2018年10月28日日曜日

「嵐の中からの答え」

ヨブ38:1‐11

 「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(38:1‐3)。そのように主は確かにヨブに答えられました。しかし、ヨブに対する説明をもって答えたのではありませんでした。主は自ら問いかけることによってヨブに答えたのです。「わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」と。

正しい人、ヨブ
 ヨブという人物についてはヨブ記の最初にこう語られています。「ウツの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」(1:1)。しかし、この正しい人ヨブが大きな苦しみを負うことになりました。彼は息子たち娘たち、そして財産を失います。しかし、ヨブは地にひれ伏してこう口にしました。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(1:21)。ヨブの苦難に伴うこの言葉はたいへん良く知られた言葉です。

 さらにヨブは家族や財産だけでなく、自らの健康をも失いました。ヨブは全身ひどい皮膚病にかかり、素焼きのかけらで体中をかきむしったと書かれています。その凄惨なありさまを見てヨブの妻は言いました。「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」。しかし、ヨブは答えます。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(2:10)。

 これがこの物語に登場してくるヨブという人物です。まさにその言葉を聞いても、「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」と書かれて然るべき人物だと思います。そのような正しい人、だれよりも敬虔な人が、なぜ苦しみを負うことになったのか。聖書は、その背後に神とサタンとのやり取りがあったのだと語ります。

 神はサタンに言います。「お前はわたしの僕ヨブに気づいたか。地上に彼ほどの者はいまい。無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きている。」それに対してサタンは言うのです。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。…ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません。」そこで主は言われるのです、「それでは、彼のものを一切、お前のいいようにしてみるがよい」と。ヨブ記1章に書かれているやり取りです。その結果は先に述べたとおりです。ヨブは面と向かって神を呪うことはありませんでした。

 しかし、そこでサタンはさらに言うのです。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うにちがいありません」(2:4‐5)。そこで主は言われます。「それでは、彼をお前のいいようにするがよい。ただし、命だけは奪うな。」というわけで、ヨブは皮膚病に冒されることになるのです。しかし、そこでもヨブは神を呪うことはありませんでした。

 さて、これがヨブ記1章と2章に見る、ヨブの苦難の説明です。さらに言うならば、ヨブだけではありません、この世において多くの正しい人が負っている苦しみについての説明であるとも言えるでしょう。つまり苦しみにおいて神に対するあり方を試されているのだ、信仰を試されているのだというのが一つの説明です。それはそれで分かるような気はします。私たちが苦しみを「試練」と呼ぶときに考えているのはこういうことでしょう。

 しかし、ヨブ記が語ろうとしているのは、「神の与えた試練と人間の敬虔な応答」ということに留まりません。それだけなら、ヨブ記は数章で終わる短い話になるでしょう。しかし、実際にはそうなっていないのです。

 神とサタンのやり取りによる説明もさることながら、本当に重要なことは、このやり取りが《ヨブの全く知らないところでなされた》ということです。「主の前に神の使いたちが集まり」というのですから、これは天における出来事です。つまり人間の苦しみについては天に関わる領域があるということです。それゆえに人間の知り得ないことがあるのです。物語ですから私たちはこのやり取りの内容を読んでいるわけですが、その内容も、本来は、私たちにも知り得ないことのはずなのです。

 それゆえに、ヨブ記は「神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」というヨブの敬虔な言葉で終わらないのです。単に苦難を試練して説明する話に終わらないのです。その試練の中において敬虔であることを勧める話に終わらないのです。ヨブ記の大部分は「論争の言葉」なのです。

友人との論争
 その論争とは、ヨブと友人たちの論争です。友人たちは、もともとヨブを慰めに来たのです。こう書かれています。「さて、ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった」(2:11‐13)。

 そのように、3人の友人たちは、ヨブの苦しみを自らの苦しみとして嘆いていたのです。ところが、ヨブが嘆きの言葉を口にし、自分の生まれた日を呪い始め、「なぜ、わたしは母の胎にいるうちに死んでしまわなかったのか」と口にし始めると、友人たちは次第にヨブを諭し始めるようになります。そして、ヨブとの対話は論争に発展していくことになるのです。その論争が延々と27章まで続きます。ヨブが語り、三人のうちの一人が語り、ヨブが答え、別の一人が語り、さらにヨブが答え、もう一人が語る。そのようなやり取りを3ラウンド繰り返してヨブ記の前半が終わります。

 ヨブと友人たちの論争については、実際に時間をかけて読んでみていただきたいと思いますが、ここであえて大まかに要約するならば、ヨブの友人たちの主張は要するに、「ヨブよ、お前は罪を犯した。だから苦しみを受けているのだ」ということです。それに対してヨブの主張は「わたしはこんな苦しみを受けるような罪を犯してはいない。間違っているのは神だ」と言っているのです。そして、ストーリーからするとヨブの言うとおりなのです。別にヨブが悪いから神は罰として苦しみを与えたわけではないのです。ともあれ、友人たちは「ヨブが悪い」と言い、ヨブは「神が悪い」と言って論争しているのです。

 さて、真っ向から対立しているこの二つの主張ですが、実はヨブと友人たちには共通点があります。どちらも「自分は分かっている」と思っているという点です。「わたしは知るべきことは知っているし、分かるべきことは分かっている」。それが共通点なのです。

 彼らが共通に身を置いているのは、例えば旧約聖書の「箴言」に見られる伝統的な考え方です。「箴言」というのは格言集ですが、そこでは「神に従う人」と「神に逆らう人」とが対比されて語られています。そして、「神に従う人」と「神に逆らう人」はそれぞれふさわしい報いを受けることになっています。例えば、典型的なのはこのような格言です。「神に従う人の名は祝福され、神に逆らう者の名は朽ちる」(箴言10:7)。ヨブも友人たちもこのような伝統の中に生きているのです。

 そのように、ヨブも友人たちも、箴言に書かれているようなことは知っていたし、学んできたのです。また自らの人生においても、その経験を積み重ねてきたのです。その意味ではどちらも「物事が分かっている人間」なのです。そして、その自分が分かっていることに従って言うならば、友人たちによれば「ヨブよ、苦難を受けているとするならばお前が悪い。お前が神に逆らったからだ」ということになるのでしょう。しかし、ヨブからすれば「いいや、神に従う者がなお苦しむとするならば、神が悪い」ということになるのです。

嵐の中からの答え
 そして、この論争を経て、29章以下からはヨブのモノローグが始まります。それは嘆きの言葉から始まり、次第に神に対する激しい訴えの言葉へと変わっていきます。「神よ、わたしはあなたに向かって叫んでいるのに、あなたはお答えにならない。御前に立っているのに、あなたは御覧にならない」(30:20)。彼は法廷に立っているかのように、自らの潔白を主張し始めるのです。そして、ついに彼は神と対決するに至るのです。

 ヨブは言います。「どうか、わたしの言うことを聞いてください。見よ、わたしはここに署名する。全能者よ、答えてください。わたしと争う者が書いた告訴状をわたしはしかと肩に担い、冠のようにして頭に結び付けよう。わたしの歩みの一歩一歩を彼に示し、君主のように彼と対決しよう」(31:35‐37)。

 神様に対する言葉なので丁寧に訳されていますけれど、内容的には「どうか、わたしの言うことを聞いてください」ではありません。「私の言うことを聞け!」と言っているのです。「神が告訴状を書いてくると言うなら上等だ。受けて立とうじゃないか。私の歩みの一歩一歩を示して、対決してやる!」そう言ってヨブが息巻いているのです。

 さて、今日の聖書箇所は、直接はその31章に続くのです。その時、嵐の中から主は答えられたのです。「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ」(38:2‐3)。神は天上におけるサタンとのやり取りについて語りませんでした。すなわち、苦難について、その意味についても目的についても、一言も説明なさらなかったのです。苦難については、あくまでも人間の知り得ないことがあるのです。それは明らかにはされないのです。

 その代わりに主はヨブに問いかけたのです。「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」(4節)。それは無茶な話です。大地を据えたとき、ヨブはおろか、最初の人間すらそこにはいなかったのです。すなわち、この世界は人間のいないところで造られた世界だということです。なるほど言われてみればそうでしょう。人類の出現はこの世界の成り立ちにおいて最も歴史の浅いところに属するのですから。この世界のほとんどは人間のいないところで成立したのです。そのような世界のただ中に生きているのです。人間はこの世界についてすらほとんど何も知らないのです。ましてや神が天上において定めたことの意味や目的を知り得るはずがありません。

 この世界には知り得ないことがある。苦難についても知り得ないことがある。ならば大事なことは、「すべてを知っておられる方」の前に膝をかがめることなのでしょう。その御方に信頼して生きることなのでしょう。それこそが神を畏れ敬うということなのです。そして、全く逆説的なのですが、それこそが私たちが本当に知らなくてはならないことなのです。それを聖書は「知恵」と呼びます。聖書にはこう書かれています。「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)と。ヨブ記という書物はまことの知恵をもって生きるための書物であると言えるでしょう。

 そして、このまことの知恵は、言葉としてだけでなく、一人の御方として形をとってこの地上に来られました。神の愛を指し示し、神への信頼を目に見える姿をもって現してくださった神の独り子、イエス・キリストこそがその御方です。その御方により、私たちはまことの知恵をもって生きるようにと招かれているのです。

(祈り)

2018年10月14日日曜日

「ペトロの涙」

マルコ14:66-72

強い人ペトロ
 イエスの一番弟子ペトロは、もともとガリラヤの漁師でした。当時の主な職業は一般的に世襲です。彼は漁師の家に生まれたので、漁師の子どもとして育てられたのでしょう。一人前の漁師になるために、親のもとで厳しい訓練を受けてきたのだと思います。漁に出たならば、舟の上ではそれぞれが自分の責任をしっかりと果たさねばなりません。そこでは自分の責任を担う強さが要求されます。舟の上で弱さをさらけ出したり、狼狽えたりして、仲間の足手まといになるわけにはいきません。それは一人前の漁師として恥ずべきことです。

 また、彼の家が通常のユダヤ人の家庭なら、彼もまたユダヤ人の子どもとして律法の教育を受けてきたことでしょう。ユダヤ人の子どもは一三歳になると成人を迎えます。「バル・ミツヴァ(律法の子)」と呼ばれるようになります。すなわち、ユダヤ人の共同体に属する者として、律法の義務が科せられるようになるのです。彼は責任ある大人として、定められたことをきちんと果たす強さを要求されることになります。律法を守ることができないということは、律法違反を咎められるだけではなく、一人前の大人として、実に恥ずべきことだったのです。

 もちろん、子供が大人となっていくプロセスにおいて、そのような自立した強さを要求されるということは、何もユダヤ人や漁師の家に固有なことではありません。この国に生きる私たちにもある程度身に覚えがあります。この国の子供たちの多くは「人様に迷惑をかけないように」と言って育てられます。人の手を借りずに自分のことはきちんと自分で出来る子が《しっかりした良い子》と呼ばれます。この国においても、やはり賞賛されるのは自立した強い人です。弱いこと、人に頼ることは、しばしば恥ずかしいことと見なされます。ですから、人生の最後まで、「子どもや孫の世話になどならない!」と言い張る人もいるのでしょう。

 しかし、現実はなかなか思い通りにはいきません。人の助けを得なくてはどうにもならない時はあります。自分の弱さをさらけ出してしまう時はあるのでしょう。一生の間には幾度も、狼狽えたり、取り乱したり、恥をかいたりということを繰り返すものです。しかし、本来は強いことが良いことだと思っているならば、弱さを覆い隠して、対面を取り繕おうとするのでしょう。いや、他の人に対して弱さを覆い隠そうとするだけでなく、自分自身に対しても覆い隠そうとすることもあります。弱い自分だと思いたくない。できるだけ自分の弱さを見ないようにしたい。恥ずかしいことは、それこそ心の箪笥の一番奥の方にしまい込んでしまいたい、と。

 どうもペトロという人物もそうだったようです。福音書を読みますと、彼はしばしば自分の弱さをさらけ出しています。例えばこんなことがありました。ある日、イエス様と弟子たちがガリラヤ湖畔におりました時、主は「湖の向こう岸に渡ろう」と言い出されました。そこでイエス様と弟子たちは船出いたします。ところが突風が湖に吹き下ろしてきて、彼らは水をかぶり、危なくなりました。弟子たちは狼狽えます。見るとイエス様は嵐の中で舟が沈みそうだというのに、安らかにスヤスヤと眠っているではありませんか。彼らは主を起こして言いました。「先生、先生、おぼれそうです」。すると、主は風と荒波とを叱って静め、弟子たちにこう言われたのです。「あなたがたの信仰はどこにあるのか」(8:25)と。嵐の中で落ち着いていたのは漁師でもないイエス様おひとりでした。全くもってプロの漁師としての面目丸つぶれです。それはペトロにとって実に恥ずかしい経験だったに違いありません。

 どんなに訓練を積んできたとしても、どれほど経験を積んでいたとしても、いざ命が危険にさらされる時、自分の心の内に何が起こるかわからない。そういうものなのでしょう。しかし、弱さをさらけだしたこの失態はペトロの心の箪笥の奥深くに仕舞い込まれてしまったようです。最後の晩餐を終えてイエス様と弟子たちがゲツセマネの園に向かっていた時、すなわちイエス様が捕らえられるその時が刻一刻と近づいていたその時に、イエス様はこう言われました。「あなたがたは皆、わたしにつまずく」と。それは弟子たちがイエス様を見捨てて逃げていくことを意味しました。もちろん、それはペトロをも含めてイエス様は言われたのです。しかし、その時、ペトロはかつて弱さをさらけ出した自分であることを思い起こすことはありませんでした。彼は言いました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(29節)。その思いは他の弟子たちにしても同じでした。

 これまで主日の礼拝においてマルコによる福音書が毎週朗読されてきました。そこにはイエス様と多くの人々との出会いの物語がありました。汚れた霊に憑かれた男が解放されました。重い皮膚病を患っていた人が清められ、社会に復帰していきました。友人たちに連れて来られた中風の者が罪の赦しの宣言を受け、癒されました。お腹をすかしていた五千人以上の人々にパンが与えられました。盲人の物乞いの目が癒されました。多くの人々が救いを求めて集まってきました。

 そのような人々との関わりの中で、あの十二人はどこにいたのでしょう。彼らは主に癒された人々をどのように見ていたのでしょうか。彼らはいつでも、イエス様の側近くにいたのです。癒される人々の側ではなく、癒すイエス様の側にいたのです。助けられる側ではなく、助ける側に身を置いていたのです。彼らは、癒された盲人の物乞いと自分たちとの間に、明らかに一線を引いていたと思います。少なくとも、彼らはそのような癒しを必要としてはいなかったからです。彼らはイエスに従う者であることを自認する「弟子たち」であり「使徒たち」です。そして、それぞれが死に至るまで弟子であり続けると思っていたに違いありません。

 しかし、イエス様は「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言ったペトロにこう言われたのです。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(30節)。しかし、それでもなおペトロは自分の弱さを認めようとはしませんでした。ペトロはあの舟の中で取り乱していた自分の姿を思い起こすことはありませんでした。ペトロは力を込めて言い張ります。「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(31節)。彼だけではありません。皆の者も同じように言ったのです。

涙を流すペトロ
 さて、実際にはどうなったのでしょうか。先々週の礼拝において朗読されたように、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(50節)。ペトロだけは、イエス様が捕えられ、大祭司の家に連れていかれましたとき、遠くからついて行ったようです。そして屋敷の中庭まで入り込み、人々と共に火にあたりながら、事の成り行きを見守っていました。そして、今日の福音書朗読において私たちが耳にしたことが起こりました。

 大祭司に仕える女中のひとりが、火にあたっているペトロをじっと見つめていました。そして、こう言ったのです。「あなたも、あのナザレのイエスと一緒にいた。」ペトロは女の一言に震え上がりました。そして、とっさにこれを打ち消します。「あなたが何のことを言っているのか、わたしには分からないし、見当もつかない」。そう言って出口の方へ出ていきました。

 しかし、屋敷に連れてこられたイエス様の事が気になって、出て行くことはできません。彼はなおも中庭に留まります。するとまた、先の女中が彼を見て、そばに立っていた人々に言い出します。「この人は、あの人たちの仲間です」。ペトロは再びこれを打ち消しました。そして、しばらくすると、そばに立っていた人たちがまたペトロに言い始めます。「確かに、お前はあの連中の仲間だ。ガリラヤの者だから。」おそらく、ペトロが答えているときに彼のガリラヤ訛りを耳にしたのでしょう。

 ペトロはこれを強く打ち消します。「呪いの言葉さえ口にしながら」と書かれています。「もし偽りを語っていたら神に呪われても良い」と言って激しく誓い始めたということです。彼はそのように神にかけて誓ってこう言ったのです。「あなたがたの言っているそんな人は知らない」。そのようなことを自分が口にするとは、夢にも思っていなかったに違いありません。しかし、その時、二度目に鶏が鳴きました。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。」イエス様の言葉をペトロは思い出したのでした。

 ペトロがその時に思い出したように、イエス様は弟子たちが御自分を見捨てて逃げてしまうことをご存じでした。ペトロが三度も御自分を否んでしまうことをご存じでした。ペトロを含め、弟子たちの内にあるものをご存じでした。それが外に現れてしまうことをご存じでした。しかし、ただ内にあるものが外に現れることをイエス様が望んでおられたわけではありません。そこには、実は絶対に聞き落としてはならない言葉がありました。イエス様はあの時、こう言われたのです。「あなたがたは皆わたしにつまずく。…しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(27‐28節)。

 「あなたがたより先にガリラヤへ行く」ということは、イエス様はガリラヤで再び弟子たちに会うことを考えておられたということです。イエス様は先に行って待っていてくださるということです。イエス様を裏切り、イエス様を見捨てて逃げていくその弟子たちを、イエス様は先にガリラヤに行って待っていてくださる。「あなたがたは散らされる。わたしを見捨てて逃げていく。そこであなたがたは徹底的に自分自身の弱さと惨めさを知り、自らの罪深さを思い知ることだろう。しかし、私は先にガリラヤに行って待っている。ボロボロになった惨めなおまえたちが私のもとに来るのを待っている。」――「あなたがたより先にガリラヤへ行く」とはそういうことです。

 イエス様は「あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」とペトロに言われました。しかし、その時、イエス様の内にあったのは、ペトロに向けられた、そして弟子たちに向けられた憐れみであり慈しみだったのです。ペトロはイエス様の言葉を思い出しました。しかし、そこでペトロの心に浮かんできたのは、「わたしの言ったとおりになったではないか」と言って責めているイエス様の眼差しではなかっただろうと思います。そうではなくて、憐れみに満ちたイエス様の眼差しであったはずなのです。

 だからペトロは泣いたのです。あたりはばかることなく激しく大声を上げて泣いたのです。彼は弱い自分を悲しみ、罪深い自分を悲しんで、激しく泣いた。泣くことができたのです。それまで彼は、漁師として、ユダヤ人として、そして十二弟子の一人として、また将来はメシアの王国のナンバー2になるべき人間として、強くなくてはなりませんでした。他の人々のために泣くことはあっても、自分の弱さと罪深さを泣いているわけにはいかなかったのです。しかし、もういいのです。イエス様は何もかもご存じだった。どんなに強がって見せたって、虚勢を張って見せたって、イエス様はすべてご存じだということが分かったから。だからペトロは泣きました。自分自身のありのままの姿を認めて激しく泣いたのです。

 これがペトロです。後に教会の指導者となる使徒ペトロです。この物語は四つの福音書すべてに記されています。恐らく後の使徒ペトロは、この出来事を繰り返し人々に語ったに違いありません。だからこの物語が残っているのでしょう。ペトロははばかることなく、自分の弱さを語り続けた。なぜなら、あの時の涙なくして、後のペトロはなかったからです。私たちも、同じです。神様に仕えて生きようとする時に、本当に必要なのは私たち自身の強さではないのです。そうではなくて、主は全てをご存知であることを知ることなのです。その上で、私たちをこの上なく愛してくださっている主が共にいてくださることを知ることなのです。
(祈り)

2018年10月7日日曜日

「信仰の成熟を目指して」

ヘブライ6:1-12

キリストの教えの初歩を離れて
 今日の第二朗読は「だから」という言葉で始まっていました。今日は6章の初めから読まれたのですが、話は前から続いています。そして、実はこの直前には、非常に厳しいことが書かれているのです。

 この手紙の著者は読者に対してこう言っています。「実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです」(5:12)。ある程度信仰生活の長い人に対して彼は言うのです。「今ではもう教師となっているはずなのに」。この「教師」というのは職制としての教師ではありません。ある程度信仰生活が長ければ本当はもう信仰について「教える側」になっているはずだ、と言っているのです。しかし、実際には「固い食物の代わりに、乳を必要とする始末」だと言うのです。

 「乳」とはそこに書かれているように「神の言葉の初歩」のことです。そして、「乳を飲んでいる者はだれでも、幼子です」と言うのです。だから「固い食物」は食べることができない。「固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです」(同14節)。もちろん、意味合いとしては「あなたたちはまだ一人前の大人ではない」ということです。「乳を飲んでいる幼子だ」と。これが今日の箇所の直前に書かれている言葉です。

 そのような極めて辛辣な言葉に続いて、「だから」と言って今日の箇所に入るのです。そう考えると話の流れとしては変なのです。固い食べ物を食べられない幼子だから、「だからあなたがたにはまだまだ乳を与えることが必要だ」と続くのではなく、「キリストの教えの初歩を離れて、成熟を目指して進みましょう」と続くのです。

 これを読みますと、既に述べられたことは、いわば多分に挑発的な言葉であったことが分かります。「そのとおりです。私たちは確かに、まだ乳を必要としている幼子です」と言って欲しいわけではないのです。読者に発奮して欲しいのです。幼子であることに甘んじて欲しくないのです。読んでいる教会の人に、とにかく成長したい、成熟したいという願いを持って欲しいのでしょう。

 ここには「キリストの教えの初歩を離れて」と書かれています。その「キリストの教えの初歩」の例として、ここでは「死んだ行いの悔い改め、神への信仰、種々の洗礼についての教え、手を置く儀式、死者の復活、永遠の審判などの基本的な教え」が挙げられています。

 「死んだ行いの悔い改め」とありました。命の源は神様です。その神に背を向けた生き方とそこから生まれる行い。それが「死んだ行い」です。そこから方向転換をすること、それが悔い改めです。そして、神に立ち帰り、神と共に生きていく。それが「神への信仰」です。それは確かに基本的な教えと言えるでしょう。

 しかし、そこに「種々の洗礼についての教え」と続きます。「種々の洗礼」と複数になっているのは、「洗礼(バプテスマ)」そのものは、必ずしもキリスト教会だけが行っていたのではないからです。異邦人がユダヤ教へと改宗する時に洗礼が行われました。またヨハネの授けていたバプテスマがありました。そのような中において、教会において主の御名によって授けられる洗礼はいかなるものか。主イエスが授けてくださる「聖霊によるバプテスマ」とは何であるか。そのことについての教えが「種々の洗礼についての教え」です。

 「手を置く儀式」とは、教会がその初めから今日に至るまで様々な場面において行ってきたものです。それは洗礼式においても行われますし、病気の癒しの場面においても行われてきました。しかし、最も典型的な場面は、牧師など教職の任職であると言えるかもしれません。

 「死者の復活」は死を越えた最終的な救いについての教えです。それはまた、「永遠の審判」と共に語られています。最終的にこの世界と私たち一人ひとりを裁くことができるのは神様です。最終的に罪を裁くことができるのは神様ですから、最終的に罪を赦すことができるのも神様なのです。そして、それは神様のなさることですから、永遠の救いに関わっているのです。

 どうでしょう。これらが「基本的な教え」と呼ばれ「キリストの教えの初歩」と呼ばれているものです。どれ一つ取っても、大変な内容を持つものです。しかし、聖書の標準からすれば、これはまだ幼子の飲む「乳」に過ぎないのです。そう考えると、私たちもまた、確かにまだ乳を必要とする幼子だと言わざるを得ないかもしれません。しかし、そこに留まっていてはならないのです。目指すべきはその先にあるのです。乳離れして、固い食べ物も食べられる信仰者になることです。彼は言うのです。「成熟を目指して進みましょう」と。

最後まで希望を持ち続けるために
 それはなぜなのでしょう。なぜそこまで言うのでしょう。それはこの手紙が、試練の中にある教会に宛てて書かれた手紙だからです。これを読んでいるのは、既に迫害を経験していた人たちです。そして、さらに大きな迫害が近づいていた。そのような困難の中で、どのように信仰生活を保っていくかという死活問題があるのです。

 試練によって信仰が揺さぶられる時、その土台として信仰に関わる基本的な事柄が身についていることは確かに必要なことです。しかし、この著者に言わせるならば、それでも十分ではないのです。それはなぜなのか。この人には、分かっているからです。試練の中において信仰を捨てるということ、すなわち棄教するということがどういうことか、ということを。

 彼はここで、極めて厳しい語り口をもって、次のように語り始めます。「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に堕落した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。神の子を自分の手で改めて十字架につけ、侮辱する者だからです」(4‐6節)。

 信仰者として、この言葉を読んで恐れを抱かない人はいないでしょう。もっとも、「再び悔い改めに立ち帰らせることはできない」のはあくまでも人間の側としてのことであって、人にはできなくても神にはできるということが留保されていると言うことはできます。しかし、それは神の恵みとしての留保なのであって、神が立ち帰らせてくださることを当然のこととすることはできません。私たちが「恐れ」を抱くことは、ある意味ではとても健全なことなのです。神を離れて堕落しても、後で立ち帰ることができるなどと安易に考えてはならない。信仰を捨てても、また後で持つことができると安易に考えてはならない。そういうことです。

 当然のことながら、彼は棄教した人を断罪するためにこれを書いているのではありません。そうではなくて、あくまでも彼は信仰を保っている人々に対して語りかけているのです。これは警告として語られているのであって、願いはもちろん、どんな試練があっても信仰に留まって欲しい、何としても信仰に留まって欲しいということです。

 ですからさらにこう続けるのです。「しかし、愛する人たち、こんなふうに話してはいても、わたしたちはあなたがたについて、もっと良いこと、救いにかかわることがあると確信しています」(9節)。そして、神様がこれまでの信仰生活を見ていてくださって、決して忘れることはないのだと励ましているのです。「神は不義な方ではないので、あなたがたの働きや、あなたがたが聖なる者たちに以前も今も仕えることによって、神の名のために示したあの愛をお忘れになるようなことはありません」(10節)と。

 信仰の実りとしての行いが、必ずしも人の目に留まるわけではないし、また覚えられているわけではありません。また自分でも覚えていないことがあるかもしれません。しかし、神様は覚えていてくださる。なぜなら神様は不義な方ではないから。

 この手紙の著者は読者に対して、あなたがたは乳を飲んでいる幼子だと語りました。確かにそうだったのでしょう。しかし、そうであっても信仰をもってここまで生きてきたことは、神の御前において決して小さなことではないのです。それは私たちについても同じです。依然として今なお乳を必要としている幼子かもしれません。しかし、それでもなお神様はその信仰生活に目を留め、心にかけ、覚えていてくださるのです。だから私たちは卑下する必要はないのです。安心して、「成熟を目指して進みましょう」という言葉を受け止めたらよいのです。

 そして、11節に至って、厳しいことを語ってきたこの人の真意が次のように語られています。「わたしたちは、あなたがたおのおのが最後まで希望を持ち続けるために、同じ熱心さを示してもらいたいと思います。あなたがたが怠け者とならず、信仰と忍耐とによって、約束されたものを受け継ぐ人たちを見倣う者となってほしいのです」(11‐12節)。

 「怠け者」と訳されているのは、別の箇所で「鈍くなっている」(5:11)と訳されている言葉です。本当に大事なことについて鈍くなって欲しくない。むしろ信仰の先達たちを見倣って、その後に続く者となって欲しい。それが願いです。そのような信仰の先達たちの代表として挙げられるのはアブラハムです。彼についてはこの直後に言及されていますし、また後に11章に登場します。

 創世記を読むとよく分かりますが、アブラハムは人間としては完全な人と言うにほど遠い人でした。またその信仰は度々試練に遭い、振るわれました。しかし、彼は最後まで忍耐強く信仰を全うし、希望を失いませんでした。そのようにわたしたちも最後まで希望を持ち続けることができるようにとこの著者は願っているのです。私たちはそうありたい。そのためにも、信仰の基本的なことがらはもとより、そこからさらに進んで、常に成熟を目指して歩みたいと思うのです。

(祈り)

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