2025年10月1日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 18:17~30

 サムエル記上 18:17‐30

 前回見ましたように、ダビデの台頭は兵士たちやサウルの家臣をはじめ、イスラエルの多くの人々に好意的に受け入れられました。しかし、そのような中でサウルだけはダビデへの敵意を募らせていきました。その敵意はついに具体的な行動として現れ始めます。はじめは発作的に槍を振り上げるというものでしたが、次第にそれはエスカレートし、本日の箇所に見るように、策略を用いてダビデを抹殺しようと企てるに至ったのです。

そのように、もはやイスラエルにとってなくてはならない存在であり、サウルにとっても極めて有用な家臣であったはずのダビデを亡き者にしようとサウルが躍起になっていたのは、単なるねたみからではありませんでした。サウルの行動の根にあったのはダビデに対する「恐れ」だったのです。この章にはそのことが繰り返し語られているのです。

 ダビデが単に優秀な軍人であっただけならば、そこまで恐れることはなかったでしょう。サウルがダビデを恐れたのは、ダビデが信仰の人であったからに他なりませんでした。既に17章に見てきたように、ダビデは主に信頼して出て行って、ゴリアトとの戦いを「主の戦い」として戦い、打ち取ることなどできようはずもないゴリアトに打ち勝ち、その首を携えて帰ってきたのです。いや、それだけではありません。サウルが派遣する度にダビデは先頭に立って出陣したのです。すなわち、恐れることなく主に信頼して戦いに出て、事実、主の名によって勝利を得て帰ってきたのでした。

そのようにして、サウルは主がダビデと共におられることを、もはや否定しようにも否定できなくなりつつありました。だからこそ彼はダビデを恐れざるを得なかったのです。彼はきっとサムエルの言葉を思い起こしていたことでしょう。「主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる」(13:14)。(こいつが、「主の御心に適う人」だと言うのか。この男に王座を渡さなくてはならないのか。)サウルはそのことを考えざるを得なくなりました。

 それはまたサウルがある意味で岐路に立たされたことを意味します。彼が恐れから解放されるためには二つに一つしかないのです。一つは主に服従する道です。主がダビデと共にいることを認めて、ダビデを受け入れ、王座を引き渡す準備をすることです。サムエルの言葉を受け入れ、自分の罪を認め、主の言葉に従い、主に服従して生きていくことです。彼は王ではなくなるかもしれませんが、それでもなお神の民の一人として生きていくことはできるでしょう。

しかし、もう一つの道があります。あくまでも主がダビデと共にいることを否定する道です。そのためには、そもそもの「主の戦い」という概念そのものを否定しなくてはなりません。それを古き伝統として葬り去らねばなりません。すなわち、神の介入があることなど認めないことです。人間の力関係がすべてを決定するのだということを証明してみせることです。

もはや「主の戦い」を語る時代ではない。主に信頼して勝利を得るなどと語るべき時代ではない。なぜならイスラエルは既に王と軍隊を擁する王国となったのだから。――もし本当にそう言い切ることができるなら、もはや恐れる必要はないのでしょう。

 そして、サウルは後者の道を選んだのです。サウルはダビデに次のように語りました。「わたしの長女メラブを、お前の妻として与えよう。わたしの戦士となり、主の戦いをたたかってくれ」(17節)。その真意はその後に説明されています。「サウルは自分でダビデに手を下すことなく、ペリシテ人の手で殺そうと考えていた」。

そうです、彼はダビデに「主の戦いをたたかってくれ」と言ったのです。そのようにしてダビデが出て行って、「主の戦い」においてペリシテ人に殺されることになればどうでしょう。主がダビデと共におられることを完全に否定できるでしょう。それこそ「主の戦い」そのものを否定できるのです。これまでのダビデの勝利は「主の戦い」による勝利などではなかった。単なる幸運が重なっただけだ。そう言って納得することができる。こうしてダビデをも主をも恐れる必要なくなります。安心して王であり続けることができるのです。

 さて、こうして見てきますとサウルの心境はとてもよく理解できるような気がします。誰にでも覚えがあるのではないでしょうか。人が神に背いているならば、神の存在がリアルに立ち現れてくることは、喜ばしいことではないのです。身の回りの出来事に、神のリアリティを感じることほど恐ろしいことはありません。その時、人はどうするのでしょうか。神の御前に悔い改めるか、それとも神のリアリティを否定するしかないのです。「これは偶然なのだ。神がなさったことなどではないのだ」と自分なりに納得するしかないのです。

 しかし、サウルの思惑とはうらはらに、ダビデは千人隊の長として先頭に立って出陣しても、戦死した遺体となって帰って来ることはありませんでした。人は自分に都合が悪ければ、いくらでも神の介入を否定しようとするのです。そして、認めないための理屈はいくらでも言うことはできる。しかし、人が否定しようが何しようが、神は生きておられるのです。主は自らを歴史の中に現わされ、現実の世界の中に現わされるのです。

 ダビデは生きて帰ってきました。しかし、ダビデはメラブを要求しませんでした。それは古代社会において一般的であった結納金の問題があったからでした。王の娘を娶るとなれば、莫大な結納金が必要となるのです。ダビデがメラブを要求しないのをいいことに、サウルはメラブを他の者に嫁がせました。メラブをダビデに与えることは、「主の戦い」を認めることになるからです。ダビデが確かに「主の戦い」を戦い、主がダビデと共にいたゆえに勝利したことを、サウル自ら認めることになる。それはできませんでした。サウルはこれが「主の戦い」による勝利であることを認めることをあくまでも拒否したのです。

 とはいえ、約束を破ってメラブを他の男に嫁がせて、「主の戦い」を拒否したからと言って、サウルの問題が解決したわけではありません。サウルはなんとしてもダビデを抹殺しなくてはなりませんでした。するとある者が、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることをサウルに告げたのです。これは好都合です。サウルはもう一度、ペリシテ人の手でダビデを殺すことを企てます。サウルは家臣を用いて、次のことをダビデの耳に入れました。「王は結納金など望んでおられない。王の望みは王の敵への報復のしるし、ペリシテ人の陽皮百枚なのだ」(25節)。

 陽皮とは男性生殖器の包皮であり、割礼において切り取られる部分です。ペリシテ人は割礼を受けていません。繰り返し「無割礼の者」と呼ばれているとおりです。つまり、陽皮百枚ということにおいて、間違いなく「ペリシテ人」を百人討ち取ったことを証明することになるのです。恐らくは、その期間が定められていたのでしょう。短期間に多くの者を討ち取ろうとするならば、当然激戦を身に招くことになります。いくらダビデといえども、今度は必ず戦死するに違いないとサウルは考えたのです。

 しかし、ダビデは何日もたたないうちに、サウルの要求に倍する二百人を討ち取って、その陽皮を持ち帰ったのです。この度は家臣が関わっております。そして、条件が満たされたことが公に証明されてしまった以上、家臣たちの手前、無為に約束を破棄することもできません。サウルはミカルをダビデに妻として与えざるを得なくなりました。

しかも、娘であるミカルはダビデを愛しているのです。かつて好都合と思えたことが、今やサウルの苦しみに追い打ちをかけることとなったのです。そして、何よりサウルにとって大きなことは、主がダビデと共におられることを、ますます否定することが困難になったということです。

 このように、ダビデを抹殺しようとしたサウルの目論みは実に皮肉な結果をもたらしました。ミカルを妻として与えたことにより、ダビデを、王位継承権を持つ一人としてしまったのです。しかも、このダビデの勝利は、彼の名声をますます高めることとなりました。サウルはいよいよ追いつめられることとなるのです。

 神御自身が生きて働き給うリアリティは、人間がいくら否定しようと試みても、このように追い迫ってくるのです。繰り返しますが、そこにおいて人は二通りに分かれざるを得なくなります。人間の側が降参し、自ら悔い改めて神の前に自分を投げ出すのか、それとも神のリアリティを認めつつも、なおもそれを否定し神の御業を抹殺するために戦いを展開するのかです。そして、サウルはさらに後者の道を行くことになるのです。


以前の記事