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2026年8月2日日曜日

「父なる神の切なる願い」

 

2026年8月2日 主日礼拝説教 

マルコによる福音書 9:42~50

命にあずかる方がよい
 「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」(43‐47節)。

 たいへん恐ろしいことが書かれています。ここでイエス様は繰り返し「地獄(ゲエンナ)」について語っています。「地獄の消えない火の中に落ちる」とか「地獄に投げ込まれる」という表現に、私たちは恐怖を抱きます。脅迫されているようにも感じます。

 しかし、イエス様が「地獄に投げ込まれる」ことについて語っているということは、少なくとも私たちは地獄の外にいるということを意味しているとも言えます。私たちがいるこの世界はたとえ苦しみに満ちていたとしても決して地獄ではないということです。神の刑罰の場ではなく、神から見捨てられた世界でもないということです。

 それどころか、この世界は神がイエス・キリストを遣わされた世界だと聖書は教えているのです。神が罪の贖いの十字架を打ち立てられた世界だと。この世界がどれほど神に背こうとも、なおも神に愛されている世界です。ですから、そこには救いの約束が与えられ、救いへの招きが与えられているのです。それをイエス様は「命にあずかる」また「神の国に入る」と表現しておられるのです。

 私たちが今日、聞いているのは、そのような救いの約束のもとにある者たちへの言葉なのです。繰り返されているのは「地獄」という言葉だけではありません。もう一つ繰り返されているのは「つまずかせるなら」という言葉です。そもそもこういう言葉から始まっていました。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(マルコ9:42)。

 この言葉自体もそうとう過激ではありますが、言わんとしていることはよく分かります。「わたしを信じるこれらの小さな者」とありますが、キリストを信じる者は、たとえこの世においてどんなに小さな存在であっても、軽んじられる存在であっても、キリストにとっては、決して小さな存在ではないということです。その人がつまずいてしまうかどうかはキリストにとって大問題なのです。この世においては迫害があるかもしれません。罪への誘惑があるかもしれません。しかし、なんとしてもつまずかないで欲しい。この過激な言葉に言い表されているのは、そのようなキリストの願いです。

 先ほどの「地獄」の話にしても同じです。そこに言い表されているのは、何としてでもつまずかないで欲しいという願いなのです。いかなる人によってもつまずかされないで欲しい。いかなるものによってもつまずかされないで欲しい。いやそれだけでなく、自分の手や足や目によってさえもつまずかされないで欲しいということです。神から引き離されないで欲しい。最後まで信仰を全うして命にあずかって欲しい。最終的に神の国における完全な救いにあずかって欲しい。そのようなキリストの強烈な願いがここに言い表されているのです。そして、これこそがキリストを世に遣わされた天の父なる神の願いでもあるのです。

 考えてみれば、このイエス様の言葉は、迫害の時代の教会にとってはどれほど大きな慰めであったかとも思います。現実に自分で切り落としたりえぐりだしたりするまでもなく、迫害者によって片手や片足を切り落とされたり、目をえぐりだされたりするということもあったのでしょう。あるいは場合によっては、自分の手や足や目よりも大事だと思えるものを失うことさえあったのでしょう。しかし、そこで彼らは主の言葉を聞くことができたのです。「片手になっても命にあずかる方がよい。」「片足になっても命にあずかる方がよい。」「一つの目になっても神の国に入る方がよい」と。

 いや、迫害の時代だけの話ではありません。人はこの世にあっては様々なものを失いながら生きていくのでしょう。ある場合には心身の健康を失い、愛する者を失い、生き甲斐であったものを失うこともある。私たちもまた、自分の手や足や目よりも大事だと思えるものを手放さなくてはならないこともあるのでしょう。しかし、それでもなお私たちは地獄にいるのではないのです。神による救いの約束のもとにあるのです。何としてでもつまずかないで欲しい。命にあずかって欲しい。神の国における完全な救いにあずかって欲しい。そのような神の強烈な願いのもとにあるのです。

父の訓練
 この神の切なる願いは、聖書においてもう一つ別の言葉をもって表現されています。本日の第二朗読、ヘブライ人への手紙が用いていたのは「訓練」という言葉でした。そちらも見ておきましょう。

 この手紙は苦しみの中にあるキリスト者に宛てられた手紙です。既に迫害を経験し、さらに大きな迫害が予期される時代に書かれた手紙です。その手紙において、今日お読みしたところには次のような旧約聖書の言葉が引用されています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ12:5‐6)

 これは旧約聖書の箴言3:11以下の引用です。恐らくはこの手紙を受け取ったヘブライ人ならば誰でも知っている言葉であったに違いありません。また父親が子供に対して絶対的な主権を持っていた当時の社会を考えても、この言葉は彼らの生活において非常に身近に感じられた言葉であったろうと思います。しかし、今日の私たちが読むと、ここに書かれていることは「親による虐待」を連想させるかもしれません。

 しかし、私たちはここで鬼の形相をもって鞭を振るっている父親の姿を思い浮かべてしまうと、方向を誤ってしまいます。現代の私たちの感覚を持ち込むことは差し控えなくてはなりません。この箴言の言葉を引用している人は、この父が、私たちの救いのために独り子さえも惜しまず与えた神であることを知っているのです。それほどまでに私たちを愛していることを知っている人なのです。先ほど述べてきたような神の願いを知っている人なのです。どんな苦しいことがあってもつまずかないで欲しい。迫害の中にあってもつまずかないで欲しい。必ず命にあずかって欲しい。完全な救いにあずかって欲しい。そのような切なる神の願いを知っている人が引用して書いているのです。

 ここに書かれていることは極めて単純なことです。苦しみがあることは神から見捨てられていることを意味しないということです。苦しみがあることは神から忌み嫌われていることを意味しないということです。むしろそこでこそ、神の子供とされていることを思ったらよいのです。そこでこそ、イエス様がなさったように、「アッバ、父よ」と祈ったらよいのです。そう、十字架への道を歩まれたイエス様が、最後までそうなさったように。

 天の父は、私たちが命にあずかることを願っていてくださいます。そして、ただ最終的に命にあずかって欲しいと願われるだけでなく、この世にある生活の中において私たちに関わってくださるのです。この世にある限り、様々な形において苦難を避け得ない私たちです。しかし、私たちは無意味に苦しむことはないのです。父はそのような私たちの人生に目的をもって関わっていてくださるからです。

 ヘブライ人への手紙にはこう書かれています。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:10‐11)。

 そのように、天の父は罪に汚れた私たちを神の子供とし、罪から解放し、御自分の神聖にあずからせようとしていてくださいます。今、この世の生活において、既にその御業は始まっているのです。

 それは平和に満ちた実を実らせるためだと書かれています。「平和」とはヘブライ語で「シャーローム」と言います。単に争いのない状態のことではありません。完全な調和と真の豊かさをもって命が満ち溢れている状態を意味します。それがこの地上においてだけでなく、永遠にもたらされる、そのような実を結ばせるために、神はこの世におけるあらゆる苦しみをさえ用いられるのです。

 実際に様々な苦しみを通して、それまで絡みついて離れることなかった罪から解放されるということがある。私たちの多くは、身をもってそのことを知っているのでしょう。苦しみを通して本当の「平和」すなわち「シャーローム」が与えられるということを既に味わい始めているのでしょう。実際に天の父は教会の歴史において、迫害に代表されるような、不当な苦しみさえも「シャーローム」を与えるために用いてこられたのです。

 大事なことは、主のなさることを軽んじないことです。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない」。そうです、父の鍛錬を軽んじてつぶやかないことなのです。神に背を向けてつまずかないことなのです。たとえ何が起こったとしても、いかなる人間が何をしたとしても、何を言ったとしても、それらが私たちを救いの道から引き離すことを許さないことなのです。私たちは天の父の子供たちです。天の父は私たちを愛しておられます。私たちが平和に満ちた実を結ぶことを望んでおられます。私たちが命にあずかることを願っておられます。

2026年7月19日日曜日

「ひたすら神を仰ぐ者に」

2026年7月19日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 9:14‐29

なんと信仰のない時代なのか
 今日の聖書箇所は、イエス様がペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて山から降りてこられたところから始まります。そこで主が目にしたのは、弟子たちが大勢の群衆に取り囲まれて律法学者たちと議論している姿でした。事の発端はどうもこういうことのようです。

 ある人がイエスの弟子たちのもとに病気の息子を連れてきました。その子に現れていたのは「てんかん」のような症状でした。父親は「霊に取りつかれている」と表現しています。当然のことながら、悪い霊から息子を解放して、癒してほしくて連れてきたわけです。

 その症状が現れたのはその子が幼い頃からだと言います。長い間、親も子も苦しんできたのでしょう。病気になれば、それは誰かが罪を犯したからに違いないと噂される社会です。なぜこの子はこんな苦しみを負わなくてはならないのか。いったい誰の罪なのか。――きっと長い間、そのような辛い思いを抱えて生きてきたのでしょう。

 その父親が、神の救いを宣べ伝えるイエスの一行のことを耳にしたのです。「神の国は近づいた」と宣言し、癒しの業をもって、神の憐れみを体現しておられる方のことを耳にしたのです。そして、この父親は神の憐れみを求めて、息子を連れて、弟子たちのところにやってきたのです。

 しかし、結果から言いますと、この子供は癒されませんでした。この父親は失望と落胆に顔をゆがめ、いくばくかの疑いを抱えたまま、そこに立っていたのでしょう。彼はイエス様に言いました。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」(18節)。

 一方、その父親のかたわらで弟子たちは何をしていたのでしょう。律法学者たちと議論していたのです。恐らく癒せなかったことについて律法学者たちに何か言われたのでしょう。もはやこの親子のことは眼中にありません。議論に夢中です。さらに言うならば、そこに集まってきた群衆も同じです。この親子ではなく、議論している弟子たちの方を取り囲んでいるのです。これが山から降りてきたイエス様が目にした光景でした。

 その弟子たちの姿を見て、取り囲む人々を見て、そして父親の言葉を聞いて、イエス様は嘆きながらこう言われました。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」(19節)。

 実に激しい嘆きの言葉です。イエス様がここまで言われるのは珍しいことです。しかし、間違ってはなりません。苦しんでいる親子をそっちのけにして議論している愛のなさを嘆いているのではないのです。そうではなくて、弟子たちや律法学者だけでなく、この父親についても、さらには群衆についても、「信仰がないこと」を嘆いておられるのです。「なんと信仰のない時代なのか」と。

信仰のないわたしをお助けください
 そして、「その子をわたしのところに連れてきなさい」とイエス様は言われました。人々は病気の息子をイエス様のもとに連れてきます。するとその子は引きつけを起こし、地面に倒れ、転び回って泡を吹きました。主はその子について尋ねました。「このようになったのは、いつごろからか」と。

 その後のやり取りは次のように書かれています。「父親は言った。『幼い時からです。霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。』イエスは言われた。『「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる。』その子の父親はすぐに叫んだ。『信じます。信仰のないわたしをお助けください』」(23節)。

 「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」。この激しい言葉をもって、この父親を信仰へと招いているのです。この父親には今こそ「信じる」ということが必要だからです。失意と落胆の中にある時こそ、そして、過酷な現実が目の前にあるからこそ、不信仰の暗闇に落ちてはならないのです。実際、彼の目の前で息子が泡を吹いて転げまわっているのですから。そして、その現実に対して自分は無力なのですから。何もできないんですから。ならば、信じるしかない。神の憐れみを信じて寄り頼むしかないのです。

 イエス様に言われて、この父親にも分かったのだろうと思います。「おできになるなら」なんて悠長なことを言っている場合じゃないのです。可能だろうか、不可能だろうかなんて言っている場合じゃない。信じるしかないのだ、と。たとえ信じることがどんなに難しくても信じるしかない。だから父親はこう叫んだのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」。

 ある意味では支離滅裂な言葉です。しかし、そう言うしかないでしょう。信じることが難しければ助けていただくしかないのです。そうです、助けていただかなくてはならないのは、息子である以前に自分自身なのです。信じることが困難な自分自身なのです。息子のことを神に願う前に、自分自身が助けを必要としているのです。

 それはこの父親だけでありません。本当はあの弟子たちも同じであったはずなのです。苦しんでいる息子が連れて来られた。その息子を解放することができない。自分たちの無力さが明らかにされた。ならは、律法学者たちと議論している場合ではないでしょう。

 弟子たちもまた、無力な自分たちを神の憐れみにゆだねて、ひたすら神の御業を求めるしかないのです。それこそあの父親のように「信じます。信仰のないわたしたちをお助けください」と言って、神に縋り付くしかない。祈るしかない。本来、彼らはそうあるべきだったのです。ですからこの箇所の結論部分において、イエス様はこう言っておられるのです。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」(29節)と。

祈りによらなければ
 さて、ここで私たちは、一旦この場面から離れ、かつてこの弟子たちが宣教のために村々に遣わされた時のことを思い起こしたいと思います。イエス様は弟子たちを二人組にして村々へと遣わされました。その時のことが次のように書かれています。「その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた」(6:7-9)。つまり、イエス様は弟子たちの持ち物をほとんど没収してしまわれたのです。もう神に寄り頼むしかありません。そして、遣わされた弟子たちの様子は次のように書かれているのです。「十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(6:12‐13)。

 そして、帰ってきて報告するわけです。彼らの報告の様子を聖書はこのように記しています。「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」。――そのように聖書には「自分たちが行ったこと…を報告した」と書かれているのです。もちろん、本当は弟子たちが行ったのではありません。神様がなさったのです。それは弟子たちも分かっていたはずです。

 しかし、彼らの心が変化していったであろうことは容易に想像できます。きっと彼らは感謝されたことでしょう。癒された人たちから。解放された人たちから。また、その家族から。そのようなことが繰り返されたらどうなりますか。どうしたって「わたしがしてあげた」という思いになるではありませんか。

 そうしているうちに、次第に関心は自分の方に移ってまいります。神を信じなさいと宣べ伝えていながら、自分は神様の方に向かないで自分の方ばかり見ているということが起こり始めます。結局、いつも考えているのは自分や周りの人々のこと、人間のこと、こちら側のこと。信仰とは言いながら、水平の次元のことしか考えていないということが起こります。

 弟子たちは確かにそのようになっていたのでしょう。それは今日お読みした場面にもよく現れているように思います。だから苦しんでいる親子をそっちのけで、議論に熱中するようなことにもなるのです。

 実際そうでしょう。こちら側にしか目が向いていなければ、自分たちが癒せなかったことは大問題です。その事実を人々がどう見るかも大問題です。もちろん自分で自分をどう見なしえるかということも大問題です。弟子としての自信が崩れてしまいますから。だから必死で弁明せざるを得ない。そのための議論です。しかし、彼らが夢中になっていたことは、すべて水平の次元のことなのです。

 本当に重要なことは、悪霊に縛られている息子に対し、またそのゆえに苦しんでいる父親に対して、「神様が何をしてくださるのか」ということなのでしょう。だからこそ、大事なのは信仰だったのです。彼らは信じて求めるべきだったのです。こちら側のことはゆだねて、無力な自分たちをも神にゆだねて、ひたすら神の御業を求めるべきだったのです。だからイエス様は「祈りによらなければ」と弟子たちに言われたのです。

 「なんと信仰のない時代なのか」とイエス様は言われました。しかし、イエス様が求めておられるのは、私たちが自信をもって胸を張って「私は信じています」と言えるようになることではありません。そうではなくて、こちら側ばかり見ている目を転じて、イエス様が指し示しておられる神の国に、神の御支配に目を向けるようになることなのです。

 私たちが自分の無力さを認め、弱さを認め、ボロボロであることを認め、そこからひたすら神を仰ぐ者となることなのです。救っていただかなくてはならないことを認めて、いや、時として、救ってくださる神を信じることさえできない自分であることを正直に認めて、ひたすら主の憐れみを求める者となることなのです。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」と叫んだ、あの父親のように。

2026年7月12日日曜日

「私たちの弱さをキリストのもとに」

2026年7月12日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 8:22‐26

 今日の聖書箇所は、一人の盲人が癒されたという話でした。その人は明らかに生まれながらの盲人ではありません。後でこの人が、「人が見えます。木のようです」と言っていることから分かります。木は見たことがあるのです。

 人生の途上で視力を失うこと、それは実に悲しく辛いことであったに違いありません。しかも、当時の社会は、今日と比べて、そのような人々が遥かに生きにくい社会でした。生活が困難であるというだけではありません。「この人の目が見えなくなったのは、誰の罪のゆえか。本人の罪か、両親の罪か」というような心ない言葉にもさらされます。自分でも、私は神に打たれたのではないか、罰せられたのではないか、などと思うようにもなります。それは病気そのものよりも辛いことだったのかもしれません。

 しかし、幸いなことに、彼の周りにはそんな宗教的な偏見を抱く人々ばかりではありませんでした。彼と共に生きようとする人たちもいたのです。彼の幸いを願い、彼を支える人たちがいたのです。そのような人々が彼をイエス様のもとに連れて来たのです。そして、その人に触れていただきたいと願ったのです。もちろん、それは「癒していただきたい」という意味なのです。しかし、彼らが「触れていただきたい」と言ったのには、それなりの理由がありました。

 福音書には、イエス様が病気の人に触れる姿、手を置かれる姿が繰り返し出てきます。そうです、キリストは手を伸ばされるのです。そして、病に苦しんできた人に触れられるのです。罪を犯したから病気になった。神に背いたから神に打たれたのだ。そう言われてきた人たち、自分でもそのように思ってきた人たちに、イエス様は手を伸ばされるのです。触れられるのです。手を置かれるのです。

 そこで人々が目にしていたのは、単に病気が癒されるという奇跡ではありませんでした。人々がイエス様の姿に見ていたのは、まさに神が慈しみをもって御手を伸べ、苦しみを負う人間に恵み深く触れてくださっているという姿だったのです。神が慈しみ深く触れてくださる。――それは病気の癒し以上に大きなことだったのです。

その目に唾をつけ
 それゆえに、「この人に触れていただきたい」と人々は願いました。そこで、イエス様はこの人の手を取って、村の外に導いていかれました。今まで頼りにしてきた人々、ここまで連れてきてくれた人々から引き離されます。きっとそこには不安もあったに違いありません。恐れもあったことでしょう。しかし、しっかりと握ってくださるイエス様を頼りに、彼は歩いていきました。その手にイエス様の御手の力とぬくもりを感じながら、彼は歩いていったのです。

 やがてイエス様が立ち止まりました。既に村の外にまで出ていることをこの人は感じ取ったことでしょう。そこで主はこの人と向き合います。そしてイエス様は突然、この人の目に唾をつけ始めます。さらに「両手をその人の上に置いた」と書かれています。両目の上に手をあてたのでしょう。そして後、主はこう言われたのです。「何か見えるか」と。

 イエス様が唾をつけたという話は他にも出てきます。このような箇所を読んで奇妙に思う方はいるかもしれません。何かおまじないのような行為のように思うかもしれませんし、今どきの子どもたちは「汚いな」と感じる人がいるかもしれません。

 しかし、私はこのような箇所を読みますと、なぜか自分の幼い頃を思い出すのです。外で遊び回ってはしょっちゅう転んで肘や膝をすりむいて帰ってきたものでした。すると私の祖母が「痛くない、痛くない」とか言いながら、傷に唾をつけてくれるわけです。もちろん後で薬などを塗るわけですが、それは“おばあちゃん”が唾をつけてくれるのとは意味が全く違うのです。ある意味で、薬を塗る前に、もう癒されているのです。まだ血が出ていても、既に祖母の愛情が触れたときに癒されているのです。

 傷口に唾を塗ることは、古来からどこにでも見られる習慣でした。唾には殺菌作用がありますから。しかし、目に塗ったとしても効きません。子どもでも分かります。この人だって唾が目に効くとは思っていないでしょう。しかし、そんなことはどうでも良いのです。確かに奇妙な行為かもしれないけれど、この人はその指先の動きを通して、自分に関心を持ち、この苦しみを理解し、癒そうとしてくださる御方に触れているのです。

 この人にはイエス様は見えません。その表情も、その眼差しも見えないのです。しかし、この人には想像できたに違いありません。イエス様がどんな表情で、どんな眼差しで、今自分に向かってくださっているか。親が幼いわが子の傷に触れて癒すように、自分の目に触れてくれているイエス様の指先。そして自分の両目の上に置かれたイエス様の手のひらの温かさ。その手を通して、この人は確かに神の慈しみに触れていたのです。その神の愛がその人の目を開いたのです。

もう一度両手を当てられると
 しかも、この聖書箇所は、イエス様が再度手を置かれたことを伝えています。この人が何でもはっきり見えるように、繰り返しその目に触れられるのです。そのような奇跡物語は、他にはありません。ですから25節の「もう一度」という言葉が、この箇所ではとても重要なのです。

 良く見えなければ「もう一度」手を置かれるイエス様。愛の御手をもって、もう一度触れてくださるイエス様。そのようにして繰り返し触れられて一人の人の目が開かれた。その出来事を、キリストの弟子たちは他人のことのように思えなかったに違いありません。ですから、この話が大事に語り伝えられたのでしょう。実際、それは弟子たちの経験でもあったのです。

 今日の朗読は22節からでしたが、実はこの話の直前には、《目の見えない弟子たち》の姿が描かれております。先週お読みした箇所です。イエス様は弟子たちにこう言っておられました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか」(17‐18節)と。

 もう既に救い主と共にいるのに、既に圧倒的な神の愛の中にあるのに、弟子たちにはまだそのことが見えていないのです。ですからイエス様は彼らに言うのです。「まだ悟らないのか」と。そして、この福音書を読みますと、そのような悟らない、見えない弟子たちの姿が、全体を通して描き出されていることが分かります。ですから、イエスが捕らえられたときには、皆、イエスを見捨てて逃げてしまったのです。ペトロにせよ、他の弟子たちにせよ、大事なことはほとんど何も見えていなかったことが明らかになるのです。

 しかし、イエス様はそのような弟子たちに触れ続けられたのです。逃げてしまった弟子たちは、それで終わりではありませんでした。それで終わりなら、今日この世に教会は存在しないでしょう。主はあの弟子たちにもう一度現われてくださいました。いわばもう一度彼らに触れられたのです。いや、それだけではありません。さらに彼らに聖霊を注ぐという形で、決定的に触れてくださったのです。

 そのように、イエスの弟子たちにとって、あの盲人の癒しは、他人事ではなかったのです。その盲人の姿は、弟子たち自身の姿でもあったのです。

今も触れてくださるキリスト
 さらに言うならば、それはあの弟子たちだけに限ったことではありません。この物語が世々の教会において読まれてきたのはなぜですか。あれから二千年後の日本の教会において読まれているのはなぜですか。それは、キリストが今も私たちに触れてくださる御方であるからに違いありません。私たちが見えるようになるために、その御体をもって触れてくださるのです。そのキリストの体はどこにありますか。ここにあります。聖書は、教会がキリストの体であると教えているのです。

 キリストは教会という体を通して私たちに触れてくださいます。教会が行う洗礼の水を通してキリストは触れてくださいます。聖餐のパンと杯を通して触れてくださいます。御言葉の説教を通して触れてくださいます。こうして共に祈り讃美を捧げる中で、キリストは私たちに触れてくださいます。

 キリストは、今も私たちに触れ続けてくださるのです。私たちが見えるようになるために。キリストによって既に現された完全な神の愛が見えるように、神の救いが見えるように、私たちが既に神の大いなる恵みの中にあることが見えるように、私たちの手を取って導き、私たちと真実に向き合い、そして私たちに触れてくださるのです。「何か見えてきたか」と問いながら、繰り返し御手を置いてくださるのです。

 そこで大事なことがあります。イエス様が御手を置かれたのは、その見えない目の上であったということ。イエス様が唾を塗られたのも、その目の上でした。彼の最も弱き部分にイエス様は触れられました。彼の悲しみ、不安や恐れ、それらすべてが結びついているその最も弱き部分が、イエス様との接点になりました。最初の弟子たちにしてもそうでした。世々のキリスト者もまた、そのことを経験してきたのです。それゆえに、私たちもまた、私たちの最も弱い部分をそのまま携えて、ここに集まるのです。私たちの苦しみも、嘆きも、辛さも、自分について「わたしのここが大嫌い!」と言いたくなる部分も、何もかもそのまま携えて、主のもとに集まるのです。私たちがイエス様の御手を感じることができるのは、私たちの最も弱いところにおいてです。

 主は私たちに繰り返し触れてくださり「何か見えてきたか」と問いかけてくださいます。ならば、この人がしたように、私たちも見ようと目を凝らすことが大事なのでしょう。見え始めた神の愛、神の救い、そこから目を逸らしてはなりません。見たい!もっと見えるようになりたい!そのことを願い続けることです。やがてはっきりと見えるときが来るまで、そのことを願い続けて、一心に目を注ぐのです。そのように見えるようになることをひたすら願いつつ、もっともっとイエス様に触れていただきましょう。

2026年7月5日日曜日

「困窮は主の豊かさを知る機会」

2026年7月5日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 8:14-21

パンを忘れた弟子たち
 「弟子たちはパンを持って来るのを忘れ、舟の中には一つのパンしか持ち合わせていなかった」(14節)。そう書かれていました。小さなミスです。そのミスによって困ったことになりました。パンは一個しかありません。全員が食べるには足りません。

 そのように誰かのミスによって、あるいは全員のミスによって、何かが不足したり欠乏したりするということは起こります。それは私たちが置かれている様々な人間関係にも起こりますし、教会にもそのようなことは起こります。

 もっとも今日お読みした場面においては大したことが起こっているわけではありません。パンを忘れたからと言ってその後の旅に重大な支障をきたすわけではありません。事実、その後は何事もなかったかのように話は続きます。皆が少し我慢すればよいだけの話です。しかし、これは典型的な一つの出来事であるとも言えます。後に、形を変えて、もっと大きな出来事として起こるかもしれません。だからこそ、その場面でイエス様が言われた御言葉は、後々まで繰り返し伝えられてきたのです。それは今日の私たちにも、大きな意味を持っていると言えるのです。私たちにも、起こり得ることですから。

 その時、イエス様は何と言われたでしょうか。「そのとき、イエスは、『ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい』と戒められた」(15節)と書かれています。

 そうです、そのような時こそ気をつけなくてはならないことがあるのです。そのように全員にパンが一個しかないような事態になった時こそ、明らかに困窮や不足が生じているような時こそ、気をつけなくてはならない「パン種」があるのです。パン種は小さくても、全体を膨らませてしまいます。そのように小さく入り込んで全体に悪い影響を及ぼしてしまうパン種があるのです。

ファリサイ派のパン種
 実際、困窮や不足がある時に何が入り込んでくるでしょう。まず可能性として考えられるのは「裁き合い」です。そもそも、いったい誰が悪いのか。誰が正しいのか。そのような議論が始まるのです。そして、それぞれが自分を正当化しはじめます。これこそが「ファリサイ派のパン種」です。

 今日の箇所の直前にはファリサイ派の人々が来て、天からのしるしを求め、議論をしかけたという話が書かれています(11節)。明らかに悪意をもって議論をふっかけてきたのは、以前にファリサイ派の人々とイエス様の一行との間で一悶着あったからです。

 7章をご覧ください。「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。そして、イエスの弟子たちの中に汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た」(7:1‐2)。――「見た」と書かれていますが、要するに「気になった」ということです。だからイエス様を詰問するのです。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(同5節)。

 なぜ弟子たちが昔の人の言い伝えを守っていないことが気になったか。ファリサイ派の人たちは昔の人の言い伝えを一生懸命に守っていたからです。彼らの生活がこんな風に書かれています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(同3‐4節)。

 こういう人は、他の人のことが気になるものです。喜んで守っている人は別でしょうが、義務感から、仕方なく守っている人や、あるいは自分はこれだけ一生懸命に何かを行っていると日頃から思っている人は、守っていない人が気になるものです。自分と同じように行っていない人が気になる。非難したくなる。そういうものです。

 また、当然のことながら、そのように他人の行動を批判的に見る人は、自分も批判されているのではないかと気になるものです。批判されないように一生懸命になる。ですから他人の行動ばかりではなく自分の行動も気になります。どう見えているか。どう判断されているか、と。結果的に自分の正しさを一生懸命にアピールするようになります。表向きの正しさを繕うようになります。それが攻撃されれば自分も攻撃的になります。その結果、律法主義の世界は裁き合いの世界ともなるのです。

 そのようなファリサイ派のパン種が、困窮と不足の中に入り込むとどうなるでしょう。皆が互いの行動を問題にします。いったい誰が悪いのか。誰が正しいのか。そのような議論が始まります。皆が自分を正当化し、自分は正しいと主張し始めます。裁き合いが起こります。そのようなパン種は共同体を崩壊させることとなるでしょう。イエス様は言われました。「ファリサイ派のパン種によく気をつけなさい」。

ヘロデのパン種
 そして、困窮や不足が生じたとき、可能性としてもう一つ考えられることがあります。それは正しさを問題にするファリサイ派のパン種とは対極にあるものです。すなわち、そこでは「正しさ」ではなく、ただ力関係がモノを言うようになる。そのような可能性は確かにあります。困窮や不足を解決する力を持った人、不足を満たすことができる人がいたら、その人が正しいか正しくないかは全く問題にされることなく、人々から持ち上げられることになるかも知れません。その結果、能力にせよモノにせよ、何かを持っている者が影響力を持つ共同体となっていきます。しかし、それこそが「ヘロデのパン種」なのです。

 ヘロデについては洗礼者ヨハネを投獄し、その首をはねた人物として6章に出てきます。ヘロデ・アンティパスというガリラヤおよびペレヤ地方の領主です。しかし、この福音書では「ヘロデ王」と呼ばれています。実際には王ではない人物を「王」と呼ぶのはある意味では皮肉です。王でもないのに王のように振る舞っていた人物であったということです。

 彼は酒の席で踊りをおどったヘロディアの娘にこう言い放ちます。「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」。実はこれは有名な言葉で、当時誰もが知っていたセリフなのです。かつてオリエント一帯を支配した大ペルシア帝国の王クセルクセス一世が口にしたセリフなのです。エステル記に出てきます。つまりヘロデは傲慢にも自らをあのクセルクセス王になぞらえているのです。そして、その王権を示すために、洗礼者ヨハネの首をはねたのです。

 そのような神をも畏れぬ不遜な人物を、それでもなお支持するユダヤ人の一団があったのです。彼らはこの福音書において「ヘロデ派」と呼ばれています。宗教的な一派ではなく政治的なグループです。彼らがヘロデを支持したのはヘロデが正しいからではなく、ヘロデの権力の恩恵にあずかっているからです。ヘロデが力を持っているからです。そのことによって利益を受ける人々だからです。

 先にも申しましたように、そのようなヘロデ派の精神、ヘロデのパン種が共同体の中に入ってくることがあり得ます。正しいか否かはどうでもよいのです。神に対してどのような態度であるかも別にいい。ただ不足を満たし困窮を解決してくれさえすればよい。そのようなヘロデのパン種が教会に入り込むなら、教会という麦粉全体を損なってしまいます。もはや教会ではなくなります。ですからイエス様は前もって弟子たちに言っておられたのです。「ヘロデのパン種によく気をつけなさい」。

神の豊かさに目を留めて
 さて、弟子たちはイエス様の言葉を聞いて思いました。「これは自分たちがパンを持っていないからなのだ」。よほどパンを忘れたことを気にしていたのでしょう。そこでイエス様は言われました。「なぜ、パンを持っていないことで議論するのか。まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。覚えていないのか。わたしが五千人に五つのパンを裂いたとき、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか」(17‐19節)。

 もちろん弟子たちは覚えていました。「十二です」と彼らは答えます。イエス様はさらに問いました。「七つのパンを四千人に裂いたときには、集めたパンの屑でいっぱいになった籠は、幾つあったか。」弟子たちは答えます。「七つです」。そこでイエス様は言われました。「まだ悟らないのか」。

 そうです、彼らは既に悟っていなくてはならないのです。五千人に五つのパンは明らかに足らなかったのです。彼らは困窮していたのです。しかし、イエス様がおられるところにおいては、その困窮は神の豊かさを知る機会となったのです。十二の籠に有り余るほどの神の豊かさです。四千人に七つのパンの時にも、明らかに足らなかったのです。しかし、それは七つの籠に有り余るほどの神の豊かさを知る契機となったのです。

 困窮のあるところ、それは互いに自分の正しさを主張し、裁き合い、悪人捜しをする場所にもなり得ます。困窮のあるところ、それはただ力を持つものが持ち上げられ、力ない者が隷属するような場所にもなり得ます。しかし、そこにはもう一つの可能性があるのです。それは皆が既に来られた救い主に目を向け、救い主を送られた神の限りない慈しみに目を注ぐことです。そして、それは神の豊かさを経験する場所となるのです。

 パウロが後に手紙に書いています。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマ8:32)。その御子が共におられる。窮乏の舟の中にも御子イエス様が共におられる。それがどれほど大きな意味を持っているかを彼らは悟らなくてはならなかったのです。そこでパンが一個しかなくても、全く問題ではない。むしろ一個のパンが既に与えられているではないか、と語ることができるのです。

 「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」。大事なことはパン種を持ち込んでしまわないことです。ファリサイ派のパン種とヘロデのパン種を外に放り出し、まず神の御業に目を向け喜び祝う。私たちはいつもそのような教会でありたいと思うのです。

2026年4月5日日曜日

「絶望を押し流す圧倒的な神の恵み」

2026年4月5日 イースター礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 16:1‐8

絶望した人々
 今年のイースターにおいては、マルコによる福音書16章が読まれました。キリストの復活を伝える聖書箇所です。しかし、私たちはまずその直前、15章の最後に書かれていることに目を向けておきたいと思います。「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」(15:46‐47)。

 そこには今日の聖書箇所と関係する人々が出てきます。まずはヨセフです。彼はイエス様の葬られたあの墓の持ち主です。彼は最高法院の議員でした。イエス様に有罪判決を下し死刑を言い渡したあの最高法院の一員です。しかし、イエス様を手厚く葬ったこの男は、明らかにイエス様に対して好意的です。彼には、このイエスという人物が、死罪に当たるとはどうしても思えなかったに違いありません。真夜中に行われた異常な裁判による判決は、どう見ても正当ではないと思っていたことでしょう。

 しかし、彼はイエスを守れなかったのです。彼の属する最高法院の決定により、宗教的な正義の名のもとに、イエスは処刑されて死んでしまいました。ヨセフは、せめてイエスをきちんと墓に葬りたいと思った。ですから自分の墓を提供したのです。しかし、遺体を墓に納めたところで、何が変わるわけでもありません。事態を変え得なかった自分の無力さ、正義の名のもとに犯してしまった大きな大きな罪。それは動かしがたい事実なのであって、もはや何も変わらないのです。すべては終わったのです。

 そして、またそこには婦人たちが出てきます。マグダラのマリアとヨセの母マリア。イエス様を愛し、慕っていた婦人たちです。しかし、彼らもイエス様を守ることはできませんでした。十字架につけられ苦しんでいるイエス様に対しても、ただ見つめていることしかできませんでした。彼らの目の前で、イエス様は息を引き取りました。「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」と書かれています。彼らはいつまでもいつまでも見つめていたことでしょう。しかし、それで何が変わるわけではありません。すべては終わったのです。

 私たちは、その場面に登場しない人々のことにも思いを馳せるべきでしょう。イエスの弟子たちです。彼らはこの前後にまったく現れません。イエス様を見捨てて逃げてしまったからです。「あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と誓ったペトロ。しかし、実際には、鶏が二度鳴く前に三度イエス様を知らないと否んでしまったペトロ。彼はイエス様が葬られた後の安息日を、どんな思いで過ごしていたのでしょう。見捨てられることによる絶望というものがあります。しかし、誰かを見捨ててしまったという自責の念における絶望は、より深いとも言えます。自分を責めたところで、もはや何も変わりません。すべては終わったのです。

 イエス様は死んでしまって、墓に葬られました。その入り口は石でふさがれました。その石は大きかったと記されています。あの婦人たちが見つめていた墓の入り口にある大きな石、動かし難い大きな石。それはヨセフや婦人たちやあの弟子たちの絶望の大きさを象徴しているように思えてなりません。彼らの心の中には、あの墓の石よりも、もっともっと大きな動かし難い絶望という石があったのです。

 しかし、そこに本日お読みしたあの聖書の言葉が続きます。そこにはこう書かれているのです。「ところが、目を上げて見ると、石はすでにわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである」(4節)。三日目の朝、あの日曜日の朝、あの婦人たちはイエス様の遺体に油を塗りに墓に行きました。彼らは「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。しかし、「目を上げて見ると、石はすでにわきへ転がしてあった」と書かれています。だれが転がしてくれたのでしょう。神様です。

 いや、転がされたのは石だけではありません。その石が象徴していた死の現実、絶望そのものが転がされたのです。彼女たちは、墓の中にいた若者から、こんな言葉を聞くのす。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(6節)。

 神がおられないならば、絶望は絶望でしかありません。死人は永遠に死人でしかありません。人間にはどうすることもできないのですから。しかし、あの時、あの女性たちは、絶望をひっくり返して、転がして、押し流してしまうほどの、圧倒的な神のリアリティに触れたのです。それがあの日に起こった出来事であり、教会が「キリストの復活」として二千年もの長きに渡って宣べ伝えてきた出来事なのです。そして、私たちがよく知るように、絶望が転がされたあの墓から始まったことが、まるで絶望を押し流す洪水のように流れくだって、後の歴史を大きく動かしてきたのです。だから、遠く離れた日本にもこうして教会があり、二千年の後にも、こうして復活祭を祝っているのです。

恐れから喜びへ
 しかし、今、「祝っている」と申しましたが、あの日、あの時、あの出来事は、あの婦人たちに、単純に喜びをもたらしはしませんでした。今日の聖書箇所にはこう書かれているのです。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8節)。実はもともとマルコによる福音書は、この言葉で終わっていたのです。そして、彼女たちが「恐れた」ということ自体、大きな意味を持っているのです。

 人は観念としての神を恐れることはありません。哲学者の神を恐れることはありません。神は存在するか否かという議論の対象となるような、そんな神を恐れることはないのです。単なるご利益祈願の対象である神を恐れることはありません。

 しかし、人が生けるまことの神を意識し始めるならば、それが本当に神であるならば、そこで人は恐れを抱かざるを得なくなるのです。なぜなら、聖書が語るように、「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されている」(ヘブライ4:13)からです。人はごまかせても、神をごまかすことはできない。人の前では繕えようとも、神の前では取り繕うことはできない。それが本当に神ならば、人間は、その御前でどう生きてきたのか、どう生きているのかが問われることになる。ならば、恐れざるを得ないでしょう。

 神がおられなければ絶望は絶望でしかない。死人は永遠に死人でしかないのです。しかし、その現実を覆すまことの神がおられるなら、人間は恐れざるを得ないのです。その事実を聖書は正直に言い表しているのです。「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。

 これが本来のマルコによる福音書の最後の言葉だと先ほど申しました。でも、変だと思いませんか。本当に「だれにも何も言わなかった」ということが結論なら、この出来事を私たちが今読んでいるのは変でしょう。――結局、彼女たちは語りだしたんです。あの日の出来事を宣べ伝えたのです。どうしてか。恐れは、恐れのままに終わらなかったからです。

 確かに、彼女たちは、まことの神のリアリティに触れたのです。その神の御前においては、一切のごまかしもきかない――そのようなまことの神に触れたのです。だから彼女たちは震え上がった。しかし、その神はイエス・キリストを世に遣わされた神でもあるのです。この世の罪をあがなうために、人間の罪を赦すためにキリストを十字架につけられた神でもあるのです。

 私たちはキリストの復活後、人類に対して最初に与えられたメッセージにもう一度耳を傾けたいと思うのです。キリストの復活を告げたあの若者はいったい何と言っているでしょうか。彼は、こう語ったのです。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」(6節)。

 ここで大切なことは、ただ単に「死んでしまったイエスが復活させられた」と告げられているのではない、ということです。「十字架につけられたナザレのイエスが復活させられた」と告げられているのです。ナザレのイエスが十字架につけられたのは誰のためですか。私たちのためです。私たちの罪が赦されるために、罪の贖いの犠牲となってくださったのです。そのキリストを神は復活させられたのです。

 先ほど、あの時、あの女性たちは、絶望をひっくり返して、転がして、押し流してしまうほどの、圧倒的な神のリアリティに触れたのです」と申しました。しかし、正確にいうならば、彼女たちが目にし、触れていたのは、「圧倒的な恵みの神のリアリティ」だったのです。だから、恐れは恐れで終わらなかった。彼女たちは語りだしたのです。

 そして、さらにあの若者が告げた恵みに満ちた言葉は、恐れのゆえに沈黙したあの女性たちを、後に弟子たちのもとへと向かわせることになったのです。彼はこう続けたのでした。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(7節)。――まさに、これこそ神の恵みではないですか。

 確かに弟子たちはイエス様を見捨てて逃げました。ここでことさらに「弟子たちとペトロに告げなさい」と言われています。確かにペトロはイエス様を三度も否みました。その事実そのものは変わりません。しかし、恵みの神のリアリティは、溢れ流れて、絶望の石をひっくり返して、彼らのところにも及ぶのです。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる」。

 ガリラヤとは、彼らが初めてイエス様に出会ったあの場所です。「わたしに従え」と言われた、あの場所です。あの場所に戻って、彼らはもう一度、招きの言葉を聞くのです。絶望をもたらした過去の事実は変わらない。しかし、その絶望を転がされた者として、彼らはキリストに従って、キリストと共に生きて行くのです。キリストの復活が伝えられているのだから。

 そして、それはあの弟子たちだけの話ではありません。過去の事実は変わりません。しかし、人は絶望を転がされた者として、キリストと共に生きていくことはできるのです。私たちにも、時を経て、キリストの復活が伝えられているからです。あの墓から始まった大きな流れは、ここにまで及んでいるからです。

2026年3月29日日曜日

「十字架の上の救い主」

2026年3月29日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 15:21‐41

無力なメシア
 次聖日はイースターです。イースター前の一週間は「受難週」と呼ばれます。今週は特に十字架にかけられたキリストの御苦しみに思いを向ける一週間です。そのようなわけで、今日の礼拝においては、キリストが十字架にかけられた場面をお読みしたのです。

 しかし、改めてこの箇所をお読みしますと、十字架にかけられたイエス様御自身の苦しみがほとんど描かれていないことに気づかされます。かつてある伝道者が説教において十字架の場面を実に見事に生々しく再現するのを聞いたことがあります。ところが、マルコは、そのようなことには全く関心がないかのようです。ただ淡々と、「それから、兵士たちはイエスを十字架につけて、その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから」(24節)と書いて、むしろ私たちの視線を兵士たちの方に向けさせるのです。

 先ほど、「キリストの御苦しみに思いを向ける一週間」とは言いましたが、明らかにマルコは、イエス様の苦痛を細かく描き出して同情を呼び起こすことには全く関心がないようです。むしろまわりの人々が嘲ったり罵ったりする様を細かく描写するのです。罵っている人々の中には通りかかった人々がいます。祭司長たちも律法学者や長老たちもいます。また、一緒に十字架につけられた強盗たちも、その中にいます。

 まわりの人々の描写が詳しいのはなぜでしょう。それはこれを読んでいる私たちが、私たち自身をそこに見出すことができるように、ということなのです。

 それでは彼らの姿に目を向けてみましょう。まず通りかかりの人々がイエスを罵って言います。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」(29‐30節)。ここでわざわざ「そこを通りかかった人々は……」と書かれていることから、これがもともと主に敵対していた人々ではないということが分かります。

 ではなぜ罵ったのか。そこに「ユダヤ人の王」と罪状書きが掲げられていたからです。彼らにとって「ユダヤ人の王」と「神の子」「メシア」はほぼ同じ意味です。そして、「神の子」「ユダヤ人の王」「メシア」ならば、強くあって欲しいのです。異邦人を打ち倒し、解放して欲しいのです。多くのユダヤ人がそう願っていた。そして期待していた。しかし、現実にそこにいる「ユダヤ人の王」とやらは、十字架にかけられている王なのです。無力なメシアなのです。期待に応えられないメシアなのです。彼らは無力なメシアなどいらないのです。だから罵っているのです。

 一方、祭司長たちの侮辱の言葉は少々意味合いが違います。彼らが目にしているのは、彼らにとっては思い通りの結末だったのです。民衆を惑わして宗教的な権威に逆らうようなことをしたけれど、結局化けの皮がはがされたではないか。そのような心境だったに違いありません。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう」(31‐32節)。そうです。彼らは初めからイエスを信じてはいません。そして、イエスが十字架から降りられないことをもって、信じなかった自分の正しさがやっと実証されたという思いだったのです。要するに、彼らの罵りの言葉は自分の正しさの主張に他ならなかったのです。

 また、強盗たちもイエス様を罵っていました。彼らの言葉は記されていませんが、察しは付きます。彼らは現実に苦しみの極みにいるのです。そのすぐ隣りにはつい一週間ほど前まで人々からメシアであるとして騒がれていた男がいるのです。しかし、今は十字架にかけられているのです。本当に助けて欲しい時に何もすることのできないメシアが隣りにいるのです。そんなメシアがいったい何の役に立つか!それが彼らの思いであったに違いありません。

 そして3時になって、無力なメシアは大声で叫びます。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」(34節)。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であると説明が加えられています。ここは様々に解釈されてきた部分ではありますが、まずは単純に文字通りに受け止めるべきなのでしょう。十字架から降りることができなかっただけではありません。神から見捨てられた者として叫び声を上げているのです。こんな言葉を耳にしたら人々は間違いなく確信することでしょう。「この男は絶対にメシアなどではない」と。

 しかし、不思議なことに、このイエス様の言葉を教会はそのまま伝えてきたのです。イエス様をメシアと信じることの妨げにしかならないような言葉をあえて伝えてきたのです。それはなぜなのでしょうか。

 イエス様が口にしたこの言葉は詩編22編に由来します。そこで詩人が「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩編22:2)と祈っています。そのように苦しみの極みにあるとき、神に向かって「なぜわたしをお見捨てになるのか」と叫ぶことは、ある意味では自然なことに思えるかもしれません。しかし、よくよく考えると、これは簡単には口にできない言葉であるとも言えます。もし私たちが苦しみの極みにおいて本気で神に向かって「なぜわたしをお見捨てになるのか」と問うならば、きっと自分の過去の罪が次々と思い起こされるのではないでしょうか。見捨てられても仕方のない理由が次々と思い起こされるのではないでしょうか。

 そのように本来は「なぜわたしをお見捨てになるのか」と神に訴えることができるのは、あのヨブのように、あるいは詩編22編のような人、見捨てられる理由に全く思い当たらない人、純粋に神に従って生きてきた人、真に正しい人だけなのでしょう。その意味では究極的にはこの祈りを口にすることのできるのは、父の御心に完全に従われた罪なきイエス様以外にはないだろうとも言えるのです。

 そのような理解をもって十字架の場面を見直しますと、見え方が違ってくるのです。そこで苦しんでいるのは、本来ならば見捨てられるはずのない方なのです。その御方が神に見捨てられた人として苦しんでいるのです。そして、そのまわりでは、真に神に従うことも知らない者たちが、本来ならば神に見捨てられても仕方ない者たちが、そのような自分であることさえ気付いていない者たちが、軽々しく神の名を口にしてイエスを嘲っているのです。

 ただひとり罪なき方が見捨てられた者となり、罪ある者たちが自分の正義を振りかざして叫んでいる。――それがこの場面です。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう!」お前の力を見せてみろ。そして私の願いを叶えてみろ。私を納得させてみろ、そうしたら信じてやろう! そう言って嘲っているのです。まさにそこに見るのは、この世の姿ではありませんか。そして、私たちは確かにその中の一人であるに違いないのです。

メシアが成し遂げてくださったこと
 しかし、本来見捨てられるはずのない方が見捨てられるということが神の御心として起こっているならば、そこには神の特別な目的があるはずなのです。聖書は何と言っているでしょうか。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(37‐38節)。

 1月の第2主日に、私たちはイエス・キリストがバプテスマを受けられたことを伝える箇所をお読みしました。そこには「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(10‐11節)と書かれていました。そして、その「天が裂けて」という言葉は、正確には「天が裂かれて」と書かれており、この福音書には裂かれたものがもう一つ出てくるのだ、ということをお話ししました。

 そのもう一つが今日の場面に出て来る「垂れ幕」なのです。その時にも申しましたように、この垂れ幕とは、聖所と至聖所を隔てる幕のことです。通常、人はその幕の奥に入ることはできませんでした。ただ年に一度大祭司だけが、入ることを許されておりました。しかも、罪を贖う犠牲の血を携えることなくして、幕の奥の至聖所に入ることはできなかったのです。

 そのように、罪の贖いの血が流されなければ、垂れ幕の奥には入れない。それは、神と人間との関係を象徴的に表しているとも言えます。贖いの血が流されない限り、人間は神に近づくことができないのです。神は聖なる御方です。そして、人間には罪があります。罪ある人間は、そのままで神に近づくことはできないのです。

 しかし、その垂れ幕が真っ二つに裂けたのです。「裂けた」と書かれていますが、正確には「裂かれた」と書かれております。誰が裂いたのか。神が引き裂いたのです。そのように、あの瞬間、キリストが息絶えた瞬間、神御自身が垂れ幕を引き裂いた。なぜでしょう。もはや神に近づくために、罪の贖いが繰り返される必要はなくなったからです。この地上において最後の犠牲が屠られたからです。罪を完全に贖うまことの犠牲が屠られたからです。

 ただひとり罪なき方が見捨てられた者となり、罪ある者たちが自分の正義を振りかざして叫んでいる。――それがこの場面だと先ほど申しました。そこに見るのは、まさにこの世の姿だと。そうです。実際、そこに描き出されている人間の姿は、二千年後の今でも全く変わりません。しかし、神は人間がそのようなものであることを承知の上で、罪に満ちたこの世界のただ中にキリストを送られたのです。そして、キリストを罪の贖いの犠牲とし、神と人とを隔てる垂れ幕を神自らが引き裂いた。神御自身が、神のもとへと近づく道を開かれたのです。人が神と共に生きる道を開かれたのです。

 皆さん、この世界のただ中に礼拝の場が開かれていて、週毎に私たちが礼拝へと招かれているとは、そういうことなのです。私たちが当たり前のように賛美を歌い、イエス・キリストの御名によって祈ることができるとは、そういうことなのです。これが、十字架にかけられた救い主のゆえにあずかっている、特別な恵みであることを、この一週間深く思い巡らしたいと思うのです。

2026年3月15日日曜日

「十字架の向こうに輝く栄光」

2026年3月15日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 9:2-10

人の子が死者の中から復活するまでは
 今日の聖書箇所が伝えているのは、イエス様の姿が変わったという話です。それを見たのは弟子たちの内、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人でした。それが起こったのは高い山の上でした。どこの山かは書かれていません。いずれにせよ高い山の上というのは非日常的な空間です。ここに書かれているのは、いわば非日常的な空間において三人の弟子たちだけが体験した、いわゆる神秘体験の話です。

 ここで興味深いのは、そのような特別な体験をした弟子たちに対して、イエス様があえて口止めをなさったということです。こう書かれていました。「一同が山を下りるとき、イエスは、『人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない』と弟子たちに命じられた」(9節)。

 いや、絶対にしゃべりたくなるでしょう。特に、山の下にいた九人には。いつも「誰が一番偉いか」を争っている弟子たちです。この体験は三人の優位を決定的にする出来事であるに違いありません。しかし、だからこそなおさらイエス様は戒められたのだと思います。「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と。

 特別な体験にせよ何にせよ、神が与えてくださったのならば、それは人間が誇るためでも優位に立つためでもありません。それをもって他者に仕えるためです。全体の益となるためです。そこには神の意図があり目的があるのです。しかし、その意図と目的は、往々にして、その時には分からないものなのです。ペトロとヤコブとヨハネは「その時」を待たねばなりませんでした。だからこそ、「人の子が死者の中から復活するまでは」と主は言われたのです。

 人の子、すなわちイエス様が復活するまでは神の意図はわからないのです。言い換えるならば、彼らが山の上で見たこと聞いたことは、キリストの十字架と復活を経て、初めて意味が分かるのだ、ということです。そして、実際彼らは十字架と復活を通して、その意味を知るに至ったのです。それゆえに語り出した。口止めされていた出来事が、こうして公然と語られているとはそういうことでしょう。

 そして、先にも触れましたように、彼らに与えられた特別な体験は、他の弟子たちのためでもあり、さらに言えば、後々の教会のためでもあったのです。二千年後の私たちのためでもあったのです。ですからこうして聖書に記されて、私たちにまで伝えられているのです。では、この出来事は何のために私たちに伝えられているのでしょうか。それをこれから一緒に見ていきたいと思います。

十字架へと向かっておられたキリスト
 「六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた」(2‐4節)。それがこの三人の目にしたことでした。

 彼らがその時には分からなくて、後になって分かったことがあります。彼らと一緒に高い山に登られたイエス様は、この時既に一歩一歩十字架へと向かって進んでいたのだということです。「人の子が死者の中から復活するまでは」と主は言われました。復活の前には十字架があるのです。彼らは確かに、やがてイエス様が捕らえられ、鞭打たれ、ボロボロにされて十字架にかけられるのを目にすることになるのです。

 だからこそ神は、エリヤとモーセがイエスと共にいる姿を見せてくださったのです。エリヤとモーセは旧約聖書における代表的な人物です。モーセは律法を代表しており、エリヤは預言者を代表しています。つまりこの二人がイエス様と共にいるということは、いわば旧約聖書そのものがイエス様と共にいるということです。それは何を意味しているでしょう。イエス・キリストに起こる出来事は、特にキリストの受ける苦難、十字架におけるキリストの死は、旧約聖書が既に語っていたことの成就だということです。旧約の成就だということは、言い換えるならば、それは神のご計画と御心によって起こったことだ、ということです。

 神の御心による苦難なら、そこには神の目的がある。ならば、それは苦難で終わらない。死では終わらない。その先があるのです。主はそれを「復活」と呼ばれました。苦難の向こうに神の栄光の完全な現れがあるのです。それを神は前もって三人に垣間見せてくださったのです。ちょうど雨雲の隙間から太陽の光が差し込むように、復活の光がイエス様の御生涯の一こまに差し込むのを彼らは見せていただいたのです。

これに聞け
 そして、それは彼らにとってどうしても必要なことでした。なぜなら、彼らは《十字架へと向かうキリスト》に従っていくことになるからです。イエス様は栄光に輝く姿で、非日常的な高い山の上にいつまでも留まられる御方ではありません。モーセもエリヤも天に属する存在なのであって、山の上にそのまま留まる存在ではありません。モーセもエリヤも、そしてイエス様も、留まるための仮小屋など必要ありません。

 にもかかわらず、「仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」とペトロは言い出したのです。もっともそこには、「ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである」とも書かれています。ペトロは、混乱した頭の中でも、ペトロなりに最善のことをしたいと思ったのでしょう。しかし、神の望んでおられたのは、全く別なことでした。「すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。『これはわたしの愛する子。これに聞け』」。

 求められているのは「聞くこと」でした。非日常の山の上に仮小屋を作るようなことではなくて、山の下の「日常」を生きるために、神の子の声を「聞くこと」でした。そして、それは当然、「聞き従う」ことをも意味します。イエス様に聞き従うとはどういうことでしょうか。実はペトロたちは既に聞いていたのです。主は言われました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(8:34)。それがイエスに聞き従うということです。

 その意味で、ペトロたちが見たこと聞いたことは、ただ彼らだけのためではなかったのです。他の弟子たちのためでもあり、イエス様の後に従いたいと思うすべての人のためだったのです。神は言われるのです。「これに聞け」と。

 父なる神はイエス様を指して「これはわたしの愛する子」と呼ばれます。しかし、その「愛する子」は神の子でありながら、天にも神秘の山にも留まってはおられないのです。その「愛する子」は山の下にある、罪深い人間世界へと向かわれるのです。罪に満ちたこの世界において、父なる神を愛し、人を愛するゆえに、自らの十字架を背負うことになるのです。そして、自ら背負われた十字架にかかられることになるのです。その御方が言われるのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

自分の十字架を背負って
 十字架刑に処せられる者が重い十字架を一生懸命背負ったとしても、それで誰から感謝されるわけでもありません。称賛されるわけでもありません。「十字架を背負う」とはそういうことです。報いとは全く縁のない労苦です。充実感や達成感などとは縁のない労苦です。そのような十字架を背負ってわたしに従えとイエス様は言われるのです。そして、天の父も「これはわたしの愛する子、これに聞け」と言われるのです。

 その意味において、信仰の道は険しい。主の言葉は厳しい。そう思います。しかし、先週も触れましたように、このイエス様の言葉は私たちに対する深い信頼の表現でもあるのです。主は、いつ背くか分からないような私たちを、それでもなお信じて招いてくださるのです。人からの報いとは縁のない労苦であっても、それを背負って最後まで従い続けてくると、主は信頼して、こうして繰り返し招いていてくださるのです。

 そしてまた、イエス様が「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と言ってくださること自体、本当はとてもありがたいことなのです。それは少しでも現実的になれば分かります。私たちの労苦は常に報われますか。私たちの苦しみや重荷にいつでも意味を見いだせますか。そうではないでしょう。愛の労苦は常に報われますか。他者のための労苦は、その労苦自体がいつも実を結びますか。そうではないでしょう。この世においては報われない重荷、意味の分からない重荷、賞賛とは結び着かない重荷の方が圧倒的に多いに違いないのです。

 しかし、そのような私たちにイエス様は言われるのです。――先に十字架を負われ、そして、先に復活された御方はこう言われるのです。「あなたはあなたの十字架を背負ってわたしについて来なさい。報われない労苦をいっぱい背負ってついて来なさい。わけの分からない重荷を背負っていたとしても、安心してわたしの後について来きなさい」と。そうです。私たちはいかなる意味においても、報われない労苦を嘆く必要はないのです。誰かを呪う必要も、不平を言いながら生きる必要もないのです。ただイエス様の後に従っていったら良いのです。天の父も言われるのですから。「これはわたしの愛する子、これに聞け」と。

 そして、天の父はそう言われるだけでなく、その十字架の先に輝く栄光の姿を見せてくださったのです。それはあの弟子たちにとって必要なことでした。山から下っていくために必要なことでした。主に従って山の下の世界に生きるために必要なことでした。この世においてキリストに従っていく時に苦しみがあり試練があったとしても、押しつぶされてしまわないために必要なことでした。だから彼らは人の子が復活した後に力強く語り出したのです。私たちは既にあの山の上でその栄光を見せていただいていたのだ、と。

 そのように語り伝えて、語り伝えられた人がまた語り伝えて、ここにいる私たちにも伝えられています。十字架の先に輝く栄光のキリストを指し示して、天の父は私たちにも言われます。「これはわたしの愛する子。これに聞け」と。私たちもまた週毎にキリストの復活を思い、そしてその御言葉に耳を傾け、御言葉に従って歩んでまいりましょう。

2026年3月8日日曜日

「サタン、引き下がれ」

2026年3月8日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 8:27‐33

あなたはメシアです
 今日はマルコによる福音書の8章をお読みしました。この章の始めには、四千人の人々にイエス様がパンを与えるという奇跡物語が出ています。6章にも似たような出来事が書かれていますが、そこでは男だけ数えても五千人であったと伝えられています。このような記録は、イエス様と弟子たちを取り巻く人の群れがいかに巨大化していたかを物語っています。すなわちイエス様の宣教活動は急速に拡大していたということです。それが今日読まれた聖書箇所の背景です。

 そのように宣教の働きが拡大していく時に、群衆の意識を正確に把握することは極めて重要な課題となります。事実、弟子たちは群衆の意識を正確に捉えていました。イエス様が「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と問われた時、彼らはすぐに答えることができたのです。リサーチは行き届いていました。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます」(8:28)。これが現時点での群衆の意識ですよ、と。

 するとイエス様は弟子たちに問われました。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。ペトロが代表して答えました。「あなたはメシアです」。このペトロの答えには、はっきりとした自負が感じられます。私たちはあの群衆とは違います、という自負です。「『預言者の一人だ』などと言っている人々とは違います!」自分たちにはもう分かっています。この方こそメシアだ!我々が待ち望んできた救い主だ!つまり弟子たちにとっては、群衆はいまだ知るべきことを知らない連中なのであって、これからまだ真理を教えられなくてはならない人々なのです。

 人々はまだまだ教えられなくてはならない。そのようにして神の国の運動は拡大していかなくてはならない。――弟子たちは、そのための労苦ならば、いくらでも引き受けるつもりでいたに違いありません。実際、イエス様と共に旅をする宣教活動は、多くの労苦を伴うものであったはずです。押し寄せてくる群衆に対応するだけでも大変な労働です。3章には「イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった」(3:20)と書かれています。そのようなことは決して珍しくはなかったのでしょう。

 もちろん、そこに弟子たちの野心があったことは否めません。いつでも「誰が一番偉いか」と言い争っていた彼らですから。しかし、基本的には、その労苦というものは、神の国の実現のためだったのです。自分のためと言うよりは、人々の救いのための労苦だったのです。そのための労苦ならば、いくらでも引き受けるつもりでいたのです。そのような思いを込めて、「あなたはメシアです」と口にしたペトロだったのです。

叱られたペトロ
 しかし、弟子たちを代表するペトロの信仰告白に対するイエス様の反応は、極めて意外なものでした。せっかくペトロも弟子たちも「あなたは、メシアだ」と言っているのに、当のイエス様は「そのことを人々に宣べ伝えなさい」とは言いません。御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められたのです。いやそれだけではありません。さらにこう書かれているのです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(31節)。

 ユダヤの当局から目を付けられていることは弟子たちだって分かっています。だから行く手には困難が待ち受けていることも分かっている。しかし、それでもなおメシアの王国は実現すると信じているから、従おうとしているのです。それなのに、そのメシアであるはずのイエス様が、「自分は殺される」と言い出したのです。それはつまり、弟子たちの労苦もまたすべて無に帰するということを意味します。どんなに運動が拡大し、どれほど多くの人々がイエス様について行ったとしても、そのすべてが無に帰してしまう。イエス様が死んでしまうとはそういうことでしょう。

 「冗談じゃない!」ペトロは心底そう思ったに違いありません。私利私欲のために労苦が、すべて無に帰したとしても、それはそれである程度諦めもつきます。しかし、これが他者のための労苦であったらどうでしょう。人々の救いのための労苦であったらどうでしょう。愛の労苦であったらどうでしょう。それが無に帰するなんて、冗談じゃない! 

 こんなことを聞いたなら、もう黙ってはいられない。ペトロはイエス様をわきへ引き寄せていさめ始めました。しかし、そんなペトロをイエス様は叱りつけて言ったのです。「サタン。引き下がれ」と。これを単にペトロの背後にいるサタンに言った言葉と思ってはなりません。聖書ははっきりと「ペトロを叱って言われた」と言っているのです。

何が問題だったのか
 いったい何が問題だったのでしょう。イエス様はペトロを叱った後に、こう続けられました。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と。ペトロは神のことを思っていなかったというのです。

 確かに人々のために働くことも、愛のために労苦することも、それは神のことを思わずともできることです。四千人の人々、五千人の人々の間を駆けめぐりながら、パンを渡していくのは重労働でしょう。しかし、そのこともまた、人間のことだけを考えていてもできるのです。

 しかし、イエス様の後についていくことは、神のことを思わなければできないのです。それはなぜか。もう一度、イエス様が何を言われたか思い起こしてみましょう。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(31節)。

  実はここで決定的に重要なのは、「三日の後に復活することになっている」という言葉です。「復活する」と能動的に書かれていますが、復活は父なる神によるのです。(ですから、マタイによる福音書、ルカによる福音書では「復活させられる」と文法的にも受け身で表現されているのです。)

 イエス様が死んでしまってすべてが無に帰した時、父なる神によって復活させられるのです。その時、無に帰したかのように見えたイエス様の御業のすべてが、父なる神によって生きるのです。十字架の死でさえも生きるのです。単に「苦労が実を結ぶ」のではないのです。死んだものを、無に帰したものを、《神が》生かしてくださるのです。御子は、そのような父なる神に信頼して、また信頼するからこそ、十字架への道を歩まれたのです。

 弟子たちは、そのようなイエス様の後に従っていくのです。その歩みをイエス様は「自分の十字架を背負って従う」と表現しました。今日の聖書箇所の直後に書かれています。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。

 百キロのパンを背負って人々に配るなら、その労苦は人々の感謝と笑顔によって報われることでしょう。しかし、十字架刑に処せられる者が百キロの十字架を一生懸命背負ったとしても、それで誰から感謝されるわけでもありません。十字架を背負うという労苦は、報いとは縁のない労苦です。充実感や達成感などとは縁のない労苦です。そのような十字架を背負って、わたしに従いなさいと主は言われるのです。

 当然のことながら、それは神のことを思わず、人間のことだけを思っていてはできないことなのです。人間から来る報い、人間の内から生じる喜びや充実感や達成感だけを思っていてはできないことなのです。神を思い、イエス様の復活、そして私たち自身の復活を思わなくてはできないことなのです。他ならぬ神が報いてくださること、神が生かしてくださることを信じなくてはできないのです。

わたしの後ろに回れ
 そのようにイエス様は、人間のことではなく、神のことを思って、自分の十字架を背負って、わたしに従え、と招いておられるのです。厳しい言葉ですか。いいえ、そうではありません。これは弟子たちに対する、そして私たちに対する、驚くべき信頼なのです。

 今日の説教題は「サタン、引き下がれ」となっています。しかし、原文には「わたしの後ろに」という言葉があるのです。これは「どこかへ行ってしまえ」と言っているのではなく、「わたしの後ろに退け」と言っているのです。さらには「サタン、わたしの後ろに回れ」とも訳し得る言葉なのです。

 しかし、そう考えますと、これは実に奇妙な表現だとも言えるのです。「サタン」という言葉は、もともとヘブライ語では「敵」という意味の言葉です。本当に「敵」ならば後ろに回らせてはならないのです。そんなことをすれば命とりになるからです。しかし、「サタン、敵」と呼んだペトロを、イエス様はあくまでも後ろに回らせます。そして、ペトロに、弟子たちに、さらにはそこにいる群衆に対しても、こう言われるのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 神のことを思わず、人間のことしか思わなければ、手のひらを返したように「十字架につけろ」と叫び出す群衆なのでしょう。イエス様を見捨てて逃げ出して見殺しにする弟子たちなんでしょう。「そんな人は知らない」と三度もイエス様を否むことになるペトロなのでしょう。いや、聖書が人間を罪人として語る時、それは本質的に神に、キリストに、敵対する者であることを意味しているのです。確かに「サタン」と呼ばれても否定できない私たちではありませんか。にもかかわらず、イエス様は呼び掛けてくださるのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。

 変な言い方ですが、私たちを後ろに回すことって、私たちを従うように招くことって、イエス様にとって、とてもリスキーなことなんじゃないかと改めて思うのです。私たちを教会としてこの地上に存在させることって、とてもリスキーなことではないだろうか。どんな形でキリストに敵対するか、わからない。実際、そうしてきた教会の歴史もあるわけです。

 しかし、それでもなお主は招いてくださるのです。私たちが、人間のことではなく神のことを思って従ってくると信じて招いてくださるのです。人からの報いとは縁のない労苦であっても、それを背負って最後まで従い続けてくると、主は信頼して、こうして繰り返し招いていてくださるのです。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。ここからまた、共に主の呼び声に従ってまいりましょう。

2026年2月22日日曜日

「野獣もいれば天使もいるのです」

2026年2月22日 主日礼拝説教 

聖書 マルコによる福音書 1:12‐15

荒れ野に追いやられて
 18日の水曜日からレント(受難節)に入りました。今日は最初の日曜日に当たります。レントの最初の日曜日には、世界中の多くの教会において「荒野の誘惑」の聖書箇所が読まれることになっています。私たちの教会では、今年はマルコによる福音書の当該箇所をお読みしました。マタイとルカによる各福音書には、イエス様が悪魔から三つの誘惑を受けた話が書かれているのですが、今日お読みしたマルコによる福音書の記述は極めてシンプルです。たった2節しかありません。

 マルコによる福音書における「荒野の誘惑」の箇所においてまず特徴的なのは「イエスを荒れ野に送り出した」という表現です。「送り出した」と訳されているこの言葉、この福音書に何度も出てきます。しかし、ほとんどの場合は「追い出す」と訳されているのです。悪霊を「追い出す」という言葉です。そのような激しい言葉がイエス様について用いられているのです。イエス様は追い出されたのです。荒れ野へと。あるいは「追いやられた」と言ってもよいでしょう。

 「追い出す」にせよ「追いやる」にせよ、そこに表現されているのは強制です。本人の意志とは関係なくということです。そのように本人の意志や願望とは無関係にある場所に置かれることはあります。追いやられることはあります。人間の経験としては、むしろその方が多いと言えるかもしれません。しかし、その言葉がイエス様について用いられることには、やはり違和感を覚えます。きっと違和感を軽減するために「送り出した」と柔らかく訳したのでしょう。

 しかし、この違和感ある言葉がイエス様について用いられていることは嬉しいことでもあります。イエス様を遠い存在としてではなく、身近な存在として思うことができるからです。私たちは追いやられることがある。確かにあります。そして、イエス様もまた「追いやられた」のです。その意味において、今日お読みしたのは確かにイエス様の話なのですが、同時にそれはまた、追いやられることのある私たちの話でもあるのです。

聖霊によって
 荒れ野に追いやられたイエス様に目を向ける時、注目すべき事が一つ一つ見えてきます。今日は三つのことに注目したいと思います。その第一は、イエス様を荒れ野に「追いやった」のは聖霊である、ということです。次のように書かれています。「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」(12節)。

 「それから」と書かれていますが、これは「それからすぐに」という意味です。この福音書によく出て来る言葉です。その言葉によって、直前にあるイエス様の洗礼の場面と結びつけられているのです。

 イエス様を荒れ野に追いやった“霊”については、洗礼の場面において次のように書かれています。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった」(10節)。その“霊”は次のような天からの宣言の言葉と共に降ってきたのでした。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(11節)。父なる神の愛の宣言と共に降って来た神の霊です。まさに我が子を愛する父の心そのものであるとも言える神の霊です。しかし、その“霊”が、イエス様を荒れ野へと追いやったのです。

 ここから何が分かりますか。荒れ野に追いやられたとしても、それは愛されていないからではない、ということです。荒れ野に追いやられたとしても、それは見捨てられたからではない、ということです。

 「荒れ野」から連想されるのは恐らくいくつものネガティブな言葉だろうと思います。欠乏、飢え、渇き、危険、苦痛、などなど。それらは「愛」という言葉とはどうしても結び着きにくい。ですから、欠乏や苦痛の中に追いやられる時、人は神から愛されていない、見捨てられていると感じるのでしょう。

 しかし、その時にこそ私たちは思い起こさなくてはならないのです。「それから、“霊”はイエスを荒れ野に送り出した」と書かれていることを。イエス様が荒れ野に追いやられたのは、父から愛されていなかったからではありませんでした。それは私たちにおいても同じです。

荒れ野で誘惑を受けられた
 そして、荒れ野に追いやられたイエス様に目を向ける時、注目すべき第二のことは、そこでイエス様がサタンの誘惑を受けられたということです。「イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた」(13節前半)。私たちが生きている限り、誘惑は避け得ません。しかし、今日の箇所では特にイエス様が「荒れ野において」サタンから誘惑を受けられたことが書かれているのです。荒れ野には荒れ野ならではの誘惑が待っているということです。

 荒れ野に追いやられたという話で思い起こすのは、エジプトから脱出したイスラエルの人たちが荒れ野へと導かれた話です。彼らは自分たちの意志や願望とは無関係に、とにかく荒れ野を旅せざるを得なかったのです。イエス様が四十日間とどまったということも、イスラエルの人たちが四十年荒れ野を旅したことを思い起こさせます。

 彼らが荒れ野へと導かれたのは、明らかに神から見捨てられたからではありませんでした。彼らは神によって救われた人たちです。彼らは、昼は雲の柱によって、夜は火の柱によって常に導かれていたのです。神がそのように彼らと共におられるゆえに、彼らは荒れ野を旅していたのです。

 確かに荒れ野には欠乏があります。危険があります。苦痛があります。しかし、そこはまた神への信仰が培われ、神の恵みを知る場でもありました。彼らは岩から水が流れ出すのを見ました。彼らは天からのマナによって養われました。荒れ野でなければ経験できないような仕方で、恵みの神が確かに共におられることを経験させてもらいました。

 それゆえに、荒れ野はまた、共にいてくださる神に信頼して従うことを学ぶ場でもありました。「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」(申命記8:3)ということを学ぶ場でもありました。そうです。本当の意味で「生きる」こと、神と共に生きることを学ぶ場であったのです。

 しかし、そこにはまた誘惑もありました。彼らが荒れ野における欠乏の中で、不満を抱き、そして、不平を言い続けたことを私たちは知っています。人は欠乏の中にあるからこそ神に思いを向け、神を求めることもできる。しかし、もう一方において、人は欠乏の中にあるからこそ欠乏に思いを向け、神に背を向けることもできるのです。悪魔はもちろん私たちが神に背を向けることを望んでいるのでしょう。悪魔は私たちを神から引き離すために、私たちに対する誘惑として、欠乏や苦痛や危険をいくらでも用いることができるのです。このように、荒れ野には荒れ野ならではの誘惑があるのです。

野獣と共に、天使と共に
 そのように誘惑を受けられたイエス様に目を向ける時、注目すべき第三のことが見えてきます。それは天使たちがイエス様に仕えていたということです。「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた」(13節後半)。

 荒れ野には野獣がいます。危害を加える存在がいます。イエス様は野獣と共にいました。野獣と共にいるのは荒れ野に追いやられたからです。それが目に見える現実です。しかし、目に見えている現実だけが全てではありません。そこには「天使たちが仕えていた」と書かれています。それは目に見えない現実です。イエス様は野獣と一緒にいました。それは避けられないことでした。しかし、野獣はイエス様を害することができません。なぜなら目に見えない天使が仕えているからです。

 天使と言っても、羽の生えた幼子が飛び回っている姿を思い浮かべてはなりません。クリスマスの物語には天の大軍が登場しますでしょう。そのように、聖書に出て来る天使のイメージの一つは「軍隊」なのです。それはこの世界における神の力強い働きを表現しているのです。ですから、「天使」という言葉に抵抗を覚えるようでしたら、「神のお働き」と言い換えても良いでしょう。どのように表現されるにせよ、大事なことは神がこの世界にも私たちの人生にも関わっておられ、生きて働いておられるということです。

 ここまでイエス様が荒れ野に追いやられたという話を読んできましたが、考えてみれば、これはイエス様の全生涯を象徴している出来事であるとも言えます。天に属する御方がこの世に来られるとは、まさに荒れ野に身を置くことに他ならないでしょう。そこには野獣がいます。確かにいました。イエス様を断罪して十字架にかけてしまう野獣が。祭司長たち。律法学者たち。いや、すべての人間がイエス様にとっては野獣であるとも言えます。

 その野獣によってイエス様は十字架にかけられて殺されてしまいました。野獣しかいなければ、それで話は終わりです。しかし、そこには天使たちが仕えていた。言い換えるならば、神様の御業が進んでいたのです。悪魔の業を打ち砕き、野獣と化している人間を救うための御業が進んでいたのです。そして、確かに神の御業が確実に進んでいたことは、三日目に主が復活されたことにおいて明らかにされました。

 そのような神の御業の中に私たちもいるのです。天使たちが共にいる世界に、私たちもまたいるのです。たとえ荒れ野に追いやられたとしてもです。たとえ荒れ野に長く身を置いていたとしてもです。そこには目に見えない神の力強い働きが進んでいるのです。そこで野獣にしか目を向けられないならば、それは大変不幸なことです。本当は野獣だけが共にいるのではないからです。荒れ野に置かれている時こそ、目に見えないものに目を注がなくてはならないのです。神の大いなる御業の中にあることに目を向けなくてはならないのです。「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」それが信仰の目をもって見るべき、目に見えない現実です。

2026年2月15日日曜日

「向こう岸へ渡ろう」

2026年2月15日 主日礼拝説教 

マルコによる福音書 4:35‐41

向こう岸へ渡ろう
 「向こう岸に渡ろう」(35節)。そうイエス様は言われました。「向こう岸」ってどこでしょう。5章の始めにこう書かれています。「一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」(5:1)。そうです、「向こう岸へ渡ろう」と言ってイエス様が指さしていたのは、なんと異邦人が住む土地だったのです。

 5章を見ますと、その地域の人々は豚を飼っていることが分かります。ユダヤ人は豚を食べません。豚は汚れたものとされているからです。要するに、イエス様が指さしている「向こう岸」は、一般的なユダヤ人の感覚からすれば、汚れた人々が汚れたことをして生活している汚れた土地だったのです。

 なぜそんなところにわざわざ渡らなくてはならないのでしょう。しかも、こんな日に!そもそもその夕べは雲行きが怪しかったのでしょう。すぐ後に「激しい突風が起こり」と書かれているとおりです。弟子たちのうち、ある者たちは漁師です。ガリラヤ湖のプロです。舟を出すにふさわしい夕べであるかどうかぐらい分かったはずです。こんな日は、向こう側へ向かって舟など出さず、安全なところに留まっている方が良いに決まっているのです。

 しかも、ガリラヤ湖のこちら側では、既にイエス様の名が知れ渡っているのです。湖の畔で教え始めると、おびただしい群衆が自ずとそばに集まってくるのです。宣教の働きは、ある意味では順調に進んでいるのです。このまま同じことを続けていたらよいように思えるではありませんか。そんな時に、なぜ会いたくもない人々が住んでいるゲラサ人の地方になど行かなくてはならないのでしょう。

 どう考えても、弟子たちは気が進まなかったに違いありません。しかし、イエス様は「向こう岸へ渡ろう」と言われるのです。弟子たちが留まっていたくても、イエス様は「向こう岸へ渡ろう」と言って、向こう岸を指し示すのです。ここを読みますと、改めて、「ああ、こういうことって確かにあるな」と思います。自分としては留まっていたい。このままでいたい。今のままで結構。しかし、イエス様は言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。

 この福音書が書かれた頃には、既に教会には多くの異邦人キリスト者がいました。しかし、初めからそうだったのではありません。イエス様はユダヤ人でした。十二弟子もユダヤ人でした。あのパウロもユダヤ人。当初、教会にはユダヤ人しかいなかったのです。そこに異邦人が加わって来るようになったのは、言うまでもなく、ある時から異邦人伝道が始まったからです。それがなかったら日本人キリスト者などもいないはずなのです。そのように、ある時から異邦人への伝道が始まった。それはまさにイエス様の「向こう岸へ渡ろう」だったのです。

 考えてみてください。もともとユダヤ人は異邦人とは一緒に食事はしなかったのです。異邦人が加われば、「異邦人との食事」という全く未知の要素が入ってくるのです。また当然、全然馴染みのない習慣やものの考え方も入ってくる。感じ方も違う。そういう人たちと共にいることになる。当然、教会の雰囲気そのものも変わってくるでしょう。ユダヤ人が自分たちにとって居心地のよい教会を望むなら、絶対に異邦人に伝道などしない方がよいのです。しかし、イエス様は言われたのです。「向こう岸へ渡ろう」と。そして、教会はイエス様に従った。それゆえに異邦人である私たちも福音に出会うことができたのです。

 主は私たちにも言われます。「向こう岸へ渡ろう」と。私たちはいつだって安全なところに留まりたいと思います。自分たちの慣れ親しんだところ、今までの慣れ親しんだあり方に留まりたいと思うものです。前に踏み出したくない。舟は出したくない。ゲラサ人とは関わりたくない。異質なものは受け入れたくない。しかし、イエス様は先へと、向こう岸へと行こうとされるのです。お一人ではなく、私たちと共に、です。それゆえに私たちに言われるのです。「向こう岸へ渡ろう」と。

まだ信じないのか
 さて、そのように自分の安全地帯から踏み出すならば、当然、困難に直面することも起こり得ます。舟を出すからこそ嵐に遭うわけでしょう。岸に留まっていれば嵐には遭わないのです。「向こう岸へ渡ろう」と言われた弟子たちは、言われるとおり舟を出しました。イエス様と一緒に岸を離れます。するとどうなったか。激しい突風が起こりました。「舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった」と書かれています。ちなみに「水浸し」というのは「(水が)今や舟いっぱい」という表現ですから、事態はかなり深刻です。舟は沈みそうになっていたのです。彼らは命の危険にさらされることになりました。

 この物語を読んでいますと、旧約聖書に出てくる一人の人物を思い起こします。それはモーセです。彼は八十歳の時、神の呼びかけを聞きました。神は彼にとてつもないことを要請されたのです。それはイスラエルの民をファラオの支配から解放し、エジプトから導き出すことでした。それがモーセに示された「向こう岸」だったのです。

 イエス様の弟子たちがそうであったように、モーセにも神の要請を断る十分すぎるほどの理由がありました。それゆえモーセは言います。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」。しかし、モーセと神との長い押し問答の末、彼は神に従いました。彼はファラオのもとに行ってこう告げます。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』と」(出エジプト記5:1)。

 モーセは神に従いました。向こう岸に向かって漕ぎ出したのです。さて、結果はどうなったでしょうか。エジプト王は怒って、イスラエルの人々の労役をかえって重くしたのです。イスラエルの労役の責任を負っていた下役たちは、「自分たちが苦境に立たされたことを悟った」(出5:19)と書かれています。下役たちはモーセとアロンに言います。「あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです」(同21節)。結局、モーセは救い出そうとしたイスラエルの人々から、かえって非難される結果となりました。

 漕ぎ出した先には嵐が待っていました。その時モーセは神にこのように訴えます。「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか。わたしがあなたの御名によって語るため、ファラオのもとに行ってから、彼はますますこの民を苦しめています。それなのに、あなたは御自分の民を全く救い出そうとされません」(出エジプト記5:22‐23)。

 さて、このモーセの言葉。嵐の中で弟子たちの発した言葉に似ているように思いませんか。弟子たちも、眠っているイエス様にこう叫んだのです。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。

 あのモーセの言葉にしても、あの弟子たちがイエス様に向かって発した叫びも、私たちにとって馴染みの深い言葉でしょう。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」。私たちも、そう叫びたくなるときがあるのではありませんか。私たちの目から見ると、イエス様が私たちの現状に対して、全く関心を持っておられないように見える時があるのです。まさに、この物語のキリストのように、一人で眠っておられるように見える時があるのです。「わたしたちがおぼれてもかまわないのですか!」

 しかし、神様が「御自分の民を全く救い出そうとされない」ように見えたとき、実はそうではなかったのです。モーセが嘆いていたまさにそのとき、神が何もしていないかのように見えたその時、神は着々と救いの準備を進めておられたのです。また、イエス様が眠っておられた時、「おぼれてもかまわない」かのように見えた時、たいへん逆説的ですが、そのキリストの姿は天の父がまさに生きて働いておられることを示していたのです。天の父が支配しておられ、動いておられるからこそ、御子なるイエス様は安心して眠っていることができたのでしょう。その姿こそが、まさに神の支配を指し示すしるしだったのです。神は圧倒的な力をもって生きて働いておられる、と。

 結果的に見るならば、イエス様が奇跡を起こして弟子たちを救ったという話となっています。「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」(39節)。しかし、イエス様の奇跡によって助かったという結果が一番大事なことであるならば、その後にイエス様はこう言われたことでしょう。「あなたたちは嵐から救われた。もう大丈夫だよ。心配することはない。」しかし、主はそう言われないのです。主は弟子たちにこう言われたのです。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

 「なぜ怖がるのか」と言われるということは、本当は怖がる必要などなかったのだ、ということです。風がやんで凪になったから怖がる必要ないのではなくて、まだ突風が吹いているときでも、波をかぶって舟が沈みそうになっているそのときでも、本当は怖がる必要などなかったということです。なぜなら、「向こう岸へ渡ろう」と言われた主が同じ舟の中に共にいるのですから。「向こう岸へ渡ろう」という主の言葉に従って舟を出したのなら、嵐に遭おうが、波をいくらかぶろうが、主と共に向こう岸に着くのです。

 ですから主は言われたのです。「まだ信じないのか」と。主は弟子たちに信仰を求めておられたのです。凪になったから信じるのではなくて、まだ嵐のただ中にあっても、なお信じることを求めておられたのです。共におられるイエス様を、そして主が指し示しておられる天の父を信じることを求めておられたのです。弟子たちにとって本当に必要だったのは、単に嵐から救い出してもらうことではありませんでした。そうではなくて、嵐の中にあってもなお主を信じる者となることだったのです。

2026年2月8日日曜日

「人々が目にした世にも過激な行為」

2026年2月8日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 2:1-12

 今日の説教題は「人々が目にした世にも過激な行為」となっていますが、福音書を読んだことのある人なら「あれだな」と、すぐに一つの場面を思い浮かべると思います。そう、今日の朗読箇所です。そこには、他人の家の屋根を破壊して病人をつり降ろしたという極めて過激な話が書かれていましたでしょう。

 しかし、実はここには、もっと過激なことをする過激な人物が描かれているのです。それはイエス様です。その御方は多くの人の前で、特に律法学者たちもいる場所で、罪の赦しを宣言したのです。しかも、自分が罪を赦す権威を持っていることを主張し、それを示すために行動を起こしたのです。私たちにはピンと来ないかもしれませんが、当時の人たちにとって、それは恐らく他人の家の屋根を破壊することよりも過激なことだったはずなのです。そこでまず、そのイエス様の行動に目を向けることにしましょう。

あなたの罪は赦される
 イエス様はつり降ろされた中風の人に向かって、「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)と宣言されました。日本語訳ではいつ「赦される」のかはっきりしません。未来のことのように読めなくもありません。しかし、主が語っておられるのは、「今、ここにおいて、あなたの罪は赦されるのだ」ということです。ですから、この言葉を「あなたの罪は赦された」と完了形にしている写本もあるのです。主はこの人に、その時その場で罪の赦しが完全に与えられていることを宣言されたのです。

 こんなことを口にしたら、どんな事態をもたらすことになるか、イエス様が知らなかったはずはありません。先にも触れましたように、これは普通の律法の教師なら、絶対に口にしない過激な言葉なのです。罪の赦しのバプテスマを授けていた、あのヨハネでさえ口にしなかった言葉です。ヨハネが言葉として語り得たのは「悔い改めよ」というところまでだったのです。

 こんなことを口にしたら絶対に問題になる。――実際、そこにいた律法学者たちはこの発言を問題だとみなしました。「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」(7節)。

 彼らが考えていたことは間違ってはいません。罪の赦しは権威と結びついてこそ初めて意味を持つのです。罪に定める権威、断罪できる権威があってこそ、初めて罪の赦しも言い渡すことができるのです。イエス様がなさっていることは、まさに最終的に罪に定める権威を持ち、また罪を赦す権威をお持ちの神と自分とを等しい者とすることに他ならなかったのです。それは彼らの目には神への冒涜としか映らなかったのです。

 もちろん、イエス様はそんなことは百も承知の上であえてこのことを行っているのです。ですから、主はさらに事を押し進めます。彼らが心の中で考えていることを見抜いて、こう言われました。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」そして、中風の人に言われた。 「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(8‐11節)。そして、その中風の人が癒されたという話が続きます。

 癒しの奇跡そのものは、ここに初めて書かれているわけではありません。それまでに多くの癒しをなさったことが既に記されています。しかし、ここに来て癒しの行為そのものがはっきりとした主張を持つものとされています。

 「罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」という部分は「罪を赦す権威を持っていることをあなたがたが知るようになるために……」というのが直訳です。イエス様はただ中風の人のために癒しを行ったのではないのです。「あなたがたが知るようになるために」――そうです、イエス様はあの一人の人に罪の赦しを宣言されただけでなく、この癒しの業によって、自らが罪を赦す権威を持っていること、神と等しい権威を持っていることを公に宣言されたということなのです。

 さて、このような過激な主張を伴ったイエス様の宣教は、御自身が何のためにこの世に来られたのかを明らかに示しています。言い換えるならば、人間が救われるために本当に必要としているのが何であるかをはっきりと示しているのです。

 人は病気であれば癒しを求めます。欠乏があれば満たしを求めます。苦しみがあれば苦しみからの解放を求めます。それらはこの世においては必要なことです。しかし、この世において必要とされているこれら全てが、最終的には必要ではなくなる時が必ず来るのです。それは「人生の終わり」であるかもしれないし、「世の終わり」であるかもしれません。いずれにせよ、その時、全ては必要なくなるのです。そこで問われるのは、ただ神との関係だけなのです。神は私を赦して救ってくださるのか。それとも私は赦されることなく、神から退けられ滅びるのか、ということです。

 そして、それはただ最終的に必要なだけでなく、本当は最初から必要なのです。人間が救われるためには、まず神によって赦されねばならない。人間は赦しを必要としているのです。神との正しい関係と交わりの中に回復されねばならないのです。ですから、続く物語において、主は御自分が何のために来られたかをはっきりと語られるのです。「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(17節)。主は赦しを与えるために来られたのです。

 そして、そのような過激な主張を伴う宣教の行き着く先に何が待っているのかをも主は分かっていたはずです。ご存じのように、主の行為と言葉はやがて主御自身を十字架へと追いやることになるのです。

 「神を冒涜している」と律法学者たちは心の中でイエス様を非難しました。そして、それは彼らの心の中に留まらず、最終的には最高法院においてイエスに死刑判決が下されるのです。その罪状は何ですか?冒涜罪です。その意味で今日の場面は、キリストのご受難を指し示しているとも言えるのです。

屋根を壊してでも
 さて、そのように、まずイエス様のなさったことに目を向ける時、ここに登場する人々が屋根を破壊したという行為もまた、私たちにとって大きな意味を持つことになります。

 事の顛末はこう伝えられています。「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、四人の男が中風の人を運んで来た。しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」(1‐4節)。

 この非常識な人々の話は、どうして後々まで語り伝えられ、さらには福音書に書き残されることになったのでしょう。――そこにはこう書かれています。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」(5節)。明らかに、信仰とは何かを教えるための一例として、この出来事は伝えられたのです。

 もちろん、この出来事で信仰のすべてが表現されているわけではありません。また、この時点で中風の人が求めていたのも、運んだ四人が求めていたのも、ただ病気が癒されることだったのかも知れません。しかし、ここには「信仰」というものの本質が確かに示されていると言えます。それは何か。イエス様のもとに行きたい!イエス様のもとに連れて行きたい!たとえ屋根をぶっ壊してでも!――信仰とはそういうものだと聖書は教えているのです。

 肉体の癒しを求めるためでさえ、ここまでやった人たちがいたのです。彼らは病気を癒してくださる人としかイエス様を知りませんでした。それでもなおここまで「イエス様のもとに行きたい!イエス様のもとに連れて行きたい!」と思って行動したのです。

 ましてや、この福音書を書いた人も、読んだ人も、そして私たちも知っているのです。本当に近づくべきイエスとは誰か。それは罪の贖いのために十字架にかかられ、そしてよみがえられた救い主であり、それゆえに、ただひとり神の権威をもって罪の赦しを与えることができる救い主であること、そしてこの方こそ、私たちに向かって「あなたの罪は赦される」と宣言することができる御方であることを。

 もちろん、彼らがイエス様に近づこうと思った時に行く手を阻まれたように、私たちがイエス様に近づくのを妨げるものはあるのでしょう。それは時に、この世のしがらみであるかも知れないし、自分の内にあるつまらぬプライドであるかも知れません。人間関係におけるわだかまり、あるいは過去のつまずきが後々までイエス様に近づくのを妨げることもあるかもしれません。実際どうですか。今、イエス様に近づいていくことを妨げているものはありませんか。近づくために破壊しなくてはならない屋根はありますか。それらは本当に永遠なる神との交わりよりも大事なものですか。永遠の救いよりも大事なものですか。

 さらに言うならば、あの中風の人は、自分一人ではイエス様に近づくことはできなかったのです。屋根を破壊したのは他の四人だったのです。そうまでもして「連れていきたい」と思ったのです。ここに伝道するキリスト者、伝道する教会の姿を私たちは見ることができます。

 私たちは、自らイエス様に近づくためにここにいます。しかし、それだけではありません。私たちは、誰かがイエス様に近づくのを助ける者としてここにいるのです。あの四人の男たちのようにです。誰かをイエス様のもとにお連れするために、時として屋根を破壊しなくてはならないこともあるのです。その屋根とは、私たちにとって何でしょう。今週はそのことをじっくりと考えてみましょう。誰かをイエス様のもとにお連れするのを妨げているのは何でしょうか。それを破壊することは過激なことでしょうか。いいえ、それがいかなることであったとしても、イエス様がしてくださったことに比べるならば、大して過激なことではないはずです。

2026年2月1日日曜日

「イエスの種蒔き」

2026年2月1日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 4:1-9 

よく聞きなさい
 「イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」(1節)。

 そこには「再び」と書かれています。前にも似たような場面があったことがわかります。実際、3章7節以下にこう書かれています。「イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた。ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た」(3:7‐8)。

 群衆が集まってきたのはイエスの「しておられる」ことを聞いたからでした。彼らはその力ある業、奇跡、病気の癒しなどを聞いて押し寄せてきたのです。「イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せたからであった」(3:10)と書かれているとおりです。

 そして、恐らくそこに押し寄せてきたのは病気の人だけではないでしょう。そこには病気の人を連れてきた人たちもいたはずですし、単純に神の癒しを見たいと思っていた人たちもいたに違いない。他の福音書を見ると、イエスの力を見て、この方を王にしようと思っていた人たちもいたようです。偉大なる王、政治的な解放者を求めていた人たちもいたことでしょう。

 そのような人たちが、再びガリラヤ湖畔に集まってきた。それが今日お読みした場面です。様々な求めを持った人たちが押し寄せてきた。その時、イエス様は二つのことをされました。一つは、集まってきた群衆との間にある距離を置かれた、ということです。

 主は前の時と同じように小舟を用意させました。3章に書かれているように、群衆に押しつぶされないようにというのがその理由の一つです。しかし、ここで強調されているのは、イエス様と群衆との間の距離です。「イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた」。そのように、イエス様は押し寄せる人々の「求め」からある距離を置かれた上で、こう言われました。「よく聞きなさい」(3節)。そして、今日の箇所はこのようなイエス様の言葉で締めくくられています。「聞く耳のある者は聞きなさい」(9節)。

 人々はイエス様にして欲しいことがたくさんあったに違いありません。言い換えるならばイエス様に聞いて欲しいことがたくさんあったということでしょう。他の人たちにしたように、私をも癒してください。ローマ人たちの支配から私たちを解放してください。私たちのためにその力を現してください。その願いを聞いて欲しかったことでしょう。しかし、イエス様はその多くの声から距離を置いて言われたのです。「よく聞きなさい」と。

 そして、イエス様がなさったもう一つのこと、それはたとえで語る、ということです。今日お読みしたのは、この福音書に出て来る最初のたとえ話です。私たちが通常、たとえ話を用いるとしたら、それは伝えるべきことを分かりやすくするためです。しかし、イエス様の場合はそうではありません。今日は細かい話は割愛しますが、イエス様は、ある意味では、話を分かりにくくするために、たとえ話を用いているのです。

 外に身を置いて、外から眺めるようにして聞いている限り分からない。それがイエス様のたとえ話です。誰か他の人にではなく、「このわたしに語られている言葉」として聞いて初めて分かる。自分に関わる話としてその中に身を置いてこそ初めて分かる。それがたとえ話です。イエス様はあえてそのような語り方を選ばれたのです。イエス様は人々の求めから距離を置いて「聞きなさい」と言われました。それは内に身を置いて、自分に語りかけられている言葉として、自分に関わることとして聞きなさい、ということなのです。

豊かな実り
 そこで今日、特に耳を傾けたいのは、この「種を蒔く人」のたとえです。イエス様は「よく聞きなさい」と言って、「種を蒔く人」のたとえを語られます。明らかに、イエス様は御自分のなさっていることを「種蒔き」として語っておられるのです。

 種は小さなものです。30節以下には「からし種」が出てきますが、それは砂粒ほどに小さいものです。地に落としたら砂粒と見分けがつかないかもしれない。しかし、砂粒と種とは違います。種には命がある。そして、蒔かれた時には何も起こっていないように見えますが、時が来れば芽生え育って、やがては実を結ぶようになる。それが種です。

 イエス様のたとえ話においても、その命の現れが次のように表現されています。「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(8節)。そのような、実りをもたらす種をイエス様は蒔いておられたのです。それゆえに言われるのです。「よく聞きなさい」。

 さて、このたとえ話が聖書の中に書かれているとはどういうことでしょう。イエス様のたとえ話を伝えた人たちがいたということです。福音書が書かれる前に、初期の教会が伝えたということです。人々はどこにおいてこれを物語り、伝えたのでしょう。その第一の場は皆が共に集まる「礼拝」なのです。讃美が捧げられ、聖書が読まれ、キリストの物語が伝えられ、パンが裂かれ、杯が分かち合われる礼拝です。まさにその礼拝の場において人々は繰り返し復活のキリストの「聞きなさい」という呼びかけを聞いてきたのです。そこにおいて御言葉の種が、救いの種が蒔かれてきたのです。

 それは今も変わりません。私たちは様々な求めをもって集まっているのでしょう。しかし、そのような私たちに復活の主は言われるのです。「聞きなさい」と。そのように御言葉の種を蒔いておられるのです。そして、種は種のままで終わりません。種には命がありますから。種は芽生え育って実を結ぶのです。あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなるのです。そのようにして、神様にしかできないことを私たちの人生においてしてくださる。さらには永遠の御国において、神様にしかできないことをしてくださる。神様しか結ぶことのできない救いの実りを与えてくださるのです。

 しかし、もう一方において、蒔かれた種が常に実るとは限らない。それも事実でしょう。ですから、イエス様は実った話の前に、実らなかった種の話をするのです。正確に言えば、それは種の問題ではなく、土地の問題です。すなわち、神様の側の問題ではなく、私たち人間の側の問題だということです。

 イエス様は言われました。「蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった」(4‐7節)。

 さて、イエス様の話をどのように聞きますか。このような箇所が読まれると、「わたしは道端だ」とか「わたしは茨だらけの土地だ」とか言い出す人が必ず出てくるのです。しかし、「わたしは道端だ」とか「わたしは石地だ」とか「茨の地だ」と言って卑下したり、言い訳してみたり、あるいは開き直ってみたりすることに、何か意味があるのでしょうか。

 イエス様がこのたとえ話をされたのは、明らかに「あなたは道端です」「あなたは石地です」と言って断罪するためではないのです。イエス様が一番語りたいのは、御自分の蒔いている種が「あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」という、そのような種なのだということなのです。

 いや、それは本当は、百倍どころか、とてつもない価値ある救いをもたらす、そのような種なのです。イエス様は言葉で種を蒔くだけでなく、その存在をもって、その命をもって、自らが十字架で死なれることをもって、永遠の命の種を蒔いてくださったのです。そして、復活された主が今も御自分のかけられた十字架を指し示し、私たちに救いをもたらす種を蒔き続けていてくださいます。「聞きなさい」と言って。

 ならば、道端であることは、とてつもなくもったいないことなのです。石地であることは、とてつもなくもったいないことなのです。茨がぼうぼうと茂ってしまっていることは、とてつもなくもったいないことなのです。初めから受け入れない固い心でいることは、もったいないことなのです。根を深く降ろすことを求めないことは、もったいないことなのです。世のことに思い煩い、富の誘惑やこの世の欲望を野放しにし、生やし放題生やして、種が育たないようにしているのは、実にもったいないことなのです。そうやってせっかく蒔かれた御言葉の種をないがしろにしていることは、実にもったいないことなのです。

 「道端」とは人が通って踏み固められた、畑の中に出来た道のことです。ならば耕せばそこだって畑になるのです。石だらけの場所であっても、石を取り除けば良い畑になるのです。茨が生えてくるならば、何度でも刈り取って捨てたらよいのです。そのように、私たちが「良い土地」としての生活を形作るために、そのような礼拝の生活を形作るために、御言葉に聴く生活を形作るために、私たちができることはあるはずなのです。

 私たちは実を実らせることはできません。それは神にしかできないことであり、神がしてくださることです。しかし、人には人のできることがあるのです。人は人の為し得ることをする。そして、神は神にしかできないことをしてくださるのです。「よく聞きなさい」と主は語り始められました。そして、こう締めくくられました。「聞く耳のある者は聞きなさい」と。

2026年1月25日日曜日

「真に自由になるために」

2026年1月25日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 1:21‐28

律法学者のようにではなく
 今日の福音書朗読は、ガリラヤ湖北岸に位置しますカファルナウムという町での出来事を伝えています。それはある安息日、皆が集まっている会堂で起こりました。

 その日、人々が集まった礼拝の場は、普段の安息日とは全く違った空気に包まれていました。皆があっけにとられた表情で、語られる言葉に聞き入っています。彼らの前に立っているラビは、明らかに、ただ者ではありませんでした。人々はこれまで全く聞いたことのないような言葉を耳にしていました。人々が驚いていたのは、そのナザレのイエスという御方が、「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったから」(22節)でした。

 「律法学者のようにではなく」とは、どういうことでしょうか。律法学者の主要な職務は、律法を解釈することにありました。すなわち、聖書の言葉を解釈し、その時代の状況に適用することにありました。その解釈をもって、人々に教育を施し、あるいは法廷における判決に関わったのです。そこで重要なことは、律法学者と呼ばれる人たちは、あくまでも解釈者以上の者ではなかった、ということです。最終的な権威は、聖書の言葉、律法の言葉そのものが持っていたのです。

 ところが、イエス様は自らが「権威ある者として」語られたと言うのです。律法学者とは違っていたのです。単に《聖書の言葉を現実生活に適用すること》を教えていたのではないのです。イエス様の存在とそのみ言葉は、確かにそれ以上のことを意味していたのです。

 残念ながら今日もなお、キリスト教信仰を《聖書の言葉を現実生活に適用すること》ぐらいにしか考えていない人は少なくありません。「聖書を生きる」という言葉を耳にしたことはあるでしょうか。教会においてよく使われる表現ですし、私も時々口にする言葉です。しかし、この「聖書を生きる」ということが、単に「聖書の教えを実践して生きている」という意味でしかないならば、イエス様が来られる以前に、「聖書を生きている」人はいくらでもいたのです。既に律法学者がその専門家でありました。まさに律法学者たちが目指していたのは、そのような意味で、人々が「聖書を生きる」ように教えることだったのです。

 しかし、イエス様はあのカファルナウムの会堂で、律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられたのです。主がもたらされたのは、単なる聖書の言葉の適用ではなかったのです。イエス様はもう一人の律法学者として来られたのではないのです。

権威ある者として
 では、イエス様が権威ある者として教えられたということは、いったい私たちに何を意味するのでしょうか。そのことを続く出来事から見ていきましょう。23節以下をご覧下さい。「そのとき、この会堂に汚れた霊に取りつかれた男がいて叫んだ。『ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ』」(23‐24節)。

 場面を想像してみてください。皆が会堂に集まっています。礼拝をしています。イエス様が語り始めました。人々は権威ある者のように語られるイエス様の言葉に驚嘆しながら、全く初めて聴くような新しい言葉に、それこそ全身を耳にして聞き入っています。「そのとき」――まさにその時に、会堂の中に異様な叫び声が響き渡りました。「ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」その場面を想像できますか。

 皆の視線がその人に集まったに違いありません。驚いた顔をしている人。迷惑そうな顔をしている人。どうしたら良いのか当惑している人。一瞬、その場が凍り付いたことでしょう。ここに書かれているのは、そんな場面であると想像します。

 しかし、その凍り付いた空気を、イエス様の声が切り裂きます。主は厳しく叱りつけられたのです。「黙れ!」そして、続いて何と言ったでしょうか。「出て行け!」と叫んだのです。しかし、それはその人に対してではありませんでした。「《この人から》出て行け」(もとの語順なら「出て行け、この人から」)と主は叫ばれたのです。

 人々は、礼拝を混乱させる「この人」に出て行って欲しかったに違いありません。しかし、イエス様にとっては、「この人」が大事だったのです。彼はそこにいなくてはならないのです。その人はイエス様にとって、汚れた霊に支配されている悲しい一人の人間なのです。正しく神に向かうことができず、神を礼拝することができず、自分を超えた力に振り回され、自分自身をコントロール出来ない、悲しい一人の人間に他ならないのです。

 「この人から出て行け!」――それは汚れた霊に対する怒りの言葉でした。しかし、それは同時に、この一人の人間に対する、イエス様の深い憐れみからほとばしり出た叫びでもありました。何としてでもこの人を汚れた霊から解放し、神に向かう本来の人間の姿を回復したいと願う、キリストの熱情の現れでありました。

 そのようにイエス様が汚れた霊を叱りつけると、「汚れた霊はその人にけいれんを起こさせ、大声をあげて出て行った」と書かれています。そのように、権威ある者として語られたイエス様の御言葉は、この人を解放し、この人の本来の姿を回復したのです。イエス様の存在とその言葉は、ただ単に、聖書の言葉を実践する道徳的な人間を造り出したのではないのです。汚れた霊の支配に代わって、神の支配がその人の上に訪れたのです。

キリストによる解放
 さて、このような癒しと解放の物語は、初代教会の礼拝の場で語り継がれていきました。だから、こうして聖書の中に記されているのです。何のために、これが礼拝の場で語られてきたと思いますか。単に「かつてイエス様はこのようなことをなさったのですよ」ということを伝えるためではありません。そうではなくて、キリスト者が礼拝しているイエス様とは、どのような御方であるかを伝えるために語り継がれてきたのです。そして、私たちのために十字架にかかられ、そして復活して、今も生きておられるキリストを伝える物語として、ここにいる私たちにも伝えられているのです。

 そのように、今日の私たちとの関わりにおいてこの物語を読みます時に、この場面はある特殊な状況における特別な出来事ではないということが見えてきます。あの汚れた霊に支配された人は、決して私たちとは無関係な特別な人間ではないのです。なぜなら、それを汚れた霊と呼ぶか、悪しき霊と呼ぶか、あるいは他の言葉で呼ぶかは別としまして、そのような見えざる力に振り回され、自分自身をコントロールすることが出来なくなってしまう悲しみは、ある意味で私たち人間が等しく抱える普遍的な経験であるからです。

 国と国、民族と民族の間における戦闘と殺戮の歴史の中に、私たち人間は汚れた霊の支配を実際に見てきたのではないでしょうか。あるいは身近なコミュニティーの中に、小さな家庭の中に、そして個人の心の中に、人間がどうすることもできない力が働くのを、私たちもまた経験してきたのではないでしょうか。人間の意志や知性によってはどうすることもできない支配力の猛威を、私たちは実際にいやというほど経験してきているのではないでしょうか。その意味で、今日の聖書箇所に描かれている一人の人物の姿は、私たちと決して無関係ではありません。

 しかし、そのような汚れた霊の支配の中に、キリストが入って来られた、というのがこの場面なのです。そして、福音書はその物語を伝えることによって、イエス・キリストが、今もその権威をもって、私たちの人生に入って来てくださることを語っているのです。

 イエス様が入って来られる時、そこには葛藤が起こります。今日の聖書箇所に書かれている通りです。キリストが権威ある御方として立った時、あの汚れた霊は叫んだのです。「ナザレのイエス、かまわないでくれ」と。

 イエス様が単なる律法学者の一人であったなら、そのようなことは起こらなかったのです。「ここに宗教的な良い教えがありますよ。生活に関する戒めの言葉がありますよ。それを守って生きましょう」というだけならば、大きな抵抗は起こらないのです。「聖書の言葉を実践しましょう」というだけのキリスト教ならば、そこに大きな葛藤は起こらないのです。しかし、キリストが権威をもって近づいて来る時、人間の内に激しい葛藤と抵抗が起こります。「ナザレのイエス、かまわないでくれ」という叫びが起こってくるのです。放っておいて欲しいのです。そのままでいたいのです。

 しかし、イエス様はそのような私たちに、あくまでも関わってこられるのです。そのような私たちであるからこそ、関わってこられるのです。なぜなら、それは人間の本来の姿ではないからです。汚れた霊に支配され、神に背いている人間の姿は、人間の本来の姿ではないからです。

 人間を汚れた霊から解放し、神の支配のもとに回復するのは、律法の権威ではありません。宗教的な戒めや道徳的な言葉が、人を解放するのではないのです。また、私たち人間の決意や意志の力が、私たち自身を解放するのではないのです。私たちを解放するのは今も生きておられるキリストです。私たちを憐れんでくださるキリストです。「この人は私のものだ。この人は私が血をもって贖った人だ。この人から出て行け」と私たちの側に立って汚れた霊に命じてくださるキリストなのです。

 キリストを信じて生きるとは、私たちの人生に入って来られ、私たちに徹底的に関わってくださるキリストの権威のもとに身を置き続けることなのです。そのようにして、キリストと共に生きていくことなのです。私たちがキリストによって招かれた者として、こうして毎週礼拝の場所に集まり続けるのは、その具体的な表現であり、同時に、今この時も、主が私たち一人ひとりに深く関わり、その命を注ぎ込んでくださっているという霊的な事実の顕れなのです。

 私たちは、単に道徳的な教えを学ぶためにここにいるのではありません。キリストの権威のもとに身を置き、キリストとの交わりの中に身を置くためにここにいるのです。この御方のもとに身を置き続けてこそ、汚れた霊から解放され、真の自由を得、神との正しい関係にある本来の人間の姿をもって生きていく道が開かれていくのです。

2026年1月18日日曜日

「イエスとガリラヤの漁師たち」

2026/1/18 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 1:14-20

人々の期待、弟子たちの期待
 「ヨハネが捕らえられた!」そのニュースは多くの人々に大きなショックを与えたに違いありません。ユダヤの全地方から夥しい人々がヨハネのもとに訪れ、罪の赦しを求めて洗礼を受けていたのです。彼らの中には「この人こそメシアであるに違いない」と思っていた人もいたのです。あるいは旧約聖書に出て来るエリヤを思い起こしていた人がいたかもしれません。しかし、そのヨハネが正しいことを語ったがゆえに逮捕されてしまったのです。

 捕らえたのはヘロデ王でした。ヨハネがヘロデによって捕らえられ、やがて獄中で首をはねられて殺されるに至った次第は、この福音書の6章に記されています。ヨハネの逮捕は不当であることは、誰の目にも明らかでした。しかし、ヘロデの強大な権力の前にどうすることもできません。人々はただ嘆くことしかできませんでした。

 そのような時代のただ中にあって、ヨハネと入れ替わるかのように、あのナザレのイエスが声を上げたのです。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)。ヨハネを捕らえたヘロデの強大な権力を前にして、さらに言うならば、その背後にあるローマ皇帝の支配の真っただ中において、「神の国は近づいた」と宣言することが、当時の人々の耳にどれほど過激に聞こえたことか、想像してみてください。既存の王国のただ中で、もう一つの王国の到来が宣言されているのです。それは既存の王国の終わりを宣言するものと、人々の耳には響いたに違いないのです。

 人々はかつての洗礼者ヨハネの説教を思い起こしながら、あらためて期待に胸を膨らませたに違いありません。神の正義の支配が目に見える形で実現する!それはまさにあのダビデの王座の回復、イスラエルの王国の復興に他ならない。そして、あの男は「時は満ちた」と言っている。「良い知らせを信じろ」と言っているではないか!実際、この福音書を読んでいきますと、確かにそのような期待を抱いた集団が、なんと数千人の規模に膨れあがっていく様子が描かれているのです。

 しかも、「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き…」(14節)と書かれていました。ヨハネの洗礼運動を引き継ぐのではなく、宣教活動の拠点をあえてガリラヤに移したのです。そのこともまた人々の熱狂に火をつけることとなったと思われます。というのも、ガリラヤは反ローマ武装勢力である熱心党の発祥の地であり拠点であったからです。後にイエスの弟子となる人々の中に「熱心党のシモン」と呼ばれた熱心党出身者がいたこともうなずけます。ガリラヤという、まさに反権力思想が息づいている地域において、あの方は声を上げたのです。「時は満ち、神の国は近づいた」と。

 そして、ナザレのイエスはガリラヤにおいて独自の活動集団を作り始めているのを人々は目にしたのでした。それは明らかに通常のラビの姿ではありませんでした。イエスは「わたしに従え」と言って声をかけ、自分に従う者の集団を形成し始めたのです。今日の朗読箇所に書かれていたようにです。

 イエスがまず目を留めたのは網を打っている漁師たちでした。シモンとその兄弟アンデレ。イエスは彼らに言います。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」(17節)。すると二人はすぐに網を捨てて従った。

 そして、同じことがゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネにも起こります。イエスは、網の手入れをしていた彼らにも呼び掛けました。言葉は書かれていませんが、同じことを言われたのでしょう。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。そして、「この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(20節)。

 「神の国は近づいた」と語るこの男はメシアなのか。そうではないのか。その時点でまだ彼らには確かなことは言えなかったに違いありません。まだわからない。しかし、神の国の到来に向かって何かが起こっている。この人を中心に何かが起こっている。そのような期待に胸を膨らませながら彼らはついていったのです。

 そして、ついて行った人々が目にした数々の出来事は、彼らの期待を裏付けるように見えたはずなのです。というのも、彼らが見たのは奇跡の数々だったからです。このナザレのイエスはとてつもない力の持ち主であることが次第に明らかにされていきました。そこに現れていたのは神の権威だったのです。その人の権威ある言葉によって病は癒され、汚れた霊は大声をあげて出て行きます。今日は読みませんでしたが28節にはこう書かれています。「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」と。

主は十字架を経て再びガリラヤへ
 さて、そのように人々の期待が渦巻く中で、四人の漁師が一人の男についていったこの話は、二千年後にこれを読んでいる私たちにとって、何を意味するのでしょうか。マルコによる福音書の著者は、これを読んでいる私たちに何を伝えたいのでしょう。そのことを考えながら、もう一度今日の朗読箇所に耳を傾けてみましょう。

 最初に触れましたように、今日の朗読箇所は「ヨハネが捕らえられた後」という言葉から始まりました。実は、原文では「ヨハネが引き渡された後」と書かれているのです。この「引き渡される」という言葉はこの後に何度も出てきます。特に14章と15章に集中しています。そこにおいて「引き渡される」のは、イエス様です。14章と15章だけで10回もこの言葉が現れます。

 イエス様について人々やあの漁師たちが抱いていた期待については、既に述べました。しかし、マルコによる福音書が本当に伝えたいのは、「引き渡された」洗礼者ヨハネの後を追う形で、イエス様の公の宣教がスタートしたのだ、ということなのです。そして、やがてその御方が「引き渡される」ことになるのです。すなわち、人々の期待とは真逆の結末へと向かうキリストを、マルコは伝えようとしているのです。

 この福音書のちょうど真ん中あたり、8章において、ペトロがイエス様に「あなたはメシアです」とはっきり言い表している場面があります。それは弟子たちの共通した見解でした。しかし、そこでイエス様は自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められます。そして、聖書はこう伝えているのです。「それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた」(8:31)。

 そして、事実イエス様はそのように歩まれ、やがて十字架にかけられることとなるのです。そこで弟子たちはどうしたでしょう。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14:50)と書かれています。ペトロについては、三回もイエスを否んだ話が別に伝えられています。あの日、期待をもってついていったペトロです。「あなたはメシアです」と語ったペトロです。

 しかし、だからこそ今日読まれた箇所において「イエスはガリラヤへ行き」と書かれていたことが大きな意味を持つのです。そして、他ならぬガリラヤにおいてペトロたちが「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われたことが意味を持つのです。というのも、あの時と同じようにイエス様は再びガリラヤに行かれることになるからです。ペトロたちはもう一度、このガリラヤに戻ってくることになるからです。

 十字架にかけられたキリストが復活した時、空になった墓において婦人たちはこのような言葉を聞いたのでした。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(16:7)。

 イエス様を見捨てたペトロたちです。もう弟子であるなどと言えない彼らでした。しかし、彼らのためにも十字架にかかられ復活されたキリストが、再び出会ってくださいました。そして、再び招いてくださいました。だからこそ、後の「使徒ペトロ」や「使徒ヨハネ」がいるのです。

 キリストに再びガリラヤでお会いした時、彼らは、あの初めの時のことをはっきりと思い出したに違いありません。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。その言葉は新たな力をもって彼らに迫ってきたことでしょう。そして、彼らはイエス様の招きの言葉を、後々まで語り伝えたに違いありません。だからこそ、その言葉がこうして記されているのです。

 ここまで来てようやく、福音書を読んでいる私たちもまた、弟子たちと同じところに立つことになります。ガリラヤにおいて彼らと出会い、彼らを赦し、彼らを再び招いた復活のキリストこそ、私たちを招いてくださったキリストだからです。復活された主が私たちにも「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言ってくださったのです。

 十字架と復活を経たキリストに招かれた者として聞くならば、「人間をとる漁師にしよう」という言葉の意味ははっきり見えてきます。それこそがキリストに招かれた者がなすべきことだからです。

 洗礼者ヨハネが捕らえられた時、人々はこの世の権力の悪なることを思ったことでしょう。だからこそ悪しき権力者の支配を覆してくれるメシアを待ち望んだのです。しかし、彼らが本当に戦わなくてはならなかった相手は、ヘロデでもローマ皇帝でもなかったのです。本当の敵はこの世の権力ではなくて、罪の力なのです。権力者のみならず全ての人を神から引き離し、がっちり捕らえている罪の支配なのです。人間にとって、本当の戦いは罪との戦いなのです。

 そこにおいて必要なことは、一人ひとりの人間が神に立ち帰り、罪の赦しを得て、神と共に生きる者となることなのです。そこにこそ罪の支配に代わるもう一つの支配が到来するのです。神の支配、神の国。そこでは、どうしても一人一人の「人間」に目が向けられなくてはなりません。一人一人の人間において生きる方向が変わらなくてはならないのです。それを悔い改めというのです。

 ならば、まことに愚かに見えるかもしれないけれど、一人一人の「人間」に対して、神の愛と赦し、神の招きを伝えていくしかないのです。だから「人間をとる漁師」と呼ばれているのです。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。その御言葉によって召され、集められ、この世に遣わされているのが教会なのです。

2026年1月11日日曜日

「神の子はどこにおられる」

2026年1月11日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書1:9‐11

神の子はどこに
 「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」(9節)。これがマルコによる福音書において、イエス様が初めて登場する場面です。それにしては、驚くほど簡潔な描写しかなされておりません。福音書を書いたマルコは、イエス様の少年時代には全く触れません。風貌さえ描写しようとしません。ただ一つのことだけを単純に短く記すに留めます。「ヨハネから洗礼を受けられた」と。

 イエス様の生い立ちや少年時代についての尾ひれのついた言い伝えは、今日までいくつも伝えられています。しかし、イエス様がどんなに希有な少年時代を過ごそうが、幼い時から不思議な能力を発揮していようが、そんなことはマルコにとってどうでも良かったのです。また、イエス様の容姿や風貌を伝えることには全く関心がなかったのです。読者が心を向けなくてはならない大事なことは別にあるからです。それは何か。――イエス・キリストがどこにおられるか、というこです。

 その御方は、悔い改める罪人たちの列の中にいるのです。彼らと共に洗礼を受け、彼らと同じ水の中におられるのです。福音書はそこからイエス様の物語を語り始めるのです。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」と。

 この短い言葉が伝えているその情景を想像してみましょう。ヨハネと呼ばれる一人の男が、ユダヤの荒れ野に現れました。彼は悔い改めを呼びかけます。ヨハネのメッセージは、当時の多くの人々の心を捕らえました。この洗礼運動は瞬く間にユダヤの全地方に広がってゆきました。夥しい人々がヨハネのもとを訪れ、罪を告白して洗礼を受けるに至りました。聖書はその様子を、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来た」(5節)という言葉をもって伝えています。

 もちろん、これは誇張された表現です。いくらなんでも住民全員が来るはずはありません。実際、ヨハネのもとに来なかった人々、彼に批判的だった人々が、11章の終わりに出てきます。ユダヤにおける指導的な立場にいた人々、すなわち祭司長、律法学者、長老たちはその代表です。彼らからすれば、悔い改めて洗礼を受けるなどということは、神を知らぬ異邦人のすべきことだったのです。

 ヨハネが授けていた洗礼は、「罪の赦しを得させる洗礼」と表現されています。そこから分かりますように、ヨハネのもとに来て洗礼を受けた人々は、明らかに罪の赦しを求めて来た人たちなのです。ですから、当然のことながら、罪の赦しを求めない人は来なかったのです。いわゆる「正しい人たち」、自分を正しいと思っている人たちは、他の人を断罪することはあっても、自ら罪の赦しを求めることはないのでしょう。そのような人たちは、ヨハネのもとには来なかったのです。

 自分の罪を認めて神に立ち帰り神に赦しを求めよと呼びかけるヨハネ、そしてその呼びかけに応えて罪の赦しを願い求める人々の長い列を思い描いてみてください。そして、それらの人々を遠巻きに、批判的に眺めている人々の姿を想像してみてください。自分の罪深さに涙を流している人々を見てせせら嗤っている人々。「悪い連中が悔い改めて社会が良くなるなら、そりゃ結構なことですなあ」と言い合っている人々。「悔い改めろだって?悔い改めなくちゃならないのは、うちの旦那だよ!うちの妻だよ!うちの親だよ!」そう言って腹を立てている人たち。さてそんな場面を思い描く時、はたして私たちはどこにいるのでしょうか。悔い改める人の群れの中にいますか。それとも遠巻きに眺めている人々の中にいるのでしょうか。

 しかし、そのような「正しい人々」の傍らをイエス様が通り過ぎていきます。イエス様は、自らの罪深さに涙を流して赦しを求めている人々の中に入っていき、彼らと同じ有様で頭を垂れ、洗礼を授けて欲しいとヨハネに願います。そして、罪人の一人として、ヨルダン川の水に身を沈めておられるのです。それがここに描かれている場面です。「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。」――みなさん、どう思われますか。

 実は、そのようなイエス様のお姿は、この福音書においてここだけに見られるのではありません。全体を貫いているのです。罪人の一人としてヨルダン川に身を沈められた方を、私たちは後にどこに見出すのでしょうか。驚いたことに、私たちは、その方を罪人たちの食卓に見出すのです。一緒に食事をしているのです。一方、その周りで、徴税人や罪人を軽蔑している正しい人たちが口々にこう言って騒いでいます。「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」(2:16)。

 しかし、それはまだ事の始まりに過ぎません。最終的に、私たちはどこでイエス様を目にするのでしょうか。その方は、十字架の上におられます。「イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた」(マルコ15:27)と書かれております。そこでも、イエス様は最後まで罪人の一人として数えられているのです。

 私たちが読んでいますこの福音書は次のような言葉から始まります。「神の子イエス・キリストの福音の初め」。この福音書が伝えているのは、「神の子イエス・キリスト」の物語です。しかし、その神の子はどこにおられるかといえば、罪人たちのただ中におられるのです。正しい人たちを救うために、正しい人たちの間に身を置かれたのではなく、罪人たちの一人として、罪人たちのただ中に身を置いておられる姿がそこにあるのです。

天が裂けて
 それが神の子イエス・キリストの物語です。しかし、それがわざわざ「神の子イエス・キリストの《福音》」と呼ばれていることに注意してください。福音というのは良い知らせのことです。私たちはさらにそのことを考えながら、先を読んでいきたいと思います。

 イエス様が洗礼を受けられ、水から上がられた直後のことは、次のように記されています。「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」(10‐11節)。

 洗礼を受けられたイエス様は、水から上がられた時に「天が裂けて、神の霊が降って来るのを」見たのです。「天が裂けた」となっていますが、正確には「天が裂かれた」と書かれているのです。「裂かれた」と言うからには、裂いた方がいるわけで、それは他ならぬ神様です。

 それにしても、「天が裂かれた」というのは耳慣れない表現です。「天が開かれた」という表現の方がもう少し身近でしょう。実際、この「天が裂かれる」という表現は、新約聖書の中には他に出てこないのです。ならば明らかにこれは意図的に用いられた表現です。

 そこで次に裂かれるのは何かというと、この福音書には、もう一つ裂かれたものが出てくるのです。それは「神殿の垂れ幕」です。イエス様が息を引き取られる場面です。次のように書かれています。「しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(15:37‐38)。ここでも「裂けた」と訳されていますけれど、実際には「裂かれた」と書かれているのです。裂いたのはもちろん人間ではありません。神様御自身です。

 では、この垂れ幕が神によって裂かれたことには、いったい何の意味があるのでしょうか。この「神殿の垂れ幕」は、神殿の聖所と至聖所を隔てているものです。その垂れ幕を通って、至聖所に入ることができるのは、大祭司だけでした。一年に一回しか通ることは許されていないのです。しかも、贖罪の犠牲の血を携えることなしには、そこに入れない。要するに、その垂れ幕は、神が聖なる御方であり、罪ある人間は本来近づくことができないことを象徴的に表しているのです。

 しかし、その垂れ幕が神ご自身によって裂かれたのです。神自らが罪人に対して神に近づく道を開かれたのです。言い換えるならば、神はすべての人に対して、神がおられる天を裂かれ、天を開かれたということなのです。

 今日お読みした、イエス様の洗礼の時に起こった事は、すべてイエス様お一人に対して起こった事でした。天が裂かれたことだけではありません。聖霊が降ったこと、「あなたはわたしの愛する子」という声を聞いたこともそうです。それを経験したのは、神の子なるイエス様お一人です。

 しかし、それは始まりに他なりませんでした。そこからキリストは歩み出されるのです。どこに向かってですか。十字架の上で息を引き取られ、同時に神殿の垂れ幕が裂かれるあの一点へと向かってです。イエス様の生涯は、まさにそこに向かっていたのです。

 その出来事は、罪のないキリストが罪人の一人として洗礼を受け、罪人と共に生き、罪人の一人として死ぬことによって起こりました。罪なき神の子が、すべての人の罪を背負い、罪人の一人として死なれることによって、罪人と神との隔ては取り除かれたのです。天は裂かれ、開かれたのです。イエス様お一人から始まりました。しかし、ついに全ての人に対して、天は裂かれ、開かれたのです。

 だから、これは《福音》なのです。これは神に立ち帰り、神と共に生きたいと願う人にとって福音です。これは罪の赦しいただき、神に向かって顔を上げたいと願っている人にとって福音です。あのヨハネの声に応えて、ヨハネのもとに赴いた人々にとって、大いなる福音です。そして、私たちがあの遠巻きに眺めている人々ではなく、あの悔い改めて赦しを求める人々の列の中にいるならば、私たちにとっても大いなる福音なのです。

 私たちは、開かれた天を仰いで生きることができるのです。キリストお一人に対してだけ裂かれた天ではなく、私たちに対して、私たちのために、裂かれ開かれた天を仰ぐことができるのです。そうです、私たちはもはや下を向いて生きる必要はないのです。希望のない罪人として、神の顔を避けて生きる必要はないのです。神自ら裂いて開いてくださった天を仰いで、生きることができるのです。そして、イエス様だけでなく、私たちもまた、「あなたはわたしの愛する子」と呼びかけられている、神の子どもたちとして生きることができるのです。この福音が、今日も私たちにも与えられているのです。

2025年12月14日日曜日

「主の道を備えよ」 

マルコによる福音書 1:1‐8

 今日の聖書箇所には洗礼者ヨハネという人物が登場しました。ヨハネについては次のように説明されています。「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(2‐4節)。

 ヨハネはキリストより先に神に遣わされた者として登場します。何のために遣わされたのか。今日の聖書箇所によるならば、ヨハネは、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ者として遣わされた人だというのです。つまりキリストが来られる前に、人々が聞くべき声があったということです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声です。

 それは、実は私たちも同じなのです。来週、私たちはクリスマス礼拝をおささげし、キリストがこの世に来られたことを祝おうとしています。しかし、その前に聞かなくてはならない声があるのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。私たちはクリスマスを祝う前に、今日、この声に耳を傾け、二つのことを御一緒に考えたいと思います。第一は、「主の道」とは何を意味するのか、ということ。そして第二は、主の道を「整える」とはいかなることを意味するのか、ということです。

主が通られる道
 「主の道」とは何を意味するのか。このことを考えるために、この引用の元でありますイザヤ書を開いてみましょう。今日の第一朗読の聖書箇所です。若干言葉が違いますが、イザヤ書40章3節が元になっていることはすぐに分かります。こう書かれています。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ40:3)。

 「主のために、荒れ野に道を備え」るのは、主が通られるためです。では、主はその道を通ってどこに向かわれるのでしょうか。実は、主の行き先はシオン、すなわちエルサレムなのです。

 この言葉の背景を簡単に説明しておきます。この時、エルサレムには、破壊された神殿の跡があったのです。紀元前六世紀に、バビロニア軍によって、エルサレムは神殿もろとも破壊され、廃墟とされてしまったからです。なぜ神の都と呼ばれたエルサレムが廃墟となってしまったのか。それは戦争によってです。しかし、預言者は単に戦争によって破壊されたのだ、とは言いませんでした。人間の罪のゆえに廃墟になったの、と言うのです。

 しかし、神は廃墟となったエルサレムを見捨ててしまわれませんでした。神は預言者にこう語られたのです。「エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の罪は償われた、と」(2節)。苦役の時は終わったと神が宣言してくださったのです。そして、主が廃墟となった都に、破壊されてしまった神殿に、再び帰ってきてくださるというのです。ですから、「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と呼び掛けられているのです。このように、預言者が語っている「主の道・主のための道」とは、罪によってもたらされた悲惨な現実の中に、神様が来てくださるための道なのです。

 さて、その後、廃墟であったエルサレムはどうなったのでしょう。破壊されてしまった神殿はどうなったのでしょう。歴史的な出来事としては、後の時代に、エルサレムに帰還することを許された人々によって、神殿が再建されました。エルサレムの城壁も修復されました。神殿における祭儀も復活しました。彼らは新しい共同体社会を作り上げていきました。苦役の時は終わったと神が宣言してくださったことは、長い時を経て、確かに実現したように見えたかもしれません。壊れたものが元通りになることが重要ならば、これでメデタシ、メデタシ、ということになるのでしょう。

 しかし、彼らは「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と呼び掛けられていたのです。そして、その言葉がこうしてイザヤ書に記されてて、後の時代においても、それこそエルサレムが再建された後にも、読まれてきたのです。それはなぜなのか。――それは私たち人間にとって、とてつもなく大きな意味を持っているからなのです。

 私たちは誰でも、何かが壊れたなら、それが元通りになることを願います。しかし、人間の罪によって壊れたものは、ただ元通りになれば良いのではないのです。人間の罪のゆえに廃墟となった都は、ただ復興すれば良いのではないのです。破壊された神殿は、ただ建て直されれば良いのではないのです。形だけ元通りになってもだめなのです。大切なことは、神が来てくださることなのです。そこにこそ、真の回復と救いはあるのです。ですから、「主の道」が重要なのです。

 だからこそ、それから数百年後に、同じ声が荒れ野に響きわたったのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。まさに、そのように叫ぶ声そのものであるヨハネが現れたのです。なぜか。主が来られるからです。イエス・キリストが来られるからです。その御方において、神が来られるからです。そして、神が来てくださるところにこそ、真の回復と救いはあるからです。

主の道を整えよ
 では、どのようにして、主のために道を備えるのでしょう。主の道を「整える」とはいかなることを意味するのでしょうか。

 4節にはこう書かれています。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(4節)。これが「主の道を整えよ」と叫ぶ声であるヨハネが実際に行ったことでした。そして、ヨハネがそのように悔い改めの洗礼を宣べ伝えた結果として、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(5節)と書かれています。これが主の道を「整える」ということだったのです。

 「悔い改めの洗礼」と書かれています。しかし、洗礼そのものはヨハネが何もないところから思いついたものではありません。旧約聖書のレビ記にも、身を洗って清めることが定められています(レビ15:13)。当時の人々にとっても、神の前に出るために身を清めるということ自体は、決して珍しいことではなかったのです。けれども、ここを読みますかぎり、ヨハネが宣べ伝えていた洗礼は、ふだんの清めのための水浴びとは違います。罪の赦しを願い、悔い改めと結びついた、決定的な行為だったのです。

 そのように考えますと、ここに書かれているように、多くの人々がヨハネのもとに行ったということは、実に驚くべきことだとも言えます。というのも、彼らの多くは幼い時から聖書を学び、神の律法を重んじる世界に生きて来た人々だからです。彼らは律法を持たない異邦人を汚れた者と見なし、また同じユダヤ人であっても徴税人など「罪人」と呼ばれた人々との交わりを避けて生きて来た人々なのです。まさに、罪人は外にいる、問題は他の誰かにある、そう思いやすいのが人間なのでしょう。ところがヨハネは、そうした人々に対しても、「悔い改めよ」と叫び、罪を告白し、洗礼を受けることを求めたのです。それは本来、激しい反発を呼び起こしても不思議ではない行為だったはずです。にもかかわらず、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て」と書かれているのです。

 しかし、もう一方において、現実的に考えるなら、「皆」が来ることはあり得ないとも言えます。これは明らかに誇張表現です。彼のもとに来なかった者も少なくはなかったはずなのです。事実、この福音書11章には、ヨハネのもとに来なかった祭司長、律法学者、長老たちが出てくるのです。

 なぜ彼らはヨハネの言葉を受け入れなかったのでしょうか。自分が本当に赦されなくてはならない罪人であるなどと思わなかったからです。要するに、自分を正しい者だと考える者は、決してヨハネのもとには来なかったのです。「悔い改め」とは、方向転換をすることを意味します。神に立ち帰ることです。方向転換は、方向が間違っていることを認めないとできないのです。

 ローマ人の支配下にあった当時のユダヤ社会において、貴族階級や特権階級以外の民衆は、一般的に苦しい生活を強いられていたことと思います。多くの人々が救いを求めていたに違いありません。しかし、支配しているローマ人、異邦人のゆえに自分たちは苦しい生活を強いられているのだとしか考えられないなら、悔い改め、つまり方向転換はできないのでしょう。一般的に言って、自分以外の人間が皆悪いためにこのような苦しみを負っているのだ、と考えるところにとどまっている限り、方向転換はできないのです。環境が悪い、時代が悪い、世の中が悪い、為政者が悪い、あの人が悪い、この人が悪い、――そう言ってすべてを他者の責任としている限り、方向転換は起こりようがないのです

 しかし、そうではなく、ヨハネの言葉を聞いて、他の誰かではなく、そもそも自分の生き方そのものがおかしいのではないか、そもそも神との関係がおかしいのではないか、ということに気づいた人々がいたのです。自分の人生の方向そのものがおかしいのではないか、自分こそ赦しを必要としている罪深い者なのではないか、ということに気づいた人々がいたのです。そして、そのような人々が、ユダヤ人としてのプライドも、周りの人々との間のしがらみもかなぐり捨てて、ヨハネのもとに来たのです。そこに起こっていた悔い改めこそ、まさに「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ことに他ならなかったのです。

 人はキリストの前に、洗礼者ヨハネに出会わなくてはなりません。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」荒れ野で叫ぶ者の声を、私たちはこの待降節第三週に耳にしています。私たちは、クリスマスを相応しく迎えるために、この言葉をしっかりと受け止めなくてはなりません。私たちは、あのヨルダン川において、自分の罪を告白し、悔い改め、方向を変えて生き始めた無数の人々の姿を思い描くべきでしょう。そして、私たちもまた、その中に身を置くべきであろうと思います。悔い改めへの呼びかけこそ、この期間、私たちが第一に聞かなくてはならない言葉なのです。

2025年11月30日日曜日

「救いは向こうからやって来る」

2025年11月30日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 13:28‐37

いちじくの木から学びなさい
 「いちじくの木から教えを学びなさい」(28節)と主は言われました。どのような教えでしょう。続きはこうなっています。「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(28‐29節)。ここで「これらのことが起こるのを見たら」と主は言われます。「これらのこと」とは何でしょう。それは今日の朗読箇所の前に書かれていることです。少し前に遡って見てみましょう。

 14節には次のように書かれていました。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」(14節)。そして、主はやがて来たるべき大きな苦難について語られるのです。

 ではその「憎むべき破壊者」とは何を意味するのでしょうか。これはもともと旧約聖書のダニエル書に用いられている表現です(例えば、ダニエル12:11)。細かい話は割愛しますが、ダニエル書においてそれがもともと意味していたのは、紀元前二世紀にエルサレムの神殿の中に造られた異教の祭壇のことなのです。それは当時ユダヤを支配していたシリアの王アンティオコス4世が立てたものです。それは神に敵対するこの世の権力によって立てられたのです。

 要するに「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」というのは、神に敵対する大きな権力が支配するようになる、ということです。そのことが苦難の描写と結びつけられているのです。イエス様は来るべき苦難の時代について語られるのですが、それはいわば神に敵対する大きな力によってもたらされる苦難だということです。それゆえに、その苦難は神を信じない者にではなく、むしろ神に従おうとする者に及ぶのです。

 そこに見ますように、イエス様の見方はある意味では極めて悲観的です。主は人間の努力と取り組みによってパラダイスが実現するとは決して言われない。「この世は進歩し、調和し、人々は愛し合うようになる」とも言われないのです。むしろ、世界は非常に暗くなる。終わりに近づけば近づくほど、暗く苦しみの多い時が来ると考えておられたのです。

 それは、この世界の現実、神に敵対する罪深い人間の現実世界をイエス様はしっかりと見据えておられたからだ、とも言えます。人は撒いたものを刈り取らなくてはなりません。罪を蒔けば死を刈り取ります。ある時は神なき不敬虔な姿をもって、ある時には極めて宗教的な姿をもって、そのいずれの姿においても人間は神に背き続けてきた。それゆえに、最終的な苦難を刈り取ることになる。そのように、主はやがて大きな苦難の時がやってくると言われたのです。

  そして、さらに24節以下には次のように書かれています。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(24‐25節)。

 古代の人々にとって天体は不変の秩序を代表するものでした。たとえ国家の体制が崩壊するようなことがあっても、変わることなく太陽は昇り沈みます。月と星は定められたとおりに動くのです。それは最後まで信頼できるものの代表とも言えます。しかし、その天体が揺り動かされると主は語られたのです。いわばこの世に信頼できるものはもはや何も残っていない。そのような、まったく希望のない絶望の世界、光のない闇の世界がやって来ると主は言われたのです。

 しかし、そこでイエス様が本当に言いたいのは、この世界が闇に包まれて終わってしまうということではありません。人間には絶望しか残されていないということではありません。その闇が最も深くなった時、まさにその時こそ救いのときなのだと主は言われるのです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(29節)と主は言われるのです。

 「人の子」とはイエス様がしばしば自分自身を呼んだ呼び方です。これもまた、もともとは旧約聖書のダニエル書にでてくる言葉です(ダニエル7:13)。イエス様はやがて再び来られる方として自分自身について語っておられるのです。イエス様がやがて終末において再び来られることを「キリストの再臨」と言います。闇が最も深くなったその時、キリストが再び来られ、この世界を正しく裁かれ、そして全き救いをもたらされるのです。

  さて、キリストがこれを語られた時からすでに約二千年が経ちました。いまだに再臨のキリストは来られません。その一方で、現実に目に見える様々な形で、私たちはこの世界の危機に直面しているのです。この世界が存続するために取り組まなくてはならない課題、解決しなくてはならない問題は山積しているし、実際に必死の取り組みが続けられているのです。そのような世界のただ中で、教会があれから二千年もたった「キリストの再臨」を信じ、語ることにいったい何の意味があるのでしょうか。実際、信仰を抜きにして聞いたなら、キリストが世の終わりに「雲に乗って来る」という描写は、まさに荒唐無稽なおとぎ話にしか聞こえないだろうと思うのです。

 しかし、もう一方において教会が変わることなく、時として信仰者は命をかけて、二千年もこのことを伝え続けてきたという事実があります。そして、今日この国に生きる私たちまで耳にしている事実がある。ならば、私たちは、信仰をもってその意味することをしっかりと受け止めなくてはならないのだと思うのです。教会が伝えてきたことには、いつの時代の人々にとってもそれだけの大きな意味があるはずだからです。今日は特に二つの点に心を留めたいと思います。

へりくだって待ち望む
 第一に、「キリストの再臨」は、私たちに神の御前にへりくだることを教え、時として動き回ることよりも忍耐して待つことが大切であることを教えます。「キリストの再臨」は、要するに、最終的な救いは向こうから来るということです。天から来るということです。最終的な救いは人の力によってもたらされるのではなく、神によってもたらされるのだ、ということです。このようなことがあえて語られねばならないのは、人間は常々そうは思っていないからでしょう。

 この世界は人間が動かしていると思っているならば、人生も人間の手に握られていると思うのは当然です。自分の力で成し遂げれば思い上がり、自分の力で失敗すれば失望する。誰かのおかげで成功すれば依存し、誰かのせいで人生が壊れれば憎しみに翻弄される。人間がすることがすべてだと思うなら、人間のゆえに望みを失うことにもなるのでしょう。

 しかし、そうではないのだとイエス様は言っておられるのです。この世界についても、私たちの人生についても、すべては主の御手の内にあるのです。主が最後の言葉を持っているのです。往々にして人間のすることがすべてだと思い上がっている私たちは、繰り返し悔い改め、神の権威のもとにへりくだらなくてはならないのです。救いは向こうから来るのです。だから、静まって待ち望むことが重要になるのです。そうあってこそ、苦難の中にあってさえ、本当の意味でなすべきこと、神から託されていることに落ち着いて取り組んでいくこともできるのです。

大事なのは今
  そして、第二に、主の御言葉は、私たちに「今」を生きることの大切さを教えます。

 「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」(34節)と主は言われました。もし家の主人がいつ帰ってくるかを「知っている」ならば、大事なのは「その時」でしょう。しかし、もし「知らない」ならば大事なのは「現在」です。そうです。今がその時かもしれないからです。ですから、主はこう続けられるのです。「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである」(35節)。

 そのように「知らない」ということは積極的な意味を持っています。それは「現在」に私たちの意識を集中させることになるからです。そうしますと、今日の聖書箇所でイエス様は一見「未来」のことを話題にしているように見えますが、実は本当に語りたいことは「現在」についてなのです。「目を覚ましていなさい」とはそういうことです。

 今日から「アドベント(待降節)」に入ります。週報にも書きましたが、アドベントという呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。特に世の終わりにおける主の「到来」、すなわち「キリストの再臨」を思う季節です。しかし、それがいつかを私たちが知らないゆえに、「現在」こそが重要になってきます。アドベントは、その意味で「現在」にしっかりと目を向ける時でもあるのです。それゆえに最初の日に「目を覚ましていなさい」という御言葉を聞いているのです。

 私たちはしばしば、過去にばかり目を向けて、過去に縛られて生きていたり、あるいは先のことばかり考えて思い煩いで一杯になっていたり、そのようなことをして「現在」を大切にできていないものです。しかし、本当に問わなくてはならないのは過去でもなく未来でもなく「現在」なのでしょう。問題にしなくてはならないのは、「今、わたしはどういう状態にあるのか」ということなのでしょう。特に私たちの人生において決定的に重要なのは、「神様との関係において、今、わたしはどういう状態にあるのか」ということなのです。

 ところで、マルコによる福音書では「目を覚ましていなさい」というこの言葉は今日の箇所の他にはゲッセマネの祈りの場面にしかでてきません。そこで主は言っておられます。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(14:38)。主の苦悩を横にして眠りこけている弟子たちの姿。それは私たち自身の姿かもしれません。主は弟子たちに、後の教会に、ここにいる私たちに、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と語ってくださいます。祈りの生活を失って、人は目覚めて生きることはできないということなのでしょう。

2025年10月26日日曜日

「神の恵みに目を向けて生きる」

2025年10月26日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 10:2~12

イエスを試そうとして
 ファリサイ派の人々が近寄って来て、イエスに尋ねました。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。彼らは教えを請いに来たわけではありません。そこには「イエスを試そうとしたのである」と書かれています。答えは既に知っているのです。「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問われると、彼らは自分でこう答えることができました。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と。そうです、既に答えは知っているのです。

 「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。彼らがそう尋ねたのは、イエスが離縁に否定的な見解を持っていることを知っていたからです。離縁は律法において許されているのに、この男はその律法に反することを答えるかも知れない。あわよくば「この男は律法に反することを教えている」と訴える口実を得ることができるかも知れない。恐らくそう思ったのでしょう。ですから後で「イエスはこう言った」と証言できるように、彼らは複数でやってきたのでした。

 もちろん、イエス様は彼らの意図をご存じでした。ですから、彼らの質問に対して「律法に適っている」とも「律法に適っていない」とも答えなかったのです。主は「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されます。彼らは答えます。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」。すると主はこう答えられました。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」。

 そして、律法の書に記されている他の言葉を引用されました。創世記の一章と二章に記されている言葉です。イエス様はそれを要約して語られます。「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。」

 イエス様はあくまでも律法の書を引用して話をします。その意味では、ファリサイ派の人々と同じ土俵に乗るのです。しかし、離縁状の話には乗りません。法的な手続きの話には乗りません。法的な手続きが定められる前から、「結婚」という関係は存在するからです。「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と書かれている。それはモーセを通して律法が定められる前の話です。そこで主は言われます。「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。

 ファリサイ派の人々とのやりとりはここまでです。イエスを試そうとして質問を準備してきた彼らの目論みは失敗に終わったと言えます。しかし、私たちはファリサイ派の人々がイエス様にこんな質問をしてくれたことに感謝したいと思います。といいますのも、ファリサイ派の人々の質問から始まるこの話は、神に向かい、神と共に生きる生活の仕方は二通りに分かれることをはっきりと示しているからです。そして、そのどちらに向かって進むかということは、決して小さなことではないのです。

律法に適っているでしょうか

 その二通りの生活の仕方、二通りの生き方とは何でしょうか。その第一は、ファリサイ派の人々の問いに表れているような生き方です――「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」。それは、神の目や人の目を恐れながら、「どこまでならば許されるのか」を行動の基準として生きる姿です。信仰の歩みが、何が許されるか、何が禁じられているかという線引きばかりを気にするものになってしまう。そういう生き方です。

 先にも言いましたように、彼らは答えを持っていました。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」。彼らが念頭に置いていたのは、次のような申命記の言葉です。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24:1)。

 確かに、夫が妻を離縁することは律法において許されていると言えなくはない。しかし、実はそれほど単純ではありません。「妻に何か恥ずべきことを見いだし」と書かれていたのですが、その「恥ずべきこと」について、当時においても解釈が分かれていたのです。

 シャンマイという有力なラビとその弟子たちは、この「恥ずべきこと」に当たるのは姦淫の罪であると考えました。姦淫の罪を女が犯した時は離縁することが出来る。それ以外は出来ない。それに対して、ヒレルというもう一人の有力なラビとその弟子たちは、よりリベラルな立場を採りました。「恥ずべきこと」には様々な事柄が入る。例えば、食べ物を焦がしたとか、容貌が悪いとかなども、離縁の正当な理由となると論じたのです。今日の視点からすれば人権侵害も甚だしい話ですが、当時としては大真面目な議論だったのです。

 さて、そこで私たちは考えねばなりません。そもそも「離婚は許されるのか」とか「どこまで許されるのか」という議論はどうして起こるのか、ということです。それは離婚したい人がいるからです。離婚したい人がいなければ、そもそもこういう議論は起こらないのです。

 ちなみに、彼らの質問には「夫が妻を離縁すること」しか出て来ません。イエス様は「夫を離縁して他の男を夫にする者も」と言っておられますが、実際には当時は妻から夫を離縁することはほぼあり得い、男尊女卑の時代を背景としている話です。今日とはずいぶん違います。そのような時代には、夫の都合による実に身勝手な離婚がまかり通っていたのです。例えば、それこそ料理を焦がしただけで離縁したがる男がいる。自分の妻よりも美しい女性を見ただけで離婚したがる男がいる。だから、そのような場合の離縁は許されるかどうかという律法解釈の話が出てくるのです。

 そのような人にとって、律法とは自分の望んでいることを制限するものでしかありません。「どこまで許されるのか」ということは、裏を返せば「どこまで制限されているのか」ということです。そして、制限には嫌々でも従うのです。なぜなら神が怖いからです。神の制限を越えるならば罰せられる。許されていないことを行うならば罰せられる。それが怖いからです。

 しかし、「どこまで許されるのか」ということが話題になる世界においては、現実には怖いのは神の目よりも人の目である場合の方が多いのかもしれません。禁止されていることをしてしまうと人の目が怖い。みんなが守っていることを自分だけやぶったら人の目が怖い。だから一生懸命守るのです。だから「どこまで許されるのか」が気になるのです。

 そのような、神の目が怖い、人の目が怖い。宗教的な世界は往々にしてそのような世界になってしまうものなのでしょう。それがあのファリサイ派の人々が生きていた世界だったのです。それが彼らの生き方だったのです。「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」という問いに見られる生き方です。

先行する恵みに応えて生きる
 しかし、イエス様はあのファリサイ派の人々とは全く違う世界に生きていたのです。そして、後の弟子たちもそうでした。それゆえに、この物語が伝えられてきたとも言えるのです。

 先にも触れましたように、イエス様が引用しているのは、創世記1章と2章の言葉です。「天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった」と主は言われるのです。「神は」が先にあるのです。人間の行為の前に、神の行為があるのです。神様がしてくださっていることがあるのです。既に私たちが生きているこの世界そのものが神の御業なのです。神の愛から溢れ出た御業、神の恵みの御業なのです。そのような中に私たちは生きている。その一つの現れが、男がおり女がいるということです。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体になる」。これもまた人間が創り出したことではありません。神の恵みの御業です。

 神の恵みの御業が先にあるのです。ならば本当に大事なのは感謝をもって恵みに応えて生きることです。「神が結び合わせてくださった」という恵みに対する相応しい応答は、「人は離してはならない」ということになるのでしょう。イエス様が言われるとおりです。それは神が禁止しているからそうするのではなくて、恵みへの応答なのです。

 もちろん、この世界には神の恵みに応えていない人間の現実があることもまた事実です。それを聖書は罪と呼びます。ですから、現実には結婚が壊れてしまうことがあります。夫の罪によって、あるいは妻の罪によって、あるいは神の目から見るならば両者の罪によって、ということになるのかもしれません。いずれにせよ、それは結婚の話だけではありません。この世界全体がすべての営みにおいて、神の恵みに応答していないのです。神の恵みに背を向け、天地創造に始まる神の恵みを蔑ろにしているのです。イエス様には、そんなこの世の有り様が映っていたに違いありません。

 にもかかわらずイエス様は「天地創造の初めから…」と神の御業を語られるのです。あくまでも神の恵みの御業が先にあることを語られるのです。そして、神の恵みに応えて生きるように呼びかけられるのです。なぜなら神の恵みの御業は続いているからです。ストップしてはおられないからです。神はこの世を、私たちを、決して見捨ててはおられないからです。さらに言うならば、ここで神の御業について語っておられるイエス様の存在そのものが、神の恵みの御業なのです。そのことが十字架において、復活において、完全に現されることになるのです。

 イエス様が生きておられた世界、そして私たちに手渡してくださった信仰の世界――それは、神の目や人の目を恐れて「何が許されているのか」と問いながら生きる不自由な世界ではありません。そうではなく、先立つ神の恵みに目を向けて生きる世界です。天地創造の御業に始まり、すでに現された救いの御業に至るまで、私たちはその恵みの中に置かれているのです。その恵みに感謝をもって応答しながら歩むことこそ、私たちに与えられた信仰の歩みです。それは「何が許されているのか」ではなく、「何が主に喜んでいただけることなのか」を考えて生きることに他なりません。


2022年8月28日日曜日

「あなたの信仰があなたを救った」

マルコによる福音書 10:46‐52

 イエス様がエルサレムへと向かう旅の途中のことです。イエス様が弟子たちや大勢の群衆と一緒にエリコの町を出て行こうとしていた時、道端に座っていた盲人の物乞いが突然叫び出しました。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。多くの人々が彼を叱りつけ黙らせようとしました。しかし、その男は黙りません。ますます大声で叫び続けます。「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」。

力ある王を求める人々
 なぜ人々は彼を「黙らせようとした」のでしょう。単に「うるさかったから」ではありません。大勢の群衆がざわめきながら移動している最中です。一人の叫び声などたかが知れています。黙らせようとしたのは、恐らく、その男が無礼であると映ったからです。もしローマの皇帝が行進をしている時に、誰かが「憐れんでください」と叫び出して直訴したら、無礼者として制止されるでしょう。この場面はそれに近いと言えます。イエスの一行に人々が見ていたのは、まさにエルサレムへと向かう王の行進なのです。それがはっきりと分かりますのはエルサレムに入城する時です。次のように書かれています。「多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って道に敷いた」(11:8)。そこをイエスの一行が歩いて行く。まさに王の入城のような光景です。

 そのように、人々にとってイエス様はまさに王様だったのです。いや、正確に言うならば、王となるべき御方、間もなく即位すべき御方だったのです。イエス様に従う群衆の数はエリコを出る時点で相当な数に上っていたものと思われます。過ぎ越しの祭りのためにエルサレムへと同行していた巡礼者の群れではありません。皆、イエス様が王になると信じてゾロゾロとついて行ったのです。ユダヤはローマの支配下にありました。しかし、イエス様は必ず我々をローマの支配から解放してくださるに違いない。そして、かつてダビデが王であった時のように、偉大なるイスラエルの王国を再建してくださるに違いない。そう信じて、ついて行ったのです。

 もちろんそのことを一番期待していたのはイエス様が選ばれた十二人の弟子たちでした。自分たちは特別だと思っていますから。当然、イエス様が打ち建てる王国においては特別なポジションが用意されていると信じています。ですから、今日お読みした箇所の少し前には、ヤコブとヨハネという二人の弟子が、こんなことをお願いしたことが書かれているのです。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」(37節)。「栄光をお受けになる」とは、「王になる」という意味です。その時には私たちをナンバー2、ナンバー3にしてくださいとお願いしているのです。そのように抜け駆けする者も現れてくる。当然、他の弟子たちは腹を立てました。皆、同じことを考えているのですから。

 ところで、いったいどうして弟子たちは、また大勢の群衆は、イエス様が王となることなど期待できたのでしょうか。どうしてそんなことが実現すると思ったのでしょうか。常識的には考えられないことでしょう。ローマの支配は絶対的なものでしたから。にもかかわらず、人々が新しい王国の到来を期待したのは、明らかに彼らがイエス様の力を見たからです。病気の人が癒される。悪霊に憑かれた人が解放される。五千人以上の人々が満腹させられる。人々はイエス様のなさる一つ一つの奇跡に計り知れない《神の力》の現れを見たのです。

 力に期待して、力ある者の後に着いて行く集団。力に救いを求め、力による偉大な事業の実現を求める集団。ここに見るのはそのような集団です。そして、そのような集団にとって、助けを求めて叫んでいる一人の弱い人などは、邪魔者以外の何ものでもありません。それは偉大な事業の実現にとって妨げでしかないのです。「この御方をなんと心得る!王となるべき御方であるぞ。ダビデの王国を再興する御方であるぞ。物乞いなどに関わり合っている暇などあるか!」叱りつけた人々の思いは、大方そのようなものであったに違いありません。

王の憐れみを信じた人
 しかし、あの男は黙らなかったのです。制止されても叫び続けたのです。ナザレのイエスは絶対に憐れんでくださる。声さえ届けば、絶対に憐れんでくださる。彼はそう確信していたのです。もちろん、この男もイエス様が王となるべき御方であると信じています。「ダビデの子イエスよ」と彼は叫びました。ダビデの子孫として来られたまことの王であると信じているのです。しかし、それでもなお、その王は一人の盲人の物乞いを憐れんでくださる王だと信じているのです。

 なぜでしょうか。彼はイエス様のことを伝え聞いて知っていたからです。知っていなかったら、「ナザレのイエスだ」と聞いても叫び出すことはなかったでしょう。彼は既に聞いて知っていた。問題はそこで彼が何を聞いていたかです。単に神の力の現れを聞いたのではなかった。そうではなくて彼が聞いていたのは「憐れみ」だったのです。イエス様の御業を通して現わされた《神の憐れみ》を聞いていたのです。だから「憐れみ」を求めて叫んだのです。

 先に申しましたように、目の見える人々はイエス様の奇跡に《神の力》を見たのです。だから力ある王としてのイエスに期待をかけた。しかし、目の見える人が、必ずしも事の本質を見ているとは限りません。むしろ聞くだけだったこの男にこそ、大事なものが見えたのです。《神の力》ではなく、《神の憐れみ》です。一人の小さな者も見過ごしにされない神の憐れみです。

 聞くだけだったこの男には分かったのです。神の憐れみの王国が到来したのだ、ということを。その事実を彼は見えないその目で既に見ていたのです。苦しみのどん底で這いつくばっている一人の人間にも、目を留めて憐れんでくださる神の憐れみが到来した!神の憐れみを体現してくださるメシアがついに来られた!彼はその事実を心の目で既に見ていたのです。

 だから彼は叫んだのです。力の限りに叫んだのです。「ダビデの子イエスよ、わたしを《憐れんでください》」と。――そして、この人は間違っていませんでした。イエス様は立ち止まって言われたのです。「あの男を呼んできなさい」。

見えるようになりたいのです
 彼は躍り上がってイエス様のもとに来ました。イエス様はその人に言われます。「何をしてほしいのか」。この男はすぐさま答えました。「先生、目が見えるようになりたいのです」。この人は目が見えないゆえに苦しんできました。物乞いをしなくてはならなかったのも、そのゆえでしょう。だから、目が見えるようになりたかった。確かにそうでしょう。

 しかし、目が見えるようになることで、彼が本当に見たかったのは何なのでしょうか。それは神の憐れみではなかったかと思うのです。神の憐れみの現れであるイエス様の姿を見たかったに違いない。今まで耳にしてきた御方を憐れみの到来を、何よりもその自分の目で見たかったのだろうと思うのです。

 彼の願いはかなえられました。イエス様は言われました。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」。そして、「盲人は、すぐ見えるようになった」と書かれています。しかし、目が見えるようになった彼はそのまま立ち去りませんでした。「盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」と書かれているのです。彼は開かれた目をもってイエス様の姿を追ったのです。彼の目はイエス様を追いながら、なお道を進まれるイエス様について行ったのです。

 さて、聖書に書かれているのはここまでです。しかし、バルティマイにとって話がそれで終わりにはならなかったことは容易に想像できます。見える目をもってイエス様の姿を追って行った先には何が待っていたのでしょうか。この直後に書かれているのはイエス様がエルサレムに入城されたという出来事です。そして、そのエルサレムにおいて、主は十字架にかけられて殺されることになるのです。つまりこの盲人は、目が見えるようになったために、そしてイエス様に付いていったがゆえに、その目でイエス様が十字架にかけられ殺される姿を見なくてはならなかったのです。

 「見えるようになんて、ならなければよかった!わたしは見たくなかった!」彼は心底そう思ったに違いありません。しかし、もしそれで終わりなら、彼が経験したことは神の憐れみなどではあり得ないし、彼の目が開かれたというこの物語も語り伝えられることはなかったでしょう。

 なぜこの物語が伝えられたのか。なぜ聖書に書かれているのか。そのことを考えて改めて読みますときに、この盲人の物乞いの名前があえて書き記されている事に気づかされます。もともと物乞いの名前を皆が知っていたはずがありません。にもかかわらず、福音書に名前があるということは、この福音書が書かれた頃、バルティマイがキリスト者として教会において良く知られていた人物だったということです。他に名前が記されている、あの十二人のようにです。彼はイエスに従った。そして、ティマイの子、バルティマイの名は、教会の歴史の中に書き残されることとなりました。

 言い換えるならば、十字架につけられたイエス様を目にした悲しみは、それで終わらなかったということです。やがて彼は知ることになったのです。このキリストの十字架こそ、罪の贖いの犠牲であり、罪の赦しと救いに他ならないということを。その意味において、彼はその開かれた目で、神の憐れみを見た人だと言えるでしょう。私たちの罪を赦すため、罪のあがないの犠牲として御子をさえ死に引き渡される、神の計り知れない憐れみを彼は見たのです。彼はその開かれた目をもって、神の憐れみの王国が確かにイエス・キリストにおいて到来したことを見たのです。

 「あなたの信仰があなたを救った」。主が彼の目を癒された時、主はそう言われました。そして、確かに彼は、ただ目を癒された人ではなく、救われた人として、どんな小さな一人に対しても向けられている計り知れない神の憐れみを、今もなお私たちに指し示しているのです。そして、彼と共に信じるようにと、主は私たちを招いていてくださっています。私たちもまた、「あなたの信仰があなたを救った」という言葉を聞くことができるように。

(祈り

2022年7月3日日曜日

「豊かな実りがあろうと、すべてが徒労に終わろうと」

マルコによる福音書 6:1-13

ナザレでの宣教
 かつてイエス様がカファルナウムにおられたとき、イエスの母マリアと兄弟たちがイエスを取り押さえて連れ戻しに来たということがありました。事の次第はこの福音書の3章に書かれています。30キロも離れたナザレからわざわざ連れ戻しにきたのです。「あの男は気が変になっている」と言われていたからです。だから、面倒なことになる前に、故郷に連れ戻そうと思ったのです。しかし、母マリアと兄弟たちが連れに来た時、イエス様は全く取り合いませんでした。彼らと一緒にナザレに帰る気など、さらさらなかったのです。

 ところが、そんなイエス様が、なんと自ら進んで故郷のナザレに帰ってきた。それが今日お読みした場面です。もちろんマリアや兄弟たちが望んでいたように、ナザレで元の生活に戻るためではありません。帰って来られたのは、あくまでも宣教のためでした。ナザレだけではありません。故郷の付近の村々を巡り歩いて、福音を伝えるつもりでいたのです。いや、イエス様御自身だけでなく、7節以下に書かれているように、周辺の村々に弟子たちを遣わして宣教するつもりでいたのです。

 さて、安息日になりますと、主はナザレの会堂で教え始められました。人々の反応は、カファルナウムの時と同じでした。人々は驚いたのです。彼らは驚いてこう言いました。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」(2節)。

 この言葉だけを聞くならば、彼らの驚きは概ね肯定的なものであったと想像できるでしょう。しかし、事実は異なりました。彼らの反応は極めて否定的なものだったのです。「このように、人々はイエスにつまずいた」(3節)と書かれているとおりです。知恵に驚こうが、その力に驚こうが、結局彼らはイエスにつまずいたのです。

 なぜイエス様の語られる「知恵」に驚きながらも、それを受け入れることができなかったのでしょうか。それは彼らがこれまで既に慣れ親しんできた宗教的な「知恵」があったからです。過去から受け継いできた、宗教的コミュニティが受け継いできた「知恵」があったからです。その彼らの受け継いできた「知恵」からすれば、イエスの「知恵」はあまりにも異質だったのです。

 また、彼らは確かに「その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」と言って驚きました。しかし、それを受け入れることはありませんでした。なぜでしょう。そこには「奇跡」とは馴染みのない、彼らの慣れ親しんできた宗教的な生活があったからです。神が神であられるならば、神にしか為し得ないことを神はなさいます。人はそれを奇跡と呼ぶのです。しかし、そのような神の御業を求めることもない、期待することもない。それが彼らの宗教的な生活だったのです。

 もちろん、彼らは宗教的ではあったのです。それはナザレという小さな村の共同体での話です。そこでは誰もが生まれて八日目に宗教的な儀式として割礼を受けるのです。幼い時から律法を学び、先祖からの言い伝えを大切にし、それぞれが宗教的な戒律を守って信心深い共同体を形づくっていたのです。しかし、そこにイエス様が帰って来られた時、イエスという存在はあまりにも異質だったのです。

 いや、彼らの慣れ親しんだ宗教的な生活が妨げになっただけではありません。決定的な妨げになったのは、彼らが既に持っていたイエス理解でした。彼らは言うのです。「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか」(3節)。

 「大工ではないか」という言葉そのものには軽蔑的なニュアンスはありません。ここで「大工」と言われているのは家を建てる仕事ではなく、農具や家具を作る仕事です。卑しめられるような仕事ではありません。また、「ヨセフの息子」ではなく「マリアの息子」と呼ばれているのは、ヨセフが既に他界していたからなのでしょう。恐らくイエス様はヨセフが亡くなった後、母と弟や妹たちのために、大工として一生懸命働いて生計を支えてきたのです。

 「この人は、大工ではないか」。そうです、目の前にいるイエス様が、彼らの良く知っている大工イエスの延長線上にいたならば、彼らはつまずかなかったのです。「マリアの息子ではないか」。そうです。もし、そこにいるのが、彼らの良く知っているマリアの孝行息子だったならば、彼らはつまずかなかったのです。そこにいるのが、ただ評判の良い人、尊敬すべき人、人格的にすぐれた人、偉大な人、立派な人、模範的な人、善良な一ユダヤ人という枠内に収まっていれば、彼らはつまずかなかったのです。しかし、そうではありませんでした。その言葉にせよ、なさることにせよ、イエス様は異質な存在だったのです。それゆえに、「人々はイエスにつまずいた」と書かれているのです。

宣教を続けるイエス
 しかし、それはある意味では起こるべくして起こったことだとも言えます。なぜなら、「宣教」とは、異質なものを持って来ることに他ならないからです。イエス様の宣教はこの福音書の1章において次のように要約されていました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)。「時は満ちた」と主は言われるのです。つまり全く新しいことが始まるということです。キリストが来られたとはそういうことです。そのキリストが「神の国は近づいた」と宣言されたのです。

 「神の国は近づいた」。その「国」が意味するのは領土ではありません。王としての支配です。神が王として来られるのです。救いをもたらす王として来られるのです。「神の国は近づいた」。ならば、そこでは決定的に新しいことが始まるのです。人間が人間に対して行う水平の次元のことではなく、神が人間に対して行う垂直の次元のことが起こるのです。いや、それはメシア・キリストが到来したことによって、既に始まっているのです。その宣言こそが、キリストの宣教でした。「神の国は近づいた」と主は言われるのです。

 ならば、必然的にキリストの宣教は、この世にとっては異質なものとならざるを得ないのです。宗教的なコミュニティでさえ、人間が人間に対して行う水平の次元のことにしか目が向かないことが起こり得ます。世俗的な社会ならなおさらでしょう。水平の次元のことで人生が決まり、水平の次元のことで歴史は動いているとしか見えない。この世の力と金勘定ですべては決まっていくようにしか見えない。最終的なこの世界の運命も、人間が握っているかのように考えられている。それがこの世です。そのような世界に、キリストは来られたのです。そこで、神のなさること、垂直の次元のことを語られたのです。

 いや、それだけではありません。キリストの存在そのものがまさに垂直の次元における出来事だったのです。すなわち、神の宣教であり、神の言葉だったのです。キリストの十字架と復活。キリストの昇天。聖霊の降臨。キリストの再臨。神が王として到来し、神が人を救われるのです。神がこの世界を救われるのです。それは既に始まっており、完成するのです。それは神がなさることであり、垂直の次元のことです。だから「福音」なのです。キリストは「福音」を告げ知らせていたのです。

 だからこそ、神のなさること、神の救いの良き知らせ、「福音」が語られるところにおいては、常に聞く側が問われることになるのです。「神の国は近づいた」。――そこで、あなたは同じ生き方を続けるのですか。慣れ親しんできたそれまでの生き方をずっと続けていくのですか。人間のことだけ考えて、人間がしてきたこと、人間から受けたこと、人間がしなくてはならないこと、人間にできること――、それだけを考えて、水平の次元のことだけを考えて、これまでどおりに生きていくのですか。そのように水平の次元のことだけを考えていても、形としては宗教的には生きられます。しかし、本当にそれでよいのですか。――神の言葉が宣べ伝えられる時、そこでは常に人間の側が問われることになるのです。

 ですから、イエス様は「時は満ち、神の国は近づいた」と言われるだけでなく、「悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのです。「悔い改めなさい」。それは単に悪い行いを正せという意味ではありません。そこで求められているのは方向を変えることです。生きる方向を変えることなのです。そこで求められているのは信仰です。福音を信じる信仰です。神を信じる信仰です。不信仰に留まるならば、これまで慣れ親しんだ生活が続いていくだけなのです。

 残念ながら、それがあのナザレの人々に起こったことでした。宣教は豊かに実ることもあるし、すべてが徒労に終わることもあり得ます。それは聞く側によって決まるのです。「このように、人々はイエスにつまずいた」。そこでは「神の国は近づいた」という宣言も意味を持ちませんでした。全く新しいことが神によって始まっているという現実も見ることはないでしょう。いみじくも今日の箇所にこう書かれているとおりです。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」(5‐6節)。

 しかし、それでも主は宣教することを止めませんでした。豊かな実りがあろうが、すべてが徒労に終わろうが、主は宣教することを止めませんでした。主は自ら付近の村を巡り歩いて語られます。さらには十二人の弟子たちを遣わして宣教を続けられます。それは、今日まで続いている教会の宣教を予表しているとも言える姿でした。

 実際、主はこの国にまで弟子たちを派遣し、福音を告げ知らせてくださいました。その実りとして、ここに私たちがおります。そして、私たちを派遣して、福音の宣教を託してくださっています。ならば、私たちはこの世にとって異質な言葉を自ら生き、そして語り続けなくてはなりません。豊かな実りがあろうと、すべてが徒労に終わろうと。
(祈り)

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