記されています。後ほど見ていきましょう。

 さらにダビデは身分を隠したまま、ガトの王アキシュのもとに逃れます。しかし、身分を完全に隠すことはできませんでした。アキシュの家臣に正体を見破られたダビデは、狂人のふりをしてその場を逃れたのです。

 今日はその続きです。ダビデはその後、アドラムの洞窟に身を隠しました。アドラムはベツレヘムから西へ約20キロほどの場所で、ダビデの出身地であるユダに属します。彼がアドラムに逃れたことを知ると、彼の親族がそこへ下ってきました。ダビデが反逆者とされたことで、エッサイの一族にも危険が及んでいたためでしょう。

 ダビデは年老いた両親を守るため、モアブのミツパに赴き、モアブの王に両親を託します。実はモアブにはダビデの親戚がいるのです。ダビデの父エッサイの祖母はルツであり、ルツはモアブ人でした(ルツ記1:4)。したがって、具体的にはモアブにいる親戚のもとに両親を一時的に避難させたということだったものと思われます。

 さらに、ダビデのもとには「困窮している者、負債のある者、不満を持つ者」が集まってきたと記されています。ダビデがユダの地に逃れた時、そのような人々が集まってきたのは理解できます。

 ユダの地はベニヤミン同様、ペリシテ人の地に直接接しています。ペリシテ人の勢力がベニヤミンのギブアにまで及んでいたことを考えると、ユダの地にも広範囲にわたってペリシテ人による占領地があったことが想像されます。つまり、土地を奪われた人々がいたということです。土地を奪われれば生活は困窮します。ある者は借金で首が回らなくなり、世の中に対する不満も募ります。

 そうして、現実的に食べていけなくなった人々が、強さで知られたダビデのもとに集まってきたのです。ダビデは彼らを養うことになります。どのようにしてでしょうか。後に見るように、略奪によってです。こうして、ダビデを親分とする、いわばヤクザの一家のような集団が形成されていったのでした。

 しかし興味深いことに、そこに突然ガドという預言者が登場します。この章の終わりでは、アビアタルという生き残った祭司がダビデの集団に加わります。ここで預言者と祭司が登場することには大きな意味があるのです。

 これまで見てきたように、油を注ぐことは神による任職のしるしですが、油を注がれて任職されるのは王だけでなく、祭司と預言者も同様です。つまり、この三つの職務が王国の柱なのです。この時点でダビデはまだサウルの追及を逃れている逃亡者です。しかし、それにもかかわらず、すでに油を注がれたダビデと共に、祭司と預言者がそろったのです。つまり、そこには小さな王国が出現しているのです。

 これは未来を示す予表です。実際、ダビデが王となった時、ガドもアビアタルも王国の預言者と祭司となるのです。このような形で、確かに主の計画は進められていることが分かります。

 一方、それに対して6節以下には、自らの王権と王国にしがみつくサウルの姿が、まったく対照的に描かれています。王国はすでに存在していますが、サウルの王国は確実に崩壊に向かっていることが明らかになっていくのです。

 ここに描かれているのは、もはや側近さえも信じることができなくなった、猜疑心に凝り固まったサウルの姿です。彼は「お前たちは皆、一団となってわたしに背き、わたしの息子とエッサイの子が契約を結んでもわたしの耳に入れない」(8節)と責め立てます。実際には、家臣が背いたわけではありません。ダビデとヨナタンの契約は、サウルの家臣から見れば何の問題もなかったのです。ダビデは忠実な千人隊長だったのですから。問題はサウル自身にあったのです。

 そのことに気づかず、家臣の非を責めるサウルは孤立せざるを得ませんでした。ただ一人、サウルに近づいてきたのは、あのドエグでした。彼はエドム人であると記されています。真にサウルのことを思って進言したヨナタンを退け、今まで忠実に仕えてきた家臣をも信じられなくなったサウルには、最後には主の御心にまったく関心のない、報酬目当てで擦り寄ってくるエドム人しか残らなかったのです。

 そのドエグの報告によって、ノブの祭司たちに悲劇が訪れます。ダビデがアヒメレクのもとに来たこと、アヒメレクがダビデのために主に託宣を求め、食料を渡し、ゴリアトの剣を与えたことを告げたのです。アヒメレクと祭司たちは王のもとに引き出され、死罪が宣告されました。それはまったく理不尽な判決でした。

 それが理不尽な、神を畏れぬ判決であることは、サウルの家臣の目にもそう映ったのです。ですから、サウルが近衛兵に祭司たちを殺すよう命じた時、彼らは手を下しませんでした。それは神に逆らうことであり、それがどれほど恐ろしい罪であるかを、誰もがよく知っていたからです。仕方なく、王はドエグに祭司たちを討つよう命じました。主を恐れぬドエグは、彼らを皆殺しにしました。そしてサウルは、祭司の町ノブを乳飲み子や家畜に至るまで絶滅させたのでした。

 この出来事は、かつて主がサウルに命じられたことを思い起こさせます。かつて主はサウルに、「行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない」(15:3)と命じられました。そのときサウルは、アマレクの王アガグを生かしておき、羊と牛の最上のものを惜しんで滅ぼさなかったのです。そのことにより、サウルは王位から退けられることを主から宣告されたのでした。皮肉なことに、そのサウルが今や、罪のない祭司の町ノブを滅ぼし尽くしたのです。サウルは、自らを執り成す祭司さえも失うことになったのでした。

 主がアマレクの絶滅を命じられたことは、多くの人にとってつまずきであり、受け入れがたいことであるに違いありません。しかし、最終的に救いと滅び、生と死を決定する権威を神のみが持っていることを認めなければ、何が起こるでしょうか。人間の勝手な判断、人間の都合による判断によって、もっと恐ろしい悲惨なことが起こるのです。ノブの住人が、サウルという一人の権力者の一存によって皆殺しにされるというようなことが、まさにそれです。そしてこれは、現代においても起こっていることなのです。

 さて、アヒメレクの息子が一人、難を逃れてダビデのもとにやって来ます。彼の一族はダビデのゆえに殺されたのですから、本来であれば、最もダビデを憎んでいても不思議ではない立場にある人物です。普通に考えれば、そのような人物は、将来の報復を恐れて抹殺しておかなければ自分の身が危ないと考えるかもしれません。しかし、ダビデはその人物の前において、自らの非を認めるのです。父の一族が殺されたのは自分の責任であると。そしてその上で、アビアタルを自分のもとに留まらせるのです。ある意味では、命がけで誠意を示すダビデの姿がそこにあります。

2025年11月2日日曜日

「主イエスによって備えられた場所」

2025年11月2日 聖徒の日 主日礼拝説教 

聖書:ヨハネによる福音書 14:1-7

 今日は聖徒の日です。天に召された方々の御家族、御親族も大勢見えています。共に礼拝できることをうれしく思います。今日は天に召された方々を思い出しながら、天と地が一つとされているところに身を置いていることを思いつつ、共に礼拝をおささげできたらと思います。

心を騒がせるな
 そのような今年の召天者記念礼拝に与えられている聖書の言葉が先ほど読まれました。今日は特に福音書朗読において読み上げられたイエス様の言葉を心に留めたいと思います。主は言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(1節)。

 「心を騒がせるな」と主は言われます。それは人間がしばしば平安を失い、心を騒がせることを知っておられるからでしょう。そして、まさにその時弟子たちはそのような状態にあったのです。

 主がそう言われたのは、最後の晩餐の席においてでした。イエス様は御自分の死が目前に迫っていることを知っておられました。御自分が間もなく捉えられ、鞭打たれ、十字架にかけられることを知っておられました。今日読まれました聖書箇所の直前にはペトロとのこんなやり取りが記されています。

 イエス様がペトロに言われました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」。イエス様は十字架に向かっているのです。そこにペトロは、今はついて行くことはできないと主は言われたのです。しかし、ペトロにはイエス様が言っておられる意味が分かりません。しかし、生と死に関わることを主が言っておられることだけは分かったのでしょう。ペトロは言いました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(13:37)。

 ペトロがそう言わざるを得ないほどに、イエス様の上に、そして弟子たちの上に、命の危険が迫っていることを彼らは感じ取っていたのです。確かに死の力が彼らに押し迫ってきているのです。それゆえに弟子たちは心を騒がせずにいられなかったのです。

 それは二千年後の私たちにもよく分かります。死の力に人間は勝てないことを私たちも知っていますから。いかなる人間も、どんなに大金持ちであろうが、どんな権力者であろうが、死の力には勝てない。だから死がその片鱗を現す時に、そして、最終的に押し迫ってくる時に、人間が平安を保つことは困難です。心が騒ぐのを抑えることはできません。

 しかし、主は言われるのです。「心を騒がせるな」と。それは「心を騒がせる必要はない」ということでもあります。それはどうしてか。弟子たちは既に誰を信じたら良いかを知らされているからです。イエス様と共に歩んだ三年半の間に、弟子たちは繰り返しイエス様が言われるのを聞いてきたはずです。「神を信じなさい」と。そして、多くの人々に主がこう語るのを聞いてきたはずなのです。「あなたの信仰があなたを救った!」と。

 イエス様は今一度、最後の晩餐において、弟子たちにそのことを思い起こさせているのです。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。「神を信じなさい」だけではありません。「わたしをも信じなさい」と主は言われるのです。

 まもなく捕らえられることを知っている主が、十字架にかけられて殺されることを知っている主が言われるのです。自分の無残な死に様を見ることになる弟子たちに、それでもなおイエス様は言われるのです。「わたしを信じろ」と。

 イエス様がそう言われるのは、御自分の死が何を意味するかを知っているからです。そして、弟子たちにも繰り返し語り聞かせてきたのでしょう。今こそ弟子たちは――心が騒いで仕方ない弟子たちは――思い起こして信じなくてはならないのです。それゆえに、「わたしを信じろ」と言われた主は、御自分の死が何を意味するのかを静かに語り始めるのです。それが今日の聖書箇所です。

場所を用意しに行く
 主は弟子たちに言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(2節)。イエス様は死の力に飲み込まれて滅びるのではないのです。主は十字架の向こうに「父の家」を見ているのです。自分が帰るべきところを見ているのです。

 今日は読まれませんでしたが、最後の晩餐の場面は次のような言葉で始まります。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)。

 自分が父の家に帰ることを知っていたイエス様は、弟子たちにこう言っておられました。「あなたがたのために場所を用意しに行く」と。そうです、イエス様は場所を用意しにいくのです。それはイエス様が行くところに、弟子たちもまた行くことができるようになるためです。ですから主はさらにこう言われるのです。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(3節)。

 そのように父のもとに行くのはイエス様だけではないのです。弟子たちもまた、イエス様のもとに迎えられるのです。父の家に迎えられることになるのです。これが「心を騒がせるな」と言われるイエス様の約束の言葉です。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われるイエス様の約束の言葉です。確かに、そう言われるイエス様を信じるならば、もはや心を騒がせる必要はないはずなのです。

 イエス様が帰っていく父の家に、私たちもまた迎えられる。これこそ代々の教会もまた信じてきたことです。しかし、考えてみれば、これは驚くべきことでしょう。罪を犯すことのなかったイエス様と同じところ私たちも迎えられるのです。罪ある私たちが迎えられるのです。十字架の死に至るまで神に従い通したイエス様と同じところに、私たちも迎えられるのです。神に背いてばかりいる私たちが迎えられるのです。父の家に私たちの場所があるとするならば、それはまことに驚くべきことです。いったい私たちの誰が真顔で、「神様、あなたのもとに私の場所があることは当然です。あなたの家に迎えられるにふさわしく生きてきましたから」と言えるでしょう。それは本来、あり得ないことなのです。

 だからこそ、イエス様はわざわざ「あなたがたのために【場所を用意しに行く】」(2節)と言われたのです。「場所を用意しに行く」ということは、つまり用意されるまでは「ない」ということです。はじめから私たちの場所があるわけではない、ということです。父なる神のみもとに、私たちの場所があるとするならば、それはイエス様が用意してくださったから場所があるのであって、私たちが何かをしたからではありません。ひとえにイエス様がしてくださったことによるのです。

 イエス様は場所を用意しに行くと言われました。そして、どうされましたか。主は十字架にかかって死なれたのです。言い換えるならば、イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかられることによって、私たちの場所を用意してくださったのです。私たちの罪を代わりに負うことによって、罪人である私たちが父に迎えられるようにしてくださったのです。

わたしは道である
 いや、イエス様はただ場所を用意してくださっただけではありません。主は、わたしは道である」と言われたのです。その道は父のみもとに行くための道です。キリストは十字架にかかり、私たちの罪を代わりに負い、私たちの罪を贖うことによって、私たちの通るべき道ともなってくださったのです。

 実際、私たちは、キリストの十字架による罪の赦しという道を通って、父なる神のみもとにいくしかないのです。なぜなら、神の目から見るならば、私たちは皆、償いきれない罪の負い目を負っているからです。私たちが自分の罪を償いきれないならば、キリストの十字架に寄り頼んで、罪を赦していただくしかないのです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とは、そういうことです。

 それは、「あなたが自分の罪を償いきれない罪人であったとしても、わたしを通って父のもとに行きなさい」という呼びかけでもあるのです。主は言われるのです。「わたしがその道だ」と。

 目的地へと通じる道があるならば、その道から外れない限り、必ず目的地に行き着きます。「父のもとに行く」ための道ならば、最後まで道と共にある限り、必ず父のみもとに行き着くのです。最後まで道と共にあるということ、――それは最後までイエスと共にあるということです。最後まで信じて共にあることです。

 主は言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。私たち誰もが直面しなくてはならない死の力に対して、「わたしを信じろ」と言ってくださる方がおられるということは、本当にありがたいことです。この世の誰も、どんなに私たちを愛してくれる近しい人であっても、そんなこと言ってくれないし、言うこともできないでしょう。死の力に直面して心騒ぐときに「わたしを信じろ」と言ってくださるのは、この御方だけです。

 そして、さらに言うならば、この「わたしを信じなさい」という言葉は、「わたしを信じ続けなさい」という意味合いの言葉なのです。大事なことは最後まで信じ続けることです。繰り返します。それが父のみもとに至る道ならば、最後までその道と共にある限り、必ず父のみもとに行き着くのです。

2025年10月29日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 21:1~16

 サムエル記上 21:1-16

 サウルが誓いを破りダビデを殺害しようとしていることを知ったヨナタンは、約束通りダビデを安全に逃れさせるために、あらかじめ定めておいて合図によってダビデに知らせます。こうしてヨナタンの助けを得て、ダビデはサウルの手を逃れることとなりました。こうして彼は常にサウルに追われる逃亡者となったのです。

 かつて主はサムエルにこう言われました。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした」(16:1)。主が見出した「王となるべき者」こそダビデでした。サムエルはダビデの父の住むベツレヘムを訪れ、そこでダビデに油を注いだのです。このようにしてダビデは主に選ばれた王であることが告げられたのです。

 しかし、現実には王として君臨しているのはサウルです。主によって油注がれた者は、王になるどころか、むしろ王の追求を逃れてさまよう者となりました。王国を得るどころか、日々のパンにも事欠く者となりました。権力を得るどころか、むしろ剣一つ持たぬ身となりました。

 主は、確かにダビデが王となることを定めておられました。ダビデに約束を与えられました。しかし、ダビデが王となる前に、約束が成就する前に、その途上において、ダビデがこのような惨めな過程を通ることをよしとされたのです。目に見えるところによらず、信仰によって、ただ神の約束を信じることによって生きるしかない、そのような状況を通ることをよしとされたのです。

 主の約束が実現する前に、しばしばそれとは逆行するような出来事が起こることは、聖書の中にしばしば見られるパターンです。アブラハムは「多くの国民の父」(創世記17:5)となる前に、子を持たぬ老人とされました。ヨセフは与えられた夢が実現する前に、エジプトに売られて奴隷となりました。主はギデオンに勝利を与えられる前に、兵士の数を極端に減らされました。

 約束に逆行する現実の中に置かれる時、それはただ主に信頼することを学ぶ時に他なりません。人間の力や企てが神の約束を実現するのではなく、ただ神の大いなる御力が約束を実現することを学ぶ時であり、そこで人はただひたすら神に信頼し、忍耐をもって待ち望むことが求められているのです。

 さて、しかしながら私たちはその過程を歩むダビデを理想化することは許されません。これまで私たちはサウルとの対比の中で信仰の人ダビデの歩みを見てきました。しかし、彼もまた人の子であり、信仰と不信仰の狭間に立っている一人の人間なのです。ですから私たちは、彼の歩みの中に、主に信頼する姿と共に、不信仰のゆえの数多くの失敗をすることを見ることにもなるのです。私たちはダビデの勝利から学ぶと共に、彼の敗北からも学ばねばならないのです。

 ダビデは祭司の町ノブに逃れました。かつてはシロに聖所がありました。サムエルがシロの聖所において祭司エリのもとで育てられたことを既に見て来ました。しかし、シロの聖所は祭司エリの時代にペリシテ人によって破壊されてしまったのです。そこで、祭司の一族はそこからノブの町に逃れていったのでした。

 22章を見ますと85人もの祭司が集団生活をしていたようです(22:18)。そこには新たな聖所が築かれていたということでしょう。ダビデはそこに住む祭司アヒメレクを訪ねました。アヒメレクはピネハスの孫でありエリの曾孫に当たります。

 アヒメレクはダビデを不安げに迎えました。無理もありません。千人隊長であるはずのダビデが従者も連れず、剣も持たないで一人で来たのですから。明らかに異常なことが起こっているのです。アヒメレクはダビデに尋ねます。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」ダビデはアヒメレクに偽ってこう説明します。「王はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うよう言いつけてあります。」そして、さらにダビデは彼にパンを求めます。そこには聖別されたパンしかありませんでした。聖別されたパンを求める際にも、ダビデは偽りを語ります。「従者たちは身を清めています」と。

 このように、ダビデの応答は偽りに満ちています。それは逃亡のためのパンを得るためでした。しかし、実は、この章が伝えているダビデの問題は、偽りそれ自体ではないのです。ここに見るダビデは、かつてたった一人でゴリアトに立ち向かったかつてのダビデと対比されているのです。明らかに、そこにいるのは、もはやあのゴリアトと戦ったダビデではありません。ただひたすら主に信頼して出て行ったダビデではないのです。

 そのことは、アヒメレクにパンだけでなく、武器を求める時のやりとりの中にも明らかにされていきます。ダビデが槍か剣がないかと尋ねると、アヒメレクはこう答えました。「エラの谷で、あなたが討ち取ったペリシテ人ゴリアトの剣なら、そこ、エフォドの後ろに布に包んであります。もしそれを持って行きたければ持って行ってください。そのほかには何もありません」(10節)。

 アヒメレクの答えは、ダビデにあの日の勝利を思い起こさせるのに十分な言葉であったはずでした。剣など持たずに彼はゴリアトに勝利したのです。それはまた、ゴリアトの剣は決してペリシテの軍隊に勝利をもたらさなかったことをも思い起こさせる言葉であったはずでした。

 しかし、ダビデは、かつて勝利を与えてくださった信頼すべき主の真実に思いを馳せることができないのです。主への信頼を失えば、人は自らの手で自分を守るしかありません。ダビデは答えます。「それにまさるものはない。それをください。」今のダビデにとって、ゴリアトの剣にまさるものはないのです。この言葉がダビデの状態を雄弁に物語っていると言えるでしょう。

 自らの手で自分を守るしかないならば、必然的に人は恐れに支配されることになります。その事実がこの場面にはよく現れています。彼はアヒメレクのところでドエグというエドム人を見かけました。彼はサウルの家臣です。ドエグはアヒメレクがダビデにパンを与えることをしっかりと目撃していました。

 そのことが、アヒメレクをトラブルに巻き込みかねないことを、ダビデに分からないはずがありません。事実、アヒメレクがダビデにパンや剣を与えたということで、アヒメレクだけでなく、祭司の町の住人すべてが皆殺しにされることになるのです。

 後にダビデはアヒメレクの息子にこう言っています。「あの日、わたしはあの場に居合わせたエドム人ドエグが必ずサウルに報告するだろう、と気づいていた」(22:22)。そうです、ダビデには分かっていたのです。しかし、恐れに支配されていたダビデは自らを救うことで精いっぱいでした。ですからパンのみならず剣まで求めて、その場を立ち去ってしまったのです。

 ダビデはさらに、ガトの王アキシュのもとに逃れました。実は、ダビデがアキシュのもとに身を寄せるという記事は、後に再び27章に出てきます。その時は状況が異なっておりまして、単独ではなく600人の兵と共にガトに移って行きます。アキシュはダビデと兵士たちを受け入れ、ツィクラグを与えてそこに住まわせるのです。しかし、この章においては、ダビデは身分を隠したままガトに逃れているのです。

 もちろんダビデであることを隠し通せるはずがありません。アキシュの家臣たちに見破られてしまいます。「この男はかの地の王、ダビデではありませんか。この男についてみんなが踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌ったのです」。この言葉もまた、ダビデにかつての勝利を思い起こさせるに十分な言葉だったに違いありません。あの時にも、ダビデは兵士の数によって勝ったのではなかったのです。主による勝利であったはずなのです。

 しかし、彼は主による勝利を思い起こすのではなく、自らの手で自らを守ろうとしたのです。そうなれば当然恐れに支配されることになります。ダビデは捕らえられると、気が狂ったように振る舞い、ひげによだれを垂らし、城門の扉をかきむしりました。アキシュは言います。「見てみろ、この男は気が狂っている。なぜ連れて来たのだ」。こうしてダビデはアキシュに身元を知られぬまま釈放されたのでした。

 このように、ダビデは約束が成就に至る途上において、厳しい信仰の試練を通されました。しかし、そこでまず私たちが目にするのは、信仰の盾を失い、恐れに支配されたダビデの姿です。昨日の勇者が今日の勇者とは限りません。それは力の有る無しの問題ではなく、あくまでも信仰の問題なのです。

2025年10月26日日曜日

「神の恵みに目を向けて生きる」

2025年10月26日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 10:2~12

イエスを試そうとして
 ファリサイ派の人々が近寄って来て、イエスに尋ねました。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。彼らは教えを請いに来たわけではありません。そこには「イエスを試そうとしたのである」と書かれています。答えは既に知っているのです。「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問われると、彼らは自分でこう答えることができました。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と。そうです、既に答えは知っているのです。

 「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。彼らがそう尋ねたのは、イエスが離縁に否定的な見解を持っていることを知っていたからです。離縁は律法において許されているのに、この男はその律法に反することを答えるかも知れない。あわよくば「この男は律法に反することを教えている」と訴える口実を得ることができるかも知れない。恐らくそう思ったのでしょう。ですから後で「イエスはこう言った」と証言できるように、彼らは複数でやってきたのでした。

 もちろん、イエス様は彼らの意図をご存じでした。ですから、彼らの質問に対して「律法に適っている」とも「律法に適っていない」とも答えなかったのです。主は「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されます。彼らは答えます。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」。すると主はこう答えられました。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」。

 そして、律法の書に記されている他の言葉を引用されました。創世記の一章と二章に記されている言葉です。イエス様はそれを要約して語られます。「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。」

 イエス様はあくまでも律法の書を引用して話をします。その意味では、ファリサイ派の人々と同じ土俵に乗るのです。しかし、離縁状の話には乗りません。法的な手続きの話には乗りません。法的な手続きが定められる前から、「結婚」という関係は存在するからです。「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と書かれている。それはモーセを通して律法が定められる前の話です。そこで主は言われます。「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。

 ファリサイ派の人々とのやりとりはここまでです。イエスを試そうとして質問を準備してきた彼らの目論みは失敗に終わったと言えます。しかし、私たちはファリサイ派の人々がイエス様にこんな質問をしてくれたことに感謝したいと思います。といいますのも、ファリサイ派の人々の質問から始まるこの話は、神に向かい、神と共に生きる生活の仕方は二通りに分かれることをはっきりと示しているからです。そして、そのどちらに向かって進むかということは、決して小さなことではないのです。

律法に適っているでしょうか

 その二通りの生活の仕方、二通りの生き方とは何でしょうか。その第一は、ファリサイ派の人々の問いに表れているような生き方です――「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」。それは、神の目や人の目を恐れながら、「どこまでならば許されるのか」を行動の基準として生きる姿です。信仰の歩みが、何が許されるか、何が禁じられているかという線引きばかりを気にするものになってしまう。そういう生き方です。

 先にも言いましたように、彼らは答えを持っていました。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」。彼らが念頭に置いていたのは、次のような申命記の言葉です。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24:1)。

 確かに、夫が妻を離縁することは律法において許されていると言えなくはない。しかし、実はそれほど単純ではありません。「妻に何か恥ずべきことを見いだし」と書かれていたのですが、その「恥ずべきこと」について、当時においても解釈が分かれていたのです。

 シャンマイという有力なラビとその弟子たちは、この「恥ずべきこと」に当たるのは姦淫の罪であると考えました。姦淫の罪を女が犯した時は離縁することが出来る。それ以外は出来ない。それに対して、ヒレルというもう一人の有力なラビとその弟子たちは、よりリベラルな立場を採りました。「恥ずべきこと」には様々な事柄が入る。例えば、食べ物を焦がしたとか、容貌が悪いとかなども、離縁の正当な理由となると論じたのです。今日の視点からすれば人権侵害も甚だしい話ですが、当時としては大真面目な議論だったのです。

 さて、そこで私たちは考えねばなりません。そもそも「離婚は許されるのか」とか「どこまで許されるのか」という議論はどうして起こるのか、ということです。それは離婚したい人がいるからです。離婚したい人がいなければ、そもそもこういう議論は起こらないのです。

 ちなみに、彼らの質問には「夫が妻を離縁すること」しか出て来ません。イエス様は「夫を離縁して他の男を夫にする者も」と言っておられますが、実際には当時は妻から夫を離縁することはほぼあり得い、男尊女卑の時代を背景としている話です。今日とはずいぶん違います。そのような時代には、夫の都合による実に身勝手な離婚がまかり通っていたのです。例えば、それこそ料理を焦がしただけで離縁したがる男がいる。自分の妻よりも美しい女性を見ただけで離婚したがる男がいる。だから、そのような場合の離縁は許されるかどうかという律法解釈の話が出てくるのです。

 そのような人にとって、律法とは自分の望んでいることを制限するものでしかありません。「どこまで許されるのか」ということは、裏を返せば「どこまで制限されているのか」ということです。そして、制限には嫌々でも従うのです。なぜなら神が怖いからです。神の制限を越えるならば罰せられる。許されていないことを行うならば罰せられる。それが怖いからです。

 しかし、「どこまで許されるのか」ということが話題になる世界においては、現実には怖いのは神の目よりも人の目である場合の方が多いのかもしれません。禁止されていることをしてしまうと人の目が怖い。みんなが守っていることを自分だけやぶったら人の目が怖い。だから一生懸命守るのです。だから「どこまで許されるのか」が気になるのです。

 そのような、神の目が怖い、人の目が怖い。宗教的な世界は往々にしてそのような世界になってしまうものなのでしょう。それがあのファリサイ派の人々が生きていた世界だったのです。それが彼らの生き方だったのです。「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」という問いに見られる生き方です。

先行する恵みに応えて生きる
 しかし、イエス様はあのファリサイ派の人々とは全く違う世界に生きていたのです。そして、後の弟子たちもそうでした。それゆえに、この物語が伝えられてきたとも言えるのです。

 先にも触れましたように、イエス様が引用しているのは、創世記1章と2章の言葉です。「天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった」と主は言われるのです。「神は」が先にあるのです。人間の行為の前に、神の行為があるのです。神様がしてくださっていることがあるのです。既に私たちが生きているこの世界そのものが神の御業なのです。神の愛から溢れ出た御業、神の恵みの御業なのです。そのような中に私たちは生きている。その一つの現れが、男がおり女がいるということです。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体になる」。これもまた人間が創り出したことではありません。神の恵みの御業です。

 神の恵みの御業が先にあるのです。ならば本当に大事なのは感謝をもって恵みに応えて生きることです。「神が結び合わせてくださった」という恵みに対する相応しい応答は、「人は離してはならない」ということになるのでしょう。イエス様が言われるとおりです。それは神が禁止しているからそうするのではなくて、恵みへの応答なのです。

 もちろん、この世界には神の恵みに応えていない人間の現実があることもまた事実です。それを聖書は罪と呼びます。ですから、現実には結婚が壊れてしまうことがあります。夫の罪によって、あるいは妻の罪によって、あるいは神の目から見るならば両者の罪によって、ということになるのかもしれません。いずれにせよ、それは結婚の話だけではありません。この世界全体がすべての営みにおいて、神の恵みに応答していないのです。神の恵みに背を向け、天地創造に始まる神の恵みを蔑ろにしているのです。イエス様には、そんなこの世の有り様が映っていたに違いありません。

 にもかかわらずイエス様は「天地創造の初めから…」と神の御業を語られるのです。あくまでも神の恵みの御業が先にあることを語られるのです。そして、神の恵みに応えて生きるように呼びかけられるのです。なぜなら神の恵みの御業は続いているからです。ストップしてはおられないからです。神はこの世を、私たちを、決して見捨ててはおられないからです。さらに言うならば、ここで神の御業について語っておられるイエス様の存在そのものが、神の恵みの御業なのです。そのことが十字架において、復活において、完全に現されることになるのです。

 イエス様が生きておられた世界、そして私たちに手渡してくださった信仰の世界――それは、神の目や人の目を恐れて「何が許されているのか」と問いながら生きる不自由な世界ではありません。そうではなく、先立つ神の恵みに目を向けて生きる世界です。天地創造の御業に始まり、すでに現された救いの御業に至るまで、私たちはその恵みの中に置かれているのです。その恵みに感謝をもって応答しながら歩むことこそ、私たちに与えられた信仰の歩みです。それは「何が許されているのか」ではなく、「何が主に喜んでいただけることなのか」を考えて生きることに他なりません。


2025年10月22日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 20:24~42

 サムエル記上 20:24‐42

 まず、これまでの物語を振り返っておきましょう。サウルはヨナタンにダビデを殺さないと誓いました。ヨナタンは父サウルが誓いを守るものと信じていました。しかし、現実にはダビデはサウルに殺されそうになってラマのナヨトまで逃げていたのです。ダビデはラマから帰って「死とわたしとの間はただの一歩です」と主にかけて誓ってヨナタンに訴えます。ダビデに懇願されたヨナタンは、サウルにダビデを害する意思があるかどうかを確かめることにしました。

 その方法は、ダビデが新月祭の食事に欠席するというものでした。今まで逃れていたダビデも新月祭にはサウルと同席しなくてはなりません。サウルにとってはダビデを殺す好機となります。そのような時にダビデが理由をつけて欠席するならば、サウルは激怒するに違いない。そのことによって、サウルがダビデに危害を加えようとしていることも明らかになります。もしそのような仕方でサウルの殺意が確認されたなら、必ずダビデに知らせ、無事に送り出すことを、ヨナタンは主にかけて誓いました。

 しかし、知らせると言っても、どのようにしたら良いでしょう。サウルが誓いを破り、ダビデを依然として殺そうとしているならば、そのことを知らなかったヨナタンは要するに蚊帳の外に置かれていたことになります。当然、サウルが殺害の意思をヨナタンに明らかにした後でも、ヨナタンはダビデをかばっている者としてマークされることになります。そのようなヨナタンがダビデに接触するならば、ダビデを改めて危険にさらすことになるでしょう。

 要するにヨナタンは、ダビデと直接接触しないでサウルの殺意をダビデに知らせなくてはならないのです。そこでヨナタンが考えた方法は、ダビデが隠れている場所付近に矢を放ち、その矢を取りに行く従者に語る言葉をもって暗号とするというものでした。「矢はお前の手前にある、持って来い」と言ったなら出てきても安全。しかし、「矢はあなたのもっと先だ」と言ったら、ダビデは姿を現わさずに逃げなくてはならない。そう定めたのです。

 先週も触れましたように、サウルの殺意を知りながらダビデを逃がすことは、ある意味でヨナタンにとっても命がけのことだったのです。しかし、もう一方でダビデもヨナタンの誓いの言葉に命をかけることになります。ヨナタンが裏切ったならどうでしょう。誘き出されて殺されることにもなるでしょう。ですからダビデはヨナタンが誓いを破らないことを命をかけて信じるのです。それは単に愛情や友情のゆえではありません。主の御前において契約を結んだからです。主が間におられる。だから互いを重んじ互いを信じるのです。

 そして、今日の聖書箇所に入ります。新月祭の日がおとずれました。その日、ダビデの場所は空席のままでした。聖書は「その日サウルは、そのことには全く触れなかった」と伝えています。その理由については、「ダビデに何事かあって身が汚れているのだろう、きっと清めが済んでいないのだ、と考えたからである」(26節)と説明されています。考えて見ますなら、これは実に皮肉な説明です。そうでしょう。本当に汚れているのは、どちらなのでしょう。

 新月祭の食事は単なる祝宴ではなく、これは祭儀的な食事なのです。当然のことながら、これは主への犠牲奉献に伴う食事です。ですから、汚れが問題になるのです。例えば死体などに触れて汚れを負うならば、そのままでは食事に与ることはできないのです。しかし、ダビデは汚れによって欠席しているのではありません。もとをただせばダビデに対するサウルの憎しみのゆえにダビデは欠席しているのです。

 しかし、憎しみを抱いているサウルは汚れていない者として食事にあずかり、よりによって「ダビデに何事かあって身が汚れているのだろう」と考えたというのです。そして、実に皮肉なことに、そのように考えているサウルの罪が、本当の意味でのサウルの汚れが、この祭儀的な食事の中において明らかにされていくのです。

 新月祭の二日目、再びダビデは欠席しました。ヨナタンはその理由をサウルに説明します。それは内容的には正当な理由でした。しかし、サウルはそれを聞くなり激しく怒り始めます。そして、その怒りの中でサウルの心に秘められていたダビデへの殺意が明らかにされることとなりました。サウルは言うのです。「エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ。すぐに人をやってダビデを捕らえて来させよ。彼は死なねばならない」(31節)。それに対してヨナタンは言い返します。「なぜ、彼は死なねばならないのですか。何をしたのですか」(32節)。

 ここでサウルとヨナタンとの対比が鮮明になります。それはダビデに対する好意と敵意の対比ではないのです。主に向かっているか主に背を向けているかの対比です。以前、サウルにダビデの殺害を思いとどまらせた時、ヨナタンはサウルにこのように語りました。「なぜ、罪なき者の血を流し、理由もなくダビデを殺して、罪を犯そうとなさるのですか」(19:5)。単にダビデが可哀そうだと言っているのではないのです。そこでもダビデが「何をしたのですか」と問うていたのです。つまり、ヨナタンが問題にしているのは、正当な理由なくダビデを殺すことなのです。そのようにして、神の律法に背くことなのです。

 ダビデが神の法に照らして本当に死に当たる罪を犯しているならば、むしろダビデは死ぬべきなのです。もしそうならばヨナタンはダビデが死ぬことに反対しないのです。しかし、もしそうでないなら、ダビデは死んではならないのです。一方、サウルは神のことなど考えていません。彼が挙げた理由は何ですか。それは神の律法とは何の関わりもありません。ダビデが存在することがヨナタンへの王位継承に差し障るということだけです。

 この場面における一連の出来事が示しているのは、この新月祭における祭儀的食事が、サウルにとっては単なる形式的な宗教的儀式でしかないということです。それは神不在の食事です。いや、単に神不在であるというだけではありません。主がダビデと共にあることを認めつつも、なおダビデを殺害して王権を守るということは、とりもなおさず主に対する反逆に他ならないのです。そのようなサウルの姿は、単にこの食事という一場面のことに限りません。これまでもそうでした。そして、彼が死に至るまで変わらないのです。

 このような場面と深く関係していますのは、後に現れる預言者たちによって語られる、王国の祭儀に対する批判です。例えば、主は預言者イザヤを通してこのように語られました。「お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。…お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け」(イザヤ1:14-16)。

 祭儀も祭儀的な食事も本来は主御自身が命じられたものであって、それ自体は大切な意味を持っているものです。しかし、主の関心の中心は祭儀そのものにあるのではありません。その祭儀を行う共同体がどのように生きているかということにあるのです。祭儀を共に行う者同士の間に主がおられるか。そのような関係として生きているかどうかです。ダビデとヨナタンの間のようにです。そこに向かわない単なる形式的な儀式を主は憎まれるのです。

 翌朝、取り決めた時刻に、ヨナタンは従者を連れて野に出ました。彼は矢を射ると、それを取りに行った従者に後ろから声をかけます。「矢はお前のもっと先ではないか。」さらに「早くしろ、急げ、立ち止まるな」と叫びました。そしてヨナタンは従者を去らせます。本来でしたら、このままダビデは誰にも見られることなく去っていくはずでした。サウルの殺意が確認され、ヨナタンから知らされたのですから。そのまま消える方が安全なのです。

 しかし、ダビデはそのまま去りませんでした。危険を承知であえて姿を現わし、地にひれ伏し、三度礼をしました。主の御前で自分を重んじ、誓いを守ってくれたヨナタンに対して最大限の敬意を表します。ヨナタンも、ダビデと直接接触していることが目撃されるなら自らを不利な立場に置くことにもなるのでしょう。ヨナタンにとって、どうでも良いことだったのです。

 彼らは互いに口づけし、共に泣きました。そして、ヨナタンはダビデに言います。「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから」(42節)。彼らはこの後、一度だけ相まみえることを許される他、ついに地上において親しく共に過ごすことはありませんでした。しかし、確かに彼らの間には主がおられました。

 本来ならば主にある麗しい交わりであるはずの祭儀的共食が神不在の修羅場となり、もう一方においてはこの世の権力によって散らされる人々の間に主がおられる。この二つの場面は実に対照的です。教会もまた、宗教的な儀式はあるけれども人間的な思惑だけが支配する神不在の場にもなり得るし、主によって結びあわされ、主が互いの間におられる、ダビデとヨナタンがいる共同体ともなり得るのです。


2025年10月19日日曜日

「神の愛と真実は変わらない」

2025年10月19日 主日礼拝説教 

聖書:ヨハネの黙示録 7:9‐17

ヨハネの見た幻
 今日はヨハネの黙示録をお読みしました。この書物が書かれたのは紀元一世紀も終わり頃であると言われます。それはローマ帝国において皇帝礼拝が強要された時代でした。皇帝を神として礼拝すること、またローマの神々を礼拝することを拒否する者には容赦ない迫害が加えられたのです。それは教会にとってまさに艱難の時代でした。

 そのような時代においてもなお、キリスト者は礼拝のために集まりました。それはある意味では命がけのことでした。信仰を公にせず、隠れて個人的にキリストを信じ、表面的には皇帝を礼拝して生きていけば危険はなかったのです。しかし、彼らはそうしませんでした。共に集まって聖餐を行うこと、共に祈ること、互いに信仰を励まし合うことを、ある意味では自分の命よりも大事なこととして考えていたのです。そして、ヨハネの黙示録とは、そのような人々のために書かれた書物だったのです。

 ヨハネの黙示録の1章には、こんな言葉があります。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(1:3)。そのようにこれは朗読されるために書かれたのです。朗読されるのは、命を賭して皆が礼拝のために集まっている場所においてです。その書物が今日、ここにおいても朗読されているのです。ならば、ある意味では私たち自身の姿勢も問われるのでしょう。共に集まって礼拝することは、私たちにとってどれほど大事なこととされているのでしょうか。それほど尊い恵みであると考えられているのでしょうか。

 今日は、そのようなヨハネの黙示録の第7章が朗読されました。そこには大群衆の姿が次のように描かれています。「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである』」(9-10節)。

 実際にそこに大群衆がいたわけではありません。ヨハネが見ているのは幻です。神が見せてくださった幻です。その大群衆は神の玉座の前と小羊(キリスト)の前に立っていると言われていますから、これは地上の話ではなく、天において礼拝している人々の姿です。ヨハネがそのような幻を見せていただいたのは、「ある主の日のこと」(1:10)であったと書かれています。それはある主の日の礼拝における出来事でした。

 もしかしたらヨハネ一人で捧げていた礼拝だったのかもしれません。ヨハネはその時、パトモス島という島に、島流しにされていましたから。しかし、そこで主はヨハネに天の大群衆を見せてくださったのです。神を礼拝している大群衆を見せてくださったのです。ヨハネは決して一人ではなく、天の大群衆と共に主を讃えて礼拝しているのだ、ということを、主は見せてくださったのです。

大きな患難から抜け出て来た者たち
 そのように神が見せてくださった、礼拝をささげている天の大群衆について、ヨハネは質問を受けました。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」ヨハネは答えました。「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」。すると次のような言葉が返ってきました。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。

 「彼らは大きな苦難を通って来た者だ」。別の翻訳ではこうなっています。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」(7:14新改訳聖書)。実は、この方がむしろ直訳に近いのです。もう一回お読みします。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」

 ヨハネが目にしていた人々が、特に「大きな患難から抜け出て来た者たち」と表現されていたことが重要です。それは迫害の時代を背景としていることを考えるとよく分かります。

 教会は神の愛とキリストの救いを宣べ伝えているのです。しかし、そのような教会に現実には苦難が次々と襲いかかってくるのです。迫害の中で無残に殺されていく人々がいるのです。現実を見る限り、そこにおいて神の助けは全くないかのように見えるのです。神は本当におられるのか。神は本当に真実な御方なのか。その神を信じることに意味はあるのか。そう問わざるを得ない状況がそこにあるのです。

 しかし、そこで神はヨハネに幻を見せたのです。目に見えるところによるならば、患難の中で神の助けも守りもないままに無残に殺されていったように見えるかもしれない。しかし、その彼らが、なんと天において大声で神を誉め讃えているのです。そして、彼らはこう呼ばれているのです。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たち」であると。

 ここには驚くべき逆説が語られています。この世的に見るならば、患難の中において神の守りはなかったように見える。神に守られず殺されてしまった人々は、この世的に見れば、神から見捨てられたように見えたかもしれません。しかし、実はそうではなく、神に完全に守られて、むしろ患難から取り出されたのだというのです。そして、彼らは神の玉座の前にいるのです。彼らは神に近いところにいるのです。守られなかった?とんでもない!彼らは神の近くに、玉座の近くに招かれていた人たちなのです。

 そして、こう書かれています。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(17節)。

 玉座の中央におられるのは小羊です。しかし、その御方はまたまことの牧者、羊飼いでもあります。ここで詩編23編を思い起こす人も多いかもしれません。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、 魂を生き返らせてくださる」(詩編23:1-3)。葬儀においても良く読まれる詩編です。そこに歌われていたことが、まさに天において実現しているのをヨハネは見たのです。まことの羊飼いによって命の水の泉に導かれた人々がそこにいるのです。地上の苦しみの中で飢え渇き求めていた本当の命はそこにおいて豊かに満たされるのです。

 そして、神御自身が涙の涙をことごとくぬぐってくださる。「ことごとく」です。全部です。すなわち流された涙のすべてを神は知っておられるということです。その全てを、ぬぐい取ってくださる。流した涙の全てが、ことごとく報われるのです。

小羊の血によって
 そのような天の大群衆をヨハネは見せていただいたのです。そして、彼らについては殊更に「白い衣を着た者たち」と書かれています。なぜ彼らは白い衣を身に着けているのでしょう。14節にはこう書かれています。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(7:14)。そのように、その衣は小羊の血によって白くされたのです。

 先ほどから、迫害の時代に大きな苦難を受けた人々の話をしています。しかし、彼らは殉教したから白い衣を着ているのではないのです。苦難を耐え忍んだから白い衣を着ているのではないのです。それは小羊の血によるのです。小羊の血とは、私たちの罪のためにキリストが流してくださった罪の贖いの血潮です。そこに語られているのはキリストの血による罪の赦しなのです。 天において「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」と大声で賛美している人々は、キリストの血によって罪を贖われた人々なのです。

 その意味においては、ここにいる私たちも同じです。私たちもまた、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。それ以外には白くしようがないのです。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」。その通りです。私たちはただそれを受けるしかないのです。

 だからこそヨハネの見たこの幻は、時代を超えて代々の教会を通して伝えられてきたのです。この地上の生活において、神の愛と真実は時として見えなくなることは、迫害の時代ならずとも、いつの時代でもあるからです。辛いことが続く時、祈っても事態は何も変わらないように見える時、なんでこんなことが起こるのかと思えるようなことが起こる時、神の愛と真実が見えなくなる。そのようなことはあるのです。

 しかし、ヨハネが見せられたように、そして教会に書き送ったように、神の愛と真実とは始めから終わりまで貫かれているのです。神は真実な神であり続けておられるのです。苦難の黒雲は神の真実という太陽を覆い隠す時があるかもしれません。しかし、太陽が無くなるわけではないのです。神の真実は変わらない。やがて患難から抜け出た者たちとして、神によって涙をことごとくぬぐわれて、はっきりとその事実を見る時が来るのです。ヨハネが見せられたあの大群衆のようにです。

 ならばこの地上において礼拝している私たちにとって大切なことは何なのでしょうか。見えないならば、信じることです。神の真実が目に見えない時こそ神の真実を信じることです。神の愛が見えなくなった時こそ、キリストの十字架において表された神の愛を信じることです。そして、信仰に踏みとどまることなのです。

 疑いと恐れに心を支配させてはなりません。そのために神はヨハネに幻を見せました。そのためにヨハネは教会に書き送りました。そのために教会はこの書を二千年近くの長きにわたって伝えてきました。そのようにして、私たちもまた同じ信仰の言葉を耳にしているのです。私たちが信仰によって生きるためです。

2025年10月15日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 20:1~23

 サムエル記上 20:1-23

 前の章において、私たちはサウルがヨナタンの言葉を聞き入れ、「主は生きておられる。彼を殺しはしない」(19:6)と誓ったことを読みました。しかし、「主は生きておられる」という誓いの言葉は、サウルにとっては形式的な誓いの表現に過ぎなかったのです。彼は本当に「主は生きておられる」とは思っていない。あるいは正確に言うならば、そう思いたくないのです。「主が生きておられる」ことを否定したいのです。ですから、その誓いの言葉は簡単に破られてしまいます。サウルは再びダビデを亡き者にするために画策するようになりました。彼は発作的にダビデを槍で突き刺そうとしただけでなく、彼を殺すためにダビデの家に刺客を送り込んだのです。その時にはミカルの助けによって難を逃れたのでした。こうしてダビデはラマのナヨトにまで逃げていかなくてはなりませんでした。そこでまことに不思議な仕方でダビデが守られたことを私たちは見てまいりました。今日はその続きです。

 ダビデはラマから戻るとヨナタンに会って問います。「わたしが、何をしたというのでしょう。お父上に対してどのような罪や悪を犯したからといって、わたしの命をねらわれるのでしょうか」(1節)。これに対してヨナタンは「決してあなたを殺させはしない」と答えます。しかし、これは直訳すると「決してそのようなことはない。あなたは死ぬことはない」と書かれているのです。話の流れからすると、明らかにヨナタンはサウルが誓いを破ったことを知らないのです。(「決してあなたを殺させはしない」と訳してしまうと、ヨナタンがサウルの殺意を知っていることになるので、適当ではありません。もはやサウルの殺意を確かめる必要はないので、今日の箇所に書かれていることは意味がなくなります。)

 サウルが刺客まで送り込んでいるのに息子のヨナタンが全くこれを知らないということは驚きですが、ダビデが3節で指摘しているとおり、ダビデ殺害の計画をヨナタンに気付かれないように、サウルは細心の注意を払っていたものと思われます。ヨナタンとダビデの親しい関係を知っていたからです。ということで、ヨナタンは依然として父サウルが誓いを守るものと信じているのです。

 それに対して、ダビデもまた主の御前に誓いを立て、確かにサウルに命を狙われていることを訴えるのです。「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。死とわたしとの間はただの一歩です」(3節)。こうしてヨナタンは二つの誓いの狭間に立たされることになりました。ヨナタンはまだサウルを信じています。しかし、ダビデをも信じているのです。それゆえに、どちらが真実であるのか、確かめざるを得なくなりました

 そこでヨナタンはダビデに「あなたの望むことは何でもしよう」と言います。そこでダビデが提案したことは、新月祭の食事にダビデが欠席するというものでした。もしサウルがひどく立腹するならば、ダビデに危害を加えようとしていることが分かるからです。そこでヨナタンもまた誓いを立てます。サウルがもしダビデに危害を加えようと決心していることが分かったら、必ずダビデに知らせることを誓うのです。「父が、あなたに危害を加えようと思っているのに、もしわたしがそれを知らせず、あなたを無事に送り出さないなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰してくださるように」(13節)。

 さて、このヨナタンの誓いは、ダビデとヨナタンとの関係がいかなるものであったかを示していると言えるでしょう。もしサウルが誓いを守る意思がないことが判明し、しかもヨナタンがこの誓いを守ろうとするならば、ヨナタンは極めて難しい状況に置かれることになります。つまりサウルがダビデを殺そうとしているのに、ヨナタンがそれでもなお主に対する誓いを守ってダビデを助けようとするならば、自らの命を賭けることになるでしょう。しかし、それこそがダビデとヨナタンとの関係だったのです。それは単なる愛情や友情という言葉で表現され得ないものです。それは繰り返し「契約」と表現されているのです。その契約は「主の御前で」(8節)結ばれたものに他ならないのです。

 この世における自然な関係においては、常に相手が「私にとってどのような存在か」が問題になります。私にとって都合の悪い存在であれば、サウルにとってのダビデのように、抹殺の対象とさえなります。それは親子のような血縁関係でも同じです。子供はしばしば親にとって自分自身の延長でしかありません。サウルにとってのヨナタンもそうでした。サウルにとってヨナタンが王位を継承しないことは、自ら王位から退けられることに等しいのです。ですから来週読む箇所ですが、自分の延長であるヨナタンが自分の思い通りにならなければ、ヨナタンに対して槍を投げつけることさえするのです(33節)。親子でさえそうですから、ありとあらゆる関係において同じことが言えます。

 一方、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛したと書かれていますが(18:1)、しかし、それはこの世の自然の関係としてではなく、主の御前における契約という形を取ったのです。すなわち「わたしとあなた」という直接的な関係ではなく、主が間におられる関係であるということです。「主がとこしえにわたしとあなたの間におられる」(23、42節)と語られているとおりです。主が間におられる関係においては、「私にとってどのような存在か」が重要なのではなく、相手が「主にとってどのような存在か」ということだけが重要となるのです。

 さて、そのような主が間におられる関係、主の御前における契約の関係ということで思い起こされるのは、キリストの血によって立てられた新しい契約に基づく契約共同体でしょう。すなわち教会です。ここにいる私たちの関係です。私たちを本質的に結びつけているのは、この世における愛情や友情の類ではありません。もちろん、それらは大事ですが第一のものではありません。私たちは主の御前における契約によって結ばれているのです。私たちの間には主がおられるのです。ですから、「私にとってどのような存在か」が重要なのではなく「主にとってどのような存在か」が重要なのです。すなわち互いをイエスの血によって贖われた人として見て重んじるのです。

 ダビデとヨナタンの間はそのような契約によって結ばれていました。ですから、一見すると驚くような言葉がヨナタンの口から発せられることになるのです。彼はダビデに言いました。「主が父と共におられたように、あなたと共におられるように」(13節)。この場合、「主が共におられる」ということは抽象的なことではなく、王位にあることを意味していると考えて良いでしょう。サウルはまぎれもなく神によって選ばれた王であり、神によって立てられた王であり、神が共におられたゆえに王であり得たのです。そして、「あなたと共におられるように」という言葉をもって、ヨナタンはダビデが王位を継承することを承認しているのです。

 つまり、サウル王家は一代で終わり、ダビデ王家がこれに取って代わるということです。後にヨナタンはもっとはっきりとこのことを述べています。「恐れることはない。父サウルの手があなたに及ぶことはない。イスラエルの王となるのはあなただ。わたしはあなたの次に立つ者となるだろう。父サウルも、そうなることを知っている」(23:17)。これがダビデとヨナタンが交わす最後の言葉となるのです。

 さらにヨナタンはダビデが王となる時に、ヨナタンが生きていても死んでいても、ヨナタンの家系に慈しみを断たないで欲しいと懇願します。古代世界において王朝が交替する時、前の王朝の家族が皆殺しにされるということは決して珍しいことではなかったからです。そうでなくては、現王朝が安定した基盤を持つことはあり得ないでしょう。ですから本来ならサウル王家は皆殺しにされる。しかし、ヨナタンは子孫を滅ぼさないで欲しいと今から願っているのです。ここからも、ヨナタンがダビデが未来の王となることを承認していることがわかります。

 滅び行く王家の王子であるヨナタン。次に王位に着くことになるダビデ。この二人の関係は、この世的に見るならば、とうてい共に立ち得ない厳しい関係です。しかし、そこに肉親との交わりよりも麗しい交わりが存在していたのです。それは主の御前における契約のゆえでした。まさにそれは主によってのみ成り立つ交わりでありました。主の食卓を囲む教会の交わりとは、本来そのようなものであることを改めて考えさせられます。

2025年10月12日日曜日

「神は公平?不公平?」

聖書:マタイによる福音書 20:1-16

風変わりな主人
 今日お読みしたのは、イエス様の「天の国」のたとえです。天の国の話の中で「主人」が出て来たら、それは神様のことです。神様はどのような御方かを教えているたとえ話です。

 主はこのように語り始めました。「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った」(1‐2節)。ここに描かれているのは、ぶどうの収穫時期に見られる、ごくありふれた風景です。

 収穫の時期には多くの労働者を必要とします。雨期に入るまでの短い期間に収穫を完了しなくてはならないからです。そこでぶどう園の主人は、できるだけ多くの良い労働者を得るために、夜明けと共に出かけました。日雇いの労働者が集まる広場へと向かったのです。彼は元気に働きそうな人々を見定め、それぞれに一日一デナリオンの賃金を約束して雇い入れました。これは当時の日当の相場であり、極めて常識的な契約です。ここまでは、どこにでもいそうな農園の主人の話です。

 しかし、ここから先になりますと、この主人は少々奇妙な行動を取り始めます。彼はわざわざ朝早くに出かけて行って、必要な労働者を雇ったはずではありませんか。ところがこの主人は再び九時頃、広場へと向かうのです。そこで仕事にあぶれた人たちを見つけます。彼はその人たちにも相応しい賃金を約束して雇い入れました。よほど豊作で人手が足りなかったのでしょうか。しかし、それにしても、十二時頃、三時頃にまた出かけていき、ついには五時頃にもう一度広場に行くという行動は理解できません。明らかに常軌を逸しています。五時頃雇って、僅か一時間ばかり働かせて、いったい何になるというのでしょう。

 このようにこの主人は、まるで農園の収穫のためではなく、労働者を招いて雇い入れること自体が目的であるかのように振る舞うのです。そのためにせっせと足繁く広場に足を運ぶのです。まことに風変わりな主人であると言わざるを得ません。

 しかし、話はそれで終わりません。物語はさらに異常な展開を見せることになります。「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った」(8節)。これだけ見てもおかしな話です。一日中暑い中を辛抱して一生懸命働いてきた最初の者たちをまずねぎらって賃金を払ってやるのが筋というものでしょう。

 しかも、この主人はわずか一時間しか働かなかった者に対して一デナリオンも払ってやったのです。よほど気前の良い主人だと思いきや、そうではなくて最初の者にも支払ったのは一デナリオンだけでした。どう考えても不公平です。

 当然、最初に雇われた者たちは不平を言いました。「『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは』」(12節)。最初の者たちが怒るのも無理ないでしょう。

 これが天の国のたとえです。天の国の主人、神様の描写です。まことに風変わりな主人であると言わざるを得ません。しかし、考えて見ると、イエス様の話に変わった主人が登場するのは、何もこの話だけではありません。二週間前にお読みした箇所にも、一万タラントン(今のお金に換算すると約六千億円)の借金を帳消しにしてやった王様が出て来ました。無茶苦茶な話です。

 イエス様は、このような変な人が登場する話を「天の国のたとえ」として語るのです。要するに《神様は変な方だ》と言っておられるのです。「神様はあなたたちが常識的な頭で思い描くような神様ではないのだ」と言っておられるのです。

 神様は、まる一日暑さを辛抱して一生懸命働いた者にも、わずか一時間ばかり夕暮れの涼しい時に働いた者にも、同じものを与えられる神様だというのです。一生懸命仕えた者にも、そうでない者にも、同じものを与えられる神様だというのです。神様のために一生を捧げて労苦した人も、ほとんど神様のために何もしてこなかった者も、最終的に受けるものは変わらないのだというのです。

五時からの労働者
 「ならば、人生好き勝手に生きて、最後の部分でちょこちょこっと神様に仕えて、それで同じものをいただいた方が良いではないか」――そんなふうに思う人がいても不思議ではないでしょう。しかし、そのようなつまずきに満ちた話をイエス様はあえてなさるのです。なぜでしょう。それは「まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたち」と思っている人がたくさんいたからです。さらには「最後に来たこの連中は!」という目で他の人を見ている人がたくさんいたからです。

 そんな人物が先週読んだ聖書箇所にも出てきました。金持ちの青年です。彼はイエス様の所に来ていいました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」こういう質問というのは、自分がある程度、善いことを積み重ねてきたと思っていなければ出て来ません。案の定、イエス様が、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい』」と律法の一部を列挙すると、彼は言うのです。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」

 そのように、「わたしはやってきました!」と自信を持って言える彼でした。明け方に雇われ、明け方から一日汗水流して働いてきた者の意識です。しかし、そんな青年にイエス様はこう言われたのです。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」。金持ちの青年はこの言葉に打ちのめされて帰っていきました。

 しかし、そこで、さらに輪をかけて「わたしはやってきました」と思っている人物が口を開くのです。ペトロです。彼は言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(19:27)。実は、そのように思っていたのはペトロだけではなかったのです。弟子たちの間では、いつでも「誰が一番偉いのか」という議論が絶えなかったのですから。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(18:1)と。

 そこにあるのは「わたしはやってきました」という者たちの争いです。「わたしは認められるべきだ。わたしは報いられるべきだ」という者たちの争いです。互いを比べ合っての争いです。

 それはある意味でとても分かりやすいと言えます。私たちも現実に、そういう世界に生きていますから。労苦は比較されるのです。功績は比較されるのです。まる一日、暑い中を辛抱して働いた人たちと最後に来て一時間しか働かなかった連中は比較されるのです。それがこの世界では当然のことなのです。だから、私たちにとって、最初に雇われた人たちの不平もたいへん分かりやすい。そういう世界に生きていますから。

 しかし、このたとえ話によって、私たちはお互いの比較の世界から、絶対的な神の御前に引き出されるのです。このたとえ話の主人は言うのです。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか」と。これが答えなのです。この話は、そのような主人の話なのです。そのような神の話なのです。神の御前にいるということは、そのような絶対的な神の主権の前に身を置いているということです。私たちが礼拝の場所に身を置いているとはそういうことなのです。

 そして、そのような礼拝の場においてこそ、人は神の恵みをも知ることができるのです。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか」と言われる主人はまた、こう言っていましたでしょう。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。神がしたいようにされるのです。恵みたいように恵まれるのです。

私たちにも一デナリオンをくださる
 そして、このたとえにおいて語られているような、絶対的な主権をもって恵まれる神こそ、私たちに救い主イエス・キリストをお送りくださった神であり、私たちをも救ってくださる神なのです。

 考えてみてください。そもそも話は、あの青年の質問から始まっていたのです。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。ならばこの1デナリオンが本来指し示しているのは、永遠の命であり天の御国における救いであるはずです。

 であるならば、どうでしょう。自分の働きの報酬として、永遠の命を要求できる人などいるのでしょうか。私はそれを得るために十分な働きをしてきましたと言える人はいるのでしょうか。私こそ天の御国にふさわしいと言える人などいるのでしょうか。いないだろうと思うのです。私たちは時として、神様のために大層なことをしてきたかのように思い上がっているかもしれませんが、実際には、この《最初に雇われた人》の位置に自分を置いてこの話を読める人など、一人もいないはずなのです。

 この話を読む時に、私たちが本来身を置くべきところは、この「五時ごろに雇われた人たち」のところです。皆さん、私たちは皆、やがて本当に知る時が来るのです。私たちが本当は「五時ごろに雇われた人たち」であることを知ることになるのです。本当は神様のために何もできていなかった。いやそれどころか、神様の心を痛めるようなことしかしてこなかった自分であることを知ることになるのです。

 その時に、私たちは神の恵みの大きさをも知ることになるでしょう。あの主人が何度も広場へと足を運んだように、神様が人間を神のぶどう畑へと招くために労苦して、手を尽くしてくださり、最後には落ちていた石ころを拾い上げるかのように、こんな私たちをも拾い上げ、ぶどう園へと招いてくださった。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言ってくださった。既に1デナリオンを用意して!

 そして、この天の国のたとえに語られていることが起こるのです。天の父なる神が、五時に雇われた労働者である私たちに、1デナリオンをくださるのです。私たちは、見合うようなことは何もしていないのに、天の父が1デナリオンをくださるのです。その時私たちは驚きをもって心の底からこう叫ぶことでしょう。「わたしたちは神の恵みによって救われました」と。


2025年10月8日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 19:1~24

サムエル記上 19:1~24

  サウルはミカルを与えるとの約束をもってダビデに無理な戦いを強い、自分で手を下すことなくペリシテ人の手によってダビデを殺害しようと試みました。しかし、その試みは失敗に終わったのみならず、ミカルを与えざるを得なくなったことで、かえってダビデを王位継承権を持つ一人にしてしまうという皮肉な結末となったのです。しかもその戦いによってダビデの名声はいよいよ高められることとなりました。

 追い詰められたサウルはついに直接息子のヨナタンと家臣とにダビデ殺害を指示するに至ります。もちろんイスラエルの人々はダビデを慕っているわけですから、公に殺害するわけにはいきません。あくまでも内部の人間だけに出された極秘の命令ということだったのでしょう。もはやダビデの命は風前の灯でした。

 しかし、命を狙われたダビデは、まさにその内部の人間によって、すなわちヨナタンによって、また妻のミカルによって助け出されることになるのです。そして、さらには不思議なことに、もはや政治的・軍事的な力は何も持たなくなっていた、あのかつての士師サムエルによって、ダビデの命は守られるのです。それがこの章に記されている出来事です。

 サウルが息子のヨナタンにもダビデを殺すよう命じたところをみると、この時点において、サウルはまさかヨナタンがダビデの側につくことを予想してはいなかったものと思われます。どんなにヨナタンがダビデと親しかったとしても、ヨナタンはあくまで王位継承第一位にある王子だったからです。サウルは、もちろん自分の王位が脅かされることについて恐れてはいたに違いありませんが、それにもまして、ダビデの殺害は息子のためであるという思いが強かったことでしょう。ダビデが勢力を持てば、ヨナタンの王位継承が脅かされることになるからです。それは後に20:21でサウルが語っているとおりです。

 しかし、ヨナタンはダビデの側につきました。彼はダビデの命が狙われていることを本人に知らせます。「わたしの父サウルはあなたを殺そうとねらっている。朝になったら注意して隠れ場にとどまり、見つからないようにしていなさい。あなたのいる野原にわたしは出て行って父の傍らに立ち、あなたについて父に話してみる。様子を見て、あなたに知らせよう」(2‐3節)。

 そして、さらに自らはサウルの説得にまわります。ダビデは何ら死に値する罪を犯してはいないこと、むしろサウルにとって大変役に立っていること、などの理由を挙げて、そのダビデを殺害することは罪を犯すことになると、ヨナタンは父サウルに忠言したのです。

 驚いたことに、サウルは素直にヨナタンの言葉を聞き入れます。ヨナタンがダビデをかばう場面は20章にも出てきますが、19章と20章では、その反応が著しく異なります。この時点では、ヨナタンがダビデをかばって語ることは、サウルにとってはまったく想定外の意表を突く出来事だったからかもしれません。また、ここはヨナタンの手前、一度命令を引っ込めておいた方が有利であると考えたのかもしれません。後でヨナタンに知られないような形でダビデを確実に亡き者にしようとしたのでしょう。

 しかし、そこにいかなる思惑があったにせよ、ここでサウルがヨナタンの言葉を聞き入れて、とにかくも「主は生きておられる。彼を殺しはしない」と誓ったことは極めて大きな意味を持っています。「主は生きておられる」というのは、誓約する時に用いる定型的な決まり文句です。その意味するところは、誓いをもし破ったら、生きておられる主が幾重にも罰してくださってよいという意味です。すなわち、主によって呪われてもかまわないという意味です。

 ここで確かにサウルはそのように語っているのです。しかし、そのような伝統的な言葉は、彼にとってあくまでも形式でしかありません。本当の問題は、サウルにとって、主は「生きておられる主」ではないところにあるのです。その問題性は、既に前の章でサウルがダビデに「主の戦いをたたかってくれ」(18:17)と言っているところにも現れております。サウルはそれが「主の戦い」であるとは思っていないのです。いや、思いたくないのです。むしろ「主の戦い」であることを否定するためにそう言ったのです。「主の戦い」に出て行ったダビデが戦死すれば、主が介入される「主の戦い」であることを否定できるからです。

 そのようなサウルの誓いの言葉ですから、いとも簡単に破られてしまいます。サウルに悪霊が降った時、サウルは自らの手でダビデを殺そうとしました。そして、誓いを破ったから主から罰せられるとは思っていないのです。あるいはまだ殺してはいないから、厳密には破ってはいないという言い訳もあったかもしれません。いずれにせよ、誓ったことを反故にしたことについては、全く意識にも上らないのです。

 一方、ダビデの方はと言えば、驚いたことに、サウルの誓いをそのまま信じて職務に戻るのです。ダビデは、かつて自分が殺されそうになったサウルの館で、再び彼の傍らにおいて竪琴を奏でます。単なる形式に過ぎない「主は生きておられる」という言葉は、ダビデにとっては、いわば命のかかった言葉でありました。彼は、「主は生きておられる」という言葉に命がけの信頼を置いて職務に戻ったと言えるでしょう。結果的には再び槍で突き刺されそうになります。しかし、生ける主はダビデを守り通されるのです。

 重要なことは、誓ったサウルが本当に「主は生きておられる」と考えていたかどうかではありません。事実として、主が生きておられるのか否かが重要なのです。そして、生きておられる主は、確かにサウルの言葉を聞いておられたのです。また、ダビデがサウルの誓いの言葉を、まさに誓いの言葉として受け取って、主に信頼して職務に戻ったことを見ておられたのです。そうです、人間が認めようが認めまいが、主は生きておられるのです。人はその事実をこそ恐れるべきなのです。

 結果的にはダビデは再びサウルの槍を逃れることとなり、即座に自分の家に戻ります。サウルはダビデの家に使者を遣わして彼を見張らせました。朝になったら捕らえて殺すためでした。民衆に知れないように、秘密裡に殺害しようと企んだのです。しかし、ミカルは家を見張るサウルの使者に気付いたのでしょう。ダビデを夜のうちに逃がします。

 ちなみに、詩編59編には「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき」という表題が付いています。この詩編は夜逃げをしたあのダビデの中に神への揺るぎない信頼を見て、その信仰を歌い上げているものです。一方では主に信頼して多くのペリシテ人に立ち向かう戦う人ダビデがいます。一方では、ただ逃げるしかない逃亡者ダビデがいます。しかし、聖書はそこに同じ信仰を見ているのです。

 ダビデはどこに向かったのでしょうか。ラマのサムエルのもとに行きました。彼は預言者の間においては指導的な立場にいたようですが、先にも申しましたように、政治的な力はとうに失っておりました。そこにダビデを守ることのできる武装集団がいたわけでもありません。彼がサムエルのもとに赴いたということは、かつて自分に油を注いでくださった主をただひたすら純粋に慕い求めたということでしょう。それ以外にサムエルのもとに赴く理由はありませんから。

 そしてダビデの信仰に主は応えてくださいます。主ご自身が直接的にダビデを守られた次第がここには大変ユーモラスに描かれています。サウルはラマのナヨトに使者を遣わします。すると、神の霊がサウルの使者の上に降って預言する状態、すなわちいわば恍惚状態になったのです。ダビデを殺害するために来たものがむしろ神に捕らえられてしまったということでしょう。そのようなことが三度続きまして、ついにサウル自身がラマに向かいます。

 そこでサウル自身にも神の霊が降り、預言する状態になったまま、ラマのナヨトまで歩き続けます。彼は、一昼夜、サムエルの前に裸のままで倒れておりました。そのゆえに「サウルもまた預言者の仲間か」ということわざができました。

 このことわざには見覚えがありますでしょう。10章12節です。それはサウルに初めて神の霊が降ったときのことでした。神の霊が降り、王として備えられつつあった、祝福に満ちた時が、かつてこの人にもあったのです。しかし、今や、その預言する状態にある姿は同じでありましても、そこにいるのは必死で自分の王位にしがみつき、王位を脅かすものをなんとか抹殺しようとしているサウルでしかないのです。主の祝福の中に留まり得なかった者の悲哀に満ちた姿がそこにあります。


2025年10月5日日曜日

「神に愛されている子どもたちとして」

2025年10月5日 主日礼拝説教 

聖書:マタイ19:13‐26

永遠の命を得るには
 一人の男がイエス様のもとに来てこう尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)。

 この男は何者でしょう。22節では「青年」と呼ばれています。また、「たくさんの財産を持っていた」(22節)とも書かれています。他の福音書によれば、彼は最高法院に議席を持つ「議員」でもあったようです。彼はユダヤ人として、モーセの律法については、「みな守ってきました」(20節)と言っています。そのような言葉に、彼の生い育ってきた家庭環境が伺えます。ユダヤの伝統的な堅実な家庭に育ち、敬虔な父母のもとにあって、幼い時から良い宗教教育を受けてきた人なのだと思います。

 ある意味では、人々が望む多くのものを既に手にしていた人でした。彼には若さがありました。財産もありました。地位も名誉も得ていました。良い家庭環境にも恵まれていました。このような人を世の中では幸福な人と呼ぶのでしょう。

 しかし、彼のはわかっていたのです。この世で目にするもの、手にするものが全てではない。どんなに良いものであっても、それはみな過ぎ去るものだ。本当に良きものはまだ見ていない。まだ手にしていない。本当の喜びをまだ私は知らない。本当の幸福をまだ私は知らない。味わっていない。それは天において神によって、過ぎ去らない永遠なるものとして備えられている。――それを聖書は「永遠の命」と表現するのです。彼はまだ見ていない、手にしていない、味わっていない、神が与えてくださる完全な救い、「永遠の命」を求めてやまなかったのです。

 その「永遠の命」を得るにはどうしたらよいのか。彼はその答えを求め続けてきたのでしょう。そして、そのような彼の前に、ナザレのイエスと呼ばれる人物が現れたのです。このラビは他のラビとは全く違う。この先生こそ、答えを持っているに違いない。ついに彼は意を決して、イエスのもとを訪ねました。彼は勇気を振り絞って、一つのことを問うためにやってきたのです。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。

 しかし、驚いたことに、イエス様の口から返ってきたのは何ら特別な答えではありませんでした。「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」(17節)。そして、イエス様は挙げられたのは、十戒のいくつかと、レビ記の言葉だけでした。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」。――そんなことなら、どこのラビでも言いそうなことです。しかし、この人は、なんとかして本当の答えをイエス様の口から引き出そうと粘ります。彼は言いました。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」。

 この人は本当に知りたいのです。何をしたらよいかを知りたいのです。どんな善いことをしたらよいかを知りたいのです。涙が出るほど真面目な人です。しかし、その人に対して、イエス様はこう言われたのでした。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。イエス様の言葉はこの青年の肺腑をえぐりました。この青年は、もうそれ以上主に問うことなく、悲しみながら立ち去って行きました。

 よりによって、この裕福な青年にとって最も行うことが困難であると思えることを、あえて主は求められたのです。彼に対する意地悪でしょうか。いいえそうではありません。マルコによる福音書では、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」(マルコ10:21)と書かれているのです。意地悪ではない。彼を愛するが故に言われた言葉でした。では、イエス様の意図はどこにあったのでしょう。

「善いこと」ではなく「善い方」
 そこで私たちはもう一度、青年とイエス様との対話の最初に戻りたいと思います。この人がイエス様に尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。それに対して、イエス様はすぐに「どうしたらよいのか」を答えておられないのです。その前に奇妙な一言が置かれているのです。

 「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」(17節)。――変だと思いませんか。この人は「善いこと」について尋ねているのです。それに対してイエス様は「善い方はおひとりだ」と言われる。明らかに食い違っています。しかし、この食い違いこそが決定的に重要なことを示しているのです。

 この人は為すべき「善いこと」に関心があるのです。なぜですか。その「善いこと」をもって「永遠の命」を得ようとしているからです。言い換えるならば、神様と取り引きをしようとしているからです。自分の行う「善いこと」をもって、いわば「永遠の命」を買おうとしているのです。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」とは、そういうことです。

 しかし、イエス様は、「どんな善いことをすればよいのか」を教えるために来られたのではないのです。神様との効果的な取り引きの仕方を教えるために来られたのではないのです。そうではなくて、ただひとりの「善い方」を指し示すために来られたのです。私たちが、ただひとりの「善い方」と共に生きるようになるために来られたのです。

 神が「善い方」だということは、言い換えるならば、私たちを愛していてくださる、愛なる御方だ、ということです。神は私たちを愛して、本当に善きものを豊かに与えたいと思っておられる。本当の喜び、本当の幸い、完全な救いを与えようとしておられる。永遠の命を与えようとしておられる。そのためには独り子さえもこの世に遣わされ、罪の贖いとして十字架にだっておかけになる。――「善い方」であるとは、そういうことです。そのような「善い方」である神を私たちが知り、そのような神の子どもたちとして、「善い方」共に生きるようになるために、イエス様は来られたのです。

 この青年にも、自分の為しえる「善いこと」ではなく、「善い方」の方に向いて欲しかったのでしょう。だからあえて主は、この人にできそうもないことを言われたのです。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(21節)。神様との取り引きを推し進めて行くならば、ここにまで至るのです。

 自分で買おうと思うならば、全額支払わなくてはならない。いや、たとえ全財産を売り払って、貧しい人々に施したとしても、それで永遠の命が買えるわけじゃない。ですからイエス様は「そうすれば永遠の命を得られる」とは言われませんでした。「そうすれば、天に富を積むことになる」と言われただけです。神の救いは、人間の善い行いで買えるほど安物ではないのです。

 そうではなく、救いは「善い方」からの一方的な恵みとして来るのです。大事なのは、神様が「善い方」だと知ることなのです。「善い方」を信じることなのです。「善い方」と共に生きて行くことなのです。

 この話の直前には、イエス様が子供たちを祝福したという話が出ていました。イエス様はその時こう言われました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」(14節)と。子供たちは神様と取り引きなどしないのです。「これだけのことを神様のためにしました」と胸を張ったりしないのです。

 ただイエス様によって手を置いてもらって、神様に愛されていることを思いながら喜んでいる子供たち。目に見えるようではありませんか。こんな風に、私たちも「善い方」に信頼して、すべてを善意で満ち溢れている神の御業として受け取りながら、「善い方」の子供たちとして共に生きていくことこそ大事なのでしょう。

 それが私たちに与えられている信仰生活なのです。週毎に集めていただき、共に礼拝をささげ、共に聖餐にあずかり、神に愛されている子供たちとしてこの世界に出て行く。そして、どこにあっても、どのような状態に置かれても、一日一日「善い方」と共に生きて行く。そのような生活が既に与えられているのです。

 あの青年が悲しみながら立ち去った時、イエス様は弟子たちにこう言われました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(23‐24節)。

 「金持ち」とありますが、これは「富んでいる者」という言葉です。ですから、何も財産のことだけではありません。むしろこの人の場合、神様と取り引きができるくらい富んでいたのは、小さい頃から積み重ねてきた律法の行いと善行だったのかもしれません。彼はそれを手放して、何も神様に差し出すものがない、あの子供たちのようになる必要があったのです。そこでこそ、イエス様がこう言われた言葉が意味を持つのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。そうです。神様にはおできになる。人間を救うことも、永遠の命を与えることもおできになる。そして、神様はそうしてくださる。神様は善い方だから。

 そして、本当に私たちが為すべき「善いこと」というのは、「善い方」と共に生きる生活から生み出されてくるものなのです。本日の第2朗読にもありました。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(エフェソ5:1‐2)。

 そのとき、ある場合には、イエス様が言われたように、全財産を処分して貧しい人々に施すということももしかしたら自発的に起こってくるかもしれない。様々なものを主の御名のために捨てることも起こってくるかもしれない。そのとき、その「善いこと」は、もうそれは、神との取り引きの代金などではないのです。

2025年10月1日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 18:17~30

 サムエル記上 18:17‐30

 前回見ましたように、ダビデの台頭は兵士たちやサウルの家臣をはじめ、イスラエルの多くの人々に好意的に受け入れられました。しかし、そのような中でサウルだけはダビデへの敵意を募らせていきました。その敵意はついに具体的な行動として現れ始めます。はじめは発作的に槍を振り上げるというものでしたが、次第にそれはエスカレートし、本日の箇所に見るように、策略を用いてダビデを抹殺しようと企てるに至ったのです。

そのように、もはやイスラエルにとってなくてはならない存在であり、サウルにとっても極めて有用な家臣であったはずのダビデを亡き者にしようとサウルが躍起になっていたのは、単なるねたみからではありませんでした。サウルの行動の根にあったのはダビデに対する「恐れ」だったのです。この章にはそのことが繰り返し語られているのです。

 ダビデが単に優秀な軍人であっただけならば、そこまで恐れることはなかったでしょう。サウルがダビデを恐れたのは、ダビデが信仰の人であったからに他なりませんでした。既に17章に見てきたように、ダビデは主に信頼して出て行って、ゴリアトとの戦いを「主の戦い」として戦い、打ち取ることなどできようはずもないゴリアトに打ち勝ち、その首を携えて帰ってきたのです。いや、それだけではありません。サウルが派遣する度にダビデは先頭に立って出陣したのです。すなわち、恐れることなく主に信頼して戦いに出て、事実、主の名によって勝利を得て帰ってきたのでした。

そのようにして、サウルは主がダビデと共におられることを、もはや否定しようにも否定できなくなりつつありました。だからこそ彼はダビデを恐れざるを得なかったのです。彼はきっとサムエルの言葉を思い起こしていたことでしょう。「主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる」(13:14)。(こいつが、「主の御心に適う人」だと言うのか。この男に王座を渡さなくてはならないのか。)サウルはそのことを考えざるを得なくなりました。

 それはまたサウルがある意味で岐路に立たされたことを意味します。彼が恐れから解放されるためには二つに一つしかないのです。一つは主に服従する道です。主がダビデと共にいることを認めて、ダビデを受け入れ、王座を引き渡す準備をすることです。サムエルの言葉を受け入れ、自分の罪を認め、主の言葉に従い、主に服従して生きていくことです。彼は王ではなくなるかもしれませんが、それでもなお神の民の一人として生きていくことはできるでしょう。

しかし、もう一つの道があります。あくまでも主がダビデと共にいることを否定する道です。そのためには、そもそもの「主の戦い」という概念そのものを否定しなくてはなりません。それを古き伝統として葬り去らねばなりません。すなわち、神の介入があることなど認めないことです。人間の力関係がすべてを決定するのだということを証明してみせることです。

もはや「主の戦い」を語る時代ではない。主に信頼して勝利を得るなどと語るべき時代ではない。なぜならイスラエルは既に王と軍隊を擁する王国となったのだから。――もし本当にそう言い切ることができるなら、もはや恐れる必要はないのでしょう。

 そして、サウルは後者の道を選んだのです。サウルはダビデに次のように語りました。「わたしの長女メラブを、お前の妻として与えよう。わたしの戦士となり、主の戦いをたたかってくれ」(17節)。その真意はその後に説明されています。「サウルは自分でダビデに手を下すことなく、ペリシテ人の手で殺そうと考えていた」。

そうです、彼はダビデに「主の戦いをたたかってくれ」と言ったのです。そのようにしてダビデが出て行って、「主の戦い」においてペリシテ人に殺されることになればどうでしょう。主がダビデと共におられることを完全に否定できるでしょう。それこそ「主の戦い」そのものを否定できるのです。これまでのダビデの勝利は「主の戦い」による勝利などではなかった。単なる幸運が重なっただけだ。そう言って納得することができる。こうしてダビデをも主をも恐れる必要なくなります。安心して王であり続けることができるのです。

 さて、こうして見てきますとサウルの心境はとてもよく理解できるような気がします。誰にでも覚えがあるのではないでしょうか。人が神に背いているならば、神の存在がリアルに立ち現れてくることは、喜ばしいことではないのです。身の回りの出来事に、神のリアリティを感じることほど恐ろしいことはありません。その時、人はどうするのでしょうか。神の御前に悔い改めるか、それとも神のリアリティを否定するしかないのです。「これは偶然なのだ。神がなさったことなどではないのだ」と自分なりに納得するしかないのです。

 しかし、サウルの思惑とはうらはらに、ダビデは千人隊の長として先頭に立って出陣しても、戦死した遺体となって帰って来ることはありませんでした。人は自分に都合が悪ければ、いくらでも神の介入を否定しようとするのです。そして、認めないための理屈はいくらでも言うことはできる。しかし、人が否定しようが何しようが、神は生きておられるのです。主は自らを歴史の中に現わされ、現実の世界の中に現わされるのです。

 ダビデは生きて帰ってきました。しかし、ダビデはメラブを要求しませんでした。それは古代社会において一般的であった結納金の問題があったからでした。王の娘を娶るとなれば、莫大な結納金が必要となるのです。ダビデがメラブを要求しないのをいいことに、サウルはメラブを他の者に嫁がせました。メラブをダビデに与えることは、「主の戦い」を認めることになるからです。ダビデが確かに「主の戦い」を戦い、主がダビデと共にいたゆえに勝利したことを、サウル自ら認めることになる。それはできませんでした。サウルはこれが「主の戦い」による勝利であることを認めることをあくまでも拒否したのです。

 とはいえ、約束を破ってメラブを他の男に嫁がせて、「主の戦い」を拒否したからと言って、サウルの問題が解決したわけではありません。サウルはなんとしてもダビデを抹殺しなくてはなりませんでした。するとある者が、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることをサウルに告げたのです。これは好都合です。サウルはもう一度、ペリシテ人の手でダビデを殺すことを企てます。サウルは家臣を用いて、次のことをダビデの耳に入れました。「王は結納金など望んでおられない。王の望みは王の敵への報復のしるし、ペリシテ人の陽皮百枚なのだ」(25節)。

 陽皮とは男性生殖器の包皮であり、割礼において切り取られる部分です。ペリシテ人は割礼を受けていません。繰り返し「無割礼の者」と呼ばれているとおりです。つまり、陽皮百枚ということにおいて、間違いなく「ペリシテ人」を百人討ち取ったことを証明することになるのです。恐らくは、その期間が定められていたのでしょう。短期間に多くの者を討ち取ろうとするならば、当然激戦を身に招くことになります。いくらダビデといえども、今度は必ず戦死するに違いないとサウルは考えたのです。

 しかし、ダビデは何日もたたないうちに、サウルの要求に倍する二百人を討ち取って、その陽皮を持ち帰ったのです。この度は家臣が関わっております。そして、条件が満たされたことが公に証明されてしまった以上、家臣たちの手前、無為に約束を破棄することもできません。サウルはミカルをダビデに妻として与えざるを得なくなりました。

しかも、娘であるミカルはダビデを愛しているのです。かつて好都合と思えたことが、今やサウルの苦しみに追い打ちをかけることとなったのです。そして、何よりサウルにとって大きなことは、主がダビデと共におられることを、ますます否定することが困難になったということです。

 このように、ダビデを抹殺しようとしたサウルの目論みは実に皮肉な結果をもたらしました。ミカルを妻として与えたことにより、ダビデを、王位継承権を持つ一人としてしまったのです。しかも、このダビデの勝利は、彼の名声をますます高めることとなりました。サウルはいよいよ追いつめられることとなるのです。

 神御自身が生きて働き給うリアリティは、人間がいくら否定しようと試みても、このように追い迫ってくるのです。繰り返しますが、そこにおいて人は二通りに分かれざるを得なくなります。人間の側が降参し、自ら悔い改めて神の前に自分を投げ出すのか、それとも神のリアリティを認めつつも、なおもそれを否定し神の御業を抹殺するために戦いを展開するのかです。そして、サウルはさらに後者の道を行くことになるのです。


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