コリントの信徒への手紙二 5:16-6:2
「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(17節)と書かれていました。人は新しくなれる。人は新しく生きることができる。聖書はそのように教えています。聖書はこのことを「新しく創造される」と表現しています。人間を造られたのは神です。その神の新しい創造によって、人は新しくなるのです。では、この新しい創造における《新しさ》とは何でしょう。人が新しくなるとは、どのようなことを意味するのでしょうか。
世を御自分と和解させ
そこで18節以下に目を向けますと、次のように書かれています。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(18‐19節)。
「新しい創造」の話しが続くと思って読んでいきますと、期待に反してパウロはここで唐突にも「和解」の話を始めます。そこでひとまず「新しい創造」は横に置いておくことにしまして、彼の論述に従って、まず「和解」ということに目を向けてみましょう。
「和解」とは関係の回復です。この聖書箇所において取り上げられているのは「神との関係」です。「神との関係」がどうなっているか、ということです。ところで、一般的に「神」について語られる時、「神との関係」が話題になることはまずありません。一般的に話題になるのは、「神の存在を信じているかどうか」です。ある人は「わたしは神が存在すると信じています」と言い、ある人は「わたしは神がいるなんて信じない」と言います。クリスチャンとは「神がいると信じている人のこと」だと思っている人は少なくありません。
しかし、聖書は私たちに「あなたは神の存在を信じていますか」とは問いません。そうではなくて、「あなたと神との関係はどうなっていますか」と問うのです。そして、「あなたと神との関係はどうなっていますか」という問いは、私たちの最も深い内面を問う質問となります。なぜなら、神との関係において問題となるのは表面的なことではないからです。人との関係ならいくらでもごまかしが利きます。表面的に良いおつきあいをすることはいくらでもできます。しかし、神との間ではそうはいきません。聖書は言います。「すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」(ヘブライ4:13)。
神との関わりにおいては、私たちの深い部分、そして隠れた部分が問題となります。それゆえに、どうしても目を向けざるを得ないのが私たちの罪の問題です。人の目には隠れていて問題とならないことも、神との間では問題となるのです。「すべてのものが神の目には裸」ですから。そして、罪を正しく裁くことのできる神によって私たちが罪を問われるとするなら、私たちは神に顔向けができなくなります。アダムとエバは、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れたと書かれています。私たちの罪を問われるならば、私たちもまたそうせざるを得ないのです。
しかし、先ほどお読みしたところには次のように書かれていました。もう一度お読みします。「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。 つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです」(18‐19節)。
「人々の罪の責任を問うことなく」――確かにそう書かれていました。罪を裁くことのできる御方が、罪の責任を問うことのできる御方が、「わたしはあなたたちの罪の責任を問わない」と言われるのです。「罪の責任を問う」とは、直訳すると「罪過を数え立てる」という意味の言葉です。私たちはしばしばお互いの間で罪を数え立てるということをしているのでしょう。「あの人はこういうことをした。ああいうことをした。また、同じことをした」と、心の中の記録にしっかりと記帳するのだと思います。しかし、神はそのようなことをされないのだ、と言うのです。神はもはや罪を数え立てることはしないと言われるのです。
いや、罪を数え立てないだけではありません。さらに驚くべきことが語られています。神の方から人間に対して和解を求められた、ということです。これがどれほど驚くべきことかは、少し考えただけでもわかります。罪があるのは私たちです。神との関係が壊れているとするならば、問題は一方的に人間の側にあるのです。そして、常識的に考えるならば、罪を犯した方が誠意を見せて和解を願い求めるのが筋でしょう。
しかし、私たちが願う以前に、神の方から和解を望んでくださったというのです。そうです、パウロは私たち人間に対して伸ばされた神の御手を知ったのです。この世に伸ばされた和解の御手、救いの御手、それはこの地上に来られた神の御子イエス・キリストです。「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ」とパウロが言っているのは、そういうことです。
キリストの懇願
その意味するところは具体的に21節に記されています。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(21節)。これは毎週礼拝において私たちが耳にしている言葉です。「罪と何のかかわりもない方」とはキリストのことです。その罪のない方を、神は罪人のひとりとして裁かれました。裁かれる必要のない方が裁かれました。死ぬ必要のない方が死なれました。神の御子が十字架にかけられたという出来事は、神御自身がそのような形において人間の罪を引き受けられたということを意味するのです。
本来私たちが負うはずの罪の重荷はキリストが負ってくださいました。そして、神は御子の身代わりをもって、もはや私たちの罪の責任を問うまいとされたのです。キリストの十字架のゆえに、もはや罪過を数え立てることをされないのです。罪を数え立てる代わりに、和解の言葉を与えてくださったのです。それをパウロに託し、教会に託してくださったのです。ですからパウロはこう言うのです。「ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(20節)。
「キリストに代わってお願いします」とパウロは言いました。それは「懇願する」と訳してもよいような言葉です。キリストに代わって懇願しているのですから、もともと懇願しておられるのはキリストです。「神と和解させていただきなさい!」これは私たちのために十字架にかかられたキリストの懇願の言葉です。なぜ懇願しておられるのでしょうか。そこには人間の側のアクションが必要だからです。和解は一方的には成り立たないからです。
和解のために必要なすべてはキリストが十字架において成し遂げられました。そして、和解の言葉が伝えられました。神は和解の手を伸ばしてくださいました。しかし、それだけでは和解は成り立ちません。神が和解の御手を伸ばしてくださったとしても、その手を払いのけたら和解は成立しません。私たちの側としては、自らの罪を神の前に認めて、「和解の言葉」を感謝をもって受け入れ、私たち自らが神に立ち帰る必要があるのです。そのようにして、人は神との新しい関係に生き始めるのです。主はそのことを願っておられるのです。
さて、冒頭の問いに戻りましょう。新しい創造における《新しさ》とは何でしょう。人が新しくなるとは、どのようなことを意味するのでしょうか。それは既に見てきた聖書の言葉において明らかであろうと思います。新しい創造の《新しさ》とは、神との和解によって与えられる、《関係の新しさ》なのです。人は、神と和解させていただいて、神との新しい関係の中に、新しく創造されるのです。人は新しい自分を求め、新しい自分になろうとして、様々なことを試みるかもしれません。しかし、本当に重要なことは、神との関係において、新しくなることなのです。その新しさこそが、永遠の意味を持つのです。
今こそ、救いの日
そして、最後にもう一つ大事なことに目を向けたいと思います。私たちが今日読んでいるのは教会に宛てて書かれた手紙であるということです。つまり「神と和解させていただきなさい」という言葉そのものは、この世界に対する宣教の言葉なのですが、今日の箇所全体は、直接的には、既に神と和解させていただいて神と共に生き始めているキリスト者に対して語り掛けられている言葉なのです。
これは何を意味しますか。和解させていただいて、それで終わりではない、ということでしょう。和解させていただいたなら、和解させていただいた者として、その新しい関係に生き続けるということが大事になってくるということです。ですから、パウロは更に「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」(6:1)と勧めるのです。「神の恵みをいたずらに受けてはならない」と口語訳では訳されていました。これは大切なことです。洗礼を受けてそれで完了なのではありません。受けた恵みが無駄になってしまうようなことは、あってはならないのです。神と和解させていただいたのなら、神との関係において新しく創造されたのなら、その新しい命を日々神と共に生きていくということが大事になってくるのです。
それゆえに、「神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません」という言葉は、次のように続きます。「なぜなら、『恵みの時に、わたしはあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、わたしはあなたを助けた』と神は言っておられるからです。今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(6:2)。
「あの日、わたしはキリストを信じました。」「あの日、わたしは回心しました。」「あの日、わたしは洗礼を受けました。」――それもまた人生における大事な「日」であり「時」なのでしょう。しかし、最も大事なのは「あの日」ではなくて「今」なのです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」とパウロは言います。今、神との関係はどうなっているでしょうか。
(祈り)
2021年7月25日日曜日
「神の恵みによって新しく生きる」
2021年7月18日日曜日
「神の怒りと憐れみ」
ローマの信徒への手紙 9:14‐29
神に不義があるのか
「では、どういうことになるのか。神に不義があるのか。決してそうではない」(14節)。本日の第2朗読は、そのような言葉から始まっていました。
「神に不義があるのか」という問いは、明らかに「神に不義がある」と思う人がいることを想定して語られています。では、どうして「神に不義がある」と思うのでしょう。その直前には、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」という言葉があります。これを読みますと「ああ、なるほど、それに対して『神に不義がある』という言葉が出て来るのだな」と思うかもしれません。実際、「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」いう言葉につまずく人はいるだろうと思います。神ならばすべての人を平等に愛するべきだと思っている人は、このような言葉を聞けば「そんな神は正しくない。神に不義がある」と思うでしょう。
しかし、それはあくまでも今日の私たちの感覚なのです。当時のユダヤ人は「わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ」というこの言葉につまずくことはないのです。むしろ「それは当然でしょう」と思うのです。というのも、ヤコブはユダヤ人の祖先であり、エサウというのはエドム人の祖先と考えられていたからです。そして、エドム人は長い間イスラエルに敵対してきた民族なのです。ユダヤ人にとっては、神が「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」と語るのは極めて当然のことなのです。
ではなぜ「神に不義がある」という言葉が出て来るのでしょうか。それはこの言葉の引用の仕方に対してなのです。パウロはこれを神の「自由な選び」の例証として引用しているのです。つまりその直前の11節以下に書かれているように、ヤコブが選ばれたのは「人の行いによらず」、ヤコブとエサウの善悪によるのでもないのだ、とパウロは言っているのです。正しいから選ばれたのでも、何か優れた点があるから選ばれたのでもない。ただ神が「ヤコブを愛し、エサウを憎んだ」ということなのだ、と。
ユダヤ人ならばこのことにはつまずきます。それはユダヤ人にとっては大問題なのです。なぜなら、彼らは、自分たちに優れた点があるから選ばれたと思っているからです。それがいわゆる選民思想です。アブラハムの子孫として生まれ、割礼を受け、律法を守って生活していることが、選びと救いの根拠であると思っているのです。そのような自分たちと、無割礼の者たち、律法を守らない輩、異教の人々、豚を食う連中と一緒にされたくないのです。神が義なる神であるなら、選ばれるにふさわしい人を選び、救われるにふさわしい者を救うのでなくてはならない。もしそうでないならば、神は正しい神とは言えない。不義であるということになる。――「神に不義があるのか」というのは、そのような文脈において語られている言葉なのです。
かたくなにされる神
しかし、そのような「神に不義があるのか」という言葉に対して、パウロは「決してそうではない」と一蹴するのです。そして、人間の側の義を持ち出して、神を不義とする人間の傲慢さに対し、聖書を引用しながらここから徹底的に神の主権について語り始めるのです。
神はモーセに何と言ったか。「わたしは自分が憐れもうと思う者を憐れみ、慈しもうと思う者を慈しむ」。これは出エジプト記33章19節の引用です。「憐れみを受けるにふさわしい者を憐れむ」とは言っていないのです。そして、さらにパウロは、あえて神の主権を強調する言葉を引用します。同じ出エジプト記からの引用です。神はファラオにこう語られました。「わたしがあなたがたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである」(17節)。これは出エジプト記9章16節の引用です。
その前後の物語を思い起こしてください。神はモーセを通して、奴隷であるイスラエルの民をエジプトから去らせるよう、ファラオに告げられました。しかし、それに対してファラオはこう答えたのです。「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか」(出エジプト記5:2)。ここからファラオと主なる神との戦いが始まります。
彼は主なる神の支配に逆らいます。心をますますかたくなにして、神の支配に逆らい続けるのです。しかし、それは無益な戦いでした。たとえエジプトの王であっても人間は決して神と対等ではないからです。聖書は、神に逆らって戦っているファラオが、その時点で既に完全に神の支配下にあったことを教えているのです。神に逆らうファラオの心が益々かたくなになって行ったのは、神がその心をかたくなにされたのだ、と。そのこと自体が既に神に逆らう者に対する神の裁きなのです。神はまさにファラオの心をかたくなにすることによって、神の主権を明らかにされるのです。
かたくなな心をもって神に逆らい続けたファラオは最終的に破れます。そして、奴隷の民イスラエルは救われます。ファラオが破れることによって神の主権が現され、奴隷の民が救われることによって、これが完全に神の憐れみによることが現されたのでした。パウロが引用しているように、すべては主の名が全世界に告げ知らされるためでした。そして、パウロはこう続けるのです。「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、かたくなにしたいと思う者をかたくなにされるのです」(18節)。
神に口答えするとは、あなたは何者か
皆さん、これを読んでどう思われましたでしょうか。この18節の言葉は、ある種の反応を引き起こすであろうことをパウロは知っています。だからこう続けるのです。「ところで、あなたは言うでしょう。『ではなぜ、神はなおも人を責められるのだろうか。だれが神の御心に逆らうことができようか』と」(19節)。神の絶対的な主権ということが語られるところでは、必ずこのような反応が起こるものです。
「なぜ、神はなおも人を責められるのだろうか」という言葉は、責められる点の全くない人の口からは出てこない言葉です。しかし、実際にはそんな人はいないのでしょう。神の御前に出るならば責められて然るべき点が必ずある。しかし、そこでなお人は神の絶対的主権を盾に取って自分を正当化することができるのです。わたしがかたくななのは、神がかたくなにしたのでしょう。私が悪いのも神がこのような私にしたのでしょう。誰が神の御心に逆らうことができようか。それでもなお、神がわたしを責めるとするなら、それはおかしいではないか、と。
それに対して、パウロはあくまでも神の絶対的主権についての議論を押し進めます。彼は言うのです。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」(20‐21節)。
パウロの議論はいささか乱暴なように思えなくもありません。しかし、神の絶対的な主権を主張するこのパウロの乱暴な論法によってこそ、まさに読者の内に隠れていた思いが表面に引き出されるのです。いかに常々神に言い逆らって、神に口答えして生きているか。いかに神の主権を受け入れようとせず、不遜な思い上がった心で生きているか。自分を義とし、神を不義とする傲慢な思いがいかに根強く私たちの内を支配していることか。神の主権に挑んだファラオは他人の姿ではありません。彼の姿は、神の前に身を低くしようとしない私たち人間の不遜な有様を映し出しているのです。
憐れみの器として
しかし、パウロはそのような私たちに対して、神がどのようなお方であるかを語り始めるのです。これまで見て来たように、パウロは絶対的主権者であられる神の権限を語りました。そのために焼き物師のたとえを用いました。これはイザヤ書にもエレミヤ書にも用いられている、ユダヤ人にとっては馴染み深いたとえです。しかし、パウロはそこで、焼き物師を超えた方について語り始めるのです。絶対的な権限を持ちながらも、なおも憐れみ深く関わってくださる御方なのだと語り始めるのです。
「神はその怒りを示し、その力を知らせようとしておられたが、怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたとすれば、それも、憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるためであったとすれば、どうでしょう」(22‐23節)。
神は怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍ばれたのだ、とパウロは言うのです。怒りの器として滅びることになっていた者たち――ユダヤ人たちにとって、それは異邦人に他なりませんでした。彼らこそ、怒りを受けて滅びるに相応しい者たちであると思っていたのです。しかし、実際にはそうではなかったのです。不遜にも神を不義とし、何にも支配されない自由なる神の主権を認めず、ファラオのように神に挑戦し、神に言い逆らって来たのは、選民を自認していたユダヤ人たちにだったのです。そして、それはユダヤ人だけではありません。ここにいる私たちもまた同じです。自分を正しい者とし、他人を裁き、神をさえ裁いていた私たちこそ、まさに神の怒りを受けて滅びるべき「怒りの器」であったのです。
焼き物師でしたら、そのような器はすぐにでも叩き壊してしまうでしょう。しかし、神はそうなさいませんでした。そのような怒りの器を耐え忍ばれたのでした。23節に書かれている「憐れみの器」と、22節の「怒りの器」とを、全く別の二者として考えてはなりません。本来滅びるはずであった者が憐れみを受けたから、「憐れみの器」と呼ばれているのです。神はただ憐れみによって、そのような者たちに栄光を与えようと備えられたAのです。
パウロもまた、自分自身が滅びることになっていた「怒りの器」であったことを否定できなかったに違いありません。ですから、異邦人たちと共に「憐れみの器」として召し出されていることを、感動をもって語っているのです。「神はわたしたちを憐れみの器として、ユダヤ人からだけでなく、異邦人の中からも召し出してくださいました」(24節)。
さて、私たちはどのように生きていくのでしょう。自らを正しい者として他者を断罪し、神に対してさえ「神に不義がある」と言いながら生きていくのでしょうか。あるいは、本来ならば滅びるはずの「怒りの器」が「憐れみの器」とされて生かされていることに、感謝と喜びをもって生きていくのでしょうか。
(祈り)
2021年7月11日日曜日
「神によって変えられた生活」
使徒言行録 19:11-20
今日の箇所は次のような言葉から始まっていました。「神は、パウロの手を通して目覚ましい奇跡を行われた。彼が身に着けていた手ぬぐいや前掛けを持って行って病人に当てると、病気はいやされ、悪霊どもも出て行くほどであった」(11‐12節)。
なるほど確かに「目覚ましい奇跡」の話です。病気のいやしは人々の注目を集めます。実際に、その「目覚ましい奇跡」に注目した人々の話が続きます。ユダヤ人の祈祷師たちです。彼らの中に、パウロの行っている不思議なことを見て真似をする人々がいたというのです。一例として祭司長スケワの七人の息子たちのことが取り上げられています。
そのように病気のいやしや悪霊払いは人の目を引くものです。しかし、今日の朗読はそれだけで終わりません。私たちが本当に注目しなくてはならないことを、聖書は非常に印象的な言葉をもって、次のように伝えているのです。「信仰に入った大勢の人が来て、自分たちの悪行をはっきり告白した。また、魔術を行っていた多くの者も、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その値段を見積もってみると、銀貨五万枚にもなった」(18‐19節)。
魔術を手放した人々
魔術を行っていた人々がその書物を焼き捨てるということは、もはや今後一切魔術を行うことはないということです。そこに描かれているのは決定的な生活の変化です。確かに病気のいやしも目覚ましい奇跡と言うことができますが、エフェソにおいて起こった本当に驚くべき奇跡は、人々の生活の変化だったのです。
焼き捨てられた書物は「銀貨五万枚にもなった」と書かれています。銀貨一枚は当時の労働者の平均的な日当です。銀貨五万枚は今日の五億円ほどに相当するでしょう。それは書物の量が膨大だったということもあるでしょうが、またそれらの書物はいずれも高価なものだったということでもあります。彼らが魔術に関わることによって、それだけのお金をつぎ込んできたということです。
それだけのお金をつぎ込むほどに、魔術は彼らにとって魅力的なものでした。それだけ生活の大きな部分を占めていたものでした。いわば魔術は彼らの生活を支配していたと言えます。しかし、彼らはそれを手放したのです。誰から強制されたわけでもありません。自発的に手放したのです。しかも惜しみながら、心を痛めながらではありません。「焼き捨てた」という表現は、むしろ忌むべきものとして手放したということを意味します。もはや必要ではないというだけでなく、手に絡みついた蛇を振り払うかのように、自らそれらを火の中に投げ込んだのです。
そこに起こっているのは、明らかに外からの強制ではなく、内的な変化です。内的な変化による生活の変化です。だいたい強制によって何かを手放しても、嫌々ながら生活を変えたとしても、内なるものが変わっていなかったら、やがては元の木阿弥になるのでしょう。エフェソの人々に起こったのは、そのようなことではなかったのです。彼らは内側が変えられることによって、自ら進んで魔術を手放すことになったのです。
魔術に支配された生活
さて、そもそも彼らが手放した「魔術」とは何でしょう。古来から様々な形を取って存在してきた魔術。その前に出てくるユダヤ人の祈祷師が行っていたことも同じカテゴリーに入ります。魔術的な行為の根底にあるのは、超自然的な力、神的な力を支配し、自由に用いたいという人間の欲求です。それゆえに、魔術的な行為の中心にはいつでも「自分」がいるのです。神秘的な事柄に関わっていながら、決して神は中心にはならない。中心にいるのは、何かを欲している自分、神の力を使ってでも欲求を満たしたい自分自身です。
そのように自らの欲求を満たすために、彼らはお金をつぎ込んだのです。そのようにして得たものは手放せなくなります。いや、つぎ込めばつぎ込むほど手放せないだけでなく、さらにもっと欲しくなる。そうやって抜け出ることができなくなります。魔術は超自然的な力を支配するために行うのでしょうが、実際には魔術によって人間の欲望が際限なくかき立てられて、魔術そのものに支配されることになります。そのように人間の欲望の満たしを求めて、その結果得た生活というものは、実際にはかきたてられた自分の欲望そのものに支配された、まことに不自由な生活となっていくのです。
あのスケワの息子たちを考えてみてください。彼らはパウロが特別なものを持っているのを見たのです。そのように人が持っているものを見るならば、自分もそれが欲しくなる。彼らは自分のものにしようと試みたのです。そして、あのスケワの息子たちは酷い目に遭いました。しかし、恐らくあのスケワの息子たちは酷い目にあっても、また別なところで同じようなことを繰り返すのです。それが欲望に支配された生活というものです。
そう考えます時に、あのスケワの息子たちにせよ、多くの魔術の本を抱えて生活していた他の人々にせよ、彼らは決して特殊な人々ではないことが分かります。魔術という手段が用いられていないだけで、また、魔術という手段によって欲望がかきたてられていないだけで、今日の社会においても行われていることは本質的に同じだからです。今日、魔術などを使わなくても、お金さえつぎ込めば、他の様々な手段を使って願っていることをいくらでも実現することはできるのでしょう。そして、願っているものを得ればさらに欲がかきたてられて、もっと欲しくなる。多くの魔術の本を抱えて生活していた人々の姿は、まさに今日の社会に生きる人間の姿そのものであろうと思うのです
御言葉によって
しかし、今日の聖書箇所は、そのような人たちに劇的な変化が起こったことを伝えているのです。彼らが魔術に支配された生活を自らの手で投げ捨てている姿を見るのです。誰から強制されたわけでもなく、惜しみながらではなく、むしろ忌み嫌うかのように手放しているのです。そうです、彼らは手放すことができたのです。
先に見たように、そこに見るのは内的な変化です。それは何によって起こったのでしょう。今日の朗読箇所は次のように締めくくられていました。「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった」。そうです、彼らの生活を変え、そしてさらに力を増して広まっていたのは「主の言葉」なのです。
最初に見たように、今日の聖書箇所はパウロを通してなされた目覚ましい奇跡を伝える言葉から始まっていました。そして、スケワの息子たちはその奇跡にしか注目していませんでした。しかし、パウロは病気をいやすために活動していたわけではありません。エフェソにおいて彼が全精力を傾けて行っていたのは別なことでした。
その奇跡の描写の前にはこう書かれています。「パウロは会堂に入って、三か月間、神の国のことについて大胆に論じ、人々を説得しようとした。しかしある者たちが、かたくなで信じようとはせず、会衆の前でこの道を非難したので、パウロは彼らから離れ、弟子たちをも退かせ、ティラノという人の講堂で毎日論じていた」(8‐9節)。
その講堂は、朝と夕に哲学が講じられてきた場所であったと思われます。その場所を昼間に借りることができました。昼の暑い時間帯には、学校に限らず公の活動は停止するので、講堂も空いていたからです。パウロは早朝をテント造りに費やし、人々が昼寝をしている昼間の暑い時間を宣教に当て、そこに全精力を注ぎました。人々もまた、決して好ましい時間帯ではなく、また良い環境とは言えないところにおいて、パウロの語ることに熱心に耳を傾けたのです。その結果どうなったでしょうか。次のように書かれています。「このようなことが二年も続いたので、アジア州に住む者は、ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」(10節)。
「パウロは…論じていた」と書かれています。しかし、人々はただパウロの言葉を聞いていたのではありませんでした。パウロがこのことを二年間行った時に、精力的に論じるパウロ以上に働いておられたのは主御自身だったのです。人々は確かにパウロの宣教において「主の言葉」を聞いていたのです。「ユダヤ人であれギリシア人であれ、だれもが主の言葉を聞くことになった」と書かれているとおりです。
そのような二年間において起こったのが、人々の生活における具体的な変化でした。それは主の言葉によって起こりました。「主の言葉」ですから、それによって、彼らは主の御前に身を置くことになりました。「主の言葉」ですから、主の御前において自らの人生を問われることになりました。主の御言葉によって、人の目には隠されている自らの罪もまた明らかにされることになったのでしょう。主はすべてご存じですから。そして、主の御言葉によって、罪の赦しと、そのために独り子さえも世に与えられた神の愛を知ることになりました。彼らはその愛の支配のもとに、神と人とに仕える人生を受け取ったのです。そこにおいてもはや魔術は必要なくなりました。既に計り知れない神の恵みの内にあるのですから。そのように彼らが信仰によって受け入れた主の言葉こそが彼らの内に根源的な変化をもたらしたのです。
そして、エフェソの人々に与えられた恵みは、今日の私たちにも同じように与えられているのです。聖書の言葉にせよ、説教にせよ、それが単なる人間の言葉ならば、人間の言葉がなし得ること以上のことは起こらないでしょう。しかし、礼拝堂に身を置く時、あるいはそれぞれの場所で礼拝をささげ聖書を開く時、私たちが人間の言葉ではなく、主の御言葉を求めて御前に出ているならば、私たちは人間の言葉ではなく主の御言葉を聞くことになるのです。
そして、それが主の御言葉ならば、人間のなし得ることを超えた内的な変化を、主御自身がもたらしてくださる。主の御言葉によって、私たちは強制されてではなく、嫌々ながらでもなく、惜しみながらでもなく、私たちを支配し不自由にしているものを手放して火にくべる者とされていくのです。私たちの内なるものは単に私たち自らの意志と決断によって変えていくのではありません。私たちが何よりもまず求めなくてはならないのは、私たちを内から変えてくださる生ける主の御言葉なのです。
(祈り)
2021年7月4日日曜日
「すべての人々のためにささげる祈り」
テモテへの手紙一 2:1-7
すべての人々のために祈りなさい
パウロは若き同労者であるテモテにこう書き送りました。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」(1節)。
この手紙を受け取ったとき、テモテはエフェソの諸教会の牧会に当たっていたようです。この手紙を読みますと、その働きは困難を極めていたことが察せられます。「これからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、度々起こる病気のために、ぶどう酒を少し用いなさい」(5:23)ということまで書かれています。肉体的にも精神的にも相当に弱っていたのでしょう。パウロがこの手紙を書き送ったのは、何よりもそのような若き牧者を励まし、また助けとなる具体的な指示を与えるためでした。そこでパウロは個人的な事柄を述べた後、このように勧めるのです。「そこで、まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。」
まずは祈ること。問題がどれほど多くても、困難がどれほど大きくても、対症療法的に動き回るのではなくて、まずは祈ること。しかも、それはただ直面している問題について、その解決を神に願い求めるということではなく、その祈りはすべての人々のために執り成すこと、感謝することをも含むのです。テモテはまずそのように祈らなくてはならないのです。いや、これはテモテだけではありません。8節以下には教会に対する指示が書かれていますから、ここで勧められているのは単にテモテ個人についてではなく、教会全体がそのように祈ることをも意味しているのでしょう。問題がどれほど多くても、困難がどれほど大きくても、教会の為すべきこと、それはまず、すべての人のために願い、祈り、執り成し、そして感謝することです。
もちろん、「すべての人々のために」と言いましても、文字どおりすべての人々のために個々に祈ることはできないでしょう。これは明らかに、いかなる人をも祈りから除外してはならない、という意味でもあるに違いありません。「こんな人のために祈れない。ましてや感謝などできるものか」と言ってはならないということです。その具体的な実例として、「王たちやすべての高官のためにもささげなさい」と書かれています。それは「王たちや高官のため」に祈ることが必ずしも自明のことではなく、むしろそのことに困難を覚えるような事情があったからでしょう。
それはある程度想像できることです。王たちや高官とは、具体的には皇帝や地方総督に代表されるローマの支配体制を指していると考えられます。この手紙が書かれた時点においてローマの国家権力による迫害や弾圧がどの程度起こっていたのかは定かではありません。しかし、少なくともパウロは現に囚われの身となっているのであり、カイザルの囚人となっているのです。さらに言うならば、教会を構成していた人々の多くは貧しい人たちであり、奴隷の身分の人たちも少なくありませんでした。たとえ国家による迫害ではなくても、この世の権力によって踏みにじられてきた人たちが教会にはいくらでもいたのです。そのような教会に対して、パウロはあえてこう語りかけるのです。「王たちやすべての高官のためにも、願いと祈りと執り成しと感謝とをささげなさい」と。
そしてまた、後の時代、ローマの国家権力による迫害が激しくなった時代になってもなお、この手紙は読まれ続けていたことを忘れてはなりません。まさに王たちや高官たちの命令によって捕らえられ、殺される危険があるときでさえ、その礼拝において「王たちやすべての高官のためにも、願いと祈りと執り成しと感謝とをささげなさい」という言葉が朗読されたということです。そして、実際に祈られたのでしょう。その時、彼らは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)というイエスの言葉をも思い起こしたに違いありません。その意味でパウロがここで言っている「すべての人々のために」という言葉は、実に重い言葉であり、そのような言葉として私たちもまた受け止めなくてはならないのだと思います。
神は唯一、仲介者もひとり
そのようにパウロは、まず第一に、「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい。王たちやすべての高官のためにもささげなさい」と勧めます。それはなぜなのか。理由がその後に書かれています。まず書かれているのは、特に「王たちやすべての高官のために」と語ったことについての理由です。「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送るためです。これは、わたしたちの救い主である神の御前に良いことであり、喜ばれることです」(2‐3節)。
先にも申しましたように、教会には、既存の社会において踏みにじられてきた人たちが少なくありませんでした。もしそのような人々が、宗教的熱狂主義や原理主義に陥ってしまったならどうなるでしょう。神の名のもとに反社会的な行動や破壊的な行動を取ることが、信仰に熱心であることだと取り違えるかもしれません。だからこそ、パウロはあえて「王たちやすべての高官のためにも祈りなさい」と言うのです。神はそのような熱心さを喜ばれない。神が望んでいるのは「わたしたちが常に信心と品位を保ち、平穏で落ち着いた生活を送る」ことだと言うのです。
しかし、パウロが「すべての人々のために」祈ることを勧めるのには、もっと大きな理由があります。パウロは言います。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます」(4節)。これこそが、ただ王たちや高官のためだけでなく、「すべての人々のため」に祈る理由です。
先に触れましたように、心情的には「王たちや高官のために」祈ることが困難なことはいくらでもあったに違いありません。王たちや高官でなくとも、「あんな人のために祈れるか」と思ってしまうことは、私たちにおいてもあるかもしれません。しかし、「あんな人のために祈れるか」と私たちが言うとき、神は言われるのです。「わたしはその人が救われて真理を知るようになることを望んでいるのだ」と。
そこでパウロは、恐らく当時の教会において繰り返し唱えられていたであろう信仰の言葉を引用するのです。「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました。これは定められた時になされた証しです」(5‐6節)。
なぜ「すべての人々」なのか。第一に、「神は唯一」だからです。神が唯一だということは、すべての人間がこの神との関わっているということを意味します。「神は唯一」であるならば、神はキリスト者だけの神ではありません。すべての人の神なのです。そのすべての人が救われることを神は望んでおられるのです。もちろん、そこでもなお、人間の側が神の救いを受け入れるか拒否するかという問題は残ります。しかし、神がすべての人が救われることを望んでおられることを私たちが常に心に留めていることは大事なことです。神が閉め出しておられないのに、私たちが閉め出してはならないのです。
そして、なぜ「すべての人々」なのか。第二に、「神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとり」だからです。仲介者が一人ということは、すべての人がこの御方によって仲介されなくてはならない、ということです。だから、神はすべての人が真理なるキリストを知ることを望んでおられるのです。それこそが教会の宣教の根拠です。教会がキリストを宣べ伝えるのは私たちがそうしたいという以前に、神がそのことを望んでおられるからなのです。
ところで「神と人との間の仲介者」について語られるということは、人は神に直接的には近づくことができないということをも意味します。これが聖書の語る極めて重要な認識です。それは、古くはモーセの幕屋の構造に、後にはエルサレムの神殿の構造によく表わされています。聖所の奥にはもう一つの部屋がある。これが至聖所です。そして、その間は垂れ幕によって隔てられているのです。この垂れ幕は、罪深い人間が神に近づくことはできないことを象徴しているのです。
人間が作った自分のための偶像ならば、人はいくらでも自由に近づくことができます。こちらに罪があろうがなかろうが関係ありません。しかし、神がまことの神であり生ける聖なる神であるならば、罪ある人間は近づくことができない。アダムとエバがしたように、神の顔を避けて園の木の間に隠れざるを得ないのです。
それゆえに、人間が神に近づくためには仲介者が必要なのです。そして、イエス・キリストが仲介者となってくださったのです。パウロはあえて「人であるキリスト・イエス」と書きました。この御方が「人である」ということが決定的に重要な意味を持っているからです。イエス様は、いわば人間の代表として、神の裁きを受けてくださったのです。「この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられました」(6節)と書かれているのはそういうことです。あの十字架の上でイエス様が死んだとき、いったい何が起こったと書かれていますか。あの神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けたと書かれているのです(マルコ15:38)。もはや神と人との間の隔てがなくなったのです。罪が贖われたからです。
偉大な教師、宗教的な指導者は歴史の中にいくらでもいます。しかし、すべての人の贖いとして御自身を献げてくださった「神と人との間の仲介者」はただおひとりです。イエス・キリストが御自身を献げてくださったこと、それは神の意志を世に示す決定的な証しでした。十字架にかけられたキリストは、「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」という神の心を証ししているのです。
さて、冒頭において触れましたように、確かにテモテは多くの問題を抱えていました。私たちもそうなのでしょう。この世界にも、教会にも、日々頭を抱えざるを得ない現実があるのでしょう。しかし、そのような諸問題にだけ目を向け、その解決だけを求めていてはならないのです。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる。」その神の望んでおられることにこそ私たちの思いを向けるべきなのです。「まず第一に勧めます。願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人々のためにささげなさい」。そうです、そうする時に、目の前の問題についてもふさわしい関わり方が見えてくるに違いありません。
(祈り)