2023年4月30日日曜日
「自由をあえて放棄する自由」
誰から見ても善と見なされる事柄があり、誰から見ても悪と見なされる事柄があります。誰が見ても正しいことがあり、誰が見ても間違ったことがあります。そのような白黒はっきりしている事なら良いのです。実際は白黒はっきりしない灰色の事柄の方が圧倒的に多いと言えるでしょう。しかもやっかいなことに、ある人が見るとそれは白に見える。ある人が見るとそれは黒に見える。そして、その主張がぶつかり合うことになります。多くの争いはそのような灰色の事柄を巡って起こります。
正しさの主張
今日第2朗読で読まれたのは、コリントの信徒への手紙です。コリントの教会にも、そのような争いがあったようです。それは「偶像に供えられた肉」を食べてよいか否かということを巡る争いです。あるいはさらに進んで、キリスト者はそもそも肉を食べて良いのか否かという争いです。これはいわば灰色のことです。しかし、ある人にとっては白、ある人にとっては黒と見えたようです。今日の私たちから見たら滑稽なことかもしれません。しかし、当時の教会においては大問題だったのです。食べ物の話は生活に直接関わっているからです。
コリントの町には、数多くの神々の神殿がありました。そこにおいて捧げられた犠牲の動物の肉から、祭司の取り分がまず取り分けられます。そして、残った部分が払い下げられ、市場に売りに出されます。人々が口にする食肉の大部分がこのような経路を通して供給されていました。さらには当時の習慣として、神殿において、偶像に供えられた肉を食べることもあったのです。
当然のことながら、キリスト者の中には、そのような「偶像に供えられた肉」を一切拒否する人たちがいました。また、ローマの信徒への手紙14章を見ますと、先にも触れましたように、偶像にささげられた肉だけでなく、そもそも肉そのものを一切食べるべきではないと主張する人たちがいたようです。それは、肉がいかなる経路を通って食卓に着いたか判別できない事情があったからです。それらの人たちにとっては、肉を食べることは明らかに「黒」でした。
しかし、もう一方で、偶像に供えられた肉を食べることは、キリスト者にとってなんら差し支えないと考える人たちがおりました。1節に引用されているのは、そのような人たちの言葉です。彼らは言うのです。「我々は皆、知識を持っている」(1節)と。
彼らが言うその「知識」とはどのようなものでしょうか。4節に具体的に記されています。「そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」(4節)。
これは当時においても今日においてもキリスト者にとって正当な神理解です。もちろん、パウロ自身もそのような理解を持っています。だから「『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」と言っているのです。
「唯一の神以外にいかなる神もいない」。すなわち、唯一の神以外はすべて被造物であり、神としての実体を持ってはいないのです。ならば、そこに供えられた肉は偶像の影響を受けることはないし、肉そのものに何の変化も生じるわけではないでしょう。偶像に供えられようがいまいが、肉はあくまでも肉なのです。偶像礼拝そのものは神の御心に反する罪であったとしても、そこにある肉そのものが変化するわけではありません。ならばその肉を食べることに何の問題があるでしょう。
このように、「我々は皆、知識を持っている」という人々が、その知識に基づいて、偶像に供えられた肉を食べることには、ある正当性が伴っているのです。言い換えるなら、彼らには、信仰的な知識に基づいて、「偶像に捧げられた肉」を食べる「権利」もあれば「自由」もあるのです。彼らの主張は極めて正しいのです。
しかし、問題は、「正しいことを主張しているだけでよいのか」ということにあります。当然の権利と自由を主張しているだけでよいのか。信仰者としてそれでよいのか。パウロはそのことを今日の箇所において問題にしているのです。
その兄弟のためにも
そこで考えなくてはならないことは何か。必ずしも他の人は自分と同じ知識を持ってはいないということです。いや、知的な理解だけならば共有することは難しくありません。しかし、もっとやっかいなことがあります。必ずしも他の人は自分と同じように感じないということです。感じ方というのは、その人がこれまで生きてきた長い時間、その間に受けてきたものに裏打ちされていますので、必ずしも簡単には変わらないのです。
パウロは7節において具体的な例を挙げています。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らない。肉を食べるとするならば、どうしても「これは偶像に供えられた肉なのだ」ということを考えながら、ある違和感を持ちながら食べざるを得ないのです。だからこそ、そのような人は肉を食べることを避けるわけです。その人にとっては、「偶像に供えられた肉を食べること」は、どうしても「黒」であると感じるのです。
しかし、そのような人が「知識を持っている」人のいわゆる「正しい主張」に出会うとします。そして結局は「白」であると主張する人の言葉に動かされて、自分は「黒」であると感じているのに、実際には彼らと同じ行動を取るようになったらどうでしょう。偶像に供えられた肉を食べることは罪であると思いながらも、その肉を食べることになったらどうでしょう。その人は良心を痛めながら食べることになるでしょう。
そうなりますと、もはや肉を食べることが悪いことか否かというレベルの話ではなくなります。その人は「神の前に正しくないと思っていることを、あえて神に逆らって行うこと」になるのです。そのようにして片方の正しい主張が、もう一方の人をつまずかせたり、神から引き離す力として働くことにもなるのです。ですからパウロは11節では、「そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます」とまで言うのです。それは起こり得ることです。
しかし、そんなことを言われたら、「いや、それはその人の弱さの問題でしょう」と言いたくなるかもしれません。「その人がつまずいて、神様から離れて、最終的に滅びたとしても、それはその人の問題でしょう。私は間違ったことは言ってないし、それは受け止める側の問題ですよ。」――恐らく「知識を持っている」と主張する人たちは、そう言いたくもなるに違いないのです。
しかし、そこでパウロは言うのです。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」(11節)と。「知識を持っている」と主張し、自分たちは正しいことを語っていると自認している人たちが、本当に知らなくてはならなかったこと、考えなくてはならなかったことは、このことなのです。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」。
私たちは往々にしてある事柄が「白」であるか「黒」であるかを問題にします。そのことで議論もし、争いもする。そして自分が正しいことを言っていれば、何の問題もないと思っているものです。しかし、そこでいつの間にか一番大切なことを忘れられているのです。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」ということです。パウロはこの一事を大切にしたいのです。また大切にして欲しいと願っているのです。このことを大切にしないことこそ、実は「キリストに対して罪を犯すこと」(12節)だと言うのです。
確かに、パウロ自身も、自らの持っている知識からすれば、何の問題もなく肉を食べることができるのです。パウロは肉を食べる自由を主張することもできるのです。しかし、パウロはあえて「どっちでもいいではないか」と言うのです。「わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」(8節)。要するに、「食べるか食べないかによって神との関係が決まるわけじゃない」と言い切るのです。彼はそのようにして「黒」だと感じる人、「黒」だと思う人をも大切にするのです。その人をつまずかせまいとするのです。
だからパウロはそのためにあえて自分の自由を放棄することさえするのです。彼は言います。「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(13節)。ここで「わたしの兄弟」と呼んでいることが大事なのでしょう。肉を食べることを「黒」だと言う人も「わたしの兄弟」なのです。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった」からです。
今日の聖書箇所は次の言葉から始まりました。「偶像に供えられた肉について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」(1節)。そう言って、パウロは彼らの知識そのものについて認めます。しかし、大事なのはその次なのです。「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(同)。いつでも私たちが考えていなくてはならないのは、わたしは今、「造り上げる」方向へと向かっているのか、それとも壊す方向へと向かっているのか、ということです。
そして、「造り上げる」方向へと向かうために必要なのは、真に自由であることなのです。パウロが見せてくれている真の自由を持つことなのです。それは時として、「どっちでもいいではないか」と言える自由であり、自分の「正しい」知識に基づく、正当な「権利」や「自由」を、誰かのためにあえて放棄することさえできる自由なのです。
2023年4月26日水曜日
祈祷会用:ユダの手紙 1~13
ユダの手紙 1-13
今日から2回にわたってユダの手紙をお読みします。25節しかない短い手紙です。イエス様には、この世的には「ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダ」(マタイ13:55)という四人の弟がいたことが知られていまして、この著者はその一人、「ヤコブの兄弟であるユダ」です。宛先は特定の教会ではなく、「父である神に愛され、イエス・キリストに守られている召された人たちへ」となっています。回覧されるために書かれた手紙と考えられますので「公同書簡」の一つとされています。
ユダは本文に入りまして、まず「愛する人たち、わたしたちが共にあずかる救いについて書き送りたいと、ひたすら願っておりました」(3節)と書き始めます。それがユダのたっての願いでした。しかし、この手紙には救いについての説明はありません。実際には、「聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うこと」(同)の勧めが主な内容です。それは救いについて語ることよりも現実的には重要だったのです。
なぜなら、ユダにとって救いとは「共にあずかる」べきものだったからです。自分が救われればよいのではない。ユダにとっては「わたしたちが共にあずかる救い」ということが重要なのです。ユダが「愛する人たち」と語り掛けている人すべてが共に救いにあずかることが重要なのです。
ならば、時として、信仰のために戦うことが重要になってきます。なぜなら、信仰を脅かし、救いから引き離そうとする力が働いているからです。具体的な問題として、ユダは次のように語っています。「なぜなら、ある者たち、つまり、次のような裁きを受けると昔から書かれている不信心な者たちが、ひそかに紛れ込んで来て、わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え、また、唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定しているからです」(4節)。
これは既にペトロの手紙やヨハネの手紙で見てきました、後に「グノーシス」と呼ばれることになる異端の教師たちです。彼らは具体的には先週お話ししたように、巡回教師という形で入って来るのです。そして、彼らはここに書かれているように、ある意味では「ひそかに紛れ込んで」来るのです。信仰を脅かし、信仰生活を破壊するものが、明らかに危険なものとしてもたらされるならば問題はないのです。しかし、往々にしてそうではないのです。「これのどこが問題なの?」「全く問題ないではありませんか」というような形で入ってくるのです。
しかし、ここでは特に、異なる教えの内容そのものよりも、それがもたらす具体的な生活が問題とされています。「わたしたちの神の恵みをみだらな楽しみに変え」ということが起こってくるのです。「みだらな楽しみ」とは自由をはき違えた放縦な生活のことです。特にこの言葉は性的な乱れを意味します。以前にも申しましたように、グノーシスの異端の特徴は、目に見えるこの物質世界での生活の軽視でした。重要なのは目に見えない霊的なことであり、目に見える体が行うことは重要ではないのです。しかし、その教えがもたらしたのは罪を罪と認めない放縦な生活でした。しかし、それはまさに「唯一の支配者であり、わたしたちの主であるイエス・キリストを否定している」ことに他ならなかったのです。
なので、ユダはこの手紙を書いているのです。そこにおいて重要なことは「聖なる者たちに一度伝えられた信仰のために戦うこと」だからです。本当に信じるべき事柄は、キリストの受肉と贖罪において、ただ一度、決定的なこととして現されたからです。なので、それはただ一度伝えられたのであって、どのような神秘体験を通しても、どのような哲学的な思弁を通しても、最初のものとは異なるものとして二度目に伝えられることはないのです。ですからヨハネは「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい。初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがたも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう」(1ヨハネ2:24)と語っていたのです。
そのように、初めから聞いていたこと、聖なる者たちに一度伝えられた信仰を堅持することは戦いです。信仰における戦いです。そこで重要なことは聞いてきたことを思い起こすことです。ここで特に取り上げられているのは神の裁きの物語です。「あなたがたは万事心得ていますが、思い出してほしい」(5節)と言って、ユダは神の裁きが現された三つの物語を提示します。
一つ目はエジプトから救い出された神の民の物語です。彼らは主の一方的な恵みによってエジプトから救われましたが、皆が約束の地に入ったわけではありませんでした。主は「信じなかった者たちを滅ぼされたのです。」このことについてはパウロも1コリント10章で触れ、次のように語っていました。「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」(1コリント10:11-12)。
そして、二つ目は堕落した天使たちに対する裁きです。「一方、自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められました。」これは旧約聖書の中に記されている物語ではありませんが、第一エノク書というユダヤ人の書物を背景とする、読者にもなじみのある話だったものと思われます。そして、重要なのはこれが三つ目の「ソドムやゴモラ、またその周辺の町」の裁きと共に語られているということです。天使たちに対する裁きも基本的には旧約聖書に記されているソドムやゴモラに対する裁きと変わらないということです。その裁きについては次のように語られているのです。「ソドムやゴモラ、またその周辺の町は、この天使たちと同じく、みだらな行いにふけり、不自然な肉の欲の満足を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受け、見せしめにされています。」
それらの物語を「思い出してほしい」とユダは言います。そこで求められているのは神への畏れです。「一度伝えられた信仰のために戦うこと」において決定的に重要であるのは、正しい意味での「神への畏れ」なのです。
神の裁きの物語を思い起こし、健全な神への畏れを持つならば、神が何を忌み嫌われ、何が神の正しい裁きによって滅びをもたらされるかが見えてくるはずなのです。そこでユダは激しい言葉で異端の教師たちを断罪します。8節以下を繰り返し読んでみてください。こんなことまで言ってよいのかと、いささか抵抗を覚えるほどです。
しかし、ユダがそこまで語らざるを得ないのは、実際にはそう見えないからでもあります。以前も申しましたように、一般的には異端の教師たちというのは非常に魅力的に見えたはずなのです。ユダは彼らを「夢想家たち」と呼びます。そう訳されると否定的な言葉に聞こえますが、原語においてはもともと神秘的な霊的な幻を見る人たちという意味合いです。彼らは自らの体験に基づいて神秘を語るのです。また、彼らは当時の哲学に精通していた人々であり、彼らの思想は広範な哲学的な背景を持っているのです。その彼らが既存の道徳に捕らわれない一見非常に自由な生活をしているならば、それはまさに宗教的に与えられた自由な姿に見えるのでしょう。しかし、正しい畏れをもって彼らのありのままの姿を見るならば、それは身を汚し、神の権威を認めない姿であり、ただ本能のままに生き、そして滅びていく、分別のない動物のような姿でしかないのです。
もちろん、ユダ自身は裁きを神にゆだねるべきことを弁えているのです。大天使ミカエルが悪魔と言い争った話は、これもまた旧約聖書に出て来るものではなく、「モーセの昇天」というユダヤ人の書物に由来する、よく知られていた話のようです。そこで重要なのは、大天使ミカエルは「主がお前を懲らしめてくださるように」と言ったということです。だから、ユダ自身も最終的に裁きは神にゆだねているのです。しかし、それでもなお激しい言葉で異端の教師たちを断罪するのは、彼らが「ひそかに紛れ込んで」来ることの恐ろしさを知っているからです。繰り返しますが、信仰を脅かし、信仰生活を破壊するものが、明らかに危険なものとしてもたらされるならば問題はないのです。実際にはそうではない。だから、この手紙を読む人々にも警戒して欲しいのです。それは私たちにとっても必要なことなのでしょう。
(祈り)
2023年4月23日日曜日
「無駄にならない労苦」
コリントの信徒への手紙一 15:50-58
主に結ばれているならば
「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(1コリント15:58)。本日の第2朗読において読まれた言葉です。
私たちはこのような言葉に励まされます。力づけられます。しかし、このような言葉が手紙に書かれているのは、これが必ずしも自明なことではないからとも言えます。普通に考えれば無駄に潰えたとしか思えない苦労はいくらでもあるからです。意味があるとは思えない苦しみを味わうことは、この世に生きている限り、いくらでもあるのでしょう。
ですから、時として「動かされないようにしっかり立つ」ということは困難になります。重荷を背負おうにも、その足元が揺らぐのです。主に仕えることですら、足元が揺らぐのです。しっかり立てなくなる。こんなことをして何になるのか。いったい何の意味があるのか、と。イザヤ書にもこんな言葉が記されています。「わたしは思った、わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と」(イザヤ49:4)。そのようにただ空しく「疲れた、疲れ果てた」とつぶやくことは誰にでもあることなのでしょう。
だからこそ、パウロは書いているのです。そのような人間の弱さも、しばしば味わう人間の悲哀も重々承知の上で書いているのです。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。
「知っているはずです」。パウロは何を思って「知っているはずです」と言っているのでしょう。それはキリストです。「主に結ばれているならば」と彼は言うのです。また、この直前にパウロはこう言っているのです。「わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」(同57節)。そのように、パウロが思いを向けているのはキリストなのです。さらに言うならば、十字架にかけられて死んで三日目に復活されたキリストなのです。そこで私たちもまた、十字架にかけられて死んで三日目に復活されたキリストに思いを向けたいと思います。
霊魂の不滅ではなく
今日の福音書朗読では、復活されたキリストが弟子たちに現れたことを伝えている箇所が読まれました。「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた」(36節)。明らかにドアをノックして入ってきたのではありません。彼らの真ん中に忽然と現れたという書き方です。ですから皆は亡霊を見ているのだと思いました。
するとイエス様はこう言われたのです。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」(38‐39節)。
このような言葉は今日の私たちには、ある意味ではとても飲み込みにくい言葉であると言えます。しかも、この後には、復活したキリストが焼き魚を食べたという話が続きます。そこまでいくと滑稽にさえ思えてくるかもしれません。しかし、この言葉が受け入れ難いとするならば、それは現代人にとってだけでなく、当時のギリシア・ローマ世界の人々にとってもそうだったのです。これがイエスの亡霊であったならば、ずっと受け入れやすかったのです。イエス様の肉体は死んでも霊魂は生き続けていましたという話なら、ずっと受け入れやすかったし、伝えやすかったに違いないのです。
しかし、どれほど奇妙に思われようが、滑稽に思われようが、教会はそれが単なる霊魂の不滅ではなかったことにこだわったのです。キリストは体をもって復活したのだということにこだわったのです。キリストの《体の復活》を伝えるために、弟子たちはこのようなイエス様の言葉をあえて伝えたのです。それはなぜなのか。「霊魂の不滅」と「体の復活」では意味するところが決定的に異なるからです。《体の復活》でしか表現できない信仰的な内容があるからなのです。
そこで重要なのは「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」という言葉です。私たちは普通こういうことは言いません。自分であることを示すのには、「わたしの顔を見なさい」と言うのでしょう。しかし、イエス様は「手や足を見なさい」と言われた。キリストの手や足には釘の跡があるからです。それは十字架上で死んだしるしです。つまり、キリストの体の復活は、《十字架で死んだ体》の復活なのです。十字架で一生を終えた体の復活なのです。
十字架上での最期。それは人の目から見るならば、全てが無に帰した最期であったと言えます。それは全ての愛の労苦も報われることなく、無駄に潰えてしまったとしか見えない最期でした。しかし、十字架の死は終わりではありませんでした。そのような一生を生きたその体を、計り知れない苦しみを背負って生き、そして死んだその体を、まさに《その体を》神は復活させてくださったのです。栄光の姿によみがえらせてくださったのです。
そのようにして人ではなく神が報いてくださいました。十字架をもって終わったその一生も、神が生かしてくださいました。その体によるすべての働きも、愛の労苦も、十字架上の苦しみも、すべて、神が生かしてくださいました。「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」。そこには釘跡がありました。しかし、その体は復活せられ、栄光の姿に変えられていたのです。その姿は、十字架における苦しみも死でさえも、決して無駄ではなかったことをはっきりと物語っていたのです。
罪の贖いにより
しかし、私たちは単純にキリストと私たちを重ね合わせて考えることができないことをも知っています。キリストに起こったことが単純に私たちの希望とはなりません。キリストと私たちは違うからです。決定的な違いは、キリストには罪がなかったけれど、私たちは罪人であるという事実です。キリストは神への完全なる従順をもって生きられた御方であるけれど、私たちはしばしば心においても行いにおいても神に背いて生きてきた者だ、ということです。神が復活させたキリストの体は苦難を負った体ではありましたが罪のない体でした。私たちの体は罪を犯してきた体です。神がキリストを復活させたからと言って、どうして神が罪人である私たちをも復活させてくださると言えるでしょう。
先ほど、キリストについて「人ではなく神が報いてくださった」と言いました。しかし、「神が報いてくださる」という言葉は、決して単純ではありません。もし、キリストにではなく、罪ある私たちの一生に神が正しく「報いてくださる」ならばどうなるでしょう。むしろそれは私たちにとって救いではなく、裁きと滅びしか意味しないでしょう。このように、キリストの復活は、単純に私たちの希望とはならないのです。
しかし、私たちはここでもう一度、キリストの復活が十字架にかけられて死んだ体の復活であったことを思い起こさねばなりません。キリストは復活して、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」と言われたのです。十字架の釘の跡を示して、「まさしくわたしだ」と言われたのです。あの釘の跡はイエス様が負った苦しみの傷跡ですが、それはただの苦しみではなく、私たちの罪の贖いのために苦しみだったのです。あの十字架の死は、メシアとして私たちの罪を贖うための死に他ならないのです。
罪を贖うために私たちに苦しみを背負われたあの御方の体を、あの釘の跡と共に、神は復活させられました。神はキリストの苦難と死を、罪の贖いの犠牲として完全に受け入れてくださったということです。ある人は「キリスト者にとって、復活は十字架におけるイエスのわざに貼られた神の証印なのである」と表現しました。このように、キリストの体の復活が示しているのは、キリストによる罪の贖いの御業が完全に有効であるという事実なのです。
ですから、復活されたキリスト御自身、ただ御自分の苦難について語られたのではなくて、罪の赦しについて語られたのです。傷跡のある手をもって魚を食べられた主は、さらにこう続けられたのでした。「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』」(44‐48節)。
そのとおり、罪の赦しを得させる悔い改めが、イエス・キリストの名によって宣べ伝えられました。パウロにも宣べ伝えられました。そして、パウロを通してコリントの人たちにも宣べ伝えられました。パウロは共に罪を赦された者として、キリストの復活を私たちすべての者の復活の希望として語るのです。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(1コリント15:20)。キリストの復活は「初穂」なのです。その復活に私たちの復活が続くのです。
キリストにおいて十字架が終わりでなかったように、その先に栄光の姿があったように、私たちにおいてもこの体をもって生きた一生は死をもって終わるのではありません。神が栄光の姿によみがえらせてくださいます。救いが完成した姿に復活させてくださいます。すべては神によって生かされるのです。この体をもって生きた一生における、何もかもが生かされるのです。それゆえに私たちにもこう語られているのです。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」
2023年4月19日水曜日
祈祷会用:ヨハネの手紙三 1~15
ヨハネの手紙三 1-15
これまで度々異端の教師たちの問題が語られてきました。第2の手紙においてははっきりと「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません」(2ヨハネ10)と書かれています。これは個人の関係の話ではなくて、教会に受け入れてはならない、という話であると先週説明しました。このように初期の教会にとって、巡回する異端の教師の存在は大きな問題をもたらしていたのです。
しかし、もちろん巡回する教師のすべてが異端であるわけではありません。むしろ誕生してまだ数十年しか経っていない教会にとって、巡回教師や巡回する使徒たちの働きは大きな意味をもっていたのです。使徒言行録にも見られるように、正しい信仰を教える人々が旅をして回っていたからこそ、誕生して間もない諸教会も信仰における一致を保つことができたのです。今日お読みした手紙には、そんな巡回教師の制度が話題になっています。
この手紙はガイオという一信徒に宛てた手紙です。4節までは挨拶です。本文に入りまして最初に「愛する者よ、あなたは兄弟たち、それも、よそから来た人たちのために誠意をもって尽くそうとしています」(5節)と書かれています。この「よそから来た人たち」というのが巡回する教師たちです。彼らについては7節で「御名のために旅に出た人」と呼ばれています。
巡回教師たちの生活は、受け入れるキリスト者の善意によってのみ支えられていました。彼らについて「異邦人からは何ももらっていません」とはそういうことです。この場合、「異邦人」というのは非キリスト者のことです。彼らは、世俗的なところからのサポートや報酬はありません。ただ教会によってのみ支えられるのです。そのような巡回教師を支えていた人々のひとりがこのガイオでした。
教会がしっかりと真理に立つためにこのような巡回教師の役割がいかに重要であるかを知っているからこそ、ヨハネは「だから、わたしたちはこのような人たちを助けるべきです。そうすれば真理のために共に働く者となるのです」と言っているのです。人は皆、旅に出ることができるわけではありません。皆が伝道者になるわけではありません。皆が宣教師になるわけではありません。しかし、彼らを支えることによって、「真理のために共に働く者となる」というのです。
わたしの父は、若かりし日に神学校に行って伝道者になるべきか否かを迷って、本気で主の導きを祈り求めた人でした。しかし、神様の応えは「牧師になりなさい」ではありませんでした。父が導かれたのは商売の道でした。彼は20代で脱サラし事業を始めました。大いに稼ぎ、大いに献げ、教会を支え、伝道者を支える。それが神から与えられた導きでした。父は確かにそのように生きた人でした。人はそのように真理のために共に働く者となれることを身近で見ることができたことは、わたしにとっても幸いなことでした。またそのことを通して、伝道者が人から支えられながら働くことの意味や大切さを学んだようにも思います。
●
さて、そのように巡回教師たちに誠意をもって尽くしていたガイオがいる一方で、巡回教師の存在を嫌う人たちもいたようです。そのような一人が今日の箇所に名前の出て来るディオトレフェスです。
ここに書かれているのは、いつの時代にも起こり得る教会の事情です。教会がまだ誕生したばかりで小さな群れで礼拝を守っているときには、使徒たちや巡回教師たちが訪問して来てくれるということは大きな喜びであり、励ましであったに違いありません。また実際に経済的にも小さな群れだけではやっていけなかったでしょうし、真理の教えについてだけでなく、実際的な伝道の働きを進めるにあたっても、他の教会の支えが必要であったに違いありません。
しかし、そのような教会が成長し、教える賜物や預言の賜物など豊かに与えられた人たちがその群れの中に存在するようになり、人数も増え、経済的にも豊かになってきたらどうでしょう。自分たちは自分たちの群れだけでやっていける、と思うのではないでしょうか。むしろ他の教会にかかわると力が削がれる。巡回教師などがやってくるとお世話しなくてはならない。負担も増える。そんなふうに思うようになることは考えられるでしょう。
いやそれだけではありません。巡回教師は教えに来るわけです。使徒たちもある権威をもって指導しに来るのです。すると自分たちの群れに干渉されるのが煩わしくなるかもしれません。自分たちは自分たちのやり方でやりたい。教えにしても、自分たちが信じていることについて、とやかく言われたくない。そう思うようになる。そのような段階になると、このようなディオトレフェスのような人が現れてくるのです。
ディオトレフェスは、ガイオがいた教会において有力な人だったようです。彼は恐らく教会の自立を主張したのです。彼は異端ではありません。間違った教えを伝えているわけでもありません。しかし、使徒たちの権威のもとにあることを拒否したのです。ディオトレフェスがどれほど自分自身で意識していたかは別として、結果的には彼自身が使徒たちに代わる権威となることを望んでいたことになるのです。
具体的に彼はどうしたでしょうか。教会には他からの指導を受けるべきだと主張する人たちもいたのです。巡回教師を受け入れて支えようとするガイオのような人もいたのです。しかし、ディオトレフェスはそのような巡回教師の活動を支えることを邪魔し、受け入れようとする人たちを追い出しはじめたのです。「彼は、悪意に満ちた言葉でわたしたちをそしるばかりか、兄弟たちを受け入れず、受け入れようとする人たちの邪魔をし、教会から追い出しています」(10節)。
一つの地域教会が他の教会との連帯を絶ち切り、他の権威を拒否して自分たちだけで孤立してやっていこうとすることが、どれほど危険なことか分かりますでしょうか。今は間違った教えが入り込んでいないとしても、もし入り込んできたならば教会全体が異端となってしまったり、教会全体が罪を犯していながらもはや悔い改めることができない、という状態が起こり得るのです。
さて、教会にこのようなディオトレフェスが現れてきたときに一番大事なことは何だと思いますか。それは「出ていかない」ということなのです。ディオトレフェスは自分に反対する人たちを追い出そうとしています。確かに出て行けばこのやっかいなディオトレフェスともかかわらないですむでしょう。そして、平穏な信仰生活を送ることができるかもしれません。しかし、それでもなお出て行かない人たちが必要なのです。
明らかにヨハネは、ガイオにそのことを期待しているのです。「愛する者よ、悪いことではなく、善いことを見倣ってください。」あくまでも巡回教師を受け入れる者であって欲しい。そのような者として教会に残って欲しいということです。
具体的にヨハネはある巡回教師を送ろうとしているようです。12節に出て来るデメテリオがその人です。ヨハネは彼について太鼓判を押して言います。「デメテリオについては、あらゆる人と真理そのものの証しがあります」と。デメテリオが入ってくることにディオトレフェスは反対したり妨害したりすることが予想されます。しかし、ガイオがいわば受け入れる中心になることが期待されているのです。そのような形において、この群れはディオトレフェスによってもたらされる危機的状況から守られることになるのです。
さて、最後に頌栄教会について申し上げましょう。頌栄教会は日本基督教団に属しています。他の教会とのつながりにあります。教団の教憲・教規、つまり教団の規則からは外れては動けないようになっているのです。牧師は頌栄教会に属するのではなく教団に属することになっています。わたしは厳密に言えば、頌栄教会の人間ではなく、日本基督教団の人間なのです。その日本基督教団の人間を、頌栄教会が招聘するようになっているのです。さて、これらのことがどれほど重要な意味を持っているのか、ぜひ考えてみてください。
2023年4月16日日曜日
「復活された主と共に」
ルカによる福音書 24:13-35
エマオへと向かう二人の弟子たち
二人の弟子が、エルサレムから11キロほど離れたエマオという村に向かって歩いていました。もうエルサレムに用はありません。留まる理由もありません。重い心を抱きつつ、彼らはエルサレムを後にしました。
こんな風にエルサレムを去ることになろうとは、一週間前には夢にも思いませんでした。そう、つい一週間前の日曜日、イエス様は歓呼の声に包まれて、エルサレムに入城されたのです。オリーブ山からエルサレムへと向かう道は、人々の熱狂と興奮で沸き返っていました。人々は自分の服を道に敷いて、ロバに乗ったイエス様を迎えました。夥しい群衆と弟子の群れは、声高らかに神を賛美していました。「主の名によって来られる方、王に、祝福があるように」と。
それはまさに、王の入城でした。偉大なる預言者であり王である御方、イスラエルの待ち望んでいたメシアの入城に他なりませんでした。人々の胸は期待と興奮ではち切れんばかりでした。あの二人もまた、イエスの弟子として、誇らしかったに違いない。「この方こそイスラエルを解放してくださる!」彼らの心は、まさに熱く燃え上がっていたのです。
つい一週間前のことです。しかし、今や、すべては過ぎ去ってしまいました。興奮が過ぎ去ってしまえば、残るのは虚しさだけです。《あれはいったい何だったのだろう。燃え上がったあの炎は、いったい何だったのだろう》。いずれにせよ、もうそれはどうでも良いことでした。イエスは殺されてしまいました。すべては過ぎ去りました。もはやエルサレムに留まる理由もありません。重い心を抱きつつ、彼らはエルサレムを後にしたのです。
彼らは「この一切の出来事」について話し合っていました。それはあまりにも辛く悲しい、またあまりにも悔しいできごとでした。しかし、その痛みを分かち合うことのできる仲間はいたのです。このような時に語り合える誰かが一緒にいるということは、それだけでも有り難いことです。
しかし、ただ人と人とが語り合っているだけならば、先は見えているとも言えます。「二人の弟子が、エマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。」その先にどういう話が続き得るか、私たちにも分かります。「そうこうするうちに、村に着いた。彼らは悲しみながらも、元の生活に戻っていきました」。――これで終わりです。それだけの話です。
ところが、今日お読みした話はそのような展開にはなっていません。まったく別の方向に進んでいきました。どうしてか。もう一人加わったからです。そこにこそ、私たちが今日教会において、この話を読んでいる意味があるのです。
共に歩んでくださるキリスト
15節を御覧ください。「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」(15節)。イエス様が静かに近づいて来られました。そして、彼らと共に歩まれました。二人の弟子たちは、その御方が復活されたキリストであることに気づきません。なぜでしょうか。ただ「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」とだけ説明されています。
彼らは気づかなかった。知らなかった。しかし、既にキリストは共に歩んでくださっていました。そして、既に主は共にいて、彼らに働きかけておられたのです。そして、主は尋ねられました。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」。彼らは暗い顔をして立ち止まりました。クレオパが答えます。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか」。
イエス様が「どんなことですか」と問われますと、彼は語り始めました。その御方は力ある預言者であったこと。彼らは「あの方こそイスラエルを解放してくださる」と望みをかけていたこと。しかし、おの方は十字架につけられ殺されてしまったこと。しかも、その遺体が無くなってしまったこと。暗い顔をして立ち止まった彼らは、これらのことを語りました。
イエス様はそれを聞いてどうされたでしょう。暗い顔をしていた彼らを慰めてくださったのでしょうか。いいえ、イエス様はこう言われたのです。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(25‐26節)。
イエス様は彼らの不信仰を嘆かれます。しかし、それだけではありませんでした。彼らが信じられるように、語り始められるのです。こう書かれています。「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(27節)。聖書を解き明かしてくださった。聖書が分かるようにしてくださった。これがイエス様のされたことでした。一緒に歩いてくださっているイエス様がしてくださったことでした。
やがて、彼らは目指す村に近づきました。二人はなおも先へ行こうとされるイエスを引き止めて言います。「一緒にお泊まりください」。そこでイエス様は共に泊まるため家に入られました。そして、次のように書かれています。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)。この言葉で何を思い出しますか。最後の晩餐でしょう。丁度、あの最後の晩餐で起こったことが、その小さなテーブルにおいても起こりました。すると、突然、二人の目が開けたのです。
「すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)と書かれている。この描写は面白いと思います。目が開け、「見えるようになった」のではないのです。その姿は見えなくなった。私たちが今、復活したキリストの姿が見えないように、彼らにもイエス様は見えなくなりました。しかし、それで良かったのです。もっと重要なことがあるからです。ここまでイエス様が共に歩んでくださっていたのだ、という事実に気づいたということです。彼らが気づく前から主が共にいてくださった。そのことに気づいた。目が開かれて「見えた」のはそのことでした。
そして、彼らはもう一つのことに気づきます。死んでいたような彼らの心に、いつしか火が燃え始めていることに気づいたのです。その炎は、彼らがかつて興奮し熱狂していた時に燃えていた炎とは違います。大きく燃え上がっていたあの炎は消えてしまいました。しかし、今、それとは異なる、キリストが与えてくださった炎が、静かに、しかし確かに、彼の内に燃え初めているのです。
彼らは言いました。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。彼らの内に燃えている炎は、他のどこからでもない、キリストが聖書を解き明かしてくださったところから来たことに彼らは気づいたのです。
一緒にお泊りください
さて、最初のようにただ二人だけで語り合うのではない、そこにもう一人、キリストが加わってくださる。そして、聖書を悟らせてくださる。――皆さん、それこそが私たちに与えられている信仰の経験なのです。
物語の最初はこうでした。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」。しかし、同じ話し合うのでも、一人加わった後ではこうなっています。「二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」(32節)。同じ語り合うのでも、大きな違いではありませんか。
キリストは今も聖書を解き明かしてくださいます。キリストは今も十字架と復活の意味を悟らせてくださいます。キリストは今もパンと杯を分け与えてくださいます。そして、私たちの心に、この世の熱狂や興奮ではない、本当の命の炎を与えてくださるのです。本当の意味で、「燃える心」を与えてくださるのです。そして、そこに、燃える心を分かち合い、主の恵みを語り合う交わりが生まれるのです。
しかし、そのためにも大事な一つのことがあります。28節以下を御覧ください。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」(28‐29節)。
彼らの内に起こった全ての良きことは、すべてイエス様の一方的な恵みの御業でした。しかし、その恵みを経験するために、彼らが行った唯一のことがありました。それは彼らがキリストを引き止めた、ということです。「一緒にお泊まりください。」これは復活のキリストに対する祈りです。祈りについて多くを語るルカが、その福音書の最後に記したキリストへの祈りです。キリストと共にいることを願い求める祈りです。
私たちもまた、キリストと共にいること願います。私たちが毎週、こうして礼拝に集うこと、聖餐卓の周りに集まるということは、まさにこの祈りの具体的な表現であると言えるでしょう。今日も私たちはここにおります。イエス様と共に食卓に着いた彼らが味わった幸いに、私たちもまたあずからせていただきましょう。
(祈り)
2023年4月12日水曜日
祈祷会用:ヨハネの手紙二
ヨハネの手紙二
今日はヨハネの二つ目の手紙をお読みします。とても短い手紙です。個人的な私信とも取れるような手紙です。しかも、内容的には第一の手紙に書かれていたこととほとんど重複しています。このような手紙が聖書に含まれているのは不思議なことです。しかし、逆に言えば、ここで扱われている事柄が当時の教会においていかに深刻なことだったかを示しているとも言えるでしょう。すなわち異端の問題です。教会が真理からそれてしまうという問題です。ですから、何度でも同じことを繰り返さなくてはならなかったし、教会の人はそれを心に刻まなくてはならなかったということです。
個人的な私信とも取れると申しましたが、宛名は明記されていません。「選ばれた婦人とその子たち」としか書かれていません。特定の婦人に対する手紙なら名前を書いて良いはずなので、古くから「婦人(キュリア)」というのは固有名詞だろうとも言われてきました。
しかし、もう一つの解釈がありまして、この婦人とは教会を指し、「その子たち」は教会員を指すというものです。教会(エクレシア)は女性名詞ですから。旧約聖書に「シオンの子ら」という表現が出て来まして、ちょうどそれに当たるわけです。内容からすると、それが正しいのではないかとも思います。個人とその子供たちと考えると、「真理を知っている人はすべて、あなたがたを愛しています」というのも変な話ですから。むしろ「真理を知っている人は教会を愛する」と語っているのでしょう。
いずれにしても、ここで「真理」と「愛」とが結びつけられていることに注目することが大事です。1節の前半もそうです。「わたしは、あなたがたを真に愛しています」と書かれていますが、これは直訳すると「あなたがたを真理において愛しています」となるのです。また、3節にもこう書かれていますでしょう。「父である神と、その父の御子イエス・キリストからの恵みと憐れみと平和は、真理と愛のうちにわたしたちと共にあります」(3節)。ここにも真理と愛が一緒に出て来ます。
4節には、「あなたの子供たちの中に、わたしたちが御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる人がいるのを知って、大変うれしく思いました」とあります。「掟どおりに、真理に歩んでいる」のです。その「掟どおり」ってどういうことですか。次にこう書かれています。「さて、婦人よ、あなたにお願いしたいことがあります。わたしが書くのは新しい掟ではなく、初めからわたしたちが持っていた掟、つまり互いに愛し合うということです」(5節)。そのような掟どおりに真理に歩むのです。そのように、ここでも真理と愛とが結びつけられていますでしょう。
そのように、今日与えられているメッセージは、真理と愛とをきちんと結びつけるということなのです。切り離してはいけない。真理とは、この場合、正しい信仰のことです。もう一方で異端がいるわけですから。間違った教えに行かないで、正しい信仰に踏みとどまること。それはとても大事なことだったわけです。しかし、ヨハネが喜んでいるのは、彼らが「御父から受けた掟どおりに、真理に歩んでいる」ということだったのです。つまり教会を愛し、互いに愛し合うということにおいて、確かに正しい信仰が形を取って現されているということです。
逆に言えば、「真理に歩んでいる」と言いながら、「御父から受けた掟どおり」になっていなかったら、どこか変だと思わなくてはならない、ということです。「わたしは正しい信仰を持っている。わたしは真理を知っている。わたしは神を知っているし、わたしはキリストとの交わりがある」と言いながら、教会を愛することがない、互いに愛することもない、ただ神と自分との関係しか考えられないとしたら、それはどこかおかしい、ということです。愛から切り離された真理はあり得ないということです。
どうして、そのようなことが語られなくてはならないのか。どうしてここで真理だけでなく「御父から受けた掟」が出てこなくてはならないのか。ヨハネはこう言っています。「このように書くのは、人を惑わす者が大勢世に出て来たからです。彼らは、イエス・キリストが肉となって来られたことを公に言い表そうとはしません。こういう者は人を惑わす者、反キリストです」(7節)。さて、これまで繰り返し出て来たグノーシスの異端の話が出て来ました。彼らはイエス・キリストの受肉を否定する人たちだったことは既に述べました。さらに言えば、肉を取ったキリストによって贖罪がなされたことをも否定していた人たちです。
既に見てきたように、グノーシスの異端には哲学的に非常に層が厚いバックグラウンドがあるのです。それはちょっと何かを語っただけで否定できるようなものではないのです。また異端の人たちには、それなりの神秘的な体験もあるのです。それもまた、簡単に否定できることではないのです。ですから単にイエス・キリストの受肉と贖罪を語る信仰告白の言葉をオウム返しに繰り返しているぐらいでは、簡単に足下をすくわれてしまうのです。どうして「受肉」なのか。どうして「贖罪」なのか。なぜ神は人とならねばならなかったのかをしっかりと捉え、その理解が現実の信仰生活を作り出しているのでなければならない。そこでキーワードとなるのが「愛」なのです。
神はただ私たちにキリストを通して真理を啓示されたのではないのです。そうではなくて、神は私たちを「愛してくださった」のです。愛は観念ではありません。単なる感情でもありません。愛は具体的な行為です。具体的ですから「体」が必要なのです。ですから、神は御子に「体」を取らせたのです。神が具体的に愛するためです。それが極まるところが十字架なのです。それを第一の手紙ではこう表現していましたでしょう。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:9‐10)。
ゆえに「真理」というのは、単に観念的な「正しい信仰」ではないのです。真理に歩むというのは、ただ正しい信仰箇条を受け入れているということではないのです。真理とは神が肉となって体をもって現してくださった具体的な愛なのです。ですからイエス様は「わたしは真理を教えてあげよう」と言わないで、「わたしが真理だ」と言ったのです。
この受肉と贖罪の信仰を真理として受け取ったならば、当然のことながら、私たちもまた体を持っているということが極めて重大なこととなるではありませんか。具体的な愛を知ったならば、グノーシスの異端のように、「目に見える物や目に見える世界は意味がない。この肉体は意味がない。肉体が何を行うかは大して重要なことではない」とは言わないはずなのです。この体は愛するための体だということが分かるでしょう。ですから、先ほど引用した1ヨハネの言葉はこう続くのです。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(1ヨハネ4:11)。これが既に述べられている「御父から受けた掟」です。その掟は、神の具体的な愛を通して与えられたのです。この「掟どおりに真理に歩む」ことが重要なのです。
そしてさらに、「この教えを携えずにあなたがたのところに来る者は、家に入れてはなりません。挨拶してもなりません」(10節)と書かれています。家に入れない。挨拶もしない。それは愛にもとる行為ではありませんか。いいえ、それほど単純な話ではありません。というのも、この場合、「あなたがたのところに来る者」とは一般的な人の話ではなくて伝道者の話であり、「家に入れる」とか「挨拶する」とは教会に受け入れたり、仲間であることを表明したりする話だからです。真理をないがしろにして異端を教会に受け入れることが本当の意味で愛にならないことは明らかでしょう。むしろそれは異端の働きに加わってしまうことになるのですよ、ということを言っているのです。愛から切り離された真理はない。しかし、真理から切り離された愛もないのです。
2023年4月9日日曜日
「主は生きておられる」
ルカによる福音書 24:1‐12
なぜ死者の中に捜すのか
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」これが、あの最初のイースターの朝、主の墓に行った婦人たちに与えられたメッセージでした。あれから二千年近く経ったこのイースターにおいて、同じ言葉を私たちは耳にしています。
「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。――実際には、あの朝、あの婦人たちは、「生きておられる方」を捜してはいませんでした。彼らは死者に会いに行ったのです。死んでしまったイエスに会いに行ったのです。その手にあったのは香料と香油でした。それはイエスの「遺体」に塗るためのものでした。
イエス様が処刑された日、それは金曜日でした。翌日は土曜日、すなわちユダヤ人の安息日です。しかも、その安息日は特別な「過越の安息日」でした。なんとか、安息日に入る前に埋葬を済ませておかなくてはなりませんでした。ユダヤ人の一日は日没と共に始まります。イエス様の埋葬は急を要しました。アリマタヤのヨセフという人が遺体の引き取りを願い出ました。岩に掘られた墓に主の遺体を葬ることになりました。亜麻布で包み、とりあえず葬りだけを済ませましたが、油や香料を塗る時間はありませんでした。
婦人たちはその墓の位置を確認し、遺体が納められるのを確認しました。そして、安息日が終わる前に香料と香油を準備しました(23:56)。安息日が明けた翌朝早くに墓に行って香料を塗り、遺体の処置をするためでした。彼らはイエスの遺体について最善のことをしたいと思っていたのです。
主の遺体に香料を塗り、ともかく遺体について為すべきことをした後に、いったいどうして生きていったらよいのか、わからなかったに違いありません。しかし、ともかく生きていかなくてはならないならば、せめてイエス様の思い出と共に生きていくしかないでしょう。せめて心に刻まれたイエスの言葉と共に生きていくしかありません。せめてイエス様に倣って、その教えに従って生きていこうと考えていたのかもしれません。
その生前の教えが今日に生きる人々になお大きな影響を及ぼしているという偉大な歴史上の人物はいくらでもいます。彼らは死んでも、今なお語っていると言える。ナザレのイエスもまたしばしばそのような一人として挙げられます。その偉大なる高尚な生涯。その比類無き教え。それらは代々の人々の心を動かし、数多くの人生を変えてきたと言えます。しかし、それだけならばやはりイエスは「死者」の一人に過ぎません。 もし教会の伝えているのが「過去の人ナザレのイエス」の教えや生き様でしかないならば、教会のしていることは「死んだ方」に会いに行った、あの日の婦人たちと変わりません。
しかし、そこで婦人たちは「なぜ、《生きておられる方》を死者の中に捜すのか」と問われたのです。あの御方は生きておられる御方なのだから、死者の中にはいないと言うのです。そして、この言葉を教会は今日に至るまで伝えてきたのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」。教会が「イエスは生きておられる」と言う時、既にお話ししてきたように、それは単に教えが生き続けているとか、心の中にイエスの生き様が生き続けておられるという意味ではないのです。
あの方は、ここにはおられない
御使いたちは言いました。「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」イエス様は「ここにはおられない」――「墓の中にいない」とは「死の中に閉じこめられていない」ということです。イエス様は死に支配されてはいないということです。
象徴的な描写が福音書の中にあります。「見ると、石が墓のわきに転がしてあり」(2節)と書かれている。マルコによる福音書では、わざわざ「その石は非常に大きかった」と書かれています。それは人の力によってはどうすることもできない死という現実を象徴していると言えるでしょう。しかし、それが転がされたというのです。誰によってでしょうか。「転がしてあった」というのですから、それは墓に行った人によってではありません。神によってです。
神によって死の扉は開かれました。もはやキリストは死によって捕らえられてはいない。死に支配されていない。これがまさしく聖書の言っている「生きている方」という言葉の意味なのです。本当の意味で「生きている」とは「死に支配されていない」ということなのです。
そうしますと、聖書がここで言っている「生きている」という言葉と、私たちが通常使う「生きている」という言葉は、意味が全く違うということが分かります。確かに私たちもまた、自分を指して「わたしは生きている」と言います。しかし、正確に言うならば、私たちは「生きている者」ではなくて、「死につつある者(The dying)」なのです。死につつあるのは重病の人だけではありません。高齢者だけではありません。元気な若者も同じです。確実に死に向かっているという点では同じです。
私たちの人生は生まれた時から確実に死によって支配されています。生まれた時から死に向かって歩んでいるのです。もちろんその事実を忘れていることはできます。あたかも死なない者であるかのように生きていることは可能です。しかし、最後までそのように生き続けることはできません。
私が子供の頃、確かに自分がいつか必ず死ぬのだということは全くリアリティのない話でした。しかし、やがて十代半ばぐらいになりますと、自分の人生が後戻りすることのできないものとして、終わりに向かっていることが実感となりました。つまり人生にはやり直しが利かないことがあるという事実と向き合わざるを得なくなったのです。そこで一つ一つ何かを諦めながら生きていくことになります。取り返しがつかないこともあるのだと知り始めます。人生は後戻りすることなく終わりへと向かっている。その事実を実感としても否定できなくなりました。
そうしているうちに、やがて身近な人の死に接することが多くなってまいります。私の親友が交通事故で死にました。机を並べていた友が薬を大量に飲んで亡くなりました。私が心から尊敬していた人が、脳腫瘍のために亡くなりました。ある日、私が外からたまたま家に電話を入れると、思いがけなく祖父が息を引き取っていました。年を追うごとに、死は極めて身近な現実となっていきました。
確かに人は死ぬまでは「生きている」とは言えます。しかし、繰り返しますが、実際には「生きている」時から既に死に支配されているのです。その意味では、産まれた時から、既に墓の中にいるようなものだとも言えます。人生は墓の中に閉ざされているのです。
しかし、そのような私たちに聖書はキリストの復活を伝えているのです。キリストは生きておられる。本当の意味で「生きておられる方」を私たちに指し示すのです。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」
あの御方は私たちのように死の中に閉じこめられていない。神はキリストを復活させられた。なんのためですか。死に支配されている私たちを救うためです。キリストは永遠に「生きておられる」救い主として私たちに与えられたのです。
その御方はあの二千年前の墓の中にはおられない。教えだけが生きているというのではありません。あの方は今も生きていて、私たちの人生に入ってきてくださるのです。今日、一人の人が洗礼を受けてクリスチャンになります。クリスチャンとは、単にキリストの教えを信じた人のことを言うのではありません。そうではなくて、永遠に生きておられるキリストを人生にお迎えして、キリストと共に生きている人のことを言うのです。
今も生きておられるイエス様は、死に支配された私たちの人生に入ってきてくださる。「生きておられる方」は罪の赦しとまことの命を携えて、いわば、私たちを閉じこめている墓の中に入ってきてくださるのです。いや、入ってきてくださるだけではありません。「生きておられる方」は、私たちを閉じこめている墓の扉を打ち壊してくださる。ならば私たちはもはや、死の中に閉じこめられた者として生きる必要はないのです。死に支配された者として生きる必要はないのです。もはや「死につつある者」として生きる必要はないのです。
先ほど、人生は後戻りが出来ないと言いました。しかし、キリストが死の扉を破ってくださるなら、本当はもう後戻りしたいと願う必要もないのです。たとえ年老いても、たとえ重い病気になったとしても、残された日を思いながら生きる必要はないのです。失ったものを数えながら、失う前に戻れたらよいのにと思いながら生きる必要もないのです。キリストが死の扉を破ってくださるなら、私たちはただ人生の終わりに向かっているのではないからです。その先に開かれている復活の世界に、永遠の命の世界に向かって生きているのです。私たちは永遠に生きておられる御方と共に、本当の意味で「生きている者」として生きることができるのです。
2023年4月2日日曜日
「いつものように、いつもの場所で」
ルカによる福音書 22:39‐53
弟子たちとの最後の晩餐を終えたイエス様は、祈るためにオリーブ山に行かれました。この箇所を読みますと、少なくとも二つのことが強烈に心に迫ってまいります。一つは、主の苦しみの姿です。「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(44節)。そして、もう一つはその祈りの言葉です。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)。
メシアの苦しみ
まず、そこにはイエス様の苦しむ姿がありました。「苦しみもだえ」と書かれています。マルコによる福音書では「ひどく恐れてもだえ始め」とあります。イエス様の内にあったのは、第一には「恐れ」であったと思われます。そして、それはある意味でとても不思議なことだとも言えます。というのも、イエス様はここに至るまでに少なくとも三回、御自分の受難を予告しておられるからです。
例えば、18章31節以下にはこう書かれています。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」これは三度目の予告です。つまりイエス様はエルサレムで自分の身に何が起こるかを知っておられたのです。それを知りながら、あえてエルサレムに向かわれたのです。
この直前の食事についても、これが弟子たちと共にする最後の食事であることを主は明らかに知っておられました。ですから、その食事の際に、「これはわたしの体である」と言ってパンを与え、「これはわたしの血である」と言って杯を回されたのです。さらに言うならば、裏切ったユダが祈りの場所に人々を手引きして連れてくることさえも分かっていたのです。その場所こそが、騒ぎを起こさずにイエスを捕らえるためには格好の場所だったからです。そのことを重々承知の上で、あえて「いつもの場所」に向かったのです。わざわざ捕らえられるために、そこに行くようなものです。
ならば、そこに本来期待されるのは、捕らえに来る者を静かに待つキリストの姿なのでしょう。恐れることなく、うろたえることなく、ただその時を静かに待つキリストの姿。――しかし、そのような姿はここには見られません。キリストは恐れ、苦しみもだえて祈っておられるのです。ここに描かれているのは、期待はずれとも奇妙とも言える光景です。
しかし、私たちの期待を裏切るこの異常な姿こそ、キリストの受難が何であるのかを雄弁に物語っているとも言えます。これは単に死に対する恐れでも、肉体的な苦しみに対する恐れでもないことは明らかだからです。
死を恐れるということについて言うならば、本来、イエス様は死を恐れる必要はありませんでした。死を恐れる必要のない唯一の御方であったとさえ言えます。なぜならば、生をも死をも支配しておられる永遠の神を本当の意味で「父」として知っているわけですから。
しかも聖書には「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(1ペトロ2:22)と書かれているのです。それが三年もの間寝食を共にした弟子たちの共通の認識でした。すべてをご存じである父なる神の御前にあっても、罪の負い目のない御方。神の顔を避ける必要のない御方であり、神との完全な交わりの中にあったキリストです。ならば本来、その御方こそ死を恐れる必要のない唯一の方であったはずなのです。
にもかかわらず、ここでキリストは恐れて、もだえ苦しんでいるのです。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と。――なぜですか。その「杯」が何であるかを知っているからでしょう。肉体的な苦しみならば、その苦しみを泰然として耐え忍んだ人間は歴史上にいくらでもいるのです。しかし、キリストの受けた「この杯」は、単に肉体的な苦しみではないのです。それはメシアとしての苦しみなのです。私たちを救うための苦しみなのです。
私たちを救うということは、私たちの罪を贖うということです。私たちが救われるために、私たちの罪を代わりに背負うということです。罪人として神の裁きを受け、神に捨てられた者として死んでいかなくてはならない。それがメシアとしての苦しみです。救いをもたらすための苦しみです。
実際、私たちは神の裁きが何であるかについて、本当の意味では何も知りません。自分の人生が神の御前に問われるということがどういうことかを知りません。人は「神から見捨てられた」などと軽々しく口にすることもありますが、実際に神から見捨てられるという事がどういうことか、何も知らないのです。だから罪の赦しを受けないで死ぬことを、本当の意味で恐れることもないのです。
しかし、イエス様は違います。罪人として、罪を背負ったまま死ぬことがどれほど恐ろしいことであるか、罪ある者として神に裁かれることがどれほど恐ろしく、悲しく、苦しい事であるかを御存じなのです。この世界の罪、私たち人間の罪を背負うということが、いかなる苦しみであるかを知っておられたのです。それが今日の聖書箇所におけるキリストの恐れと苦しみの姿の中に語られていることなのです。
「御心のままに」と祈るために
それゆえに、キリストはこのオリーブ山での祈りの時、祈りの場所を必要としたのです。この苦しみを耐え忍ぶために、この苦しみの中を、なお神の御心に従って進んでいくために、祈りの時、祈りの場所を必要としたのです。そこで私たちの心に迫ってまいりますのは、主の祈りの言葉です。主はこう祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」。しかし、さらにこう続けます。「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。
この「御心のままに行ってください」という言葉が、簡単に先の祈りに続いたと考えてはなりません。キリストにおいてさえ、そこから従順の一歩を踏み出すためには、汗を滴らせながら、いよいよ切に祈ることが必要とされたのです。
そもそも「御心のままに行ってください」と祈るということは、どういうことでしょうか。私たちは「主の祈り」において、「御心が天になるごとく、地にもなさせしめたまえ」と祈ります。そうです、御心が地になるようにと祈っているのです。しかし、現実にはどうですか。そのように祈りながらも、実際には、その御心が地になることを邪魔しているのは、他ならぬ私たち自身ではないですか。
私たちが試練の中にある時にこそ、私たちの信頼と従順が問われるのでしょう。そこにおいてこそ、自分の十字架を背負ってわたしに従ってきなさいという主の呼び声が聞こえてくるのです。神の御心は、私たちと無関係に実現するのではありません。私たちを用いて、私たちの信頼と従順を通して実現するのです。しかし、実際にはそれを邪魔するものがある。それは私たち自身です。肉なる私たち自身です。その私たち自身が克服されることは、決して簡単なことではありません。人となられた神の子でさえ、従うために、祈りの時、祈りの場所を必要とされたのです。
しかし、私たちは知っています。いざという時には、そのように祈ること自体、決して容易なことではない。信仰が本当の意味で問われるその時に、従うために祈ることは決して容易ではありません。イエス様と対照的な弟子たちの姿がその事実を浮き彫りにしています。「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」(45節)。その眠りは、単なる肉体的な状態ではありません。それはまた、彼らの霊的な状態でもあります。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と主は言われます。しかし、試練の中にあって、目覚めて祈り続けることは難しいのです。
そこで私たちはこの福音書だけが伝えている言葉に注目したいと思うのです。「いつものように」(39節)。この福音書を読みますと、度々書かれているのは祈るイエス様の姿です。ここだけではありません。ルカによる福音書には、繰り返し出て来ます。いつも祈っているイエス様。そして、エルサレムに着いてからも、度々、そこで祈っておられたのでしょう。「いつものように」。そして、それはイエス様にとって「いつもの場所」だったのです。
いよいよメシアの苦しみを受ける時を迎え、イエス様が赴かれたのは、その「いつもの場所」でした。そこで、「いつものように」祈られたのです。イエス様が、最終的に「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈り得たのは、そこが「いつものように」祈ることができる、「いつもの場所」だったからです。
「いつものように」でなければ、いざという時に祈れない。そういうものなのです。だから、「いつものように」「いつもの場所で」ということを大事にしなくてはならないのです。私たちは今、いつものように、いつもの場所に、すなわちこの礼拝堂に集まって祈っています。これを大切にしなくてはなりません。
実際、ここに集まれることは、常に自明なことではありません。事実、3年前の3月29日、コロナのためにここには誰も集まることができなかったのです。次に集まれると思っていた礼拝堂に集まれなかったのです。コロナだけではありません。その他の理由によって、自分の人生において、これがここに集まることができる最後の日となることはあり得るのでしょう。
礼拝堂に集まれる時、こうしていつものように、いつもの場所に集まって礼拝することを大事にしましょう。また、いつものように、日々、聖書を読んで祈る時間を大事にしましょう。平穏無事である時にも信仰の友と共に祈る時を大事にしましょう。主は言われます。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。そのために大事なのは「いつものように」です。
今日から受難週に入ります。キリストの御苦しみを思いつつこの一週間を過ごし、復活祭を迎えます。この期間は特に、私たちにとっての「いつものように」の部分を振り返る時でもあります。その期間を経て復活祭から再び新たに歩み始めるのです。そのような一週間を経て迎えるイースターが新たな良きスタートとなりますように。