ホセア書 5:1‐15
4章からホセア書の第二部に入りました。その冒頭の言葉は「主の言葉を聞け」(4:1)でありました。5章に入って、再び「聞け」という言葉が繰り返されます。神は、どれほど語ろうとも決して聞き従おうとしないイスラエルの民、目先の問題の解決や安易な救いを求めて「木に託宣を求め、その枝に指示を受ける」(4:12)ようなことをしている民に、それでもなお関わり続け、語り続けるのです。
「聞け、祭司たちよ。心して聞け、イスラエルの家よ。耳を傾けよ、王の家よ。お前たちに裁きが下る。お前たちはミツパで罠となり、タボルの山で仕掛けられた網となり、シッテムでは深く掘った穴となった。わたしはお前たちを皆、懲らしめる」(5:1‐2)。
ここで語りかけられているのは、「祭司たち」であり「イスラエルの家」であり「王の家」です。祭司たちと王家と共に出てくるので、この場合「イスラエルの家」とは、北王国の全国民と言うよりは、長老たちなどの指導者層を指しているものと思われます。そこで上げられている三者に呼応するように、「罠となり」「網となり」「穴となった」と語られているのです。
ここで彼らが「罠にはまった」「網に捕らえられた」「穴に落ち込んだ」者たちとして語られていないことに注意してください。彼ら自身が罠や網や落とし穴になってしまっていることが問題なのです。彼らがそうなっているということは、その罠にはまったり、落ちたりする人々がいるということです。それはイスラエルの民衆です。その結果、イスラエル全体が主に背き去ることになったのです。
人が神に背く時、その事実はただその人のみに関わるのではありません。一人の不信仰は、必ず他の者に影響を与えることになります。一人が罠となれば、他の者がそこに落ち込むことになるのです。王や祭司が迷えば民も迷うことになるのです。一つの世代のあり方は、次の世代の歩みを必ず左右することになるでしょう。
私たちは、次の世代にとって祝福ともなり得るし、罠ともなり得るのです。イスラエルの祭司も、長老たちも、王家の人々も、神の民としての伝承と神の律法を正しく保持し、継承させる責任を負っている人々であるはずでした。しかし、そのことを正しく為しえなくなった時、彼らは「罠」となり「網」となり「穴」となったのです。この事実を、私たちもまた厳粛に受けとめねばなりません。
そのように罠となった人々、また罠に落ち込んだイスラエルの民全体に対して、主はなおも関わられます。主は言われるのです。「わたしはお前たちを皆、懲らしめる」と。「懲らしめる」という言葉はまた、「訓練する」ことをも意味します。その目的は滅ぼすことではありません。立ち帰らせることにあるのです。主がこのように語られるのは、主が御自分の民の現実を知り尽くしておられるからです。
「わたしはエフライムを知り尽くしている。イスラエルがわたしから隠れることはできない。まことに、エフライムは淫行にふけり、イスラエルは身を汚している。彼らは悪行のゆえに、神に帰ることができない。淫行の霊が彼らの中にあり、主を知りえないからだ」 (5:3‐4)。
聖所の祭儀も、宗教的な日常の生活も、確かに主の名によって行われていました。しかし、何ものも神から隠れることはありません。彼らが追い求めているのは主御自身ではなく、豊穣と繁栄なのであり、彼らが願っているのは主との交わりではなく、欲望の充足でしかないことをご存じなのです。ただ淫行にふけり、身を汚すばかりの彼らの現実は、主の御目から隠れることはありません。そして、彼らはもはやその悪行によって主に立ち帰ることすらできません。淫行の霊によって捕らえられているからです。
この「帰ることができない」という言葉は、エレミヤ書などにも繰り返し現れます。これは恐るべき言葉です。悔い改めようと思えばいつでも悔い改められる。立ち帰ろうと思えばいつでも立ち帰ることはできる。私たちがそのように考えているとするならば、それは大きな間違いです。主はここで、確かに罪のもたらす恐るべき現実を見ておられるのです。人がもはや神に帰れなくなるという現実です。それゆえに、主は言われるのです、「わたしはお前たちを皆、懲らしめる」と。主はその民を懲らしめざるを得ません。なぜなら、そのままでは、彼らは決して主に立ち帰ることはできないからです。主からの働きかけなくして、罪に捕らえられた人間が主に立ち帰ることはできないのです。
「イスラエルを罪に落とすのは自らの高慢だ。イスラエルとエフライムは、不義によってつまずき、ユダも共につまずく。彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが、見いだすことはできない。主は彼らを離れ去られた。彼らは主を裏切り、異国人の子らを産んだ。それゆえ、新月の祭りが、彼らをも、その所有をも食い尽くす」(5:5‐7)。
「高慢」という言葉がここに現れるのは、いささか唐突であるような気がいたします。しかし、よくよく考えて見るならば、人間の罪深い現実の根っこには、いつでも人間の高慢さ、高ぶりがあるのではないでしょうか。「高慢は人間の最初の罪であり最後の罪である」と言った人がいましたが、まことにその通りだと思います。ここで語られている高慢とは、ひたすら自分のために栄光を求めることです。高慢は、神にではなく自己に栄光を帰することです。人間の欲望は実にここに極まります。人間のあらゆる営みは、この欲求の充足へと向かっているとも言えるでしょう。しばしば、神礼拝さえもその手段や道具とされるのです。
ですから、彼らはもはや神を見出すことができません。彼らは、羊と牛を携えて主を尋ね求めます。彼らは主の御名を唱えて礼拝を捧げます。しかし、彼らの関心は神の栄光にはありません。彼らの関心は神に向いているのではなく、最終的には自分にしか向いていないのです。そのような彼らは主を見いだすことができません。なんと、ここで「主は彼らを離れ去られた」と書かれているのです。主はその礼拝する民の間に、もはや共にはおられないというのです。
そのままでは、主を見いだすことができず、主を知ることもできない。高慢であるままで、人は主に立ち帰ることはできません。それゆえに、神の懲らしめが必要とされるのです。神の懲らしめは、人間の求めてやまない自己の栄光へと向かいます。神の懲らしめの御手は、人間の高ぶりの心を打ち砕くために動かされるのです。
それが具体的にどのように実現するのか。主は次のように語られます。
「ギブアで角笛を、ラマでラッパを吹き鳴らせ。ベト・アベンで鬨の声をあげよ。ベニヤミンよ、背後を警戒せよ。懲らしめの日が来れば、エフライムは廃虚と化す。確かに起こることをわたしはイスラエルの諸部族に教えた。ユダの将軍たちは国境を移す者となった。わたしは彼らに、水のように憤りを注ぐ。エフライムは蹂躙され、裁きによって踏み砕かれる。むなしいものを追い続けているからだ。わたしはエフライムに対して食い尽くす虫となり、ユダの家には、骨の腐れとなる。エフライムが自分の病を見、ユダが自分のただれを見たとき、エフライムはアッシリアに行き、ユダは大王に使者を送った。しかし、彼はお前たちをいやしえず、ただれを取り去ることもできない。わたしはエフライムに対して獅子となり、ユダの家には、若獅子となる。わたしは引き裂いて過ぎ行き、さらって行くが、救い出す者はいない」(5:8‐14)
ホセアが見ているのは戦乱によって傷ついた国土です。すべての繁栄が失われ、廃墟となったエフライムであります。ギブア、ラマ、ベト・アベンという地名は南から北へ向かうように列挙されています。ここには南ユダが北イスラエルに侵攻している様子が描き出されています。紀元前733年、シリア・イスラエル同盟軍とユダの間に戦争が起こりました。シリア・エフライム戦争などと呼ばれます。ここに語られているホセアの預言の背後には、このシリア・エフライム戦争があると言われます。
しかし、ここで重要なことは、イスラエルにとって本当の敵はユダではなく、ユダにとって本当の敵はイスラエルではない、ということです。彼らに敵対して行動を起こしておられるのは神御自身であると語られているのです。「わたしはエフライムに対して食い尽くす虫となり、ユダの家には、骨の腐れとなる」(12節)と語られているとおりです。
彼らはそのことを知りませんでした。それゆえに、危機的状況の中で、大国の助けを求めます。アッシリアに行き、大王に使者を送るのです。彼らの姿と、いつでも人間に頼って安易な解決を求めようとする私たちの姿が重なります。しかし、彼らにとって本当の危機は戦乱の中にあるのではないのです。神との正しい関係が失われていることにこそあるのです。彼らが罪のうちにあることこそ、最大の危機なのです。ですから、アッシリアに頼ることは最終的な解決にはならないのです。「彼はお前たちをいやしえず、ただれを取り去ることもできない」(13節)のです。
神は、そのようなエフライムに対して獅子のように、ユダに対して若獅子のように行動されます。獅子が獲物を引き裂くように、神は彼らを引き裂かれるのです。何と恐るべきことでしょう。しかし、それは彼らを滅ぼすためではありません。主は彼らを捨ててしまわれたのではありません。神の望んでおられることは、人が神に立ち帰ることなのです。人がもはや立ち帰ることができなくなっているゆえに、神は懲らしめの業を通して、高慢さを打ち砕き、罪を認めることができるようにし、立ち帰るための道筋をつけられるのです。
それゆえ、主はこう言われるのです。
「わたしは立ち去り、自分の場所に戻っていよう。彼らが罪を認めて、わたしを尋ね求め、苦しみの中で、わたしを捜し求めるまで」(5:15)。
神が人を苦しみの中に置かれるとするならば、その苦しみには意味があります。彼らにとって、苦しみの中に置かれたのは、そこで自分の罪を認めることができるようになるためでありました。人がそこから主を尋ね求め、捜し求めるようになることを、主は何よりも望んでおられるのです。その御手に罪の赦しの恵みを携えて、主は待っておられるのであります。
2025年1月29日水曜日
祈祷会用:ホセア書 5:1-~15
2025年1月26日日曜日
「救いをもたらす神の力」
2025年1月26日 主日礼拝説教
聖書:ローマの信徒への手紙 1:8-17 今日は、パウロがローマの教会に宛てた手紙をお読みしました。パウロはこの手紙を、恐らくギリシアの大きな港町であったコリントから書き送ったものと思われます。第3回目の伝道旅行の途上のことです。
パウロはいずれローマの教会を訪ねたいと考えていました。ローマの教会は、パウロの伝道を通して生み出された教会ではありません。それゆえ、ローマを訪れる前に手紙を書き送っておく必要を感じて、これを書いているのです。
今日お読みしました8節以下には、パウロがどのような意図をもってローマを訪問しようとしているかが記されております。パウロがローマを訪問するに当たって、まずその意図を正しく理解して欲しいと願っているのです。神の御前においては、働きの大きさではなく、そこにある意図や動機、その「心」が大事であることを知っているからです。それゆえに、これがローマの人たちに対しても明らかにされることを願っているのです。まかり間違っても、パウロが自らの勢力範囲を広げようとしてローマに行くかのように誤解して欲しくはありませんでした。パウロの計画の根底にあるものを正しく理解した上で、迎えて欲しいと願っていたのです。
神に感謝します
初めに8節以下を御覧ください。
「まず初めに、イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。わたしは、御子の福音を宣べ伝えながら心から神に仕えています。その神が証ししてくださることですが、わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」(8‐10節)。
パウロはまずここで神に感謝を捧げます。ローマの人たちの「信仰が全世界に言い伝えられている」ことを感謝しているのです。彼らがいわゆる立派な信仰者であり、あるいは大きな働きをしているからではありません。ただローマにキリスト者がいると知られている――そのことを言っているのです。そして、それを神に感謝しているということは、このことが他ならぬ神御自身の業であると、パウロが理解していることを表しています。ローマに教会がある。その信仰が公に知られている教会がある。それが誰の手によって成ったか。パウロの働きによるのか、他の人によるのか、それはどうでも良いのです。彼にとって大事なのは、神の御業がそこに現れているという事実だったからです。
それゆえ、ローマ訪問についても、「何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています」と書いているのです。なんとしても行きたいという思いはあります。しかし、それは「神の御心によって」なのです。人間が何かを実現すること、達成することではなくて、あくまでも神の望んでおられることが、神の御業として実現することを願っているのです。
ですからパウロが「願っている」という時、それは9節にあるように「祈っている」ということに他ならないのです。単なる「願い」と神の御前における「祈り」とは異なります。パウロは神を証人に立てて、その意図を語ることができました。それは彼が常に祈っているからです。彼の全ての営みの背後に祈りがあるからです。
訪問の目的
そこで彼は神に祈り願っている訪問の目的を明らかにしていきます。11節以下を御覧ください。「あなたがたにぜひ会いたいのは、“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて、力になりたいからです。あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」(11‐12節)。
その第一の目的は、教会を力づけることにありました。パウロは彼ら一人一人が信仰者としてしっかり立てるように力づけたいのです。また教会としてもしっかり立ち得るように、彼らを助けたいのです。それが彼の祈りでした。
しかし、このことについても、パウロはあえて「“霊”の賜物をいくらかでも分け与えて」と言っております。この「“霊”の賜物」が何を意味するのかは必ずしも明らかではありません。しかし、ここであえて「“霊”の」賜物と言っていることは重要です。「“霊”の」賜物ということは、神から来る賜物であるということです。
パウロは自分自身が優れた伝道者であり教師であるから、彼らを助け力づけられるとは思っていないのです。あくまでも、彼らに分け与えることができる最善のものは自分の内にある何かではなくて、神から来るものであるということを知っているのです。彼は神に用いられる器に過ぎない、神の恵みを運ぶ器に過ぎないことを知っているのです。
しかも、彼はすぐさま12節を続けます。パウロが彼らより上に立っている特別な人物であるかのように誤解されることを避けるためです。彼はここで、ただ一方的に何かを与えるというのではなく、「あなたがたのところで、あなたがたとわたしが互いに持っている信仰によって、励まし合いたいのです」と言っているのです。パウロ自身も励まされることを願っている。そして、それは人間から出る何かによるのではなくて、互いの信仰によるのであり、神によるのだ、ということです。
本当に人を生かすものは罪ある人間の内からは出てきません。人は神から受けなければ分かち与えて人を真に生かすことは出来ないのです。教会におけるお互いにおいてもそうです。互いが信仰を励まし合うことができるとしたら、それは神からそれぞれが受けることなくしてあり得ない。だから私たちお互いが、真に信仰に生き、神と共に生きているということが大事になるのです。肉から出たものは肉に過ぎません。人間から出るものによって、肉から出るものによって、キリストの体なる教会も建て上げることは出来ません。繰り返します、私たち一人一人が信仰に生き、神との交わりの中において豊かに神から受けることなくして、キリストの教会が形作られることはないのです。
負債者として
さらにパウロのもう一つの目的は、ローマにおいて福音を宣べ伝え、伝道の実りを得ることでありました。すなわち、既にパウロが語っているように、「その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導く」ために、パウロはローマに向かおうとしていたのです。13節以下を御覧ください。
「兄弟たち、ぜひ知ってもらいたい。ほかの異邦人のところと同じく、あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです。わたしは、ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります。それで、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです」(13‐15節)。
実際、多くの迫害と困難の中で様々な労苦を負いつつ数々の教会を生み出してきたパウロの働きには、ただただ驚嘆するばかりです。そして、彼は繰り返し命の危険に曝されながら、なおエルサレムに向かい、その後ローマにまで向かおうとしているのです。
しかし、パウロのそのような働きを、彼自身どのように考えていたかが、この手紙によく現れております。彼は「何か実りを得たいと望んで」ローマに向かおうとしています。ここに用いられているのは、農夫のイメージです。収穫を刈り入れる農夫です。そこには、確かに彼の働きがあるのだけれど、実りをもたらされるのは神御自身であるという理解があります。ローマの信徒たちの信仰について、パウロが神に感謝していたことを思い起こしてください。彼は神に用いられる一労働者として、ローマに向かおうとしているのです。
そして、それは「ギリシア人にも未開の人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任がある」からなのだ、と言うのです。「果たすべき責任がある」と訳されているのですが、実は、ここには直訳すると「わたしは負債者だ」という言葉が用いられているのです。パウロは自らを「負債者」と呼ぶのであります。つまり、彼がどれほど労苦を重ねたとしても、それは何一つ誇るべき事ではなくて、ただ返済しているだけなのだ、と言っているのです。彼が御言葉を宣べ伝えたからと言って、それは彼の誇りにはならないのです。彼は負債者だからです。
どうしてパウロは自らを負債者と呼ぶのでしょうか。それは、彼が恵みの内にいるために、どれほど大きな愛の犠牲が払われたかを知っているからです。それは第一義的には神の愛であり、神の犠牲です。パウロは、彼のために他ならぬ神の子が十字架において血を流されたことを知っているからです。そして、第二義的には、彼の現在は、人の愛と労苦に負っているということです。彼がその福音を聞くに至るまでに、他の多くのキリスト者たちの労苦があったことを知っているのです。パウロの回心に至るまでに、そしてパウロが伝道者となるに至るまでに、多くの人々の涙が流され、血が流されたことをも、パウロは知っているのです。
もとより、十字架の犠牲において、既に払いきれない負債です。ただ感謝をもって自らを捧げるしかないのです。そして、させていただけることを感謝をもって為すことしかできないのです。しかし、それは私たちも同じなのでしょう。どれだけ神のために、あるいは人のために労苦したところで、なんら誇るべきことは何一つない。私たちはただ感謝をもって、恩返しをしながら、福音を伝えていくのです。
そのように、私たちの為しえるところは、ただ感謝をもってその愛のいくばくかをお返しするところまでです。人間の救いに関わること、教会に関わること、私たちの間で真に起こっていること、また起こるべきことは神の御業です。ですから、私たちが信仰によって生きること、神と共にあることが重要になるのです。それゆえにパウロは言っているのです。「わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(16-17節)。
2025年1月22日水曜日
祈祷会用:ホセア書 4:11~19
ホセア書 4:11‐19
ソロモンの時代まで統一王国であったイスラエルは、その子レハブアムの時代に、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。ダビデ王家に反旗を翻して北王国の王となったのはヤロブアムです。イスラエルの十の部族を治める者となった彼には、しかし、一つの不安がありました。それはエルサレムの神殿が南のユダにあるということです。彼は、こう心に思いました。「今、王国は、再びダビデの家のものになりそうだ。この民がいけにえをささげるためにエルサレムの主の神殿に上るなら、この民の心は再び彼らの主君、ユダの王レハブアムに向かい、彼らはわたしを殺して、ユダの王レハブアムのもとに帰ってしまうだろう」(列王上12:26‐27)。そこで彼はよく考えた上で、金の子牛を二体造り、人々に言いました。「あなたたちはもはやエルサレムに上る必要はない。見よ、イスラエルよ、これがあなたをエジプトから導き上ったあなたの神である」。こうして彼は、一体をベテルに、もう一体をダンに置いたのです。
人々の心をつなぎ止めておくために、しばしば有効な手段として用いられるのは宗教です。世に現れた多くの支配者が、その手段を巧妙に用いてきました。ヤロブアムにとっても、また後の王にとっても、国家が維持されていくためには、イスラエルの宗教が民衆にとって魅力的であることがどうしても必要とされました。そこで、ヤロブアムは、さらに数ある聖なる高台に神殿を設け、そこでレビ人でない民の中から祭司に任じ、祭儀を盛大に執り行わせ、また王自ら祭壇に立っていけにえを捧げたのでした。その「聖なる高台」とは、先住のカナン人がかつて神々を礼拝していた聖所のあった場所のことです。ヤロブアムは改めてそれらの高台を主の礼拝の場所として重視したのでした。そのようにしてカナンのバアル礼拝と区別の付かなくなった彼らの礼拝は、王国において民衆の心を惹きつけたのです。そして、それは魅力的な宗教であり続け、約二百年後のホセアの時代にまで至っていたのでした。
さて、今日、日本の伝道が論じられる場において、しばしばキリスト教会の魅力のなさが語られます。もっと魅力的な教会にならねばならないと言われます。確かに、キリストの福音は、本来非常に魅力的なものであるはずです。代々の聖徒たちは、この福音の故に、喜んで命を捨てさえしたのですから。ですから、教会は本当の意味で、魅力的にならねばならない、福音の魅力をこの世界に証しすることのできる教会とならねばならないと思うのです。しかし、宗教の魅力というものを安易に提供したり求めたりするところには、大きな危険が伴うことを、私たちは見落としてはなりません。列王記を読みますと、ヤロブアムのしたことは、後々に至るまで「ヤロブアムの罪」として言及されているのです。そして、ホセア書において激しく告発されているのも、また一般的に見れば、多くの人々が喜んで熱心に関わっている、非常に盛んな聖所であり、そこにおける祭儀だったのです。
「ぶどう酒と新しい酒は心を奪う。わが民は木に託宣を求め、その枝に指示を受ける。淫行の霊に惑わされ、神のもとを離れて淫行にふけり、山々の頂でいけにえをささげ、丘の上で香をたく。樫、ポプラ、テレビンなどの木陰が快いからだ。お前たちの娘は淫行にふけり、嫁も姦淫を行う。娘が淫行にふけっても、嫁が姦淫を行っても、わたしはとがめはしない。親自身が遊女と共に背き去り、神殿娼婦と共にいけにえをささげているからだ。悟りのない民は滅びる」(4:11‐14)。
ここに彼らを魅惑した宗教がいかなるものであったかが言い表されています。それは「酒」と「淫行」によって代表されているのです。飲酒と性行為による陶酔の中で彼らは「木に託宣を求め、その枝に指示を受け」たのです。私たちは、この描写と近年の特殊なカルト宗教とを重ね合わせることができるかも知れません。しかし、実はこの一つ一つの要素は、決して私たちと無縁のものではないのです。私たちの信仰生活が、これと文字通り同じ行為を伴わないとしても、その本質がイスラエルのバアル宗教と大差ないものとなる可能性はいくらでもあるのです。
祭儀にぶどう酒や新しい酒が伴うのは、元来その年の収穫を感謝するという意味だったのでしょう。しかし、ここに見るように、それは本来の意味を失い、ただ熱狂と興奮を得るための手段となっていました。また、祭儀に性行為が持ち込まれているのも同じ意味合いでした。建前としては、作物を実らせる、男神バアルと、大地の女神アシェラの間の性行為を模倣するという意味でした。しかし、それもまた、ただ熱狂と興奮を得るための手段でしかなかったのです。
そのように、宗教に非理性的な世界、非日常的な世界を求めるのは、世の常です。非理性的・非日常的世界を求めるのは、いつでも理性的に向かい合わなくてはならない現実から逃避するためです。世俗の世界においてもしばしば酒や性行為がそのための手段として用いられます。それが宗教の世界に持ち込まれると、ここに書かれているようなことが起こるのです。しかし、そのような現実逃避は、今日の世界においても、酒が用いられなくても、性行為が用いられなくても、いくらでも起こります。様々な形で、宗教が現実逃避のために用いられることは起こり得ますし、そのような宗教はとても魅力的に見えるものなのです。
そして、彼らはそのような状態において、木に託宣を求め、その枝に指示を受けたのでした。「木に託宣を求める」とは、具体的には祭壇の傍らに立つアシェラ像よりの託宣を求めることを意味するものと思われます。また、「枝に指示を受ける」の「枝」とは、占い棒の類でありまして、一説によりますと、二本の棒を倒し、その倒れ方によって託宣を告げるようなものであったようです。詳しいことは、この記述だけでは分かりません。しかし、なんらかの形で、直接的な答えが与えられるようになっていたことは確かです。恐らく具体的な農作に関すること、様々な生活上の問題に関することなどが問われ、答えられたのでしょう。
そのように、生活に関わることに直接的な答えが託宣という形で与えられることは、いつの時代おいても多くの人々が切に求めていることであります。それは今日でも、多くの人々が占い師のもとを訪れ、直接的な託宣を告げる新興宗教に向かうことからも分かります。当時の人々にとって、特に自然と関わる農業に携わる人々にとって、現在と未来についての手軽な答えを与えてくれる宗教は非常に魅力的であったろうと思われます。
しかし、魅力あるものには、往々にして危険が伴うのです。そのように非理性的・非日常的な雰囲気の中で託宣を受ける人々は、確かな道筋を得ているようでありながら、実は迷いの内にあるのです。神のもとにあるように見えながら、実は神を離れることになるのです。「淫行の霊に惑わされ、神のもとを離れて淫行にふけり…」(12節後半)と書かれているとおりです。
彼らは、神御自身を求め、神を知り、神との愛に基づいた人格的な関係に生きようとはしませんでした。また、神が信仰者に何を求めておられるのかを知ろうとはしませんでした。信仰者がどこに向かうべきなのか、その根本的な方向付けに全く関心を持たず、ただ目先の関心についての安易な答えしか求めないならば、迷うことになるのは当たり前です。自らの人生の方向が正しいか、間違っているかを振り返ろうとせず、ただ目先の問題の安易な解決しか求めていないならば、結局迷いながら生きざるを得ないのです。そうすることによって、神ならぬ悪しき霊に惑わされ、結局は神を離れ、神の御心から外れた道を進んで気付かないのです。
そして、一つの世代が迷うなら、次の世代も迷いながら生きることになります。「お前たちの娘は淫行にふけり、嫁も姦淫を行う」(13節後半)。しかし、それはある意味で当然の結果であると主は御覧になっておられます。「娘が淫行にふけっても、嫁が姦淫を行っても、わたしはとがめはしない」とまで言われるのです。それは、当然起こるべくして起こったことだからです。「親自身が遊女と共に背き去り、神殿娼婦と共にいけにえをささげているからだ」。そして、この言葉をホセアは、当時の諺をもって締めくくります。「悟りのない民は滅びる」。魅力的なものには危険が伴います。その危険は大きいのです。それは滅びをもたらします。主イエスも、言われたではありませんか。「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い」(マタイ7:13)。
しかし、主がいくら呼び掛けても、イスラエルの民は立ち帰ろうとはしませんでした。そこで主は彼らにこう言われます。
「イスラエルよ、たとえお前が遊女であっても、――ユダは罪を犯すな――、ギルガルに赴くな、ベト:アベンに上るな。「主は生きておられる」と言って誓うな。まことにイスラエルは強情な雌牛のように強情だ。どうして主は、彼らを小羊のように、広い野で養われるだろうか。エフライムは偶像のとりこになっている。そのままにしておくがよい。彼らは酔いしれたまま、淫行を重ね、恥知らずなふるまいに身をゆだねている。欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み、彼らはいけにえのゆえに恥を受ける」(4:15‐19)。
イスラエルは強情な雌牛でした。飼い主がどんなに引こうが、自分の行きたい方向にしか進まない、またどんなに押そうが動きたくないと思ったら絶対に動かない、そんな強情な雌牛です。熱心に聖所に集い、盛んに祭りを行う、一見非常に信心深いイスラエルの民は、神から見るならば強情な雌牛以外の何ものでもなかったのです。結局は、主が本当に望んでおられる方向になど進むつもりはないのです。彼らが熱心にしていることは、自分の心が喜びとすることだけだったのです。
しかし、それは決して他人事ではありません。今日の日本の教会においても、いくらでも起こり得ることです。人の目から見てどんなに信仰熱心に見えたとしても、結局は自分のしたいことだけをし、自分の心の欲するものだけを追い求め、主の御心に従う意志が微塵もないならば、神の目から見てそれは強情な雌牛と変わらないのです。少なくともそれは、羊飼いの声を聞いて、その声に導かれて生きる羊の群れではありません。
それゆえに、ホセアはイスラエルの民について言うのです。「どうして主は、彼らを小羊のように、広い野で養われるだろうか」。強情な雌牛を羊と同じように養うことは、本来無理なことなのです。しかし、その無理なことを、あえて主がなさる時があるのです。主は、強情な雌牛を、広い野に放たれるのです。「エフライムは偶像のとりこになっている。そのままにしておくがよい」(17節)と。家畜が野に放たれ、もはや誰も引き戻そうとしなくなったらどうなるでしょうか。それはその家畜にとって非常に不幸なことと言わざるを得ないでしょう。
そのように、強情な雌牛のような者にとって、本当に不幸なのは、何かが出来ない時ではなく、むしろ心の欲するままにしたいことが自由に出来、行きたいところに自由に行けるようになることなのです。その結末をホセアはこう語ります。「欲望の霊は翼の中に彼らを巻き込み、彼らはいけにえのゆえに恥を受ける」。私たちは、主によってしたいことを妨げられ、心の欲するところに向かうことを留められる時には、そこに働いている神の恵みを知るときでもあるのです。
2025年1月19日日曜日
「苦くて甘い神の御言葉」
2025年1月19日 主日礼拝説教
聖書:エゼキエル書 2:9-3:4
人の子よ
今日は第一朗読においてエゼキエル書が読まれました。エゼキエルとは、今からおよそ2600年前に神の言葉を人々に語った預言者です。この預言者エゼキエルについて語るには、その背景として、一つの国家の滅亡について語らなくてはなりません。紀元前586年、エルサレムは時の超大国バビロニアによって陥落せられ、ユダの王国は滅びました。そして、国家の滅亡に前後して、ユダの王家をはじめ、国の主だった人々は遠くバビロンへと捕らえ移されていきました。世界史において「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事です。そして、その捕らえ移された人々の中にいたのが、このエゼキエルという預言者でした。彼は異国に捕囚となった人々に、神の言葉を語り伝えたのです。
今日朗読された箇所には、「わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか」(2:9)と書かれていました。そして、エゼキエルはこう語りかけられます。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」(3:1)。
「人の子よ」。彼はそのように語りかけられます。彼はこのエゼキエル書において、繰り返し「人の子よ」と語りかけられています。その最初は2章1節です。「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる」(2:1)。彼は神の御前にいるのです。彼は圧倒的な主の栄光の姿に触れ、その御前でひれ伏しているのです。ひれ伏すエゼキエルはいかなる意味においても神ではありません。神は神であり人は人なのです。いかなる人間であれ、本当の意味で神の御前に置かれるならば、顔を上げることすらできないのが人間です。そのようにひれ伏す彼に、「人の子よ」と主は語り掛けられるのです。
しかし、そこで主は「自分の足で立て」と言われるのです。遣わすためです。しかも、このように続きます。「彼がわたしに語り始めたとき、霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた」(2:2)。「自分の足で立て」と言われた神は彼を立たせるのです。立ち上がらせたのは神御自身です。「霊がわたしの中に入り」とはそういうことです。そこに働いているのは神の力です。神の力によって立ち上がった彼は、神の力によって為すべきことがあるのです。
今日の箇所で「人の子よ」と語りかけられているのは、そのようなエゼキエルです。神の霊によって立ち上がらされたエゼキエルに巻物を差し出し、「これを食べよ」と神は言われます。それは神の言葉です。それはエゼキエルの神秘体験の中での出来事ですから、実際には何が起こったのかは分かりません。しかし、意味合いははっきりしています。確かに語るのは「人の子」であるエゼキエルです。あくまでも人間が語るのです。しかし、語られるのは神の言葉なのです。
イスラエルの家に語りなさい
この「イスラエルの家に語りなさい」という言葉が何を意味するかは、その前に書かれています。「人の子よ、自分の足で立て」と言われた主は、彼を立ち上がらせてさらにこう言われたのです。「人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす。彼らは、その先祖たちと同様わたしに背いて、今日この日に至っている」(2:3)。今日の箇所の直前にもこう書かれていました。「人の子よ、わたしがあなたに語ることを聞きなさい。あなたは反逆の家のように背いてはならない。口を開いて、わたしが与えるものを食べなさい」(2:8)。
この日本という国は、今から79年前に敗戦を経験しました。私はその後に生まれましたから実際には経験していません。しかし、当時敗戦を経験した人でありましても、国家の滅亡は経験してはいません。一つの国家が滅亡し、異国に捕らえ移されるということが、どれほど悲惨である不幸な出来事であるかは、恐らく私たちの想像を絶することでしょう。しかし、神は彼らを「不幸で可哀想な人々」とは呼ばないのです。彼らを「わたしに逆らった反逆の民」と呼び、「反逆の家」と呼ぶのです。彼らは、神に背いてきた人々であり、今も背いている人々なのだ、というのです。
そして、実際そうなのです。私たちが旧約聖書に見るのは、彼らが神に逆らい、神に背き続けてきた歴史なのです。聖書に書き記されているのは、宗教的に装われたきれいごとではありません。そこに書かれているのは、生々しい、罪深い人間の現実です。神が言われることは正しいのです。彼らは神に背き続てきたのであり、背き続けている人々なのです。「反逆の家」です。
しかし、そこで驚くべきことが起こるのです。神が神であり、人が人でしかないならば、神は国家を滅ぼすだけでなく、人間そのものを滅ぼすこともできるのでしょう。しかし、神は御自分に背く人々を滅ぼそうとはしないのです。なんと神は、エゼキエルに巻物を食べさせて遣わされるのです。神の言葉を語りなさい、と。そのようにして神はなおも、自分に背く人間に語りかけようとされるのです。
考えてみてください。言葉というものは、権力や武力とは異なります。言葉は、受け入れることも拒絶することもできるのです。力をもって臨めばいかに反逆の家といえども受け入れるしかないでしょう。しかし、言葉なら拒絶することができるのです。そして、それも主は分かっているのです。「たとえ彼らが聞き入れようと拒もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ」(2:7)と。
このように、かつてイスラエルに現れたエゼキエルのような「預言者」という存在が示しているのは、神に逆らう者になお語り続ける神の姿です。背く者に呼びかけ続ける神の姿なのです。神はなぜ語り続けるのでしょうか。人が神を離れて、神を失った者として、滅びて欲しくないからです。
「この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい」と命じられた主は、後にエゼキエルにこう語っています。「『それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たちひとりひとりをその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」と主なる神は言われる」(18:30‐32)。
「お前たちは立ち帰って、生きよ」。そう主は言われるのです。しかし、反逆の家が立ち帰るためには、反逆しきたことが明らかにされねばなりません。神に犯してきた罪が罪として明らかにされねばなりません。人が神に立ち帰るのは、神に背いている自分を本当の意味で悲しむ時です。彼らは祖国から捕らえ移され、捕囚となって、自らの不幸を悲しみ、呻き、嘆いたかもしれません。しかし、本当に必要なのは、自分の不幸を嘆くことではなく、自分の罪について悲しみ、呻き、嘆くことなのです。そうあってこそ、神に立ち帰ることができるからです。
腹には苦いが口には甘い
ですからエゼキエルはそのような神の言葉を語らねばなりません。それゆえに、エゼキエルに差し出された巻物については、こう書かれていたのです。「わたしが見ていると、手がわたしに差し伸べられており、その手に巻物があるではないか。彼がそれをわたしの前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、呻きと、嘆きの言葉であった」(9‐10節)。彼はそれを食べた。そこに書かれていたのは、人々の間に起こらなくてはならない、本当の意味での「哀歌と、呻きと、嘆き」だったのです。すなわちそれは、自らの罪に対する悲しみの歌と、呻きと、嘆きなのです。
捕囚となった人々をただ慰め、未来への希望を与え、「必ず祖国に帰れます」と励ますだけならば人々から喜ばれるでしょう。感謝されもするでしょう。しかし、エゼキエルが遣わされるのはそのためではありません。人が神に立ち帰るために遣わされるのです。そこで語られねばならないのは、必ずしも人の耳に心地良い言葉ではありません。それはしばしば苦い言葉でもあるのです。
本日読まれたヨハネの黙示録においても、ヨハネが巻物を食べたという話が出て来ました。それを差し出した天使がヨハネにこう言っています。「受け取って、食べてしまえ。それは、あなたの腹には苦いが、口には密のように甘い」(ヨハネ10:9)。「腹には苦い」。エゼキエルが食べさせられた巻物もそうだったに違いありません。彼が語るべき言葉は、苦い言葉なのです。
しかし、エゼキエルにせよヨハネにせよ、それは「密のように甘かった」とも書かれているのです。エゼキエルにせよヨハネにせよ、彼らは分かっているのです。それは最終的に神の断罪の言葉ではなく、神の救いの言葉なのだということです。反逆の家をただちに滅ぼすのではなく、なおも語りかけようとしているのは神の愛なのだということです。
さて、エゼキエルが反逆の家に遣わされたこの物語が今日なおも読まれているのはなぜでしょうか。それはエゼキエルに巻物を食べさせ遣わされた神はまた、神に背いたこの世界にイエス・キリストを遣わされた神であるからです。
神は「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい」と神の言葉を食べさせました。しかし、神は最終的に神の言葉そのものをこの世界に送られたのです。それがキリストなのです。それは腹に苦い言葉でした。人間にとって苦い言葉でした。ですからこの世は神の言葉であるキリストを十字架にかけて殺したのです。
しかし、神はこのキリストを世の罪の贖いとし、キリストを復活させ、今もなお神の言葉なるキリストを教会を通して宣べ伝えさせておられるのです。そのように、神は今もなお反逆の家に、神に背いたこの世界に、語り続けておられるのです。「立ち帰って、生きよ」と。その恵みの言葉が私たちのところにも届きました。そして、私たちは確かにその恵みの中にいるのです。
2025年1月15日水曜日
祈祷会用:ホセア書 4:1~10
ホセア書 4:1‐10
ホセア書4章から、この預言書の第二部に入ります。1章から3章までは、ホセアの結婚と家庭の事情を主題として一つのまとまりをなしていました。この4章以降の単元には、彼の公の活動における様々な預言が集められております。私たちは、これまで見てきましたホセアの預言活動の背景を念頭に置きつつ、語られている言葉に耳を傾けていきたいと思います。
「主の言葉を聞け、イスラエルの人々よ。主はこの国の住民を告発される。この国には、誠実さも慈しみも、神を知ることもないからだ。呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いている。それゆえ、この地は渇き、そこに住む者は皆、衰え果て、
野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃される」(4:1‐3)。
私たちがここで耳にしますのは、主の告発の言葉です。その告発の内容は、あるべきものがなく、あるべきでないものがある、ということです。
そこに欠けているのは、まず第一に「誠実さ」です。「誠実さ」とは、しばしば「真実」と訳されます。その反対は偽りであり欺きです。真実が欠けているということは、偽りと欺きが満ちているということです。ホセアの約百数十年後、預言者エレミヤは、誠実さ、真実さを失った社会を、次のように表現しました。「彼らは舌を弓のように引き絞り、真実ではなく偽りをもってこの地にはびこる。彼らは悪から悪へと進み、わたしを知ろうとしない、と主は言われる。人はその隣人を警戒せよ。兄弟ですら信用してはならない。兄弟といっても、『押しのける者(ヤコブ)』であり、隣人はことごとく中傷して歩く。人はその隣人を惑わし、まことを語らない。舌に偽りを語ることを教え、疲れるまで悪事を働く。欺きに欺きを重ね、わたしを知ることを拒む、と主は言われる」(エレミヤ9:2‐5)。ホセアの時代に主が目にしていた社会もまた、そのようにもはや誰も互いに信用することができないような社会でした。これが、主が告発している真実の欠如です。
そして、聖書において、この真実、誠実という言葉としばしば対になって現れるのは「慈しみ」という言葉です。ヘブライ語では「ヘセド」と言います。この言葉は、神がどのような御方であるかということを表現する時に、しばしば用いられています。例えば、詩篇136編には「慈しみはとこしえに」という言葉が繰り返し歌われています。「恵み深い主に感謝せよ。慈しみはとこしえに。神の中の神に感謝せよ。慈しみはとこしえに。主の中の主に感謝せよ。慈しみはとこしえに」(詩篇136:1‐3)。このように、この言葉が神について用いられる時、それは神の変わらざる愛を意味します。
そして、そのような神によって、人と人との間においても求められているのが、このヘセドです。慈しみの関係です。それは単に好き嫌いの話ではありません。好き嫌いは気分や状況によって変わります。ヘセドはとは、気分や状況によって失われてしまわない愛を意味します。ヘセドを一番分かり易く表現しているのは、結婚式の誓約です。結婚式の時には、「健やかな時も病む時もこれを愛するか」と問われ、「はい」と応えて結婚が成立します。そこで求められているのは、このヘセドに他なりません。
このヘセドが失われた人間関係は悲惨です。心の欲するままに、感情の赴くままに生きること(「あなたの心に正直に!」という類)が賞賛される世界には、ヘセドは成り立ちません。一つのものが欠けると、他のものがそこを満たすようになります。ヘセドが成り立たない社会には、代わりに憎しみが満ちることになります。心の欲するままに生きようとする人と人との関係は、最終的に憎しみに支配されることになるからです。
それゆえ、主はその結果を「呪い、欺き、人殺し、盗み、姦淫がはびこり、流血に流血が続いている」(2節)と表現します。あるべきものがないと、あるべきでないものが支配することになるのです。そして、それは人間社会のことに留まりません。あるべきでないものが世界を支配する時、それは人間社会だけでなく、世界そのものを滅ぼすことになります。続いて3節に語られている通りです。地は渇き、そこに住む者は皆、衰え果て、野の獣も空の鳥も海の魚までも一掃されることになるのです。実際、私たちは主の言葉の正しさを現代において目の当たりにしているのでしょう。
このような状態にある人々を、主は「神を知ることもない」と告発しています。先のエレミヤの預言にも繰り返されておりました。「彼らは悪から悪へと進み、わたしを知ろうとしない」と。しかし、このホセアの言葉は、これを耳にした人々にとっては実に意外であったに違いありません。なぜなら、彼らは決して、いわゆる不信心な人々ではなかったからです。聖所はいつでも人々の群れで賑わっておりました。経済的に豊かであったヤロブアムの時代、人々は喜んで讃美を歌い、多くの犠牲を捧げたのです。その頃、祭司の数も非常に増えました。彼らは皆、我々の国は主を知っている国である、と思っていたに違いありません。しかし、誠実さも慈しみも失われたその国は、「神を知ることもない」と告発されているのです。
彼らがどれほど祭儀に熱心であったとしても、どれほど多くの犠牲を捧げていたとしても、現実の生活において誠実さと慈しみを失っているということは、他ならぬ神との間にも誠実さと慈しみに基づく関係が失われていることを明らかに示しているのです。それゆえその国は、「神を知ることもない」と告発されているのです。
この激しい主の言葉に真っ先に反発したのは、他ならぬ神殿に仕える祭司たちであろうと思われます。そこで、主の言葉は祭司に向けられます。主の言葉によってその深い病巣がさらに明らかにされるのです。
「もはや告発するな、もはや争うな。お前の民は、祭司を告発する者のようだ。昼、お前はつまずき、夜、預言者もお前と共につまずく。こうして、わたしはお前の母を沈黙させる。わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる。お前が知識を退けたので、わたしもお前を退けて、もはや、わたしの祭司とはしない。お前が神の律法を忘れたので、わたしもお前の子らを忘れる」(4:4‐6)。
細かいことを申しますと、聖書協会訳は、最初の部分を若干読み替えて、「しかし、だれも争ってはならない、責めてはならない。祭司よ。わたしの争うのは、あなたと争うのだ」と訳しています。文脈から判断して、その方が良いと思います。これまでは、国の住民全体に語られてきました。しかし、問題は祭司にあるのです。主は宗教的な権威に対して、何が問題であるかを明らかにされるのです。また、「わが民は知ることを拒んだので沈黙させられる」という表現は弱すぎるかも知れません。ここはもっと強く訳すなら、「知識がないためにわたしの民は滅ぼされる」と書かれているのです。
国は滅びることになります。それは知識がないためです。ここで言われている知識が、ただ神に関する知的な理解ではないことは、既に読んできたことから明らかです。それは本来の夫と妻の関係のごとくに神を「知る」ということです。しかし、国の住民が神を知らないのは、ただ彼らの責任ではありません。大きな責任は祭司にあります。国がそのような状態であるのは、祭司たちが神を知ることを拒んだからです。そのことは「お前が神の律法を忘れたので」と言い換えられています。律法を忘れるということは、神が何を求めておられるかを忘れるということです。神の愛と恵みに応えて生きるということがどういうことかを忘れるということです。
人が神の求めを忘れる時、神の求めに関心を失う時、人間の求めが中心的重要性を持つようになります。こうして、宗教は人間の欲望の投影に過ぎないものとなってゆくのです。豊かさを求めて豊穣の神バアルを拝むことと、真実と慈しみを求められる主を礼拝することが区別できなくなります。そこに主なる神との愛に基づいた人格的な関係など成り立ちようはずがありません。
それがどのようなことであるのか、私たちはその後に続く主の言葉によって知ることになります。
「彼らは勢いを増すにつれて、ますます、わたしに対して罪を犯した。わたしは彼らの栄光を恥に変える。彼らはわが民の贖罪の献げ物をむさぼり、民が罪を犯すのを当てにしている。祭司も民も同じようだ。わたしは、彼らを行いに従って罰し、悪行に従って報いる。 彼らは食べても飽き足りることなく、淫行にふけっても、子孫を増やすことができない。彼らは淫行を続け、主を捨て、聞き従おうとしなかったからだ」(4:7‐10)。
ここに見ますように、祭司にとっては、国の住民が真に神に心を向けるかどうかなど、どうでも良いことでした。神の恵みを伝え、その求め給うことが何であるかを伝え、民全体が神の恵みに真実に応答して生きるようになることには、全く関心がなかったのです。人々が求めていたのは、国家が平和であり、繁栄していることでしたし、祭司たちが求めていることもまた同じだったのです。人々の欲求が満たされ、さらにその繁栄の中から犠牲が継続的に捧げられ、そのことによって神殿を中心とした宗教的制度が守られ、祭司の立場と生活が支えられれば、それで良かったのです。
「彼らはわが民の贖罪の献げ物をむさぼり、民が罪を犯すのを当てにしている」とは、そのような祭司階級の状況に対する強烈な批判です。贖罪の献げ物の肉は祭司の取り分とされました(レビ6:18以下)。彼らの取り分が増えるなら、祭司は民が罪を犯すことさえ喜びとしているということです。このような言葉からも、聖所で捧げられる贖罪の献げ物が、そこにおいて執り行われる諸々の祭儀が、真の悔い改めとも、誠実さや慈しみとも結びついてはいないことが分かります。それゆえ、一方で贖罪の献げ物が捧げられながら、もう一方ではただ繁栄と豊作を願って神殿娼婦と交わるという性的儀礼が行われるということが起こってくるのです。宗教的な堕落の根は、まさにそのような神の律法も悔い改めも失った礼拝にこそあるのです。
そのようなことは何も旧約聖書の時代に限ったことではありません。ヨハネは教会に次のように書き送っています。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス:キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(1ヨハネ2:1‐4)。イエス・キリストによる永遠の贖罪の犠牲によって成り立つはずの教会の礼拝が、いつの間にかその意味を失ってバアル宗教のごとく人間の欲望の投影でしかないものとなってしまうことは、いつでも私たちの身近にある危険なのです。
2025年1月12日日曜日
「あなたの主人は誰ですか」
2025年1月12日 主日礼拝説教
聖書:ローマの信徒への手紙 6:15-23
かつて大阪に住んでいた時、毎週日曜日の夜、50キロぐらい離れた兵庫県の篠山というところに通っていた時期がありました。そこに行くには、まず中国自動車道を西に走りまして、途中から舞鶴自動車道に入り北に向かいます。するとだいたい一時間ぐらいで到着いたします。ところが、ある日のこと、ちょっと考え事をしながら車を運転しておりまして、ふと我に返ると全く見たことのない風景の中を走っていることに気がついたのです。実は舞鶴自動車道に入るジャンクションを見落として、ひたすら西に向かっていたのです。中国自動車道をいくら西に走ったとしても絶対に篠山には着きません。岡山に行ってしまいます。そのように走る方向が違えば行き着く先も異なるのです。今日の聖書箇所が語っていることも、それと似ています。人生が向かう方向が違っていたら、行き着く先も違います、という話です。
仕える主人が変わりました
15節からもう一度お読みします。「では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」(15‐18節)。
この直前の14節には「あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです」と書かれています。今日の箇所はその続きです。「わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。」パウロが念頭においているのは、要するに、「神の恵みの下にあるのだから、何をやったとしてもどうせ赦されるのでしょう」という考え方です。ある意味では誰もが考えそうなことです。しかし、パウロはそのような考えを断固として退けるのです。「決してそうではない!」と。
そう言ってパウロは二つの道を提示します。行き着くところが完全に異なる二つの道です。一つは罪に仕える奴隷として生きる道です。その行き着くところは「死」であると言います。もう一つは神に仕える奴隷として生きる道です。その行き着くところは「義」であると言います。「死」という終点と「義」という終点が対比されているのです。
ここで言われている「死」とは命から切り離された状態です。それはすなわち、命そのものである神との断絶を意味します。単に肉体が朽ちることではありません。この肉体の死よりも恐ろしいことは、神から完全に離れてしまうことです。神から永遠に切り離されること、それが本当の意味での裁きであり滅びであり「死」なのです。
であるならば、その「死」と対比されている「義」とは、完全な救いを意味していることになるでしょう。命そのものである神との完全なる交わり、それこそが永遠の命であり完全な救いとしての「義」なのです。この「義」に向かう道と「死」に向かう道は、中国自動車道と舞鶴自動車道のように、決して一つにはなりません。まったく異なる方向へと向かう二つの道なのです。
さて、ここで6章前半についても触れておく必要があります。この章の前半には洗礼について語られています。洗礼を受けるということは何を意味するのか。4節にはこう書かれています。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(6:4)。
そのように、洗礼を受けるとは、キリストと共に葬られることです。それは古い自分の葬りの式です。古い自分を葬るのは、新しく生きるためです。「新しい命に生きる」と表現されています。このことを前提として、パウロは17節以下を語っているのです。「しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました」(17‐18節)。ここで「義に仕える」とは、「罪に仕える」ことと対比されていますから、言い換えるならば「神に仕える」ということです。いずれにせよ、ここで語られているのは、要するに《主人が変わった》ということです。
古い自分が葬られて新しい命に生きるとはいかなることか。それは罪のしもべであった者が神のしもべとして生きることに他なりません。罪に対して死んだのですから、もはや罪は主人ではありません。罪を主人と見なしてはならないのです。信仰者であるとは、一度死んで主人を変えた、いや変えさせていただいた者であることを意味します。もはや罪を主人として死に向かって歩いているのではなくて、神を主人として義に向かって、最終的な完全なる救いに向かって歩き始めた者であるということです。その事実を忘れてはならないのです。これが18節までに語られている内容です。
救いの完成に向かって聖化の道を
それではその先を読み進んでいきましょう。「あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です」(19‐23節)。
パウロはここでさらに二つのことを思い起こさせます。過去の自分に関する二つのことです。一つは、いかに自分の五体を汚れと不法のために用いていたかということです。罪という主人が要求することに対して、私たちはいかに熱心であったかということです。そのことを思い起こさせながら、かつて罪という主人に仕えていたように、「今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい」と言っているのです。
ちなみにこの「聖なる生活を送りなさい」という言葉は、完成された状態を表す言葉ではなくて、完成へと向かうプロセスを表す言葉です。教会は伝統的にこれを「聖化(聖と化すること)」と表現してきました。今は五体を神に献げ、神のために用いて神に仕えなさい。そして救いの完成へと向かって、完全に神のものとして生きることを目指して、聖化の道を進みなさいとパウロは言っているのです。
そして、彼はもう一つのことをも思い起こさせます。それは恥ずべき過去の罪の実りです。「あなたがたは罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした」と書かれています。何にも束縛されないで、自分の欲するままに生きられることが自由であると一般的には考えられているかもしれません。しかし、神の束縛から離れ、自分の欲するままに生きようとする人は、やがて極めて不自由な自分を見出すことになるのです。思いのままに生きている人は、自分の欲の奴隷となるからです。人間は何にも束縛されないで生きることなど出来ないからです。
そして、罪は必ず「実り」をもたらします。それがいかなる実りであるか、罪の奴隷である時には気づきません。罪が主人でなくなって、初めて気づくのです。なんと恥ずべき実りを生み出してきたことか、と。 恥ずべきことは忘れたいと思うのが人情でしょう。しかし、パウロはわざわざ過去の恥ずべき実りを思い起こさせるのです。なぜでしょうか。忘れてはならないからです。恥を知ってこそ、人は聖なる生活の実りを求めるからです。恥を知らない人は聖化を求めることもありません。恥を知らない人は、「恵みの下にいるのだから、罪を犯してよい」などと言い始めるのです。ですから、過去の恥ずべき実りを忘れてはならないのです。
私たちも知っているように、ペトロは三度主を否定しました。その話が聖書に残っているのは、ペトロが忘れなかったからです。この手紙を書いているパウロ自身、自分が迫害者であったことを忘れませんでした。多くの血を流してきたことを忘れませんでした。そんな彼が、「では、そのころ、どんな実りがありましたか」と問うているのです。自分自身、過去の恥ずべき実りを知る者として、語っているのです。そのように語り得たのは、ただキリストの恵みにより、新しく生きる道を与えられたからです。そのキリストの恵みの光の中で語っているのです。
キリストの恵みの光が明るければ明るいほど、暗闇の暗さもまた際だちます。ですからパウロは言うのです。「それらの行き着くところは、死にほかならない」と。――「わたしは自由だ!」と言いながら、実は罪の奴隷でしかなく、恥ずべき実りを沢山実らせながら、最終的に行き着くところは死に他ならない。――だから、本当はそんな道を最後まで歩き通す必要はないのです。なぜなら、その最終的な死を、既にキリストが死んでくださったからです。十字架にかかって、私たちの代わりに死んで下さったからです。それゆえ人は、その死にあずかって、一度死んだものとして、既に裁きを受けた者として、古い自分を葬って、新しい別な道を生き始めたらよいのです。方向を変え、違うゴールに向かって歩み出したらよいのです。
そして、事実、ローマの信徒たちはそのように歩み出したのでした。彼らがキリスト者であるということは、そういうことなのです。既に神の御業が始まっているのです。もしかしたら遅々とした歩みでしかないかもしれない。けれど、ともかく彼らは聖化の道を歩みはじめ、神の霊の働きによって聖化の実が結ばれはじめているのです。そのことをパウロは思い起こさせているのです。「あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です」と。
さて、最初の話に戻りますが、ふと我に返っていつもと風景が違うことに気がついた私は、ともかく次のインターで下りました。気づいた時には既にかなり行き過ぎていましたが、ともかくも高速に入り直し、違う方向に走り始めました。そして、かなり遅くはなりましたが、無事篠山には着きました。――何も不思議なことはないでしょう。方向が間違ったままならば本来の目的地には絶対に着きません。方向が正しければ必ず目的地には着くのです。問題は《どこにいるか》ということではありません。《今、どちらに向かっているか》なのです。これは人生においても同じです。今自分がどんな状態にあるか。恥ずべき実りをどれだけ実らせて生きてきたか。速く走っているかゆっくりであるか。それは大した問題ではありません。大事なことは、今、永遠の命に向かっているか、そうでないのか、ということなのです。
2025年1月8日水曜日
祈祷会用:ホセア書 3:1~5
ホセア書 3:1‐5
2章後半の預言の言葉においては、ホセアとゴメルの個人的な関係は後ろに退き、主として神とイスラエルとの関係が語られておりました。しかし、3章に入りますと、再び預言者ホセアとゴメルとの関係が前面に出てまいります。1章においては、ホセアとゴメルの結婚と子供たちの誕生にまつわる事情が三人称で語られておりましたが、ここでは後の出来事がホセア自身の言葉として一人称で記されているのです。
「主は再び、わたしに言われた。『行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ。イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。』そこで、わたしは銀十五シェケルと、大麦一ホメルと一レテクを払って、その女を買い取った」(3:1‐2)。
「告発せよ、お前たちの母を告発せよ。彼女はもはやわたしの妻ではなく、わたしは彼女の夫ではない」(2:4)。このようなホセアの怒りの言葉を、私たちは2章において耳にしました。ゴメルがホセアを裏切ったのですから無理もありません。しかし、本当にもはや妻でも夫でもないならば、ホセアはもはやゴメルについてこれ以上何も語る必要はないはずです。そして、怒りも嘆きもやがて過ぎ去ることになるでしょう。苦しみも過去のものとなるでしょう。しかし、事実はそう単純ではありません。彼が、かくも怒り、嘆き、そして語り続けるのは、ゴメルが今もなお彼の妻であるからです。淫行の女であっても、どれほど夫から心が離れても、ホセアにとってゴメルはかけがえのない妻であり、ホセアは彼女の夫なのです。それゆえに、怒りは大きく嘆きは深いのです。
そのような怒りと悲しみと苦悩の中において、彼は神の御声を聞いたのでした。それは、姦淫の女のようなイスラエルの民に対して激しく燃える神の怒りの言葉でありました。しかし、それはまた、さらに激しく燃える神の愛の言葉でもあったのです。ホセアは、神がそのようなイスラエルをなおも愛し続けていることを知ったのでした。神は、裏切られてもなお、イスラエルがまことの妻となることを望んでおられるのです。神の願いは、実にイスラエルが真の夫である神に立ち帰り、再び主を「わが夫」(2:18)と呼び、その口から姦淫の相手であるバアルの名が取り除かれることにあったのです。
御自分に背を向ける者たちを、なおもそのように激しく愛し続ける神の愛を知ったホセアは、再び主の御声を耳にします。主はホセアにこう言われたのです。「行け、夫に愛されていながら姦淫をする女を愛せよ」と。
彼はいつ、どのような状態において、この御声を聞いたのでしょうか。この時、ゴメルはどこにいたのでしょうか。詳しいことは分かりません。しかし、「行け」と言うのですから、もはやゴメルはホセアのもとにはいないことは確かです。彼は行って、銀15シェケルと、大麦1ホメルと1レテクを払って、彼女を買い取るのです。
彼女を買い取ったということは、彼女が奴隷のような状態にあったことを意味します。男を追って出て行った彼女は、落ちぶれて娼婦のようになっていたのでしょうか。当時の宗教的な事情を考えますと、バアルに仕える神殿娼婦になっていたことも考えられます。
いずれにせよ、そのように金銭を払って買い取らなくてはならないような状態にある淫行の女を、主はホセアに愛せよと命じられたのでした。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」。主はホセアに、ゴメルをあくまでも愛し抜くことを求められたのでした。主の言葉は、この世の常識的な見地からするならば、明らかに馬鹿げていると言えるでしょう。しかし、ホセアは神の命令に抵抗することはできませんでした。なぜなら、彼は神の心を知ってしまったからです。神が命じておられることこそ、まさに神が自らイスラエルに対して為しておられることであると、ホセアは知ってしまったからです。
「イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように――」。干しぶどうの菓子というのは当時の贅沢品です。秋のぶどうの収穫祭において、バアル礼拝の祭儀に用いられたものです。このように、彼らは主との真実な関係を捨て、豊作と物質的な豊かさを求める祭儀に熱狂しているのです。彼らが顔を向けているのは、もはや夫である主に対してではなく、他の神々です。しかし、そのような彼らを、主はなお愛しておられるのです。この主の愛が、ホセアをゴメルのもとへと駆り立てます。こうして彼は、主の言われるように、淫行の女を買い戻しに行ったのでした。
彼は、ゴメルを買い受けるために銀15シェケルと大麦1ホメルと1レテクを支払います。全体で銀30シェケル分ぐらいでしょうか。もしそうならば、それは奴隷一人分の代価となります(出21:32)。いずれにせよ、はした金ではありません。ホセアは、かなりの犠牲を払ったことになります。彼は、本来ならば、憎むべき相手のために、あえて犠牲を払った上で彼女受け入れたのです。
ホセアが、痛みと苦しみなくして、このことを為し得たとは思えません。実に「愛する」ということと「好きだ」ということは異なります。自分にとって好ましい人を受け入れるのに、痛みも苦しみも伴うことはないでしょう。しかし、愛するということは、痛みと苦しみ、そして具体的な犠牲を伴うのです。そして、この愛こそ、神自らがイスラエルを愛する愛に他ならなかったのです。
私たちは、この神の愛が最終的にどこに行き着くかを知っています。愛するということが犠牲を伴うことであるゆえに、その愛は、最終的には、神が自らの独り子を犠牲にするところに行き着くのです。このように、ホセア書の語る主なる神こそ、私たちにキリストを与えてくださった神に他ならないのです。
さて、その先をお読みしましょう。彼女を買い戻したホセアは、彼女に語りかけます。「わたしは彼女に言った。『お前は淫行をせず、他の男のものとならず、長い間わたしのもとで過ごせ。わたしもまた、お前のもとにとどまる』」(3:3)。
このように、ホセアはまず、今までの生活からゴメルを引き離します。他の男との関係から隔離し、ただホセアとだけ共にいることを求めるのです。もちろん、こうしたからと言って、すぐにゴメルの心がホセアのもとに戻ってくるわけではないでしょう。それゆえ、この強制的な隔離は長い期間になることをホセアは知っているのです。そこでは並々ならぬ忍耐を要します。この期間はゴメルにとっても苦しみかもしれませんが、ホセアにとっても苦しみなのです。しかし、ホセアは、その長い期間、忍耐強く待つこと、苦しみつつ待つことを良しとするのです。「わたしもまた、お前のもとにとどまる」という言葉には、そのホセアの決意が感じられます。
こうしてホセアとゴメルの新しい生活が始まりました。そして、かつてホセアが自らの怒りの中において、神の怒りを知ったように、今、ホセアはゴメルと忍耐強く共に過ごす新しい生活において、神のイスラエルに対する計画を知ることになるのです。それゆえ、ホセアは、話をイスラエルに移し、このように言葉を続けるのです。「イスラエルの人々は長い間、王も高官もなく、いけにえも聖なる柱もなく、エフォドもテラフィムもなく過ごす」(3:4)。
王も高官もなく過ごすということは、イスラエルが国家として崩壊することを意味します。国は滅びて民は異国の地に連れ去られ、捕囚となるのです。聖なる柱とは祭儀のための石の柱です。エフォドは儀式用の衣服です。テラフィムは小さな神像です。すべて、彼らが熱狂していたバアル祭儀に関わります。つまり、彼らが求めてやまなかったバアル礼拝そのものも、国家の滅亡と共に失われることになるのです。こうして、彼らがバアルに求めていた繁栄は、バアルと共に失われることになるのです。そのような状態は、2章においては「荒れ野」と表現されました(2:16)。それは、神がイスラエルをいざなって連れて行き、心に語りかける場所となる荒れ野です。3章では、ホセアの生活の言葉をもって、同じことが表現されます。ここでは、姦淫の相手から引き離され、夫のみと共に過ごす新しい生活として語られているのです。
強制的にゴメルが連れ戻されても、心はすぐにはホセアに戻ってはこないように、強制的にイスラエルの民が神のみと共に過ごすようにされても、すぐにその心が神のもとに帰ってくるとは限らないことを、主もまたご存じなのでしょう。実際、人はたとえすべてを失って、残されているのはただ神だけであったとしても、それで神に立ち帰るとは限らないのです。
それゆえ主なる神もその期間を「長い間」と表現されます。捕囚は長い間になるでしょう。それはイスラエルの民にとって苦しみの時でしょうが、主なる神にとっても苦しみの時なのです。その間、主は忍耐しなくてはなりません。そして、主は長く忍耐強く待つつもりでおられるのです。たとえ長い期間の後であっても、彼らが帰って来て主を求めるその日を待ち続けられるのです。次のように語られている通りです。「その後、イスラエルの人々は帰って来て、彼らの神なる主と王ダビデを求め、終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって近づく」(3:5)。
さて、私たちはここで、得ることと失うことについて、深く考えねばなりません。何かを失うこと、奪われること、そのゆえに苦しむことを神の審判と処罰として理解することは簡単です。恐らくだれもが一度は考えることでしょう。しかし、ホセア書は全く異なる見方を私たちに示します。イスラエルが国家を失う捕囚の期間とは何であるか。それは、ホセアがしたように、神が自ら出かけて行って、犠牲を払って買い取り、忍耐をもって共に過ごそうとされる恵みの生活として見ているのです。
私たちは何かを得れば神に感謝し、これを神の愛と恵みの証しとしたがります。一方、何かを失えば怒りを発し、神にさえ悪態をつくこともあるでしょう。こうして、私たちはその時、自分が追い求めてきたのはバアルでしかなかったことを暴露することになるのです。それゆえ、私たちは、ここでホセア書が語っていることを、良く聞き取らねばなりません。彼らが苦難から解放され、繁栄を回復するその時が、神の買い取りの時なのではないのです。彼らが繁栄を失い、国家を失う時が、既に神が愛をもって彼らを買い取る恵みの時なのだ、とホセア書は語っているのです。
そして、そこで人は何かを失っているようでありますけれど、実は、絶対に失ってはならない一人の御方を得ているのです。それは失ってはならない夫である主なる神なのです。私たちが、自ら犠牲を払って愛してくださる方、忍耐強く待っていてくださる方、本当に失ってはならない唯一の御方に対して目が開かれ、「その恵みに畏れをもって近づく」時、愛によって隔離された生活の意味をも知ることになるのです。
2025年1月5日日曜日
「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい」
2025年1月5日 主日礼拝説教
聖書:エレミヤ書 31:15-17
泣き止むがよい
「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる」(16節)。本日の第一朗読において読まれた御言葉です。「もう泣かないで」と私たちも誰かに言うことはあるかもしれません。あるいは私たちが泣いているときに、そのような言葉をかけられることはあるかもしれません。しかし、本当の意味で「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい」と人に言うことができるのは神様だけです。「あなたの苦しみは報いられる」と宣言することができるのは神様だけだからです。また、17節に見るように、「あなたの未来には希望がある」と本当の意味で語ることができるのは、神様だけだからです。
ここで泣いているのはラケルという人です。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる、苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む、息子たちはもういないのだから」(15節)。
ソロモン王の治世の後、イスラエルな南北に分裂しました。北イスラエル王国を代表していたのはエフライムという部族でした。ですからエレミヤ書でも北王国がしばしば「エフライム」と呼ばれています。ラケルという女性は、エフライム族のご先祖に当たります。いわば北イスラエル王国の母ともいうべき象徴的な存在であると言ってもよいかもしれません。その母なるラケルが泣いているのです。どうしてか、北イスラエル王国が滅びたからです。紀元前八世紀、当時の超大国であったアッシリアの軍事侵攻によって北イスラエル王国は滅ぼされてしまいました。「息子たちはもういないのだから」(15節)とは、北イスラエル王国の滅亡について語っているのです。
時を経て、やがて南のユダ王国も北イスラエル王国と同じ道をたどることとなりました。南王国はバビロニアによって滅ぼされてしまいました。エレミヤ書がこのように書物としてまとめられたのは、南王国が滅びた後のことです。つまり、今日お読みした預言の言葉は、国を失った人たちによって、繰り返し、繰り返し読まれてきたということです。もともとは先に申しましたように、北王国に関する預言の言葉です。しかし、国を失ったユダの人たちは、自分たちに対する神の語り掛けとしてこの言葉を聞いたのです。かつて北王国に対して「泣きやむがよい」と語られた神は、彼らの神でもあるからです。
そして、時を経て今この時代に、ここにいる私たちもまた同じ言葉を耳にしているのです。かつて大きな苦しみの中で涙を流していた人々に、「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい」と語られた神は、ここにいる私たちの神でもあるからです。かつて「あなたの苦しみは報いられる」と語られた神は、ここにいる私たちの神でもあるからです。私たちはこの主の御言葉を私たちへの語り掛けとして受け止めるために、これを語られた神がいかなる御方であるかを知らなくてはなりません。
立ち帰らせてください
そこで重要なことが一つあります。神は語られる神であるだけでなく、耳を傾けて聞いておられる神でもあるということです。かつて主が人々に語られた時にも、その前に主が確かに聞いておられたことがあるのです。今日の朗読は17節まででしたが、その続きをお読みします。18節を御覧ください。主はこう言われるのです。「わたしはエフライムが嘆くのを確かに聞いた」と。そして、重要なのはその内容なのです。次のように続きます。
「あなたはわたしを懲らしめ、わたしは馴らされていない子牛のように、懲らしめを受けました。どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です。わたしは背きましたが、後悔し、思い知らされ、腿を打って悔いました。わたしは恥を受け、卑しめられ、若いときのそしりを負って来ました」(18‐19節)。
これが神様の耳にした嘆きの声です。ここで「エフライム」が指しているのは滅びた北王国です。エフライムはどうして嘆いているのか。ただ不幸を嘆いているのではないのです。国家の滅亡という災いに遭ったことを嘆いているのではないのです。そうではなくて、彼は悔いているのです。自分の腿を打って悔いているのです。
何を悔いているのでしょうか。彼の表現によれば、「馴らされていない子牛のよう」であったことを悔いているのです。「馴らされていない子牛のよう」であったから懲らしめを受けた。確かに「懲らしめを受けた」のですが、明らかに神によって「懲らしめを受けた」ことを恨んではいないのです。むしろそれは当然だったと思っているのです。だから懲らしめられたこと自体を嘆いているのではないのです。懲らしめを受けなくてはならないような自分であったことを嘆いているのです。「馴らされていない子牛のよう」な自分であったことを悔いて嘆いているのです。
「馴らされていない子牛のよう」であったとは、要するに自分のしたいように振る舞う子牛ということです。飼われている子牛でありながら、自分が主人であるかのように振る舞う子牛です。自分の望むまま、自分の欲するがままに行動する子牛です。しかし、これを人間に置き換えてみるならば、決して珍しい姿ではないでしょう。
確かに、「馴らされていない子牛」のような姿は、しばしば私たち自身の姿でもあります。神が何を願い、神が何を望んでおられるかということに無頓着に生きている私たちの姿です。自分の望んだとおりになることが最善であると、自分の思い通りに生きられることが幸福であると信じて疑わない私たちの姿です。しかし、実際には何が最善であるかが分かったいないので、目の前にある美味しそうなものに動かされ、自分の欲に振り回されて生きている、そんな私たち人間の姿です。
そのような馴らされていない子牛のようであったことを彼は悔いているのです。だから立ち帰りたいと思っているのです。本来の姿に立ち帰りたいと思っているのです。本来従うべき御方のもとに立ち帰りたいと思っているのです。彼は言うのです。「どうかわたしを立ち帰らせてください。わたしは立ち帰ります。あなたは主、わたしの神です」(18節)と。
「わたしは立ち帰ります。立ち帰りたい。本当に立ち帰りたい。立ち帰らせてください。」そのように心から願う人にとって、今受けている苦しみは、もはや単なる災いではありません。それは人を立ち帰らせてくださる神の愛の現れでもあるのです。そのように神によって立ち帰らせていただく時、彼らはこう言うのです。「わたしは背きましたが、後悔し、思い知らされ、腿を打って悔いました。わたしは恥を受け、卑しめられ、若いときのそしりを負って来ました」(19節)。
この言葉はイエス様の語られた放蕩息子のたとえ話を思い出させます。父のもとから離れて己が望むままに生きて来た息子が、やがて飢饉に遭い、食べるものもなく、ボロボロになって父のもとに帰ってきます。その時、彼は父にこう言うのです。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません」(ルカ15:21)。
わたしは彼を憐れまずにはいられない
そのように自分が馴らされていない子牛のような者であったことを悔い、恥じ入りながら神のもとに帰るエフライムの声を神は確かに聴かれました。そのエフライムに対して、神はこう言われるのです。「エフライムはわたしのかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。彼を退けるたびに、わたしは更に、彼を深く心に留める。彼のゆえに、胸は高鳴り、わたしは彼を憐れまずにはいられないと、主は言われる」(20節)。
確かに、北王国の滅亡は、神が北王国を御前から退けたという出来事でした。しかし、御前から退けることが神の最終的な目的でも本意でもないのです。神はそうすればするほど、彼らを深く心に留めておられたのです。確かに王国の滅亡は彼らにとって苦しみであり悲しみであったに違いない。ラケルは泣いていたのです。しかし、それはまた神御自身の苦しみでもあったのです。「わたしは彼を憐れまずにはいられない」と主は言われるのです。
そして、その言葉を滅びた南王国の人々も改めて聞いていたのです。捕囚となった人々はこれを自分たちへの語りかけとして聞いたのです。そして、他ならぬ自分たちへの語りかけとして聞いた人は思ったに違いないのです。私たちも確かに馴らされていない子牛のような者であった。立ち帰りたい。主に立ち帰りたい。主よ、立ち帰らせてください。私たちは立ち帰ります、と。そして、主は彼らにも語ってくださったことでしょう。「あなたはわたしのかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか。わたしはあなたを憐れまずにはいられない」と。
これが聖書の伝える神様なのです。さらに言うならば、そのような神の思いが形を取って到来したのがイエス・キリストに他ならないのです。神に背を向けた世界に対する神の胸の高鳴り、神に背を向けた人々を憐れまずにはいられない神の憐れみ。その神の心を語る言葉としてキリストは来られ、今も教会によって私たちに伝えられているのです。それゆえに、「立ち帰りたい。主に立ち帰りたい。わたしは馴らされていない子牛のような者であった。立ち帰りたい。主よ、立ち帰らせてください」と願う人は、今も、神の憐れみに出会うことができるのです。主は言われるのです。「あなたはわたしのかけがえのない息子、喜びを与えてくれる子ではないか」と。
このような神がおられるのです。憐れみの神がおられるのです。この神こそ、私たちが信じ、より頼み、礼拝している神様です。そして、そのような神が言われるのです。いや、そのような神であるからこそこう言われるのです。「泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる」。そして、言われます。「あなたの未来には希望がある」と。本当の意味でそのように語ることができるのは、イエス・キリストをこの世に送られた憐れみの神であるこの御方だけなのです。