ラベル 新約聖書 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 新約聖書 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026年8月9日日曜日

「互いに仕え合いなさい」

聖書:エフェソの信徒への手紙 5:21-33

互いに仕え合いなさい
 今日はエフェソの信徒への手紙5章21節からお読みしました。この章の22節から6章9節までには、夫婦、親子、奴隷と主人が、具体的にどのように生活したら良いか、ということについて書かれています。奴隷と主人については、今日においては社会における労使関係に置き換えて考えてもよいでしょう。もちろん、これで信仰者の関わるこの世の全ての人間関係が言い尽くされているわけではありません。しかし、すべての関係について考えるための土台となるべき原則をパウロはその冒頭に記しています。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(21節)。私たちはまず、この御言葉を心に留めたいと思います。

 「互いに仕え合いなさい」とあえて言葉にして勧められているのは、そのような行動が自然には生まれてこないからであるとも言えます。私たちは「仕える」ことではなく、「仕えさせること」「支配すること」を考えて生きているものだからです。

 「いいえ、私はそんなことは考えていません」と言う人がいるかも知れません。しかし、現実に誕生以来のあらゆる人間関係を考えてみてください。その中心には誰がいますか。自分です。私たちは生まれた時から様々な人間関係を、自分を中心として構築してきたのです。他の人間を「わたしにとってどのような存在であるか」という目で見て判断してきたのです。「私にとって良い両親か」「私にとって良い教師か」「私にとって良い友人か」「私にとって良い夫か(妻か)」。そのようにすべての人を「私にとって」どういう存在であるかと評価しながら生きているのです。

 それは言い換えるならば、私に仕える存在として見ているということです。ですから自分の思い通りにならないと苛立ちます。腹が立ちます。そのように人は程度の差こそあれ、他者を「仕えさせよう」として生きているものです。それが私たち人間が自然に持っている傾きなのです。だからこそ、その傾きに逆らって、聖書はあえて言葉にして勧めるのです。「互いに仕え合いなさい」と。

 しかし、パウロはただ「互いに仕え合いなさい」とだけ勧めているのではありません。彼はそこに大事な一言を加えています。「キリストに対する畏れをもって」。――互いに仕えるということを考える時、ただ相手と自分のことだけを考えていてはならないのです。私たちはまずキリストに目を向けなくてはならないのです。

 それはなぜでしょうか。キリストこそ、私たちに仕えてくださった御方であるからです。「キリスト」というのは「油注がれた者」という意味であり、その第一に意味するところは神によって任職された「王」です。しかし、王である御方は、力をもって服従させる権利を放棄され、自分を捨て、十字架を背負われ、その十字架について死なれたのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と書かれているとおりです。

 キリストがそのように仕えてくださったのは、私たちの罪の贖いのためであったこと思い起こさなくてはなりません。キリストは私たちの罪が赦されるために仕えてくださったのです。キリストは、罪人である私たちを愛し、赦し、受け入れて、私たちのために仕えてくださったのです。そうです。キリストにとって「仕える」とは、私たちを赦し、受け入れることでもあったのです。

 そのような「キリストに対する畏れをもって」互いに仕え合うようにと勧められているのです。「畏れる」とは怖がることではありません。キリストが仕えてくださった事実、愛し、赦し、受け入れてくださった事実を、真に重んじるということです。それはすなわち、キリストが私たちを赦し、受け入れてくださったように、私たちもまた互いに赦し合い、受け入れ合うということに他なりません。

 私たちが互いに仕えるということを考えるならば、ただ相手と自分のことを考えるだけでなく、このキリストに目を向けることがどうしても必要になってくるのです。実際、そうではありませんか。「互いに仕え合う」ということを何が困難にさせるのか。それは相手に受け入れがたい部分があるという事実でしょう。時として互いに相手が赦し難くなるという事実ではありませんか。それはいかなる人間関係においても起こり得ることでしょう。私たちは天使ではありません。互いに罪を持った人間です。その罪人同士が仕え合うとするならば、それは互いに赦すこと、受け入れることを抜きにしてあり得ないことなのです。

 ならば私たちは、まず私たちを赦し、受け入れてくださったキリストに目を向けることが必要なのです。まず自分自身が受け入れていただいた罪人なのだという事実に目を向けるしかないのです。それゆえに「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と勧められているのです。

キリストの体の一部として
 そこでさらに今日与えられた聖書の言葉に耳を傾けましょう。ここでは特に、夫婦の関係について書かれています。ここを読みましてまず気が付きますのは、話がかなり混線しているということです。夫と妻のことを話しているのか、キリストと教会の話をしているのか、どうも良く分かりません。これはある意味では仕方のないことです。パウロは話の構成を考えながらパソコンで文章を打っているわけではないからです。彼の手紙はほとんどの部分が口述筆記なのです。彼が思うままに語り、それが筆記されたものなのです。

 いや、これは単に「仕方のないこと」であるだけでなく、むしろこのような混線が起こっていること自体が私たちに大事なことを教えているとも言えます。パウロは夫と妻の関係を語る時に、どうしてもキリストと教会のことを思わずにはいられなかったということです。つまり夫婦関係についての話題とキリストと教会についての話題は、パウロにとって異なる別の話ではなかったということなのです。

 一方、私たちはどうでしょう。結婚とか家庭の事柄を考える時、そこで同時にキリストと教会のことを考えるでしょうか。もしかしたら、キリストのことは考えるかも知れません。キリストが仕えられたように、私たちも仕えなくてはならないと。しかし、ここで重要なのは、パウロが「教会」をも考えていたということです。夫婦の事柄は教会と深く結びついているのです。

 30節に「わたしたちは、キリストの体の一部なのです」と書かれています。「キリストの体」ということでパウロが考えているのは教会です。私たちは教会、すなわちキリストの体の一部として夫婦生活を送り、家庭生活を送り、社会生活を送っているのです。「家庭のことは家庭のこと。教会のことは教会のこと」ではないのです。

 さらに言うならば、パウロはただ教会を思いつつ夫婦関係について語っているというだけではありません。「キリストがどれほど教会を愛しているか」ということを思いつつ語っているのです。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした」(26‐27節)。

 キリストは**わたしの**罪のために十字架にかかってくださった――もちろんそうです。しかし、それだけを考えていてはならないのです。キリストは**教会のために**御自分をお与えになったのです。25節にそう書かれていますでしょう。

 26節に「言葉を伴う水の洗い」と書かれていますが、これが「洗礼」を指していることは明らかです。「洗礼」はただ個人が受けるだけではありません。「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし」と書かれています。「言葉を伴う水の洗い」すなわち「洗礼」は教会に授けられているのです。私たちが教会を見る時に、「これは洗礼を受けた教会なのだ」と考えねばならないのです。

 教会の歴史を考えても、私たちの教会の現実を考えても、それはある意味で罪に汚れたボロボロのありさまかもしれません。しかし、それは水の洗いを受けて、罪を赦された教会なのです。そのようにしてキリストによって受け入れられた教会なのです。そして、最終的には御自身の花嫁として、聖なる汚れのない教会、栄光の教会を御前に立たせるために、キリスト御自身が心にかけ関わってくださっている教会なのです。それほどにキリストは御自身の体である教会を愛しておられるのです。

 パウロは「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません」と言うのです。そのように言えたのは、キリストと教会のことをも考えているからなのです。夫と妻の場合は、あくまでも自分の体「のように」と書かれています。しかし、キリストの場合は教会を文字通り御自分の体としてくださっているのです。夫婦については、「人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と語られています。しかし、それが完全な意味で実現しているのは、第一にはキリストと教会においてなのです。ですからわざわざパウロは、「この神秘は偉大です。わたしはキリストと教会について述べているのです」(32節)と言っているのです。

 なるほどこれは驚くべき神秘です。私たち自身が、まさにキリストと一体とされるほどの愛をもって愛されているのです。一体とされるほどに、受け入れられているのです。「わたしたちは、キリストの体の一部なのです」とはそういうことです。そのようなキリストと教会の関係の中に、体の一部として私たちは置かれているのです。

 そのようなキリストにまず思いを向け、キリストの体の一部として受け入れられている自分自身であることに思いを向けてこそ、ここに書かれている夫と妻とに関する勧めの言葉も意味を持つのでしょう。いや夫と妻との関係だけではありません。私たちはあらゆる関係を、「教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった」キリストと教会との関係を思いつつ、建て上げていくことを期待されているのです。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と。

2026年8月2日日曜日

「父なる神の切なる願い」

 

2026年8月2日 主日礼拝説教 

マルコによる福音書 9:42~50

命にあずかる方がよい
 「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」(43‐47節)。

 たいへん恐ろしいことが書かれています。ここでイエス様は繰り返し「地獄(ゲエンナ)」について語っています。「地獄の消えない火の中に落ちる」とか「地獄に投げ込まれる」という表現に、私たちは恐怖を抱きます。脅迫されているようにも感じます。

 しかし、イエス様が「地獄に投げ込まれる」ことについて語っているということは、少なくとも私たちは地獄の外にいるということを意味しているとも言えます。私たちがいるこの世界はたとえ苦しみに満ちていたとしても決して地獄ではないということです。神の刑罰の場ではなく、神から見捨てられた世界でもないということです。

 それどころか、この世界は神がイエス・キリストを遣わされた世界だと聖書は教えているのです。神が罪の贖いの十字架を打ち立てられた世界だと。この世界がどれほど神に背こうとも、なおも神に愛されている世界です。ですから、そこには救いの約束が与えられ、救いへの招きが与えられているのです。それをイエス様は「命にあずかる」また「神の国に入る」と表現しておられるのです。

 私たちが今日、聞いているのは、そのような救いの約束のもとにある者たちへの言葉なのです。繰り返されているのは「地獄」という言葉だけではありません。もう一つ繰り返されているのは「つまずかせるなら」という言葉です。そもそもこういう言葉から始まっていました。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(マルコ9:42)。

 この言葉自体もそうとう過激ではありますが、言わんとしていることはよく分かります。「わたしを信じるこれらの小さな者」とありますが、キリストを信じる者は、たとえこの世においてどんなに小さな存在であっても、軽んじられる存在であっても、キリストにとっては、決して小さな存在ではないということです。その人がつまずいてしまうかどうかはキリストにとって大問題なのです。この世においては迫害があるかもしれません。罪への誘惑があるかもしれません。しかし、なんとしてもつまずかないで欲しい。この過激な言葉に言い表されているのは、そのようなキリストの願いです。

 先ほどの「地獄」の話にしても同じです。そこに言い表されているのは、何としてでもつまずかないで欲しいという願いなのです。いかなる人によってもつまずかされないで欲しい。いかなるものによってもつまずかされないで欲しい。いやそれだけでなく、自分の手や足や目によってさえもつまずかされないで欲しいということです。神から引き離されないで欲しい。最後まで信仰を全うして命にあずかって欲しい。最終的に神の国における完全な救いにあずかって欲しい。そのようなキリストの強烈な願いがここに言い表されているのです。そして、これこそがキリストを世に遣わされた天の父なる神の願いでもあるのです。

 考えてみれば、このイエス様の言葉は、迫害の時代の教会にとってはどれほど大きな慰めであったかとも思います。現実に自分で切り落としたりえぐりだしたりするまでもなく、迫害者によって片手や片足を切り落とされたり、目をえぐりだされたりするということもあったのでしょう。あるいは場合によっては、自分の手や足や目よりも大事だと思えるものを失うことさえあったのでしょう。しかし、そこで彼らは主の言葉を聞くことができたのです。「片手になっても命にあずかる方がよい。」「片足になっても命にあずかる方がよい。」「一つの目になっても神の国に入る方がよい」と。

 いや、迫害の時代だけの話ではありません。人はこの世にあっては様々なものを失いながら生きていくのでしょう。ある場合には心身の健康を失い、愛する者を失い、生き甲斐であったものを失うこともある。私たちもまた、自分の手や足や目よりも大事だと思えるものを手放さなくてはならないこともあるのでしょう。しかし、それでもなお私たちは地獄にいるのではないのです。神による救いの約束のもとにあるのです。何としてでもつまずかないで欲しい。命にあずかって欲しい。神の国における完全な救いにあずかって欲しい。そのような神の強烈な願いのもとにあるのです。

父の訓練
 この神の切なる願いは、聖書においてもう一つ別の言葉をもって表現されています。本日の第二朗読、ヘブライ人への手紙が用いていたのは「訓練」という言葉でした。そちらも見ておきましょう。

 この手紙は苦しみの中にあるキリスト者に宛てられた手紙です。既に迫害を経験し、さらに大きな迫害が予期される時代に書かれた手紙です。その手紙において、今日お読みしたところには次のような旧約聖書の言葉が引用されています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ12:5‐6)

 これは旧約聖書の箴言3:11以下の引用です。恐らくはこの手紙を受け取ったヘブライ人ならば誰でも知っている言葉であったに違いありません。また父親が子供に対して絶対的な主権を持っていた当時の社会を考えても、この言葉は彼らの生活において非常に身近に感じられた言葉であったろうと思います。しかし、今日の私たちが読むと、ここに書かれていることは「親による虐待」を連想させるかもしれません。

 しかし、私たちはここで鬼の形相をもって鞭を振るっている父親の姿を思い浮かべてしまうと、方向を誤ってしまいます。現代の私たちの感覚を持ち込むことは差し控えなくてはなりません。この箴言の言葉を引用している人は、この父が、私たちの救いのために独り子さえも惜しまず与えた神であることを知っているのです。それほどまでに私たちを愛していることを知っている人なのです。先ほど述べてきたような神の願いを知っている人なのです。どんな苦しいことがあってもつまずかないで欲しい。迫害の中にあってもつまずかないで欲しい。必ず命にあずかって欲しい。完全な救いにあずかって欲しい。そのような切なる神の願いを知っている人が引用して書いているのです。

 ここに書かれていることは極めて単純なことです。苦しみがあることは神から見捨てられていることを意味しないということです。苦しみがあることは神から忌み嫌われていることを意味しないということです。むしろそこでこそ、神の子供とされていることを思ったらよいのです。そこでこそ、イエス様がなさったように、「アッバ、父よ」と祈ったらよいのです。そう、十字架への道を歩まれたイエス様が、最後までそうなさったように。

 天の父は、私たちが命にあずかることを願っていてくださいます。そして、ただ最終的に命にあずかって欲しいと願われるだけでなく、この世にある生活の中において私たちに関わってくださるのです。この世にある限り、様々な形において苦難を避け得ない私たちです。しかし、私たちは無意味に苦しむことはないのです。父はそのような私たちの人生に目的をもって関わっていてくださるからです。

 ヘブライ人への手紙にはこう書かれています。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:10‐11)。

 そのように、天の父は罪に汚れた私たちを神の子供とし、罪から解放し、御自分の神聖にあずからせようとしていてくださいます。今、この世の生活において、既にその御業は始まっているのです。

 それは平和に満ちた実を実らせるためだと書かれています。「平和」とはヘブライ語で「シャーローム」と言います。単に争いのない状態のことではありません。完全な調和と真の豊かさをもって命が満ち溢れている状態を意味します。それがこの地上においてだけでなく、永遠にもたらされる、そのような実を結ばせるために、神はこの世におけるあらゆる苦しみをさえ用いられるのです。

 実際に様々な苦しみを通して、それまで絡みついて離れることなかった罪から解放されるということがある。私たちの多くは、身をもってそのことを知っているのでしょう。苦しみを通して本当の「平和」すなわち「シャーローム」が与えられるということを既に味わい始めているのでしょう。実際に天の父は教会の歴史において、迫害に代表されるような、不当な苦しみさえも「シャーローム」を与えるために用いてこられたのです。

 大事なことは、主のなさることを軽んじないことです。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない」。そうです、父の鍛錬を軽んじてつぶやかないことなのです。神に背を向けてつまずかないことなのです。たとえ何が起こったとしても、いかなる人間が何をしたとしても、何を言ったとしても、それらが私たちを救いの道から引き離すことを許さないことなのです。私たちは天の父の子供たちです。天の父は私たちを愛しておられます。私たちが平和に満ちた実を結ぶことを望んでおられます。私たちが命にあずかることを願っておられます。

2026年7月26日日曜日

「私たちを造り変える聖霊」

2026年7月26日 主日礼拝説教 

聖書:コリントの信徒への手紙二 3:12‐18

 今日は7月の第4主日ですので、年度主題を覚えて礼拝をおささげします。毎月、確認していますが、今年度の年度主題は「聖霊の神殿である私たち」です。私たちを神殿として私たちに宿っておられる聖霊のお働きに思いを向けて、今日も御言葉に耳を傾けます。今日は特に、私たちを造りかえる聖霊のお働きに私たちの思いを向けることといたしましょう。

主と同じ姿に
 さて、世の中には、「自分を変えたい」「自分は変りたい」と思っている人、思ったことのある人は少なくないことと思います。しかし、それは何のためでしょう。また、どのように変わることを願っているのでしょうか。ここにいる私たちが変わることを願うとするならば、どのような自分になることを求めたらよいのでしょう。

 聖書は、私たちが変わっていくべき方向を明確に示しています。例えば、ローマの信徒への手紙8章29節には次のように記されています。「神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で長子となられるためです」(ローマ8:29)。

 そして、本日与えられている聖書箇所の中にも次のように書かれていました。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。

 そのように、「御子の姿に似たものに」と書かれ、「主と同じ姿に」と書かれています。これが聖書の指し示す方向です。それは、キリストの似姿です。しかし、主と同じ姿に変えられるとは、具体的にはどのように変わることなのでしょうか。それは言葉としては理解できますが、意味するところは必ずしも明白ではありません。また、ともすると、自分勝手なキリストのイメージを持ち込んでしまうことにもなりかねません。私たちは、あくまでも聖書の語るところに即して考えなくてはならないのです。

 ちなみに、この章はパウロが神から与えられた自らの職務について語っている箇所です。彼は使徒としての職務を与えられたことを次のように表現しています。「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました」(3:6)。そして、その新しい契約に仕える務めについて、古い契約に仕えたモーセの職務と対比させながら語っているのです。

 先ほどお読みしました18節は、そのような流れの中において語られているのです。ならば、「主と同じ姿に造りかえられる」ということに関しても、これを「新しい契約」との関連で理解しなくてはならないのです。

心に記される神の律法
 では、その「新しい契約」とは何でしょう。この言葉は本日の第一朗読において読まれたエレミヤ書に出てきました。次のように書かれています。「見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない」(エレミヤ31・31‐34)。

 かつて神はイスラエルの民をエジプトから導き出し、十戒を与えて彼らと契約を結びました。彼らは神の民となり、神は彼らの神となられました。その契約に仕えたのがモーセです。イスラエルの民は、モーセを通して与えられた律法に従い、この世界に神の支配と神の救いの計画を指し示す民となるはずでした。しかし、彼らは神の戒めに背きました。神との契約を破ったのです。旧約聖書はその不従順な民の罪の歴史をごまかすことなく記しています。

 しかし、神は御自分の民を、そしてこの世界を、見捨ててしまうことはありませんでした。神の救いの計画はイスラエルの不従順にもかかわらず進められていったのです。「古い契約」が無効とされて終わりではありません。神はエレミヤに「新しい契約」の預言を与えられたのです。

 神は、罪の赦しに基づいて、新しい契約を結ばれるのです。そこで主は言われます。「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」と。古い契約において、律法は石の板に刻まれました。しかし、イスラエルの民はその律法を守れませんでした。それゆえ、新しい契約において、神はその律法を心に記すと言われるのです。

 ここで聖餐式の度に読まれる御言葉を思い起こしてください。キリストは、最後の晩餐において、杯を取って感謝の祈りをささげ、こう言われたのです。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」(1コリント11:25)。――このキリストの言葉が、今日も繰り返し語られてるとはどういうことですか。それは、エレミヤの預言がここに実現しているということを意味するのです。

 キリストが十字架にかかられて流された血によって、新しい契約が立てられました。今日もなお同じ主の言葉が語られ、聖餐が行われております。キリスト者となって聖餐に与るということは、この新しい契約の中に生きていることを意味します。教会は、キリストの血によって立てられた新しい契約による神の民なのです。ですから、使徒パウロは自分自身を、新しい契約に仕える者として語っているのです。

 新しい契約においては、律法は石の板ではなく、心に記されます。心に記されるべき律法が何であるかは、既に十戒において示されています。キリストはこの律法を二つの最も重要な戒めとして要約されました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:29‐31)。律法が心に書き記されるということは、この戒めが私たちの内に実現することに他なりません。すなわち、私たちがまことに神を愛し、人を愛する者となることです。

 新しい契約に生きる者にとって、人生の意味と目的は単純明快です。人生の意味と目的は、神を愛し、人を愛することにあります。家庭生活、社会生活における人生の課題のすべてはこの原則の応用問題に他なりません。

 私たちは変わらねばなりません。その方向は明瞭に示されています。神を愛し、人を愛する者となることです。その完成はどのような姿となるでしょう。それが「主と同じ姿」なのです。キリストこそ、まことに父なる神を愛し、そして人を愛された方だからです。その愛の真実は十字架に向かう歩みにおいて現され、その栄光は復活において現されました。私たちは、その姿へと向かっているのです。これは人生の大目標であり、教会の歴史の大目標なのです。


主の霊によって
 しかし、まことに神を愛し、人を愛する者となり、主と同じ姿となるということであるならば、それは単純に私たちの努力によって実現され得ることでないことは明らかです。ですから、パウロはここで、主と同じ姿に「造りかえられていきます」と語るのです。人間はあくまでも受け身です。人間は、自分の心に律法を書き記すことはできません。書き記していただくしかないのです。それゆえに、「これは主の霊の働きによることです」と言われているのです。これは聖霊のお働きなのです。

 しかし、ここではあえて聖霊が「主の霊」と呼ばれています。そして、主と同じ姿に変えられることが、「主の霊」によるならば、そこで最も重要なのは主とどのような関係にあるか、ということなのでしょう。「主の方に向き直れば、覆いは取り去られます」と書かれています。パウロがこのように書くのは、同胞であるユダヤ人のことを考えているからです。相変わらず、モーセの律法の書が読まれています。彼らは律法を遵守するために真剣に努力しています。しかし、キリストには背を向けたままであり、心には覆いがかかったままなのです。

 覆いは取り去られねばなりません。そのためには、心に律法を書き記すのは主の霊のお働きであることを認めて、主の方に向き直って生きていくことなのです。主に向き直るということは、観念的なことではありません。単に心情的なことでもありません。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われる主に向いて生きていく生活は、具体的な形を取るのです。それは御言葉を聞き、共に礼拝をささげ、聖餐に与りながら形づくられる生活です。そのように具体的に主に向く生活を重んじることをしないで、「私は少しも変わらない」と嘆いても何の意味もありません。

 一方、私たちが新しい契約の民として主に向いて生きていくならば、「私は少しも変わらない」と思えたとしても、少しも心配する必要はありません。主の霊が私たちを主と同じ姿に造りかえてゆくのです。それは私たちの努力を越えた、主の救いの御業なのです。私たちが新しい契約の中に生きるなら、その御業がやがて完成する時が来るでしょう。パウロはこう言いました。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(フィリピ1・6)。私たちもまた主の約束に信頼し、パウロのこの言葉に喜びと感謝をもって「アーメン」と唱和してまいりましょう。

2026年7月19日日曜日

「ひたすら神を仰ぐ者に」

2026年7月19日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 9:14‐29

なんと信仰のない時代なのか
 今日の聖書箇所は、イエス様がペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて山から降りてこられたところから始まります。そこで主が目にしたのは、弟子たちが大勢の群衆に取り囲まれて律法学者たちと議論している姿でした。事の発端はどうもこういうことのようです。

 ある人がイエスの弟子たちのもとに病気の息子を連れてきました。その子に現れていたのは「てんかん」のような症状でした。父親は「霊に取りつかれている」と表現しています。当然のことながら、悪い霊から息子を解放して、癒してほしくて連れてきたわけです。

 その症状が現れたのはその子が幼い頃からだと言います。長い間、親も子も苦しんできたのでしょう。病気になれば、それは誰かが罪を犯したからに違いないと噂される社会です。なぜこの子はこんな苦しみを負わなくてはならないのか。いったい誰の罪なのか。――きっと長い間、そのような辛い思いを抱えて生きてきたのでしょう。

 その父親が、神の救いを宣べ伝えるイエスの一行のことを耳にしたのです。「神の国は近づいた」と宣言し、癒しの業をもって、神の憐れみを体現しておられる方のことを耳にしたのです。そして、この父親は神の憐れみを求めて、息子を連れて、弟子たちのところにやってきたのです。

 しかし、結果から言いますと、この子供は癒されませんでした。この父親は失望と落胆に顔をゆがめ、いくばくかの疑いを抱えたまま、そこに立っていたのでしょう。彼はイエス様に言いました。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」(18節)。

 一方、その父親のかたわらで弟子たちは何をしていたのでしょう。律法学者たちと議論していたのです。恐らく癒せなかったことについて律法学者たちに何か言われたのでしょう。もはやこの親子のことは眼中にありません。議論に夢中です。さらに言うならば、そこに集まってきた群衆も同じです。この親子ではなく、議論している弟子たちの方を取り囲んでいるのです。これが山から降りてきたイエス様が目にした光景でした。

 その弟子たちの姿を見て、取り囲む人々を見て、そして父親の言葉を聞いて、イエス様は嘆きながらこう言われました。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」(19節)。

 実に激しい嘆きの言葉です。イエス様がここまで言われるのは珍しいことです。しかし、間違ってはなりません。苦しんでいる親子をそっちのけにして議論している愛のなさを嘆いているのではないのです。そうではなくて、弟子たちや律法学者だけでなく、この父親についても、さらには群衆についても、「信仰がないこと」を嘆いておられるのです。「なんと信仰のない時代なのか」と。

信仰のないわたしをお助けください
 そして、「その子をわたしのところに連れてきなさい」とイエス様は言われました。人々は病気の息子をイエス様のもとに連れてきます。するとその子は引きつけを起こし、地面に倒れ、転び回って泡を吹きました。主はその子について尋ねました。「このようになったのは、いつごろからか」と。

 その後のやり取りは次のように書かれています。「父親は言った。『幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。』イエスは言われた。『「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる。』その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」(23節)。

 「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。この激しい言葉をもって、この父親を信仰へと招いているのです。この父親には今こそ「信じる」ということが必要だからです。失意と落胆の中にある時こそ、そして、過酷な現実が目の前にあるからこそ、不信仰の暗闇に落ちてはならないのです。実際、彼の目の前で息子が泡を吹いて転げまわっているのですから。そして、その現実に対して自分は無力なのですから。何もできないんですから。ならば、信じるしかない。神の憐れみを信じて寄り頼むしかないのです。

 イエス様に言われて、この父親にも分かったのだろうと思います。「おできになるなら」なんて悠長なことを言っている場合じゃないのです。可能だろうか、不可能だろうかなんて言っている場合じゃない。信じるしかないのだ、と。たとえ信じることがどんなに難しくても信じるしかない。だから父親はこう叫んだのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。

 ある意味では支離滅裂な言葉です。しかし、そう言うしかないでしょう。信じることが難しければ助けていただくしかないのです。そうです、助けていただかなくてはならないのは、息子である以前に自分自身なのです。信じることが困難な自分自身なのです。息子のことを神に願う前に、自分自身が助けを必要としているのです。

 それはこの父親だけでありません。本当はあの弟子たちも同じであったはずなのです。苦しんでいる息子が連れて来られた。その息子を解放することができない。自分たちの無力さが明らかにされた。ならは、律法学者たちと議論している場合ではないでしょう。

 弟子たちもまた、無力な自分たちを神の憐れみにゆだねて、ひたすら神の御業を求めるしかないのです。それこそあの父親のように「信じます。信仰のないわたしたちをお助けください」と言って、神に縋り付くしかない。祈るしかない。本来、彼らはそうあるべきだったのです。ですからこの箇所の結論部分において、イエス様はこう言っておられるのです。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(29節)と。

祈りによらなければ
 さて、ここで私たちは、一旦この場面から離れ、かつてこの弟子たちが宣教のために村々に遣わされた時のことを思い起こしたいと思います。イエス様は弟子たちを二人組にして村々へと遣わされました。その時のことが次のように書かれています。「その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」(6:7-9)。つまり、イエス様は弟子たちの持ち物をほとんど没収してしまわれたのです。もう神に寄り頼むしかありません。そして、遣わされた弟子たちの様子は次のように書かれているのです。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(6:12‐13)。

 そして、帰ってきて報告するわけです。彼らの報告の様子を聖書はこのように記しています。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」。――そのように聖書には「自分たちが行ったこと…を報告した」と書かれているのです。もちろん、本当は弟子たちが行ったのではありません。神様がなさったのです。それは弟子たちも分かっていたはずです。

 しかし、彼らの心が変化していったであろうことは容易に想像できます。きっと彼らは感謝されたことでしょう。癒された人たちから。解放された人たちから。また、その家族から。そのようなことが繰り返されたらどうなりますか。どうしたって「わたしがしてあげた」という思いになるではありませんか。

 そうしているうちに、次第に関心は自分の方に移ってまいります。神を信じなさいと宣べ伝えていながら、自分は神様の方に向かないで自分の方ばかり見ているということが起こり始めます。結局、いつも考えているのは自分や周りの人々のこと、人間のこと、こちら側のこと。信仰とは言いながら、水平の次元のことしか考えていないということが起こります。

 弟子たちは確かにそのようになっていたのでしょう。それは今日お読みした場面にもよく現れているように思います。だから苦しんでいる親子をそっちのけで、議論に熱中するようなことにもなるのです。

 実際そうでしょう。こちら側にしか目が向いていなければ、自分たちが癒せなかったことは大問題です。その事実を人々がどう見るかも大問題です。もちろん自分で自分をどう見なしえるかということも大問題です。弟子としての自信が崩れてしまいますから。だから必死で弁明せざるを得ない。そのための議論です。しかし、彼らが夢中になっていたことは、すべて水平の次元のことなのです。

 本当に重要なことは、悪霊に縛られている息子に対し、またそのゆえに苦しんでいる父親に対して、「神様が何をしてくださるのか」ということなのでしょう。だからこそ、大事なのは信仰だったのです。彼らは信じて求めるべきだったのです。こちら側のことはゆだねて、無力な自分たちをも神にゆだねて、ひたすら神の御業を求めるべきだったのです。だからイエス様は「祈りによらなければ」と弟子たちに言われたのです。

 「なんと信仰のない時代なのか」とイエス様は言われました。しかし、イエス様が求めておられるのは、私たちが自信をもって胸を張って「私は信じています」と言えるようになることではありません。そうではなくて、こちら側ばかり見ている目を転じて、イエス様が指し示しておられる神の国に、神の御支配に目を向けるようになることなのです。

 私たちが自分の無力さを認め、弱さを認め、ボロボロであることを認め、そこからひたすら神を仰ぐ者となることなのです。救っていただかなくてはならないことを認めて、いや、時として、救ってくださる神を信じることさえできない自分であることを正直に認めて、ひたすら主の憐れみを求める者となることなのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んだ、あの父親のように。

2026年7月12日日曜日

「私たちの弱さをキリストのもとに」

2026年7月12日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 8:22‐26

 今日の聖書箇所は、一人の盲人が癒されたという話でした。その人は明らかに生まれながらの盲人ではありません。後でこの人が、「人が見えます。木のようです」と言っていることから分かります。木は見たことがあるのです。

 人生の途上で視力を失うこと、それは実に悲しく辛いことであったに違いありません。しかも、当時の社会は、今日と比べて、そのような人々が遥かに生きにくい社会でした。生活が困難であるというだけではありません。「この人の目が見えなくなったのは、誰の罪のゆえか。本人の罪か、両親の罪か」というような心ない言葉にもさらされます。自分でも、私は神に打たれたのではないか、罰せられたのではないか、などと思うようにもなります。それは病気そのものよりも辛いことだったのかもしれません。

 しかし、幸いなことに、彼の周りにはそんな宗教的な偏見を抱く人々ばかりではありませんでした。彼と共に生きようとする人たちもいたのです。彼の幸いを願い、彼を支える人たちがいたのです。そのような人々が彼をイエス様のもとに連れて来たのです。そして、その人に触れていただきたいと願ったのです。もちろん、それは「癒していただきたい」という意味なのです。しかし、彼らが「触れていただきたい」と言ったのには、それなりの理由がありました。

 福音書には、イエス様が病気の人に触れる姿、手を置かれる姿が繰り返し出てきます。そうです、キリストは手を伸ばされるのです。そして、病に苦しんできた人に触れられるのです。罪を犯したから病気になった。神に背いたから神に打たれたのだ。そう言われてきた人たち、自分でもそのように思ってきた人たちに、イエス様は手を伸ばされるのです。触れられるのです。手を置かれるのです。

 そこで人々が目にしていたのは、単に病気が癒されるという奇跡ではありませんでした。人々がイエス様の姿に見ていたのは、まさに神が慈しみをもって御手を伸べ、苦しみを負う人間に恵み深く触れてくださっているという姿だったのです。神が慈しみ深く触れてくださる。――それは病気の癒し以上に大きなことだったのです。

その目に唾をつけ
 それゆえに、「この人に触れていただきたい」と人々は願いました。そこで、イエス様はこの人の手を取って、村の外に導いていかれました。今まで頼りにしてきた人々、ここまで連れてきてくれた人々から引き離されます。きっとそこには不安もあったに違いありません。恐れもあったことでしょう。しかし、しっかりと握ってくださるイエス様を頼りに、彼は歩いていきました。その手にイエス様の御手の力とぬくもりを感じながら、彼は歩いていったのです。

 やがてイエス様が立ち止まりました。既に村の外にまで出ていることをこの人は感じ取ったことでしょう。そこで主はこの人と向き合います。そしてイエス様は突然、この人の目に唾をつけ始めます。さらに「両手をその人の上に置いた」と書かれています。両目の上に手をあてたのでしょう。そして後、主はこう言われたのです。「何か見えるか」と。

 イエス様が唾をつけたという話は他にも出てきます。このような箇所を読んで奇妙に思う方はいるかもしれません。何かおまじないのような行為のように思うかもしれませんし、今どきの子どもたちは「汚いな」と感じる人がいるかもしれません。

 しかし、私はこのような箇所を読みますと、なぜか自分の幼い頃を思い出すのです。外で遊び回ってはしょっちゅう転んで肘や膝をすりむいて帰ってきたものでした。すると私の祖母が「痛くない、痛くない」とか言いながら、傷に唾をつけてくれるわけです。もちろん後で薬などを塗るわけですが、それは“おばあちゃん”が唾をつけてくれるのとは意味が全く違うのです。ある意味で、薬を塗る前に、もう癒されているのです。まだ血が出ていても、既に祖母の愛情が触れたときに癒されているのです。

 傷口に唾を塗ることは、古来からどこにでも見られる習慣でした。唾には殺菌作用がありますから。しかし、目に塗ったとしても効きません。子どもでも分かります。この人だって唾が目に効くとは思っていないでしょう。しかし、そんなことはどうでも良いのです。確かに奇妙な行為かもしれないけれど、この人はその指先の動きを通して、自分に関心を持ち、この苦しみを理解し、癒そうとしてくださる御方に触れているのです。

 この人にはイエス様は見えません。その表情も、その眼差しも見えないのです。しかし、この人には想像できたに違いありません。イエス様がどんな表情で、どんな眼差しで、今自分に向かってくださっているか。親が幼いわが子の傷に触れて癒すように、自分の目に触れてくれているイエス様の指先。そして自分の両目の上に置かれたイエス様の手のひらの温かさ。その手を通して、この人は確かに神の慈しみに触れていたのです。その神の愛がその人の目を開いたのです。

もう一度両手を当てられると
 しかも、この聖書箇所は、イエス様が再度手を置かれたことを伝えています。この人が何でもはっきり見えるように、繰り返しその目に触れられるのです。そのような奇跡物語は、他にはありません。ですから25節の「もう一度」という言葉が、この箇所ではとても重要なのです。

 良く見えなければ「もう一度」手を置かれるイエス様。愛の御手をもって、もう一度触れてくださるイエス様。そのようにして繰り返し触れられて一人の人の目が開かれた。その出来事を、キリストの弟子たちは他人のことのように思えなかったに違いありません。ですから、この話が大事に語り伝えられたのでしょう。実際、それは弟子たちの経験でもあったのです。

 今日の朗読は22節からでしたが、実はこの話の直前には、《目の見えない弟子たち》の姿が描かれております。先週お読みした箇所です。イエス様は弟子たちにこう言っておられました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」(17‐18節)と。

 もう既に救い主と共にいるのに、既に圧倒的な神の愛の中にあるのに、弟子たちにはまだそのことが見えていないのです。ですからイエス様は彼らに言うのです。「まだ悟らないのか」と。そして、この福音書を読みますと、そのような悟らない、見えない弟子たちの姿が、全体を通して描き出されていることが分かります。ですから、イエスが捕らえられたときには、皆、イエスを見捨てて逃げてしまったのです。ペトロにせよ、他の弟子たちにせよ、大事なことはほとんど何も見えていなかったことが明らかになるのです。

 しかし、イエス様はそのような弟子たちに触れ続けられたのです。逃げてしまった弟子たちは、それで終わりではありませんでした。それで終わりなら、今日この世に教会は存在しないでしょう。主はあの弟子たちにもう一度現われてくださいました。いわばもう一度彼らに触れられたのです。いや、それだけではありません。さらに彼らに聖霊を注ぐという形で、決定的に触れてくださったのです。

 そのように、イエスの弟子たちにとって、あの盲人の癒しは、他人事ではなかったのです。その盲人の姿は、弟子たち自身の姿でもあったのです。

今も触れてくださるキリスト
 さらに言うならば、それはあの弟子たちだけに限ったことではありません。この物語が世々の教会において読まれてきたのはなぜですか。あれから二千年後の日本の教会において読まれているのはなぜですか。それは、キリストが今も私たちに触れてくださる御方であるからに違いありません。私たちが見えるようになるために、その御体をもって触れてくださるのです。そのキリストの体はどこにありますか。ここにあります。聖書は、教会がキリストの体であると教えているのです。

 キリストは教会という体を通して私たちに触れてくださいます。教会が行う洗礼の水を通してキリストは触れてくださいます。聖餐のパンと杯を通して触れてくださいます。御言葉の説教を通して触れてくださいます。こうして共に祈り讃美を捧げる中で、キリストは私たちに触れてくださいます。

 キリストは、今も私たちに触れ続けてくださるのです。私たちが見えるようになるために。キリストによって既に現された完全な神の愛が見えるように、神の救いが見えるように、私たちが既に神の大いなる恵みの中にあることが見えるように、私たちの手を取って導き、私たちと真実に向き合い、そして私たちに触れてくださるのです。「何か見えてきたか」と問いながら、繰り返し御手を置いてくださるのです。

 そこで大事なことがあります。イエス様が御手を置かれたのは、その見えない目の上であったということ。イエス様が唾を塗られたのも、その目の上でした。彼の最も弱き部分にイエス様は触れられました。彼の悲しみ、不安や恐れ、それらすべてが結びついているその最も弱き部分が、イエス様との接点になりました。最初の弟子たちにしてもそうでした。世々のキリスト者もまた、そのことを経験してきたのです。それゆえに、私たちもまた、私たちの最も弱い部分をそのまま携えて、ここに集まるのです。私たちの苦しみも、嘆きも、辛さも、自分について「わたしのここが大嫌い!」と言いたくなる部分も、何もかもそのまま携えて、主のもとに集まるのです。私たちがイエス様の御手を感じることができるのは、私たちの最も弱いところにおいてです。

 主は私たちに繰り返し触れてくださり「何か見えてきたか」と問いかけてくださいます。ならば、この人がしたように、私たちも見ようと目を凝らすことが大事なのでしょう。見え始めた神の愛、神の救い、そこから目を逸らしてはなりません。見たい!もっと見えるようになりたい!そのことを願い続けることです。やがてはっきりと見えるときが来るまで、そのことを願い続けて、一心に目を注ぐのです。そのように見えるようになることをひたすら願いつつ、もっともっとイエス様に触れていただきましょう。

2026年7月5日日曜日

「困窮は主の豊かさを知る機会」

2026年7月5日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 8:14-21

パンを忘れた弟子たち
 「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」(14節)。そう書かれていました。小さなミスです。そのミスによって困ったことになりました。パンは一個しかありません。全員が食べるには足りません。

 そのように誰かのミスによって、あるいは全員のミスによって、何かが不足したり欠乏したりするということは起こります。それは私たちが置かれている様々な人間関係にも起こりますし、教会にもそのようなことは起こります。

 もっとも今日お読みした場面においては大したことが起こっているわけではありません。パンを忘れたからと言ってその後の旅に重大な支障をきたすわけではありません。事実、その後は何事もなかったかのように話は続きます。皆が少し我慢すればよいだけの話です。しかし、これは典型的な一つの出来事であるとも言えます。後に、形を変えて、もっと大きな出来事として起こるかもしれません。だからこそ、その場面でイエス様が言われた御言葉は、後々まで繰り返し伝えられてきたのです。それは今日の私たちにも、大きな意味を持っていると言えるのです。私たちにも、起こり得ることですから。

 その時、イエス様は何と言われたでしょうか。「そのとき、イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』と戒められた」(15節)と書かれています。

 そうです、そのような時こそ気をつけなくてはならないことがあるのです。そのように全員にパンが一個しかないような事態になった時こそ、明らかに困窮や不足が生じているような時こそ、気をつけなくてはならない「パン種」があるのです。パン種は小さくても、全体を膨らませてしまいます。そのように小さく入り込んで全体に悪い影響を及ぼしてしまうパン種があるのです。

ファリサイ派のパン種
 実際、困窮や不足がある時に何が入り込んでくるでしょう。まず可能性として考えられるのは「裁き合い」です。そもそも、いったい誰が悪いのか。誰が正しいのか。そのような議論が始まるのです。そして、それぞれが自分を正当化しはじめます。これこそが「ファリサイ派のパン種」です。

 今日の箇所の直前にはファリサイ派の人々が来て、天からのしるしを求め、議論をしかけたという話が書かれています(11節)。明らかに悪意をもって議論をふっかけてきたのは、以前にファリサイ派の人々とイエス様の一行との間で一悶着あったからです。

 7章をご覧ください。「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た」(7:1‐2)。――「見た」と書かれていますが、要するに「気になった」ということです。だからイエス様を詰問するのです。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(同5節)。

 なぜ弟子たちが昔の人の言い伝えを守っていないことが気になったか。ファリサイ派の人たちは昔の人の言い伝えを一生懸命に守っていたからです。彼らの生活がこんな風に書かれています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(同3‐4節)。

 こういう人は、他の人のことが気になるものです。喜んで守っている人は別でしょうが、義務感から、仕方なく守っている人や、あるいは自分はこれだけ一生懸命に何かを行っていると日頃から思っている人は、守っていない人が気になるものです。自分と同じように行っていない人が気になる。非難したくなる。そういうものです。

 また、当然のことながら、そのように他人の行動を批判的に見る人は、自分も批判されているのではないかと気になるものです。批判されないように一生懸命になる。ですから他人の行動ばかりではなく自分の行動も気になります。どう見えているか。どう判断されているか、と。結果的に自分の正しさを一生懸命にアピールするようになります。表向きの正しさを繕うようになります。それが攻撃されれば自分も攻撃的になります。その結果、律法主義の世界は裁き合いの世界ともなるのです。

 そのようなファリサイ派のパン種が、困窮と不足の中に入り込むとどうなるでしょう。皆が互いの行動を問題にします。いったい誰が悪いのか。誰が正しいのか。そのような議論が始まります。皆が自分を正当化し、自分は正しいと主張し始めます。裁き合いが起こります。そのようなパン種は共同体を崩壊させることとなるでしょう。イエス様は言われました。「ファリサイ派のパン種によく気をつけなさい」。

ヘロデのパン種
 そして、困窮や不足が生じたとき、可能性としてもう一つ考えられることがあります。それは正しさを問題にするファリサイ派のパン種とは対極にあるものです。すなわち、そこでは「正しさ」ではなく、ただ力関係がモノを言うようになる。そのような可能性は確かにあります。困窮や不足を解決する力を持った人、不足を満たすことができる人がいたら、その人が正しいか正しくないかは全く問題にされることなく、人々から持ち上げられることになるかも知れません。その結果、能力にせよモノにせよ、何かを持っている者が影響力を持つ共同体となっていきます。しかし、それこそが「ヘロデのパン種」なのです。

 ヘロデについては洗礼者ヨハネを投獄し、その首をはねた人物として6章に出てきます。ヘロデ・アンティパスというガリラヤおよびペレヤ地方の領主です。しかし、この福音書では「ヘロデ王」と呼ばれています。実際には王ではない人物を「王」と呼ぶのはある意味では皮肉です。王でもないのに王のように振る舞っていた人物であったということです。

 彼は酒の席で踊りをおどったヘロディアの娘にこう言い放ちます。「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」。実はこれは有名な言葉で、当時誰もが知っていたセリフなのです。かつてオリエント一帯を支配した大ペルシア帝国の王クセルクセス一世が口にしたセリフなのです。エステル記に出てきます。つまりヘロデは傲慢にも自らをあのクセルクセス王になぞらえているのです。そして、その王権を示すために、洗礼者ヨハネの首をはねたのです。

 そのような神をも畏れぬ不遜な人物を、それでもなお支持するユダヤ人の一団があったのです。彼らはこの福音書において「ヘロデ派」と呼ばれています。宗教的な一派ではなく政治的なグループです。彼らがヘロデを支持したのはヘロデが正しいからではなく、ヘロデの権力の恩恵にあずかっているからです。ヘロデが力を持っているからです。そのことによって利益を受ける人々だからです。

 先にも申しましたように、そのようなヘロデ派の精神、ヘロデのパン種が共同体の中に入ってくることがあり得ます。正しいか否かはどうでもよいのです。神に対してどのような態度であるかも別にいい。ただ不足を満たし困窮を解決してくれさえすればよい。そのようなヘロデのパン種が教会に入り込むなら、教会という麦粉全体を損なってしまいます。もはや教会ではなくなります。ですからイエス様は前もって弟子たちに言っておられたのです。「ヘロデのパン種によく気をつけなさい」。

神の豊かさに目を留めて
 さて、弟子たちはイエス様の言葉を聞いて思いました。「これは自分たちがパンを持っていないからなのだ」。よほどパンを忘れたことを気にしていたのでしょう。そこでイエス様は言われました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」(17‐19節)。

 もちろん弟子たちは覚えていました。「十二です」と彼らは答えます。イエス様はさらに問いました。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは答えます。「七つです」。そこでイエス様は言われました。「まだ悟らないのか」。

 そうです、彼らは既に悟っていなくてはならないのです。五千人に五つのパンは明らかに足らなかったのです。彼らは困窮していたのです。しかし、イエス様がおられるところにおいては、その困窮は神の豊かさを知る機会となったのです。十二の籠に有り余るほどの神の豊かさです。四千人に七つのパンの時にも、明らかに足らなかったのです。しかし、それは七つの籠に有り余るほどの神の豊かさを知る契機となったのです。

 困窮のあるところ、それは互いに自分の正しさを主張し、裁き合い、悪人捜しをする場所にもなり得ます。困窮のあるところ、それはただ力を持つものが持ち上げられ、力ない者が隷属するような場所にもなり得ます。しかし、そこにはもう一つの可能性があるのです。それは皆が既に来られた救い主に目を向け、救い主を送られた神の限りない慈しみに目を注ぐことです。そして、それは神の豊かさを経験する場所となるのです。

 パウロが後に手紙に書いています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)。その御子が共におられる。窮乏の舟の中にも御子イエス様が共におられる。それがどれほど大きな意味を持っているかを彼らは悟らなくてはならなかったのです。そこでパンが一個しかなくても、全く問題ではない。むしろ一個のパンが既に与えられているではないか、と語ることができるのです。

 「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」。大事なことはパン種を持ち込んでしまわないことです。ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種を外に放り出し、まず神の御業に目を向け喜び祝う。私たちはいつもそのような教会でありたいと思うのです。

2026年6月28日日曜日

「新しく生まれさせる聖霊」

2026年6月28日 主日礼拝説教 

聖書:ヨハネによる福音書 3:1‐8

 今日は6月の第4主日です。先月も申し上げましたが、今年から毎月第4主日は、年度主題を覚えて礼拝をおささげしましょう、ということになりました。今年の年度主題は――もう週報を見ないでも言えますか。――「聖霊の神殿である私たち」です。主題聖句としては「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(1コリント3:16)が掲げられています。

 神の霊が、私たち、すなわち教会に住んでいてくださる。そして、さらに神の霊が、私たち一人ひとりの体を神殿として、住んでいてくださる。パウロは同じ手紙の中で、こうも言っていますから。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(1コリント6:19)。

 神の霊、聖霊が住んでいてくださる。これを「聖霊の内住」と言います。聖霊は内住される御方です。ですから、目に見える人間のことだけを見ていてはならないのです。人間の姿や行うことだけに思いを向けていてはならないのです。そこには、神の霊、聖霊がなさっていることがあるからです。

 今日は、この礼拝の後に総会があります。そこにおいても、ただ人間の行うことだけを考えていてはならないのです。単なる事業報告と会計報告ではないのです。教会は一年間、聖霊のお働きによって保たれてきたのです。第2朗読では、パウロがイスラエルの歴史について語っていましたでしょう。しかし、パウロが一貫して語っていたのは、「神が何をしてくださったか」ということだったのです。私たちも同じです。そこに思いを向け、感謝をささげ、献身を新たにする時としたいと思います。聖霊のお働きに、私たちの思いを向けましょう。

 そこで、聖霊のお働きとして、今日は特に、人を新しく生まれさせる聖霊のお働きに思いを向けましょう。今日の福音書朗読の箇所をどうぞお開きください。

教えを請いに来たニコデモ
 そこにはニコデモという人が登場しました。ファリサイ派に属するユダヤ人です。「ユダヤ人たちの議員であった」とも書かれています。そのような人物が、ある夜、イエスを訪ねて言いました。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(2節)。

 「ラビ!」彼はそのように呼びかけました。「ラビ」と言えば、律法の教師のことです。彼は律法の教師に教えを請いにやってきたのです。実は、このニコデモ自身もまた「教師」なのです。今日の聖書箇所には含まれませんが、10節でイエス様自身がニコデモを「イスラエルの教師」と呼んでいます。イエス様自身もご存じであられた、いわば名だたる教師だったのです。

 そのような律法の教師でもあるニコデモが人目を避けてまでして夜にわざわざやってきたのは、イエス様をただ者ではない特別な教師と見なしていたからです。彼はイエス様を「神のもとから来られた教師」と呼んでいますでしょう。ニコデモは、イエス様の数々の御業の中に、「神が共におられる」という明らかなしるしを見たのです。そのような、神が共におられる特別な律法の教師に、どうしても教えて欲しいことがあったのです。

 「ラビ」と言って教えを請いに来たのですから、その内容は明らかです。「何をすればよいのか」ということです。マタイによる福音書に、ある富める青年がイエス様のもとにやってきて、こう言ったという話が出ています。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)。このニコデモも同じです。彼は教師ですから、これまで教えてきたことがあったのでしょう。もちろん、教えるだけでなく、自ら実行してきたことがあったのでしょう。神の律法に従い、善いことを行ってきたに違いない。しかし、このナザレのイエスという教師を見る時に、自分とは明らかに違う。そのことに気付いたのです。「神が共におられる!」

 神が共におられる教師に教えを請いに来たということは、同じ律法の教師である自分については「神が共におられる」と思えなかった、ということでしょう。律法を教え、律法を実行していながら、それでもまだ神は共におられない。神に受け入れられているとは思えない。神に愛されていると思えない。まだ足りない。まだ神に認められるには十分ではない。このままでは救われない。神の国にも入れない。私が聞かなくてはならない教えがあるはずだ。そう思ったからこそ、人目をはばかるようにしてでも、イエスという教師の教えを請いに来たのです。

新たに生まれる
 そのようなニコデモに対して、主はこう答えられました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。イエス様は、今まで行ってきたことに、さらに何か善いことを付け加えたらよいとは言われませんでした。「あなたがより善い人間になったら、神に受け入れられ、神が共にいてくださるようになり、神の国にも入れてもらえる」とは言われなかったのです。そうではなくて、「あなたに必要なのは新たに生まれることだ」と主は言われたのです。

 「新たに生まれなければならない」。これはニコデモにとっては衝撃的な言葉だったと思います。この「新たに」と訳されている言葉は、「初めから」とも訳せる言葉だからです。ですから、それは、「初めから、赤ん坊からやり直さなくてはならない」という意味に聞こえるのです。明らかに、ニコデモにはそう聞こえたようです。それは、ある意味では非常に厳しい言葉であるとも言えます。「何かこれから善い行いを付け加えるぐらいで、神の国を見ることができると思うな」というようにも聞こえますから。初めから、赤ん坊からやり直しだ、と。

 確かに、やり直しだと言われるなら、やり直したいことはいくらでも思い浮かぶに違いありません。あんなことしなければよかった。こんなことしなければよかった、と。特に、最終的に私たちの人生そのものが神の御前において問われることを考えるなら、私たちが一生をどのように生きて来たかを問われることを考えるなら、なおさらだと思います。人は知らなくても、神様はご存じのことが、いくらでもあるわけですから。それはニコデモも同じだったろうと思うのです。

 しかし、現実には人生をやり直すことなんてできないわけです。拭われないまま残された汚点、放り出してしまったままの問題、神様から問われたら申し開きができないようなことは、いくらでもある。私たちはよく知っているのです。人生やり直しが利かない。年を取れば取るほど、まさに人生のやり直しは利かないということを、いやというほど痛感させられるのです。

 ですからニコデモは言ったのです。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。議論のための議論をしているのではありません。これはいわば人間の悲痛な叫びです。後戻りができないという現実と向き合わざるを得ない人間の悲痛な叫びです。

水と霊とによって生まれる
 しかし、イエス様はニコデモに言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない」(5-7節)。

 主はあくまでも「新たに生まれなければならない」と言われる。ただ、ニコデモが考えていることとは意味合いが違うようです。実はこの「新たに」と訳されている言葉には、「初めから」という意味だけでなく、もう一つ「上から」という意味があるのです。「上から」とは「神から」あるいは「神によって」ということです。要するに、イエス様は「あなたは神によって新たに生まれなければならない」と言っているのです。

 人は神によって新しく生まれることができるのです。イエス様はそれを「水と霊とによって生まれる」と表現しました。この「水」とは「バプテスマ」を指していると考えて良いでしょう。しかし、バプテスマの水そのものが、人を新たに生まれさせるのではないことは言うまでもありません。水はあくまでも水です。人を新たに生まれさせるのは、そこに働く神の霊、聖霊です。

 実は、原文のギリシア語では「霊」という言葉は「風」という言葉と同じなのです。そこで、イエス様は風を引き合いに出して言われました。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)。風はとらえどころないし、目にも見えません。しかし、私たちはその音を聞きます。風が吹けばその風は事を起こします。聖霊も同じです。とらえどころないし目にも見えません。しかし、聖霊は確かに事を起こされるのです。私たちは目に見える人間の姿、人間が行うことだけに思いを向けていてはならないのです。

 聖霊によって人は新しく生まれることができます。神の霊によって生まれたのですから、神の子どもたちになるのです。イエス様が「アッバ、父よ」と呼んでいた神を、私たちもまた「アッバ、父よ」と呼んで生きるようになるのです。人が神の子として天の父に祈り、信頼して生きるようになること。それは、人によって起こったことではありません。聖霊による奇跡です。

 この恵みを経験したパウロは、後にローマの信徒に宛てた手紙の中でこう言っています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8:15)。 ニコデモに必要だったのは、まさにそのことでした。

 神の恵みによって新しく生まれること、神の霊によって神様の子どもにしていただくことです。そして、神を「アッバ、父よ」と呼んで生き始めることなのです。まだ神に愛してはもらえない。まだ神に受け入れてもらえない。まだ足りない。まだ十分ではない。――そのように打ち叩かれることを恐れる奴隷のように生きる必要はないのです。人は神の子とする霊を受けて、神の子として親に信頼し、親を呼び求めながら生きることができる。そのような私たちが神の子どもたちとして神の国を見るのです。それは人間にはできないこと。目に見えない聖霊のお働きです。

2026年6月21日日曜日

「迷信的な恐れからの解放」

2026年6月21日 主日礼拝説教 

聖書:使徒言行録 13:1‐12

 今日は使徒言行録13章が読まれました。ここには、アンティオキア教会からバルナバとサウロが伝道旅行に遣わされたいきさつが記されていました。また、彼らが向かったキプロス島における宣教の様子が記されていました。

聖霊によって送り出されたバルナバとサウロ
 まず、バルナバとサウロが旅立つまでのいきさつを見ておきましょう。アンティオキアはローマ、アレキサンドリアに次ぐ大都市でした。そこにおいて形づくられたアンティオキアの教会は、ある意味では福音が世界へと宣べ伝えられていくための拠点となった教会です。そのようなアンティオキアの教会とは、いかなる教会だったのでしょう。私たちは詳しい情報を得てはいませんが、ここに預言者と教師の名簿が書かれています。これを見るだけでも、教会の一面を垣間見ることができます。

 そこには、エルサレム教会から遣わされてきたバルナバがいます。また、ニゲルと呼ばれるシメオンがいます。ニゲルというのは黒人のことです。シメオンというのはヘブライ名ですから、恐らくアフリカのユダヤ人家庭に生まれ育った人物であると想像できます。

 次に出てくるのはキレネ人です。キレネというのはアフリカ北部にあります。ということは、シメオンと共にアフリカ人ということになりますが、ルキオというのはヘブライ名ではありません。ラテン語の名前です。恐らくユダヤ人ではない。シメオンというヘブライ名と並べられることによって、二人の文化的な背景の違いが強調されているようです。

 ルキオの次に書かれているのは、「領主ヘロデと一緒に育ったマナエン」です。彼は、ヘロデ大王の息子、ヘロデ・アンティパスの幼友達だったわけです。恐らく宮廷との関係にある貴族の出身だったのでしょう。そして、最後に書かれているのはサウロです。タルソ出身のユダヤ人。宗教的には元ファリサイ派のユダヤ人であり、ガマリエルのもとで正統的なラビの教育を受け、かつて教会の迫害者であった人物です。

 教師だけをざっと見ても、これだけ多様であったということです。多様な人々が集まれば、やっかいなことも煩わしいことも起こります。似たようなユダヤ人だけが集まっている教会ならば起こらないようなことも起こったに違いない。しかし、世界へと福音が伝えられるための拠点となった教会を描写するのに、聖書はまずはその驚くべき多様性を挙げているのです。それは、後に福音があらゆる国々、あらゆる文化圏に福音が伝えられていくことを象徴的に表しているからです。そして、アンティオキアの教会にかぎらず、教会とは本来そういうものなのです。

 では、アンティオキア教会では、このような多種多様な人々が、いったいどこにおいて一つとなったのでしょうか。何において一つの方向に動きだし、サウロとバルナバを送り出すに至ったのでしょうか。

 2節にはこのように書かれています。「彼らが主を礼拝し、断食していると、聖霊が告げた。『さあ、バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい。わたしが前もって二人に決めておいた仕事に当たらせるために』」(2節)。そのように、 彼らは礼拝し、断食して祈っていたのです。

 彼らが一つの体に作り上げられたのは、単なる相互理解によるのではありませんでした。一人のカリスマ的人物の指導力によるのでもありませんでした。共通の敵に対して一つになったのでも、共通の目標に向かって一つになったのでもありませんでした。そうではなくて、彼らが一つとなったのは、礼拝と祈りにおいてでした。神を拝み、神の御前に共に身を低くして、共に御心を尋ね求めるところにおいてでした。

 そのような教会に対して聖霊が「バルナバとサウロをわたしのために選び出しなさい」(2節)と語られたということは重要です。礼拝と祈りの中で、教会は神の言葉を聞き、主の御心が確かにここにあると信じたのです。だから、彼らはさらに「断食して祈り、二人の上に手を置いて出発させた」(3節)のです。

 パウロとバルナバが自らの使命感から「行きたい」と言い出して、その情熱と使命感をアンティオキアの教会が理解してサポートしたのではないのです。教会が、キリストの派遣を信じて「出発させた」のです。遣わす者にも遣わされる者にも、共通理解がありました。これが人からではなくキリストから出たことなのだ、ということです。それゆえに聖書は「聖霊によって送り出されたバルナバとサウロは」(4節)と語るのです。

 皆さん、目に映るのは人間の姿です。しかし、人間の姿や行うことだけに思いを向けていてはならないのです。だからこそ、こうして共に礼拝すること、共に祈ることが大事になってくるのです。

魔術師エリマとの戦い

 さて、次に4節以下に目を移しましょう。バルナバとサウロはセレウキアからキプロス島に船出し、サラミスに着きました。サラミスはキプロス島東岸にある港です。そこから彼らは島全体を巡ってパフォスに着きました。パフォスはローマの地方総督の座があったところで、キプロス島における行政の中心でもありました。

 当時のキプロスを治めていた地方総督はセルギウス・パウルスという人物でした。キプロスには迫害によって散らされたキリスト者たちが既に伝道を始めていたようです(11:19)。セルギウス・パウルスも島のうちのユダヤ人たちに起こっている新しい動きを知っていたのでしょう。そこでサウロたちを招いて御言葉を聞くことにしたのだと思います。

 ところが、そこに「ユダヤ人の魔術師で、バルイエスという一人の偽預言者」と呼ばれ、「魔術師エリマ」と呼ばれている人物が登場します。この男はセルギウス・パウルスと交際がありました。彼は、キプロスにおいて大きな支配力をもっていたことと考えられます。

 そのエリマがバルナバとサウロの邪魔を始めたのでした。「魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした(8節)と書かれています。第一回目の伝道旅行において、彼らがまず直面したのは、このような魔術師との対決という問題でありました。

 さて、今日の私たちの周囲には、魔術師という存在はあまり見かけません。なので私たちとは無関係の話に思えます。しかし、実は、この「魔術師エリマ」の当たるものは、形を変えて、私たちの周りにいくらでもあるのです。

 そもそも古代の魔術とは何でしょうか。なぜ霊能者や未来を予知できる人が古代において重んじられたのでしょう。それは人間の内にある「恐れ」に関わっています。人はだれでも自分の手に負えない諸々の力のもとにあることを知っているからです。例えば、古代人にとっては、自然現象に現れる力などは、具体的に彼らの理解も能力をも越えた力であったわけです。ですから、それらの諸々の力を支配することのできる人、あるいはそれらの力の行方を予知することのできる人が必要だったのです。不安と恐れの中にある人間が、「どうしたらいいでしょう」と尋ねることのできる人、「こうしたらよいのだ」と方向を指し示してくれる人が必要だったのです。

 恐らく、地方総督セルギウス・パウルスが魔術師エリマと交際していたのは、助言者としてであり、超自然的な助けを得るためだったのです。地方総督をしていれば、難しい問題に直面することもあれば、迷うこともあり、不安や恐れに捕らわれることはいくらでもあったでしょうから。

 しかし、人間が迷ったり、不安や恐れの内に置かれた時こそ、自分の人生のあり方を問い直すべき大事な時なのでしょう。この世界を本当に治めておられるのは誰なのか、過去も未来も、人間の生も死も手にしておられるのは誰なのか。本当により頼むべき御方、すべてをその御手にゆだねて信頼すべき御方は誰なのか。その時こそ、人間が天地の創造主である御方に向かうべき時なのでしょう。人間の恐れの根本的な解決というのは、その御方の愛を知り、生ける神との愛の交わりの中に身を置くところにしかないのです。

 ところが、人が本当に神に向かおうとする時に、魔術師エリマがそれを妨げるのです。「総督はバルナバとサウロを招いて、神の言葉を聞こうとした。魔術師エリマ――彼の名前は魔術師という意味である――は二人に対抗して、地方総督をこの信仰から遠ざけようとした」(7-8節)。

 聖書は一貫して魔術や占いの類を禁じています。それは本来向かうべき御方を見失わせるからです。すぐに不安や恐れを解決してくれるもの。すぐに迷いを取り除いてくれるもの。すぐに答えを出してくれるもの。それは今日においても、様々なスピリチュアルな、あるいは宗教的な装いをもっていくらでも存在します。もしくは、まったく世俗的な形でも存在します。今日たいへんな勢いで進化している生成AIは、とても役に立つ便利な道具ではありますが、使いようによっては、これもまた神に向かわせることを妨げる、魔術師エリマにもなり得ます。

 バルナバとサウロは何よりもまず「ユダヤ人の諸会堂で神の言葉を告げ知らせた(5節)のでした。これが彼らの働きの中心でした。そして、信仰へ導かれつつあった総督も、バルナバやサウロの行う奇跡を見たいと思ったのではなくて、「神の言葉を聞こうとした」(7節)と書かれているのです。その意味で、総督は正しい方向へ向かっていた。なぜなら、神との真実なる関係は「神の言葉」が語られ、そして聞かれることによってしか生み出されないからです。

 その意味においても、先ほど言いましたように、人間の姿や行うことだけに思いを向けていてはならないのです。私たちは目に見えない御方の、大きなご支配の中にあり、またその御方が、聖霊のお働きを通して、私たちに語りかけてくださるのです。だからこそ、こうして共に礼拝すること、共に祈ることが大事になってくるのです。

2026年6月14日日曜日

「不当な苦しみに遭ったなら」

2026年6月14日 主日礼拝説教 
聖書:使徒言行録16:16‐24

獄中における賛美
 本日は第2朗読で使徒言行録の16章をお読みしました。聖書箇所をどうぞお開きください。使徒言行録16章16節からお読みいたしました。

 ここに書かれているのは、パウロの第2回目の伝道旅行の途中の話です。フィリピに立ち寄った時の出来事です。数日滞在することになったそのフィリピにおいて、パウロはユダヤ人たちが祈りのために集まっているその場所に向かいました。その途中、占いの霊に取り憑かれている女奴隷に出会います。その女奴隷は占いをすることによって、主人たちに利益をもたらしていた人でした。

 その占い師が、パウロとシラスが祈りの場所に行く途中、後ろについてきて、「この人たちはいと高き神の僕で、皆さんに救いの道を述べ伝えているのです」と叫び始めたのです。そのようなことが幾日も繰り返されることとなりました。

 彼女の言っていることは、言葉としては間違っていません。まさにその通りです。しかし、占いの霊がしていることは明らかに宣教の妨げになりました。たまりかねたパウロは、その女を支配している霊に命じました。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、占いの霊が彼女から出て行きました。

 しかし、事はそれで終わりませんでした。占いの霊が出て行った以上、占いはできません。そのため、この主人たちの商売は成り立たなくなりました。金儲けの道が断たれてしまったのです。主人たちは腹を立て、パウロとシラスを捕らえて広場に引き立てていきました。そして高官に引き渡して彼らを訴えたのです。

 これは当事者同士の利害関係の問題ですから、通常であれば訴えに従って正規の取り調べが始まるはずでした。ところが、ここで異常なことが起こります。「群衆も一緒になって二人を責め立てた」(22節)と書かれているのです。しかもこれがかなりの大騒ぎとなりました。そのために高官たちは群衆を満足させて鎮めるため、二人の衣服をはぎ取り、「鞭で打て」と命じたのです。パウロとシラスはさんざん鞭で打たれた挙句、牢に投げ込まれたのでした。

 法治国家においてあるまじきこの異常事態は、なぜ起こったのでしょうか。彼らがイエス・キリストを信じていたからでしょうか。イエス・キリストを述べ伝えたからでしょうか。いいえ、そうではありません。人々にとって、このパウロとシラスがイエス・キリストを信じているかどうかは、どうでもよいことでした。それは訴えた人々の言葉から分かります。彼らは言いました。「この者たちはユダヤ人で、私たちの町を混乱させております。」つまりパウロとシラスは、キリスト者であるゆえに迫害されたのではなく、ユダヤ人であるゆえにひどい目に遭ったのです。

 このことについては、フィリピという町の特殊事情を考慮に入れる必要があります。フィリピは12節にありますように、ローマの植民都市でした。そこではラテン語が語られ、ローマの法のもとに治められ、使用される貨幣にもラテン語が刻まれている、さながら小さなローマともいうべき町でした。そこに住む有力な人々はみな退役軍人などのローマ市民権を持つ入植者でした。そのローマ人たちにとって、ユダヤ人は言ってみれば被占領民族の一つに過ぎません。しかも彼らの目から見て、ユダヤ人というのは頑なに自分たちの習慣に固執して、決してローマ帝国に同化しようとしない、極めて特殊な人々として映っていたのです。

 ローマ人たちの中に少なからず反ユダヤ的な感情があったことは、21節からも分かります。「ローマ帝国の市民である私たちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております。」そのような事情のもとでこの事件は起きたのです。

 自分よりも力の強い者によって不利益が生じた場合、人はそのことをある程度我慢するものです。この女奴隷の主人たちが、例えばローマ皇帝の勅令によって不利益を被ったのであれば、それほどの騒ぎにはならなかったでしょう。しかし人は、自分が軽んじていたり見下している者によって不利益を被った時には、それを我慢することができません。だからこのような騒ぎになったのです。

 彼らにとって我慢ならなかったのは、よりによってユダヤ人が占いの商売を邪魔し、損害を与えたということでした。こういう差別感情というのは、決して好ましいものではありませんが、周知のように一旦火がつくと炎上するものです。これは今日のネット社会においても、しばしば目にする現象です。直接損害を受けたのではない群衆までがパウロとシラスを責め立てました。その差別意識は公職にある高官においても同様でした。彼らは取り調べもせずに鞭打たせたのです。

 繰り返しておく必要がありますが、これはパウロたちが命をかけて取り組んでいた福音宣教に対する迫害ではありません。キリスト教信仰に対する迫害でもないのです。差別によるリンチであり、投獄であったのです。

 人は、自分が命がけで取り組んでいる事業に伴う困難や苦難であれば、ある程度耐えることができるものです。場合によっては、それは喜びにさえなります。理想的な社会を実現するために、あるいは革命を起こすために、自らの血を流し、拷問を耐え忍んだ人々は歴史上に数多く存在します。高い理想があるならば、その実現のために苦難を耐え忍ぶことは、人に誇りと喜びさえ与えるものです。

 その一方で、実に耐えがたいのは、価値あることとは結びつかない苦しみです。不当な、理不尽な仕打ちによってもたらされた苦難です。しかし、私たちが経験する苦悩の圧倒的大部分は、そのような意味や価値とは直接結びつかないものではないでしょうか。なぜ自分がこのような思いをしなければならないのか、どうしてこんなことになるのかと思わざるを得ないような苦しみの方が、私たちの経験の中ではるかに多いのではないでしょうか。

 この章のパウロとシラスもまた、彼らからすれば全く意味のない、価値とは結びつかない苦しみの中に置かれていたのです。

 今日の朗読箇所はここまでですが、この先を少し読み進めてまいりましょう。25節に「真夜中ごろ」と書かれています。彼らは真夜中になっても、まだ起きているのです。おそらく痛くて眠れなかったに違いありません。また彼らがはめられていた「木の足かせ」というのは、足を開かせたまま座らせて固定するものでした。横になることもできません。どう考えても苦しくて眠れるはずがないのです。そのような眠れない夜――理不尽な、不当な仕打ちによってもたらされた眠れない夜を、彼らは経験していたのでした。

 しかし、そこで最も印象的なのは、そのような苦しみを負った彼らが、獄中において賛美して祈っていたという姿です。

 この姿を見る限り、パウロとシラスにとって、自分が受けている苦しみに意味があるかどうかは、おそらく大事なことではなかったのでしょう。苦しみの意味は神様が考えてくださればそれでよかったのです。彼らにとってはもっと大事なことがありました。それは、牢獄の外にある時と同じように、牢獄の中においても彼らが神と共にあるということです。彼らが神の御前にあるということです。そして、それはまた大きな恵みでもあります。神の御前にある愛されている子どもたちとして、神様を礼拝することができ、祈ることができる。四方を壁に囲まれていても、愛する主に近づくことができるという事実こそ、彼らにとって最も大きなことだったのです。彼らは賛美し、祈っていました。

救われるためには
 物語はさらに続きます。その夜突然大地震が起こりました。見張っていた看守にとって、それは卒倒するような出来事でした。事実、卒倒したのでしょう。そして目を覚ました看守が目にしたのは、地震によって開いてしまった牢の扉でした。囚人たちが逃げてしまった――彼はとっさにそう思いました。囚人が逃げるということは、自分の命をもって償わなければならないことでした。この看守にとって最大の危機でした。

 しかし、彼が自害しようとしていた時に、闇の中から大声で叫ぶ声を聞いたのです。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」パウロの声でした。

 注目すべきは、この看守が「ああよかった」と言ったとは書かれていないことです。ほっとして喜んだとも書かれていません。彼は震え上がったのです。震えながらひれ伏して、こう尋ねました。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」(30節)

 パウロとシラスが獄中で賛美して祈っていた時、看守の目にはそれが不思議に映ったことでしょう。あるいは心のどこかに惹かれるものを感じていたかもしれません。しかし、いずれにしてもそれは所詮他人事でした。自分とは関係のないことだったのです。

 しかしこの一連の出来事の中で、自分自身が危機的状況に置かれ、大きな苦しみの中に置かれた時、パウロたちが祈っていた姿、賛美していた姿は、もはや自分とは無関係ではなくなっていました。彼は、パウロたちが賛美していた神、生ける真の神の前に自分がいるということに気づいたのです。神を意識せざるを得なくなったのです。

 それまでは、他の人が信じている神に過ぎませんでした。しかし人が真に生ける神を意識せざるを得なくなった時、もう一つ意識せざるを得なくなることがあります。それは、その神の前に自分はどう生きてきたか、ということです。自分自身の様々な罪と穢れです。神様が本当においでになるならば、神様はすべてをご存知です。この私はその神に受け入れられるのか、それとも罪人として滅びるのか。この私は赦されるのか、それとも赦されないのか、救われるのか、救われないのか。それが決定的に重要な問いとなります。だからこの看守は、神を意識した時に震え上がったのです。そしてこう問いました。「救われるにはどうすべきでしょうか。」

 「何を行うべきでしょうか」と彼は尋ねました。しかし、パウロはこの問いに直接答えませんでした。なぜなら、救いは何らかの行いと引き換えに得られるものではないからです。大事なことは「何を行うか」ではなく「誰を信じるか」なのです。罪人を救うために世に来られた救い主を信じることです。パウロは答えました。「主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われます。」(31節)

 パウロとシラスは看守とその家族に主の言葉を語りました。彼らは主を信じて洗礼を受けました。そして34節に「神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ」と書かれています。

 彼らはこの後どうなったのでしょうか。私たちには知る由もありません。ただ想像できることはあります。この看守がパウロとシラスを助け、キリストを信じる者となり、クリスチャンとしてフィリピで生きていくことになったとすれば、おそらく困難なことが待ち受けていたに違いありません。苦難や迫害を経験することになったかもしれません。

 しかし彼らの生活の中に苦難があるかないか、その苦難に意味があるかどうかは、彼らにとって決定的に重要なこととはならなかったでしょう。なぜなら、彼らは神を信じる者となったことを喜んだのであって、苦難がなくなったことを喜んだのではないからです。そのような彼らにとって大事なことは、パウロとシラスにとってそうであったように、この看守と家族もまた、神の御前にあるということ、神に赦され受け入れられた者として神の御前にあるということであったのでしょう。どのような状況に置かれても、人は神を賛美し、神に祈りながら生きていくことができる。そのことを、彼らもまた身をもって知っていったに違いありません。

2026年6月7日日曜日

「人を通して実現される神の御業」

2026年6月7日 主日礼拝説教 

聖書:使徒言行録 4:13-31

人からか神からか
 今日の第二朗読では使徒言行録が読まれました。今日の箇所の前半部分は、ペトロとヨハネが議会で尋問を受けている場面です。彼らが尋問を受けているのは逮捕されたからです。彼らが逮捕された次第は、この章のはじめに次のように記されています。「ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。既に日暮れだったからである」(1‐3節)。

 そのような事情で投獄された彼らは、翌日、引き出されて尋問を受けることとなったわけです。「次の日、議員、長老、律法学者たちがエルサレムに集まった。大祭司アンナスとカイアファとヨハネとアレクサンドロと大祭司一族が集まった。そして、使徒たちを真ん中に立たせて、『お前たちは何の権威によって、だれの名によってああいうことをしたのか』と尋問した」(5‐7節)。そこで、ペトロが答弁を始めたのでした。

 今日はその答弁の内容には触れません。しかし、その結果は次のように記されています。「議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった」(13節)。ここからが本日の聖書箇所です。

 さて、「ペトロとヨハネの大胆な態度」とありますが、私たちは彼らがもともとそういう人たちではなかったことを思い起こす必要があります。今読んでいる使徒言行録はルカによる福音書に続く二巻目なのですが、6節の「大祭司アンナスとカイアファ」は一巻目のルカによる福音書にも出てきたのです。それはイエス・キリストが捕らえられた場面です。イエス様がまず連れて行かれたのは大祭司の家でしたから。

 あの時、ペトロは遠く離れて後からついていったのでした。彼が中庭にまで入っていった時、ある女中が目にして「この人も一緒にいました」と言います。するとペトロはすぐにその言葉を打ち消して言いました。「わたしはあの人を知らない。」なんと彼は三回も同じことを繰り返してしまうのです。

 三回目にイエス様との関係を否定した時、鶏が鳴きました。そして、次のように書かれています。「主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、『今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう』と言われた主の言葉を思い出した。そして外に出て、激しく泣いた」(ルカ22:61-62)。そうです、これがもともとのペトロの姿でした。

 しかし、今日の箇所に出て来るペトロは明らかに違っています。ユダヤの権力者たちは、ペトロとヨハネに、今後決してイエスの名によって話したり教えたりしてはならない、と命令し、脅迫します。するとペトロは答えるのです。「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(19節)。

 あの時とこの時の間に何が起こったのか。それはイエス・キリストの十字架刑とキリストの復活。そして、聖霊の降臨です。――ここに見るのは「聖霊に満たされた」ペトロの姿なのです。それはペトロが、「もっと強くならねば」と思って努力して、自力で強い人間になったということではないのです。

 そして、「二人が無学な普通の人であることを知って驚いた」と書かれています。無学な者というのは、律法の専門教育を受けてはいないということです。普通の人というのは、資格を持っていない人という意味です。つまり彼らが見たのは、この世の教育や資格に由来するものではなかったということです。また、人間の能力や経験に由来するものでもなかったということです。

 それは既にキリストが予告しておられたことでした。「…人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたにとって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである」(ルカ21:12‐15)。そして、主が言われたとおりになったのです。大祭司や議員たちが耳にしたのは、人からの知恵や知識ではなく、神からの知恵であり知識だったのです。

 さて、この箇所を読みます時に、私たちは教会としても、また個々の信仰者として願っていることは何なのかと改めて考えさせられます。――私たちが願っているのはどちらなのでしょう。私たちが神のために何かを成し遂げることですか。それとも、神が私たちを通して何かを成し遂げてくださることでしょうか。私たちが見たいと思うのは、神のために一生懸命行った私たちの働きでしょうか。それとも、私たちを通して実現される神の御業なのでしょうか。人間に由来するものでしょうか。それとも神に由来するものでしょうか。

皆、聖霊に満たされて
 もし教会の歩みにおいても、私たちの人生においても、神がなさることを見たいと思うなら、決定的に重要なことは「わたしが、わたしが」と言って「わたし」が満ちていることではなくて、ペトロがそうであったように、「聖霊に満たされて」いることなのです。そして、今日の聖書箇所は、ペトロだけではなく、「皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語り出した」(31節)と締めくくられているのです。

 そこに書かれている「皆」というのは、ペトロとヨハネの仲間たちです。「さて二人は、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した」(23節)と書かれているとおりです。それを聞いた彼らはどうしたでしょうか。「これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った」(24節)。すなわち、彼らは祈ったのです。心を一つにして祈ったのです。そのような彼らが聖霊に満たされたのです。そして、ペトロと同じように大胆に御言葉を語る者とされたのです。

 祈るとはどういうことか。今日の聖書箇所にはっきりと示されています。彼らはこのように祈り始めました。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」(24節)。このように祈りとは、まず神へと目を転じることから始まるのです。

 現実には彼らは大きな問題に直面していたのでしょう。ペトロとヨハネが捕らえられて脅迫されたということは、すなわちその仲間もまた脅迫の対象であるということです。当局がペトロとヨハネに対して「決してイエスの名によって話したり、教えたりしないようにと命令した」ということならば、当然、教会もまたその規制の対象となるのでしょう。それは誕生したばかりの教会にとっては大きな打撃です。

 しかし、彼らは直面している問題の大きさではなく、神の偉大さに目を向けたのです。彼らは大声を上げて天地の創造主であるお方への信仰を言い表したのです。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」と。

 小さな一円玉でありましても、目の前に置くならば、それが世界の全てを覆い隠して見えなくします。同じように、私たちの直面している問題もまた、目の前に置かれれば世界の全てを覆い隠します。それが世界の全てになるのです。しかし、私たちは目を転じなくてはなりません。創り主の偉大さに目を向ける時に、今まで世界の全てであるかのように思えた問題もまた、神の御手の内にある一つの出来事に過ぎないことを知るのです。それは決して神の御手の外に出てしまうようなことではないのです。

 そして、もう一つ。彼らはこう祈っています。「主よ、今こそ彼らの脅しに目を留め、あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」(29‐30節)。

 彼らは直面している問題をそのまま単純素朴に神様に語ります。神様の前にすべてを広げるのです。「目を留めてください」と。その上で、彼らは祈ります。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください。」

 彼らは、脅迫されているという現状を神に訴えて、「そこから逃れさせてください」と祈ったのではありません。また、「脅迫がなくなるように」と祈ったのでもありません。彼らが求めたのは困難を取り除かれることでも、困難から逃れることでもありませんでした。そうではなくて、恐れを取り除かれることを願ったのです。「あなたの僕たちが、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」と。

 そして、そこに神の御業が現れることを願い求めたのです。「御手を伸ばしてください」と彼らは祈ります。彼らが望んでいるのは、人間の働きを通して、実際には神が御手を伸ばしてくださることなのです。神が彼らを用いて神にしかできなことを実現してくださることなのです。「病気がいやされ、しるしと不思議な業が行われるようにしてください」とはそういうことです。

 そのように、祈るということは、神の御業のために自分自身を差し出すことでもあるのです。その時に、もはやそこに満ちているのは「わたしが、わたしが」と主張する「わたし」ではないはずなのです。そこに神の霊が満ちるのです。主が支配し、主が御業をなしてくださるのです。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした」。

 そのように、今私たちがしているように、共に集まり共に祈ることを大切にしましょう。共に神に目を転じ、貧しい私たち自身を共に差し出すこの時を大切にしましょう。そして、このような私たち自身を通して神の御業が現れることを一緒に期待して、ここから出ていきましょう。そのように聖霊に満たされた教会となることを共に求めてまいりましょう。


2026年5月31日日曜日

「神との養子縁組」

ローマの信徒への手紙 8:12-17

肉に従って生きるのではなく
 今日の第二朗読では、次のような御言葉が読まれました。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」(ローマ8:12)。

 「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務」という言葉は、恐らく私たちの日常生活では決して耳にすることがない、聖書独特の表現であると言えるでしょう。そもそも「肉」とは何でしょう。パウロが「肉」と言う時、それはいわゆる「肉欲」を指すのではありません。「肉欲」に従って生きることを言っているのではありません。

 ここで言う「肉」とは、生まれながらの私たち自身です。いわば信仰を持つ以前の私たち自身、自分の努力と頑張りだけで生きてきた私たちです。それを「肉」というのです。

 実際には、信仰者となって後も、この「肉に従って生きる」ということは起こり得ます。神の御心に従って生きたいと願います。信仰者ですから。しかし、相変わらず自分の努力と頑張りによって、自分の力に寄り頼んで、神の御心に従って生きようとするのです。だからパウロは言うのです。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」。

 キリスト者はキリスト者らしく生きるべきだ。――それは誰でも考えることだろうと思います。「わたしたちには一つの義務があります」とパウロも言います。何の義務もない。何の責任もない。別にどのように生きても良いのです、とパウロは言いません。しかし、私たちが考えなくてはならないのは、肉に従ってキリスト者らしく生きることではないのです。自分の努力と頑張りで、自分の力を振り絞って、神の御心に従って生きることではないのです。そんなことをしたら「死にます」とパウロは言うのです。

 これは肉の内に働く罪の力の大きさを知るパウロだからこそ言える言葉なのです。人間の内にある罪の問題がいかに深刻であるかは、7章においてパウロが言葉を尽くして語っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(7:18-20)。

 そのような私たちが、それでもなお自分の肉に従って、自分の努力と頑張りによって神の御心に従おうとするならば、どうなるかはパウロにとって明白だったのです。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」と。ならば、大事なことは「肉に従って生きる」ことではないのです。そうではなく、「霊に従って生きる」ことなのです。

 では「肉に従って生きる」のではなく「霊に従って生きる」とは、どのように生きることを意味するのでしょうか。パウロはこう言っています。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(14節)。――ここに「霊に従って生きる」ということがどういうことか、はっきりと書かれています。霊に従って生きるということは、神の霊に導かれて生きることです。神の霊に導かれて生きるということは、神の子として生きることなのだと聖書は言っているのです。

霊に従って生きる
 では、「霊に導かれる神の子」として生きるとは、どういうことでしょうか。具体的に私たちはどのように「霊に従って」生きたら良いのでしょうか。続きをお読みします。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(15節)。

 ここには二つの大事な認識があります。第一は神についてです。私たちが受けたのは、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではない」と書かれているのです。つまり、私たちが信仰者となるということは、神の奴隷のようになることではないということです。言い換えるならば、神は奴隷の主人のような御方ではないということです。

 この手紙が書かれた頃、ローマ帝国内には奴隷と呼ばれる人たちがたくさんいました。初期の教会の構成メンバーの多くは奴隷の身分の人たちでした。ですから、パウロが「奴隷」と「恐れ」を結び付けて語っていることについては、感覚的に理解できただろうと思います。

 奴隷は主人の言うことを聞きます。奴隷は主人に従います。どうしてですか?言うことを聞かないと打ち叩かれるからです。痛い思いをするのはいやです。だから主人に従うのです。いつ打ち叩かれるか、ビクビクしながら言うことを聞いて一生懸命に働きます。これが奴隷と主人の関係です。

 信仰生活がそのような奴隷と主人との関係のようになってしまうことは確かにあり得ることです。神様の言うことを聞かないと打ち叩かれる。間違ったことをしてしまったら罰を与えられる。御心に沿わないことをすれば災いに遭う。最終的には救われることもなく、神の国からも締め出される。それはとても恐ろしいことだから神様の言いつけを守る。従順に生きようともする。いつ神様に怒られるか、ビクビクしながら神様に従う。――皆さん、もしそうならば、それは奴隷と主人の関係以外の何ものでもありません。

 そこから生まれるのは何ですか。「肉に従って生きる」という生活でしょう。頑張って、努力して、神様に認めてもらうしかないのですから。しかし、パウロは言うのです。あなたがたが受けたのは「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」ではありません、と。

 そこで大事なもう一つの認識があります。それは私たちについてです。「あなたがたは、…神の子とする霊を受けたのです」。ここに「神の子とする」とありますが、実際には「養子にする」という言葉が用いられているのです。私たちは「養子にされたのだ」というのです。

 私たちは自分が神の子どもとしてふさわしいかどうか、いつも自分の方を見て考えるのでしょう。そして、自分はふさわしくないなどと口にするかもしれません。しかし、養子にするかどうかは神が決めるのです。神が受け入れるならば、私たちがふさわしかろうがなかろうが関係ないのです。神が受け入れてくださるならば、私たちは神の養子となるのです。

 そもそも、ふさわしいかふさわしくないかを言うならば、もとより私たちは皆、ふさわしくはないのです。どう考えてもふさわしくないのです。だから、特別な手続きが必要だったのです。

 養子とする霊、聖霊が降って教会が誕生する前に、この地上において何が起こったのかを皆さんはご存じでしょう。イエス・キリストの十字架と復活です。イエス様が十字架において私たちの罪を全て代わりに負ってくださった。私たちの罪を贖ってくださった。だからこそ、私たちは罪を赦された者として、安心して養子となることができるのです。

 そして、パウロが念頭に置いているローマの養子縁組においてはもう一つ大事なことがありました。一度養子とされるならば、子どもとしての権利に完全にあずかることになるのです。つまり、養子となった場合、その家に実の子どもがいたとしても、なんら区別はなされないのです。親との関係において、立場的には全く同じところに立つことになるのです。

 これを神との関係において考える時に、私たちは驚くべきことがここに語られていることに気づきます。父なる神との関係において「実の子」と言えば、それはイエス様ではありませんか。しかし、私たちが「養子とされる」ということは、立場的にはイエス様と全く同じところに立つことになるのです。ですからその後には「キリストと共同の相続人」(17節)などと書かれているのです。これこそが、私たちの持つべき自己認識です。

 それは何を意味するのでしょう。イエス様がこの地上で神を「アッバ、父よ」と呼んでいたように、私たちも同じように「アッバ、父よ」と呼ぶことができるということです。ですから15節にはこう書かれているのです。「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と。

 「アッバ」というのは、小さい子が親しみと信頼を込めて「パパ」と呼ぶのと同じです。私たちは福音書を読む時に、そのように父の名を呼び続けながら地上の歩みを進められたイエス様の姿を見ることになります。しかし、なんとそこに私たちもいるというのです。私たちも同じように父の名を呼んで、祈って生きることができるのです。そして、父なる神が御子なるイエス様に応えられたように、私たちの祈りにも父として応えてくださるということなのです。

 このように、私たちが神の子どもとして生きるということは、具体的には「アッバ、父よ」と呼びかけながら、祈りながら生きていくということに他なりません。神の霊に導かれた神の子どもとして生きるということは、絶えず祈りながら生きるということなのです。

 私たちが祈ることをやめてしまうなら、私たちは必然的に、肉に従って生きることになるのでしょう。そして、肉に宿っている罪との戦いに負け続け、敗北感に苛まれるだけの信仰生活となってしまうかもしれません。その敗北感を回避したければ、結局は表向きだけを繕いながら生きるか、あるいはキリスト者としての生活を放棄するか、そのいずれかになってしまうことでしょう。

 その意味でも、「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」という言葉は真実です。そうならないためにも、私たちは共に神の子どもたちとして父を呼びながら生きていくのです。私たちが今そうしているように、共に集まって礼拝を捧げ、共に父に依り頼みながら、悔い改めながら、赦していただきながら、助けていただきながら、父に寄り頼んで生きたらよいのです。天の父を呼び続ける祈りの生活を失ってはなりません。せっかく養子にしていただいたのですから。

2026年5月24日日曜日

「弁護者・助け主としての聖霊」

2026年5月24日 聖霊降臨祭 礼拝説教 

聖書:ヨハネ14:15-27

あなたがたと共に、あなたがたの内に
 今日は5月の第4主日ですが、今年から毎月第4主日は、年度主題を覚えて礼拝をおささげしましょう、ということになりました。今年の年度主題は週報の真ん中に書かれています。「聖霊の神殿である私たち」です。主題聖句としては「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(1コリント3:16)が掲げられています。

 今日はペンテコステ(聖霊降臨祭)でありますが、ちょうど第4主日に当たったことには意味があるのでしょう。今年はこの年度主題をも念頭に置きながら、今日与えられている聖書箇所を通して、主の御言葉に耳を傾けたいと思います。

 主は今日の箇所でこう言っておられました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(14:16-17)。

 この霊、すなわち「聖霊」が、「あなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいる」と主は言われました。これをパウロは、今年の主題聖句において、「自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」と表現していました。

 ところで、「あなたがたは知らないのですが」とパウロは言っていました。いや、本当は知っているはずなのです。しかし、知らないかのように振る舞い行動してしまうこと、知らないかのように生活してしまうことは、あるのでしょう。知ってはいるけど、忘れているからです。

 「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」イエス様も「あなたがたはこの霊を知っている」と言ってくださっているのですから、知っていることを忘れないようにしましょう。「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」――ここから改めて、このことを意識して教会生活を送りましょう。そうあってこそ、毎年こうして聖霊降臨祭が巡ってくることにも意味があると言えますから。

 「この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいる」。教会における営みは、ただ人間が計画し、人間が行うことによって成り立っているのではないのです。「この霊があなたがたと共に、あなたがたの内に」。もし、人間が行うことが全てなら、馬鹿げたことをしているとしか言いようのないことが教会にはたくさんあるのです。例えば、このあと行う聖餐式。おままごとじゃあるまいし、みんなが神妙に列を作って、こんな栄養も取れない小さなパンを食べることに何の意味があるでしょう。馬鹿げているとしか言いようがない。

 しかし、そうではないのです。それこそ、迫害に遭おうが、何があろうが、命をかけてでも教会はこのことを二千年間も続けてきたのです。それは人間が行うことがすべてではないからです。「この霊があなたがたと共に、あなたがたの内に」。その聖霊が行っていることがあるのです。そこには永遠の救いに関わること、この世からは絶対に得られない、天来の祝福に関わることが起こっているのです。

 そして、それは教会の中でのことだけではありません。私たちの毎日の生活、私たちの人生においても、私たち自身と、私たちに関わっている人間がしていることがすべてではないのです。私たちがこの世に遣わされ、この世に散らされている時にも、私たちそれぞれは教会の一部、キリストの体の一部なのです。こうして集まっている時だけでなく、私たちが一人でいる時でも、教会の一部、キリストの体の一部なのです。ならば、そこでも同じことが言えるのです。「この霊があなたがたと共に、あなたがたの内に」。

 私たちの生活には、聖霊が行っていることがあるのです。私たちの人生には、聖霊が行っていることがあるのです。それは聖霊なる神が行っていることですから、人間などには想像もつかないような、私たちには計り知れないようなことが起こっているのです。

 「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」イエス様も仰っているこのことを、忘れないようにしましょう。

別のパラクレートスを遣わしてくださる
 さて、私たちと共におり、私たちの内におられる聖霊について、イエス様は「弁護者」という表現を用いていました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(16節)。ここでイエス様は「別の弁護者」について語られます。

 度々申し上げていることですが、「弁護者」と訳されているのは「パラクレートス」という言葉です。「傍らに呼ばれた者」というのが元の意味です。それはとても豊かな内容をもった言葉です。ですから他にも様々な言葉で訳されます。「助け主」「慰め主」「解放者」、そのように傍らに来てくださる方です。共に立ってくださる方です。味方になってくださる方です。それゆえに「友だち」という訳まであります。

 それまでは目に見える姿で共にいてくださったイエス様こそ、まさに弟子たちにとってはパラクレートスでした。「弁護者」「助け主」「慰め主」「解放者」そして、「友だち」。しかし、イエス様がこれが語られたのは、最後の晩餐の場面であることを忘れてはなりません。パラクレートスであるイエス様は、今や世を去って父のもとに帰ろうとしているのです。

 だからイエス様は、父にお願いしてくださると言うのです。そして、父は別のパラクレートスを遣わしてくださる。永遠に一緒にいるようにしてくださる。そうイエス様は言われたのでした。その「別のパラクレートス」こそ聖霊です。イエス様が天に帰られた後、弟子たちのところに聖霊が来てくださると主は言われたのです。

 そして、聖霊は来てくださいました。どのようにして来てくださったかは、第2朗読でお読みしました。今日はその出来事を記念する聖霊降臨祭です。イエス様が天に帰られた後、弟子たちの群れに聖霊が降ったことを毎年こうして祝っているのです。別のパラクレートス、聖霊が来てくださって、教会の歴史は始まりました。そして、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とイエス様が言われたとおり、その時だけでなく、パラクレートスなる聖霊がずっと一緒にいてくださって今日に至るのです。

この方は、真理の霊
 そして、イエス様はそのパラクレートスなる聖霊を「真理の霊」と呼ばれました。「この方は、真理の霊である」と。そのように、聖霊は「真理の霊」として、真理を私たちに示してくださり、伝えてくださり、悟らせてくださる。そのような御方です。

 しかし、そこで重要なのは「真理」とは何かということです。私たちが本当に知らなくてはならない「真理」が、ある「思想」であり「概念」であるならば、それは言葉をもって伝えることができるでしょう。しかし、そうではないのです。イエス様は言われたのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)と。私たちが知るべき「真理」とは抽象的な概念ではありません。それは一人の御方です。イエス・キリストという御方なのです。

 イエス・キリストを知識として知るだけならば、それは言葉による伝達で十分なのでしょう。それは人と人との間でも同じでしょう。誰かについて、知識として知るだけなら、その人の情報を言葉によって知るだけで十分です。しかし、誰かについて、本当の意味で「その人を知っている」と言えるようになるには、人格的な交わりという意味で「その人を知っている」ということならば、その人と出会い、その人と共にいて、実際的な交わりがあるということは不可欠じゃないですか。

 「真理を知る」ということが、イエス・キリスト**を**知るということならば、キリスト御自身に来ていただくしかありません。キリスト御自身が共にいて、キリスト御自身が働きかけ、キリスト御自身が救いの御業を表してくださるしかありません。聖霊が「真理の霊」として、キリストを伝えてくださるというのなら、ただ「イエス様という御方はね・・」と言って教えてくださるだけでなく、キリストを実際にお連れくださるしかありません。そして、それが起こっているのです。聖霊のお働きによって。

 なんか、リモートワークみたいだな、と思う時があります。天に上げられたキリストが、地上において救いの御業をなされるというのは、ある意味では究極のリモートワークともいえます。聖霊を通してのリモートワーク。しかし、私たちが知るリモートワークと決定的に違うのは、声や言葉、映像や働きだけでなく、実際においでくださるということです。

 だから「この霊があなたがたと共におり、これからも、あながたの内にいるからである」と言われた時、さらにこう言われたのです。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(18-20節)。

 「あなたがたのところに戻って来る」。――それはキリストの復活や再臨をも念頭に置いた言葉でしょうけれど、一番大事なのは、パラクレートスなる聖霊を通して共にいてくださるということです。そのような神とキリストとの豊かな交わりをもたらしてくださる聖霊が、パラクレートスなる聖霊が、私たちと共に、そして私たちの内にいてくださる。私たちはその聖霊の豊かな御業の中にあるのです。今、こうして私たちが共にあつまり礼拝していること自体が、既にその現れなのです。

2026年5月17日日曜日

「心の目を開いてください」

2026年5月17日 主日礼拝説教 

聖書:エフェソの信徒への手紙 1:15‐23

心の目を開いてください
 「心の目を開いてくださるように」。今日お読みした聖書箇所にそう書かれていました。パウロの祈りです。「心の目を開いてくださるように」。それは、この肉の目では見えないからです。どんなに頑張って目を凝らしても肉の目では見えない。だから心で見るしかないのです。それは何か。――「希望」です。聖書の表現によれば、「神の招きによってどのような希望が与えられているか」(18節)ということ。これは肉の目には見えないのです。開かれた心の目でなければ見えないのです。

 「神の招きによってどのような希望が与えられているか」。――聖書は「神の招き」について語ります。そう、私たちは神に招かれて、神に呼ばれてここにいるのです。教会に身を置いていること、神を礼拝していること、聖書の言葉に耳を傾けていること、神を信じていること、洗礼を受けたこと、これらすべてのことは、単に私たちがそうしたいと思ったから実現したのではありません。そうではありませんか。

 ここに至るまでに、私たちの意志とは無関係に与えられた様々な出来事や様々な出会いがあったはずなのです。それらはすべて向こうからやってきたものです。向こうからやってきた全てを通して、神が招いてくださいました。そのようにして、私たちは集められたのです。ですから、そのような集まりは昔から「エクレーシア」と呼ばれていました。それは当時の一般的な市民集会を指す言葉です。日本語ですと「教会」と訳されます。しかし、「エクレーシア」とはもともと「呼び集められたもの」という意味の言葉なのです。

 神が集められたのならば、そこには神の意図があるはずです。人が薪を集めるなら、それは火にくべるためです。神が人を集めるならば、それは地獄の火にくべるためであってもおかしくはありません。人間の罪深さを思い、自分自身の罪深さを思うならば、それもまた一つの可能性であり、本来ならばそちらの可能性の方が高いとも言えます。

 しかし、集められた私たちは全く異なる言葉を聞いたのです。イエス・キリストは私たちの罪の贖いとして十字架にかかってくださった。その十字架のゆえに「あなたの罪は赦された」という宣言を聞いたのです。私たちは集められて――福音を聞いたのです。私たちは、イエス・キリストの神、イエス・キリストをこの世に送ってくださった神が、私たちを集めてくださったのだということを知らされています。言い換えるならば、神が私たちが集めてくださったのは、私たちを救うためであることを、私たちはキリストを通して知らされたのです。

 私たちを愛し、赦し、救ってくださる神が、私たちを招いてくださった。それが私たちの希望の根拠です。救いの神によって招かれた――だから既に希望は与えられているのです。招かれたことにおいて、原理的には既に希望は与えられているのです。

 しかし、与えられたものが見えているかどうかはまた別の話です。持っていることと、それを見て喜んでいることとは別の話です。持っていても見えていないがために、全く喜んでいないことはいくらでもあり得る。だからこそ「見える」ということが必要なのです。

 パウロにははっきりと見えている。しかし、エフェソの教会の人たちにはどうも見えないらしい。だからパウロはエフェソの教会のために神様に祈っているのです。「心の目を開いてくださるように」と。それは私たちのための祈りでもあります。皆さんは、聖書の中でパウロの書いていることと自分自身の生活との間に、ギャップを感じることはありませんか。私はよく感じるのです。パウロには見えていることが私たちにはまだ見えていない。そう思わざるを得ないことがたくさんあるのです。だからもっと見えるようになりたい。それゆえにパウロの祈りは私のための祈りでもあるのです。「心の目を開いてくださるように」。これは私たちのための祈りの言葉です。

受け継ぐべき栄光の富が見えるように
 さて、そのように「心の目を開いてくださるように」と祈って、見えるようになりたい希望の内容について、もう少し細かく見ていきましょう。希望の内容は大きく二つあります。希望の内容の第一は未来に関すること、第二は現在に関することです。第一は神の国に関すること、第二はこの世の生活に関することです。

 まずは未来に関すること。「神の招きによってどのような希望が与えられているか」。心の目によって見るべき希望とは何か。パウロはこう言い換えています。「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(18節)。「聖なる者たち」とは、いわゆる特別な「聖人」のことではありません。パウロが「聖なる者たち」と言う時、彼は信仰者について語っているのです。ここで語られているのは、信仰者が「受け継ぐもの」です。

 それを言い換えると「神の国」となります。これは私たちの最終的な救いに関わる希望です。そして、受け継ぐべき「神の国」について語る時、彼が用いているのは「どれほど豊かな栄光に輝いているか」という表現でした。これは直訳すると「栄光の富」という言葉です。そうです、「栄光の富」を受け継ぐのです。

 「栄光」というのは、もちろん神の栄光のことです。17節に「栄光の源である御父(直訳では「栄光の父」)」と書かれている通りです。つまり、その「富」、その豊かさは、この世から受ける富ではない。栄光の神から受ける豊かさだということです。パウロが未来について、神の国について考える時、真っ先に頭に浮かんでくるのは、神から受けることになる、とてつもない豊かさが待っているというイメージだったのです。

 さて、エフェソの信徒への手紙はパウロの「獄中書簡」の一つです。実際には、この手紙を書いた時、パウロはその信仰のゆえに獄中にいるのです。かつて彼が持っていたもの一つ一つを失って獄中にいるのです。そして、最終的には自分の命さえそこで失うことを覚悟しているのです。それはある意味でパウロに固有のことではありません。獄中にいなくとも、ある程度長く生きていれば、私たちもまた、一つ一つを失いながら、手放しながら、生きることになるのでしょう。そして、最後には自分の命をも失います。

 この世のことしか考えられなければ、すべてを失って終わりということになるのでしょう。この世の人生しか考えられなければ、それが人生の結論です。しかし、この手紙を読んでも、他の手紙を読んでも、パウロは失った一つ一つを数えて嘆いてはいないのです。なぜか。――来るべき世において受け継ぐべきものが見えているからです。受け継ぐべき神の国が見えているからです。神から受けるべき栄光の富が見えているからです。開かれた心の目によって、神の招きによって与えられた希望が見えているからです。

 「心の目を開いてくださるように」。――これは私たちのための祈りの言葉です。

絶大な働きをなさる神の力が見えるように
 そして、第二は現在に関することです。この世の生活に関することです。パウロは祈りをこのように続けます。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」(19節)。「この絶大な働きをなさる神の力」ということで語られているのは、私たちの現在に関する話、この世の生活に関する話です。

 私たちはこうして共に神を礼拝し、神と共に歩む生活において、来るべき神の国を、神の救いの豊かさを、ある意味では、既に味わい始めています。しかし、もう一方において、この世に生きる限り、私たちには戦いがあります。信仰生活には喜びがあるだけでなく、苦闘もまたあるのです。私たちにとって、信仰生活における戦いの戦場はどこにあるのでしょう。家庭でしょうか。学校でしょうか。職場でしょうか。この社会でしょうか。

 しかし、私たちは、家庭の中や社会の中に戦場があると思っていてはならないのです。そうではなくて、戦場は私たち自身の内にあるのです。本当に勝たなくてはならない戦いは、私たち自身の内にあるのです。ですからパウロは「**わたしたち信仰者に対して**絶大な働きをなさる神の力」と言っているのです。「わたしたち信仰者に対して」と書かれていますが、厳密には「わたしたち信仰者の**内に**」という意味の言葉なのです。

 神の力が働くのは、第一には「私たちの内に」なのです。私たちの周りにではありません。私たちは周りの状況が変わることを求めているかもしれません。周りの人たちが変わることを求めているかもしれません。しかし、神が変えようと思っているのは、まずは私たち自身なのです。「信仰者の内に」神の力が働くのです。

 そして、わざわざ「**信仰者の**内に」と書かれていることを見落としてはなりません。「信仰者」とは「信じている人」という意味です。過去に「信じた人」ではありません。今「信じている人」です。まわりの困難な状況の中で信じることをやめてしまう人ではありません。神はまわりの状況を変えてくださらない、と言ってブツブツ言う人ではありません。信じ続ける人です。本当の戦いは自分の内にあることを悟って、自分が変えられなくてはならないことを悟って、神に信頼し続ける人です。そこにこそ神の力が働くのです。

 その力について、パウロは次のように表現しています。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(20-21節)。――この力が、私たちの内に働くのです。キリストにおいて、復活という大逆転勝利をもたらした、この復活の力が、私たちの内にも働くのです。

 神の国には期待するけれど、この世の人生には何も期待しない。そんな歪んだ信仰者にならないようにしましょう。「どうせ何も変わらないさ」と言いながら、何も新しいことを期待しない、希望をもって自らの人生をも見ることができない。そのような信仰者にならないようにしましょう。そのためには、私たちの心の目が開かれていくことが重要です。どれほど大きな力を信仰者の内に働かせようとしておられるのか、そのことがもっともっと見えるようになるように、そして、常に神に対する大きな期待をもって生きていくことができるように、「心の目を開いてくださるように」と祈り求めていきましょう。

2026年5月3日日曜日

「日曜日に教会で起こっていること」

2026年5月3日 主日礼拝説教 

聖書:ペトロの手紙一 2:1‐10

生まれたばかりの乳飲み子のように
 「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(2節)。そのように書かれていました。「乳飲み子のように」という話が出て来るのは、その前に「新たに生まれた」という話が書かれているからです。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(1:23)。

 人は新たに生まれることができます。信仰をもって新しく生き始めるとはそういうことです。それは聖霊による誕生であり、神の子どもとしての誕生です。イエス様が教えてくださった「主の祈り」は、まさに新しい誕生が何であるかを示していますでしょう。「天にまします我らの父よ」――私たちは神を「我らの父」と呼んで、神の子どもたちとして、神の家族として、生きることができるのです。

 そのように、信仰に入るということは、赤ん坊が家族の中に生まれてくるように、新しい関係の中に、すなわち神の家族の中に、新しく生まれることを意味します。それゆえに、神の家族として互いに愛し合う兄弟や姉妹として生きることが求められることになります。1章22節にはこう書かれています。「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」。

 そこには「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」と書かれています。しかし、生まれたばかりの時にはまだ赤ん坊ですから、その「兄弟愛」もはじめは赤ん坊のレベルから始まります。ですから、「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」と言われても、自分についても他の人についても、実際にはそうなっていないという思うことはあるかもしれません。しかし、大事なことは私たちが少しずつでも成長することなのです。神の子どもたちとして、互いの関係においても成長することなのです。

 この世の兄弟でもそうですが、兄弟らしくなって初めて兄弟となるわけではありません。兄弟であるという事実が先にあるのです。私たちもまた、愛し合う神の家族らしくなったから神の家族となるのではありません。新しく生まれたという事実が先にあるのです。家族とされているという事実が先にあるのです。

 極端なことを言えば、仮に兄弟愛が全く見られなかったとしても、それでも家族は家族なのです。しかし、もちろん、そのような状態を神が望んでおられるはずがありません。神が最終的に実現しようとしておられるのは愛の完成した世界ですから。それこそが神の国です。私たちはそのような救いの完成に向けて神の子どもたちとされているのです。だから子どもたちとして成長していくことが大事なのです。それが信仰における成長というものです。

 そこで私たちが生い育っていくためにどうしても必要なことが二つあります。ペトロが今日の箇所ではっきりと書いています。一つは「捨て去ること」です。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って…」と書かれていました。まずは否定的な側面からですが、大事なことは兄弟愛を妨げるものを捨て去っていくことです。

 「捨て去る」と言うのですから、それは自分の意志をもってやらなくてはなりません。何かの理由で悪意を抱いてしまうことはあるでしょう。それはある意味で仕方のないことです。しかし、その悪意を後生大事に抱えているのか、それとも捨て去ろうとするのかは大きな違いです。悪口を言いたくなる。あるいはついつい言ってしまう。そういうことはあるかもしれません。しかし、いつまでも延々と悪口を言い続けるかどうか、それはまた別の話です。持たないということよりも、気づかせていただいたら、その都度、悔い改めて手放すことの方が大事なのです。

 そしてもう一つ大事なことが書かれています。積極的には「霊の乳を慕い求める」ということです。成長するためには栄養を採らなくてはなりません。「霊の乳」は「御言葉の乳」とも訳せる言葉です。霊の乳は御言葉という乳です。御言葉を慕い求めることです。このことなくして絶対に成長はあり得ません。

 主の御言葉を求めるためには、当然のことながら、主のもとに行かなくてはなりません。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい」(3‐4節)と書かれているとおりです。では、「主のもとに行く」とは、具体的にどういうことでしょう。

 実はこの勧めの言葉は詩編34編から来ているのです。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」(詩篇34:9)。その詩編の言葉は、古くから聖餐の式文に用いられてきたものです。

 つまり、ここでペトロはキリスト者が集まって御言葉を聞き、聖餐を行う礼拝を考えているのです。先に語られていたように、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を悔い改めをもって捨て去り、そして霊の乳である御言葉を求めるのは、何よりもまずこうして聖餐卓を囲んで共に集まる主の日の礼拝においてなのです。ここはそのような場所なのです。

霊的ないけにえを献げなさい
 そのように主の日に聖餐卓の周りに集まる教会。悪いものを捨て去りながら、霊の乳を慕い求めて主のもとに集まる教会。その教会について、さらにペトロはもう一つのイメージをもって語り始めます。それはエルサレムにあった「神殿」です。ペトロはこう語ります。「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(4‐5節)。

 聖書において「神の家」と言えば、それは神殿のことです。ですから、ここで語られている「霊的な家」も具体的には神殿を指していると考えてよいでしょう。もちろん「《霊的》な家」ですから、目に見える建造物のことではありません。建物ではなく、集まって礼拝を捧げる信仰者の共同体、すなわち教会のことです。そして、二千年も後に、ここに集まっている私たち。それを神は「霊的な神殿」として見ておられるということです。

 その神殿を建てるための「かなめ石」はキリストです。キリストは人々から捨てられ十字架にかけられましたが、神はそのキリストを復活させ、新しい神殿を建てるための「かなめ石」となさったのだと語られているのです。この「かなめ石」に寄り頼む他の切石が一つ一つ組み合わされて神殿が造り上げられます。そのようなイメージなのですが、その切石こそ私たちなのです。「あなたがた自身も生きた石として用いられ」、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」とはそういうことです。

 その霊的な神殿においては、そこに仕える祭司もいなくてはなりません。それも私たち自身です。「そして聖なる祭司となって」と書かれているとおりです。また、祭司は「いけにえ」を献げるためにそこにいます。ここでは「神に喜ばれる霊的ないけにえ…を献げなさい」(5節)と語られています。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」とは何でしょう。それは私たち自身の体のことです。

 パウロも次のように語っています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)。要するに、ここで私たちは生きている「切石」として神殿を建て上げ、同時に聖なる祭司となって、私たち自身を神に喜ばれる霊的ないけにえとして献げるのです。

 これらすべては神の恵みとして私たちに与えられていることです。考えてみてください。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」と書かれているのです。私たちが自分自身を献げるとき、そのいけにえを神は喜んで受け入れてくださるということです。それは本来、あり得ないことではありませんか。

 現実には、神の意に背くようなことばかりしでかしている私たちです。むしろ、「お前などいらない。神に背いてきた者よ、滅びてしまえ」と言われたとしても仕方のない私たちなのでしょう。しかし、そうではなく、私たちを神は喜んで受け入れてくださるのです。それはまことに驚くべきことです。

 そして、そのようなことがあるとしたら、それはひとえにキリストのゆえなのでしょう。キリストによって与えられた罪の赦しによるのです。ですから、ただ「霊的ないけにえを献げなさい」と言われているのではなく、「イエス・キリストを通して献げなさい」と言われているのです。すべてはキリストを通して与えられた恵みだからです。これが日曜日に教会において起こっていることなのです。

 日曜日ごとに主は恵み深く私たちを御もとに招いてくださいます。私たちは恵み深い主のもとに集まります。神の子どもたちとして、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨て去って、霊の乳である御言葉を慕い求めて主のもとに集まります。私たちは主の恵み深きことを味わい知りながら、霊の乳によって神の子どもたちとして成長していきます。しかし、私たちが集まるのは、ただ私たち自身のためではありません。

 私たちが主のもとに集まる時、霊的な神殿が目に見える形で地上に姿を現すのです。先週も私たちが聖書を通して耳にしたように、私たちは神の神殿なのです。神に礼拝がささげられる神殿なのです。そこにおいて、私たちは皆、神に仕える祭司となります。祭司は神のために、自分自身をイエス・キリストを通して献げるのです。神はイエス・キリストを通してささげられた私たちを神に喜ばれる献げものとして受け入れ、私たちを神のものとしてこの世界に遣わしてくださいます。それが日曜日に教会で起こっていることです。

2026年4月26日日曜日

「聖霊の神殿である私たち」

2026年4月26日 主日礼拝説教 

聖書:コリントの信徒への手紙一 3:10‐17

 今年の年度主題は「聖霊の神殿である私たち」です。この一年間、特に聖書が語っている神の霊、聖霊のお働きに私たちの思いを向けたいと考えています。

 私たちの目に聖霊は見えません。家庭においても教会においても社会においても動いて見えているのは人間です。この世界は人間が動かしているように見えますし、いつの間にか人間がすることがすべてであるかのように思い込んでいます。だからこそ、私たちはあえて意識的に、目に見えるものではなく、見えないものに目を注ぐ必要があるのでしょう。目に見えない神がなさっていることに目を向ける。神の霊のお働きに目を向けることが必要なのです。

 そのために設定されたのが「聖霊の神殿である私たち」という今年の年度主題です。ところで、この「私たち」というのは、第一義的には私たち一人ひとりの個人ではありません。そうではなく、「私たち」として集まって形作っている「教会」のことです。そこでまず、この「私たち」である教会について、聖書の語るところに耳を傾けたいと思います。

イエス・キリストという土台の上に
 今日の聖書箇所において、まずパウロは、「私たち」すなわち「教会」を家にたとえています。家でありますならば、大切なのはまず土台です。教会の土台とは何でしょうか。彼はコリントの信徒たちに次のように書き送っています。「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(1コリント3:10‐11)。

 ここに書かれていますように、教会の土台はイエス・キリストです。ここで土台が「イエス」だけでもなく、「キリスト」だけでもなく、「イエス・キリスト」と表現されていることは、それ自体大きな意味を持っています。

 「イエス」というのは人の名前です。歴史上のある時代に現れた特定の個人の名前です。福音書記者のルカは、この方が公に現れた頃を「皇帝ティベリウスの治世の第15年」(ルカ3:1‐3)と記録しています。この方はポンティオ・ピラトという歴史上の人物のもとで裁きを受け、その権力のもとで処刑されました。ナザレの人イエスのかけられた十字架はおとぎ話の中に立てられたのではなく、現実に私たちが生きているこの世界に、この地上に立てられたのです。

 一方、「キリスト」とは、神によって油注がれた者、メシアを意味します。神が世の救いのために遣わされた救い主です。ですから、この「イエス」と「キリスト」が並べられること自体に、強烈な主張が込められていることが分かります。十字架にかけられたあのナザレの人イエスこそ、神の遣わされたキリストであるという主張です。神は、この世界において、この歴史の中において、ただ一度限りの決定的なこととして、メシアを十字架にかけられた。そのことによって、事実として、罪の贖いを成し遂げられたのです。人間の罪がこの世における事実であるように、罪の贖いもまたこの世における事実でなくてはならないからです。

 このキリストであるナザレの人イエスにおいて起こった出来事、そしてその出来事を言い表す信仰の告白こそが、私たちの土台、教会の土台です。そして、誰もこの土台以外の他の土台を据えることはできない、とパウロは言うのです。パウロがコリントの教会の創設者でありましても、パウロ自身は教会の土台にはなり得ない。優れた人間も、高邁な思想も、神秘的な体験も教会の土台とはなりえないのです。土台となり得ないものを土台にしようとすると、その時は立っていてもいずれ倒れて崩れます。教会を考えるときに、私たち自身の教会生活を考えるときに、神が据えられた土台は何であるかを絶えず思い起こさねばなりません。

燃え尽きぬ材料をもって
 続いて、建物を考える上で重要なのはその建築に用いる材料です。パウロはこの材料について次のように語っています。「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」(12‐15節)。

 材料は明らかに二通りに分けられています。「金、銀、宝石」と「木、草、わら」です。その違いは14節と15節に書かれているように、残るものか燃え尽きてしまうものかの違いです。イエス・キリストという土台の上に教会が建て上げられていきます。しかし、それが残る場合もあるし、燃えて無くなってしまう場合もあるということです。どのように建てられたかは、「かの日にそれは明らかにされるのです」と書かれています。「かの日」というのは、「かの日が火と共に現れ」と書かれていますように、これは終末における審判を意味します。

 それは神がまことの神として、キリストがまことの主として御自身を現される時に他なりません。その時に、神との関係がどうであったか、キリストとの関係がどうであったかが問われます。そこにこそ裁きがあるのです。その時に、神の御前で、キリスト・イエスの御前で、残るものと燃え尽きてしまうものとに分かれるのです。その時に教会は吟味されることになります。どのように教会が建てられてきたかが吟味され、明らかにされるのです。

 しかし、私たちは神の裁き、ただ遙か彼方に見ているだけであってはなりません。神との関係がどうなっているかが問われるのは、ただ終わりの日においてだけではありません。この人間の歴史におけるプロセスそのものが、既に神の裁きのもとにあるのです。事実、社会の情勢が変化する中で、教会の置かれている状況が変化する中で、私たちの生活環境が変化する中で、私たちと神との関係がどうであるか、私たちとキリストとの関係がどうであるかが問われることは起こります。私たちが本当に主に従ってきたのかそうでないのかが問われるということは起こるのです。歴史のプロセスの中にも、確かに神の裁きはあるのです。

 そのような裁きの過程において、やはり残るものと燃え尽きてしまうものに分かれるのです。この世的には大きく豊かに見えていたとしても、どれほど多くの人が賞賛するものであっても、それが神の御心に適わないならば、木や草やわらの類で出来たものとして、燃え尽きてしまうのです。その一方で、多くの人の目に留まらなくとも、人の目からは価値無きこと、愚かなことのように見えても、神の御心に適うならば神の御前における金、銀、宝石として残るのです。

 私たちは何を大事にしようとしているのでしょうか。何をもって教会を形作ろうとしているのでしょうか。それは残るものでしょうか。それとも燃え尽きてしまうものでしょうか。私たちはそのことを、絶えず問い直す必要があるのです。

私たちは神の神殿であるから
 さて、私たちは最終的に、そのようにして建てられる教会とは何であるかを知らなくてはなりません。パウロは次のように語っています。「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」(16‐17節)。

 私たちが求道を始めた時、信仰を求め始めた時、多かれ少なかれ、私たちが考えていたことは、「わたしにとって神は必要であるか否か。わたしにとって信仰は必要であるか否か」ということであったろうと思います。そして、その延長上に、「わたしにとって教会は必要であるか。教会に行くことは私にとって益であるかどうか」という問いもまた存在したことでしょう。

 しかし、それが求道の初めだけでなく、洗礼を受けて何年経っても考えていることが同じであるならば、それはやはり問題であると言えるでしょう。教会が自分のために存在しているかのように考えている。教会が人間のためのものであり、人間の手でどのようにでもできると考えている。もしそうでありますならば、私たちはパウロにこう言われるかも知れません。「あなたがたは知らないのですか」と。

 知らなくてはなりません。私たちは神の神殿なのです。教会は神の神殿なのです。神殿は人によって作られたとしても人間のものではありません。神のものなのです。神のために存在しているのです。「神の神殿は聖なるものだからです」とパウロは言います。「聖なるもの」とは神のものであるということです。

 だから、あたかも私たちのためのものであるかのように扱ってはならないのです。「神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう」とまで言われているこの言葉を、私たちは畏れをもって受けとめなくてはなりません。それほどまでに教会は神にとって大切なものなのです。実際にはコリントの教会は問題だらけの教会でした。しかし、それでもなお単なる人間の集まりであるかのように粗末に扱ってはならないのです。私たちは、自分たちが神の神殿とされていることに対する畏れを失ってはならないのです。

 そして、神の神殿とされているという事実にこそ、私たちの喜びもまたあるのです。このような私たちがキリストによって贖われ、罪を赦された者として形作る教会に、神の霊がお住みくださる。そのように私たちを神のものとし、神が共にいてくださる。そこにこそ喜びがあるのです。さらには、6章に書かれていますように、教会を形づくる私たち一人一人のこの体が、神の神殿とされ、神の霊が宿ってくださる。そこにこそ私たちの喜びがあるのです。「知らないのですか」とパウロは言います。私たちは知らなくてはなりません。私たちは神の神殿であり、神の霊が私たちの内に住んでおられるのです。

2026年4月19日日曜日

「神が心にかけていてくださるから」

2026年4月19日 主日礼拝説教 

聖書:ペトロの手紙一 5:6-11

自分を低くしなさい
 今日は、ペトロの手紙一5章6節からお読みしました。その直前には、「皆互いに謙遜を身に着けなさい」(5節)という勧めが書かれています。今日の箇所はその続きです。

 「互いに謙遜を身に着けなさい」という言葉は、ここにいる私たちには、恐らく何の違和感もなく耳に入ってくるだろうと思います。教会の中はもちろんのこと、教会の外においても、「謙遜」は広く美徳と見なされているからです。また、「謙遜」は、より良い人間関係の土台であると考える人も少なくないでしょう。

 しかし、この手紙が書かれた当時の人々が、同じこの言葉を耳にしたら、私たちとはまったく異なる印象を受けただろうと思うのです。というのも、当時のギリシア・ローマ世界においては、「謙遜」は美徳どころか、否定的な意味合いを持つ言葉だったからです。その社会で尊ばれていたのは「名誉」であり「誇り」であり、「人より高くあること」でした。そのような世界において、低くあること、身を小さくすることは、弱さや卑屈さの表れとして軽蔑の対象とされたのです。

 「謙遜」と訳されているのはギリシア語で「タペイノフロシュネー」という言葉です。元になっている「タペイノス」は文字通り「低い」という意味の言葉です。名誉と誇りが人の価値を決める世界において、この「低さ」はまことにネガティブなものとして受け取られていたのです。なのでタペイノフロシュネーが結びつくのも、「卑屈」「自己卑下」「惨めであること」という響きだったのです。

 その「タペイノフロシュネーを身に着けなさい」とペトロは勧めるのです。当時の社会の価値観に真っ向から逆らうような言葉です。それをペトロは当たり前のように手紙に書いて送るのです。それはどうしてか。――これは「教会」に宛てた手紙だからです。すなわち、これは信仰を前提とした勧めなのです。あくまでも、神との関わりにおいて聞かれ、理解されるべき言葉なのです。一般的な謙遜という美徳の話として聞いてはならないのです。

 ですから、ペトロはそこで旧約聖書の箴言を引用してこう続けるのです。「なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです」と。これが理由なのです。それゆえに、お互いに対して謙遜であるかを問う前に、そもそも私たちは「神に対して」謙遜であるかどうかを省みる必要があるのです。実際どうなのでしょう。私たちは人に対してどころか、神に対してさえ、なかなか謙遜になれない者ではないでしょうか。神に対してさえ高ぶって生きているのではないでしょうか。

 かつてスポルジョンという人が説教の中でこう語っていました。「高ぶりは最初の罪であり最後の罪である」と。実際、聖書が語る最初の罪は、アダムとエバが善悪の知識の木から取って食べ、自らが神のようになろうとした高ぶりの罪でした。そして、その高ぶりの罪は私たちの人生が終わるまで、そして世の終わりまでついて回ることでしょう。その意味では確かに「最後の罪」とも言えます。

 だから、ペトロはさらにこう続けるのです。「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」(6節)。繰り返しますが、これは教会に宛てた手紙です。毎週集まって神の御前に礼拝をささげている教会に宛てた手紙なのです。神を礼拝しているはずの信仰者に宛てた手紙です。神を礼拝している私たちが、本当に神の前で自らを低くしているならば、このような勧めの言葉をペトロは書く必要はなかったのでしょう。このような勧めが聖書に記されているのは、往々にして、私たちはそうなっていないからであるに違いありません。

 そして、そこにもう一つの勧めの言葉が続くのです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(7節)。ところで、今、「もう一つの勧めの言葉が続く」と申しましたけれど、しかし、それはあくまでも日本語訳の場合です。実は、原文においては、6節と7節は途中で切れない一つの文なのです。つまり6節の「高ぶり」と7節の「思い煩い」は切り離すことができない、ということです。

 それは、ある意味では当然のことであるとも言えます。先ほど、アダムとエバの話に少しだけ触れましたが、あの創世記の物語を読んでもよく分かります。

 神は、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」と命じました。しかし、蛇はこう言って誘惑しました。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と。

 そして、その誘惑に人間は負けました。人間は神を退けて、自らを神の位置に就けました。人間は自分が善悪を知るものと思い上がって、神をさえ裁く者となりました。神を退けて人間がこの世界を治め、神を退けて人間が自らの人生を治めようとする者となりました。「これは私の人生だ」と。

 しかし、人間は神の位置に身を置いても、神にはなれません。神なしにこの世界を治めようとしても人は神にはなれません。神なしに自らの人生を治めようとしても、神にはなれません。いや自らの人生を治めるどころか、今日一日の生活すら私たちは治めることができません。神にはなれないどころか、我が身一つどうすることもできないような私たちです。そんな私たち人間が、自分を頼りにすることと、他の人間を頼りにすることしか考えられなければ、思い煩いを抱えることになるのは、当然のことなのです。

 イエス様はそんな人間の現実を良く御存じでした。ですから、思い煩いで心がいっぱいの人々に、このように語られたのです。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイ6:27)。最もパーソナルな自分自身の寿命の問題でさえ、私たちはそれに指一本触れることができないのです。そんな私たちですから、神に対して高ぶって、自らが神の位置に留っている限り、様々なことに思い悩まざるを得ないのです。

心にかけていてくださる神
  だからペトロは「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」という言葉に、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」という言葉を続けるのです。「お任せしなさい」とは、「投げかける」と訳すことのできる言葉です。手に握ったままで物を投げることはできません。投げるためには手放さなくてはなりません。手放すことができるのは、受け止めて下さる方がおられるからです。私たちの思い煩いを受け止めてくださる方がおられるのです。

 その方について、聖書にはこのように語られています。「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(7節)。「心にかけていてくださる」というのは良い訳だと思います。聖書が伝えているのは、まさにそういうことだからです。いつか「心にかけてくださる」のではないのです。思い煩いをお任せする時に、心にかけてくださるのではないのです。過去においても、未来においても、そしてこの瞬間にも「心にかけていてくださる」のです。

 私たちが高ぶって、神を忘れていたときに、神様は心にかけていてくださったのです。私たちがそのお方に信頼して生きるのではなく、そのお方に背を向け、自分の力に頼って生きていたそのとき、神様は私たちを心にかけていてくださったのです。そして、神は私たちを今も心にかけていてくださるのです。

 これをペトロ自身の経験から出た言葉として聞く時に、これはまことに心を打つ言葉として迫ってまいります。

 最後の晩餐の席において、イエス様が弟子たちの離反を予告した時、ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14:29)と言いました。しかし、主は言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(同30節)。かくしてそのとおりになりました。

 そのような自分が今、使徒とされている。それはまさに驚き以外の何ものでもなかったに違いないのです。どうしてこのようなことがあり得たのか。――「神が心にかけていてくださったから」としか言いようがないでしょう。傲慢にも「わたしはつまずきません」と言い放ったあの時、神は既にわたしを心にかけていてくださった。大祭司の中庭において、三度「知らない」と言った時、神はわたしを心にかけていてくださった。イエス様の言葉を思い出し、自らの罪と弱さに打ちのめされて声を上げて泣いていた時、そんなわたしを神は心にかけていてくださった。

 ペトロにはよくわかったと思います。そしてやがて知るに至ったのです。既にイエス様が十字架にかかられるためにこの世に来られたそのこと自体が、まさに神が心にかけていてくださることを現していたのだと。

 それゆえに、ペトロは「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」と語るのです。そのような、心にかけていてくださる神の御前で身を低くするのです。その力強い御手の下で身を低くするのです。裁く者であることをやめて、身を低くするのです。ただひたすら信頼する者として、身を低くするのです。

 私たちはこうして礼拝の場に集められているわけですが、神を礼拝し、神に祈るとは本来、神の御前で自らを低くすることなのでしょう。心にかけていてくださる神の力強い御手の下で、自らを低くすることなのでしょう。私たちの礼拝の姿は、礼拝する教会の姿は、神様からどのように見えているのでしょうか。

 この神の御前において身を低くすること、それがペトロの語るタペイノフロシュネー(謙遜)です。それを身に着けなさいと言うのです。そして、神の前に身を低くした者として、お互いの関係も築いていくのです。それが「皆互いに謙遜を身に着けなさい」という勧めの意味するところです。それが本来のお互いの関係なのです。ならば、お互いの関係においても、共に神の御前に身を低くすること、共に礼拝することは、中心的な意味を持つのです。

2026年4月12日日曜日

「土の器ではあるけれど」 

2026年4月12日 主日礼拝説教 

コリントの信徒への手紙二 4:7-16

土の器の中に
 今日の第二朗読では、コリントの教会に宛てたパウロの手紙をお読みしました。そこで彼はこう言っています。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています」(2コリント4:7)。

 「土の器」という表現は、ある意味ではたいへん分かりやすい。私たちは確かに「土の器」です。土の器の特徴は弱さであり脆さです。壊れやすい。最終的には、必ず壊れてしまう。そのような意味において、私たちは土の器です。どんなに強がって見せても土の器に過ぎません。いや、私たちは土の器に過ぎないことを知っているからこそ、強がるのかもしれません。土の器であることは怖いから。土の器であることを認めることは恐ろしいことだから。

 しかし、パウロは自分が土の器であることを認めた上で、まことに驚くべきことを宣言するのです。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(8‐9節)。

 私たちが、自分を土の器だと実感するのは、苦難の中に置かれた時でしょう。すべてが順調に進んでいるとき、自分の弱さは問題とはなりません。しかし、苦難においては脆さが問題となります。四方から苦しめられるときには弱さが大きな問題となります。しかし、パウロが言っていることは、要するに「土の器であっても大丈夫」ということです。

 決定的に重要なことは別にあります。パウロはこう言っているのです。「《このような宝を》土の器に納めています」と。重要なのは、中に何を納めているのか、ということなのです。こわれてしまうような土の器で良いのです。その中に宝を持つことです。

 パウロが言っている「このような宝」とは何でしょうか。実は、今日の朗読箇所の直前にそのことが書かれているのです。「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(6節)。――これが宝です。

 神は信仰という光を与えてくださいました。十字架にかかられたイエス・キリストを、栄光に満ちた神の子、救い主として示してくださり、イエス・キリストを信じる者としてくださったのです。「イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださった」とは、そういうことです。

 いや、ここに書かれているのは、さらにそれ以上のことです。「わたしたちの心の内に輝いて」と書かれていますでしょう。主語は誰ですか。神様御自身です。なんと神御自身が私たちの心の内に光となって輝いて照らしてくださったと書かれているのです。――これ以上の宝があるでしょうか。

 イエス・キリストの福音は、単なる一つの思想ではありません。私たちに与えられた信仰は、単なる「心の持ちよう」などではありません。それは一つの出来事です。それは実に神御自身が来られて自ら輝いて光となって私たちの心の暗闇を照らしてくださるという出来事なのです。単なる一つの思想を、パウロは「宝」などとは呼ばないでしょう。それは神の圧倒的な恵みによる御業であり出来事であり事実であるゆえに、それは宝なのです。いかなるものにもまさる宝なのです。もし私たちがそれほどに思っていないとするならば、それは与えられているものの真価が分かっていないということなのです。

 私たちは確かに土の器かもしれない。しかし、宝を内に納めた土の器として生きることができるのです。そこにこそ救いがあるのです。この宝が私たち自身とこの世を救うのです。私たちは、自分で自分を救うことができません。私たちは、私たち自身の力で、この世界を救うことはできません。私たちは皆、土の器なのですから。この世界そのものが土の器なのですから。救いは神から来るのです。神からの宝こそが私たち自身とこの世界を救うのです。

 救いが神から来るものであるならば、私たち自身が土の器であることは、まったく問題ではありません。土の器であるからこそ、神の与えてくださった宝の真価が表れるからです。

 実際、これを言っているパウロ自身、「土の器」であることの一つの現われとして、何かしらの病気を負っていたようです。彼はそれを身に与えられた「一つのとげ」と表現しています。それが何かは分かりません。しかし、それは恐らくパウロの伝道の働きにも支障をきたすようなものだったのでしょう。だからパウロはこのとげが取り除かれるように祈り求めたのです。そのことが、この手紙の12章に書かれています。

 しかし、主はそのとげを取り去ることはありませんでした。主はパウロにこう言われたのです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(12:9)。これがパウロの得た答えでした。それゆえにさらにパウロはこう語るのです。「だから、キリストの力がわたしのうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(12:9‐10)。

 そのようなパウロであるからこそ、今日の聖書箇所においても、確信をもってこう言っていたのです。「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」と。土の器であっても大丈夫。それがパウロの確信だったのです。

イエスの命が現われるために
 さらに、パウロは10節以下においてこう続けます。「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています。イエスの命がこの体に現われるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています。死ぬはずのこの身にイエスの命が現われるために」(10‐11節)。土の器であることについて、パウロはさらにこれを「いつもイエスの死を体にまとっている」と表現しています。今日はさらに残された時間、この「死を体にまとう」という不思議な表現について、しばらく一緒に考えてみたいと思います。

 細かい話になりますが、ここで用いられている「死」という言葉は、「死」そのものを表現するために通常用いられる言葉ではありません。あえて言葉を加えるならば、それは「死につつある人の状態」を表す言葉です。「死」そのものというよりも、「死んでいくプロセス」と言っても良いでしょう。

 人間が死んでいくプロセスは、ある意味では生まれたときから始まっていると言えます。土の器であるとはそういうことでしょう。その意味で、人は誰でも「生まれながらに死を体にまとっている」と言えるのです。ですからその事実が様々な形で現れます。例えば病気という形で現れます。人生の途上で体の機能の一部を失うということもあるでしょう。次第に衰えていくということも起こります。死を体にまとっているのですから当然です。そこには誰一人例外はありません。

 もちろんキリスト者も例外ではありません。クリスチャンになったら病気にはならないか。苦しんだり災いに遭ったりすることはないか。信仰者は死なないか。そんなことはないでしょう。いやむしろ、パウロや当時のキリスト者のように、迫害によって「死を体にまとっている」という事実が表に現れることもあります。信仰のゆえに殉教して死ぬ者もいたのですから。

 しかし、土の器に宝を持つならば、イエス・キリストを信じる信仰があるならば、決定的に異なることがあるのです。それはいかなる苦しみも、もはや決して孤独に一人で背負うことはない、ということです。そこで味わっているのは自分の苦しみであり、自分の死であるはずなのに、「イエスの死を体にまとっている」と語られているのです。私たちは苦しみにおいて、イエス様と一つになるのです。

 これはイエス様の側から言うならば、「あなたは一人で苦しんでいるのではない」ということです。「あなたは《わたしの死を》体にまとっているのだ。苦しんでいるあなたの身において、わたしとあなたは一つだ」。――イエス様がそう言ってくださっているということです。

 そして、私たちは知っているのです。十字架にかかって苦しんで死んでいったイエス様は復活なさったと。十字架の向こうに復活があった。ならば、私たちが十字架にかかったイエス様と一つになるならば、復活したイエス様とも一つになるのです。「イエスの死を体にまとう」なら、イエスの命もまた体に現われるのです。「いつもイエスの死を体にまとっているのは、イエスの命がこの体に現われるためなのだ」とパウロは言うのです。

 実際、私たちがしばしば目にするのは、様々な苦難中にあってなお、苦難の中にあるからこそ、イエス様の命に輝いている信仰者の姿です。病気の床にある人において、迫害の中に置かれている人において、無駄な労苦に何年も人生を費やしているように見える人において、確かに、「イエスの命がこの体に現われる」ということが起こっているのを、私たちはしばしば目の当たりにするのです。イエスの死を身に負う時、イエスの命も現われる。それは真実です。

 そして、私たちがイエスの死を完全に身に負ったとき、負い抜いたとき、そのようにして私たちが地上の人生を全うした時、そして土の器が土に帰る時、イエス様の命もまた完全に現われるのです。十字架で死んだイエス様が復活して永遠の命に輝いたように、私たちもやがて神の国に復活して永遠の命に輝き、神の御前に立たせていただけるのです。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」(4:14)とパウロは言います。これこそ、私たち土の器に与えられている究極の希望なのです。


2026年4月5日日曜日

「絶望を押し流す圧倒的な神の恵み」

2026年4月5日 イースター礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 16:1‐8

絶望した人々
 今年のイースターにおいては、マルコによる福音書16章が読まれました。キリストの復活を伝える聖書箇所です。しかし、私たちはまずその直前、15章の最後に書かれていることに目を向けておきたいと思います。「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」(15:46‐47)。

 そこには今日の聖書箇所と関係する人々が出てきます。まずはヨセフです。彼はイエス様の葬られたあの墓の持ち主です。彼は最高法院の議員でした。イエス様に有罪判決を下し死刑を言い渡したあの最高法院の一員です。しかし、イエス様を手厚く葬ったこの男は、明らかにイエス様に対して好意的です。彼には、このイエスという人物が、死罪に当たるとはどうしても思えなかったに違いありません。真夜中に行われた異常な裁判による判決は、どう見ても正当ではないと思っていたことでしょう。

 しかし、彼はイエスを守れなかったのです。彼の属する最高法院の決定により、宗教的な正義の名のもとに、イエスは処刑されて死んでしまいました。ヨセフは、せめてイエスをきちんと墓に葬りたいと思った。ですから自分の墓を提供したのです。しかし、遺体を墓に納めたところで、何が変わるわけでもありません。事態を変え得なかった自分の無力さ、正義の名のもとに犯してしまった大きな大きな罪。それは動かしがたい事実なのであって、もはや何も変わらないのです。すべては終わったのです。

 そして、またそこには婦人たちが出てきます。マグダラのマリアとヨセの母マリア。イエス様を愛し、慕っていた婦人たちです。しかし、彼らもイエス様を守ることはできませんでした。十字架につけられ苦しんでいるイエス様に対しても、ただ見つめていることしかできませんでした。彼らの目の前で、イエス様は息を引き取りました。「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」と書かれています。彼らはいつまでもいつまでも見つめていたことでしょう。しかし、それで何が変わるわけではありません。すべては終わったのです。

 私たちは、その場面に登場しない人々のことにも思いを馳せるべきでしょう。イエスの弟子たちです。彼らはこの前後にまったく現れません。イエス様を見捨てて逃げてしまったからです。「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロ。しかし、実際には、鶏が二度鳴く前に三度イエス様を知らないと否んでしまったペトロ。彼はイエス様が葬られた後の安息日を、どんな思いで過ごしていたのでしょう。見捨てられることによる絶望というものがあります。しかし、誰かを見捨ててしまったという自責の念における絶望は、より深いとも言えます。自分を責めたところで、もはや何も変わりません。すべては終わったのです。

 イエス様は死んでしまって、墓に葬られました。その入り口は石でふさがれました。その石は大きかったと記されています。あの婦人たちが見つめていた墓の入り口にある大きな石、動かし難い大きな石。それはヨセフや婦人たちやあの弟子たちの絶望の大きさを象徴しているように思えてなりません。彼らの心の中には、あの墓の石よりも、もっともっと大きな動かし難い絶望という石があったのです。

 しかし、そこに本日お読みしたあの聖書の言葉が続きます。そこにはこう書かれているのです。「ところが、目を上げて見ると、石はすでにわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである」(4節)。三日目の朝、あの日曜日の朝、あの婦人たちはイエス様の遺体に油を塗りに墓に行きました。彼らは「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。しかし、「目を上げて見ると、石はすでにわきへ転がしてあった」と書かれています。だれが転がしてくれたのでしょう。神様です。

 いや、転がされたのは石だけではありません。その石が象徴していた死の現実、絶望そのものが転がされたのです。彼女たちは、墓の中にいた若者から、こんな言葉を聞くのす。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(6節)。

 神がおられないならば、絶望は絶望でしかありません。死人は永遠に死人でしかありません。人間にはどうすることもできないのですから。しかし、あの時、あの女性たちは、絶望をひっくり返して、転がして、押し流してしまうほどの、圧倒的な神のリアリティに触れたのです。それがあの日に起こった出来事であり、教会が「キリストの復活」として二千年もの長きに渡って宣べ伝えてきた出来事なのです。そして、私たちがよく知るように、絶望が転がされたあの墓から始まったことが、まるで絶望を押し流す洪水のように流れくだって、後の歴史を大きく動かしてきたのです。だから、遠く離れた日本にもこうして教会があり、二千年の後にも、こうして復活祭を祝っているのです。

恐れから喜びへ
 しかし、今、「祝っている」と申しましたが、あの日、あの時、あの出来事は、あの婦人たちに、単純に喜びをもたらしはしませんでした。今日の聖書箇所にはこう書かれているのです。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)。実はもともとマルコによる福音書は、この言葉で終わっていたのです。そして、彼女たちが「恐れた」ということ自体、大きな意味を持っているのです。

 人は観念としての神を恐れることはありません。哲学者の神を恐れることはありません。神は存在するか否かという議論の対象となるような、そんな神を恐れることはないのです。単なるご利益祈願の対象である神を恐れることはありません。

 しかし、人が生けるまことの神を意識し始めるならば、それが本当に神であるならば、そこで人は恐れを抱かざるを得なくなるのです。なぜなら、聖書が語るように、「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されている」(ヘブライ4:13)からです。人はごまかせても、神をごまかすことはできない。人の前では繕えようとも、神の前では取り繕うことはできない。それが本当に神ならば、人間は、その御前でどう生きてきたのか、どう生きているのかが問われることになる。ならば、恐れざるを得ないでしょう。

 神がおられなければ絶望は絶望でしかない。死人は永遠に死人でしかないのです。しかし、その現実を覆すまことの神がおられるなら、人間は恐れざるを得ないのです。その事実を聖書は正直に言い表しているのです。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。

 これが本来のマルコによる福音書の最後の言葉だと先ほど申しました。でも、変だと思いませんか。本当に「だれにも何も言わなかった」ということが結論なら、この出来事を私たちが今読んでいるのは変でしょう。――結局、彼女たちは語りだしたんです。あの日の出来事を宣べ伝えたのです。どうしてか。恐れは、恐れのままに終わらなかったからです。

 確かに、彼女たちは、まことの神のリアリティに触れたのです。その神の御前においては、一切のごまかしもきかない――そのようなまことの神に触れたのです。だから彼女たちは震え上がった。しかし、その神はイエス・キリストを世に遣わされた神でもあるのです。この世の罪をあがなうために、人間の罪を赦すためにキリストを十字架につけられた神でもあるのです。

 私たちはキリストの復活後、人類に対して最初に与えられたメッセージにもう一度耳を傾けたいと思うのです。キリストの復活を告げたあの若者はいったい何と言っているでしょうか。彼は、こう語ったのです。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(6節)。

 ここで大切なことは、ただ単に「死んでしまったイエスが復活させられた」と告げられているのではない、ということです。「十字架につけられたナザレのイエスが復活させられた」と告げられているのです。ナザレのイエスが十字架につけられたのは誰のためですか。私たちのためです。私たちの罪が赦されるために、罪の贖いの犠牲となってくださったのです。そのキリストを神は復活させられたのです。

 先ほど、あの時、あの女性たちは、絶望をひっくり返して、転がして、押し流してしまうほどの、圧倒的な神のリアリティに触れたのです」と申しました。しかし、正確にいうならば、彼女たちが目にし、触れていたのは、「圧倒的な恵みの神のリアリティ」だったのです。だから、恐れは恐れで終わらなかった。彼女たちは語りだしたのです。

 そして、さらにあの若者が告げた恵みに満ちた言葉は、恐れのゆえに沈黙したあの女性たちを、後に弟子たちのもとへと向かわせることになったのです。彼はこう続けたのでした。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(7節)。――まさに、これこそ神の恵みではないですか。

 確かに弟子たちはイエス様を見捨てて逃げました。ここでことさらに「弟子たちとペトロに告げなさい」と言われています。確かにペトロはイエス様を三度も否みました。その事実そのものは変わりません。しかし、恵みの神のリアリティは、溢れ流れて、絶望の石をひっくり返して、彼らのところにも及ぶのです。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」。

 ガリラヤとは、彼らが初めてイエス様に出会ったあの場所です。「わたしに従え」と言われた、あの場所です。あの場所に戻って、彼らはもう一度、招きの言葉を聞くのです。絶望をもたらした過去の事実は変わらない。しかし、その絶望を転がされた者として、彼らはキリストに従って、キリストと共に生きて行くのです。キリストの復活が伝えられているのだから。

 そして、それはあの弟子たちだけの話ではありません。過去の事実は変わりません。しかし、人は絶望を転がされた者として、キリストと共に生きていくことはできるのです。私たちにも、時を経て、キリストの復活が伝えられているからです。あの墓から始まった大きな流れは、ここにまで及んでいるからです。

2026年3月29日日曜日

「十字架の上の救い主」

2026年3月29日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 15:21‐41

無力なメシア
 次聖日はイースターです。イースター前の一週間は「受難週」と呼ばれます。今週は特に十字架にかけられたキリストの御苦しみに思いを向ける一週間です。そのようなわけで、今日の礼拝においては、キリストが十字架にかけられた場面をお読みしたのです。

 しかし、改めてこの箇所をお読みしますと、十字架にかけられたイエス様御自身の苦しみがほとんど描かれていないことに気づかされます。かつてある伝道者が説教において十字架の場面を実に見事に生々しく再現するのを聞いたことがあります。ところが、マルコは、そのようなことには全く関心がないかのようです。ただ淡々と、「それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから」(24節)と書いて、むしろ私たちの視線を兵士たちの方に向けさせるのです。

 先ほど、「キリストの御苦しみに思いを向ける一週間」とは言いましたが、明らかにマルコは、イエス様の苦痛を細かく描き出して同情を呼び起こすことには全く関心がないようです。むしろまわりの人々が嘲ったり罵ったりする様を細かく描写するのです。罵っている人々の中には通りかかった人々がいます。祭司長たちも律法学者や長老たちもいます。また、一緒に十字架につけられた強盗たちも、その中にいます。

 まわりの人々の描写が詳しいのはなぜでしょう。それはこれを読んでいる私たちが、私たち自身をそこに見出すことができるように、ということなのです。

 それでは彼らの姿に目を向けてみましょう。まず通りかかりの人々がイエスを罵って言います。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」(29‐30節)。ここでわざわざ「そこを通りかかった人々は……」と書かれていることから、これがもともと主に敵対していた人々ではないということが分かります。

 ではなぜ罵ったのか。そこに「ユダヤ人の王」と罪状書きが掲げられていたからです。彼らにとって「ユダヤ人の王」と「神の子」「メシア」はほぼ同じ意味です。そして、「神の子」「ユダヤ人の王」「メシア」ならば、強くあって欲しいのです。異邦人を打ち倒し、解放して欲しいのです。多くのユダヤ人がそう願っていた。そして期待していた。しかし、現実にそこにいる「ユダヤ人の王」とやらは、十字架にかけられている王なのです。無力なメシアなのです。期待に応えられないメシアなのです。彼らは無力なメシアなどいらないのです。だから罵っているのです。

 一方、祭司長たちの侮辱の言葉は少々意味合いが違います。彼らが目にしているのは、彼らにとっては思い通りの結末だったのです。民衆を惑わして宗教的な権威に逆らうようなことをしたけれど、結局化けの皮がはがされたではないか。そのような心境だったに違いありません。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(31‐32節)。そうです。彼らは初めからイエスを信じてはいません。そして、イエスが十字架から降りられないことをもって、信じなかった自分の正しさがやっと実証されたという思いだったのです。要するに、彼らの罵りの言葉は自分の正しさの主張に他ならなかったのです。

 また、強盗たちもイエス様を罵っていました。彼らの言葉は記されていませんが、察しは付きます。彼らは現実に苦しみの極みにいるのです。そのすぐ隣りにはつい一週間ほど前まで人々からメシアであるとして騒がれていた男がいるのです。しかし、今は十字架にかけられているのです。本当に助けて欲しい時に何もすることのできないメシアが隣りにいるのです。そんなメシアがいったい何の役に立つか!それが彼らの思いであったに違いありません。

 そして3時になって、無力なメシアは大声で叫びます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(34節)。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であると説明が加えられています。ここは様々に解釈されてきた部分ではありますが、まずは単純に文字通りに受け止めるべきなのでしょう。十字架から降りることができなかっただけではありません。神から見捨てられた者として叫び声を上げているのです。こんな言葉を耳にしたら人々は間違いなく確信することでしょう。「この男は絶対にメシアなどではない」と。

 しかし、不思議なことに、このイエス様の言葉を教会はそのまま伝えてきたのです。イエス様をメシアと信じることの妨げにしかならないような言葉をあえて伝えてきたのです。それはなぜなのでしょうか。

 イエス様が口にしたこの言葉は詩編22編に由来します。そこで詩人が「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩編22:2)と祈っています。そのように苦しみの極みにあるとき、神に向かって「なぜわたしをお見捨てになるのか」と叫ぶことは、ある意味では自然なことに思えるかもしれません。しかし、よくよく考えると、これは簡単には口にできない言葉であるとも言えます。もし私たちが苦しみの極みにおいて本気で神に向かって「なぜわたしをお見捨てになるのか」と問うならば、きっと自分の過去の罪が次々と思い起こされるのではないでしょうか。見捨てられても仕方のない理由が次々と思い起こされるのではないでしょうか。

 そのように本来は「なぜわたしをお見捨てになるのか」と神に訴えることができるのは、あのヨブのように、あるいは詩編22編のような人、見捨てられる理由に全く思い当たらない人、純粋に神に従って生きてきた人、真に正しい人だけなのでしょう。その意味では究極的にはこの祈りを口にすることのできるのは、父の御心に完全に従われた罪なきイエス様以外にはないだろうとも言えるのです。

 そのような理解をもって十字架の場面を見直しますと、見え方が違ってくるのです。そこで苦しんでいるのは、本来ならば見捨てられるはずのない方なのです。その御方が神に見捨てられた人として苦しんでいるのです。そして、そのまわりでは、真に神に従うことも知らない者たちが、本来ならば神に見捨てられても仕方ない者たちが、そのような自分であることさえ気付いていない者たちが、軽々しく神の名を口にしてイエスを嘲っているのです。

 ただひとり罪なき方が見捨てられた者となり、罪ある者たちが自分の正義を振りかざして叫んでいる。――それがこの場面です。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう!」お前の力を見せてみろ。そして私の願いを叶えてみろ。私を納得させてみろ、そうしたら信じてやろう! そう言って嘲っているのです。まさにそこに見るのは、この世の姿ではありませんか。そして、私たちは確かにその中の一人であるに違いないのです。

メシアが成し遂げてくださったこと
 しかし、本来見捨てられるはずのない方が見捨てられるということが神の御心として起こっているならば、そこには神の特別な目的があるはずなのです。聖書は何と言っているでしょうか。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(37‐38節)。

 1月の第2主日に、私たちはイエス・キリストがバプテスマを受けられたことを伝える箇所をお読みしました。そこには「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(10‐11節)と書かれていました。そして、その「天が裂けて」という言葉は、正確には「天が裂かれて」と書かれており、この福音書には裂かれたものがもう一つ出てくるのだ、ということをお話ししました。

 そのもう一つが今日の場面に出て来る「垂れ幕」なのです。その時にも申しましたように、この垂れ幕とは、聖所と至聖所を隔てる幕のことです。通常、人はその幕の奥に入ることはできませんでした。ただ年に一度大祭司だけが、入ることを許されておりました。しかも、罪を贖う犠牲の血を携えることなくして、幕の奥の至聖所に入ることはできなかったのです。

 そのように、罪の贖いの血が流されなければ、垂れ幕の奥には入れない。それは、神と人間との関係を象徴的に表しているとも言えます。贖いの血が流されない限り、人間は神に近づくことができないのです。神は聖なる御方です。そして、人間には罪があります。罪ある人間は、そのままで神に近づくことはできないのです。

 しかし、その垂れ幕が真っ二つに裂けたのです。「裂けた」と書かれていますが、正確には「裂かれた」と書かれております。誰が裂いたのか。神が引き裂いたのです。そのように、あの瞬間、キリストが息絶えた瞬間、神御自身が垂れ幕を引き裂いた。なぜでしょう。もはや神に近づくために、罪の贖いが繰り返される必要はなくなったからです。この地上において最後の犠牲が屠られたからです。罪を完全に贖うまことの犠牲が屠られたからです。

 ただひとり罪なき方が見捨てられた者となり、罪ある者たちが自分の正義を振りかざして叫んでいる。――それがこの場面だと先ほど申しました。そこに見るのは、まさにこの世の姿だと。そうです。実際、そこに描き出されている人間の姿は、二千年後の今でも全く変わりません。しかし、神は人間がそのようなものであることを承知の上で、罪に満ちたこの世界のただ中にキリストを送られたのです。そして、キリストを罪の贖いの犠牲とし、神と人とを隔てる垂れ幕を神自らが引き裂いた。神御自身が、神のもとへと近づく道を開かれたのです。人が神と共に生きる道を開かれたのです。

 皆さん、この世界のただ中に礼拝の場が開かれていて、週毎に私たちが礼拝へと招かれているとは、そういうことなのです。私たちが当たり前のように賛美を歌い、イエス・キリストの御名によって祈ることができるとは、そういうことなのです。これが、十字架にかけられた救い主のゆえにあずかっている、特別な恵みであることを、この一週間深く思い巡らしたいと思うのです。

2026年3月15日日曜日

「十字架の向こうに輝く栄光」

2026年3月15日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 9:2-10

人の子が死者の中から復活するまでは
 今日の聖書箇所が伝えているのは、イエス様の姿が変わったという話です。それを見たのは弟子たちの内、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人でした。それが起こったのは高い山の上でした。どこの山かは書かれていません。いずれにせよ高い山の上というのは非日常的な空間です。ここに書かれているのは、いわば非日常的な空間において三人の弟子たちだけが体験した、いわゆる神秘体験の話です。

 ここで興味深いのは、そのような特別な体験をした弟子たちに対して、イエス様があえて口止めをなさったということです。こう書かれていました。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた」(9節)。

 いや、絶対にしゃべりたくなるでしょう。特に、山の下にいた九人には。いつも「誰が一番偉いか」を争っている弟子たちです。この体験は三人の優位を決定的にする出来事であるに違いありません。しかし、だからこそなおさらイエス様は戒められたのだと思います。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と。

 特別な体験にせよ何にせよ、神が与えてくださったのならば、それは人間が誇るためでも優位に立つためでもありません。それをもって他者に仕えるためです。全体の益となるためです。そこには神の意図があり目的があるのです。しかし、その意図と目的は、往々にして、その時には分からないものなのです。ペトロとヤコブとヨハネは「その時」を待たねばなりませんでした。だからこそ、「人の子が死者の中から復活するまでは」と主は言われたのです。

 人の子、すなわちイエス様が復活するまでは神の意図はわからないのです。言い換えるならば、彼らが山の上で見たこと聞いたことは、キリストの十字架と復活を経て、初めて意味が分かるのだ、ということです。そして、実際彼らは十字架と復活を通して、その意味を知るに至ったのです。それゆえに語り出した。口止めされていた出来事が、こうして公然と語られているとはそういうことでしょう。

 そして、先にも触れましたように、彼らに与えられた特別な体験は、他の弟子たちのためでもあり、さらに言えば、後々の教会のためでもあったのです。二千年後の私たちのためでもあったのです。ですからこうして聖書に記されて、私たちにまで伝えられているのです。では、この出来事は何のために私たちに伝えられているのでしょうか。それをこれから一緒に見ていきたいと思います。

十字架へと向かっておられたキリスト
 「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」(2‐4節)。それがこの三人の目にしたことでした。

 彼らがその時には分からなくて、後になって分かったことがあります。彼らと一緒に高い山に登られたイエス様は、この時既に一歩一歩十字架へと向かって進んでいたのだということです。「人の子が死者の中から復活するまでは」と主は言われました。復活の前には十字架があるのです。彼らは確かに、やがてイエス様が捕らえられ、鞭打たれ、ボロボロにされて十字架にかけられるのを目にすることになるのです。

 だからこそ神は、エリヤとモーセがイエスと共にいる姿を見せてくださったのです。エリヤとモーセは旧約聖書における代表的な人物です。モーセは律法を代表しており、エリヤは預言者を代表しています。つまりこの二人がイエス様と共にいるということは、いわば旧約聖書そのものがイエス様と共にいるということです。それは何を意味しているでしょう。イエス・キリストに起こる出来事は、特にキリストの受ける苦難、十字架におけるキリストの死は、旧約聖書が既に語っていたことの成就だということです。旧約の成就だということは、言い換えるならば、それは神のご計画と御心によって起こったことだ、ということです。

 神の御心による苦難なら、そこには神の目的がある。ならば、それは苦難で終わらない。死では終わらない。その先があるのです。主はそれを「復活」と呼ばれました。苦難の向こうに神の栄光の完全な現れがあるのです。それを神は前もって三人に垣間見せてくださったのです。ちょうど雨雲の隙間から太陽の光が差し込むように、復活の光がイエス様の御生涯の一こまに差し込むのを彼らは見せていただいたのです。

これに聞け
 そして、それは彼らにとってどうしても必要なことでした。なぜなら、彼らは《十字架へと向かうキリスト》に従っていくことになるからです。イエス様は栄光に輝く姿で、非日常的な高い山の上にいつまでも留まられる御方ではありません。モーセもエリヤも天に属する存在なのであって、山の上にそのまま留まる存在ではありません。モーセもエリヤも、そしてイエス様も、留まるための仮小屋など必要ありません。

 にもかかわらず、「仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」とペトロは言い出したのです。もっともそこには、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」とも書かれています。ペトロは、混乱した頭の中でも、ペトロなりに最善のことをしたいと思ったのでしょう。しかし、神の望んでおられたのは、全く別なことでした。「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け』」。

 求められているのは「聞くこと」でした。非日常の山の上に仮小屋を作るようなことではなくて、山の下の「日常」を生きるために、神の子の声を「聞くこと」でした。そして、それは当然、「聞き従う」ことをも意味します。イエス様に聞き従うとはどういうことでしょうか。実はペトロたちは既に聞いていたのです。主は言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8:34)。それがイエスに聞き従うということです。

 その意味で、ペトロたちが見たこと聞いたことは、ただ彼らだけのためではなかったのです。他の弟子たちのためでもあり、イエス様の後に従いたいと思うすべての人のためだったのです。神は言われるのです。「これに聞け」と。

 父なる神はイエス様を指して「これはわたしの愛する子」と呼ばれます。しかし、その「愛する子」は神の子でありながら、天にも神秘の山にも留まってはおられないのです。その「愛する子」は山の下にある、罪深い人間世界へと向かわれるのです。罪に満ちたこの世界において、父なる神を愛し、人を愛するゆえに、自らの十字架を背負うことになるのです。そして、自ら背負われた十字架にかかられることになるのです。その御方が言われるのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

自分の十字架を背負って
 十字架刑に処せられる者が重い十字架を一生懸命背負ったとしても、それで誰から感謝されるわけでもありません。称賛されるわけでもありません。「十字架を背負う」とはそういうことです。報いとは全く縁のない労苦です。充実感や達成感などとは縁のない労苦です。そのような十字架を背負ってわたしに従えとイエス様は言われるのです。そして、天の父も「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言われるのです。

 その意味において、信仰の道は険しい。主の言葉は厳しい。そう思います。しかし、先週も触れましたように、このイエス様の言葉は私たちに対する深い信頼の表現でもあるのです。主は、いつ背くか分からないような私たちを、それでもなお信じて招いてくださるのです。人からの報いとは縁のない労苦であっても、それを背負って最後まで従い続けてくると、主は信頼して、こうして繰り返し招いていてくださるのです。

 そしてまた、イエス様が「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言ってくださること自体、本当はとてもありがたいことなのです。それは少しでも現実的になれば分かります。私たちの労苦は常に報われますか。私たちの苦しみや重荷にいつでも意味を見いだせますか。そうではないでしょう。愛の労苦は常に報われますか。他者のための労苦は、その労苦自体がいつも実を結びますか。そうではないでしょう。この世においては報われない重荷、意味の分からない重荷、賞賛とは結び着かない重荷の方が圧倒的に多いに違いないのです。

 しかし、そのような私たちにイエス様は言われるのです。――先に十字架を負われ、そして、先に復活された御方はこう言われるのです。「あなたはあなたの十字架を背負ってわたしについて来なさい。報われない労苦をいっぱい背負ってついて来なさい。わけの分からない重荷を背負っていたとしても、安心してわたしの後について来きなさい」と。そうです。私たちはいかなる意味においても、報われない労苦を嘆く必要はないのです。誰かを呪う必要も、不平を言いながら生きる必要もないのです。ただイエス様の後に従っていったら良いのです。天の父も言われるのですから。「これはわたしの愛する子、これに聞け」と。

 そして、天の父はそう言われるだけでなく、その十字架の先に輝く栄光の姿を見せてくださったのです。それはあの弟子たちにとって必要なことでした。山から下っていくために必要なことでした。主に従って山の下の世界に生きるために必要なことでした。この世においてキリストに従っていく時に苦しみがあり試練があったとしても、押しつぶされてしまわないために必要なことでした。だから彼らは人の子が復活した後に力強く語り出したのです。私たちは既にあの山の上でその栄光を見せていただいていたのだ、と。

 そのように語り伝えて、語り伝えられた人がまた語り伝えて、ここにいる私たちにも伝えられています。十字架の先に輝く栄光のキリストを指し示して、天の父は私たちにも言われます。「これはわたしの愛する子。これに聞け」と。私たちもまた週毎にキリストの復活を思い、そしてその御言葉に耳を傾け、御言葉に従って歩んでまいりましょう。

以前の記事