2025年4月27日 主日礼拝説教
聖書:イザヤ書 65:17‐25
今日は第一朗読においてイザヤ書が読まれました。最終的な神の救いが次のように表現されていました。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない」(17節)。
救いの描写の縮小版
「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」。――「天と地」の組み合わせによって表現されているのは、被造物世界の全体、全宇宙を含めて、見えるものと見えないものとの全体です。そのすべてを全く新しくすると主は言われるのです。
そのように語られた次点で事柄は私たちの思考の枠を完全に越えてしまいます。もはや私たちには想像することすらできない。だから「それはだれの心にも上ることはない」と書かれているのです。ここに語られていることは、要するに、私たちの想像することもできないようなことを最終的に神様はなさるのだ、ということです。
逆に言うならば、そうでもしなかったら私たちは救われないのだ、ということです。それほどまでに救いがたいのが人間です。神が新しい天と新しい地を創造するようなことでもなければ、私たちは救われない。そして、神様はそのようなことをしてでも救ってくださる神様だということです。
さて、そのように神が最終的に行おうとしておられることは、本質的に私たちの想像を遙かに超えた出来事です。しかし、神様はそれを私たちの想像の枠内に収まるように語り直してくださるのです。それが18節以下です。そこには救いの世界が、私たちもある程度想像できるような仕方で書かれているのです。
長寿が祝福となる世界
そこで18節以下に目を向けますと、その中心に描かれているのは、救われた人々が「長寿」であることです。「そこには、もはや若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる」(20節)。
救いの世界が「長寿の世界」として表現されているのは、決して自明のことではありません。実際、この世における「長寿」について考えてみてください。「長寿」は単純に「救い」と結びつくでしょうか。「長寿」は単純に「祝福」と考えられますでしょうか。日本は世界一の長寿国です。だからと言って単純に日本の高齢者は幸せだ、と言えるのでしょうか。言えないだろうと思います。
長寿が祝福として語られるためには、どうしてもその前提が必要です。それは「喜びがある」ということです。生きていることに喜びが伴っているということです。ですから、長寿について語られる前に、まず喜びについて語られているのです。主は言われます。「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」(18節)。
若い時に経験した喜びの多くは、歳を重ねるに従って失われていきます。ここにあるように神が喜び楽しませてくださってこそ、長寿は祝福となるのです。いや、ここにはさらに深い喜びが語られています。「わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする」(19節)。つまり真の喜び、変わることのない喜びは、神が喜び楽しませてくださるだけでなく、《神の喜び》となるところにあるのです。神はそのような喜びを与えると言われるのです。
狼が小羊と共に生きる世界
そして、その喜びは21節以下に書かれていることと深いところで結びついています。そこには次のように書かれています。「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを、他国人が食べることもない」(21‐22節)。
ここで「他国人」と訳されていますが、元来の意味は「他人」です。自分が建てたものに他人が住み、植えたものを他人が食べる。それが意味するのは、「他人に奪われる」ということです。奪われることに怯えて生きざるを得ないのは、私たちが奪い合いの世界に生きているからです。小さな家庭内の兄弟喧嘩から、国家間の戦争に至るまで、まさに人類が今日に至るまで織りなしてきたものは、この奪い合いの歴史です。
しかし、ここに描かれているのは、もはや奪われることのない世界です。害されることのない世界です。奪われる恐れがないのは、神が近くおられ、神が治めてくださるからです。「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」(24節)。それほどに神は近くにいてくださるのです。
いや、ここに書かれていることはより大きなことです。神は近くにいて奪われる者を奪う者から守ってくださるだけではありません。そもそもの奪い合う《悪そのもの》を取り除いてくださるのです。害し合う悪そのものを取り除いてくださるのです。そして、皆が本当の意味で共に生きるようにしてくださるのです。
25節に書かれているのはそういうことです。「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」(25節)。そのように共に生きることができる。そして、共に生きる世界にこそ、神の与えてくださる喜びが満ちるのです。
キリストの十字架のゆえに
さて、このようなエルサレムの描写は、先に述べたように新しい天と新しい地そのものの描写ではありません。人間の思考の枠に収まるように加工されたものです。しかし、これらの言葉から、少なくとも神様が何を私たちに与えたいと望んでいてくださるかは分かります。
主は、奪い合い害し合う「悪」そのものが取り除かれた世界を望んでおられる。私たちが共に生きる世界を望んでおられる。そして、長寿が祝福とみなされるような喜びが満ちた世界、神の喜びを共有する世界を望んでおられるのです。もちろん、望んでおられるだけでなく、神様は与えてくださるのです。そのために、神はこの世界にキリストを遣わしてくださったのです。
しかし、キリストが来られた時、預言者イザヤの書に書かれているようなことは実現しませんでした。そこで何が起こったのか。私たちは良く知っています。神が遣わしてくださったキリストは、人間の手によって十字架にかけられ、殺されてしまったのです。
今日の第二朗読において、パウロは次のように語っていました。「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました」(使徒13:27‐29)。
そのように、神が救いのために遣わされたキリストを、人間は罪に定めて十字架にかけて殺してしまったのです。そのような形において人間の罪が白日のもとにさらされることになりました。あくまでも自分の正しさを主張し、神の子さえも裁いて罪に定めて殺してしまう、そんな人間の罪が明らかにされたのです。
そうです、あの日、イザヤ書に書かれている救いの世界は実現しませんでした。むしろ、私たち人間がいかに救いから遠いか、私たちがいかに救いがたい罪深い存在かということが明らかにされたのです。しかし、そこでパウロは言うのです。「イエスについて書かれていることがすべて実現した」と。すなわち、神様が計画しておられたことがすべて実現した。そのように聖書は語っているのです。
つまり、イザヤ書65章に語られていた救いの世界が実現する前に、この地上には十字架が立てられなくてはならなかった、ということなのです。奪い合い害し合う悪そのものを取り除いてくださる前に、私たちが共に生きる世界を神が与えてくださる前に、喜びが満ちる世界、神の喜びを共有する世界を与えてくださる前に、神は私たち人間の罪を赦すために、十字架をこの地上に立てなくてはならなかったのです。御子イエスの血によって罪の贖いを成し遂げなくてはならなかったのです。すべては既に書かれていたことでした。神のご計画の中にあったことでした。
だからこそ、十字架には続きがあるのです。パウロはこう続けます。「しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」(使徒13:30)。
神は私たちの想像を超えたことをなさいます。キリストの復活という出来事自体が、既に私たちの思考や想像を超えています。「だれの心にも上ることはない」ようなことを神はなさいました。そして、最終的に「だれの心にも上ることはない」ような仕方で、救いを実現してくださいます。奪い合い害し合う悪そのものを取り除いてくださいます。私たちが共に生きる世界を与えてくださいます。喜びが満ちる世界、神の喜びを共有する世界を与えてくださいます。「新しい天と新しい地の創造」としか表現できないような仕方において与えてくださるのです。
そして、救いの言葉は既に私たちに送られ、こうして私たちは受け取っています。私たちは最終的な完全な救いを信じて、希望をもって生きることができるのです。いや、私たちは救いを待ち望んで生きるだけでなく、私たちは既にその新しい天と新しい地を味わい始めているのです。大きなデコレーションケーキの端っこのクリームをなめさせていただくような仕方で味わい始めているのです。それが信仰生活です。
既に罪の赦しの十字架は立てられました。十字架につけられたイエスの御名による罪の赦しが宣べ伝えられています。私たちは罪を赦していただいた者として、信仰生活の恵みにあずかります。そして、罪を赦していただいた者として、新しい天と新しい地における救いの完成を待ち望んで生きるのです。
2025年4月27日日曜日
「わたしたちに送られた救いの言葉」
2025年3月16日日曜日
「見よ、あなたたちの神を」
2025/3/16 主日礼拝説教
聖書:イザヤ書 35:1-10
人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る
「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ」(1節)。今日の第一朗読でそのような言葉が読まれました。
荒れ野や砂漠は、突然荒れ野や砂漠になったわけではありません。荒れ野や砂漠であり続けた過去があり、そして現在があるのです。この世の常識から言えば、荒れ野の過去と現在を考えるなら、喜び躍るべき未来があるとは思えません。砂漠の過去と現在を考えるなら、花が咲き乱れている未来があるとは思えません。それがこの世の常識というものです。
しかし、ここに全く異なる見方でこの世界を見ている人がいます。人は彼を預言者と呼びます。この人は、過去は砂漠であり現在も砂漠であったとしても、未来に砂漠を見てはいないのです。預言者はそこに、バラの花が咲き乱れている未来を見ているのです。
さらに彼は言葉を続けます。「花を咲かせ/大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ/カルメルとシャロンの輝きに飾られる」(2節)。
レバノンはレバノン杉で有名な森林を有する地域です。砂漠にレバノン杉は絶対に生えません。過去に生えたことはないし、現在も生えてはいないのです。しかし、この人は砂漠がレバノン杉の森林になった姿を見ているのです。「砂漠はレバノンの栄光を与えられる」と。
そのように彼は、単純に過去と現在から未来を予測しようとはしないのです。それはなぜなのか。彼が目を向けているのは荒れ野や砂漠だけではないからです。また、そこで人間が何を為し得るかということでもないからです。この人は信仰をもって神に目を向けているのです。神がなさることに目を向けているのです。
荒れ野が喜び躍り、砂漠に花が咲き乱れるとするならば、それは神がなさることです。砂漠がレバノン杉の森林になるとするならば、それは神がなさることです。それゆえに、そこで人々が見るのは人間の栄光ではありません。主の栄光なのです。「人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」と彼は言うのです。
人が荒れ野の過去を思い、荒れ野の現在を思い、そして、そこで自分の手を見つめている限り、そこには希望はありません。人間の為し得るところだけを見つめている限り、荒れ野は未来も荒れ野なのでしょう。しかし、預言者は本当に求めるべきことを語るのです。それは人々が主の栄光を見ることなのです。私たちの神の輝きを見ることなのです。
見よ、あなたたちの神を
さて、預言者がこのように語るのには、実はそれなりの理由がありました。そこには「弱った手」を持つ人々がいたからです。本当はなさなくてはならないことがあるのに、できなくなっている人々がいたからです。そこにはまた、「よろめく膝」を持つ人々がいたのです。本当は立ち上がって前に進んでいかなくてはならないのに、それができなくなっている人々がいたのです。そして、そこには「心おののく人々」がいたのです。本当は心を向けなくてはならないことがあるのに、恐れと思い煩いで心がいっぱいになっている人々がいたのです。
だからこそ、彼らに向かって預言者は語るのです。「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ」と。さらに彼は言います。「心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」(3‐4節)。
弱った手。よろめく膝。心おののく人々。具体的にどのような状況がそこにあるのか、この預言の言葉がどのような時代背景において誰に対して語られたのかは定かではありません。いや、むしろあえて特定の時代状況や人々と結びつかないような書き方がされているとも言えます。実際、弱った手やよろめく膝、心おののく人々の存在は、ある特定の時代背景に限定されているわけではありませんから。それは今日、ここにいる私たちの話でもあるのでしょう。
まさに荒れ野としか言いようのない過去があり、現在も変わらず荒れ野であるときに、人はもはや何も未来に期待することができなくなってしまうのです。もはやそこには待ち望むべき何ものもない。本当は為すべきことがあるのに手は弱り、本当は進まなくてはならないのに膝はよろめく。そのようなことが起こるのです。
だからこそ預言者は言うのです。「見よ、あなたたちの神を」。そうです、だからこそ目を向けなくてはならない御方がいるのです。その御方は他ならぬあなたたちの神だと預言者は言うのです。「見よ、あなたたちの神を」。それは信仰への招きです。神が来られるのです。私たちの目には永遠に荒れ野としか思えないところに神が入って来られるのです。そして、神が行動を起こされるのです。「敵を打ち、悪に報いる神が来られる」とはそういうことです。
ここもまた、あえて特定の歴史的状況とは切り離して書かれています。敵が誰であるかは語られていません。「悪」が具体的にどのような悪なのかは語られていません。それは大して重要なことではありませんから。それがいつの時代であれ、どのような状況であれ、苦しめる敵が何であれ、苦しめる悪がなんであれ、大切なことは「神は来て、あなたたちを救われる」という信仰だからです。
そのとき
「見よ、あなたたちの神を」。神に目を向けるとき、そこには異なる未来が見えてきます。神は預言者を通して「そのとき」について語ってくださるのです。神が来て、救ってくださる「そのとき」について語ってくださるのです。私たちの想像を超えた仕方で神が救ってくださる「そのとき」について語ってくださるのです。
彼はこう続けます。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき/歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで/荒れ地に川が流れる。熱した砂地は湖となり/乾いた地は水の湧くところとなる。山犬がうずくまるところは/葦やパピルスの茂るところとなる」(5‐7節)。
神様は預言者を通して、実に様々な表現を用いて、「そのとき」について語られます。それらの表現は全て、神様御自身が、神様にしかできないことを、神様の仕方によって実現することを言っているのです。「神は来て、あなたたちを救われる」とはこういうことなのです。
しかし、あくまで神様は「そのとき」としか言われません。主は「いつであるか」については語られないのです。明日であるとも十年後であるとも千年後であるとも語られない。あくまでも「そのとき」です。その意味では、「そのとき」というのは「いつか必ず」と言っているのに近いと言えます。あるいは「最終的には」と言い換えることができるかもしれません。その意味では完全に実現するのは終末においてだとも言えます。
そして、そこに語られているのは、荒れ野に水が湧き出ることだけではありません。荒れ地に川が流れるだけではありません。「そこに大路が敷かれる」(8節)と言うのです。大きな道が通る。それは何のための道でしょうか。10節にこう書かれています。「主に贖われた人々は帰って来る。とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」(10節)。
私たちの人生には最後まで嘆きと悲しみは残るのでしょう。この世の歴史には最後まで嘆きと悲しみは残るのでしょう。しかし、「そのとき」が来るのです。主に贖われた者たちが本当の喜びと楽しみによって迎えられる「そのとき」が来るのです。嘆きと悲しみが完全に永遠に逃げ去る「そのとき」が来るのです。
ヨハネの黙示録は「そのとき」について次のように描いています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(ヨハネ黙示録21:3‐4)。
明らかに「そのとき」はまだ来ていません。それは「終わりの日」についての預言です。それはまだ未来に属することです。
しかし、ある時、イエス様がこんなことを言われました。洗礼者ヨハネが二人の弟子たちをイエス様のもとに遣わして、こう尋ねさせた時のことでした。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」するとイエス様は二人にこう答えられたのです。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」(ルカ7:22‐23)。
「来るべき方は、あなたでしょうか」。そう、来るべき方は、その御方でした。イエス様の到来において、いったい何が起こっていたのか。メシアの到来において人々は何を見たのか。「そのとき」について語る聖書の言葉が、私たちが今日朗読した聖書の言葉が、生きた現実となっているのを見たのです。主は言われました。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き・・・」と。そうです、それは生きた現実となっているのです。
聖書が語る救いの約束は、私たちにとって待ち望むべき究極の希望です。私たちは「そのとき」を信じて待ち望みます。しかし、同時に、聖書が語る救いの約束を、私たちは生きた現実として味わい始めているのです。そのような信仰の歩みの中において、私たちは今日も再び呼びかけられているのです。「見よ、あなたたちの神を」と。
2024年11月3日日曜日
「受け継がれてきた信仰」
イザヤ書 51:1-3
今日は「聖徒の日」です。天に召された方々を記念して礼拝をお捧げする日です。この日、私たちにはそれぞれ思い起こす人がいることでしょう。しかし、この日はただ私たちの身近な人たちを思い起こす日ではありません。先に召された代々の聖徒たちを思い起こす日でもあります。私たちが今ここに身を置くまでには、長い教会の歴史があるのです。信仰者たちの歴史があるのです。代々の聖徒たちは何を受け継いできたのか。神は私たちに何を受け継がせようとしているのか。そのことに思いを馳せる日でもあるのです。
アブラハムの信仰
そのような日に与えられているのは、先ほど読まれた御言葉です。こう書かれていました。「わたしに聞け、正しさを求める人/主を尋ね求める人よ。あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ。あなたたちの父アブラハム/あなたたちを産んだ母サラに目を注げ。わたしはひとりであった彼を呼び/彼を祝福して子孫を増やした。」(1-2節)。
アブラハムとその妻サラ、そしてその子孫の物語が旧約聖書に記されています。それは、たったひとりのアブラハムから子孫が増え広がってイスラエル民族となったという話です。ですから、「わたしはひとりであった彼を呼び/彼を祝福して子孫を増やした」と書かれているのです。
しかし、内容はそう単純ではありません。アブラハムとサラには子供がありませんでした。しかも、長い間ありませんでした。年老いてなお子供がありませんでした。神が誰かをイスラエル民族の祖先にするつもりならば、既に子供がいる人を選んだ方が早かったと思います。しかし、神はあえて可能性の見えない人たちを選ばれました。見込みのない人たちを選ばれたのです。しかも、もっと見込みがなくなるように、可能性がつぶれていくように、約束の実現を先延ばしにされたのでしょう。
なぜそのようなアブラハムを選ばれたのでしょう。なぜ可能性がなくなるようにアブラハムを待たされたのでしょう。――それはアブラハムが人、によって実現されることではなく、神によって実現されることを信じて待ち望むようになるためでした。アブラハムが人間の可能性にではなく、ただ神のなされることに信頼するようになるためでした。神はアブラハムに信仰を求められたのです。
それはどうしてでしょう。神はただ一つの民族をこの世に加えようとしていたのではないからです。そうではなく、「信仰の民」「主を信じる民族」を創ろうとしていたのです。アブラハムは信仰の民の祖先となるのです。だから、まずアブラハムに信仰を求めたのです。アブラハムをただ一民族の父ではなく、信仰の父にしようとしていたのです。
そして、アブラハムは信仰をもって神に応えました。聖書にこんな話が書かれています。子供のいないアブラハム(その時はまだアブラムという名前)が主に言いました。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています。」すると主は言われるのです。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ。」さらに主は満天の星空を見せてこう言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」。そして、言われます。「あなたの子孫はこのようになる」と。創世記15章に書かれている話です。その時、アブラハムはどうしたでしょうか。聖書にはこう書かれています。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創世記15:6)。
これがアブラハムの信仰です。このアブラハムの信仰を、第2朗読で読みましたローマの信徒への手紙において、パウロは次のように表現しています。「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました」(ローマ4:18)。そうです、アブラハムは望み得ない状況においてなおも望みを抱いて信じたのです。そのように神を信じるアブラハムにおいて、「わたしはひとりであった彼を呼び、彼を祝福して子孫を増やした」という祝福の物語が実現していったのです。
これが「切り出されてきた元の岩」です。これが「掘り出された岩穴」です。そこに目を注げと主は言われるのです。そこから切り出されてきたならば、そこから掘り出されてきたならば、元の岩と同じものを持っているはずだからです。同じものが与えられているはずだからです。同じ神との関わりが与えられており、その神に応えたアブラハムの信仰が与えられているはずだからです。人によって実現されることではなく、神によって実現されることを、信じて待ち望む信仰が与えられているはずだからです。つまり、「切り出されてきた元の岩」に目を注げとは、自分が何を受け継いでいるのかに目を注げ、ということでもあるのです。
荒れ野をエデンの園とする
さて、この「あなたたちが切り出されてきた元の岩/掘り出された岩穴に目を注げ」という主の言葉を、最初に耳にしたのは今から約2500年前のエルサレムの人々でした。主が預言者を通して彼らに「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」と語られたのは、彼らがその言葉を聞かなくてはならない状況があったからです。それは続く言葉からわかります。
「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(イザヤ51:3)。そのように預言者は語ります。そのように語るのは、人々が廃墟を目にしていたからです。荒れ野を目にし、荒れ地を目にしていたからです。そこには喜びがなく、楽しみもなく、感謝の歌声が響いてもいなかったからです。
エルサレムが廃墟となっていた時代がありました。バビロニアによって破壊されたのです。それから約五十年の時を経て、バビロニアからペルシャの時代へと移り変わりました。エルサレムへの帰還と再建が許可される時代となりました。その時を待ち望んでいた人々は、希望に胸を膨らませ、祖国再建の燃えるような情熱をもって、エルサレムへと帰っていきました。
しかし、彼らを待っていたのは冷たい現実でした。城壁は崩れ落ち、かつて神殿が存在していたところは瓦礫の山でした。しかも、この再建を快く思わない人々による激しい妨害に遭うことになりました。どう考えても無理だ。荒れ野はこれからも荒れ野なのであって決して変わらない。そう思わずにはいられない状況がそこにありました。彼らは希望を失っていきました。
荒れ野は永遠に荒れ野なのであって、決してエデンの園にはならない。そのような思いはいつの時代の人の内にも根強く存在するものでしょう。荒れ野とは何でしょうか。「荒れ野」と聞いて、ある人は、毎日の生活を思うかもしれません。あるいは夫婦の関係、問題を起こす子供たち、職場における人間関係を思う人がいるかもしれません。そう、変わって欲しいと思うけれど、荒れ野は荒れ野であり続けるとしか思えない現実が、確かにこの世にはいくらでもあるのです。
しかし、本当はまず変わらなくてはならないのは「荒れ野」や「荒れ地」ではないのです。そうではなくて、荒れ野を見ているその人自身の心なのです。諦めに支配され、不信仰に支配されているその人の心なのです。だから主はまず彼らの心に向かって、「わたしに聞け」と言われたのです。そうです。その前に聞かなくてはならないことがある。聞いて変わらなくてはならないものが自分自身の内にあるのです。外にあるものが変わることを願うなら、その前に自分の内側にあるものが変わらなくてはならないのです。
だから主は言われたのです。「あなたたちが切り出されてきた元の岩、掘り出された岩穴に目を注げ」。アブラハムとサラの信仰の物語に目を向けさせるのです。エルサレムで廃墟を見ていたあの人たちは、もう一度先祖から受け継いできた信仰、そして神が受け継がせようとしている信仰に、もう一度目を向けなくてはならなかったのです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。そのように彼らもまた、まず主を信じる者となる必要があったのです。
いや2500年前のあの人たちだけではありません、教会もまた同じ岩から切り出されてきたのであり、同じ岩穴から掘り出されてきたのです。いやパウロに言わせれば、教会こそまさにアブラハムの信仰を受け継いでいるものなのです。希望するすべもないときに、なおも希望を抱いて、信じる者として生きる者とされているのです。
なぜなら、キリストが十字架にかかられ、そして復活されたことによって、もはや何ものによって私たちは絶望する必要のないことが明らかにされたからです。人間の罪がいかに絶望的な荒れ野をもたらしたとしても、人間にはどうすることもできない死の力が私たちの人生をもこの世界をも支配しているように見えたとしても、それでもなお私たちは絶望する必要がないことを、神はキリストにおいて語ってくださったからです。
いわば神はキリストを通して、「わたしは荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とする」と宣言してくださったのです。私たちを罪と死から救い、「そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」と宣言してくださったのです。
そして神はアブラハムに対してそうであったように、主は御自分が語られたことを実現されるのです。しかし、そこにおいて主が求めておられることがあるのです。それはただ信じることです。アブラハムの信仰です。彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた。神によって義とされたこの信仰こそ、代々の聖徒たちが受け継いできたものであり、神が私たちに受け継がせようとしているものなのです。
2024年4月14日日曜日
「嘆きを喜びに変えてくださる神」
イザヤ書 61:1-3
私たちが信じている神様は、嘆きを喜びに変えてくださる神様です。本日の第一朗読にそのことが記されていました。今日の説教題はイザヤ書61章3節から取りました。主は灰に代えて冠を与えてくださる。主は嘆きに代えて喜びの香油を与えてくださる。主は暗い心に代えて賛美の衣を与えてくださる。これはまことに、嘆いている人に与えられている喜ばしい神の約束です。
嘆きに代えて喜びの香油を
しかし、この恵みの言葉が向けられている「嘆いている人」とはいかなる人のことでしょうか。彼らは「シオンのゆえに嘆いている人々」と表現されています。彼らは単に災いを嘆いているのではありません。身に降りかかってきた不幸を嘆いているのではありません。彼らはシオンのゆえに、すなわち、エルサレムのゆえに嘆いているのです。
なぜなら、エルサレムがいまだに廃墟だったからです。主が選ばれ、主が礼拝されていた場所が、平和と喜びに満ちているはずの場所が、いまだに荒れ果てているからです。そして、その荒廃をもたらしたのは人間の罪のゆえであり、それは他ならぬ彼らの罪のゆえであることを知っているからです。それゆえに彼らは嘆いているのです。重く暗い心をその内に抱き、嘆いているのです。
この世では、いつも明るく元気である人が好まれます。深刻な顔ばかりしているとネクラと呼ばれて疎まれるかもしれません。この世界や自分自身を見て嘆いているよりは、自分の可能性と人類の可能性を信じて生きていく人――そのような人は「前向きな人」「ポジティヴな人」として賞賛されるのでしょう。
しかし、聖書によるならば、喜びの香油は《嘆きに代えて》与えられるのです。賛美の衣は《暗い心に代えて》与えられるのです。真に嘆くことを知る人だけが、神から来る喜びを知ることになるのです。
聖書は「嘆き」を人生にとって不要な要素とは見ておりません。嘆くことは必要なことなのです。かつて、預言者ヨエルは人々に向かってこう叫びました、「主は言われる。『今こそ、心からわたしに立ち帰れ、断食し、泣き悲しんで。衣を裂くのではなく、お前たちの心を引き裂け』」(ヨエル2:12‐13)。また、新約聖書においては、ヤコブも次のように書いています。「罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい」(ヤコブ4・8‐9)。
実際、私たちの罪と不信仰が、私たちの生活に、あるいは教会に、あるいはこの社会に、この世界に、荒廃をもたらしているのに、もし嘆くことも悲しむことも全くできないとするならば、それは、本当はとても不幸なことなのでしょう。人間の罪と不信仰によって、目の前に荒れ果てている現実があるのに、嘆くことも悲しむこともできないで、ただ自分たちの平安や安泰を望んでいるとするならば、それは、本当はとても不幸なことなのでしょう。その先に天来の喜びが、真の喜びが満ちることはあり得ないからです。主の与えてくださる喜びの香油は、嘆きに代えて与えられるのです。
正義の樫の木と呼ばれる
そこで、私たちはなおしばらく、この《シオンのゆえに嘆いている人々》が意味することについて、御言葉に耳を傾けたいと思います。
主は預言者に聖霊の油を注いで遣わされます。主は良い知らせを伝えさせます。嘆きに代えて喜びの香油を与えるためにです。その知らせが向けられている人々が、1節では様々な言葉をもって表現されています。
良い知らせが伝えられるのは「貧しい人」に対してです。主の癒しに包みこまれるのは「打ち砕かれた心」です。自由と解放が告知されるのは「捕らわれ人」に対してであり、「つながれている人」に対してです。
ここで「貧しい人」と言われているのは、単に経済的に困窮している人のことではありません。旧約聖書においてこの言葉がまず意味するのは、力がないために押し潰されて、苦しんでいる人たちです。この世のどこにも拠り所を持たない、持ち得ない人々です。それゆえに、ただひたすら神に望みを置き、神を呼び求める人々です。弱いから、乏しいから、ただ神の憐れみを乞い求めるしかない。そのような人々です。それゆえに、この「貧しい人」という言葉は、しばしば詩編などにおいて、苦難の中にある信仰者を意味する言葉として用いられています。
そして、ここには「貧しい人」について語られているだけではありません。「打ち砕かれた心」についても語られております。「打ち砕かれた心」は、よく知られています詩編51編にも、次のよう一節として出てきます。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(詩編51:19)。
このように、「打ち砕かれた心」とは「悔いる心」です。「悔いる心」とは、同じ詩編に歌われていますように、「咎をことごとく洗い、罪から清めてください」(同4節)と願い求める心です。つまり、ここに語られているのは、自分の無力さ、乏しさを知るだけでなく、自分の罪深さを知る人のことなのです。神に「助けてください」と祈るだけでなく、「赦してください」と祈る人です。
先にも申しましたように、彼らは災いを嘆いていたのではないのです。荒廃した現実を見て、誰かを悪者にして、嘆いていたのでもないのです。そこにあったのは、自分の罪に対する嘆きであり、《自分を含めた》この世界の罪に対する嘆きなのです。ですから「灰に代えて」という言葉も出て来る。灰をかぶるのは、神の赦しを乞い求める、悔い改めの姿です。
また、ここでは「捕らわれ人」と「つながれている人」についても語られています。この預言が語られたのは、時代としては、バビロン捕囚後と言われていますから、直接的にはバビロンにおける捕囚状態を意味しているわけではありません。象徴的な表現と見ることもできるでしょう。いずれにせよ、それがどのような状態であれ、捕らわれ人、つながれている人は、自分で自分を救うことができない人です。ならば、救いは外からもたらされるしかありません。ここに書かれているのはそのような人たちです。
このような「貧しい人」「打ち砕かれた心」「捕らわれ人」「つながれている人」のような言葉をもって表現され得るのが、この「シオンのゆえに嘆いている人々」です。要するに、彼らは荒れ果てた目の前の現実を自らの力でどうすることもできないのです。廃墟をもたらした罪の負い目をも、自分でどうすることもできないのです。そもそも、自分の力でどうにかできるなら、嘆いてなどいないのです。
そして、良き知らせを聞くのはそのような人々だと、預言者は語っているのです。彼らにこそ神の救いの使信が届けられるのです。喜びの香油は嘆きに代えて与えられるのです。いや、ここにはさらに驚くべき言葉が語られております。「彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる」(3節)と預言者は語っているのです。
主が輝きを現すのは、力があり、富んでおり、自信に溢れている人々、嘆きとは無縁の人々によるのではありません。嘆くことしかできない人々こそ、主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木に他ならないと言うのです。そして、彼らこそが、とこしえの廃墟を建て直し、古い荒廃の跡を興すのだと、続く4節に語られているのです。
ここには、聖書の語る不思議な世界があります。「私たちが建て直すのだ。シオンの未来は私たちの手にかかっているのだ」と言う人々が廃墟を建て直すのではないのです。廃墟を建て直すことなどできない者たちが、廃墟を建て直すのです。無力で乏しい人たち、我が身一つどうすることもできない捕らわれ人たちこそが、廃墟を建て直すのです。嘆きながら主を待ち望むことしかできないそのような人たちこそが、廃墟を建て直すのです。
復活節を過ごす私たちとして
さて、イースターからペンテコステに向かうこの復活節に、今、この御言葉が読まれていることには大きな意味があるように思います。復活の主に相まみえたあの弟子たちの姿が、ここに語られている「貧しい人」「打ち砕かれた心」の人々、ひたすら外からの力による自由と解放を待ち望むしかない「捕らわれ人」「つながれている人」、そのような「シオンのゆえに嘆いている人々」と重なってくるからです。
復活したキリストにお会いした彼らは、キリストを十字架につけたこの世界のただ中に置かれることになりました。そのような世界にあって、彼らは全く無力な人々でした。いや無力であるだけでなく、自分たちもまた、キリストを十字架につけたこの世界の一部であることを嫌というほど思い知らされた人々でした。彼らはキリストの十字架の御前において、一度、神によって完全に打ち砕かれてしまった。そのような人々でした。
しかし、彼らの嘆きは確かに喜びに変えられたことを私たちは知っています。貧しい者は良い知らせを告げられ、打ち砕かれた心は包まれました。救いは外からもたらされました。灰に代えて冠が、嘆きに代えて喜びの香油が、暗い心に代えて賛美の衣が与えられました。それだけではありません。彼らは集まって心を一つにして祈り、神の霊を待ち望み、やがて神の霊に満たされた彼らは、この世に遣わされていきました。「彼らは主が輝きを現すために植えられた正義の樫の木と呼ばれる」――そう、私たちは主が彼らを通してこの世界に輝きを現されたことを知っています。すべては、嘆きを喜びに変えてくださる神がなしてくださったことでした。
その同じ神を信じて、私たちはここに集まっております。同じ神を信じて、今、ペンテコステへと向かう復活節を過ごしている私たちです。この復活節をどのように歩むべきか、主の導きを求めて祈りましょう。
2024年1月7日日曜日
「新たな力を得て、鷲のように翼を張って」
イザヤ書 40:25-31
新年最初の主日礼拝の第一朗読において、私たちは次のような御言葉を与えられました。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(31節)。
待てなくなるとき
ここに「望みをおく」という言葉が出てきますが、そのように訳されているのは「待つ」という意味の単語です。主を「待つ」のです。「待つ」ということは信仰生活の大事な要素です。私たちは諦めないで、望みを捨てないで、「待つ」ことのできる人になりたいものです。そのような人こそ、天からの力を得るのです。まだ状況が変わらなくても、現実には何も起こっていないように見えても、主を待つことのできる人は新たな力を得るのです。
しかし、このような預言者の言葉が伝えられているというのは、もう一方で「待つ」ということが時として非常に困難だからでしょう。確かに主に祈り続け、訴え続けてもなお事態が一向に変わらないとき、待つことが困難になるのです。
時は紀元前6世紀、イスラエルの民がバビロニアにて捕囚となっていた時代です。既に捕囚生活が40年以上も続いていました。すぐにも祖国に帰還することができるという希望に燃えていた熱狂の炎もすっかり消えてしまいました。期待をもって未来を見つめる熱いまなざしはもはやそこにはありませんでした。もはや待ち望むべきものなど何もありませんでした。27節に引用されているのは、当時の人々の口に上っていた嘆きの言葉です。「わたしの道は主に隠されている」「わたしの裁きは神に忘れられた」。
「わたしの道は主に隠されている」とは、わたしがどんな苦しく辛い道を歩んでいても、主は関心をもって見ていてはくれない、ということです。それは長く続く捕囚生活における実感だったのでしょう。天高いところに鎮座ましましてそっぽを向いている神。もしかしたら私たちもそのような神のイメージを思い描いてしまう時があるかもしれません。
「わたしの裁きは神に忘れられた」も同じことです。「わたしの裁き」は他の訳では「わたしの訴え」「わたしの権利」などと訳されています。どんなに神様に訴えても、どんなに権利が侵害されていても、全く神様は関心をもってくださらない。まさに忘れ去られているとしか思えない。そのように感じる時がもしかしたら私たちにもあるかもしれません。
そのように神への不信がつのり、待ち望むことができなくなってきますと、内側から弱ってくるのです。29節には「疲れた者」が出てきます。「勢いを失っている者」が出てきます。必ずしも病弱な人や年老いた人の話ではありません。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる」ということが書かれています。
「待つこと」ことができなくなる。未来に何の新しいことをも期待できなくなる。そのような時、年若い者さえも倦み、疲れ、つまずき倒れるようになります。それは私たちも良く知っていることです。本当の疲れは置かれている状況から来るのではありません。待つことができなくなった、その心の中から来るのです。
「なぜ」という神の問いかけ
しかし、そのような者たちに対して、神が預言者を通して問いかけるのです。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか」と。
この「なぜ」という言葉は聖書に繰り返し出てきます。人間の言葉として、祈りの言葉として、「なぜですか」という人間の側からの神への問いかけとして出てくるのです。これは詩編の中の「嘆きの歌」と呼ばれるものに特徴的な言葉です。例えば、良く知られているのは詩編22編でしょう。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」(22:2)という言葉から始まる詩編です。イエス様が十字架の上で口にされた詩編の言葉です。恐らく人々が口にしていた嘆きの言葉も完全な形に再現するならば、こうなるのでしょう。「神よ、なぜわたしの道はあなたに隠され、顧みられないのか」「神よ、なぜわたしの裁きは忘れられたのか」。
そのように嘆きの中で「なぜですか」と問いかけることは私たちにもあると思いますけれど、それは大昔の信仰者たちも皆、経験してきたことなのです。私たちがそのような思いを抱いたとしても、それは何ら特別なことではないのです。そして、嘆きを嘆きとして口に出し、「なぜ」という問いを神に向けることは、時として大事なことなのです。
しかし、私たちの側から神に向かって「なぜ」と問うだけで終わらせてはならないのです。嘆くときは大いに嘆いたらよいと思いますが、ただ自分の嘆きに留まっていてはならないのです。そこに留まるならば、力を失っていくだけだからです。弱っていくだけだからです。神の前に嘆きを注ぎ出したなら、今度はそこで神の言葉を聞かなくてはならないのです。今度は主が問い返されるのです。「なぜ」と。「ヤコブよ、なぜ言うのか。イスラエルよ、なぜ断言するのか」と。
主の問いかけは恵みであると言えます。主の「なぜ」は私たちを不信仰と嘆きの穴から引き上げるための問いかけであるからです。主が「なぜそうしているのか」と問われるのは、そうする必要がないことを主は知っておられるからです。「なぜ嘆いているのか」という問いは、「もう嘆く必要はないではないか」という語りかけでもあるのです。
「ヤコブよ、なぜ言うのか、イスラエルよ、なぜ断言するのか、わたしの道は主に隠されている、と、わたしの裁きは神に忘れられた、と」(27節)。ならば、もはやそのように語り、断言し、嘆き続けている必要はないのです。どうしてか。預言者を通して主はさらにこう語られるのです。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい」(28節)。
聞いたことはないのか
「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか」と主は問い続けます。そうです。本当は既に知らされていることがあるのです。既にこれまで聞いてきたことがあるはずなのです。私たちの主がどのような御方であるかを既に知らされているのです。ならば思い起こさなくてはならないのです。
今自分が感じていることに留まっている限り、嘆きの中に留まり続けることになるでしょう。「わたしの道は主に隠されている」と感じているのですから、そこに留まっているかぎり、嘆き続けることになるのです。しかし、主が既に御自身について語ってこられたことがあるのです。主は、多くの言葉をもって、主が「とこしえにいます神」であり、「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」であることを既に語っていてくださったはずなのです。今こそ何を聞いてきたのか、何を知らされてきたのかを思い起こさなくてはならないのです。
「主は、とこしえにいます神」(文字通りには「永遠の神」)とありますが、そこで重要なのは「永遠の昔」でも「永遠の未来」でもありません。「永遠から永遠まで常に」ということです。すなわち、「今ここにおいても」ということです。すなわち、「わたしの道は主に隠されている」と思える今この時も、「わたしの裁きは神に忘れられた」と思える今この時も、ということです。
神不在と思える現実においても、実は不在などではなく、「その英知は究めがたい」と語られているその英知をもって神は支配しておられるのです。実際、あの時もそうでした。キリストが不当な裁きによって十字架にかけられたその時においてさえ、全地が暗黒に包まれたあの時でさえ、神は全てを支配しておられたのです。そして、実はその時においてこそ、最も大いなる救いの御業が成し遂げられていたのです。確かに「主は、とこしえにいます神」です。
そして、神は「地の果てに及ぶすべてのものの造り主」です。実はこれは意訳であって、もともとは「地の果ての造り主」と書かれているのです。しかし、もちろん地の果てを問題にしているのではありません。どこか遠いところにおいてではなく、「ここにおいても」ということです。地の果ての造り主であるならば、今目にしている目の前の世界もまた、主の手の内にあるのだ、ということです。この世界の諸々の問題も、人間の手に負えない諸々の課題も、全て神が造られた世界の中でのことです。主の手が及ばないことは何一つないのです。
そして、私たちが知らされていること、聞かされていることは、さらには既に救い主が到来したこと、そして救いの御業を成し遂げて、復活されて、やがて完全な救いをもたらすために再びおいでになることにまで及んでいるのでしょう。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか」と問われるなら、私たちは答えることができるはずです。「主よ、確かに知らされております。聞いております」と。
ならば、私たちはそこから再びその御方に思いを向けることができるはずです。私たちが知らされている御方、聞かされている御方に心の目をしっかりと向けることができるはずです。私たちは待ち望むべき未来を持っているのです。
私たちが不信と嘆きの中から再び立ち上がり、主に望みをおくならば、与えられている約束の言葉はこれです。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。神は私たちに力を与えてくださいます。私たちは天からの力を得るのです。まだ状況が変わらなくても、現実には何も起こっていないように見えても、主を待つことのできる人は新たな力を得るのです。私たちは主に望みをおく人として、主に望みを置く神の民として、この新しい年を共に歩んでまいりましょう。
2022年12月4日日曜日
「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」
イザヤ書 55:1-11
渇いている者は来るがよい
今から2600年ほど前の話です。かつて繁栄を極めたユダ王国の都エルサレムは、今や無残な廃墟となっていました。バビロニア軍によってユダ王国は滅ぼされ、エルサレムは破壊され、主だった人々はバビロンに捕らえ移されていったからです。
それから50年近くの月日が流れました。時代は変わりました。バビロニアに代わって古代オリエント一帯をペルシアが支配する時代となりました。支配者の交代――それはバビロンに捕らえ移された捕囚の民にとって決定的な意味を持つことになりました。というのも、バビロンを征服したペルシアの王キュロスの統治の仕方はそれまでのものとは全く異なっていたからです。彼は占領下にある諸民族を支配するに当たり、それぞれの民族の文化と宗教を重んじるという政策を採りました。その結果、バビロンに捕囚となっていたユダの人々もまた、ユダの地に帰還し、エルサレムを再建することが許されたのでした。
今日の第一朗読は、そのような時代を背景として語られた言葉です。主は預言者を通して語られました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(1節)。
これは何を意味するのでしょうか。ただ祖国に帰れる時が到来したのではない、ということです。そうではなくて、神のもとに帰るべき時が来たのです。今までの生活を後にして、渇きを癒す水のもとに行くべき時が来たのです。魂の飢えを満たしてくださる神のもとに帰るべき時が来たのです。いわば、信仰の生活をもう一度建て直すべき時が来たということです。
バビロンが与えてくれるものを追い求める時代は終わりました。もう既に彼らは知っていたはずなのです。バビロンから何を得たとしても、何をもって自分を満たそうとしても、本当の飢え渇きはこの世からのものでは満たされないということを。主も言われるのです。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」(2節)と。
本当の満たしは主から来るのです。主は言われます。「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(3節)。いや、それだけではありません。さらに主はこう続けます。「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」(同)。「《とこしえの》契約」です。それはすなわち、ぜったいに関係が切れないということです。主は絶対に見捨てられない。そのような関係に入れられるということです。
これらの言葉がバビロンの捕囚民にどれほど大きな意味を持っていたかを改めて思います。現実に彼らがバビロンを後にしてエルサレムへと帰還するとするならば、そこには様々な困難が予想されるでしょう。不安や恐れもあることでしょう。しかし、それでもなお彼らは旅立ったのです。それは単に祖国への旅立ちではなく、まさに主のもとへと立ち帰る旅立ちだったのです。主のもとにこそ良きものがある。主のもとにおいてこそ魂は豊かさを楽しむことになる。主のもとにおいてこそ、魂に命を得るのだ。そして、我らは永遠に失われることのないとこしえの関係に生きるのだ。彼らの旅立ちは、そのような信仰生活の再建へと向かう旅立ちに他ならなかったのです。
近くにいますうちに
しかし、そのようにエルサレムへと帰還した捕囚民を待ち受けていたのは、予想していたとはいえ、実に厳しい現実でした。彼らが目の当たりにしたのは崩れ落ちた城壁であり、焼け落ちた神殿でした。
廃墟となったエルサレム。しかし、そこで彼らが直面したのは単に生活上の困難ではありませんでした。そうではなく、彼らが改めて目にしたのは、イスラエルの罪とその結果だったのです。彼らが目の当たりにしたのは、神に背き続けるということが、どれほどの悲惨をもたらすのかという現実だったのです。彼らは神の呼びかけに背き続けた先祖の罪を思ったことでしょう。しかし、それは彼らにとって他人事ではなかったはずです。彼らは自らの罪、バビロンで生きてきた自分たちの罪をも思わずにはいられなかったに違いないのです。
そのように、神のもとに行こうとするならば、信仰に生きようとするならば、神の御前における自分自身の罪とどうしても向き合わざるを得なくなるのです。そこで人は、聖なる神と罪ある人間との間にある大きな隔たりを認めざるを得なくなるのです。自分自身の罪を思うなら、本来神に近づくことなど到底できない自分自身であることも知ることになるのです。
しかし、主はそのような彼らに対し、預言者を通してこう語られたのです。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(6‐7節)。
なんと、主は自ら近くにいてくださると言うのです。主は罪ある人間の近くにいてくださる!誰でも尋ね求めさえすれば見いだすことができるほどに近くにいてくださる。呼び求めることができるほどに近くにいてくださる。罪人を断罪し滅ぼす御方としてではなく、憐れんでくださる御方として、豊かな赦しをもって近くにいてくださるのです。ならば、人間がすべきことは、立ち帰ることなのです。主の憐れみを信じて、豊かな赦しを信じて、立ち帰ることなのです。
わたしの道は異なる
とはいえ、罪の結果が厳然として目の前にある時に、罪の赦しを信じることが難しいことも事実です。そして、罪のもたらした廃墟が回復することを信じることはさらに難しい。彼らは神の裁きによって廃墟となったエルサレムを前にして、神の赦しを信じることができたのでしょうか。その廃墟が本当に建て直されると信じることができたのでしょうか。
しかし、主は彼らに言われるのです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(8‐9節)。
私たちも時として思わずにはいられないのでしょう。「こんなわたしは赦されるはずがない」と。しかし、それは人間の思いです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる」のです。「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」これが主の思いです。
「この廃墟が建て直されるはずはない」。それもまた人間の思いです。「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」と主は言われます。廃墟は永遠に廃墟であるように人には思えます。荒れ野は永遠に荒れ野であるように思えるのです。しかし、51章にはこのような言葉があります。「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(51:3)。これが主の思いです。それは私たちの思いを、高く超えているのです。
エルサレムの廃墟に直面した彼らに必要なことは、ただ彼らの分を弁え、へりくだることだったのです。そうです、私たちに必要なことも、私たちの思いと主の思いは異なる、私たちの道と主の道は異なるということを認めてへりくだることです。そして、私たちの思いとどれほど異なろうが、ただ主が語られる言葉に信頼することなのです。
主はこう言われます。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(10‐11節)。私たちの思いとどれほどかけ離れていようと、私たちの道とどれほど異なっていようと、最終的に神の御言葉こそが成就するのです。
さて、私たちはアドベントの季節にこの御言葉を耳にしています。キリストの到来を思いつつ、この言葉を聞いています。このように語られた主は、預言者を通して語られるだけでなく、最終的に独り子を世に遣わされて語られました。まさに御自分の御言葉そのものであられるキリストを世に遣わされて決定的な仕方で語られたのです。
キリストは言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(同35節)。そして、「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われたとおり、キリストは十字架において父なる神の御心を成し遂げられたのです。神の御子の血による罪の贖い!それは私たち人間には想像することもできなかった神の思いであり、私たち人間の道とは大きく異なる神の道に他なりませんでした。
私たちはキリストの到来と、そのキリストにおいて成し遂げられた神の御業を知る者として、改めて今日の御言葉を聞いているのです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」。そして、主は言われます。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」。
(祈り)
2022年10月16日日曜日
「流した涙が拭われる時」
イザヤ書 25:1‐9
わたしはあなたをあがめます
今日は第二朗読において「ヨハネの黙示録」が読まれました。「黙示録」と呼ばれるこの書物は、一読して新約聖書の中で異質な存在であることが分かります。ヨハネの黙示録には、直接的には何を指すのかが良く分からない謎に満ちた表現が多用されています。そして、書かれている内容は、世の終わり、すなわちこの世の終末に関わっているのです。
そのような文書はヨハネの黙示録だけではありません。断片的にはイエス様の言葉として福音書の中にも見られます。また、旧約聖書の中にも見られます。今日の第一朗読において読まれたのも、そのような箇所の一つです。どうぞ第一朗読の箇所をお開きください。
今日はイザヤ書25章が読まれました。通して読むと良く分かるのですが、24章から27章までは一つのまとまりとなっています。このまとまった部分はしばしば「イザヤの黙示録」などと呼ばれてきました。そこにおいて、数々の謎に満ちた表現をもって語られているのは、ヨハネの黙示録と同じように、世の終わり、終末に関わる事柄です。
さて、そのような「イザヤの黙示録」にせよ、また第二朗読で読まれた「ヨハネの黙示録」にせよ、謎に満ちた言葉が多様されているのには、ある共通の背景があります。それは、この世の巨大な権力による支配であり、そのような権力によって抑圧されている人々、不当な苦しみを負わせられている人々の存在です。
「イザヤの黙示録」の場合には、いつの時代を背景にしているのか、必ずしも明らかではありません。巨大な権力の主(ぬし)はバビロニア帝国かもしれませんし、その後のペルシア帝国かもしれません。ヨハネの黙示録の場合にははっきりしていまして、それはローマ帝国の支配です。そして、その支配のもとに起こった迫害が背景となっています。
容易に想像できると思いますが、そのような大きな権力の支配下にある場合、事柄をあからさまに語ることは困難なのです。例えばローマ皇帝を名指しで批判することはできないのです。それゆえに、謎に満ちた象徴的な表現を用いることになります。言い換えるなら、そのような時代状況にあるからこそ、神様が幻という形で真理を示し、謎に満ちた仕方で語らせたとも言えます。
いずれにしても、そこで語られているのは「もう一つの支配」についてです。この世の巨大な権力による支配よりも、さらにその上にあるもう一つの支配、すなわち神の支配について語られているのです。
人間の肉の目には人間の支配しか見えないのです。人間がしていることしか見えないから、人間が世界を動かし、歴史を動かしているように見えるのです。人間の力が人間の運命を左右しているように見えるのです。しかし、神が霊の目を開いてくださると、そうではないのだ、ということが見えてきます。この世界を支配しているのは、人間ではなく神なのだということが見えてくるのです。
神がこの世界を支配しておられる、ということは、言い換えるならば、神が最終的にすべてのことに決着を付けてくださるということです。正義のない世界に、神が正義を貫かれるのです。神が最終的に正しい裁きを行われるのです。この世に満ちている「なぜですか」という叫びに対しても、最終的に神が答えてくださる。すべて不当なこと、不条理なことについても、神が報いてくださるのです。
この人は霊の目によって、その現実を見ているのです。だからこの人は神を賛美しているのです。「主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます。あなたは驚くべき計画を成就された、遠い昔からの揺るぎない真実をもって」(1節)と。先ほどもいいましたように、ここに書かれている言葉は苦難の時代を背景としています。本当は彼もまた苦しみの中にあるのです。しかし、そこで彼は神を賛美するのです。人がそのように生きることは可能なのです。
人間の築き上げたものの崩壊
人間の巨大な力が支配しているように見えるこの世界のただ中にあって、神がこの人に見せてくださったのは、巨大な帝国の都が崩壊して瓦礫の山と化した姿でした。「あなたは都を石塚とし、城壁のある町を瓦礫の山とし、異邦人の館を都から取り去られた。永久に都が建て直されることはないであろう」(2節)。
もちろん、現実にはそのようなことは起こってはいないのです。肉の目に映っているのは、決して揺らぐことはないと思われる、人間が築いた帝国なのです。その都の姿なのです。人間が建て上げた城壁に囲まれた町がそこにあるのです。しかし、人間がその力を誇り、自らの力で打ち立ててきたもの、積み上げてきたものが崩壊する様を神は見せられたのです。そのようにして、人間が真の支配者ではないのだということを神が明らかにされたのです。
さて、ここに書かれていることは、部分的には、歴史の中において実際に起こってきたことだと言えます。かつて繁栄した古代の都はやがて滅びていきました。私たちは人間の力もその支配も絶対ではないことを知っています。揺るぎないと思えたものも崩壊することを私たちは知っています。それは確かに歴史において明らかにされてきた現実です。そして、それが究極的な形で明らかにされるのが世の終わりであると言えるでしょう。最終的に神が神であり、人間は人間に過ぎないことが明らかにされるのです。
その事実が、ここでは人間の建てたものが崩壊する姿として描かれています。それはある意味では恐ろしいことです。しかし、人間の造ったものがやがては崩壊するのだということに目が開かれる時、人間は何に依り頼むべきであるのか、ということにも目が開かれるのです。私たちは誰に対してへりくだらねばならないのか。誰に依り頼むべきなのか。「主よ、あなたはわたしの神、わたしはあなたをあがめ、御名に感謝をささげます」と彼は歌いました。その人は、さらにこう口にするのです。「まことに、あなたは弱い者の砦、苦難に遭う貧しい者の砦、豪雨を逃れる避け所、暑さを避ける陰となられる」(4節)。
現実には豪雨に遭っているのです。また一方で日照りの暑さに苦しんでいるのです。そのように喩えられる苦難のただ中にいるのです。しかし、彼には砦があるのです。まことの支配者が誰であるかを知っているからです。だからその御方に信頼し、賛美をささげて生きるのです。
喜び躍る時が来る
そして、さらに彼が見たのは万軍の主が開かれた祝宴でした。6節以下には「すべての民」「すべての国」という言葉が繰り返されています。この世界を統べ治めておられる神による救いは、すべての民族、すべての国々に関わっているのです。
後にパウロはこう言っています。「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。『主の名を呼び求める者はだれでも救われる』のです」(ローマ10:12‐13)。
実際、ここに語られていることは、明らかにイスラエルに固有のことではありません。すべての人間に関わることです。それは「死」に関することだからです。死は全ての人間に関わっています。死を免れないということについては、権力があろうがなかろうが、支配する側であろうが支配される側であろうが、まったく関係ありません。
だからこそ、主のなされることが次のように語られているのです。「主はこの山で、すべての民の顔を包んでいた布と、すべての国を覆っていた布を滅ぼし、死を永久に滅ぼしてくださる。主なる神は、すべての顔から涙をぬぐい、御自分の民の恥を、地上からぬぐい去ってくださる。これは主が語られたことである」(7‐8節)。
ここに語られている終末の希望は、そのまま新約聖書に受け継がれています。今日の第二朗読はヨハネの黙示録7章12節まででしたが、その続きを読みますと16節以下に次のように書かれています。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(黙示録7:16‐17)。
新約聖書においては、終末の描写にも、さらなる確信が加えられていると言えるでしょう。ならなら、既にメシアは来られたからです。そして、そのメシアは十字架にかかられて罪の贖いを成し遂げてくださり、死から復活されたからです。イザヤ書に語られ、新約聖書に受け継がれている終末の出来事は、すでにキリストと共に始まっているのです。言い換えるならば、死を滅ぼしてくださる神、目の涙をぬぐい取ってくださる神の御救いを、私たちは既に味わい始めているのです。
9節にはこう書かれていました。「その日には、人は言う。見よ、この方こそわたしたちの神。わたしたちは待ち望んでいた。この方がわたしたちを救ってくださる。この方こそわたしたちが待ち望んでいた主。その救いを祝って喜び躍ろう」(9節)。今、目に映るこの世界の有様がどうであれ、目に映る私たち自身の姿がどうであれ、その日は来るのです。救いを祝って喜び躍る時が来るのです。だから、私たちは今から共に、喜び祝い始めるのです。その意味で祝宴は既に始まっているのです。私たちが今日、聖餐を行うとはそういうことです。共にキリストを喜び祝い、礼拝をささげる生活が与えられているとは、そういうことなのです。
(祈り)
2022年8月21日日曜日
「神の憐れみ、とこしえの慈しみ」
イザヤ書 54:1‐8
不妊の女よ
本日は第一朗読において、イザヤ書54章が読まれました。預言者を通して語られた神の言葉です。その主題は、罪の赦しと回復です。
時は紀元前六世紀。バビロニアの軍事侵攻により、かつてダビデ・ソロモンの王国として繁栄を極めたユダ王国は、ついに滅亡することとなりました。王国の都エルサレムの城壁は破壊され、彼らの心の拠り所であったエルサレムの神殿も焼き払われてしまいました。そして国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。世界史においてはバビロン捕囚と呼ばれる出来事です。
それから五十年近くの時が流れました。バビロンの捕囚民は、新しい時代の到来を肌で感じていました。キュロス率いるペルシア軍がバビロンの都を制圧し、バビロニアに代わってペルシアがオリエント一帯を支配する時代が到来したからです。ペルシアの統治の仕方はそれまでのものとは全く異なっていました。ペルシアの王キュロスは、被占領民族を支配するに当たり、それぞれの民族の文化と宗教を重んじる政策を採ったからです。その結果、バビロンに捕囚となっていたユダの人々もまた、キュロスの勅令により、ユダの地に帰還しエルサレムを再建することが許されたのです。
その時をひたすら待ち望んでいた人々は、希望に胸を膨らませ、祖国再建の燃えるような情熱をもって、エルサレムへと帰っていきました。その様子はエズラ記に詳細に記されております。しかし、彼らを待っていたのは冷たい現実でした。城壁は崩れ落ち、かつて神殿が存在していたところは瓦礫の山です。しかも、彼らの周りはこの再建を快く思わない諸民族に囲まれていました。激しい妨害にも遭いました。彼らが抱いていた希望が次第に潰えていったとしても不思議ではありません。
彼らが荒れ果てたエルサレムを目の当たりにした時に、思い起こされるのは捕囚に至るまでのイスラエルの歴史でした。それは一言で言うならば、神に逆らい背き続けてきた歴史でした。結局、彼らが目にしているその荒れ果てた状態は、ただ敗戦の結果なのではなく、神の呼びかけを拒否し続けた罪の結果に他ならなかったのです。暗い過去を思うとき、現在と未来に希望が持てなくなる。それは彼らと置かれている状況が異なる私たちにも分かることでしょう。過去の罪を思うならば、現在と未来に希望が持てなくなるのです。
しかし、そのような彼らに、いやそのような希望を失った彼らだからこそ、神は預言者を通して語られたのです。「喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。歓声を上げ、喜び歌え、産みの苦しみをしたことのない女よ。夫に捨てられた女の子供らは夫ある女の子供らよりも数多くなると主は言われる」(1節)。
古代イスラエルにおいて不妊がどれほど辱めの対象となったかは、旧約聖書の至るところに見ることができます。夫に捨てられた女というものも、当時の社会においては、これ以上ない悲惨な状態にありました。そのような「不妊の女」「夫に捨てられた女」として語られているのは、明らかにこれを聞いているイスラエルの人々です。彼らにもそれは分かったはずです。自分たちがどれほど惨めな状態にあるか、骨身に染みて分かっていたでしょうから。
しかし、そのような、どう考えても喜び得ない現実の中で、神は預言者を通してなおも「喜べ」と言われるのです。驚くべき神の呼びかけです。「喜べ」と言われるのは、なぜでしょうか。それは、彼らがどのような状態にあろうとも、どん底にあろうとも、神は彼らを回復することができるからです。人間の側だけを見ているならば希望はありません。しかし、希望は向こうから、神の方からやってくるのです。こちら側だけを見ていたら、到底喜び得る状態にないかもしれない。しかし、神の方から「喜べ」という声が響いてくるのです。それが信仰の世界です。
歓声を上げ、喜び歌え
そもそも、「喜べ」という呼びかけは、何か根拠がなければ意味を持ちません。冬山に遭難して死にそうな人に、根拠もなく「喜べ」とは言わないでしょう。しかし、助けがすぐそこまで来ていることを知っているならば、その人は言うことができる。「喜べ!もうすぐ助けが来るぞ」と。
どう考えても喜べない状態にある人々に、なおも神が「喜べ」と言われるのは、彼らが喜んで良いという根拠があるからです。その根拠は人間の側でなく神の側にあるのです。それは何か。――神による徹底した罪の赦しです。最終的に罪の「赦し」は神しか与えることができません。その神が、彼らの罪を赦してくださる。神が「喜べ」と言われるのは、そのような意味なのです。
4節には、次のように語られています。「恐れるな、もはや恥を受けることはないから。うろたえるな、もはや辱められることはないから。若いときの恥を忘れよ。やもめのときの屈辱を再び思い出すな」(4節)。
「若いときの恥」というのは、捕囚となる前のイスラエルの犯してきた諸々の罪です。神から離れ、偶像に惹かれ、神から遣わされた預言者が繰り返し立ち帰るようにと呼び掛けたにもかかわらず、悔い改めて立ち帰ろうとはしなかったイスラエルの過去です。そして、「やもめのときの屈辱」というのは、バビロンに捕囚となった後のイスラエルの受けてきたことです。その苦しみは、ある意味ではすべて過去の罪の結果であり、自ら蒔いたものを刈り取ることとなった惨めな現実と言ってよいでしょう。
主はそれをもう忘れてよいと言われるのです。なぜでしょうか。「あなたの造り主があなたの夫となられる。…捨てられて苦悩する妻を呼ぶように、主はあなたを呼ばれる。若いときの妻を見放せようかとあなたの神は言われる。わずかの間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる」(5-7節)。そのように主は言われるからです。
神はそのように罪ある者を取り扱ってくださるのです。確かに、神が人間をこらしめることはあります。罪は自らに苦しみを招きます。しかし、神のこらしめは永遠ではありません。神は再び憐れんでくださるお方です。そして、永遠なのは、その憐れみであり、慈しみの方なのです。「ひととき、激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもってあなたを憐れむとあなたを贖う主は言われる」(8節)。
信じる者として生きる
さて、ここまで読みまして、私たちは二つのことに注意を向けなくてはなりません。その第一は、神の赦しがどのようにもたらされたか、ということです。今日は54章を読みました。その直前には新共同訳において「主の僕の苦難と死」と小見出しが付けられています。一般的には「苦難の僕の歌」と呼ばれる部分です。今日はその内容に深く触れることはできませんが、そこには名も知れぬ一人の人が、人々の罪を代わりに背負い、苦しみを受けるということが書かれているのです。この歌の最後はこう締めくくられているのです。「多くの人の過ちを担い、背いた者のために執り成しをしたのはこの人であった」(イザヤ53:12)。
その歌に、今日の箇所は続いているのです。苦難の僕の歌に、回復の預言が続いているのです。この配置は明らかに意図されたものです。神の一方的な赦しは、誰かがその罪を代わりに負うことなくして実現しないということです。そして、それをもたらしたのがこの「苦難の僕」なのです。そこで古くからこの「苦難の僕の歌」はキリストの預言として読まれてきたのです。キリストの苦難なくして、罪の赦しはないのです。
そして、もう一つ。私たちが忘れてはならないことは、罪の赦しによって確かな回復の希望が与えられたなら、その信仰に従って行動すべきだということです。信じたならば、そのように行動しなくてはなりません。2節に戻りますが、そこにはこう書かれています。「あなたの天幕に場所を広く取り、あなたの住まいの幕を広げ、惜しまずつなを伸ばし、杭を堅く打て」(2節)。人がまだいないのに、住まいの幕を広げることは愚かに見えることでしょう。そんなことに意味があるのでしょうか。――あるのです。それが信仰的な行動です。彼らは回復を信じたのなら、イスラエルの再建に着手しなくてはならないのです。まだ回復された現実を見ていないとしても、信じたのなら、既に見ているように行動すべきなのです。
私たちも同じです。罪を赦され贖われ、神のものとされました。神の回復と豊かな祝福の中に生きているのです。そして、やがて私たちは永遠の御国において完全に救われた者として、神が用意してくださったすべての祝福に与るでしょう。とはいえ、私たちは完全に救われる神の御国をまだ見てはいません。私たちには、苦しみがあり、悲しみがあり、希望を奪っていく現実があるのでしょう。しかし、最終的な救いを信じているのなら、まだ見ていなくても、神に感謝を献げ、救われた者として行動し、生活すべきなのです。こちら側だけを見て、希望のない者のように生きてはなりません。希望は向こう側から、私たちを赦し、回復してくださる神の側から来るのです。
(祈り)
2021年12月26日日曜日
「留まっているのか、前に進むのか」
イザヤ書 49:7-13
2021年最後の主日となりました。年末年始は一つの区切りです。区切りがあるということはありがたいことです。少なくとも過ぐる365日を振り返り、次の365日をどう生きるかを考える機会となりますから。そこで、今日は同じように一つの時代の区切りを迎えていた人々が耳にした預言者の言葉を通し、私たちへの主の語りかけを聞きたいと思います。
前に進むのか、それとも留まるのか
本日の礼拝におきましてはイザヤ書の49章が読まれました。今日お読みした箇所の背景となっている一つの区切りとはバビロニア帝国の滅亡です。ネブカドネツァル二世の時代に諸民族を次々に支配下において巨大化していったバビロニア帝国は結局のところ長くは続きませんでした。内部において反乱が繰り返され、紀元前6世紀後半には既に内側から崩壊しつつあったのです。その一方において、新勢力として台頭してきたのはキュロス率いるペルシアでした。そして、紀元前539年、ついにペルシア軍が都バビロンを占領し、バビロニア帝国の歴史は終わりを告げることとなったのです。代わってペルシアの時代が到来したのでした。
これはバビロンに捕囚となっていたユダの人々の置かれていた境遇が大きく変化することを意味しました。というのも、バビロニアの支配とは異なり、ペルシアの王キュロスは被占領民族に対して非常に寛容な政策を採ったからです。彼は諸民族の文化と宗教を重んじ、また故郷への帰還と再建を許可したのでした。かつてバビロニアの支配下にあった人々にとって、ペルシアの王キュロスは新しい支配者であるよりは、むしろ解放者であったのです。バビロンに捕囚となっていたユダの人々にとっても同じでした。彼らもエルサレムへの帰還と神殿の再建が許されたのです。
捕囚の民が解放されることについては、既に預言者が語ってきたことでした。その預言の言葉はイザヤ書40章以降に記されています。ちょうど二週間前、主日礼拝においてイザヤ書40章前半が読まれました。そこにおいて「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる」(40:1)と語られていましたが、その慰めとは具体的には捕囚からの解放を意味しました。神がなさろうとしていることについては、44章の終わりにはっきりと語られています。主はこう言われるのです。「キュロスに向かって、わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い、神殿には基が置かれる、と言う」(44:28)。
エルサレムが再建される。神殿も再建される。それは50年近く捕囚であった人々にとっては、まことに信じ難い言葉であったに違いありません。しかし、預言者は人々が信じようが信じまいが、とにかく語り続けたのです。神の言葉こそが永遠に立つことを信じて、忍耐強く語り続けたのです。そして、ついに時は満ち、歴史が動きました。先ほど申しましたように、キュロスはバビロンを征服し、翌年、出された勅令によって捕囚の民は解放されたのです。彼らはエルサレムに帰還することができる。再建することができるのです。
しかし、神の恵みによって実現した捕囚からの解放を、すべての人々が喜んだわけではありませんでした。一つの区切りに立った時、人は二通りに分かれるのです。これを機に前に進む者がいる。しかし、同じところに留まる者もいるのです。
繰り返しますが、彼らは50年近く捕囚であった人々です。異国の地の生活とはいえ、それなりに生きてきたのです。生活も成り立ってきたのです。既にその地に根ざした産業もありました。また、ダニエル書に出て来るダニエルや友人たちのように、中にはある程度高い地位に就いている人もいたのです。「何を好きこのんでバビロンを離れ、厳しい過酷な旅へと出発しなくてはならないのか。むしろ、このままでよいではないか。」そのように言う人がいたとしても不思議ではないでしょう。
実際、エルサレムに帰還したからといって、そこでの生活が保障されていたわけではないのです。それでもなお神を信じて一歩を踏み出すのか。それとも同じところに留まるのか。神に期待し神の御業を見るために前に進んでいくのか。それとも「今のままでいいじゃないか」と言って同じところに立ち続けるのか。彼らはその問いの前に立たされていたのです。
彼らが直面していた問いは、ある区切りに人が立たされた時、いつも直面せざるを得ない問いなのでしょう。ここにいる私たちにとっても同じです。前に進むのか。同じところに留まるのか。2022年を迎えようとしています。そこから始まる365日、神に従って前に進むために具体的な一歩を踏み出すのか。それともこの一年と同じような一年をもう一度繰り返すのか。はっきりしていることは、この繰り返しのトータルが私たちの一生だということです。一生を終える時に、今と同じところに居るつもりなのか。それとも神の御心に従って一歩でも前に進むつもりでいるのか。年の区切りに立つ私たちが問われているのはそういうことなのでしょう。
わたしの救いを地の果てまでもたらす者に
そこで私たちが考えねばならないもう一つの大事なことがあります。私たちがどちらを選ぶかは、ただ私たち自身だけに関わっているのではない、ということです。
今日の朗読箇所は7節からでしたが、この言葉は6節と切り離すことはできないのです。6節の終わりにはこう書かれていました。「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」(6節)。直接的には預言者に対する言葉ですが、ただ預言者個人ではなく、これは預言者の言葉を聞いている帰還民に対する主の御心でもあるのです。
主はただ彼らをエルサレムに帰還させようとしているだけではないのです。ただエルサレムを再建させようとしているだけではないのです。そうではなくて、解放された人々を通して、全世界に神の救いが伝えられることこそ、神が望んでおられることなのです。そのような神の大きな目的のもとにあって、7節以下の言葉は語られているのです。
7節において、彼らについてはこう語られていました。「イスラエルを贖う聖なる神、主は、人に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者に向かって、言われる」(7節)。
確かにそのとおりなのです。捕囚の民は、「人々に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者」です。そのような彼らがエルサレムを再建するのは実に困難なことであるに違いありません。しかし、バビロンを後にしてエルサレムへと向かうことは、ただ彼ら自身のためではないのです。そうではなくて、諸国の人々が神を知り、神を畏れ敬うようになるためなのです。先ほどの言葉はこう続きます。「王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主があなたを選ばれたのを見て。」
もともと力ある者が大きなことを実現したとしても、そこに神のリアリティは見えてはこないでしょう。彼らが人々に侮られている捕囚の民であるからこそ、神が彼らを選び、神が彼らを通して働かれたのだということが見えてくるのです。
主は言われました。「わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形作り、あなたを立てて、民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる。捕らわれ人には出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる」(8‐9節)。ここで繰り返されているのは「わたしは…あなたを」という言葉です。原文ですとより顕著です。主語はあくまでも神なのであって人間ではありません。ここに語られているのは神の御業なのです。
しかし、その神の御業は、人間が神に従い、自ら一歩を踏み出していく時に現れるのです。9節後半以下には次のように書かれていますでしょう。「彼らは家畜を飼いつつ道を行き、荒れ地はすべて牧草地となる。彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。わたしはすべての山に道をひらき、広い道を高く通す」(9‐11節)。彼らが飢えることもなく、渇くこともないのは、「憐れみ深い方が彼らを導」いておられ、「彼らを伴って行かれる」からなのです。そして、立ちはだかる山に道が開かれるのは、彼らが同じところに留まるのではなく、神に従って歩んでいくからこそ実現することなのです。そのように、神に従う時に、人は神の御業を見るのです。
そして、繰り返しますが、それはただ彼らだけのためではないのです。神は御自分の救いを「地の果てまで」もたらそうとしておられるのです。彼らは、そのような神の目的にこそ思いを向けなくてはならないのです。
さて、ここにいる私たちは何を考えているのでしょう。私たちの思いはどこに向けられているのでしょう。信仰者が自分の救いのことだけを考え、教会が自分たちの救いのことだけを考えるならば、何も荒れ野に向かって旅立つ必要はありません。立ちはだかる山に向かって一歩を踏み出す必要もないでしょう。同じところに留まってもう一年過ごしてもよいのです。一生の終わりが来るまで同じところに留まっていたとしても、自分の救いのことだけを考えているならば、何ら問題はないのでしょう。
しかし、私たちの信仰生活は自分の救いだけに関わっているのではないのです。主は御自分の救いを地の果てにまで至らせようとしておられるのです。私たちが来たる一年をどう生きるのか、どのような信仰生活を送るのか、私たちが同じところに留まっているのか、それとも神に導かれて「湧き出る水のほとり」に伴われていくのかは、この世界の救いに関わっているのです。
この年末年始が、私たちにとって単なるカレンダー上の区切りではなく、私たちが信仰の一歩を踏み出す区切りとなりますように。
(祈り)
2021年12月12日日曜日
「見よ、あなたたちの神」
イザヤ書 40:1‐11
草は枯れ、花はしぼむ
今日の旧約聖書の朗読では「草は枯れ、花はしぼむ」(7節)という言葉が読まれました。旧約の預言者の言葉です。彼が見つめているのは人間です。彼はそれを「肉なる者」と呼びます。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」(6節)と。その「草は枯れ、花はしぼむ」と言っているのです。私たちは人間の一生を思う時、確かにそうであると言わざるを得ません。草は枯れ、花はしぼみます。
しかし、この人は、ただ個々の人間の一生を思って語っているのではありません。彼はまた人間の営みによって成り立っている社会そのものをも見つめているのです。人間が積み上げてきたもの。人間が築き上げてきたもの。それもまた肉なるものです。それもまた「草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」なのです。彼は実際に枯れてしまったユダの王国、枯れてしまった野の花であるイスラエルを見て語っているのです。
時は紀元前六世紀。バビロニアの軍事侵攻により、かつては繁栄を極めたユダの王国は崩壊しました。エルサレムの城壁は破壊され、彼らの心の拠り所であったエルサレムの神殿も焼き払われてしまいました。そして国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。彼は崩壊したユダの国、捕囚となったイスラエルを思いつつ語るのです。「草は枯れ、花はしぼむ」と。
「栄枯盛衰は世の習い」と言います。栄える時があれば衰退する時もまたある。人間が築き上げていく時があり、その築き上げてきたものが崩壊する時がある。それは今日の社会においても身近に起こってきたことですし、私たち自身も多かれ少なかれ経験してきていることです。
しかし、この人は単に「栄枯盛衰は世の習い」と言いたいのではなさそうです。「草は枯れ、花はしぼむ」と言った後、彼はこう付け加えるのです。「主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」(7節)。彼はそこに「主の風」を見たのです。
パレスチナの自然においては、東から熱風が吹きつける時、それまで華やかに咲き誇っていたアネモネやケシの花がまたたくまにしおれてしまい、一夜にして茶褐色の野山にもどってしまうと聞いたことがあります。その姿を思いながら、「主の風が吹き付けたのだ」と語る時、彼が思い描いているのは神の裁きに他なりません。言い換えるならば、人間の罪とその結果を思いながらこれを語っているのだということです。
私たちは往々にして表に現れていることにしか目がいかないものです。栄えたものが衰退する。築き上げてきたものが崩壊する。それを単純に「災い」とか「不幸」と呼んでしまう。しかし、この預言者は、ただ表に現れている枯れ草のような姿やしぼんだ花のようなありさまに目を向けて、「なんと不幸なことか」と嘆いているのではありません。そうではなく、さらに深いところ、それをもたらした本質的な問題、すなわち人間の罪に目を向けていたのです。神に背いているという現実、神に背き続けている現実を見ていたのです。そのような意味において、聖書は「草は枯れ、花はしぼむ」と語るのです。
それが預言者の見ていた世界であり、それが私たちの見ている世界です。そこで確かに人は、「草は枯れ、花はしぼむ」としか語れない。正しい神の裁きを思う時、罪深い現実と正直に向き合うならば「草は枯れ、花はしぼむ」としか語れないのです。しかし、「人」がもはやそこまでしか語り得ないところで、「神」が語られることがあるのです。人間の言葉が終わるところに、神の言葉はあるのです。それゆえに、預言者はもう一度「草は枯れ、花はしぼむ」と繰り返した後、こう続けるのです。「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。
とこしえに立つのは、永遠であるのは、人間が語る言葉ではなくて、神が語る言葉なのです。では、神は何を語られるのでしょう。「草は枯れ、花はしぼむ」としか言えない人間の現実に対して、何を語られるのでしょう。枯れ草としぼんだ花を目にしていた預言者が聞いたのはこのような言葉でした。「慰めよ、わたしの民を慰めよ」。1節の言葉です。
見よ、あなたたちの神
「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」(1節)。「慰める」とは、単に悲しみを和らげることではありません。これは励まし力づけることを意味します。励まし力づけるのは立ち上がらせるためです。希望のない者たちが希望を得、命のない枯れ草が再び生き返って立ち上がるためです。
神がそのことを望んでいてくださる。しかも、神は「《わたしの民を》慰めよ」と言ってくださったのです。神は御自分に背き続け、ついに枯れ草のようになった人々を、いまだに「わたしの民」と呼んでくださるのです。神は今もなお「あなたたちの神」だと言ってくださるのです。そのように神は憐れんでくださる。神は赦してくださる。だから「草は枯れ、花はしぼむ」で終わらないのです。
さらに天からの声はこう続きます。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される」(3‐4節)。勝利を得た王が凱旋する時のように広い道を備えて通せと言われる。それは神が来てくださるからです。
ですから9節にはこう書かれているのです。「見よ、あなたたちの神」。何を意味しますか。神に背いて枯れてしまった枯れ草が、神に背いてしぼんでしまった花が、それでもなお「わたしの神、わたしたちの神」として神を見上げることができるということです。「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む」(9‐10節)。
神が来られる。力を帯びて来られる。その力は滅ぼすための力ではありません。なぜなら、その神は「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と言ってくださる神だからです。神は救うために来てくださるのです。そして、恵みをもって治めるために来てくださるのです。人はこの神と共に、再び生きることができるのです。
ならば、もはや朽ちていくだけの枯れ草ではありません。まったく異なる描写がそこにあります。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(11節)。そこで人はもはや望みなき者として生きる必要はありません。人はもはや見捨てられた者のように生きる必要はありません。主に養われる羊の群れとして生きることが許されているのです。
このように、救いをもたらす神の支配の到来――これこそ、人間がもはや何も語り得ないところでなお神が語られることなのです。とこしえに立つ神の言葉がそこにあるのです。
力を帯びて来られた神
さて、本日の福音書朗読においては、マルコによる福音書の冒頭の言葉が読まれました。そこにはこう書かれていました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マルコ1:1‐4)。
ここで再び私たちはあの旧約の預言者が聞いた言葉を耳にすることになります。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」主の道を整えるのは何のため。神の支配が到来するためです。そのようにして来られた御方こそが、イエス・キリストに他ならないのです。
しかし、「彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される」と語られたあの言葉は本当に実現したのでしょうか。この世界が見たのは、およそこの世の力とはかけ離れた御方ではなかったでしょうか。その御方は、この世の権力によって十字架にかけられ殺されてしまったではありませんか。しかし、そのようなキリストにこそ、聖書は《力を帯びて来られた神》を見ているのです。その御方において確かに神の支配が到来したと語るのです。確かに神は統治するために来られた、と。
それは、この世の権力や武力の支配とは全く異なる支配です。それはある意味で当然のことでしょう。神の支配が人間の支配と同じであろうはずがありません。そもそも権力や武力は人の心まで支配することはできないのです。人は従順に振る舞いながら、後ろを向いて唾を吐くことができるのです。人の心まで、人格の最も深いところまで支配するのは、真の力によるのです。それは何か。愛の力です。神の愛の力です。
ナザレのイエスという一人の御方において、神は確かに力を帯びて来られたのです。そして、神の力、神の愛の力は、あの罪の贖いの十字架とキリストの復活において完全に現されたのです。そして、その御力をもって、主は統治されるのです。実際、私たちはこの世の権力によって強制されてここにいるのではないでしょう。私たちは確かに、主の愛の力によるご支配のゆえに、ここにいるのです。主の愛のご支配のゆえに、自らを献げ、仕えて生きようとしているのです。
私たちは主の風が吹き付けるならば滅びるしかないこの世界に生きています。私たちは、主の風が吹くならば滅びるしかない「肉なる者」に過ぎません。しかし、そこにおいてもはや「草は枯れ、花はしぼむ」としか語り得ない私たちに、神は永遠に揺らぐことのない救いの御言葉をもって、今日も私たちに呼びかけていてくださいます。「見よ、あなたたちの神」と。
(祈り)
2020年12月27日日曜日
「起きよ、光を放て」
イザヤ書 60:1‐6
起きよ、光を放て
「起きよ、光を放て」。今年最後の主日において、私たちに与えられている主の御言葉です。「起きよ、光を放て」。――その言葉を最初に耳にしていたのは、エルサレムにいた人々でした。今から2600年近く前の話です。
紀元前六世紀、バビロニアの軍事侵攻により、ユダ王国が滅亡しました。エルサレムは破壊され、神殿も焼き払われてしまいました。国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。
その後、時代はバビロニアの支配からペルシアの支配へと移り変わりました。ペルシアの王キュロスは支配下にある諸民族の宗教と文化を保護する政策を採りました。キュロスは、捕らえ移されてきた捕囚の民に対しても、彼らがエルサレムに帰還し、神殿を再建することを許可しました。「キュロスの勅令」と呼ばれます。帰還民たちが神殿の再建に取り組んでいく姿は、旧約聖書のエズラ記に記されております。途中長い中断の時期がありましたが、ついに神殿が完成しました。キュロスの勅令から既に20年の月日が経過していました。
神殿の再建には多くの労苦が伴いました。しかし、そこには同時に大きな期待もまた伴っていました。神殿が再建されるならば、かつてのダビデ・ソロモンの時代のように、エルサレムは再び繁栄を見ることになる。そう彼らは信じていたのです。そのような期待のもとに、神殿で礼拝は行われるようになりました。また律法の遵守を重んじるコミュニティも形作られていきました。
しかし、現実にはイスラエルの民を取り巻く環境は、神殿の再建後しばらく経ってもなお何一つ変わってはいませんでした。かつての繁栄を見ることはありませんでした。彼らは依然としてペルシアの支配のもとにある弱小民族の一つに過ぎませんでした。しかも、干ばつと凶作が続き、いなごによる大被害も起こり、繁栄するどころか、人々の生活はますます貧しく苦しくなっていきました。神殿再建当時の熱狂的な興奮はもはや跡形もなく消え去っていました。残っていたのは苦しい生活の中における深い失望と神への不信だけでした。
旧約聖書のマラキ書には、そんな当時の人々が口にしていた言葉が引用されています。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても/万軍の主の御前を/喪に服している人のように歩いても/何の益があろうか」(マラキ3:15)。そう言っている人々の姿は容易に想像できますでしょう。神から心が離れてしまい、神に仕えることからも、神を礼拝することからも心が離れてしまっている姿――想像できますでしょう。
しかし、そのような彼らに、そのようなエルサレムに、預言者を通して神は言われたのです。「起きよ、光を放て!」
「光を放て!」と語られているのは、暗闇がそこにあるからです。闇が覆っているという現実があるからです。では、その暗闇とは何なのでしょう。先にも触れましたように、確かにそこには大国の支配のもとにある弱小民族の苦しい生活がありました。ダビデの時代のエルサレムとは似ても似つかない都の姿がそこにありました。彼らは確かに明るい世の中を見ていたわけではないと思います。
昨年12月8日、中国の武漢において、新型コロナウイルスの感染者の発症が初めて確認されました。そして、2020年に入り感染は拡大し、まさに今年は新型コロナウイルスに始まり新型コロナウイルスに終わった一年でした。パンデミックとの闘いがありました。経済も極度に落ち込みました。この一年を明るい一年と評する人はまずいないでしょう。私たちが目にしているのも、決して明るい世の中ではありません。
しかし、神が「光を放て」と言われる時、そのような意味における「暗い世の中」を照らすためではないのです。だからこそ、預言者は「見よ」と言うのです。目を向けさせるのです。主は言われます。「見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる」(2節)。
預言者は「見よ」と言って、エルサレムに住む人々の苦境に目を向けさせたのではありませんでした。闇が覆っているのはエルサレムではないのです。闇は全地を覆い、国々を包んでいるのだ、というのです。
ある意味では意外な言葉です。少なくとも周辺諸国はエルサレムの惨状に比べればずっとましな状況にあるのです。経済的にも豊かでしょう。中東を支配していたペルシア帝国は当時繁栄の絶頂にあったのです。実際、エステル記を読みましても、エズラ記、ネヘミヤ記を読みましても、当時のペルシア帝国がどれほど豊かであったかが伝わってまいります。そのような意味においては、むしろ周りの異邦人世界の方が明るかったと言えるでしょう。
しかし、だからこそ預言者は「見よ」と言うのです。そこに暗闇が満ちていることを見なくてはならないのです。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」。そこにあるのは、単に不幸や困難や不況や貧困の闇ではないのです。新型コロナウイルスがもたらすような暗闇ではないのです。そうではなくて、人間の罪によってまことの光である神の交わりを失った世界という根本的な暗闇なのです。そこには繁栄はある。権力もある。しかし、まことの光がないのです。
実際、「コロナ禍」と人は言いますが、しかし、新型コロナウイルスが存在しなかったら、光はあったのでしょうか。いいえ、そうではないでしょう。もともと闇が覆っていたのです。新型コロナウイルスによって、世界を暗闇が覆っているという現実が露呈しただけなのだろうと思うのです。それまでは気づかなかっただけなのです。だから「見よ」と言われているのです。今こそ見なくてはならない。
「見よ」と預言者は言います。繁栄の中にあるものを見よ。力の支配の中にあるものを見よ。この世の明るさの中にあるものを見よ。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。」だからこそ、1節の言葉が語られたのです。「起きよ、光を放て。」この世界の本当の暗さは神の光を失った暗さに他ならないならば、神を信じる者が光を放たなくてはならないのでしょう。自分の望んでいたことが実現しないことで失望し、「神に仕えることはむなしい」などと言っていてはならないのです。神なき世界の暗闇に溶け込んでしまっていてはならないのです。それゆえに神は「起きよ」と呼び掛けられるのです。それは本来の姿ではないからです。身を横たえていたところから起き上がらなくてはならない。立ち上がらなくてはならない。神は今のこの時代であるからこそ、教会にも呼び掛けておられるのでしょう。「起きよ、光を放て」と。
主の栄光は輝いている
そして、さらに言うならば、主はただ「起きよ、光を放て」とだけ言っておられるのではありません。預言者の言葉には続きがあります。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く」。
「あなたを照らす光」とは直訳すると「あなたの光」です。しかし、新共同訳がこれを「あなたを照らす光」と訳したのは適切であると思われます。その後に書かれているように、光を放つのはもともと彼らが内に持っている何かではないからです。「光を放て」と言われているのは、彼らを照らす光が既に昇っているからです。それは「主の栄光」です。彼らは照らされて光を放つのです。ちょうど月が太陽の光に照らされて輝いているようにです。
ならば重要なのは、輝きの源である神との関係なのでしょう。彼らはペルシアに支配される、富も力も持たない、貧しい民に過ぎません。繁栄する異邦人の間にあって、生活苦にあえぎながら、悩みながら、頭をかかえながら生きている人々です。しかし、それでもなお、彼らはエルサレムに集められた人々なのです。そこにあるのは、かつてソロモンの建てた神殿とは似ても似つかないものであったかもしれない。けれど、彼らの間に神殿があり、祭壇があるのです。彼らは礼拝する民として神に集められた民なのです。彼らの姿はボロボロかもしれない。けれど、既に神の栄光は彼らを照らしているのです。
だから、彼らは自分たちを照らす光に向かって顔をあげたらいいのです。「神に仕えることはむなしい」などと言っていないで、神を礼拝し、心からの賛美を捧げ、神に自らを献げて生きたらいいのです。彼らを照らす光は既に昇っているのですから。すると何が起こるのか。「国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」(3節)。そのようなことが起こるのだと預言者は語るのです。
「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く」。――時を経て、私たちが同じ言葉を耳にしています。神が同じように私たちに語り掛けておられます。そして、私たちはその光が《誰であるか》を既に知らされています。どのように主の栄光が私たちの上に輝いているのかを知らされているのです。
「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)。今年のクリスマスの聖書日課として与えられていた御言葉です。そして、このようにも語られていました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(同14節)。
私たちはその御方によって集められてここにいます。もっとも現在はまだ毎週礼拝堂に集まれるわけではありません。しかし、それでもなお週毎に私たちは礼拝へと招かれています。招かれている私たち自身は、輝くものなど何もない、みすぼらしい姿であるかもしれません。しかし、既に私たちを照らす光は昇っているのです。主の栄光は私たちの上に輝いているのです。
ならば、私たちもまた、私たちを照らす光に向かって顔をあげたらいいのです。神を礼拝し、心からの賛美を捧げ、どのような状態であれ、その自分自身を神に献げて生きたらいいのです。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く」。祈りましょう。
2020年12月6日日曜日
「悔いる者のもとに来られる神」
イザヤ59:12‐20
光を望んだが闇に閉ざされ
今日の第一朗読はこのような言葉から始まっていました。「御前に、わたしたちの背きの罪は重く/わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり/わたしたちは自分の咎を知っている」(12節)。自らの罪を認め、罪を悔いる者の言葉です。
この人が置かれている状況を先に見ておきましょう。今日の朗読には含まれていませんが、9節以下には次のように書かれています。「それゆえ、正義はわたしたちを遠く離れ/恵みの業はわたしたちに追いつかない。わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ/輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている。盲人のように壁を手探りし/目をもたない人のように手探りする。真昼にも夕暮れ時のようにつまずき/死人のように暗闇に包まれる。」(9‐10節)。
これがこの人の置かれている状況です。彼が目にしている当時の社会の描写であると言ってもよいでしょう。誰もが光を望みながらも現実には闇に閉ざされている社会。暗闇の中を歩いているかのように、先が見えない。まるで手探りをして歩いているかのように、どちらに進んだらよいのかさえわかない。歩いてはつまずき、歩いてはつまずき・・・・。そのように人々が生きている社会のありようがそこに描き出されています。
そして、そのような暗闇の中にうなり声が響いているのです。11節はこう続きます。「わたしたちは皆、熊のようにうなり/鳩のような声を立てる。正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」。社会の中に、嘆きの声が響いています。失望と落胆、また怒りと苛立ちの声が響いています。熊のうなり声のように。「正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」と。正義なんかない。救いもない。そのような声が響き渡っているのです。
そのようなうなり声は声は誰に向けられているのでしょう。「正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」。実際には、社会の中に様々な対象に向けられた諸々の声が響いていたのだと思います。現代においても私たちが目にしているように、「あいつが悪い」「こいつが悪い」と人々が口にしていたのでしょう。しかし、イスラエルの話ですから、その全ては最終的には神に向けられていたとも言えます。「正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」。
社会に満ちるうなり声。神に向けられた嘆きの声。失望と落胆、怒りと苛立ちの声。それに対して、神は何と言われるのでしょう。実は、この人にはもうわかっているのです。というよりも、その神の答えこそ、この人自身が社会に向かって語ってきた言葉だったからです。この人は預言者です。預言者は人々に神の言葉を語るのです。
1節以下に、この人が預言者として語ってきた言葉が記されています。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(1-2節)。
そのように語ってきた。だからこの人にはもうわかっているのです。なぜ誰もが光を望みながら現実には闇に閉ざされているのか。なぜ暗闇の中を手探りするように歩いているのか。なぜ暗闇の中を歩くように、歩いてはつまずき、歩いてはつまずき、ということを繰り返しているのか。「正義がない!救いがない!」といううなり声が社会に満ちているけれど、いったい何が問題なのか。この人にはわかっているのです。問題は神と人との間にあるのです。神と人との間が隔てられている。断絶している。関係の破れがそこにある。それこそがこの世界の根本問題であり人生における根本問題なのです。
だから、うなり声が響いている社会のただ中で、彼はこのような言葉を口にするのです。今日の朗読の冒頭をもう一度お読みします。「御前に、わたしたちの背きの罪は重く/わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり/わたしたちは自分の咎を知っている。主に対して偽り背き/わたしたちの神から離れ去り/虐げと裏切りを謀り/偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。こうして、正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき/正しいことは通ることもできない」(12‐14節)。
ここで彼が「わたしたち」という言葉を繰り返していることに注意してください。先ほども言いましたように、彼は預言者として人々に神の言葉を語ってきたのです。社会に向かって語ってきたのです。「お前たちの悪が」「お前たちの罪が」と語ってきたのです。具体的には社会に満ちる不正、権力者たちによる暴虐と圧制、宗教的指導者たちの腐敗を問題として語ってきたのです。それは神に遣わされた者としての使命であり、罪を罪として語る言葉はイスラエルの社会にとっても必要だったのです。いやそれがどこであっても、いつの時代でも、罪が罪として、悪が悪として語られることは必要なことなのです。
しかし、先にも申しましたように、問題は神と人との関係なのです。ならば神と彼らの関係だけを問題にすることはできません。「お前たちの悪が」「お前たちの罪が」と語っている自分自身もまた神の御前にいるのですから。それが分からなければ、ただ「お前たちの悪が」「お前たちの罪が」とだけ言い続けるのでしょう。しかし、この人はそうではありませんでした。神の御前にある一人の人間として、罪ある人間として、「わたしたちは」と語っているのです。
「御前に、わたしたちの背きの罪は重く/わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり/わたしたちは自分の咎を知っている。」――真に神の御前に立つとはこういうことなのでしょう。この世界に満ちる悪をわが悪として認め、この世界の背きをわが罪として悔いる人の姿がそこにありました。
罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる
そのような人であるからこそ、彼はまた、神がこの世界をどのように見ておられるかをはっきりと知る人でもあったのです。彼は言います。「主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った」(15節後半)。そして、こう続けるのです。「主は人ひとりいないのを見/執り成す人がいないのを驚かれた」(16節前半)。
「人ひとりいない」。それは「執り成す人がひとりもいない」ということです。神はその事実に驚きをもって目を向けておられます。「執り成す人がひとりもいない」。「執り成す人」というのは神と人との間に立つ人です。そこに立てる人がひとりもいない。
問題は神と人との関係だと先ほど申しました。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」と語られてきたのです。ではその隔てはどうしたら取り除かれるのでしょう。誰が神と人との間に立って、人のために執り成すことができるのでしょう。
「執り成す人がひとりもいない」――「いいえ、ここにわたしがいます」と彼は言うことができるのでしょうか。いいえ、彼は言うことができない。彼自身もまた「御前に、わたしたちの背きの罪は重いのです」と言わざるを得ない者だからです。彼自身が執り成しを必要としているのです。
この人には分かっているのです。神の御前に立って人のために執り成すことのできる正しい人は、ひとりもいないということ。神がご覧になっている通りだということ。ならば、それは何を意味するのでしょう。人間の側から救いの道を開くことはもはやできない、ということです。それを成し得る人がいないのですから。
しかし、この人の言葉はそこで終わらないのです。その先があるのです。人間の側から救いの道を開くことができないゆえに、神が自ら行動を起こされるのです。人間の罪による神との関係の破れについて、人間の側からはどうすることもできないゆえに、それは神の側から始まるのです。それゆえに、「主は人ひとりいないのを見/執り成す人がいないのを驚かれた」という言葉は次のように続くのです。「主の救いは主の御腕により/主を支えるのは主の恵みの御業」(16節後半)。
神は自ら救いの行動を起こされます。「主の救いは主の御腕による」とはそういうことです。人間によらない。神様がなされるのです。そして、「恵みの御業」という言葉は、「正義」とも訳せる言葉です。しかし、これは人間の正義ではありません。神の正しさです。神が行動を起こされる。それは人間の正しさのゆえではありません。正しい者はいないのです。一人もいない。それゆえに神は神の正しさに基づいて行動されるのです。「主を支えるのは主の恵みの御業(正義)」とはそういうことです。
そのようにして、主は贖う者として来られるのです。20節に書かれているとおりです。「贖う者」とは「救う者」と言い換えてもよいでしょう。そうです、神は救いの神として来られるのです。しかし、そこにははっきりとこう書かれています。「罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる」。
さて、アドベント(待降節)の期間に、どうしてこの聖書の箇所が読まれたのか、もうお気づきのことでしょう。私たちは、神自ら決定的な行動を起こされたことを祝おうとしているのです。神がこの世界に独り子を与えられた。神がこの世界にキリストをお与えくださった。それがクリスマスにおいて祝われている出来事です。神と人との間を執り成すことのできる正しい人がひとりもいないこの世界に、神が唯一、神と人との間を執り成すことのできる御方を置かれたのです。神と人との間にある罪の隔てを取り除くことのできる御方を置かれたのです。そして、キリストは私たちの罪を自ら背負って十字架にかかり、私たちの罪の贖いをなし、私たちのために執り成してくださったのです。
その祝いに向かう途上において、私たちは今日、「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来る」と主が言われるのを聞いています。アドベントの期間は、悔い改めのために私たちに与えられている期間です。神と向き合い、この世界と向き合い、そして、自分自身としっかり向き合わなくてはなりません。そのようにして、私たちはこの人と同じところに立つのです。
(祈り)
憐れみ深い天の父
真にあなたの御前にある者として、あなたの光のもとで自らを知ることのできる者とならせてください。私たち自身が断罪しているこの世の罪が私たち自身の内にあることに気づかせてください。どうかまことに罪を悲しみあなたの元に立ち帰る恵みを与えてください。そのためにあなたが与えてくださったこのアドベントのこの時をふさわしく過ごすことができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
2020年7月26日日曜日
「わたしは主、あなたの神」
目の見えない人よ、よく見よ
今日は43章の冒頭をお読みしました。しかし、今日の箇所はその前の42章に続いています。42章18節以下にはこう書かれています。「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど目の見えない者、主の僕ほど目の見えない者があろうか。多くのことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに、何も聞こえない」(42:18‐20)。
ここで「わたしの僕」とか「主の僕」と言われているのはイスラエルの民のことです。時代は紀元前六世紀。この預言者の言葉を聞いていたのは、バビロニア軍によって祖国を滅ぼされ、バビロンに捕らえ移されて捕囚となっていたイスラエルの民です。深い悲しみを味わっていた人々です。
捕囚と言いましても、奴隷にされていたわけではありません。住む場所が与えられ、家を建て、家庭を営むことが許されていた。普通の生活はできたのです。しかし、彼らの内には深い闇がありました。彼らがしばしば耳にした言葉が詩編に出てきます。「お前の神はどこにいる」(詩編42:4)という言葉です。イスラエルの民を嘲って戦勝国の人々が言うのです。「お前の神はどこにいる」と。
そのようなバビロニアの支配が何十年と続いたのです。「お前の神はどこにいる」と言われれば、自分たちも考えざるを得ないでしょう。「私たちの神はどこにいる」と。「なにゆえ私たちは異国の民に支配されたままなのだ。主はどこにおられるのだ」。そして、こう考えたに違いない。「私たちの神、主がいたとしても、主は目が見えないのではないか。主は耳が聞こえないのではないか。」――長い苦しみが続いているのです。そのような嘆きの声があがったとしても不思議ではないでしょう。
しかし、主は預言者を通して、そのような人々に言われるのです。「目の見えないのはどちらだ。耳が聞こえていないのはどちらだ。お前たちの方ではないか」と。「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ」というのは、そういうことです。人々の嘆きを聞きながら、実は主が嘆いておられるのです。「多くのことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに、何も聞こえない」と主が嘆いておられるのです。
いったい彼らは何を見なくてはならないのでしょう。何が見えていないのでしょう。聞こえていないのでしょう。預言者はこう言うのです。「あなたたちの中にこれを聞き取る者があるか。後の日のために注意して聞く者があるか。奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか、この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず、その教えに聞き従おうとしなかった」(42:23‐24)。
そうです、今こそ見なくてはならないのです。聞かなくてはならないのです。この惨めな捕囚という現実をもたらしたのは、他ならぬ神なのです。ならば、ただ嘆いているだけでは何も始まらないのです。神の御前で、自らの罪を認めなくてはならないのです。「わたしたちは罪を犯した。わたしたちは聞き従おうとしなかった」と。すべてはそこから始まるのです。
あなたはわたしのもの
そこで、今日お読みした43章に入るのです。自らの罪を認めた、悔いし砕かれた魂にこそ、主はこう語られるのです。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」と。
「贖う」とは「買い戻す」ということです。借金などの理由で奴隷になった者が自由になるには、その親族が代価を払って彼を買い戻さなくてはなりませんでした。「贖う」とはそういうことです。贖うのは解放するためです。主は彼らに捕囚からの解放を告げたのです。
しかし、本当に喜ばしいことは、解放されること自体ではありません。それよりももっと大きなことが語られているのです。主は言われるのです。「あなたはわたしのものだ」と。これこそまさに福音です。神に対して罪を犯した者に対して、神に聞き従おうとはしなかった者に対して、それでもなお神は言われるのです、「あなたはわたしのものだ」と。
しかも主は3節でこう言われるのです。「わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。」主は、ここで大国エジプトをはじめクシュやセバまで《贖いのための代金》とすると言っておられます。それは要するに「あなたをわたしのものとするためなら、どんな大きな代価だって払う」ということです。
神に背いた者たちに対して、どうしてそこまでなさるのでしょうか。私たちだったら、ゴミは捨てるのでしょう。汚れたものは捨てるのでしょう。それなのに、主は罪に汚れた者を、どうして捨てないのでしょうか。――そこで主は言われるのです。「わたしの目にあなたは価高く、貴いからだ。わたしはあなたを愛しているからだ」と。それが今日お読みした箇所に書かれていることです。
主はかつて御自分に背いたイスラエルに対してこう語られました。しかし、そのような主の心はただイスラエルに対してのみ向けられたものではありませんでした。そうです、主の目に高価で貴いのは、イスラエルの民だけではないのです。イエスという御方がこの地上に現れた時、神はこの世に対して、「あなたをわたしのものとするためなら、どんな大きな代価だって払う」と言われたのです。そう言って神は独り子をさえ惜しまずに十字架にかけられたのです。
それは神に背いたこの世のためだったのです。私たちのためだったのです。私たちを御自分のものとするために、独り子の命を支払われたのです。「あなたに背いてきた私のために、あなたはどうしてそこまでなさるのか。」あなたがそう問うならば、主は同じようにこう答えられるでしょう。「わたしの目にあなたは価高く、貴いからだ。わたしはあなたを愛しているからだ」と。
そのように私たちを貴い存在として見て、贖ってくださる方が「恐れるな」と言われるのです。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」今日もキリストの十字架のもとに集められた悔いし砕かれた魂に、主はそう語りかけておられるのです。
わたしはあなたと共にいる
そして、主はもう一度「恐れるな」と言われます。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(5節)と。主は2節でもこう言っておられました。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(2節)。
「あなたを贖う。あなたはわたしのものだ」と言われる主は、共に歩んでくださる神様です。「あなたはわたしのものだから水の中を通るようなことはない。火の中を歩くようなことはない」とは言われないのです。そうではなくて、たとえ水の中を通ったとしても、火の中を歩くようなことがあったとしても、わたしはあなたと共にいる、と言われるのです。
時代はバビロニアの支配からペルシャの支配へと移り変わって行きました。そして、ペルシャの王キュロスにより、捕囚の民はエルサレムに帰還し都を再建することを許可されたのです。確かに解放の時が来たのです。もし主によって贖われたことを信じるなら、罪が赦されたことを信じるなら、今こそ一歩を踏み出し、主と共に歩み出す時なのでしょう。背いてきた者であるにもかかわらず「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」と語られていることを本気で信じるなら、主に贖われた者として、主のものとして歩み出すべき時なのでしょう。
しかし、主と共に歩むということは冒険でもあります。信仰をもって生きるということは冒険なのです。水の中を通ることになるかもしれません。かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が、水の中を通されたように。あるいは火の中を歩くような、厳しい現実が待っているかもしれません。実際、バビロンを出て廃墟となっているエルサレムへと向かうならば、その先に多くの困難が待ち受けていることは火を見るより明らかだったのです。
しかし、主はそのただ中において共におられると言われるのです。主が共におられるならば大丈夫なのです。恐れる必要はないのです。「恐れるな」と主は言われる。大事なことは一つだけです。「わたしはあなたと共にいる」と言われる主に従うことなのです。離れることなく、信頼してどこまでも従っていくことなのです。
「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」かつて主は捕囚の民にそう語りかけられ、主と共に歩む新たな一歩へと導かれました。そして、同じ言葉が、イエス様を信じる私たちにも与えられているのです。私たちを贖うために十字架にかかられたイエス・キリストは、復活して後、こう言われたではありませんか。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。そうです。私たちもまた、この御方と共に歩んでいくのです。実際、不安に満ちた時代です。いつ水の中を歩くことになるか分かりません。いつ火の中を歩くことになるか分かりません。しかし、主は「恐れるな」と言われる。ならば、私たちは、恐れることなく、この御方を信じて、どこまでも従っていくのです。
(祈り)
2020年1月12日日曜日
「傷ついた葦を折ることなく」
2019年12月1日日曜日
「廃墟が歓声を上げ、喜び歌う時が来た」
2014年12月7日日曜日
「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに」
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 55章1節~11節
主は預言者を通して語られました。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」と。「来なさい」と主は繰り返されます。渇いたまま、何も持たないまま、来なさい、と。
渇いている者は来るがよい
エルサレムが破壊され、ユダの国が滅亡し、主だった人々がバビロンに捕囚とされて既に50年近くの月日が過ぎようとしていた頃、捕囚民たちは皆、新しい時代の到来を肌で感じていました。バビロンを征服したペルシアの王キュロスの統治の仕方はそれまでのものとは全く異なっていたからです。彼は被占領民族を支配するに当たり、その民族の文化と宗教を重んじる政策を採ったのです。その結果、バビロンに捕囚となっていたユダの人々もまた、ユダの地に帰り、エルサレムを再建することが許されたのでした。ついに解放の時が来たのです。
今日の第一朗読はそのような時代を背景とした預言です。で主は預言者を通して語られたのです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。来て、銀を払うことなく穀物を求め、価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ」(1節)。
これは何を意味するのでしょうか。ただ故郷に帰れる時が到来したのではないということです。神のもとに帰るべき時が来た。それこそが重要なのです。今までの生活を後にして、渇きを癒す水のもとに行くべき時が来たのです。魂の飢えを満たしてくださる方のもとに帰るべき時が来たのです。いわば信仰の生活をもう一度建て直すべき時が来たのです。
バビロンが与えてくれるものを追い求める時代は終わりました。バビロンが提供してくれるもので自分を満たさなくてはならない時代は終わりました。もう既に彼らは知っていたはずなのです。バビロンから何を得たとしても、何をもって自分を満たそうとしても、本当の飢え渇きはこの世からのものでは満たされないということを。主も言われるのです。「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い、飢えを満たさぬもののために労するのか」(2節)。
良きものは主から来るのです。本当の満たしは主から来るのです。主は言われます。「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(3節)。いや、それだけではありません。さらに主はこう続けます。「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに」(同)。「とこしえの契約」です。それはすなわち、ぜったいに関係が切れないということです。主は絶対に見捨てられない。そのような関係に入れられるということです。
さてこれらの言葉がバビロンの捕囚民にどれほど大きな意味を持っていたかを改めて思います。現実に彼らがバビロンを後にしてエルサレムへと帰還するとするならば、そこには様々な困難が予想されるでしょう。不安や恐れもあることでしょう。しかし、彼らは旅立ったのです。それは故郷への旅立ちではなく、まさに主のもとへと行く旅立ちだったのです。主のもとにこそ良きものがある。主のもとにおいてこそ魂は豊かさを楽しむことになる。主のもとにおいてこそ、魂に命を得るのだ。そして、我らは永遠に失われることのないとこしえの関係に生きるのだ。彼らの旅立ちは、そのような信仰の生活の再建へと向かう旅立ちに他ならなかったのです。
近くにいますうちに
しかし、そのようにエルサレムへと帰還した捕囚民を待ち受けていたのは、予想していたとはいえ、実に厳しい現実でした。彼らが目の当たりにしたのは崩れ落ちた城壁であり、焼け落ちた神殿でした。
廃墟となったエルサレム。しかし、そこで彼らが直面したのは単に生活上の困難ではありませんでした。そうではなく、彼らが直面したのは、イスラエルの罪とその結果だったのです。彼らが目の当たりにしたのは、神に背くということ、背き続けるということが、どれほどの悲惨をもたらすのかという事実だったのです。彼らは神の呼びかけに背き続けた先祖の罪を思ったことでしょう。しかし、それは彼らにとって他人事ではなかったはずです。彼らは自らの罪、バビロンで生きてきた自分たちの罪をも思わずにはいられなかったに違いないのです。
そのように、神のもとに行こうとするならば、信仰に生きようとするならば、神の御前における自分の罪とどうしても向き合わざるを得なくなるのでしょう。そこで人は神の御前に恐れを覚え、聖なる神と罪ある人間との埋めることのできない大きな隔たりを思わざるを得ないのです。
しかし、主はそのような彼らに対し、預言者を通してこう語られるのです。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに。神に逆らう者はその道を離れ、悪を行う者はそのたくらみを捨てよ。主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる」(6‐7節)。
なんと主は近くにいてくださると言うのです。主は罪ある人間の近くにいてくださる!誰でも尋ね求めさえすれば見いだすことができるほどに近くにいてくださる。呼び求めることができるほどに近くにいてくださるのです。主が近くにおられるのは、裁いて滅ぼすためではありません。豊かな赦しをもって近くにいてくださるのです。人間がすべきことは、立ち帰ることなのです。主の憐れみを信じて、豊かな赦しを信じて、立ち帰ることなのです。
わたしの道は異なる
とはいえ、現実に罪のもたらした荒廃が目の前にある時に、罪の結果が厳然として目の前にある時に、罪の赦しを信じることが難しいことも事実です。罪のもたらした廃墟が回復することを信じることはさらに難しいのかもしれません。彼らは神の裁きによって廃墟となったエルサレムを前にして、神の赦しを信じることができたのでしょうか。その廃墟が本当に建て直されると信じることができたのでしょうか。
しかし、主は彼らに言われるのです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(8‐9節)。
私たちも時として思わずにはいられないのでしょう。「こんなわたしは赦されるはずがない」と。しかし、それは人間の思いです。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる」のです。「主に立ち帰るならば、主は憐れんでくださる。わたしたちの神に立ち帰るならば、豊かに赦してくださる。」これが主の思いです。
「この廃墟が建て直されるはずはない」。それもまた人間の思いです。「天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」と主は言われます。廃墟は永遠に廃墟であるように人には思えます。荒れ野は永遠に荒れ野であるように思えるのです。しかし、51章にはこのような言葉があります。「主はシオンを慰め、そのすべての廃虚を慰め、荒れ野をエデンの園とし、荒れ地を主の園とされる。そこには喜びと楽しみ、感謝の歌声が響く」(51:3)。これが主の思いです。それは私たちの思いを、高く超えているのです。
エルサレムの廃墟に直面した彼らに必要なことは、ただ彼らの分を弁え、へりくだることだったのです。そうです、私たちに必要なことも、私たちの思いと主の思いは異なる、私たちの道と主の道は異なるということを認めてへりくだることです。そして、私たちの思いとどれほど異なろうが、ただ主が語られる言葉に信頼することなのです。
主はこう言われます。「雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種蒔く人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」(10‐11節)。私たちの思いとどれほどかけ離れていようと、私たちの道とどれほど異なっていようと、最終的に神の御言葉こそが成就するのです。
さて、私たちはアドベントの季節にこの御言葉を耳にしています。キリストの到来を思いつつ、この言葉を聞いています。このように語られた主は、預言者を通して語られるだけでなく、最終的に独り子を世に遣わされて語られました。まさに御自分の言葉そのものであられるキリストを世に遣わされて決定的な仕方で語られたのです。
キリストは言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(同35節)。そして、「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と言われたとおり、キリストは十字架において父なる神の御心を成し遂げられたのです。神の御子の血による罪の贖い!それは私たち人間には想像することもできなかった神の思いであり、私たち人間の道とは大きく異なる神の道に他なりませんでした。
私たちはキリストの到来と、そのキリストにおいて成し遂げられた神の御業を知る者として、改めて今日の御言葉を聞いているのです。「渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。銀を持たない者も来るがよい」。そして、主は言われます。「主を尋ね求めよ、見いだしうるときに。呼び求めよ、近くにいますうちに」。
2013年6月23日日曜日
「神はあなたを忘れてはいません」
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 イザヤ書 49章14節~21節
主はわたしを忘れられた
「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた、と」(14節)。
「主はわたしを見捨てられた」。そんな思いを抱いたことはありますか。「わたしの主はわたしを忘れられた」。そんな思いを抱いたことはありますか。苦しみが長く続く時、出口の見えないトンネルの中を延々とこれからもずっと歩き続けなくてはならないかのように感じる時、神に祈り願っても依然として事態は何も変ってはいないように思える時、私たちの内にもこのような思いが湧き上がってくるかもしれません。「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」と。
シオンとはエルサレムのことです。この場合、破壊され廃墟となったエルサレムです。紀元前五八七年、エルサレムはネブカドネツァルの率いるバビロニア軍によって二年間包囲された後に陥落し、城壁は破壊され、エルサレムの神殿は焼き払われ、主だった人々はバビロンに強制移住せられて捕囚となりました。それから五十年近くの月日が経ち、依然としてエルサレムの城壁も神殿も建て直されることなく、都は廃墟のままだったのです。そのような月日を経た捕囚の民の口に上ったのがこの言葉でした。「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」。
確かに、見捨てられているとしか思えない時があります。忘れ去られているとしか思えない時があります。そこに罪の自覚が加われば、絶望はいよいよ深くなるのでしょう。捕囚の地にあって歴史を振り返った人々がいました。彼らに見えてきたのは、神が繰り返し預言者を遣わして語りかけ、呼びかけ続けてくださったという事実でした。そして、もう一つ見えてきたのは、その呼びかけに背を向け、耳を塞ぎ、逆らい続けてきた民の姿でした。見捨てられたとしても仕方がない。忘れられたとしても仕方がない。エルサレムの荒廃をもたらしたのは外交政策を誤ったゼデキヤ王でもなければ攻めて来たバビロンの王でもなかった。それは他ならぬ自分たちなのだ。それが彼らの自覚でした。そのように民の罪によって廃墟となり、荒れ果てたまま年月だけが過ぎていったエルサレムが、悔いと悲しみをもってこう嘆いているのです。「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」。そこにあるのは深い絶望の暗闇でした。
あなたを忘れることは決してない
しかし、その暗闇の中に主の御声が響くのです。「わたしがあなたを忘れることは決してない!」主はそう言われるのです。それは暗闇の中に天から差し込んでくる一筋の光です。「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも、わたしがあなたを忘れることは決してない」(15節)。
主が「忘れることはない」と言われる時、それは何を意味するのか。主はさらにこう言続けられます。「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある」(16節)。「刻みつける」という言葉は、レンガなどに絵や字を彫り込む時に使われる言葉です。そのようなことを手に対して行ったら、当然、痛みを伴うことになるでしょう。実際、ここで語られているのは、ある種の入れ墨のようなものだろうと多くの人は考えます。そのように痛みをもって手のひらに刻みつけ、「あなたを決して忘れない」と言われる。それは神の憐れみなのです。見捨てられても仕方のない者をあえて赦して受け入れる神の憐れみなのです。
そのように、見捨てられても仕方のない者をあえて赦して受け入れて「あなたを決して忘れない」と言われる神の憐れみを思う時、私たちもまた私たち自身のことを考えざるを得ません。私たちもその憐れみを知っています。私たちもそのようにして救われたからです。そのように痛みをもって刻まれた私たち自身の名前。そうです、神はキリストにおいて私たちをもその御手に刻まれました。十字架の太い釘をもって。その釘の跡はイエス様が復活されたあとも残っていました。その傷跡を主は復活した時にトマスにお見せになりました。それはトマスのための傷跡であり、他の弟子たちのための傷跡であり、私たちのための傷跡でした。いわばその御手に、穴のあいたその御手に、私たちもまた赦された者として彫り刻まれているのです。
「見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」と主は言われた。だから忘れられてはいません。罪を赦された者として常に主の御前にいるのです。人の目には主から忘れられているかのように見えても、見捨てられているかのように見えても、主は宣言されるのです。「わたしがあなたを忘れることは決してない」と。主は常に覚えていてくださいます。主は心にかけていてくださいます。主は見ていてくださいます。主は長い間苦しんできたことも分かっていてくださいます。その上で、主は私たちの未来にしっかりと目を向けていてくださるのです。
あなたの城壁は常にわたしの前にある
主はあの時、自らの手に刻みつけたエルサレムに向かってこう言われました。「あなたの城壁は常にわたしの前にある」と。崩れてしまった城壁は常に主の前にありました。惨めなエルサレムの姿は主の前にありました。主は決してそっぽを向いていたわけではありません。しっかりと見ておられた。しかし、主がご覧になっていたのは、ただ崩れてしまった城壁だけではありませんでした。主は再建された城壁をも見ておられたのです。やがて美しく建て直される城壁。その再建プランは既に主の御手にあったのです。主は人がまだ見ていない再建された城壁を既に見ておられた。それゆえに主はさらにこう言われるのです。「あなたを破壊した者は速やかに来たが、あなたを建てる者は更に速やかに来る」(17節)。
「あなたを破壊した者は速やかに来た」。そうです。確かにそうでした。破壊されるのは速かった。それが建て直されるのには気が遠くなるほどの時間がかかると人は思います。これまでの苦しみの時が長ければ、その苦しみから解放されるのにも恐ろしく長い時間がかかるように思う。時にそれは永遠に続くとさえ思えるものです。しかし、主は言われるのです。「あなたを建てるものは更に速やかに来る」。なぜなら、それは主がなさることだからです。
主は人間の時間割に従って事を為されるわけではありません。主は御自分の仕方で事を為されます。主はある日、突然、人間の思いがけない仕方で介入されるのです。実際、エルサレムの再建はそのように起こりました。再建のための勅令を出したのは、なんとバビロンを征服したペルシャの王キュロスだったのです。そして城壁の再建を指導したネヘミヤもペルシャの王に仕える高官であり、ペルシャ帝国の公務としてエルサレム入りすることになるのです。
主は備えておられます
「あなたの城壁は常にわたしの前にある」。そのように、主は私たちの現実を見ていてくださいます。その主が私たちの未来をも見ていてくださいます。そこには主のご計画があるのです。そして、主がなそうとしておられることは、ただ「元通りになる」ということではありません。破壊されたエルサレムはただ元通りになるのではなく、それ以上のものとなるのです。
主はこう言われました。「 目を上げて、見渡すがよい。彼らはすべて集められ、あなたのもとに来る。わたしは生きている、と主は言われる。あなたは彼らのすべてを飾りのように身にまとい、花嫁の帯のように結ぶであろう。破壊され、廃虚となり、荒れ果てたあなたの地は、彼らを住まわせるには狭くなる。あなたを征服した者は、遠くへ去った。 あなたが失ったと思った子らは再びあなたの耳に言うであろう、場所が狭すぎます、住む所を与えてください、と」(18‐20節)。
廃墟となり人の住まなくなったエルサレムは、ただ元通りに人が住むようになるだけではありません。エルサレムは失った人々以上の人々が帰ってきて、入りきれないほどの人で賑わう繁栄した都になるというのです。人々は言うのです。「場所が狭すぎます」と。
そのようなことが起こるならば人は不思議に思うわけでしょう。ですから主はこう言われるのです。「あなたは心に言うであろう、誰がこの子らを産んでわたしに与えてくれたのか、わたしは子を失い、もはや子を産めない身で、捕らえられ、追放された者なのに、誰がこれらの子を育ててくれたのか、見よ、わたしはただひとり残されていたのに、この子らはどこにいたのか、と」(21節)。
誰が生んでくれたのか。誰が育ててくれたのか。もちろん神様です。神様が生んで育てておられたのです。いつですか。彼らが「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」と言っていた時にです。まだ再建の兆しも見えなかった時です。何も進んではいないように見えた時です。その時に、主は既に再建された城壁を見、そして、そこに住む人々を備えておられたのです。
「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」。そのように見える時、そのように思えてくる時、ぜひ今日の御言葉を思い起こしてください。主は言われます。「わたしがあなたを忘れることは決してない」。私たちは主の手に彫り刻まれているのです。主は忘れてはおられません。主は私たちの現在を、そして未来を見ていてくださいます。そして、主は何も進んではいないように見える今、そのために着々と準備を進めておられるのです。
ならば大切なことはただ一つ。信仰に留まることです。エルサレムの言葉をもう一度聞いてみてください。「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」。「主は見捨てられた」と言いながらもなお「わたしの主は」と言っているのです。そうです、当時、主を捨ててバビロンの神々に帰依していく人たちがいる一方で、自らの罪を自覚しながらも、暗闇の中にあっても、どこまでも主に向こうとしていた人たちがいたのです。そのような人々が主の言葉を聞いたのです。「わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある」と。私たちもまた信仰に留まるならば、私たちへの語りかけとして主の言葉を聞くのです。暗闇の中に差し込む一筋の光として。「わたしがあなたを忘れることは決してない」。