ラベル ヨハネの黙示録 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ヨハネの黙示録 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2025年12月28日日曜日

「光輝く命の水の川」

2025年12月28日 主日礼拝説教 

聖書:ヨハネの黙示録 21:22‐22:5

 今日の第2朗読ではヨハネの黙示録が読まれました。この書物が書かれたのは、紀元一世紀の終わり頃、教会に激しい迫害が加えられていた時代であると言われています。そのような中でも、キリスト者たちは共に集まり、礼拝をささげ、祈り、聖餐を行い、信仰を励まし合っていました。ヨハネの黙示録は、そのような礼拝の中で朗読されるために書かれた書物です。

 そこには迫害の中でパトモス島に抑留されていたヨハネが、神によって見せられた幻が記されています。それは一人の人間の神秘体験に留まらず、苦しみの中にあった当時の教会全体に向けて、さらには後の時代の代々の教会に向けて語られた希望のメッセージでもあったのです。

 今日読まれた箇所は、その黙示録も終わりに近い部分です。彼が幻の中で見ているのは、聖なる都エルサレムです。それは彼が知っている地上のエルサレムではありません。神の栄光に輝く、新しいエルサレム、救いの世界です。

 もちろん、神が見せてくださった最終的な救いの世界を、人間の言葉で描写することには、本質的な限界があるでしょう。それでもなお、ヨハネが言葉を尽くしてこの幻を語ろうとしているのは、苦しみの中にあった人々に、私たちを待っている救いの世界を伝えたいと願ったからです。特にこの21章を読みますと、その熱情がひしひしと伝わってまいります。今日は途中からですが、その言葉に耳を傾けてまいりましょう。

神殿がない、太陽も月もない
 その幻の中で、ヨハネはまず一つの重大なことに気づきます。そこには、エルサレムにあるはずの神殿がなかったのです。――しかしすぐに、それはもはや必要がないのだと悟ります。ヨハネはこう語っています。「全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである」。

 ここでヨハネが見せられていることは、当時の教会にとって、極めて大きな意味を持つものでした。というのも、この幻が語られた時代、地上のエルサレムには、すでに神殿が存在していなかったからです。紀元70年、エルサレムの神殿はローマ軍によって破壊されてしまったのです。

 それまでエルサレムの神殿はユダヤ人にとっては信仰の拠り所でした。初期の教会にとってもそうでした。キリスト者となった後も、使徒たちは神殿での礼拝を続けていたのです。しかし、その神殿が破壊されてしまいました。ユダヤ教のサドカイ派は祭司を中心としていましたから、神殿の喪失と共に歴史から消えていきました。一方、ファリサイ派は残りました。律法の遵守を要として、律法の民として残ったのです。それが今日のユダヤ教の流れです。

 一方、キリスト教会もまた残ったのです。どうしてか。復活したキリストこそまことの神殿であると理解していたからです。かつてイエス様がこう言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2:19)。ヨハネはこの言葉を次のように説明しています。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(同21‐22節)。

 そのようにイエス様こそが神殿なのです。キリストの体が分け与えられる聖餐の場にこそ神殿があるのです。そして、聖餐によって形作られる信徒の共同体、すなわちキリストの体なる教会こそが神殿なのです。どんなに小さな集まりであっても、それがたとえ迫害の中で地下墓地においてひっそりと集まって礼拝をささげている小さな群れであっても、確かに自分たちは神殿にいると信じて、彼らは礼拝をささげてきたのです。

 そして、ヨハネが見た幻は、確かにその理解は間違っていなかったことをはっきりと示していたのでした。終わりの日に、目に見える神殿などないのです。主と小羊が神殿なのです。

 またヨハネはもう一つのことに気付きます。太陽も月もないのです。しかも、そこには明かりがいらない。それはなぜか。神の栄光が都を照らしているからです。「神の栄光が都を照らしている」ということが何を意味するのか、ヨハネにはわかったはずです。すぐにイザヤ60章の預言を思い起こしたに違いありません。

 そこにはこうあります。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」(イザヤ60:2)。そして、同じ章の19節にはこう書かれているのです。「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。あなたの太陽は再び沈むことなく、あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる」(同19節)。

 そうです。主が永遠の光となる時とは、「あなたの嘆きの日々は終わる」と約束されているその時なのです。夜は永遠に夜なのではありません。嘆きの夜も必ず明ける時が来るのです。太陽の光によらない朝が来る。主の栄光が照らす永遠の朝が来るのです。

閉ざされない門
 さらにもう一つの不思議な光景をヨハネは見ることになります。都の門が閉ざされないのです。地上のエルサレムにおいては、その門は夜になると閉ざされ、武装した門番によって守られるのが常でした。しかし、ここで門はずっと開け放たれたままなのです。

 一つには、もはや「夜」がないからです。しかし、もう一方において、それが開け放たれているのは、諸国の民が入れるようにです。「人々は諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る」(26節)とあるとおりです。そのように救いの門は全ての民族に広く開かれているのです。しかし、もう一方においてこう書かれています。「小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」(27節)。

 門が閉ざされて入れないのではないのです。門は開かれている。それでもなお、入れないのです。それは神の栄光が照らしているからです。神の栄光が照らす時、それは神がまことの神として自らを現される時です。だから苦しみの時が終わるのです。しかし、もう一方において、神がまことの神として自らを現されるなら、、罪ある人間はそこに近づくことができなくなるのです。

 人間の手でこしらえた偶像ならば、いくらでも人間は近づくことができるのです。罪があろうが汚れていようが近づくことができるのです。しかし、神がまことの神として現臨されるなら、罪あるまま汚れたままで近づくことなどできません。神の栄光が照らしているのが最終的な神の都なら、罪あるまま汚れたままで入れるはずがありません。

 もしキリストによる罪の贖いがなかったならば、キリストの十字架による罪の赦しがなかったら、汚れを十字架の血によって洗っていただいた人としてでなければ、神の栄光が満ちている都に入れるわけがないのです。最後までキリストを信じた人であること、そのような者として小羊の命の書に名が記されていること、それがどれほど大きな意味を持つかは、この開かれた門を前にした時に明らになるのです。

 ヨハネは先にも申しましたように、信仰のゆえにパトモス島に抑留されているのです。信仰の故に苦しみを受けているのです。しかし、キリストのゆえに、屠られた小羊の血のゆえに、罪を赦され汚れを清められた者として、神の栄光が満ちている都に身を置いている自分自身を見せていただいた時、ヨハネにははっきりと分かったに違いないのです。すべては報われる、と。この一時において、すべての苦しみも悲しみも痛みも完全に報われる、と。

命の水の川が流れていく
 そして、ヨハネはその都の中に「水晶のように輝く命の水の川」を見ることになります。その川は神と小羊の玉座から流れ出ているのです。

 ヨハネが見た光景、それはかつてエゼキエルが見た光景と同じものでした。エゼキエル書には次のように書かれています。「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた」(エゼキエル47:1)。これが流れ下るにつれて深くなり大きな川となるのです。

 そこで大事なのは次の描写です。「川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」(同9節)。さらに、その川のほとりには実を結ぶ木々が生い茂り、その実は食べ物となり、葉は人を癒すものとなる、と語られています(同12節参照)。

 ここを読みますと、もう一つの箇所が思い起こされます。イエス様がこう言われた言葉です。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)。ヨハネはこの言葉について次のように説明しています。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」

 イエス様の言葉は明らかに先ほど引用したエゼキエル書の預言を背景として語られています。神殿から流れ出る生ける水の川。それはキリストを信じる人において、ある意味では実現しているのです。イエス様は栄光をお受けになりました。十字架にかけられ、そして復活して天に挙げられました。そして、既に聖霊は降ったのです。キリストを信じる者は神殿となり、そこから聖霊の生ける水が川となって流れ出る。そのようにして確かにこの二千年間人から人へ福音は伝えられてきたのです。

 しかし、今日お読みしたヨハネの幻を見ますと、私たちが教会生活において経験していることは、やがて終わりの日に見ることになる、新しいエルサレムの先取りに他ならないことが分かります。私たちが見ていることはまだ一部に過ぎません。私たちが経験していることは、まだほんの一部です。私たちはやがて、本当の命の水の川の流れを見ることになるのです。完全な命の世界、完全な癒しと救いの世界を、見ることになるのです。

2025年10月19日日曜日

「神の愛と真実は変わらない」

2025年10月19日 主日礼拝説教 

聖書:ヨハネの黙示録 7:9‐17

ヨハネの見た幻
 今日はヨハネの黙示録をお読みしました。この書物が書かれたのは紀元一世紀も終わり頃であると言われます。それはローマ帝国において皇帝礼拝が強要された時代でした。皇帝を神として礼拝すること、またローマの神々を礼拝することを拒否する者には容赦ない迫害が加えられたのです。それは教会にとってまさに艱難の時代でした。

 そのような時代においてもなお、キリスト者は礼拝のために集まりました。それはある意味では命がけのことでした。信仰を公にせず、隠れて個人的にキリストを信じ、表面的には皇帝を礼拝して生きていけば危険はなかったのです。しかし、彼らはそうしませんでした。共に集まって聖餐を行うこと、共に祈ること、互いに信仰を励まし合うことを、ある意味では自分の命よりも大事なこととして考えていたのです。そして、ヨハネの黙示録とは、そのような人々のために書かれた書物だったのです。

 ヨハネの黙示録の1章には、こんな言葉があります。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(1:3)。そのようにこれは朗読されるために書かれたのです。朗読されるのは、命を賭して皆が礼拝のために集まっている場所においてです。その書物が今日、ここにおいても朗読されているのです。ならば、ある意味では私たち自身の姿勢も問われるのでしょう。共に集まって礼拝することは、私たちにとってどれほど大事なこととされているのでしょうか。それほど尊い恵みであると考えられているのでしょうか。

 今日は、そのようなヨハネの黙示録の第7章が朗読されました。そこには大群衆の姿が次のように描かれています。「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである』」(9-10節)。

 実際にそこに大群衆がいたわけではありません。ヨハネが見ているのは幻です。神が見せてくださった幻です。その大群衆は神の玉座の前と小羊(キリスト)の前に立っていると言われていますから、これは地上の話ではなく、天において礼拝している人々の姿です。ヨハネがそのような幻を見せていただいたのは、「ある主の日のこと」(1:10)であったと書かれています。それはある主の日の礼拝における出来事でした。

 もしかしたらヨハネ一人で捧げていた礼拝だったのかもしれません。ヨハネはその時、パトモス島という島に、島流しにされていましたから。しかし、そこで主はヨハネに天の大群衆を見せてくださったのです。神を礼拝している大群衆を見せてくださったのです。ヨハネは決して一人ではなく、天の大群衆と共に主を讃えて礼拝しているのだ、ということを、主は見せてくださったのです。

大きな患難から抜け出て来た者たち
 そのように神が見せてくださった、礼拝をささげている天の大群衆について、ヨハネは質問を受けました。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」ヨハネは答えました。「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」。すると次のような言葉が返ってきました。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。

 「彼らは大きな苦難を通って来た者だ」。別の翻訳ではこうなっています。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」(7:14新改訳聖書)。実は、この方がむしろ直訳に近いのです。もう一回お読みします。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」

 ヨハネが目にしていた人々が、特に「大きな患難から抜け出て来た者たち」と表現されていたことが重要です。それは迫害の時代を背景としていることを考えるとよく分かります。

 教会は神の愛とキリストの救いを宣べ伝えているのです。しかし、そのような教会に現実には苦難が次々と襲いかかってくるのです。迫害の中で無残に殺されていく人々がいるのです。現実を見る限り、そこにおいて神の助けは全くないかのように見えるのです。神は本当におられるのか。神は本当に真実な御方なのか。その神を信じることに意味はあるのか。そう問わざるを得ない状況がそこにあるのです。

 しかし、そこで神はヨハネに幻を見せたのです。目に見えるところによるならば、患難の中で神の助けも守りもないままに無残に殺されていったように見えるかもしれない。しかし、その彼らが、なんと天において大声で神を誉め讃えているのです。そして、彼らはこう呼ばれているのです。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たち」であると。

 ここには驚くべき逆説が語られています。この世的に見るならば、患難の中において神の守りはなかったように見える。神に守られず殺されてしまった人々は、この世的に見れば、神から見捨てられたように見えたかもしれません。しかし、実はそうではなく、神に完全に守られて、むしろ患難から取り出されたのだというのです。そして、彼らは神の玉座の前にいるのです。彼らは神に近いところにいるのです。守られなかった?とんでもない!彼らは神の近くに、玉座の近くに招かれていた人たちなのです。

 そして、こう書かれています。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(17節)。

 玉座の中央におられるのは小羊です。しかし、その御方はまたまことの牧者、羊飼いでもあります。ここで詩編23編を思い起こす人も多いかもしれません。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、 魂を生き返らせてくださる」(詩編23:1-3)。葬儀においても良く読まれる詩編です。そこに歌われていたことが、まさに天において実現しているのをヨハネは見たのです。まことの羊飼いによって命の水の泉に導かれた人々がそこにいるのです。地上の苦しみの中で飢え渇き求めていた本当の命はそこにおいて豊かに満たされるのです。

 そして、神御自身が涙の涙をことごとくぬぐってくださる。「ことごとく」です。全部です。すなわち流された涙のすべてを神は知っておられるということです。その全てを、ぬぐい取ってくださる。流した涙の全てが、ことごとく報われるのです。

小羊の血によって
 そのような天の大群衆をヨハネは見せていただいたのです。そして、彼らについては殊更に「白い衣を着た者たち」と書かれています。なぜ彼らは白い衣を身に着けているのでしょう。14節にはこう書かれています。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(7:14)。そのように、その衣は小羊の血によって白くされたのです。

 先ほどから、迫害の時代に大きな苦難を受けた人々の話をしています。しかし、彼らは殉教したから白い衣を着ているのではないのです。苦難を耐え忍んだから白い衣を着ているのではないのです。それは小羊の血によるのです。小羊の血とは、私たちの罪のためにキリストが流してくださった罪の贖いの血潮です。そこに語られているのはキリストの血による罪の赦しなのです。 天において「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」と大声で賛美している人々は、キリストの血によって罪を贖われた人々なのです。

 その意味においては、ここにいる私たちも同じです。私たちもまた、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。それ以外には白くしようがないのです。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」。その通りです。私たちはただそれを受けるしかないのです。

 だからこそヨハネの見たこの幻は、時代を超えて代々の教会を通して伝えられてきたのです。この地上の生活において、神の愛と真実は時として見えなくなることは、迫害の時代ならずとも、いつの時代でもあるからです。辛いことが続く時、祈っても事態は何も変わらないように見える時、なんでこんなことが起こるのかと思えるようなことが起こる時、神の愛と真実が見えなくなる。そのようなことはあるのです。

 しかし、ヨハネが見せられたように、そして教会に書き送ったように、神の愛と真実とは始めから終わりまで貫かれているのです。神は真実な神であり続けておられるのです。苦難の黒雲は神の真実という太陽を覆い隠す時があるかもしれません。しかし、太陽が無くなるわけではないのです。神の真実は変わらない。やがて患難から抜け出た者たちとして、神によって涙をことごとくぬぐわれて、はっきりとその事実を見る時が来るのです。ヨハネが見せられたあの大群衆のようにです。

 ならばこの地上において礼拝している私たちにとって大切なことは何なのでしょうか。見えないならば、信じることです。神の真実が目に見えない時こそ神の真実を信じることです。神の愛が見えなくなった時こそ、キリストの十字架において表された神の愛を信じることです。そして、信仰に踏みとどまることなのです。

 疑いと恐れに心を支配させてはなりません。そのために神はヨハネに幻を見せました。そのためにヨハネは教会に書き送りました。そのために教会はこの書を二千年近くの長きにわたって伝えてきました。そのようにして、私たちもまた同じ信仰の言葉を耳にしているのです。私たちが信仰によって生きるためです。

2025年4月20日日曜日

「死の扉を開く鍵はキリストの手の中に」

2025年4月20日 イースター礼拝説教
聖書:黙示録1:12‐18

主の日の出来事
 今年のイースター礼拝では、第2朗読において「ヨハネの黙示録」が読まれました。聖書の最後の書物です。読んだことのある人はご存じだと思いますが、この書は実に不可思議な神秘的な描写に満ちています。無理もありません。この書はヨハネという人物の神秘体験に基づいて書かれているからです。しかし、そのような書物が聖書の中に収められ、2千年後の今日に至るまで読まれているのはなぜでしょう。それは、そこに書かれていることは、単なる一個人の神秘体験に留まらず、ここにいる私たちにとっても、大きな意味を持っているからに他なりません。今日お読みした箇所からも、私たちは、ここに書かれている不思議な描写が、今日の私たちにとって、いったい何を意味するのかを、しっかり聞き取りたいと思うのです。

 今日の第2朗読は次のような言葉から始まっていました。「わたしは、語り掛ける声の主を見ようとして振り向いた」。

 この「わたし」というのは、先にも申しましたように、ヨハネという人物です。このヨハネはどこにいるかと言いますと、エーゲ海に浮かぶ小さな島、パトモス島というところにいるのです。今日では観光地ですが、当時は流刑地です。ヨハネは信仰のゆえに島流しとなってそこにいるのです。

 当然のことながらそこに教会はありません。信仰を同じくする仲間もいません。その意味で彼は孤独です。彼は皆と集まって共に礼拝することもできません。かつてボンヘッファーという人がこんなことを書いていました。「一つの信仰共同体が、この世において、神の言葉と礼典にあずかるために、目に見える形で集まることを許されるということは、神の恵みである。すべてのキリスト者が、この恵みにあずかるわけではない。囚われ人、病人、散らされて孤独の中にいる人、異邦の国にいる福音の宣教者、などの人たちはただひとりでいる。彼らは、『目に見える交わりが恵みである』ということを知っている」。その意味では、ヨハネもまたそのような一人であったと言うことができるでしょう。

 しかし、そのような孤独な状況に置かれていたヨハネにも、やはり同じように日曜日は訪れるのです。ヨハネは日曜日に礼拝をささげている諸教会を思いながら、その日、一人で礼拝をささげていました。今日お読みしたのは、そのような日曜日、「主の日」における出来事です。そのような日曜日における神秘体験と言っても良いかもしれません。

 ヨハネは突然、背後に大声で語り掛ける声を聞きました。ヨハネは声の主を見ようと振り返ります。すると、まず目に入ってきたのは七つの金の燭台でした。後でヨハネは、その七つの金の燭台が何を意味するかを知ることになります。今日の朗読には入っていないのですが、1章20節には「七つの燭台は七つの教会である」というキリストの言葉を聞くのです。つまり、ヨハネは一人孤独に礼拝をささげていると思っていたのですが、実はそうではなかった。彼は本当は孤独ではなかったのです。ヨハネが振り返る前から、そこには既に七つの燭台があった。つまり七つの教会が共にいたのです。主の日の礼拝の中で、彼は教会と共にいたのです。

 そして、その中央に「人の子のような方」を見ました。十字架にかけられ復活されたキリストでした。流刑となって教会と引き離されたヨハネは、迫害の中にある一つ一つの教会のことを案じていたに違いありません。しかし、その中央にキリストが立っているのを見たのです。そもそも燭台というものは燭台自身が火を灯し続けるのではありません。火を灯し続けてくださる人がいるから光を保てるのです。教会も同じです。燭台の中央にキリストがおられるなら、燭台はどのような状態にあっても輝き続けるのです。

キリストの御姿
 しかし、そこに書かれているキリストの描写はどうでしょう。長い衣を着て金の帯を締め、髪の毛は雪のように真っ白で、目はまるで燃え盛る炎のよう、足は精錬された真鍮のように輝き、声は大水のとどろきのようだった……というのです。しかも、口からは鋭い両刃の剣が突き出している。さらに顔は照り輝く太陽のようだった、というのです。

 少し時間をとって、想像してみてください。振り向いたら、そこにはそのようなキリストがおられた。私たちがヨハネだったら、そこで何を感じ、何を思うでしょうか。

 一方において、福音書に描かれているキリストの姿、それもまた私たちの知るキリストの姿です。福音書はただかつてのキリストの姿を伝えているだけではありません。復活して永遠に生きておられる私たちの救い主はこのような御方なのだと、私たちに伝えているのです。福音書に見るイエス様の姿は、まさに永遠に私たちと共にいてくださるイエス様の姿に他なりません。

 しかし、それが全てではないのです。聖書には、今日お読みしたようなキリストの描写もあるのです。それは馴れ馴れしく近づくことのできないキリストの姿です。まさにそのような描写をもって伝えられているのは、神としての権威と力です。最終的に正しくこの世界を裁く御方としての権能です。本当の意味で、私たちが恐れなくてはならない御方としてのキリストです。今年の復活祭においては、復活されたキリストとは、そのような御方なのだということを心に刻みたいと思うのです。

 先ほど、「私たちがヨハネだったら、そこで何を感じ、何を思うのでしょうか」と申しました。しかし、実際に私たちがそこにいたなら、何を感じるとか、何を思うという、そんな悠長な話にはならないでしょう。ヨハネはどうでしたか。「わたしはその方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった」と書かれているのです。恐らく私たちもそうなるのです。

 何一つごまかしの利かない御方の、正しく人間を裁くことのできる圧倒的な神の権威と力の前に立たされるとはこういうことなのです。そして、仮にヨハネのような神秘体験の中でそのような姿を見なくても、本当はここにいる私たちもまた、そのようなキリストの前にいるのです。私たちが主の御前に出るということは、私たちはまさに裁かれて死ぬべき罪人として、そこに身を置いているということなのです。

 しかし、倒れて死んだようになったヨハネに対して、キリストはこう語りかけられたのです。「恐れるな」と。最終的な裁きの権威が与えられている方から「恐れるな」と言われたのです。これこそまさに聖書の伝える福音です。これこそがまさに聖書の語る罪の赦しなのです。これがキリストの十字架によって罪を贖われているということなのです。

 最終的に裁くことのできる御方から「恐れるな」という言葉を聞くことができ、もはや最後の審判をさえ恐れる必要がないならば、本当は他の何も恐れる必要はないのです。本当は、迫害も死をも恐れる必要はない。この世で何が起ころうとも恐れる必要がない。ヨハネは、自分がそのような者とされていることを、流刑の苦しみのただ中で知ることとなったのです。そして、それは私たちにも与えられている恵みなのです。

死の鍵を持っている
 そして、「恐れるな」と語られたキリストは、さらにこう言われました。「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」(17‐18節)。

 キリストは殊更に強調するかのように二度「生きている」を繰り返します。これは「ゾーン」という言葉で、英語の聖書では"living"と訳されます。この言葉が本当の意味で当てはまるのはキリストだけです。私たちの場合、厳密には「生きている(living)」ではなくて「死につつある(dying)」なのです。確実に死に向かっているわけですから。しかし、キリストは本当の意味で「生きている」。なぜなら死はキリストを閉じこめることはできなかったからです。

 それゆえにキリストは、死に打ち勝った御方として、「死と陰府の鍵を持っている」と語られているのです。御自分が死に閉ざされなかっただけでなく、私たちをも死の支配から解放することができるということです。私たちは死の鍵を持っておられる方を主としているのです。それゆえに、死は絶望を意味しないということも知っているのです。

 かつて教会には殉教した仲間の棺を聖餐卓としてその上で聖餐を行っていた時代がありました。それは地下墓地で礼拝を行っていたという状況もありますが、しかし、その一方で彼らは「あえて」そうしていたのです。棺の上でキリストによる救いを祝っていた。それは迫害に対する、死に対する、勝利の宣言でもあったのです。

 実は、私たちの教会においても、葬儀の日程の関係から、礼拝堂に棺を置いたまま主日礼拝をささげたことがありました。そして、それは確かに、私たちが信じている御方が、まさに「死と陰府の鍵を持っている」と宣言する御方であることを、目に見える形で証しする機会となったことを思い出します。

 実際、もし死を越えた希望がないならば、主日礼拝の中であろうと、通常の葬儀の中であろうと、礼拝堂に棺を置くことに何の意味もありません。というよりも、葬儀そのものを行うことに、何の意味もなくなるのでしょう。そして、さらに言うならば、もし死を越えた希望がないなら、この世に長く生きようが短く生きようが、何の意味があるか、ということにすらなるのでしょう。

 しかし、実際には、そうではないことを私たちは知っています。復活されたキリストが、「恐れるな」と言ってくださる。そして、「見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」と高らかに宣言してくださるのです。

 だからこそ、たとえ、私たちの愛する仲間の棺がここに置かれていたとしても、私たちはそこで神を讃えることができるし、希望に満ちた祈りをささげることができるのです。事実私たちはそうしてきたし、これからもそのように主を礼拝することでしょう。そして、やがて私たち自身の棺が置かれる時が来るのです。その時にも、棺は、希望に満ちた祈りと賛美の中に置かれることになるのです。復活された主が、死の鍵を持っておられる方が、世々限りなく生きておられ、私たちと共にいてくださるからです。

2021年10月24日日曜日

「礼拝を共にささげるとは」

ヨハネの黙示録 4:1-11

 今日お読みしたのは、聖書の最後に置かれている「ヨハネの黙示録」です。今日は4章が朗読されました。「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった」(1節)と書かれていました。ヨハネが見ているのは幻です。この書物に描かれているのは、ある意味では、極めて個人的な特殊な神秘体験です。しかし、それがこのように聖書に記されて、代々の教会に読み継がれてきました。それは、ただ神秘体験をした個人にのみ関わることではないからです。それは諸教会にとって、さらに言えば後々の教会にとっても大事なことだから、今日まで読み継がれてきたのです。しかもこの書物の冒頭を読みますと、明らかにこれは個人的に読まれるためではなく、礼拝において朗読されるために書かれていることが分かります。今、私たちがこうしているようにです。

共にイエスと結ばれて
 この幻を見たヨハネは、その時、大きな苦しみの中にいました。信仰のゆえに迫害を受け、パトモス島に抑留されていたのです。1章9節以下には次のように記されています。「わたしは、あなたがたの兄弟であり、共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである。わたしは、神の言葉とイエスの証しのゆえに、パトモスと呼ばれる島にいた。ある主の日のこと、わたしは“霊”に満たされていたが、後ろの方でラッパのように響く大声を聞いた。その声はこう言った。『あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ』」(1:9‐11)

 今お読みしたように、今日の聖書箇所に耳を傾ける上で心に留めておくべき、とても大事なことが少なくとも二つあります。一つは、それが「主の日」だったということです。日曜日です。日曜日ですけれど、ヨハネはかつてしていたように、皆と一緒に集まって礼拝することはできません。流刑の身ですから。しかし、彼はそれでも主の日であることを覚えて祈っていた。ですから主の日において「わたしは“霊”に満たされていた」と書かれているのです。

 そして、もう一つ、彼は自分のことを「共にイエスと結ばれて、その苦難、支配、忍耐にあずかっているヨハネである」と言っていることです。ヨハネは流刑の苦しみの中にあります。しかし、彼は孤独ではありません。彼は他のキリスト者と結ばれていることを知っているからです。「共にイエスと結ばれて」いるのです。特にそのことを思うのは「主の日」なのでしょう。同じ主の日に、エフェソやスミルナ、ペルガモンなど、それぞれの地において集まって礼拝している人たちがいることをヨハネは知っているのです。ある人たちは危険の中で、命がけで集まって、礼拝している人たちがいることを知っているのです。その人たちと体は離れているけれど、一緒に主に結ばれて、一緒に礼拝していることをヨハネは知っているのです。それが主の日に共に礼拝するということなのです。

 私たちは毎週、ここに集まっている私たち自身のためだけでなく、ここに集まることのできない人たちのために祈ります。自宅で礼拝をささげている人たちを覚えて祈ります。入院している人たち、自宅で療養している人たち、年老いた人たちのためも祈ります。それは毎週繰り返されていますが、決して単なる形式的なことではありません。私たちは主の日に礼拝する時に、ここに集うことのできない兄姉とも互いに結ばれているのです。いやそれだけでなく、同じように主の日に礼拝している他の教会、他の国々の教会とも結ばれているのです。さらには天と地の聖徒たちが結ばれているのです。それが主の日の礼拝なのです。ですからヨハネは、天において主を礼拝している人々の幻を見せていただいたのです。それが今日お読みした箇所に書かれていることです。

開かれた天の門
 今日の聖書箇所は次のような言葉で始まっていました。「その後、わたしが見ていると、見よ、開かれた門が天にあった」(1節)。これ一つ取っても、本当に嬉しい言葉ではありませんか。天の門は開かれているのです。閉ざされてはいないのです。ヨハネはそれを見せていただいたのです。

 天の門は開かれている。誰が開いてくれたのでしょう。3章7節にこんな言葉があります。「聖なる方、真実な方、ダビデの鍵を持つ方、この方が開けると、だれも閉じることなく、閉じると、だれも開けることがない」(3:7)。これはイエス様のことです。イエス様こそが鍵を握っているのです。そのイエス様が天の門を開いてくださったのです。本来だったら閉め出されてしかるべき私たちのために、十字架にかかって、罪を贖ってくださって、罪の赦しを与えてくださって、その門を開いてくださったのです。主が開いてくださったのならば、もはや誰も閉じることはできないのです。

 ヨハネが主の日に見たのは、この開かれた天の門でした。それはヨハネという個人の特殊な体験です。しかし、先にも申しましたように、その幻が書かれ礼拝において朗読されているのは、私たちのためでもあるのです。天の門が開かれているのを私たちは肉の目で見ることはできません。しかし、確かに救いの門、天の門はこうして主の日に礼拝している私たちに向かって大きく開かれているのです。

 逆に言えば、もし天の門が開かれていないなら、私たちがしていることは所詮この世の次元のことに過ぎないということでしょう。しかし、実際にはそうではないのです。天の門が開かれているのです。私たちのこの集まりは天と関わっているのです。天はここに集まっている私たちに対して開かれているのです。あるいは、今週集まっている皆さんが、来週、再来週、それぞれの場所で主の日の礼拝をささげるとき、皆さんに向かって確かに天の門は大きく開かれているのです。独り抑留されていたヨハネが見せていただいたようにです。

玉座に座っておられる方
 そして、さらにヨハネが開かれた門の次に見たのは玉座でした。「すると、見よ、天に玉座が設けられていて、その玉座の上に座っている方がおられた」(2節)。玉座というのは王の座のことです。すなわち王としての神を見たということです。神が王として支配しているのを見たのです。

 現実に肉眼で見えるのは人間が支配する世界です。ヨハネが生きていた当時でありますならば、それはローマ皇帝が頂点に立って支配している世界です。パトモス島に抑留されているヨハネもまた、ローマ皇帝の権力のもとに、その悲惨かつ孤独な生活を強いられていたのです。当時の教会は、この世の権力に翻弄されている、嵐の中の木の葉のような存在でしかなかったのでしょう。しかし、ヨハネはそこで神の玉座を見たのです。その王なる神を礼拝する、天の礼拝を見たのです。そうです、本当の支配者はまぎれもなく王なる神であることを目の当たりにしたのです。

 ヨハネは言葉を尽くして、彼が目にした神の玉座の栄光を描写しようと試みます。「その方は、碧玉や赤めのうのようであり、玉座の周りにはエメラルドのような虹が輝いていた」(3節)。もちろんこの宝石による描写はあくまでも地上の言葉です。地上の言葉では十分に表現できるわけありません。しかし、それでも言わんとしていることは分かります。栄光に輝くまことの王がおられる。礼拝とはそのまことの王を仰ぐことに他ならないのです。

 私たちはまことに不遜なものです。いつの間にか人間のすることがすべてであるかのように生活しているのです。人間の力が最終的にこの世界を左右するかのように、人間のすることが自分の人生を最終的に左右するかのように生きているのです。しかし、そうではないのです。天には玉座があるのです。最後の言葉を持っているのは王なのです。そのことをへりくだって認めてまことの王を仰ぎ望み礼拝する。それが主の日において私たちがしていることなのです。

冠を投げ出して
 またヨハネはそこに24人の長老たちを見ました。また玉座のまわりに四つの生き物を見ました。それらについては実に不思議な描写が続いています。これら長老たちが誰であり、四つの生き物がいったい何であるのかは定かでありません。しかし、彼らが誰であれ、何であれ、本当に注目すべきは彼らが礼拝するその姿なのだろうと思います。

 この四つの生き物は、夜も昼も絶え間なくこう言い続けていたというのです。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(8節)。さらに、24人の長老たちは、玉座に着いておられる方の前にひれ伏して礼拝し、自分たちの冠を玉座の前に投げ出してこう言っていたというのです。「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」(11節)。

 このような描写を読みますと、私たちは礼拝するということについて、まだまだ知るべきことのごく一部しか知らないのだと思わされます。私たちは礼拝することの大きな喜びをまだまだ本当は知らない。これから味わい知るべきことがたくさん残されているのです。

 ここに書かれていることは、要するに、私たちが天の門が開かれているのを知り、本当に私たちが神の玉座の御前にあって礼拝していることを知るならば、もう昼も夜も絶え間なく神を誉め讃えずにはいられなくなるということでしょう。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者である神、主、かつておられ、今おられ、やがて来られる方」。そのように延々と賛美せずにはいられなくなる。一つの讃美歌を4節まで歌って終わり、ではないのです。この得体の知れない生き物の姿は、真の喜びをもって主を礼拝することを知っている者の姿なのです。

 そして、主を礼拝することを本当に知るならば、冠をかぶっている者がもう自分の冠をその前に投げ出したくなるということなのでしょう。もう自分の栄光など、どうでもいい!自分が受けるべき報いなど、どうでも良くなるのです。自分がどう評価されたか、どういう扱いを受けたか、どう報いられたか…そんな思いを後生大事に抱えているとするならば、それはまだまだ主を礼拝する本当の喜びを味わい知っていないということなのだろうと思います。

 ここに描かれている礼拝を私たちは天と一つになって共におささげしたいものです。私たちは信仰生活において、もっともっと主の日に共に礼拝をささげることの尊さ、その真の喜びを味わい知る者となりたいものです。

(祈り)

2020年5月24日日曜日

「天の礼拝、地上の礼拝」

ヨハネの黙示録 5:6-14

ヨハネの涙 今日は第二朗読においてヨハネの黙示録が読まれました。パトモス島に抑留されていた時に、ヨハネが神によって見せていただいた幻です。彼は幻の中において、開かれた天の門を通り、いつしか天の玉座の前にいたのでした。そこで彼は二十四人の長老たちが冠を玉座の前に投げ出して礼拝し、また不思議な天の生き物が絶え間なく主を誉め称えているのを見たのでした。

 そして、この5章に入りまして、「またわたし(ヨハネ)は、玉座に座っておられる方の右の手に巻物があるのを見た」(1節)と書かれています。そこに記されているのは神の御心です。すなわち、裁きと救いをもたらす神のご計画です。

 そこで一人の力強い天使が、「封印を解いて、この巻物を開くのにふさわしい者はだれか」と大声で告げるのを見ました(2節)。しかし、天にも地にも地の下にも、この巻物を開くことのできる者、見ることのできる者は、だれもいなかった、と言うのです。そこでこう書かれています。「この巻物を開くにも、見るにも、ふさわしい者がだれも見当たらなかったので、わたしは激しく泣いていた」(4節)。

 これは一見奇妙な描写に見えます。思い描いて見ると、まるで中身を見せてもらえないで駄々をこねて泣きわめいている子供みたいです。しかし、よくよく考えますと、ヨハネの涙や嘆きには思い当たるところがあると気付きます。私たちもまた、苦しみや悲しみをもたらす現実に直面して、泣いたり叫んだりするわけですが、もっとも悲しいのは、そのような試練の中にあってしばしば神の御心が分からないということなのでしょう。神が何を為そうとしているのか分からない。最終的にどこに向かわせようとしているのか分からない。神のご計画が分からない。そのような時に、私たちは泣かざるを得ないのです。

 しかも、ヨハネはここで、この封印を解くにふさわしい者がこの世界の中にいないことを突きつけられるのです。人間の中に誰一人としてふさわしい人がいない。それは当然、人間には罪があるからということでしょう。だから誰もふさわしくはない。それを突きつけられたら泣くしかないでしょう。どんなに苦しいことがあっても、悲しいことが起こっても、その理由も目的も結局は分からないとなれば、泣くしかないのです。

 しかし、そこで「泣くな」という声をヨハネは聞いたのでした。「泣くな。見よ。ユダ族から出た獅子、ダビデのひこばえが勝利を得たので、七つの封印を開いて、その巻物を開くことができる」(5節)。メシアが既に勝利を得られた。だから泣かなくていい。そのメシアが巻物を開いてくださるのです。

屠られた小羊 そこから今日の箇所に入ります。ヨハネがそこに見たのは、「屠られたような小羊」でした。確かに小羊は立っている。復活して立っているのです。しかし、そこには屠られた傷跡がありました。それは十字架の傷跡を持つキリストに他なりません。イエス様は傷を持つ御方であり続けてくださる。私たちのために十字架にかかられたキリストであり続けてくださる。その事実をヨハネは目にするのです。

 もちろん、ヨハネは屠られた小羊こそ勝利を取られた御方であることを、その時初めて知ったわけではありません。それは福音の言葉として既に地上の教会において聴いていたはずですし、ヨハネ自身もこれまで多くの人々に宣べ伝えてきたはずです。神の御心を明らかにし、それを実現するにふさわしい方。最終的な審判者であり、救い主である御方をヨハネは知っていたはずなのです。

 そうです。私たちも知っている。私たちも福音の言葉を通して聞いてきました。しかし、現実の苦しみに満ちた世界に目を向けている間に、いつの間にかキリストが誰であるかを忘れ、御心の巻物は永遠に封印されているかのように感じて、御心が分からないと言っては泣いているというのも事実です。だからこそ、私たちは繰り返し主の日の礼拝において屠られた小羊、しかも復活して立っている小羊を仰がなくてはならないのでしょう。あのヨハネのように。

 小羊が玉座の御前に立っておられます。ヨハネはその御方に七つの角と七つの目があるのを見たのでした。七は完全を現す数字です。角は力です。その御方は傷を持つ小羊でありながら無力ではありません。七という数字に表される完全な力をお持ちです。その御力をもって裁きと救いを実現することがおできになる。そのような御方が立っておられる。そして、その御方の七つの目。計り知れない叡智をもって全地をくまなく見ておられるキリストの目です。それは全地に遣わされている神の七つの霊であると語られています。あえて「七つ」と書かれているのは、そのお働きが完全であるからです。

 天のキリストの眼差しは遠いところからの眼差しではないのです。この地上において生きて働かれる神の霊のおられるところに、キリストの目もまたあるのです。その眼差しからいかなる地上の現実も洩れることはありません。「全地に遣わされている」と書かれているとおりです。流刑の地パトモス島も、また、苦しみの中にある教会も例外ではありません。現在のこの散らされている教会の現実もまたそうです。近くで見ていてくださる御方がいるのです。七つの目を持つ小羊が王座の前に立っておられるのです。

 ヨハネは、その小羊なる方が、確かに巻物を受け取るのを見ました。未来は私たちの知らない運命の手の中にあるのではなくて、私たちのために屠られて、そして復活して立っておられる小羊の手の中にあるということです。すると四つの生き物と二十四人の長老は、小羊の前にひれ伏して、小羊を誉めたたえます。巻物を手にしておられる方が、どれほど素晴らしい御方かを知っているからです。まさに手にするに最もふさわしい御方が手にしていてくださることを、彼らは知っているのです。

天に連なる私たちの礼拝 一方、私たちは残念ながら、まだ十分に巻物を手にしておられる御方のことを知りません。しかし、有り難いことに、四つの生き物と二十四人の長老が、香のいっぱい入った金の鉢を小羊のところに持って行ってくれていると言うのです。その香とは何か。「この香は聖なる者たちの祈りである」(8節)と書かれています。聖なる者たちとは、後で見ますが、それは私たちのことなのです。

 私たちはまだ、神の御計画が書かれた巻物を手にしておられる御方を十分に知らないのです。ですから、この地上において恐れたり、嘆いたりしているのでしょう。恐れながら、嘆きながら、この地上の礼拝と生活において祈ります。讃美を歌って祈るにしても、本当の信頼と喜びをもって小羊に栄光を帰するところからはほど遠い。そんな祈りであり礼拝です。しかし、それを天の長老が小羊のところに携えていってくれるのです。そうやって、私たちもまた礼拝に参加させていただいているのです。私たちが今日、それぞれの場所で捧げるまことに不信仰な粗末な礼拝も、このようにして天の礼拝に連なっているのです。

 そして、四つの生き物と長老たちは、新しい歌をうたいます。「あなたは、巻物を受け取り、その封印を開くのにふさわしい方です。あなたは、屠られて、あらゆる種族と言葉の違う民、あらゆる民族と国民の中から、御自分の血で、神のために人々を贖われ、 彼らをわたしたちの神に仕える王、また、祭司となさったからです。彼らは地上を統治します」(9‐10節)。

 屠られた小羊のしてくださったことが、ここに高らかに歌われています。ここに歌われているのは、まさに私たちに直接関係していることです。私たちはもともと神の民ではなかったのです。異邦人だったのです。しかし、恵みからずっとずっと遠くにいた私たちをも、小羊は御自分の血で、神のために贖ってくださいました。神のものとし、「神に仕える王、また祭司」としてくださったのです。

 私たちは「神に仕える王」としていただきました。当時、ローマ帝国においては、それぞれの地域に支配者が立てられていました。その上に皇帝が支配していたのです。ですから皇帝は「地上の王たちの支配者」と呼ばれていました。しかし、聖書はそれに否を唱えるのです。「地上の王たちの支配者」は皇帝ではない。真の支配者はキリストであると。ですから1章5節ではイエス・キリストが「地上の王たちの支配者」と呼ばれているのです。そのキリストが支配する王たちとは誰か。それは私たちだというのです。私たちは最終的に、キリスト以外の何ものにも支配されることはないのです。キリストに支配される王ですから。

 そしてまた、キリストは私たちを「祭司」としてくださいました。祭司は神と人との間に立つのです。もちろん、真に神と人との間に立って執り成してくださるのはまことの大祭司なるキリストだけです。しかし、その大祭司のもとにある祭司として、私たちもまた務めを果たすのです。

 そのように小羊は、私たちを神に仕える王としてくださいました。祭司としてくださいました。そのために小羊自らが血を流して、私たちを贖ってくださいました。それは本当はこの上ない喜びであるはずです。しかし、私たちはなかなかそれが分からない。ですので、先に天の長老たちが喜びをもって歌っていてくださるのです。

 いやそれだけではありません。そこに万の数万倍、千の数千倍の天使たちが現れて小羊を誉めたたえます。また、天と地と地の下と海にいるすべての被造物が誉めたたえます。屠られた小羊は、天使たちのために屠られたのではなくて、私たちのためでしょう。なのに、まず天使たちが屠られた小羊をふさわしく讃えていてくれているのです。全被造物が先に誉めたたえていてくれているのです。「屠られた小羊は、力、富、知恵、威力、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です。」「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、そして権力が、世々限りなくありますように」と。

 そして、この讃美の歌声の最後に、四つの生き物が「アーメン」と叫ぶのです。「そのとおり!」と叫ぶのです。この幻が書き記されて私たちに伝えられているのは、私たちも遅ればせながら、その「アーメン」を唱和できるようになるためであるに違いありません。私たちもまた、地上において「そのとおり。アーメン」と信仰を言い表して天の礼拝に連なる地上の礼拝をおささげするのです。
(祈り)

2020年5月3日日曜日

「キリストが教会の扉をたたかれる時」

ヨハネの黙示録3:14‐22

キリストを閉め出してしまった教会
 教会がキリストを外に閉め出してしまって、もはや教会にはキリストがおられない。そんなことがあり得るのでしょうか。教会がキリストを外に閉め出してしまって、もはや聖餐の場にキリストはおられない。そんなことがあり得るのでしょうか。――今日お読みした聖書箇所は、確かにそのようことがあり得ることを明瞭に示しています。

 今日は第2朗読においてヨハネの黙示録が読まれました。「黙示録」と呼ばれていますが、内容的には手紙です。差し出し人と宛先は1章に書かれています。「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」(1:4)。時は紀元1世紀も終わりの頃。皇帝ドミティアヌスの治世。帝国規模に広がった迫害の中で苦しんでいた教会に宛てられた手紙です。それは集まって共に礼拝する中で朗読されるために書かれた手紙です。

 差し出し人であるヨハネはパトモスと呼ばれる島にいました(1:9)。その島は流刑地の一つでした。ヨハネは囚われの身としてそこにいたのです。そのヨハネがある主の日に声を聞きます。声の主は復活されたキリストでした。主はヨハネに言われました。「あなたの見ていることを巻物に書いて、エフェソ、スミルナ、ペルガモン、ティアティラ、サルディス、フィラデルフィア、ラオディキアの七つの教会に送れ」(1:11)。そうしますと、差し出し人はヨハネですが、実際にはキリストから七つの教会への手紙と言うこともできるでしょう。

 そのような手紙の中で次のように語られていました。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(20節)。ここで語っておられるのはキリストです。ここでキリストがたたいておられるのは、まだキリストを信じていない未信者の心ではありません。繰り返しますが、これは教会に宛てられた手紙なのです。

 この言葉は、14節に見ますように、「ラオディキアにある教会」の天使に書き送られた言葉です。つまり、その教会に対して語られた言葉なのです。外に立っておられる主がたたいておられるのは、教会の扉であり、キリスト者の扉なのです!教会がキリストを外に閉め出してしまって、もはや教会にはキリストがおられない。そんなことがあり得るのでしょうか。――そうです、あり得ることなのです。

あなたがたは熱くも冷たくもない では、キリストを閉め出してしまったラオディキアの教会とはどのような状態にあったのでしょうか。ラオディキアのキリスト者はどのような人々だったのでしょうか。主は15節以下で次のように語っておられます。「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」(15‐16節)。

 彼らは冷たくはなかったのです。冷たくはないというのは、キリストを否み、信仰を捨てた人々ではない、ということです。彼らは棄教したわけではないのです。教会の迫害者の側にいるわけでもありません。彼らはあくまでもキリスト者です。ラオディキアの教会は、あくまでも教会なのです。

 しかし、彼らは冷たくはないのですが、熱くもないのです。これは単に熱心でない、ということではありません。熱心に伝道し、熱心に奉仕をしていない、ということでもありません。むしろ、彼らはもしかしたら、いわゆる熱心なキリスト者であり、熱心な教会であったかもしれないのです。

 ここで「冷たくも熱くもない」と言われていることの内容は、17節に次のように説明されています。「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」(17節)。

 ラオディキアは商業都市として栄えた町であり、いわば当時の世界の商業的中心地でありました。そこにある教会は、貧しいエルサレムの教会と比べて、豊かな人々が比較的多かったに違いありません。サポートする側とされる側ということを言うならば、明らかにサポートする側の教会だったと思います。「わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない」という言葉は傲慢に聞こえますが、しかし、実際にはそのような豊かな教会が、貧しい教会を支えていたのです。熱心に支えていたのです。そして、そのような教会は、全教会の中においても重要な位置を持っていたのでしょう。

 いや、単に経済的な豊かさだけではありません。ラオディキアの教会は、霊的な意味においても豊かな教会、指導的な立場にある教会を自認していたのではないかと思われます。彼らは「わたしは見えている」と思っていたのです。見えている人々は、見えていない人々を指導せねばならないと思うのでしょう。手引きしなくてはならないと思う。「あなたの目からおが屑を取らせてください」(マタイ7:4)と言って、奉仕することが自分たちの努めであると思うのです。

 しかし、主はラオディキアの教会に言われます。「 あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない。」そして、イエス様はこう言って勧めるのです。「裕福になるように、火で精錬された金をわたしから買うがよい。裸の恥をさらさないように、身につける白い衣を買い、また、見えるようになるために、目に塗る薬を買うがよい」(18節)と。

 「わたしから買うがよい」とイエス様が言われるということは、要するに、彼らはそれらをイエス様にこれまで求めてはいなかった、ということを意味するのでしょう。イエス様から得ることなくして、豊かになっていたのです。豊かなつもりでいたのです。イエス様に求めることなくとも、目の見える者として振る舞えたのです。イエス様によって目に塗る薬を与えられずとも、目の見える者のように他者を裁くことさえできたのです。いつのまにか、自分の貧しさが分からなくなり、熱心にイエス様に求めることもなくなってしまった。イエス様に祈り求めることなくして、他者に何かを与え得るかのように、他者に何かを為し得るかのように思っていたのです。そのようにして、いつの間にか、イエス様を教会から閉め出してしまっていたのです。自分の信仰生活からも閉め出してしまっていたのです。

 「熱くも冷たくもなく、なまぬるい」とはこういうことです。それはいわゆる「なまぬるいクリスチャン」のことではないのです。見たところ熱心なキリスト者、熱心な教会かもしれないのです。「なまぬるいので、口から吐き出そう」――それは要するに傲慢なキリスト者のことなのです。自分の貧しさを知らない、目の見えないことを知らない、傲慢なキリスト者、傲慢な教会のことなのです。

熱心に努めよ。悔い改めよ
 しかし、ありがたいことに、キリストは教会をそのような状態に放ってはおかれません。教会が、キリスト者が、イエス様を閉め出したままの傲慢な状態、それゆえに惨めな状態であり続けることを、主は良しとはされないのです。主は愛する者を皆、「叱ったり、鍛えたりする」と言われるのです。

 私たちは実際、しばしば主の御手によって、自分の傲慢さ、そして自分の惨めさを思い知らされるのです。「なぜ教会にこんなことが起こるのか。なぜ私の人生にこんなことが起こるのか」と思えるような事ごとを通して、私たちは自分自身を思い知らされるのです。そこで、主は言われるのです。「だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」と。

 主の懲らしめの時、それは言い換えるならば、主が教会の扉をたたかれる時です。また、キリスト者の人生の扉をたたかれる時なのです。主は扉をたたき続けられます。諦めることなくたたき続けられます。私たちは主のノックの音、そして呼びかける声を聞くのです。そして、主の声を聞いて自ら扉を開けて主を迎える。それこそが、ここで語られている悔い改めに他なりません。扉を大きく開いて、主をお迎えするのです。

 そうする時に、主は私たちと食事を共にしてくださるのです。ここに語られているのは、特にパン割き、すなわち聖餐のことであろうと思われます。主が共に食事をしてくださってこそ、聖餐が本当の意味で聖餐となるのです。聖餐が聖餐となるのは、扉を開けることによってなのです。すなわち、悔い改めによってなのです。

 3月1日の主の日、私たちは聖餐式の執行を中止しました。新型コロナウイルスの感染リスクが高いとの判断に基づく決断でした。恐らく戦時中を除いて教会としては初めての聖餐の執行中止であったと思います。そして、その主日以降、私たちは聖餐式を行うことができていません。イースターにさえ、私たちは聖餐を行うことができませんでした。それはある意味では主が聖餐を行うことをお許しにならなかったからであると言えるでしょう。

 私たちはそのような事態の中で、「わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ」と呼びかけられているのです。そのような私たちはいったいいつ共に聖餐にあずかることができるのでしょうか。主は言われるのです。「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(20節)。

 私たちが再び集まって聖餐が行えるようになるのは、感染拡大が収束に向かうことによってではないのです。そうではなく、主がたたく音を私たちがしっかりと聞いて、悔い改めた者として扉を開けることによって、主が私たちと食事を共にしてくださるのです。私たちは、そのように真の聖餐を行うことができる時に向けて、私たち自身を備えたいと思うのです。

(祈り)

2019年11月24日日曜日

「すべての人の目が彼を仰ぎ見る」

黙示録1:4-8

恵みと平和が三位一体の神から
 今日はヨハネの黙示録をお読みしました。「黙示録」と呼ばれていますが、内容的には手紙です。時は紀元1世紀も終わりの頃。皇帝ドミティアヌスの治世。帝国規模に広がった迫害の中で苦しんでいた教会に宛てられた手紙です。

 それは集まって共に礼拝する中で朗読されるために書かれてた手紙でした。迫害の時代、集まることはそれ自体危険なことでした。しかし、共に礼拝することが命よりも大事だと思っていた人たちがいたのです。そのような人たちに大きな慰めと励ましを与えた手紙です。

 今日は4節以降が朗読されました。手紙ですから「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」という書き出しとなっています。パウロの手紙ですと、たいていは「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と続きます。しかし、ヨハネの黙示録では三位一体の神を念頭に置いて、挨拶が書かれています。

 まず、父なる神が、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と表現されています。続いて、聖霊については「玉座の前におられる七つの霊」と表現されています。「七」は完全を現す数字です。聖霊を「七つの霊」と言い表すのは、ヨハネの黙示録にしかない独特な表現です。

 そして、最後にイエス・キリストについては、「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」と表現されています。このような三位一体の神から「恵みと平和があなたがたにあるように」と挨拶の言葉が記されているのです。ここだけでも、三位一体の神様について、大変豊かな内容が語られています。

 しかし、今日は特に、この挨拶に続いて語られている言葉に耳を傾けたいと思います。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(5節後半‐6節)。このように、キリストが誉め讃えられています。ヨハネがこのように書いているのは、これを読んでいる私たちもまた、ヨハネと声を合わせてキリストを賛美するためです。先にも申しましたように、これは何よりも礼拝において読まれるために書かれた書ですから。

 さらに続いて、そのように礼拝されている御方が、再び来られることについて語られています。これをキリストの再臨と言います。「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン」(7節)。

 次週から教会の暦においては「待降節(アドベント)」に入ります。教会暦の一年はアドベントから始まります。アドベントという呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。その「到来」とはキリストの到来です。この期間は第一に、キリストが二千年前に「到来した」ことに思いを馳せる時です。キリストが既に来られたことの意味を深く思い巡らすべき時です。しかし、それだけではありません。この期間は第二に、キリストが再び「到来する」こと、すなわち「キリストの再臨」に思いを馳せる時でもあります。こうして教会の一年を締めくくり、そのようなアドベントの季節を迎えようとしている私たちとして、私たちは今日の御言葉に耳を傾けているのです。

天に挙げられた御方が
 再び来られるキリストは、いかなる御方であるのか。まず、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」だと語られています。「わたしたちを愛し」――これは現在形で語られています。天に上げられたあの御方が、今、私たちを愛していてくださるのです。さらに言うならば、それは「愛し続けていてくださる」というニュアンスの表現です。どんな状態にあったとしても変わることなく愛し続けていてくださる。

 先にも申しましたように、最初にこの言葉を聞いた人たちは迫害の中にあったのです。しかし、救いの時が来て初めて私たちは愛していただくのではないのです。悲しみもある。苦しみもある。そのような現在において、私たちは愛されているのだ、と語られているのです。

 そのように私たちを愛してくださっている方が、私たちを罪から解放してくださいました。「罪から解放してくださった」は過去の一点を指す表現です。すなわち、あの十字架の時を指して語られているのです。私たちはキリストの十字架によって、罪の負い目から自由にされました。もはや私たちは自分の罪のゆえに滅びることはありません。代価は支払われました。罪の負債はすべて支払われました。「御自分の血によって罪から解放してくださった」とはそういうことです。

 さらに言えば、罪の負い目から自由にされただけでなく、本当は罪の力そのものからも既に解放されているのです。今はまだ戦いの中にあるかもしれません。葛藤は続いているかもしれません。しかし、既に勝利は定まっているのです。私たちはあの時、あの一点において、完全な救いにあずかって、完全に罪の力から解放されることが定まっているのです。「御自分の血によって罪から解放してくださった」とはそういうことです。

 そして、キリストは「わたしたちを王とし、御自分の父である神に仕える祭司としてくださった方」だと語られています。それにしても、「わたしたちを王としてくださった」とは驚くべき言葉ではありませんか。

 ローマ帝国においては、それぞれの地域に支配者が立てられていました。その上に皇帝が支配していたのです。ですから皇帝は「地上の王たちの支配者」と呼ばれていたのです。しかし、聖書はそれに否を唱えるのです。「地上の王たちの支配者」は皇帝ではない。真の支配者はキリストであると。ですから5節ではイエス・キリストが「地上の王たちの支配者」と呼ばれているのです。そのキリストが支配する王たちとは誰か。それは私たちだというのです。私たちは最終的に、キリスト以外の何ものにも支配されることはないのです。罪も死も私たちを支配することはできないのです。キリストに支配される王ですから。

 そしてまた、キリストは私たちを「父である神に仕える祭司」としてくださいました。祭司は神と人との間に立つのです。もちろん、真に神と人との間に立って執り成してくださるのはまことの大祭司なるキリストだけです。しかし、その大祭司のもとにある祭司として、私たちもまた務めを果たすのです。

 私たちは自分の罪の赦しを求めるだけでなく、この世の罪の赦しを求めて祈ることができるのです。それは私たちの特権であり、また同時に義務でもあります。祭司として神に仕え、祭司として執り成し祈る義務です。考えてみますならば、まことに罪深い私たち自身がその罪を赦され、他者のために執り成すことが許されているということは、なんと驚くべきことかと思います。それはただキリストのゆえに与えられた恵みなのです。キリストが私たちを愛して、御自分の血によって罪から解放してくださったからなのです。

やがて再び来られる
 そのような御方が天におられる。そして、やがて再び来られるのです。再び来られることについては、次のように書かれています。「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。」

 キリストが「雲に乗って来られる」という表現は、もともと旧約聖書のダニエル書に用いられていた表現です(ダニエル7:13)。イエス様御自身も大祭司の前で「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問われた時、「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(マルコ14:62)と言われました。

 「雲に乗って」と語られ、あるいは「雲に囲まれて」と語られる。それはあくまで表象を用いた表現です。実際には、キリストの再臨がどのように実現するのかは、私たちの理解を遙かに超えた出来事だと言わざるを得ないのでしょう。しかし、重要なことは、そこで「すべての人の目が彼を仰ぎ見る」ということが起こる、ということです。どのような仕方で来られるにせよ、「すべての人の目が彼を仰ぎ見る」のです。

 ことに「彼を突き刺した者ども」が仰ぎ見ると語られています。「突き刺した」が意味するのは、キリストを十字架にかけたということでしょう。「キリストを十字架にかけた者ども」と言いますと、「自分たちはそうしなかったけれど、そうした奴らは」と言っているように聞こえますが、そうではありません。これを受けとったキリスト者たちは知っているのです、キリストを十字架にかけたのは他ならぬ自分たちの罪であった、と。そうです、ここに書かれているのは、私たち自身を含めたこの世界のことなのです。

 それゆえに「地上の部族は皆、彼のために嘆き悲しむ」と書かれているのです。そのように、この世界全体に「嘆き」が起こるのです。間違えてはならないのは、ここに書かれている嘆きは、裁かれる自分を思っての嘆きではないということです。ですからあえて「彼のために嘆き悲しむ」と訳されているのです。裁かれる自分を思って嘆いているだけならば、「自分のために嘆き悲しむ」だけでしょう。

 「彼のために嘆く」というのは、キリストが何をしてくださったかが分かるということです。私たちの罪のために十字架の上で苦しんでくださったことが分かるということです。自分たちの罪がキリストを苦しめたのだということが分かるということです。「彼のために嘆く」とはキリストの御苦しみを思っての嘆きです。そのように人間の罪と、その罪を贖うためにキリストが苦しんでくださったという事実が、すべての人に明らかにされる時が来るのです。

 それがいつであるかは分かりません。いつであるかは知らされてはいません。ならば大事なのは「その時」ではなくて「今」です。そのような終わりの時に向かっている「今」を生きることです。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」の御前で、私たちは「今」どのように生きているのか。「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方」の御前で、私たちは「今」どのように生きているのか。その御方をやがてお迎えする私たちとして、私たちは「今」どのように生きているのか。そのことを自らに問いつつこの週を過ごし、アドベントを迎えましょう。

(祈り)

2015年11月22日日曜日

「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」

2015年11月22日  
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの黙示録 1章4節~8節


今おられる御方
 今日はヨハネの黙示録をお読みしました。「黙示録」と呼ばれていますが、内容的には手紙です。時は紀元1世紀も終わりの頃。皇帝ドミティアヌスの治世。帝国規模に広がった迫害の中で苦しんでいた教会に宛てられた手紙です。それは集まって共に礼拝する中で朗読されるための手紙です。迫害の時代、集まることはそれ自体危険なことでした。しかし、共に礼拝することが命よりも大事だと思っていた人たちがいたのです。そのような人たちに大きな慰めと励ましを与えた手紙です。

 今日は4節以降が朗読されました。手紙ですから「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」という書き出しとなっています。そして、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」という言葉が続きます。これはもう一度8節で繰り返されます。「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファであり、オメガである』」。

 主なる神は、「やがて来られる方」として語られています。「やがて」という言葉は原文にはありません。ですからこれは「いつか遠い未来に来られる」という意味ではありません。いわば刻々とこちらに向かって近づいて来ているということです。神の足音が近づいて来るというイメージでしょうか。もちろん救いのために近づいて来られるのです。

 迫害の中にある教会にとって、この言葉がどれほど大きな慰めであったかを思わされます。彼らの集まりは常に脅かされていました。いつでも近づいて来るものに脅かされていました。それこそ誰かが近づいて来る足音に脅かされていたでしょう。さらに言うならば常に死の足音が近づいて来るのが聞こえるということでもある。しかし、そのような教会に対して、本当に意識すべきは死が迫り来ることではなくて、「神が近づいて来られる」ということだとヨハネは語るのです。そちらの方が死の迫りよりも重要なのだということです。

 そして、そこには不思議なことが書かれているのです。「やがて来られる」ならば、論理的に考えるならば「それまではいない」ということになるではありませんか。しかし、その前には「今おられ、かつておられ」と書かれているのです。

 艱難の時は永遠に続くのではありません。死の迫り来る足音に怯える時は永遠に続くのではありません。神が到来するのです。救いの時が来るのです。まさに神が神として御自身を現される時が来るのです。しかし、救いが実現した時になって初めて主なる神が共にいてくださるのではないのです。そうではなくて、実はその神が「かつておられ」たと知ることになるのです。すなわち過去もまた神と共にあったと知ることになるのです。

 想像して見てください。迫害の中にあって、仲間が捕らえられて殺されてしまったとなったらどうですか。それこそ、まさに神が不在であったとしか人間の目には映らないではありませんか。この世の悪の力だけ、死の力だけが支配している。神はおられなかった、と。しかし、そうではないのです。「かつておられ」とヨハネは言うのです。

 私たちもそうでしょう。過去の悲しい出来事。なんであんなことになったのか、と思うこと。神様はあの時おられなかった。そう思えるようなことがあるでしょう。しかし、そうではなかったと知る時が来るのです。確かに神はおられた。そして、その時には見えなかったけれど、確かにわたしは神の愛の支配の内にあった。そう知る時が来るのです。「かつておられ」とはそういうことです。

 だからそれを信じて、今を生きるのです。それゆえに最初に「今おられ」と書かれているのです。ヨハネは苦難の中にある教会に、まず「今おられ」と宣言するのです。神である主は、やがて来られるだけでない。かつておられただけでない。そうです、「今おられる!」。このヨハネの黙示録は、ただ未来についての予告を書き記したような手紙ではありません。そうではなくて、大事なことは、最後を握っておられる方、その御方が「今おられ」と信じて生きるための手紙なのです。

真実な証人
 そのように私たちは主なる神が「今おられる」と信じて、共に集まって礼拝し、その御子イエス・キリストを主として生きていくのです。その御支配の中にあると信じて生きていくのです。その御方についてはこう書かれています。「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者、イエス・キリスト(から恵みと平和があなたがたにあるように)」(5節前半)。

 私たちが仰ぐその御方こそ「証人」です。「証人、誠実な方」はまた「真実な証人」とも訳せます。またヨハネの黙示録が書かれた頃、「証人」という言葉はまた「殉教者」という意味をも持っていました。命をかけた証人です。その意味では、イエス様こそ、命をかけた第一の証人でしょう。

 イエス・キリストこそ、私たちに「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」なる神を証ししてくださった御方です。神が不在と思えるような苦難の中にあってなお、この御方は命をかけて、「神はおられるよ、あなたを愛しておられるよ、あなたと共におられるよ」と身をもって証ししてくださった御方です。

 その御方は「死者の中から最初に復活した方」だと語られています。そう訳されていますが、本当は「死者の中から最初に生まれた方」あるいは「死者の中からの長子」と書かれているのです。同じ表現はコロサイ書にもあります。これは実は重要な言葉なのです。イエス様は死んで葬られたのだけれど、そこに閉じ込められてはいませんでした。死の中に閉じ込められていませんでした。ちょうど母の胎から生まれるように、そこから出て来られたのです。そのようにして、イエス様は死の意味を変えてしまいました。イエス様によって、死は新しい誕生をもたらす母の胎とされたのです。

 考えてみてください。「神はおられない」という叫びが最も悲痛なものとなるのは人の死に際してではありませんか。死に直面するときに、特に悲惨な死に直面する時に、「ああ、神なんておられない。あるいはおられたとしても、わたしと共にはいてくださらない」と思うわけでしょう。それこそ肉の目から見れば、イエス・キリストの死こそ、あの理不尽な死こそ、神不在のしるし以外の何ものでもないでしょう。しかし、イエス様は死を新しい誕生にしてしまって、「神は共にいるよ」と証ししてくださったのです。「神はあなたと共にいるよ。そして、死を新しい命への誕生に変えてしまわれたよ」と。

王として、祭司として
 そのような御方を私たちは信じているのです。そのような御方に栄光を帰し、共に礼拝を捧げているのです。ヨハネも次のような言葉をもってキリストを讃えます。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(5節後半‐6節)。

 まず、キリストは「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」だと語られています。私たちは愛されているのです。救いの時が来て初めて私たちは愛していただくのではないのです。悲しみもある。苦しみもある。迫害さえもある。そのような現在において、私たちは既に愛されているのです。

 そのように私たちを愛してくださっている方が、私たちを罪から解放してくださいました。私たちは罪の負い目から自由にされました。もはや私たちは自分の罪のゆえに滅びることはありません。代価は支払われました。罪の負債はすべて支払われました。

 さらに言えば、罪の負い目から自由にされただけでなく、本当は罪の力そのものからも既に解放されているのです。今はまだ戦いの中にあるかもしれません。葛藤は続いているかもしれません。しかしやがて私たちは完全な勝利の中で完全に罪の力から解放された自分自身を見ることになるのです。

 そして、キリストは「わたしたちを王とし、御自分の父である神に仕える祭司としてくださった方」だと語られています。「わたしたちを王としてくださった」とは驚くべき言葉ではありませんか。ローマ帝国においては、それぞれの地域に支配者が立てられていました。その上に皇帝が支配していたのです。ですから皇帝は「地上の王たちの支配者」と呼ばれていたのです。

 しかし、聖書はそれに否を唱えるのです。「地上の王たちの支配者」は皇帝ではない。真の支配者はキリストであると。ですから5節ではイエス・キリストが「地上の王たちの支配者」と呼ばれているのです。そのキリストが支配する王たちとは誰か。それは私たちだというのです。私たちは王として、キリスト以外の何ものにも支配されない王として生きたらよいのです。真に畏れ従うべき御方を知るとはそういうことなのです。

 そしてまた、キリストは私たちを「父である神に仕える祭司」としてくださいました。祭司は神と人との間に立つのです。もちろん、真に神と人との間に立って執り成してくださるのはまことの大祭司なるキリストだけです。しかし、その大祭司のもとにある祭司として、私たちもまた務めを果たすのです。

 私たちは他者の上に罪の赦しを求めることができる。この世の上に罪の赦しを求めることができるのです。それは私たちの特権であり、また同時に義務でもあります。祭司として神に仕え、祭司として執り成し祈る義務です。考えてみますならば、まことに罪深い私たち自身がその罪を赦され、他者のために執り成すことが許されているということは、なんと驚くべきことでしょう。そして、なんと光栄に満ちた務めを与えられていることでしょう。それはただキリストのゆえなのです。キリストが私たちを愛して、御自分の血によって罪から解放してくださったからなのです。

 これが私たちの信じるキリストです。私たちが礼拝を捧げている御方です。私たちもヨハネに声を合わせて主を讃えたいと思います。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(5節後半‐6節)。

以前の記事