2025年10月29日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 21:1~16

 サムエル記上 21:1-16

 サウルが誓いを破りダビデを殺害しようとしていることを知ったヨナタンは、約束通りダビデを安全に逃れさせるために、あらかじめ定めておいて合図によってダビデに知らせます。こうしてヨナタンの助けを得て、ダビデはサウルの手を逃れることとなりました。こうして彼は常にサウルに追われる逃亡者となったのです。

 かつて主はサムエルにこう言われました。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした」(16:1)。主が見出した「王となるべき者」こそダビデでした。サムエルはダビデの父の住むベツレヘムを訪れ、そこでダビデに油を注いだのです。このようにしてダビデは主に選ばれた王であることが告げられたのです。

 しかし、現実には王として君臨しているのはサウルです。主によって油注がれた者は、王になるどころか、むしろ王の追求を逃れてさまよう者となりました。王国を得るどころか、日々のパンにも事欠く者となりました。権力を得るどころか、むしろ剣一つ持たぬ身となりました。

 主は、確かにダビデが王となることを定めておられました。ダビデに約束を与えられました。しかし、ダビデが王となる前に、約束が成就する前に、その途上において、ダビデがこのような惨めな過程を通ることをよしとされたのです。目に見えるところによらず、信仰によって、ただ神の約束を信じることによって生きるしかない、そのような状況を通ることをよしとされたのです。

 主の約束が実現する前に、しばしばそれとは逆行するような出来事が起こることは、聖書の中にしばしば見られるパターンです。アブラハムは「多くの国民の父」(創世記17:5)となる前に、子を持たぬ老人とされました。ヨセフは与えられた夢が実現する前に、エジプトに売られて奴隷となりました。主はギデオンに勝利を与えられる前に、兵士の数を極端に減らされました。

 約束に逆行する現実の中に置かれる時、それはただ主に信頼することを学ぶ時に他なりません。人間の力や企てが神の約束を実現するのではなく、ただ神の大いなる御力が約束を実現することを学ぶ時であり、そこで人はただひたすら神に信頼し、忍耐をもって待ち望むことが求められているのです。

 さて、しかしながら私たちはその過程を歩むダビデを理想化することは許されません。これまで私たちはサウルとの対比の中で信仰の人ダビデの歩みを見てきました。しかし、彼もまた人の子であり、信仰と不信仰の狭間に立っている一人の人間なのです。ですから私たちは、彼の歩みの中に、主に信頼する姿と共に、不信仰のゆえの数多くの失敗をすることを見ることにもなるのです。私たちはダビデの勝利から学ぶと共に、彼の敗北からも学ばねばならないのです。

 ダビデは祭司の町ノブに逃れました。かつてはシロに聖所がありました。サムエルがシロの聖所において祭司エリのもとで育てられたことを既に見て来ました。しかし、シロの聖所は祭司エリの時代にペリシテ人によって破壊されてしまったのです。そこで、祭司の一族はそこからノブの町に逃れていったのでした。

 22章を見ますと85人もの祭司が集団生活をしていたようです(22:18)。そこには新たな聖所が築かれていたということでしょう。ダビデはそこに住む祭司アヒメレクを訪ねました。アヒメレクはピネハスの孫でありエリの曾孫に当たります。

 アヒメレクはダビデを不安げに迎えました。無理もありません。千人隊長であるはずのダビデが従者も連れず、剣も持たないで一人で来たのですから。明らかに異常なことが起こっているのです。アヒメレクはダビデに尋ねます。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」ダビデはアヒメレクに偽ってこう説明します。「王はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うよう言いつけてあります。」そして、さらにダビデは彼にパンを求めます。そこには聖別されたパンしかありませんでした。聖別されたパンを求める際にも、ダビデは偽りを語ります。「従者たちは身を清めています」と。

 このように、ダビデの応答は偽りに満ちています。それは逃亡のためのパンを得るためでした。しかし、実は、この章が伝えているダビデの問題は、偽りそれ自体ではないのです。ここに見るダビデは、かつてたった一人でゴリアトに立ち向かったかつてのダビデと対比されているのです。明らかに、そこにいるのは、もはやあのゴリアトと戦ったダビデではありません。ただひたすら主に信頼して出て行ったダビデではないのです。

 そのことは、アヒメレクにパンだけでなく、武器を求める時のやりとりの中にも明らかにされていきます。ダビデが槍か剣がないかと尋ねると、アヒメレクはこう答えました。「エラの谷で、あなたが討ち取ったペリシテ人ゴリアトの剣なら、そこ、エフォドの後ろに布に包んであります。もしそれを持って行きたければ持って行ってください。そのほかには何もありません」(10節)。

 アヒメレクの答えは、ダビデにあの日の勝利を思い起こさせるのに十分な言葉であったはずでした。剣など持たずに彼はゴリアトに勝利したのです。それはまた、ゴリアトの剣は決してペリシテの軍隊に勝利をもたらさなかったことをも思い起こさせる言葉であったはずでした。

 しかし、ダビデは、かつて勝利を与えてくださった信頼すべき主の真実に思いを馳せることができないのです。主への信頼を失えば、人は自らの手で自分を守るしかありません。ダビデは答えます。「それにまさるものはない。それをください。」今のダビデにとって、ゴリアトの剣にまさるものはないのです。この言葉がダビデの状態を雄弁に物語っていると言えるでしょう。

 自らの手で自分を守るしかないならば、必然的に人は恐れに支配されることになります。その事実がこの場面にはよく現れています。彼はアヒメレクのところでドエグというエドム人を見かけました。彼はサウルの家臣です。ドエグはアヒメレクがダビデにパンを与えることをしっかりと目撃していました。

 そのことが、アヒメレクをトラブルに巻き込みかねないことを、ダビデに分からないはずがありません。事実、アヒメレクがダビデにパンや剣を与えたということで、アヒメレクだけでなく、祭司の町の住人すべてが皆殺しにされることになるのです。

 後にダビデはアヒメレクの息子にこう言っています。「あの日、わたしはあの場に居合わせたエドム人ドエグが必ずサウルに報告するだろう、と気づいていた」(22:22)。そうです、ダビデには分かっていたのです。しかし、恐れに支配されていたダビデは自らを救うことで精いっぱいでした。ですからパンのみならず剣まで求めて、その場を立ち去ってしまったのです。

 ダビデはさらに、ガトの王アキシュのもとに逃れました。実は、ダビデがアキシュのもとに身を寄せるという記事は、後に再び27章に出てきます。その時は状況が異なっておりまして、単独ではなく600人の兵と共にガトに移って行きます。アキシュはダビデと兵士たちを受け入れ、ツィクラグを与えてそこに住まわせるのです。しかし、この章においては、ダビデは身分を隠したままガトに逃れているのです。

 もちろんダビデであることを隠し通せるはずがありません。アキシュの家臣たちに見破られてしまいます。「この男はかの地の王、ダビデではありませんか。この男についてみんなが踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌ったのです」。この言葉もまた、ダビデにかつての勝利を思い起こさせるに十分な言葉だったに違いありません。あの時にも、ダビデは兵士の数によって勝ったのではなかったのです。主による勝利であったはずなのです。

 しかし、彼は主による勝利を思い起こすのではなく、自らの手で自らを守ろうとしたのです。そうなれば当然恐れに支配されることになります。ダビデは捕らえられると、気が狂ったように振る舞い、ひげによだれを垂らし、城門の扉をかきむしりました。アキシュは言います。「見てみろ、この男は気が狂っている。なぜ連れて来たのだ」。こうしてダビデはアキシュに身元を知られぬまま釈放されたのでした。

 このように、ダビデは約束が成就に至る途上において、厳しい信仰の試練を通されました。しかし、そこでまず私たちが目にするのは、信仰の盾を失い、恐れに支配されたダビデの姿です。昨日の勇者が今日の勇者とは限りません。それは力の有る無しの問題ではなく、あくまでも信仰の問題なのです。

以前の記事