サムエル記上 20:1-23
前の章において、私たちはサウルがヨナタンの言葉を聞き入れ、「主は生きておられる。彼を殺しはしない」(19:6)と誓ったことを読みました。しかし、「主は生きておられる」という誓いの言葉は、サウルにとっては形式的な誓いの表現に過ぎなかったのです。彼は本当に「主は生きておられる」とは思っていない。あるいは正確に言うならば、そう思いたくないのです。「主が生きておられる」ことを否定したいのです。ですから、その誓いの言葉は簡単に破られてしまいます。サウルは再びダビデを亡き者にするために画策するようになりました。彼は発作的にダビデを槍で突き刺そうとしただけでなく、彼を殺すためにダビデの家に刺客を送り込んだのです。その時にはミカルの助けによって難を逃れたのでした。こうしてダビデはラマのナヨトにまで逃げていかなくてはなりませんでした。そこでまことに不思議な仕方でダビデが守られたことを私たちは見てまいりました。今日はその続きです。
ダビデはラマから戻るとヨナタンに会って問います。「わたしが、何をしたというのでしょう。お父上に対してどのような罪や悪を犯したからといって、わたしの命をねらわれるのでしょうか」(1節)。これに対してヨナタンは「決してあなたを殺させはしない」と答えます。しかし、これは直訳すると「決してそのようなことはない。あなたは死ぬことはない」と書かれているのです。話の流れからすると、明らかにヨナタンはサウルが誓いを破ったことを知らないのです。(「決してあなたを殺させはしない」と訳してしまうと、ヨナタンがサウルの殺意を知っていることになるので、適当ではありません。もはやサウルの殺意を確かめる必要はないので、今日の箇所に書かれていることは意味がなくなります。)
サウルが刺客まで送り込んでいるのに息子のヨナタンが全くこれを知らないということは驚きですが、ダビデが3節で指摘しているとおり、ダビデ殺害の計画をヨナタンに気付かれないように、サウルは細心の注意を払っていたものと思われます。ヨナタンとダビデの親しい関係を知っていたからです。ということで、ヨナタンは依然として父サウルが誓いを守るものと信じているのです。
それに対して、ダビデもまた主の御前に誓いを立て、確かにサウルに命を狙われていることを訴えるのです。「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。死とわたしとの間はただの一歩です」(3節)。こうしてヨナタンは二つの誓いの狭間に立たされることになりました。ヨナタンはまだサウルを信じています。しかし、ダビデをも信じているのです。それゆえに、どちらが真実であるのか、確かめざるを得なくなりました
そこでヨナタンはダビデに「あなたの望むことは何でもしよう」と言います。そこでダビデが提案したことは、新月祭の食事にダビデが欠席するというものでした。もしサウルがひどく立腹するならば、ダビデに危害を加えようとしていることが分かるからです。そこでヨナタンもまた誓いを立てます。サウルがもしダビデに危害を加えようと決心していることが分かったら、必ずダビデに知らせることを誓うのです。「父が、あなたに危害を加えようと思っているのに、もしわたしがそれを知らせず、あなたを無事に送り出さないなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰してくださるように」(13節)。
さて、このヨナタンの誓いは、ダビデとヨナタンとの関係がいかなるものであったかを示していると言えるでしょう。もしサウルが誓いを守る意思がないことが判明し、しかもヨナタンがこの誓いを守ろうとするならば、ヨナタンは極めて難しい状況に置かれることになります。つまりサウルがダビデを殺そうとしているのに、ヨナタンがそれでもなお主に対する誓いを守ってダビデを助けようとするならば、自らの命を賭けることになるでしょう。しかし、それこそがダビデとヨナタンとの関係だったのです。それは単なる愛情や友情という言葉で表現され得ないものです。それは繰り返し「契約」と表現されているのです。その契約は「主の御前で」(8節)結ばれたものに他ならないのです。
この世における自然な関係においては、常に相手が「私にとってどのような存在か」が問題になります。私にとって都合の悪い存在であれば、サウルにとってのダビデのように、抹殺の対象とさえなります。それは親子のような血縁関係でも同じです。子供はしばしば親にとって自分自身の延長でしかありません。サウルにとってのヨナタンもそうでした。サウルにとってヨナタンが王位を継承しないことは、自ら王位から退けられることに等しいのです。ですから来週読む箇所ですが、自分の延長であるヨナタンが自分の思い通りにならなければ、ヨナタンに対して槍を投げつけることさえするのです(33節)。親子でさえそうですから、ありとあらゆる関係において同じことが言えます。
一方、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛したと書かれていますが(18:1)、しかし、それはこの世の自然の関係としてではなく、主の御前における契約という形を取ったのです。すなわち「わたしとあなた」という直接的な関係ではなく、主が間におられる関係であるということです。「主がとこしえにわたしとあなたの間におられる」(23、42節)と語られているとおりです。主が間におられる関係においては、「私にとってどのような存在か」が重要なのではなく、相手が「主にとってどのような存在か」ということだけが重要となるのです。
さて、そのような主が間におられる関係、主の御前における契約の関係ということで思い起こされるのは、キリストの血によって立てられた新しい契約に基づく契約共同体でしょう。すなわち教会です。ここにいる私たちの関係です。私たちを本質的に結びつけているのは、この世における愛情や友情の類ではありません。もちろん、それらは大事ですが第一のものではありません。私たちは主の御前における契約によって結ばれているのです。私たちの間には主がおられるのです。ですから、「私にとってどのような存在か」が重要なのではなく「主にとってどのような存在か」が重要なのです。すなわち互いをイエスの血によって贖われた人として見て重んじるのです。
ダビデとヨナタンの間はそのような契約によって結ばれていました。ですから、一見すると驚くような言葉がヨナタンの口から発せられることになるのです。彼はダビデに言いました。「主が父と共におられたように、あなたと共におられるように」(13節)。この場合、「主が共におられる」ということは抽象的なことではなく、王位にあることを意味していると考えて良いでしょう。サウルはまぎれもなく神によって選ばれた王であり、神によって立てられた王であり、神が共におられたゆえに王であり得たのです。そして、「あなたと共におられるように」という言葉をもって、ヨナタンはダビデが王位を継承することを承認しているのです。
つまり、サウル王家は一代で終わり、ダビデ王家がこれに取って代わるということです。後にヨナタンはもっとはっきりとこのことを述べています。「恐れることはない。父サウルの手があなたに及ぶことはない。イスラエルの王となるのはあなただ。わたしはあなたの次に立つ者となるだろう。父サウルも、そうなることを知っている」(23:17)。これがダビデとヨナタンが交わす最後の言葉となるのです。
さらにヨナタンはダビデが王となる時に、ヨナタンが生きていても死んでいても、ヨナタンの家系に慈しみを断たないで欲しいと懇願します。古代世界において王朝が交替する時、前の王朝の家族が皆殺しにされるということは決して珍しいことではなかったからです。そうでなくては、現王朝が安定した基盤を持つことはあり得ないでしょう。ですから本来ならサウル王家は皆殺しにされる。しかし、ヨナタンは子孫を滅ぼさないで欲しいと今から願っているのです。ここからも、ヨナタンがダビデが未来の王となることを承認していることがわかります。
滅び行く王家の王子であるヨナタン。次に王位に着くことになるダビデ。この二人の関係は、この世的に見るならば、とうてい共に立ち得ない厳しい関係です。しかし、そこに肉親との交わりよりも麗しい交わりが存在していたのです。それは主の御前における契約のゆえでした。まさにそれは主によってのみ成り立つ交わりでありました。主の食卓を囲む教会の交わりとは、本来そのようなものであることを改めて考えさせられます。