2020年8月30日日曜日

「解放された新しい生き方」

 ローマの信徒への手紙 7:1‐6

律法に対して死んでキリストのものとなる

 今日の第二朗読は次のような言葉から始まりました。「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか」(1節)。

 パウロは律法を知っている人々に話しています。具体的にはユダヤ人のことです。「律法」と言う場合、第一には聖書の初めの五つの書を指します。「創世記」から「申命記」までです。ヘブライ語で「トーラー」と言います。ユダヤ人にとって、この「律法」を学ぶことは極めて重要です。暗記を中心とした律法の学びは幼い時から始まります。これを書いているパウロはそうやって育ってきたのです。またパウロが話しかけている「律法を知っている人々」もまた、そのように育ってきたのです。

 なぜ律法の学びが重要なのか。ユダヤ人にとって、「律法を遵守すること」こそが、すなわち「神に従うこと」だからです。だから、特にファリサイ派のユダヤ人は、この律法を解釈し、生活のすべてに適用して生きようとしたのです。それこそが神に従うことだからです。

 その律法について、パウロは「律法とは、人を生きている間だけ支配するものだ」という話を始めます。その実例として挙げているのは、結婚に関する律法です。これはユダヤ人でない、私たちにも分かりやすい実例です。続きをお読みします。「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません」(2‐3節)。

 ある男性がある女性と結婚をしたとします。その両者は生きている限り婚姻に関する律法に縛られます。その夫が生存中は、その夫は律法によって妻と結ばれており、妻は夫に結ばれております。しかし、夫が死んだら、その死んだ夫はもはや律法の下にはいません。死んだ夫がもはや律法の下にない、律法に縛られてはいないということは、その妻が夫に法的に結ばれておらず、自由に結婚できることから分かります。

 そのように、パウロがここで例証しているのは「死んだ者は律法の下にはいない」ということです。さて、なぜこのような話を始めたのでしょう。パウロは何を言いたいのでしょう。――まさに、これがキリスト者であるということなのだ、と言いたいのです。

 この教会の洗礼式において必ず読まれる聖書箇所があります。今日の朗読箇所の前に書かれている6章の御言葉です。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(6:4)。私たちのためにキリストは死なれました。私たちは死んでいません。しかし、バプテスマによって私たちはキリストに結ばれ、キリストの死にあずかるのです。そのようにして、私たちは一度死んだものとされるのです。キリストと共に葬られる。洗礼を受けるとはそういうことです。

 そして、キリストの死にあずかって一度死んだ者とされたのなら、死んだ者は、もはや律法の下にはいない。それが4節に書かれていることです。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。」

 そのように、私たちは律法の下にはいません。律法に対しては死んだ者となっています。しかし、それだけならば律法とは関係なく生きるというだけの話にしかなりません。「律法に縛られることはありません。何をやっても自由です。生きたいように生きましょう。もはや律法の下にはいないのですから」ということになるのでしょう。これを無律法主義と言います。

 もちろん、パウロが言いたいのはそのようなことではありません。大事な続きがあるのです。もう一度4節全体をお読みします。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」。

 「律法に対して死んだのは、キリストのものとなるためなのだ」と言うのです。ここには、先ほど例証として用いられた結婚の話が、もう一度ひとひねりした形で用いられています。つまり、死んで「律法」という結婚相手と縁が切れたのは、いわばキリストと結婚するためだったのだ、とパウロは言うのです。そのようにしてキリストと結婚し、キリストのものとして生きることによって、神に仕え、神に対して実を結ぶようになる。それが私たちに与えられている信仰生活なのです。


“霊”に従う新しい生き方へ

 しかし、なぜ律法の下に生き、律法に従うことでは実を結ぶことにならないのでしょうか。続きをお読みします。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」(5‐6節)。

 ここでは、律法の下にあって、律法に従って生きる生き方と、死者の中から復活させられたキリストのものとして生きる生き方とが対比されています。一方は「文字に従う古い生き方」(直訳すると『文字の古さにおいて』)と呼ばれています。もう一方は「“霊”に従う新しい生き方(直訳すると『“霊”の新しさにおいて』)と呼ばれています。同じ仕えるにしても、古い生き方をもって仕えるのと新しい生き方をもって仕える二通りがあることです。そして、4節によりますならば、神に対して実を結ぶのは後者だということになるのです。

 なぜ、律法に従う生き方が「文字に従う古い生き方」などと呼ばれているのでしょうか。その理解の鍵となるのは、その前に記されている5節です。パウロは「肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働いた」と言うのです。ただ「罪へ誘う欲情が働いた」というのではありません。「律法によって(律法を通して)五体の中に働いた」と言うのです。

 その詳しい内容は、今日の箇所の続きとして7章全体に書かれていますので各自お読みください。要するにこういうことです。「罪へと誘う欲情」は律法(戒め)の言葉によって力を弱めるか。罪の力は、戒めの言葉があれば、私たちの五体から手を引いてくれるのか。私たちが「これをしてはならない」「あれをしてはならない」という教えの中に身を置けば、罪の力から解放されるのか。――そうはならない!と聖書は言うのです。罪は戒めの言葉に出会って、かえって力を強めるのです。私たちが「むさぼるな」という掟を知り、むさぼりが罪であることを知れば、人の内からはむさぼりが消えるのか。いいえ、そうならないのです。ますますむさぼりの罪は力を増して私たちを支配してくるのです。

 罪の力に対して律法は無力なのだということを認めず、なお律法を遵守することによって神に従って生きようとすることを「文字に従う古い生き方」とパウロは呼ぶのです。律法は文字です。文字は、要求はしますが、私たちを助けてはくれないのです。文字は、私たちを潔める力もなければ、罪に打ち勝たせる力をも持たないのです。律法そのものは私たちを救い出してはくれないのです。律法の文字のもとにいくら身をおいても、成し遂げるのは自分です。文字は助けてくれませんから、百パーセント自分でやらなくてはなりません。自分の力で何とかしなくてはなりません。

 そこで一生懸命に戒めの言葉に従おうと頑張ることでしょう。しかし、文字に従う古い生き方をもって神に仕えようとしても、神に対する実を結ぶ者とはなれないのです。今日の箇所の後に書かれているのですが、そこに生じるのは、深刻な「意志と行為の分裂」なのです。聖書の言葉によるならば、「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(18節)という現実です。「意志」の負け戦です。

 さて、これは律法に厳格に生きようとしたユダヤ人たちだけの問題でしょうか。いいえ、そうではありません。今日のキリスト者においてもいくらでも起こり得ることなのです。

 もし今ここでなされていることが、「文字」としての聖書を学ぶことでしかないならば、それが生み出すのは「文字に従う古い生き方」でしかないでしょう。私たちが「信仰生活」と呼んでいるものが、何かを学び実践するだけのことならば、すなわち「死者の中から復活させられた方」との関わりなしでも成り立つことならば、それは「文字に従う古い生き方」でしかありません。自らを打ち叩き、力を振り絞って聖書の戒めに生きようとしながらも、無力な自分に失望落胆し、疲れ果ててしまうか、あるいは外面だけを一生懸命に繕ってキリスト者らしく生きようとするか・・・いずれにしてもそこで味わわれるのは負け戦の惨めさでしかありません。

 救いをもたらすのは文字ではなく、律法ではなく、死者の中から復活させられた方、生けるキリストなのです。その御方のものとして、その御方の体の一部として、その御方に結ばれて生きることは霊的な出来事なのであって、それは“霊”すなわち聖霊のみがなし得ることなのです。すなわち神のみがなし得ることなのです。だから、私たちは神に祈るのです。神を礼拝するのです。

 こうして礼拝堂においてであれ、それぞれの自宅であれ、日曜日に行われているのは聖書の勉強会ではありません。私たちは共に礼拝しているのです。共に祈っているのです。日々の生活においても、私たちは生けるキリストと結ばれて生きているのです。それは私たちが神に対して真に実を結ぶようになるためです。それこそが私たちに与えられている「“霊”に従う新しい生き方」です。

(祈り)

2020年8月23日日曜日

「知恵とは何か、分別とは何か」

ヨブ記28:20~28

暗黒の果てにまで行く人間

 本日の第一朗読はヨブ記28章20節からお読みしました。このヨブ記28章の冒頭は次のような言葉から始まります。「銀は銀山に産し、金は金山で精錬する。鉄は砂から採り出し、銅は岩を溶かして得る」(1‐2節)。

 ここに書かれているのは、鉱物資源の採掘と精錬の話です。今日の私たちからすれば何ということはありません。しかし、古代ヘブライ人にとって、地底とはまさに恐るべき暗黒の世界であり、その暗黒の果てにまで深く坑道を掘っていき、鉱石を捜し、見つけ出し掘り出し、選鉱し精錬して金属を得る探鉱と採掘と精錬の技術は、当時においていわば最先端の科学技術だったのです。それははげ鷹や、誇り高い獅子には為しえないことであり、人間のみが実現してきたことなのだ、というのがこの28章の11節までに書かれていることです。

 さて、このようなことが書かれているヨブ記ですが、このヨブ記は旧約聖書の中で「知恵文学」と呼ばれるものの一つです。「知恵文学」に分類されるものとして、他にはどういう書物があるかと言いますと、一番分かりやすいのは「箴言」だと思います。聖書を初めて読む人でも、ある意味では分かり易い「格言集」です。そこには数多くの人生訓が並べられています。私たちからすると鉱物資源の採掘の話と「人間はどう生きるべきか」という話は、全く異なる二つの話のように思えますが、知恵文学を記した人たちにとっては別な話ではないのです。要するにそこで重要なことは、探求することであり、見いだしたことを積み重ねることであり、そこから法則を導き出して適用することだからです。

 特にそこにおいて重要なのは積み重ねです。科学技術の話ならば分かり易いでしょう。すべては積み重ねなのです。ですから、そこではただ探求することだけが重んじられるのではなく、先人から伝えられたものを学んで正しく受け取るということが重要になってまいります。そして、それは「人間はどう生きるべきか」ということについても同じなのです。今生きている私たちが自ら経験して見出していくことだけが重要なのではありません。前の世代が経験して見出したことがあるのです。それを次の世代がしっかりと受けとめて、そこに自らの経験を通して見出したことを積み重ねていくことが大事なのでしょう。

 ですから、箴言には「わが子よ」という呼びかけが繰り返し出てくるのです。父が子に語るという形で人生訓が語られるのです。父は前の世代です。子は次の世代です。子は父から教訓を受け取って、そこに自らの経験を積み重ねていくのです。先に生きた人々の経験を軽んじるといことは、いわば鉱石の採掘方法を自分で一から開発しようとするに等しい。それは愚かなことです。

 そのように、知恵文学は、探求すること、積み重ねること、法則を導き出して適用することを重んじます。そして、実際、人類はそのようにして歴史の中を歩んできました。その結果、できなかったことができるようになって今日に至っているわけです。そのような人間の営みを肯定的に見ている。それが知恵文学であり、そのようにヨブ記28章の冒頭もまた書かれているのです。


持ち得ない知恵、持つべき知恵

 しかし、当然のことながら話はそれで終わりません。11節で終わらない。そこまでならば聖書でなくても言うのです。聖書はそこであえて「では、知恵はどこに見いだされるのか。分別はどこにあるのか」(12節)と問うのです。

 先人から伝えられたことを知り、自らも探求し、見いだしたことを積み重ね、法則を導き出し、できなかったことができるようになる。――そのことだけが重んじられるだけならば、人間はどうしたって傲慢になるのです。「私たちはこの世界についても、人生についても分かっている。私たちはかつてできなかったことも今はできるようになった。」と、そのように思い上がった人間が、いかに悲惨な現実を刈り取ってきたか。それは人類の歴史が示すとおりです。

 だからこそ、聖書はそこであえて問うのです。「では、知恵はどこに見いだされるのか。分別はどこにあるのか」。そして、こう続けます。「人間はそれが備えられた場を知らない。それは命あるものの地には見いだされない」。――分かったような顔をして思い上がっている人間よ、知恵はどこに見出されるのか。分別はどこにあるのか。あなたがたはそれを持っていないし、どこにあるかさえも知らないではないか!要するに、聖書はそのように語り始めるのです。

 実は、この28章というのは、ヨブ記において特別な位置にあるのです。27章までで、ヨブ記の前半が終了します。続いて全く脈絡のないように見える28章が間奏曲のように入ってくる。そして、後半が続くのです。

 前半部分は主にヨブと友人たちの論争です。数々の災いに遭って苦しんでいるヨブがいました。そこへ友人たちが見舞いに来るのです。慰めに来たはずです。しかし、そこで論争が起こってしまうのです。その内容についてはそれぞれお読みいただきたいと思いますが、あえて極めて大まかに要約するならば、ヨブの友人たちの主張は要するに、「ヨブよ、お前は罪を犯した。だから苦しみを受けているのだ」ということです。それに対してヨブの主張は「わたしはこんな苦しみを受けるような罪を犯してはいない。間違っているのは神だ」と言っているのです。友人たちは「ヨブが悪い」と言い、ヨブは「神が悪い」と言って論争しているのです。

 さて、真っ向から対立しているこの二つの主張ですが、実はヨブと友人たちには共通点があるのです。どちらも「自分は分かっている」と思っている。「わたしは知るべきことは知っているし、分かるべきことは分かっている」。それが共通点です。実際、ヨブも友人たちも、例えば箴言に書かれているようなことは知っているのです。先人の教えをしっかりと受けとめ、自らの経験を積み重ねてきた人たちです。そして、その自分が「分かっている」ことに従って言うならば、友人たちによれば「ヨブよ、お前が悪い」ということになり、ヨブからすれば「いいや、神が悪い」ということになるのです。

 しかし、そのような双方の主張が繰り広げられた後に、28章が読まれて、その中で改めて「では、知恵はどこに見いだされるのか、分別はどこにあるのか」と問われるのです。それは本日の朗読箇所である20節でもう一度繰り返されます。「では、知恵はどこから来るのか、分別はどこにあるのか。」そして、「すべて命あるものの目にそれは隠されている。空の鳥にすら、それは姿を隠している」と続くのです。

 人間は本当の知恵を持っていないだけでなく、その場所すら知らないのだ、というのです。つまり、そこに至る道すら知らない、ということです。では誰が知っているのか。「その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる」(23節)。そうです、神だけが知っているのです。真の「知恵」は神に属する。神だけが持っているということです。

 確かに、これまで見てきたように、人間は、知り得ることは知っていったらよいし、探求して、経験を積み重ねて、分かるようになっていったらよいし、できるようになっていったらよいのです。先にも申しましたように、そのような人間の営みを知恵文学は肯定しているのです。

 しかし、それでもなお人間には分からないことがある。神の知恵に基づくことは分からないのです。人間はその「知恵」に至る道すら知らないのです。道すら知らないのですから、探求のしようもないのです。人間の努力ではどうにもならないのです。最後まで分からないことはあるのです。ただ知恵ある神だけが分かっている。――ならば私たちは、その神の前でへりくだるしかない。そして、へりくだったらよいのです。分からないことを良しとして、神の前で膝をかがめて、神を礼拝したらよいのです。それが「神を畏れ敬う」ということなのです。

 そして、全く逆説的なのですが、それこそが私たちが持つべき「知恵」なのだと言うのです。28節に「主を畏れ敬うこと、それが知恵」と書かれているとおりです。実は、これは箴言の冒頭にも書かれていることなのです。「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)と。


キリストを信じる者として

 そして、さらに言うならば、そのような知恵が最も必要とされるのは、これがヨブ記に記されているように、苦難の問題においてなのです。苦難において、私たちは問われることになります。分からないことがあるのだということを良しとすることができるのか。神だけが分かっていることがあるということを、本当に受け止めて、神の前に膝をかがめることができるのか。本当にそこで「神を畏れ敬う」ことができるのか。――「主を畏れ敬うこと、それが知恵」。その知恵をもって生きようとするならば、そこで最も大事なことは、神の愛がすべてにおいて貫かれているとことを信じることなのでしょう。私たちには分からなくても、私たちの肉の目にはそう見えなかったとしても、そこには神の愛が貫かれており、全き救いの計画の中にあると信じることなのでしょう。

 そのような神の愛こそが、神を神として畏れ敬うことを可能とするのです。そして、神はその愛をイスラエルの歴史において現され、そして究極において、イエス・キリストの到来において現してくださったのです。私たちもまた、その御方を通して神の愛を知る者とされ、信じる者として今、ここにいるのです。ならばそのような私たちにとって、なおさらこの28章のまとめの言葉は大きな意味を持つと言えるでしょう。「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」。

 私たちは分からないことを良しとして、ただキリストにおいて現された神の愛を信じたらよいのです。私たちが今、神の愛の内にあることを信じて、その神を畏れ敬い、礼拝したらよい。それが私たちに与えられている「知恵」です。その一方で、私たちにも知り得ることがあり、分かることがある。すべてが分からないわけではないでしょう。ならば分かることをもって悪を遠ざけたらよい。分からない、分からないと言い続けているのではなくて、分かることをもって神の御心を行うことを願い求めたらよいのです。それが私たちの持つべき「分別」です。

(祈り)

2020年8月16日日曜日

「神の御心を行うことを願う者」

ヨハネによる福音書 7:1‐24

 今日の箇所にはイエスの弟たちが登場します。そして、続いてユダヤ人たちと共に群衆が登場してまいります。細かいことを言うならば群衆もまたユダヤ人には違いないのですが、この福音書において「ユダヤ人」と書かれていたら、ほとんどの場合、イエスを敵視していたユダヤの政治的・宗教的権力者たちのことを指しています。そして、その他大勢として「群衆」がいるのです。先の「ユダヤ人たち」を恐れながら生きている人たちです。


信じていなかった弟たち

 まずイエスの弟たちから見ていきましょう。弟たちはここで初めて登場するのですが、この福音書は彼らについて「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」(5節)と説明しています。しかし、これはある意味で妙な話です。というのも、彼らは兄であるイエスに対して、公に行動すべきことを勧めているからです。彼らは言うのです。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」(3‐4節)。信じていなければ、普通は「自分を世にはっきり示しなさい」とは言わないでしょう。

 弟たちがこのようなことを口にした背景には、恐らく「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(6:66)という事情があったものと思われます。人々はイエスの行う奇跡には関心を示したのです。特に、6章は五つのパンと二匹の魚によって男だけでも五千人はいたであろう大群衆を養ったというセンセーショナルな奇跡物語から始まっているのです。人々はパンを与えてくれるイエスを熱狂的に追い求めるのです。そのような人々の中に、イエスの弟子であることを自認する人たちも大勢いたのです。しかし、イエスが与えてくれるものは喜んでも、イエスの語る言葉は受け入れなかったのです。そして、先に引用したとおり、弟子たちの多くは離れていったのです。

 そんな兄の活動は、弟たちから見るならば、まったく実りのないものと映ったに違いない。だからエルサレムの都に行くことを勧めたのです。ちょうど仮庵祭のために多くの人々が都に上ってくる時期でした。人々の前で力ある業を示す絶好の機会です。兄であるイエスが、もしその気になりさえするならば、都において支配的な立場に身を置くことになるでしょう。さらには王なるメシア、救い主として、ローマからの解放を実現してくれるとさえ思っていたのかも知れません。いずれにしても、兄イエスが多くの人々の支持を得、支配力を持つことは、彼らにとっても望ましいことであったに違いありません。だから言うのです。「こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」。

 しかし、それにもかかわらず、聖書は言うのです。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」なぜでしょうか。イエスの弟たちの考えていることは、イエスのもとを離れた多くの人々と根本的にはなんら変わらなかったからです。彼らは目に見えるこの世のパンのことしか考えていないのです。イエス様の表現によるならば、それは「朽ちる食べ物」(6:27)なのです。ですからイエス様は言われるのです。「世はあなたがたを憎むことはできないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」目に見えるこの世のものだけを追い求めているならば、世に憎まれることはないでしょう。この世と一緒になって同じものを求めているのですから、世に憎まれることはないでしょう。そのような弟たちについて聖書はこう言うのです。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」。


公然と語ることのない群衆

 次に群衆の姿を見てみましょう。12節以下に次のように書かれています。「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった」(12‐13節)。

 彼らの中には「良い人だ」と言う人もいたのです。非常に好意的な人もいたのです。「いや、群衆を惑わしている」と言う者たちと議論もしていたのでしょう。しかし、好意的に見ていたとしても、結局はイエスとその御言葉は、彼らの生活とは何の関わりもありません。彼らの人生と何の関わりもありません。遠いところから、外から、上から眺めるようにして語っているに過ぎません。そのような仕方で「イエスとはいったい何者か」と語っていても、そこから信仰が生まれることはありません。

 彼らが肯定的にせよ、否定的にせよ、そのような関わり方しかできなかったのは、彼らの内にあった恐れのゆえであったとも言えます。「しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった」と語られているとおりです。そこには9章で「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」(9:22)という事情がありました。だから彼らは「ユダヤ人たち」を恐れた。それは自分の生活になんらかの不都合が生じることを恐れたということでもあります。だから、不都合が生じないように、自分の生活、自分の人生とはかかわりないところまでに留めたのです。それ以上は深入りしない。それを聖書は「いろいろと《ささやかれていた》」と表現するのです。ささやいているだけならば、自分に不利益は生じない。しかし、そこに信仰も生まれません。


御心を行うことを願うなら

 そして、最後にユダヤ人たちに目を向けましょう。彼らはイエスが神殿の境内に上って教えているのを聞きました。そしてこう言ったのです。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」(15節)。つまり、彼らが受けて来たような専門教育を受けたわけでないのに、イエスが聖書を解き明かして語っているのを聞いて不思議に思ったのです。それはまた、イエスがどんなに聖書を語っても権威あるものとは認めない、という思いの裏返しでもあったと言えます。

 それに対して、イエス様は言われるのであります。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」(16‐17節)。

 ユダヤ人たちはイエスに敵対していました。それは、この福音書の5章にまで遡りますが、そもそもイエスが安息日に病人を癒したことから始まったのです。労働の禁じられている安息日に治療行為をした。いやそれだけでなく、癒された人に床を担いで歩くという「労働」をさせたことが彼らを怒らせました。それだけではありません。その後イエスが口にした言葉がさらに彼らを憤らせたのでした。イエスは神を「わたしの父」と呼んで、御自分を神と等しい者とされたからです。ゆえに彼らはイエスを憎んで殺そうとしたのです。

 表面的に見るならば、彼らは神に従うことを大切にしているのです。律法を守ることを重んじているのです。しかし、彼らが本当に守りたかったのは何なのか。イエス様には見えているのです。それは彼らの権威だったのです。律法を教え、律法を守らせる側にいる彼らの宗教的な権威なのです。彼らの関心は、神の御心を行うことにはない!だから「この方の御心を行おうとする者は…分かるはずだ」と言うのです。しかし、御心を行うことに関心がないと言うならば、それは彼らだけではないのです。既に見てきたように、それはイエスの弟たちにしても、群衆にしても同じです。

 では、ここにいる私たちはどうなのでしょう。――この福音書が書かれた頃の教会、迫害の中で、困難の中で、なおも集まって礼拝していた紀元一世紀の教会もまた、自らを問われたに違いありません。集まって「主の祈り」ささげてはいます。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と幾度となく祈ってきたはずです。しかし、本当に御心が地になることを求めているのか。そこに教会が用いられること、我が身が用いられることを、本当に求めているのか。――主は言われるのです。「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」。そして、神から出たものであることが分かるなら、どんなに困難であっても信仰に留まるはずでしょう。

 忘れてはなりません。このことを語っておられるのは、自ら命を捧げて御心を行おうとしておられた方なのです。ただひたすら御自分を遣わした天の父の御心を行うことを求めて生きられた方なのです。「わたしの時はまだ来ていない」(6節)と主は言われました。イエス様は明確なひとつの「時」へと向かっておられました。それはこの世の支配者となる「時」でもなく、この世の栄光を勝ち取る「時」でもありませんでした。それは私たちの救いのために十字架にかかられ、命を捨てられるその「時」だったのです。イエス様は明確な神の御心が行われるその「時」へと向かっておられたのです。そのように御心を行うために生きられた方がいて、今の私たちがいるのです。

 ここにいる私たちはどうなのでしょう。その御方を礼拝している私たちの心の中心にあるのは何なのでしょう。私たちは今、神を礼拝している者として、本来あるべきところに立ち帰りたいと思うのです。イエス様は「この方の御心を行おうとする者は…分かるはずである」と言われました。「御心を行っている者は」とは言っていません。「行おうとする者」すなわち「行うことを願う者」です。大事なのは、今、私たちの心の願いがどこに向いているかなのです。

(祈り)


2020年8月9日日曜日

「二つの招き、異なる結果」

箴言9:1‐6、13‐18

 今日の聖書箇所には、全く同じ呼びかけの言葉が二回出てきます。4節と16節です。「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい」。箴言を読んでいますと、この「浅はかな者」あるいは「浅はかさ」という言葉に繰り返し出会います。この言葉は、聖書全体で19回出てきますが、その内の15回は箴言に出てきます。箴言を理解する上で重要な言葉であることが分かります。

 「浅はかな者」と訳されている言葉は、もともと単純さを表す言葉で、「未熟な者」とも訳されます。成熟を必要としている、ということです。成熟を必要としているという意味では必ずしも年齢とは関係ないとも言えます。何歳になりましても、本当の意味で成熟した人間となることは、私たち皆の課題であるからです。その意味において、ここに書かれていることは、私たちすべての者に関係していると言えるでしょう。

 さて、そのような「浅はかな者」「未熟な者」に対して呼びかける二つの声があると本日の聖書箇所は教えています。聖書の表現によりますならば、二人の女性からそれぞれ呼びかける声を聞くのです。一人の女性は「知恵」といいます。もう一人の女性は「愚かさ」といいます。この二人の呼びかけは、どちらも未熟な私たちに対する成熟への呼びかけです。「浅はかな者(未熟な者)はだれでも立ち寄るがよい」と。しかし、呼びかけの言葉は同じでも、その二人の有様と、語る内容は全く異なっております。


異なる招き方

 第一に、その二人の「招き方」が異なります。

 「愚かさ」という女の方から見ていきましょう。彼女は「騒々しい女だ」と表現されています。箴言において「騒々しい女」という言葉は、あるイメージを伴っています。身持ちの悪いふしだらな女性です。今日の箇所に描かれている、「自分の家の門口に座り込んだり、町の高い所に席を構えたりして道行く人に呼びかける」のは、当時の遊女の姿です。彼女は直接的に身を現し、自ら声をかけるのです。

 そのような売春婦やふしだらな女の誘惑のように、「愚かさ」という女の呼びかけは直接的です。人間の理性的な思考にではなく、直接的な感覚に訴えます。人間の欲望に直接働きかけます。「愚かさ」の呼びかけは、しばしば非常に分かりやすく、魅力的です。ですから、その声に惹かれていく者も多いのです。

 一方、1節以下に描かれているように、「知恵」という女は直接人々と出会いません。彼女は家を建て、食卓を整えて待っています。本当の豊かさを用意して、そこに待っているのです。彼女は、自ら赴くのではなく、はしためを人々のところに遣わして呼びかけます。遣わされた者は、「知恵」の言葉を「知恵」に代わって伝えます。

 人々が目にするのははしためです。人々が耳にするのは彼女の言葉です。用意されているご馳走を直接目にするわけではありません。そのように、「知恵」の呼びかけは、直接的に感覚に訴えるものではありません。「知恵」の呼びかけは、「愚かさ」の呼びかけほど、魅力的なものとは感じられないかもしれません。ですから、聞いた者は、自ら良く考え、自分の意志をもって「知恵」を求めて「知恵」の家へと赴かねばならないのです。そうして初めて、その人は「知恵」とその用意したすべての豊かさに与ることができるのです。


異なるメッセージ

 そして、二人の「招き方」が異なるだけでなく、第二に、その二人の「呼びかけの内容」が異なります。

 「愚かさ」という女は意志の弱い者に言います。「盗んだ水は甘く、隠れて食べるパンはうまいものだ」(17節)と。「意志の弱い者」と訳されている言葉は、単に意志薄弱なだけでなく、理解力も欠落していることをも意味する言葉です。その時の感覚的なことだけに動かされ、事の結末についてまで、きちんと考えることができない、ということです。それもまた確かに「未熟さ」の現れに他なりません。そのような未熟な者に、「愚かさ」という女は、悪の魅力について語ります。そして、実際、口に甘く、そして美味しく感じるものなのです。

 そのような悪の甘さ、罪の美味しさを知ることが、成熟への道であるという呼びかけは、いつの時代にも聞かれるものです。「悪いことの楽しさを知ることが、大人になることなのだ」という声が聞こえてくるのです。実際、自分のやってきた悪事を自慢げに話し、それが酸いも甘いも噛み分けた人間になることだと吹聴する大人たちは、いつの時代にもいるのでしょう。そのようないわゆる「大人の世界」をさも魅力的に描く小説家がいます。そのようなテレビのドラマが放映されます。この時代にも、「愚かさ」という女の呼び声は、私たちの周りに響き渡っております。

 一方、「知恵」から遣わされた使者は、人々にこう呼びかけます。「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい」と。とはいえ、使者の手にパンはありません。酒もありません。人々の目に見せることができません。はしためはただ「知恵」の家を指し示します。そして、確かに、実に豊かな食卓が、既に準備されているのです。それはどんな人でも、どんな未熟な人でも連なることのできる、まことの命の祝宴です。そして、使者が伝える「知恵」の言葉を聞き、良く考えて、自ら求めて赴く者が、その豊かさに与るのです。


異なる結果

 そして、二人の「呼びかけの内容」が異なるだけでなく、第三に、その二人の呼びかけがもたらす「結果」が異なります。

 「愚かさ」の招きは魅力的です。悪の味わいは甘美です。それが人を成熟させるようにも見えます。しかし、聖書はそこでこう付け加えるのです。「そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれた者は深い陰府に落ちる」(18節)と。

 死霊は死の世界にいるものです。しかし、愚かさの招きに誘われて、罪の甘美さに人が酔いしれている時、その人のすぐ隣りには死霊がいるのです。つまり、その人は生きながら、既に死の世界にいるということです。生きながらにして既に死んでいるのです。ですから、行き着く先も死の世界です。深い「陰府」こそが、「愚かさ」の招きに従う人の行き着くところだと言うのです。

 一方、「知恵」の招きは6節へと続きます。この節は、原文では三つの命令文から成っています。「浅はかさ(未熟さ)を捨てよ!生きよ!分別の道を進め!」悪の甘さや罪の美味しさを体験することによってではなく、まことの「知恵」の養いによって人は成熟するのだと聖書は教えるのです。そこにこそ真に「生きる」道があるのです。そして、その人は「分別の道」すなわち、「知恵」と「愚かさ」を識別する者の道を進んで行くのです。


神の「知恵」であるキリストの招き

 さて、今日の聖書箇所に登場する「知恵」ですが、箴言においてはある特別な意味合いをもって語られています。例えば、8章において、この「知恵」が次のように語っているのです。「わたしはそこにいた、主が天をその位置に備え、深淵の面に輪を描いて境界とされたとき、主が上から雲に力をもたせ、深淵の源に勢いを与えられたとき、この原始の海に境界を定め、水が岸を越えないようにし、大地の基を定められたとき」(27‐29節)。少々分かりにくかったかもしれませんが、これは天地創造の話なのです。天地創造において、「わたしはそこにいた」と言っているのです。天地創造に関わっていたというのですから、この「知恵」とは天地を造られた神の「知恵」なのです。

 そして、天地創造に関わっていたこの「知恵」は、単に擬人化されて箴言の中に語られるに留まらず、実際に一人の御人格としてこの世界に現れてくださったのだと聖書は教えているのです。イエス・キリストこそ、神の知恵の完全なる現れなのです。この御方こそ、神の「知恵」として、命の糧を豊かに備えて、私たちを食卓へと招いてくださっているのです。私たちは、この御方のもとに来て、真の命に与るのです。

 とはいえ、ここに描かれているように、神の「知恵」なるキリストは、今日、直接人々に姿を現すわけではありません。使者を通して呼びかけるのです。そして、使者は、「知恵」と同一ではなく、「知恵」のはしために過ぎません。

 実際、キリストが遣わされた使徒たちは、キリストそのものではありませんでした。彼らは欠けに満ちた人間に過ぎませんでした。私たちが手にする聖書もまた、キリストを伝えるものですが、キリストそのものではありません。聖書は、この地上において、歴史の中で、人間の手によって書かれたという側面を持っています。同様に、教会も、牧師も、礼拝において語られる説教も、聖餐のパンも、キリストそのものではありません。キリストを指し示すはしために過ぎません。これらはこの世界の中にあり、この歴史の中に存在する、まことに粗末な欠けに満ちたものに過ぎません。

 しかし、そのような使者を通して、神の「知恵」なるキリストは、呼びかけておられるのです。この世界には、「愚かさ」という女の呼びかけだけが響いているのではないのです。確かにもう一つの声が響いているのです。「愚かさ」の語る言葉はしばしば魅力的です。しかし、私たちは「愚かさ」の声に従って、滅びへと向かってはなりません。キリストの声にこそ、聞き従わねばなりません。「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい、浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために」と、キリストは今も招いていてくださっているのです。

(祈り)


2020年8月2日日曜日

「すべての人と平和に過ごしなさい」

ローマの信徒への手紙 12:9‐21

愛には偽りがあってはなりません
 本日の第二朗読ではローマの信徒への手紙が読まれました。ここには具体的なキリスト者の生活についての勧めが、他者との関わりという観点から述べられています。「愛には偽りがあってはなりません」という言葉から始まりました。美しい言葉です。そして、これを否定する人はいないでしょう。しかし、偽りのない愛とはいったい何であるか、ということになりますと、その理解は様々であろうと思います。

 パウロが「愛する」という言葉をどのように理解していたかは、パウロがコリントの信徒に宛てた手紙の言葉を通して知ることができます。どうぞお聞き下さい。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(1コリント13:4‐7)。

 これを読みますと、聖書が「愛」と呼んでいるものは、いわゆる「好きである」という感情的な事柄ではないという事が分かります。これが分からずに、「偽りのない愛とは、自分の気持に正直であることだ」と考える人は、「愛には偽りがあってはなりません」という聖書の言葉をも誤解することになります。それこそ「好きでもないのに忍耐しているなんて、それこそ偽りだ!」ということにさえなるからです。

 しかし、パウロは、「愛には偽りがあってはなりません」という言葉に続けて、「悪を憎み、善から離れず」と言っているのです。感情にのみ正直な人は、そのようにはなりません。「嫌いなものを憎み、好きなものから離れず」となるのでしょう。そもそも、嫌いなものを憎むことならば、赤ん坊だってできることです。真に困難なことは、悪そのものを憎むことです。

 多くの場合、人が憎んでいるのは悪ではなくて、悪人であったり、悪の結果としての悲惨な状況であったり、悪のもたらす苦しみであったりするものです。真に悪そのものを憎み、悪が取り除かれることを願い、そこに神の御心が成ることを求めるならば、そこには忍耐が必要とされます。真の寛容さ、情け深さが必要とされます。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えるということが必要とされるのです。すなわち、偽りのない愛が必要とされるのです。

 続けてパウロは言います。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(10節)。「兄弟愛」という言葉は、私たちが一つの家族の中にいることを前提としています。神を父と呼ぶ神の家族です。しかし、そこで求められているのは単に仲の良い家族のように互いに親しくなることではありません。兄弟愛において大切なことは「互いを優れた者と思い、尊敬することだ」とパウロは言うのです。確かに考えて見ますならば、境界線のない親しさよりも、距離があるように見えながらも互いに尊敬し合い、互いを重んじて生きることの方が、共に生きる関係においては重要であるに違いありません。

 そして、「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(11‐12節)と勧められています。心が燃えていることと「霊に燃えて」いることとは異なります。様々な心理的要因によって心はいくらでも燃えるものです。人々の称賛によって心は燃えます。共通の敵に対して団結することによっても心は燃えるのです。 しかし、「霊に燃える」という表現は、これが聖霊によることを意味しています。それは神によるのです。

 心が燃えているだけならば、やがて消えていきます。状況が変われば、熱心さは失われます。称賛されなければ、倦み疲れます。怠惰になります。その時、人は心の情熱に仕えていただけで、主に仕えていたのではないことが明らかになります。それゆえに、パウロは「主に仕えなさい」と言うのです。そして、本当の意味で「主に仕えて」いるのなら、その人は、希望をもって喜び、苦難を耐え忍ぶことができるのでしょう。その希望と忍耐は人からではなく、神から来ているからです。それは、ここにあるように、たゆまぬ祈りにおいて初めて可能となるのです。

すべての人と平和に暮らしなさい
 さらに14節以下をごらんください。ここには様々な勧めの言葉が混在しておりますが、中心にあるのは17節の御言葉です。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」。そして、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(18節)という言葉が続きます。今日の説教題はここから取りました。

 相手の側を問題にしている限り、「すべての人と平和に暮らす」ことは不可能でしょう。私たちは常に善意に囲まれているわけではありません。常に好意的な人に囲まれて生きているわけではありません。悪意をもって対して来る人もいるのです。それゆえに、相手がどうであるかではなく、私たちはどうするのかということが重要になってくるのです。それゆえにパウロは「せめて《あなたがたは》」と言うのです。相手がどうであるかではないのです。

 そうしますと、この言葉は冒頭の「愛には偽りがあってはなりません」という御言葉と深く関わっていることがわかります。「愛には偽りがあってはなりません」という言葉に続いていたのは「悪を憎み」という言葉であったことを思い起こしてください。悪に悪を返しても、悪そのものに勝つことにはならないのです。悪人には勝てるかもしれません。しかし、悪そのものには敗北することになるのです。そして、悪そのものに勝てないのなら、そこに本当の平和はないのです。

 ですから、パウロは「愛する人たち」と呼びかけて、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(19節)と勧めるのです。自分で復讐することは、どれほど正当な理由を伴うものであっても、真に正しい神の聖なる怒りとは一つになれないのです。私たちの罪深い怒りが勝利した時、実はその時点で悪そのものには敗北していることになるのです。

 だから神に任せなさい、と言うのです。怒りは神に任せて、私たちの為すべきことは愛することだ、と言うのです。問題は相手がどうであるかではありません。私たちがどうあるかということです。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と聖書は語るのです。

偽りのない神の愛
 しかし、それにしても、なんと困難な戦いに召されていることでしょう。「「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。しかし、これが「愛する」という戦いなのです。「愛には偽りがあってはなりません」と言われている、その戦いなのです。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と言うけれど、それは愛するという困難な戦いによらなければ実現しないのです。それに比べるならば、怒り憎しみを抱きながら悪人と戦う方が、よほど易しいことなのでしょう。

 しかし、だからこそ私たちはこれを書いているパウロと同じ方向を見ながら、この御言葉を聞かなくてはならないのだと思うのです。「愛には偽りがあってはなりません」。この「愛(アガペー)」という言葉は、実は、この手紙のここに至るまで、人間の愛については用いられていないのです。いつでも神の愛なのです。キリストにおいて現された神の愛なのです。その神の愛にパウロは目を向けつつ、これを語っているのです。

 思い起こしてください。神は私たちの「悪」を憎まれました。そして、「私たち」を愛してくださいました。罪と悪を憎みつつ、罪人である私たちを愛するゆえに、その愛は限りない忍耐と苦悩を伴う愛でした。神は罪そのものを憎まれるゆえに、私たちを裁いて滅ぼされるのではなくて、キリストの十字架において罪そのものを処断され、そして私たちを赦してくださいました。キリストは「敵を愛せよ」と私たちに言われましたけれど、まず敵対している私たちを愛してくださったのは、神様御自身でした。その愛によって十字架は立てられたのです。

 あの十字架に私たちは何を見ますか。私たちはそこに罪に対する神の限りない憎しみを見るのです。しかし、同時に、私たちに対する神の限りない愛と憐れみを見るのです。ここに書かれている言葉はきれい事でも何でもありません。キリスト御自身が肉を裂き、血を流して、それこそ罪そのものとの血みどろの戦いをもって示してくださった愛なのです。神は罪人に勝ったのではなく、罪に勝って、私たちを御自分のものとして獲得してくださったのです。

 生来の私たちに、この「偽りのない愛」がないことを知ることは大切です。自分のうちにないことを知らない人は求めないからです。私たちがキリストに目を向ける時、その神の愛(アガペー)が、私たちの愛となるようにとの祈りが生まれます。その祈りによって初めてキリスト者の日常生活は正しく方向付けられるのです。

 そして、神は私たちの祈りに答えてくださることでしょう。パウロはコリントに宛てた手紙に次のように記しています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。実に、偽りのない愛は、聖霊の結ぶ実りに他ならないのです。





(祈り)

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