2019年4月28日日曜日

「共に歩いてくださるキリスト」

ルカ24:13‐35

 今日の福音書朗読には「二人の弟子」が出てきました。そうです、ここで彼らは確かに「弟子」と呼ばれています。イエス・キリストの弟子たちです。しかし、今日の朗読は、彼らがエルサレムから離れていく姿から始まります。他の弟子たちが集まっているエルサレムから離れていくのです。イエス様は死んでしまったからです。だからもはやキリストの弟子であり続ける理由もないし、キリストの弟子としてエルサレムに留まる理由もないのです。エルサレムをあとにした二人の弟子たちにとって、エマオへと向かう旅路は、いわばキリストの弟子であることから離れていく旅に他なりませんでした。そのように、キリストの弟子ではなくなりつつある二人の姿をもってこの話は始まるのです。

 しかし、今日お読みしました箇所の終わりに至りますと、なんと彼らは再びエルサレムにいるではありませんか。彼らはキリストの弟子として他の弟子たちと共にいるのです。いったい何が彼らをエルサレムに帰らせたのか。それが何であるかを伝えているのが今日の物語です。言い換えるならば、この物語は、何が人をキリスト者であり続けさせるのか、キリスト者であること、あり続けることは、いったい何を意味するのかを私たちに伝えている物語なのです。

過去のイエスを語る人々
 はじめに13節以下を御覧ください。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた」(13‐14節)。

 「この一切の出来事」とは、ナザレのイエスという方が十字架にかけられ殺されたこと、葬られたこと、そして、その遺体が無くなってしまったことなどの諸々の出来事です。その出来事について語り合っている彼らに、一人の人が近づいてきました。そして、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と尋ねたのです。

 「二人は暗い顔をして立ち止まった」(17節)と書かれています。そして、その人がさらに尋ねるので、彼らは答えました。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力ある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです」(19‐20節)。

 彼らの思い出の中には「行いにも言葉にも力ある預言者」としてのイエスがいました。預言者というのは神の言葉を語る人です。預言者は死んでもその言葉は残ります。いや、言葉だけではありません。「行いにも力ある預言者」と言われています。預言者の行為も残ります。言い換えるなら、預言者の生き様が残るのです。そのように、確かにイエスという御方の言葉と行為は、イエスが死んでしまった後でも、彼らの心の内にしっかりと生きていたに違いないのです。

 しかし、彼らは暗い顔をしていたのです。それは単に死別の悲しみのゆえではありませんでした。その次にこう書かれています。「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」(21節)。「望みをかけていました」という言葉は、望みが「過去」になってしまった、ということを意味します。暗い顔をしていたのは、希望がもはや過去のものとなってしまったからです。

 つまり、イエスの言葉と行いが記憶の中に残っていようと、その生き様による感化が残っていようと、それは希望に結びつきはしなかったということなのです。彼らがどんなに《過去の人》であるイエスについて語り、論じ合っても、そこには救いもなく希望もなかったのです。それゆえに彼らはキリストの弟子であり続けることもできなかったのです。彼らエルサレムを離れ、エマオへと向かう道を暗い顔をしながら歩いていたのです。

 さて、ここに見る二人の姿は、一つの大きな事実を示しています。どんなにイエスの言葉や行為が大きな力を持っていたとしても、そのことによっては、イエスの弟子たちは後の時代まで存在し続けることはなかった、ということです。それだけでは十字架の後の教会、十字架の後のキリスト者は存在し得なかったのだ、ということです。単にイエスの言葉や行い、人格的感化が「生きている」というだけでは、キリストの弟子であることはできないのです。

現在のイエスと共に歩む人々
 そこで15節の御言葉が大きな意味を持つのです。「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」――復活されたキリストが彼らと共に歩まれたというのです。しかし、彼らはそれがイエス様であることに気付きませんでした。なぜでしょうか。ただ聖書は「二人の目は遮られて」と説明しています。これは31節に関係します。そこで「二人の目が開け、イエスだと分かった」と書かれているのです。共に歩まれる復活のキリストは、目が開かれて初めて認識されるのだ、ということです。

 そのように、二人は復活のキリストに気づいていないのですが、そこにはキリストがなされた一連の働きかけが記されています。彼らが知る前に、既にキリストの働きかけは始まっているのです。

 キリストは近づいて来られました。一緒に歩き始められました。彼らに問いかけられました。そして、大切なことが25節以下に書かれています。「『ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。』そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(25‐27節)。キリストが聖書の言葉を解き明かされたのです。

 そして、二人はイエス様と共に家に入ります。彼らは一緒の食事の席に着きます。ところが興味深いことに、キリストは客としてではなく、家の主人であるかのように振る舞うのです。キリストがパンを割き、賛美の祈りを唱え、パンを割いて渡されたのです。

 その一連のキリストの働きかけを経て、彼らの目が開かれました。「すると二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31節)と書かれております。これは大変奇妙なことです。「目が開けて見えるようになった」というのなら話は分かります。しかし、ここでは逆なのです。見えなくなったというのです。

 そうしますと、結局、キリストが目に見えるか見えないかは、本質的には重要ではないということなのでしょう。重要なのは「目が開けた」ことなのです。今まで共にイエス様が歩んでくださったし、これからも共に歩んでくださることが分かるということだからです。それが信じられるということこそ大切なことなのです。

 そして、それが信じられた時、彼らは振り返ってこう言います。「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。失望していた彼らの内に、命の火が灯りました。まさに死んでいたような彼らの心の内に命の火が灯りました。そして、その炎が大きく燃え上がり始めたのです。

 彼らがかつて抱いていた望みはどうなったのでしょうか。相変わらずイスラエルは解放されてはおりません。相変わらずローマ帝国の支配のもとにあります。見えるところは何一つ変わってはおりません。しかし、彼らはもはや希望を失って暗い顔をして歩いている者ではありません。もはや失意の中に死んでいるような者ではありません。復活のキリストが伴ってくださったこと、これからも伴ってくださることを知ったからです。キリストによって命の炎を内にいただいた人だからです。そして、彼らはエルサレムに引き返します。弟子たちの仲間のもとに戻っていくのです。そこでキリストの弟子として新たに生き始めるのです。生きておられるキリストの弟子として生き始めるのです。

主よ共に宿りませ
 このように、キリスト者であり、キリスト者であり続けるということは、いったい何を意味するのかという問いに、今日の聖書箇所は明確に答えています。キリスト者とは単に二千年前のイエスの言葉を実践して生きる人ではありません。単にイエスの行為を模範にして生きる人ではありません。そうではなくて、キリスト者とは復活のキリストと共に生きる人を言うのです。イエス様は単に「過去の人」として思い起こされたり敬われたりすることを望んではおられません。私たちの現実の中に共に生きることを望んでおられるのです。

 ここに書かれていることは、単にあのクレオパたちの特殊な経験ではありません。教会において私たちに今も与えられている賜物なのです。ここには今日もなお教会の内において起こっている事、起こり得る事が記されているのです。聖書が解き明かされ十字架と復活の意味が明らかにされることも、聖餐において復活のキリストの臨在が示されることも、またそこに伴って湧き上がる喜びも賛美も、悲しみと失望によって沈んだ心に命の炎が燃えあがることも、その一切は復活のキリストの働きであり、キリストの賜物なのです。そのように、復活のキリストの働きかけを受けながら、キリストと共に生きる人、それをキリスト者と言うのです。

 そこで見落としてはならないことが一つあります。28節以下に次のように書かれています。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。二人が、『一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから』と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」(28‐29節)。

 彼らの内に起こった全ての良きことは、イエス様の一方的な恵みの御業でした。しかし、そのような主の恵みの御業に目が開かれるに至るには、彼ら自身の側からも行ったことがあるのです。それは復活のキリストを《引き止める》ということでした。つまり彼ら自身が主と共にいることを《求めた》ということです。そして、主がパンを裂かれる食卓に身を置いたということです。

 彼らはキリストと知らずに求めました。ありがたいことに、私たちには既にキリストの復活が伝えられていますから、私たちは知った上で求めることができます。キリストが御臨在くださることを知った上で、聖餐にあずかることができます。そのように、キリストと共にあることを求めて、私たちは今ここに集まっているのです。

 その求めは、祈りの言葉として、この後歌います讃美歌39番に繰り返されています。「主よ、ともに宿りませ」。あの復活の日の夕、あの弟子たちが主に願い求めたように、私たちもこの日、主に向かって共に祈りたいと思います。「主よ、ともに宿りませ」と。

(祈り)

2019年4月21日日曜日

「週の初めの日、復活の朝」

ヨハネ20:1‐10

週の初めの日に
 「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った」(1節)。そう書かれていました。「週の初めの日」というのは日曜日のことです。イエス様が十字架にかけられ、死んで葬られて三日目。その日の朝早く、墓に行ったマリアが見たのは開かれた墓でした。

 「そして、墓から石が取りのけてあるのを見た」と書かれています。そのよう彼女が「見た」のは、入口の石が取りのけてあるということだけでした。しかし、それを見た彼女は反射的に思ったようです。「主が墓から取り去られた!」

 彼女がそう思ったのは無理もないことでした。実際、墓泥棒によって墓が荒らされるということは、当時、珍しいことではなかったからです。それは皇帝の名によって墓泥棒を禁ずる勅令まで出されたほどでした。葬る際には、時として、とても高価な香料が用いられます。実際、ヨハネによる福音書には、イエス様の埋葬の際にニコデモという人が没薬と沈香を混ぜた物を百リトラ(約33キロ)も持ってきたことが書かれています。大量の香料が埋葬のために用いられました。そのような墓は狙われやすいわけです。

 ともかく、「イエス様の遺体が墓から取り去られた!」と思った彼女は、墓の中を確認もせずにシモン・ペトロともうひとりの弟子のところに走りました。「もうひとりの弟子」は伝統的にこの福音書を書いたヨハネであるとされてきました。私たちもこの弟子を「ヨハネ」と呼んでおくことにしましょう。マリアはペトロとヨハネにこの事件を告げました。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません」(2節)。

 「わたしたちには分かりません」と言っているように、彼女は一人で墓へ行ったのではなかったようです。マルコによる福音書では他に二人が同行していたことが書かれています。しかし、ヨハネによる福音書は同行していた人たちには全く触れません。むしろ、知らせを受けたペトロとヨハネの弟子の行動について、やたらに細かく私たちに伝えています。

 二人は一緒に走り出しました。しかし、先に着いたのはヨハネの方でした。しかし、重要なのはかけっこの順位ではありません。到着に時間差が生じたということです。その結果、彼らは順番に事態を確認していくことになるのです。

 まずは先に着いたヨハネについてこう書かれています。「身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった」(5節)。「中をのぞくと」と訳してありますが、原文では「見た」と書いてあるのです。何を見たのか。「亜麻布が置いてあるのを見た」。その「亜麻布」とは、遺体を包んでいた亜麻布です。

 遺体を亜麻布で包むのはユダヤ人の埋葬の習慣でした。この場合「亜麻布」とは細く裂かれた包帯のような布です。そのような包帯のような布で胴体の部分はぐるぐる巻きにされ、頭の部分はまた別の布で覆われることになります。ヨハネはその「亜麻布が置いてある」のを見たのです。「置いてある」というのは、亜麻布がほどかれて丸めて置いてあるという意味合いではありません。これは亜麻布がまったくそのまま「横たえられていた」というニュアンスです。

 想像してみてください。時はまだ薄暗い明け方です。先に到着したヨハネは「中に入らなかった」と書かれています。つまり入口に立って中を「見た」ということです。仮に外が少し明るくなっていたとしても、入口に立てば自分が影になって中はほとんど見えなかったことでしょう。しかし、かろうじて亜麻布がそのままであることは、ともかく確認できたということです。そこでヨハネは思ったに違いありません。「マリアの早とちりには困ったものだ。遺体はそのままだよ。盗まれてなんかいないじゃないか。」

 しかし、後から到着したペトロはヨハネを押しのけるようにして墓の中までずかずかと入っていきました。そして、こう書かれているのです。「続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た」(6節)。「見た」と訳されていますが、こちらは「注意深く観察する」という意味合いの言葉です。

 ペトロは墓の中に入って近くまで行って暗闇の中で目を凝らし、亜麻布で包まれて安置されているはずのイエス様の遺体を注意深く観察したのです。すると、なんと胴体はあるのですが、布で包まれているはずの頭がないのです。「イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった」(7節)。胴体を包んでいた亜麻布は確かにそのまま横たわっているけれど中身がないことにペトロは気づきます。つまり、巻かれた布がそのままの形で抜け殻のようになっていたのをペトロは目にしたということです。

 驚愕して立ち尽くすペトロの異変に気づいたのでしょう。ヨハネもまた後から墓の中に入ってきて、亜麻布を見ました。そして、先に思ったのとは違った意味で、マリアは間違っていたことを知るのです。「主が墓から取り去られました」――いや、違う。少なくとも墓泥棒なんかじゃない。

 それはそうでしょう。遺体を盗むのに、わざわざ亜麻布をほどいて中身だけを盗むような人はいません。泥棒は一刻を争うのですから。いや、そもそも亜麻布はほどかれてもいなかった。彼らはそれを「見た」のです。マリアは間違っていた。あの方は「取り去られた」のではない。そうではなく、主はよみがえられて、出ていかれたのだ!「もう一人の弟子も入って来て、見て、信じた」(8節)とはそういうことです。

 そして、この時はまだ悟っていなかったのですが、やがて二人はこの出来事が聖書の言葉の成就であることを知ることになるのです。「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである」(9節)と書かれているとおりです。

あの方は墓にはおられない
 さて、これがヨハネによる福音書が伝える、あの「週の初めの日」に起きた出来事です。それはマグダラのマリアが、墓から石が取りのけてあるのを「見た」ところから始まりました。続いて、ペトロとヨハネが見たのは、いわば墓から石が取りのけてあることの「意味」でした。石が取りのけられ開かれていたのは盗みに入るための「入口」ではなかった。そうではなく、開かれていたのは「出口」だったのです。キリストが歩み出す「出口」だったのです。

 しかし、それはある意味ではおかしな話であるとも言えます。なぜなら、キリストが歩み出すために、本来「出口」は必要なかったはずだからです。亜麻布をほどかないで亜麻布から出て行ったわけですから。そのように聖書の語る「復活」は明らかに単なる「蘇生」とは異なります。蘇生したのならば「出口」は必要でしょう。しかし、復活したキリストにとって墓からの「出口」は本来必要なかったのです。

 ならば神が墓の出口を開かれたのは、キリストのためではありませでした。人間のためです。あの墓は、マリアが「見る」ために開かれていたのです。そして、ペトロとヨハネがその意味をも含めて「見る」ために開かれていたのです。キリストは墓から出ていかれたということ。だから「墓の中にはいない」ということ、すなわち死の中にはいないことを彼らが見るために、墓は開かれていたのです。

 他の福音書には、天使が現れてキリストの復活を告げたという話が書かれています。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ24:5‐6)。今日の箇所には天使は出て来ません。しかし、マリア、そしてペトロとヨハネが見た出来事が、同じことを雄弁に語っていたのです。抜け殻になった亜麻布が、そして「出口」の開かれた墓そのものが、こう語っていたのです。「あの方は、ここにはおられない。墓の中にはおられない。死の中にはおられない。復活なさったのだ」。

 これが私たちに伝えられている、あの「週の初めの日」の出来事です。主は墓の中にはおられない。主は生きておられる――それが私たちの信仰です。だからこそ二千年前から今日に至るまで主の復活が祝われてきました。今日も世界中で主の復活が祝われています。そして、復活祭だけでなく、あの日と同じ「週の初めの日」に私たちは毎週集まって礼拝をしているのです。主は生きておられるからです。

 イエス様は「生きておられる」。それは、私たちが今ここに「生きている」というのとは、意味合いが全く違います。あの残された亜麻布が、あの墓の出口がはっきりと示していたように、この御方は死に閉じ込められてはいない御方として、死に支配されていない御方として、イエス様は生きておられるのです。

 私たち人間は、そのような意味で「生きている」のではありません。皆、死の支配のもとにあるのです。その意味では「生きている」というより「死につつある」というのが正確な表現なのでしょう。「死につつある」のは危篤の人だけではありません。高齢者だけではありません。元気な若者も同じです。赤ん坊も同じです。人間は生まれた時から既に死の支配のもとにあるからです。その意味では初めから墓の中にいるとも言えるのでしょう。この世界には確かに死に支配された私たち人間の嘆き、叫び、呻く声が満ちています。私たちが日々目にしているとおりです。

 しかし、そのようなこの世界のただ中で、あの「週の初めの日」、復活の朝の出来事は起こったのです。マリアが見た、ペトロが見た、ヨハネが見た、あの出来事は起こったのです。神はキリストを復活させられました。なんのためですか。死に支配されている私たちを救うためです。

 イエス様は二千年前に葬られたあの墓の中にはおられないのです。今もなお遺骨やミイラが墓の中に残っていて、教えだけが生きているというのではないのです。信仰生活とは、単にイエスの教えを受け取ることではないのです。そうではなくて、生きておられるキリストを人生にお迎えして、キリストと共に生きていくことです。

 生きておられるキリストは、死に支配された私たちの人生に入ってきてくださいます。罪の赦しと永遠の命を携えて、私たちを閉じこめている墓の中に入ってきてくださいます。いや、入ってきてくださるだけではありません。生きておられるキリストは、私たちを閉じこめている墓の扉を打ち破ってくださいます。この御方と共にあるならば、もはや誰も死の中に閉じこめられた者として生きる必要はないのです。もはや死につつある者として生きる必要はないのです。私たちにもやがて永遠の命の世界によみがえる復活の朝が訪れるからです。

2019年4月14日日曜日

「起きて祈っていなさい」

ルカ22:39‐53

 次聖日はイースターです。イースター前の一週間は「受難週」と呼ばれます。今日は「棕櫚の聖日」と言いまして、イエス様がエルサレムに入城された日に当たります。そして、今週の木曜日は弟子たちと最後の食事をした日に当たります。その時にイエス様が弟子たちの足を洗われた(ヨハネ13:5)ことから、「洗足木曜日」などと呼ばれます。ということで、今週の「洗足木曜日」には、近隣の教会がお隣の代田教会に集まって共に祈りの時を持ちます。翌日の金曜日がイエス様の十字架につけられた日に当たります。そして、三日目の日曜日に復活祭を迎えます。そのように、今週は特にキリストの御苦しみを思いつつ一週間を過ごしましょう。

キリストの恐れ
 さて、今日の聖書箇所は、弟子たちとの最後の晩餐を終えたイエス様が、祈るためにオリーブ山に行かれたことを伝えています。40節には「いつもの場所に来ると」と書かれていますが、その場所は他の福音書において「ゲッセマネ」と呼ばれています。この箇所を読みますと、まず強烈に心に迫ってくるのは、イエス様の祈りの言葉です。主はひざまずいて、こう祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(42節)。私たちはまずこの祈りの言葉に耳を傾けたいと思います。そこにあるのは恐れと従順です。そこにはキリストの恐れがあります。そして、キリストの従順があります。

 キリストは恐れていました。その姿は、「イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた」(44節)と伝えられています。マルコによる福音書では、もっとはっきりと「ひどく恐れてもだえ始め」(マルコ14:33)とあります。この「恐れ」は先週読まれたヘブライ人への手紙の言葉と関係しています。そこにはこう書かれていました。「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました」(ヘブライ5:7)。キリストは激しい叫び声をあげ、涙を流しながら祈った。「死から救う力のある方」に祈った。そこにあったのは明らかに「死に対する恐れ」です。聖書ははっきりとそのことを伝えています。

 キリストは死を恐れた。それは実に意外なことに思えます。なぜならここまでの話の流れにそぐわないからです。イエス様はここに至るまでに少なくとも三回、御自分の受難を予告しておられます。例えば、18章31節以下にはこう書かれています。「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子について預言者が書いたことはみな実現する。人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」これは三度目の予告です。つまりイエス様はエルサレムで自分の身に何が起こるかを知っておられたのです。それを知りながら、エルサレムに向かわれたのです。

 この直前の食事においても、これが捕らえられる前の最後の食事となることを主は明らかに知っておられました。ですから、その食事の際に、「これはわたしの体である」と言ってパンを与え、「これはわたしの血である」と言って杯を回されたのです。イエス様には分かっていたのです。

 さらに言うならば、裏切ったユダが祈りの場所に人々を手引きして連れてくることさえも知っていたのです。その場所こそが、民衆に知られることなくイエスを捕らえるために、格好の場所だったからです。ユダがそこに武装した人々を連れて来る。そのことを知った上で、あえて「いつもの場所」に向かったのです。

 ならば、そこに本来期待されるのは、泰然自若として捕らえに来る者を待つキリストの姿でしょう。自らの死を静かに受け入れ、恐れることなく、うろたえることなく、ただその時を待つキリストの姿。――しかし、そのような姿はここには見られません。キリストは恐れて、苦しみもだえて祈っておられます。聖書はあえてその姿を伝えているのです。ならば私たちもまたしっかりとその姿に目を向けなくてはならないのでしょう。

 イエス様は、「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」と祈られました。キリストが恐れたのは、父から受けようとしていた「杯」でした。その「杯」が何であるかを知るゆえに恐れていたとも言えるでしょう。「杯」は苦しみを象徴しています。しかし、それはただ苦しみであるというだけではありません。旧約聖書において詩編にもイザヤ書などの預言者の書にも、繰り返し神からの杯が語られていますが、そこにおいて「杯」が意味しているのは人間の罪に対する神の怒りであり神の正しい裁きなのです。

 その杯をひとりで受け、飲み干すこと――メシア・キリストであるということは、そういうことなのだということを、主は知っておられたのです。それこそが世を救うことになるのだ、ということを。世を救うということは、世の罪を贖うということなのです。私たちの救いのために、私たちの罪を代わりに背負うということです。罪人として神の裁きを代わりに受け、罪人として死んでいくということです。それがメシアとしての苦しみであり、メシアとしての死なのです。

 ならば、キリストが死を前にして恐れているとするならば、それは私たちに代わって恐れているということになるのでしょう。本当に恐れなくてはならないのは罪ある私たちであるはずなのでから。キリストがもだえ苦しんでいるとするならば、それは私たちに代わってもだえ苦しんでいるということなのです。

 実際、私たちは罪がなんであるかを本当の意味で知らないのだろうと思います。それゆえに死が何であるかを本当の意味では知らない。罪ある者として罪を負って死んでいくということがどういうことであるかを知らない。だから死を恐れたとしても、キリストのように恐れているわけではありません。

 裁きとしての死を知っているのはイエス様です。あの御方は私たちに代わって恐れ、そして苦しまれました。そして、実際に神の杯としての死を受けとり、飲み干されました。その意味において、イエス様があれほど恐れた、あの死の苦しみを負わせたのは、他ならぬこの私たちだということです。受難週において、私たちが向き合わなくてはならないのはその事実です。
誘惑に陥らないように祈りなさい
 そして、もう一つ。私たちが目を向けなくてはならないのは、キリストの従順です。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」。そこには恐れと共に従順がありました。そこにはキリストの従順がありました。

 「この杯をわたしから取りのけてください」という祈りに、単純に「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」という祈りが続いたと考えてはなりません。恐れから信頼と従順へ。そのためには、恐れを伴った苦しみもだえながらの激しい祈りがあったことを聖書は伝えているのです。

 その祈りの末に、主は立ち上がります。イエス様は弟子たちのところに戻られます。眠り込んでいた弟子たちに語りかけておられると、ユダに手引きされた群衆が現れました。ユダはイエスに接吻しようと近づきます。主は言われました。「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」。事の成り行きを見てとった弟子の一人が大祭司の手下に剣をもって打ちかかり、その右の耳を切り落としました。しかし、主は彼を制して言います。「やめなさい。もうそれでよい」。そして、その耳を癒されました。イエス様が地上で行われた最後の癒しの奇跡でした。こうしてイエス様は捕らえられてゆきました。天の父の御心に従うために。「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈った者として。

 そして、そのキリストの従順と共に、弟子たちへの言葉が伝えられているのです。二回繰り返されています。「誘惑に陥らないように祈りなさい」(40節)。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」(46節)。それはあの弟子たちだけでなく、後の教会にも与えられている御言葉です。キリストに死の苦しみを負わせたことを知った者への言葉です。キリストが父の杯を飲み干してくださったゆえに救われたことを知った者への言葉です。キリストの従順によって救われたことを知った者への言葉です。

 キリストの従順によって救われた者は、キリストの従順に倣う者となるよう招かれます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と招かれます。しかし、そこには誘惑もまたあります。キリストに従うことから引き離す力が働きます。だからこそ、主は「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われるのです。

 「誘惑に陥らないように祈りなさい」。主はそう言われて、「そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた」と書かれています。「石を投げて届くほど」の距離とはどのくらいでしょう。よく分かりませんが、少なくとも遙か彼方でないことは確かです。主の祈る姿が見えるところ。激しく叫び祈るイエス様の声が聞こえるところ。彼らは身を置くことを求められた。そこで、彼らもまたイエス様と共に祈ることを求められたのです。イエス様の御苦しみを思いつつ、彼らもまた「誘惑に陥らないように祈る」ことが求められているのです。

 しかし、実際には彼らは眠ってしまいました。「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた」(45節)と書かれています。弟子たちはイエス様の祈りの姿だけを伝えたのではなくて、眠り込んでいた自分たちの姿を一緒に伝えたのです。

 「悲しみの果てに眠り込んでいた」と書かれていますように、試練の中にあって、悲しみの中にあって、まさにその時こそ、誘惑に陥らないために祈らなくてはならないという時に、実際には祈ることをやめてしまうことはあり得ます。眠り込んでしまったらイエス様の姿も声も聞こえないように、霊的に眠り込んでしまったならば、私たちの救いのために苦しみもだえて祈られたイエス様の御姿を思うこともありません。

 それはあの弟子たちだけではありません。いつの世の信仰者の経験でもあるのでしょう。だから彼らの姿が伝えられているのです。私たちも例外ではないでしょう。しかし、眠っている弟子たちのところにイエス様は戻ってこられます。そしてもう一度言ってくださいます。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」と。イエス様が起こしてくださる。ならばそこから祈り始めたらよいのでしょう。

 今日、ここにいる私たちに「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」という言葉が語られています。眠っていたらイエス様が起こして私たちに語ってくださいます。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。その御言葉が、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」と祈られたイエス様の祈りと共に伝えられています。この御言葉を受け止めて、受難週の歩みを進めてまいりましょう。「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」。

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