2025年10月26日 主日礼拝説教
聖書:マルコによる福音書 10:2~12
イエスを試そうとして
ファリサイ派の人々が近寄って来て、イエスに尋ねました。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。彼らは教えを請いに来たわけではありません。そこには「イエスを試そうとしたのである」と書かれています。答えは既に知っているのです。「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問われると、彼らは自分でこう答えることができました。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と。そうです、既に答えは知っているのです。
「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。彼らがそう尋ねたのは、イエスが離縁に否定的な見解を持っていることを知っていたからです。離縁は律法において許されているのに、この男はその律法に反することを答えるかも知れない。あわよくば「この男は律法に反することを教えている」と訴える口実を得ることができるかも知れない。恐らくそう思ったのでしょう。ですから後で「イエスはこう言った」と証言できるように、彼らは複数でやってきたのでした。
もちろん、イエス様は彼らの意図をご存じでした。ですから、彼らの質問に対して「律法に適っている」とも「律法に適っていない」とも答えなかったのです。主は「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されます。彼らは答えます。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」。すると主はこう答えられました。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」。
そして、律法の書に記されている他の言葉を引用されました。創世記の一章と二章に記されている言葉です。イエス様はそれを要約して語られます。「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。」
イエス様はあくまでも律法の書を引用して話をします。その意味では、ファリサイ派の人々と同じ土俵に乗るのです。しかし、離縁状の話には乗りません。法的な手続きの話には乗りません。法的な手続きが定められる前から、「結婚」という関係は存在するからです。「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と書かれている。それはモーセを通して律法が定められる前の話です。そこで主は言われます。「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。
ファリサイ派の人々とのやりとりはここまでです。イエスを試そうとして質問を準備してきた彼らの目論みは失敗に終わったと言えます。しかし、私たちはファリサイ派の人々がイエス様にこんな質問をしてくれたことに感謝したいと思います。といいますのも、ファリサイ派の人々の質問から始まるこの話は、神に向かい、神と共に生きる生活の仕方は二通りに分かれることをはっきりと示しているからです。そして、そのどちらに向かって進むかということは、決して小さなことではないのです。
律法に適っているでしょうか
その二通りの生活の仕方、二通りの生き方とは何でしょうか。その第一は、ファリサイ派の人々の問いに表れているような生き方です――「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」。それは、神の目や人の目を恐れながら、「どこまでならば許されるのか」を行動の基準として生きる姿です。信仰の歩みが、何が許されるか、何が禁じられているかという線引きばかりを気にするものになってしまう。そういう生き方です。
先にも言いましたように、彼らは答えを持っていました。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」。彼らが念頭に置いていたのは、次のような申命記の言葉です。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24:1)。
確かに、夫が妻を離縁することは律法において許されていると言えなくはない。しかし、実はそれほど単純ではありません。「妻に何か恥ずべきことを見いだし」と書かれていたのですが、その「恥ずべきこと」について、当時においても解釈が分かれていたのです。
シャンマイという有力なラビとその弟子たちは、この「恥ずべきこと」に当たるのは姦淫の罪であると考えました。姦淫の罪を女が犯した時は離縁することが出来る。それ以外は出来ない。それに対して、ヒレルというもう一人の有力なラビとその弟子たちは、よりリベラルな立場を採りました。「恥ずべきこと」には様々な事柄が入る。例えば、食べ物を焦がしたとか、容貌が悪いとかなども、離縁の正当な理由となると論じたのです。今日の視点からすれば人権侵害も甚だしい話ですが、当時としては大真面目な議論だったのです。
さて、そこで私たちは考えねばなりません。そもそも「離婚は許されるのか」とか「どこまで許されるのか」という議論はどうして起こるのか、ということです。それは離婚したい人がいるからです。離婚したい人がいなければ、そもそもこういう議論は起こらないのです。
ちなみに、彼らの質問には「夫が妻を離縁すること」しか出て来ません。イエス様は「夫を離縁して他の男を夫にする者も」と言っておられますが、実際には当時は妻から夫を離縁することはほぼあり得い、男尊女卑の時代を背景としている話です。今日とはずいぶん違います。そのような時代には、夫の都合による実に身勝手な離婚がまかり通っていたのです。例えば、それこそ料理を焦がしただけで離縁したがる男がいる。自分の妻よりも美しい女性を見ただけで離婚したがる男がいる。だから、そのような場合の離縁は許されるかどうかという律法解釈の話が出てくるのです。
そのような人にとって、律法とは自分の望んでいることを制限するものでしかありません。「どこまで許されるのか」ということは、裏を返せば「どこまで制限されているのか」ということです。そして、制限には嫌々でも従うのです。なぜなら神が怖いからです。神の制限を越えるならば罰せられる。許されていないことを行うならば罰せられる。それが怖いからです。
しかし、「どこまで許されるのか」ということが話題になる世界においては、現実には怖いのは神の目よりも人の目である場合の方が多いのかもしれません。禁止されていることをしてしまうと人の目が怖い。みんなが守っていることを自分だけやぶったら人の目が怖い。だから一生懸命守るのです。だから「どこまで許されるのか」が気になるのです。
そのような、神の目が怖い、人の目が怖い。宗教的な世界は往々にしてそのような世界になってしまうものなのでしょう。それがあのファリサイ派の人々が生きていた世界だったのです。それが彼らの生き方だったのです。「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」という問いに見られる生き方です。
先行する恵みに応えて生きる
しかし、イエス様はあのファリサイ派の人々とは全く違う世界に生きていたのです。そして、後の弟子たちもそうでした。それゆえに、この物語が伝えられてきたとも言えるのです。
先にも触れましたように、イエス様が引用しているのは、創世記1章と2章の言葉です。「天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった」と主は言われるのです。「神は」が先にあるのです。人間の行為の前に、神の行為があるのです。神様がしてくださっていることがあるのです。既に私たちが生きているこの世界そのものが神の御業なのです。神の愛から溢れ出た御業、神の恵みの御業なのです。そのような中に私たちは生きている。その一つの現れが、男がおり女がいるということです。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体になる」。これもまた人間が創り出したことではありません。神の恵みの御業です。
神の恵みの御業が先にあるのです。ならば本当に大事なのは感謝をもって恵みに応えて生きることです。「神が結び合わせてくださった」という恵みに対する相応しい応答は、「人は離してはならない」ということになるのでしょう。イエス様が言われるとおりです。それは神が禁止しているからそうするのではなくて、恵みへの応答なのです。
もちろん、この世界には神の恵みに応えていない人間の現実があることもまた事実です。それを聖書は罪と呼びます。ですから、現実には結婚が壊れてしまうことがあります。夫の罪によって、あるいは妻の罪によって、あるいは神の目から見るならば両者の罪によって、ということになるのかもしれません。いずれにせよ、それは結婚の話だけではありません。この世界全体がすべての営みにおいて、神の恵みに応答していないのです。神の恵みに背を向け、天地創造に始まる神の恵みを蔑ろにしているのです。イエス様には、そんなこの世の有り様が映っていたに違いありません。
にもかかわらずイエス様は「天地創造の初めから…」と神の御業を語られるのです。あくまでも神の恵みの御業が先にあることを語られるのです。そして、神の恵みに応えて生きるように呼びかけられるのです。なぜなら神の恵みの御業は続いているからです。ストップしてはおられないからです。神はこの世を、私たちを、決して見捨ててはおられないからです。さらに言うならば、ここで神の御業について語っておられるイエス様の存在そのものが、神の恵みの御業なのです。そのことが十字架において、復活において、完全に現されることになるのです。
イエス様が生きておられた世界、そして私たちに手渡してくださった信仰の世界――それは、神の目や人の目を恐れて「何が許されているのか」と問いながら生きる不自由な世界ではありません。そうではなく、先立つ神の恵みに目を向けて生きる世界です。天地創造の御業に始まり、すでに現された救いの御業に至るまで、私たちはその恵みの中に置かれているのです。その恵みに感謝をもって応答しながら歩むことこそ、私たちに与えられた信仰の歩みです。それは「何が許されているのか」ではなく、「何が主に喜んでいただけることなのか」を考えて生きることに他なりません。