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2025年9月14日日曜日

「あなたの願いは何ですか」

2025年9月14日 主日礼拝説教 

聖書:列王記上 3:4-15

主を愛するソロモン
 本日の第一ロウソクは、次のような言葉から始まっていました。「王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこに重要な聖なる高台があったからである。ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた」(4節)。

 「聖なる高台」という言葉が出てきました。その「聖なる高台」とは、当時のイスラエルにいくつもあった聖所、すなわち礼拝の場所です。その礼拝の場所は、イスラエルの人たちが「ここを聖所にしましょう」と言って決めたのではありません。実は、その土地にイスラエルの人たちが入ってくる前からその場所は先住民の聖所だったのです。つまり元々土着の宗教の神々が礼拝されていた場所だったのです。そのような「聖なる高台」がギブオンだけでなく、他にもたくさんあったわけです。

 もともとあった土着の宗教の神々は「バアル」と呼ばれていました。「バアル」とは「主人」という意味の言葉です。各地の「聖なる高台」においては、その土地の「バアル(主人)」が礼拝されていたのです。そこにおいて行われていたのは、日本の各地においても見ることのできるような、穀物の豊作を願い、また家畜の多産を願っての祭儀でした。要するに、人々はそこで繁栄を願って犠牲をささげたのです。富と栄光を願って、戦いがあるならば勝利を願って、犠牲をささげたのです。今日の聖書箇所に出てくる「聖なる高台」とは、もともとそのような場所だったのです。

 そのような数ある「聖なる高台」の中でも、特に重要な「聖なる高台」があるギブオンにソロモンという王様が行って犠牲をささげたというのが今日の話です。「ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた」(4節)と書かれていました。「一千頭」というのは極端です。これは文字通りの意味ではなく、「非常に多くの」という意味だと思われます。ともかくソロモンは多くの動物を犠牲として祭壇にささげました。

 豊穣多産を願い、御利益を願っての礼拝であるならば、そこで犠牲をささげるのは願っているものを与えてもらうためでしょう。その意味では、もともと「聖なる高台」で行われていたのは神々との取り引きであると言うことができます。得るものがあるからこそ献げるのです。バアル(主人)とは呼んでいますが、彼らが愛しているのは主人ではありません。そうではなく、結果として得られる豊作であり繁栄です。バアルを愛しているのではなく、バアルが与えてくれるものを愛しているのです。

 ソロモンもまた聖なる高台で莫大な量の犠牲をささげました。外から見れば、豊穣多産を願っての祭儀と変わらないかもしれません。しかし、実はギブオンに上った今日の話の直前にこう書かれているのです。「ソロモンは主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだが、彼も聖なる高台でいけにえをささげ、香をたいていた」(3節)。ソロモンは主を愛していた。ソロモンが献げる犠牲と礼拝は、主との取り引きではなかったのです。それは主を愛するゆえの礼拝であり、献げ物だったのです。

 そのことが明らかに示されているのが、続くエピソードです。「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、『何事でも願うがよい。あなたに与えよう』と言われた」(5節)。そこでソロモンは知恵を求めたという有名な話です。

ソロモンの願い
 「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」。そのように主なる神は「与えてくださる方」として御自身を表されました。確かに聖書が私たちに伝えている主なる神はそのような御方です。聖書は、人間が願い求め、神が与えてくださった、という話に満ちています。

 それゆえに、イエス・キリストも言っておられました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7:7‐8)。さらには「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(同11節)と言っておられるのです。

 神は与えてくださる御方です。しかし、だからこそ、その神に何を願うかが大事になってくるのでしょう。私たちの「願い」に、私たちの内にあるものが現れてくるからです。いったい神に何を願うのか。いや、個々の願いというよりも、そもそもどのような願いを持って生きているのか。神の御前においては、そのことが問われるのです。いったい私たちは、どのような願いを持って生きているのでしょうか。今こうして私たちがしているように、私たちが神に向かうならば、もう一方で私たちの生き方そのものが問われるのです。いったい何を求めて生きているのか、と。

 さて、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われたソロモンはどう答えたのでしょうか。彼は言いました。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう」(6‐9節)。

 ソロモンの答えに繰り返されている言葉があります。「僕」という言葉です。日本語訳では分かりにくいのですが、実はすべて「あなたの僕」と書かれているのです。ソロモンの父、先代の王ダビデがまず「あなたの僕、わたしの父ダビデ」と呼ばれています。ダビデ王は、忠実に、憐れみ深く正しい心をもって、主の僕として歩んだ。そのような王座をソロモンは引き継いだのです。それがソロモンの自覚でした。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕(あなたの僕)をお立てになりました」と。

 そしてもう一つ繰り返されている言葉があります。「あなたの民」という言葉です。「僕はあなたのお選びになった民の中にいますが」(8節)とありますが、これも原文では「僕はあなたのお選びになったあなたの民の中にいますが」と書かれているのです。ソロモン王にとって国民は「あなたの民」なのです。「わたしの民」ではないのです。つまりソロモンが王であるということは、主から国民を託されたのであって、ソロモンは主の僕としてその務めに携わっているに過ぎないのです。

 ソロモンがここで口にしている願いはそのような文脈で理解する必要があります。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」。何のためですか。主の僕として生きるためです。主により良くお仕えするためです。主の僕として、主から託されたことを全うするためです。「そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう」。そう言ってソロモンは求めたのです。

 それは夢の中での出来事でした。しかし、夢の中でそのように答えたということは、それが常日頃の願いであったことを意味するのでしょう。主により良くお仕えするためには何が必要なのだろう。主から託された務めを果たすためには、わたしに何が必要なのだろう。そのことをソロモンは常に考え続けてきたのです。あるいは、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と主から言われる以前から、それは彼の絶えざる願いであり祈りでもあったのかもしれません。

神の答え
 このソロモンの願いを主は喜ばれ、こう言われました。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」(11‐14節)。

 ソロモンが献げた犠牲は、かつて同じ聖なる高台で富と栄光を求めてバアルの神にささげられたものと同じではありませんでした。ギブオンにおいてソロモンが夥しい焼き尽くす献げ物をささげた時、彼が願い求めていたのは長寿でも富でも敵の命でもなかったのです。繰り返しますが、王であるソロモンが願い求めていたのは主の僕として主に仕えて生きることだったのです。主の僕として与えられた人生を全うすることだったのです。ソロモンの献げ物、ソロモンの礼拝、それは主を愛する者の献げ物であり礼拝でした。

 かくして主はソロモンが願い求めたとおり「知恵に満ちた賢明な心」を与えると約束されました。さらには、願い求めなかったもの、富と栄光をも与えると約束されました。そして物語は、主が約束されたとおりに豊かにソロモンに与えられたことを伝えています。

 そして、その御方は私たちの神、私たちの天の父でもあります。かつて夢の中において「何事でも願うがよい」と言われた神は、ここにいる私たちには、夢によってではなく、イエス・キリストを通して、また使徒たちを通して、願いなさい、求めなさい、祈りなさいと言ってくださいました。だからこそその御方の御前で何を願うかが重要になってまいります。何を願って生きているかが重要になってくるのです。ここで主を共に礼拝している私たちは、神の御前において、いったいいかなる願いを持って生きているのでしょうか。

2022年9月18日日曜日

「神への信仰と人間の行為」

列王記上21:1-7

 本日は列王記上21章のはじめの部分をお読みしました。この章は一つのまとまった物語ですが、前半と後半に分かれます。1節から16節までの前半には、アハブ王がナボトを殺してぶどう畑を奪った経緯が記されています。もちろん、厳密に言えば実際に計略をもってナボトを殺したのは妻のイゼベルです。しかし、聖書は単にイゼベルの悪事だけに目を向けることはしません。前半の最後は次のように締めくくられているのです。「アハブはナボトが死んだと聞くと、直ちにイズレエルの人ナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って行った」(16節)。

 あくまでも聖書はこの出来事を、アハブとナボトのやり取りから始まり、実際にアハブがナボトのぶどう畑を自分のものにした出来事として書いているのです。それはどうしてか。これは単に権力を乱用した不正の問題ではないからです。社会正義の問題ではないのです。問題はもっと根深いところにあります。これは信仰の問題であり、神に対する背きの問題であるのです。そのことを明らかにするために、注目すべき4つの点に目を向けていきましょう。

嗣業の土地

 その第一は、ナボトが王の求めを断った理由です。アハブ王はこう言ってナボトに話を持ちかけました。「お前のぶどう畑を譲ってくれ。わたしの宮殿のすぐ隣にあるので、それをわたしの菜園にしたい。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい」(2節)それに対してナボトはこう言って王の申し出を断ったのです。「先祖から伝わる嗣業の土地を譲ることなど、主にかけてわたしにはできません」(3節)。その理由は4節でも繰り返されています。この言葉がこの物語において重要な意味を持っているからです。

 当時、土地の売買が行われていなかったわけではありません。また、王の提示した条件は、決してそれ自体不当なものではありませんでした。にも関わらずナボトが拒否したのは、「主にかけて」という言葉が示すように、信仰的な理由からでした。

 ナボトの土地は、「先祖から伝わる嗣業の土地」と表現されています。「嗣業」とは、神から受け継いだ賜物という意味です。イスラエルにおいては土地が家族によって相続されるということは、決定的に重要なことでした。その根本には、土地の真の所有者が神であるという理解があります。その神の恵みによって人は土地の上で生きることを許されているのです。「嗣業の土地」はその恵みの事実を指し示しているのです。それゆえに、土地は人間が自分勝手に処理してはならないのです。王の求めに対するナボトの拒否は、土地を所有する主の権威の方が王の権威よりも上にあることの信仰的な表明に他ならなかったのです。

分かってはいるけれど
 そして、第二に注目すべきは、アハブ王がナボトの主張の正当性を、ある意味では認めていたという事実です。

 王はもともと自分の権力によって無理矢理に土地を奪うつもりなどなかったのです。4節をご覧ください。「機嫌を損ね、腹を立てて宮殿に帰って行った」と書かれています。王は腹を立てつつも引き下がったのです。そして、何をするでもなくふて寝していたのです。ナボトに危害を加えるつもりもなかったのです。主の言葉の権威が自分よりも上にあることをアハブは知ってはいたのです。ナボトの主張の背景にある律法の言葉が、王である自分の意志よりも上にあることを、彼は分かっているのです。

 しかし、分かっていることと従うこととは別の話です。アハブはふて寝の理由をイゼベルに問われた時、ナボトが拒否した本当の理由を知りながらも、そのままイゼベルに告げることはしませんでした。「嗣業の土地」とナボトははっきり言っていたはずです。しかし、その部分は抜かして、単に「畑は譲れないと言うのだ」とイゼベルに訴えるのです。彼はナボトが拒否した本当の理由を知りながらも、それを認めたくはないのです。すなわち、何が主に従うことかは分かっているけれど、その意志に従いたくはないのです。

バアルを信じる者とは
 さて、第三に注目すべきは、ナボトと対照的なイゼベルの言葉です。ここにおいて物語は問題の核心に近づいていきます。彼女は言うのです。「今イスラエルを支配しているのはあなたです」(7節)。彼女はバアルの信奉者であり、主を信じる者ではありません。このイゼベルの言葉は、ナボトとイゼベル、すなわち主を信じる者とバアルを信じる者の決定的な違いが見事に表現されています。

 ナボトにとって、イスラエルを本当の意味で支配しているのは主なる神なのです。その主の下に王はいるのです。王もまた主の意志に従わねばならないのです。しかし、バアル信仰においてはそうではありません。バアルは豊作の神です。バアルは豊作と繁栄には関わっていますが、王国の統治には関わってはいないのです。バアルは王に命じません。王もバアルに聞き従う必要はありません。そうです、バアルは人間の願いは聞きますが人間に命じることはない神なのです。どうしてだか分かりますか。バアルとは人間の欲望の投影に他ならないからです。

 イゼベルは王妃として、ある意味で王の権力を共有しています。(実際には、本当に権力を持っていたのはイゼベルでしょう。)彼女にもバアルは命じません。バアルは彼女の上にはいないのです。ですから彼女はこう言います。「わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう」。これは直訳すると「わたしが与えます」という言葉なのです。この言葉は、土地の真の所有者は主であるというナボトの理解とは対極にあることが分かります。

 そして、注目すべき第4は、ナボトが偽証に基づく不当な裁判の結果打ち殺されたことです。

 イゼベルは町の有力者たちに指示を出しました。指示を受けた人々がしたことは次のように書かれています。「彼らは断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせた。ならず者も二人来てナボトに向かって座った。ならず者たちは民の前でナボトに対して証言し、『ナボトは神と王とを呪った』と言った。人々は彼を町の外に引き出し、石で打ち殺した」(12-13節)。そのように、ナボトはイゼベルが仕組んだ不当な裁判によって有罪とされ、彼は町の外に引きずり出されて石で打ち殺されたのです。

 モーセの十戒は偽証を禁じます。しかし、それにもかかわらず、ナボトは打ち殺されたのは、明らかにイゼベルが主の権威の下に身を置いていないからです。イゼベルにとって主の十戒も命令も意味がないのです。イゼベルは決して人に命じることのない神、バアルと共にあるからです。

悔い改めと従順
 さて、このことはアハブの時代に限った問題ではないことが聖書を読むとよく分かります。神への信仰と人間の行為とは深く結びついているのです。どのような神を信じるのか。どのように神を信じるのか。それは人間の倫理的な行為と深く結びついているのです。

 バアル信仰の問題は、一国における社会正義にまで広く関わる問題として聖書には描かれています。そして、それはキリストを信じる私たちと無関係ではありません。キリスト者が神の言葉に聞こうとはしなくなると、その信仰はバアル化していきます。ただ自分の必要の満たし、ただ自分の欲求の充足、ただ自分の抱えている問題の解決だけを神に求めているならば、それはもはや主なる神ではなくバアルなのです。そして、バアル化した信仰、バアル化した教会、バアル化した礼拝は、具体的な生活に必ず影響を及ぼすようになるのです。

 さて、17節に入り、「そのとき、主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ」という言葉をもって後半が始まります。ナボトが殺されて、ぶどう畑が手に入れば、この件はアハブとイゼベルにとって一件落着です。しかし、人間にとって終わりであっても、神にとっては終わりではありません。人間が蓋をして無かったことにしても、神は蓋をこじ開けて問題にするのです。

 主はアハブに言われます。「あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか」(19節)。最初に申しましたように、厳密に言えばアハブは人を殺してはいません。殺したのは石を投げた人々です。偽証したならず者たちです。不当な裁判を良しとした長老と貴族です。それを命じたイゼベルです。アハブはそのどこにも加わってはおりません。

 しかし、主はアハブに向かって「あなたは殺した」と言うのです。アハブは消極的な仕方にせよ、バアルと共にあるイゼベルの側にいたからです。そして、結局、ナボトのぶどう畑を手にしたからです。

 主が蓋を開いて問題にする時に、人間の為しえる最善のことは、様々な理由をつけて再び蓋をしてしまうことではありません。アハブは「わたしは手を下していない。わたしには関係ない」と言うこともできたでしょう。また、預言者エリヤを殺してしまうことも、アハブにはしようと思えばできたはずです。しかし、そうやって蓋をしても何の解決にもならないのです。そして、アハブはそのことだけは分かっていたようです。

 そこで人間の為しえる最善のことは悔い改めです。主の御前に罪を認めて謙り、悔い改めることです。「アハブはこれらの言葉を聞くと、衣を裂き、粗布を身にまとって断食した。彼は粗布の上に横たわり、打ちひしがれて歩いた」(27節)。そして、主は確かにアハブの謙りと悔い改めに目を留めていてくださったのでした。

2022年7月24日日曜日

「与えられた時こそ試練の時」

列王記上 10:1-13

主はたたえられますように
 本日の第一朗読で読まれましたのは、ソロモン王の時代にシェバの女王が来訪したという話です。シェバ王国はアラビア半島の南部、現在のイエメン周辺に存在していたことが知られています。遠い南の国から女王は何のためにはるばるイスラエルまで来たのでしょう。

 この女王の来訪の直前にはソロモンがエツヨン・ゲベルで船団を編成したことが記されています(9:26)。その船団にティルスのヒラムの船団が合流するのです。そして、こう書かれています。「彼らはオフィルに行き、金四百二十キカルを手に入れ、ソロモン王のもとにもたらした」(同28節)。この金の産地として有名であったオフィルはシェバ王国の一部か、もしくはその近隣にあったと思われます。そして、今日お読みした11節以下には再び「オフィルから金を積んで来たヒラムの船団」の話が出て来るのです。

 このような話の流れから考えますと、シェバの女王の来訪も、もともとはティルスと合同で設立した船団による南方の国々との広い交易との関連で理解するべきものと思われます。つまり南方の女王がはるばる来訪した主たる目的は、この物語の中にも様々な形で現れてくるような物資の交換による経済活動であったと考えられるのです。

 しかし、そのような南方の国々との経済的な交流はソロモンの時代のイスラエルにおいては大きな位置を占めていたにもかかわらず、聖書はあえてシェバの女王の来訪を、「ソロモンの知恵」を中心として語るのです。

 本日の聖書箇所において、シェバの女王は「難問をもって彼を試そうとしてやって来た」(1節)と書かれています。そのような彼女の質問に対して、「ソロモンはそのすべてに解答を与えた。王に分からない事、答えられない事は何一つなかった」(3節)と聖書は伝えます。さらには、シェバの女王は「ソロモンの知恵と彼の建てた宮殿」(4節)を目の当たりにします。そして、女王はこう言うのです。「わたしが国で、あなたの御事績とあなたのお知恵について聞いていたことは、本当のことでした。わたしは、ここに来て、自分の目で見るまでは、そのことを信じてはいませんでした。しかし、わたしに知らされていたことはその半分にも及ばず、お知恵と富はうわさに聞いていたことをはるかに超えています。あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう。いつもあなたの前に立ってあなたのお知恵に接している家臣たちはなんと幸せなことでしょう」(6‐8節)と。

 彼女が口にしているように、富だけではなく、あくまでも「お知恵と富」なのです。そのように富だけではなくソロモンの知恵を目の当たりにしたこのシェバの女王の物語として聖書は伝えているのです。なぜでしょうか。――それは私たちに、もう一度ソロモンの治世の初めを思い起こさせるためなのです。ギブオンにおいて主がソロモンの夢枕に立たれたあの時のことです。3章に書かれている話です。

 あの時、主はソロモンにこう言われました。「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」その時ソロモンが求めたのは知恵でした。王として国民の訴えを正しく聞き分けることができる知恵でした。ソロモンのこの願いを主はたいそうお喜びになり、こう約束されました。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう。」(3:5‐14)。

 シェバの女王が見たのは、まさにあの時主がソロモンに与えられた約束の実現に他なりませんでした。主は確かに真実であられた。主は約束を果たされた。私たちがそのことを思い起こすようにと、シェバの女王が来訪したこの物語は記されているのです。それゆえに、今日の箇所の書き出しはわざわざ「シェバの女王は《主の御名による》ソロモンの名声を聞き」(1節)という言葉になっているのです。彼女は単にソロモンの名声を聞いたのではなくて、イスラエルをエジプトから導き出された神、主(ヤハウェ)の御名を聞いてやってきたのです。

 そして、彼女は確かに、このソロモンの栄華の背後に主が生きて働いておられることを見たのでした。それはこの女王がこう言っていることから分かります。「あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように。主はとこしえにイスラエルを愛し、あなたを王とし、公正と正義を行わせられるからです」(9節)。これがシェバの女王の認識でした。

 しかし、果たして当のソロモン自身の認識はいかなるものだったのでしょうか。今日は13節までお読みしました。しかし、その後に続く物語の展開は、むしろソロモン自身はそのことを忘れてしまっていたことを示しているのです。そこまでを読んでこそ、今日の聖書箇所の伝えたいことも見えてくるのです。

与えられた時こそ試される時
 今日の聖書箇所の直後には、ソロモンの栄華の描写が続きます。「ソロモンの歳入は金六百六十六キカル」と書かれています。六百六十六キカルは約23トンに当たります。そんな莫大な量の金をどうするのでしょう。16節以下にはこう書かれています。「ソロモン王は延金の大盾二百を作った。大盾一つにつき用いた金は六百シェケルであった。延金の小盾も三百作った。小盾一つにつき用いた金は三マネであった。王はこれらの盾を『レバノンの森の家』に置いた」(16‐17節)。「レバノンの森の家」というのは宮殿の建物群の一つです。そこに金で作った膨大な数の大盾や小盾を保管したということは、要するにその大量の金をすべてソロモンは自分の財産として蓄えたということです。

 それだけではありません。「王は更に象牙の大きな王座を作り、これを精錬した金で覆った」(18節)。さらには、「ソロモン王の杯」(21節)はすべて金、レバノンの森の家の器も純金であったと書かれています。繰り返しますが、これら大量の金をすべてソロモンは自分の財産として蓄えたのでした。このことを心に留めておいてください。そして、少し飛びまして28節には「ソロモンの馬」の話が出てきます。「ソロモンの馬はエジプトとクエから輸入された。王の商人は代価を払ってクエからそれを買い入れた」。ここでわざわざ「エジプトとクエから輸入された」と書かれていることもまた心に留めておいてください。

 さらに進んで11章に入りますと、次第に雲行きが怪しくなってまいります。次のように書かれています。「ソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した。これらの諸国の民については、主がかつてイスラエルの人々に、『あなたたちは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをあなたたちの中に入れてはならない。彼らは必ずあなたたちの心を迷わせ、彼らの神々に向かわせる』と仰せになったが、ソロモンは彼女たちを愛してそのとりことなった。彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた」(11:1‐3)。

 どうですか。既にかなり雲行きが怪しくなっていることが分かります。そして、ついに聖書はソロモンの人生の集大成に当たる時期についてこう記しているのです。「ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一つではなかった」(同4節)。

 さて、雲行きが怪しくなっていると申しましたが、しかし、これは決してゲリラ豪雨のように突然起こったようなことではないのです。先にソロモンが金を大量に蓄えたことと、馬をエジプトから輸入したことを心に留めておいてくださいと申しましたが、それは既に神の戒めに背くことだったのです。

 申命記17章に「王に関する規定」があります。そこにはこう書かれています。「王は馬を増やしてはならない。馬を増やすために、民をエジプトへ送り返すことがあってはならない。…王は大勢の妻をめとって、心を迷わしてはならない。銀や金を大量に蓄えてはならない」(申命記17:16‐17)。すなわちソロモンは神に求めた知恵が与えられ、さらには富と栄光をも豊かに与えられていた時に、既にその心は神から離れつつあったということなのです。

 皆さん、本当の試練とは、何かが得られないところにあるのではありません。そうではなくて、何かが与えられたところにこそ試練はあるのです。何かを失った時ではなく、何かを得た時こそ試練の時なのです。なぜなら、そこで本当の意味で人は試されるからです。そこで与えてくださった御方に目を留めるのか。その御方の御前にへりくだり、従順に歩もうとするのか。それとももはや与えてくださった御方には目を向けなくなってしまうのか。人は本当の意味で試されることになるのです。

 ソロモンを豊かに恵んでくださったのは主なる神でした。しかし、その主に目を向けていたのは、ソロモン本人ではなく、むしろ遠い異国の地の女王でした。なんとも皮肉なことです。しかし、それは私たちも同じかもしれません。神様からどれほど豊かな恵みが与えられていても、それが当たり前になってしまって、もはや感謝をもって主を仰ぐこともない。主の御前にへりくだって従順に歩もうともしていない。それは私たちにも起こり得ることなのでしょう。

 「あなたをイスラエルの王位につけることをお望みになったあなたの神、主はたたえられますように!」と感嘆の声をあげたシェバの女王でした。その賛美の声をソロモン自身は失ってゆきました。もし、この賛美が私たちの内にも失われつつあるならば、私たち自身、悔い改める必要があります。立ち帰ってもう一度主の恵みの大きさに目を向けるべきなのです。そうでないならば、私たちもまた、ソロモンの老境と同じ姿に行き着くことになるでしょう。そうあってはなりません。

(祈り)

2021年4月18日日曜日

「神の言葉は真実です」

列王記上17:17-24

干ばつの予告
 今日は17章から始まる「エリヤ物語」の一部をお読みしました。その背景となっているのは紀元前9世紀、イスラエルの王アハブの時代です。アハブについては次のように書かれています。「オムリの子アハブは彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った」(16:30)。主に背いた王アハブ。いや、主に背いたのは王だけではありませんでした。イスラエルの多くの人々のまた主に背を向けていたのです。そのような、いわばイスラエルの霊的暗黒時代に、彗星のごとく現れたのが預言者エリヤという人物でした。17章は次のような言葉から始まります。「ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。『わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう』」(1節)。

 エリヤがアハブ王の前に立つまでのことは何一つ書かれていません。しかし、ある程度想像することはできます。彼は主に背を向けたイスラエルのあり様を憂い、イスラエルが主に立ち帰ることを祈り求めていたのでしょう。「わたしの仕えているイスラエルの神」とありますが、これは「わたしがその御前に立っているイスラエルの神」というのが直訳です。エリヤは常に生ける神の御前に立っていたのです。イスラエルの救いを求めて。そして、その祈りの答えは、何年も続く干ばつだったのです。「数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう」。エリヤはそれを良しとしたのです。それゆえに、その言葉をもってアハブの前に立ったのです。

 聖書はただ単に、人々が問題なく生活し、豊かで幸福であればそれで良いとは言いません。聖書が最も重く見ているのは神と人との関係なのです。逆に言うならば、たとえ災いと見えることがあったとしても、それ自体が人間にとって本質的な不幸なことではないのです。神に背いていること自体が本当の意味での不幸なのです。ですから、主に背いている国が主に立ち帰るためならば、主の答えがたとえ干ばつであったとしてもそれを良しとする。そんな人物が聖書にはこうして登場してくるのです。

ケリト川のほとりへ
 そのようにエリヤがアハブ王の前に立ったところからこの17章は始まります。普通に考えるならば、まさに戦いの火ぶたは切って落とされ、ここからエリヤの本格的な活動が始まるように思います。ところが不思議なことにそうなっていないのです。主はエリヤにこう命じたのでした。「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる」(4節)。主はケリトの川のほとりにエリヤを隠してしまわれた。いよいよ戦いが開始したと思われた時に、主はエリヤを表舞台から引っ込めてしまわれたのです。なぜでしょう。隠れたところにおいて、エリヤ自身がまず準備されねばなかったからです。

 まずエリヤ自身が準備されるため、彼が完全に主に寄り頼まざるを得ないところに、主に養っていただかなければ生き得ないところに追いやられたのでした。主はエリヤを養うために、よりによって烏を用いられました。烏は律法によれば汚れた鳥とされています。その汚れた鳥に養われるということは、屈辱以外の何ものでもありません。しかし、主は時として自尊心を打ち砕くような方法を用いられます。まさに「そこで」、エリヤは主の言葉が真実であることを経験することになるのです。

 「エリヤは主が言われたように直ちに行動し、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに行き、そこにとどまった」(5節)と書かれています。彼はそこにとどまり、主の言葉を待ちました。しかし、とどまって待つということは、時として最も難しいことでもあります。待たねばならない時、人は信仰が揺さぶられます。雨は降りません。エリヤはそこにとどまって、毎日水位の下がっていく川を目にしなくてはなりませんでした。事態は悪くなっていきます。しかし、エリヤは涸れつつある川を見ながら、「そこにとどまった」のです。そして、まさにその「川も涸れてしまった」ときに、「また主の言葉がエリヤに臨んだ」と書かれているのです。

シドンのやもめによって養われる
 さて、エリヤに臨んだ主の言葉はこうでした。「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる」(9節)。この主の言葉はエリヤにとってさらなる試練を意味しました。「やもめ」は聖書において常に弱い立場にある者の代表です。干ばつによる飢饉が全地を襲っている時に、いかなる「やもめ」であっても苦境に立たされていることは想像できます。そのような人を、「身を粉にして助けなさい」と命じられたならまだ従いやすいと思います。しかし、主はそうは言われない。そのような苦境にある者に養われることを命じたのです。

 エリヤはサレプタに着くと、町の入り口で一人のやもめに出会います。これが主の語られた人であることをエリヤは悟りました。エリヤは言います。「器に少々水を持ってきて、わたしに飲ませてください」。そして、さらに「パンも一切れ、手に持ってきてください」と願います。すると彼女はこう答えました。「わたしは二本の薪を拾って帰り、わたしとわたしの息子の食べ物を作るところです。わたしたちは、それを食べてしまえば、あとは死ぬのを待つばかりです」(12節)。

 この言葉はエリヤの胸に深く突き刺さったと思います。エリヤの信仰は大きく揺さぶられたに違いありません。考えてみてください。先にも申しましたように、エリヤにとって、この干ばつは神の答えだったのです。これはイスラエルが神に立ち帰るためであると信じたのです。それゆえに、新約聖書では、「エリヤは、わたしたちと同じような人間でしたが、雨が降らないようにと熱心に祈ったところ、三年半にわたって地上に雨が降りませんでした」(ヤコブ5:17)という書き方までされているのです。

 しかし、その干ばつによって、実際に死に瀕しているやもめに出会うのです。信仰のゆえに自らが苦しみに遭うことは確かに信仰の試練であると言えるでしょう。しかし、自分の信仰のゆえに他者が苦しむ時、それはより大きな試練となるに違いありません。しかし、それでもなおエリヤはなおも主を信じるのです。主はこのやもめに命じて自分を養わせると言われた。それゆえに、エリヤは自分が主に信頼するだけでなく、このやもめにも信じることを求めるのです。エリヤは言います。「恐れてはならない。…まずそれでわたしのために小さいパン菓子を作って、わたしに持ってきなさい」。

 自分たちの食べるものすらわずかしかないのに、その彼らからパンを取り上げることはあまりにも理不尽ではないか。そう思わずにはいられないところですが、エリヤは主が養ってくださることを信じ、主の御言葉を告げるのです。「主はこう言われる。主が地の面に雨を降らせる日まで、壺の粉は尽きることなく、瓶の油はなくならない」。するとやもめは行って、エリヤの言葉どおりにしました。主の御言葉を信じたのです。そして、主がエリヤによって告げられた御言葉のとおり、主は彼らを養われたのでした。

主の言葉は真実です
 ところが話はここで終わりません。ここからが今日の朗読箇所に当たります。思わぬ不幸がその家を襲いました。彼女の息子が病気にかかり、死んでしまったのです。彼女はエリヤを責めて言いました。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか」(18節)。彼女は異教の地、シドンの人です。その彼女がエリヤを通して主なる神を知ったとき、その神の御前において、確かに彼女には思い起こされる罪があったのでしょう。子供が死んでしまった時、彼女はそれを神の裁きであると受け取ったのです。エリヤが来たためにもたらされた神の裁きである、と。

 エリヤは災いをもたらし罪を思い起こさせる者として詰られました。しかし、それこそまさに、エリヤがイスラエルとの関係において立たされていたところだったのです。自分が語った主の言葉のとおり、干ばつが続いている。人々は苦しんでいるのです。まさにエリヤはイスラエルに対して、災いをもたらし罪を思い起こさせる者となっているのです。

 しかし、そこでもなおエリヤは信仰にとどまります。エリヤは彼女の手から息子を受け取り、階上の部屋に行って寝台に寝かせました。彼は子供の上に三度身を重ねて主に願います。「主よ、わが神よ、この子の命を元に返してください」と。すると、主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになったと書かれています。しかし、ここで重要なことは奇跡そのものではありません。聖書は、このやもめの言葉を伝えています。彼女はこう言ったのです。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と。

 彼女の言葉はエリヤにとっても大きな意味を持っていたに違いありません。この言葉こそエリヤにとって、再びアハブの前に立つための最終的な準備だったのです。彼女の子供と同じように、イスラエルの大地は雨を受けることなく死んだような状態になっています。そこにおいて人々は苦しんでいます。まさに自分の罪を思い起こさせられる出来事がそこで起こっているのです。しかし、それが最後の姿ではありません。そのことを経てなお先に起こるべきことがあるのです。これらすべては彼女と同じように、この言葉が人々の口に宿るためなのです。「主の言葉は真実です」と。

 こうしてエリヤは再びアハブの前に立つことになります。神によって準備された人として。この教会も、また私たちの個人の人生においても、信仰が揺さぶられるような過程を通ることがあるのでしょう。新型コロナウイルス感染症のパンデミックにおいて、また教会も自由に集まることができない現実において、今まさに信仰が揺さぶられるような過程を通らされている人も少なくないのだろうと思います。しかし、その時こそまさに、主の御言葉は真実であることを知る時なのです。それはまた、私たちを通して誰かが主の真実を知り、「主の言葉は真実です」と言い表すようになるために他ならないのです。
 
(祈り)

2019年12月8日日曜日

「人を生かす耳障りな言葉」

列王記上22:13‐17

アハブの預言者たち
 今日は第一朗読において、列王記上22章の一部が読まれました。22章は内容的に20章に続いております。

 20章には北王国イスラエルとアラムとの間に起こった戦争とその結末について書かれています。アラムはイスラエルの北方の王国で、今日のシリアに当たります。アラムの王ベン・ハダドが全軍を集めて引き起こした戦争は、二回の戦闘の末、最終的にはイスラエルの勝利に終わりました。

 ベン・ハダドは全面降伏し、占領地から撤退して奪った町々を返還することを約束して命乞いをします。そこでイスラエルの王アハブはベン・ハダドと協定を結んだ上で彼を帰国させました(20:34)。そして、22章に入り「3年間、アラムとイスラエルの間には戦いがなかった」(1節)と続きます。

 さて、そのようにアラムとイスラエルの間に結ばれた協定でしたが、占領した町々をすべて返還するという約束は守られなかったようです。もともとベン・ハダドの目的は危機を免れることにあったので、協定を完全に履行することは初めから意図していなかったのかも知れません。

 いずれにせよ、そのように返還がなされなかった町の一つがラモト・ギレアドでした。いまだにアラムに占拠されたままになっているのです。業を煮やしたアハブ王はついに軍事行動に出ることを決意します。「イスラエルの王は家臣たちに、『お前たちはラモト・ギレアドが我々のものであることを知っているであろう。我々は何もせずにいて、アラムの王の手からそれを奪い返せないままでいる』と言った」(3節)。

 折しも南王国ユダの王ヨシャファトが来訪中のことでした。あるいはヨシャファトの来訪を機に軍事行動に出ることを決意したのかもしれません。もともとイスラエルの王アハブはユダの王ヨシャファトに援軍を要請するつもりでいたのでしょう。彼はヨシャファトに尋ねました。「わたしと共に行って、ラモト・ギレアドと戦っていただけませんか」(4節)。これに対してヨシャファトは「わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です」(同)と言って要請に応えたのでした。

 さて、南王国ユダの王ヨシャファトとは、いかなる人物だったのでしょう。ヨシャファトに対する聖書の評価は概ね好意的です。「彼は父アサの道をそのまま歩み、それを離れず、主の目にかなう正しいことを行った」(43節)。彼は主に従う敬虔な王として描写されているのです。それゆえに、ヨシャファトは共に出陣することを約束するに当たり、一つの条件を付けました。「まず主の言葉を求めてください」(5節)。ヨシャファトにとっては、主が何と言われるかが重要だったのです。

 そこでアハブは400人の預言者を召集します。「主の言葉を求める」ために集められたのですから、彼らはバアルの預言者ではありません。しかし、この章において最後まで彼らは「主の預言者たち」と呼ばれることはないのです。では何と呼ばれているのか。22節において、「彼(アハブ)のすべての預言者たち」と呼ばれているのです。アハブはその「彼の預言者たち」に尋ねました。「わたしはラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」。王の問いに対して、彼らは答えます。「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」(6節)。

主の預言者ミカヤ
 すると、ヨシャファトは「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」(7節)と問いました。なぜヨシャファトがもう一人を求めたのかは定かではありません。しかし、一つのことははっきりしています。ここでは「アハブの預言者たち」に対してひとりの「主の預言者」が対比されているということです。そして、ただひとりの「主の預言者」として登場するのが本日の朗読にその名前が出て来た預言者ミカヤなのです。

 主の預言者ミカヤについて、アハブはこう語っています。「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤという者です」(8節)。

 さて、ここにおいて「アハブの預言者たち」と「主の預言者」の違いがはっきりと現れてまいります。主の預言者ミカヤは「災いばかり預言する」と言われています。災いを預言するというのは、言い換えるならば「神の裁きを預言する」ということです。神の裁きが語られるのは、そこに人間の罪があるからです。神の言葉は人間の罪を明らかにするのです。そして、それはまた悔い改めを求める言葉でもあるのです。神が望んでおられるのは災いを下すことではなく、人が神に立ち帰ることだからです。

 しかし、アハブはもとより悔い改めを求める言葉など欲してはいないのです。アハブにとって、主が何と言われるかなどはどうでもよいのです。主の御言葉によって人生が変えられることも、社会が変えられることも望んではいないのです。彼が欲しているのは自分について幸運を語る言葉であり、そのように耳に心地良い言葉を語ってくれる預言者たちなのです。そして、実際、アハブの望みを満たしてくれる預言者たちはいたのです。だから「彼(アハブ)の預言者たち」と呼ばれているのです。

 そのような預言者たちがイスラエルの王とユダの王の前で語ります。「ラモト・ギレアドに攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」(12節)。そのように彼らが口々に預言しているところに、ミカヤが呼ばれます。そこからが本日の第一朗読でした。ミカヤを呼びに行った使いの者は、言いました。「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください」(13節)。

 ミカヤに求められたのは、他の預言者と同じことを言うことでした。先にも申しましたように、主が何と言われるかなどはどうでもよいのです。しかし、ミカヤにとっては主が何と言われるかが重要なのです。ミカヤは使いの者に言いました。「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」(14節)。ミカヤはアハブの預言者ではなく、主の預言者だからです。

幸運か災いか
 主の預言者として、ミカヤはアハブに、彼の見た二つの幻について語りました。一つ目は「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました」(17節)というものです。羊飼いに喩えられているのは王です。アハブ王です。イスラエル人が羊飼いのいない羊のようであるのは、もはや王がそこにいないからです。すなわち、この幻は明らかに出陣した後に王が戦死することを意味しているのです。今日の聖書朗読はここまででした。

 しかし、この第一の幻の意味するところは、ミカヤの見た、もう一つの幻によって明らかされるのです。第二の幻の中では、「偽りを言う霊」が主によって世に遣わされます。その「偽りを言う霊」は、預言者たちを通して、アハブを唆して戦わせ、戦死させるために遣わされるのです。神様御自身が「偽りを言う霊」を遣わすというのは、ある意味では難解な話ではありますが、ミカヤが伝えようとしているメッセージは極めて単純です。アハブの預言者たちが語っているのは神の言葉ではないということです。それは「偽りを言う霊」の言葉なのだということです。

 ミカヤは第二の幻について、このようにまとめます。「今御覧のとおり、主がこのあなたのすべての預言者の口に偽りを言う霊を置かれました。主はあなたに災いを告げておられるのです」(23節)。自分の耳に心地良い言葉ばかりを求めているならば、「偽りを言う霊」が語りかけてくる。――ここに書かれている第二の幻は、私たちもまた心に留めておくべきものでしょう。

 注目すべきは23節の最後の言葉です。「主はあなたに災いを告げておられるのです」。実際には、アハブが耳にしているのは幸運を告げる言葉なのです。それが彼の求めていた言葉なのです。しかし、どんなに快い言葉であっても、「偽りを語る霊」の言葉であったらどうでしょう。そこで自分の本当の姿は見えてきません。罪の自覚も生じません。悔い改めに導かれることもありません。それは本当に幸運なことなのでしょうか。いいえ、そうではありません。それこそ「災い」なのだとミカヤは言っているのです。自分の耳に心地良い言葉ばかりを求めているならば、「偽りを言う霊」が語りかけてくる。それは人間にとって「災い」です。

 しかし、それはいつの時代にも起こることで、後にパウロが伝道者テモテに次のように勧めています。「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」。そして、次のように将来を予告して言うのです。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(2テモテ4:2‐4)。

 パウロが予告したことは、教会の歴史において繰り返し起こってきたことでした。「自分に都合の良いことを聞こうとして」とは、これは直訳すると「聞く耳をくすぐってもらおうとして」という言葉です。当たり前のことですが、心地良い言葉で聞く耳をくすぐってもらったぐらいで人は救われません。私たちは救いにもならないことのために集まっているのではありません。私たちは神の言葉を慕い求めて集まっていることを改めて意識したいと思うのです。

 神の言葉は必ずしも聞く人の耳をくすぐりません。神の言葉は必ずしも心地よさを与えない。むしろ時としてそれまであった心地よさを奪います。なぜなら神の言葉は神の光のもとに人間を引き出すからです。光の中にあることは本来喜ばしいことですが、同時に光は人間の罪をも照らし出します。自分自身にすら隠されている罪が光のもとにさらされます。罪が照らし出されるからこそ、悔い改めも起こります。そのようにして、人は神との交わりの中に留まります。そして、そこに救いもあるのです。

(祈り)

2013年8月25日日曜日

「何事でも願うがよい」

2013年8月25日 主日礼拝
東京神学大学 修士課程2年 三橋侑子
聖書 列王記上 3章4節~15節 

 今日の聖書箇所には「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と言われた主に、ソロモンが「聞き分ける心を与えて下さい。」と願った話が収められています。父ダビデの後継者として新しい王に立てられたソロモン王の初期の頃の出来事です。この一連の話は、自分のためではなく、神様の民、今でいう教会を正しく導き治めるための願い事をしたソロモンの賢明さや謙虚さにスポットが当てられがちです。確かに、このソロモンから学ぶ祈りの姿勢があるでしょう。しかし、聖書はまた違った角度からも、この話を伝えようとしています。

主に従わずに滅んだ民たちの記録
 今日の聖書箇所である列王記は、ソロモンが生きていた時代に書かれたのではありません。ソロモンが王として立てられたイスラエル王国が南北に分裂し、最初に北イスラエル王国が、続いて南ユダ王国が滅び、バビロン捕囚となった後に書き始められたと言われています。イスラエル民族は、国を失い、捕囚となった地で、自分たちの歴史を振り返るのです。ただ単に起こったことを時系列で振り返ったのではありません。なぜ自分たちは国を失い、捕囚となったのか。それは主なる神様に聞き従わなかったからだ。そう受けとめた人々による自分たちの背信の記録なのです。ですので、今日の聖書箇所においても、ソロモンは良い願い事をした王として、ただ楽観的に記されているのではありません。主に逆らい、王国に分裂をもたらすことになったソロモン王の初期の時代を、自分たちの背信の歴史として振り返っているのです。

既に始まっていた主からの離反
 「王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこに重要な聖なる高台があったからである。ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた」(4節)。「ギブオン」は、ソロモンがいたエルサレムから約九キロ離れている地です。また「聖なる高台」というのは、イスラエル王国の先住民カナン人が祭儀に利用していた聖所です。イスラエル王国の王が、エルサレムから離れたギブオンにあるカナン人の聖所で、主なる神様にいけにえをささげていたということです。それは、「当時はまだ主の御名のために神殿が建てられていなかったので、民は聖なる高台でいけにえをささげていた」(2節)からであり、「ソロモンは主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだが、彼も聖なる高台でいけにえをささげ、香をたいていた」(3節)のでした。
 ソロモンは不敬虔な王ではなかったのです。主を愛し、父ダビデの授けた掟に従い、「一千頭もの焼き尽くす献げ物」を捧げていました。「焼き尽くす献げ物」というのは、レビ記1:4によりますと、献げる人の罪を贖う、いわば「赦される」ための献げ物です。また、自分自身を焼き尽くして完全に捧げる「献身」のしるしでもありました。ソロモンは、主に罪を赦していただき、自分自身を完全に焼き尽くして献げるために、一千頭もの献げ物を献げていたのです。

 しかしここに、主の言葉への違反が潜んでいました。主はかつて、こう語られていました。「あなたたちの追い払おうとしている国々の民が高い山や丘の上、茂った木の下で神々に仕えてきた場所は、一つ残らず徹底的に破壊しなさい」(申命記12:2)。罪を赦していただくための、そして献身のしるしとしての献げ物をしている、まさにその所で主の言葉に背いていた、というのはまことに皮肉なことです。ソロモンは主を愛していました。しかし、主の言葉を軽んじていたのです。

 ソロモンが主の言葉を軽んじていたのは3章1節からも分かります。「ソロモンは、エジプトの王ファラオの婿となった。」おそらく、当時の有力な国エジプトの王の娘と結婚することは、イスラエル王国にとって得策と思えたのでしょう。実際、この結婚によってイスラエル王国は外交関係が栄え、国として豊かになっていくのです。しかし、主の言葉はこう語っていました。「彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない」(申命記7・3)。ソロモンは主の言葉よりも、自分の考えを優先させていたのです。

願い事を聞かれる主
 主がソロモンに姿を顕されたのは、そんな中でした。「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、『何事でも願うがよい。あなたに与えよう。』と言われた」(5節)。主はソロモンの罪をご存知だったはずです。しかし、主がとられた行動は罪の指摘ではなく、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう。」と声をかけることでした。

 ソロモンは「あなたの民を正しく裁き、善と悪を正しく判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。」と願い、その願いは聞き入れられます。主はソロモンに知恵と富と栄光をお与えになりました。しかしここで注目すべきなのは、ソロモンにお答えになった主の言葉の最後の部分です。「もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」(14節)。この「父ダビデの歩んだように」は、ソロモンの願い事にも出てきた表現です。主に語りかけられたとき、ソロモンは開口一番こう述べています。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました」(6節)。

 主の関心は、ソロモンが父ダビデのように主に忠実に聞き従うことにありました。主の言葉から離れていくソロモンに本当に伝えたいことを伝えるために、主はギブオンまで出かけて行き、「何事でも願うが良い。あなたに与えよう。」と語りかけられたのです。極端な言い方をすれば、願いを聞き入れることを手段としてでも、ご自分との正しい関係の中に招き返そうとされた。それが、主がソロモンに対してとった行動でした。

立ち返ったソロモン
 その後、ソロモンはどうしたでしょうか。「ソロモンはエルサレムに帰り、主の契約の箱の前に立って、焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、家臣のすべてを招いて宴を張った」(15節)。具体的に何を思ったのか、考えや心の動きは記されていません。しかし、「ギブオン」の「聖なる高台」で「一千頭もの焼き尽くす献げ物」を献げていたソロモンが、すぐさま「エルサレムに帰り」、「主の契約の箱の前に立って」、「焼き尽くす献げ物と和解の献げ物をささげ、家臣のすべてを招いて宴を張った」という行動が全てを物語っています。

 ソロモンは、立つべき場所に立ち返ったのです。エルサレムに帰って、主の契約に忠実に歩むことができるように、父ダビデが歩んだように主との正しい関係の中で歩むことができるように、礼拝を献げたのです。一千頭という量を献げるためではなく、主との契約の中で、主の言葉に従う自分として歩み直すために礼拝を献げました。

 このときのソロモンの姿を思うとき、イスラエル王国の初代の王サウルに、預言者サムエルが語った言葉が思い出されます。「主が喜ばれるのは、焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」(サムエル上15:22)。サウルは、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を戦利品の中から取り分けて、主に献げようとしたことがありました。「滅ぼし尽くしなさい。」という主の言葉よりも、自分が良いと思うことを優先させました。主への反逆は、主への善意の中にも入り込んでくるのです。

 ソロモンはここでさらに、「焼き尽くす献げ物」と共に「和解の献げ物」を献げています。「和解の献げ物」は「神との平和」「人との平和」を表す献げ物です。本来ならば、神にとって忌み嫌うべき存在である私たちが罪の赦しをいただいて、神の食卓に招いていただくことを表す献げ物です。それはつまり、神と共なる生活に招かれるということです。主の言葉を締め出し、聖なる高台を築いて、自分の考えで生活を送ってきた、その自分がもう一度、罪赦され、神と共に生きる生活に招いていただくのです。

 ソロモンはその食卓に、「家臣のすべてを招いて」(15節)います。かつてのソロモンには、ギブオンの聖なる高台が「重要」(4節)と映っていました。しかし今は、本当に重要な場所がどこであるかが分かったのです。神が罪の赦しを与え、和解の食卓に招いてくださる礼拝と、神と共に生きる生活こそが、本当に重要な場所であることを悟ったのです。そして、人々をそこに招くという、本来の王としての姿に回復させられました。

罪の実り
 そのようにして一度は立ち返ったソロモンですが、始めに申しましたように、11章以降からソロモンの背信が始まり、結果、王国の分裂に至っていきます。ソロモンは再び、主の言葉に聞き従う生活から出て行ってしまったのです。願い事だった知恵は与えられ、国は豊かになりました。神殿も立ちました。あらゆる富と栄光が与えられました。しかし、主に聞き従う心を失っていくのです。そして、自身に滅びを招いたどころか、国を分裂、崩壊させていくこととなりました。

 最後に、11章から始まるソロモンの背信の内容を確認しておきましょう。「ソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した」(11:1)。「そのころ、ソロモンは、モアブ人の憎むべきケモシュのために、エルサレムの東の山に聖なる高台を築いた。アンモン人の憎むべき神モレクのためにもそうした。また、外国生まれの妻たちすべてのためにも同様に行った」(11:7・8)。ソロモンが3章で行ったファラオの娘との結婚と、聖なる高台での礼拝が思い出されます。主を愛し、賢明で謙虚な願い事をした王として描かれる初期の時代に、既に、主の言葉に逆らう罪の芽が生え出ていたことを聖書は知らせています。罪の芽はソロモンの中で着実に育ち、大きくなって、11章からの背信へと実っていったのです。

私たちが願うべき事
 私たちの心や生活の中にも立ち現れてくる「重要な聖なる高台」があります。「神様はこうおっしゃるけれど、世ではこっちの方が重要だから。」敬虔に見える礼拝行為の中に潜む主の言葉の軽視があります。「今日の御言葉は私の考えに合わない。」主への善意の中に入り込む主の言葉への反逆があります。「こっちの方が神様を喜ばせることができるのではないか。」このように、主の言葉を軽んじさせる小さな高台から、人生を滅びに向かわせ、周りの人々や国をも崩壊させる将来が始まっていくのです。

 「何事でも願うがよい。」そう声をかけられたソロモンが願うべきだったのは、父ダビデが示した「憐れみ深く正しい心」をもって主に聞き従って歩むことでした。「何事でも願うがよい。」これは、罪を犯しているまさにその場所でこそ聞こえてくる主の言葉です。滅びの道に向かうに早い私たちを守ろうとする愛の配慮の言葉です。主からの関係回復への招きの言葉です。「何事でも願うがよい。」そう声をかけられた私たちは、そんな主の御思いに結び付けられて「主に聞き従う心」をお与えください、と願う者でありたいと思います。

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