レビ記11:1‐46
10章までは、犠牲の献げ方、また祭司の任職など、礼拝に関わることが記されていました。11章からは、さらに、そのように礼拝する者に生活の仕方が示されています。礼拝は礼拝、生活は生活というように、分けてしまわないことが重要です。全生活が神のものとなることについて、レビ記は語っているのです。11章45節に「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と書かれているのは、そういうことです。
その生活の仕方に関する記述の最初に置かれているのが11章に見る「食物規定」なのです。なぜまず食べ物の話なのか。――食べるということは、生活における最も中心的な行為だからです。万人に共通する生活の要素だからです。まさに、毎日のこと、日常のことの代表だからです。
食べてよいものは主として三種類です。陸上動物、魚、鳥、昆虫です。これは創世記の天地創造物語の分類とほぼ同じです。あの天地創造物語も祭司たちが伝えてきたので、共通な部分があるのはある意味で自然なことです。
陸上動物については、条件が二つあります。ひづめが別れていることと反芻することです。魚については、ひれとうろこがあるものです。ちなみに「汚れたもの(ターメー)」と「汚らわしいもの(シェケツ)」という表現の違いは、触れて汚れるか汚れないかの違いです。《汚れたもの》は触れると汚れるものです。《汚らわしいもの》は食べると汚れるけれど、触れただけでは汚れません。そして、鳥については、食べてはいけないのは鷲とかみみずくのたぐい、すなわち猛禽類です。他の肉や死体を食べる鳥はアウトだということです。ちなみに、昆虫は、原則としてはすべて汚らわしいものです。ただ、いなごなどは食べてよいことになっています。洗礼者ヨハネはいなごと野蜜を食べていました。
ところで、ここに書かれていることは、今日の生物学的な見地からすればかなり大雑把です。野ウサギは反芻しません。もぐもぐやっているだけです。こうもりは鳥類ではありません。しかし、実際にそのようなことが重要なのではないのです。重要なのは、区別があるということです。食べてよいもの、悪いもの――、その区別を神が決めているということが重要なのです。これについては後で触れます。
今日みんなで読んだのは23節まででしたが、24節以下にも簡単に触れておきましょう。この部分は、その前と重複する記述が多いのですが、主に死骸の扱いについて書いています。簡単に言えば、死骸に触れるなということです。
死骸の触れる場合というのは、例えば、持ち運ぶ場合です。持ち運ぶならば、夕方まで汚れます(28節)。その他、不可抗力の場合もあります。例えばは爬虫類などが死んで何かの上に落ちる場合です。するとそのモノが汚れます。器や道具の類は水に浸しておく必要がありますが、土器の場合は染みこんでしまうので、その土器は壊す必要があります。かまどや焜炉に落ちたら、それも壊す必要があります。その他、泉や溜池に死骸が落ちた場合などについては、その水は清いので飲むことができます。泉を埋めたり、溜池を埋め立てたりする必要はないのです。また、種もみに死骸が落ちた場合は、種もみは清いということになっています。しかし、水に浸されていて、そこに死骸が落ちた場合は、種もみは汚れます。こうしてざっと見てみると、かなり実際的な衛生的な側面が見えてくるように思います。
さて、以上見てきたような食物規定が意味することは何でしょうか。それを理解する上で重要なのは冒頭で触れた45節です。「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」。
出エジプトは、単に奴隷の民を苦しみから解放するための出来事ではないのです。主は「あなたたちの神になるために」エジプトから導き上ったのだといわれるのです。言い換えるならば、彼らを神の民とするために、聖なる者、すなわち「神のもの」とするために、そうしたのだということです。「神のものである」ということは、第一には、神の主権を認めるということです。わたしが主であるのではなく、神が主人であるということです。
何かを食べるという行為は生活の根幹です。そして、それは人間の主体的な行為なのです。「わたしが食べる」のです。しかし、その「食べる」という行為について、神が命令を与えるのです。神は「これを食べて良い」と言い「これは食べてはいけない」と言われるのです。それは人間が区別するのではないのです。神が区別するのです。
その区別の理由は何か、根拠は何か。ここには何も書かれていません。神は説明なさらない。そうです。神には説明の義務がないのです。神がイエスと言ったらイエスなのであり、神がノーと言ったらノーなのです。それを人間が受け入れる。それが神の主権を認めるということです。それが一番よく現れているのが、この食物規定なのです。
私たちは、勘違いしているようなところがありまして、往々にして神は全てのことについて私たちに説明する責任があるかのように考えているのです。だから、神のなさることについて「分からない」、とか「おかしい」とか、「理にかなわない」とか「不公平だ」とかかぐだぐだ言うのです。しかし、本当はわからなくても良いのです。神は説明する義務などないのです。これを食べるなと言ったら食べてはいけないのです。往々にして私たちは神に向かってぐだぐだ言いすぎるのです。
イスラエルの民は、まず食べ物において、神の主権に服するということを学んだのです。もし食べてはならないものしかなかったら、食べないで死ぬわけです。極端なことを言えば、それを良しとするということ、それが神の主権を認めるということなのです。
そのように、食物規定についての根拠は、基本的には書かれていないので分からないと思ってよいと思います。しかし、それでもなお見えてくるものもあります。それが昔からラビによってなされてきた「解釈」です。
ユダヤ人のラビたちは、この食物規定については、節制を学ばせる上で有効である、と解釈してきました。そこには神の教育的な配慮があると見てきたのです。つまり、そこには食べてはならないものを食べないという訓練として、これを理解してきたのです。これは必ずしも文字通りの食べ物だけではありません。自らに制限を加えなくてはならない場面は人生においてたくさんあるのです。区別して退けなくてはならないものはあるのです。例えば、この世には多くの楽しみ方があります。しかし、ある楽しみは良しとしても、他のものは退けなくてはならないのです。あるいは、例えば、男と女がひかれあって恋愛をする。結婚をする。それはOKなのです。しかし、他人の妻を欲してはいけないのです。食べてはいけないものを食べるということは、つまり節制できないということは、自分を地獄にたたき込むことにもなるのです。そうならないために、節制をする練習をさせる神の配慮が、この食物規定にはるとラビたちは解釈してきたのです。
あるいは、先に少し触れましたように、これは衛生的な観点からも解釈されてきました。そこには民の健康を守るための神の配慮があると見てきたのです。実際に荒れ野の旅にしても、その後の定住後にしても、水がふんだんにあるわけではありません。そのような中で何を食べるか、衛生をどう保つかは死活問題だったのです。そのような配慮がここに見られるというのは、死骸に関する記述からも分かりますし、猛禽類を食べるなということからも分かります。「いのしし」すなわち豚肉を食べるなというのも同じです。それはあぶないのです。
つまり一方において、私たちは無条件に神の主権を重んじることが求められているわけですけれど、その背後に神の善意があることを信じて良いということです。神は説明なさらないこともあります。ですから、私たちには分からないこともあるのです。しかし、そこで大事なことは、黙して神の善意を信じるということなのでしょう。
そして、もう一つ大事なことを45節に見ることができます。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」と主は言われるのです。「聖なる者となる」とはどういうことか。「聖なる」とはもともと「区別する」という言葉から来ているのです。区別された者として生きること、それが「自分自身を聖別する」ということであり「聖なる者となる」ということなのです。つまり、他の民から区別された「神の民」として生きることです。神のものとして生きることです。
そのためには、常に自分たちが「神の民なのだ」ということを意識している必要があるのです。そこで「食物規定」はとても役に立つのです。なぜなら食べ物は毎日のことだからです。食べる度に、料理をする度に、自分たちは神の民なのだということを意識せざるを得ないわけでしょう。まさに、「食べ物を区別する神が、わたしを他の民から区別して神の民としていてくださるのだ」という恵みを、強烈に意識させるのが、この食物規定だったのです。
さて、この食物規定との関連で非常に重要な出来事が、新約聖書に書かれています。使徒言行録10:9-20です。これは異邦人伝道にとって決定的に重要な出来事となりました。そこで重要な言葉は「神が清めた物を清くないなどと、あなたは言ってはならない」という言葉です。つまり、異邦人を神が清めたならば、もう清くないと言ってはならないのです。これがあるから、異邦人である私たちも教会に加えられているのです。
しかし、だからこそなおさらに、私たちがそのような区別された民に加えられたことを意識していなくてはならないのです。クリスチャンであってもなくても同じです。洗礼を受けていても受けていなくても同じです、などとゆめゆめ言ってはなりません。食物規定は私たちには適用されません。私たちは異邦人ですから。しかし、食物規定を与えられた神の思いそのもは、しっかり私たち異邦人も受け止めなくてはなりません。すなわち、私たちは神の民なのだという意識はしっかりと保っていなくてはならないのです。
2024年10月30日水曜日
祈祷会用:レビ記 11:1~46
2024年10月27日日曜日
「恐れてはならない」
マタイによる福音書 10:26-33
覆われて見えないだけだから
「人々を恐れてはならない。」そのように書かれていました。それだけではありません。今日の福音書朗読で読まれたのは短い箇所ですが、そこに三回「恐れるな」という言葉が繰り返されています。恐れていない人に「恐れるな」と語る必要はありません。イエス様が繰り返し「恐れるな」と言われるのは、弟子たちがどれほど人を恐れながら生きているかを知っていたからでしょう。そうです。イエス様は、人間の内に起こってくる恐れというものをよくご存じなのです。
今日の聖書箇所の直前には、迫害の予告が語られています。人から拒絶される時、どれほどの恐れが起こるのか。人から中傷される時、人から敵意を向けられる時、どれほどの恐れが起こるのか。人から憎まれる時、暴力にさらされる時、どのような恐れが起こり、どれほどの恐れに捕らわれることになるのか。そうです、イエス様は分かっておられるのです。
だから主は言われるのです。「人々を恐れてはならない」と。それは「恐れる必要などないのだ」ということです。なぜなら、主が「恐れるな」と言われる時、そこには確かな理由があり根拠があるからです。主はこう続けるのです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」
人間の隠し事がやがては明らかになるという話ではありません。これは神様の話です。救いの話です。既に救いが到来しているのです。しかし、それは「覆われているもの」と表現されています。まだ覆われているのです。まだ目に見えないのです。
実際にそうでしょう。私たちの目に映っているのは、いまだに救われていない世界です。嘆きの叫びが絶えない悲惨な世界です。希望のない世界です。いまだに人間の罪が満ちている世界です。そして、人間の罪のゆえに、ただ崩壊へと、滅びへと向かっているとしか見えない世界です。その中で人は苦しみと痛みを背負いながら生きているのです。
先に触れましたように、この言葉の前には迫害の予告が書かれています。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂でむち打たれる」、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」というようなことが書かれているのです。救い主が来られたのに、よりによって救い主を信じる者が苦しみを受けるのです。救い主が来られたとしても、依然としてそのような世界なのです。
しかし、それにもかかわらず、主は言われるのです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。」やがて覆いが取り除かれる時が来ると主は言われるのです。神の救いが完全に現れる時が来るのです。
言い換えるならば、今は単に覆われているに過ぎない、ということです。今は覆われているゆえに見えないだけなのだ、と言っているのです。見えなくても、既に救いは与えられているのです。既に決定的なことは起こっているのです。だから主は言われるのです。「人々を恐れてはならない。恐れる必要はないのだ!」と。
既に起こっていることがある
既に決定的なことが起こっているという事実は、イエス様御自身の言葉の中にもよく現れています。主は言われました。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」(29節)。
さらっと読み飛ばしてしまいそうですが、実は重大な言葉が、そこには含まれているのです。「あなたがたの父」という言葉です。そのように主は確かに言っておられます。天地の創造主を指して「あなたがたの父」と言っておられるのです。ここだけではありません。この福音書において繰り返し主が発せられる言葉です。救い主が来られて、「あなたがたの父」と言われるのなら、確かに神は「私たちの父」なのです。私たちは神の子どもたちとされているのです。この世界のただ中で、そのような大きな出来事が既に起こっているのです。
主が「あなたがたの父」と呼ばれる方は、いったいどのような御方なのでしょう。主は言われます。「二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない」。ここで「あなたがたの父のお許しがなければ」と書かれているのは意訳です。直訳すれば、「あなたがたの父なしに地に落ちることはない」と書かれているのです。
売られたとしても大した値段にならない雀。その雀が地に落ちる。つまりそれは「死ぬ」ということです。そんな雀一羽が地に落ちても誰も気に留めないし、雀は誰にも知られることなく死んでいくのでしょう。しかし、そのことは「あなたがたの父なしには起こらない」と主は言われるのです。つまりそこにも父が共におられるということです。そこで一羽の雀は父の慈愛の御手の内にあるということです。雀一羽だって孤独で死ぬことはない。父なしにそのことは起こらないのです。
もちろんイエス様は雀の話をしたいわけではありません。「ましてやあなたがたは!」ということでしょう。雀一羽さえも心にかけておられる神は、私たちの天の父なのです。そこで「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」と主は言われる。私たちが自分を知る以上に、私たちのことを知っていてくださる父なのです。なにが私たちにとって良きことで、何が私たちにとって災いであるかも、私たちが知る以上に知っていてくださる御方なのです。
実際、イエス様の言われた迫害の予告は現実となっていきました。この世において、ある人たちは、平和な家の中で家族に看取られながら死んでいくのでしょう。しかし、弟子たちのある者は迫害の中で、時には家族も知らないところで、死んでいったのだと思います。しかし、いずれにしても、「あなたがたの父なしに地に落ちることはない」と主は言われるのです。何が起こったとしても、そこには父がおられるのです。父の慈愛の御手の中にあるのです。「だから、恐れるな」と主は言われるのです。「だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と。
信仰の言葉を告げ知らせよ
既にそのような天の父の子どもたちとされているのです。救い主が来られて、既に決定的なことは起こっているのです。一見すると何も起こっていないように見えるこの世界のただ中で、私たちは既に救われた者として生きることができるのです。
そして、既に起こっていることは、いまだに覆われているとしても、やがては現れることになるのです。「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである」。人間の隠し事ですら時を経て表に現れるのなら、ましてや神様がなさっていることが表に現れないはずがありません。私たちの目がはっきりと見る時が来るのです。
それゆえに、覆いが除かれるまで、私たちの目が神の救いをはっきりと見るまで、私たちは目に見えるものによらず、信仰によって歩むのです。信仰によって歩むとは、神の言葉を信じて歩むということです。私たちは、この世からの言葉ではない、この世の外からの言葉によって生きるのです。目に見えるものではなく、目に見えないものを語ってくれる信仰の言葉によって生きるのです。私たちの目には見えない、覆いの向こう側を語ってくれる主の言葉によって生きるのです。
そして、私たちに語りかけられる言葉は、ただ私たち自身が救われた者として生きるために与えられているのではないのです。私たち自身が慰めと励ましを受けるために与えられているのではないのです。主は言われるのです。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」(27節)。
この「暗闇であなたがたに言うこと」という表現は、特に迫害の中にあった教会にとっては、とてもリアルに響いたに違いありません。というのも、彼らはしばしば集まっていることが知られないように、戸を閉じ、光が漏れないように暗い中で礼拝をしていたからです。ある時には、それこそ光の入らない地下墓地に集まって礼拝していたのです。まさに暗闇の中で、主は確かに語りかけていてくださっていたのです。そして、主は言われるのです。「わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい」。
実際、教会は迫害の時代にあっても、救いを宣べ伝えることをやめませんでした。主の御言葉を宣べ伝えることをやめなかったのです。生きようが死のうが、神の救いの中にあることを知っていたからです。父なしに地に落ちることはないと知っていたからです。父の完全な慈しみの御手の中にあることを知っていたからです。だからこそ、その救いは伝えられて、こんな極東の遠い国にまで届いたのです。
主は言われました。「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」(28節)と。イエス様が言っておられるように、人間が出来ることは体を殺すことまでです。人を神の愛の外に放り出すことはできません。神の救いの外に投げ出すことも、地獄で滅ぼすこともできません。
そのことについては、迫害の中を生きたパウロもまた、一つの手紙の中でこう語っています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38‐39)と。
主はここから私たちをこの世へと遣わしてくださいます。信仰の言葉、主の御言葉を携えて、主の愛を携えて、ここから日々の生活の場へと出て行くように、私たちを祝福し、送り出してくださるのです。現実には、私たちがどれほど人を恐れながら生きているかということを主は知っていてくださいます。だからこそ、主は今日も私たちに語っていてくださるのです。「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」と。
2024年10月23日水曜日
祈祷会用:レビ記 10:1~20
レビ記10:1‐20
前の章は、アロンが手を上げて民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れ、主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くしたところで終わっていました。主の御前から火が出るということは、本来、恐るべきことであるはずです。それは主の裁きをも意味するからです。しかし、民の反応は次のように書かれていました。「これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した」(9:24)。
主の臨在の火が喜びとなるのは、それが主の裁きではないことを民は既に知らされていたからです。すなわち、そこで行われているのは罪の贖いであることが知らされていたからです。焼き尽くされたのは民ではなく、献げられた犠牲でした。民はそこで、大祭司が存在すること、祭儀が存在することの意味を、改めて思わざるを得なかったに違いありません。天からのものによって、礼拝は成り立つのです。天からの火はまさにそのことを示すものでした。その火を「祭壇から絶やしてはならない」(6:2)と命じられていたのです。礼拝は人間の灯した火からはじまるのではないのです。
しかし、そこで一つの事件が起こります。それが今日お読みしたところに書かれていたことです。話としては9章から続いていますから、アロンによる献げ物の初執行の当日の出来事です。その日、アロンの長男ナダブと次男アビフが「規定に反した炭火」をささげました。すると主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んでしまいました。この直前において、人々の喜びとなった臨在の火が、ここでは一変して裁きの火となったのです。それはなぜであるかを考えねばなりません。
「規定に反した炭火」と訳されている言葉は、直訳すると「異なる火」です。彼らは礼拝において「異なる火」をどこからか持ってきたということです。本来は天から与えられた火が燃やし続けられ、そこから取らなくてはならない火を、彼らは別なところから、人間が点じた火をもってきたということです。
人間から生じたものをもって、自己流に自分のしたいように神に近づくならば、神は御自分が聖なることを示されます。すなわち神が人間とは区別された、本来人間が近づくことのできないまことの神であることを示されるということです。「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう』と主が言われたとおりだ」(3節)とモーセが言っているのはそういうことです。
さらに言うならば、ナダブとアビフは幕屋の垂れ幕の奥にまで近づいたということも考えられます。後に16章において次のように書かれているからです。「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件の直後、主はモーセに仰せになった。主はモーセに言われた。あなたの兄アロンに告げなさい。決められた時以外に、垂れ幕の奥の至聖所に入り、契約の箱の上にある贖いの座に近づいて、死を招かないように。わたしは贖いの座の上に、雲のうちに現れるからである」(16:1‐2)。
規定に反する火を持ってきた彼らが、垂れ幕の奥にまで行って、安易に神に近づけると思ったことは考えられます。なぜ安易に近づいたのか。罪の贖いの犠牲がささげられたから、というのは考えられる一つの理由です。罪の赦しが神への畏れを失わせるなら、それは災いをもたらすのです。
あるいは、自分たちは特別であると彼らは考えたのかもしれません。しかし、むしろ神に近づける立場に置かれたからこそ、神を畏れなくてはならなかったのです。これはキリスト者においても同じです。神に近づくことが赦された祭司とされています。しかし、だからこそ私たちはそのことを、畏れをもって受け止めねばならないのです。
「『わたしに近づく者たちに、わたしが聖なることを示し、すべての民の前に栄光を現そう』と主が言われたとおりだ」。そうモーセは言いました。それは息子二人を失った直後のアロンに対する言葉としては、無慈悲な言葉に聞こえるかもしれません。しかし、そこで「アロンは黙した」と書かれているのです。この箇所を読んで、モーセの言葉に対しても、神に対しても、「ひどいではないか」と思う人はいるかもしれません。しかし、アロンはわかっていたのです。災いが起こった今は、神に不平を言う時ではない。御前に畏れ、黙するべき時だ、と。
さて、通常ならば死んだ子どもを葬るのは家族がすることです。しかし、モーセはアロンにも残された二人の息子にも、遺体をさわらせませんでした。「モーセはアロンのおじウジエルの子、ミシャエルとエルツァファンを呼び寄せて、『進み出てきて、あなたのいとこたちを聖所から宿営の外に運び出せ』と命じた。彼らは進み出て、モーセの命令に従い、祭服を着たままの二人を宿営の外に運び出した」(4-5節)。
それはなぜでしょうか。遺体に触れたら祭儀的には汚れたことになるからです。祭儀的にけがれたら、祭儀を続行することができなくなるのです。後で見ることになりますが、アロンには、まだやるべきことが残されているのです。それは、献げられたものを「食べること」です。贖罪の犠牲は、血を聖所の中にもっていって場合、すなわち大祭司と民全体の罪のためにささげる贖罪の献げ物の場合はその一部を焼き捨てることになります。しかし、聖所の中にもっていかない場合は聖域で食べることになっているのです。
だから、彼らはナダブとアビフが死んだとしても、祭司の務めはつづけなくてはならないのです。だから祭司は遺体に触れてはならないのです。しかも、ここでモーセはアロンと残された二人の子(祭司)であるエルアザルとイタマルに言うのです。「髪をほどいたり、衣服を裂いたりするな。さもないと、あなたたちまでが死を招き、更に共同体全体に神の怒りが及ぶであろう」(6節)。
つまり通常の葬儀においては行われることを、あなたはしてはならないというのです。あなたは悲しんではならない。むしろ、畏れをもって祭司の務めを継続することこそ、あなたがたのなすべきことである、とモーセは言っているのです。今本当にやらなくてはならないことは、ナダブとアビフの死によって示されたことをしっかりと受け止めることではないか、ということです。それは何か。祭司の務めの重さです。他の者たちは悲しんでよいし、悲しむべきです。しかし、彼らはだめなのです。なぜなら、「あなたたちは主の聖別の油を注がれた身だからである」(7節)と言うのです。
確かに、血縁関係というものは重いものです。祭司は家族が任職されますから、祭司としてのアイデンティティと家族としてのアイデンティティは混同されやすかったかもしれません。しかし、アロンは、それらははっきりと区別されなくてはならないことを知らされたのでした。そして、重んじられるべきであるのは、祭司として任職されたという事実の方なのです。さて、これはキリスト者という祭司として神に近づけられていることのアイデンティティは、私たちにとって、どれほどの重さを持っているのでしょうか。
続いて、主はアロンに仰せになりました。「あなたであれ、あなたの子らであれ、臨在の幕屋に入るときは、ぶどう酒や強い酒を飲むな。死を招かないためである。これは代々守るべき不変の定めである」(9節)。これは極めて印象的な言葉です。というのも、古代オリエントの周辺世界においても、宗教的な儀式はあり、祭儀を司る者たちはいるわけですが、通常は恍惚状態になって祭儀を行うのです。そのために酒や薬が用いられたのです。しかし、イスラエルの祭司はしらふでいることを求められたのです。
宗教的であるということは恍惚状態や熱狂状態になることではなくて、醒めていることだということです。それはなぜなのか。次のように書かれています。「あなたたちのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること、またモーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々に教えることである(10-11節)。彼らは区別しなくてはならないのです。すなわち判断しなくてはならないのです。
清いものと汚れたものを区別する、とは神の喜ばれるものと忌み嫌われるものを判断するということです。御心にかなったものと、主は憎まれるものを判断することです。そして、それを教えることが彼らの務めなのです。だから醒めていること、判断できることが重要なのです。もちろん、それはキリスト者という祭司にも求められていることであって、新約聖書においては「身を慎んでいましょう」(1テサロニケ5:6)と勧められているのです。「身を慎む」と訳されているのは「しらふでいる」ことを意味する言葉です。
さて、モーセは9章で献げられたものを「食べること」をアロンと生き残ったエルアザルとイタマルに求めました。食べることもまた主が定めた祭儀の中のことだからです。それゆえに、それが正しく執行されたか否かをモーセは気にしました。しかし、聖域で食べられるべき贖罪の献げ物が食べられないで焼き尽くされてしまっていたのです。
モーセは怒って彼らに言いました。「なぜ贖罪の献げ物を聖域で食べなかったのか。あれは神聖なものであり、共同体の罪を取り除き、主の御前で彼らの罪を贖う儀式を行うためにあなたたちに与えられたものである」(17節)。
先にも言いましたように、贖罪の献げ物には、血を聖所に持って行くものと行かないものがあるのです。そして、血を聖所に持っていかないものは祭司が食べるのです(6:18)。しかし、アロンは言いました。「確かにあの者たちは今日、贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物を主の御前にささげました。しかし、わたしにこのようなことが起きてしまいました。わたしが今日、贖罪の献げ物を食べたとしたら、果たして主に喜ばれたでしょうか」(19節)。
アロンは二人が神に裁かれて死んだことを小さなこととは見ませんでした。これは大祭司の罪でもあり、民全体に及ぶ罪の贖いが必要だと考えたのです。すなわち、献げられた贖罪の献げ物については、これを「大祭司の罪のため、イスラエル共同体全体に及ぶ罪のための贖罪の献げ物」と見なしたのです。もし、そうであるならば食べてはならないのです。目の前で悲しむべきことが起こったのです。しかし、それをアロンは神の前で自分の罪として認めたのでした。そして、エルアザルもイタマルも、また問いただしていたモーセもまた、そのことを理解したのでした。
2024年10月20日日曜日
「目標を目指して走るため」
フィリピの信徒への手紙 3:12-21
後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ
「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません」(12節)。今日の聖書箇所において、パウロはそのように語っています。ここでパウロがそのように語っている理由については後に触れるとしまして、まず注目したいのは、そのように語っている彼の意識です。自分はまだ途上にあるという意識です。そして、その意識をもって断言している13節のこの言葉です。「なすべきことはただ一つ!」
こういう言葉というものは、なかなか人が口にできるものではないでしょう。「なすべきことはただ一つ!」その一つとは何でしょう。それは「目標を目指してひたすら走ることです」と彼は言うのです。その「目標」とは何なのか。そこには何が待っているのでしょうか。彼はこう言うのです。「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために」と。
単に「賞を得るために」ではありません。「神が……お与えになる賞を得るために」と言っているのです。そのように、意識の中心にあるのは「賞」そのものではなくて、与えてくださる「神」なのです。先ほど、「何が待っているのでしょうか」と言いましたが、正確には正しくありません。「誰が待っているのでしょうか」と言うべきなのでしょう。そこには神が待っておられるのです。神にお会いしておほめにあずかりたい。要するに彼はそう言っているのです。その目標を目指して走ることだ、と。
そしてパウロは、どこに向かって走るべきか、ということだけでなく、どのように走るべきかについても語っています。先ほどお読みした箇所で、パウロは次のように言っているのです。「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、…目標を目指してひたすら走ることです」と。
ここでイメージされているのが競技場で走る選手であることは言うまでもありません。選手はひたすら前を見て走らなくてはならないのです。神から賞を受けるために走るのも同じことです。後ろを見ながら走ることはできません。「後ろのものを忘れ」――それは、目標を目指してひたすら走るためには確かに必要なことです。
もちろん、「後ろのものを忘れ」と言いましても、「忘れてはならないこと」はあります。パウロは自分がかつて迫害者であったことを決して忘れませんでした。この章の6節でも触れていますが、他の手紙においても、「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました」(ガラテヤ1:13)と語り、また、「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さなものであり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」(1コリント15:9)とも語っています。
実際、使徒言行録の伝えるところによるならば、パウロは復活のキリストとの出会いにより、神の光に照らされて、自分がしてきたことは、まさにキリスト御自身を迫害することに等しい、とてつもなく大きな罪であることを知らされたのです。パウロは神によって知らされた事実を、自分が罪を犯したという事実を、生涯忘れることはなかったのです。
ちなみに、ペトロについても同じことが言えます。彼は、あの日、キリストを三度も「知らない」と言ったことを、生涯忘れなかったはずです。それどころか、折に触れては自分のしたことについて語ったに違いない。だから、その出来事が聖書に記されて二千年後にまで知られているのです。
そのように、「後ろのものを忘れ」というのは、単に「忌まわしい過去なんて忘れたらいいよ」と言っているのではないのです。パウロにせよペテロにせよ、単に暗い過去を《忘れる》ことによって使徒パウロ、使徒ペトロとして立っていたわけではないのです。彼らは自分のしてきたことも、過去の自分をも忘れなかったのです。
しかし、パウロにせよ、ペトロにせよ、自らの過去をただ罪の重荷として引きずりながら走っていたのではないということもまた事実です。彼らが罪の重荷を引きずっていたならば、前に体を伸ばそうとすればするほど、罪の重荷は強烈に後ろへ引き戻す力となって働くことになるでしょう。しかし、実際どうでしょう。そのような走り方をしているパウロを、私たちは聖書の中に見出すことができません。使徒言行録にも、彼の書いた手紙の中にも、どこにもそのような姿を見ることはできないのです。私たちが見るのは、まさに彼が言うように、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」走っている人の姿なのです。
彼は自らの罪を忘れませんでした。彼はただ自分の過去から目を背け、臭いものには蓋をして、何事もなかったかのように生きていたわけではないのです。そうではなくて、彼はただ神の救いの恵みによって、罪を赦してくださる神の恵みに寄り頼んで、生きていたのです。神が世に遣わされた救い主、イエス・キリストの十字架に寄り頼んで、罪の贖いの十字架に寄り頼んで生きていたのです。
ですから、先ほど「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さなものであり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」というパウロの言葉を引用しましたが、その続きはこうなっているのです。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」。
人が本当に神を信じて生きようとするならば、神の光に照らされることになります。そこでは自分の過去も現在も光のもとにさらされることになるのです。神に背いて生きて来た現実を突きつけられることになる。 しかし、パウロには分かっていたのです。神が光に照らして罪を認識させるのは、後ろを向いて、自らを責め苛んで、自分を痛めつけながら生きるためではない、ということを。
もっと大事なことがあるのです。それは神の恵みに応えて生きることです。キリストによって罪を赦してくださった神、キリストによって上へ召してくださった神に、ただ喜んでいただくことを目指して生きることです。目標を目指して走るとはそういうことです。終着点には、私たちを愛して、赦して、新しく生かしてくださった神が待っていてくださる。その神のおほめにあずかることを、ひたすら求めて走ることです。
わたしに倣う者になりなさい
そして、パウロは「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」(17節)と語ります。パウロ自身が表明しているように、自分が完全であるからではありません。そうではなく、ただひたすら神の恵みに寄り頼み、恵みに応えて生きようとしている者として言っているのです。「わたしに倣う者となりなさい」。そして、そのように語らざるを得ない状況があったのです。18節には次のように書かれています。「今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。」
この背景にありますのは異端の教え、間違った教えとの戦いです。パウロの対極には、「わたしは完全に達した」と言い張る人々がいるのです。12節でパウロが「わたしは…既に完全な者となっているわけでもありません」と言っているのは、その異端の教えを意識してのことです。彼らは自分自身を完全に達した人、特別な霊的な人間であると主張しているのです。
そのような主張の背景には、それなりの神秘体験があるのです。確かに、神秘的な体験をするならば、人は自分が特別な霊的な人間になったように思うものなのでしょう。そして、特別な霊的な人間にとっては、もはやキリストの十字架は必要ないのです。罪の贖いも必要ないのです。「キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」とパウロが言っているのは、そのような人々です。
先ほど、パウロは神の救いの恵みによって、罪を赦してくださる神の恵みに寄り頼んで、生きていたと申しました。イエス・キリストの十字架に寄り頼んで、罪の贖いの十字架に寄り頼んで生きていたと申しました。しかし、「キリストが身代わりに十字架にかかってくださったから、わたしは罪を赦されたのだ」という言葉は、聞きようによっては、はなはだ「虫のいい話」に聞こえなくもありません。自分のしてきたことを、自分の罪を、軽く考えているように見えるかもしれません。そんなキリストの十字架による罪の赦しの教えより、神秘的に神と一つになり、特別な霊的な人間になることを求める異端の教えの方が、ある意味では分かりやすかったのだと思います。
しかし、実際は全くの逆なのです。パウロほど自分のしてきたこと、自分の罪、人間の罪というものを重く見た人はいないのです。人間の罪は、自分を苦しめたり、少しばかり良い人間になったぐらいで埋め合わせができるほど、軽くはないのです。人間にはどうすることもできないのです。ならば神に赦していただくしかないのです。ただキリストに身代わりになっていただくしかないのです。
だからパウロは涙を流して語るのです。「彼らの行き着くところは滅びです」と。十字架に敵対するならば、十字架を不要として退けるならば、自らの罪は自分で背負うしかないのです。自分ではどうすることもできない自分の罪を、自ら背負って生き、自ら背負って死ぬしかないのです。その行き着くところは滅びです。
パウロは十字架に敵対する人々について、「彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません」と語ります。パウロがそのように語るのは、彼がただ「この世」のことだけを考えているのではないからです。先に見たように、パウロは「行き着くところ」と考えているのです。最終的に神にお会いするところまでを考えているのです。14節に見たように、「神がキリスト・イエスによって上へ召して」くださっているからです。
それをパウロは「しかし、わたしたちの本国は天にあります」と表現します。既に天を本国とする民とされているのです。そのように、キリストの十字架に敵対せず、キリストの十字架によって救われた者として、パウロは天を本国とする者として生きているのです。
既に神の恵みによって天を本国とされている者とされているのです。だからこそ、彼はこの地上においては、ただひたすら前を向いて走るのです。神からおほめにあずかることだけを考えて、ひたすら走るのです。そのような者として、「皆一緒にわたしに倣う者となりなさい」とパウロは語り掛けます。そして、二千年の時を経て、ここにいる私たちもまた同じ言葉を聞いているのです。主は私たちに語りかけておられます。皆一緒にパウロに倣う者となりなさい、と。
2024年10月16日水曜日
祈祷会用:レビ記 9:1~24
レビ記 9:1‐24
9章に入りまして、ここにはアロンが祭司として初めて献げ物をささげた次第が記されています。その初めに、次のように書かれていました。「八日目に、モーセはアロンとその子ら、およびイスラエルの長老たちを呼び集め、アロンに言った。無傷の若い雄牛を贖罪の献げ物として、また同じく無傷の雄羊を焼き尽くす献げ物として、主の御前に引いて来なさい。またイスラエルの人々にこう告げなさい。雄山羊を贖罪の献げ物として、無傷で一歳の雄の子牛と小羊を焼き尽くす献げ物として、また雄牛と雄羊を和解の献げ物として主の御前にささげ、更にオリーブ油を混ぜた穀物の献げ物をささげなさい。今日、主はあなたたちに顕現される」。
主が神の民に顕現されるのです。神が彼らの前で栄光を現されるのです。それは言い換えるならば、彼らは確かに神の前にいるのだということをはっきりと示されるということです。神の御前にあってこそ、礼拝は成り立つのです。そこで、役割を持つのが祭司です。
罪ある民が、そのまま神の前に立つということは、本来は死を意味するのです。彼らが死なないでなお神の御前に立つことができるのは、一つには神の定めた祭儀があるからです。犠牲の献げ方については、既に述べてきたとおりです。そして、もう一つ重要なのは、祭司という存在なのです。祭司が神と民との間に立ってとりなすのです。そして、この章においては、アロンが初めてその務めを行うことになるのです。
さて、先週申し上げたとおり、律法によって定められた祭司制度は、いわば予告編であり、本編を指し示すものに過ぎません。本編が到来して、キリストが十字架の上で血を流され、よみがえられてからは、キリストを信じる者すべてが祭司となったのです。その祭司たちは、イエスという大祭司のもとにあり、その大祭司がまず私たちのために執り成してくださっているのです(ヘブライ8:1)。それゆえに、このアロンによる犠牲の初執行もまた、私たちの姿を指し示しているものとして、祭司の務めを任されている私たち自身の働きとして、読む必要があるのです。
そこで、まず心に留めたいのは冒頭の「八日目に」という言葉です。それはすなわち、その前に七日間があるということです。その七日間については、先週見てきました。任職の儀式の七日間です。そこで重要なのは、「あなたたちは七日にわたる任職の期間が完了するまでは、臨在の幕屋の入り口を離れてはならない」と書かれていることです。そして、こう命じられているのです。「あなたたちは臨在の幕屋の入り口にとどまり、七日の間、昼夜を徹して、主の託せられたことを守り、死ぬことのないようにしなさい」(8:35)。それは徹底的に畏れをもって神の御前に身を置く七日間です。まず、彼らが神の御前に留まらなくてはならないのです。人の前に出る前に、神の御前に居続ける日々が必要なのです。そのことを、彼らは徹底的に知る必要があったのです。
なぜなら、これから彼らは祭儀の執行にかかわることになるのですが、祭儀において重要なのは人間が人間に関する務めを果たすことではないからなのです。そこで神がなされることがあって、初めて祭儀、すなわち礼拝は成り立つのです。それが先に見たように、「今日、主はあなたたちに顕現される」(4節)と表現されているのです。人は祭儀すなわち礼拝を、実に容易に「人間の業」にしてしまうものです。そこで人間のことしか考えないようになる。祭司たちが過ごしたのは、そうならないための七日間だったのです。アロンが人々の前で祭儀を行ったのはあくまでも「八日目に」なのです。
ゆえにこれが、「人の業」ではないことが共同体全体にも宣言されることになります。「彼らがモーセに命じられたとおりの献げ物を臨在の幕屋の前に持って来ると、共同体全体は進み出て、主の御前に立った。モーセは言った。これは主があなたたちに命じられたことであり、主の栄光があなたたちに現れるためなのである」(5-6節)。
そして、モーセはアロンに言います。「祭壇に進み出て、あなたの贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物とをささげて、あなたと民の罪を贖う儀式を行い、また民の献げ物をささげて、彼らの罪を贖う儀式を行いなさい。これは主が命じられたことである」(7節)
主の命じられたことに従って、アロンはまず、自分のために贖罪の献げ物をささげます。任職の時だけでなく、民のために仕える度に、彼は自分のために贖罪の献げ物をささげることになるのです。
まずアロンは「自分の贖罪の献げ物」「自分の焼き尽くす献げ物」を屠ります。ちなみに8節の「若い雄牛」は「子牛(エーネル)」という言葉です。これは出エジプト記32章にも用いられていました。民が求め、アロンが作った、あの金の子牛の像について用いられていたのと同じ言葉です。かのエーネルは罪をもたらし、今献げるエーネルは罪を贖います。思い見れば、本来ならばアロンはこの贖罪の犠牲を献げることなく、既に滅ぼされていても不思議ではありません。しかし、アロンは滅ぼされることなく、かつて金の子牛を造ったアロンが、まさに自分の贖罪の献げ物をささげなくてはならないアロンが、今、祭司として立っている姿を聖書は描き出しているのです。
そして、これは大きくは、レビ記そのものの存在と深く関係しているとも言えます。レビ記がまとめられたのは、捕囚後の時代であると言われます。一度、バビロニアによって神殿が破壊された後、バビロンからの帰還民によって再び神殿が建てられた時代です。
かつて子牛の像がベテルとダンに置かれていました。分裂後、北王国イスラエルの初代の王ヤロブアムが造って置いたのです。その後の王たちについては、「イスラエルに罪を犯させたヤロブアムの罪を繰り返した」という言葉が繰り返されています。ヤロブアムの罪を離れなかった北王国はやがて滅びます。南ユダは北王国の罪とその滅びを見ていたはずなのに、悔い改めることなく、やがて南王国も滅びます。エルサレムは破壊され、神殿は焼き払われてしまいました。本来ならば、それで神の民の歴史は終わりであったはずでした。
しかし、やがて神の恵みによって、再び神殿が建て直され、祭儀が行われることになります。レビ記がまとめられたのはその頃です。レビ記をまとめた人たちは、このアロンの祭儀の初執行をどんな思いで書き記したのでしょうか。少なくとも彼らは、祭儀を行えること、礼拝を行うことができることが、ただ神の恵みによることを思わずにはいられなかったに違いありません。
アロンが「自分の贖罪の献げ物」「自分の焼き尽くす献げ物」を献げた後、さらに命じられたとおり、彼は「民の献げ物」をささげました。血が祭壇に注ぎかけられました。そして、22節において「手を挙げて民を祝福した」と続きます。
実際には、その後に書かれているように、「彼が贖罪の献げ物、焼き尽くす献げ物、和解の献げ物をささげ終えて、壇を下りると、モーセとアロンは臨在の幕屋に入った」というのが先です。その後に、「彼らが出て来て民を祝福すると」と続くのです。祝福の前に、彼らが臨在の幕屋に入ったのは、定められていたように罪の贖いの血を振りまき、香を焚く祭壇の四隅の角に塗るためです(4:6、7他)。
臨在の幕屋に入ることは、神に近づくわけですから、それは本来ならば死を意味します。犠牲が受け入れられなければ、すなわち携えていった罪の贖いの血が受け入れられなければ、彼らは幕屋から再び出てくることはありません。彼らが臨在の幕屋に入り、再び彼らの前に現れたということは、すなわち屠られた犠牲が神に受け入れられたことを意味するのです。そのような彼らが民の前に再び現れて、民を祝福した。それが22節の「アロンは手を上げて民を祝福した」という言葉の意味することなのです。
その祝福の言葉はここには記されていませんが、主がアロンとその子らに与えられた祝福の言葉は民数記6:24~26に記されています。
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて/あなたに平安を賜るように。」
そのような祝福に民があずかることができるのは、民の行いによるのではなく、ただ献げられた贖罪の犠牲が受け入れられたからであり、流された血が受け入れられたからなのです。そして、このこともまた、キリストの出来事を指し示す予型でもあるのです。主は自らを罪の犠牲として捧げられ、三日の後、キリストは復活されました。いわば主は臨在の幕屋が指し示すまことの幕屋から出て来て、その贖罪が完全であることを明らかにされたのです。そして、キリストは弟子たちを祝福して天に昇られたのです。
このアロンによる犠牲の初執行においては、モーセとアロンが出て来て祝福した後、「主の栄光が民全体に現れた」と書かれています。さて、それはどのような形で現れたのでしょう。次のように書かれています。「そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした」(24節)。それは本来、恐るべき光景であったはずです。主の御前から炎が出ることは、主の裁きをも意味し得るからです。実際10章では同じ火が裁きとして現れたことを見ることになるのです。しかし、印象的なのは、この恐るべき出来事を見た人々の描写です。「これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した」と書かれているのです。
主の御前から出た火が「喜び」となったのは、最終的にアロンの祝福に至る、祭儀を見てきたからでしょう。すなわち、罪の赦しをもたらす神の恵みによって定められた祭儀が行われてきたのを見ているからです。言い換えるならば、主が命じられた祭儀の意味を悟ったということでしょう。大祭司が存在すること、祭儀が存在することの意味、礼拝が成り立つことの意味を悟ったのです。その時、主の臨在は恐れをもたらすのではなく、大きな喜びをもたらすものとなるのです。しかし、それはまた厳粛なことでもある。もし赦しに基づいた火さえも人間が侮るならば、そこにはもはや赦しは残されていない。それが続く10章で現されることになるのです。
2024年10月14日月曜日
「損得勘定で生きていきますか」
ヨハネによる福音書 11:45‐57
損か得か
今日の聖書箇所の冒頭には、「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」(45節)と書かれていました。「イエスのなさったこと」とはこの直前に書かれています。死んで四日経ったラザロをイエス様が生き返らせたという奇跡の話です。
奇跡を見てイエスを信じた人はいました。そうです、確かにいたのです。しかし、奇跡は必ずしも信仰をもたらすとは限りません。同じように奇跡を見ても、なお信じようとしない人たちはいるのです。実際、あの時にもいました。同じ奇跡を見ていながら、イエスをむしろ危険人物として密告する人たちがいたのです。「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」(46節)とはそういうことです。
さて、イエス様のなさったことについての密告を受けた祭司長たちとファリサイ派の人々は、最高法院を召集して言いました。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(47、48節)。
彼らはイエス様が「多くのしるしを行っている」ということを認めています。イエス様がなさった数々の御業に目を留めてはいるのです。しかし、彼らの関心はどこにあるのでしょう。彼らは、このイエスという方が真にメシアであるか、そうでないのか、ということには関心がありません。イエスという方が本当に神から遣わされた方であるかどうか、神の子であるかどうかということには関心がありません。信ずべき御方であるのか、そうではないのかということには関心がありません。なぜなら、彼らの関心は別のところにあったからです。
彼らの関心はどこにあるのか。それはナザレのイエスというひとりの人物の存在が、彼らにとって《得になるか損になるのか》ということだったのです。そして、彼らの結論は《損になる》ということだったのです。イエスが存在することは、彼らにとって決定的な損失になる。「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」。
これは最高法院が招集された時の発言であったと書かれています。このことを懸念していたのは、特に祭司長たちだったと思われます。彼らは貴族的な特権階級に属します。彼らが望んでいるのは一にも二にも現状維持です。平穏無事であることです。騒ぎは起きて欲しくないのです。メシアが到来したの何だのと言って騒いで欲しくないのです。
実際エルサレムにおいて騒ぎが起こるなら、ローマの軍隊が介入してくることが予想されました。彼らは帝国を揺さぶるような騒ぎに対しては、情け容赦なく介入してきます。そして、それは祭司長たちにとって決定的な損失となります。だからそのような事態を恐れたのです。「イエスという男が奇跡を用いて民衆の支持を得るならば、まずは自分たちの立場が危ない。いや、それどころか、そのような危険な動きをローマ当局が察知したならば、必ず軍隊を送り込んで来るに違いない。その結果、彼らは神殿をたたき壊し、イスラエルの民を滅ぼしにかかるかもしれない」と。
ですから、その後に大祭司カイアファが発した言葉も十分理解できます。彼は言うのです。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(49、50節)。要するにカイアファが言いたいのは、「あいつには死んでもらうことにしよう」ということです。その方が「好都合」だからです。これは原文では「得である」という意味の言葉です。
彼らにとって最も大事なこととされているのは、何が真理かということではないのです。何が神に従うことなのか、ということでもないのです。そうではなくて、どちらの方が人間にとって、我々にとって都合が良いのかということなのです。どちらが得かということなのです。
やがてこの同じ最高法院において、イエスが裁かれることになります。処刑が決定されるのです。その罪状は表面的には「イエスが神を冒涜した」ということでした。しかし、それは建前に過ぎなかったと聖書は言うのです。本音は別のところにありました。イエスに死んでもらうことは、彼らにとって「好都合」だったからだ、彼らにとって得だったからだと聖書は言っているのです。
今日の聖書箇所が伝えているように、キリストの十字架は、直接的には、彼らの打算によってもたらされました。彼らはイエス様の言葉を聞き、イエス様のなさったことを見ていました。その御方が数々のしるしを行っていることも知っていました。しかし、イエス様を信じるに至りませんでした。彼らの打算がそれを阻んだからです。損得勘定が信仰を妨げたからです。自分にとって得になるか損になるかということからしかキリストを見ることができなかったからです。
わたしたちのために
このように損得勘定とキリスト教信仰とは、本質的に相容れないもののようです。打算から近づく限り、キリストを信じるには至らない。キリストを信じることが損か得か。そこから近づくならば、キリストを信じるには至らない。
それはある意味では必然であるとも言えます。なぜなら、神がキリストにおいて私たちにしてくださったこと、キリストが私たちのためにしてくださったこと自体が、そもそも打算からはずれたことだからです。それは人間的な損得勘定からするならば、はなはだ愚かなことに他ならないことだったからです。
カイアファは「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と言いました。しかし、聖書は大変不思議な説明を加えています。「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである」(51節)。
カイアファは損得の話をしていたのです。都合が良いか悪いかの話をしていたのです。しかし、彼の考えとは全く関係なく、図らずもそれがキリストについての預言となっていたというのです。神様がカイアファの言葉をさえ用いて真理を示しておられたのです。それは何か。それはキリストの死は確かに「身代わり」としての死であったということです。
カイアファは「国民全体が滅びないで済む方があなたがたに好都合だ」と言いました。しかし、人を最終的に滅ぼすのは、軍隊ではないのです。彼らを滅ぼすのはローマの軍事力ではないのです。人を最終的に滅ぼすのは人の力ではないのです。では、人を本当に滅ぼすのは何か。それは人間の罪なのです。そして、罪がもたらす神との断絶なのです。人間にとって本当に絶望的な状況はただ一つのことによるのです。悔い改めて神に立ち帰ることもなく、神の赦しを求めることもなく、神の愛と憐れみを信じることもなく、神から離れたままであるという現実こそが人を滅ぼすのです。神というまことの光を失うならば、人間は本当の暗闇の中に身を置くことになるのです。
祭司長たちはローマの軍隊を見ていました。キリストの目は人間の罪を見ていました。祭司長たちは自分たちの特権の危機を見ていました。キリストは神から離れた人間の危機を見ていました。祭司長たちは自分たちの都合のためにキリストを殺そうとしていました。キリストは人間の救いのために自ら命をささげようとしていました。そうです、キリストは人間が罪を赦され、神と共に生きることができるように、人間のすべての罪を代わりに背負い、十字架において罪を贖おうとしておられたのです。これが人間の罪とキリストの愛のコントラストです。人間の打算と、打算を超えた愛のコントラストです。
キリストは愛によって十字架に向かわれました。それは人間的に見るならば愚かなことでした。しかし、愛するということは、時として、あえて愚かになることを意味するのです。あえて損をするという選択を意味するのです。キリストはあえて損をすることを選び、身代わりとして十字架にかかられることを選ばれたのです。
それゆえに、その方を信じようとするならば、打算によって信じることはできません。キリストを信じることが損になるか得になるかで信じることはできません。キリストの十字架の愛に目を向け、その愛に応えていくこと、それがキリストを信じることであり、キリストに従うことなのです。そこでは打算が沈黙するのです。キリストの愛によって、そこでは打算を越える決断が起こるのです。
今から300年ほど前のこと、デュッセルドルフの美術館にあった一つの絵の前に長い時間立ち尽くしていた青年がいました。彼の名はニコラウス・フォン・ツィンツェンドルフ。後にモラビア兄弟団という信仰共同体の監督となり、霊的指導者として後世に大きな影響を与えることとなった人物です。彼が見つめていたのは、「この人を見よ」と題されたキリストの十字架の絵でした。茨の冠をかぶせられ十字架に釘づけられているキリストの姿でした。その絵のもとにはラテン語でこう記されていたそうです。「わたしはあなたのためにこのことをなした。あなたはわたしのために何をするのか。」彼はそこで確かにキリストの語りかけを聞いたのだと思います。そして、そこにおいてはもはや何が得であるか何が損であるかなどということは、どうでもよいことだったのです。彼は自らの人生を、そのままキリストに差し出したのでした。
私たちのための身代わりの十字架。その姿は私たちに向かっても同じことを語っているのでしょう。「わたしはあなたのためにこのことをなした」と。私たちはどうお応えするのでしょう。
2024年10月9日水曜日
祈祷会用:レビ記 8:1~36
レビ記 8:1‐36
今日お読みしたところには、祭司の任職について書かれています。祭司は、人々に代わって、人々を代表して神に近づきます。もう一方で、祭司は人々に律法を教えます。律法があるからこそ、罪もまた明らかになります。そこで祭司は教えるだけでなく、人々の弱さをたずさえて、神の御前に出て、神に語るのです。聖所の中に入ることができるのは彼らだけであり、人々は間接的にのみ神に近づくことができたのです。
しかし、それはいわば予告編なのであって、本編を指し示すものに過ぎません。本編が到来して、キリストが十字架の上で血を流され、よみがえられてからは、キリストを信じる者すべてが祭司となりました(1ペトロ2:9)。また、イエス様ご自身が私たちの大祭司となり、神の右の座におられて、私たちのために執り成してくださっているのです(ヘブライ8:1)。それゆえ、8章から10章にかけては、祭司について書かれているのですが、そこにおい私たちは、大祭司であるキリストについて学ぶことができますし、また、祭司の務めを任されている私たち自身の働きについて学ぶことができるのです。そこで、今日は特に8章に書かれている任職式の様子から学びたいと思います。
主は既に、シナイ山の上でモーセに、アロンとその子らの任職式に関して指示を与えています(出エジプト記29章)。ここに書かれていることは、まさに出エジプト記において主が命じられたことが実行されている次第が伝えられているのです。「これは主が命じられたことである」(5節)とモーセが語っているとおりです。
ここでアロンと4人の息子が祭司となるための儀式が行われています。彼らが神のものとなり、神から託された働きを行うことができるように聖別されるのです。彼らは、そのままで主に用いられることはできません。アロンがモーセの兄という理由で用いられることはありません。また、息子たちがアロンとの血縁関係があるという理由で用いられることはありません。まず、主が望まれる仕方で、主の御言葉に従って聖別されなくてはならないのです。
何のためにこんな儀式が必要なのかと問うことは無益です。主が定められたからという答えしかないからです。また主は、イスラエルの全会衆が祭司の任職式に集うように命じておられます。もちろん、現実的には全員が集まることはできないでしょうから、おそらく代表のイスラエルの長老たちが臨在の幕屋の入り口に近づいているものと思われます。しかし、いずれにせよ、祭司が任命されることは、主の御言葉に従って、公になされねばならなかったのです。
今日、祭司としてのキリスト者が地上に存在することについても、主が定められたことがあります。キリストとの関係において「私的に」キリスト者になることはできません。なぜ十字架を通しての罪の赦しなのか。主が定められたからです。なぜ十字架を信じてバプテスマを受けることが必要なのか。主が命じておられるからです。なぜ聖餐を行うのか。主が命じておられるからです。それは個人的なことではなくすべて共同体的なことです。病床洗礼においてさえそうなのです。また、教会のすべての働きは共同体的なことであり、公のことなのです。教会とは関係なく、神の民と関係なく、個人的にキリスト者であり祭司であることはあり得ないのです。
祭司の任職において、彼らはまず水で清められる必要がありました。祭司は神と人との間に立つのですから、その務めは汚れを帯びていてはなりません。しかし、その清さは自分自身で獲得するのではありません。人間から生じる清さが人を働きにふさわしくするのではないのです。それはまず「洗われる」ことによって得られるのです。つまり、この水による洗いは、《神によって》清められることを象徴しているのです。
そして、彼らは新しい装束を得ることになります。彼らは長い服を着せられ、飾り帯を締め、頭にターバンを巻きます。その一つ一つの意味が何であれ、大事なことは、「着せられる」ということです。外から、神から着せられるのであって、その人の中から出て来るものではないのです。その人が祭司にふさわしいから祭司になるのではないのです。その務めは「着せられる」のです。逆に言えば、それが純粋に外から来るゆえに、その恵みに応答する責任、忠実さが求められることになるのです。
キリスト者という祭司になるのもまた同じです。外から洗われて務めに就くのです。それが洗礼です。清めるのは神であって、清くなったから洗礼を受けるのではありません。また、その務めに就かせられるのは、着せられることに他なりません。「キリストを着る」(ローマ13:14,ガラテヤ3:27)という表現が新約聖書に出てくるのは、そういうわけです。
続いて油が注がれます。まず幕屋と外庭にあるあらゆる用具に油を注ぎます。これらを聖別するためです。聖別とは、他のものと区別して、ただ神のものとして用いることを意味します。これらの用具、例えば、12個のパンを置く机は、他の机と区別されて、主を礼拝するためだけに用いられることになります。そのために油が注がれるのです。
興味深いのは、続いてアロン自身にも油が注がれたということです。頭から聖別の油の一部が注がれるのです。祭具を聖別した後なら意味もはっきりします。基本的には聖別された机と一緒です。他の用途に用いてはならないということです。完全に神のものとして、神への奉仕だけに用いられる器として聖別されるということです。
さらに、贖罪の献げ物と焼き尽くす献げ物が献げられます。私たちがこれまで見てきたように、決められた手順でいけにえがほふられます。まず、雄牛の上に手を置く。これはこの動物が、確かに自分自身であり、自分の身代わりになったことを示します。そして、この動物をほふられ、血が流されます。それを取って、祭壇をきよめるのです。ここでは水で清めるのではなく、血で清めることになります。ここにおいては、明らかに罪の赦しが問題となっているからです。そして、雄牛を解体して、脂肪と内臓の部分は祭壇の上で焼きます。肉や皮や汚物など、その他の部分は宿営の外に持っていき、そこで焼き捨てます。これは、私たちの主が、エルサレムの町の外で、神に遺棄されたものとして、十字架につけられ、死なれたことを指し示すものです。
贖罪の献げ物は、罪を自覚することなくして献げることはできないことについては、既に申しました。祭司の務めを果たすとき最初に向き合わなくてはならなかったのは、自分が罪ある人間であるという事実でした。まず、自分の罪が贖われなくてはならないという事実を、自分自身がまず目の前で死んでいく動物の姿を通して見なくてはならなかったのです。そのことを知ってこそ、はじめて神にお仕えし、神に用いられるようになるからです。それは確かに、キリスト者が祭司としてのキリスト者として生きる上で、まず知らなくてはならないことなのでしょう。
そして、祭司は罪を赦された自分自身を献げるのです。それを象徴しているのが焼き尽くす献げ物です。自分が罪深い人間であると知った上で、その自分の身を主におささげするのです。
続いて、任職の献げ物が献げられます。任職の献げ物とされる雄羊については、その流された血を、祭司になる人の耳たぶと手足の親指に塗ったことが記されています。任職の献げ物においては、このことが特徴的であると言えるでしょう。すべて右側に付けられていますが、聖書では右は権威や活動の象徴です。それはすべて神の権威に服することを示しています。耳たぶに血が塗られるのは、私たちが聞くことにおいて服従することを意味します。右手の親指に血が塗られるのは、祭司の働きが神の権威に服するものとであることを示しています。手を動かすことによって、私たちは働きます。この手は、主が喜ばれることのみに用いるのです。そして、右足の親指に血が塗られるのは、私たちの歩みが聖別されるためです。私たちの足がどこに向かうかということもまた、神に服するものでなくてはならない。耳と手と足、要するに生活のすべてが聖別され、神に服するものとなるということを、この聖別の献げ物は示しているのです。
そして、30節に示されているように、祭服には聖別の油がそそがれます。さらには祭壇の血が取られ、振りまかれて、祭服には血の染みがつけられます。それは既に述べてきたように罪の赦しと神による聖別によって務めに立っていることが、誰からの目にも明らかになるように、いつでも公にされるようにということです。それはキリスト者であることについても言えるでしょう。罪が赦された者であり、神のものとして生きていること。それが誰の目にも見えるようになっていることは、本当はとても大事なことなのでしょう。
さて、そのような任職式は7日間続きます。33節以下においては、アロンとその子らに対して、その間、臨在の幕屋の入り口から離れてはならないという指示が出されています。それは何のためか。「死ぬことのないように」と書かれているのです。アロンとその子らは畏れをもって、その指示を聞かなくてはならなかったことでしょう。
それは自分が何のために召されたかを徹底的に知る七日間に他ならなかったはずです。確かに、自分が資格を獲得したのではないのです。まったく恵みによって選ばれたのです。その務めも自分の内から出たものではなく着せられたものです。しかし、だからこそ畏れをもって応答し、仕えていくことが求められているのです。それこそがキリスト者の本来のあり方なのです。自分が何者であるか。何者とされているのか。私たちもまた、徹底的にそのことを見つめる期間が必要なのではないかと思います。
2024年10月6日日曜日
「皆が一つになるように」
ヨハネによる福音書 17:20-26
今日の福音書朗読ではキリストの祈りの言葉が読まれました。場面は最後の晩餐です。この祈りを捧げて、イエス様は弟子たちと共に外に出て行きます。その先に何が待っているかを主はご存じでした。向かった先のゲッセマネの園には、イスカリオテのユダが兵士たちを率いてやってくるでしょう。そして、主は捕らえられることになり、裁きを受け、鞭で打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架にかけられることになります。主はすべてをご存じでした。その意味で、今日お読みした祈りの言葉は、御自分の死を前にした祈りの言葉に他ならないのです。
祈りの言葉そのものは17章全体に及んでいますが、はっきりと三つの部分に分かれます。第一は1節から5節までです。そこで主は御自分のために祈ります。第二は6節から19節までです。そこで主は弟子たちのために祈ります。第三は今日お読みした20節から26節までです。そこで主は、教会の宣教によって御自分を信じるようになるすべての人々のために祈ります。
彼らもわたしたちの内にいるように
そこで主はこう祈り始められました。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20節)。彼らというのは、直接的にはキリストの弟子たちを指しています。イエス様は御自分の弟子たちのことをよくご存じでした。彼らの弱さもご存じでした。彼らが御自分を見捨てて逃げてしまうこともご存じでした。ペトロについては既にこう言っておられます。「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:3)。
しかし、主はそのような弟子たちを、それでもなお信頼しておられました。そして、彼らに宣教の働きを託されました。いや、それだけではありません。主は既に、彼らの言葉を通してキリストを信じる人々の群れを見ておられるのです。心の目で見ておられるのです。それゆえに、主はやがて主を信じることになる多くの人々のために祈られたのです。
そして、主がその時、心の目をもって見ておられたことは、やがて現実となりました。弟子たちの言葉によって、キリストを信じる人々がこの世に次々と生み出されていきました。なんと、それから二千年後の今日、キリストを信じる者たちは、この日本にも存在しているのです。確かにキリストを信じる私たちがここにいるのです。あのときのイエス様の祈りは、ここにいる私たちのための祈りでもあったのです。
主は私たちのために何を祈っておられるのでしょう。キリストの祈りは次のように続きます。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)。
キリストは私たちが一つとなることを願い、祈っておられます。「すべての人を」と主は言われました。この言葉はあらゆる範囲に及びます。主はこの地球上のすべての教会が一つとなることを願っておられます。主はこの日本のすべての教会が、すべてのキリスト者が一つとなることを願っておられます。主はこの頌栄教会が一つとなることを願っておられます。主は異なるお互いが一つとなることを願っておられます。
一つとなるとはどういうことでしょうか。主は「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」と言われます。単に「みんな仲良くするように」ということではなさそうです。
父は子の内に、子は父の内に。そこに言い表されているのは、イエス様と父なる神との交わりです。愛と信頼の絆で結ばれた親子の関係をイエス様は見せてくださいました。そして、その交わりの中に私たちもまた加えられることを主は願っておられるのです。「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」とはそういうことです。イエス様が見せてくださった親子の関係の中に、神の家族の中に、私たちもまたいるようにしてくださいと主は祈られたのです。そして、それこそが、「一つとなる」ということなのです。
「すべての人を一つにしてください」。それは共に天の父の子供たちとして生きるように、ということです。共にキリストの兄弟として生きるように、ということです。共に神の家族として生きるように、ということです。そのように一つとなるのです。
ですからそのように一つとなっている目に見える姿は、同じ父に向かって一緒に祈る姿なのです。一緒に礼拝する姿なのです。互いに異なる者たちが、互いに相容れぬものを持っているかもしれない者たちが、様々なことにおいて互いに意見の異なる私たちが、それにもかかわらず同じ父の子供たちとして、共に神に祈りながら、共に神を礼拝しながら生きて行く。それこそが「一つにしてください」というイエス様の祈りの答えなのです。
完全に一つになるために
そして、主はこのことを別な言葉をもって次のように表現しています。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(22‐23節)。
「あなたがくださった栄光」とはイエス様が持っておられた神の子としての栄光です。イエス様は、その栄光を私たちにも分かち与えてくださいました。それは、私たちもまた、神の子どもたちとして生きることができるということです。主は、私たちもまた、「天にまします我らの父よ」と共に祈って生きる者としてくださいました。それは「彼らも一つになるためです」と主は言われます。
そして、そのように同じ父を仰いで一つとなっている姿こそが、キリストをこの世界に証しするものとなるのです。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)と主は言われました。また、「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(23節)と主は言われるのです。
確かに、互いに異なる者たちが、同じ天の父を仰いで共に礼拝している姿を通して、福音は伝えられてきたのです。共に礼拝する姿が、今日に至るまで途絶えることがなかったからこそ、私たちもまたキリストを知ることができたのです。その意味で、私たちがここに存在していること自体が、既にキリストの祈りの答えであるとも言えるのです。
彼らも共におらせてください
さらにキリストの祈りはこのように続きます。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(24節)。
最初に申しましたように、この祈りは、死を前にしたキリストの祈りでなのす。主は、この世から父のもとへ帰る御自分の時が来たことを知っておられるのです。そこで、主はこう祈られました。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」
私たちは、この世において、同じ父に祈る者とされました。この世において、同じ父の子どもたちとして、共に礼拝する者とされました。この世においてイエス様の兄弟姉妹とされ、互いに兄弟姉妹とされました。そして、その絆が、この世の生を終えた後もなお続くことをイエス様は願っていてくださいます。「わたしのいる所に、共におらせてください」と。
私たちが願う以前に、イエス様が願っていてくださいます。私たちが祈る前にイエス様が祈っていてくださいます。そして、こう祈られたイエス様は、私たちの罪を贖うために十字架へと向かわれたのです。そこに死を越えた希望を私たちが持ち得る根拠があります。私たちもまた、「この世において共に祈りを捧げてきた父のもとに帰るのだ。イエス様がおられるところに私たちもまたいることになるのだ」と言い得る根拠があるのです。
「それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」と主は言われました。主は必ず見せてくださいます。そこにおいて、私たちは神の子の栄光を目の当たりにすることになるのです。そして、その時私たちは知ることになるのです。その御方の兄弟とされているということ、神の家族に迎え入れられているということが、どれほど栄光に満ちたことであるのかということを。
この祈りの直前に、主は「あなたがたには世で苦難がある」と言っておられます。確かにそうなのでしょう。しかし、そのようなこの世のただ中において、私たちは既に愛されている神の子どもたちとして、共に礼拝を捧げる者とされているのです。既にどれほど大きな恵みにあずかっていることか。私たちは恐らく、まだ本当のところを知りません。しかし、やがて知ることになるのです。神の子の栄光を見る時に、はっきりと知ることになるのです。
2024年10月2日水曜日
祈祷会用:レビ記 7:1~21
レビ記 7:1-21
今週も引き続き、各種の献げ物に関する施行細則の部分をお読みします。既に読んできましたそれぞれの献げ物の意味を振り返りながら、この施行細則において強調されている特別なメッセージに耳を傾けたいと思います。
7章に入りますと、まず「賠償の献げ物」に関する細則が記されています。賠償の献げ物については、既に5章14節以下において見てきました。まず簡単に振り返っておきましょう。
人間には償い得るものと償い得ないものがあります。償い得ないものに関して、それを一生背負って苦しみ続けることは、主が望むところではありません。しかし、償い得るものもあるのです。それについては償ったらよいし、償うべきなのです。その償いに伴うのがこの「賠償の献げ物」です。
償いについては二通りあります。まずは主に対する償いです。5章に書かれていたのは、主に献げるべき奉納物を過って献げなかった場合です。その背景には聖書の独特の考え方があります。「主に献げるべき奉納物」と訳されているのは「主の聖なるもの」という言葉です。すなわち「主のもの」ということです。献げものというのは、私たちのものを主に「あげる」のではありません。もともと「主のもの」であるものを主のものとするのです。ですから「主に献げるべき奉納物」を献げないということは、要するに主のものを自分のものにしてしまっているということです。それは償い得ることなので償う。そこで献げるのが「賠償の献げ物」です。
さらに、書かれているのは、禁じられている主の戒めを破った場合です。それはいわば主に損害を与えるということとして書かれているのです。これが聖書の見方です。私たちの罪は、それが何であれ、主に対して損害を与えることなのだということです。ならば、償い得るものは償わなくてはならない。そこで賠償の献げ物を献げます。
その次には人間に対することが書かれているのですが、人間に対して罪を犯した場合も、それは単に人と人との間のことではありません。人が気づかなくても、裁判で有罪にならなくても、それが罪ならば責めを負います。責めは神に対して負うのです。それゆえに、返すべきものは返し、その上で賠償の献げ物を献げるのです。
さて、今日お読みした箇所には、さらに賠償の献げ物を捧げる際の細かい規定が書かれています。大きく分けるならば、「血」と「脂肪」と「肉」について書かれているのです。
賠償の献げ物は、焼き尽くす献げ物を屠る場所で屠ります。すると血が流れます。血は祭壇に注ぎかけます。これは焼き尽くす献げ物の時と同じように、罪を贖うために流される血です。17章11節に「血はその中の命によって贖いをするのである」と書かれているとおりです。血が注がれるということは、命が注がれるということです。命が注がれるとき、もとの犠牲は命が出てしまうわけですから死ぬことになります。それは贖いのための死です。注がれる血は、その死が贖いのための死であることを示しているのです。
そして、その血は祭壇の四つの側面に注がれるのです。それは焼き尽くす献げ物のときと同じです。それは要するに、すべての人から見えるように注がれるということです。それを献げた人だけが見るのではなく、罪が赦されるために命が注がれたことが公に示されるということです。
続いて「脂肪」については「祭司はこれを祭壇で燃やして主にささげ、煙にする」(5節)と書かれています。特に祭司に対する指示としてこう書かれていることには、意味があります。犠牲は6節に書かれているように、祭司の食糧にもなるからです。その犠牲において、脂肪の部分は食物としては最上の部位とされていたのです。それを惜しみなく煙にすることが、特に祭司への指示として書かれているのです。祭司はそれが煙になることを惜しんではならないのです。
後にサムエル記などに見るように、祭司職というものは堕落への誘惑が常に隣り合わせにあります。それは神に関わることを自分の利益のために用いようとしてしまうところから起こります。そのような人間の弱さがあるゆえに、特に祭司の食料となる犠牲については、祭司に対してこのことがはっきりと書かれているのです。
そして、最後の「肉」については、明記されてはいませんが、「祭司の家系につながる男子は皆、これを食べることができる」(6節)に書かれている「これ」とは、「血」や「脂肪」以外の食べられる部分を指していることは明らかです。
この犠牲については1,6節に「神聖なものである」という表現が繰り返されています。これは英語にするならば、"Holy of Holies"という言葉になり、最も聖なるものであり、完全に神のものであることが示されているのです。そう言われているにもかかわらず、もう一方で献げ物については、「祭司のものである」という言葉が繰り返されているのです(7、8、9節)。
神のものが祭司のものとなっている。そこに起こっているのは、一つには6:10に書かれていたことと同じで、神が御自分のものを祭司に取り分けて与えたということです。しかし、献げる側から見るならば、そこにはもう一つの意味があると言えます。そこでは祭司が食べているのですが、彼は神に代わって食べているのです。それは神が償いを受け入れてくださったことを目に見える形で示すデモンストレーションでもあるのです。
続いて、「和解の献げ物」について、かなり詳細な施行細則が書かれています。今日はその前半部分だけをお読みしました。「和解の献げ物」と訳されているのは「ゼバハ・シェラーミーム」という二つの単語です。ゼバハとは通常の動物犠牲をあらわす言葉です。そして、シェラーミームという単語は、「シャーローム(平和)」という言葉に由来します。ですから「平和の献げ物(peace-offering)」とも訳されます。
その「平和」とは神との平和であり、また人との平和でもあります。なので、以前にも話しましたとおり、この献げ物の最大の特徴は、献げた人と招待された客が一緒に「食べる」ということにあります。祭司が受ける分については、胸の肉と右後ろ肢というように明確に定められています。「なぜなら奉納物の胸の肉と献納物の右後ろ肢は、イスラエルの民がささげる和解の献げ物のうちから、わたしが取り分けて、祭司アロンとその子らに与えたものだからである。これはイスラエルの人々が守るべき不変の定めである」(34節)と書かれているとおりです。煙にするのは脂肪の部分ですから、他の部分は残ります。それらを皆で食べるのです。
しかし、残った部分も献げ物の一部ですから、それは本来神のものです。ならば、祭司以外が食べる部分についても、原則は祭司の場合と同じです。神が取り分けて与えてくださったのです。つまり、ここで皆が一緒に食べるとき、それはあたかも神の食卓に招かれているというイメージになるのです。それは神の招きによるのです。食事に招いてくださったことによって表現されているのは神との平和です。そして、当然共に招かれた人と人との間にも平和がもたらされます。それは神によって与えられた平和なのです。
そして、今日の箇所には、「和解の献げ物」を献げる場面は、必ずしも一通りでないことが示されていました。人は「感謝の献げ物」として和解の献げ物をささげることもあるし、あるいは「満願の献げ物」として和解の献げ物をささげることもあるのです。あるいは「随意の献げ物」としてささげることもあります。
感謝の献げ物としてささげる場合と、満願の献げ物としてささげる場合には、例えば翌日も食べることができるか否かに違いがあります。どうして感謝の献げ物の場合は二日目に食べることができないで、満願の献げ物の場合には食べることができるのか。よく分かりません。しかし、大事なことは、感謝の場合にせよ、満願の場合にせよ、神の指示に従って会食が行われたということなのです。つまり、感謝にせよ、満願にせよ、これを自分と神との間のことにしなかったということです。そこで人と喜びを共にするのです。随意の献げ物ですらそうなのです。それを自分と神との間のことにしないのです。
しかし、会食ということが入って来ると、もう一方では単に人と人との間のことになってしまうという危険もあります。「感謝の献げ物」をするのは、何か感謝すべきことが具体的にある場合が多いのでしょう。しかし、その喜ばしいことについて、単にみんなが集まってお祝いするだけのことにしてしまわないためにも、「和解の献げ物」を「感謝の献げ物」としてささげるということが重要なのでしょう。
それは神への献げ物ですから、神の定めに従って食べなくてはならないのです。神が二日目には食べるなと言われるなら、二日目には食べないのです。その他、諸々の規定に従って食べるのです。とかく人が集まって食べる時、そこには実際には人間しか見えないから、ともすると単なる食事になりかねません。この箇所を読みますと、古代の教会において聖餐式がそのようなものとなってしまったことを思い起こします。(1コリント11:17以下)。
人間にはそのような弱さが確かにあります。だからこそ、これを神が招いてくださった食事とわきまえて食べないならば、「自分が属する民から断たれる」とまで書かれているのです。「自分が属する民から断たれる」は必ずしも死刑を意味しないと学者は言います。しかし、神の民から断たれることは、本当は命を絶たれることよりも大きなことではないのではないでしょうか。