レビ記 2:1-16
2章に入りました。今回は穀物の献げ物の話です。「穀物の献げ物」と訳されているのは「ミンハー」というヘブライ語です。レビ記においては明らかに「ミンハー」を「穀物の献げ物」という意味で使っているので、その翻訳で間違いではないのですが、実はこの言葉は祭儀のための特別な用語ではないのです。これは世俗の世界においても使われる言葉なのです。それは一般的な「貢ぎ物」という意味の言葉なのです。例えば、士師記の記述において、「イスラエルの人々が主に助けを求めて叫んだので、主は彼らのために一人の救助者を立てられた。これがベニヤミン族のゲラの子、左利きのエフドである。イスラエルの人々は貢ぎ物を彼の手に託して、モアブの王エグロンのもとに送った」(士師記3:15)とありますが、この「貢ぎ物」と訳されているものが「ミンハー」なのです。
「貢ぎ物」という言葉には、上下関係がはっきりと言い表されています。今日の箇所も、例えば「穀物の献げ物」の部分を「貢ぎ物」と読み替えてみ読んだら、上下関係がはっきりします。神様に献げるのだから、上下関係があるのは当然なのですけれど、それをもともとはっきり現しているのが「ミンハー」なのです。ですから、ユダヤ教のラビは、これを献げること自体に、神の支配のもとにあること、神が主であることを認めることを意味したのだ、と説明しているのです。
ところで、このミンハーも、基本的には献身を意味する献げ物です。これは煙にするのです。しかし、これは祭司たちの食物にもなるので、全部を煙にすることはしません。しかし、ここではあえて「しるしとして」(2節)と書かれているのです。それは一部しか煙にしないけれど、それはしるしなのだ、つまり全部献げるというしるしなのだ、ということです。これについては、あとでまた触れることにします。
さて、この「穀物の献げ物」が焼き尽くす献げ物の後にわざわざ分け入るように書かれているのには、二つの意味があります。
一つは「貧しくても献げられる献げ物」という意味です。焼き尽くす献げ物を献げることができない人たちがいるのです。だからそれに代わるものという意味で、この献げ方が記されているのです。
焼き尽くす献げ物にも、既に貧しい人への配慮があったことを思い起こしてください。牛を献げることができない人については、鳩でもいいことになっているのです。しかし、鳩も無理という人たちが現にいるのです。その人たちでも、献げ物が献げられるように、というのが穀物の献げ物の主旨です。
その献げ方には二通りありました。一つは「粉」のまま献げる献げ方です。これが1節から3節にかけて記されています。もう一つは調理して献げる仕方です。これが4節から10節までに記されています。そこに書かれているように、料理の仕方もいろいろあります。かまどで輪型のパンか薄焼きパンにして献げることもできます。あるいは、鉄板焼きにして献げることもできます。平鍋で蒸し焼きにする(これはオリーブ油で揚げ物にするのだという説もある)こともできます。
いずれにせよ、酵母を入れない。蜂蜜も入れないというのが共通した条件です。しかし、ここでは共通することよりも違いが重要になります。
粉で献げる場合は、オリーブ油と乳香を加えるように指示されています。大量に加えるようにとは書かれていません。恐らくは微々たるものです。しかし、それでも乳香にはお金がかかります。
これに対して、調理する場合はどうでしょう。乳香は必要ありません。つまり、貧しい人たちが献げるという場合においても、そこには配慮があるということです。貧しい中でもまだ乳香を入れられる人は、そのまま献げたらよいのです。しかし、乳香を買えない人もいるわけです。その人たちは調理することで、代わりにできるのです。手間をかけることで代わりにできるということです。それならばできないことはありません。
そのように、献げ物の規定は、どんなに貧しくても献げられるようにできているのです。小麦粉はたしかに上等なもので、ふすまの入っていないものを献げます。しかし、それでもそれは日常の食物の範囲です。もし買えないというのなら、一回断食したら献げられるのです。
考えてみれば、これは驚くべきことだとも言えます。この冒頭の書き方は、日本語では分かりにくいのですが、これが任意の献げ物であることを示しているのです。それは何を意味しているのでしょうか。そのように貧しくても、鳩さえ献げることができない人でも、あえて自発的に献げようとする人たちがいたということです。貧しいから献げられないということはないことを、ミンハーは示しているのです。
それは新約において「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)と勧められていたことを思い起こす時、私たちにも大きく関わってまいります。貧しさは経済的なことばかりではない。自分に能力がない、自分には健康がない。自分には若さがない。人生の残り時間があまりない。だから神に自分を献げられない。いいえ、そんなことはない、ということです。どんなに貧しくとも、自分を献げることはできる。自発的にミンハーを献げた人々の心があるならば献げることができるのです。
実はこれも日本語になりにくいのですけれど、原文の頭は、「人が穀物の献げ物を主にささげるときは」となっているのです。そして、「人」と訳しましたが、これは「ネフェシュ」という言葉で、「魂」とか「命」と訳されることの方が多いのです。なので、あえて訳すならば、「一つの命がミンハーを献げるならば・・・」とも訳せるのです。どんなに貧しくても、ミンハーを献げられる。それは自分の命、自分の魂が献げることであり、その意味でまさに自分自身が自分自身を献げるしるしなのです。
先ほど貧しくても献げられると言った。実際、私たちどんなに貧しくても自分の命という意味で自分を献げることはできる。年老いても献げることができる。病床にあっても、自分を献げることができる。最終的には、文字通り自分の命を神様にお献げして、一生を終えるのです。
そのように、どんな人でも神に自分を献げることができることを示しているのがこの「ミンハー」なのです。
さて、そのように、ミンハーには、「貧しくても献げられる献げ物」という意味があることをお話ししましたが、もう一つ重要なのは、そこに「日常を献げる献げ物」という意味があるということです。このミンハーは貧しい人がそれだけ単独で献げることもあります。しかし、その他にも、焼き尽くす献げ物や和解の献げ物に添えて献げるという場合もあります。
そうしますと、もう一つの象徴的な意味が見えてまいります。だいたい、イスラエルの民は年がら年中牛や羊を屠って肉を食べているわけではありません。いや、むしろめったに肉は食べないのです。普段は、それこそ、ここに出て来るような小麦でできている「輪形のパン」や「薄焼きパン」あるいは大麦を食べているのです。つまりあの牛を献げるということは、ある意味では特別なこと、非日常的なことなのですが、このミンハーはまさに日常を献げることを目に見える形で現しているのです。
神に身を献げて生きるとは、何も特別なことではなかったのです。祭司になることだけではないのです。そもそも祭司はアロンの子孫しかなれなかったのですから。そうではなく、彼らにしても、まさに日常を献げること、日常を主のために生きること、主のものとして生きることを意味したのです。そのように、聖なるものとして生きる、主のものとして生きる「献身」とは日常を献げることなのだということを示しているのが、この「ミンハー」なのです。
さて、11節以下では、穀物の献げ物には「酵母や密のたぐい」は入れてはならないこと、また、穀物の献げ物には「塩をかける」ことが確認され、また命じられています。これは実際的な目的としては、腐敗を防ぐためであると考えられます。そのために酵母や蜜の類の混入を避け、防腐のために塩を加えるのです。その必要があるのは、ミンハーは全部を煙にするのではなく、祭司の食糧ともなるからです。ちなみに、全部を煙にしないのですが、それでもすべては主に献げられたものであるということが、強調されて書かれています。「穀物の献げ物の残りはアロンとその子らのものである。これは、燃やして主にささげられたものの一部であるから、神聖なものである」(3節、10節)。この「神聖なもの」とは「聖なるものの内最も聖なるもの」というのが直訳です。これは祭司が食べるとしても、全部が主に献げられた、主のものなのです。
そのように、実際的な理由はあるのですが、そこには象徴的な意味を見ることもできるでしょう。新約聖書において、イエス様は「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(マルコ8:15)と言われ、パウロもまた、「だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」(1コリント5:8)と語っていますように、「パン種」すなわち「酵母」は、わずかな悪しきものが全体に影響を与えるものを喩えるために用いられています。ミンハーが日常生活を献げることを象徴しているとするならば、まさにその日常生活の中にこそ、パン種の類が入らないように注意しなくてはならない、ということでもあります。「純粋で真実のパン」として、日常を献げられることを求めるべきなのでしょう。
また、塩はここで特に「契約の塩」と呼ばれているように、神との契約の永続性を象徴するものだったようです。契約に基づいた神の変わることのない慈しみに思いを馳せ、私たち自身も契約に真実に、神のものとして生きて行くことを心新たに思いつつ献げる。それがミンハーの意味するところなのだと思います。それは、私たちの主日礼拝においても、常に心に留めなくてはならないことなのでしょう。
2024年8月28日水曜日
祈祷会用:レビ記 2:1~16
2024年8月25日日曜日
「日々神に感謝して」
エフェソの信徒への手紙 5:15-20
愚かな者としてではなく、賢い者として
「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい」(15節)と書かれていました。処世術の話ではありません。この部分には「光の子として生きる」と小見出しが付けられています。要するに、信仰生活の話だということです。
信仰生活においては、愚かな者としてではなく、賢い者として歩む必要があるのです。「歩む」とは具体的な日々の生活を意味します。与えられた場所で、与えられた関わりの中で、具体的にどう生きていくのか、ということです。そこで「愚かな者」として生きることもできるし、「賢い者」として生きることもできるのです。
では賢い者として生きるとはどういうことでしょう。実は原文において16節は独立した一文ではなく、15節の続きとして「時をよく用いながら」と書かれているのです。賢い者として歩むとは、「時をよく用いる」ということのようです。
「時をよく用いる」という表現は、「時間を無駄にせず有効に使う」という意味に聞こえるかもしれません。確かに時間を有効に用いることは賢い生活と言えるでしょう。しかし、ここで言う「時」とは、誰にも等しく与えられている一日24時間のことではなく、ある特定の「時」、与えられた特別な「時」を表す言葉なのです。それゆえに多くの翻訳では「機会(opportunity)」と訳されています。これは「与えられた機会を十分に生かして用いなさい」という勧めなのです。それこそが賢い者として歩むということなのです。
では十分に生かすべき「機会」とは何のための機会でしょう。それは神の御心を行う機会です。この世にあって神の望んでおられることを行う機会です。ですから17節にも「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」と勧められているのです。このことについては、今日の箇所の少し前にも書かれています。「何が主に喜ばれるかを吟味しなさい」(10節)と。
主の御心を行う機会が与えられているのです。主に喜ばれることを行うチャンスが与えられているのです。そのチャンスを無駄にしない。与えられた機会を十分に生かして用いて、賢い者として歩むように、細かく気を配って歩むようにと勧められているのです。
それはどうしてでしょうか。パウロは言います、「今は悪い時代なのです」と。「時代」と仰々しく訳されていますが、ここで用いられているのは「日々」という言葉です。パウロは悪い日々を見ているのです。
実際そうでしょう。パウロはこの手紙を獄中で書いているのです。伝道者が投獄されてしまうような時代、そのような日々をパウロは経験しているのです。それはエフェソの信徒にとっても同じです。イエスを信じているというだけで、いわれのない中傷を受け、不当な扱いを受けることもあるのでしょう。そのような悪い日々を見てきたに違いありません。そして、自分の日々だけでなく、この世界そのものが悪い日々を重ねながら歴史を刻んでいるのを見ていたのです。その意味では私たちが見ている日々も変わらないかもしれません。私たちもまた、「今は悪い時代なのです。悪い日々です」と言わざるを得ないのかもしれません。
しかし、そこでパウロは言うのです。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい」と。そのような時代であるからこそ、そのような日々であるからこそ、そこに与えられた機会もまたあるのです。御心を行う機会もあるのです。
誰かから苦しみを与えられたなら、それは赦しを与える機会ともなるのでしょう。相手に愛を示し、その人のために祈る機会ともなるのでしょう。隔ての壁があるならば、それはキリストによる和解を実現する機会ともなるのでしょう。教会はキリストの体です。私たちはその体の部分です。体である私たちを用いてキリストはその愛を現そうとしておられます。その御心を行い、キリストの体としてキリストの愛をこの世界に現す機会はたくさん与えられているのです。悪い日々にこそ、機会はたくさん与えられているのです。
「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」と聖書は言うのです。そうです、私たちがどのような状況に置かれているとしても、私たちが今、現に目にしている日々においてこそ、主の御心が何であるかを悟らなくてはならないのです。そうでなければ、機会を生かして用いることができないからです。
霊に満たされなさい
そのことが信仰生活において実現するために、パウロはさらにこう続けます。「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」(18‐19節)。
「賢い者としての歩み」「時をよく用いた生活」は、ただ人間の決意や努力から生まれるものではなさそうです。涸れ井戸から水を無理に汲み出せば泥水をまき散らすことになります。清い水が満たされている井戸からこそ、清い水を汲み出すことができるのです。それゆえにパウロは言うのです。「霊に満たされなさい」と。これは神の霊、聖なる霊、「聖霊」に満たされなさい、ということです。
しかし、その勧めが「酒に酔いしれてはなりません」という言葉から始まっているのは興味深いことです。これは単なる禁酒の勧めではありません。「それは身を持ち崩すもと」であることは、誰もが良く知っているのであって、そのようなことは聖書がわざわざ語る必要もないことだからです。
ここで大切なことは、あくまでもこの言葉が、「霊」すなわち神の霊、聖霊に満たされることと対比されているということです。つまり問題の中心は聖霊が満たすべきところを酒が満たしているということなのです。神が支配すべきところを、酒が支配しているということなのです。
「今は悪い時代なのです。悪い日々です」。そのような日々を見ている時に、神を求めるのではなく酒を求めることは起こり得ることです。神の霊に満たされることではなく、酒に満たされることを求めてしまうことはあり得ることです。酒に限らず、何か他のもので満たされることを求めてしまう。そのようにして現実逃避へと流れてしまう。それは起こり得ることです。
だからこそパウロは言うのです。「むしろ、霊に満たされなさい」と。具体的にどうしたらよいのでしょう。パウロはこう言って勧めます。「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい」。これは礼拝の話です。
「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い」という言葉は、ある意味では奇妙な分かりにくい言葉とも言えます。これについては「交唱」という形で賛美を捧げていたことを指すという理解があります。あるいはコロサイの信徒への手紙には「知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい」(コロサイ3:16)とありますから、賛美を捧げるだけでなく互いに教え合うことも含めて語っているのだ、という解釈もあります。実際、そうなのかもしれません。
いずれにせよ、「語り合い」と言うのですから、その言葉は共に集まっていることを前提としています。しかも、「皆それぞれ神様には向いてはいますが、お互いは関係ありません」という集まり方ではありません。「語り合い」というのですから。一緒に神様を賛美しながら、神様の恵みを共有し、喜びを共有し、互いに心が通じ合っている。そういう集まり方を意味するのでしょう。
そのように集まることが大事なのです。あのペンテコステの日に最初に聖霊が降って一同が聖霊に満たされたのは、皆が集まっていた時でした。初めて異邦人に聖霊が降ったのも、百人隊長コルネリウスの家で皆が集まっていた時でした。今、私たちがこうしているように、集まることは大事です。そして、頌栄教会がもっともっと「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合っている」と言える教会になっていくは大事なことです。
しかし、大事なのは集まっている時間だけではありません。集まっている時間そのものは決して長くはありません。ほとんどの時は、それぞれの場所に散らされているわけです。それは当然、エフェソの信徒たちにしても同じでした。ですから、このように続くのです。「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(20節)。これは毎日の生活の話です。
細かいことを言いますと、日本語ですと19節と20節は切れていますが、原文では繋がった一つの文です。19節は集まっている時の話であり、20節はそれぞれの場所に散らされている毎日の話です。そして、この二つは切り離せないのです。
「そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」(20節)。霊に満たされて、日曜日の礼拝での賛美がさらには毎日の生活へと広がっていくのです。霊に満たされて、私たちの毎日は感謝の生活へと変えられていくのです。
それは「父である神」への感謝の生活です。独り子をさえ惜しまず与えてくださった父である神。独り子によって成し遂げられた罪の贖いのゆえに、私たちをも父の子どもたちとしてくださった神。その愛と慈しみを、いつも、あらゆることについて、私たちに注いでくださっている父である神。その神を礼拝する中で、その神への感謝の生活が、霊に満たされて、形づくられていくのです。
そのような生活においてこそ、時をよく用いることもできるのです。賢い者として歩むこともできるのです。今が悪い時代であっても、目にしているのが悪い日々であっても、そこに与えられている機会を十分に生かして用いることができるのです。主の御心を行う機会として。
2024年8月21日水曜日
祈祷会用:レビ記 1:1~17
レビ記 1:1‐17
今週からレビ記を読み始めます。現在の予定としては、まずはレビ記の前半部分である16章までお読みするつもりです。17章以下に関しては未定です。
「主は臨在の幕屋から、モーセを呼んで仰せになった」(1節)。このような言葉からレビ記は始まります。臨在の幕屋とは礼拝の場所です。既に見てきましたように、その詳細な作り方が直前の出エジプト記に記されていました。その幕屋が完成したところで出エジプト記は終わります。レビ記はその続きです。作られた幕屋から主がモーセを呼ばれます。主はモーセを通してイスラエルの民を礼拝へと招かれるのです。そこで主はモーセに犠牲の献げ方についての指示、すなわち、礼拝に関する指示を与えられたのでした。
さて、ここに書かれていることは、おおよそ私たちとは無縁のことのように思われます。私たちは教会に牛を連れてきたりはしません。牛を屠って火にくべたりはしません。しかし、かつて動物が犠牲としてささげられていた時、《ある定まった献げ方》があったということは私たちにとって極めて重要な意味を持っています。《形》というものは《意味》と不可分であるからです。私たちは、その意味を捉えなくてはなりません。
今日の聖書箇所に書かれていますのは、「焼き尽くす献げ物」の献げ方です。レビ記には何種類かの犠牲の献げ方が出ていますが、「焼き尽くす献げ物」は最も一般的な献げ方です。「焼き尽くす献げ物」として献げられる動物が、ここには何種類か出てきます。代表的なのは牛であり、その場合が詳細に記されています。
次に出ているのは、羊または山羊を献げる場合です。多くの所作は牛の場合に準じるので、簡単に書かれています。その次に書かれているのは山鳩または家鳩の場合です。このように何種類かに分かれているのは、値段が違うからです。皆が皆、牛を献げられるわけではありません。牛が無理な人は羊などを献げます。それも無理な人は鳩を献げます。経済的に困難な人の場合がこのように考慮されているのです。このように富める者も貧しい者も同様に礼拝へと招かれているのです。
さて、動物を焼き尽くして献げることの意味するところの一つは4節に明示されております。「手を献げ物とする牛の頭に置くと、それは、その人の罪を贖う儀式を行うものとして受け入れられる」(4節)。ここに記されているように、「焼き尽くす献げ物」に「罪を贖う儀式」という意味が伴っていたことを、私たちはまず心に留めたいと思います。
ここに記されているような動物犠牲を伴う儀式そのものは決してイスラエルに特有のものではありません。古今東西、様々な例が見られます。ある民族は、狩りの獲物をささげます。そのようにして、獲物を与えられたことを感謝すると共に、次なる狩猟のための祈願を行います。その他にも、家畜が殖えることを祈願して家畜を犠牲として献げる習慣を持つ民族もあります。同じような意味合いをもって農作物を献げる民族も少なくありません。
イスラエルもまた、家畜の多産や作物の豊作は、神から来るものであり、神の祝福であると理解していました。ですから、そのような祝福を求める祈願はあったに違いありません。しかし、イスラエルの礼拝においては、何よりもまず神の前における《自分の罪》を問題にしたのです。ですから「罪を贖う儀式」があるのです。
これは、言い換えるならば、「罪を赦していただく儀式」です。礼拝における大事な要素は、なによりもまず、罪を赦していただくことだったのです。というのも、そもそも神に赦していただかなければ、礼拝するために神の前に出ることすらできないのが人間だからです。そのような自己理解は、例えば詩編130編などに明瞭に言い表されています。
「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、
主よ、誰が耐ええましょう。
しかし、赦しはあなたのもとにあり、
人はあなたを畏れ敬うのです」(詩編130・3‐4)。
「人の罪を贖う儀式」としての犠牲奉献は、人間の根本的な必要が何であるかを、私たちに教えているとも言えるでしょう。私たちは多くのものを必要としています。そして、必要が満たされなくて困窮することがしばしばあります。そのことのゆえに苦悩し、あるいは自分は不幸であると考えます。それは経済的な悩みかもしれませんし、病気のゆえの悩みであるかもしれません。
しかし、人間にとって本当に不幸なことは、必要が満たされずに欠乏していることではなく、人間が罪深いことなのだと聖書は教えているのです。ならば、本当に必要なことは、神によって様々な必要を満たしていただくという以前に、何よりもまず、罪を赦していただくことなのです。それゆえに、富んでいる者も、貧しい者も、それぞれの仕方において罪の贖いの儀式にあずかったのです。富んでいても、貧しくても、罪の赦しを必要としているからです。罪深いままで、神に赦していただかないままで生きているということ、そして罪人のまま死んでいくということは、本当に不幸なことだからです。
そして、神がイスラエルに命じられたこの「罪を贖う儀式」は、人間が自分の罪というものを軽いこととして考えないためにも、重要な意味を持っていたのです。実際に、自分自身が犠牲の奉納者として牛を献げている場面を想像してみてください。あなたは手塩にかけて育ててきた牛を連れてきます。あなたはその手を牛の頭の上に置きます。それはあなたと牛が一つになることのしるしです。
牛はこうして罪深いあなたの代わりになります。あなたの罪を代わりに背負ってくれます。そして、あなた自身の手で牛の喉を切り裂きます。大量の血が流れ、牛は悲鳴を上げながら、苦しみながら死んでいきます。牛はあなたが赦されるために目の前で死んでいきます。そこに見ているのは、あなた自身の罪に対する裁きです。本当はあなたが罪を裁かれ、苦しんで死んでいかなくてはならないはずでした。しかし、あなたは赦されました。牛の命とひきかえに。
私たちがイエス・キリストの十字架について考える時、その背景に、イスラエルの人たちが続けてきたこのような礼拝があることを忘れてはなりません。私たちはいつの間にか十字架を単なるシンボルのように考えてしまいがちです。しかし、それはもともと死刑の道具なのです。その上にキリストが磔になっている姿は、牛が血を流して死んでいくのよりも、もっと凄惨なむごたらしいものであったに違いありません。
その御苦しみの中に見るのは、私たちの罪とその罪に対する神の裁きに他ならないのです。パウロはあの旧約における「罪を贖う儀式」を背景として、キリストの十字架について次のように語っています。「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました」(ローマ3:25)。私たちの礼拝もまた、神の御子の犠牲による罪の贖いによって成り立っていることを、私たちはまず心に留めねばなりません。
さて、「焼き尽くす献げ物」について考えます時に、私たちはさらに、殺された牛が解体されて、完全に燃やし尽くされることに注目したいと思います。「焼き尽くす献げ物」は、原語では「オーラー」と言います。これは、「昇る(アーラー)」という言葉に由来します。犠牲は燃やし尽くされて、全て神のもとに昇ってしまうのです。これは完全に神に献げ尽くされて人の手元には何も残らないことを意味します。
この牛は手を置いた牛です。手を置くことは、この牛と一つになることだと申しました。その牛を完全に神に献げ尽くすことは、礼拝者が自分自身を完全に神に献げ尽くすことをも象徴的に表しています。つまり、この犠牲は、罪を贖う犠牲であると同時に、礼拝者にとって《神に完全に献げられた自分自身》でもあるのです。
「献身する」ということと、いわゆる「献身的である」ということは異なります。神に身を献げるということは、この身が関わる生活のあらゆる領域を神の支配のもとに置き、神のものとして生きることに他なりません。神の求めておられるのは、最終的には次の言葉によって表現されるのです。「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」(19:2)。
それはレビ記全体の内容そのものが雄弁に物語っています。そこでは礼拝のささげ方だけでなく、生活の仕方に至るまで様々なことが語られております。他の人々にどう関わって生きているかということは、神と無関係ではないのです。
しかし、神に献げられた者として生きること、その意味において「聖なる者となる」ことは、決して容易でないことも、私たちは良く知っています。生活の中に、神のものとなっていない部分、神の御心に適わない部分、神に逆らっている部分が立ち現れてくるのです。神に献げられた者として生きようとする時にこそ、そこにおいて私たちの罪もまた明らかになってくるのです。
そのように、私たちが献身ということを本気で考え始めますなら、それはまた神による罪の赦しの恵みなしにはあり得ないという事実と向き合うことになります。だからこそ、献身を表す「焼き尽くす献げ物」は、同時に罪の贖いの犠牲でもある必要があるのです。私たちを受け入れてくださる神の憐れみなくして、私たちの献身はあり得ないからです。
ローマの信徒への手紙12章1節には次のように書かれています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」。ここで自分を神に献げよと勧められています。しかし、それは「神の憐れみによって」勧められているのです。
私たちが神のものとして生きるための基礎、それは週ごとの礼拝によって繰り返し与えられる神の赦しの恵みです。そして、私たちはその神の憐れみに基づいて、私たち自身をお献げし、私たちの生活のすべてが神への献げ物となることを求めつつ、再びこの世へと出て行くのです。
2024年8月18日日曜日
「イエスの前に連れて来られた人」
ヨハネによる福音書 8:1‐11
訴える口実を得るため
今日の聖書箇所は、実に不自然な出来事から始まります。「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか』」(1‐5節)。
ここに書かれていますように、その女性は姦通の現場で捕らえられた人でした。人々がどのようにして現場を押さえたのか。よく分かりません。そもそも女だけが連れて来られること自体、不自然です。男の方はどうしたのでしょう。ともあれこの女が抵抗していないところを見ると、姦通の事実はあったのでしょう。
しかし、通常、このようなケースを扱うのは「小サンヘドリン」と呼ばれる地方裁判所です。どうしてそちらに直接連れていかないのでしょう。なぜわざわざイエスのもとに連れてきたのでしょう。彼らは来て尋ねました。「あなたはどうお考えになりますか」と。教えを請うているのではありません。聖書は次のように説明しています。「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」(6節前半)。どうもはじめから、そのつもりで連れてきたようです。
実際、律法学者たちが提示した質問は、実に考え抜かれ周到に準備されたものでした。イエス様が「モーセの律法にあるとおり、彼女を処刑しなさい」と言ったらどうなるでしょう。彼らはイエスを「訴える口実」を得ることになります。なぜなら、建前としては、死刑を執行する権限は支配者であるローマ人が持っていることになっているからです。後にピラトのもとにイエス様を連れて行った人々が「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」(18:31)と言っているとおりです。ですから、もしイエス様がモーセの律法に従って死刑にしなさいと言うならば、ローマの権威よりもモーセの権威の方が上にあると主張する者、すなわちローマの権力に反逆する者としてでっち上げることができるわけです。
ではイエス様が「死刑にしてはいけない」と言うならば、どうなるでしょう。イエスをあからさまにモーセの律法を否定する者として攻撃することができるでしょう。モーセの律法に背くことを公然と教える教師として訴えることもできる。いずれにせよ、イエス様は困ることになるわけです。
そのように律法学者たちが「イエスを試して、訴える口実を得るために」利用したのが、この女性でした。この人は彼らの悪巧みのために利用されて、公衆の真ん中に引き立てられて恥を晒すことになりました。姦淫の現場を押さえられたこと、しかも、それを利用されたこと、それはある意味では、まことに不運であったとも言えるでしょう。
しかし、私たちはここで一つの大切なことを見落としてはなりません。それはいかなる経緯にせよ、ともかく彼女はイエス様と共にいるという事実です。この人はイエスに全く興味も関心もなかったかもしれません。しかし、ともかく強制的に主の御前に連れてこられたのです。ならばそれは決して不幸なことではありません。それは神が備えてくださった悔い改めへの招きであり、救い主に出会う機会であったのです。恥ずかしく惨めな思いをしたかもしれません。しかし、この物語の中で、ただ一人だけキリストの恵みに触れているのはこの人なのです。
わたしもあなたを罪に定めない
さて、物語は次のように続きます。「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた」(6後半‐8節)。すると、どうなったか。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(10節)。このような展開となるのです。
「罪無き者、まず石を投げよ」と言われたら誰も石を投げられなかった、というのは自然な展開のように見えます。しかし、ここで私たちは状況をよく考えねばなりません。ファリサイ派などの敬虔なユダヤ人の中には、「幼い時より律法は守ってきました」という自負を持っていた人は少なくなかったのです。人間皆が罪人であるというのは、必ずしも共通の認識ではありませんでした。
もし「わたしは正しく生きてきました」という人が一人でもいて、その人が最初の石を投げたらどうなったでしょう。石打ちの刑には執行の仕方があります。証人が最初の石を投げます(申命記17:7)。それが合図となって皆が石を投げるのです。誰かが主の言葉に従って最初の石を投げたなら、他の人々もいっせいに石を投げ始めたことでしょう。そして、その場はたちまち凄惨な血の海と化したに違いありません。その結果、律法学者たちの目論みどおり、イエスがこの出来事を先導したのだと訴えたに違いありません。そのようなことは、十分に起こり得ることだったのです。
ですから、この場面に描かれているのは自然な展開だと思わない方が良いのです。不自然な特別なことが起こっているのです。それはイエスという御方の前だからこそ起こった出来事なのです。
つまり、イエスという御方とその言葉の前に置かれる時、自分は正しいと言い続けてきた人が、そう言えなくなるのです。真実な愛と清さの前に置かれる時、自分の罪と汚れを認識せざるを得なくなるのです。この御方の前では、表向きだけ繕った信心深さなど、何の意味もなくなるのです。ナザレのイエスという御方は、当時のユダヤ人社会においてそのような存在であったし、今日の私たちにとってもやはりそのような存在なのです。「神は光であり、神には闇が全くない」(1ヨハネ1:5)と書かれているように、イエス様という御方は、人間存在の隅々まで照らし出す神の光そのものなのです。
そのような光に照らされて、主の前から、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去っていきました。このように、明るく照らし出す光に対する人間の反応は、第一には《逃避》です。そこから逃げ出すのです。この場面はそのような人間のあり方を示しています。そして、第二の反応は《敵意》です。光によって照らし出されるのが嫌ならば、イエスを抹殺して光を消してしまうしかないのです。福音書を読み進む時、私たちはそのような人間の姿をも見ることになるのです。
しかし、聖書はなんと言っているでしょう。そこには逃げなかった一人の人がいたと言うのです。訴えられていたその女性です。皆が去って行ったのですから、彼女も立ち去ることはいくらでもできたはずです。訴える人々がいなくなって災いは回避されました。彼女の身に及んでいた危機は過ぎ去りつつあります。苦しみから逃れることが救いであるならば、まさにそこから立ち去ることが、彼女の救いとなったはずでした。しかし、彼女は立ち去らなかったのです。
「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(9節)と書かれています。イエス様は問われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」彼女は答えます。「主よ、だれも」と。そのように、誰も彼女を罪に定めることはできませんでした。いや、一人もいなかったわけではありません。そこに一人だけおられたのです。それはイエス御自身です。真に正しい御方、真に清い御方、父なる神と一つであり、罪なき御方。「罪無き者、まず石を投げよ」と主は言われましたが、その石を投げることのできる唯一の御方がそこにおられたのです。そして、彼女を罪に定めることのできる唯一の御方がこう言われたのです。――「わたしもあなたを罪に定めない。」
こうして、裁かれるべき罪人が、その罪を赦され、再び生きることを許されました。彼女は確かにその言葉を聞いたのです。救いはただ苦しみを免れるところにあるのではありません。ただ危機から逃れられるところにあるのではありません。そうではなく、キリストによって罪を赦されるところにこそ、真の救いはあるのです。
どうしてこの人だけが主の赦しの言葉、救いの言葉を聞くことができたのでしょう。それは彼女がイエスのもとに留まったからです。主の光に照らされた一人の罪人として、救い主のもとに、光の中に、留まったからなのです。
もう罪を犯してはならない
そして、最後に一つのことを申し上げて終わりたいと思います。今日の聖書箇所をお読みになった時、この部分が括弧で囲まれていることに気づかれたことでしょう。結論から申しますと、この部分は本来のヨハネによる福音書の一部ではなく、別に伝承された古い物語なのです。この物語は多くの写本には欠落しています。またある写本ではヨハネによる福音書の最後に付録のように置かれています。また別の写本ではルカによる福音書の中にこの物語が置かれています。これはそのような物語なのです。
しかし、そのようにヨハネによる福音書とは全く別に伝えられた物語が、何百年かするうちに、この福音書の中に入れられて読まれるようになりました。イエス様が十字架へと向かわれる旅路の途中に、この場面は置かれたのです。そして、そこには大きな意味があると思うのです。
「わたしもあなたを罪に定めない」とイエス様は言われました。しかし、そのように言われた主はまた、洗礼者ヨハネが語ったように、「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)に他なりませんでした。この御方は、罪を贖う犠牲として屠られるために十字架へと向かっておられたのです。やがて十字架にかかられる御方が、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたのです。すなわち、この言葉はキリストの命の重さをもった言葉なのです。決して安っぽい恵みとして聞いてはならない言葉なのです。
ですから、私たちはその後に語られた言葉をも一緒に受けとめねばならないのです。主は彼女にこう言われたのでした。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)。真にキリストの赦しの言葉に出会った者は、キリストの命の重さをもった恵みに応えて生きる者となるのです。恵みによって、そこから立ち上がり、神と共に生きる新しい人生へと歩み出すのです。
2024年8月14日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 40:16~38
出エジプト記 40:16-38
前回お話ししましたように、35章から40章までは一つのまとまりになっています。それは25章から31節にかけて詳細に語られている幕屋建設についての神様からの指示にちょうど対応していまして、35章以降には、神がモーセに命じられたことが、具体的に実行に移されたことが記されているのです。今日はその最後の章をお読みしました。
35章から40章では、主が指示されたことが実行に移されたことが記されていると申しましたが、実際に幕屋そのものを建設するのは本日お読みした40章16節以下において初めて書かれていることです。それまでの大部分は、指示されたとおりに垂れ幕や掟の箱を作るなど、最終的に幕屋を作るための準備であると言ってよいでしょう。
その準備が完了したことを伝えているのは、前の章の最後の部分、39章32節以下です。まず次のように書かれています。「幕屋、つまり臨在の幕屋の作業はすべて完了した。イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおり、すべてそのとおり行った」(39:32)。そして、イスラエルの民はこれまでの作業をもって準備してきたものをモーセのもとに運んできます。そして、42節でもう一度、次のように語られています。「スラエルの人々は主がモーセに命じられたとおりに、すべての作業を行った」。モーセは、主が命じた通りに行われているかどうかをチェックします。そして、実際に命じられたとおりに行われていたので、モーセは民を祝福します。そして、40章に入るのです。今日お読みしたのは、16節以下ですが、この章の前半部分も見ておきましょう。
準備が整った時に、主はモーセに言われました。「第一の月の一日に幕屋、つまり臨在の幕屋を建てなさい」。本当は、すべて用意はできているのですから、すぐにでも組み立てることができるのです。しかし、主は第一の月の一日まで待つことを求められたのです。
第一の月と言えば、やはり思い出されるのはエジプト脱出の出来事です。主はあの時、モーセにこう言われたのです。「この月をあなたたちの正月とし、年の初めの月としなさい」(12:2)。つまり、幕屋建設はあの時からちょうど一年後ということになるのです。これまで読んできましたエジプト脱出後の物語には、実に様々な出来事が記されていたように思いますが、実際には、エジプト脱出からまだ一年しか経っていないのです。
いずれにせよ、神様の意図においては、幕屋建設がエジプト脱出の出来事と関係づけられていることは明らかです。ちょうど一年前に起こったことは、いったい何を意味するのか。彼らは幕屋建設に当たって、その大事なことを思い起こさなくてはならなかったのです。それはすなわち、第一に、出エジプトという神の恵みがあってこそ、今、こうして幕屋を建てて主を礼拝する民が地上に存在するのだということです。この民が存在すること自体が神の恵みを指し示しているのです。そして第二に、出エジプトの目的は、まさにここにあるのだ、ということです。彼らはただ奴隷状態から解放されるためにエジプトから導き出されたのではないのです。そうではなくて、この幕屋を建てるために、導き出されたのです。すなわち、主を礼拝する民を作るために、主は彼らを救い、エジプトから導き出してくださったのです。
ちょうど一年後の第一の月に、正月を定めたあの時を思い起こしつつ、主の恵みと主の目的を思い起こしつつ、彼らは幕屋を建設するよう命じられたのです。
そして、時が来て、ついに組立に入ります。2節から15節までに、幕屋の組み立てと祭司の任職に関する「神の命令」が記されており、今日お読みした16節から33節までに、その命令を実行したことが記されております。実行に関しては「モーセは主が命じられたとおりにすべてを行った」に始まり、「モーセはこうして、その仕事を終えた」で締めくくられます。
まず幕屋の構造ついて、見ておきたいと思います。言葉だけでは分かりにくいので、プリントに幕屋の構造の図を載せておきました。
まず、幕屋の外壁に当たる部分と天幕部分を組み立てます。その一方で、掟が記されている2枚の石の板を掟の箱に入れ、贖いの座と呼ばれる蓋をします。掟の箱は聖なるものなので、直接手で触れることはできません。棒を差し入れて運びます。そのようにして、準備された掟の箱を幕屋の奥に設置します。そして、その前に垂れ幕をかけます。垂れ幕によって、その向こう側とこちら側の二つの空間に分けられます。垂れ幕より奥は「至聖所」と呼ばれ、垂れ幕の手前は「聖所」と呼ばれます。
聖所には、机を入れてその上に付属品を並べます。燭台も運び込み、火を灯します。垂れ幕の前に、香のための祭壇を置き、幕屋の入口に幕をかけて完了します。
臨在の幕屋のセッティングが完了しましたら、入口の前に、ささげものを焼く祭壇を据え付けます。祭壇と幕屋のあいだには洗盤を置いて水を入れます。そして、幕屋の周りを庭として周囲に幕をめぐらして囲い、庭の入り口にも幕をかけます。
このように、「至聖所」と呼ばれる最も聖なるところから始まって、外に向かって、すなわち神から人に向かって、組み立て、配置して、整えていくようにと主は命じられたのです。そして、そのように主が命じられたとおりに、設置されていったのでした。
そして、その後に、幕屋とその中にあるもの、また祭司が聖別されることになります。聖別は油を注ぐことによって行われます。聖別については、実際の行為の描写は端折られています。しかし、当然のことながら、命じられたとおりに行われたのでしょう。聖別に関して、主がどのようなことをするように命じられたかは、今日の箇所の少し前、9節から15節にかけて記されています。
聖別の油をすべての祭具に注ぎ、さらにはアロンをはじめ、祭司たちにも注ぎます。それだけ油を注いだら、ベタベタになって困るだろうにとも思いますが、大切なのはその意味するところです。油を注いで聖別し、それらを聖なるものとするということは、それらを完全に神のものとすることです。神に属するものとされたなら、それらは他のものと完全に区別されなくてはなりません。それらは神に属するものとしての用途以外には用いることができません。すなわち、それらは礼拝のために聖別されたのですから、それは純粋に礼拝を礼拝とするためにしか用いることはできません。これらはすべて神のために存在していることになるのです。それはすなわち、それらを用いて行われる礼拝という行為そのものが、純粋に神のために行われる営みなのだということをも示しているのです。
そこで改めて私たちが行っている礼拝について考えさせられます。私たちの礼拝堂は建てられた後に「献堂」されたものです。聖餐卓も、聖壇も、すべて「聖なるもの」であるならば、それは神に属するものです。それら「神のもの」を用いて行われる礼拝は、本当に神のために行われているのでしょうか。
さて、幕屋の設置に関する一連の描写において、すぐに目につくのは、「主がモーセに命じられたとおりであった」という言葉の繰り返しです。これらの描写が、創世記1章の天地創造の物語に類似していることはすぐに分かります。ちなみに創世記1章の「天地創造の物語」は、旧約聖書の中でも「祭司文書」と呼ばれる部分の一つであって、バビロンに捕囚となった祭司たちが伝えてきたものとされています。それはまた祭司たちによって礼拝で用いられてきた文書でもあるのです。なので同じフレーズの繰り返しが多用されているのです。
天地創造の物語では、神が命じ、「そのようになった」という言葉が繰り返されています。その繰り返しによって、天地が創造されていくのです。すなわち、神の言葉が具体的な形をとっていくのです。 同じように、幕屋の設置においても、「主がモーセに命じられたとおりであった」というフレーズが繰り返されています。その繰り返しによって、神の言葉が幕屋の設置という具体的な形をとっていくのです。
祭司たちが伝えてきたこれらの二つのこと、すなわち天地創造と幕屋の設置のこの類似は、いったい何を意味しているのでしょうか。幕屋というのは、この世界の写しなのであるということです。完成へと向かうこの世界の写しなのです。
例えばこんなことを考えてみてください。詩編には、「息あるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ」(詩編150:6)と書かれています。しかし、実際には「息あるもの」はこぞって主を賛美しているわけではありません。すべて息あるものの内でも、特に「人間」が主を賛美してはいないからです。神ならぬものにひれ伏し、神ならぬものに支配されている現実がこの地上にはあるのです。しかし、やがてこの被造物世界が完成し、天地万物、すべての人が主を礼拝する時が来るのです。
しかし、繰り返しますが、現在においては、実際にはすべての被造物が主を礼拝しているわけではないのです。しかし、その時が訪れることに先だって、天地の写しの中で、先に選ばれたイスラエルの民が礼拝を捧げているのです。そのような礼拝を捧げるために、幕屋を組み立て、設置しているのです。それは何を意味するのか。それは、神の世界が完成した姿、すべて息あるものがこぞって主を賛美している世界の姿の、いわば先取りなのです。現在行われている礼拝とはそのようなものなのです。
天地創造の時には、「神は言われた。そのようになった」とあります。しかし、現実のこの世界においては、主が語られたことは、自動的に「そのようになった」となるわけではありません。主の御言葉は、主の民の従順によって実現していくのです。それが、幕屋建設の示す大事な一つのことなのです。神の言葉は成る。そのために主は人を用いられる。イスラエルを用い、教会を用いられるのです。
さて、そのように立てられた臨在の幕屋に主の栄光が満ちたことが34節以下に記されています。これは直接レビ記1:1につながります。至聖所に人は入っていけません。しかし、主はそこから呼び掛けることはできます。そのように、神の言葉を与えられていること自体が恵みのしるしなのです。そして、主は約束通り、共に歩んでくださることを現されました。そして、民はその導きに従って旅を進めたのです。
2024年8月11日日曜日
「成長させてくださる神」
コリントの信徒への手紙一 3:1‐9
今日の第二朗読では、コリントの教会に書き送ったパウロの手紙が読まれました。そこでパウロはこう言っていました。「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」(3:1)
ここには「霊の人」と「肉の人」という言葉が出てきます。「霊の人」とは、この前の2章では「信仰に成熟した人たち」(2:6)と表現されていました。これに対して、「肉の人」とは、1節に記されていますように、「キリストとの関係では乳飲み子」(直訳すると「キリストにある乳飲み子」)である人です。
同じキリスト者でありましても、人は「乳飲み子」でもあり得ますし、「成熟した大人」でもあり得ます。もちろん乳飲み子であっても、「《キリストにある》乳飲み子」ですから、キリストには結ばれているのであり、キリストの救いにあずかって神の子どもとされていることには違いありません。しかし、乳飲み子がずっと乳飲み子であり続けたら、それはやはり何かがおかしい。神が望んでおられることは、当然、初めは乳飲み子であっても、やがて成長して、成熟した大人になることなのでしょう。
乳飲み子から大人に
さて、そのようにコリントの信徒たちはパウロによって、「キリストにある乳飲み子」と呼ばれ、「肉の人」と呼ばれているのですけれど、「肉の人」あるいは「肉的な人」と聞きますと、皆さんはどのような人を想像しますでしょうか。世俗的な人でしょうか。霊的な事柄に無関心な人でしょうか。しかし、パウロはそのようなことを意味しているのではなさそうです。というのも、コリントの信徒たちは、決してそのような意味での世俗的な人々ではなかったからです。
この手紙の12章以降を読むと分かるのですが、彼らは霊的な事柄に無関心などころか、むしろ非常に関心があったのです。熱心に聖霊の賜物を求めていた人々です。実際、彼らの間には、聖霊の働きが豊かに現れていたのです。彼らの多くは異言を語ります。預言する者もおります。奇跡を行う者や病気を癒す力を持つ者もいたようです。霊的な体験ということならば、彼らは豊かに与えられていたのです。
また、彼らの行っている礼拝は、霊に促されるままに讃美の歌を歌い、心を動かされた者が教えを語り、あるいは誰かが異言を語り、そして他の者がそれを解き明かすという仕方で行われていたのです。私たちのように定まった礼拝順序に従って礼拝したり、前々から決まった讃美歌を歌ったりするよりも、彼らのように導かれるままに讃美歌が歌われ、心の赴くままに礼拝が進められる方が、もしかしたら、「霊的」な礼拝に見えるかもしれません。
そのように一見とても「霊的」な人々に見えたコリントの信徒たちなのですが、パウロはそのような彼らを「霊の人」とは呼ばないのです。むしろ「肉の人」だと言うのです。「キリストにある乳飲み子」だと言うのです。乳飲み子は固い食物を食べることができません。乳飲み子を養うためには乳を飲ませるしかありません。それゆえ、「わたしはあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした」とパウロは言っているのです。
さて、乳とは何でしょう。固い食物とは何でしょう。この表現はパウロだけが使っていたものではなく、初期の教会において一般的に使われていたようです。例えばヘブライ人の手紙にも次のように書かれています。「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」(ヘブライ5:12‐14)。
ヘブライ人への手紙によれば、乳とは「神の言葉の初歩」のことです。キリスト教信仰に関わる基本的な教えです。それに対し、固い食物とは、「善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのもの」だと言われています。ここに「一人前の大人」とはどういう人かが明らかにされています。それは善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された人だというのです。言い換えるなら、実際の信仰生活の中で善悪を見分けることを学んできた人です。
ここで善悪というのは、もちろん一般的な意味ではありません。神様から見て善であるか悪であるかということです。言い換えるならば神様の御心に適っているか、御心に反しているかということです。それを見分けることを実際の信仰生活において学んできた人。すなわち、もっと分かりやすく言えば、神の御心に従って生きようとしてきた人だということです。それはパウロの別の手紙の表現によれば、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになる」(ローマ12:2)ということです。そのようにして、信仰者は乳飲み子の状態から大人になっていくのです。
乳飲み子に留まっている人々
ということは、逆のことも言えるということです。実際の生活において、神の御心に従って生きようとするのでなければ、神の御心を行うことを学ぶことがなければ、信仰者はいつまで経っても乳飲み子であり続けるということです。
信仰生活において、「《わたしは》何を望んでいるか」ということにしか関心がなくて、「神様は何を望んでいるか」ということに無頓着であるならば、いつまで経っても乳飲み子であり続ける。たとえ聖霊の賜物を熱心に願い求め、実際に大きな力が与えられ、それこそ奇跡を行うほどの霊的な力が与えられたとしても、霊的な乳飲み子であるということはあり得るということです。
実際、コリントの教会の問題は、人々がそのような乳飲み子状態に留まっていたというところにありました。それははっきりと目に見える姿として現れていたのです。パウロは次のように語っています。「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」(3:3‐4)。
先ほども触れましたように、彼らは決して霊的な事柄に無関心ではなかったのです。霊的な賜物を熱心に求め、神からの特別な能力をも求めていたのです。神秘的な体験にも関心があったのです。しかし、それが本当に神に関心を向けていることになるかと言えば、必ずしもそうならないのです。
いつでも関心事はこちら側のことでしかない。主を信じて人間が何を得るのか。人間がどのように幸福を経験するのか。パウロとアポロはどちらが霊的な能力において優れていて、どちらと共にいる方が自分にとって益となるのだろうか。どちらと共にいる方が、自分の願ったような信仰生活を送れるだろうか。――そのようにいつも人間のこと、こちら側のことにしか関心がないということが、起こり得るのです。
そのように人間の側のことにしか関心がなければ、そして、人間同士の比較、自分と他者との比較の中に生きているならば、争いやねたみは必然的に起こってくるのです。「パウロにつくかアポロにつくか」という類の争いもまた起こってくるのです。
結局、私たちがここで考えなくてはならない問題は、次のように言い換えることもできるでしょう。――私たちは神様を自分のものとすることを望んでいるのか。それとも自分が神様のものとなることを望んでいるのか。「わたしのための神様」ということしか考えられないか。それとも「神様のためのわたし」として生きていこうとしているのか――。
神のものとされて、神のものとして生きていく。実際の生活の中で御心を尋ね求めながら、自らを献げて生きていく。そのような礼拝、そのような教会生活を通して、信仰者は成長し、大人になっていくのです。「わたしのための神様」としか考えられないならば、「神はわたしに何をしてくれるのか」ということが中心になるのでしょう。それは霊的な「乳飲み子」です。 そこでは信仰の初歩が語られなくてはなりません。
「神はわたしに何をしてくれるのか」――いいえ、既に神は御子をさえ惜しまずに私たちに与えてくださったのです。御子の血によって私たちの罪は贖われたのです。私たちは代価を払って買い取られたのです。そのような「信仰の初歩」が改めて語られなくてはならない。私たちはそのようにしてキリストのものとされたこと、神のものとされたのだということ、そこにこそ私たちの本当の救いがあることが、改めて語り直されなくてはならないのです。
パウロは言いました。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(5‐7節)。アポロやパウロではなく、彼らは本当の意味で《神に》思いを向けなくてはならなかったのです。その神は成長させてくださった神であり、これからも成長させてくださる神です。
私たちには、確かに多くの求めがあるのだと思います。神に対しても人に対しても、様々な願いや求めがあるのでしょう。そして、その求めが叶えられなければ、求めが満たされなければ、不平や不満を口にしながら、そんなことを繰り返しながら、生きてきたのだと思います。そのように確かに多くの求めはある。しかし、私たちは何よりもまず、自分自身が成長することを求めなくてはならないのでしょう。成長させてくださる神が、私たちの成長を望んでおられます。霊的に成長して信仰者として大人になることを望んでおられるのです。ならば、私たちもまた、私たちを成長させてくださる神が、私たちを成長させてくださることを、改めて願い求めてここから歩み出したいと思います。
2024年8月7日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 35:4~29
出エジプト記 35:4-29
今日は35章をお読みしました。35章から40章までは一つのまとまりとなっています。次回は最後の40章を読む予定ですが、この一つのまとまりは、25章から31章までと対応しています。
25章から31章には「幕屋建設についての指示」が書かれていました。その冒頭において、主はモーセに次のように命じていました。「主はモーセに仰せになった。イスラエルの人々に命じて、わたしのもとに献納物を持って来させなさい。あなたたちは、彼らがおのおの進んで心からささげるわたしへの献納物を受け取りなさい。彼らから受け取るべき献納物は以下のとおりである。金、銀、青銅、青、紫、緋色の毛糸、亜麻糸、山羊の毛、
25:5 赤く染めた雄羊の毛皮、じゅごんの皮、アカシヤ材、ともし火のための油、聖別の油と香草の香とに用いる種々の香料、エフォドや胸当てにはめ込むラピス・ラズリやその他の宝石類である。わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう。わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」(25:1-9)。
そして、35章から40章までは、その指示が実行されたことが書かれているのですが、今日お読みした4節以下には、先に見た主からモーセに与えられた指示が、一言一句違うことなく、そのまま出てくるのです。つまり、まずモーセが主の御言葉を忠実に実行したということです。そして、本日お読みした20節以下には、彼らが献納物として携えてきたもののリストが記されています。それは、若干順番は異なりますが、すべて主が命じられたリストに対応していることが分かります。つまり、モーセだけでなく、イスラエルの民が伝えられた主の指示どおり、彼らは忠実に実行したことが書かれているのです。
そのように、今日の箇所は25章以下に記されていた幕屋建設の指示と厳密に対応するように書かれていますので、まずそこにおける大事なポイントを再確認しておきたいと思います。
第一は、幕屋の建設と祭具の製造が、もともと《神の命令に従ってなされた》ということです。「わたしが示す作り方に正しく従って、幕屋とそのすべての祭具を作りなさい」(25:9)。幕屋は礼拝の場所です。祭具は礼拝に用いるものです。これらの作り方を神様が細かく指示されるということは、とりもなおさず人間が礼拝をどのようにささげるかということは、神の大いなる関心事であるということです。
既に繰り返し指摘していますように、神がイスラエルの民をエジプトから導き出されたのは、単に苦役から解放するためではありませんでした。神がイスラエルの民を神ならぬファラオの支配から解放したのは、いわばこの25章以下の命令を与えるためであったのです。すなわち、まことの王である主を礼拝する民とするためであった。彼らは主を礼拝する民となるために救われたのです。
そのように、私たちが主を礼拝するのは、第一には、主が礼拝を求めておられるからであって、私たちの宗教的な欲求を満たすためではないのです。これは「礼拝」というものの性格からして当然のことだとも言うことができます。「礼拝」は神のためにあるはずだからです。
そして、第二は、この礼拝の場所が、特に「幕屋」(ミシュカーン)と呼ばれていることです。「幕屋」と訳されている言葉は、「住む」(シャーカン)という言葉に由来します。「住まい」ということです。もちろん、神がその中に入るわけではありません。「主はこう言われる。天はわたしの王座、地はわが足台。あなたたちはどこに、わたしのために神殿(直訳は「家」)を建てうるか」(イザヤ66:1)とあるとおりです。しかし、それはまさに神が人と共にあることの「しるし」だったのです。
そのような、神の住まいが実際に神の命令に従って建てられる。その最初の部分が、今日お読みした箇所なのです。
しかし、さらに重要なことは、25章~31章の「幕屋建設の指示」と、35章~40章までの「実行」とが、続いて書かれていないということです。その間には何が書かれているかは、これまで見てきたとおりです。金の子牛の事件です。すなわち民の背きと神の赦しの話が間に入っているのです。
つまり、実際に幕屋の建設が実現したのは、単に彼らが命令に忠実だったからではなくて、その前に神の赦しがあるからなのです。神は共に歩まないと言われたのです。つまり言い換えるならば、民と共には住まないと言われたのです。しかし、モーセの執り成しによって、神は共に歩んでくださると言ってくださった。神は共に住んでくださる。しかも、本当ならば神が一緒にいるならば罪人は滅びるしかないのに、それにもかかわらず人が神と共にいることができるのです。なぜなら、神は自らモーセに対して宣言されたように、「憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」(34:6)と言われる神だからです。
つまり幕屋が実際にできあがっていくわけですけれど、その幕屋が現実に存在すること自体が、まさに神の恵みをはっきりと表しているということなのです。
それは「幕屋」が後の時代に「神殿」になっても変わりません。「神殿」が存在すること自体が既に神の恵みをはっきりと表しているのです。それが分からないと、新約聖書を理解することはできません。
新約聖書において、まことの「幕屋」また「神殿」は何か。それはキリストなのです。ヨハネによる福音書の1章に書かれていますように、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)のです。この「宿られる」というのは「幕屋に住まわれる」という意味なのです。そして、キリストは神殿に集まる人々にこう言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(同2:19)。そして、聖書はこう説明するのです。「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである」(同21節)。このキリストが地上に来られ、地上に存在したこと自体が、既に驚くべき恵みをこの上ないほどにはっきりと表しているのです。
さらに、キリストが復活し、昇天した後に、その「神殿」を引き継ぐのは何か。それは教会なのです。教会はキリストの体であり、また聖霊の神殿であると語られています。だから、教会がこの地上に存在すること自体が、既にとてつもない恵みをはっきりと表しているのです。本来滅びるべきものと共に神がいてくださるのです。共にあゆんでくださるのです。その目に見えるしるしである幕屋が、教会して今日もこの地上に存在しているのです。それがどれほど尊いことか、私たちはもっと知る必要があるのでしょう。
そのように、幕屋を造らせていただけること自体が、とてつもない恵みであることをイスラエルは理解したのでした。その彼らの思いは、「進んで心からささげる献納物」として表に現れることになったのです。
今日の箇所に繰り返されているのは、「進んで心からささげる」という言葉です。モーセの命令において(5節)、そして、20節以下において、それが実行された時に、繰り返されています(21,22,29)。また、繰り返されているのは、誰から強いられたのでもない、「随意の献げ物」だったことです。これは何を意味するのでしょうか。恵みに対する応答だったということです。恵みが恵みとして分かっている人々の行為だったということです。幕屋の存在が恵みであるということが分かっている。だからそれを造るために、彼らは進んで心からささげたのです。これは恵みがわからないとできないことなのです。
これはちょうど32章における彼らの行為とは対照的であると言えます。32章では、神の命令によってではなく、神々を造って欲しいという民の求めに従ってアロンが子牛の像を造ったのでした。「さあ、我々に先立って進む神々を造ってください。エジプトの国から我々を導き上った人、あのモーセがどうなってしまったのか分からないからです」(32:1)。そこに見るように、イスラエルの民を動かしていたのは、未来への「不安」であり「恐れ」だったのです。この求めに対して、アロンは言いました。「金の耳輪をはずし、わたしのところに持って来なさい」と。民はどうしたでしょう。ためらうことなく、彼らは全員従って、耳輪をはずして持ってきたのです。どうしてか、恐れがあるからです。恐れが彼らを動かす。恐れる民を、恐れに基づいてアロンが支配しているのです。それはもはや随意の献げ物ではありません。これは宗教的カルトに見ることのできる一般的な形です。恐れる人に対して「献げ物をしなさい」と命じると、人々は従うのです。
この32章の行為と、その前後に置かれている「幕屋建設」における民の行為と、いかに違うかは一目瞭然でしょう。幕屋建設は神の恵みが先にあるのです。それは神の赦しがあって初めて成り立つのです。それ自体が恵みなのです。その恵みに対する応答として幕屋は造られるのです。教会の建設(建物ではなく)もまた同じです。
私たちが献げて教会を形作るのです。私たちが献げるのは私たち自身です。しかし、具体的にはそのしるしとして、例えば月定献金などが献げられることになるのでしょう。しかし、それは恵みに対する応答であるべきです。ですから、月次献金の袋は、洗礼を受けていない人は受け取ることができないのです。キリストがしてくださったことを知り、恵みを思って洗礼を受けて、その応答として、自らを献げる生活を形作っていくのです。そのようにして、幕屋であり神殿である教会は形作られていくのです。
2024年8月4日日曜日
「神の子どもとしてこの世に生きる」
ヨハネの手紙一 5:1-5
神から生まれた者
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」(1節)。そのように書かれていました。私たちは、イエスをメシア=キリストと信じて集まっています。私たちが教会であるとはそういうことです。イエスをメシアと信じないならば、私たちはもはやキリストの教会ではありません。私たちは毎週、使徒信条において、「我らは、我らの主イエス・キリストを信ず」と信仰を言い表しています。私たちは確かに、イエス・キリスト、すなわちキリストであるイエスを信じているのです。
ならば、私たちは明確な自己認識を持たなくてはなりません。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。」私たちは単に「教会に行っている人」ではありません。私たちは単に「ある特定の教えを受け入れた人」ではありません。私たちは単に「ある特定の宗教法人に属する人」ではありません。今日の御言葉によるならば、私たちは「神から生まれた者」なのです。
イエス・キリストを信じる信仰を持つということは、単なる心理的な変化ではありません。イエス・キリストを信じて洗礼を受けるということ、それは単なる入会の儀式ではありません。それは一つの出来事です。人がこの世に誕生するということが、ある一つの決定的な出来事であるように、キリストを信じる者として生き始めることは、それは人間がこの世に誕生すること以上の大きな一つの出来事なのです。
「神から生まれた者」であるということは、神が親であるということです。神が本当の親であるということです。私たちがこの世に生まれてきた時のことを考えてみてください。私たちは、それぞれ自分の親の子供として生まれてきました。それが第一の誕生です。しかし、私たちにはもう一つの誕生があります。神との親子関係の中に生まれる誕生です。私たちはそのように誕生して、今、こうしているのです。イエス様がこの地上において「アッバ、父よ」と祈られたように、私たちもまた「アッバ、父よ」と呼びかけることができます。「天にまします我らの父よ」と祈ります。私たちは神を「天地の造り主」として礼拝するだけでなく、「全能の父」として礼拝しています。そのように私たちは、神から生まれた者として生きるようになったのです。
繰り返します。信仰は単なる心理的な変化ではありません。それは私たちがこの地上に誕生したことよりも大きな出来事です。そのような出来事こそが聖書の語っている「わたしたちの信仰」なのです。
そして、これが「生まれる」と、受け身で表現されていることを心に留めなくてはなりません。この世における親子の関係は、私たちが自分の力で獲得したものではありません。一方的に与えられたものです。私たちは何もできない赤ん坊として生まれてきたのです。もし私たちが王の子として生まれたとしたら、何もできないうちから既に王子です。王子らしくなったら、王子にしてもらえるのではありません。それがある親から「生まれる」ということです。同じように、神から「生まれる」のです。神の子らしくなったから、神の子にしてもらえるのではありません。人間の側の努力によるのではありません。「生まれる」ことについては全くの受け身です。それは神の恵みによるのです。人はただ信じてその恵みを受けるだけなのです。
兄弟を愛する
そのように神の一方的な恵みとして神から生まれ、神の子供としていただきました。ならば、そのような私たちにおいて最も大事なことは何でしょう。まことの親である神を愛することです。しかし、父である神様を愛するということは、ただ単に「神様、大好き」ということではありません。「好きである」ことは必ずしも「愛する」ことではありません。どんなに大好きであっても、相手を自分の思い通りにしたいという欲求しかなければ、それはストーカーと一緒です。
本当に愛するならば、相手が何を大切にしているかを知って、自分もそれを大切にしたいと願うはずです。そのためにも相手が何を望んでいるのかを知りたいと願うはずです。愛においては「相手」が中心です。神を愛するということについても同じことが言えるでしょう。それを聖書はこう表現しています。「神を愛するとは、神の掟を守ることです」(3節)。「掟を守る」とは、要するに「お父さんが願っていることを行う」ということです。
そのお父さんの願いの中心には何があるのでしょう。実は、今日お読みした箇所の直前にはこう書かれているのです。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。今日お読みした1節の後半にも次のように書かれています。「そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」。これは一般的な話です。そのように一般的に言えることから明らかなこととして、2節ではこう言われているのです。「このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します」(2節)。
神を愛する。それゆえに、神から生まれた神の子供たちをも愛する。この順番と筋道は大事です。まず父なる神を愛する。「わたしたち」が先に来るのではないのです。「わたしたちはお互いに愛し合いましょう」から始めてもうまくいかないのです。私たちがお互いのことしか見ていないなら、愛し合って生きることは困難なのです。私たちがどんなに「一つになりましょう」と言っていても、父親に無頓着な子供たちが集まっているならば一つになれるはずがありません。
お父さんのことを考える子供たちになりましょう。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」。自分が神から生まれた者、まことの親の子であることをもっと意識しましょう。そうすれば、他の人も「神から生まれた者」であることが見えてきます。他の人も、父にとって大切この上ない父の子であることが見えてくる。「生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」ということが起こってくるのです。
そのように、神から生まれて神との間が親子の絆で結ばれ、そして神から生まれたお互いが兄弟の絆で結ばれていく。それが私たちの信仰です。そして、このような信仰こそが世に打ち勝つ信仰なのだとヨハネは言うのです。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(4節)と。
世に打ち勝つ勝利
さて、ここで「世に打ち勝つ」という言葉を聞きます時に、私たちは一つの場面を思い起こすことができるでしょう。それはイエス様がまさに捕らえられようとしていたその夜、弟子たちと食した最後の晩餐の場面です。主は不安と恐れの中にある弟子たちに多くのことを語られた後、最後にこう言われたのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。
「わたしは既に世に勝っている」と言われたイエス様。その「世」とは何ですか。その「世」とはまさにイエス様を捕らえ、よってたかって十字架にかけようとしている「世」です。愛よりも憎しみの方が勝っているように見える「世」です。命よりも死の方が勝っているように見える「世」です。神様よりも悪魔の方が勝っているように見える「世」です。この世とは、まさにそのような「世」ではないですか。そのような「世」に、イエス様を信じる神の子どもたちも生きていくのです。信仰を持つということは世捨て人になることではありません。そのような「世」に生きる時、弟子たちには苦難があることをイエス様はご存じだったのです。だから言われたのです。「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。
自分がまさに捕らえられて十字架にかけられようとしている時に、弟子たちを思って「勇気を出しなさい」と言われたイエス様。「わたしは既に世に勝っている」と高らかに勝利を宣言されるイエス様。そのイエス様の強さはどこから来ていたのでしょう。そのことについて、イエス様御自身がはっきり語っておられます。「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」(ヨハネ16:32)。
このように、イエス様が見せてくださった本当の強さとは、どこまでも「父が、共にいてくださる」と言い得る強さだったのです。神の子としての強さだったのです。そして、その御方は私たちをも、同じ父との交わりの中に入れてくださったのです。私たちもまた、「父が、共にいてくださる」と言い得るようにしてくださったのです。
私たちは神から生まれた者です。私たちは、神の家族の中に新しく生まれたのです。私たちには、まことの父がいます。この世よりも大いなるまことの父がいます。私たちには、世に打ち勝った神の子イエスがいます。「勇気を出しなさい」と言ってくださる、最強のお兄さんがいます。そして、私たちには、同じように弱さを抱えてはいますが、互いに愛し合って生きるようにと与えられている、他の子どもたちがいます。共に父を仰ぐ兄弟がおり、姉妹がいます。
ならば、私たちは負けません。世に負けることはありません。世にあるいかなる苦難にも負けることはありません。いかなるものも神の子どもたちを滅ぼすことはできません。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」。