ヨブ38:1‐11
「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(38:1‐3)。そのように主は確かにヨブに答えられました。しかし、ヨブに対する説明をもって答えたのではありませんでした。主は自ら問いかけることによってヨブに答えたのです。「わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」と。
正しい人、ヨブ
ヨブという人物についてはヨブ記の最初にこう語られています。「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」(1:1)。しかし、この正しい人ヨブが大きな苦しみを負うことになりました。彼は息子たち娘たち、そして財産を失います。しかし、ヨブは地にひれ伏してこう口にしました。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(1:21)。ヨブの苦難に伴うこの言葉はたいへん良く知られた言葉です。
さらにヨブは家族や財産だけでなく、自らの健康をも失いました。ヨブは全身ひどい皮膚病にかかり、素焼きのかけらで体中をかきむしったと書かれています。その凄惨なありさまを見てヨブの妻は言いました。「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」。しかし、ヨブは答えます。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(2:10)。
これがこの物語に登場してくるヨブという人物です。まさにその言葉を聞いても、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と書かれて然るべき人物だと思います。そのような正しい人、だれよりも敬虔な人が、なぜ苦しみを負うことになったのか。聖書は、その背後に神とサタンとのやり取りがあったのだと語ります。
神はサタンに言います。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」それに対してサタンは言うのです。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。…ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」そこで主は言われるのです、「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい」と。ヨブ記1章に書かれているやり取りです。その結果は先に述べたとおりです。ヨブは面と向かって神を呪うことはありませんでした。
しかし、そこでサタンはさらに言うのです。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」(2:4‐5)。そこで主は言われます。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」というわけで、ヨブは皮膚病に冒されることになるのです。しかし、そこでもヨブは神を呪うことはありませんでした。
さて、これがヨブ記1章と2章に見る、ヨブの苦難の説明です。さらに言うならば、ヨブだけではありません、この世において多くの正しい人が負っている苦しみについての説明であるとも言えるでしょう。つまり苦しみにおいて神に対するあり方を試されているのだ、信仰を試されているのだというのが一つの説明です。それはそれで分かるような気はします。私たちが苦しみを「試練」と呼ぶときに考えているのはこういうことでしょう。
しかし、ヨブ記が語ろうとしているのは、「神の与えた試練と人間の敬虔な応答」ということに留まりません。それだけなら、ヨブ記は数章で終わる短い話になるでしょう。しかし、実際にはそうなっていないのです。
神とサタンのやり取りによる説明もさることながら、本当に重要なことは、このやり取りが《ヨブの全く知らないところでなされた》ということです。「主の前に神の使いたちが集まり」というのですから、これは天における出来事です。つまり人間の苦しみについては天に関わる領域があるということです。それゆえに人間の知り得ないことがあるのです。物語ですから私たちはこのやり取りの内容を読んでいるわけですが、その内容も、本来は、私たちにも知り得ないことのはずなのです。
それゆえに、ヨブ記は「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」というヨブの敬虔な言葉で終わらないのです。単に苦難を試練して説明する話に終わらないのです。その試練の中において敬虔であることを勧める話に終わらないのです。ヨブ記の大部分は「論争の言葉」なのです。
友人との論争
その論争とは、ヨブと友人たちの論争です。友人たちは、もともとヨブを慰めに来たのです。こう書かれています。「さて、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった」(2:11‐13)。
そのように、3人の友人たちは、ヨブの苦しみを自らの苦しみとして嘆いていたのです。ところが、ヨブが嘆きの言葉を口にし、自分の生まれた日を呪い始め、「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか」と口にし始めると、友人たちは次第にヨブを諭し始めるようになります。そして、ヨブとの対話は論争に発展していくことになるのです。その論争が延々と27章まで続きます。ヨブが語り、三人のうちの一人が語り、ヨブが答え、別の一人が語り、さらにヨブが答え、もう一人が語る。そのようなやり取りを3ラウンド繰り返してヨブ記の前半が終わります。
ヨブと友人たちの論争については、実際に時間をかけて読んでみていただきたいと思いますが、ここであえて大まかに要約するならば、ヨブの友人たちの主張は要するに、「ヨブよ、お前は罪を犯した。だから苦しみを受けているのだ」ということです。それに対してヨブの主張は「わたしはこんな苦しみを受けるような罪を犯してはいない。間違っているのは神だ」と言っているのです。そして、ストーリーからするとヨブの言うとおりなのです。別にヨブが悪いから神は罰として苦しみを与えたわけではないのです。ともあれ、友人たちは「ヨブが悪い」と言い、ヨブは「神が悪い」と言って論争しているのです。
さて、真っ向から対立しているこの二つの主張ですが、実はヨブと友人たちには共通点があります。どちらも「自分は分かっている」と思っているという点です。「わたしは知るべきことは知っているし、分かるべきことは分かっている」。それが共通点なのです。
彼らが共通に身を置いているのは、例えば旧約聖書の「箴言」に見られる伝統的な考え方です。「箴言」というのは格言集ですが、そこでは「神に従う人」と「神に逆らう人」とが対比されて語られています。そして、「神に従う人」と「神に逆らう人」はそれぞれふさわしい報いを受けることになっています。例えば、典型的なのはこのような格言です。「神に従う人の名は祝福され、神に逆らう者の名は朽ちる」(箴言10:7)。ヨブも友人たちもこのような伝統の中に生きているのです。
そのように、ヨブも友人たちも、箴言に書かれているようなことは知っていたし、学んできたのです。また自らの人生においても、その経験を積み重ねてきたのです。その意味ではどちらも「物事が分かっている人間」なのです。そして、その自分が分かっていることに従って言うならば、友人たちによれば「ヨブよ、苦難を受けているとするならばお前が悪い。お前が神に逆らったからだ」ということになるのでしょう。しかし、ヨブからすれば「いいや、神に従う者がなお苦しむとするならば、神が悪い」ということになるのです。
嵐の中からの答え
そして、この論争を経て、29章以下からはヨブのモノローグが始まります。それは嘆きの言葉から始まり、次第に神に対する激しい訴えの言葉へと変わっていきます。「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない」(30:20)。彼は法廷に立っているかのように、自らの潔白を主張し始めるのです。そして、ついに彼は神と対決するに至るのです。
ヨブは言います。「どうか、わたしの言うことを聞いてください。見よ、わたしはここに署名する。全能者よ、答えてください。わたしと争う者が書いた告訴状をわたしはしかと肩に担い、冠のようにして頭に結び付けよう。わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し、君主のように彼と対決しよう」(31:35‐37)。
神様に対する言葉なので丁寧に訳されていますけれど、内容的には「どうか、わたしの言うことを聞いてください」ではありません。「私の言うことを聞け!」と言っているのです。「神が告訴状を書いてくると言うなら上等だ。受けて立とうじゃないか。私の歩みの一歩一歩を示して、対決してやる!」そう言ってヨブが息巻いているのです。
さて、今日の聖書箇所は、直接はその31章に続くのです。その時、嵐の中から主は答えられたのです。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(38:2‐3)。神は天上におけるサタンとのやり取りについて語りませんでした。すなわち、苦難について、その意味についても目的についても、一言も説明なさらなかったのです。苦難については、あくまでも人間の知り得ないことがあるのです。それは明らかにはされないのです。
その代わりに主はヨブに問いかけたのです。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」(4節)。それは無茶な話です。大地を据えたとき、ヨブはおろか、最初の人間すらそこにはいなかったのです。すなわち、この世界は人間のいないところで造られた世界だということです。なるほど言われてみればそうでしょう。人類の出現はこの世界の成り立ちにおいて最も歴史の浅いところに属するのですから。この世界のほとんどは人間のいないところで成立したのです。そのような世界のただ中に生きているのです。人間はこの世界についてすらほとんど何も知らないのです。ましてや神が天上において定めたことの意味や目的を知り得るはずがありません。
この世界には知り得ないことがある。苦難についても知り得ないことがある。ならば大事なことは、「すべてを知っておられる方」の前に膝をかがめることなのでしょう。その御方に信頼して生きることなのでしょう。それこそが神を畏れ敬うということなのです。そして、全く逆説的なのですが、それこそが私たちが本当に知らなくてはならないことなのです。それを聖書は「知恵」と呼びます。聖書にはこう書かれています。「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)と。ヨブ記という書物はまことの知恵をもって生きるための書物であると言えるでしょう。
そして、このまことの知恵は、言葉としてだけでなく、一人の御方として形をとってこの地上に来られました。神の愛を指し示し、神への信頼を目に見える姿をもって現してくださった神の独り子、イエス・キリストこそがその御方です。その御方により、私たちはまことの知恵をもって生きるようにと招かれているのです。