2026年8月2日 主日礼拝説教
マルコによる福音書 9:42~50
命にあずかる方がよい
「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」(43‐47節)。
たいへん恐ろしいことが書かれています。ここでイエス様は繰り返し「地獄(ゲエンナ)」について語っています。「地獄の消えない火の中に落ちる」とか「地獄に投げ込まれる」という表現に、私たちは恐怖を抱きます。脅迫されているようにも感じます。
しかし、イエス様が「地獄に投げ込まれる」ことについて語っているということは、少なくとも私たちは地獄の外にいるということを意味しているとも言えます。私たちがいるこの世界はたとえ苦しみに満ちていたとしても決して地獄ではないということです。神の刑罰の場ではなく、神から見捨てられた世界でもないということです。
それどころか、この世界は神がイエス・キリストを遣わされた世界だと聖書は教えているのです。神が罪の贖いの十字架を打ち立てられた世界だと。この世界がどれほど神に背こうとも、なおも神に愛されている世界です。ですから、そこには救いの約束が与えられ、救いへの招きが与えられているのです。それをイエス様は「命にあずかる」また「神の国に入る」と表現しておられるのです。
私たちが今日、聞いているのは、そのような救いの約束のもとにある者たちへの言葉なのです。繰り返されているのは「地獄」という言葉だけではありません。もう一つ繰り返されているのは「つまずかせるなら」という言葉です。そもそもこういう言葉から始まっていました。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(マルコ9:42)。
この言葉自体もそうとう過激ではありますが、言わんとしていることはよく分かります。「わたしを信じるこれらの小さな者」とありますが、キリストを信じる者は、たとえこの世においてどんなに小さな存在であっても、軽んじられる存在であっても、キリストにとっては、決して小さな存在ではないということです。その人がつまずいてしまうかどうかはキリストにとって大問題なのです。この世においては迫害があるかもしれません。罪への誘惑があるかもしれません。しかし、なんとしてもつまずかないで欲しい。この過激な言葉に言い表されているのは、そのようなキリストの願いです。
先ほどの「地獄」の話にしても同じです。そこに言い表されているのは、何としてでもつまずかないで欲しいという願いなのです。いかなる人によってもつまずかされないで欲しい。いかなるものによってもつまずかされないで欲しい。いやそれだけでなく、自分の手や足や目によってさえもつまずかされないで欲しいということです。神から引き離されないで欲しい。最後まで信仰を全うして命にあずかって欲しい。最終的に神の国における完全な救いにあずかって欲しい。そのようなキリストの強烈な願いがここに言い表されているのです。そして、これこそがキリストを世に遣わされた天の父なる神の願いでもあるのです。
考えてみれば、このイエス様の言葉は、迫害の時代の教会にとってはどれほど大きな慰めであったかとも思います。現実に自分で切り落としたりえぐりだしたりするまでもなく、迫害者によって片手や片足を切り落とされたり、目をえぐりだされたりするということもあったのでしょう。あるいは場合によっては、自分の手や足や目よりも大事だと思えるものを失うことさえあったのでしょう。しかし、そこで彼らは主の言葉を聞くことができたのです。「片手になっても命にあずかる方がよい。」「片足になっても命にあずかる方がよい。」「一つの目になっても神の国に入る方がよい」と。
いや、迫害の時代だけの話ではありません。人はこの世にあっては様々なものを失いながら生きていくのでしょう。ある場合には心身の健康を失い、愛する者を失い、生き甲斐であったものを失うこともある。私たちもまた、自分の手や足や目よりも大事だと思えるものを手放さなくてはならないこともあるのでしょう。しかし、それでもなお私たちは地獄にいるのではないのです。神による救いの約束のもとにあるのです。何としてでもつまずかないで欲しい。命にあずかって欲しい。神の国における完全な救いにあずかって欲しい。そのような神の強烈な願いのもとにあるのです。
父の訓練
この神の切なる願いは、聖書においてもう一つ別の言葉をもって表現されています。本日の第二朗読、ヘブライ人への手紙が用いていたのは「訓練」という言葉でした。そちらも見ておきましょう。
この手紙は苦しみの中にあるキリスト者に宛てられた手紙です。既に迫害を経験し、さらに大きな迫害が予期される時代に書かれた手紙です。その手紙において、今日お読みしたところには次のような旧約聖書の言葉が引用されています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ12:5‐6)
これは旧約聖書の箴言3:11以下の引用です。恐らくはこの手紙を受け取ったヘブライ人ならば誰でも知っている言葉であったに違いありません。また父親が子供に対して絶対的な主権を持っていた当時の社会を考えても、この言葉は彼らの生活において非常に身近に感じられた言葉であったろうと思います。しかし、今日の私たちが読むと、ここに書かれていることは「親による虐待」を連想させるかもしれません。
しかし、私たちはここで鬼の形相をもって鞭を振るっている父親の姿を思い浮かべてしまうと、方向を誤ってしまいます。現代の私たちの感覚を持ち込むことは差し控えなくてはなりません。この箴言の言葉を引用している人は、この父が、私たちの救いのために独り子さえも惜しまず与えた神であることを知っているのです。それほどまでに私たちを愛していることを知っている人なのです。先ほど述べてきたような神の願いを知っている人なのです。どんな苦しいことがあってもつまずかないで欲しい。迫害の中にあってもつまずかないで欲しい。必ず命にあずかって欲しい。完全な救いにあずかって欲しい。そのような切なる神の願いを知っている人が引用して書いているのです。
ここに書かれていることは極めて単純なことです。苦しみがあることは神から見捨てられていることを意味しないということです。苦しみがあることは神から忌み嫌われていることを意味しないということです。むしろそこでこそ、神の子供とされていることを思ったらよいのです。そこでこそ、イエス様がなさったように、「アッバ、父よ」と祈ったらよいのです。そう、十字架への道を歩まれたイエス様が、最後までそうなさったように。
天の父は、私たちが命にあずかることを願っていてくださいます。そして、ただ最終的に命にあずかって欲しいと願われるだけでなく、この世にある生活の中において私たちに関わってくださるのです。この世にある限り、様々な形において苦難を避け得ない私たちです。しかし、私たちは無意味に苦しむことはないのです。父はそのような私たちの人生に目的をもって関わっていてくださるからです。
ヘブライ人への手紙にはこう書かれています。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:10‐11)。
そのように、天の父は罪に汚れた私たちを神の子供とし、罪から解放し、御自分の神聖にあずからせようとしていてくださいます。今、この世の生活において、既にその御業は始まっているのです。
それは平和に満ちた実を実らせるためだと書かれています。「平和」とはヘブライ語で「シャーローム」と言います。単に争いのない状態のことではありません。完全な調和と真の豊かさをもって命が満ち溢れている状態を意味します。それがこの地上においてだけでなく、永遠にもたらされる、そのような実を結ばせるために、神はこの世におけるあらゆる苦しみをさえ用いられるのです。
実際に様々な苦しみを通して、それまで絡みついて離れることなかった罪から解放されるということがある。私たちの多くは、身をもってそのことを知っているのでしょう。苦しみを通して本当の「平和」すなわち「シャーローム」が与えられるということを既に味わい始めているのでしょう。実際に天の父は教会の歴史において、迫害に代表されるような、不当な苦しみさえも「シャーローム」を与えるために用いてこられたのです。
大事なことは、主のなさることを軽んじないことです。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない」。そうです、父の鍛錬を軽んじてつぶやかないことなのです。神に背を向けてつまずかないことなのです。たとえ何が起こったとしても、いかなる人間が何をしたとしても、何を言ったとしても、それらが私たちを救いの道から引き離すことを許さないことなのです。私たちは天の父の子供たちです。天の父は私たちを愛しておられます。私たちが平和に満ちた実を結ぶことを望んでおられます。私たちが命にあずかることを願っておられます。