2026年5月31日日曜日

「神との養子縁組」

ローマの信徒への手紙 8:12-17

肉に従って生きるのではなく
 今日の第二朗読では、次のような御言葉が読まれました。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」(ローマ8:12)。

 「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務」という言葉は、恐らく私たちの日常生活では決して耳にすることがない、聖書独特の表現であると言えるでしょう。そもそも「肉」とは何でしょう。パウロが「肉」と言う時、それはいわゆる「肉欲」を指すのではありません。「肉欲」に従って生きることを言っているのではありません。

 ここで言う「肉」とは、生まれながらの私たち自身です。いわば信仰を持つ以前の私たち自身、自分の努力と頑張りだけで生きてきた私たちです。それを「肉」というのです。

 実際には、信仰者となって後も、この「肉に従って生きる」ということは起こり得ます。神の御心に従って生きたいと願います。信仰者ですから。しかし、相変わらず自分の努力と頑張りによって、自分の力に寄り頼んで、神の御心に従って生きようとするのです。だからパウロは言うのです。「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません」。

 キリスト者はキリスト者らしく生きるべきだ。――それは誰でも考えることだろうと思います。「わたしたちには一つの義務があります」とパウロも言います。何の義務もない。何の責任もない。別にどのように生きても良いのです、とパウロは言いません。しかし、私たちが考えなくてはならないのは、肉に従ってキリスト者らしく生きることではないのです。自分の努力と頑張りで、自分の力を振り絞って、神の御心に従って生きることではないのです。そんなことをしたら「死にます」とパウロは言うのです。

 これは肉の内に働く罪の力の大きさを知るパウロだからこそ言える言葉なのです。人間の内にある罪の問題がいかに深刻であるかは、7章においてパウロが言葉を尽くして語っています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(7:18-20)。

 そのような私たちが、それでもなお自分の肉に従って、自分の努力と頑張りによって神の御心に従おうとするならば、どうなるかはパウロにとって明白だったのです。「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」と。ならば、大事なことは「肉に従って生きる」ことではないのです。そうではなく、「霊に従って生きる」ことなのです。

 では「肉に従って生きる」のではなく「霊に従って生きる」とは、どのように生きることを意味するのでしょうか。パウロはこう言っています。「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。」(14節)。――ここに「霊に従って生きる」ということがどういうことか、はっきりと書かれています。霊に従って生きるということは、神の霊に導かれて生きることです。神の霊に導かれて生きるということは、神の子として生きることなのだと聖書は言っているのです。

霊に従って生きる
 では、「霊に導かれる神の子」として生きるとは、どういうことでしょうか。具体的に私たちはどのように「霊に従って」生きたら良いのでしょうか。続きをお読みします。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(15節)。

 ここには二つの大事な認識があります。第一は神についてです。私たちが受けたのは、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではない」と書かれているのです。つまり、私たちが信仰者となるということは、神の奴隷のようになることではないということです。言い換えるならば、神は奴隷の主人のような御方ではないということです。

 この手紙が書かれた頃、ローマ帝国内には奴隷と呼ばれる人たちがたくさんいました。初期の教会の構成メンバーの多くは奴隷の身分の人たちでした。ですから、パウロが「奴隷」と「恐れ」を結び付けて語っていることについては、感覚的に理解できただろうと思います。

 奴隷は主人の言うことを聞きます。奴隷は主人に従います。どうしてですか?言うことを聞かないと打ち叩かれるからです。痛い思いをするのはいやです。だから主人に従うのです。いつ打ち叩かれるか、ビクビクしながら言うことを聞いて一生懸命に働きます。これが奴隷と主人の関係です。

 信仰生活がそのような奴隷と主人との関係のようになってしまうことは確かにあり得ることです。神様の言うことを聞かないと打ち叩かれる。間違ったことをしてしまったら罰を与えられる。御心に沿わないことをすれば災いに遭う。最終的には救われることもなく、神の国からも締め出される。それはとても恐ろしいことだから神様の言いつけを守る。従順に生きようともする。いつ神様に怒られるか、ビクビクしながら神様に従う。――皆さん、もしそうならば、それは奴隷と主人の関係以外の何ものでもありません。

 そこから生まれるのは何ですか。「肉に従って生きる」という生活でしょう。頑張って、努力して、神様に認めてもらうしかないのですから。しかし、パウロは言うのです。あなたがたが受けたのは「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊」ではありません、と。

 そこで大事なもう一つの認識があります。それは私たちについてです。「あなたがたは、…神の子とする霊を受けたのです」。ここに「神の子とする」とありますが、実際には「養子にする」という言葉が用いられているのです。私たちは「養子にされたのだ」というのです。

 私たちは自分が神の子どもとしてふさわしいかどうか、いつも自分の方を見て考えるのでしょう。そして、自分はふさわしくないなどと口にするかもしれません。しかし、養子にするかどうかは神が決めるのです。神が受け入れるならば、私たちがふさわしかろうがなかろうが関係ないのです。神が受け入れてくださるならば、私たちは神の養子となるのです。

 そもそも、ふさわしいかふさわしくないかを言うならば、もとより私たちは皆、ふさわしくはないのです。どう考えてもふさわしくないのです。だから、特別な手続きが必要だったのです。

 養子とする霊、聖霊が降って教会が誕生する前に、この地上において何が起こったのかを皆さんはご存じでしょう。イエス・キリストの十字架と復活です。イエス様が十字架において私たちの罪を全て代わりに負ってくださった。私たちの罪を贖ってくださった。だからこそ、私たちは罪を赦された者として、安心して養子となることができるのです。

 そして、パウロが念頭に置いているローマの養子縁組においてはもう一つ大事なことがありました。一度養子とされるならば、子どもとしての権利に完全にあずかることになるのです。つまり、養子となった場合、その家に実の子どもがいたとしても、なんら区別はなされないのです。親との関係において、立場的には全く同じところに立つことになるのです。

 これを神との関係において考える時に、私たちは驚くべきことがここに語られていることに気づきます。父なる神との関係において「実の子」と言えば、それはイエス様ではありませんか。しかし、私たちが「養子とされる」ということは、立場的にはイエス様と全く同じところに立つことになるのです。ですからその後には「キリストと共同の相続人」(17節)などと書かれているのです。これこそが、私たちの持つべき自己認識です。

 それは何を意味するのでしょう。イエス様がこの地上で神を「アッバ、父よ」と呼んでいたように、私たちも同じように「アッバ、父よ」と呼ぶことができるということです。ですから15節にはこう書かれているのです。「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」と。

 「アッバ」というのは、小さい子が親しみと信頼を込めて「パパ」と呼ぶのと同じです。私たちは福音書を読む時に、そのように父の名を呼び続けながら地上の歩みを進められたイエス様の姿を見ることになります。しかし、なんとそこに私たちもいるというのです。私たちも同じように父の名を呼んで、祈って生きることができるのです。そして、父なる神が御子なるイエス様に応えられたように、私たちの祈りにも父として応えてくださるということなのです。

 このように、私たちが神の子どもとして生きるということは、具体的には「アッバ、父よ」と呼びかけながら、祈りながら生きていくということに他なりません。神の霊に導かれた神の子どもとして生きるということは、絶えず祈りながら生きるということなのです。

 私たちが祈ることをやめてしまうなら、私たちは必然的に、肉に従って生きることになるのでしょう。そして、肉に宿っている罪との戦いに負け続け、敗北感に苛まれるだけの信仰生活となってしまうかもしれません。その敗北感を回避したければ、結局は表向きだけを繕いながら生きるか、あるいはキリスト者としての生活を放棄するか、そのいずれかになってしまうことでしょう。

 その意味でも、「肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます」という言葉は真実です。そうならないためにも、私たちは共に神の子どもたちとして父を呼びながら生きていくのです。私たちが今そうしているように、共に集まって礼拝を捧げ、共に父に依り頼みながら、悔い改めながら、赦していただきながら、助けていただきながら、父に寄り頼んで生きたらよいのです。天の父を呼び続ける祈りの生活を失ってはなりません。せっかく養子にしていただいたのですから。

2026年5月24日日曜日

「弁護者・助け主としての聖霊」

2026年5月24日 聖霊降臨祭 礼拝説教 

聖書:ヨハネ14:15-27

あなたがたと共に、あなたがたの内に
 今日は5月の第4主日ですが、今年から毎月第4主日は、年度主題を覚えて礼拝をおささげしましょう、ということになりました。今年の年度主題は週報の真ん中に書かれています。「聖霊の神殿である私たち」です。主題聖句としては「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(1コリント3:16)が掲げられています。

 今日はペンテコステ(聖霊降臨祭)でありますが、ちょうど第4主日に当たったことには意味があるのでしょう。今年はこの年度主題をも念頭に置きながら、今日与えられている聖書箇所を通して、主の御言葉に耳を傾けたいと思います。

 主は今日の箇所でこう言っておられました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(14:16-17)。

 この霊、すなわち「聖霊」が、「あなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいる」と主は言われました。これをパウロは、今年の主題聖句において、「自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」と表現していました。

 ところで、「あなたがたは知らないのですが」とパウロは言っていました。いや、本当は知っているはずなのです。しかし、知らないかのように振る舞い行動してしまうこと、知らないかのように生活してしまうことは、あるのでしょう。知ってはいるけど、忘れているからです。

 「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」イエス様も「あなたがたはこの霊を知っている」と言ってくださっているのですから、知っていることを忘れないようにしましょう。「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」――ここから改めて、このことを意識して教会生活を送りましょう。そうあってこそ、毎年こうして聖霊降臨祭が巡ってくることにも意味があると言えますから。

 「この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいる」。教会における営みは、ただ人間が計画し、人間が行うことによって成り立っているのではないのです。「この霊があなたがたと共に、あなたがたの内に」。もし、人間が行うことが全てなら、馬鹿げたことをしているとしか言いようのないことが教会にはたくさんあるのです。例えば、このあと行う聖餐式。おままごとじゃあるまいし、みんなが神妙に列を作って、こんな栄養も取れない小さなパンを食べることに何の意味があるでしょう。馬鹿げているとしか言いようがない。

 しかし、そうではないのです。それこそ、迫害に遭おうが、何があろうが、命をかけてでも教会はこのことを二千年間も続けてきたのです。それは人間が行うことがすべてではないからです。「この霊があなたがたと共に、あなたがたの内に」。その聖霊が行っていることがあるのです。そこには永遠の救いに関わること、この世からは絶対に得られない、天来の祝福に関わることが起こっているのです。

 そして、それは教会の中でのことだけではありません。私たちの毎日の生活、私たちの人生においても、私たち自身と、私たちに関わっている人間がしていることがすべてではないのです。私たちがこの世に遣わされ、この世に散らされている時にも、私たちそれぞれは教会の一部、キリストの体の一部なのです。こうして集まっている時だけでなく、私たちが一人でいる時でも、教会の一部、キリストの体の一部なのです。ならば、そこでも同じことが言えるのです。「この霊があなたがたと共に、あなたがたの内に」。

 私たちの生活には、聖霊が行っていることがあるのです。私たちの人生には、聖霊が行っていることがあるのです。それは聖霊なる神が行っていることですから、人間などには想像もつかないような、私たちには計り知れないようなことが起こっているのです。

 「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」イエス様も仰っているこのことを、忘れないようにしましょう。

別のパラクレートスを遣わしてくださる
 さて、私たちと共におり、私たちの内におられる聖霊について、イエス様は「弁護者」という表現を用いていました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(16節)。ここでイエス様は「別の弁護者」について語られます。

 度々申し上げていることですが、「弁護者」と訳されているのは「パラクレートス」という言葉です。「傍らに呼ばれた者」というのが元の意味です。それはとても豊かな内容をもった言葉です。ですから他にも様々な言葉で訳されます。「助け主」「慰め主」「解放者」、そのように傍らに来てくださる方です。共に立ってくださる方です。味方になってくださる方です。それゆえに「友だち」という訳まであります。

 それまでは目に見える姿で共にいてくださったイエス様こそ、まさに弟子たちにとってはパラクレートスでした。「弁護者」「助け主」「慰め主」「解放者」そして、「友だち」。しかし、イエス様がこれが語られたのは、最後の晩餐の場面であることを忘れてはなりません。パラクレートスであるイエス様は、今や世を去って父のもとに帰ろうとしているのです。

 だからイエス様は、父にお願いしてくださると言うのです。そして、父は別のパラクレートスを遣わしてくださる。永遠に一緒にいるようにしてくださる。そうイエス様は言われたのでした。その「別のパラクレートス」こそ聖霊です。イエス様が天に帰られた後、弟子たちのところに聖霊が来てくださると主は言われたのです。

 そして、聖霊は来てくださいました。どのようにして来てくださったかは、第2朗読でお読みしました。今日はその出来事を記念する聖霊降臨祭です。イエス様が天に帰られた後、弟子たちの群れに聖霊が降ったことを毎年こうして祝っているのです。別のパラクレートス、聖霊が来てくださって、教会の歴史は始まりました。そして、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とイエス様が言われたとおり、その時だけでなく、パラクレートスなる聖霊がずっと一緒にいてくださって今日に至るのです。

この方は、真理の霊
 そして、イエス様はそのパラクレートスなる聖霊を「真理の霊」と呼ばれました。「この方は、真理の霊である」と。そのように、聖霊は「真理の霊」として、真理を私たちに示してくださり、伝えてくださり、悟らせてくださる。そのような御方です。

 しかし、そこで重要なのは「真理」とは何かということです。私たちが本当に知らなくてはならない「真理」が、ある「思想」であり「概念」であるならば、それは言葉をもって伝えることができるでしょう。しかし、そうではないのです。イエス様は言われたのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)と。私たちが知るべき「真理」とは抽象的な概念ではありません。それは一人の御方です。イエス・キリストという御方なのです。

 イエス・キリストを知識として知るだけならば、それは言葉による伝達で十分なのでしょう。それは人と人との間でも同じでしょう。誰かについて、知識として知るだけなら、その人の情報を言葉によって知るだけで十分です。しかし、誰かについて、本当の意味で「その人を知っている」と言えるようになるには、人格的な交わりという意味で「その人を知っている」ということならば、その人と出会い、その人と共にいて、実際的な交わりがあるということは不可欠じゃないですか。

 「真理を知る」ということが、イエス・キリスト**を**知るということならば、キリスト御自身に来ていただくしかありません。キリスト御自身が共にいて、キリスト御自身が働きかけ、キリスト御自身が救いの御業を表してくださるしかありません。聖霊が「真理の霊」として、キリストを伝えてくださるというのなら、ただ「イエス様という御方はね・・」と言って教えてくださるだけでなく、キリストを実際にお連れくださるしかありません。そして、それが起こっているのです。聖霊のお働きによって。

 なんか、リモートワークみたいだな、と思う時があります。天に上げられたキリストが、地上において救いの御業をなされるというのは、ある意味では究極のリモートワークともいえます。聖霊を通してのリモートワーク。しかし、私たちが知るリモートワークと決定的に違うのは、声や言葉、映像や働きだけでなく、実際においでくださるということです。

 だから「この霊があなたがたと共におり、これからも、あながたの内にいるからである」と言われた時、さらにこう言われたのです。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(18-20節)。

 「あなたがたのところに戻って来る」。――それはキリストの復活や再臨をも念頭に置いた言葉でしょうけれど、一番大事なのは、パラクレートスなる聖霊を通して共にいてくださるということです。そのような神とキリストとの豊かな交わりをもたらしてくださる聖霊が、パラクレートスなる聖霊が、私たちと共に、そして私たちの内にいてくださる。私たちはその聖霊の豊かな御業の中にあるのです。今、こうして私たちが共にあつまり礼拝していること自体が、既にその現れなのです。

2026年5月20日水曜日

祈祷会用:サムエル記下 12:1~31

 サムエル記下 12:1-31

 前章において、私たちはダビデが家臣であるウリヤの妻バト・シェバと関係し、しかも彼女が身ごもると自らの罪を覆い隠すために、最終的にウリヤが戦死するように仕組んで亡き者としてしまうという恐ろしい罪を重ねたという話を読んでまいりました。

 ウリヤがダビデの思惑通りに戦死したことが伝えられた時、ダビデは使いの者に言いました。「ヨアブにこう伝えよ。『そのことを悪かったと見なす必要はない』」。ヨアブに語っていますが、これこそまさにダビデが行ってきたことなのでしょう。自分の行為を自分の目に悪としない。なんとしても、悪とは見なすまいとしてきた。しかし、その章の最後はこう締めくくられています。「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と。直訳すると、「ダビデのしたことは主の目に悪とされた」という言葉であることを前回申し上げました。

 罪は人がそう見なさなくても神の前に罪として残るのです。罪が罪として認められないままに残っているならば、そこに救いはありません。救いに至るためには、人が罪を罪として認めなくてはならないのです。それゆえに主は預言者を遣わして御言葉を語られるのです。それが今日お読みした話です。

 主はナタンを遣わして、一つの物語を語らせました。1節から4節に次のように書かれています。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い、小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて彼の皿から食べ、彼の椀から飲み、彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに自分の羊や牛を惜しみ、貧しい男の小羊を取り上げて自分の客に振る舞った」(1‐4節)。

 ダビデはその話を聞いて激怒し、「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ」と叫びます。王は司法の権威をも有しています。正しく裁くことは王の務めでありました。この物語に出てくる豊かな男は、ダビデの裁きによれば死刑に当たると判断されたのです。さらにダビデは言いました。「小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから」。

 するとすかさずナタンは、「その男はあなただ」とダビデに言い放ちます。他者の犯す罪については明らかに判断できても自らの罪は分からないものです。あるいは分かっても認めようとはしない。人間の義の基準はいくらでも変わります。他者が羊を殺したら死刑と判断され、自分が人を殺してもそのようには見なさない。そのようなことが往々にして起こります。大切なことは、人の目にどう映るかではなく、神の目にどのように映るかです。ダビデは自分の発した言葉によって、神の御前に自分の行動が罪であることを突きつけられたのでした。

 しかし、ダビデの罪は、単に無慈悲なことをしたことではありません。そのことをさらにダビデは知らされる必要がありました。ナタンは主の言葉を告げて言います。「なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか」(9節)。前章に見たとおり、問題はただ人と人との間の事柄ではありません。人に対して酷いことをしたことが責められているのではありません。もっと深いところにおいて、神の言葉と神の働きかけを頑なに拒否し続けたことこそが問題だったのです。罪の根はまさにそこにあったのであって、姦淫と殺人という具体的な行動はその実に他ならなかったのです。

 神の言葉を侮り、罪を罪として認めないところに救いはありません。ダビデはついに神の言葉を受け入れ、自分の罪が主に対する罪であることを認めます。彼はナタンに言いました。「わたしは主に罪を犯した」と。すると即座にナタンは答えます。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」。

 この「罪を取り除かれる」というのは、いつか未来においてという意味ではありません。今、ここで即座にという意味です。彼に与えられたのは罪の赦しの宣言です。人が罪と見なさなくなることによっても、人が忘れることによっても、罪は除かれません。罪がそのままならば永遠に神の前に残ります。罪は主が赦されることによって初めて取り除かれるのです。なぜなら、罪は主に対するものだからです。ですから「その主が」罪を取り除かれるのです。

 しかし、ナタンはさらにこう続けます。「しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」。これは不可解なことです。ダビデが罪を犯したのに生まれてくる子供が死ぬというのは実に不条理極まりないことでしょう。子供は悪くないのですから。しかし、このようなことがあえて書き記されていることには意味があるのです。少なくともこの主の言葉と続く物語は私たちに二つの大切なことを教えているのです。

 第一に、この箇所は私たちが罪を軽く考えてしまう過ちから私たちを守ります。確かに全く無条件に、即座に「その主があなたの罪を取り除かれる」と宣言されたことは、驚くべき神の恵み以外の何ものでもありませんでした。しかし、その恵みの中で私たちは続く言葉を厳粛に受け止めなくてはならないのです。主による罪の赦しは完全です。その罪責は完全に取り除かれます。借金は帳消しにされました。しかし、罪が残した傷跡は残ります。それは罪の行為者のみならずしばしば他者にまで及びます。

 ナタンは言いました。「主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う』」(11-12節)。実際、この子供に関することだけでなく、ここに語られていることもことごとく成就するのです。このことを認識するならば、私たちが罪の赦しを安価な恵みとして受け取ることはないでしょう。

 しかし、第二に、この主の言葉は続く物語と合わせて、さらに大きなことを私たちに示しているのです。それは何か。救いの確かさです。

 主の言葉どおり、主はダビデの子を打たれ、その子は弱っていきます。ダビデは苦しみます。彼はその子のために神に願い求め、断食し、引きこもり、地面に横たわって夜を過ごします。こうして七日間が過ぎました。そして、ついにその子は死んでしまいます。家臣たちはダビデが自害するのではないかと恐れました。しかし、子供が死んだことを告げられると、驚いたことにダビデは身を洗って香油を塗り、衣を替え、食事をするのです。

 通例ならば、子が亡くなってこそ嘆き悲しんで断食し喪に服するはずです。しかし、ダビデはそうしませんでした。家臣は不思議に思います。するとダビデは答えました。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう」(22-23節)。

 一見すると投げやりなダビデの言葉に見えます。しかし、そうではありません。ダビデは、子供が死ぬことを告げた主の言葉に、あえて抵抗したのです。憐れみを願ったのです。しかし、願いは適いませんでした。そして、願いが退けられることにおいて、逆に、主の言葉の確かさに直面させられることになるのです。かつて主の言葉を侮ったダビデでした。しかし、今この出来事において、ダビデは主の言葉の絶対的な力に直面せられることとなったのです。そして彼は、恐れをもって、主の言葉の権威のもとに身を低くしたのです。それゆえ、通常の喪の慣習に従うのではなく、身を洗って主を礼拝したのです。

 子供の死を予告した神の言葉は、自ら権威をもってその確かさを証明したのでした。しかし、これはダビデにとって大きな意味を持ちました。なぜなら、その事実はまた、先に語られた神の赦しの言葉も、絶対的な権威を持っていることを意味するからです。ダビデは自らの痛みをもって、その事実を思い知ることとなったのです。

 それゆえ、彼は主を礼拝した後、ダビデは赦された者として新たに生き始めます。そして、バト・シェバとの間に一人の子供が与えられたのでした。その子こそ、ダビデの後を継ぐソロモンです。「主はその子を愛され、預言者ナタンを通してそのことを示された」と聖書は告げます。そこにあるのは神の一方的な恵みです。そして、その行き着く先に、イエス・キリストの到来があるのです。

2026年5月17日日曜日

「心の目を開いてください」

2026年5月17日 主日礼拝説教 

聖書:エフェソの信徒への手紙 1:15‐23

心の目を開いてください
 「心の目を開いてくださるように」。今日お読みした聖書箇所にそう書かれていました。パウロの祈りです。「心の目を開いてくださるように」。それは、この肉の目では見えないからです。どんなに頑張って目を凝らしても肉の目では見えない。だから心で見るしかないのです。それは何か。――「希望」です。聖書の表現によれば、「神の招きによってどのような希望が与えられているか」(18節)ということ。これは肉の目には見えないのです。開かれた心の目でなければ見えないのです。

 「神の招きによってどのような希望が与えられているか」。――聖書は「神の招き」について語ります。そう、私たちは神に招かれて、神に呼ばれてここにいるのです。教会に身を置いていること、神を礼拝していること、聖書の言葉に耳を傾けていること、神を信じていること、洗礼を受けたこと、これらすべてのことは、単に私たちがそうしたいと思ったから実現したのではありません。そうではありませんか。

 ここに至るまでに、私たちの意志とは無関係に与えられた様々な出来事や様々な出会いがあったはずなのです。それらはすべて向こうからやってきたものです。向こうからやってきた全てを通して、神が招いてくださいました。そのようにして、私たちは集められたのです。ですから、そのような集まりは昔から「エクレーシア」と呼ばれていました。それは当時の一般的な市民集会を指す言葉です。日本語ですと「教会」と訳されます。しかし、「エクレーシア」とはもともと「呼び集められたもの」という意味の言葉なのです。

 神が集められたのならば、そこには神の意図があるはずです。人が薪を集めるなら、それは火にくべるためです。神が人を集めるならば、それは地獄の火にくべるためであってもおかしくはありません。人間の罪深さを思い、自分自身の罪深さを思うならば、それもまた一つの可能性であり、本来ならばそちらの可能性の方が高いとも言えます。

 しかし、集められた私たちは全く異なる言葉を聞いたのです。イエス・キリストは私たちの罪の贖いとして十字架にかかってくださった。その十字架のゆえに「あなたの罪は赦された」という宣言を聞いたのです。私たちは集められて――福音を聞いたのです。私たちは、イエス・キリストの神、イエス・キリストをこの世に送ってくださった神が、私たちを集めてくださったのだということを知らされています。言い換えるならば、神が私たちが集めてくださったのは、私たちを救うためであることを、私たちはキリストを通して知らされたのです。

 私たちを愛し、赦し、救ってくださる神が、私たちを招いてくださった。それが私たちの希望の根拠です。救いの神によって招かれた――だから既に希望は与えられているのです。招かれたことにおいて、原理的には既に希望は与えられているのです。

 しかし、与えられたものが見えているかどうかはまた別の話です。持っていることと、それを見て喜んでいることとは別の話です。持っていても見えていないがために、全く喜んでいないことはいくらでもあり得る。だからこそ「見える」ということが必要なのです。

 パウロにははっきりと見えている。しかし、エフェソの教会の人たちにはどうも見えないらしい。だからパウロはエフェソの教会のために神様に祈っているのです。「心の目を開いてくださるように」と。それは私たちのための祈りでもあります。皆さんは、聖書の中でパウロの書いていることと自分自身の生活との間に、ギャップを感じることはありませんか。私はよく感じるのです。パウロには見えていることが私たちにはまだ見えていない。そう思わざるを得ないことがたくさんあるのです。だからもっと見えるようになりたい。それゆえにパウロの祈りは私のための祈りでもあるのです。「心の目を開いてくださるように」。これは私たちのための祈りの言葉です。

受け継ぐべき栄光の富が見えるように
 さて、そのように「心の目を開いてくださるように」と祈って、見えるようになりたい希望の内容について、もう少し細かく見ていきましょう。希望の内容は大きく二つあります。希望の内容の第一は未来に関すること、第二は現在に関することです。第一は神の国に関すること、第二はこの世の生活に関することです。

 まずは未来に関すること。「神の招きによってどのような希望が与えられているか」。心の目によって見るべき希望とは何か。パウロはこう言い換えています。「聖なる者たちの受け継ぐものがどれほど豊かな栄光に輝いているか」(18節)。「聖なる者たち」とは、いわゆる特別な「聖人」のことではありません。パウロが「聖なる者たち」と言う時、彼は信仰者について語っているのです。ここで語られているのは、信仰者が「受け継ぐもの」です。

 それを言い換えると「神の国」となります。これは私たちの最終的な救いに関わる希望です。そして、受け継ぐべき「神の国」について語る時、彼が用いているのは「どれほど豊かな栄光に輝いているか」という表現でした。これは直訳すると「栄光の富」という言葉です。そうです、「栄光の富」を受け継ぐのです。

 「栄光」というのは、もちろん神の栄光のことです。17節に「栄光の源である御父(直訳では「栄光の父」)」と書かれている通りです。つまり、その「富」、その豊かさは、この世から受ける富ではない。栄光の神から受ける豊かさだということです。パウロが未来について、神の国について考える時、真っ先に頭に浮かんでくるのは、神から受けることになる、とてつもない豊かさが待っているというイメージだったのです。

 さて、エフェソの信徒への手紙はパウロの「獄中書簡」の一つです。実際には、この手紙を書いた時、パウロはその信仰のゆえに獄中にいるのです。かつて彼が持っていたもの一つ一つを失って獄中にいるのです。そして、最終的には自分の命さえそこで失うことを覚悟しているのです。それはある意味でパウロに固有のことではありません。獄中にいなくとも、ある程度長く生きていれば、私たちもまた、一つ一つを失いながら、手放しながら、生きることになるのでしょう。そして、最後には自分の命をも失います。

 この世のことしか考えられなければ、すべてを失って終わりということになるのでしょう。この世の人生しか考えられなければ、それが人生の結論です。しかし、この手紙を読んでも、他の手紙を読んでも、パウロは失った一つ一つを数えて嘆いてはいないのです。なぜか。――来るべき世において受け継ぐべきものが見えているからです。受け継ぐべき神の国が見えているからです。神から受けるべき栄光の富が見えているからです。開かれた心の目によって、神の招きによって与えられた希望が見えているからです。

 「心の目を開いてくださるように」。――これは私たちのための祈りの言葉です。

絶大な働きをなさる神の力が見えるように
 そして、第二は現在に関することです。この世の生活に関することです。パウロは祈りをこのように続けます。「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように」(19節)。「この絶大な働きをなさる神の力」ということで語られているのは、私たちの現在に関する話、この世の生活に関する話です。

 私たちはこうして共に神を礼拝し、神と共に歩む生活において、来るべき神の国を、神の救いの豊かさを、ある意味では、既に味わい始めています。しかし、もう一方において、この世に生きる限り、私たちには戦いがあります。信仰生活には喜びがあるだけでなく、苦闘もまたあるのです。私たちにとって、信仰生活における戦いの戦場はどこにあるのでしょう。家庭でしょうか。学校でしょうか。職場でしょうか。この社会でしょうか。

 しかし、私たちは、家庭の中や社会の中に戦場があると思っていてはならないのです。そうではなくて、戦場は私たち自身の内にあるのです。本当に勝たなくてはならない戦いは、私たち自身の内にあるのです。ですからパウロは「**わたしたち信仰者に対して**絶大な働きをなさる神の力」と言っているのです。「わたしたち信仰者に対して」と書かれていますが、厳密には「わたしたち信仰者の**内に**」という意味の言葉なのです。

 神の力が働くのは、第一には「私たちの内に」なのです。私たちの周りにではありません。私たちは周りの状況が変わることを求めているかもしれません。周りの人たちが変わることを求めているかもしれません。しかし、神が変えようと思っているのは、まずは私たち自身なのです。「信仰者の内に」神の力が働くのです。

 そして、わざわざ「**信仰者の**内に」と書かれていることを見落としてはなりません。「信仰者」とは「信じている人」という意味です。過去に「信じた人」ではありません。今「信じている人」です。まわりの困難な状況の中で信じることをやめてしまう人ではありません。神はまわりの状況を変えてくださらない、と言ってブツブツ言う人ではありません。信じ続ける人です。本当の戦いは自分の内にあることを悟って、自分が変えられなくてはならないことを悟って、神に信頼し続ける人です。そこにこそ神の力が働くのです。

 その力について、パウロは次のように表現しています。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」(20-21節)。――この力が、私たちの内に働くのです。キリストにおいて、復活という大逆転勝利をもたらした、この復活の力が、私たちの内にも働くのです。

 神の国には期待するけれど、この世の人生には何も期待しない。そんな歪んだ信仰者にならないようにしましょう。「どうせ何も変わらないさ」と言いながら、何も新しいことを期待しない、希望をもって自らの人生をも見ることができない。そのような信仰者にならないようにしましょう。そのためには、私たちの心の目が開かれていくことが重要です。どれほど大きな力を信仰者の内に働かせようとしておられるのか、そのことがもっともっと見えるようになるように、そして、常に神に対する大きな期待をもって生きていくことができるように、「心の目を開いてくださるように」と祈り求めていきましょう。

2026年5月10日日曜日

「モーセの母」

2026年5月10日 主日礼拝説教 

聖書:出エジプト記 2:1‐10

 本日は五月の第二主日、「母の日」ということで、いつもの聖書日課を離れまして、聖書の中に出て来ます一人の母親に注目しながら、御言葉に耳を傾けたいと思います。その母親とはモーセという人物の母です。どうぞ出エジプト記2章をお開きください。

信仰によって
 今から三千数百年前のことです。イスラエルの先祖であるヤコブとその一族がエジプトに移住しまして既に四百年以上経っておりました。その頃既に、イスラエルの民は、エジプト人が無視できないほどに増え広がっておりました。外来の民族の増加に危機感を覚えたエジプトの王は、ついに恐るべき命令を下しました。今日の箇所の直前にはこう記されています。「ファラオは全国民に命じた。『生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ』」(1:22)。――モーセという人物が生まれたのは、実にそのような暗黒の時代、悲しみと嘆きに満ちた時代でありました。

 誰でも良き時代に生きたいと思います。親は生まれくる子どもたちの時代が、良い時代であって欲しいと願います。しかし、実際、私たちは自分の産まれてくる時代を選べません。子どもたちの生きる時代についても、私たちの願いの通りにはなりません。それゆえに、私たちはしばしば無力さを覚え、嘆きの言葉を口にします。

 しかし、私たちはここで思い起こさねばなりません。神がモーセという人物を誕生させたのは、イスラエルにとって最も暗い時代だったのです。悲しみと嘆きに満ちた《最悪の時》こそが、モーセという人物を未来に向かって備えるために、神が選ばれた《最善の時》だったのです。

 モーセの誕生の経緯は次のように記されております。「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた」(1‐2節)。

 彼らは王の命令に従いませんでした。実は、同じように、王の命令に従わなかった人たちの話が、今日の箇所の前に書かれています。1章には二人のヘブライ人の助産婦が登場します。彼女たちについては次のように書かれています。「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(1:17)。

 彼女たちにとっては、王に従うことよりも、神に従うことの方が重要だったのです。王が望んでいることを行うことよりも、神が望んでいることを行うことの方が重要だったのです。生まれてきた男の子の命を奪うことを神が望んでおられるはずがない。神の御心を行うために、彼らは最善を尽くしました。

 そして、モーセの両親も同じでした。彼らもまたヘブライ人、神を畏れ敬う人々です。生まれてきた男の子をナイル川に放り込むことを、神が望んでおられるはずがない。神の望んでいることを行うために、彼らは最善を尽くしたのです。

 彼らの行為について、後の時代の新約聖書は次のように語っています。「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです」(ヘブライ11:23)。王の命令に従わなかった。それは信仰による行為でした。彼らはそのために最善を尽くした。「三か月の間隠しておいた」とはそういうことです。

 しかし、人間の行うことが全てなのではありません。人間の行いが全てならば、いずれは行き詰まることになります。彼らにとっては、三ヶ月が限界でした。人間が行うことが全てなら、最終的には諦めるしかありません。しかし、彼らはヘブライ人です。神を畏れ敬う人々です。ならば行き着くところは諦めではありません。神への信頼です。

 モーセを三か月間隠しておいた両親は、ついに隠しきれなくなった時、手放すべき時、神に委ねるべき時が来たことを悟ります。彼らはアスファルトとピッチで防水したパピルスの籠に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きました。そこにあるのは諦めではありません。神への信頼です。

神の御計画に用いられる
 事態はどのように展開していったでしょうか。赤子の姉が遠くに立って様子を見ていました。すると、折しもそこにファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来たのです。よりによって、命令を下した王の娘がやってきた。しかも、その王女によって、いともたやすく葦の茂みの間に置かれていた籠は見出されてしまいました。

 最悪の展開です。――しかし、神はしばしば最悪の展開をさえ用いて、事を先に進められるのです。王女は仕え女をやって籠を取ってこさせました。開けてみるとそこには赤ん坊がおり、泣いています。彼女はふびんに思って言いました。「これは、きっとヘブライ人の子です」。

 王女に赤ん坊を害する意思がないことを見てとったその子の姉は、すかさず近づいて王女に申し出ます。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」王女はこの申し出を快く受け入れます。娘が連れて来たのは、その赤ん坊の実の母親でした。王女は言います。「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当はわたしが出しますから」。こうして、その子は実の母親の手で育てられることになりました。

 できすぎた話だと思いますか。しかし、考えてみれば、この世の中でこのようなことが全く起こらないかといえば、そんなことはない。似たようなことは起こり得ます。そして、ある人はそれを「幸運」と呼ぶのでしょう。あるいは、「単なる偶然」と呼ぶかもしれません。

 しかし、もしこの母親が、信仰によって三か月赤子を隠した人であるならば、そして信仰によって赤子を手放した人であるならば、本気で神に信頼して委ねた人であるならば、これが単なる幸運や偶然ではないことは分かったはずです。「主なる神のなされたことだ!」と。そして、生ける神の御手が動かされたことを知って、畏れの念に打ち震えたに違いありません。

 そして、そこに神の御業を見る人は、ただ「ああ、よかった」では終わらないのです。モーセを再び抱くことができた時、この母親はそこにある神の御心、神の御計画ということを考えざるを得なかったことでしょう。そして、そこには自分自身に与えられた責任があることをしっかりと受けとめたに違いありません。それは、彼女がモーセをどのように育てたか、ということからも伺い知ることができます。

 王女は彼女に、「**わたしに代わって**乳を飲ませておやり」と言ったのです。明らかに王女はその男の子を自分の子にするつもりでいるのです。この母親は、エジプト王女の子の養育を託されたのです。――しかしモーセの母は、その赤ん坊をエジプト王女の子として育てなかったのです。あくまでも生ける神に仕えるヘブライ人として育てたのです。それは今日の箇所の直後、11節を読むと分かります。モーセは、王女の子としてエジプトの教育を受け、成人したころになってもなお、ヘブライ人たちを「同胞」として見ているのです。彼はあくまでもヘブライ人として、信仰の民として生きているのです!

 そのように、この母親はモーセの養育を神から与えられた務めとして受けとめたのでした。そして、神から与えられた務めを全うした時、再びこの母親は神の御手にその子を委ね、その子を手放します。「その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった」(10節)と書かれているとおりです。

 その後、この母はもはや物語の表舞台には出て来ません。それで良いのです。大事なことは、この母親が用いられ、人間の知恵や力によっては決して実現しないようなことが実現したということだからです。

 考えてみてください。エジプトの王女の子として教育を受け、エジプトの宮廷と社会事情に精通した者となることと、ヘブライ人として主を信じる信仰を受け継ぐこと――この二つはどう考えても同時に成り立つはずはないのです。しかし、神はこのことを実現されました。なぜですか。後の展開のためにどうしても必要だったからです。

 神はこのモーセを用いて、イスラエルの民をエジプトから導き出そうとしておられたのです。すなわちこのモーセは、後にエジプトの王と交渉をし、イスラエルの民をエジプトから導き出す人となるのです。そのためにモーセは、エジプトの宮廷の人間である必要があったのです。同時に信仰を受け継いだヘブライ人である必要があったのです。ですから神は、本来あり得ないこのことを実現させたのです。

 そもそも、「エジプトの王女の子であるヘブライ人」などというものは、歴史上に現れるはずがないのです。そのような歴史上に現れるはずのない人物を、神はこの一連の出来事を通して準備されたのです。

 そのことを実現するために神があえて選ばれたのは、――繰り返しますが――イスラエルの民にとって、最も暗い時代でありました。そして、神が用いられたのは、大きな力に翻弄され、悩み苦しみ、大きな不安をかかえた小さな一つの家族でした。神が用いられたのは、大きなことは何一つできない、無力な一人の母親でした。その母が、与えられた務めを信仰によって受けとめた時、その小さな信仰の行為が、神の大きな御計画の中において用いられたのです。

 私たちもまた、この時代にあって、様々な力に翻弄されながら生きています。それゆえに、時として大きな悩みを抱きながら、嘆きながら、悔し涙を流しながら、多くの不安を抱えながら、生きているのでしょう。しかし、そんな私たちと同じような人間が、神の御計画のために用いられた物語を読みます時、私たちのささやかな人生もまた、生ける神の大きな御手の中にあることを思わされるのです。

 そして、神は人の目から見て最悪の時代における最悪の展開をも用いて、御自身の御業を進められるという事実が、究極の形で現されたのは、キリストにおいてであることを私たちは知っています。神はキリストの十字架において私たちの救いを実現されたことを知らされているからです。ならば、あのモーセの母がそうであったように私たちにおいても、いや、福音を告げ知らされている私たちにおいてはなおさらに、大事なことはまことの支配者なる神への畏れと信頼とをもって生きることなのでしょう。

2026年5月6日水曜日

祈祷会用:サムエル記下 11:1~26

 サムエル記下 11:1-26

 10章でヨアブが率いた軍はアンモン人に対して大勝利を得ました。しかし、既に雨季に入っていたため、ヨアブはアンモン人をそのままにして引き揚げ、エルサレムに帰りました。最終的にアンモン人の都ラバを陥落させるのは12章26節です。

 年が改まり、雨季も終わって、再びダビデはラバを包囲するためにイスラエルの全軍を送り出します。しかし、ダビデはエルサレムに留まっておりました。既に、国の体制は整い、もはやダビデ自ら戦闘に出なくても良かったのです。

 ラバから百キロ近く離れているエルサレムは、実に平和でした。ダビデがこれまで歩んできました波乱に満ちた日々の末に、ようやく彼の人生に訪れた平和であったとも言えるでしょう。しかし、それはダビデが自らの力によって勝ち取った平和ではありません。それは7章に見たナタンの預言の成就に他なりませんでした。「わたしの民イスラエルの上に士師を立てたころからの敵をわたしがすべて退けて、あなたに安らぎを与える。主はあなたに告げる。主があなたのために家を興す」(7:11)。すなわち神の一方的な恵みと約束によって実現した平和なのです。

 しかし、恵みを与えられる者は、まさにその恵みを神の恵みとして受け止めるか否かが問われるのです。それは自分から出たものではなく、神からのもの。その認識を欠くならばどうなるか。神の恵みに与り、幸いを得た時にこそ、また罪への誘惑もまた大きくなるのです。

 ダビデが後々にまだ語り伝えられることになる大きな罪を犯したのは、まさに彼が最も大きな幸いを味わい、平穏な生活の中にあった時でした。すなわち、その平和の中で、ダビデは姦淫の罪に殺人の罪を重ねることとなるのです。しかし、この物語は単にダビデが「罪に陥った」ことだけを伝えているのではありません。実はもっと恐るべきことがあるのです。私たちはこの物語において特に4つの点に注目して読んでまいりましょう。

 第一に注目すべきは3節の言葉です。「ダビデは人をやって女のことを尋ねさせた。それはエリアムの娘バト・シェバで、ヘト人ウリヤの妻だということであった」(3節)。ダビデはその日の夕暮れ、午睡から起きて、王宮の屋上を散歩していました。するとその屋上から、一人の女が水を浴びているのが目に留まりました。「女は大層美しかった」と書かれています。ダビデはその女に心惹かれました。そこでダビデは人をやって女のことを尋ねさせます。使いが帰って報告します。それは「ヘト人ウリヤの妻だ」という報告でした。明らかなことは、この報告はダビデに十戒の第七戒を突きつけるものだったということです。「あなたは姦淫してはならない」と。

 第七戒が禁じる「姦淫」は単に性道徳の問題ではありません。これは結婚・家庭の事柄が、神の関わる極めて神聖な事柄であることを意味しているのです。他者の結婚関係は神の領域なのだということです。だから、たとえ王といえども、そこに入り込んではならないのです。使いの者の報告を通して、ダビデはここではっきりと神の「ノー」を聞いたはずです。しかし、何と書かれていますか。「ダビデは使いの者をやって彼女を召し入れ、彼女が彼のもとに来ると、床を共にした」(4節)。すなわち、ダビデはあえて神の「ノー」を退けたということです。

 第二に注目すべきは5節です。「(バト・シェバは)子を宿したので、ダビデに使いを送り、『子を宿しました』と知らせた」(5節)。子どもが与えられるということが全く神の業であることは、聖書における共通認識です。神はバト・シェバが子を宿すことを良しとされたのです。すなわち、彼らの行為の結果を与えられたのです。

 ダビデとバト・シェバの行為は闇の内にあったことでした。それは人の目からは覆い隠されていました。しかし、神はしばしば罪の結果をもって、隠された罪を明るみへと引き出されるのです。それは言うまでもなく、ダビデが罪を認め悔い改めるためです。

 ダビデの罪は明らかになりました。ダビデは再び自らの罪を神によって突きつけられることになりました。しかし、ダビデが考えたことは、その罪を神の御前に認めることではなくて、罪の結果をさらになんとか覆い隠すことでした。

 ダビデはウリヤを戦地から呼び戻しました。そして、家に帰らせようとするのです。ウリヤが家に帰ってバト・シェバと床を共にすれば、若干日数の計算が合わないにせよ、少なくとも胎の子はウリヤの子としてこの件を始末することができる。ダビデはそう考えたのでした。しかし、ウリヤは家に帰りませんでした。

 第三に注目すべきは11節です。ウリヤはダビデに答えました。「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか」(11節)。

 彼は「ヘト人ウリヤ」(3節)と紹介されていました。彼はもともとイスラエル人ではなくて、ヒッタイト系の異邦人(寄留者)です。しかし、ウリヤという名前自体は「主は私の光」という意味です。明らかに彼自身はイスラエルの信仰的な伝統のもとで育てられた人です。その彼が信仰によって答えたその言葉は、図らずもダビデの罪を明らかにする言葉となりました。

 「神の箱も、イスラエルもユダも仮小屋に宿り、わたしの主人ヨアブも主君の家臣たちも野営していますのに、わたしだけが家に帰って飲み食いしたり、妻と床を共にしたりできるでしょうか」――いや、イスラエルとユダが野営している時に、自分だけ飲み食いをし、他人の妻と床を共にしていたのは、他ならぬダビデなのです。

 この返答は人の目には偶然と見えます。しかし、その答えを通して神は語りかけておられたのです。すなわち、ダビデはそこでもう一度、自らの罪を突きつけられることになったのです。しかし、ダビデは自分の罪を罪として認めるのではなくて、あくまでも罪の結果を覆い隠すことを考えたのです。ダビデはウリヤを酔わせて家に帰らせようとしたのでした。しかし、ウリヤは主君の家臣たちと共に眠り、家には帰らなかったのです。

 第四に注目すべきは14節です。「翌朝、ダビデはヨアブにあてて書状をしたため、ウリヤに託した」(14節)。ダビデはついにウリヤを亡き者とすることを決心します。彼は書状をよりによって当のウリヤに託しました。忠実なウリヤは決して中を盗み見ることはないと分かっていたからです。

 書状には、「ウリヤを激しい戦いの最前線に出し、彼を残して退却し、戦死させよ」と書かれておりました。これは実に稚拙な指令です。現場の軍の司令官が、ウリヤだけを残して他の部下に退却を命令することなど、できるはずがありません。誰がどう見ても不合理だからです。

 ヨアブは恐らく戸惑いつつも、行える範囲でダビデの意図を汲んで従おうとするのです。要するにウリヤを戦士させることが目的であることは明らかだからです。そこで、強力な戦士がいると判断した辺りにウリヤを配置することにしました。

 しかし、それは町に接近することでもあり危険が伴います。事実、「ダビデの家臣と兵士から戦死者が出た」と書かれており、そのことが以後の記述において強調されています。戦死者の中には王に極めて近い人々がいたことは、ヨアブの苦しい報告からも伺えます。彼は、「王の僕ヘト人ウリヤも死にました」と言うがよい、と命じて使者を送るしかありませんでした。

 王の家臣の中には、ダビデの苦しい日々を共に過ごしてきた人々もいたことでしょう。ダビデが罪を罪として認めることなく、その結果を覆い隠そうとしたことは、さらなる結果を生みました。罪の結果は他の多くの人々まで巻き込むこととなったのです。ダビデを愛し信頼する人々にまで及び、彼らに死をもたらすことになったのです。ダビデはそこでもう一度、自らの罪を突きつけられることになります。しかし、ダビデはあくまでも罪を認めませんでした。

 この章の結末はこうなります。ダビデは使者に言いました。「ヨアブにこう伝えよ。『そのことを悪かったと見なす必要はない』」。この伝言は、直訳すると、「あなたの目に悪とするな」となります。これはヨアブに語っていますが、しかし、これこそまさにダビデが行ってきたことなのです。自分の行為を自分の目に悪としない。なんとしても、悪とは見なすまいとしてきたのです。

 しかし、聖書は次のように語ります。「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」と。これも直訳すると、「ダビデのしたことは主の目に悪とされた」となります。ダビデがどう見なそうと、それは主の目に悪なのです。そして、人の目からは消えても、罪は罪として残るのです。

 罪の問題の解決は、罪の悔い改めと罪の赦しにしかありません。罪の悔い改めは、主の目に悪とされることを、自らの目にも悪と見なすところから始まります。そこにしか、罪の赦しと真の救いはないのです。

2026年5月3日日曜日

「日曜日に教会で起こっていること」

2026年5月3日 主日礼拝説教 

聖書:ペトロの手紙一 2:1‐10

生まれたばかりの乳飲み子のように
 「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(2節)。そのように書かれていました。「乳飲み子のように」という話が出て来るのは、その前に「新たに生まれた」という話が書かれているからです。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(1:23)。

 人は新たに生まれることができます。信仰をもって新しく生き始めるとはそういうことです。それは聖霊による誕生であり、神の子どもとしての誕生です。イエス様が教えてくださった「主の祈り」は、まさに新しい誕生が何であるかを示していますでしょう。「天にまします我らの父よ」――私たちは神を「我らの父」と呼んで、神の子どもたちとして、神の家族として、生きることができるのです。

 そのように、信仰に入るということは、赤ん坊が家族の中に生まれてくるように、新しい関係の中に、すなわち神の家族の中に、新しく生まれることを意味します。それゆえに、神の家族として互いに愛し合う兄弟や姉妹として生きることが求められることになります。1章22節にはこう書かれています。「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」。

 そこには「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」と書かれています。しかし、生まれたばかりの時にはまだ赤ん坊ですから、その「兄弟愛」もはじめは赤ん坊のレベルから始まります。ですから、「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」と言われても、自分についても他の人についても、実際にはそうなっていないという思うことはあるかもしれません。しかし、大事なことは私たちが少しずつでも成長することなのです。神の子どもたちとして、互いの関係においても成長することなのです。

 この世の兄弟でもそうですが、兄弟らしくなって初めて兄弟となるわけではありません。兄弟であるという事実が先にあるのです。私たちもまた、愛し合う神の家族らしくなったから神の家族となるのではありません。新しく生まれたという事実が先にあるのです。家族とされているという事実が先にあるのです。

 極端なことを言えば、仮に兄弟愛が全く見られなかったとしても、それでも家族は家族なのです。しかし、もちろん、そのような状態を神が望んでおられるはずがありません。神が最終的に実現しようとしておられるのは愛の完成した世界ですから。それこそが神の国です。私たちはそのような救いの完成に向けて神の子どもたちとされているのです。だから子どもたちとして成長していくことが大事なのです。それが信仰における成長というものです。

 そこで私たちが生い育っていくためにどうしても必要なことが二つあります。ペトロが今日の箇所ではっきりと書いています。一つは「捨て去ること」です。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って…」と書かれていました。まずは否定的な側面からですが、大事なことは兄弟愛を妨げるものを捨て去っていくことです。

 「捨て去る」と言うのですから、それは自分の意志をもってやらなくてはなりません。何かの理由で悪意を抱いてしまうことはあるでしょう。それはある意味で仕方のないことです。しかし、その悪意を後生大事に抱えているのか、それとも捨て去ろうとするのかは大きな違いです。悪口を言いたくなる。あるいはついつい言ってしまう。そういうことはあるかもしれません。しかし、いつまでも延々と悪口を言い続けるかどうか、それはまた別の話です。持たないということよりも、気づかせていただいたら、その都度、悔い改めて手放すことの方が大事なのです。

 そしてもう一つ大事なことが書かれています。積極的には「霊の乳を慕い求める」ということです。成長するためには栄養を採らなくてはなりません。「霊の乳」は「御言葉の乳」とも訳せる言葉です。霊の乳は御言葉という乳です。御言葉を慕い求めることです。このことなくして絶対に成長はあり得ません。

 主の御言葉を求めるためには、当然のことながら、主のもとに行かなくてはなりません。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい」(3‐4節)と書かれているとおりです。では、「主のもとに行く」とは、具体的にどういうことでしょう。

 実はこの勧めの言葉は詩編34編から来ているのです。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」(詩篇34:9)。その詩編の言葉は、古くから聖餐の式文に用いられてきたものです。

 つまり、ここでペトロはキリスト者が集まって御言葉を聞き、聖餐を行う礼拝を考えているのです。先に語られていたように、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を悔い改めをもって捨て去り、そして霊の乳である御言葉を求めるのは、何よりもまずこうして聖餐卓を囲んで共に集まる主の日の礼拝においてなのです。ここはそのような場所なのです。

霊的ないけにえを献げなさい
 そのように主の日に聖餐卓の周りに集まる教会。悪いものを捨て去りながら、霊の乳を慕い求めて主のもとに集まる教会。その教会について、さらにペトロはもう一つのイメージをもって語り始めます。それはエルサレムにあった「神殿」です。ペトロはこう語ります。「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(4‐5節)。

 聖書において「神の家」と言えば、それは神殿のことです。ですから、ここで語られている「霊的な家」も具体的には神殿を指していると考えてよいでしょう。もちろん「《霊的》な家」ですから、目に見える建造物のことではありません。建物ではなく、集まって礼拝を捧げる信仰者の共同体、すなわち教会のことです。そして、二千年も後に、ここに集まっている私たち。それを神は「霊的な神殿」として見ておられるということです。

 その神殿を建てるための「かなめ石」はキリストです。キリストは人々から捨てられ十字架にかけられましたが、神はそのキリストを復活させ、新しい神殿を建てるための「かなめ石」となさったのだと語られているのです。この「かなめ石」に寄り頼む他の切石が一つ一つ組み合わされて神殿が造り上げられます。そのようなイメージなのですが、その切石こそ私たちなのです。「あなたがた自身も生きた石として用いられ」、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」とはそういうことです。

 その霊的な神殿においては、そこに仕える祭司もいなくてはなりません。それも私たち自身です。「そして聖なる祭司となって」と書かれているとおりです。また、祭司は「いけにえ」を献げるためにそこにいます。ここでは「神に喜ばれる霊的ないけにえ…を献げなさい」(5節)と語られています。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」とは何でしょう。それは私たち自身の体のことです。

 パウロも次のように語っています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)。要するに、ここで私たちは生きている「切石」として神殿を建て上げ、同時に聖なる祭司となって、私たち自身を神に喜ばれる霊的ないけにえとして献げるのです。

 これらすべては神の恵みとして私たちに与えられていることです。考えてみてください。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」と書かれているのです。私たちが自分自身を献げるとき、そのいけにえを神は喜んで受け入れてくださるということです。それは本来、あり得ないことではありませんか。

 現実には、神の意に背くようなことばかりしでかしている私たちです。むしろ、「お前などいらない。神に背いてきた者よ、滅びてしまえ」と言われたとしても仕方のない私たちなのでしょう。しかし、そうではなく、私たちを神は喜んで受け入れてくださるのです。それはまことに驚くべきことです。

 そして、そのようなことがあるとしたら、それはひとえにキリストのゆえなのでしょう。キリストによって与えられた罪の赦しによるのです。ですから、ただ「霊的ないけにえを献げなさい」と言われているのではなく、「イエス・キリストを通して献げなさい」と言われているのです。すべてはキリストを通して与えられた恵みだからです。これが日曜日に教会において起こっていることなのです。

 日曜日ごとに主は恵み深く私たちを御もとに招いてくださいます。私たちは恵み深い主のもとに集まります。神の子どもたちとして、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨て去って、霊の乳である御言葉を慕い求めて主のもとに集まります。私たちは主の恵み深きことを味わい知りながら、霊の乳によって神の子どもたちとして成長していきます。しかし、私たちが集まるのは、ただ私たち自身のためではありません。

 私たちが主のもとに集まる時、霊的な神殿が目に見える形で地上に姿を現すのです。先週も私たちが聖書を通して耳にしたように、私たちは神の神殿なのです。神に礼拝がささげられる神殿なのです。そこにおいて、私たちは皆、神に仕える祭司となります。祭司は神のために、自分自身をイエス・キリストを通して献げるのです。神はイエス・キリストを通してささげられた私たちを神に喜ばれる献げものとして受け入れ、私たちを神のものとしてこの世界に遣わしてくださいます。それが日曜日に教会で起こっていることです。

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