サムエル記上 27:1~12
26章と27章を続けて読みます時に、ダビデの姿のその落差に誰でも戸惑いを覚えるに違いありません。
26章においてダビデはアビシャイと共にサウルの陣地に下っていきます。そこで彼が目にしたのは明らかなる神の介入でした。サウルが眠っている。アブネルも兵士もその周りで眠っていた。まさに神がサウルをダビデの手に渡されたと言える出来事でした。アビシャイは自分がサウルを殺すことを申し出ます。しかし、ダビデはアビシャイに「殺してはならない」と言ったのです。理由は24章の出来事と同じです。ダビデにとってサウルは敵ではなく、主に油注がれた方なのです。
サウルは命を救われたことを悟り、ダビデに言います。「わたしが誤っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない」(26:21)。しかし、ダビデにとってもはやサウルが危害を加える意志があるか否かは問題ではありませんでした。そうではなくて、神の約束こそが意味を持つのであり、神が約束を実現しようとされるなら、サウルが何を企んでも問題ではないのです。
ダビデは言いました。「今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように」(26:24)。これが26章に見るダビデの姿です。信仰によって自らの命を主の手に委ねたダビデです。しかし、なんとその直後の27章においてダビデは自らの心に言うのです。「このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない」(1節)。いったいこれはどうしたことでしょう。
もちろん、事情を考えるならば、ダビデがそう言わざるを得なかったことも理解はできます。明らかにサウルは前言を撤回し、再び追跡を初めています。ダビデに従う兵は六百人。しかし、共にいるのは兵士だけではありません。自分の家族、また兵士らの家族も共にいるのです(3節)。ダビデは彼らをも守らなくてはなりません。また、彼らに食料を調達して食べさせていかなくてはなりません。これまでの経験から言って、ユダの町々に頼れないことは明らかでした。ダビデは幾度も裏切られてきたのですから。ですので、「ペリシテの地に逃れるほかない」という考えが、ダビデにとって苦肉の策であったことは理解できます。
しかし、問題は単に彼がペリシテ人の地に行ったことではありません。彼がどのように決断したかなのです。なんとこの章にはただの一度も主の名が現れてはこないのです。エフォドを携えるアビアタルも登場しません。ダビデは「心に思った」と書かれています。これは「自分の心に言った」というのが直訳です。彼は主に御心を問うのではなく、自分の心と語り合って決めたのです。つまり、そこには主との対話がないのです。
この事実がすべてを物語っています。主は生ける神です。主との関係は人格的な交わりです。信仰の人であるということは信念の人であるという意味ではありません。信念はそう簡単には変わらない。しかし、信仰の命は主との生ける交わりです。昨日まで信仰の人であったとしても、主との対話を失えば、ペリシテ人と何ら変わることはありません。生ける神に向くことがなければ、ダビデに与えられている約束も意味を持つことはないでしょう。そのようなダビデとして、彼はペリシテの地へと向かったのです。
ダビデがガトの地に逃れたのは、これが初めてではありません。21章において彼はガトを訪れています。あの時、彼は恐れに捕らわれ、狂人を装ってそこから逃れたのでした。彼は再び同じところへと向かいます。
今度は事情が違うこともありました。既に、ダビデがイスラエルにおいては反逆者と目され、サウルに追われている身であるというニュースは、ペリシテ人の各都市に伝えられていたことでしょう。そして、ダビデのもとには少なくとも六百人の兵士が共にいます。ペリシテ軍は積極的に傭兵を受け入れておりましたし、その中には寝返ったヘブライ人が少なからずいたようですから(14:21)、いわば反乱軍とされている彼らはペリシテ人に歓迎されることでしょう。ダビデにはそのことが分かっていたのです。
ダビデの目算はみごと当たりました。サウルは追跡を断念しました。そして、ガトのアキシュから厚遇されました。しかし、いくつか残されている問題がありました。ガトに住み、王のもとにいるならば、当然のことながらペリシテ人との交流が避けられません。ペリシテ人の神ダゴンの祭儀にも参加を要請されることでしょう。
そして、もう一つの大きな問題があります。傭兵としてそこにいるかぎり、やがてユダの人々と戦わなくてはなりません。ダビデはアキシュのもとに身を寄せましたが、寝返ってペリシテ人の軍隊に組み込まれているヘブライ人と同じではありませんでした。ダビデがサウルをあくまでもサウルを主に油注がれた者として見なしたように、ダビデにとってイスラエルはあくまでも神の選びの民なのです。そこから自らを切り離すようなことはできませんし、戦うこともできません。
そこでダビデは策を講じます。まずある程度アキシュのもとから離れて共同で住むことのできる場所を求めました。ダビデの言葉は巧みです。彼は謙遜を装ってこう言うのです。「御厚意を得られるなら、地方の町の一つに場所をください。そこに住みます。僕が王国の首都で、あなたのもとに住むことはありません」(5節)。アキシュは彼にツィクラグを与えました。これである程度の独立は保てました。
そして、さらにダビデと兵士たちは、イスラエルと敵対し、しばしば被害をもたらしている周辺諸民族を襲い始めたのです。そして、彼らを全滅させ、分捕り品を携えてアキシュのもとに帰って報告したのです。ユダのネゲブを、エラフメエル人のネゲブを、カイン人のネゲブを襲いました、と。
エラフメエル人はユダの一氏族です。カイン人はモーセの身内でしたから、歴史的にユダと親交関係にあります。つまり、あたかもユダの諸氏族やユダの味方を討ってきたかのように装ったのです。しかも、この偽りが発覚しないように、彼らを皆殺しにしたのでした。
この記述に私たちは人道的に許し難いものを感じますが、私たちが、このダビデの行為について、現代人の感覚をもって過剰に反応することは正しくないでしょう。ダビデの展開した戦闘は、イスラエルにとって経常的な戦闘の延長でしかありませんでした。何ら特別なことをしていたわけではないのです。しかし、それにしても、やはりこれを神の命じた戦い、主の戦いと同一視することはできないでしょう。明らかにダビデは神の御心に背いているのです。
それでもなお、結果的に見るならば、ダビデの策略はすべて成功しました。ツィクラグの地も得ましたし、アキシュはすっかりダビデを信じていました。「彼は自分の民イスラエルにすっかり嫌われたから、いつまでもわたしの僕でいるだろう」(12節)と思っていたのです。気の毒なくらいのお人好しです。ともかくアキシュの人の良さのゆえに、ダビデは当面の成功を収めたのでした。
しかし、偽りは偽りを次々に生んでいくものです。そのうちに偽りの糸はほどけなくなるほどに絡まっていく。そして、次第に偽る者を窮地に追いやるのです。ダビデの偽りもまた例外ではありませんでした。偽りを巧みに操ったダビデの策略が、彼自身を窮地に追い込むことになるのです。ほどなくして、ペリシテとイスラエルがついに全面戦争に突入することになるからです。ペリシテ人が軍を集結させたとき、アキシュはダビデに言いました。「あなたもあなたの兵もわたしと一緒に戦陣に加わることを、よく承知していてもらいたい」(28:1)。
そして、もう一つ。最も賢い選択であったはずのツィクラグへの居住が、恐るべき悲劇をもたらすことになります。ダビデと兵士たちがペリシテ軍と合流してアフェクに集結している間に、策略として討っていたアマレク人が報復攻撃をしかけ、町に火をかけ兵士の家族を連れ去ってしまうのです。ダビデは苦しみの中で、主に向かざるを得ないところまで追い込まれることになるのです(30:6)。しかし、それはダビデにとっては良いことでありました。それは神に立ち帰る契機となったからです。