マタイによる福音書 2:1‐12
喜びにあふれた人たち
「学者たちはその星を見て喜びにあふれた」。そう書かれていました。それは単に長旅の目的地にやっと着いたという程度の喜びではありませんでした。考えてみてください。メシアを訪ねて長い旅をしてやっと辿り着いたのは何の変哲もない家だったのです。しかも、ユダヤ人の王としてお生まれになった方を訪ねてはるばるやってきた彼らがそこで対面したのは、なんとも平凡な庶民の親子だったのです。
本来ならば期待外れもいいところではありませんか。目的地にやっと着いたという程度の喜びなら、簡単に吹き飛んでしまったに違いありません。しかし、彼らに与えられた喜びはそのようなものではありませんでした。ここに短く描かれているこの学者たちの行動がそのことをはっきりと物語っています。
まず聖書が伝えているのは、彼らがひれ伏して幼子を拝んだということです。しかも、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたと言うのです。ページェントの一場面としては結構ですが、現実的にはどう考えてもおかしな話です。
彼らは占星術の学者たちです。占星術師というのは、古代オリエントの世界ではけっこう高い地位にあったのです。星の運行が人間の運命を支配していると考えられていた世界で、その運命を読み解くことができる人たちというのは、相当な支配力を持っていたのです。彼らが対外的にも力を持っていたことは、簡単にヘロデ大王に謁見できたことからも分かります。そんな彼らが、ごく普通の幼子を前にしてひれ伏して礼拝したというのです。どう考えてもおかしな話です。
さらに言うならば、彼らは夢のお告げに従って、ヘロデとの約束を反故にして、別の道を通って帰ったというのです。地域の支配者からの依頼を足蹴にするような無礼なことは、通常はしないのです。ヘロデが相当怒ったことからも分かります。一方、ヘロデの所に帰っていたならば、相当に優遇されたに違いないのです。多くの褒美ももらえたことでしょう。なにしろヘロデが欲しがっている情報を手にしているわけですから。しかし、彼らは単純に夢のお告げに従って別な道を通って挨拶もせずに帰ってしまったのです。
そもそも星に導かれて来たという話自体が現実離れしているのですが、ある意味ではそれ以上にあり得ない彼らの行動がここには描かれているとも言えます。そのすべては、一つのことを指し示しています。そこに書かれている「喜びにあふれた」というその喜びは、単にこの世から得られる喜びではないということです。通常ではあり得ないような行動を取らせてしまうほどに、それほどに特別な、天からの喜びに他ならないということです。
そして、この東方からの学者たち。なぜここに出て来るかと言えば、これはやがてイエス・キリストを信じる異邦人たちの先駆けなのです。ユダヤ人ではない彼らがキリストを礼拝したように、やがて後の時代には、ユダヤ人以外の異邦人がキリストを礼拝するようになるのです。そして、実際、その中に私たちもいるのです。その意味で、彼らの姿は私たちの姿でもあるのです。私たちもこの喜びにあずかるようにと召されているのです。
そうしますと、一年の最後の日に身を置いて、改めてこの一年間を振り返って考えさせられます。どうでしょう。私たち、この世のありきたりの喜びではなく、どれほど天からの喜びにあずかってきたでしょう。どれほど天からの喜びに満たされて行動してきたでしょう。
想像してみてください。この学者たちがこの世のことしか考えられない人たちであったら、どうなっていたでしょう。星によって一つの家が示された時に、彼らが家の見窄らしさにしか目がいかなくて「なんだ、これがメシアの家か、貧相だなあ」と言っていたらどうでしょう。あるいはマリアと幼子を見て、「こんな平凡な家の子に黄金、乳香はもったいない」と呟いていたらどうでしょう。この場面が台無しだと思いませんか。
しかし、皆さん、現実には私たちは案外そんなことばかりしているものです。神様のなさっていることを考えず、この世のことにしか目がいかなくて、この世の人がすることにしか目がいかなくて、腹を立てたり、失望したり、不平を言ったり、いいことがあって喜んでみたと思えば、次の日にはその喜びが完全に吹き飛ばされていたり。そんなことばかりしているのではないでしょうか。
そのような私たちだからこそ、今日の聖書箇所には、天からの喜びに溢れた人たちの話が語られているのです。この世から得られるもののことばかり考えて新年を迎えるのではなく、改めて天からのものを求めようではありませんか。天からの御業、神の御業に目を向けることができる生活、天からの喜びにあずかる生活を求めようではありませんか。
天からの喜びに満たされているならば、長い旅路の果てに貧相な家が待っているような、そんな報われない労苦も、決して嘆きや呟きにはならないはずなのです。そのように喜びに満ち溢れる心をもって、持てるものを主に献げ、心から主を礼拝することができる私たちとなることを、求めていこうではありませんか。
具体的な行動に移すこと
そのために重要なことが、この場面から見えてきます。それは、求めを心の中に留めておくのではなくて、具体的な行動に移すことです。彼らは、メシアについて“関心を持っている人”として、東方に留まっていることもできたのです。実際に、彼らは関心をもって色々と調べることはできたはずです。彼らはありとあらゆる書物に当たり、メシアの星について調べることもできたことでしょう。また、バビロニアには多くのユダヤ人たちが居住していましたから、ユダヤ人の王として到来するメシアについても彼らを通じて言い伝えを調べることはできたでしょう。相変わらず、占星術師としての生活を続けながら、そのまま関心を持つだけで一生を送ることもできたのです。
しかし、彼らはそこに留まりませんでした。彼らは実際に立ち上がって旅に出たのです。最初の一歩を具体的に踏み出したのです。長い旅も最初の小さな一歩から始まります。それは自らが決断して踏み出すのです。
そう言えば、聖書の中には、実際に旅立った人の話がたくさん出てきます。アブラハムもそうでした。モーセに導かれたイスラエルの民もそうでした。イエス様のたとえ話の中の「放蕩息子」もそうです。放蕩息子は自らの悲惨な生活の中で悩んでいただけではありませんでした。「彼はそこをたち、父親のもとに行った」(ルカ15:20)と書かれているのです。ある東方教会の指導者がこんなことを書いています。「信仰は考えることによってではなく、実行することによって得られる。言葉や考察ではなく、体験が神を教えてくれる。窓を開けない限り、新鮮な空気は部屋に入れられない。日光浴をしない限りは、肌は黒くならない。信仰を得ることも、同様なことである。教父たちの言っているように、ただ楽に腰かけて待っているだけでは、私たちは目標に達することはできない。」――なるほど、その通りです。
間もなく新しい年を迎えます。来る年は、具体的な一歩一歩を大切にしていきましょう。神を求める思い、キリストを求める思い、天からのものを慕い求める思いを、具体的な形にしていきましょう。彼らの具体的な旅の先に大きな喜びが待っていたように、私たちが与るべき大きな喜び、天来の喜びも、私たちの具体的な一歩一歩の先にあるのです。
ところで彼らを導いたのは東方で彼らが見た一つの星でした。もちろん、星が導くはずはないので、星を用いて導いたのは神様です。しかし、どうやら彼らは神の導きの星を見失ってしまったようです。エルサレムに来て彼らは尋ねました。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2節)。尋ねているところを見ると、この時には星は見えなくなっていたのでしょう。
しかし、このことによってヘロデやエルサレムの人たちにも、メシアの誕生のことが伝えられることになりました。その結果、ヘロデやエルサレムの人々とあの東方の学者たちとの対照的な姿が浮き彫りにされる形となったのです。
地図で見ますと、エルサレムからベツレヘムは、さほど離れてはおりません。せいぜい10キロメートルぐらいの距離です。占星術の学者たちが、今からそこに向かおうとしていることも知っているのです。しかし、律法学者たちは彼らに同行しようとはしませんでした。もちろん、ヘロデもです。メシアの誕生について聞いた時、ヘロデは不安に思ったと書かれています。エルサレムの人々も同様でした。しかも、ヘロデは不安になっただけでなく、そのメシアを捜し出して殺そうとさえ企んでいるのです。
彼らはなぜ同行しなかったのか。なぜ不安になったのか。なぜメシアを抹殺しようとしたのか。なぜですか。理由は単純です。そのままでいたいからです。変わらないでいたいからです。今いる状態に留まりたいからです。結局、人を天から遠ざけ、天来の喜びから遠ざける最大の妨げは、「そのままでいたい。変わらないでいたい」という思いなのです。
ですから逆に言えば、「変わりたい」と思えるようになることは、喜ばしいことなのです。様々な試練によって、あるいは苦しみを経てでも、「変わりたい。このままでいたくない」と思うようになったとしたら、それは幸いなことなのです。そこから本当の旅は始まるからです。
東方の学者たち、一時的に星を見失ったのかもしれません。迷ったかもしれません。しかし、彼らは全く心配する必要はありませんでした。ヘロデと違いますから。彼らは今いるところに留まりたいと思っていませんから。星を見失っても、迷っても、とにかくキリストを求め続けて、また次の一歩を踏み出そうとしているかぎり大丈夫なのです。そういう人に対しては、再び星が現れるのです。導きが現れるのです。神様は必ず導いてくださる。彼らが歩み出すと星は先だって進んでいきました。そして、ついに彼らは大きな喜びに溢れたのです。
来る2024年。私たちが今まで味わったことのないような、天からの大きな喜びにあずからせていただきましょう。メシアのもとでしか味わうことのできない、大きな喜びにあずからせていただきましょう。求め続けましょう。そして、求めを具体的な形にしましょう。長い旅も小さな一歩から始まります。具体的な第一歩を主に導いていただきましょう。
2023年12月31日日曜日
「そのままでいたい人、変わりたい人」
2023年12月24日日曜日
「何故クリスマスを祝うのか」
ヨハネによる福音書 1:1‐14
クリスマス、おめでとうございます。しかし、本当は、クリスマスは明日です。私どもの教会では一足早く、こうしてクリスマスを祝っているわけです。しかし、明日にせよ、今日にせよ、祝うとするならば、その理由が分かっていなくてはなりません。ということで今日の説教題は「何故クリスマスを祝うのか」となっています。
何故祝うのか。私たちはイエス・キリストのいわゆる「お誕生日」を祝っているのではありません。そもそも12月に誕生したのかどうかも分かりません。多分違うと思います。また、仮に12月25日に生まれたとしても、「その日に」生まれたこと自体が、私たちに直接関係あるとも思えません。
では何故クリスマスを祝うのか。その一つの答えは、今日の福音書朗読に語られています。ヨハネによる福音書1章14節では、その答えがこう表現されています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。
肉であるということ
「言」とはキリストのことです。その直後に「父の独り子」と表現されています。父なる神の独り子であるキリストです。そのキリストが、神の御子が、人間となってくださった。「言が肉となった」とはそういうことです。
ならば、「人間となった」と書けば、もっと分かりやすいでしょう。そうではなくて、わざわざ「肉となった」と表現されているのはなぜでしょう。実は、聖書が「肉」という言葉を用いる時、それはただ単に生物学的に「人間である」ということではないのです。もっと生々しい、人間の現実――まことに罪深い人間の現実が表現されているのです。
それは、私たちが毎日、ネットやテレビのニュースでいやというほど見聞きしている現実です。血を分けた子供が親を殺し、親が子供を殺し、妻が夫を殺し、夫が妻を殺し、一つの国が正義の名のもとに別な国を破壊し、一つの民族が他の民族を蹂躙し、家族を殺された人々の怨念は報復テロとして形を取る。すべてアダムとエバから今日まで繰り返されてきた罪ある人間の現実です。「肉」であるとはそういうことです。
それはニュースの中だけの話ではありません。私たちが日々経験していることもみな、同じ地平にあるのです。憎み、憎まれ、恨み、恨まれ、ねたみ、ねたまれ、裏切り、そして裏切られ、傷つけ、そして自ら傷つきながら生きている。人間とはそういうものなのだ、なんとか自分の心と折り合いをつけながら生きている。これが「肉」であるということなのでしょう。
それは、本来の命の輝きを失ってしまっている人間の姿であると言うこともできます。「神は御自分にかたどって人を創造された」(創世記1:27)と聖書には書かれています。神の栄光を映し出すような存在、それが本来の人間の姿です。しかし、現実にはそうなっていない。その意味で、そのような「肉」である人間社会の現実を、これでもか、これでもかとありのままに描いているのが聖書であるとも言えます。
その聖書の中に「詩編」というものがありまして、そこである人が次のように祈っています。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」(詩篇130編)。「深い淵の底」それは「深い深み」という言葉です。それは這い上がれないほどの深みにはまっている姿です。それは何も特別な人ではありません。人間が「肉」であるとはこういうことなのです。
もちろん皆が皆、叫んでいるわけではありません。深い淵の底にいることを忘れさせてくれるものはいくらでもありますから。しかし、人は生きている限り、深い淵の底にいるという事実と向き合わざるを得ない時が来るものです。それは人生の最後であるかもしれませんし、その途上であるかもしれません。いずれにせよ深き淵の底にいる自分を見出したとしても、そこから到底這い上がることができない。あまりに深いところにいる。それが「肉」であるということです。
言は肉となって
しかし、聖書はそのような「肉」である私たちの現実をありのまま語るだけではなく、もう一つのことを語っているのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と。いわばキリストが、その深い穴の中に下りてきてくださったのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」とはそういうことです。高いところから、「そんなところにいてはならない。上がってきなさい」と命じているのではないのです。そうではなくて、その御方は深い穴の底に下りてきてくださったのです。穴の底で泥だらけになっている私たちと共に泥だらけになってくださったのです。私たちを救うために、あえて泥の中に沈んでくださったのです。「言が肉になって、わたしたちの間に宿られた」とはそういうことです。
そして、ヨハネは言葉を継いで次のように語ります。「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネはキリストの弟子として、約三年半の間、寝食を共にしました。そのヨハネはその御方を思い起こしてこう語るのです。「わたしたちは、その栄光を見たではないか」と。父の独り子としての栄光を見たということは、言い換えるならば「神を見た」ということです。
ヨハネはそのイエスというお方の中に神を見たのです。この世界の繁栄と栄華を手にした姿の中にではありません。人間と同じ穴の底で泥だらけになってくださった姿の中に神を見たのです。この世にある一人の人間として、罪に悩む者の傍らに立ってくださった、その御方の中に神を見たのです。病に苦しみ、希望を失っている者の傍らに立ってくださった御方の中に神を見たのです。愛する者を亡くして嘆き悲しむ者と共にたたずみ、一人の人間として涙を流された、そういう御方の中に神を見たのです。
そして、最終的に罪人の一人として十字架にかけられた方の内に、ヨハネは神を見たのです。罪人として裁かれ、鞭打たれ、人々から嘲られ、唾をかけられ、殴られ、ボロボロにされ、そして十字架にかけられたその御方、その惨めなキリストの姿、栄光とはほど遠いその姿――その姿の中に神を見たのです。
恵みと真理に満ちていた
そして、その十字架において現わされた栄光について、ヨハネはこう言うのです。それは「恵みと真理に満ちていた」と。
それは「恵み」に満ちていました。「恵み」とは、受けるに価しない者に向けられた愛です。神の愛を受けるに価しない私たちに向けられた、神の一方的な変わることのない愛のことです。
旧約聖書を読みますと、そこには神様に背いて、神様に逆らって、どうしようもない罪深い姿をさらしているイスラエルの人々の姿を見ることになります。しかし、神はそのようなイスラエルの民を手放そうとしないのです。切り捨ててしまおうとしない。もう相手にするに相応しくないような者であっても、神様は捨ててしまわないで愛をもって呼びかけ続けるのです。そこに見るのは神の恵みです。
そして、その恵みが神に背を向けたこの世界に、そして、そこに生きる私たちに向けられているのです。ヨハネはキリストの言葉を行いの内に、その存在の内に、神の恵みを見たのです。
そしてまた、キリストの姿は「真理に満ちて」いました。「真理」という言葉は、このヨハネによる福音書に繰り返し現れます。この「真理」とは、「見せかけのもの」に対する「見せかけでない本物」、「嘘や偽り」に対する「嘘や偽りではないもの」を意味する言葉です。ですからさらには、本当に信頼できるもの、本当に大丈夫と言えるものを意味する言葉でもあるのです。ですから「真実」と訳すこともできるのです。
嘘ばっかりのこの世界に、見せかけでしかないものに満ちているこの世界に、本当のもの、真実なるものをヨハネは確かに見たのです。その御方は「真理に満ちていた」と。その御方が見せてくれた嘘でないもの、真実なるものとはなんでしょう。――それは神の愛だったのです。その御方が見せてくれたのは、私たちがどのような者であっても、決して見捨てようとはしない、決して変わることのない、神の愛だったのです。
考えても見てください。深い穴のどん底にいるような私たちが、なお神を知り、神の命に与り、救いに与ることができるとするならば、それは神の側から来てくださって、「恵みと真理」を現してくださるしかないのです。神様が、受ける資格のない私たちをなお愛してくださり、私たちを決して見捨てない神の真実をもって私たちに関わってくださるのでなければ、私たちは救われないのです。そして、まさにその神の愛と真実とを、主イエス・キリストが現わしてくださったのです。私たちの所に来て現わしてくださったのです。
それゆえに、この御方はまた「言」と呼ばれていたのです。「言が肉になって、わたしたちの間に宿られた」と。思いを伝えるもの、それが言葉です。ある人は、このように表現していました。「イエス・キリスト、それは、神のもっとも内奥にあり、もっとも深いところにあった、究極の神の思いであります。」その究極の神の思いを、私たちは知らされたのです。神の恵みと真理、神の愛、絶対に私たちを見捨てない神の究極の思いを私たちは知らされたのです。
ならば、何ということができますか。私たちは「肉」であることについて、望みを失う必要はないのです。自分自身についても他の人間についても望みを失う必要はないのです。この世界のあり様に絶望する必要はないのです。神が見捨てていないものを、私たちが諦めて見限る必要はないからです。神が見捨てていないなら、そこには救いがあるからです。希望があるからです。私たちは、神の究極の思いを知らされた者として、神の愛を知らされた者として、希望をもって自分と関わることができる。本当は、一番やっかいなのは自分自身なのでしょう。でも、希望をもって自分自身と関わることができる。他者とも関わることができる。この世界と関わって生きることができるのです。「言が肉になって、わたしたちの間に宿られた」から。
だから祝うのです。クリスマスを祝うのです。この世のパーティの喜びではない、天からの喜び、神からの喜びをもって祝うのです。今年もクリスマスを共に祝う私たちとして、大きな喜びをもって、心から神に感謝と賛美をささげましょう。
2023年12月20日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 4:1~17
出エジプト記 4:1-17
神はモーセの名を呼んだうえで、命じられました。「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(3:9‐10)。
この命令をめぐってのやりとりが今日読んだ4章まで続きます。この命令から明らかなように、神はモーセの意向を打診しにきたのではありません。既に決まっているのです。それを伝えて、モーセの「はい」を聞くために主は出会われるのです。これを「召命」と言います。
これに似た場面は聖書にたくさんあります。一番似ているのはエレミヤという人が召された時です。主は言われます。「わたしはあなたを母の胎内に造る前からあなたを知っていた。母の胎から生まれる前にわたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」(エレミヤ1:5)。すると「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」とエレミヤは言うのです。しかし、もう決まっているのです。だから彼は行かなくてはならない。
イエスの母マリアも同様でした。「おめでとう、恵まれた方」と言って天使が現れます。「あなたをメシアの母にしたいと思うのですが、いいですか」なんて言わないのです。イエスの弟子たちもそうでした。「わたしについて来きますか」とは聞きません。「わたしに従いなさい」と言うのです。
神はお用いになるために人を召されます。その召しに対して人間は「はい」と答えます。これが召命です。これは何もモーセのような特別な人の話ではありません。私たちも同じです。私たちが洗礼を受けてキリスト者となることも同じなのです。この世にキリスト者として生きることへの召しなのです。私たちからすれば、自らいろいろ考えて私たちが洗礼を受けることを決めたように思いますけれど、本当はそうではないのです。神の召しが先にあるのです。あなたはキリストの弟子になりなさい、と神は言われた。それに対して「はい」と真心から答えた。そして、洗礼を受ける。洗礼を受けたとは、そういうことです。
そのように神が召される。人は「はい」と答える。本来、そうあるべきなのです。しかし、人間はそれに対していろいろ言いたくなるのです。それがここに見るモーセの姿です。彼は言いました。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(11節)。しかし、主はモーセのこの問いに答えようとはされません。彼にただ一つの約束を与えられました。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」と。
そして、主は御自分の名前をモーセに示されました。これは正確には主(ヤハウェ)という名前の意味を示されたということです。神はモーセに言われました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と。これは「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」と訳し得ることについては先週申し上げました。まさに共にいる神、その共にいる神が人を召すのです。
そして4章に入ります。「共にいる神」が召しておられる。しかし、どうしても人間はその「召してくださっている方」に思いがいきません。「わたしは何者でしょう」の「わたし」の方に思いが向くのです。そこに執着するのです。そこで持ち出されるのが、まずは「わたしの経験」です。そして、次に「わたしの能力」です。わたしの経験によればこれは無理だ。わたしの能力を考えたら、これは無理だ。そう人間は答えるのです。
モーセはまず自分の経験に基づいて神に答えます。「それでも彼らは、『主がお前などに現れるはずがない』と言って、信用せず、わたしの言うことを聞かないでしょう」(1節)。人々は自分に従わないだろう。それがモーセの経験でもありました(使徒7:23‐29)。
これに対して神はまず、二つのしるしを与えられました。手に持っている杖がへびになる。これが一つ。その次に、手が重い皮膚病になり、それが再び癒される。この二つを信じないなら三つ目があります。ナイル川の水が血になるというのです。
ここで語られていることは、ある意味では単純なことです。モーセは「彼らは信じない。わたしの言うことを聞かないでしょう」と言うのです。しかし、神はモーセの手を通して不思議なことをされる。その不思議な出来事を見るならば、モーセが確かに主に出会ったということを信じるでしょう。要するに、そういう話です。
しかし、実は神がしるしを現されるというのは、ここだけではないのです。この後にもたくさんでてきます。そして、最終的には決定的な出来事として、葦の海が二つに分かれるのです。その間を通ってエジプトを脱出するという話になります。
つまりモーセが遣わされ、「わが民イスラエルをエジプトから連れ出しなさい」と主はモーセに言われるのですが、現実に民を連れ出すのは神なのです。神の介入が起こるということ、神が介入されるということは、そこに新しい未来が開けるということでもあるのです。
経験に基づいて語るならば、イスラエルはエジプトからは絶対に出られないのです。どう考えても出られない。もう長い間奴隷であったのですから。しかし、神の時が来て、神が介入される時に、そこに閉ざされていた未来が開けるのです。未来は過去から現在の延長にはないのです。神のしるしはそのことを示しているのです。ただ単に人々をびっくりさせて信じさせるという手段ではないのです。
経験に基づいて語るなら、杖は永遠に杖のままなのです。しかし、神が介入されるならばそれがへびになるのです。また、きれいな手が突然皮膚病になる。そのようにある日突然災いが起こります。ある日、突然災いが起こるということは案外信じ易いものです。しかし、神が介入されるなら、その災いは幸いに変わるのです。皮膚病になったことは悲しみだけれど、神はそれを癒して喜びに変えることもできるのです。さらに言えば、ナイルの水は永遠に水なのだ、ということです。いや、それは血にだって成り得るのだとこの奇跡を通して神は言っており、聖書は証言しているのです。
人間は「わたしの経験によれば」と言って神の召命に逆らいます。しかし、神は人間の経験をひっくり返すことのできる御方なのです。それがモーセに与えられたしるしであり、これからの物語の展開を示す出来事だったのです。
しかし、それでもモーセはなお「はい」と言いません。「わたし、わたし」のもう一つは自分の能力です。モーセは言います。「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。」しかし、主は言われる。「一体、誰が人間に口を与えたのか」と。本当に重要なのは、自分の口ではなくて、口を与えた神なのです。自分の「口」ではなく、この「誰が」の方に思いを向けなくてはならないのです。
ところで、モーセは「もともと弁が立つほうではない」と言います。本当でしょうか。考えてみれば、エジプトで最高の教育を受けたモーセです。イスラエルの奴隷に対して「弁が立たない」、本当はおかしいのです。それは昔の人もそう思っていたみたいで、使徒7:22には「そして、モーセはエジプト人のあらゆる教育を受け、すばらしい話や行いをする者になりました」と書かれています。
しかし、モーセが誇り得る自分の能力を用いようとしていた時には、神はモーセを用いられなかったのです。その思いが挫折し、枯れてしまってから、主はお用いになろうとされたのでした。そして、結果的にどうであったか。出エジプト記を読むと、結構モーセはしゃべっているのです。申命記などはまるまるモーセの説教です。もちろん主が言葉を与えたということもあるでしょうが、もう一方においてかつて培われたものは、ちゃんと用いられているということでもあるのです。
さて、そのように「このわたしがあなたの口と共にある」と言われても、モーセはなおこう言いました。「ああ主よ。どうぞ、だれかほかの人を見つけてお遣わしください」。私たちもしばしばこのような思いを抱きます。「だれかほかの人に」と。
しかし、私たちは覚えておかなくてはなりません。神が召される時、それはその人でなくてはだめなのです。「だれかほかの人を見つけて」ではなく、この場合モーセでなくてはだめなのです。それが召命というものなのです。わたしたちがキリスト者になったことも同じです。あなたがキリスト者になったということは、神の目から見たら、他の人がキリスト者になったということと意味が全く違うのです。あなたでなくてはだめだということです。教会員が一人増えるなら、この人でもあの人でもいい、ということではないのです。
神は「あなたではなくてはだめだ」と言われます。これが分からないと神様は怒ります。主は「ついに、怒りを発した」と書かれています。しかし、神は怒るのだけれど、モーセの気持ちを汲んでアロンを備えます。こうして見ると、実に神は忍耐強く人を召されることが分かります。人間はいろいろとゴチャゴチャ言いますが、神はあくまでも「あなたをあなたとして」召そうと忍耐をつくされるのです。他の人ではだめだからです。
2023年12月17日日曜日
「主の道をまっすぐにせよ」
ヨハネによる福音書 1:19-28
お前は何者か
ユダヤ人の宗教的社会の中心はエルサレムにありました。しかし、エルサレムから離れたヨルダン川東岸のベタニヤから一つの運動が起こりました。その中心になっていたのは洗礼者ヨハネと呼ばれる人物でした。ヨハネの影響力は非常に広範囲に及びました。マルコによる福音書には、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(マルコ1:4‐5)とまで書かれています。その影響力がいかに絶大であったかは、その後二十年ほど経た時点で遠く離れたエフェソにまでヨハネの弟子がいたことからもうかがえます(使徒19:3)。
エルサレムの当局者たちは、この運動に関心を抱いていました。いや、脅威を感じていたと言うべきかもしれません。いずれにせよ、彼らは調査の必要性を感じて祭司やレビ人たちをヨハネのもとに遣わします。調査団はヨハネに問いました。「あなたはどなたですか。」日本語ですと丁寧に訳してありますが、要するに「お前は何者だ」ということです。「エルサレムから離れて、いったい何の権威でこんなことをしているのだ。周りの連中はお前のことをメシアだと言っているようだが、本当にお前はメシアなのか。」彼らはそのように尋問しているのです。
ヨハネははっきりと「わたしはメシアではない」と言いました。すると彼らは「では何なのか。エリヤか。それともあの預言者か」と問いかけます。エリヤというのは旧約聖書に出てくる預言者の代表です。その預言者エリヤが終末における神の審判の前に再来すると信じられていたのです。その根拠は今日第一朗読でお読みした箇所です。かつて預言者マラキは神の言葉を伝えてこう言いました。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」(マラキ3:23‐24)。荒れ野に現れたヨハネはその再来のエリヤではないかと噂されていた。「お前は本当にそのエリヤなのか」と問うているのです。
また「あの預言者」で表現されているのは、モーセのような預言者のことです。かつてモーセはイスラエルの民にこう語りました。「あなたの神、主はあなたの中から、あなたの同胞の中から、わたしのような預言者を立てられる。あなたたちは彼に聞き従わねばならない」(申命記18:15)。ですから、人々は、約束された来たるべき人物を「あの預言者」と呼んで、待ち望んでいたのです。そのような背景を踏まえて調査団は「あの預言者なのか」と問うているのです。ヨハネはこの二つについてもはっきりと「そうではない」と否定しました。
業を煮やした祭司たちは「それではいったい、だれなのか」と問います。このままでは報告ができないではないか、と。そして、聖書の言葉のまま引用するなら、彼らの最終的な質問は「あなたは自分を何だと言うのですか」(22節)でした。ヨハネが自分を何と自覚しているかを問うたのです。それに対するヨハネの答えは非常に印象的な言葉でした。彼はイザヤ書を引用してこう答えたのです。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」(23節)。今日は特にこの23節の言葉を心に留めたいと思います。
わたしは荒れ野に叫ぶ声である
ヨハネは自分自身のことを「声」と表現しました。声は文字とは違います。文字は残りますが、声は言葉を伝えて消えていくのです。その時代を考えるならば、ある意味では今やユダヤの民衆はヨハネを中心として動き始めていたと言えるでしょう。ヨハネの働きによってユダヤが大きく変わりつつありました。それはヨハネも認識していたに違いありません。しかし、それでもなおヨハネは「荒れ野で叫ぶ声」に徹したのです。声は消えて良いのです。大事なのは声が指し示している御方なのです。そのような声として生きたのです。
言い換えるならば、ヨハネは自分が何であるか、そして何でないかをわきまえている人であったと言えます。自分が何で有り得るのか、そして何で有り得ないのかを知っている人でした。そして、自分の成り得るものとして百パーセント生ききることの大切さを知っていた人であったと言えるでしょう。ヨハネは自分がメシアではないこと、救い主には成り得ないことを知っていたのです。
1章8節には、「彼は光ではなく、光について証しをするために来た」と書かれています。そのような言い方をするならば、まさに《自分は光にはなれないのだ》ということを知っていたヨハネでありました。だからヨハネは謙って光をひたすら指し示したのです。光になれない自分が無理に光になろうとはしない。光を証しするのです。今日の聖書箇所でもヨハネはこう言っています。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(1:26-27)と。
罪ある人間はまことの光にはなれません。罪のゆえに苦しむ人間を同じく罪ある人間が救うことはできません。死によって限界づけられた人間を、同じく死によって限界づけられた人間は救うことはできません。光になれない者が光になろうとするのは不幸なことです。また、光でないものを光としているならば、それもまた不幸なことです。いつ失われるかもしれない人間や何か他のものを光としているならば、最終的に闇の中にいる自分を見出すことになるからです。
なぜ教会はキリストを伝え、キリストを信じることを勧め、そして人に洗礼を授けるのか。人間は他の人間を究極的には救えないからなのです。だから洗礼を授けて神の手に委ねるのです。キリストに結ばれて、神と共に生きていきましょう、と言うしかないことが分かっているからです。キリストにつながり続けて、聖餐を受け続けて、神の恵みを受け続け、恵みに身をゆだねて生きていきましょう、と言うしかないのです。
そのように、救いは罪に満ちたこの世界の中からではなく、外から来なくてはなりません。光は暗闇の外から来なくてはなりません。救いは神のもとから来るのです。そして、神のもとから来てくださいました。イエス・キリストはこの世に来られたのです。私たちが毎年クリスマスを祝っているように、確かにキリストは来られたのです。
しかし、キリストによる救いは、人の心の内に、またその人生の内に到来しなくてはなりません。この世に来られ救いの御業を成し遂げられたキリストは、宣べ伝えられ、そして受け入れられることが必要なのです。そこでは受ける人間の側が問題となるのです。だから荒れ野で叫ぶ声は、こう叫んでいたのです。「主の道をまっすぐにせよ」と。
主の道をまっすぐにせよ
「主の道をまっすぐにする」とは、いったい何を意味するのでしょうか。24節以下には次のようなことが書かれています。「遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、『あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか』と言うと…。」
ヨハネが洗礼を授けていたことが、ファリサイ派の人々にはつまずきとなった。それはある意味では当然のことでした。もともと洗礼という儀式はヨハネが考案したわけではありません。その前からありました。異邦人がユダヤ教に改宗するときに洗礼を受けたのです。それは異邦人がまことの神に従って生きようとするときに、今までの罪の汚れを洗い落として新しく生まれることを意味したのです。しかし、ヨハネはこれをただ異邦人に授けていたのではありません。むしろユダヤ人に授けていたのです。
そして、それはエルサレムの宗教的な権威、特にファリサイ派の人々には受け入れがたい行為と映ったのです。なぜなら、ヨハネの洗礼は、はユダヤ人を異邦人同様に扱うことを意味したからです。いわば「ユダヤ人であっても神の前においては罪あるものとして異邦人と少しも変わらないのだ」と宣言しているに等しかったのです。このことは、少なくとも自分たちは律法を守って清い生活をしていると自負しているファリサイ派の人々には耐え難い屈辱でありました。だから、「なぜ、どのような権威によって、そのような洗礼を授けるのか」と問い質したのです。
しかし、まさにそのような心こそが、「まっすぐにされなくてはならない道」だったのです。他人を裁き、見下し、罪に定めながら、自らを本当の意味で省みようとはしない。決して神の前にへりくだって自分自身の罪を認めようとしない。神の赦しと憐れみを必要としているのは自分自身なのだということを認めようとはしない――そのような傲慢な心こそ、まさに「まっすぐにされなくてはならない道」なのです。
「主の道をまっすぐにせよ」と、ここで引用されているイザヤ書の言葉は、もともとは罪の赦しの預言でありました。ですから、主の道をまっすぐにするとは、罪の赦しと救いの恵みを受け入れる心の準備をすることに他なりません。「主の道をまっすぐにせよ」とは、救いを受けるために、まず整えられた立派な人になれ、ということではないのです。そうではなくて、神の前にへりくだって罪を認め、自分こそが救いを必要としている罪人であると認めることなのです。そのように備えられて、初めて人は罪の赦しにあずかり、救いに与って、神と共にキリストと共に新しく生き始めることができるのです。
2023年12月13日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 3:13~22
出エジプト記 3:13-22
今日は13節からお読みしましたが、まず先週の箇所を少し振り返っておきましょう。1節に「神の山ホレブに来た」と書かれていますが、「神の山」というのはもちろん出エジプト記を書いた人の注釈です。モーセはそんなことはつゆも知りません。モーセは神に会うためにそこに来たわけではなかったのです。彼は牧草を求め、羊を追ってホレブの山に来たのでした。その場所は彼の日常生活の場の一部なのです。彼の予定としては、いつものように羊を飼い、そしてやがていつもの場所に戻っていくはずでした。
しかし、神は人を待ち伏せし、人の日常の生活の中に入り込まれる神なのです。その神は、モーセにとって日常生活の場所でしかなかったその場所を指さして、「あなたの立っている場所は聖なる土地だ」と言われたのです。そして言われました。「履物を脱げ」と。神の御前にあることをわきまえよ、ということです。では、神の御前にあることをわきまえてモーセが脱いだ履物とは何でしょうか。
ミディアンに来てから四十年。そこにはミディアンで娶った妻もいます。子どもたちもいます。それなりの小さな幸せがそこにはあったのです。そんなモーセにとって、エジプトにおけるヘブライ人の苦しみは遠い世界の話であったはずです。忘れていれば忘れていられる。考えることがなければ、心が痛むこともない。考えないで生活をすることはできるのです。そのようなモーセにとって、「履物」とは、自分たちの小さな幸せのことだけを考えて羊を追ってきた「履物」だったのです。
しかし、その履物をモーセは脱いだのです。そして、次に履物を履く時には、自分の小さな幸せに留まるためにそれを履くのではないのです。神に遣わされた者として歩み出すために履物を履くことになるのです。そこに向かう神とのやり取りを、私たちは今読んでいるのです。
そして、それは私たちにも起こることです。私たちも、自分の人生が神の御前にあることを覚え、履物を脱ぎ、日常を中断して神の言葉を聞き、そして改めて神のために生きる者として履物を履くのです。そのようなことが私たちの人生に繰り返し起こるし、また起こらなくてはならないのです。
かくしてモーセはファラオのもとへと彼を遣わす神の言葉を聞くことになります。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(10節)。そして、主はこう言われたのです。「わたしは必ずあなたと共にいる」(12節)と。
しかし、モーセはすぐに「ファラオのもとに行きます」とは言いません。しぶしぶではあったでしょうが、イスラエルの人々のところに行くことは了承するのです。しかし、かつてイスラエルの人々に拒否された苦い思い出が頭をよぎります。彼らにとって、モーセはあくまでもエジプト人でしかないのです。彼はイスラエルの人々のところに行っても「わたしたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされた」とは言えない自分であることは分かっているのです。
それゆえ、モーセは主に問いました。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」(13節)。
すると神はモーセの問いに答えて自らの名を次のように言い表されたのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」(14節)。そして、さらにモーセにこう言われたのです。「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだ」と。
14節の「わたしはある。わたしはあるという者だ」という言葉は、以前の訳では「わたしは、有って有る者」となっていました。様々に訳し得る言葉ですし、豊かな意味の広がりを持つ言葉であろうとも思います。しかし、既に見てきたことから考えて、単に哲学的な意味における「絶対的な存在」ということではなさそうです。私の恩師であります左近淑という旧約学者は、これを「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」と訳しました。私は時々左近先生の肉声と共にその翻訳を思い出します。
先週お読みしましたように、聖書の神は私たち人間の苦しみに目を留めてくださる神様です。その御方は、嘆き叫び求める声に耳を傾けてくださる神様です。この世における諸々の痛みを知っていてくださる神様です。遠く天高いところに鎮座まします御方ではなく、私たちが這いつくばって生きているこの低きところに降ってきてくださる神様です。この歴史の中に、私たちの現実の中に入ってきてくださる神様です。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行く」と言われるのです。
その神が念を押すように、自らの名を指し示し、「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」と言われるのです。ならば、モーセはそのことを信じるのか否かを問われるところに追い詰められることになります。それは私たちも同じです。「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」と言われる神を信じるか否かを問われるところに日々置かれているのです。
モーセもまた信じるか否かを問われる具体的な現実の中に置かれることになるのです。それはファラオのもとに行って、イスラエルの長老たちと共に立ち、そこで主を「わたしたちの神」と呼んで主の言葉を伝えることに他なりません。主はモーセにこう言われたのです。「あなたはイスラエルの長老たちを伴い、エジプト王のもとに行って彼に言いなさい。『ヘブライ人の神、主がわたしたちに出現されました。どうか、今、三日の道のりを荒れ野に行かせて、わたしたちの神、主に犠牲をささげさせてください』」(18節)。
現在のファラオはモーセの親類です。恐らくモーセには面識のある人物です。かつては宮廷の人間だったのですから。さらに言えば、モーセはエジプト人の言葉も話せます。「エジプト王のもとに行って彼に言いなさい」という命令を遂行することは不可能ではありません。しかし、語ることが可能かどうかということと、語った言葉が受け入れられるかどうかということは、全く別な話です。モーセには分かっているのです。ファラオがそんな要求を絶対に受け入れるはずはない、と。
ならば通らない話を神が自ら通してくださるのでしょうか。いいえ、そうでもなさそうです。主は言われるのです。「しかしわたしは、強い手を用いなければ、エジプト王が行かせないことを知っている」(19節)。モーセの言葉が拒絶されることを神はご存じなのです。そこには困難な道のりが続いているのです。しかし、最終的にはどうなるのか。「わたしは自ら手を下しあらゆる驚くべき業をエジプトの中で行い、これを打つ。その後初めて、王はあなたたちを去らせるであろう。そのとき、わたしは、この民にエジプト人の好意を得させるようにしよう。出国に際して、あなたたちは何も持たずに出ることはない。女は皆、隣近所や同居の女たちに金銀の装身具や外套を求め、それを自分の息子、娘の身に着けさせ、エジプト人からの分捕り物としなさい」(20-22節)。
それは、単純に考えれば起こりそうにもないことです。しかし、その「最終的なこと」をも含めて、主は「わたしがいるのだ、確かにいるのだ」と言われるのです。あなたはそのことを信じるのか否か。モーセはまさにそこで問われているのです。
アドベントの第2週に入りました。アドベントは、主の再び来たりたもうを待ち望む信仰を新たにする時です。ということは、最終的にどうなるのかということに、改めて思いを寄せる時でもあるのです。イエス様は「インマヌエル」と呼ばれました。「神はわたしたちと共に」という意味です。キリストの到来によって、「わたしはいるのだ、確かにいるのだ」ということが明らかにされたのです。そして、それは最終的なことまでも含めて「わたしはいるのだ、確かにいるのだ」ということを示されたということなのです。キリストの再臨を待ち望むとはそういうことです。
現実には主がモーセに語られたように、困難はいくらでも目の前にあるのでしょう。しかし、最終的に主のご計画が遂行されることを信じて、私たちは「わたしはいるのだ、確かにいるのだ」という、ヤハウェという名前を受け入れ、信仰を言い表すのか否か、アドベントにおいて、私たちは改めてそのことを問われているのだと思います。
2023年12月10日日曜日
「キリストのもとに行き命を得るために」
ヨハネによる福音書 5:36-40
イエス様の自己証言
私たちは3週間前の主日礼拝において、「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない」(ヨハネ6・35)という主の御言葉を聞きました。そのように主が御自分について宣言なさったのです。「わたしが命のパンである」と。
そのようにイエス様が御自分について宣言される場面は、ヨハネによる福音書においては珍しくありません。その他にも、例えば、主は御自分について次のように語っておられます。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8:12)。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(10:9)。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」(10:11)。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(11:25)。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(14:6)。その他にもあります。一度、時間を取って、イエス様が御自分について何を語っておられるか、一つ一つ拾い上げてみてください。
とにかくイエスという御方はこのようなことを語られる方なのです。皆さん、こういうことを言うと、聞いた人はつまずくのです。当時のユダヤ教世界においては、抵抗を覚える人だけではありません。敵対する人、殺そうとする人さえも起こってきたのです。
その意味において、イエスという御方は単に良い教えを説いた教師などではありません。イエス様が良い教えを説いていただけならば、弱い人の友となり病人を癒していただけならば、人はつまずかなかったのです。あるいはイエス様が「わたしが道を示そう」と言っているだけならば人はつまずかないのです。しかし、「わたしが道だ」と言うならばつまずくのです。実際、この方の言葉を聞いて多くのユダヤ人たちはつまずいたのです。
それはイエス様の時代においてだけではありません。この御方が宣べ伝えられるところにおいては、いつの時代においてもつまずきが起こったのです。イエス様が語っておられるのは、人がそれを聞いてつまずいても不思議ではない言葉なのです。人が信じ受け入れなかったとしても不思議ではない言葉なのです。
ならば、その言葉の前に立たされる時、私たちの側が問われているとも言えるのでしょう。あなたはそれでもなおこの御方を信じますか。この御方のもとに行きますか。その御方に自分自身をゆだねますか、と。
実際どうですか。私たちには根源的な飢え渇きを癒してくださる方がいると信じますか。私たちにはどんな暗闇においても光となってくださる方がいると信じますか。私たちには開かれた救いの門があると信じますか。私たちには命を捨てるほどに愛してくださる羊飼いがいると信じますか。その方を信じるなら、もはや死んでも生きるのだと本気で信じますか。その方を通って必ず天の父のもとに行けると信じますか。
これがイエスという御方なのです。私たちはその尋常ならざる自己証言を耳にしているのです。だからこそ、今日読まれた聖書の言葉は特別な意味を持つのです。
主はこう言われました。「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」(36‐37節)。
繰り返しますが、私たちはその尋常ならざる自己証言を耳にしています。しかし、私たちはイエス様の自己証言だけに耳を傾けていてはならないのです。
一般的な裁判においては、事が立証されるには二人ないし三人の証人の証言が必要とされました。自分が自分について語る証言だけでは十分ではないのです。イエス様はそのことを念頭に置いて、今日の箇所の少し前でこう言っておられるのです。「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない」(31節)。その意味合いは、自分自身について証しをしているだけならば真実と認められなくても仕方がないということです。だから他の証言についても主は語られるのです。私たちは他の証言にも耳を傾けなくてはならないのです。
新約聖書の証し
そこでイエス様はまず御自分のなさっていることに目を向けさせます。「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている」。イエス様は御自分について語られるだけではありませんでした。イエス様は自ら行動なさったのです。イエス様は事を起こされたのです。私たちはイエス様の言葉だけでなく、イエス様のなさっている行いを伝えられているのです。
「わたしの行っている業」というのは、狭い意味においてはイエス様のなさった奇跡を指します。しかし、イエス様がなさったのは病気の癒しなどの奇跡ばかりではありません。例えば、イエス様は徴税人や罪人と一緒に食事をなさいました。イエス様が人々との関わりにおいてどのように行動なさったか、どのように人々と向き合われたのか、「わたしの行っている業」とは、そのすべてのことを指しているのです。
さらにはイエス様が最終的に十字架において成し遂げられた罪の贖いをも指していると言えるでしょう。ですから「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業」という言い方がされているのです。実際、主は十字架の上で「成し遂げられた!」と叫ばれたことをこの福音書は伝えているのです。
そのようなイエス様の御生涯とその意味するところが新約聖書において私たちにまで伝えられているのです。そのように新約聖書に書かれているのは、書かれる以前に、イエス様のなさったことを伝えた人々がいたからです。イエス様の言葉と共に、イエス様がなさった一つ一つのことが大事なのだと思って、懸命に伝えてきた人たちがいたのです。それが後々にまで伝えられるように、福音書として書き残した人々がいたのです。なぜですか。イエス様の御生涯、特に公生涯と呼ばれる最後の三年半になさったことそのものが、この御方が誰であるかを証ししているからでしょう。
二千年後にまで、その証言が伝えられていることはなんと驚くべき恵みでしょう。四つの福音書や新約聖書におけるその他の文書が、言葉を尽くして、イエス様のなさったこと、成し遂げられた御業とその意味するところを今日の私たちにまで伝えてくれていることは、なんと感謝すべきことでしょう。私たちはキリストの御生涯の証言である新約聖書に丁寧に耳を傾けなくてはなりません。
旧約聖書の証し
そして、さらに主は言われます。「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる」。
細かいことを申し上げますが、実はこの「証しをしてくださる」は、原文においては、未来において「いつか証しをしてくださるであろう」と言っているのではありません。「既に証しをしてくださっている」というニュアンスの言葉なのです。文法的には完了形で書かれているのです。
どういう形で既に証しをしてくださっているのか。実は、イエス様が語っているのは「聖書」についての話なのです。既にイスラエルの歴史の中において神は語ってこられ、そしてその神の証言が聖書として残されているのです。聖書において、父が既にキリストについて証ししてくださっているのです。
ですから主はさらに聖書についてこう言われるのです。「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」(39‐40節)。この場合の「聖書」とは、私たちが旧約聖書と呼んでいるものです。
ユダヤ人たちは聖書を研究していました。ラビ的解釈の細かさは現代の私たちが読んでも驚くほどです。本当に細かく、一語一句大切に解釈するわけです。私たちは彼らがどれほど聖書を大切にしたか、ある意味では見習わなくてはならないでしょう。しかし、残念ながら彼らは永遠の命が「聖書の中に」あると考えていたのです。聖書そのものが永遠の命を与えてくれるように思ったのです。だから、聖書の言葉、律法をどれだけ身につけるかが最大の関心だったのです。著名なラビであるヒレルという人はこう言いました。「律法の言葉を身につけたなら、来世の命を身につけたのである」。
しかし、イエス様は、「そうではない」と言われるのです。聖書は、そのものが永遠の命を持つのではなくて、私たち人間に必要な救い主を指し示し、救い主に導くのが聖書なのです。私たちをイエス様のもとに行かせ、イエス様のもとにひざまずかせ、「わたしをお救い下さい」と言わしめるもの、それが聖書なのです。父なる神は、この世にキリストをお遣わしになる前から、キリストについて証ししていてくださったのです。それが旧約聖書なのです。
そのように、私たちにキリストを証しする旧約聖書と新約聖書が与えられています。日本基督教団信仰告白の中にも次のように言い表されています。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我らに与える神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」私たちはこれからも、キリストを証しする神の言葉として、旧新約聖書に熱心に耳を傾けたいと思うのです。
主はあの時、「それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない」と嘆いておられました。それは、復活して今も生きておられるキリストの嘆きでもあり、なんとしても御自分のところに来て欲しいという主の願いの現れでもあるのでしょう。なぜなら、この御方は二千年後の私たちにとっても、命のパンであり、世の光であり、救いの門であり、良い羊飼いであり、死んでも生きる復活であり、父への道であるからです。それを一言で表現すれば「永遠の命」となります。主は今もすべての人を、私たちを、この命へと招いておられるのです。
2023年12月6日水曜日
祈祷会用:出エジプト記 3:1~12
出エジプト記 3:1-12
「モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていた」(1節)と書かれていました。そうです、モーセはもう長いことミディアンで羊飼いをして生きてきました。自分がヘブライ人であることを忘れたわけではありません。同胞であるヘブライ人がエジプトにおいて奴隷とされて、苦しみ喘ぎながら生きていることも分かっています。しかし、モーセにとってエジプトは遠い世界でした。彼には彼の生活がありました。ミディアンに来てから娶った妻もいます。子どもたちもいます。それなりの小さな幸せがそこにありました。そんなモーセにとって、エジプトにおけるヘブライ人の苦しみは遠い世界の話でした。忘れていれば忘れていられる。考えることがなければ、心が痛むこともありません。考えないで生活をすることはできるのです。
しかし、そのような日常の中に神は入ってこられたのです。それが今日お読みした聖書箇所に書かれていることです。モーセはこのままで良いと思っていたかもしれません。しかし、神はそう思ってはおられませんでした。だから神はモーセを待ち伏せしたのです。そうです、人は待ち伏せしている神に出会うのです。
それはモーセにとっていつもと変わらぬ一日でした。いつものように羊を連れ出し、いつものように羊を養うために導いていたのです。そのようにして、モーセは「神の山ホレブ」に差しかかりました。もっとも「神の山」というのは聖書を書いた人のコメントです。モーセが「神の山」と思っていたわけではありません。それはモーセにとってはいつもと変わらぬ日常の一場面に過ぎなかったのです。
しかし、そこでモーセは不思議な光景を目にしたのでした。柴が燃えていた。しかし、燃え尽きない。燃え尽きない炎を目にしたモーセは燃える柴に近づきます。すると、そこから声がしました。「モーセよ、モーセよ」。そして、声の主はこう言ったのです。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(5節)。
モーセはそこまで履物を履いた足で歩いてきたのです。そうやってホレブの山までやってきた。それはモーセにとってはいつもの日常のことなのです。そして、その日常のことを続けて、履物を履いた足で家に帰ろうと思っていたのです。羊を追ってきたように、同じように羊を追って家に帰ろう、と。しかし、主は言われるのです。「足から履物を脱ぎなさい」。履物を脱いだなら、ここまで足で歩いてきた日常の歩みを中断することになるのです。日常を中断して、神の前に立つのです。そこは日常の延長上にある場所ではないからです。それは聖なる場所なのです。
日常を中断して主の前に立ったところで、モーセは神の言葉を聞くことになりました。そこで燃え尽きない炎が何であるかを知らされたのです。主は言われました。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」(7‐8節)。モーセが忘れていた人々、忘れようとしていた人々、もはや目を向けることをやめてしまったあの人々、エジプトで苦しみ喘いでいるヘブライ人たちに、主が目を向け、耳を傾けておられたのです。そして、主の内に憐れみの炎が燃え上がっていたのです。かつてモーセの内にあった炎は既に消えてしまいました。しかし、消えることのない神の炎をモーセは目にしていたのです。
そして、モーセは確かに次のような言葉を聞いたのでした。「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す!」(8節)。モーセが確かに天ではなく地上において燃え尽きぬ炎を見たように、人々は地上において熱情の現れを見ることになるのです。神自らが「降って行く」と言われるのですから。そして、神自らが「彼らを救い出す」と言われるのですから。神が今こそ行動を起こされるのです。
しかし、そこで続いてモーセが耳にしたのは、さらに驚くべき言葉でした。主は言われたのです。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(10節)。話が違います!神御自身が救い出すと言われたではありませんか!しかし、これが神のなさり方なのです。神は降ってきて、神が救うのです。人間にはできないことですから。しかし、神はそこであえて人を用いられるのです。神に従う人を用いられるのです。
とはいえ、モーセはもうかつてのモーセではありません。若き力の溢れたモーセではないのです。正義の炎のゆえにエジプト人を討った、あのモーセではないのです。ですからモーセは言うのです。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(11節)。
モーセがこう言わざるを得なかったその気持ちはよく分かります。私たちも同じ所に立たされたらきっと同じことを言うでしょう。「わたしは何者でしょう」と。しかし、主にとって「何者であるか」ということは、どうでもよいことなのです。彼の内に何があるかも、それはどうでもよいことなのです。しょせん人から出た炎など、やがては消えていくものですから。
大事なことはそんなことではないのです。神は何と言っておられるでしょう。「わたしは必ずあなたと共にいる」(12節)。そう言われたのです。大事なことはモーセが何者であるかということでもなければ、モーセが熱情に燃えていることでもないのです。誰が共におられるかということなのです。神が共にいてくださる。人間の内に燃える炎ではなく、神の内に燃え尽きない炎が燃えているのです。その神が共にいて、その神が用いてくださり、神の御業が地上に現されるのです。
実際、モーセはかつての経験からもう十分に知っていたはずなのです。人間から出たものは消えていくということ。そうではなくて、ただ燃え尽きない神によって為されたことだけが残るのだということ。モーセは主の御前で履物を脱ぎました。そして、神の言葉を聞いてモーセは再び履物を履くことになるのです。遣わされた者として履物を履いて山を降りていくのです。神に用いられ、神の御業を現す者として、履物を履いて山を降りていくのです。
この箇所を読みます時に、モーセの姿と重なってきますのは、イエスによって派遣される弟子たちの姿です。復活したキリストは、一度深い挫折を経験した弟子たち、一度燃え尽きてしまったあの弟子たちを、再び集めてこう言われたのです。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:18‐20)。
その時、あの弟子たちが何者であるかということは、もはや問題ではありませんでした。そして、そのようにして主によって遣わされた教会の中に、私たちもまたいるのです。待ち伏せしておられた神によって召され、語られ、世に遣わされた者として、ここに私たちがいるのです。
それゆえにまた、私たちは繰り返しあのモーセの立った所に立たされるのでしょう。主の御前に私たちが繰り返し集められているとはそういうことです。私たちは日常の業を中断して、主の御前に立つのです。私たちは主の御前において履物を脱ぐのです。そして、主の御言葉を聞くのです。今もこの世界に向けて燃え尽きることのない主の愛の炎が燃えていることを聞くのです。そして、私たちは再びこの世界に遣わされていく。主が共にいてくださるという約束と共に、遣わされていくのです。私たちは再び履物を履いて出て行きます。遣わされた者として履物を履き、主が用いてくださることを信じて、世に出て行くのです。
2023年12月3日日曜日
「神の慈しみと厳しさを考えなさい」
ローマの信徒への手紙 11:13‐24
今日は13節から読みましたが、先に17節以下を見ておきます。次のように書かれていました。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。すると、あなたは『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています」(17‐20節前半)。
神の慈しみにとどまる
折り取られた枝とは福音を拒否したユダヤ人たちです。接ぎ木された野生のオリーブとは異邦人キリスト者です。もともと救いの約束を与えられていたのはユダヤ人たちでした。メシアの希望を与えられていたのもユダヤ人たちでした。にもかかわらず、彼らはメシアを拒否し、神によって備えられていた恵みを退けたのです。その一方で、旧約聖書に約束されていた希望とはまったく無縁であり、メシアを待ち望んでいたわけでもない異邦人が、救いの恵みに与るようになりました。「根から豊かな養分を受けるようになった」と書かれているとおりです。
豊かな養分を受けている枝として生きていることは何も悪いことではありません。しかし、その枝がオリーブの木につながっていない枝に対して誇り始める時、誤りに陥ります。確かにユダヤ人は不信仰のために折り取られました。異邦人キリスト者は信仰によって立っています。そのことをパウロも認めます。しかし、そこで何を思わなくてはならないのか。パウロは言います。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」(20節後半)。
イスラエルは神によって選ばれた神の民でした。神が「イスラエルはわたしの子、わたしの長子である」(出エジプト4:22)とさえ、言われた民でした。しかし、旧約聖書を読みますと、神がいかにこの民に対して厳しく臨まれたかを知らされます。彼らが思い上がった時、へりくだって立ち帰るようにと神は呼びかけました。そして、立ち帰ろうとしない神の民に、いかに厳しい裁きの言葉が臨んだかを私たちは聖書を通して知っています。そして、最終的にメシアであるイエスのご人格とその死と復活を通して与えられた神の言葉を退けた時、神は彼らを救いの幹から折り取られたのでした。
しかし、自然に生えた枝、本来幹につながっているはずの枝が救いの幹から折り取られたという事実を見て、「ああ、神は彼らをそのかたくなさのゆえに退けられたのだ」などと言っていてはならない、とパウロは言うのです。彼は次のように続けます。「神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」(21‐22節)。
「あなたをも容赦されないでしょう」とは、「あなたも折り取られた枝になる」ということです。もう根から豊かな養分にあずかることができない枝になり、枯れ枝になるということです。それはあり得ることなのだ、と言っているのです。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」(22節)とパウロは言うのです。
私たちは神の厳しさを考えねばなりません。しかし、それは私たちが神の裁きを恐れて戦々恐々として生きることを意味しません。パウロはあえて「《慈しみ》と厳しさ」と言っているのです。思い上がらず、むしろ恐れてどうすべきなのでしょう。神の慈しみにとどまるのです。「神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」と語られているのです。
ここで「神の慈しみにとどまる」と表現されていることは重要です。この後の23節には「不信仰にとどまらないならば」という言葉が出てきますから、ここは本来なら「信仰にとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです」と書かれていても良いところなのです。しかし、パウロはあえて「信仰にとどまる」と言わず、「神の慈しみにとどまる」と言いました。私たち自身、ユダヤ人ではない異邦人キリスト者として、この言葉に耳を傾けなくてはなりません。
聖書によるならば、私たちは野生のオリーブであったのです。そのような私たちが、今こうして接ぎ木されているのは、ただひとえに神の慈しみによるのです。神に背いて生きてきた私たちが、罪を赦されて、神に祈ることを許され、神と共に生きることができるのは、ただひとえに神の慈しみによるのです。神の慈しみなくしてはとうてい神の御前に立てないような私たちであることを思いつつ、その神の慈しみの中を生きていく。それが神の慈しみにとどまるということなのです。
具体的には神の慈しみの現れであるキリストの体と血とにあずかり続けながら生きるということです。洗礼はただ神の慈しみによるのです。聖餐はただ神の慈しみによるのです。ですから洗礼の恵みから離れないことです。主の食卓から、聖餐の恵みから離れないことです。すべては神の慈しみによるのだということを弁えているならば、そこにはつまらない誇りが入り込む余地など微塵もないはずなのです。
そして、自ら慈しみにとどまっているならば、不信仰によって折り取られた枝についても正しく見ることができるはずなのです。すなわち、折り取られて終わりではないということです。パウロは次のように続けます。「彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです」(23節)。
神はおできになる。そこにパウロの希望がありました。パウロは、折り取られた枯れ枝を見ているのではありません。再び神によって接ぎ木され、根から豊かな養分を取って成長し、多くの実をつけている枝を見ているのです。神の厳しさと共に神の慈しみを知っているからです。
ねたみを起こすため
さて、ここまで読みまして、13節に戻ります。そもそも、パウロが言いたかったことは何だったのでしょうか。「では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(13‐14節)。
パウロは自分自身を「異邦人のための使徒」と呼びます。彼が福音を宣べ伝えることによって多くの異邦人がキリストを信じ、キリスト者となりました。この務めをパウロは確かに光栄に思うと言います。しかし、それにもかかわらず、パウロの働きは異邦人がキリスト者となることによって完結してはいないのです。その先があるのです。「何とかして自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。」
それは単に同胞意識からくる同情のようなものではありません。パウロがあくまでも思い描いているのは、終わりの日を目指して進んでいる神の計画なのです。15節にこう書いているとおりです。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう」(15節)。
ユダヤ人は不信仰のゆえに折り取られた枝となっています。しかし、神の計画は人間の不信仰によって頓挫することはありません。神は不信仰をも、人間のかたくなさをも、御計画の前進のために用いることがおできになる方です。直接的にはユダヤ人の不信仰によって主イエスは十字架にかけられましたが、その十字架によって神と人との和解が与えられました。さらに、ユダヤ人が不信仰によって折り取られましたが、そのことにより野生の枝である異邦人が接ぎ木され、福音はユダヤ人の枠を越えて外へ飛び出しました。それは異邦人を含め、世界を神との和解へと導くものとなりました。それゆえに、異邦人である私たちもまたここにいるのです。
そして、世界に向かって流れ出た救いの業は、神の御計画のもとに完成へと向かいます。異邦人の救いは最終的にイスラエルの救いにつながっているのです。イスラエルは捨てられて終わりではありません。彼ら――すなわち全イスラエル――が神によって受け容れられるとの時が来るのです。パウロはそれを「死者の中からの命」と呼ぶのです。まさに神のみの為し得ることだからです。
パウロは、このことを異邦人キリスト者に語ります。なぜでしょうか。彼らが神の大きな救いの歴史の途上にあることを知ってほしいからです。自分たちの救いが「終点」ではないことを理解して欲しいからです。自分たちがキリスト者にされたのは、今は福音に背を向けているように見える人々の救いのためでもあることを忘れてはならないのです。
そこでパウロの願いは同胞であるユダヤ人たちにねたみが起こることでした。「ねたみ」――これは感情的に動かされることです。この場合、例えば「うらやましくなること」と言い換えることもできるでしょう。パウロは、異邦人キリスト者が、本来イスラエルに約束されていた恵みに与るのを見て、ユダヤ人たちがうらやましく思うように、ねたましく思うように、と願っているのです。
そして、そのような「心の動き」を神が救いのために用いられるとするならば、やはり問われるのはその人が生きている姿であろうと思います。「ねたみ」が起こるのは、単に言葉によってではなく、目に見える生活や生き様によって起こるからです。自らを誇っている姿、他者を批判し断罪している姿によって、パウロがここで言う「ねたみ」が起こることは決してありません。求められているのは、慈しみにとどまっている人の姿です。ただ神の慈しみによって救われた者であることを知り、神に感謝し、神に信頼し、神の恵みを分かち合って生きている姿です。
「不信仰なユダヤ人を神に見捨てられた者であるかのように断罪するのではなくて、むしろ神との平和を与えられたあなたがたの生活を通して彼らの内にねたみを起こしてほしい!」パウロの手紙を通して、そんな切なる主の御声が聞こえるような気がします。私たちの主は、そのような御方なのです。その主は、キリスト者が100人に一人もいないこの日本の社会の中で、信仰者として私たちがどのように生きることを望んでおられるのでしょうか。