サムエル記上 20:24‐42
まず、これまでの物語を振り返っておきましょう。サウルはヨナタンにダビデを殺さないと誓いました。ヨナタンは父サウルが誓いを守るものと信じていました。しかし、現実にはダビデはサウルに殺されそうになってラマのナヨトまで逃げていたのです。ダビデはラマから帰って「死とわたしとの間はただの一歩です」と主にかけて誓ってヨナタンに訴えます。ダビデに懇願されたヨナタンは、サウルにダビデを害する意思があるかどうかを確かめることにしました。
その方法は、ダビデが新月祭の食事に欠席するというものでした。今まで逃れていたダビデも新月祭にはサウルと同席しなくてはなりません。サウルにとってはダビデを殺す好機となります。そのような時にダビデが理由をつけて欠席するならば、サウルは激怒するに違いない。そのことによって、サウルがダビデに危害を加えようとしていることも明らかになります。もしそのような仕方でサウルの殺意が確認されたなら、必ずダビデに知らせ、無事に送り出すことを、ヨナタンは主にかけて誓いました。
しかし、知らせると言っても、どのようにしたら良いでしょう。サウルが誓いを破り、ダビデを依然として殺そうとしているならば、そのことを知らなかったヨナタンは要するに蚊帳の外に置かれていたことになります。当然、サウルが殺害の意思をヨナタンに明らかにした後でも、ヨナタンはダビデをかばっている者としてマークされることになります。そのようなヨナタンがダビデに接触するならば、ダビデを改めて危険にさらすことになるでしょう。
要するにヨナタンは、ダビデと直接接触しないでサウルの殺意をダビデに知らせなくてはならないのです。そこでヨナタンが考えた方法は、ダビデが隠れている場所付近に矢を放ち、その矢を取りに行く従者に語る言葉をもって暗号とするというものでした。「矢はお前の手前にある、持って来い」と言ったなら出てきても安全。しかし、「矢はあなたのもっと先だ」と言ったら、ダビデは姿を現わさずに逃げなくてはならない。そう定めたのです。
先週も触れましたように、サウルの殺意を知りながらダビデを逃がすことは、ある意味でヨナタンにとっても命がけのことだったのです。しかし、もう一方でダビデもヨナタンの誓いの言葉に命をかけることになります。ヨナタンが裏切ったならどうでしょう。誘き出されて殺されることにもなるでしょう。ですからダビデはヨナタンが誓いを破らないことを命をかけて信じるのです。それは単に愛情や友情のゆえではありません。主の御前において契約を結んだからです。主が間におられる。だから互いを重んじ互いを信じるのです。
そして、今日の聖書箇所に入ります。新月祭の日がおとずれました。その日、ダビデの場所は空席のままでした。聖書は「その日サウルは、そのことには全く触れなかった」と伝えています。その理由については、「ダビデに何事かあって身が汚れているのだろう、きっと清めが済んでいないのだ、と考えたからである」(26節)と説明されています。考えて見ますなら、これは実に皮肉な説明です。そうでしょう。本当に汚れているのは、どちらなのでしょう。
新月祭の食事は単なる祝宴ではなく、これは祭儀的な食事なのです。当然のことながら、これは主への犠牲奉献に伴う食事です。ですから、汚れが問題になるのです。例えば死体などに触れて汚れを負うならば、そのままでは食事に与ることはできないのです。しかし、ダビデは汚れによって欠席しているのではありません。もとをただせばダビデに対するサウルの憎しみのゆえにダビデは欠席しているのです。
しかし、憎しみを抱いているサウルは汚れていない者として食事にあずかり、よりによって「ダビデに何事かあって身が汚れているのだろう」と考えたというのです。そして、実に皮肉なことに、そのように考えているサウルの罪が、本当の意味でのサウルの汚れが、この祭儀的な食事の中において明らかにされていくのです。
新月祭の二日目、再びダビデは欠席しました。ヨナタンはその理由をサウルに説明します。それは内容的には正当な理由でした。しかし、サウルはそれを聞くなり激しく怒り始めます。そして、その怒りの中でサウルの心に秘められていたダビデへの殺意が明らかにされることとなりました。サウルは言うのです。「エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ。すぐに人をやってダビデを捕らえて来させよ。彼は死なねばならない」(31節)。それに対してヨナタンは言い返します。「なぜ、彼は死なねばならないのですか。何をしたのですか」(32節)。
ここでサウルとヨナタンとの対比が鮮明になります。それはダビデに対する好意と敵意の対比ではないのです。主に向かっているか主に背を向けているかの対比です。以前、サウルにダビデの殺害を思いとどまらせた時、ヨナタンはサウルにこのように語りました。「なぜ、罪なき者の血を流し、理由もなくダビデを殺して、罪を犯そうとなさるのですか」(19:5)。単にダビデが可哀そうだと言っているのではないのです。そこでもダビデが「何をしたのですか」と問うていたのです。つまり、ヨナタンが問題にしているのは、正当な理由なくダビデを殺すことなのです。そのようにして、神の律法に背くことなのです。
ダビデが神の法に照らして本当に死に当たる罪を犯しているならば、むしろダビデは死ぬべきなのです。もしそうならばヨナタンはダビデが死ぬことに反対しないのです。しかし、もしそうでないなら、ダビデは死んではならないのです。一方、サウルは神のことなど考えていません。彼が挙げた理由は何ですか。それは神の律法とは何の関わりもありません。ダビデが存在することがヨナタンへの王位継承に差し障るということだけです。
この場面における一連の出来事が示しているのは、この新月祭における祭儀的食事が、サウルにとっては単なる形式的な宗教的儀式でしかないということです。それは神不在の食事です。いや、単に神不在であるというだけではありません。主がダビデと共にあることを認めつつも、なおダビデを殺害して王権を守るということは、とりもなおさず主に対する反逆に他ならないのです。そのようなサウルの姿は、単にこの食事という一場面のことに限りません。これまでもそうでした。そして、彼が死に至るまで変わらないのです。
このような場面と深く関係していますのは、後に現れる預言者たちによって語られる、王国の祭儀に対する批判です。例えば、主は預言者イザヤを通してこのように語られました。「お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。…お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け」(イザヤ1:14-16)。
祭儀も祭儀的な食事も本来は主御自身が命じられたものであって、それ自体は大切な意味を持っているものです。しかし、主の関心の中心は祭儀そのものにあるのではありません。その祭儀を行う共同体がどのように生きているかということにあるのです。祭儀を共に行う者同士の間に主がおられるか。そのような関係として生きているかどうかです。ダビデとヨナタンの間のようにです。そこに向かわない単なる形式的な儀式を主は憎まれるのです。
翌朝、取り決めた時刻に、ヨナタンは従者を連れて野に出ました。彼は矢を射ると、それを取りに行った従者に後ろから声をかけます。「矢はお前のもっと先ではないか。」さらに「早くしろ、急げ、立ち止まるな」と叫びました。そしてヨナタンは従者を去らせます。本来でしたら、このままダビデは誰にも見られることなく去っていくはずでした。サウルの殺意が確認され、ヨナタンから知らされたのですから。そのまま消える方が安全なのです。
しかし、ダビデはそのまま去りませんでした。危険を承知であえて姿を現わし、地にひれ伏し、三度礼をしました。主の御前で自分を重んじ、誓いを守ってくれたヨナタンに対して最大限の敬意を表します。ヨナタンも、ダビデと直接接触していることが目撃されるなら自らを不利な立場に置くことにもなるのでしょう。ヨナタンにとって、どうでも良いことだったのです。
彼らは互いに口づけし、共に泣きました。そして、ヨナタンはダビデに言います。「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから」(42節)。彼らはこの後、一度だけ相まみえることを許される他、ついに地上において親しく共に過ごすことはありませんでした。しかし、確かに彼らの間には主がおられました。
本来ならば主にある麗しい交わりであるはずの祭儀的共食が神不在の修羅場となり、もう一方においてはこの世の権力によって散らされる人々の間に主がおられる。この二つの場面は実に対照的です。教会もまた、宗教的な儀式はあるけれども人間的な思惑だけが支配する神不在の場にもなり得るし、主によって結びあわされ、主が互いの間におられる、ダビデとヨナタンがいる共同体ともなり得るのです。