2016年12月25日日曜日

「闇の中に輝く光」

2016年12月25
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 1章1節~14節

光は輝いている
 「光は暗闇の中で輝いている」。先ほど朗読された福音書の中にそうありました。「光は暗闇の中で輝いている」。また、こうも書かれていました。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。

 すべての人を照らす光が世に来たというのです。その光が既に輝いている。ならばもう真っ暗闇ではありません。そこに光が来て、光が既に輝いている。ならば、もう恐れる必要はありません。私たちがクリスマスを祝うのは、光が既に輝いているからです。もちろん、聖書はイエス・キリストについて語っているのです。

 イエス・キリストの誕生の次第については、マタイによる福音書とルカによる福音書に詳しく書かれています。その物語は、先週の日曜日の礼拝後にページェント(聖誕劇)として上演されました。さらに昨夜のクリスマス・イヴ礼拝においては、キリスト誕生の物語を伝える聖書の言葉が朗読されました。

 ところがこのヨハネによる福音書には、クリスマスの物語がありません。天使ガブリエルもヨセフも羊飼いたちも登場してきません。しかし、その代わりに、キリストの誕生が次のような言葉で表現されています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)。

 たったこれだけ。そうとも言えます。しかし、この短い言葉の中に、キリスト誕生の物語の全てが、さらにはイエス・キリストの御生涯の全てが含まれているとも言えます。なぜこの御方が暗闇を照らす光なのか。なぜこの御方が今も輝いている光なのか。なぜ2016年の今日においてもなおクリスマスが祝われ、光が輝いていることが祝われているのか。今日はこの短い言葉を味わいながら、そのことについて思い巡らしたいと思います。

初めに言があった
 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。この「言」とはこの世に来られる前のキリストです。この世に来られる前のキリストについては冒頭に次のように語られていました。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」(1‐2節)。

 そのように、この世に来られる前のキリストが「言」と呼ばれています。このことについては、多くの事が語られ得ますが、ここでは一つのことだけに触れたいと思います。それはヘブライ語において、「言葉」という単語は同時に「行為」や「出来事」をも意味する、ということです。

 それはある意味では、極めて現実的な物の見方であると言えるかもしれません。というのも、私たちは現実に口から発せられた言葉が良きにせよ悪しきにせよ、何かを行うということを体験的に知っているからです。一度口から出してしまったらもう手遅れで、その言葉が次々と事を引き起こしてしまうということがあるでしょう。だから「言葉」は同時に「行為」であり「出来事」でもあるのです。

 そのような意味合いにおいて、キリストは「言」であると語られているのです。すなわち、イエス・キリストがこの世に生まれ、この地上に生きられたということは、この世に対する神の語りかけであると同時に、神の行為であり、神による出来事なのだ、ということです。

言は肉となって
 その神による出来事を、聖書はさらに「言は肉となって」と表現しています。「肉となった」とは「人間となった」ということです。確かにキリストは私たちと全く変わらぬ人間として産まれました。私たちと同じ人間として生きられました。その意味で言は肉となりました。

 しかし、聖書はあえて「人間となった」と言わずに「肉となった」と語るのです。「肉となった」とは実に強烈な表現です。「人間」であることが「肉」と表現される時、そこには肯定的な喜ばしい響きはありません。しかし、そこには私たち自身がしばしば感じていることが表現されているとも言えるでしょう。

 私たちがこの世界に目を向ける時、人間が織りなすこの社会の諸相に目を留める時、私たちはしばしば人間であることを肯定的に喜ばしいこととして語ることが困難になります。この世に生きている自分の有様を正直に見つめる時、私たちはしばしば人間であることを肯定的に喜ばしいこととして語ることができなくなります。

 私たちは繰り返し、人間であることは悲しいことだと思い知らされます。人間として生きていることは醜いことだと思い知らされます。私たちが繰り返し向き合わされる現実、それが「肉」であるということです。

 それはあたかも深い穴の底でもがいているようなものです。穴から這い上がれば良いことは分かります。泥水の中に沈んでいてはならないことも分かります。壁をよじ登れば良いことも分かります。しかし、手をかけても、足をかけても、すぐにまた泥水の中に落ちてしまう。穴の外までよじ登ることができない。私たちが「肉」であるとはそういうことです。

 しかし、そこで聖書は言うのです。「言は肉となった」と。「言」である方は、いわばその深い穴の中に自ら降りてきてくださったのです。穴の外から「上がってきなさい」と叫んでいるのではなく、自ら穴の中に飛び込んできてくださったのです。そして、穴の底で泥だらけになっている私たちと一緒に、泥だらけになってくださったのです。そのように「言は肉となった」のです。

 さらに言うならば、それはただ単に「肉」であることの悲しみや苦しみを私たちと共有してくださったというだけではありません。それだけならば、イエス様は人間としてこの地上を生きるだけで良かったのです。しかし、福音書はイエス・キリストの御生涯のほとんどの部分に関して沈黙しています。むしろその大きな部分を、最後の一週間を伝えるために割いているのです。キリストは十字架にかけられて死なれたのです。言が「肉」となったのは十字架の上で死ぬためだったのです。

 それは私たち「肉」である者すべての罪を代わりにその身に負うためでした。「肉」である私たちの罪が赦され、神と共に生きる者となるためでした。そうです、私たちが神と共に生きるようになるためでした。

 私たちがそのことを望んだからではありません。神がそのことを望んでくださった。第二朗読において語られていたように、私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛してくださったのです。そして、自ら語り、行動してくださったのです。神が私たちを愛して、神が肉なる私たちの方に手を差し伸べてくださったのです。「言は肉となった」。それこそがまさに暗闇の中にいる私たちにとって、光の到来なのです。まことの光は人間からは来ない。それは神から来て、既に暗闇の中で輝いているのです。

わたしたちの間に宿られた
 しかし、言は肉となって「わたしたちの間に宿られた」と語られていることに私たちは耳を傾けなくてはなりません。

 「宿られた」というのは「テントを張って住む」という意味の言葉です。「言」は権威を振りかざして入り込んできたのではありませんでした。「テントを張って住む」のは寄留者の姿です。それは実につつましやかな宿りです。

 そのように人々が見た最初の姿は、汚い家畜小屋の飼い葉桶に寝かされている赤ん坊でした。人々が見た最後の姿は、むち打たれ、嘲られ、ぼろぼろにされて十字架にかけられて死んでいく惨めな男の姿でした。それはまことに寄留者の姿でした。

 ですからそのように宿られた「言」を人間は受け入れることもできれば、拒否することもできるのです。「言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」(11節)と書かれている通りです。

 「言は肉となった」。神が私たちを愛して、語られ、行動されました。しかし、それがたとえ神の全き愛から出た行為であり出来事であっても、神は人間に無理強いしようとはなさいません。受け入れるか拒否するかを人間に委ねられるのです。そうです、神は強制なさらない。神との交わりは、命の交わりは力ずくの強制によっては生み出されないからです。交わりとはそういうものでしょう。


 「光は暗闇の中に輝いている」(5節)。「輝いていた」――ではありません。闇が今もってなお闇であるように、その中に輝く光も変わることなく輝いているのです。今もなおキリストが宣べ伝えられているとはそういうことです。今もなお主の日ごとに私たちが礼拝へと招かれ、今もなお洗礼が授けられ、聖餐が行われているとはそういうことです。そして、神は今もなお全ての人が「言」である方を受け入れ、神と共に生きることを、光の中を生きることを望んでいてくださるのです。「光は暗闇の中に輝いている」とはそういうことです。

2016年12月18日日曜日

「神は私たちと共におられる」

2016年12月18
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 1章18節~23節

 「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と書かれていました。ルカによる福音書では、天使がマリアに現れて、身ごもっていることを伝えたという話が出て来ます。いわゆる「処女降誕」と呼ばれる出来事です。そこには人間の詮索の及ばない、神の領域があります。しかし、私たちがこの物語を読みますとき、マタイによる福音書はこの出来事の不思議さを殊更に強調してはいないことに気づきます。事の重大さを考えますと、語り口は驚くほど控えめです。

 むしろ、不釣り合いなぐらいに強調されていることがあります。それは生まれてくる子供の「名前」についてです。この物語において重要なのは、不思議な誕生の仕方ではなくて名前であり呼び名なのです。「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(23節)。

その名はインマヌエルと呼ばれる
 来週、私たちはクリスマスを迎えます。クリスマスにおいて祝うのは、今日の聖書箇所によるならば、「インマヌエル」と呼ばれる方の誕生です。それは「神は我々と共におられる」という意味であると説明されています。

 さて、皆さんはこの言葉をどのように聞かれますでしょうか。今日の説教題は「神は私たちと共におられる」です。一週間外に貼り出されていたこの説教題を見て不愉快になった人は恐らくいないだろうと思います。多くの人は、神が共にいてくださることを喜ばしいこと、嬉しいこととして受け止めてくださるからです。

 しかし、まず私たちはここで改めて考えたいと思うのです。神が共におられるということは、本当に喜ばしいことなのでしょうか。嬉しいことなのでしょうか。この問いは次のように言い換えることができかも知れません。「神様が共にいて、本当に大丈夫なのでしょうか。」

 新共同訳聖書では、23節には鍵かっこがついています。これは旧約聖書の引用です。預言者イザヤがユダ王国のアハズ王に語った言葉です。時代はイエス・キリストの誕生からさらに730年ほど前に遡ります。

 その時、ユダ王国は国家的危機に直面していました。アラムと北王国イスラエルが連合して攻めてきたのです。その時の様子を聖書はこう伝えています。「ユダの王ウジヤの孫であり、ヨタムの子であるアハズの治世のことである。アラムの王レツィンとレマルヤの子、イスラエルの王ペカが、エルサレムを攻めるため上って来たが、攻撃を仕掛けることはできなかった。しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した」(イザヤ7:1‐2)。

 不安と恐れに襲われて、森の木々が風に揺れ動くように動揺するということは、私たちもしばしば経験することでしょう。そのとき、私たちは何を考えるでしょうか。「さあ、どうしたらよいだろうか」と考えるに違いありません。しかし、神は預言者イザヤを通してアハズ王にこう語られたのでした。「落ち着いて、静かにしていなさい。恐れることはない」(イザヤ7:4)。

 そして、さらにこう言われます。「信じなければ、あなたがたは確かにされない。」(7:9)つまり、神を真実なる確かなお方として信頼しなければ、あなたがたは決してしっかりと立つことはできない、と言われたのです。問題は敵の襲来ではなくて、確かになっていない足下であることを示されたのです。それゆえに、神は「何をすべきか」を考える前に、まず神に信頼することを求められたのです。

 そして、さらに神はアハズに言われました。「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。」神がまことに信頼すべき神であるという「しるし」を求めて良いと言われたのです。しかし、アハズはこう答えたのでした。「わたしは求めない。主を試すようなことはしない」(7:12)。

 大変敬虔な答えに聞こえます。しかし、実のところはそうではありません。アハズ王は、しるしを見せられても神に信頼して従う気などないのです。彼は、アッシリアという大国の力によって、この国難を乗り切ろうと考えていたのです。要するに、彼の心の内にあるのは、「こんな大変な時に、神様だ、信仰だなどと言ってられるか!」ということなのです。

 神様は敬虔な装いの下にあるものをご覧になっておられます。その目をごまかすことはできません。そこで語られたのが、マタイに引用されていた預言の言葉なのです。「ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(7:14)。

 このように「神は我々と共におられる」という意味の「インマヌエル」という言葉は、もともとの預言においては、それほど喜ばしい響きを持っていないのです。それは先を読むと分かります。17節にはこう書かれています。「主は、あなたとあなたの民と父祖の家の上に、エフライムがユダから分かれて以来、臨んだことのないような日々を臨ませる。アッシリアの王がそれだ」(7:17)。

 つまり、「男の子が生まれる。その名をインマヌエルと呼ぶ」というのは、もともとはアハズにとっては裁きの預言に他ならなかったのです。その不信仰も不従順もすべてお見通しの神が共におられるということですから。神は確かに共におられる。だから不信仰を貫くなら、当面の危機は逃れるかもしれないけれど、最終的に不信仰の実を刈り取ることになる。あなたが頼りにしているアッシリアによって恐るべき日が臨むことになる、とイザヤは語っているのです。

 先ほどの問いに戻ります。神様が共にいて、本当に大丈夫なのでしょうか。私たちの正しさ、とってつけたような敬虔さ、見てくればかりの善良さ――そんなものは神の真実と正しさの前にあってはみんな吹き飛んでしまうようなものに過ぎません。何も神の目から隠れることはありません。私たちに罪がなければ、神が共におられることは救いとなるでしょう。しかし、罪があるならば、神が共におられることは単純に救いとはならないでしょう。むしろそれは災いに他ならないのです。

その子の名はイエス
 しかし、クリスマスの物語は、単にインマヌエルと呼ばれる方の誕生を語っているのではありません。この幼子の誕生において、神は幼子の名前を既に定めておられたのです。ヨセフに対してはこう語られています。「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(21節)。

 イエスという名前は、ヘブライ語名のヨシュアに当たります。ヨシュアは「主は救い」という意味の名前です。ですから、イエスと名付けなさいと命じられた後に、「この子は自分の民を罪から救うからである」と説明しているのです。

 「罪から救う」。聖書には当たり前のように書かれていますし、そのように日本語にも翻訳されているわけですが、一般的な日本語会話において「罪から救う」という表現はほとんど使われません。「貧困から救う」とか「病気から救う」なら分かります。「火事から救う」も分かります。しかし、「罪から救う」という表現は一般的ではありません。

 しかし、この一般的でない表現こそ、まさにキリスト教の神髄に当たるのです。人間は古代から現代に至るまで多くの苦悩を背負った存在であることに変わりありません。ですから、人は様々な苦しみからの救いを求めてきましたし、様々な救いが与えられてきたのです。しかし、聖書は、人間の決定的な悲惨、根元的な苦悩は神を失っていることだと語るのです。さらに言えば、神が共におられるということが裁きにしかならないという現実、すなわち人間に罪があるという現実こそ、人間の最大の悲惨なのだ、と言っているのです。

 人が渇いているとするならば、その渇いている事実そのものが悲惨なのではなくて、生ける水の泉を持っていないことが悲惨なのです。私たちに欠けているのは、与えられて補われる「何か」ではないのです。そうではなく、私たちに必要なのは神ご自身なのです。それゆえ、私たちに必要とされているのは罪の赦しなのです。私たちが神に帰ることができることなのです。赦された者として神と共に生きることができる、ということなのです。

 「その子をイエスと名付けなさい。」イエスと名付けられることは、罪からの救い主となることを意味しました。それはすべての人の罪を代わりに背負って自ら裁きを受けることを意味したのです。イエスと名付けられることは、それゆえに、十字架への道を歩み出すことに他なりませんでした。

 そのお方が、「インマヌエルと呼ばれる」と言われているからこそ意味があるのです。罪が赦されて、罪から救われて、初めて神が共におられることは裁きではなくなるのです。罪が赦されて、初めて神が共におられることが、新しい命となり喜びとなり力となり希望となるのです。

 このイエスと名付けられた方の到来によって、かつては裁きの言葉に他ならなかった「インマヌエル」が、救いの言葉となりました。私たちは喜びと感謝とをもって、「神は我々と共におられる」と告白し、罪からの救い主であられるイエス・キリストの誕生を、心から共に祝いたいと思うのです。クリスマスの祝いが近づいてきました。

2016年11月13日日曜日

「この親にしてこの子あり」

2016年11月13日 子ども祝福礼拝
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 マタイによる福音書 5章43節~48節

(この日は説教に先立って、子どもたち一人ひとりの上に神さまの祝福を祈り求めました。)

 祝福を受けた皆さん、どこに座っていますか。もう一度手を挙げて見せてください。神様は今日皆さんをここに招いて祝福してくださいました。今日は、特に祝福を受けた皆さんにお話ししたいと思います。よく聞いていてくださいね。そして、わたしがお話しするだけでなく、神様が皆さんの心に語りかけてくださいますから、よく耳を澄ませて聞いてください。

敵を無くす方法
 さて、わたしが小学生の時、近所にW君という友だちが住んでいました。彼はいい奴なのですけど、時々ふざけて腹を殴ってきたりします。それがちょうどみぞおちに当たるととても痛いわけです。痛いから、「何するんだよ!」とこちらも殴り返します。殴り返す時は、少し力が入ってしまうものです。すると相手は、「そんなに強く殴ったかよ」と言って今度は結構強く殴り返してくる。「お前からやってきたんだろ」と言ってわたしは本気で殴り返す。こうして、やがてとっくみあいの喧嘩が始まります。そういうことが度々ありました。

 とはいえ、所詮は子どものケンカです。大したことはありません。しかし、「やられたらやり返す」ということで、世の中では殺し合いにまでなることがあります。大きくなれば戦争も起こります。テロも起こります。毎日、何人死者が出たというニュースが流れます。小さいことから大きいことまで、「やられたらやり返す」の繰り返しです。

 残念ながら、人間の世界には、このように「やられたらやり返す」が絶えません。だからいつもどこかに敵がいます。やり返したりやり返されたりする敵がいる。敵がいるって、幸せなことでしょうか。そのような敵対関係があるって、幸せなことでしょうか。そうではありませんね。では敵を無くすにはどうしたら良いでしょう。

 敵を無くす方法はあります。方法その1。敵をみんなやっつけてしまうことです。これはゲームの世界でお馴染みです。敵が出現すると、全部やっつけたら一面クリア。しかし、そのようなゲームばかりやっていると、いつの間にか、「敵がいるならやっつけたら解決するんだ」って思ってしまうようになります。

 実際、この世の中の多くの大人たちはそう思っています。相手をやっつけて、「もう降参です」って相手が言えば解決すると思っているものです。しかし、本当に解決するのでしょうか。いいえ、そこに憎しみは残ります。そして、憎しみは必ず違った形で現れてきます。違った形で敵対関係が残ります。

 どうしたらよいのでしょう。イエス様は、普通では思いつかないような、もう一つの方法を教えてくださいました。先ほど読んだ聖書の箇所に書いてありました。「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。そうイエス様は言っていました。

 敵を無くすもう一つの方法は、敵を友に変えてしまうことです。仲間に変えてしまうことです。敵を友に変える方法は?愛することです。最初に話したことで言うならば、相手が殴ってきた。そこで、やられたらやり返すのではなく、相手を殴ろうとした手をおろして、仲良くしようと言って手を差し出すことです。そして、愛することです。

神様の方法
 しかし、それはとても難しい。現実的とも思えない。しかし、イエス様がそれを言うのには理由があるのです。それは、それが「神様の方法」だからなのです。

 イエス様はこんなことも言っています。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(45節)。「父」というのはイエス様の父なる神様のことです。神様は悪人にも善人にも太陽を昇らせてくださる。悪人というのは、ただ「悪い人」という意味だけでなくて、神様に逆らっている人という意味です。神様に背いている。神様の敵になっている人と言ってもいいかもしれない。

 でも、悪人、神様に敵対している人には、太陽が昇らないということってありますか。そんなことはないですね。どんな悪い人の上にも太陽は昇る。あるいは、正しくない人の畑にだけ雨が降らない。そんなことってありますか。ないですよね。正しくない人の上にも雨は降る。そうでしょう。

 いや、太陽が昇るとか、雨が降るとかだけではありません。本当に言いたいことは、神様が愛していてくださるということでしょう。正しくない人でも神様は愛して生かしてくださる。滅ぼしてしまうことはなさらない。考えてみてください。神様は不遜にも敵対する人は全員滅ぼしてしまうこともできるのです。敵を無くす第一の方法は、敵を全部やっつけてしまうことだから。神様にはできるはずです。でも、神様はそうならさらないのです。

 わたしは祝福を受けた皆さんと同じように、小学校の時に教会で祝福を受けていたものでした。みんなと一緒に礼拝して、讃美歌を歌っていた。でも、中学生ぐらいから、信じなくなったのです。神様を侮って、信じている大人たちのこともバカにするようになりました。

 そのように神様を侮って、バカにして、信じている人もバカにしていた私を、神様はすぐに滅ぼすこともできたと思います。地獄に落とすこともできたと思います。しかし、神様はそうなさいませんでした。神様はわたしを愛してくださいました。ぼくがバカにしていた信じている大人たちは、わたしに言い続けてくださいましたよ。「神様はあなたを愛してるよ」って。それは神様がその人たちを通して、教会を通して、わたしに言い続けてくださったことだと思います。

 神様は、神様に背いているこの世界を滅ぼしてしまいませんでした。そうではなく、敵である私たちを愛してくださったのです。神様は、「わたしはあなたを愛している」と呼びかけ続けて、最後には独り子イエス様をさえこの世界に送ってくださったのです。敵である私たちを愛するためです。愛していることを示して、呼びかけるためです。帰ってきなさい。敵であることをやめなさい、と。神様は今も愛して呼びかけていてくださるのです。

天の父の子となるために
 そう、イエス様はそれが神様の方法だって分かっていたのです。敵を愛することが、父なる神様の方法だってわかっていた。だからその父の独り子であるイエス様は、父なる神様と同じようになさったのです。敵を愛したのです。

 イエス様はやがて捕らえられて十字架にかけられることになりました。イエス様は自分を十字架にかけようとしている人々をやっつけることができたと思います。イエス様は奇跡を行う力があるのですから。しかし、イエス様はそうなさらなかった。そうではなくて、敵を愛されたのです。迫害する者のために祈ったのです。

 十字架にかけられた時、イエス様は御自分を十字架にかけた人々のために祈りました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」。イエス様は彼らを愛しました。そして、背いていた私たちをも愛してくださいました。

 「この親にしてこの子あり」。今日の説教題です。まさにこの言葉が一番ぴったり来るのは、天の父とイエス様の関係でしょう。しかし、イエス様は言われるのです。神様は、あなたたちの天の父でもあるのですよ、と。今日の箇所でもイエス様は言っておられます。「あなたがたの天の父の子となるためである」って。

 これは敵を愛したら神の子どもにしてもらえるという意味ではありません。イエス様は既に「あなたがたの天の父」という言葉を使っているのです。他の箇所でも繰り返し「あなたがたの天の父は」と言っておられる。実際、イエス様に教えられて「天にまします我らの父よ」と祈っているではありませんか。

 神様は敵であった私たちをも愛して、立ち帰るように呼びかけて、みもとに招いてくださって、背き続けてきた私たちの罪をも赦して、神の子どもにしてくださったのです。だからこそ「天の父の子」になるのです。天の父の子として生きるのです。天の父がしてくださったように、私たちも同じようにしなさいとイエス様は言ってくださるのです。聖書の別の箇所にはこう書かれています。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)。

 「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」。確かに難しいかもしれません。しかし、せっかく神様の子どもとして生き始めたのですから、「やられたらやり返す」ではなくて、神様の方法に倣いたいと思います。「この親にしてこの子あり」。そんな子どもたちになりたいものです。

2016年11月6日日曜日

「良き羊飼いと幸いな羊たち」

2016年11月6
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 詩編 23章1節~6節

 今日は先に天に召された方々を記念して礼拝をお捧げするためにここに集まりました。今年は初めてご出席のお返事をいただいた御遺族のために「御遺族席」を用意しました。すると礼拝堂の半分は遺族席になりました。これはある意味ではとても嬉しいことです。天に召された方々のご家族がそれだけ大勢、この礼拝のためにお集まりくださったということですから。

 先に召された方々も、ご家族の皆さんが今この礼拝の場に身を置いているのを見て、主と共に喜んでおられることと思います。中にはそれらの方々が地上にある時には、一緒に礼拝を捧げる機会を得なかったご家族もあるのでしょう。あるいは、故人が召された時にはまだ小さかった、お孫さん、ひ孫さんもこの中にはおられるのでしょう。そのお一人お一人が、今、この礼拝の場に一緒にいるということは、天においてどれほど大きな喜びをもたらしていることかと思います。

 ここは天と地が一つとなるところです。天に召された方々も、今、ここにいる私たちも同じ神様を仰ぎ、同じ神様を礼拝しているとはそういうことです。その意味で礼拝堂とは天と地が一つとなるところなのです。今日お集いになられた方々は、その意味において、先に召された方々と一緒にいるのだという思いをもって、この礼拝の時をお過ごしいただけたらと思います。

わたしには欠けることがない
 さて、そのような今年の記念礼拝において読まれましたのは、詩編23編の言葉です。もう一度、1節から3節までをお読みします。

    賛歌。ダビデの詩。
    主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
      主はわたしを青草の原に休ませ
    憩いの水のほとりに伴い
    魂を生き返らせてくださる。
                           (23・1‐3a)
 「ダビデの詩」いう表題が付けられています。ダビデ本人が作った歌かもしれませんし、あるいはダビデを思いながら後の人が作った歌であるかもしれません。しかし、ダビデにせよ、他の誰かにせよ、明らかにこれはその人の若い日の歌ではありません。内容からすると、むしろ長い人生を歩んできた人のその晩年における歌であると察せられます。

 この詩は、神様を羊飼いとして、そして自分をその羊飼いに養われる羊として歌ったものです。しかし、人生の夕暮れにさしかかった時、この人が歌ったのは、「わたしはここまで真面目な羊として羊飼いに立派に従ってきました」という歌ではありませんでした。そうではなくて、「良き羊飼いのもとにいて、わたしは幸せな羊でした」と言って喜んでいる歌です。

 それにしても「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」という言葉は不思議な言葉でもあります。人は生きていれば、「欠け」を経験することはいくらでもあるからです。不足する。乏しさを覚える。何かを失っていく。何かが奪われていく。そのようなことが人生の途上でいくらでも起こります。ある意味で、一つ一つを失いながら生きていくのが人生だとも言えます。親を失い、友人を失い、自分の健康を失っていく。できたことができなくなっていく。そして、最後はこの地上の命を失うことになる。

 失っていくものに目を留めれば、確かにそうです。失ったものを思えば乏しさを覚えることはある。欠けを覚えることはあるのでしょう。しかし、この人はそう言わない。今与えられているものに目を留めるのです。与えてくださっている御方に目を留めるのです。一緒にいてくれる羊飼いのことを考えているのです。「主は羊飼い」。そして、それで十分なのです。「わたしには何も欠けることがない」と。

死の陰の谷を行くときも
 そして、続く3節と4節にはこう書かれています。

     主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる。
   死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。
   あなたがわたしと共にいてくださる。
    あなたの鞭、あなたの杖
    それがわたしを力づける。
                              (23・3b‐4)
 ここで一つの変化が起こっていることに気づきます。これまで「主は羊飼い」「主はわたしを青草の原に休ませ」「主は…正しい道に導かれる」と語ってきたのですが、いつしか「あなたが…」と神様に向かって語り始めるのです。「あなたがわたしと共にいてくださる」「あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」と。

 「主は御名にふさわしくわたしを正しい道に導かれる」。そう語った時、彼は神様がこれまでどのような道を導いてくださったのか、改めて思い起こし、思い巡らしたことでしょう。それは必ずしも平坦な道ではなかったに違いありません。「死の陰の谷を行くときも」と彼は言っていますから。実際にこの人は「死の陰の谷」を行くような経験をしてきたのでしょう。

 ならば、そのようなこれまでの人生を思い起こし、「死の陰の谷を行く」ときについて語る時に、「あなたが」という言葉が口をついて出て来たとしても不思議ではありません。なぜなら、彼は「死の陰の谷」を行く時に、そこで繰り返し繰り返し神様を呼び求めながら、神様に呼びかけながら、神様に祈りながら生きてきたに違いないからです。確かにその人は「わたし」と「あなた」という関係において神と共に生きてきた。「死の陰の谷を行くときもわたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」とはそういう言葉です。

 ある程度長く生きていれば「死の陰の谷」を通ることは人生において避けられないことなのかもしれません。さらに言うならば、人は必ずその人生の最後には、本当の意味で「死の陰の谷」を行くことになるのでしょう。その時に共にいてくださる羊飼いに向かって、「あなたがわたしと共にいてくださる」と呼びかけることのできる人は幸いです。

 実際、ここを読みながら、そのようにして最後の「死の陰の谷」を通って行った人たちの姿が思い起こされます。また、「死の陰の谷」を行く中で、そこで初めて羊飼いに向かって語り始めた幾人かの方々の姿を思い出すのです。そう、彼らは決して一人ではありませんでした。

わたしを苦しめる者を前にしても
 そして、「あなたは」と言って彼が向き合っている神様の姿がここで変わっていきます。羊飼いから家の主人に変わっていくのです。それもまた彼が知ってきた神様の姿です。
 
    わたしを苦しめる者を前にしても
        あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
    わたしの頭に香油を注ぎ
    わたしの杯を溢れさせてくださる。             
                    (23・5)
 そこには敵によって苦しめられている者を受け入れ、豊かにもてなしてくれる家の主人がいます。彼は苦しめる者のただ中にある。それは変わらない。しかし、そのような苦しい現実のただ中にあって、そこで家の主人として豊かにもてなし、力づけ、喜びに満たしてくださる神様について語られているのです。

 私たちはそこでもしかしたら、言いたくなるかも知れません。「神様、食事どころではありません。敵に囲まれているのですから。苦しめられているのですから。彼らを追い払うか、私を安全なところへ逃がしてください。」しかし、神様は必ずしもただちにそうしてくださるとは限らない。この詩編に描き出されている神様は、あたかもこう言っておられるかのようです。「いや、まずあなたは豊かな霊の食事に与りなさい。今いるそこで力を得なさい。そこで喜びを得なさい。元気になりなさい。私がそうしてあげよう。」

 これこそ死の陰の谷を行くときも「あなたが共にいてくださる」と言っていたこの人が、人生において繰り返し経験してきたことであったに違いありません。「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる」と。
 
主の家に帰ろう
 そして、彼はこの詩編をこう締めくくります。

    命のある限り
    恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
    主の家にわたしは帰り
    生涯、そこにとどまるであろう。              
                    (23・6)

 良き羊飼いと共にある羊の幸いなることを歌ってきた彼は、帰るべきところ、とどまるべきところについて語ります。それは「主の家」です。それは「神殿」を意味します。それは共に礼拝する場所です。まさに「あなたがわたしと共にいてくださる」と言える場所、そして主御自身が食卓を整えてくださる場所。そう、私たちもまた今、そこに身を置いているのです。ここは天に召された皆さんのご家族が、繰り返し繰り返し帰ってきて身を置いていた場所です。

 そして、それは永遠なる神の世界とつながっているのです。この地上の「主の家」はあくまでもひな形に過ぎません。その実体は天にあります。私たちには帰るべきところがあるのです。

 6節の後半にある「生涯」という言葉は、しばしば「永遠に」と訳される言葉です。帰るべきところ。それは永遠に主と共に住まう主の家です。この人生において慈しみ深く導き続け、養い続けてくださった方のもとに私たちはやがて帰っていきます。そして、永遠にそのお方と住まうのです。

 私たちは既に召された方々を記念して礼拝していますが、私たちもまたやがて彼らの列に加えられることになります。やがて終わりの来る一生。残された人生において「何をするか」ということも大切ではありますが、どこに目を向けて生きているかということはもっと大切なことでしょう。導かれるべきお方に導かれ、帰るべきところに向かっていてこそ、私たちの限られた人生もまた永遠の意味を持つのです。

2016年10月2日日曜日

「口実であっても、真実であっても」

2016年10月2
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 フィリピの信徒への手紙 1章12節~21節

福音の前進に役立った
 今日はパウロが獄中からフィリピの教会に宛てて書いた手紙をお読みしました。彼はフィリピの信徒たちにこう語りかけます。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」(12節)。

 「わたしの身に起こったこと」とは投獄されたことです。自由を奪われたことです。これまで三回に渡る宣教旅行を繰り返し、多くの人々に福音を宣べ伝え、数多くの教会を生み出してきたパウロが、もはや自由に動くことも語ることもできなくなったということです。

 いや、自由を奪われただけでなく、彼は今、命までも脅かされているのです。今日の朗読の最後の言葉は「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」という言葉でした。パウロは処刑されることも覚悟の上でこの手紙を書いているのです。

 そのように伝道者パウロの自由が奪われること、さらにはその命が脅かされること、それは誰の目にも福音の前進を阻むものとして映ったことでしょう。しかし、パウロは言うのです。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」と。

 ここでパウロが使っている「前進」という言葉は、道を切り開いて進むことを表す言葉です。ある人は「開拓的前進」と訳しています。パウロが投獄されることによって、今まで道がなかった所に道ができるのです。そのようにして、福音が前進していくことになったのだ、とパウロは言って言うのです。

 その前進はどのようにして起こったのでしょうか。パウロはこう続けます。「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り…」(13節)。

 福音を阻むと思える出来事によって、新しい出会いが生まれました。パウロに与えられたのは、ローマの兵士たちとの出会いでした。彼は監禁されている間、四六時中ローマ兵の監視下に置かれることになったからです。一説によれば、監視は六時間毎の四交代制で行われたと言います。彼らはその時間、いやでもパウロと共にいなくてはなりませんでした。
 
 「わたしが監禁されているのはキリストのためである」とパウロは彼らに語ります。そのキリストとは誰であり、何をしてくださったかを語ったことのでしょう。四交代制でしたら、一日四人には語ることができます。そのようにして、やがてキリストとパウロとの関係は、兵営全体に知れ渡ることとなりました。それはパウロが投獄されなかったら起こりえなかったことでした。福音を阻むように見える出来事の中で、神は福音の進む道を切り開いて前進させて行ったのです。

 この箇所を読みますときに、一人の牧師を思い出します。昨年11月に震災後のネパールを訪れまして、その時にマンジャ・タマングという牧師の家に泊まらせていただきました。彼は40代の牧師で、伝道者となって二十年になりますが、実はその内約半分の9年間を獄中で過ごしていました。まったくの冤罪のために家族とも分かれ、投獄されていたわけです。どんなに辛かったことかと思います。しかし、彼はその時のことを、顔を輝かせて語ってくれました。その時、主は彼を通して、多くの人と出会ってくださった。そうでなければ、出会うことのなかった獄中の人々との出会いの中で、多くの人がキリストを信じるに至りました、と。

 そのように福音を阻むように見える出来事の中で、神は福音の進む道を切り開いて前進させてくださる。そのことを主は見せてくださいました。パウロもまた、その事実をフィリピの教会の人々に証ししているのです。

 いや、それだけではありません。パウロはさらに続けます。「主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、わたしの捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」(14節)。

 「わたしの捕らわれているのを見て」と彼は言います。人々はそこに何を見たのでしょう。捕らえられた人。自由を奪われた人。風前の灯火である命。――いや、それだけではありませんでした。この手紙に繰り返されている言葉、それは「喜び」なのです。人々が見たのは喜びだったのです。

 自由を奪われ、命さえ奪われるかもしれないのに、なおそこで喜びをもって生きていたパウロ。そこに人々が見たのは、人間の自由よりも、そしてこの世の命よりも、もっと大いなるものだったのです。それは、この世の命よりも大切な、この世の命よりもはるかに価値ある、神の救いでありました。キリストによる永遠の救いだったのです。

 星野富弘さんという方をご存じの方は多いことでしょう。重度の障害を負いながらも、口で絵筆をくわえて絵を描く詩人であり画家である方です。彼の作品の中にこんな詩があります。

 「いのちが一番大切だと
  思っていたころ
  生きるのが
  苦しかった
  いのちより大切なものが
  あると知った日
  生きているのが
  嬉しかった」

 星野さんが知った「いのちよりも大切なもの」。代々の殉教者たちが、そのために喜んでこの世の命を差し出した「いのちよりも大切なもの」。人々は獄中にあるパウロがなおも喜びをもって生きている姿の中に、その「いのちよりも大切なもの」をはっきりと見たのです。

 先週、大変重い病気と診断された人と話をし、一緒に祈りました。その方が心に留めておられる聖書の言葉は、今日お読みした「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです」という御言葉でした。わたしはその人が確かに「いのちよりも大切なもの」をしっかりと持っていることを私もまた見せていただきました。

 そのように人々は、パウロの捕らわれている姿の中に、「いのちよりも大切なもの」をはっきりと見たのでした。それゆえに、「恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」とパウロは言っているのです。そのようにして、福音を阻むとしか思えない出来事のただ中にある人を神は用いられたのです。そのようにして周りの人々を励まされ、なおも福音を前進させてくださっていたのです。「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」

キリストが宣べ伝えられているのだから
 さて、私たちはパウロの投獄が、どのように福音の前進となったかを見てきました。しかし、パウロの身に起こったのは、ただ投獄だけではありませんでした。パウロはさらにこう続けます。

 「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(15‐17節)。

 なんと、パウロが身動きの出来ない時に、こんなことが起こっていたのです。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者」がどのような人々であったのか、詳しいことは分かりません。しかし、福音宣教が必ずしも「愛の動機」からなされるとは限らないということは分かります。人間の罪は最も聖なる営みにも入り込みます。獄中のパウロをいっそう苦しめようという不純な動機からもなされ得る。事実、そのようなことが起こっていたのでした。

 パウロはそのために苦しんできたのでしょう。心を痛めてきたのでしょう。しかし、驚くべきことに、パウロはそれでもなおこう言うのです。「だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます」(18節)。

 それはなぜか。それが純粋に愛の動機からのことでなくても、人間の不純な動機が入り込んでいたとしても、それでもなお福音は前進することを知っているからです。

 パウロは、キリストが告げ知らされているなら、それでよいではないかと言うのです。そもそも人間のやることなすこと、純粋に愛から出ていないことばかりではないですか。しかし、それでもなお神の救いの業は進んでいくのです。

 考えてみれば、そのようにして、教会は今日に至っているのではないでしょうか。神が純粋さだけを問うならば、とうの昔に教会など無くなっているはずなのです。実際には、神の憐れみによって、人間の罪にもかかわらず、人間の悪意にもかかわらず、不純な動機にもかかわらず、福音は前進してきたのです。

 人間が捕らえようが、投獄しようが、鎖につなごうが、命を奪おうが、あるいは悪意と不純な動機によって動こうが、人間がすることがすべてなのではありません。人間が何をしようが、神は生きておられるのです。神は神のなさろうとしておられることを進められるのです。神がこの世界のことにも、死の向こうの永遠の救いに関わることにも関わっておられるのです。

 そのような神の御業の中にあることをパウロはよくよく分かっているのです。だから彼は喜んでいるのです。投獄されようが、妬みに駆られた人間が何をしようが喜んでいるのです。そして、こう言うのです。「というのは、あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っているからです」(19節)。

 悪意によって動いている人がいたとしても、もう一方ではパウロのために祈っている人もいるのです。神は生きておられます。だから祈られた祈りは無駄に消えていくことはありません。

 そして、もう一方でイエス・キリストの霊は生きて働いておられる。私たちの救いのために十字架にまでおかかりくださった方は、今も生きて働いておられる。

 だから人間の悪意はパウロを損なうことはないのです。害を与えることはできないのです。人がどんなにパウロを苦しめようとも、本当の意味では苦しめることなどできないと彼は知っているのです。むしろ、「このことはわたしの救いとなるのだ!」とさえ、パウロは言うのです。パウロ個人の救いに関しても、確かに福音は前進しているのです。救いをもたらす神の御業を誰も妨げることはできないからです。

 「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい」。そうです、私たちも知らなくてはなりません。私たちは福音を携えてここから出て行きます。そして、私たちの身に起こるすべてのことを通して、福音は前進して行くのです。

2016年9月11日日曜日

「神の満ち溢れる豊かさによって満たされるように」

2016年9月11
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 エフェソの信徒への手紙 3章14節~21節

愛に根ざし、愛を土台とし
 今日お読みしたのはパウロが獄中からエフェソの教会に書き送った手紙です。そこに祈りの言葉が記されていました。獄中にて祈られた祈りの言葉です。今日の箇所の直前には「わたしたちは主キリストに結ばれており、キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づくことができます」(12節)と書かれています。だから彼は祈ります。どこに置かれても祈ります。投獄されても祈ります。牢獄の壁も、彼をつなぐ鎖も、父なる神に近づくことを妨げることはできません。

 しかし、もう一方で彼が投獄され、苦難を受けていることは、エフェソの教会にとっても試練となることを知っています。彼らは信仰者として揺さぶられることになるでしょう。ですから彼はこう続けます。「だから、あなたがたのためにわたしが受けている苦難を見て、落胆しないでください。この苦難はあなたがたの栄光なのです」(13節)。だからこそ、パウロは祈ります。彼らのために祈ります。

 「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」(14節)。獄中にはひざまずくパウロの姿がありました。彼はエフェソの信徒たちのために何を祈っているのでしょう。「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(16‐17)。これが彼らのためのパウロの祈りです。

 「内なる人を強めてくださるように」。この「内なる人」とは精神のことではありません。「精神的に強くしてください」という祈りではありません。「内なる人」とは信仰によって生まれた新しい人のことです。エフェソの信徒たちは、福音を信じて神の子どもたちとして生き始めたのです。その神の子どもたちとしての「内なる人」が強められなくてはなりません。信仰者として強められなくてはならない、強い信仰者にならなくてはなりません。そのことをパウロは祈るのです。

 強い信仰者とはどういう人を言うのでしょう。どんな人を思い描きますか。パウロは二つのイメージを心に抱いて祈っています。その一つは植物です。植物が強くあるためには何が必要でしょう。根が深く地中に張っていることではありませんか。そのように、しっかりと根を張った植物のような信仰生活。パウロはこれを「愛に根ざし」と表現しています。

 もう一つは建物です。建物が強くあるためにはしっかりした土台が不可欠です。しっかりと土台の据えられた建物のような信仰生活。パウロはこれを「愛にしっかりと立つ」と表現しています。そこに用いられているのは(建物の)基礎を置くことを意味する言葉なのです。

 そのように愛に深く根を下ろし、愛という土台の上にしっかりと立っている人になるようにとパウロは祈り願います。強い信仰者であるとは、まさにそういうことでしょう。しかし、その前にこう書かれています。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ」。そうしますと「愛に根ざし」「愛にしっかりと立つ」というその愛とは「キリストの愛」であるということが分かります。

 「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださるように」。この「住む」という言葉は一時的に滞在することではなく、永住すること、定住することを意味する言葉です。いつも心の中にキリストがいてくださる。何をするにしても、何を語るにしても、いつも心の中にキリストがいてくださる。そうあってこそ、キリストの愛に根ざし、キリストの愛を土台とした生活が形づくられていくのでしょう。

 これが「内なる人が強められる」ということです。そして、パウロはただ「内なる人を強めてください」と言っているのではなく、「その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めてくださるように」と祈っているのです。それは神の豊かさから来るのであり、神の霊によるのであり、神の力によるのです。それは神のなせる業です。だからパウロは「そうなりなさい」と命じているのではなく、祈っているのです。それはエフェソの教会もまた共に祈るべき祈りなのです。

キリストの似姿にまで
 そして、さらにパウロはこう祈りを続けます。「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(18‐19節)。

 キリストがいつも心の中にいてくださる。そのキリストの愛に深く根を下ろすためには、またそのキリストの愛を土台として据えて生きるためには、その愛がどれほど大きな愛であるかを知っていく必要があるのでしょう。それをパウロは「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」と表現します。

 ただ単に「キリストの愛の大きさ」と言わずに「広さ」「長さ」「高さ」「深さ」と言い表すその言葉には、その愛の中に立った者の感動が込められているようにも思います。そこに立って見渡しても果てが見えない。前を向いても後ろを見ても果てが見えない。上を見ても下を見ても、果てが見えない。そんな思いが言い表されているのでしょう。

 それはまた、そのようなキリストの愛だからこそ、こんな自分もまたその中にいるという感動でもあるのでしょう。本当ならばキリストの愛の外に放り出されていても不思議ではない私なのに、それでもなお私はその中にいる。その驚きと感動です。それはさらに「人の知識をはるかに超えるこの愛」という表現にまで至るのです。人の知識を超えているのですから、それを知るとするならば、それは神の御業です。だから祈るのです。御父の御前にひざまずいて祈るのです。

 そして、その愛を知るだけでなく、彼が祈り求めるところはついにここに至ります。「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(19節)。キリストを信じる生活、新しく生まれた神の子どもとしての生活、「内なる人」の生活、私たちの信仰生活はついにここにまで至るのです。

 計り知れない愛の広さ。計り知れない愛の長さ。計り知れない愛の高さ、深さ。人の知識をはるかに超える愛。その愛そのものであるイエス・キリストが私たちの心の中に住んでくださる。一時的にではなく、いつでもいてくださる。その愛に深く根を下ろした生活。その愛を土台として建てあげられた生活。それはどのようなものとなるのでしょう。それはまさにキリストの似姿となるのでしょう。パウロは別の書簡でもこう言っています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。

 それこそまさに「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」という祈りの成就ではありませんか。それは主の霊の働きによることです。だから祈るのです。

 しかし、これはあまりにも現実離れした祈りではないでしょうか。パウロは本当にこのようなことを信じて祈っているのでしょうか。――そうです、信じて祈っているのです。彼は今、呼び求めている天の父をたたえてこう加えます。「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(20‐21節)。

 天の父はかなえることがおできになる。私たちが求めることを遙かに超えて。しかし、それは「わたしたちの内に働く御力によって」なのです。神が変えたいと思っておられるのは、わたしたちなのです。

 パウロの祈りの言葉を読んできました。変わらなくてはならないのは周りの人々であり、この世界だと考えている人にとっては、この祈りの言葉は大して意味を持たなかったに違いありません。しかし、変わらなくてはならないのは私だ、他ならぬ私だと思っている人にとっては、この祈りの言葉は大きな意味を持ったことでしょうし、この祈りをわが祈りとして祈り続けたに違いありません。そして、天の父はそのような私たちの祈りに対して、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方なのです。教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。

2016年9月4日日曜日

「キリストに倣いて」

2016年9月4
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ペトロの手紙Ⅰ 2章18節~25節

それは恵みなのです
 今日の礼拝では小アジアの諸教会に宛てて書かれたペトロの手紙が読まれました。今日の箇所では、「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」(18節)と勧められていました。

 「召し使いたち」というのは、一般家庭の下働きをしている奴隷たちです。当時のギリシャ・ローマ世界には六千万人もの奴隷がいたと言われます。その中には職人や教師や医師もおり、また家庭に仕える「召し使いたち」もいたのです。必ずしも今日私たちが「奴隷」という言葉からイメージするほど悲惨な生活をしていたわけではありません。 

 ですから、中には「善良で寛大な主人」のもとで幸福に暮らしていた奴隷たちもいたことでしょう。しかし、もう一方で「無慈悲な主人」のもとにいる奴隷たちも確かにいたに違いありません。そのような主人に仕えるならば、不当な扱いを受け、理不尽な苦しみを味わうことにもなるのでしょう。

 そのような辛い境遇にある人々もまた教会の中にはいることを重々承知の上で、ペトロはなおこう語りかけるのです。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」。

 ペトロがそのように勧めるのはどうしてでしょうか。彼はこう続けます。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」(19節)。これが理由です。

 どう思われますか。無慈悲な主人から受ける不当な苦しみを耐えることを神はお望みであると言います。だから苦痛を耐え忍ぶのだ。それが御心に適うことなのだ、と言うのです。ここを読んで何を感じましたか。どのような神の姿が思い描かれますか。

 これだけを読みますと、人間が苦しみを耐えているのを楽しんで眺めている、それこそ「無慈悲な主人」としての神様の姿を思い描く人がいるかもしれません。わたしはかつてここを読んだ時、そんな神様のイメージを抱いてしまったことがありました。

 しかし、ここは日本語にするのがいささか難しい箇所でもあるのです。19節の「御心に適うこと」と訳されている「カリス」という言葉は、様々に訳し得る言葉だからです。他の箇所では通常「恵み」と訳されます。ですから、ここには「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは《恵み》なのです」と書かれているのです。神様は意地悪をしているのではありません。そこで目にしているのは「恵み」なのです。「御心に適うこと」であるとは、そういうことなのです。しかし、不当な苦しみを耐えることがなぜ「恵み」なのでしょう。

 ペトロはこう続けます。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」(20節)。実は、ここにも「恵み」という言葉が出て来ます。「神の御心に適うことです」は「神の御前にある恵みです」とも訳せるのです。

 そのように、ペトロはただ単に「不当な苦しみを耐えること」が「恵み」だと言っているのではないのです。ペトロが思い描いているのは、ただ不当な苦しみを耐えている人の姿ではないのです。そうではなくて、ここに書かれているように、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶ」人の姿なのです。

 言い換えるならば、善を行っても苦しみを受けることが分かっているのに、耐え忍ばなくてはならないことが分かっているのに、それでもなおあえて善を行う方を選ぶ人の姿なのです。そこに現れているのは「恵み」だ。それは「神の御前にある恵み」だ。そうペトロは言っているのです。

 「神の恵み」。それはただ人に与えられてそこに留まるものではありません。人に与えられた恵みは、人を通って他者へと向かうものなのです。言い換えるならば、他者へと向かって現れる時に、与えられた恵みはこの世界に目に見えるものとなるのです。

 ここに恵みを与えられた人がいます。その人は無慈悲な主人に仕える人です。無慈悲な主人なのに、不当に扱うことしかしない主人なのに、それでもなお主人を愛して、心から主人を愛して、心から畏れ敬って、忠実に仕えようとする召し使いの姿がそこにあります。そこに現れているのは何か。神の恵みが形を取って現れているのです。まさに、憎しみと怒りの連鎖によってがんじがらめになっていることの世界に、この世界からではない天から来る恵み、神の恵みが形を取って現れているのです。

主の模範に従う
 そのために彼らは召されてキリスト者とされました。そのために私たちもまた召されてここにいるのです。「あなたがたが召されたのはこのためです」。そして、ペトロは召してくださった方を指し示すのです。「というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(21節)。

 イエス様が模範を残してくださいました。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(22節)。そう書かれています。ならば、本来苦しみを受ける理由はありませんでした。しかし、その御方はののしられました。苦しめられました。それは明らかに不当な苦しみでした。しかし、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(23節)。そのように主は不当な苦しみを耐え忍ばれました。その意味でイエス様は父なる神に裁きをゆだねて忍耐することの模範であったと言えます。

 しかし、イエス様は忍耐の模範である以上に、恵みの現れとしての模範でした。ペトロはこう続けるのです。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(24節)。

 イエス様が担ってくださったのは「わたしたちの罪」だったのだとペトロは言います。この24節はイザヤ書53章をもとにした当時の讃美歌であったろうと言われます。これを読んでいる人たちがこれまでに幾度となく歌ってきた歌かもしれません。そこに歌われているのは、繰り返し聞いてきた福音の言葉です。それを今、不当な苦しみを受けている人たちに、不当な苦しみを受けているからこそ、改めて語って思い起こさせるのです。「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」。そう、主が担ってくださったのは、他ならぬ「わたしたちの罪」でした、と。

 そのように、イエス様の受けた苦しみは私たちの罪のためだった。それは言い換えるならば、イエス様を不当に苦しめたのは私たちだった、ということです。あの方に傷を負わせたのは私たちだったということです。あの方を傷だらけにして十字架にかけたのは私たちだったということです。その私たちが負わせた傷に対して、あの方が私たちに返したのは――癒しでした。そのつもりであの方は傷を負われたのです。「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」とあるとおりです。そこに見るのは「恵み」です。天からの恵み以外の何ものでもありません。

 その御方のもとに今、あなたがたはいるのだとペトロは語ります。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(25節)。主の日の集まりにおいて、主の晩餐を共に食する集まりにおいて、この手紙は繰り返し読まれたに違いありません。

 主の裂かれた体、主の流された血をいただきながら、主が受けられた傷、そして与えられた癒しを思いつつ、この手紙の言葉を思い巡らしたことでしょう。恵みの現れそのものである御方と共にいる幸いを思いつつ、この手紙の言葉を一つ一つ受け取ったことでしょう。

 もはやさまよっている羊ではないのです。そうです、私たちもまた、主の食卓を囲みながら、この言葉を聞いているのです。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。

 その魂の牧者である御方が、今日もその足跡に続くようにと招いておられます。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍び、恵みの現れとなりなさい」と。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。

2016年8月28日日曜日

「御心にかなった祈り」

2016年8月28
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 5章13節~15節

永遠の命を得ている
 「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(13節)と書かれていました。ヨハネは既に神の子イエス・キリストを信じている人々に書いています。それは「永遠の命を得ていることを悟らせたいから」だと言います。キリストを信じていても、永遠の命を得ているとは考えていないことがあり得るからでしょう。

 かつてある金持ちの青年がイエス様のところにやって来て、こう尋ねたことがありました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)。明らかに彼が尋ねているのは来世の命についてです。来世の救いについてです。それを得るためには、今の世においてどんな善いことをしたらよいのかと尋ねているのです。

 しかし、ヨハネは言うのです。「あなたがたは既に永遠の命を得ているのだ」と。それはイエス様御自身も言っておられたことでした。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47)。そうです、既に得ているのです。そのことを悟らせるために「これらのことを書き送る」のだと言っているのです。

 「これらのことを書き送る」。それはこの手紙全体を指すと読むこともできますが、話の流れからすると、まずは直前に書かれていることを指しているのでしょう。そこには「神の証し」について書かれているのです。少し遡って9節を見ますとそこにはこう書かれております。「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです」(9節)。

 「わたしたちが人の証しを受け入れる」というのは一般的な話です。証しというのは事実についての証言です。何かを見た人が自分の見たことを語ったとき、それを聞いた人がたとえ自分は見ていないとしても、「そうだったのですね」と言って受け入れる。「人の証しを受け入れる」とはそういうことです。また、イスラエルの裁判では、二人または三人の証言によって事実が確定されるわけですが、実際に裁判官が事実を見ていなくても確定されるのです。そのように「人の証しを受け入れる」ということは身近なところでなされていることです。

 それと同じように、受け入れられるべき「神の証し」があるとヨハネは語ります。神が証言しておられて、それを私たちが信じて受け入れることを神は望んでおられる。それは「御子についてなさった証し」(10節)です。神が御子について証言しておられる。どのようなことを語っておられるのでしょう。11節にこうあります。「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです」(11節)。

 この部分は前後をひっくり返して見るとわかりやすいでしょう。神さまは御子について「この命(永遠の命)が御子の内にあるということ」を語っています。それは何のためか。要するに神は「わたしがその御子をあなたたちに与えたということは、御子の内にある永遠の命をあなたたちに与えたということなのですよ」と語っておられるのです。

 永遠の命が御子の内にあることを、神ははっきりとこの世界に向かって語られました。証言されました。どのようにでしょうか。御子イエス・キリストの御生涯、そして十字架による死と復活によってです。神はイエス・キリストという存在によって語っておられたのです。ここに永遠の命がある、と。イエス・キリストによって、この世界は確かに永遠の命を見せていただいたのです。

永遠の命とは
 神が語られた永遠の命、この世界がキリストにおいて見せていただいた永遠の命とはなんでしょう。それは永遠なる神との愛の交わりでした。それは父と子との交わりでした。この世界を愛して救おうとしておられる圧倒的な父なる神の愛。その愛に応えて、その愛に信頼して、自らの全てを捧げ尽くそうとしておられた御子の愛。その愛の交わりこそ永遠なのです。この世界はその御子の姿の中に「永遠の命」が何であるかを見せていただいたのです。

 そして、神はその父と子の交わりの中に、私たちをも招いてくださいました。イエス・キリストとは全く異なる姿で、神に背き続けてきた私たちをも、永遠なる神との交わりの中へと招いてくださったのです。どのようにして。神がどこまでも私たちを愛して、私たちの罪を赦すことによってです。

 この手紙の4章にはこのように書かれています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。そのようにして私たちにも永遠の命を差し出してくださったのです。

 その意味においても、御子の内には永遠の命がありました。私たちのための永遠の命がありました。罪の赦しと共に永遠の命がありました。そうです、そのように神は既に永遠の命を与えてくださっているのです。ならば、必要なのは私たちが受け取ることだけです。永遠の命は、人間が何らかの努力によって昇っていって獲得するものではありません。それは上から下に、既に与えられているのです。私たちは受け取るだけなのです。

 私たちは御子と共に永遠の命を受け取ります。永遠の命は御子の内にあるからです。私たちは御子と共に、罪を償ういけにえとしての御子と共に、永遠の命を受け取ります。「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」(12節)と書かれているとおりです。この部分は、以前の口語訳の方が直訳に近いのでそちらも挙げておきます。「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(12節口語訳)。

 そのように、御子を持つ者はいのちを持つのです。だからこそ、ヨハネは教会に対してこう書いているのです。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(13節)。

神の御心に適うことを願うなら
 さらに14節には次のように書かれています。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」(14節)。

 「永遠の命を持っていることを悟らせる」という話から祈りの話に飛ぶのはいささか唐突にも思えます。しかし、実はそうではありません。既に見てきたように、永遠の命とは永遠なる神との交わりに他ならないからです。
それは言い換えるならば神の子供たちとして生きることです。そして、神の子供たちとして生きている具体的な一つの姿は、大胆に父である神に近づいて祈る姿です。

 今、「大胆に」と申しましたが、実は14節にある「確信」という言葉は、「大胆に」という意味の言葉なのです。これはヘブライ人への手紙において「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:16)という呼びかけに用いられている言葉なのです。

 私たちははばかることなく大胆に父である神に近づいて祈ることができます。なぜなら御子が与えられているからです。罪を償ういけにえとなってくださった御子を持っているからです。だから神に近づくことができる。永遠の命を与えられているとはそういうことです。

 そのように神に近づいて捧げる祈りについて、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」と語られているのです。その姿を見せてくださったのは他ならぬイエス・キリストでした。福音書の中に見るキリストの祈りの姿に、私たちにも与えられている永遠の命が何であるかを見ることができます。

 例えば、ヨハネによる福音書11章に書かれている話です。イエス様は死んで葬られて四日目になるラザロの墓の前でこう祈りました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」(ヨハネ11:42‐43)。そう祈ってから、イエス様は墓に向かって叫びました。「ラザロ、出て来なさい」。

 このエピソードは、イエス・キリストを信じる者にとって、もはや問題は可能か不可能かではないことを示しています。永遠の命を得ているならば、可能か不可能かはもはや問題ではないのです。そうではなく、私たちが心を向けなくてはならないのは、神の御心に適っているか否かなのです。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」。

 これはまた、私たちがこの世にあって永遠の命を生きる上で大事なことは、神に《語ること》以上に《聞くこと》であることを示しています。何が御心に適うことかに耳を傾けること。そのようにして神の願いと私たちの願いが一つになること。御言葉を聞くことによって神の願いを私たちの内に宿していただくこと。先週朗読されたエフェソの信徒への手紙においてもパウロがこう言っていました。「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」(エフェソ5:17)。

 そのように御言葉に耳を傾け、神の御心と一つになって与えられた永遠の命を生きるなら、ヨハネと共にさらに大胆にこう続けることもできるのです。「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」。

2016年8月7日日曜日

「神のために力を合わせて働く者」

2016年8月7
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 3章1節~9節

パウロ派とアポロ派の争い
 「兄弟たち、わたしはあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました」(1節)。そのように、パウロはコリントの信徒たちに語りかけます。

 「肉の人」という言い方はずいぶん辛辣です。パウロは彼らがクリスチャンではないとは言いません。信仰の失格者だと言っているのでもありません。あくまでも「兄弟たち」と呼びかけているのです。そして、「キリストとの関係では乳飲み子である」と見ているのです。キリストとの関係を失っているわけではない。成長していないだけです。しかし、それでもなお「肉の人」とは辛辣な表現です。

 「肉の人」。この言葉からどんなキリスト者の姿を想像しますか。コリントは大都市です。それは退廃的な町としても知られていました。そのような町に誕生した教会は、当初から様々な問題を抱えていました。深刻な道徳的混乱もありました。そのようなコリントの信徒たちが「肉の人」と呼ばれています。ならば、それが堕落した世俗的クリスチャン、入信前の悪習慣から抜け出せないクリスチャンを意味したとしても不思議ではありません。

 しかし、パウロが真っ先に挙げているのは別のことでした。コリントの信徒たちを「肉の人」と呼んだ時、パウロが見ていたのは互いの間の「ねたみや争い」だったのです。「お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(3節)。

 そして、さらに具体的に指摘します。「ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか」(4節)。なんと分派を作って争っていたというのです。実は分派争いについては、この手紙の一章において既に言及されております。それがこの手紙を書いた一つの理由でもあったようです。

 さて、「パウロ派」と「アポロ派」の争いですが具体的なことは何も書かれていません。しかし、少なくともはっきりしていることはあります。もともとパウロとアポロの対立から生じたものではない、ということです。その意味では、どこかの企業の「社長派」と「会長派」の争いとは異なります。

 パウロは今日の箇所でも言っています。「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」(5節)。そして、9節では「わたしたちは神のために力を合わせて働く者」だと言っているのです。ですから、パウロとアポロが対立していたのでパウロにつく人とアポロにつく人が生じたというわけではありません。

異なるタイプの伝道者
 ならば、どうして「パウロにつく」「アポロにつく」という人々が起こってきたのか。そこで考えられることがもう一つあります。パウロとアポロは様々な点において際だって異なっていたのだろう、ということです。対立してもいない似たもの同士の二人ならば、「パウロにつく」「アポロにつく」という話は起こりようがありませんから。

 使徒言行録によりますと、コリントの町で最初にイエス・キリストの福音を伝えたのはパウロでした。使徒言行録18章にその様子が書かれております。コリントの教会は、パウロの開拓伝道によって生まれた教会でした。パウロは一年半そこに留まって伝道した後、コリントを後にしました。

 パウロが去った後にコリントを訪れたのがアポロでした。使徒言行録には「アポロはそこ(コリント)へ着くと、既に恵みによって信じていた人々を大いに助けた」(使徒18:27)と書かれています。そのようなことから、今日お読みした箇所でも「わたしは植え、アポロは水を注いだ」(6節)と書かれていたのです。

 さて、「植えた」方のパウロですが、もともと彼はガマリエルという高名な教師のもとでユダヤ教のラビとしての訓練を受けた、まさにユダヤ人の中のユダヤ人という人でした。それゆえに熱心な教会の迫害者でもありました。しかし、その彼が復活したキリストに出会い、劇的な回心をして伝道者となったのです。

 そのような人でありますから、キリストのためにまさに命がけで伝道してまわりました。その激しい熱情は使徒言行録からも書かれた手紙からも伝わってまいります。リストラという町では、石を投げつけられ半殺しにされて町の外に引きずり出されました。しかし、彼は起き上がってもう一度その町に入って行く。パウロとはそういう男でした。

 しかし、その一方で第二の手紙には「わたしのことを、『手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない』と言う者たちがいる」(2コリント10:10)とも書かれています。決して雄弁な人ではなかったようです。

 一方、「水を注いだ」アポロについては、使徒言行録において「アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家」(使徒18:24)と紹介されています。アレクサンドリア出身であることを書いているのは、それが彼の人となりの一端を示しているからでしょう。

 アレクサンドリアは当時ローマに次ぐ世界第2の大都市であり、また七十万巻にものぼる蔵書を有するアレクサンドリア図書館の存在に見るように、学問の一大中心地でもありました。そこから出てきたアポロは「雄弁家」であったと書かれていますが、その言葉は「学識ある人」という含みをも持っています。恐らくは、旧約聖書のみならずギリシア哲学にも精通した知識と言葉の人だったのでしょう。 

 そのように様々な点において異なる二人の教師について、ある人がパウロに惹かれ、ある人がアポロに惹かれたとしても、それは無理ないことかも知れません。しかし、それが互いに分派争いに発展してしまうなら、それは何かがおかしいと言わざるを得ません。

成長させてくださったのは神です
 何が問題なのでしょう。パウロは言うのです。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(6‐7節)。

 パウロがそう書かなくてはならなかったのは、明らかにコリントの教会では「大切なのは、植える者であり水を注ぐ者です」となっていたからでしょう。つまり、植える者、水を注ぐ者にしか目が向いていないのです。目に見える人間のことにしか思いが向いていない教会です。人間の能力、人間の行為、人間の生き様、優れた点、劣っている点、その人が何をしてくれたか、何をしてくれなかったか、云々。そのように人間に関することにしか思いが向かなくなっているならば、人間に関することが自分にとって絶対的に重要なこととなってくるでしょう。人間に関することで争いも起こります。「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロにつく」と。彼らの間の違いが絶対的に重要にもなってきますから。

 しかし、パウロは言うのです。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」。そうです、彼らがどのような者であれ、そこで神様がしてくださっていることがあるのです。神様がコリントの信徒たちに関わってくださっていたのです。

 細かいことですが、この「成長させてくださった」というのは原文では継続を意味する表現で書かれています。今もそのような御方として関わり続けていてくださるという意味合いです。ならば「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」と言い合って、ねたんだり争ったりしている間にも、神様は関わり続けていてくださっているのでしょう。「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」(9節)とはそういうことではありませんか。

 そのように神様がなさっていることがある。神の畑として実り豊かにしようとしていてくださるのです。神の建物として建てあげようとしていてくださるのです。それは完成へと向かう神の救いの御業です。本来ならば、とうの昔に裁かれて滅ぼされていても不思議ではないような者なのに、神は人を用いて植え、人を用いて水をやり、成長させようとしていてくださる。そこにあるのは神の恵みです。

 皆さん、教会に来て、教会生活を始めるならば、そこには植える人がおり、水をやる人がおり、あるいは様々な形でお互いに関わりあいながら生きていくことになります。その人間の姿はどうしたって目に入るし、気にもなるものでしょう。しかし、そこに見ているのはすべて「神のために力を合わせて働く者」なのです。

 大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。私たちの救いを誰よりも願い、そのために独り子をさえ惜しまず与えてくださった御方、そして、今もなお私たちの救いの完成のために尽力してくださっている御方がおられることを忘れてはなりません。その御方にこそ思いを向け、今日も心を合わせて祈りましょう。そこからこそ、大切な方を共に仰ぐお互いのあるべき関わり方もまた見えてくるのです。

2016年7月31日日曜日

「わたしたちは決して負けません」

2016年7月31
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 5章1節~5節

恵みによる二度目の誕生
 ある夜、ファリサイ派の議員であり教師でもあるニコデモという人がイエス様を訪ねてきたという話がヨハネによる福音書にあります。その時、イエス様は彼にこう言いました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。

 後に使徒ペトロが小アジア地方他の諸教会に宛てた手紙の中でこう書いています。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(1ペトロ1:23)。

 イエス様が言われたことが、教会において実現しています。「あなたがたは…新たに生まれたのです」とはそういうことです。そのように人は「新たに生まれる」ことができる。言い換えるならば、二度生まれることができる。聖書は確かにそう教えています。

 一度目の誕生は、通常の意味における誕生です。毎年「お誕生日おめでとう」を繰り返す、あの誕生のことです。私たちは必ず誰かを親として生まれてきます。誰かを親とする家族の中に生まれてきます。もちろん、実際にはその親が親としての役目を果たさず、家族が家族としての機能を果たさず、親も家族をも知らないで育つということはあり得ます。しかし、いずれにせよどのような形であれ、私たちは必ず誰かの子として生まれてくるのであるし、家族の中に生まれてくるのです。そのようにして私たちはこの人生をスタートする。これが一度目の誕生です。

 この誕生だけを経験して一つの人生を生き、一生を終える人もいます。しかし、聖書によるならば、人はもう一度誕生することができる。新しく生まれることができる。二度目の誕生。それは信仰による誕生です。信仰によってもう一つの人生がスタートします。一度目の誕生において、親の子供として生まれたように、二度目の誕生においては、「神の子供としてのわたし」が生まれます。一度目の誕生において、この世の家族の中に生まれたように、二度目の誕生においては、「神の家族の中にいるわたし」が生まれます。

 毎週私たちはイエス様がお教えくださった「主の祈り」を共に捧げております。あの「主の祈り」こそ、まさに新しい誕生に関わっている祈りです。つまり、私たちは神の子供として「天にまします我らの《父よ》」と祈りながら生き始めたのです。神の家族として「天にまします《我らの》父よ」と祈りながら生き始めたのです。そのように私たちは二度目の誕生によって始まるもう一つの人生を生きていくのです。それが信仰生活です。

 そのような二度目の誕生について、今日の聖書箇所でヨハネは次のように語っています。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」(1節)。ここでは二度目に生まれた人について、はっきりと「神から生まれた者」と表現されています。

 神から生まれたならば既に「神の子供」です。何もしていないうちから神の子供です。神の子供らしくなったから神の子供としてもらったのではありません。王の子供として生まれたら、何もしないうちから既に王子です。どら息子でも王子は王子です。王子らしくなったから王子になるのではありません。そのように神から生まれた者は既に神の子供です。「信じる人は皆」とありますでしょう。神の子供とされるのは、神との新しい関係が与えられるのは、ただ信仰により、神の恵みによるのです。

恵みに対する応答
 そのように神の一方的な恵みとして神から生まれ、神の子供としていただくとするならば、その神の恵みに私たちはどうお応えしたらよいのでしょう。

 「恵み」に対するふさわしい応答とは「愛」です。神を愛することです。ですから「生んでくださった方を愛する人は皆」と続くのです。そして、神を愛するならば、そこから必然的に生まれてくることがあります。もう一度1節の初めからお読みします。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します」(1‐2節)。

 ここに「掟」という言葉が出てきました。この直後にも「神を愛するとは、神の掟を守ることです」と語られています。神の掟については、今日の箇所の直前にもこう書かれています。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。

 「神の掟」という表現は実にいかめしく感じますが、しかし、それは神を愛することのごく自然な帰結であるとも言えるでしょう。私たちを生んでくださったお父さんは子供たちが愛し合って共に生きることを望んでおられるのです。そのお父さんの思いに応えて生きることこそ恵みに対するふさわしい応答なのしょう。

 「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」。自分が神から生まれた者、まことの親の子であることを意識して生活することは大切です。自分を見つめて「わたしはふさわしくない」とか「わたしは神の子供には見えない」とか言っているのではなく、生んでくださった方を見上げて「わたしは神から生まれた者です」と言ったら良いのです。

 そうすれば、隣の人も「神から生まれた者」であることが見えてくる。神が愛してやまない神の子供であることが見えてくる。父にとって大切この上ない父の子供であることが見えてくる。そうしてこそ、「生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」ということが起こってくるのです。

世に打ち勝つ信仰
 そのように、神から生まれて神との間が親子の絆で結ばれ、そして神から生まれたお互いが兄弟の絆で結ばれていく。それが私たちの信仰です。そして、このような信仰こそが世に打ち勝つ信仰なのだとヨハネは言うのです。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(4節)と。

 ヨハネは手紙にこの言葉を書き記したとき、一つの場面を思い起こしていたに違いありません。かつてイエス様の口からこの言葉を聞いたその情景がありありと思い起こされたことでしょう。それはイエス様がまさに捕らえられようとしていたその夜、弟子たちと食した最後の晩餐の席でのことでした。主は不安と恐れの中にある弟子たちに多くのことを語られた後、最後にこう言われたのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。

 「わたしは既に世に勝っている」。確かに主はそう言われた。その「世」とは何でしょう。神の愛を現されたイエス様が十字架につけられて殺されてしまうような世界のことです。愛の力よりも憎しみと怒りの力の方がはるかにまさって強力に支配しているように見えるこの世界のことです。命よりも死の方がはるかに強力に支配しているように見えるこの世界です。神様よりも悪魔の方がはるかに強力に支配しているように見えるこの世界のことです。そう、私たちもそのように見ている、この世界のことです。

 しかし、そこで主は言われたのです。「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。主は勝利宣言をされたのです。イエス様は負けない。世に負けない。絶対に負けない。その強さはどこから来ていたのでしょう。イエス様の強さはどこにあったのでしょう。イエス様御自身がはっきり語っておられます。「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」(ヨハネ16:32)。

 そうです、イエス様が見せてくださった本当の強さとは、どこまでも「父が、共にいてくださる」と言い得る強さだったのです。神の子としての強さだったのです。そして、その御方は私たちをも、同じ父との交わりの中に入れてくださったのです。私たちに二度目の誕生を与え、神の子供としての誕生を与え、神から生まれた者として、私たちもまた、「父が、共にいてくださる」と言い得るようにしてくださったのです。

 私たちは神から生まれた者です。私たちは、神の家族の中に新しく生まれたのです。私たちには、まことの父がいます。この世よりも大いなるまことの父がいます。私たちには、世に打ち勝った神の子イエスがいます。「勇気を出しなさい」と言ってくださる、いわば最強のお兄さんがいるのです。そして、私たちには、同じように弱さを抱えてはいますが、互いに愛し合って生きるようにと与えられている、他の子供たちがいるのです。共に父を仰ぐ兄弟がおり、姉妹がいるのです。

 だから、私たちは負けません。世に生きることがいかに過酷であったとしても、決して負けることはありません。私たちは負けて滅びる者ではなく、キリストの勝利にあずかって、完全な救いに至るのです。私たちは暗闇に引きずり込まれていくのではなく、光へと命へと向かって生きていくのです。いかなるものも神の子供たちを滅ぼすことはできません。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」。

2016年7月24日日曜日

「キリストの命を共に受けるために」

2016年7月24
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23節~29節

「主の晩餐」と呼ばれた食事
 私たちは毎週この礼拝堂に集まっています。では教会が誕生した頃、二千年前の教会はどのような場所に集まっていたのでしょうか。使徒言行録にこんな記述があります。「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(使徒言行録2:46‐47)。

 集まる場所は二つありました。一つはエルサレムの神殿です。もう一つは民家でした。神殿参りと家ごとの集会。これが信仰生活の柱でした。やがて神殿参りは失われていきました。神殿が遠ければ日々の神殿参りは不可能だったでしょうし、紀元70年には神殿そのものがローマ軍に破壊されて無くなってしまいましたから。ということで、残ったのは家ごとの集会でした。

 私たちは現在新会堂建築のために準備を進めていますが、教会堂建築の歴史を遡って行きますとたどり着くのはそのような「家の集会」です。教会堂の原型は「神殿」ではありません。人々が「集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた」その「家」こそが、教会堂の原型です。

 それゆえに二千年を経て私たちが集まっているこの場所も、神殿のような形にはなっていません。これは「家」だからです。ですから正面には祭壇があるのではなく、聖所も至聖所もなく、「聖餐卓」と呼ばれる食卓が置いてあるのです。そして、私たちが今日行っていることは、かつて人々が家ごとに集まって行っていたことと基本的には同じなのです。

 そこでは食事が行われていたと書かれていました。それはただ空腹を満たすための食事ではありませんでした。単なる楽しみのための会食でもありませんでした。それは特別な食事でした。それは後に「主の晩餐」と呼ばれるようになりました。キリストが宣べ伝えられ、エルサレムから遠いところに教会が誕生したとしても、そこでは必ず同じ特別な食事、「主の晩餐」が行われました。それはエルサレムから遠く離れたコリントに誕生した教会でも同じでした。その集まりにおいて「主の晩餐」が行われていました。

 コリントの人々に最初にイエス・キリストを伝えたのはパウロでした。当然のことながら、最初に救われた人たちに「主の晩餐」を行うことを教えたのもパウロでした。使徒言行録によりますとパウロの滞在期間は一年六ヶ月でした。パウロが去った後も「主の晩餐」は続けられました。

 そのようなコリントの教会に対し、しばらくの時を経てもう一度、パウロが「主の晩餐」について説明しています。なぜこの特別な食事が行われているかを思い起こさせているのです。それが今日の聖書箇所です。

 パウロはこの食事が単なる会食ではなく、主イエスに由来することを語ります。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(23節)。そうです、それは主が教会に手渡してくださったのです。そして、教会を通してパウロも主から受け取ったのでした。そのパウロがコリントの人々に手渡しました。そのようにして彼らもまた主から受け取ったのです。

 コリントの人たちは何を主から受け取ったのか。パウロはこう続けます。「すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました」(24‐25節)。

 そこに書かれているように、それはキリストを記念して行う食事した。しかし、それは故人を偲ぶための食事とは異なります。キリストは故人ではありませんから。復活して永遠に生きておられる御方です。その御方が「これは、あなたがたのためのわたしの体である」と言われるのです。それは特別な食事です。それはキリストの体を食べる食事なのです。

 それが何を意味するか、コリントの信徒たちはよく知っていたはずです。主がそのように言われたのは、イエス様が「引き渡される夜」でした。引き渡されて、主は十字架にかけられるのです。彼らのために、そして私たちのために、罪を贖うために、十字架の上にその体が釘付けられ、血が流されることを前提として、主は「これはわたしの体」「これはわたしの血」と語られたのです。私たちが罪を赦され、永遠の命にあずかるために、主は御自分の命を献げてくださったのです。そのキリストの体を受け、その血を受ける食事。それが「主の晩餐」です。

 その「主の晩餐」を食べるために彼らは集まります。目に見える形をもってキリストを一緒に食べるのです。それはお互いの関係においても決定的な意味を持つはずでしょう。キリストを食べるわたし。キリストを食べる隣の人。イエス様はわたしのために十字架で死なれた。イエス様はこの人のためにも十字架で死なれた。ならばもはや無関係ではあり得ません。キリストの命を共に受けるお互いです。そのような互いの関係を目に見える形で見せてくれているもの、それが「主の晩餐」という特別な食事なのです。

「自分自身の晩餐」ではなく
 パウロは「主の晩餐」がそのような食事であることを改めて語り、思い起こさせます。なぜなら、改めて思い起こさせなくてはならない事態が起こっていたからです。

 パウロはさらに彼らに語ります。「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(27‐29節)。

 そこでは「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする」ということが起こっていたのです。「主の体のことをわきまえずに飲み食いする」ということが起こっていたのです。それはいったいどういうことでしょうか。

 コリントの教会で何が起こっていたのか。今日の朗読箇所においては語られておりません。実はこの前に書かれているのです。例えば次のように書かれています。「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです。なぜなら、食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」(20‐21節)。

 これが当時のコリントの教会の姿です。その集会の様子です。これはひどい。これでは集まって食べても「主の晩餐」にはならないだろう。それは今日の私たちが聞いても思います。

 少なくともこのような事態は私たちの教会では起こりません。起こりようがありません。この教会においては、主の晩餐を普通の食事の形では行っていませんから。食べるのは小さなウエハースです。飲むのは小さな杯に入った葡萄ジュースです。礼拝の中で順番に前に出て受けることになっています。酔っ払いようもないし、食べられない人が出るということもありません。

 ならばパウロがここで言っていることは私たちに無関係なのか。それはよくよく考えてみる必要があります。いったいここで問題となっていることは何なのでしょう。注目すべきは21節の言葉です。「各自が勝手に自分の分を食べてしまい…」とパウロは言います。「自分の分」と書かれていますが、これはもともと「自分自身の晩餐」という言葉なのです。「主の晩餐」を食べるために集まっているはずなのですが、それが「主の晩餐」ではなく「自分自身の晩餐」になっていた、ということなのです。

 先に集まって来た人たちは、もちろんイエス様のことを全く考えないで飲み食いしていたわけではないでしょう。彼らはもちろん「主の晩餐」を食べているつもりでいたのです。彼らが早い時間に集まっていたのは、ある意味では熱心だったからであるに違いありません。そのような彼らが、早くから集まってくる他の熱心な人々と一緒に、少しでも早く主の晩餐を行おうとしたのは主を求める熱意の現れでもあったと言えるのです。

 しかし、それがどれほど熱心な敬虔な行為であったとしても、彼らが食していたのは「自分自身の晩餐」でしかないとパウロは言うのです。「自分自身の晩餐」でしかないから、後から来る人のことを考えられないのです。後から来るのは長く働かなくてはならない貧しい人たちでした。そのような他の人々のことなど視界に入らないのです。

 いや、むしろ視界に入らないほうが、「自分自身の晩餐」は楽しめるものなのでしょう。実際、先に集まった人たちは、社会的にも経済的にも似たような者たちと共に、信仰熱心な自分たちの集会を多いに楽しんでいたに違いありません。しかし、それはもはや「主の晩餐」ではない。それは「自分自身の晩餐」でしかありません。

 考えてみれば、そのようなことは今日でも起こり得るのでしょう。いくらパンの形を変えても、どんなに儀式的に行おうと、秩序正しく行ったとしても、あるいはそこに敬虔さや感動があったとしても、それが「主の晩餐」ではなくて「自分自身の晩餐」になってしまうことは起こり得るのでしょう。他人に煩わされないで、ともかく自分が満足したい礼拝、そのような聖餐。他の人のことを心にかけ思い遣ることのできない礼拝、そのような聖餐。それはもはや「主の晩餐」とは言えないのでしょう。

 私たちがいるこの場所は「家」です。食卓のある「家」です。集まって「主の晩餐」という特別な食事を行うための「家」です。そこでは本当の意味で私たちが「共にいる」ということが本質的な意味を持っているのです。

2016年7月17日日曜日

「もう互いに裁き合わないようにしよう」

2016年7月17
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 14章10節~23節

互いに裁き合わないようにしよう
 「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」(10節)。そのように語られていました。今日の説教題でもあります。

 「互いに裁き合わないようにしよう」と語られているのは、裁き合っている現実があるからです。自分を正しいものとし互いに他者を断罪するようなことが起こっているからです。ここで問題となっているのは、肉を食べない人と肉を食べる人の裁き合いです。つまらないことに思えますか。しかし、往々にして裁き合いはつまらないことを巡って起こります。

 肉を食べない人はなぜそうしていたのか。細かいことは分かりません。コリントの信徒への手紙を読みますと、偶像に供えられた肉を食べることを避けた人たちが出てきます。一般的に市場に出回っている食用の肉は、多くの場合一度異教の神々に捧げられたものであったという当時の事情がそこにあります。ローマの教会にも、知らずにそのような汚れた肉を食することがないように、むしろ肉食そのものを断った人々がいたのかもしれません。ともかく何らかの理由により、肉を食べることは正しくないことだという判断が働いていたのです。

 その一方で、それが偶像に供えられた肉であろうが何であろうが、肉を食べること自体何ら問題はないと考える人々もいたのです。パウロ自身もそう考えていたようです。それは決して汚れたものなどではない。彼はこう言っています。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」(14節)。

 そのようにパウロ自身は、肉を食べようが食べまいが、それはその人の自由だと考えていました。しかし、パウロはその自由を押しつけようとはしないのです。肉を食べる自由についての主張を展開してこの争いを解決しようとはしないのです。そうでなく、彼は言うのです。「もう互いに裁き合わないようにしよう」。

 それはどうしてか。最終的にそれぞれが神の裁きの座の前に立つことを知っているからです。「それなのに、なぜあなたは、自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ兄弟を侮るのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つのです」(10節)。そして、彼は言います。「それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」(12節)。

 最終的に私たちが神の御前で問われるのは、他の誰かのことではありません。私たち自身のことです。私たち自身がどう生きたかということです。今は他の人のことを語っていられるかも知れません。批判することも裁くことも断罪することもできるかもしれません。しかし、やがては自分自身についてしか語り得ない時が来るのです。

 そこで私たちは、正しい裁きをなされる方によって裁かれるべき者は、他ならぬ私たち自身であることを知ることになるでしょう。赦しと憐れみとを必要としているのは、他の誰かではなく、私たち自身であることを知ることになるのでしょう。そこで私たちは、他ならぬ私たちのために、死んでよみがえってくださった救い主を、裁きの座から仰ぎ望むことになるのです。

 今裁き合っている者たちであっても、その時には共に主の前に膝をかがめ、その舌をもって神を誉め讃えることになるのです。パウロはイザヤ書を引用してこう言いました。「こう書いてあります。『主は言われる。「わたしは生きている。すべてのひざはわたしの前にかがみ、すべての舌が神をほめたたえる」と』」(11節)。

 そのように、やがては神の裁きの座の前に立つ私たちなのです。だからパウロは言うのです。「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」。

自由を部分的に放棄して
 しかし、パウロが言いたいのは、消極的な意味においてただ「裁き合わないように」ということだけではありません。やがては他の人のことではなく自分のことについて申し述べることになるのだから、自分のことだけを考えていればよい、と言っているのではありません。彼はこう続けます。「むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」(13節)。

 「つまずきとなるもの」「妨げとなるもの」とは、信仰生活のつまずきとなるものや妨げとなるものです。それらを置かないようにということは、相手の信仰生活のことを考え、配慮しなさい、ということです。互いに裁き合うのではなく、むしろ相手の信仰生活のことについて配慮しなさい、と。考えてみると、裁き合っている時というのは、相手の信仰生活のことを思い遣って語っている時ではないでしょう。

 先ほども言いましたように、パウロ自身は何を食べようと自由だと考えていました。「それ自体で汚れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」と書いているとおりです。ですから、肉を食べる人たちの側に立って、肉を食べる自由を主張することもできたはずなのです。反対意見の人々に向かって語り、論駁することもできたのでしょう。


 しかし、パウロはここで、むしろ自分と同じように自由を主張する人たちに向けて語っているのです。相手の信仰生活のことを考えなさい、配慮しなさい、と。先ほど14節を引用しましたが、続いてパウロはこう言うのです。「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(15節)。

 強い者の側の論理に立つならばこうはなりません。もしわたしが肉を食べることで誰かが心を痛めるとしても、それは心を痛める側の問題だと言うことができるからです。もしわたしが肉を食べるのを見てつまずいて、信仰を失うようなことが仮にあったとしても、それはその人の側の問題だと言えるのです。なぜなら、わたしは間違ったことをしているわけじゃないから。肉を食べるか食べないかは私の自由ですから。それでつまずいたとしたら、つまずく方が悪いのです。

 そうです、そう言ったとしても、確かに間違いではないかもしれません。しかし、パウロは言うのです。「あなたはもはや愛に従って歩んでいません」と。そして、続く言葉が刺さります。「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」。そうです、この言葉が刺さります。わたしの心にも刺さります。わたしにとって、とても痛い言葉です。

 わたし自身この言葉を読むと、いろいろなことを思い起こすのです。わたしはどちらかというと知らず知らずの内に強い者の側に立ってものを言ってしまう人間です。「こうすることの何がいけませんか。」「これは当然のことでしょう。わたしは間違ったことは言っていませんよね。」若い時から、そう言いながら、多くの人を傷つけて生きてきたのだと思います。キリスト者となってからも、牧師になってからも、これまで多くの人の道につまずきや妨げを置いてきてしまったのだと思います。「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」という言葉の前に、わたしは自分自身の罪と向き合わざるを得ません。仮に正しいことを言っていたとしても愛に従って歩いていないことがいくらでもありましたから。

 「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」。――それは、いわばイエス様から「わたしが命をもってあがなったその人を、あなたは愛してくれるか」と問われているということでもあります。だから、正しい主張であるか否かではなく、愛に従って歩んでいるかどうかという話になるのです。それゆえに、パウロは言っていたのです。「むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」。

 これは「肉を食べることは自由だ」と考える人にとっては、あえて肉を食べないということを意味します。コリントの信徒への手紙においては、パウロ自身がこう言っています。「それだから、食物のことがわたしの兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、わたしは今後決して肉を口にしません」(1コリント8:13)。

 正しさだけを問題にする人にとっては、それは馬鹿げたことでしょう。しかし、パウロは愛に従って歩くために持っている自由を部分的に放棄するのです。そして、彼はそのことをローマの信徒たちにも求めているのです。自由を主張するならば、愛のゆえにその自由を部分的に放棄することができるほど自由であって欲しいということでもあるのでしょう。

 「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。」互いに裁き合うのではなく、裁き合ってきたお互いであるからこそ、裁き合う代わりに相手の信仰生活のことを考える。それぞれが自分の自由を部分的に放棄し、愛をもって配慮し合う。そのような交わりが形づくられるならば、それはまさに神の国を指し示すものとなるのです。

 今日の聖書箇所にもこのように書かれています。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(17節)。飲み食いの次元のことにこだわって、互いに裁き合って、本来与えられているはずの、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」を失ってはならないのです。その後で、パウロはさらにこう言っています。「食べ物のために神の働きを無にしてはなりません」(20節)。そのとおりだと思います。

2016年7月10日日曜日

「長く暗い夜が明けて」

2016年7月10
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 使徒言行録 27章33節~44節

暴風に巻き込まれた船
 パウロがエルサレムからローマに護送される途中、彼らは「良い港」と呼ばれるところに寄港しました。既に秋も深まり航海が危険な季節に入っています。そこでパウロは人々に忠告します。「皆さん、わたしの見るところでは、この航海は積み荷や船体ばかりでなく、わたしたち自身にも危険と多大の損失をもたらすことになります」(10節)。しかし、その港は冬を越すのに適していませんでした。結局、大多数の者の意見により、出航することになったのです。

 続く出来事は次のように書かれています。「ときに、南風が静かに吹いて来たので、人々は望みどおりに事が運ぶと考えて錨を上げ、クレタ島の岸に沿って進んだ」(13節)。順風です。順風が吹くと、人は「望みどおりに事が運ぶ」と考えます。しかし、往々にして事は望みどおりには運びません。「しかし、間もなく『エウラキロン』と呼ばれる暴風が、島の方から吹き下ろして来た」(14節)と書かれています。船は嵐に巻き込まれることとなりました。

 ひどい暴風に悩まされた人々は、翌日には積荷を海に捨て始め、三日目には船具をさえ投げ捨てるに至りました。そのままでは船が沈んでしまうと思ったからです。幾日もの間、太陽も星も見えず、暴風が激しく吹きすさぶので、ついに助かる望みは全く消え失せようとしていました。そのような中、人々を励まし支えたのは船長ではなく、同船していた百人隊長でもなく、一囚人であったパウロでした。

 そのような日が続き、暴風に巻き込まれ海上を漂流し十四日目となった真夜中ごろ、船員たちは船がどこかの陸地に近づいているように感じました。そこで水深を測ってみると20オルギィア(約37メートル)あることが分かりました。少し進んでまた測ってみると15オルギィア(約28メートル)となっています。船がかなりの速度で陸に近づいていることは明らかでした。しかし、暗礁に乗り上げてしまっては大変です。彼らは船尾から錨を四つ投げ込み、船が進むのを止め、夜の明けるのを待つことにしました。

長い夜を過ごして
 さて、先ほど読まれましたのは、そんな長く暗い夜が明けかけたころの船上の様子です。パウロは一同に食事をするように勧めます。「今日で十四日もの間、皆さんは不安のうちに全く何も食べずに、過ごしてきました。だから、どうぞ何か食べてください。生き延びるために必要だからです。あなたがたの頭から髪の毛一本もなくなることはありません」(33‐34節)。そして、パウロはパンを裂いて食べ始め、一同も元気付いて食事をしました。

 これだけ読みますと、助かる望みを失っていた人々の心に希望の光が差し込んできた。そんな場面に見えなくもありません。助かる望みを失っていた人々に、陸地が近づいていることが知らされました。そして待ちわびてきた夜明けが訪れました。やっと安心して食事をすることができた。人々が元気づいたのは自然のことのように思えるでしょう。

 しかし、注意深く読みますと、今日お読みしたのはそのような場面ではないのです。41節を見ると「船尾は激しい波で壊れだした」と書かれています。夜は明けたけれど、嵐が止んだわけではないのです。依然として激しい風が吹き荒れているのです。

 しかも、今日は読まれませんでしたが、今日の聖書箇所の直前にはこんなことが書かれているのです。「ところが、船員たちは船から逃げ出そうとし、船首から錨を降ろす振りをして小舟を海に降ろしたので、パウロは百人隊長と兵士たちに、『あの人たちが船にとどまっていなければ、あなたがたは助からない』と言った」(30‐31節)。船員が夜明けを待たずに船を捨てて逃げ出そうとしたというのです。何を意味しますか。船に残っていたら危ないということでしょう。

 航海のプロである船員たちは船がもはや朝までもたないと判断したのです。既に船の一部が破損しかかっていたのだと思います。実際、「船尾は激しい波で壊れだした」と書かれています。船尾は暗礁によって破壊されたのではないのです。波のために壊れだしたということは、既に壊れかかっていたということでしょう。そんな船に残っているよりは、逃げ出した方がよい。どんなに危険であっても、自殺行為であったとしても、夜中に小舟を出して逃げる方がまだ安全だと船員たちは考えたのです。

 そんな船の中で、彼らは長い夜を過ごしていたのです。激しい風と波に揺さぶられながら、いつ船が壊れるかと怯えながら、長い夜を過ごしたのです。そして、やっと夜が明けかけたとはいえ、依然として嵐の中にあることには変わらない。今日お読みした食事の場面は、そのような場面なのです。

嵐の中での食事
 そう考えますと、これはやっと安心できる状況になったから食事ができたということではないのです。希望が見えてきたから一同が元気づいたということでもないのです。彼らは不安と恐れをかかえているのです。ですからここに書かれていることは決して自然なことではありません。実に不思議な特別なことが起こっているのです。

 怯えながら長い夜を過ごした人々のただ中にパウロの声が響きます。「どうぞ何か食べてください」。食事どころではない危機的状況のただ中でパウロは「一緒に食事をしましょう」と言うのです。

 そして、パウロは一同の前でパンを取って神に感謝の祈りをささげてから、それを裂いて食べ始めました。それはユダヤ人が普通に食事をするときの所作です。しかし、そこで使われている言葉は、ある特別な食事を思い起こさせる言葉でもあります。この「パンを取り」「感謝の祈りをささげ」「(パンを)裂いた」という三つの言葉。それはイエス様が十字架にかけられる前に弟子たちとなされた最後の晩餐の場面に出て来る言葉なのです。

 パウロは、これまで幾度となく教会の兄弟姉妹と共に主の晩餐を祝い、パンを裂いてきたのです。そのように、ここでも同じようにパンを裂いて食べているのです。つまりパウロは、教会でいつも他の信仰者と一緒にしてきたことを、ここでも同じようにしているということです。パウロは教会においてキリストと共にあるように、この嵐の中の船においてもキリストと共にあるのです。人々はそこにただ囚人パウロを見ているのではありません。キリストと共にあるパウロを見ているのです。いや、パウロと共におられるキリストを見ているのです。そこで彼らもまた食事をします。パウロと共に、いや、パウロと共におられるキリストと共に食事をしているのです。だから「一同も元気づいて食事をした」と書かれているのです。それは特別なことなのです。

 それゆえに、この嵐の中で行われた食事は、キリストと共にあることがどういうことか、キリスト共にあって食卓を囲むということがどういうことかを指し示す出来事になりました。実際、そこに見るのは私たちの姿でもあるのでしょう。私たちが日曜日に集まって礼拝を行うこと、そこで聖餐にあずかるということは、こういうことではありませんか。

 私たちは嵐が吹き荒れるこの世界のただ中で聖餐という食事をするのです。時代が時代なら迫害という嵐の中で教会は食事をしてきたのでしょう。あの船の中の人たちがそうであったように、私たちも時には不安を抱えたまま、恐れを抱いたまま、ここに身を置くのでしょう。彼らがそうであったように、希望の見えないまま長い夜を過ごして、依然として希望の見えないままに、ここに身を置くこともあるのでしょう。

 しかし、そこで特別なことが起こるのです。今日お読みしたこの食事の場面には不思議な静けさと平安と希望が満ちています。まるで嵐が既に止んでしまったかのようです。現実には嵐の中で命の危険にさらされているにもかかわらず!しかし、そのようなことが起こるのです。彼らは、もはや嵐に支配されてはいないのです。風にも波にも支配されてはいないのです。夜の暗闇にも支配されてはいない。まことの主、キリストが共におられるからです。

 そこで行われるのは神の国の食事です。嵐よりも強く大きな神の支配の中で食事をするのです。だから、命の危険にさらされている人々であるにもかかわらず、「そこで、一同も元気づいて食事をした」と書かれているのです。そうです、私たちもまた、そのような主の食卓へと招かれているのです。日曜日の礼拝とは、そのような場所なのです。

2016年7月3日日曜日

「死から命へ」

2016年7月3
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 5章19節~30節

 38年病気で苦しんでいた人をイエス様は癒されました。それは安息日のことでした。それゆえにユダヤ人たちはイエス様を責めました。すると主は言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(17節)。こういうことをユダヤ人の社会で言えば、ただでは済まされません。今日の朗読箇所の直前にはずいぶん物騒なことが書かれています。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである」(18節)。

 今日お読みしたのは、そのような人々に語られたイエス様の言葉です。主はこう続けます。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」(19節)。

 このようなことを語れば火に油を注ぐことになります。しかし、イエス様は御自分の身を危険にさらすことになるのを百も承知で語られるのです。憎まれようが殺されようが、父がこの世に遣わされた子として語られるのです。なぜなら、これは永遠の救いと裁きに関わることだからです。そのような言葉として、私たちにも伝えられているのです。私たちはこの御言葉を、今この場で聞いて終わりにしてはなりません。自分自身に関わる言葉として、この一週間繰り返し思い起こし、じっくりとその意味するところに耳を傾けたいと思うのです。

父の業を行う御子
 「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。」これが父と子との関係だと主は言われます。

 神は目に見えません。私たちは見えない神について論じることはできますが、把握することはできません。神御自身についても、神のなさることについても、それは私たちの理解を超えています。それは当然です。神は創造主であり私たちは造られたものに過ぎないからです。

 しかし、ここに神を「わたしの父」と呼ばれる方がおられます。そして、「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」と言うのです。いわば、自分勝手にしていることは何一つないと断言しておられるのです。父がなさるとおりにしているのだ、と。

 それは何を意味していますか。イエス様がなさっていることはすべて、父である神がどのような方であるかを目に見える姿で表しているのだということです。神がどのような方かを知りたければ、わたしのしていることを見なさいと言っているのです。それゆえに、この福音書の第一章にこう書かれていたのです。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」(1:18)。

 先にも述べましたように、この直前には38年もの長きにわたって病んでいた人を主が癒されたという話が書かれています。「さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた」(5‐6節)。そして、その人は癒されました。大勢の中のたった一人に対してなさったことに過ぎません。しかし、この行為もまた神がどのような方であるかを表しているのです。「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」。福音書はイエス様の言葉だけでなく、その生きる姿を伝えます。子の姿に私たちは父を見るのです。

 そのように「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示される」。イエス様は示されたとおりになさいました。ベトザタの池における癒しの業などは、まさにそのような御業の一つでした。しかし、父なる神がイエス様にさせようとしていたのは、そのような癒しの業に留まりませんでした。イエス様はこのように言葉を続けられます。「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる」(20節)。

 イエス様が父なる神から示されて為されるもっと大きな御業があると言うのです。癒しの業はそのしるしであるに過ぎません。イエス様が託された大きな御業とは何でしょうか。21節以下に2つのことが書かれています。

 「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」(21節)。これが第一のことです。第二は次のように書かれています。「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」(22節)。

命を与える御子
 第一の御業、「命を与える」ということについては、さらにイエス様御自身が次のように語っておられます。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(24‐25節)。

 「死から命へ」。今日の説教題です。私たちが例外なく迎える肉体の死だけを考えているなら、このイエス様の言葉は分かりません。「死」とはなんでしょう。

 ある時にイエス様はこんなたとえ話をなさいました。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった」(ルカ15:11‐12)。下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ちます。ご存じ「放蕩息子のたとえ」です。しかし、本当の問題は息子が放蕩していたことではありません。父から離れていたことです。そして、父から離れていた息子が帰ってきたとき、迎えた父親はこう言うのです。「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(同23‐24節)。

 父から離れていた息子は「死んでいた」のです。そのように「死」とは神からの離反です。神によって造られた人間がその命の源である神から離れていることです。神との交わりの喪失です。ならば、体は生きているけれども霊的には死んでいるということがあり得るわけです。パウロもエフェソの信徒たちに宛てて次のように書いています。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(エフェソ2:1)。

 イエス様に癒された病人のように癒しを経験することは素晴らしいことではあります。しかし、癒された人もやがては死んでいくわけです。癒しは死を越えた命を与えるものではありません。イエス様は「命を与える」と言われました。それは永遠なる神との交わりによって与えられる命です。死によって失われない命です。永遠の命です。

 「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」そう主は言われました。

 神の子の声が響いています。今もなお響き渡っています。十字架にかけられ、死んで復活された神の子の声が響き渡っています。その声が死んだ者に届きます。罪の赦しを与え、父のもとへと招く、神の子の声が届きます。そして、その声を聞いた者は生きるのです。その声を聞いて、子を遣わされた父を信じる者は永遠の命を得るのです。その人は既に死から命へと移っているのです。体が生きようが死のうが、既に死から命へと移っているのです。

裁きを託されている御子
 「死から命へと移っている」ことについて、そこに「裁かれることなく」と言い添えられていました。なぜ、裁かれないのでしょうか。裁きは一切子であるキリストに任されているからです。主が第二の御業としてこう言っておられたとおりです。「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」。

 ある人が「人生はレストランのようなものだ」と言いました。好きなものを好きなだけ注文することができる。しかし、やがてレジを通らなくてはならない。私たちはどう生きようと自由である。しかし、生きたように支払わなくてはならない。――それは正しいとも言えるし、正しくないとも言えます。人生の終わりをレジに喩えるなら、それは正しくありません。人は必ずしも自分が生きたように、そのツケを払って死んでいくわけではありません。人生の終わりは必ずしも審判の時ではありません。

 しかし、正しい神がおられる限り、最終的な審判は当然あるのでしょう。それをイエス様は次のように表現しています。「善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ」(29節)。イエス様ははっきりと言っています。人は死んで無になるのではありません。私たちの人生がすべて死んでチャラになるわけではありません。イエス様は、最終的に人は命を受けるか裁きを受けるかのいずれかだと言われるのです。

 それは恐ろしいことではありませんか。「善を行った者は復活して命を受ける」とは私のことだと確信を持って言える人はよいのでしょう。少なくとも私は言えない。あなたはどうですか。しかし、そこでイエス様はこう言われるのです。「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」。

 裁きの一切を任せられた御子が父によってこの世界に遣わされました。そして、最終的に裁きを行う権能を託された方がこう言われるのです。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」と。

 私たちは最終的な審判に至る前に、既に審判者の声を聞いているのです。神の子の声を聞いているのです。赦しの言葉を与えられているのです。神と和解し、神との交わりに生きることができるのです。最終的に裁きを行う方が「裁かれることはない」と言われるならば、もはや誰も罪に定めることはできないのです。自分の罪を知る自分自身でさえ、自分を罪に定めることはできないのです。最後の審判を待つまでもなく、既に死から命に移っているとはそういうことです。

 この後聖餐を行います。死から命へと移された者として、共に感謝をもって命の祝いをいたしましょう。

2016年6月26日日曜日

「安心して生きていくためには」

2016年6月26
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 4章43節~54節

 人生の土台が大きく揺さぶられる時があります。今日の聖書箇所にはそのように揺さぶられた一人の人が出てきます。彼は「王の役人」であったと書かれています(46節)。そこで用いられているのは宮廷の高官を意味する言葉です。領主ヘロデ・アンティパスに直接仕えていた有力な高官のようです。彼が裕福であったことは、後に「僕たち」が彼を迎えに来ることからも分かります。しかし、その「王の役人」の人生が根底から揺さぶられることになりました。

 それが彼にとってどれほど大きな危機であったかは、カファルナウムから直線距離で30キロは離れているカナまで自ら旅をし、ユダヤ人当局からは危険視され始めていたイエスのもとに来て、見得もプライドもかなぐり捨てて、すがりつくようにして助けを求めたことからわかります。彼をそこまで揺るがしたのは子供の病気というたった一つの出来事でした。その時、地位であれ財産であれ、彼の持っているおよそすべてのものは彼を支え得ませんでした。

 実際、「王の役人」に限らず、人間がその土台としているものは何ともろいものかと思います。たった一つの病、たった一つの失敗、たった一つの事件、いやそれどころか、誰かが偶然発したたった一言の言葉によってさえ、揺さぶられ、もろくも崩れていくことが起こります。

 しかし、人生の土台が大きく揺らいだ時に、彼は救い主のもとに赴き、神との出会いを経験することになりました。「人間のピンチは神のチャンスである」と言われます。揺らいだ時こそ、揺るぎない御方に出会うチャンスでもあるのです。

しるしを見て信じた人々
 この出会いが起こった背景をまず見ておきましょう。「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた」(43節)と書かれていました。イエス様は故郷のガリラヤへと向かっていました。ユダヤを去ってガリラヤへと向かわれた理由については、この章の初めに次のように書かれていました。「さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、…ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」(1、3節)。そのように、もともとガリラヤへと向かわれた一つの理由は、ファリサイ派の人々との不要な衝突を避けたかったことにありました。

 しかし、それだけではありません。イエス様が向かったガリラヤについて、先の言葉の続きはこうなっています。「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある」(44節)。翻訳では分からないのですが、実は文頭に「なぜなら」という言葉があるのです。それが理由だというのです。つまりイエス様は御自分が敬われないであろうことを予期しながら、それだからこそあえて故郷に行かれたということなのです。

 それはなぜなのか。――イエス様が王の役人に語った言葉から見えてくることがあります。主は言われました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)。このようなことが語られるということは、もう一方において、《しるしや不思議な業を見たから》信じた人が少なからずいたということを意味します。

 実は既に2章にこう書かれているのです。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」(2:23)。多くの人がイエス様を信じたのです。それは喜ばしいことではないでしょうか。しかし、聖書はこう続けるのです。「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それはすべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(同24‐25節)。

 イエス様のなさるしるし、不思議な業、奇跡を見て信じた人たちがいた。具体的には病気の癒しなどでしょう。それが「しるし」と呼ばれているのは、それが指し示しているものがあるからです。神がイエス・キリストを遣わされたこと。神がイエス・キリストを通して語っておられること。神がイエス・キリストを通して御自分との交わりへと招いてくださっていること。イエス・キリストによって永遠の命を与えようとしておられること。それは神の救いを指し示す「しるし」でした。

 しかし、しるしを見て信じた人々の心の内に何があるかをイエス様はご存じだったというのです。「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」。すなわち、人々が求めているのは奇跡なのであって神ではないこと。奇跡を起こすイエス様の力を求めているのであって、イエス様を遣わされた父なる神ではないこと。救いをもたらす神の言葉ではないこと。

 ある人々は病気を癒すイエスの力を求めてきました。ある人々は彼らを政治的にローマの支配から解放してくれるイエスの力を求めてきました。後にイエスを王にしようとする人たちまで出てきます。だから彼らが求めているものが与えられなければ、期待どおりにならなければ、やがては「十字架につけよ」と叫び出すことにもなるのです。人間の心の内にあるものをイエス様はご存じでした。

 だからこそ、そのような人間的な歓迎と熱狂が拡大することを避けて、むしろ歓迎を期待できない故郷へと向かったのです。むしろ歓迎されないことの方がはるかに望ましかったということです。

 しかし、予想に反して、ガリラヤの人々はイエスを歓迎しました。なぜか。こう書かれています。「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」(45節)。

 残念ながら、ここにもしるしを見て信じた人々がたくさんいたのです。そして、イエス様のしるしと奇跡を期待して待っていたのです。これが本日の聖書箇所が記している場面であり、その背景です。そこにおいて、先ほど申し上げました宮廷の高官とイエス様との出会いが起こったのです。

御言葉を信じて帰って行った
 47節からお読みします。「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた」(47‐48節)。

 この人は必死でした。しかし、イエス様のもとに来たその心の内にあったものは、基本的にはユダヤにおいて「しるしを見て信じた」人々となんら変わるものではありませんでした。彼はイエス様が病気を癒してくださる方だということを聞いたのでしょう。だから、その癒しの力が必要だと思った。病気である彼の息子にその癒しの奇跡が必要だと思ったのです。

 確かに彼の息子には癒しが必要なのでしょう。しかし、彼は重大なことを見落としていました。それは、救いを必要としているのは自分自身なのだ、という事実です。人生が根底から揺さぶられているのは彼自身なのです。たった一つの出来事で容易に崩れてしまうような人生の土台しか持っていないことを突きつけられているのは彼自身なのです。死を越えた真の拠り所がないままに生きてきたのは彼自身なのです。本当に必要なのは、目の前の個々の問題の解決ではなくて、神御自身なのだということに彼は気づいていないのです。

 そう、この役人は気付いていません。だから、イエス様が「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と問題を指摘しても、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と願うのです。彼はなおもイエスの持っている癒しの力を息子のために求めます。そのような父親にイエス様はそのようなこう言われたのでした。

 「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(50節)。イエス様はその父親に信じることを求めたのでした。イエス様の御言葉を信じることを求めたのです。御言葉を信じるということは、イエス様御自身を信じるということでもあります。それはイエス様を父なる神から遣わされた御方として信じることでもあります。それは遣わしてくださった父を信じることでもあります。そのように先の見えない現実について、神とキリストとその御言葉に全幅の信頼を置くことです。

 そして、イエス様は信じたように行動することを求めました。信じたのなら、そこから立ち上がって実際に一歩を踏み出さねばなりません。主は言われます。「帰りなさい」と。「あなたの息子は生きる」と言われる主を信じるなら、彼は立ち上がって、カファルナウムに向かって一歩を踏み出さなくてはならないのです。

 彼はそうしました。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(50節)とあります。そして、奇跡が起こりました。息子は癒されました。そうです、奇跡は起こります。しかしそれは、ただ奇跡を求め、癒しをもたらす力を求めてそれを得たからではありませんでした。信頼すべき御方とその御言葉に信頼して生きたときに、奇跡は賜物として与えられたのです。

 だから、奇跡が起こり、癒しが起こって、「ああ、よかった」で終わりませんでした。ただ次なる奇跡や癒しを求めるようになったのでもありませんでした。そうではなく、この出来事はまさに「しるし」となったのです。神がイエス・キリストを遣わされたこと。神がイエス・キリストを通して語っておられること。神がイエス・キリストを通して御自分との信頼に満ちた交わりへと招いてくださっていること。イエス・キリストによって永遠の命を与えようとしておられること。それは神の救いを指し示す「しるし」となりました。

 そして、「彼もその家族もこぞって信じた」と書かれています。イエス様は「あなたの息子は生きる」と言いましたが、今や、家族すべてが「生きる」ものとなりました。そう、本当の意味で生きたのは息子だけではありませんでした。なぜなら、後に主がこう言っておられるからです。「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(17:3)。あの父親も家族も命にあずかることとなりました。

2016年6月5日日曜日

「喜びに満ちた生活を妨げるもの」

2016年6月5日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 3章22節~36節

競争相手か友だちか
 「だから、わたしは喜びで満たされている」(29節)。今日の福音書朗読にありました洗礼者ヨハネの言葉です。ここに喜びで満たされている人がいます。しかし、その周りには同じ立場にあり、同じものを見、同じことを聞いているのに、明らかに喜びで満たされてはいない人々もいます。ヨハネの弟子たちです。では彼らは何で満たされているのでしょう。それは「妬み」です。

 「喜びに満ちた生活を妨げるもの」という説教題をつけました。「喜びに満ちた生活を妨げるもの」、それは何かと問うならば、ありとあらゆる答えが返ってくることでしょう。しかし、今日考えたいのは人間の「妬み」についてです。喜びと妬みが同時に人を満たすことはあり得ません。妬みが満ちるなら喜びは出て行きます。

 妬みが生じるのは相手を競争相手と見なすときです。優劣を問題にするときです。大きいか小さいか、上か下か、先か後かを問題にするときです。ヨハネの弟子たちにとって、イエスとその弟子たちはまさにそのような存在だったようです。そのような存在となってしまった、と言ってよいかもしれません。

 その頃、洗礼者ヨハネはヨルダン川沿いのアイノンで洗礼を授けていました。まだヨハネが投獄される前のことでした。ちょうど同じ頃、イエス様は弟子たちとユダヤ地方に行き、そこに滞在して人々に洗礼を授けておられました。そんなある日、ヨハネの弟子たちとあるユダヤ人の間で、清めのことで論争が起こります。その後に書かれているヨハネの弟子たちの反応から察するに、それは洗礼についての論争だったと思われます。

 恐らくは、そのユダヤ人が「みんなあのイエスの方に行っているようだが、あのイエスの洗礼とヨハネの洗礼とどちらの方が人を清めることができるだろうか」とでも言ったのでしょう。ヨハネの弟子たちはすぐにヨハネのところに行ってこう訴えます。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行ってしまいます」(26節)。

 イエスの一行と自分たちの比較。競争意識。それはそのユダヤ人との論争によって俄に生じたわけではないでしょう。それは初めからのことであったに違いないのです。

 この福音書の一章には、ヨハネの弟子であった二人がイエスの後についていったエピソードが記されています。一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレです。もう一人は名前が書かれていません。いずれにせよ、そのようにヨハネの弟子からイエスの弟子になった者は彼らだけではなかったに違いありません。今日の箇所に出て来るヨハネの弟子たちの中核は、いわばヨハネのもとにあえて残った人々です。

 そのような人たちがこちらのラビと向こうのラビを比較し、弟子の群れとしての優劣を問題にしたことは自然な成り行きだったと思われます。そのような中で、「みんながあの人の方へ行ってしまいます」という事態が起こった。当然妬みが生じ、妬みが彼らを満たします。彼らの心情はよく分かります。

 しかし、イエスとその弟子たちは本当に争わなくてはならない相手なのでしょうか。本当に競争相手なのでしょうか。どちらが優れているか、どちらが上であるか、どちらが前であるかを問題にしなくてはならない相手なのでしょうか。これはヨハネとイエス、ヨハネの弟子たちとイエスの弟子たちの間の話ですが、本当に争わなくてはならない相手なのかという問いは、私たちにとってもしばしば大事な問いなのだと思います。本当にそうなのか。喜びを失ってでもその競争に留まる必要はあるのか。

 「そうじゃないだろう」とヨハネは言っているのです。それがここに書かれていることです。彼は答えて言うのです。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる(27‐28節)。

 「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない」とは言い換えるならば、「受けているものは天から与えられたのだ」ということです。そうです、確かに人には天から与えられているものと与えられていないものがある。ある人に与えられているものが、ある人には与えられていないのです。ですから神様のなさることは時としてはなはだ不公平に見えます。しかし、不公平に見えようがどう見えようが、大切なことは、与えられているものをしっかりと受け止めることなのでしょう。

 「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない」。それは具体的にヨハネにとっては「自分はメシアではない」ということであり、「自分はあの方の前に遣わされた者だ」ということでした。ヨハネにとっては、それが天から与えられていないものであり、また与えられているものでした。

 ヨハネは「あの方の前に遣わされた者だ」という現実、キリストの先駆者とされているという現実を受けとめたのです。それが天から与えられたものだからです。先駆者はやがて必要なくなるのです。しかし、その現実を受けとめたのです。だからこそ百パーセント先駆者として生き得たのです。

 そのことをヨハネは花婿と介添え人を例として語ります。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」(29節)。介添え人が花婿を競争相手と見なすなら、花嫁を迎えることができる花婿に対して妬みが生まれます。しかし、そんな馬鹿なことは普通起こりません。この「介添え人」と訳されている言葉は「友だち」という言葉なのです。彼は競争相手ではないのです。自分は彼の友なのです。友として自分の役割を果たすのです。そこにこそ真の喜びがあるのです。花婿が喜びの声を上げて花嫁を迎えるなら、友として務めを果たした自分もまた喜びに満たされる。ヨハネはその喜びに満たされているのです。

絶対的なことと相対的なこと
 そのように語るヨハネはいったい何を見ていたのでしょう。ヨハネはその大きな喜びをもって言います。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(30節)。「ねばならない」とは、神の御心によって定められているという意味です。神によってそうなることになっている。ヨハネは喜びに満たされてそう語ります。そして、31節から再びキリストについて語り始めるのです。ヨハネによる福音書においては、これを最後に表舞台から姿を消します。実際にはこの後に投獄され、首をはねられてその生涯を終えることになるのです。その意味でここに書かれているのはヨハネの最後のキリスト証言とも言えます。ヨハネが何を見、何を証言していたかに耳を傾けてみましょう。

 ヨハネはイエス様を「上から来られる方」、「天から来られる方」、「神がお遣わしになった方」として語り、「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」と語ります。あのイエスという方が単なるこの世の思想家のひとりであるならば、その人を信じようと信じまいと大したことはありません。どんなに偉大な教師であっても、ヨハネが言うように「地から出る者は地に属し、地に属する者として語る」に過ぎないのです。しかし、イエスはそのような存在ではないのだ、とヨハネは言っているのです。彼は天から来られた方であり、神から遣わされ、神を語り、神の言葉を語るのです。そのような方が来られた。そのようにヨハネが見ていたのは、およそこの世の比較や競争が入り込む余地のない出来事なのです。

 ですから、今日お読みした箇所の最後にもこのようなことが書かれていました。「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」(35‐36節)。ここで全く対照的な二つの言葉がでてきます。「永遠の命を得る」という言葉と「神の怒りがとどまる」という言葉です。

 「永遠の命を得る」とは、「救いを得る」と言い換えてもよいですし、「永遠なる神との交わりを得る」と言い換えてもよいでしょう。要するに、そこに語られているのは神との関係の話です。神に背いて生きてきた人が、神によって赦していただいて、神との交わりに生きるようになるのか。それとも、神に背いて生きてきた人の上に、神の怒りが留まるのか。これは180度異なる神との関わりです。

 人間にとって決定的に重要なことは、神との関係がどうなっているのか、ということなのでしょう。私たちにイエス・キリストが伝えられているということは、この最大の問いの前に立たされているということでもあるのです。私たちと神との関係はどうなっているのか。神に背いてきた私たちは本当に赦されるのか。神に顔を上げて、平安の内に神との交わりの中に生きることができるのか。それとも神の怒りがとどまるのか。そして、その問いの前に立つ私たちに対して、「御子を信じる者は永遠の命を得ている」と語られているのです。

 御子を信じる者として私たちはここに集められ、御子を信じる教会として今私たちは礼拝を捧げているのです。罪を赦され、永遠の命を与えられ、永遠なる御方をほめたたえ、永遠なる神との交わりの中に生かされているのです。

 そのように既に決定的に重要なことが起こっていることに目を向ける時、重要でないものが重要でないものとして認識されるようになるのです。比較や競争が問題になる相対的な事柄とそうでない絶対的な事柄がはっきりと分かれるのです。天との関わりにおいて決定的に重要なことが起こっていることを知っていたヨハネは、さらりと言ってのけているではありませんか。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」と。

 永遠の命を得ているとは、神との交わりが与えられているとは、いわば天そのものが与えられているということです。天そのものが与えられているならば、この地上において天から何かが与えられていないことは少なくとも最も重要なことではありません。与えられているものをしっかり受け止めて、与えられている役割を見出してしっかり果たしたらそれでよいのです。天から与えられたのが介添え人の役割なら、花婿と競うことも争うことも必要ありません。妬む必要もありません。妬みに喜びを締め出させてはなりません。「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」。

2016年5月29日日曜日

「信仰はキリストの言葉を聞くところから始まります」

2016年5月29日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ローマの信徒への手紙 10章10節~17節

主の名を呼び求める者はだれでも救われる
 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(13節)と書かれていました。旧約聖書のヨエル書3章5節の引用です。これをイエス・キリストについての預言として引用しているのです。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」。

 「だれでも」です。実際、その直前には「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく」と書かれています。私たちにはピンときませんが、当時の人にとっては驚くべき言葉です。ユダヤ人とギリシア人は、いわば異なる者の代表だったからです。幼い時から聖書を学び、宗教的な戒律を守って生きてきたユダヤ人にとって、神の律法を知らないギリシア人と一緒にされるのは耐え難いことだったでしょう。それはギリシア人にとっても同じです。自分たちを選民と見なし、他の民族をすべて汚れた民として見なす不愉快極まりないユダヤ人たちと一緒にされたいとは思わないでしょう。

 しかし、パウロは「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく」と言ってしまうのです。なぜか。神の目には変わらないからです。神の御前においては同じだということです。それは「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、同じ人間ではないか」ということでありません。ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、神の前においては同じ罪人である、ということです。既に最初の1章と2章において論じられ、まとめが次のように書かれていました。「ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです」(3:9)。言い換えるならば、どちらも救われるにふさわしくないということです。

 私たちはそれぞれ違います。その違いのゆえにしばしば対立し、裁き合います。異なるお互いが上下を争います。しかし、聖書は言うのです。すべての人間は神の御前に平等だと。それは人間だから平等なのではありません。神の前に正しいとされる人間はいないという意味において平等なのです。救われるにふさわしくないという点において、すべての人間は平等なのです。

 しかし、そのような私たちだからこそ、「すべての人に同じ主がおられ」と書かれているのです。その「主」とは、イエス・キリストです。すべての人の罪を代わりに負って、すべての人のために十字架におかかりくださったイエス・キリストです。そのようにすべての人のために苦しみを受けてくださった御方です。それゆえに「御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになる」と書かれているのです。

 その方の前ではユダヤ人もギリシア人もありません。私たちのお互いの違いも関係ありません。その人が何者であるかは関係ありません。どこに生まれ、どのように育ってきたかは関係ありません。過去に何をしてきた人であるか、関係ありません。「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

宣べ伝える人がなければ
 しかし、そこでパウロはこのように続けます。「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」(14‐15節)。

 ここで語られていることは、至極もっともなことでしょう。人がイエス・キリストを呼び求めるとするならば、それはイエス・キリストを信じるからこそ呼び求めるのでしょう。ならば、その信仰はどのようにして生じるのか。「聞いたことのない方を、どうして信じられよう」とパウロは言います。信仰は聞くことから始まるのです。17節にも「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」と書かれています。今日の説教題はここから取りました。

 「信仰は聞くことによって始まる」。これも至って当然のことのように思えます。キリストについて全く聞いたことがなかったら、キリストを信じることは不可能です。キリストを信じるためには、少なくともキリストについての情報を与えられなくてはなりません。

 しかし、「宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう」と書かれているのは、そのようなキリストについての情報を与えることを言っているのでしょうか。するとその後に書かれていることはどういうことでしょう。「遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう」。キリストについての情報を与えることならば、別に遣わされなくてもできるでしょう。知っていれば、教えることはできるのですから。そうしますと、どうもここで「宣べ伝える」というのは、単に“キリストについて”語るということでなく、「聞く」というのも、単に“キリストについて”聞くことではなさそうです。

 ならば「宣べ伝える」とはどういうことなのか。「宣べ伝える」とは遣わされた者として語ることなのです。その背後に遣わしてくださった方がおられるのです。遣わすのは救うためです。救いたいからです。救いたいと思っておられる方が背後におられるのです。自らが十字架にかかってでも、なんとしてでも救いたいと思っておられる方が背後におられるのです。それほどに愛してくださっている方が背後におられるのです。その御方の思いを伝えるのです。その方に代わって語るのです。「宣べ伝える」とはそういうことです。それが教会のしてきたことであり、教会が今もしていることなのです。だから宣教の言葉は「キリストの言葉」と呼ばれているのです。教会が語っている、人間が語っている。確かにそうです。しかし、本当はキリストが語っておられるのです。

 ここにいる私たちも人間の宣教を通してキリストを知ったのでしょう。誰かが語ってくれたからキリストを知ったのでしょう。しかし、本当は語っておられたのはキリストなのです。救おうとしていてくださったのはキリストなのです。愛してくださっていたのはキリストなのです。

 ならば、「聞く」ということも、そのようなキリストの語りかけに耳を傾けることに他なりません。「キリストの言葉」を聞くのです。実際に語っているのは、例えば礼拝においては「牧師」なのかもしれません。しかし、牧師の言葉を聞くのではないのです。牧師の話が良かった、良くなかった、で終わらせてはならないのです。背後には遣わしてくださった方がおられるのです。救おうとしておられるのはキリストなのです。愛してくださっているのはキリストなのです。その「キリストの言葉」を聞くのです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。

信仰は聞くことによる
 「信仰は聞くことによる」。これは実に奥深い言葉です。信仰の本質に関わる言葉です。私たちが真に信仰に生きようと思うなら、主の御名を呼ぶ者として生きようと思うならば、聞くことを大切にしなくてはなりません。

 聞くことを大切にしないとどうなるのか。信仰とは言いながら、いくらでも人間が中心の営みになっていきます。信じるも信じないも私次第。捨てるも捨てないも私次第。先に自分の考えていることがあって、それに適合するならば受け容れましょうと言う。先に望んでいることがあって、それに役立つことであるならば信じましょうと言う。あくまでもこちらは自分の持っている基準に従って正しいか正しくないかを語る側、良いか良くないかを語る側。しかし、それは信仰と呼べるのでしょうか。

 少なくとも、それはパウロがここで言っている信仰とは別物です。それは人間が持つこともできるし捨てることもできる一宗教としてのキリスト教でしかありません。仮にそうやってキリストを信じたとしても、受け容れたとしても、他の何かが自分の判断基準に適合しさえすれば「なにも特にキリストでなくてもいいのです」ということにもなるのでしょう。

 キリスト教という宗教の話なら、別にそれでも良いと思います。しかし、ここで語られているのは全く異なることなのです。復活して天に挙げられたキリストが人を遣わされるのです。キリストが人を遣わして宣べ伝えさせ、キリストが語られるのです。人がそのキリストの言葉に耳を傾けるときに、人はキリストの言葉によって光のもとに引き出されるのです。キリストの言葉によって揺り動かされるのです。キリストの言葉によって打ち砕かれのです。へりくだらされるのです。滅びるしかない自分であることを見いだすのです。そこにおいて、救いに値しない自分自身をただキリストの恵みにゆだねるということもまた起こるのです。そのようにして、人はキリストを呼び求めて生きる者となるのです。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。

 ここに私たちが御言葉を聞くことを大切にする理由があります。御言葉を聞き続ける理由があります。主は福音を語り続けていてくださる。私たちのために十字架にまでおかかりくださった方が、私たちの救いのために語り続けていてくださる喜ばしい知らせがそこにあります。

 そして、そこにはまた聞き続ける理由だけでなく、語り続ける理由もあるのです。教会は遣わされた者として宣べ伝え続ける。なぜか。キリストが今なお救いのために語り続けておられるからです。

 「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」。パウロはこの言葉を、ある痛みをもって書いています。というのも、彼の同胞であるユダヤ人たちの多くがいまだイエスをキリストとして受け入れてはいなかったからです。彼らの多くはまだイエス・キリストを呼び求めていないのです。

 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」。そうです、「だれでも」です。しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができるでしょう。そうです、宣べ伝える人がなければ、宣べ伝える教会がなければ、どうして聞くことができるでしょう。そのために自分が遣わされていることをパウロはよく知っていました。私たちもまた知っています。キリストは私たちをこの世に遣わしてくださっています。キリストの言葉がまだ聞かれていない多くの人々のただ中に、私たちは遣わされているのです。

2016年5月1日日曜日

「勇気を出しなさい」

2016年5月1日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 16章33節

あなたがたには世で苦難がある
 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)。

 これは最後の晩餐におけるイエス様の言葉です。ヨハネによる福音書には、最後の晩餐におけるイエス様の長い説話が記されていまして、この言葉はその全体の締めくくりに当たります。この後、17章において主は祈りを捧げ、18章においてゲッセマネの園へと向かわれるのです。

 そこで何が起こるのか、主は既にご存じでした。ユダが兵士たちを引き連れてやってくるのです。イエス様を捕らえるためです。そして、イエス様は不当な裁きにかけられます。つばきをかけられ、あざけられ、鞭打たれ、十字架にかけられて殺されることになるのです。主は度々御自身の受難について予告してこられました。主は何が起こるか、なにもかもご存じでした。しかし、イエス様は最後の晩餐における話の最後において、もはや御自分の受ける苦難については語られません。そうではなく、弟子たちの受ける苦難を思って語られるのです。「あなたがたには世で苦難がある」と。

 弟子たちの受ける苦難についても、主は既に弟子たちに語っておられました。「人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう」(15:20)と。しかし、主はその手前において起こるであろうことをもご存じでした。苦難は迫害から始まるのではないのです。その手前から既に始まることになるのです。

 主がこの数時間後に捕らえられる時、弟子たちは主を見捨て逃げ去ることになります。ペトロについては、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:38)と予告されていました。その通りになります。今日の聖書箇所においても、「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言う弟子たちに対して主はこう言っておられました。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(31‐32節)。そして、その通りになります。

 既に彼らの苦難は始まっているのです。その中で彼らは自分の弱さと向き合うことになります。自分の罪深さ、惨めさとも向き合うことになります。自分自身に絶望することにもなります。彼らはそのようなところを通らなくてはならない。そう、そのようなことがこの世では起こります。この世では苦難がある。そこで自分自身と向き合うことになる。私たちもまた、そのことを知っています。

 しかし、主はそこで言われるのです。「勇気を出しなさい」と。それは「弱くてはだめだ、強くなれ」という意味ではありません。彼らが自分自身を知る前に、主は既にご存じなのです。その弱さも罪深さもすべてご存じなのです。だから彼らの内にあるものを指して「勇気を出しなさい」とは言いません。そうではなくて、主は御自分を指し示して、こう言われるのです。「勇気を出しなさい。《わたしは》既に世に勝っている」と。

わたしは既に世に勝っている
 「わたしは既に世に勝っている」と主は言われる。しかし、これを読んでいる私たちは知っています。主はこれから惨めな敗北の姿を公衆の面前にさらすことになるのです。裸にされ、鞭打たれ、十字架につるされて死んでいく姿は、最も惨めな敗北者の姿ではありませんか。そのような姿になることをイエス様も知っているのです。にもかかわらず、イエス様は十字架につけられる前から、早々と勝利宣言をなさるのです。「わたしは既に世に勝っている」と。ならば私たちはその意味を考えねばなりません。本当の意味で「勝つ」とはどういうことなのか。私たちはよく考えねばなりません。

 「わたしは既に世に勝っている」。主が「勝っている」と言われるこの「世」とは、神に背を向けたこの世界です。神がどんなに愛しても背を向け続けるこの世界です。神がどんなに愛をもって呼びかけても応えようとしないこの世界です。否、むしろ呼びかける神に敵対する世界です。神に敵対する悪魔が支配しているこの世界です。それゆえに、神がその愛のゆえにキリストを遣わされても、よってたかってキリストを血祭りに上げ、殺してしまうようなこの世界です。

 そのようなこの「世」に勝つとはどういうことですか。キリストはどのようにして、この「世」に打ち勝つつもりでおられたのでしょう。裁きを下すことによってでしょうか。神に敵対する人々を滅ぼすことによってでしょうか。キリストはそうすることもできたのでしょう。それまでに数々の奇跡を起こし、神の力を現してこられたのですから。

 実際、他の福音書には、イエス様が捕らえられた時に次のように言われたことが伝えられています。弟子の一人がイエス様を守ろうとして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかった時に言われた主の言葉です。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう」(マタイ26:52‐53)

 そのようにして、主は世に勝つことはできたはずです。しかし、主はそうなさいませんでした。自分の身を守ろうともしなかった。ならばどのようにして「世」に勝つのでしょう。

 敗北して殺されていくように見えるイエス様の姿そのものが、実は雄弁に語っています。どのようにして勝つのか。それは力を現すことによってではなく、愛することによってです。報復することによってではなく、赦すことによってです。罪の世を裁いて滅ぼすことによってではなく、世の罪を負うことによってです。十字架の上で罪の贖いを成し遂げることによってです。そのようにして神の愛をこの世界に現すことによってです。そのようにして、この世に神の御心を行うことによってです。

 そうです、神はこの世を愛しておられるのです。御自分に背を向ける世界を、それでもなお愛し続けておられるのです。そして、その愛が勝つことを主は知っておられるのです。神の愛の御心は必ずこの世界に実現する、と。何ものもそれを妨げることはできない、と。主が宣言しておられるのは神の愛の勝利なのです。主はこの世の罪よりも、この世の敵意や憎しみよりも、神の愛の方が大きいことを、はるかに強いことを知っているからこそ、主は勝利を宣言するのです。「わたしは既に世に勝っている」と。

勇気を出しなさい
 そのように勝利宣言をされる方が言われるのです。「勇気を出しなさい」と。ならばそれは単に強くなれ、と言っているのではありません。これは「安心しなさい」とも訳され得る言葉なのです。実際、そのように訳された同じ言葉がとても印象的な場面に出てきます。

 それはイエス様を陸に残し、弟子たちだけで舟に乗ってガリラヤ湖に漕ぎ出した時のことでした。彼らは逆風のため漕ぎ悩んでいました。彼らの苦闘は夜明けまで続いたようです。そのように風と波に翻弄され、自らの無力さに打ちひしがれ、疲れ果てていた彼らのところに、イエス様が近づいてこられました。そして、恐怖におののく彼らに主はこう言われたのでした。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(マルコ6:50)。この「安心しなさい」というのが同じ言葉です。

 「勇気を出しなさい」とはそういうことです。どんなに漕ぎ悩んでいても、そこに無力な自分がいても、どんなに惨めな自分がいても、「わたしだ。恐れることはない」と言ってくださる御方がそこにいてくださるのです。その方が「勇気を出しなさい」と言ってくださる。それはまさに「安心しなさい」ということでもあるのでしょう。

 実は、これまでイエス様が語ってこられたこともすべて、ここに向かっていたのです。イエス様はこう言っていましたでしょう。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである」(33節)と。彼らが得るべき「平和」あるいは「平安」とは、逆風や荒波がないところでの穏やかな湖のことではありません。そうではなくて、荒れ狂う湖に翻弄される小舟の中にあってなお持ち得る「平和」であり「平安」なのです。そして、それは「わたしによって」だと主は言われます。「あなたがたが《わたしによって》平和を得るためである」と。

 これは「わたしの中にあって」という言葉でもあります。あるいは「わたしにつながって」とも訳せる言葉です。そこで思い出さなくてはならないのは、この前の章に書かれていることです。そこでイエス様は「ぶどうの木」のたとえを語っておられるのです。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(15:5)。イエス様はこのたとえ話を迫害の予告の前に語られたのです。苦難を受けることになる彼らだからこそ、語ったとも言えます。「わたしにつながっていなさい」と。それはわたしの中に留まっていなさい、ということでもあるのです。

 そのようにイエス様の中に留まっていてこそ、また出て行くこともできるのです。イエス様につながっていてこそ、またこの世に勇気をもって出て行くこともできるのです。「あなたがたには世で苦難がある」と主が言われる「世」のただ中に恐れないで出て行くことができるのです。苦しみの多くは他の人間から来るのでしょう。しかし、この人間の世界、他者との関わりの世界に恐れないで出て行くことができるのです。

 たとえ敵意と憎しみの嵐に翻弄されることがあったとしても、そこで自分の弱さを突きつけられるようなことがあったとしても、惨めさを味わい知るようなことがあったとしても、最終的に私たちは負けない。イエス様の内に留まっている限り絶対に負けません。なぜなら、この勝負は私たちにかかっているのではないからです。

 神の愛が必ず勝つことをはっきりと見せてくださった御方が共にいてくださいます。その方が見せてくださった勝利に、私たちもまた与らせていただけるのです。その御方は今日も私たちにも言ってくださいます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」安心して、ここから歩み出しましょう。

2016年4月17日日曜日

「あなたは、わたしに従いなさい」

2016年4月17日
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネによる福音書 21章15節~25節

「食事が終わると」と書かれていました。この前に書かれているのは、復活されたイエス様との食事の場面です。夜通し働いていた弟子たちをイエス様が迎えてくださいました。炭火を起こし、魚を焼いて、パンを用意して迎えてくださいました。主は言われます。「さあ、来て、朝の食事をしなさい」。弟子たちは喜びをもって主と食を共にしました。

 その姿によって指し示されているのは私たちも行っている聖餐です。そして、聖餐卓の周りに集められ、迎えられてささげる主の日の礼拝です。夜通し働いて何も捕れなかったとしても必ず朝は来ます。そのような日が続いた一週間であっても、日曜日は必ずおとずれます。そして、復活の主が私たちを迎えてくださいます。そこには復活の主が既に豊かな命の糧を備えていてくださいます。そして、迎えられた私たちは命の糧に養われます。今日お読みしているのは、そのような復活の主との食事に続く場面です。

わたしに従いなさい
 その食事が終わると、主はペトロに問いかけました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。そこからペトロとイエス様との間の非常に印象的な対話がはじまります。そのやりとりはどこに行き着くかを先に見ておきましょう。イエス様はペトロに言われるのです。「わたしに従いなさい」(19節)。

 命の糧にあずかったペトロはイエス様から「わたしに従いなさい」と言われます。「わたしについて来なさい」と言われるのです。しかし、イエス様から「ついて来なさい」と言われているこのペトロは、かつてイエス様から「あなたは今ついて来ることはできない」と言われたペトロであることを思い起こさねばなりません。

 それはイエス様が十字架にかかられる前夜、最後の晩餐でのことでした。イエス様は御自分が間もなく捕らえられ、十字架にかけられることをご存じの上で、弟子たちにこう言われたのです。「『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく」(13:33)。するとペトロは驚いて尋ねるのです。「主よ、どこへ行かれるのですか」。するとイエス様はペトロにこう答えられました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」これを聞いたペトロは言うのです。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」。

 ペトロは本気だったと思います。どこまでもついていくつもりだった。命を捨てるようなことになっても、ついていくつもりだったのです。他の福音書ではこうも言っています。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14:29)。他の人がつまずいて、ついていかなかったとしても、わたしはつまずきません。わたしはどこまでも従ってまいります。そう語るペトロは本気だったと思います。

 しかし、その時イエス様はペトロに言われました。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言いうだろう」(13:38)。そして、そのとおりになりました。イエス様には分かっていたのです。「あなたは今ついて来ることはできない」。しかし、それでよかったのです。なぜならそこにはイエス様がひとりで成し遂げなくてはならないことがあったからです。

 世の罪を取り除く神の小羊として、この世の罪を代わりに自らの身に負うこと。罪の赦しをもたらすために、十字架の上で罪の贖いを成し遂げること。それはペトロがついて行っても一緒にはできないことでした。人間がいかなる形においても手を貸すことができないことでした。救いはただイエス様の成し遂げられることにかかっているのであって、人間はただその恵みにあずかるだけなのです。そして、イエス様はひとりで成し遂げられました。主は「成し遂げられた」と言って、息を引き取られた。そのようにヨハネによる福音書は伝えています。

 ただひとりで罪の贖いを成し遂げられたイエス様は、復活されて再び弟子たちに出会います。ペトロにも出会ってくださいました。イエス様はペトロをも迎えてくださいました。イエス様はペトロにも命のパンを差し出してくださいました。そして、ペトロは聞いたのです。「わたしに従いなさい」と言われる主の御声を。

 もうイエス様は「あなたはついて来ることはできない」とは言われません。ペトロはイエス様についていくのです。だからこそ、今日お読みしたイエス様とペトロとのやりとりもまた必要だったのです。三度イエス様を否んだペトロが、ついて行くことができなかったペトロが、そこから再びイエス様についていくためでした。

わたしを愛しているか
 食事が終わると主はペトロに尋ねました。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(15節)。「この人たち以上に」つまり「他の弟子たち以上に」と主は問われます。もうペトロは、「この人たち以上に」とはいいません。「あなたのためなら命を捨てます」とも言いません。ペトロはあの時のことを思い起こしたことでしょう。胸を痛めながら、それでも精一杯の思いを込めて彼は答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。主は言われました。「わたしの小羊を飼いなさい」。

 そして、二度目に主は言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。もうイエス様も「この人たち以上に」とは言われません。主が聞きたいのはそんなことではないからです。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。ペトロは答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。主は言われました。「わたしの羊の世話をしなさい」。

 そして、三度目に主は言われました。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」。イエス様が三度も尋ねたのでペトロは悲しくなって言いました。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」。

 しかし、本当は、ペトロは悲しむ必要などありませんでした。主が三度尋ねられたのは、ペトロの言葉を信用していないからではないからです。主が三度尋ねられたのは、三回主を否んだペトロが三回「愛しています」と口にすることができるようにするためでした。そして、それで十分なのだとペトロ自身が知るためでした。

 イエス様は「わたしを愛しているか」としか問わなかったのです。ペトロの過去がどうであったかを問いませんでした。「あなたのためなら命を捨てます」というあの言葉はどうなったかと問いませんでした。自分の言葉に誠実であったかを問いませんでした。そうです、主はこれまでペトロがどうであったかを問いませんでした。過去の失敗を一つ一つ打ち消すかのように、「わたしを愛しているか」とだけ問うたのです。そして、ペトロに答えるチャンスを与えてくださいました。主によって重要なことは、過去がどうであったかではなく、今、主を愛しているか、ついて行こうとしているか、ということだからです。

それは私の話であり、あなたの話です
 「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」と答えるペトロに、主は言われました。「わたしの羊を飼いなさい」。そして、さらに主はこう続けられます。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(18節)。

 「手を伸ばす」というのは、古代の教会においては「磔にされる」ことを意味しました。ここで語られているのは、ペトロが殉教するということです。彼は、その晩年が決して自分の思うようにならないこと、そして、最後には悲惨な死を遂げなくてはならないことを示されたのです。しかし、驚くべきことに、聖書はこのように続けるのです。「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(19節)。

 与えられた使命を立派に果たして、大きな働きの実りを後世に残して神の栄光を現すというならば話は分かりやすいでしょう。しかし、イエス様はそのような話をされませんでした。「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」ようなことになると言われたのです。それでもなおペトロは神の栄光を現すことになるとイエス様は思っておられたのです。それでもなお、単に「連れて行かれる」のではなくて、ペトロはキリストに従う者であり得る。イエス様はそう思っておられたのです。だから主はそのように話してから、ペトロに「わたしに従いなさい」と言われたのです。

 この言葉をイエス様の命の糧をいただいた私たちもまた聞くのです。繰り返し、「わたしを愛するか」という問いと共に聞くのです。「他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」。確かにそのようなことはあります。迫害の時代に生き、殉教の死を遂げることになるペトロだけの話ではありません。決して私たちの手の内には収まらない、私たちの人生があります。どのように生きるかだけでなく、どのように死ぬかということも、私たちの思い通りにはなりません。しかし、それでもよいのです。それでもなお私たちが生き、そして死ぬことは、神の栄光となり得るからです。単に「行きたくないところへ連れて行かれる」のではなく、どこまでもイエス様についていくことはできるからです。死の向こうまでイエス様についていくことはできるのです。

 私たちの人生において本当に重要なことは何が起こるかではありません。願った通りになるか否かでもありません。イエス様の「わたしを愛するか」という問いにどう答えるのか、そして、「わたしに従いなさい」という招きにどう答えるのかということだけなのです。誰か他の人の話ではありません。それは私の話であり、あなたの話です。

 ところがペトロは自分自身が問われ、自分が招かれているのに、こんなことを口走っています。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(21節)。まことに愛すべき人物です。そこに見るのも私たち自身の姿でしょう。それに対するイエス様の答えは極めて明快でした。「わたしの来るときまで(つまりキリストの再臨まで)彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」そうです、主はあくまでも言われるのです。「あなたは、わたしに従いなさい」と。他の人の話にしてはなりません。これは私の話であり、あなたの話です。

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