出エジプト記 2:11-25
今日は11節からお読みしました。「モーセが成人したころのこと、彼は同胞のところへ出て行き、彼らが重労働に服しているのを見た。そして一人のエジプト人が、同胞であるヘブライ人の一人を打っているのを見た」(11節)と書かれています。これは、モーセが外を散歩をしていたら、偶然イスラエル人が重労働に服しているのを見た、ということではありません。たまたまヘブライ人が打たれているのを目撃してしまった、ということではありません。そのようなことは、エジプトにおいては日常茶飯事であったに違いないのですから。モーセはこれまでに幾度も目にしているはずなのです。モーセがいくら宮廷の人間として育ったからと言って、成人するまでそのような社会の現実を知らなかったということはあり得ません。
そこには「彼は同胞のところへ出て行き」と書かれています。これはあくまでもモーセがある特別な意志をもって「同胞のところへ」出て行った時の話なのです。エジプト王女の子として育てられたモーセが、エジプト人ではなく、ヘブライ人を「同胞」と見ていることは当たり前のことではありません。そこには、乳離れするまで実の母親にヘブライ人として育てられたことが背景にあることを先週見てきました。
そのモーセが、自ら「ヘブライ人」として、あえてヘブライ人のもとに行ったのです。「同胞のところへ出て行き」とはそういうことです。エジプト人として王宮で暮らしていれば、一生彼らの苦しみに目を向けないで、彼らの苦しみとは無関係に生きることだってできたはずなのです。しかし、モーセはそうしなかった。ある日、モーセはあえてヘブライ人として、同胞として、その苦しみに目を向けるつもりで出て行ったのです。
ですから、この事件もまた、モーセの衝動的な殺人であると考えてはなりません。偶然に同胞が打たれているのを目撃して、ついカッとなってエジプト人を殺してしまった、ということではないのです。少なくとも聖書はこの出来事をそのように伝えてはおりません。彼は冷静にあたりを見回し、誰もいないことを確かめています。さらに言えば、彼は人を殺した後、短時間の内に死体を隠匿しています。それは穴を掘りやすい砂地でなくてはなりません。ですから「死体を砂に埋めた」と書かれているのです。そのように死体を埋めやすい場所かどうかも冷静に確認しているのです。
このように、これらすべてはモーセの意志的な行為なのです。出て行ったことも、見たことも、そして打っていたエジプト人を殺したことも。ならばそのモーセの意図は何だったのでしょうか。
モーセの物語が初期の教会においてどのように読まれていたのかは、新約聖書を読めばよく分かります。使徒言行録7章にはこう書かれています。「四十歳になったとき、モーセは兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました。それで、彼らの一人が虐待されているのを見て助け、相手のエジプト人を打ち殺し、ひどい目に遭っていた人のあだを討ったのです」(使徒7:23‐24)。
「兄弟であるイスラエルの子らを助けようと思い立ちました」。要するに、彼はイスラエルの民の救済のために立ち上がったのです。長い苦悩の末の決断だったのでしょう。ついに彼はエジプト王女の子であることを捨てて、どこまでもイスラエルの民の同胞として苦しみを共にする決断をしたのです。抑圧されている者の救済と正義の実現のために、神の御前に自分の持てる全てを捨てる覚悟をもって、その第一歩を踏み出したのです。
さて、モーセの捨て身の決断はどのような結果を生みだしたでしょうか。先に引用しましたステファノの説教は次のように続きます。「モーセは、自分の手を通して神が兄弟たちを救おうとしておられることを、彼らが理解してくれると思いました。しかし、理解してくれませんでした。次の日、モーセはイスラエル人が互いに争っているところに来合わせたので、仲直りをさせようとして言いました。『君たち、兄弟どうしではないか。なぜ、傷つけ合うのだ。』すると、仲間を痛めつけていた男は、モーセを突き飛ばして言いました。『だれが、お前を我々の指導者や裁判官にしたのか。きのうエジプト人を殺したように、わたしを殺そうとするのか。』モーセはこの言葉を聞いて、逃げ出し、そして、ミディアン地方に身を寄せている間に、二人の男の子をもうけました」(使徒7:25‐29)。
モーセは、彼の開始した闘争を理解し、戦いに加わってくれる同志を求めていたに違いありません。しかし、彼を理解してくれる人はいませんでした。無理もありません。同じヘブライ人でありながら、皆が苦しんでいた時にモーセだけは労役を課せられることもなく、むしろエジプト王家の人間として宮廷の豊かさの中に生きてきたのですから。ヘブライ人たちにとって、モーセは所詮エジプト人の一人でしかなかったのです。仲間争いをしていたヘブライ人たちの一人が語ったように、彼らはモーセがヘブライ人の指導者となるべき人間だとは認めていませんでした。
しかも、重大なことが明らかになります。まだ戦いの同志を得ないうちに、彼の殺人が翌日には人の知れるところとなっていたのです。彼は反逆者としてファラオに追われる身となりました。ヘブライ人たちの救済どころではありません。自分の命を守るために、彼は逃亡生活を余儀なくされたのです。
失敗でした。挫折です。彼の払った大きな犠牲も、人々のために身を捧げた行為も、すべて無駄になってしまいました。彼としては純粋にイスラエルの民の救いを願って起こした行動だったのです。もちろん、彼の犯した殺人そのものが肯定され得るわけではありません。しかし、決して私利私欲のために動いたのではありません。人々から感謝されることすら求めてはいなかったに違いありません。献身が不徹底であったわけでも、努力が欠けていたわけでもありません。なのに、誰からも支持されず、理解もされず、いわば大きな負債だけが残ってしまった。彼はそれを虚しく一人で背負って生きていかなくてはならないのです。
モーセはミディアンの地に逃れました。そこで出会った娘たちを助けたことをきっかけに、祭司レウエルのもとに身を寄せることになりました。それにしても、助けられた娘たちの言葉が実に悲しく響きます。皮肉にも彼女たちはこう言ったのです。「一人のエジプト人が羊飼いの男たちからわたしたちを助け出し、わたしたちのために水をくんで、羊に飲ませてくださいました」(19節)。そうなのです。そこに惨めな姿で逃れてきたのは、結局はヘブライ人になれなかったモーセなのです。同胞とは認めてもらえなかったモーセ、「一人のエジプト人」に過ぎないモーセなのです。
彼は一人のエジプト人としてミディアンで寄留の生活を始めます。そして、聖書はこう語ります。「それから長い年月がたち」(23節)。――どれくらいでしょうか。実に、次にモーセが登場するのは、モーセが八十歳の時なのです。表舞台に出ぬまま、長い長い年月が過ぎてしまいました。そして、失われた日々は決して戻っては来ないのです。モーセの若さも失われました。モーセの力も大方失われてしまっていたことでしょう。いや、長い年月が過ぎるまでもなく、モーセの中では、ミディアンに逃れてきたあの四十年前に、既にすべては終わっているのです。あの決定的な挫折において、もう終わっているのです。人の目にはそうとしか見えない。モーセにもそう見えているのです。
しかし、神の目には何も終わっていないのです。いや、人の目に終わりに見える時が、実は神にとっては始まりなのです。神は終わったように見えるモーセを、新たに召し出されるのです。神の壮大な計画を実現するために!それが続く3章に書かれていることです。
すべては準備に他ならなりませんでした。大きな挫折も、無駄に潰えてしまったと思える多くの日々も、すべては準備に他なりませんでした。神はしばしば人間が頼りとするものを、人間が誇りとするものを、準備の中で打ち砕かれます。時として、若さも能力も情熱も、さらにはすべてを捧げる献身の思いさえも、打ち砕かれるのです。その人が自分の力や熱情によって神のために何かを成し遂げるのではなく、神の愛と憐れみと熱情がその人を用いて何かを成し遂げるために。
2023年11月29日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 2:11~25
2023年11月26日日曜日
「真理を証しするために来られた方」
ヨハネによる福音書 18:33‐40
本日の福音書朗読で読まれましたのは、イエス様が十字架にかけられる前、総督ポンティオ・ピラトのもとで裁判にかけられている場面です。その時、イエス様はピラトに対してこう宣言されたのです。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」(ヨハネ18:36)。
妬みと偽り
まず、イエス様が御自分の王国について語られたその場面をもう少し詳しく見ておきましょう。今日は33節からお読みしましたが、その前の28節以下には次のように書かれています。「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸には入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出てきて、『どういう罪でこの男を訴えるのか』と言った。彼らは答えて、『この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう』と言った。ピラトが、『あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け』と言うと、ユダヤ人たちは、『わたしたちには、人を死刑にする権限がありません』と言った」(28‐31節)。
人々はイエスを総督に訴えました。この男は悪いことをした、と言って訴えたのです。死刑に価する悪いことをした、と。ただ死刑にする権限は彼らにはありませんでした。ですからその権限を持つローマの総督に訴え出たのです。人々はイエスを訴えた、と言いましたが、その人々とは一般的な民衆ではありません。大祭司カイアファのところから来た人々です。すなわちその中心にいるのは宗教的な権威者たちです。
イエスという存在は、当時の宗教的な権威者にとっては、まさに脅威でした。皆がイエスに引きつけられていったからです。ナザレのイエスという御方は当時の宗教的な教師たちとは全く異なる存在でした。人々はイエス様を通して、宗教的な教えや戒律に触れたのではないのです。神の愛のリアリティに触れたのです。それゆえに多くの人々がイエス様に惹かれていきました。するとどうなりますか。それまで宗教的な権威と見なされていた彼らの立場は脅かされることになります。彼らがイエス様に敵意を抱いた理由の一つがここにあります。マルコによる福音書には、あからさまに、こう記されています。「(ピラトには)祭司長たちがイエスを引き渡したのは、ねたみのためだと分かっていた」(マルコ15:10)と書かれているのです。
しかも、人々が熱狂的にイエスに従うようになると、さらに困ったことが起こります。ローマ帝国に対する反乱と見なされる可能性があるからです。そのようなことにでもなればローマ人たちは軍隊を送り込んでくるでしょう。そのように彼らは宗教的にも政治的にも脅威にさらされていたのです。そこで大祭司カイアファはこう言ったのです。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(11:49‐50)。つまり、イエスを抹殺してしまえば済む話ではないか、ということです。そして、その後にこう書かれているのです。「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」(同53節)。
彼らは妬みと自己保身から一人の人間を抹殺しようとしていたのです。そのような彼らが、自らの正義を振りかざしてイエスを訴えている。それが今日お読みした場面なのです。イエスは悪だ。自分たちは正しい。そう言って訴えているのです。実際にはそこにウソがあるわけでしょう。その背後にあるのは醜い妬みと自己保身なのですから。
しかも皮肉なことに、こう書かれているのです。「彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである」(28節)彼らはイエスをなんとしてでも死刑にするためにローマの国家権力に訴え出ているわけですが、本音を言えばローマ人なんてイヌやブタと一緒だと思っているのです。ユダヤ人にとっては汚れた者なのです。汚れた者の住んでいるところに入れば自分が汚れてしまう。だから汚れないで過ぎ越しの食事をするために、総督官邸には入らなかったのです。
実に皮肉な描写ではありませんか。彼らは汚れることを避けているのです。しかし、他者を汚れた者と見なしながら、いかにも「われわれは清い人間だ」って顔していながら、自分の内にある醜い思い、汚れた心に気づかない。他人をイヌやブタのごとくに見下しながら、そういうことをしている自分の下劣さに気づかない。人を罪に定めながら、自分の罪に気づかない。それがここに描かれている人々の姿なのです。
しかし、これはまさにこの世のありのままの姿でしょう。私たちは、聖書が描き出すまでもなく、もうそういったウソで塗り固められた醜い現実をうんざりするほど見聞きしているわけです。そして、さらにうんざりすることは何かと言えば、そうやってこの世の有り様にうんざりしている私たち自身が、まさにそのような醜いこの世の一部になっているという事実でしょう。ここに描かれている姿は、誰か他の人々の姿なんかじゃない。他ならぬ私たち自身の姿でもあることを私たちは良く知っているのです。
そんな私たちに、今日の聖書箇所は何を伝えてくれていますか。そんな醜いこの世界のただ中に、うんざりするような人間の醜さのただ中に、キリストが立っておられる。救い主が立っておられる。それが今日お読みしている場面なのです。そこでイエス様はこう宣言されるのです。「わたしの国はこの世に属していない」と。そうです。イエス様はこの世に属さない、この世の一部ではない、もう一つの王国ことを語られたのです。
真理の支配する国
しかし、その場面を想像してみてください。その言葉はピラトには相当滑稽に聞こえたに違いありません。それはそうでしょう。イエスは「わたしの国」について話しているのです。それは「わたしの王国」という言葉なのです。ボロ雑巾のようにされて、縛られて、訴えられて、殺されようとしている無力な男が、「わたしの王国」について語っているのです。ですからピラトは言ったのです。「それでは、やはり王なのか」と。それは明らかにバカにして言っているのです。それに対してイエス様はお答えになりました。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」と。
実は、細かいことになりますが、これは「わたしが王だとは、あなたが言っているのであって、実際にはそうじゃない」という意味ではないのです。この言葉は、「わたしが王であるとは、あなたが言うとおりだ」とも訳せるのです。「わたしの王国」について語っておられたのですから、ここでもやはりイエス様は自らが王であると主張しておられるのです。
しかし、イエス様は自らが王であることを語られた上で、こう続けられました。「わたしは真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」(37節)。そのようにキリストの王国は、真理によって形づくられるのです。そこで問題となるのは何ですか。「真理とは何か」ということでしょう。ですから、ピラトも尋ねているのです。「真理とは何か」と。
皆さん、真理とは何ですか。実はこの「真理」とは、ここにいる私たちにとっても、生々しい身近な話なのです。というのも、ここでいう真理とは「見せかけのもの」に対する「見せかけでない本物」、「嘘や偽り」に対する「嘘や偽りではないもの」を意味する言葉だからです。ですからさらには、本当に信頼できるもの、本当に大丈夫と言えるものを意味する言葉でもあるのです。ですから「真実」と言った方が良いのかもしれません。
ならば私たちにとって、これは本当に身近な話なのです。なぜなら、先に見たように、私たちはうんざりするほどのウソや偽りに満ちた世界に生きているからです。そのような世界のただ中にイエス様は立って言われるのです。「真理について証しするために生まれ、そのためにこの世に来た」と。
いったい何が真実なのか。いったい何が見せかけでない本物なのか。いったい何が本当に偽りではないと言えるものなのか。いったい何が本当に信頼できる真実なるものなのか。イエス様は何を証しするためにこの世に来られたのでしょうか。――それは神の愛なのです。嘘と偽りに満ちたこの世を、罪と汚れに満ちた私たちを、それでもなお愛して赦して受け入れくださる、その神の愛なのです。神の愛という、唯一真実なるものを証しするためにイエス様は来られたのです。
イエス様は神の愛をどのように証しなさるつもりだったのでしょう。それがこの先に書かれているのです。十字架にかかることによってです。私たちの罪の贖いとして十字架にかかることによってなのです。私たちのために血を流し、命を与えることによってです。ですから、ヨハネはその手紙において次のように語っているのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(1ヨハネ4:10)。その意味でキリストは神の愛そのものです。
その御方が、もう一つの王国について語っておられるのです。目に見えるこの世界のただ中に、この世に属さない、目に見えない王国が到来しているのだと言っておられるのです。見せかけではない愛、嘘や偽りではない愛、決して変わらない真実なる愛、神の愛の王国が到来しているのです。神の愛そのものであるキリストと共に到来しているのです。そして、私たちはそこに招かれたのです。もう一つの王国に生きるようにと呼び集められて今ここにいるのです。
ならば私たちは、この世に満ちる嘘や偽りだけを見て、人間の不真実だけを見て、絶望する必要はないのです。この世の罪だけを見て、他の人や自分自身の罪だけを見て、絶望する必要はないのです。神の真実はこの世の不真実よりも強いからです。神の愛はこの世の罪よりも強いのです。キリストが十字架において証ししてくださった永遠なる真理、永遠に真実な神の愛の方が強いのです。私たちはただひたすら、キリストが証ししてくださった神の愛を信じて生きるのです。神の愛の支配の中にあって、真実なる神の愛に信頼して共に生きて行くのです。そのようにして、私たちは、この世のただ中にあって、もう一つの王国に生きるようにと招かれているのです。
2023年11月22日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 2:1~10
出エジプト記 2:1-10
1章に書かれていたのは、イスラエルの先祖であるヤコブとその一族がエジプトに移住しまして既に四百年以上経った頃のことでした。その頃既にイスラエル人(ヘブライ人)は、エジプト人が無視できないほどに増え広がっていました。エジプト人は外来の民の増加に危機感を覚え、イスラエル人の増加をくい止めるため、彼らに苛酷な強制労働を課しました。しかし、イスラエル人は虐待されればされるほど、ますます増加していったのです。そこでついにファラオは恐るべき命令を下します。先週お読みしました1章22節にはこう記されていました。「ファラオは全国民に命じた。『生まれた男の子は、一人残らずナイル川にほうり込め。女の子は皆、生かしておけ』」。モーセという人物が生まれたのは、実にそのような暗黒の時代、悲しみと嘆きに満ちた時代でありました。
今日は2章に入ります。聖書はモーセの誕生の次第を次のように伝えています。「レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた」(1‐2節)。
生まれてきたのは「男の子」でした。王の命令によるならば、その子は死ななくてはなりません。しかし、母はその子を王の命令どおりにナイル川にほうり込んで殺しませんでした。三ヶ月の間隠しておいたと書かれています。かわいい我が子を殺すことは忍びない。当たり前の話ではありますが、彼らが子どもを隠したことを単なる親の情として読んではなりません。これは1章の続きなのです。
1章にも、王の命令に従わなかった人たちが出て来たことを思い起こしてください。ヘブライ人の助産婦たちです。王は彼女らに命じました。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子どもの性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ」。しかし、彼女たちは従いませんでした。どうしてでしょうか。「助産婦はいずれも神を畏れていたので、エジプト王が命じたとおりにはせず、男の子も生かしておいた」(1:17)と書かれています。
つまりこの助産婦たちにしてもモーセの両親にしても、神を畏れていたので、エジプトの王に従わなかったという話なのです。言い換えるなら、彼らはまことの支配者が誰であるかを知っていたということです。それは神なのであって、エジプト王ファラオではないということなのです。生命は神の支配のもとにあるのであって、王の支配のもとにあるのではないことを、それゆえに人間が勝手に処理してはならないということを、彼らは認めていたのです。彼らは神を畏れるゆえに、王の命令よりも命を守ることを重んじたのです。それゆえに、ヘブライ人への手紙には次のように書かれているのです。「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです」(ヘブライ11:23)
しかし、いくら「信仰によって」と言いましても、奴隷の民の一夫婦の為しえることなどたかが知れています。彼らにできることは、せいぜい赤ん坊を隠すことぐらいでした。それも三ヶ月ほどのことです。三か月後には、隠しきれなくなりました。モーセを三か月間隠しておいた両親は、ついにモーセを手放すべき時が来たことを悟ります。彼らはアスファルトとピッチで防水したパピルスの籠に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置きました。子どもの運命を神の手に委ねたのです。
信仰のゆえに手放してはならぬ時があります。信仰のゆえに、決して諦めてはならない場合があるのです。その時、人は信仰によって、ありとあらゆる手だてを用い、為しえる最大限のことをしなくてはなりません。しかしまた、信仰によって手を放し、神に委ねなくてはならない時があるのです。手放さないにせよ、手放すにせよ、いずれにせよ、大切なことは、それを信仰によって為すということです。すなわち、まことの支配者なる神への畏れと信頼をもってそれを為すということが重要なのです。
さて、事態はどのように展開していったでしょうか。ナイル河畔の葦の茂みに置かれた赤ん坊の籠を、姉のミリアムが遠くから見守っていました。すると、折しもそこにファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来たのです。よりによって、命令を下した王の娘がやってきたのです。しかも、その王女によって、いともたやすく葦の茂みの間に置かれていた籠は見出されてしまうのです。人間の目から見れば、これは最悪の展開です。
しかし、神はしばしば最悪の展開をさえ用いて、事を先に進められるのです。王女は仕え女をやって籠を取ってこさせました。開けてみるとそこには赤ん坊がおり、泣いていました。王女の内に憐れみの情が起こりました。「王女はふびんに思い」と書かれています。そして、彼女は言いました。「これは、きっとヘブライ人の子です」と。
するとその子の姉は、すかさず近づいて王女に申し出ました。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」王女はこの申し出を快く受け入れました。そして、娘が連れて来たのは、なんとその赤ん坊の実の母親であったのです。王女は言います。「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ませておやり。手当はわたしが出しますから」。赤ん坊の養育は王女の出費でまかなわれ、しかもその子は実の母親に育てられることになりました。
外から見れば、単なるラッキーな話でしかないかもしれません。あるいは「そんなうまい話があるものか」と思う人もいるでしょう。しかし、信仰によって決断し行動し、すべてを神にゆだねたモーセの両親は、これを単なる幸運として受け止めることはなかったに違いありません。この出来事に、まさに神を畏れ、震えを覚えたに違いないのです。
信仰による行動を通して、人は生ける神の御手に触れるのです。そして、生ける神の御手に触れた人は、ただ「ああ、よかった」では終わらないのです。モーセを再びその腕に抱くことができた母親は、ただ喜んでいただけではなかったはずです。そこにおいて神から与えられた責任と務めを考えざるを得なかったに違いないのです。すなわち、与えられたのは《子どもそのもの》ではなくて、《子どもを育てる責任と務め》であることを、深く受けとめたに違いないのです。
それは、彼女が王女からあずかったモーセをどのように育てたか、ということからも分かります。王女が彼女に言ったのは、「わたしに代わって乳を飲ませておやり」という言葉でした。その男の子はファラオの王女に拾われたのであって、いわば既に王女の子となるよう定められているのです。しかしモーセの母は、徹底してモーセを、あくまでも生ける神に仕えるヘブライ人として育てたのです。
それは後の11節を読むと分かります。モーセは王女の子として、成人するまでエジプト人として教育を受けてきたはずなのです。しかし、そのように育った王女の子として成人したにもかかわらず、モーセはヘブライ人たちを同胞として見ているのです。彼はあくまでも神を畏れるヘブライ人として生きているのです。
そのように、この母親はモーセの養育を神から与えられた務めとして受けとめたのでした。そして、神から与えられた務めを全うした時、再びこの母親は神の御手にその子を委ね、その子を手放すのです。「その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった」(10節)と書かれているとおりです。そして実は、このことによって、歴史上本来起こり得ないことが実現することになったのです。
エジプトの王女の子として教育を受け、エジプトの宮廷と社会事情に精通した者となることと、ヘブライ人として信仰を受け継ぐこと――この二つはどう考えても同時に成り立つはずはないのです。しかし、神はこのことを実現されました。それは後の展開のためにどうしても必要だったからです。神はこのモーセを用いて、イスラエルの民をエジプトから導き出そうとしておられたのです。すなわちこのモーセは、後にエジプトの王と交渉をし、イスラエルの民をエジプトから導き出す人となるのです。そのためにモーセは、エジプトの宮廷の人間であり、同時に信仰を受け継いだヘブライ人である必要があったのです。「エジプトの王女の子であるヘブライ人」などというものは、本来歴史上に現れるはずがないのです。そのような歴史上に現れるはずのない人物を、神はこの一連の出来事を通して準備されたのでした。このように、神は人の目から見て最悪の時代における最悪の展開をも用いて、御自身の御業を進められるのです。
2023年11月19日日曜日
「命のパンであるキリスト」
ヨハネによる福音書 6:30-35
「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6・35)。今日読まれましたイエス様の御言葉です。
精神的なパンではなく
「わたしのもとに来る者は決して飢えることがない。」イエス様がこう言われたのは、実際に飢えている人がいたからです。飢えている人や渇いている人がいないなら、このような言葉は意味を持ちません。
確かにイエス様の周りには「肉体的に飢えている人」が少なくなかったに違いありません。当時のユダヤ人社会は決して経済的に豊かな社会ではありませんでしたから。イエス様は人々が空腹であることを心に留められました。そんな話が6章の前半には書かれています。イエス様が五千人以上もの人にパンと魚を与えたという奇跡物語が書かれているのです。現実にどのようにパンを与えたのかは良く分かりません。まさに奇跡としか言いようがない。しかし、ともかく大群衆は空腹を満たされました。そして、パンを与えてくれたイエス様の後を追いかけたのです。
そのような人々を前にして、イエス様は「わたしのもとに来る者は決して飢えることはない」と言われました。しかし、イエス様は追いかけてきた群衆に、「同じ奇跡を行って、いつもパンを出してあげるよ」という意味でそう言ったのでしょうか。まさかイエス様の言葉をそのように理解する人はいないでしょう。どう考えても、イエス様は単純に肉体的な飢えや渇きのことを語っているのではない。それは子どもでも分かることです。
そうしますと私たちはすぐにこう考えるわけです。イエス様は、肉体的な飢えや渇きのことを言っているのではなくて、精神的な飢えや渇きについて語っておられるのだ。確かに、私たちに必要なのは、精神的な満たしであり、精神的な渇きが癒されることだ、と。
しかし、私たちはイエス様の言葉を注意深く聞かなくてはなりません。イエス様は「わたしが命のパンである」と言われたのです。イエス様は、「わたしは精神的なパンを与える」と言っているのでも、「わたしが精神的なパンである」と言っているのでもないのです。
皆さん、「精神的なパン」ならば、ある意味では、この世にいくらでもあるのです。精神的な満足感や充実感を提供するものはいくらでもあるのです。そのために人はお金を出し、早起きもし、遠いところにも足を運ぶのです。しかし、そのような「精神的なパン」についてなら、何も今さらイエス様が語る必要はありませんでした。高度に文化的であった当時のギリシア・ローマ世界には、精神的なパンはいくらでもあったはずですから。なので、イエス様は御自分がそのような精神的な必要を満たすパンであるといわれたのではないのです。「命のパンである」と言われたのです。
命のパン
では「命のパン」とは何でしょう。33節で主はこう言っておられます。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」(33節)。そのように「命のパン」とは、「命を与えるパン」という意味です。
しかし、「天から降って来て、世に命を与えるパン」というのは、私たちに全く馴染みのない言葉です。天からパンが降るのを見たことありますか。ないだろうと思うのです。私もありません。しかし、これを聞いていたユダヤ人たちにはピンと来るものがあったはずです。というのも、旧約聖書の中に、天から降ってきたパンの話が出てくるからです。今日の聖書箇所において、彼らはこう言っています。「わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」(31節)。
イスラエルが荒れ野を旅した時の話です。イスラエルの人々が空腹を訴えた時、神様はモーセを通して、「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。」(出16:4)と言われ、マンナ(マナ)という不思議な食べ物を与えられたのです。こうして彼らは天からのパンによって養われ、旅を続けることができました。その意味において、確かに、神のパンは天から降って来て命を与えた、と言えるでしょう。彼らはマナによって生き延びたのですから。
しかし、神様がイスラエルに天からのパンであるマンナを与えたのは、ただ単に彼らの肉体的な飢えを満たすためではなく、精神的な満足感や充足を与えるためでもなかったのです。そうではなくて、日々神を仰ぎ、神に信頼して生きる生活を与えるためだったのです。ですから、主は彼らが「毎日必要な分だけ集める」ことを求めたのです。ストックしてはならないのです。毎日、神様からいただくのです。そして、毎日神様に感謝する。その神様に信頼して生きていく。そのように神と共にある生活、神との交わり、それこそが彼らに与えられた命だったのです。
確かに、食べ物によって肉体の生命が維持されることも大事です。しかし、肉体の命を維持するためのパンは、いつか最後には意味を失うのです。人は誰でも人生の最後には食べられなくなるのですから。また、精神的に充足して生きられることはすばらしいことです。この世が提供する精神的なパンをいっぱい食べることは必ずしも悪いことではありません。しかし、そのような精神的なパンでさえ、人生の最後には意味を失うのです。ならば最後に残るのは何でしょう。永遠なる神との関係です。人間にとって最終的に意味を持つのは、永遠なる神との関わりであり交わりです。それこそが人間にとっての「命」なのです。ですからこの命はまた「永遠の命」とも呼ばれているのです。
人間が救われるためには、この命が与えられなくてはならないのです。「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と主は言われました。この世は天からのパンを必要としています。世に命が与えられなくてはなりません。この世は神との交わりを失った世界だからです。この世に生きる私たちに、どうしても必要なのは、神との交わりなのであり、神との交わりをもたらす「命のパン」なのです。
わたしが命のパンである
そこでイエス様は御自分を指して、こう言われたのでした。「わたしが命のパンである」と。イエス様は、「あなたがたには命のパンが必要だから、わたしが与えてあげよう」と言われたのではないのです。「わたし自身が命のパンなのだ」と言われたのです。
イエス様御自身が「命のパン」であるとは、どういうことでしょうか。パンというものは、歯でかみ砕かれて、飲み込まれて、消化されることによって命を与えるのです。言い換えるならば、パンは自らを与えることによって、自らが犠牲となることによって命を与えるのです。イエス様が言っておられたことは、この後、十字架において実現しました。私たちの罪が赦され、神との交わりに入れられ、永遠の命が与えられるために、主は私たちの罪を代わりに担い、十字架において死んでくださったのです。
そのように、イエス様は御自分を与えることにより、私たちに命を与える「命のパン」となってくださったのです。しかし、ここで当たり前の話ですが、パンは口に入れられ食べられてこそ初めてパンとしての意味を持つことになります。ですから、今日の朗読箇所には含まれませんが、後にもっとはっきりと次のように語られているのです。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」(51節)。
「食べる」という言葉によって表現されているのは「信仰」です。そのように「信じる」ということが「食べる」という言葉で表現されている。そこには大きな意味があります。「信じること」と「食べること」は良く似ているからです。
私たちは誰かの代わりに食べるということはできません。自らそれを受け取り、口に運び、かみ砕いて飲み込まなくてはなりません。食べ物は自分のための食べ物として自分で食べるのです。そのように、信仰においても、他ならぬ私が信じるのです。誰かが代わりに信じることはできません。キリストは確かに全人類のために十字架にかかってくださいました。しかし、キリストを信じる時、私たちはそのキリストの十字架を他ならぬ「わたしの罪の贖い」「わたしの罪の赦し」として感謝して受け取るのです。ちょうどパンを食べるようにです。
さらに言うならば、パンを食べるということは一回限りのことではありません。キリストが「命のパン」ならば、そこで考えられているのは一回だけ食べることではなく、食べ続けるということです。実際、「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」と言われた時、「来る者」も「信じる者」も継続を意味する表現が用いられているのです。そのように「入信」はある一点での出来事かもしれませんが信仰生活において重要なのは継続です。それを目に見える形で表しているのが、繰り返し行われる聖餐なのです。
そのように信仰生活は「食べ続ける」ことです。それはまた、信仰に生きるということが最終的には他の人の責任にできない、自分自身が主の御前で問われる厳粛なことであるという意味にもなります。信仰において誰かが妨げになりました。誰かが反対しました。迫害しました。あるいは誰かがつまずきになりました。それは最終的には問題ではありません。最終的には本人が食べたか、食べ続けたかということが決定的に重要なこととなるのです。
そして、事実、誰が妨げようが、物質的なパンを奪われようが、精神的なパンを奪われようが、この世の命を奪われることになろうが、「命のパン」を食べ続けた人たちがいたのです。その人々によって、福音は私たちのところにまで伝えられてきたのです。
「わたしが命のパンである」。イエス様は私たちの救いのために天から降って来てくださいました。イエス様は私たちの救いのために御自身を「命のパン」として差し出してくださいました。私たちの罪を贖い、永遠の命をもたらす「命のパン」として御自身を差し出してくださいました。そのパンを食べるのはわたしであり、あなたです。食べ続けるのはわたしであり、あなたなのです。
2023年11月15日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 1:1~22
出エジプト記 1:1-22
本日から出エジプトの物語を読み始めます。1章から20章までを予定しています。今日はまず、出エジプト記に入る前に、創世記とのつながりについてお話ししておきます。
創世記も出エジプト記もいわゆる「モーセの五書」の一部です。モーセの五書とは創世記から申命記までで、ユダヤ人はこれをトーラー(律法)と呼びます。その内容は、天地創造から約束の地、カナンの地に入るまでです。
しかし、五書全体を見渡しますと、時間的な圧縮具合が均等ではないことに気づきます。一番圧縮されているのが創世記1~11章です。世代としては19代にわたる物語が11章に圧縮されて語られています。次に圧縮されているのが創世記12章から終わりまでで、ここにはアブラハムからヨセフまでの4世代の話が書かれています。これを族長時代と言います。続く、出エジプトから申命記までは4冊あるのですが、ここは世代としてはモーセ一代の話です。
このように見ますと、一番ページ数を割いているのは単純に考えてモーセ一代の話です。モーセ五書というまとまりの中では、一番伝えたいことはモーセに関する話だということが分かります。
結論から言ってしまうと、一番重要なこととして語られているのはエジプト脱出と、その後にシナイにおいてなされる神との契約なのです。特に後者が重要なのであって、アブラハムからヨセフまでは、あえて言うならば「前置き」なのです。そして、創世記の最初の11章(「原歴史」と呼ばれます)はその前置きの前の特別な部分と言えるのです。
そのように、出エジプト記以下の全体の流れとしては、エジプト脱出、そしてシナイ山へ、さらに十戒が与えられ神との契約へと続きます。そして、これらを経て、主を礼拝し、主に仕える契約の民としての「神の民」が生まれることになるのです。そして、ここで重要なのは、「あくまでも、恵みが先である」ということです。彼らは律法を守ったから救われたのではありません。出エジプトという神の恵みによる救いが先にあるのです。その救いに基づいて律法が与えられているのです。言い換えるならば、出エジプト、奴隷状態からの解放がゴールではないのです。救い自体がゴールではない。神の民とされて、約束の地に向かうという、その目的に向かっての出エジプトであり救いなのです。
さて、以上のことを踏まえた上で、今日の箇所に入ります。今日の箇所の第一のポイントは「奴隷状態」ということです。
創世記15章において、主はアブラハムに二つの約束を与えられました。一つは「あなたの子孫は星の数ほどになる」ということです(創世記15:5)。もう一つは「わたしはあなたにこの土地(カナンの地)を与え、それを継がせる」(創世記15:7)です。確かに、子孫は増え広がって、第一の約束は実現に向かっています。しかし、まだ「この土地を与える」の部分は実現してはいません。しかし、そこに向かって神の計画は進んでいるのです。そして、この神の計画が進んでいく途中に、今日お読みした「奴隷状態」という苦難が置かれているのです。
言い換えるならば、苦難があるということは、これは異常な状態ではない、ということなのです。神の御計画の完成、救いの完成に向かう途中に、いわば初めから盛り込まれているものなのです。それは創世記15:13以下に次のように語られていることからも分かります。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう。・・・」
この苦難の中において、まさに神の大いなる御業を見ることになるのです。実際、1章7節までのところには、神様への言及はまったく出てきません。神様と具体的に触れ合うことになるのは8節以下なのです。
いや、それだけではありません。神の御業だけでなく、神の愛に触れる接点が、この奴隷状態だったのです。だから、奴隷であったことをイスラエルは忘れませんでした。というよりも、神様によって繰り返し思い起こさせられたのです。例えば、申命記7:7、エゼキエル16:4-5に記されているとおりです。奴隷状態、惨めな状態、苦しみあえいでいた無力な状態であったということを思い起こさせられているのです。
そのように苦難を受けたり、低くされたり、小さくされたり、無力さを思い知らされたりする状態を異常な事態と思ってはならないのです。本来あるべきでないもの、あってはならないことと思ってはならないのです。
そのことを念頭に置いた上で、「ヨセフのことを知らない新しい王」の登場に目を向けましょう。次のように書かれています。「そのころヨセフのことを知らない新しい王が出てエジプトを支配し」(8節)。ここに神ならぬエジプト王の支配について書かれています。その王の支配は、イスラエルの「増加を食い止めよう」とするのです。
既に見てきましたように、「増加」は神の約束に基づくものです。言い換えるならば、神のご計画に従って進んでいるのです。そこでエジプトの支配は、いわば神の祝福、神の計画に逆らう力として描かれていることが分かります。つまりエジプトというのは、神の意図に逆らって動き、神に代わって支配しようとする「この世」を象徴しているのです。
エジプトそのものは、当時においては最も豊かな世界です。ナイル川の定期的な氾濫によって潤っている豊かな世界です。しかし、それは神の計画に逆らう世界であり、その中にイスラエルはいたのです。その一部としてそこにいたのです。
しかし、そこはイスラエル、神の民が最終的に属するところではありません。神の約束はカナンの地にあるのです。エジプトは彼らが属する場所ではないのです。イスラエルは図らずもそのことを思い知らされることになるのです。何によってですか。苦難によってです。この世から苦しめられることによってです。
この世において、この世から苦しめられることは、神の民にとって本当はとても大きな意味を持っているのです。そうでなければ私たちは、私たちはこの世のものを追い求め、この世こそ最終的に求めるべき目的だと思ってしまうのでしょう。しかし、そうではないと神は言われるのです。イスラエルはあくまでもこの世においては寄留者なのです。そして、彼らは苦難を経ることによってそのことを痛感することになるのです。
その意味でも、苦しみ、この世における苦しみは大きな意味を持つのです。そうでなければ人はこの世に属さないものを求めない。永遠なるもの、また神御自身を求めないし、神が約束している救いの世界を求めることはないからです。
さて、エジプトの王は、虐待してもイスラエルが「虐待されればされるほど彼らは増え広がった」という現実に直面することになります。そこで王はついに間引き政策を採ることにしました。王はヘブライ人の助産婦に「「お前たちがヘブライ人の女の出産を助けるときには、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ」と命じたのです。
子どもが殺されるということは、民にとっては未来を奪われることを意味します。それは希望を失うということでもあります。しかし、そのような中で希望を失わない人たちがいたのです。それがかのヘブライ人の助産婦たちでした。彼らは、自分たちができることを、希望をもって行いました。それはなぜか。「助産婦はいずれも神を畏れていたので」(17節)と書かれています。神を畏れるとは、具体的には「王の命令に従わなかった」ということでした。それは本当の支配者が誰であるかを彼らが知っていたということなのです。本当の支配者は、主なのであり、エジプト王ではない。それゆえに「王の命令に従わなかった」のです。
興味深いことは、ここでエジプト王の名前が記されていないことです。だから時代が分からないのです。「ピトムとラメセスを建設した11節)ということで、歴史的にはラメセス2世の治世であろうとは言われています。しかし、聖書はあえて彼の名前は記さないのです。それと対照的なのは、無力な助産婦の名前が記されているということです。彼らの名前は世々に告げ知らされることになるのです。この世における超大国の支配者よりも、彼らの方が、神から見たらよほど重要であり大きな存在だからです。
そのように、イスラエルのエジプト脱出とは、二人の助産婦だけではなく、民全体が主の支配を目の当たりにし、主を畏れ、主を礼拝して生きるようになるためのエジプト脱出だったのです。
2023年11月12日日曜日
「あなたは祝福の源となる」
創世記11:31-12:9
わたしが示す地に行きなさい
今日お読みしましたのはアブラハムという人の話です。彼の名はもともとアブラムと言いました。アブラムは父テラと共にカルデアのウルというところに住んでいました(11:31)。ウルは古代メソポタミアにあった都市国家です。そこから父親のテラは家族を連れてユーフラテス河を800キロほど遡り、ハランに移り住みます。
なぜテラが家族を連れてウルから800キロも離れたハランに移り住んだのか理由は定かではありません。いずれにせよ、それは父テラの意志によるのであって、息子のアブラムの意志によることではなかったことは明らかです。「テラは、息子アブラム…を連れて、カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった」(11:31)と書かれているとおりです。
しかし、面白いことに、この話を15章まで読みますと、そこで主はアブラムにこう言っておられるのです。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である」(15:7)と。つまりウルから導き出したのは父親のテラではなく、神様なのだと語られているのです。つまり、アブラムと神様との関わりは、アブラムのあずかり知らぬところで、既に始まっていたということです。アブラムは神によって導き出されたのです。
私は今、頌栄教会の牧師をしています。しかし、そもそも私と教会との関わりは私のあずかり知らぬところで既に始まっていました。私の両親がキリスト者であり、私は母親のお腹にいる時から教会に行っていたからです。今日、ここにお集まりの方の中には、最初は親に連れられて教会に行ったという人が少なくないことでしょう。ちょうどテラに連れられてアブラムがウルからハランに移り住んだように。しかし、聖書の見方によるならば、教会に連れてきたのは親ではなく神様だったということになるのです。
あるいはキリスト者の家庭ではなく、どこかで意を決して教会に足を運んだという人もあるでしょう。しかし、全く何の脈絡もなく教会に行く人はおりません。その前にきっかけなり出会いなりの備えが必ずあったはずです。しかし、聖書の見方によるならば、それは人によるのではなく、神様によるのだ、ということになるのです。
しかし、そのようにアブラムのあずかり知らぬところで既に関わっておられた神様だったのですが、ある時点でアブラムに出会われこう語りかけたというのです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」(12:1)と。
神様はアブラムに旅に出ることを求められたのです。しかも、「わたしが示す地に行きなさい」と言うのです。言い換えるならば、神の導きに従って旅をしなさいということです。それは、どこまでも私に信頼して生きていきなさい、ということに他なりません。先が見えるならば、目的地が分かっているならば、自分で計画を立て、自分を頼りに歩いていけます。しかし、「わたしが示す地に行きなさい」ということならば、示されるまではどこか分からない。先が見えないのです。先が見えないならば、ただひたすら神に信頼するしかありません。神様は、アブラハムに、そのような旅に出ることを求められたのです。
つまりこういうことです。確かにこれまで神様は共にいてくださいました。ウルからアブラムを導き出したのは神様でした。しかし、これからは自覚的に、意識的に、神に全幅の信頼を置いて、どこまでも神を信じて神と共に歩んでいく。そのような新しい人生の旅に出るようにと、神はアブラムに求められたのです。
実際、アブラムは文字通り旅をしながら生きた旅人であり、寄留者でありました。その人生そのものは、常に先が見えない旅であったと言えます。アブラハムの物語を読みますと、次から次へといろいろなことが起こってくる。しかし、考えてみれば、それは何もアブラムに限ったことではありません。私たち皆同じであるとも言えます。
しかし、意識的に自覚的に、旅を導いてくれる主に信頼して旅を進めるならば、旅の仕方は明らかに違ってまいります。どんなに希望なきところにおいても、なお望みを抱きつつ信じたアブラハムのことが、今日の第二朗読においても語られていました。人はそのように生き得るのです。
そのような自覚的に神に信頼して生きる新しい人生の旅を「信仰」と言い換えることもできるでしょう。そして、アブラムは自覚的に、意識的に、自らの決断をもって、信仰の旅への一歩を踏み出したのです。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」(4節)と書かれているとおりです。神との関わりは人間の知らないところで神から始まります。しかし、信仰生活への第一歩はそのように自分自身の足で、自分自身の意志をもって踏み出すところから始まるのです。
あなたは祝福となる
そして、アブラムに信仰を求められた神は、さらにアブラムにこう言われます。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(2‐3節)。
主はアブラムを「祝福する」と言われました。これは神の約束です。神はアブラムに信仰の旅に出ることを求めるだけでなく、彼に祝福の約束を与えられました。しかし、神が祝福すると言われるのは、単にアブラムのためではありません。主は「祝福の源となるように」と言われるのです。神はアブラムを「祝福の源」にしようとしていたのです。ちなみに「祝福の源」というのは意訳です。そこから祝福が溢れ流れていくようなイメージ豊かな良い訳ではあると思います。しかし、原文は「祝福となる」と書いてあるのです。「あなたが祝福になるのだ」ということです。
私たちがどこまでも神に信頼して生きていくのは、信仰の旅路を歩んでいくのは、単に私たち自身が祝福されるためではありません。私たちが祝福になるためです。この世界に与えられた祝福になるためなのです。私たちのこの身が、私たちが生きていることが、誰かにとっての祝福となるためなのです。
世の中には「わたしはやりたいことを十分にできました。わたしは十分に楽しみました。もう思い残すことはありません。」そう言って一生を終える人もいるのでしょう。そのような人をこの世では「幸せな人」と呼ぶのかもしれません。しかし、本当に幸せなことは、私たちが一生を終えた時に、あの人は私たちにとってまさに神からの祝福だったと思い起こされるような、そんな一生を送ることではないでしょうか。
そのために求められているのは何か。繰り返しますが、主は「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」と言われたのです。アブラムに求められたのは、そのことだけだったのです。神に全幅の信頼を置いて生きることなのです。祝福は人から出るのではありません。祝福は神から来るのです。だから私たちが誰かにとっての祝福となるとするならば、必要なことはどこまでも神に信頼して神と共に歩む人となることなのです。
その具体的な姿が、今日お読みした箇所に描かれています。そこで繰り返されているのは「祭壇を築いた」という言葉です。アブラムの住居は天幕です。簡単に立てたり、畳んだりできるテントです。しかし、祭壇はそうはいきません。彼はシケムに着いて、そこで祭壇を築いた。石を積み重ね、時間をかけて築くものなのでしょう。さらに、そこを発ってベテルの東の山に移り住んだら、そこにもまた重い石を積み重ね、時間をかけて祭壇を築くのです。
祭壇とは祈りの場所であり、礼拝の場所です。信仰生活とは祈りの生活であり礼拝の生活です。その祭壇を生活の中にしっかりと築いていくことです。どこに行っても、環境が変わっても、状況が変わっても、そこで常に祭壇を築いて生きていくことです。
そのように、信仰は観念ではなく具体的な形を持つのです。神に信頼して神と共に生きるということは単に頭や心の中のことではありません。アブラムにとって「旅に出る」という具体的な一歩があったように、また生活の中で具体的に築いた目に見える祭壇があったように、目に見える教会生活があり、目に見える洗礼式があり、目に見える聖餐式があり、目に見える祈りの生活があり、目に見える礼拝の生活があるのです。そのような具体的な旅をこの地上で進めながら、神の約束を信じ、神がこの世界に祝福をもたらすためにこの人生を用いてくださることを信じて生きていくのです。「わたしはあなたを祝福する。祝福の源となるように」と主は言われるのです。
今日は「子ども祝福礼拝」を共におささげしています。子どもたちの上に、心を合わせて神の祝福を祈り求めました。しかし、子どもたちの上に祝福を祈り求めるならば、何よりもまず、大人たちが、子どもたちにとっての祝福となることを求めるべきなのでしょう。そのためには、まず大人たちがしっかりと祭壇を築くことです。神と共に生きる生活、神に祈り、神を礼拝する生活をしっかりと築くことが必要なのです。祭壇が崩れてしまっているならば、もう一度築き直しましょう。
2023年11月8日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 13:18~25
ヘブライ人への手紙 13:18‐25
ヘブライ人への手紙も最後の部分となりました。今日はこれまで書かれてきたことを思い起こしながら、特に20‐21節に記されている祝福の祈りを私たちへの言葉として受け止めたいと思います。
まず心に留めたいのは、イエス様が「永遠の契約の血による羊の大牧者」と呼ばれていることです。既に述べられてきた「新しい契約」は、ここで「永遠の契約」と呼ばれています。最初の契約は一時的、暫定的なものに過ぎませんでした。それは「古びてしまったと宣言された」ものです。それに対して、新しい契約は永遠であり、決して変わらない関係であり、絶対に切れることのない絆です。その契約の中に私たちは置かれているのです。
それはまさに永遠に関わる決定的な出来事、イエスの十字架における死、を通して与えられた契約です。その契約の血は、動物の血ではなく、神の子が人間となって流された血です。古い契約の律法における動物犠牲は罪を本当に贖う効力はありませんでした。それはやがて来るべきものの影に過ぎませんでした。それは真に罪を贖うことのできるキリストの体、また契約の民を完全に清めることのできるキリストの血を指し示していたのです。
その犠牲については、「ただ一度」「唯一の」犠牲であることが繰り返し語られていました。「しかしキリストは、罪のために唯一の犠牲を捧げて、永遠に神の右の座に着き…」(10:11)。唯一ですから、二つ目はないということです。ただ一度のことですから、二度目はありません。すなわち、永遠に効力を持つ犠牲であるということです。
その永遠なる犠牲の血が流されたわけですから、キリストはその献げ物によって「聖なる者とされた人たちを永遠に完全なものとなさった」(同14節)のです。すなわち、神との関係が完全なものとされて、もはや神との間を隔てるものはない、ということです。このようにして、あのエレミヤを通して語られていたことが実現したのです。「わたしは、彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない」(8:12、エレミヤ31:34の引用)。
この「永遠の契約の血」という言葉の重みを知るためには、私たちは自分の置かれている立場をきちんと理解しなくてはならないと以前申し上げました。新しい契約が有効であり、罪の赦しが有効でなければ、私たちは自分自身で自分の罪を負い、自分一人で裁きの座において自らの弁明をしなくてはならないということでもあるのです。それはいかに恐るべきことであるか。私たちは、この新しい契約がイエスの血によって永遠に有効なものとされたことの重みを改めて感じる必要があるでしょう。
さて、そのように「永遠の契約の血」と語られているわけですが、それに続くのが「羊の大牧者」であることは、少々意外な気がしなくもありません。本来ならば、血について語られたわけですから、その血によって神の御前において執り成しをしてくださる「大祭司」が来るのではありませんか。実際、「大牧者」については、これまで全く語られてはいないのです。
しかし、これには恐らく大きな理由があるのでしょう。その直前の18節以下には、「わたしたちのために祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください」と書かれています。「帰れるように」と言われているように、この著者はこれを読んでいる群れの一人であり、その牧会的な責任を負っている人であることが分かります。
それはこの手紙の内容からも想像できることです。22節にも「以上のような勧めの言葉を受け入れてください」と書かれていますが、この「勧めの言葉」とは要するに説教です。この手紙は、通常の書簡というよりは、書かれた説教であると言えるでしょう。彼はこの説教を通して、遠隔の地から牧会的な務めを果たしているのです。
ではこの時に彼らの牧者はいないのかと言うと、決してそうではなく、17節にも「指導者たち」に言及されていますし、彼らは「あなたがたの魂のために心を配っています」と語られているのです。しかしこの著者は、そのように指導者たちについて語った後、しかし彼らが今仰ぐべき真の牧者がいることを思い起こさせているのです。それこそが「永遠の契約の血による羊の大牧者」である主イエスだと言っているのです。
頌栄教会にも牧師が立てられています。牧師は牧師としての務めを果たします。しかし、私たちにおいても、牧師も信徒も忘れてはならないことは、私たちには常に最高の大牧者がいるということです。自ら犠牲となって契約の血を流し、また自ら大祭司として私たちのために執り成していてくださる方、その御方が聖霊の働きを通して私たちを牧会してくださるのです。この御方こそ、羊のことを誰よりも心にかけていてくださる羊飼いです。
私たちはこの御方に養われ、この御方に導かれながら、天の故郷へと向かうのです。既に永遠の御国は与えられ、神の安息に与ることが約束されている私たちが、なおも闘い多きこの時の間を旅する間、かつてイスラエルの民が羊の群れのようにモーセとアロンに導かれたように(詩編77:21)、それにもまさるイエス様によって私たちは導かれていくのです。イエス様は「信仰の創始者また完成者」(12:2)なのですが、以前申し上げたとおり、「創始者」とは「先導者」という意味でもあるのです。
そしてさらに私たちは、「平和の神が、御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように」と書かれていることを心に留めましょう。
私たちには大牧者なるイエス・キリストがおられるということは、ある意味では私たちは弱くても大丈夫だということです。羊は弱くても羊飼いが強ければ大丈夫。「主我を愛す。主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ」というのは、確かに真理です。しかしもう一方において、聖書は羊飼いのもとにある私たち自身もまた強くなれるのだ、とも語っているのです。
12章の終わりには、「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」と語られていました。そして、それが具体的にどういうことかを13章前半において見てきました。私たちはこの地上に永続する都を持っていません。ですから「わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」と勧められているのです。
そのように、この地上において御心を行って生きていくことは確かに困難なことであるに違いありません。しかし、「私たちは弱いからできません」と言う必要はないのです。神御自身が「御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えてくださる」と言うのです。
これは「完全にする」とも訳せる言葉です。そこには完全に装備することや修復することが含まれています。神がそのようにしてくださる。その神とはどのような御方かと言えば、「主イエスを、死者の中から引き上げられた」神だと言うのです。「引き上げる」という表現は、通常の復活を表す表現よりも、より強く神の力を表している表現です。そのような方が、私たちに必要な装備と修復を与え得ないはずがありません。
そして、この著者は「あなたがたに備えてくださるように」と言っています。これは祈りです。そのように、これは私たちが単純に神に求めるべきことである、ということを示しているのです。
さて、このようにヘブライ人への手紙を読んでまいりました。この著者は「どうか、以上のような勧めの言葉を受け入れてください」と言っています。大切なことは、これまで聞いてきたことを、私たち自身も自分への語りかけとして受け入れることであろうと思います。そのように、ここに書かれていることを本当に受け入れるならば、私たちの信仰生活は大きく変わっていくに違いありません。
2023年11月5日日曜日
「裁くためではなく、救うために」
ヨハネによる福音書 3:13-21
神は世を愛された
今日福音書朗読で読まれた聖書の言葉の内、特にヨハネによる福音書3章16節は聖書の中で最も愛されている言葉の一つです。そのまま暗唱している方も多いことでしょう。
そこには「神は世を愛された」と語られていました。 「世」とは何でしょうか。その意味するところの第一は、「すべての人」ということです。神様は特別なひとを愛されたのではありません。「神様は信心深い人を愛して下さった」とは書かれておりません。「神様は善良な人、正しい人を愛して下さった」とも書かれてはおりません。「神は世を愛された」のです。その「世」に含まれない人は一人もいません。
さらに、ヨハネによる福音書が「世」という時、そこには特別な意味合いが込められています。「世」とは神に造られ、神に支えられているのにもかかわらず、神に背を向けているこの世界のことです。すべてを神にいただいているにもかかわらず、神に感謝することなく、むしろ神に背いている世界、罪に汚れたこの世界のことを意味するのです。
いや、漠然と「この世界」というよりも、むしろ私たち一人一人、罪深い人間のことと言って良いでしょう。神様の御旨に背くことばかり行い、神様のお心を悲しませ、ある時は無関心を決め込み、ある時はあからさまに反抗している、そんな私たちのことです。そのような私たちを、それでもなお神は愛してくださったのだと聖書は言うのです。「神は世を愛された」のです。
それが何を意味するのかは、愛を拒絶されたことのある人なら、感覚的に分かるのかもしれません。自分の子どもであれ、親であれ、あるいは恋人であれ、自分が特別に愛する人に背を向けられるならば、拒絶されるならば、そこには大きな痛みが伴うことでしょう。どんなに愛していたとしても、相手からは愛されない。背を向けられ、無視され、時にはあからさまに反抗され、あるいは裏切られる。そこにおける悲しみ、苦しみ、心の痛みそのような痛みを思い起こすならば、ここに書かれていることの意味もまたおぼろげながら、見えてくるだと思うのです。
「神は世を愛された」。神は、自分を無視し、自分に背を向け、自分に敵対する「世」を愛されたのです。私たち人間が、神にとってどうでも良い存在ならば、私たちが背を向けようが無視しようが反抗しようが痛むことはないでしょう。滅ぼしてしまえばそれで終わりです。しかし、神にとって私たち人間はそのような存在ではなかったのです。神様は、自ら痛みつつ、苦しみつつ、それでもなお、この世を愛そうとされたのです。私たちを愛そうとされたのです。「神は世を愛された」とはそういうことです。
そして、神はその愛を、自らの行動をもって現されたのです。この「愛された」という言葉は、原文のギリシア語においては、過去のある時点における行為を意味するような表現が用いられているのです。「愛する」とは単に心情的なことでも観念的なことでもありません。愛とは行動です。神はある決定的な行動に起こされたのです。神は、愛する御子、イエス・キリストを世に遣わされたのです。
神はイエス・キリストをこの世に送られることによって、はっきりと表明されたのです。神は背いている私たちを憎んではいないこと。神に背いてきた私たちを神は決して見捨てようとはしていないこと。罪深い私たちの罪を赦し、私たちとなおも共に生きようとしていてくださること。私たちを救おうとしておられること。神は私たちを愛しておられる。神はそのような神であることを私たちにはっきりと示すため、御子イエス・キリストをこの世に送られたのです。
いや、この世に送られただけではありません。神は最終的にキリストを十字架にかけるつもりでおられたのです。私たちの罪の贖いとして、私たちのすべての罪をキリストに背負わせて、十字架にはりつけにすることを考えておられたのです。私たちの代わりにキリストを裁いて、私たちの罪を赦そうとしておられたのです。
それゆえに、聖書はその出来事をこのように表現しているのです。「神はこの世を愛された」――どれほどに?「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と。神様は、独り子を私たちに与えてしまったのです。私たちを愛するゆえに、痛みと苦しみを引き受けて、独り子を手放してしまったということです。「その独り子をお与えになった」とはそういうことです。
信じる者が永遠の命を得るために
それは私たちが救われるためでした。それを聖書はこのように語ります。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と。「永遠の命を得るため」――「命」とは何でしょう?それはただ心臓が動いていることではありません。脳が活動していることではありません。人間が「生きている」というのは、それ以上のことです。
人間の「命」の本質は互いに愛する交わりにこそあります。人と人とが共に生き、神と人とが共に生きるところにこそ、まことの命はあるのです。人と人とが憎み合っている時、人は本当の意味で生きてはいないのです。人が神に背を向けている時、人は本当の意味で生きてはいないのです。
神は本当の意味で人が生きるように、まことの命を与えようとされたのです。損なわれることのない愛の交わりに生きるようにと、神と人とが永遠に愛の交わりに生きるようにと、いわば神の方から私たちに手を伸ばしてくださったのです。
今、「永遠に」という言葉を用いましたが、神が与えてくださる交わりは、死をもって終わることはないのです。いつか心臓は止まるでしょう。いつか脳の活動は停止することでしょう。しかし、永遠なる神との交わりは終わりません。そして、その永遠なる神が与えてくださるお互いの愛の関係も、死をもって終わりません。「永遠の命を与えるため」とはそういうことです。そのために、神の方から愛を示してくださいました。独り子をお与えになったほどに、愛してくださったのです。
しかし、私たちも良く知っているように、愛の関係というものは一方通行では成り立ちません。神が手を伸ばしてくださっているならば、私たちもまた手を伸ばさなくてはならないのです。神が愛してくださったなら、私たちも神に向かって顔を上げ、神の愛を受け取らなくてはならないのです。だから「信じるものが」と言われているのです。「独り子を信じる者が」とは、神が独り子を与えるほどに愛してくださったと信じることです。信じてその愛を受け取り、神の愛に応えて生きることです。それはこちら側からのことです。
ある人はこんなことを書いていました。「日光と外の空気が欲しい人は窓を開ければ良い。カーテンを閉め切った部屋にいて『ここは明るくない。少しも風が通らない』と文句を言うのはおかしい。」神は独り子をお与えになったほどに、世を愛されました。神の愛は示されました。神様の愛は私たちに向けられているのです。太陽の光のように、私たちに向けられ、私たちを照らそうとしているのです。ならば必要なことは、私たちの方が、神様に向いて、大きくカーテンを開いて、大きく窓を開くことです。
開かれた窓から太陽の光が入ってくるように、神に向かって開かれた私たちの人生に、神の愛の光は必ず差し込んでくるのです。私たちが真に喜びをもって生きるために必要なことは、周りの人々が変わることではありません。生活環境や境遇が変わることでも、できなかったことができるようになることでもないのです。神に向かって自分を開くことです。
聖徒の日を迎えて
さて、今年もこうして聖徒の日を迎えました。既にこの地上の生涯を終えた方々のお名前が礼拝堂にかかげられています。わたしが直接お会いしたことのない方々の名前もたくさんあるのですが、こうして私たちが礼拝堂の中に座っており、またこれらの方々の名前が同じ礼拝堂の中に並べられていますと、やはり生と死の境を超えて皆を包み込んでいる神の愛の光、また、その中における交わりの永遠なることを思わずにはいられません。そのような思いを抱きながら今年の召天者記念礼拝の準備をしていました時に、ふとこれらのお名前の中にある一人の方のことを思い出しました。
その方は、今から13年前、年の暮れも押し迫ったある日、教会に電話をかけてこられました。五十代の女性でした。お話を聞いて欲しいとのこと。翌日、教会を訪ねてこられました。重い病に冒されていた方でした。余命短いことを宣告されたとのこと。もう長くは生きられない。辛い心の内をお話しくださいました。そして、その人は言いました。「悲しんで、落ち込んで毎日を過ごしたくないんです。どうやって生きたらいいか、教えてください」。
私は言いました。「わかりました。一緒に聖書を読みましょう。聖書から学びましょう。現実から目を背けないで、現実としっかり向き合いながら、聖書を読んでいきましょう。」そこからその人との聖書の学びがスタートしました。
そのように、彼女は「生き方」を学ぶつもりで聖書を読み始めたのですが、その人が知ったのはただ「生き方」だけではありませんでした。彼女が知ったのは、救い主であるイエス・キリストという御方だったのです。そして、キリストをこの世に送られた神の愛だったのです。それから半年後に彼女は洗礼を受けられました。 もちろん、それで闘病生活という辛い現実が変わるわけではありません。痛みは続きました。しかし、神に愛されていることを知った彼女は、神に向かって心のカーテンを開きました。心の窓を大きく開いたのです。辛い生活の中に、神の愛が流れ込んできました。
彼女は讃美歌がだいすきでした。よく歌っていました。やがて、自分が歌えなくなってからも、讃美歌のCDをずっとかけていました。苦しみの中にあっても、人は神の愛を喜び、神を賛美することができるのです。そして、人を愛し、愛されて生きることができるのです。そんな彼女の姿は、確かに「永遠の命」が何であるかを見せてくれていたように思います。そして、教会に最初に電話をかけてこられた時からちょうど一年後、永遠の命に生きる人として、彼女は天に召されていきました。
もちろん、それは彼女だけではありません。ここに名を連ねている先に召された人たちも、またここにいる私たちも、同じ神の愛の光の中にあるのです。そのことを覚え、神に心を開いて、共に召天者の記念の時を持ちましょう。
2023年11月1日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 13:1~17
ヘブライ人への手紙 13:1‐17
先週の聖書箇所は、「このように、わたしたちは揺り動かされることのない御国を受けているのですから、感謝しよう。感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう。実に、わたしたちの神は、焼き尽くす火です」(12:28‐29)。という言葉で締めくくられていました。
私たちには新しい契約が与えられています。既に贖いの犠牲は屠られました。私たちのためには、永遠に生きておられ、常に生きておられる永遠の大祭司がおられます。私たちははばかることなく恵みの座に近づくことができます。そのようにして、私たちは確かな約束の中に生かされています。この世のすべては過ぎ去ります。揺らぐことのないものなど何もありません。ただ一つ、揺り動かされないのは御国です。私たちは既にその揺り動かされないものを与えられているのです。
だから「感謝しよう」と言うのです。信仰生活においてどんな困難があろうと、迫害があろうと、「感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」とこの手紙の著者は励ましているのです。
それは具体的にどのようなことでしょう。神に喜ばれるように仕えていくにはどうしたらよいのでしょう。今日の箇所において、著者は次のように続けます。「兄弟としていつも愛し合いなさい」。先週お読みしたところには、「すべての人との平和を…追い求めなさい」(12:14)とありました。しかし、それはどこから始まるのでしょう。まずは共に信じる群れからです。すべての人との平和を追い求めるようにと命じられている教会の中において、まず求められなくてはならないのです。
それはある意味で当然のことです。私たちはイエス様御自身から、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と命じられているからです。父の訓練は必ずしも外からの迫害などを通して与えられるのではありません。むしろ身近な兄弟を愛することの困難の中にこそ、父の訓練が与えられているのです。
しかし、そこではまた「旅人をもてなすことを忘れてはなりません」と続けられています。日本語では分かりにくいのですが、「兄弟として愛する(フィラデルフィア)」という言葉と「旅人をもてなす(フィロクセニア)」という言葉が対になっているのです。
兄弟とはたえず顔を合わせているかもしれませんが、旅人とはもう二度と会わないかもしれません。親切にしたからといって、その見返りがあるとは限りません。自分や共同体に益をもたらす人であるから親切にするのではないのです。旅人をもてなすとはそういうことです。
しかし、そのようにして旅人をもてなしたアブラハムは、実は知らずに御使いたちをもてなしていたというのです(創世記18章)。その内のひとりが「主」と呼ばれているように、それはすなわち主をもてなしたということです。そのように、私たちは主によって愛された者ですから、その主をもてなしているかもしれないという思いをもって旅人をもてなすことが勧められているのでしょう。
旅人をもてなすこと自体は、ユダヤ人にとってはいにしえから重んじられていた徳目の一つでした。しかし、新約聖書に繰り返しこのことが語られているのは、迫害で散らされた人たちがいたからでしょう。またそのような困難の中で巡回しながら御言葉を伝えていた教師たちがいたのです。そのような初期の教会は、このフィロクセニアなくして成り立たなかったということも事実です。
そしてまた、ここでは立ち寄った旅人だけではなく、もしかしたら会ったことのない、牢に捕らわれている人や虐待されている人をも思いやるようにと語られています。自分も牢に捕らわれているつもりで、また虐待されたらどれほど苦しいだろうかといことを想像しながら、それらの人々を心に留めるべきだと語られているのです。イエス様は自ら人間の体を受け取って、その苦しみを経験してくださり、そのことをもって私たちを思いやってくださいます。そのようなキリストの体として、私たちも他の人に対してそうすべきなのでしょう。
続いて、性的な問題と金銭の問題においての清さが求められています。「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです。金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、『わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました。」そのように語られています。
実際、生活の崩壊は往々にしてこの二つを巡って起こります。それは私たちが毎日のニュースに見るとおりですが、揺らぐことのない御国の約束と父なる神の訓練を忘れてしまうなら、これはキリスト者にとっても大きな誘惑となるであろうことをこの手紙の著者は知っているのです。ですから、先にも「ただ一杯の食物のために長子の権利を譲り渡したエサウのように」なってはならないと語られていたのです。
そのために重要なのは、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われた神の言葉です。これは申命記31:6からの引用です。性と金銭の誘惑は人間の孤独感、欠乏感、喪失感を足がかりに入り込みます。その足がかりを取り除くのは、先の主の御言葉を信じる信仰です。さらに、そこから積極的に兄弟を愛することのみならず、旅人をもてなすことも生まれてくるのです。
続く7節には「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」と書かれています。あえて「生涯の終わり」と書かれていることから、恐らくは迫害の中で殉教した人たちのことが考えられているものと思われます。
そうしますと、その直後に書かれている「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」という言葉は、たいへん重い意味を持ってまいります。彼らが信じて、そのために命をさえ惜しまなかったイエス・キリストと、今、あなたがたが信じているイエス・キリストは、同じ御方なのですよ、と言っているのです。その時のイエス様も今のイエス様も変わらない。そのことを私たちもまた思い起こさなくてはなりません。
この手紙の読者が主に「ヘブライ人」すなわち、ユダヤ人キリスト者であることを考えますと、その意味がさらに見えてまいります。キリスト教会がユダヤ教の一派であるかぎり、キリスト者がユダヤ人として律法を守り、また異邦人と交わることなく生活しているかぎり、ある意味では多くの困難を回避することはできたのです。さらに言えば、ローマにおいてユダヤ教は公認宗教でしたから、そこから外れていくということは、とりもなおさず国家の迫害の対象となることでもあったのです。ですから、ユダヤ教の枠の中に留まれという教えは、ユダヤ人キリスト者には都合の良い教えでもありますし、実際そのように教えているユダヤ主義者がいたのです。
しかし、そのような戒律遵守を勧める諸々の教えについて、「いろいろな異なった教えに迷わされてはなりません」と著者は語ります。そして、かつての動物犠牲の奉献がどのようになされていたかを思い出させます。罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるのです。それと同じように、イエスもまた門の外で苦難に遭われたのだ、と言うのです。それはエルサレムの外のゴルゴタで十字架にかけられたというだけではありません。人々から捨てられ、拒否され、辱められて十字架にかけられた。アウトサイダーとして十字架にかけられたのです。
そのように、イエス様が宿営の外におられるならば、どうして私たちが安全である宿営の中に留まっていてよいのか。そのようにこの手紙は訴えているのです。むしろ、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか、と。
この地上に私たちのゴールがあるのなら、この地上に安住の地を確保し、安全な宿営の中に留まることは重要でしょう。しかし、私たちのゴールはこの地上にあるのではありません。「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです」(14節)と書かれているとおりです。そのように生きた指導者たち、その生涯の終わりをもって証しした指導者たちがいたのです。その信仰を見倣いなさいと著者は勧めます。私たちがその同じ信仰に生きるなら、わたしたちはどのように生きるべきなのでしょう。彼らのイエス・キリストは、変わらない御方として、私たちのイエス・キリストでもあるならば、わたしたちはどのように生きるべきなのでしょう。