マルコによる福音書 7:14-23
食べ物によっては汚されない
主は言われました。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7:14‐15)。
「外から人の体に入るもの」というのは、食べ物のことです。「外から人の体に入るもの」については、程度の差こそあれ、私たちは皆、様々なことを気にするだろうと思います。賞味期限を気にします。添加物についてとても気にする人もいるでしょう。それらは皆、健康に関することです。
そのように、健康に関わる様々なことは気にしますが、食べ物を食べる時に、「これによってわたしは汚れるだろうか」と心配する人は、私たちの中には恐らくいないだろうと思います。「食べ物が人を汚す」という概念は私たちの生活にはないからです。ところがイエス様の時代のユダヤ人、特にファリサイ派のユダヤ人は違うのです。食べ物によって人は汚れると信じている。そして、それは重大なことなのです。
例えば、食事の前には手を洗います。これは衛生のためではありません。宗教儀式です。洗わない手で食事をしますと、その食事によって汚れるのです。いや、それだけではありません。この章の3節以下にはこんなことが書かれています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(3‐4節)。市場では宗教的に汚れた人たち、例えば異邦人などに接触したかもしれません。だから身を清めて食事をしないと「汚れる」のです。
さらに言うならば、何を食べるかも重要なのです。ユダヤの世界では、食べてはいけない「汚れた」食べ物というものがあるのです。その代表は豚です。トンカツを美味しそうに食べるなんて、もっての他。そんなことをしたら汚れてしまいます。今日でも、厳格なユダヤ人は、例えばやたらにその辺でパンを買って食べたりしません。ラードが入っている可能性があるからです。これがユダヤ人の戒律の世界です。
そのような背景を考えますと、今日お読みしたイエス様の言葉がいかに過激な言葉かが分かりますでしょう。「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものなんて何もない」。そうイエス様は言い放ったのです。みんな目を丸くして、「そんなこと言っちゃっていいんですか!」と言いたくなるような言葉なのです。
口から出る言葉によって汚される
しかし、イエス様がそのような過激なことを言われたのは、その次を語るためなのです。主はこう言われました。「人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。さて、イエス様は何を言わんとしておられるのでしょう。弟子たちには、よく分からなかったようです。ですから、群衆が帰った後に、こっそりとイエス様に尋ねました。すると主はこう答えられたのです。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される」(18‐19節)。
「外に出される」と訳されていますが、本当は「便所に出される」って書いてあるのです。食べ物は心の中に入るわけじゃない。腹に入って便所に落ちるのだ。――本当に汚れるか汚れないかを考えるならば、確かに重要なのは「腹」じゃなくて「心」ではありませんか。イエス様は極めて現実的な話をしているわけです。
では「心」が問題ならば、何が心の中に入って人を汚すのでしょうか。「食べ物」ではなくて、「人の中から出て来るもの」だと主は言われるのです。人の心から出て来るものです。「中から、つまり人間の心から、悪い思いが出て来るからである」とイエス様は言われるのです。
「心から出て来る悪い思い」とは何でしょう。その後には、具体的に、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など」と書かれています。しかし、口に入るものとの対比で考えられているのですから、「人間の心から、悪い思いが出て来る」と言う時に、まず主の念頭にあったのは、特に「言葉」のことであったと考えられます。 すなわち、具体的な悪として現れてくる以前に、既にその心の中にある「悪い思い」が問題なのです。そして、「悪い思い」が心から出て来る時の「言葉」が問題なのです。
ですからマタイによる福音書では、もう少し詳しくこう表現されているのです。「すべて口に入るものは、腹を通って外に出されることが分からないのか。しかし、口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」(マタイ15:17‐18)。これならはっきりしています。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」。口から出て来る言葉の話です。言葉こそ人を汚すのです。先にも申しましたように、ユダヤ人はどんな食物を口に入れるかに細心の注意を払いました。しかし、それ以上に注意しなくてはならないことがあるのです。どんな言葉を心に入れるかです。言葉によって心は汚されるからです。
イエス様がこう言われた理由は分からなくもありません。ユダヤ人の戒律の世界を想像してみてください。表向きはとても秩序だった清い世界です。しかし、戒律の世界は同時に簡単に裁き合いの世界になるのです。神への感謝と喜びをもって守っているのなら良いでしょう。しかし、ただ義務として、自分が嫌々仕方なく守っていることがあると、他の人が同じように守っているかどうかが気になるようになります。守っていないと許せない。批判したくなる。取り決めやしきたりの多い社会は、簡単に悪口と陰口に満ちた社会になるものです。
また悪口と陰口に満ちた社会では、人からどう見られるかが気になります。他の人からどう見られるかが気になって気になって仕方ない。すると外側だけを一生懸命に繕うようになります。しかし、無理が生じますから、見えないところで悪いことをするようになったりいたします。ですから、イエス様が言っておられる、「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」などは、恐らくユダヤ人社会に生きる彼らにとって、決して無縁のことではなかっただろうと思うのです。
そして表向きだけきれいな戒律社会において、互いの裁き合い、悪口、陰口、人に対する非難、中傷に耳を傾けていたらどうなるでしょう。あるいは隠れて行っている姦淫やみだらな行いについての話に耳を傾けていたら、またそれらを心に入れながら一緒に話をしていたら、確実に心は汚れていくと思いませんか。それこそゴミ箱のようになっていくことでしょう。
そう考えますと、これは私たちにとっても無縁の話ではありません。実際どうでしょう。私たちは、普段、どのような言葉を心に入れているのでしょうか。悪口や陰口の輪に加わっている時、誰かそこにいない人を一緒に中傷している時、そのことが自分を汚していることには気づかないものです。いやむしろ、そこで妙な連帯感さえ生まれるかもしれません。あるいは自分が外れていると、今度は自分が悪く言われているのではないかと心配になって、ついつい話に加わってしまうことも起こり得ることでしょう。
しかし、そのようなことをしていれば、心は確実にゴミ箱になっていきます。それは確かです。そして、それは本人だけで終わりません。ゴミ箱は悪臭を放ち始めるのです。やがてそこからゴミが溢れ出ます。心から溢れたものが口から出て来るようになる。すると、今度は他の誰かを汚すことになるでしょう。「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」のです。
ですから、どのような言葉を心に入れて生活するのかということは、本当は私たちの生活を大きく左右し、さらには人生そのものを左右する大問題であるはずなのです。
心に入れるべきは神の御言葉
ところで、今日の聖書箇所は「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた」(14節)という言葉から始まっていました。そのように、今日の箇所はその前に書かれていることの続きなのです。今日の箇所の直前には、主の語られたこんな言葉が記されています。「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」(13節)。「あなたたち」というのはファリサイ派の人々と数人の律法学者たち(1節)です。
このことがあったので、イエス様はもう一度群衆を集めて語られたのです。宗教的指導者たちが「神の言葉を無にしている」からです。そして、それは群衆においても同じだからです。「人の中から出て来るものが、人を汚す」という現実が起こっているのは、そもそも本当に心に入れなくてはならないものを入れていないからなのです。「あなたたちは神の言葉を無にしている」と。律法を与えられていながら、聖書を与えられていながら、そこから本当に神の言葉を聞こうとしていない。聞いていない。それこそがそもそもの問題なのです。
本日10月31日は宗教改革記念日です。なぜ10月31日なのかは週報に書きましたので、後ほどお読みください。かつてキリスト教会においても神の言葉が無にされていた時代がありました。そのような教会において、宗教改革が起こったことは必然でした。
今から約500年前、宗教改革者たちが手がけた大きな事業の一つは、キリスト者が自国語で聖書を読めるようにすることでした。それまではラテン語で読まれていたのです。マルティン・ルターは聖書をドイツ語に訳しました。何のためでしょう。教会が神の言葉を無にしないためです。神の言葉を聞くためです。本当の意味で心に入れるべきものを入れるようになるためです。
それは宗教改革を経て、神がここにいる私たちにも与えてくださっている、とてつもなく大きな恵みです。しかし、私たちはその恵みを本当の意味で受け止めて生活しているのでしょうか。私たちはどのような言葉を心に入れて生活しているのでしょうか。
(祈り)
2021年10月31日日曜日
「何が人を汚すのか」
2021年10月24日日曜日
「礼拝を共にささげるとは」
ヨハネの黙示録 4:1-11
今日お読みしたのは、聖書の最後に置かれている「ヨハネの黙示録」です。今日は4章が朗読されました。「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった」(1節)と書かれていました。ヨハネが見ているのは幻です。この書物に描かれているのは、ある意味では、極めて個人的な特殊な神秘体験です。しかし、それがこのように聖書に記されて、代々の教会に読み継がれてきました。それは、ただ神秘体験をした個人にのみ関わることではないからです。それは諸教会にとって、さらに言えば後々の教会にとっても大事なことだから、今日まで読み継がれてきたのです。しかもこの書物の冒頭を読みますと、明らかにこれは個人的に読まれるためではなく、礼拝において朗読されるために書かれていることが分かります。今、私たちがこうしているようにです。
共にイエスと結ばれて
この幻を見たヨハネは、その時、大きな苦しみの中にいました。信仰のゆえに迫害を受け、パトモス島に抑留されていたのです。1章9節以下には次のように記されています。「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った。『あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ』」(1:9‐11)
今お読みしたように、今日の聖書箇所に耳を傾ける上で心に留めておくべき、とても大事なことが少なくとも二つあります。一つは、それが「主の日」だったということです。日曜日です。日曜日ですけれど、ヨハネはかつてしていたように、皆と一緒に集まって礼拝することはできません。流刑の身ですから。しかし、彼はそれでも主の日であることを覚えて祈っていた。ですから主の日において「わたしは“霊”に満たされていた」と書かれているのです。
そして、もう一つ、彼は自分のことを「共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」と言っていることです。ヨハネは流刑の苦しみの中にあります。しかし、彼は孤独ではありません。彼は他のキリスト者と結ばれていることを知っているからです。「共にイエスと結ばれて」いるのです。特にそのことを思うのは「主の日」なのでしょう。同じ主の日に、エフェソやスミルナ、ペルガモンなど、それぞれの地において集まって礼拝している人たちがいることをヨハネは知っているのです。ある人たちは危険の中で、命がけで集まって、礼拝している人たちがいることを知っているのです。その人たちと体は離れているけれど、一緒に主に結ばれて、一緒に礼拝していることをヨハネは知っているのです。それが主の日に共に礼拝するということなのです。
私たちは毎週、ここに集まっている私たち自身のためだけでなく、ここに集まることのできない人たちのために祈ります。自宅で礼拝をささげている人たちを覚えて祈ります。入院している人たち、自宅で療養している人たち、年老いた人たちのためも祈ります。それは毎週繰り返されていますが、決して単なる形式的なことではありません。私たちは主の日に礼拝する時に、ここに集うことのできない兄姉とも互いに結ばれているのです。いやそれだけでなく、同じように主の日に礼拝している他の教会、他の国々の教会とも結ばれているのです。さらには天と地の聖徒たちが結ばれているのです。それが主の日の礼拝なのです。ですからヨハネは、天において主を礼拝している人々の幻を見せていただいたのです。それが今日お読みした箇所に書かれていることです。
開かれた天の門
今日の聖書箇所は次のような言葉で始まっていました。「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった」(1節)。これ一つ取っても、本当に嬉しい言葉ではありませんか。天の門は開かれているのです。閉ざされてはいないのです。ヨハネはそれを見せていただいたのです。
天の門は開かれている。誰が開いてくれたのでしょう。3章7節にこんな言葉があります。「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない」(3:7)。これはイエス様のことです。イエス様こそが鍵を握っているのです。そのイエス様が天の門を開いてくださったのです。本来だったら閉め出されてしかるべき私たちのために、十字架にかかって、罪を贖ってくださって、罪の赦しを与えてくださって、その門を開いてくださったのです。主が開いてくださったのならば、もはや誰も閉じることはできないのです。
ヨハネが主の日に見たのは、この開かれた天の門でした。それはヨハネという個人の特殊な体験です。しかし、先にも申しましたように、その幻が書かれ礼拝において朗読されているのは、私たちのためでもあるのです。天の門が開かれているのを私たちは肉の目で見ることはできません。しかし、確かに救いの門、天の門はこうして主の日に礼拝している私たちに向かって大きく開かれているのです。
逆に言えば、もし天の門が開かれていないなら、私たちがしていることは所詮この世の次元のことに過ぎないということでしょう。しかし、実際にはそうではないのです。天の門が開かれているのです。私たちのこの集まりは天と関わっているのです。天はここに集まっている私たちに対して開かれているのです。あるいは、今週集まっている皆さんが、来週、再来週、それぞれの場所で主の日の礼拝をささげるとき、皆さんに向かって確かに天の門は大きく開かれているのです。独り抑留されていたヨハネが見せていただいたようにです。
玉座に座っておられる方
そして、さらにヨハネが開かれた門の次に見たのは玉座でした。「すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた」(2節)。玉座というのは王の座のことです。すなわち王としての神を見たということです。神が王として支配しているのを見たのです。
現実に肉眼で見えるのは人間が支配する世界です。ヨハネが生きていた当時でありますならば、それはローマ皇帝が頂点に立って支配している世界です。パトモス島に抑留されているヨハネもまた、ローマ皇帝の権力のもとに、その悲惨かつ孤独な生活を強いられていたのです。当時の教会は、この世の権力に翻弄されている、嵐の中の木の葉のような存在でしかなかったのでしょう。しかし、ヨハネはそこで神の玉座を見たのです。その王なる神を礼拝する、天の礼拝を見たのです。そうです、本当の支配者はまぎれもなく王なる神であることを目の当たりにしたのです。
ヨハネは言葉を尽くして、彼が目にした神の玉座の栄光を描写しようと試みます。「その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた」(3節)。もちろんこの宝石による描写はあくまでも地上の言葉です。地上の言葉では十分に表現できるわけありません。しかし、それでも言わんとしていることは分かります。栄光に輝くまことの王がおられる。礼拝とはそのまことの王を仰ぐことに他ならないのです。
私たちはまことに不遜なものです。いつの間にか人間のすることがすべてであるかのように生活しているのです。人間の力が最終的にこの世界を左右するかのように、人間のすることが自分の人生を最終的に左右するかのように生きているのです。しかし、そうではないのです。天には玉座があるのです。最後の言葉を持っているのは王なのです。そのことをへりくだって認めてまことの王を仰ぎ望み礼拝する。それが主の日において私たちがしていることなのです。
冠を投げ出して
またヨハネはそこに24人の長老たちを見ました。また玉座のまわりに四つの生き物を見ました。それらについては実に不思議な描写が続いています。これら長老たちが誰であり、四つの生き物がいったい何であるのかは定かでありません。しかし、彼らが誰であれ、何であれ、本当に注目すべきは彼らが礼拝するその姿なのだろうと思います。
この四つの生き物は、夜も昼も絶え間なくこう言い続けていたというのです。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(8節)。さらに、24人の長老たちは、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出してこう言っていたというのです。「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」(11節)。
このような描写を読みますと、私たちは礼拝するということについて、まだまだ知るべきことのごく一部しか知らないのだと思わされます。私たちは礼拝することの大きな喜びをまだまだ本当は知らない。これから味わい知るべきことがたくさん残されているのです。
ここに書かれていることは、要するに、私たちが天の門が開かれているのを知り、本当に私たちが神の玉座の御前にあって礼拝していることを知るならば、もう昼も夜も絶え間なく神を誉め讃えずにはいられなくなるということでしょう。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」。そのように延々と賛美せずにはいられなくなる。一つの讃美歌を4節まで歌って終わり、ではないのです。この得体の知れない生き物の姿は、真の喜びをもって主を礼拝することを知っている者の姿なのです。
そして、主を礼拝することを本当に知るならば、冠をかぶっている者がもう自分の冠をその前に投げ出したくなるということなのでしょう。もう自分の栄光など、どうでもいい!自分が受けるべき報いなど、どうでも良くなるのです。自分がどう評価されたか、どういう扱いを受けたか、どう報いられたか…そんな思いを後生大事に抱えているとするならば、それはまだまだ主を礼拝する本当の喜びを味わい知っていないということなのだろうと思います。
ここに描かれている礼拝を私たちは天と一つになって共におささげしたいものです。私たちは信仰生活において、もっともっと主の日に共に礼拝をささげることの尊さ、その真の喜びを味わい知る者となりたいものです。
(祈り)
2021年10月20日水曜日
祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 3:1~11
フィリピの信徒への手紙 3:1-11
「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」(2節)。
ここで「犬ども」と呼ばれているのはいったいどのような人たちでしょうか。「切り傷にすぎない割礼を持つ者たち」と書かれています。彼らは異邦人も割礼を受けてモーセの律法を守るべきであると教えていたユダヤ主義者たちでした。旧約聖書において、なるほど割礼は神との契約のしるしであり、神の民であることの見えるしるしです。そこに心惹かれるフィリピの異邦人キリスト者もいたのでしょう。それゆえにパウロは激しく警告を発するのです。「注意しなさい。気をつけなさい。警戒しなさい」と。三つの異なる言葉で訳されていますが、原文は同じ言葉です。「気をつけなさい!」何が問題なのでしょう。一言で言うならば、それは人間の「誇り」です。
ここで警告を発するパウロも、一ユダヤ人として、自分自身について誇れるものをたくさん持っていました。5節以下に列挙されています。パウロは生まれて八日目に割礼を受けた人でした。すなわち、異教から改宗した者ではなく、生まれながらのユダヤ人だということです。そして、ベニヤミン族の出身です。イスラエル初代の王が出た部族の出身です。そして彼はタルソというヘレニズム世界の一都市で生まれ育ったにも関わらず、そのヘレニズム思想の影響を受けることなく、イスラエル古来の厳格な伝統の中で育ちました。そのことを彼は、「ヘブライ人の中のヘブライ人」と表現します。
これらに加えて、パウロはパウロ自身が追求して得た誇りについて語ります。まず彼はファリサイ派に属しました。厳格に律法を守った一派です。そして、彼は実に熱心な宗教家でした。どれほど熱心であったか。キリストの教会を迫害するほどだったのだ、というのです。もちろん、教会を迫害したことをパウロは後悔していたはずです。しかし、それでも、あの迫害は神に逆らう思いでしたのではなくて、むしろ神について熱心であったからそうしたのだ、ということは否定しないのです。かつてはその熱心さもまた彼の誇りであったのです。そして最後にパウロはこのように言い切ります。「律法の義については非のうちどころのない者でした」と。
なぜパウロはこんなことを言っているのでしょうか。それは、あのよこしまな教師たちが自分自身を誇っているからです。自分が割礼を受けていること、そして律法を守っていることを誇りにしているからです。その誇りに寄り頼んで生きているからです。「肉に頼る」とパウロが言っているのはそういうことです。そして、フィリピの人たちもそのような誇りを得たいと望み始めていたのです。肉に頼り始めていたのです。それゆえに、パウロはそのような自らの人間的な誇りについて語ってから、次のように断言するのです。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています」(7‐8節)。
パウロは既に述べた誇りに生きていたことを、まったく無駄なことであったと言うのです。いや、むしろ、そのように生きてきたことを損失であるとまで言うのです。なぜでしょう。それはパウロがキリストを知ったからです。これは「キリストについて知った」ということではありません。キリストを知ったのです。言い換えるなら、キリストによって救われたということです。人間が誇るべき何かによって救われたのではありません。キリストにおいて現された神の恵みによって救われたのです。
その時、もはや今までより頼んでいた人間的な誇りはいっさい無用になったのです。生きることの根拠が変わってしまったからです。生きることの根拠は人間的な誇りにあるのではなく、神の圧倒的な恵みにあることを知ったからです。それゆえに、どんなに誇るべきものがあったとしても、それが神の恵みを知ることを妨げるならば、それは損失でしかないのです。
フィリピの人たちは、その恵みを知っている人たちであるはずでした。その彼らに今、肉に寄り頼んで生きることへの誘惑が臨んでいるのです。だから「気をつけなさい」とパウロは言うのです。私たちも気をつけなくてはなりません。私たちが真に頼るべきは永遠に変わることのない神の愛であり神の救いの恵みなのです。
そして、生きることの根拠が変えられるということは、生きる目標もまた変わることを意味します。パウロはこのように言うのです。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(11節)。
日本語訳にしますと分かりにくいのですが、10節の前半は知るべき三つのことに言及しているのです。一つは「キリストを知る」ということです。原文では「彼を知る」という言葉です。二つ目が「その復活の力を知る」ということです。そして、三つめが「その苦しみにあずかることを知る」ということです。これは「その苦しみにあずかって」と訳されています。なぜこんな細々としたことを一々ここで申すかと言いますと、実はこの三つがひとつのこととして語られているところに大きな意味があるからです。すなわち、キリストを知ることは、キリストの復活の力を知ることであり、キリストの苦しみに共にあずかることを知ることなのです。これらは切り離すことが出来ないのです。
ではキリストの苦しみに共にあずかるとはどういうことでしょうか。キリストは自らの罪の結果を刈り取って苦しまれたのではありません。キリストが苦しまれたのは一重に神に従い、人を愛するためでした。キリストは神の御心を実現するために苦しまれたのです。そしてキリストは人を愛し、人を救うために苦しまれたのです。この苦しみを共有することがここで言われていることの内容です。私たちがもし神に従い、人を愛して生きようとするならば、必ず苦しみをも負うことになるのです。そして、それはキリストと苦しみを共にすることに他ならないのです。
そして、パウロは苦しみを共にすることのみを語っているのではなく、「復活の力を知る」ことについても語るのです。復活の力とはなんでしょうか。それはキリストを復活させた神の力です。その力を私たちが知るのだというのです。同じ力が私たちの内にも働くのです。漫然と自分のためだけに生き、苦しみを回避する道ばかりを選び取ろうとしている人が、神の力のリアリティを経験できないとしても、それは当然のことなのです。キリストと苦難を共にするときに、人は復活の力を経験するのです。
そして、地上において経験する復活の力は、私たち自身の復活の希望をもたらします。私たちはこの地上でキリストと共に苦しんで、それで終わりではないのです。死は命への門となるのです。パウロは苦しみを共有することについて語り、「死の姿にあやかる」ということで話を終えません。その後にこのように言っています。「何とかして死者の中からの復活に達したいのです」と。すなわち、パウロには死の向こうに目を注いでいるのです。
(祈り)
2021年10月17日日曜日
「主を待ち望んで生きる」
マタイによる福音書 25:1‐13
賢いおとめたちと愚かなおとめたち
今日はイエス様のたとえ話をお読みしました。そこに「十人のおとめ」が出て来ます。その十人が半々に分かれます。「そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」(2節)と語られているのです。今日の話は愚かな人と賢い人の話です。
譬えとして用いられている題材は「結婚式」です。私たちが知っている結婚式とかなり勝手が違います。まず花婿が花嫁の家に来て前祝いをし、続いて花婿は花嫁を自分の家に連れていき、そこで本格的な祝宴が行われたようです。そのような結婚式を行うためには多くの人々の助けが必要でしょう。そのため、婚宴に招かれている人々が様々な役割を担うことになります。
例えば花婿が花嫁の家に到着する時に、迎えに出るという役割があります。時として町外れにまで出て花婿を迎えなくてはなりません。花婿が遅くなることもあったようで、夜中になることもめずらしくはなかったと言われます。その時にはランプに火をともして待つのです。その役割を託されたのが、この「十人のおとめ」でした。
この十人が賢い五人と愚かな五人に分かれました。片方はともし火と共に油の用意をしていました。もう片方はともし火は持っていたけれど、油の用意はしていませんでした。前者は「賢いおとめたち」と呼ばれ、後者は「愚かなおとめたち」と呼ばれています。聖書が何を「賢い」と呼び、何を「愚か」と呼んでいるかは明らかです。先のことまで考えて備えている人を聖書は「賢い人」と呼び、目先のことしか考えていない人を「愚かな人」と呼ぶのです。
片方は花婿を迎えて婚宴の席に着くまでのことを考えていました。花婿は遅くなるかもしれません。しかし、到着がいつになろうが、たとえ夜中になろうが、ともかく待って迎えるつもりでいたのです。そのために、ともし火だけでなく、一緒に油も備えました。そのように、先のことまで、終わりのところまでを視野に入れて考えている。それが賢い人です。
一方、もう片方のおとめたちはその時のことしか考えていませんでした。同じようにともし火を持って出ました。しかし、それは夜だからであり、暗かったからです。「今」必要だから持って出ただけの話です。しかし、待って迎えてお連れして婚宴に至るところまでは考えていませんでした。ですから油は用意してはいないのです。そのように目先のことしか考えていない。それが愚かな人です。
賢い五人も愚かな五人も外から見たら何も変わらないに違いありません。先のことまで考えて油を用意していようが、目先のことだけ考えてともし火を持って出ただけであろうが、ある時点までは大差ないのです。このたとえ話においてはあえて、「皆眠気がさして眠り込んでしまった」(5節)と書かれているのです。賢い人も愚かな人も眠り込んでしまった。そのように、途中まではこの両者はまったく区別つかない。そういうものです。
しかし、途中においては大差ないとしても、結末では大きな違いが出てくるのです。イエス様のたとえ話においては、このように表現されています。「用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた」(10-12節)。
そのように、このたとえ話は愚かな人と賢い人の話です。最終的にその違いがはっきり現れるという話です。その意味ではたいへん恐ろしい話でもあります。イエス様が語っておられる違いは、それこそ取り返しのつかない違いです。それは最終的な「救い」と「滅び」と言い換えてもよいでしょう。
祝宴に招かれている人として
しかし、これを単に恐ろしい話として受け取るならば、イエス様のたとえ話を正しく聞いたことにはなりません。なぜなら、このたとえ話そのものは結婚式を題材としたものだからです。それが今日の日本であれ当時のユダヤであれ共通して言えることは、結婚式には「喜び」があるということです。そして、当時のユダヤにおいては、私たちが考える以上に、それは大きな喜びなのです。それは一般的に一週間も祝いが続けられたということにも現れています。
普段は苦しく辛い生活があるかもしれません。しかし、その時はとにかく大いに喜び楽しむのです。ですから、イエス様が「十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く」と語り出した時、これを聞いた人々がまず心に思い浮かべたのは、その後に行われる喜びに溢れた祝宴であり、喜びに輝く人々の笑顔であったはずなのです。
そもそもイエス様はなぜこのたとえ話をされたのでしょう。その前の章から読みますと、イエス様は世の終わりの話をしていたのです。弟子たちがイエス様に尋ねたのです。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか」(24:3)。そのような流れの中で、この「結婚式」の話が語られているのです。
確かに全ての物事には始まりがあり、終わりがあります。個々の人生にも始まりがあり、そして終わりがあります。聖書によれば、この世界にも始まりがあり、そして終わりがあるのです。しかし、人生の終わりにしても、世の終わりにしても、そのことについて考えることは一般的にとても恐ろしいことでしょう。しかし、イエス様は「終わり」について語るときに、「結婚式」の話をなさったのです。
そして、ここに出てくる十人のおとめは皆、基本的には婚宴に招かれている人たちなのです。そして、彼らはまさにその喜びの場へと招待してくれた花婿を迎えに出ようとしている人々なのです。そのようなおとめたちが題材とされているのです。そして、「このおとめたちこそ、このたとえ話を聞いているあなたがたのことだ」と語られているのでしょう。これは私たちの話なのです。そのように最終的な大きな喜びへと招かれている私たちとして、このたとえ話を聞いているのです。
全てには終わりがあります。終わりは必ず訪れます。ならば、人生の終わりにせよ、世の終わりにせよ、これを悲しみや虚しさや恐怖としてしか語れないとするならば、それは実に不幸なことです。私たちは、そのような不幸な人として生きる必要はありません。イエス様は終わりを婚宴に喩えられたのです。私たちを、婚宴へと招かれている人として喩えてくださったのです。
ならば私たちは、そのような喜びに満ちた終わりまでを視野に入れて生きたらよいのです。婚宴に招いてくださった花婿を迎え、その御方によって大きな喜びへと導き入れられるその時までを視野に入れて生きたら良いのです。結局、イエス様が語られた「賢いおとめたち」というのは、そのような人のことなのです。目先のことではなく、先のことまで考えている人。その先とは、最終的に花婿を迎えて花婿と共に婚宴の席に入り、大きな喜びにあずかるその時までを考えている人です。
もちろん、それまでは待たなくてはなりません。待っている間は寒いかもしれないし、辛いかもしれない。そのように私たちの人生もまた、喜ばしいことばかりではありません。忍耐しなくてはならないことは山ほどあります。しかし、花婿と共に婚宴の席に入る時までを考えていたら、忍耐もできるし、そこで喜びも溢れてくるのでしょう。そのように喜びながら忍耐して、喜びに溢れて待つつもりでいる。待ち望んで生きている。それが「油を備えている」ということなのです。そのような「賢いおとめたち」として、私たちもまた生きたらいい。そのために、このたとえが私たちに語られているのです。
他ならぬ自分が生きる人生として
そして、ここにはもう一つの大事なことが語られています。愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言いました。「油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。」賢いおとめたちは答えます。「分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。」(8‐9節)
これが分かち合いとか助け合いを教えるたとえ話なら、違う展開になっていたはずです。「彼らは油を分け合って、ともし火の数を減らし、一緒に花婿を迎えることができました」という話になるでしょう。しかし、主はそのようには語られませんでした。
ここには、人生の厳粛な一面がはっきりと語られているのです。つまり、他の人に分けることができるものとできないものがあるということです。他の人に代われることと代われないことがある。そういうことです。その人がどのように生きてきたかということは、最終的には他の人と分かつことも、代わることもできないことなのです。大きな喜びへと向かっている人として「賢いおとめ」として生きたかそうでないかは、その人の人生なのであって、他の人は代わってあげられないのです。
それはまた、周りの人の責任にできない厳粛さであるとも言えるでしょう。愚かなおとめたちは、「あの人たちが油を分けてくれなかったからです」と言って彼らのせいにすることはできなかったのです。私たちは、自分がどう生きたかということについて、周りの人々の責任にしたくなるものでしょう。「あの人のせいでこうなった。この人のせいでこうなった」と。「こんな私に誰がした」と。
しかし、「彼らが油を分けてくれなかった」という言い訳が通用しなくなる時が来るのです。最終的に問われるのは、「他の人がどうであったか」ということではありません。あくまでも、「あなたはどうであったか。あなたはどう生きたか。賢いおとめとして生きましたか」ということが問われるのです。
私たちは皆、祝宴へと招かれている人としてこのたとえ話を聞いています。そして、この言葉にどう応答するのか、ここから始まる日々をどう生きるのかは、他の人々に責任を問えない、私たち自身の問題です。今までがどうであれ、ここから私たちは喜びの祝宴に招かれている人として、やがて花婿を迎え、花婿と共に大きな喜びにあずかるはずの人として生きていこうではありませんか。
(祈り)
2021年10月13日水曜日
祈祷会用:フィリピの信徒への手紙 2:19~30
フィリピの信徒への手紙2:19‐30
今日の箇所にはテモテとエパフロティトという二人の人物が出てきます。
テモテは小アジアのリストラ出身で、父親はギリシャ人、母親は信仰深いユダヤ人でした。そのような家庭の中で幼い頃から聖書に親しんできた彼はやがてキリスト者となりました。彼はその地域のキリスト者の中で非常に評判の良い人でした。そのような彼を、第二回の伝道旅行中にリストラに立ち寄ったパウロは心に留め、その後の伝道旅行に連れていくことにしたのです。以来、テモテはパウロの同労者として働くことになりました。フィリピの教会が誕生した次第は使徒言行録16章に記されていますが、その時にも、テモテはパウロと共にそこにいたのでした。
今日の箇所でパウロはそのようなテモテについて次のように語っています。「テモテのようにわたしと同じ思いを抱いて、親身になってあなたがたのことを心にかけている者はほかにいないのです」(20節)。そして、そのようなテモテと対比して「他の人は皆、イエス・キリストのことではなく、自分のことを追い求めています」(21節)と続けます。それはすなわち、「テモテは彼らと違って、自分のことではなく、イエス・キリストのことをを追い求めている」ということでしょう。
そのように、テモテは教会を愛している人でした。その一人一人を親身になって心にかけている人でした。そして、自分のことではなくキリストのことを追い求める人でした。パウロの言い回しに注意してください。彼はこれら二つを分けていません。教会を親身になって心にかけることと、自分のことではなくキリストのことを求めことは、異なる二つのことではないのです。
これは何も伝道者にだけ関わることではありません。私たちは「キリストのために」と言い、キリストのことを追い求めているように思っているかもしれません。しかし、もし、私たちがキリストの体である教会、キリストが血によって贖われた教会を心にかけ、愛していないとしたら、その言葉は偽りになってしまいます。その意味で、ここに書かれているテモテの描写は、私たちが常に心に留めておかねばならない姿であろうと思います。
次に挙げられているのはエパフロディトという人です。彼はフィリピの教会員でした。彼に大きな使命が託されました。投獄されたパウロのもとに贈り物を携えて行き(4:18)、しばらくの間パウロに仕えるという使命です。当時そのように外の人が囚人の世話をすることが許されていたのです。彼はローマへと長い旅をし、パウロに関して心配がなくなるまでそこに留まり、パウロの手助けをしてその使命を全うし、フィリピに意気揚々と帰るはずでした。そしてフィリピの信徒たちからも大喜びで迎えられ、そこで喜びに溢れて成し遂げた仕事の報告をするはずでした。
しかし、現実はそのようにいきませんでした。彼は病気になってしまったのです。しかも、それは瀕死の重病でした。パウロの手助けとなるべく遣わされたのに、一転してパウロの重荷となってしまいました。病のために動くに動けません。フィリピにも帰れません。そこに留まるしかありませんでした。困ったのはパウロでしょう。それは私たちが想像する以上に困難な状況だったと思います。
その病気のことがフィリピの信徒たちにも伝わりました。そのことを知ったエパフロディトはどんなに苦しんだことでしょうか。「自分の病気があなたがたに知られたことを心苦しく思っている」(26節)。それはそうでしょう。祈りをもって送り出してくれたフィリピの教会です。その彼らに、期待にまったく応えることの出来なかった自分のことが知れているというのですから、エパフロディトは居ても立ってもいられないような気持ちであったと思います。
幸い一命は取り止めました。病気は快方に向かいました。恐らくはまだ完全に治ったわけではないのでしょう。しかし、これ以上留まってもまた迷惑をかけるかも知れません。フィリピの教会から託された働きの半ばにおいて、獄中のパウロを残してローマを去ることは、無念極まりないことであったに違いありません。しかし、やはり慕わしいのは送り出してくれたフィリピの教会です。エパフロディトはしきりにフィリピの人たちに会いたがります。パウロもこの申し出に同意しました。エパフロディトを送り返すことにしたのです。
さて、そのようにパウロがエパフロディトを送り返すに当たって書いているのが25節以下です。結局はパウロの重荷になってしまったエパフロディトについて、「彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり、また、あなたがたの使者として、わたしの窮乏のとき奉仕者となってくれました」と書くのです。そして、次のように指示を出します。「だから、主に結ばれている者として大いに歓迎してください。そして、彼のような人々を敬いなさい」(29節)。エパフロディトは自分が歓迎されるべき人間、敬われるべき人間であるとは思えなかったに違いありません。しかし、パウロはエパフロディトのような人こそ歓迎されるべき人であり、敬われるべき人であると言うのです。なぜでしょうか。この人物を、自分との関わりにおいてではなく、神との関わりにおいて見ているからです。
それが良く現れている言葉の一つは27節です。「実際、彼はひん死の重病にかかりましたが、神は彼を憐れんでくださいました」(27節)。具体的には、病状が好転したということでしょう。しかし、神の憐れみへの言及は、それ以上のことを語っています。使命を果たし得なかったエパフロディトを神は彼を裁いてはおられない。エパフロディトは自分を責めたかも知れませんが、神は決して責めてはおられない。「神は彼を憐れんでくださいました」というパウロの言葉の中には、そのようなパウロの思いが込められているのです。
そして、もう一つは30節です。「わたしに奉仕することであなたがたのできない分を果たそうと、彼はキリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭ったのです」(30節)。エパフロディトがキリストを宣べ伝えて迫害に遭い、暴徒に襲われて大怪我をして死にそうになったのでしたら、このパウロの言葉は容易に理解できます。しかし、エパフロディトはそのような形で死にそうになったのではないのです。彼はたまたま病気になって、死にそうになったのです。それを「キリストの業に命をかけ、死ぬほどの目に遭った」と表現するのはある意味では不可思議です。
しかし、パウロが方便として「キリストの業に命をかけた」という表現は用いないでしょう。彼は本気でこの部分を書いているのです。パウロはエパフロディトの中に、本当に、命がけの奉仕者の姿を見たのです。結果的には病気によって中途半端な働きに終わったかも知れません。しかし、結果はどうであれ、それでもなおエパフロディトは命がけの奉仕者だったのです。エパフロディトは確かに自分の命をキリストのものとして捧げていたからです。パウロはその事を見逃さなかった。そして、神もまたそのことに目を留めていてくださることを、彼は知っていたのです。
(祈り)
2021年10月10日日曜日
「神のものは神に返しなさい」
マタイによる福音書 22:15‐22
巧妙な問い
ある人たちがやってきて、イエス様に尋ねました。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」(16‐17節)。
ここで問題になっているのは《皇帝に納める税金》です。これは、紀元6年にユダヤがローマの直轄支配地になると共に導入された人頭税です。人頭税はその構造上、経済的な弱者に大きな打撃となります。この重荷はローマ支配下にあったユダヤの人々の生活に重くのしかかっていたに違いありません。ですから多くの民衆は納税には否定的でした。
しかし、それだけではありません。そこにはさらに大きな宗教上の問題があったのです。納税に用いられるのは、ローマのデナリオン銀貨です。そこに刻まれているのは皇帝ティベリウスの肖像です。そして、肖像と共に次のような言葉が刻まれておりました。「いと高き神の子、皇帝にして大祭司なるティベリウス」。つまりそこには政治的権威だけでなく、その神的権威の主張が刻まれていたのです。それゆえに、そのようなデナリオン銀貨をもって、神と等しい権威を主張している皇帝に税を納めることは、民族のアイデンティティと彼らの信仰に関わる極めて重大な問題だったのです。
この納税に最も強く反対していたのは、ガリラヤを中心として活動していた熱心党の人々でした。強硬な民族主義者たちであり、後にローマからの独立を目指してユダヤ戦争を戦うことになる人々です。今日の箇所に出てきます、ファリサイ派の人々は彼らよりは穏健でした。律法に忠実に生きようとしている彼らはもちろん納税に反対していましたが、現実的な判断から、納税拒否にまでは至りませんでした。一方、今日の箇所に出てきますもう一つのヘロデ派は、この納税に肯定的でした。ローマに隷属するヘロデ王家を支持する彼らは、そこから少なからぬ利益を得ていたからです。
そのようにユダヤ人の間でも立場が分かれる中にあって、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」という問いは、本来は極めて重大な意味を持つ、真面目な信仰的な問いであったはずです。しかし、大事な問いを発する人が、必ずしもその答えを真剣に求めているとは限りません。実際、彼らの目的は別なところにありました。彼らがわざわざ質問をするために訪ねてきた意図は、その直前に書かれております。「それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した」(15節)。彼らの目的は、主を罠にかけることだったのです。
この質問者たちの背後にいるのは、ユダヤの権力者たちです。彼らがどうしてわざわざイエスの言葉じりを捕らえるための罠を仕掛ける必要があったのか。その理由は21章の終わりに次のように記されています。「祭司長たちやファリサイ派の人々はこのたとえを聞いて、イエスが自分たちのことを言っておられると気づき、イエスを捕らえようとしたが、群衆を恐れた。群衆はイエスを預言者だと思っていたからである」(21:45‐46)。
要するに、イエスを捕らえて殺そうとしていた彼らにとって、最大の障害は群衆の存在だったのです。この状況のもとで、イエスを亡き者とする方法は二つに一つしかありませんでした。一つは、群衆の支持を失わせてイエスの敵となるようにすること。そうすれば、群衆の騒ぎを恐れずに、イエスを捕らえることができます。もう一つは、イエスをローマ帝国に逆らう扇動者に仕立て上げること。そうすれば、ローマの国家権力によって、合法的にイエスを抹殺することができます。そこで巧みに考え出されたのが、この納税に関する問いだったのです。
イエス様がもし、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適っている」と答えたらどうなるでしょう。イエスを取り巻いている群衆の多くはローマからの解放を心から願っている人々です。この答えにより、主は民衆の支持を失うことになるでしょう。むしろ民衆は敵に回るかもしれません。先に挙げた一つのことが実現します。彼らは安心してイエスを捕らえることができます。
では、「皇帝に税金を納めるのは、律法に適わない」と答えたらどうでしょう。この宣言は、多くの群衆が待ち望んでいた反ローマ闘争の幕開けと映るに違いありません。それは人々の反ローマ感情に火をつけ、現実に熱狂的な行動を引き起こすかもしれません。そうすればローマ軍が介入してくれます。いや、仮にそうならなくても、ローマに逆らうようにと群衆を扇動したと、当局に訴えることができるでしょう。
このように、どちらに転んでもイエス様は窮地に追いやられることになります。彼らの目的は、こうして実現するのです。このような敵意と憎しみに満ちた企てが、敬虔な言葉の装いのもとに実行されたのです。
先にも申しましたように、信仰に関する問いを発する人が、必ずしも真剣に答えを求めているとは限りません。敬虔な言葉をもって議論をする人が、必ずしも神御自身に関心があるとは限りません。その心の満ちているのは、悪意、敵意、分派心、あるいは自己保身的感情でしかないかもしれないのです。
ここを読んだ人は、もしかしたら、イエス様のもとに来た質問者やその背後にいる人々に関して、いかにも悪そうな、ずる賢そうな、人相の悪い人間を想像するかもしれません。しかし、多くの人々の目に映っていた彼らの姿は、恐らくそれとは全く異なるのです。ユダヤ人社会において、彼らは真面目で敬虔な人々と見なされていたのです。立派な人として、一般的には尊敬の対象だったのです。
極悪非道な犯罪が報道される時、そこに人間の罪の恐ろしさを見るのでしょう。しかし、本当の意味で恐るべき人間の罪深さは、むしろ世において明るく見えるところ、真面目さや正しさがあるように見えるところ、正義の主張が声高になされるところにこそ、あるのです。実際、人間はあからさまな犯罪においてよりもはるかに恐るべきことを、正義の名の元に行ってきたのでしょう。そのような表向きを美しく装った恐るべき人間の罪のただ中に、イエス様は立っておられるのです。
神のものは神に返しなさい
そこで主は彼らに言われました。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らは納税に使うデナリオン銀貨を持ってきました。そこで主は問われます。「これは、だれの肖像と銘か。」彼らは、現実の貨幣を前にしては、ただ事実を述べるしかありません。彼らは言います。「皇帝のものです。」すると主は言われました。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」。
「皇帝のものは皇帝に返しなさい」。もちろんイエス様は、「皇帝が絶対的な権威を持っているのだから、たとえ不本意であっても税は納めなくてはならないのだ」と言っているのではありません。むしろ逆なのです。「皇帝が絶対者であるわけでも、神に等しいわけでもないのだから、税を納めよ」と言っているのです。
皇帝が銀貨に自分の肖像を刻ませ、「神の子ティベリウス」と刻ませているのは、明らかに絶対的な権威の主張です。しかし、イエス様はこの世の権威などというものを完全に相対化しているのです。笑い飛ばしていると言って良いかもしれません。要するに、「ティベリウスがカネに自分の肖像を刻ませて、あたかも自分が神であるかのように、この帝国はオレのものだ、帝国のカネはオレのものだと言っているなら、返してやったらいいじゃないか」と言っているのです。銀貨に刻まれている肖像と権威の主張、それは大して重要な問題ではないのです。本当に聞くべき絶対的な意味を持つ言葉は別にあるからです。それが次に来るのです。主はさらに言われました。「神のものは神に返しなさい」。
皇帝の肖像が刻まれている銀貨を「皇帝のもの」と呼んだ後に、イエス様は「神のもの」ついて語られました。それが何を意味するのかは、そこで聞いていた人には明らかであったに違いありません。皇帝の肖像ならぬ《神の像》が刻まれているのは――人間です。銀貨の肖像が帝国に対する皇帝の支配を表しているように、神の像が刻まれた人間の存在は、この世界に対する神の支配を表しているのです。人間は神のものです。そして、この世界もまた神のものなのです。「神のものは神に返しなさい」――納税の問題で罠にかけようとして主のもとに来た人々に、主はいわば絶対的な意味を持つ問いを突き返したということでしょう。「そもそもあなたは神のものを神のものとして生きているのか。神のものが神に返されることを求めて生きているか」と問い返しておられるのです。
私たちは確かに、「皇帝に税金を納めるべきか否か」という類の問題と日々向き合っています。目の前の問題について、判断を下さなくてはならないということが起こります。その判断が異なるために、対立が起こることもあります。しかし、本当に問われなくてはならないのは、「そもそもあなたは神のものを神のものとして生きているのか」ということなのです。
実際、人間の根本的な問題は、神のものを神のものとして生きてはいない、というところにこそあるのです。すなわち、この世界が本来的に人間が所有している世界であるかのように生きている、ということです。そうして、人間はこの世界を濫用しているのです。自然を濫用し、国家権力を濫用し、与えられている隣人との関係を濫用し、親子の絆を濫用し、自分の人生を濫用しているのです。そうです、先に述べましたように、人間は神に関わることさえ濫用するのです。
「神のものは神に返しなさい」。――まず神に返すべきは、神の像が刻まれている人間自身です。人間というこの「神のもの」が神のもとに回復されねばなりません。イエス様は、そのために十字架へと向かっておられたのです。「神のものは神に返しなさい」とは口先だけの言葉ではありません。罪の中にある人間が、罪を赦されて神のものとして神の手に返されるために、イエス様は自らをなげうつ覚悟をもって語っておられたのです。そのことが実現するために、自らが犠牲を払うつもりでおられたのです。代価を払うつもりでおられたのです。そして、事実、主は代価を払われたのです。自分の命をもって!
「神のものは神に返しなさい」。それゆえ、私たちの為すべきことは、恵みによって神のものとされた者として、自分自身を神に献げることであり、それこそが私たちの礼拝です(ローマ12:1)。そして、神に献げられた者として、この世を神のものとして生きていくために、この世に遣わされていくのです。
(祈り)
2021年10月3日日曜日
「先に神の国に入る人々」
マタイによる福音書 21:23‐32
権威についての問答
今日の聖書箇所は次のように始まります。「イエスが神殿の境内に入って教えておられると、祭司長や民の長老たちが近寄って来て言った。『何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか』」(23節)。彼らがそのような難癖をつけてきたのは、その前日にひと騒動あったからです。それは12節以下に記されています。「それから、イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。そして言われた。『こう書いてある。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている』」(12‐13節)。
神殿の境内で両替したり、動物を売っていた人たちは、無断で商売していたわけではありません。きちんと神殿当局の許可を得て行っていたのです。ところが、イエス様はそのような商売人たちを境内から追い出してしまわれました。しかも、彼らを追い出した神殿の境内で、自ら人々を教えていたのです。そのようなことをすれば、当然、問われることになるでしょう。「誰がそんな権威をお前に与えたのか」と。ここに書かれているのは、そのような場面です。
この問いに対するイエス様の答えは明白でした。「何の権威で」――神の権威によってです。「だれがその権威を与えたのか」――神が与えたのです。しかし、イエス様は彼らの質問に直接答えることはしませんでした。イエス様が「神からの権威だ」とでも言おうものなら、彼らは直ちにその発言を捕らえて問題にし始めるであろうことを知っていたからです。
それゆえに、イエス様は逆に彼らに問い返されました。「では、わたしも一つ尋ねる。それに答えるなら、わたしも、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」(24‐25節)。
「ヨハネの洗礼」については、この福音書の3章に記されています。洗礼者ヨハネという人物がユダヤの荒れ野に現れ、人々に悔い改めを呼びかけ、洗礼をさずけていました。すると多くの人々が洗礼者ヨハネのもとを訪れ、自らの罪を言い表し、悔い改めて神の赦しを求め、洗礼を受けて新しく生き始めたのです。
しかし、皆が皆ヨハネのもとに行ったわけではありません。当然のことながら、行かない人たちもいたわけです。ここに出てくる「祭司長や民の長老たち」はその代表です。彼らは上に立つ人々です。権威ある者として、人々を教え諭してきた人たちです。彼らは、ヨハネのもとに行って、自分が神の赦しを必要とする罪人であることを人々の前で認めることを望みませんでした。だから主は彼らに問うたのです。「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」と。
彼らは論じ合いました。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と我々に言うだろう。『人からのものだ』と言えば、群衆が怖い。皆がヨハネを預言者と思っているから」(25‐26節)。答えに窮した彼らは、「分からない」と答えるしかありませんでした。するとイエス様は言いました。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」。
見事です。こうしてイエス様は彼らの悪意に満ちた質問をもののみごとに退けたのでした。しかし、彼らの質問を退けるだけならば、これで対話を打ち切ってよかったはずです。ところがイエス様は彼らを手放しませんでした。むしろイエス様のほうからさらに彼らに問いかけたのです。「ところで、あなたたちはどう思うか」と。そして、二人の息子のたとえを語られたのです。私たちはこのたとえ話に耳を傾けた上で、再び最初のやり取りに戻ってくることにいたしましょう。
二人の息子のたとえ
28節以下の話は至って単純です。ここだけを聞くならば、「口先だけではだめなのだ。行動が伴わなくてはならないのだ」という単純な教訓話に聞こえます。恐らく彼らはそのように聞いていたのでしょう。だから「どちらが父親の望みどおりにしたか」という問いかけに、すぐさま「兄の方です」と答えたのです。
実際、彼らは口先だけでなく行動こそが大事だと考えていたのです。律法を守り、神の言われるとおりに生きることが大事だと考えていたのです。ですから、律法を守らない徴税人や娼婦たち、罪人たちを見下していたのです。自分たちのように、神の望みどおりのことを行い、正しく生きている者こそが、神の国に入るのだと信じて疑わなかったのです。
ところがイエス様が続けて語られたことは、まさにそのような彼らにとって、びっくり仰天するような言葉でした。「彼らが『兄の方です』と言うと、イエスは言われた。『はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」(31節)。つまりイエス様は、先ほどのたとえ話で、「お父さん、承知しました」と答えたけれど、出かけなかった弟の方が「祭司長や民の長老たち」だと言っているのです。そして、「いやです」と答えたけれど、後で考え直して出かけた兄の方が「徴税人や娼婦たち」だと言っているのです。
そんな馬鹿な!彼らはきっとそう思ったに違いありません。しかし、イエス様は次のように、その理由を説明されました。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(31‐32節)。
つまり問題は、何が父の望んでいることなのか、何が父の御心なのか、ということなのです。神は洗礼者ヨハネを遣わして義の道を示しました。父が望んでいたのは、洗礼者ヨハネを信じ、その義の道に従うことだったのです。その「義の道」とは何でしょう。それは自分が罪人であることを認め、神に立ち帰り、赦しを求めることなのです。それこそがメシアを迎えるための準備なのであり、救いに至る義の道なのです。
徴税人や娼婦たちは、自分が罪人であることを認め、罪の赦しを願い求め、洗礼を受けました。彼らはそれまで、父に向かって「いやです」と言ったあの兄のような生き方をしてきた人です。しかし、最終的に「父の望みどおり」のことをしたのです。
一方、祭司長や民の長老たちは、この世的に見れば、いわゆる「良い子」です。「お父さん、承知しました」とすぐさま答えるあの弟のような「良い子」なのです。しかし、父の望みどおりのことはしなかった。ヨハネを通して与えられた呼びかけに応えようとはしなかったのです。自分が悔い改めねばならない罪人であるとは認めなかったのです。いや、もしかしたら心の内では自分の本当の姿を認めていた人がいたかも知れません。しかし、結局はそれを公に現そうとはしませんでした。真に神と共に生きることよりも、世間体や体面の方が大事だったからです。彼らは良い子でしたが、「父の望みどおり」のことをしませんでした。
だから主は言われたのです。「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と。すなわち、徴税人や娼婦たちの方が、先にメシア・キリストに出会うのです。先に罪の赦しに与るのです。神の恵みに与るのです。先に神と共に生き始めるのです。先に救いに与るのです。先に神の国に入るのです。
再び権威の問答に戻って
さて、最初の問答に戻ります。イエス様が洗礼者ヨハネに言及したのは、単に彼らの質問を退けるためではありませんでした。先に申しましたように、もしそうならば、この二人の息子のたとえは不要なのです。イエス様が洗礼者ヨハネのことを持ち出したのは、イエス様に与えられている権威が何であるかを示すためだったのです。神がキリストに与えた権威は、罪の赦しを与えることのできる権威なのです。
そのことを良く示しているのが、この福音書の9章に出てくる物語です。主は御自分のもとに連れてこられた中風の人に、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」(9:2)と言われたのです。これを聞いた律法学者は「この男は神を冒涜している」と思いました。罪の赦しを宣言するということは、自らを神と等しいものとすることに他ならなかったからです。しかし、主はそのような彼らの心を見抜いてこう言われたのです。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」(9:6)。そして、中風の人を癒されたのでした。
このように、神がキリストに与えた権威、それは最終的には罪の赦しをもたらすための権威なのです。キリストを信じるということは、罪の赦しを与えることのできるキリストの権威のもとに身を置くことに他ならないのです。当然のことながら、それができるのは、自分が罪人であり、罪の負債を背負っていることを認める人だけです。神に赦していただいて、新しく生きたいと願う者だけなのです。すなわち、ヨハネの示した義の道を受け入れる者だけなのです。
だからイエス様は彼らに問うたのです。「ヨハネの洗礼は、天からのものか、それとも、人からのものか」と。ヨハネの示した義の道を退ける者に対して、神の権威について語っても意味がないからです。だから彼らに対して、「何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と主は言われたのです。
しかし、それはイエス様が彼らを見捨ててしまわれたということではありませんでした。イエス様はそれで話を打ち切らなかったのです。二人の息子のたとえを語られたのです。これはイエス様の最後の呼びかけであったとも言えます。なぜなら既にキリストはエルサレムにおける最後の一週間に入っているからです。「あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとはしなかった」――これは裏を返せば、今からでも考え直して、ヨハネの示した義の道を受け入れ、キリストの権威のもとに身を置くようにとの呼びかけに他ならないのです。
「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と主は言われました。――そうです、確かに彼らの方が先でしょう。しかし、後からでも良いのです。「私は正しい。私はこのままで良いのだ」と言い張らないで、自分が赦しを必要としている罪人であることを認め、罪を赦すことのできる御方のもとに身を置いて、そして神の国に入るべきなのです。それが父の望んでおられたことだったのです。そして、その父の望みは、今日もなお変わりません。父は今日の私たちにも語っておられるのです。「子よ、今日、ぶどう園へ行きなさい。今日、父の望んでいることを行いなさい」と。
(祈り)