2025年9月28日日曜日

「憐れみ深い王の家臣として」

2025年9月28日 主日礼拝説教 

聖書:マタイによる福音書 18:21‐35

何回までですか
 ペトロがイエス様のところに来て言いました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(21節)。ペトロがこのような質問をしたのには理由があります。その前に、イエス様がこんな話をしておられたからです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら・・」(15節)。そうです、先週の聖書箇所です。自分が誰かの罪のゆえに被害を受けた時、どうしたらよいのか、という話でした。そこで、まずはどうすべきか。イエス様はこう言われます。「行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(15節)。

 「言うことを聞き入れたら」とは、「罪を認めたなら」ということです。相手が罪を認めた場合、そこで相手の罪を赦すことによって和解が実現します。主はそれを、「兄弟を得たことになる」と表現しました。そのような話を聞いていた「そのとき」、ペトロが尋ねたのです。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」(21節)。

 あくまでも、相手が罪を認めている場合の話です。簡単に言えば、相手が謝っている場合です。この後に出て来るたとえ話でも同じです。そこには多額の負債があることを認めて、ひれ伏して、「どうか待ってください。きっと全部お返しします」と言っている家来が出て来きます。また、百デナリオンの借金があることを認めて、ひれ伏して、「どうか待ってくれ。返すから」としきりに頼む人が出て来きます。

 そのように、これは相手が罪を認めている場合の話です。赦しを乞うている人の話です。そのように罪を認めて赦しを求める人に、赦しを与え、和解を実現し、兄弟を得るということは大事なことなのでしょう。

 しかし、問題はそれが繰り返される場合です。それが二度目になったらどうでしょう。三度目になったらどうでしょう。四回目になると恐らく「四回目」とは言いません。「いつも」という表現に変わると思います。ですから、世の中一般ではやはり三回が限度です。「仏の顔も三度まで」と言いますが、これはどうも万国共通のようで、ユダヤの世界においても、神の赦しは三度までと考えられていたようです。

 ですからここでペトロが「七回までですか」と言ったことは、それ自体驚くべきことです。「七」はユダヤ人の世界では完全を表す数字です。ですから七回繰り返すことができたら、ペトロとしては完全なのです。「よくぞ言った、ペトロ」とイエス様のお褒めにあずかっても不思議ではない場面です。ところがイエス様から返ってきたのは驚くべき言葉でした。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」(22節)。七回の七十倍は四九〇回ですが、実際にはそんなに数えていられません。要するに「数えないで赦しなさい」ということでしょう。

 イエス様の言葉はあまりにも極端に思えます。しかし、そこで主は一つのたとえ話をされました。それが今日お読みしました「『仲間を赦さない家来』のたとえ」なのです。まずはそのイエス様のたとえに耳を傾けてみましょう。

一万タラントンの借金
 「そこで、天の国は次のようにたとえられる。ある王が、家来たちに貸した金の決済をしようとした。決済し始めたところ、一万タラントン借金している家来が、王の前に連れて来られた。しかし、返済できなかったので、主君はこの家来に、自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように命じた。家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った」(23‐26節)。

 一万タラントン。これは一人の労働者が休みなく働いて約17万年分の給料に相当します。どう考えても、そんな多額の借金ができるはずありません。いくらなんでも無茶苦茶です。しかし、このイエス様の語られるこの無茶苦茶な話には、少なくとも私たちが聞くべき三つの大事なメッセージが込められているように思います。

 その第一は、《私たちの罪は、私たちの想像を絶するほどに大きい》ということです。主は「そこで、天の国は次のようにたとえられる」と話し始められました。これは天の国、神の国のたとえです。神の国の話において、「王」が出て来たら、それは神様のことです。借金している家来は私たち人間です。そもそも罪と赦しの話をしていたわけですから、借金に喩えられているのは私たちが神に背いて犯してきた罪の数々です。そして、その罪の借金は想像できないほど莫大な額に上るのだ、と語られているのです。

 確かに私たちは時として真剣に自分の罪の深さに悩むことはあるでしょう。罪深い自分に嫌気がさすこともあるでしょう。しかし、イエス様に言わせるならば、私たちは本当の意味で自分の罪の大きさなど、分かってはいないのです。一万タラントンという借金については想像も及ばないように、私たちがどれほど神に背いてきたか、神の目から見て悪と見なされることを、神に対しても人に対してもどれほど繰り返してきたか、まさに想像も及ばない。私たちの罪の負債のトータルがいかに莫大な金額になっているか、想像も及ばないのです。

 そして、第二に、ここにおいて語られていますのは、《神は正しく裁かれる御方だ》ということです。主君は全額の返済を要求しました。この家来に対して、「自分も妻も子も、また持ち物も全部売って返済するように」と命じました。殊更に残酷な要求をしているのでしょうか。いいえ、そうではありません。主君は当然のことを求めているのです。そもそも、自分も妻も子も持ち物も、全部を売り払ったとしても、一万タラントンには遠く及ばないのですから。神は正しく裁かれる御方です。神こそが、償いを正当に要求することのできる御方です。果たして神から全て返済することを要求されたら、完全な償いを要求されたら、私たちはいったいどうなるのでしょうか。

 しかし、イエス様が本当にお語りになりたいのは、第三のことなのです。《神の憐れみは私たちの想像を絶するほどに大きい》ということです。イエス様のたとえ話は、驚くべき展開を見せることになります。「その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった」(27節)。一万タラントンの借金の帳消し!そんな馬鹿な!そんなことはあり得ない!イエス様の話を聞いていた誰もがそう思ったに違いありません。しかし、それが神の赦しだ、神の憐れみだ、とイエス様は言われるのです。

 私たちの罪が私たちの想像も及ばないほどに大きいとしても、神の憐れみはそれよりもはるかに大きいのです。このたとえ話に登場する家来は、突然、そのとてつもない王の憐れみの中に置かれることになりました。彼は自分の負債を認めて、主君の裁きの正しさを認めて、ただ御前にひれ伏していただけです。その彼が神の憐れみによって救われたのです。私たちが罪を赦していただくとは、そういうことなのです。

神の期待に応えて
 彼はその驚くべき憐れみによって借金を帳消しにされて、そこから外に出ていきます。彼は憐れみを受けた人として、生きていくのです。彼はもはや単なる「一人の主君の家来」ではありません。「この上なく憐れみ深い特別な主君の家来」として生きていくのです。――それがあなたたちだ、とイエス様はペトロに言っておられるのです。そして、これを読んで礼拝している私たちにも言っておられるのです。「あなたたちは、この上なく憐れみ深い主君の家来だ。想像を絶する憐れみを受けた者として生きて行くのだ」と。そうです。それがキリスト者として生きるということなのです。

 そして、「憐れみ深い主君の家来」として行動するチャンスは、この世の中にいくらでもあるのです。自分が受けた王の憐れみをこの世に現すチャンスはいくらでもあるのです。特に、誰かが罪を犯したなら、誰かがあなたを傷つけたなら、あなたの赦しを必要としている人がこの世に存在しているならば、王の憐れみを示すチャンスはいくらでもあるはずなのです。

 この家来にも、その時がすぐに訪れました。「自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと」と書いてあります。憐れみによって与えられたチャンスです。そうでしょう。もし一万タラントンの負債を帳消しにされていなかったら、外でこの仲間に出会うこともなかったのですから。まさに王が自分にしてくれたように、この人にも行うことのできる絶好のチャンスなのです。

 しかし、この家来はどうしたか。「捕まえて首を絞め、『借金を返せ』と言った。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っ張って行き、借金を返すまでと牢に入れた」(28‐30節)。せっかくの機会を棒に振ってしまいました。

 そのことが主君の耳に入ります。そして、こう書かれています。「主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した」(34節)。一万タラントンを返せなかった時でさえ、「主君は怒って」とは書かれていないのです。しかし、ここで主君は怒ったのです。

 この主君の怒りは、いわば主君の期待の裏返しであると言えます。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(33節)。これこそが主君の望んでいた唯一のことだったからです。主君が望んでいたのは、一生かかってでも償いをするという類のことではなくて、憐れみを受けた者として憐れみを示して生きることだったのです。

 ペトロは「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と言いました。三回にせよ七回にせよ、数を数えているうちは、まだ意識においては何かを積み上げているということでしょう。これだけあの人には貸しがあります。また一つ貸しが増えました。そのような意識であるならば、七回でも八回でも同じです。イエス様が言っておられるのは、まったく別のことです。私たちは憐れみ深い主君の家来として、主君の憐れみ深さを表す機会を生かすのです。そのようなチャンスはいくらでもあります。そのように生きようとするならば、もはや赦した数を数えはしないでしょう。七の七十倍とは、そのような意味なのです。

2025年9月24日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 18:1~16

 サムエル記上 18:1‐16

 ゴリアトを倒したダビデはサウルに召し抱えられ、戦士として頭角を現してまいります。このダビデの台頭は、イスラエルの多くの人々によって好意的に受け入れられました。その様子が18章前半に見られます。

 サウルの息子ヨナタンについては、「ヨナタンの魂はダビデの魂に結びつき、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛した」(1節)、また、「ヨナタンはダビデを自分自身のように愛し、彼と契約を結び、着ていた上着を脱いで与え、また自分の装束を剣、弓、帯に至るまで与えた」(3,4節)と書かれています。ダビデがやがて戦士の長に任命されたことについては、「このことは、すべての兵士にも、サウルの家臣にも喜ばれた」(5節)と書かれています。

 ダビデはさらに一般市民にも愛され、その働きが賞賛されることになりました。ダビデは、サウルが派遣するたびに先頭に立って出陣し勝利を収めて帰ってきます。ある日のこと、そんなダビデがサウルや兵士たちと共に帰って来ると、女たちが歌い踊りながら出迎えます。そんな彼らが歌い交わしていたのは、「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」という歌でした。16節には、ダビデを取り巻く事情をまとめて、「イスラエルもユダも、すべての人がダビデを愛した」と書かれています。このようにダビデの存在はイスラエルの喜びでありました。

 その中で、このことを喜べなくなっていった一人の人がいました。サウルです。そのサウルの敵意は次第に異常さを増し加えていきます。はじめは発作的にダビデを殺害しようと槍を振りかざすようになります。さらにはその敵意がエスカレートし、発作的にではなく計画的にダビデを抹殺しようと目論むようになるのです。そのサウルの態度は、周りの人々のダビデに対する態度、特にサウルの息子であるヨナタンのダビデに対する態度と実に対照的に描写されています。

 サウルがダビデに対して敵意を抱くようになったのは女たちの歌がきっかけだったと聖書は伝えています。「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」。サウルはこれを聞いて激怒し、悔しがって次のように言ったと記されています。「ダビデには万、わたしには千。あとは、王位を与えるだけか」(8節)。サウルが口にしているのは短い言葉でありますが、この異常なまでのサウルの敵意には「王位」の関する問題がかかわっていることが示されています。つまりイスラエルが王国になる前だったならば、起こらないようなことが、ここで起こっているということです。

 サウルはイスラエルの初代の王でした。既に見てきたように、王制への移行を民が求めた背景にあったのは、ペリシテ人の脅威でした。ですから、王国となった今、国防こそが新体制における最重要課題であったはずなのです。その課題を担ったという点に関して言えば、サウルは申し分のない王であったと言えるでしょう。彼はそれこそ必死になって、身を粉にして、兵士を育て、常備軍を整え、国防体制を整備してきたのです。人々も、そのようなサウルを愛し、敬ってきたのです。

 聖書の中に、兵士や民衆のサウルに対する不満はまったく書かれていない(少なくともサムエル以外には!)ということは、ある意味では驚くべきことです。今回のペリシテ人との戦いにしても、ダビデの勝利がクローズアップされていますけれど、現実的にはやはりサウルの軍隊の勝利であるわけです。

 しかし、そんなサウルがふと気付いてみると、そのように必死で頑張ってきた自分と一緒に、突然現れたようなダビデが賞賛されているのです。しかも、ダビデの方が評価が高いようにサウルの耳には響いた。恐らく歌っていた女たちには比較の意図はなかったに違いありません。共に賞賛しているのです。しかし、必死で頑張ってきた人間にとっては、これは許し難いことなのです。

 王制に移った時、その根本にある大きな変化は、単に制度的な事柄にあったのではありません。人々の関心の中心が、神様のなさることではなくて、人間の築き上げるものに移っていったということなのです。それこそが未来を保証するものであり、それゆえに人間が賞賛されるものとなっていった、ということなのです。そして、人間の行為が関心の中心に据えられていく時、そこにねたみや敵意が位置を持つようになることは必然なのです。その意味においてサウルのねたみと敵意は、まさに起こるべくして起こったと言えるでしょう。

 しかし、サウルがダビデに対して殺意さえ抱くようになったのは、ただダビデが自分よりも称賛を受けたからではありません。もっと深い問題があるのです。それは「恐れ」です。今日の聖書箇所に繰り返しサウルがダビデを「恐れた」と書かれているのです。「ねたみ」が「恐れ」に変化していったのです。

 普通に考えるならば、たとえ優秀な軍人が出たからと言って、すぐに王位を脅かす存在などにはなりません。事実、彼の身近にはアブネルという優秀な武将がいたのです。しかし、サウルはアブネルを恐れたりしませんでした。

 サウルがダビデを恐れたのも、ただダビデが優秀だったからでではありません。そうではなくて、彼が信仰の人だったからです。彼が主に信頼して戦いに出て、事実、主の名によって勝利を得て帰ってくる人だからです。すなわち、主がダビデと共におられることを、もはや否定しようにも否定できなくなっていたからなのです。

 なぜそれが恐ろしかったかと言えば、それは既にサウルに対して、主がサウルを離れたことが語られていたからです。「主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる」(15:23)と。当初は、サウルにとって、そんな言葉はどうでもよかったのです。家臣が「あなたをさいなむのは神からの悪霊でしょう」(16:15)と口にしても、サウルは気にしなかったのです。しかし、いよいよ主がサウルを離れたことがリアルに見えてきた。何によってですか。ダビデの登場によってです。主がダビデと共におられるという事実をまざまざと見せられることによってです。だからサウルは恐れたのです。「主はダビデと共におられ、サウルを離れ去られたので、サウルはダビデを恐れ」(12節)と書かれているとおりです。

 そのように、サウルは主が自分を離れ、主が自分を王位から退けようとしていることを確かに実感し始めていた。自分の代わりに主が選ばれたのはダビデであることも見えてきたのです。

 しかし、なおも彼は自らの王位にしがみついたのです。彼が本当に求めなくてはならなかったことは、王位と共にあることではなくて、主と共にあることであったはずです。サムエルが語られた言葉のとおり、王位を失うことが神の裁きであるならば、それを神の裁きとして受け入れて、王位を神にお返しして、神に立ち帰るべきだったのです。サウルは、たとえ王位を失ったとしても、なおも契約の民の一人であるに違いないのですから。神の民として神と共に生きていくことができるはずなのです。

 一方、不思議なことに、ヨナタンは王位継承者として直接的にダビデのライバルとなる立場にいながら、なおもダビデを最後まで愛するのです。なぜでしょう。それは既に14章に見たように、彼もまた信仰の人だったからです。彼自身主と共にあるゆえに、ヨナタンにとっては、「主と共にある人」と共にいることが、何よりも重要であることを知っていたからなのです。それは、後に見るとおり、ヨナタンにとって自分が王位を継承することよりも大事な事だったのです。

 あくまでも王位にしがみつくサウルは、様々な方法により、ダビデを亡き者にしようと目論みます。しかし、皮肉なことに、サウルが策略として用いた、「娘を嫁にする」という約束は、ますますダビデを王位継承へと近づけることになったのです。そして、ダビデを殺すために戦いの前線に出すことは、ますますダビデの名声を高める結果となったのでした。彼はこうして自分自身を追いつめていくことになったのです。

 ここに見るダビデとサウルとの関係に見る問題は、後にイエスとユダヤ人との間にも見られるものです。これは、また、後の教会の歴史においても、神が歴史の中に生きて働かれる時に、必ず現れる人間の罪に他ならないとも言えるでしょう。主がこの世界に事を進められる時、人は神の御業に敵対してこれを抹殺しようとするか、あるいは神の御業を愛してこれと共に生きようとするかのいずれかとなるのです。

2025年9月21日日曜日

「和解のために祈る」

2025年9月21日 主日礼拝説教 

聖書:マタイによる福音書 18:15‐20

兄弟を得るため
 今日の福音書朗読は、「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」という言葉から始まっていました。この場合、「兄弟」とは肉親のことではありません。信仰における兄弟のことです。すなわち、神の子どもたちとして共に「天にまします我らの父よ」と祈り、こうして教会において一緒に神を礼拝しているお互いのことです。

 教会は天使の集まりではありません。それは私たちそれぞれ自分のことを考えても分かります。天使の集まりであったら、自分がここにいるはずはないからです。ある時、イエス様は言われました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。……わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マタイ9:12-13)。その意味では、私たちは皆、イエス様によって招いていただいた、癒されつつある病人であり、変えられつつある罪人です。

 そのように、お互いが天使のような者でなくても、イエス様に招かれた者として、主のみもとに身を置くことができるということは、それ自体が大きな恵みです。しかし、もう一方において、お互い天使のような者ではありませんから、互いの間に問題が生じることもあり得ます。一人が他の人に対して罪を犯し、苦しめるということも起こり得ることです。それはイエス様には、初めから想定内のことだったようです。主は言われるのです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら…」と。

 特にここでは、「兄弟が《あなたに対して》罪を犯したなら」と語られています。つまり自分が被害者である場合です。苦しみを受けた場合です。その時にどうしたら良いのか、という話です。

 誰かの罪により害を受けた場合、どうするでしょうか。「やられたら、やり返す。倍返しだ!」ひと昔前に、そんな言葉が流行りました。教会においては「倍返しだ!」と当然のごとく言う人はそういないだろうと想います。しかし、「やり返す」ということは考えないとしても、「もう関わりを持つことはやめよう。縁を切ろう」ということは考えるかもしれません。そのように、こちらから相手を切り捨ててしまうということは起こり得ることなのでしょう。

 今日の聖書箇所ですと、17節に書かれているのはそういうことです。「その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」。少々差別的な表現のような気もしますが、当時のユダヤ人的な表現を用いるとこうなります。要するに、ここで言われているのは「関係を切る」ということです。「もはや兄弟とは見なさない」ということです。

 時として、これが一番手っ取り早い解決策に思えることは、確かにあるだろうと思うのです。「倍返し」しなかっただけでも、まだ良かったと言えるかもしれません。しかし、イエス様は、私たちが一足飛びにその結論に至ることを望まれないようです。その前にすべきことがあると言われるのです。

 では、どこから始めるべきなのでしょうか。主は言われます。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」(15節)。

 まず、二人だけのところで語り合うのです。何のためですか。相手を責めるためではありません。目的は罪の悔い改めが起こることにあります。そして、赦しを与えることにあります。目的は和解が実現することにあるのです。そのような和解へのアクションは、苦しんだ方が先に取らなくてはならないのだ、主は言われるのです。「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と。苦しんだ方から歩み寄るのです。兄弟を得るためです。

 しかし、実際には、それで和解とが実現することは難しいかもしれません。そこで主は言われます。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」(16節)と。

 一人か二人を連れていくのは、二人がかり三人がかりで相手を責めるためではありません。法廷においては、複数の証言によって事実が確定します。そのように、事実に基づいて話をするためです。そのような客観性を持った話をするためには、時として第三者の助けを必要といたします。

 しかし、それでもなお解決しない場合にはどうしたら良いのでしょう。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」と主は言われます。そのように、苦しんだ方から行動を取るところから始まって、最終的には教会全体が解決を望んで取り組むところまで行って、それでもなお解決しなかった時に初めて「異邦人か徴税人と同様に見なす」ということが起こるのです。しかし、それは最後まで起こってはならないと主は考えておられるのです。

 このように、イエス様が語っておられるのは、罪人を処分するための手順ではありません。主が望んでおられるのは、悔い改めと赦しが起こることなのです。和解が実現し、関係が回復することなのです。「兄弟を得たことになる」――これが実現することなのです。

心を一つにして求める
 そして、主はさらにこう続けられます。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(18節)。

 実はこれと全く同じ言葉を、既にイエス様は16章において語っておられました。その箇所も見ておきましょう。ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を言い表した時、主はペトロにこう言われたのです。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(16:18‐19)。そのように、主は「天の国の鍵」との関連でこのことを語られたのです。

 天の国の鍵とは何でしょうか。天の国が閉ざされるとするならば、それは人間の罪のゆえに閉ざされるのです。ですから、罪人に対して天の国が開かれるとするならば、それは罪の赦しによるのです。その意味で、天の国の鍵とは「罪の赦し」です。その天の国の鍵を与えるため、罪の赦しを与えるため、イエス様は来られたということもできます。主はそのために十字架への道を歩まれ、自分自身を罪の贖いの犠牲として献げられたのです。イエス様は、文字通り、命がけで私たちに天の国の鍵を与えてくださったのです。

 だから私たちは福音を宣べ伝えることができるのです。キリストによる罪の赦しを語ることができるのです。教会は洗礼を授けて罪の赦しを宣言することができるのです。キリストの恵みを分かち合う聖餐を行うことができるのです。この地上の教会で行われることは、天において、神の御前において意味を持つのです。それが「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」ということです。

 しかし、ここで問わねばならないことは、何のために天の国の鍵、罪の赦しが与えられているのか、ということです。もちろん、罪ある者が赦されて、天の国に入るためであるには違いありません。しかし、それだけではないのです。それは地上において和解が実現するためでもあるのです。「兄弟を得たことになる」ということが本当の意味で実現するためでもあるのです。

 つまりこういうことです。――誰かがあなたに対して罪を犯しました。あなたはイエス様の御言葉のとおり、二人だけのところで話をします。あなたは悔い改めを求め、赦しを与えようとします。しかし、それは単に、「あなたが悔い改めて私に謝罪するなら、私は赦してあげましょう」ということではないのです。そうではなくて、そこで重要なのは、「あなたが悔い改めて神に立ち帰るならば、神はあなたを赦してくださる」と伝えることなのです。そのためにこそ、神の赦しは与えられているのです。そして、あなたに対して罪を犯し、あなたを苦しめた者が神に立ち帰る時、そして神の赦しを得る時に、本当の意味であなたは「兄弟を得たことになる」のです。

 私たちは間違ってはなりません。誰かに悔い改めを求めるとするならば、それは自分に謝罪させるためではないのです。悔い改めを求め、赦しを与えようとしているのは《神》なのです。私たちは、神の御心を代行するのです。そのために、「あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という約束の言葉は与えられているのです。

 そしてさらに主は言われました。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(19節)。これも文脈と切り離してはなりません。「どんな願い事であれ」と言われているからこそ、二人が心を合わせて《何を願うのか》が重要になってくるのです。

 私たちは心を一つにして何を求めるべきなのでしょうか。それはここまでの流れで明らかであろうと思います。悔い改めと赦しが起こり、和解が実現することです。「兄弟を得たことになる」ということが実現することです。それは自分自身と誰かの関係についてであるかもしれません。その時には他の誰かに共に祈ってもらうのです。あるいは他の二人の間に生じた亀裂であるかもしれません。その時には、自分が誰かと心を合わせて祈るのです。

 最初に申しましたように、教会は天使の集まりではありません。イエス様によって招いていただいた、癒されつつある病人、変えられつつある罪人の集まりです。それゆえに、自分の罪によって他者を苦しめる時もあれば、他者の罪によって苦しめられる時もあります。しかし、そこで悔い改めが起こる。赦しが起こる。和解が実現する。そのことを主は望んでおられる。

 しかし、実際には、それは容易なことではありません。だから祈るのです。心を合わせて祈るのです。そのように祈る恵みが与えられているのです。そして、そのように、共に祈る集まりのただ中にこそ、イエス様御自身がいてくださると、主は言われるのです。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」と。

2025年9月17日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 17:31~58

 サムエル記上 17:31‐58

 先週、「この章で中心となりますのは、巨大なペリシテの戦士ゴリアトとダビデとの一騎打ちです」と申しました。しかし、これには若干の説明を加えなくてはなりません。今日お読みしましたところから分かりますように、戦いの場面そのものは長くありません。勝負はあっけなく決まってしまいます。ですから、ここで単にダビデやイスラエル軍の勝利を語ろうとしているのではないことは明らかです。むしろ長々と書かれていますのは、その戦いに至るまでの経緯です。特に、ダビデが多くの言葉を語ります。そこに私たちは注目なくてはなりません。

 前回はダビデがサウルの陣営に行ったところまでお読みしました。彼が戦場に出向いたのはそもそも戦うためではありませんでした。戦いに出ている兄たちに炒り麦とパンを届け、安否を確かめるためだったのです。彼が持参したものを武具の番人に託し、戦列の方に走って行って兄たちの安否を尋ねていると、折しもゴリアトが現れて「今日、わたしはイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ」といういつもの言葉を叫びます。それを聞いてイスラエルの兵は後退し、甚だしく恐れているのをダビデは目の当たりにします。

 そして、彼は周りに立っている兵にこう言ったのでした。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」(26節)。これを聞いて長兄のエリアブは非常に怒りました。無理ありません。戦いの経験もない者が思い上がっているようにしか見えなかったのです。

 しかし、ダビデの語ったその言葉を心に留め、サウルの耳に入れる者がありました。サウルとしては、ともかく誰かが挑戦に応じて立ってくれるのを待ちわびていたわけですから、すぐさまダビデを召し寄せます。現れたダビデは言いました。「僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう」。しかし、そう口にしているのは、どう考えてもゴリアトと戦うことができるような人物ではありませんでした。サウルは言います。「お前が出てあのペリシテ人と戦うことなどできはしまい。お前は少年だし、向こうは少年のときから戦士だ」。しかし、ダビデは羊飼いをしてきた自分自身の経験を語り、「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるに違いありません」と答えたのです。

 17章前半に見ましたように、ダビデの言葉は決して彼の思い上がりから出た言葉ではありませんでした。そうではなく、彼は明らかにイスラエルの信仰的な伝統の中に立っているのです。サムエルに至るまで連綿と伝えられてきた「主の戦い」の物語の中に立っているのです。それはまた王国となって後、失われかけていた伝統であり物語でもあったのです。その物語の中に立っているとはどういうことか。ダビデにとって、先祖たちに与えられてきた主による勝利は、単なる昔話ではなかったということです。彼はいにしえの物語を、普段の日常生活の中で、羊飼いとしての生活の中で実際に生きてきたのです。ダビデにとって、確かに主は「生ける神」(26節)なのです。

 ここに私たちはサウルとの決定的な違いを見ることができると言えます。既に見てきたように、サウルは実際に驚くべき勝利を経験していながら、伝統を通して伝えられてきた「生ける神」に目を向けないのです。サムエルに語ったように、それは「あなたの神、主」(15:30)でしかない。一方ダビデは、伝統を通して伝えられてきた神に対して、日常生活の中において素朴に信頼して生きているのです。その信頼こそが彼の行動の源だったのです。

 さて、サウルは「獅子の手、熊の手からわたしを守ってくださった主は、あのペリシテ人の手からも、わたしを守ってくださるに違いありません」というダビデの言葉を聞くと、「行くがよい。主がお前と共におられるように」と言って自分の装束をあてがいます。ダビデの頭に青銅の兜をのせ、身には鎧を着けさせ、サウルの剣を帯びさせました。しかし、ダビデは一旦はそれらを身に着けたものの、「こんなものを着たのでは、歩くこともできません。慣れていませんから」と言って、結局はそれらをサウルに返しました。ダビデはそれらを脱ぎ去りますと、自分の杖を手に取ります。そして、川岸に下って行き、なめらかな石を五つ選んで、羊飼いの投石袋に入れ、石投げ紐を手にして出て行ったのでした。

 サウルの装束と剣を返したこと、そして自分の杖を手にして出て行ったことは、サウルがあてがうものが、この戦いにおいて何の役にも立たなかったことを示しています。それはある意味では象徴的な出来事でもありました。サウルが整えていった常備軍は、この戦いにおいては本質的には何の役にも立ってはいないことをも示しているのです。ダビデは武力によって戦うのではないのです。そして、さらに重要なことは、ダビデが戦士として出て行くのではなく、羊飼いとして出て行ったということです。ダビデにとって、公の場における戦いは、神と共に生きる背後の私生活と同一線上にあったということです。「慣れている」必要があるのです。

 こうしてダビデはゴリアトの前に立つこととなりました。ゴリアトは出てきたダビデを見て侮って言います。「わたしは犬か。杖を持って向かって来るのか」。こう言って、ペリシテの神々の名によってダビデを呪いました。しかし、ダビデはゴリアトに言い返します。「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう」。この長いダビデの台詞には、この場面の中心思想が言い表されていると言って良いでしょう。特に重要なのは47節です。「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される」。

 ここで「ここに集まったすべての者」と訳されていますのは、「この全会衆」と訳されてる言葉です。会衆は「カーハール」という言葉です。七十人訳聖書(ギリシア語訳聖書)では「エクレシア」となっています。これは新約聖書では「教会」と訳される言葉です。つまり、これは単にそこにいた者たちという意味ではなくて、神の民全体を指すのです。今こそ、神の民なるイスラエル全体が知らなくてはならないことがある、というのです。それは「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とされない」ということです。そして、ダビデは「この戦いは主のものだ」と宣言するのです。

 戦いそのものは、実にあっけなくダビデの勝利に終わります。しかし、先にも言いましたように、ダビデが勝ったこと自体が重要なのではありません。これがイスラエルの民そのものに対して決定的なことを語っている出来事であるということが重要なのです。なぜなら、巨人ゴリアトは、形を変えてイスラエルの民の前に繰り返し現れて来ることになるからです。

 それは預言者たちの時代においては、まさにイスラエルに迫り来る巨大なるアッシリアであり、またバビロニアでありました。この歴史物語が書かれたときには、イスラエルの民はその巨人の手に囚われている状態だったのです。そこにおいて、読者は、自分自身がダビデと声を合わせて、「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とされない」と告白できるかどうかが問われていたのです。

 そして、私たちもまた同じことが問われております。私たちの生きるこの世界にも、罪と死の力が、あらゆる形を取って私たちに襲いかかってまいります。そうです、ゴリアトは様々な形で現れてくるのです。しかし、キリストはダビデのように、剣や槍によらずして、人間を支配する罪と死の力に打ち勝たれました。それゆえに、私たちもまた、「主は救いを賜るのに剣や槍を必要とされない」と宣言して生きるのです。


2025年9月14日日曜日

「あなたの願いは何ですか」

2025年9月14日 主日礼拝説教 

聖書:列王記上 3:4-15

主を愛するソロモン
 本日の第一ロウソクは、次のような言葉から始まっていました。「王はいけにえをささげるためにギブオンへ行った。そこに重要な聖なる高台があったからである。ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた」(4節)。

 「聖なる高台」という言葉が出てきました。その「聖なる高台」とは、当時のイスラエルにいくつもあった聖所、すなわち礼拝の場所です。その礼拝の場所は、イスラエルの人たちが「ここを聖所にしましょう」と言って決めたのではありません。実は、その土地にイスラエルの人たちが入ってくる前からその場所は先住民の聖所だったのです。つまり元々土着の宗教の神々が礼拝されていた場所だったのです。そのような「聖なる高台」がギブオンだけでなく、他にもたくさんあったわけです。

 もともとあった土着の宗教の神々は「バアル」と呼ばれていました。「バアル」とは「主人」という意味の言葉です。各地の「聖なる高台」においては、その土地の「バアル(主人)」が礼拝されていたのです。そこにおいて行われていたのは、日本の各地においても見ることのできるような、穀物の豊作を願い、また家畜の多産を願っての祭儀でした。要するに、人々はそこで繁栄を願って犠牲をささげたのです。富と栄光を願って、戦いがあるならば勝利を願って、犠牲をささげたのです。今日の聖書箇所に出てくる「聖なる高台」とは、もともとそのような場所だったのです。

 そのような数ある「聖なる高台」の中でも、特に重要な「聖なる高台」があるギブオンにソロモンという王様が行って犠牲をささげたというのが今日の話です。「ソロモンはその祭壇に一千頭もの焼き尽くす献げ物をささげた」(4節)と書かれていました。「一千頭」というのは極端です。これは文字通りの意味ではなく、「非常に多くの」という意味だと思われます。ともかくソロモンは多くの動物を犠牲として祭壇にささげました。

 豊穣多産を願い、御利益を願っての礼拝であるならば、そこで犠牲をささげるのは願っているものを与えてもらうためでしょう。その意味では、もともと「聖なる高台」で行われていたのは神々との取り引きであると言うことができます。得るものがあるからこそ献げるのです。バアル(主人)とは呼んでいますが、彼らが愛しているのは主人ではありません。そうではなく、結果として得られる豊作であり繁栄です。バアルを愛しているのではなく、バアルが与えてくれるものを愛しているのです。

 ソロモンもまた聖なる高台で莫大な量の犠牲をささげました。外から見れば、豊穣多産を願っての祭儀と変わらないかもしれません。しかし、実はギブオンに上った今日の話の直前にこう書かれているのです。「ソロモンは主を愛し、父ダビデの授けた掟に従って歩んだが、彼も聖なる高台でいけにえをささげ、香をたいていた」(3節)。ソロモンは主を愛していた。ソロモンが献げる犠牲と礼拝は、主との取り引きではなかったのです。それは主を愛するゆえの礼拝であり、献げ物だったのです。

 そのことが明らかに示されているのが、続くエピソードです。「その夜、主はギブオンでソロモンの夢枕に立ち、『何事でも願うがよい。あなたに与えよう』と言われた」(5節)。そこでソロモンは知恵を求めたという有名な話です。

ソロモンの願い
 「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」。そのように主なる神は「与えてくださる方」として御自身を表されました。確かに聖書が私たちに伝えている主なる神はそのような御方です。聖書は、人間が願い求め、神が与えてくださった、という話に満ちています。

 それゆえに、イエス・キリストも言っておられました。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(マタイ7:7‐8)。さらには「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(同11節)と言っておられるのです。

 神は与えてくださる御方です。しかし、だからこそ、その神に何を願うかが大事になってくるのでしょう。私たちの「願い」に、私たちの内にあるものが現れてくるからです。いったい神に何を願うのか。いや、個々の願いというよりも、そもそもどのような願いを持って生きているのか。神の御前においては、そのことが問われるのです。いったい私たちは、どのような願いを持って生きているのでしょうか。今こうして私たちがしているように、私たちが神に向かうならば、もう一方で私たちの生き方そのものが問われるのです。いったい何を求めて生きているのか、と。

 さて、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われたソロモンはどう答えたのでしょうか。彼は言いました。「あなたの僕、わたしの父ダビデは忠実に、憐れみ深く正しい心をもって御前を歩んだので、あなたは父に豊かな慈しみをお示しになりました。またあなたはその豊かな慈しみを絶やすことなくお示しになって、今日、その王座につく子を父に与えられました。わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕をお立てになりました。しかし、わたしは取るに足らない若者で、どのようにふるまうべきかを知りません。僕はあなたのお選びになった民の中にいますが、その民は多く、数えることも調べることもできないほどです。どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください。そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう」(6‐9節)。

 ソロモンの答えに繰り返されている言葉があります。「僕」という言葉です。日本語訳では分かりにくいのですが、実はすべて「あなたの僕」と書かれているのです。ソロモンの父、先代の王ダビデがまず「あなたの僕、わたしの父ダビデ」と呼ばれています。ダビデ王は、忠実に、憐れみ深く正しい心をもって、主の僕として歩んだ。そのような王座をソロモンは引き継いだのです。それがソロモンの自覚でした。「わが神、主よ、あなたは父ダビデに代わる王として、この僕(あなたの僕)をお立てになりました」と。

 そしてもう一つ繰り返されている言葉があります。「あなたの民」という言葉です。「僕はあなたのお選びになった民の中にいますが」(8節)とありますが、これも原文では「僕はあなたのお選びになったあなたの民の中にいますが」と書かれているのです。ソロモン王にとって国民は「あなたの民」なのです。「わたしの民」ではないのです。つまりソロモンが王であるということは、主から国民を託されたのであって、ソロモンは主の僕としてその務めに携わっているに過ぎないのです。

 ソロモンがここで口にしている願いはそのような文脈で理解する必要があります。「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」。何のためですか。主の僕として生きるためです。主により良くお仕えするためです。主の僕として、主から託されたことを全うするためです。「そうでなければ、この数多いあなたの民を裁くことが、誰にできましょう」。そう言ってソロモンは求めたのです。

 それは夢の中での出来事でした。しかし、夢の中でそのように答えたということは、それが常日頃の願いであったことを意味するのでしょう。主により良くお仕えするためには何が必要なのだろう。主から託された務めを果たすためには、わたしに何が必要なのだろう。そのことをソロモンは常に考え続けてきたのです。あるいは、「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と主から言われる以前から、それは彼の絶えざる願いであり祈りでもあったのかもしれません。

神の答え
 このソロモンの願いを主は喜ばれ、こう言われました。「あなたは自分のために長寿を求めず、富を求めず、また敵の命も求めることなく、訴えを正しく聞き分ける知恵を求めた。見よ、わたしはあなたの言葉に従って、今あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。あなたの先にも後にもあなたに並ぶ者はいない。わたしはまた、あなたの求めなかったもの、富と栄光も与える。生涯にわたってあなたと肩を並べうる王は一人もいない。もしあなたが父ダビデの歩んだように、わたしの掟と戒めを守って、わたしの道を歩むなら、あなたに長寿をも恵もう」(11‐14節)。

 ソロモンが献げた犠牲は、かつて同じ聖なる高台で富と栄光を求めてバアルの神にささげられたものと同じではありませんでした。ギブオンにおいてソロモンが夥しい焼き尽くす献げ物をささげた時、彼が願い求めていたのは長寿でも富でも敵の命でもなかったのです。繰り返しますが、王であるソロモンが願い求めていたのは主の僕として主に仕えて生きることだったのです。主の僕として与えられた人生を全うすることだったのです。ソロモンの献げ物、ソロモンの礼拝、それは主を愛する者の献げ物であり礼拝でした。

 かくして主はソロモンが願い求めたとおり「知恵に満ちた賢明な心」を与えると約束されました。さらには、願い求めなかったもの、富と栄光をも与えると約束されました。そして物語は、主が約束されたとおりに豊かにソロモンに与えられたことを伝えています。

 そして、その御方は私たちの神、私たちの天の父でもあります。かつて夢の中において「何事でも願うがよい」と言われた神は、ここにいる私たちには、夢によってではなく、イエス・キリストを通して、また使徒たちを通して、願いなさい、求めなさい、祈りなさいと言ってくださいました。だからこそその御方の御前で何を願うかが重要になってまいります。何を願って生きているかが重要になってくるのです。ここで主を共に礼拝している私たちは、神の御前において、いったいいかなる願いを持って生きているのでしょうか。

2025年9月10日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 17:1~30

サムエル記上 17:1‐30

 16章で初めてこの物語の中にダビデが登場してきました。彼はサムエルに油を注がれ、将来の王として密かに任職されます。やがてこのダビデがサウルに代わってイスラエルの王となるのです。そのダビデがサウルと初めて出会った次第が16章に書かれていました。ダビデは竪琴の名手として、悪霊に苦しむサウルを癒すために召し抱えられるのです。

 しかし、サウルとダビデの出会いを伝えるエピソードはそれだけではなく、他にも幾つかの話が伝えられていたようです。今日お読みした17章において取り上げられているのは、まったく別のエピソードです。ですので、16章とは若干の食い違いが出てきます。16:18では「勇敢な戦士で戦術の心得もあり」と紹介されていますが、17章ではまだ戦いを知らぬ少年として描かれています(17:33)。また、17:58では、ここで初めてサウルがダビデに出会うものとされています。このような食い違いは、複数のエピソードが並べられている時によくあることなので、さほど気にする必要はありません。

 さて、この章で中心となりますのは、巨大なペリシテの戦士ゴリアトとダビデとの一騎打ちです。ゴリアトについては、ガト出身で、背丈は6アンマ半(約3メートル)、身には青銅五千シェケル(約57キログラム)の鎧を着、穂先が六百シェケル(約7キログラム)もある槍を振り回す大男として紹介されています。この男の存在は、以前にペリシテの軍隊について「…兵士は海辺の砂のように多かった」(13:5)と書かれていたのと同様に、いかにペリシテ人との戦いが困難を極めていたかということを表しています。

 ゴリアトはイスラエルの戦列に向かって叫びます。「今日、わたしはイスラエルの戦列に挑戦する。相手を一人出せ。一騎打ちだ」(10節)。このような戦い方は、今日の私たちには馴染みがありません。実は、イスラエルにとっても、このような戦い方は一般的ではなかったようで、聖書にはこの他に出てこないのです。恐らく、イスラエルは相当戸惑ったに違いありません。

 しかし、このような状況において、相手の挑戦に応じないということは、明らかに既に敗北を意味しておりました。何度も現れて一騎打ちを呼びかけるというのは、近代兵器による戦争と比較しますと、何とものんびりした話しですが、実際には国家の明暗を分ける危機的状況にあるわけです。そのような危機にあって、サウルはどうしていたでしょうか。「サウルとイスラエルの全軍は、このペリシテ人の言葉を聞いて恐れおののいた」(11節)と聖書は記しているのです。

 このサウルの姿と、11章以下において戦いを導いているサウルの姿とは、極めて異なっていることが分かります。そして、そのサウルの二つの姿の間には、サウルの神に対する不従順の現れた出来事(13章、15章)が記され、主の霊がサウルを離れた(16:14)という決定的な記述がなされているのです。サウルが王となり勇者であり得たのは、全く神の霊によったのであって、神を離れるならば(そして神が離れるならば)、同じサウルではあり得ないのです。そのように決定的に重要なのは、本人の能力や勇気などではなく、神との関係なのだということが全体を通して語られていると言ってよいでしょう。

 まことに昨日の勇者が今日の勇者とは限りません。過去の成功は、今日の働きを保証するものではありません。これは王という特殊な職務だけではなく、今日におけるキリスト者のいかなる働きについても言えるでしょう。大事なのは神との関係です。そして、神との関係において大事なのは昨日のことではなくて、今日であり、今なのです。

 さて、そんなある日、エッサイはダビデに、炒り麦とパンとを陣営にいる三人の兄たちに渡し、千人隊の長にチーズ十個を渡すようにと言付けて、使いにやりました。ダビデは陣営に着くと、持参したものを武具の番人に託し、戦列に走って行って兄たちの安否を尋ねます。すると、そこにゴリアトが現れて、いつもの言葉を叫びました。ダビデはこの言葉を耳にします。その時、再び、「イスラエルの兵は皆、この男を見て後退し、甚だしく恐れた」(24節)と書かれています。イスラエル兵たちは、ゴリアトを討ち取った者に王の賜る褒美について語り合っていました。しかし、誰も恐れて挑戦に応じる者はいません。すると、ダビデが周りの兵士たちに尋ねました。「あのペリシテ人を打ち倒し、イスラエルからこの屈辱を取り除く者は、何をしてもらえるのですか。生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」(26節)。

 これを聞いた長兄エリアブは腹を立てました。それはそうでしょう。彼らが戦いに出たのは昨日今日の話しではないのです。確かにゴリアト一人に恐れをなして怖じ気づいている姿は戦士としては情けないものかもしれません。しかし、彼らは彼らなりに命がけで戦って来たのです。そして今、ゴリアトに立ち向かえないことについても、エリアブなりに苦しんできたのです。そこにいきなり現れた戦ったこともない少年が「あのペリシテ人を打ち倒したら何をしてもらえるのですか」などと言っているのですから、腹を立てるのも無理はありません。それはダビデの思い上がりにしか見えなかったのです。「お前の思い上がりと野心はわたしが知っている。お前がやって来たのは、戦いを見るためだろう」と言ってエリアブはダビデを叱ります。

 確かにダビデの言葉には、王の与える褒美に関心を示す単純な無邪気さがあります。しかし、それはエリアブが言うように、単なる思い上がりや野心などではありませんでした。この少年の無邪気な発言にこそ、王制になってこのかた、人々がついぞ忘れていたイスラエル本来の言葉、信仰の言葉があったのです。「生ける神の戦列に挑戦するとは、あの無割礼のペリシテ人は、一体何者ですか」。ゴリアトが「わたしはイスラエルの戦列に挑戦する」と言うのに対して、ダビデはそれを「生ける神の戦列」と言い換えているのです。ダビデにとって、この戦いはあくまでも生ける神の戦いなのです。

 彼の内にあった確信は、この章の後半において当のゴリアトに対する宣言の中にはっきりと現れています。「「お前は剣や槍や投げ槍でわたしに向かって来るが、わたしはお前が挑戦したイスラエルの戦列の神、万軍の主の名によってお前に立ち向かう。今日、主はお前をわたしの手に引き渡される。わたしは、お前を討ち、お前の首をはね、今日、ペリシテ軍のしかばねを空の鳥と地の獣に与えよう。全地はイスラエルに神がいますことを認めるだろう。主は救いを賜るのに剣や槍を必要とはされないことを、ここに集まったすべての者は知るだろう。この戦いは主のものだ。主はお前たちを我々の手に渡される」(45‐47節)。兵士たちが皆恐れに取りつかれているその時、本当に彼らが聞くべき言葉はこのダビデの言葉であったのです。

 このように、神に目を向け、戦いの本質に目を向けていたのは、戦いの最前線にいた兵士たちや王ではなく、戦いから遠くいるように見える、まったく戦力にならないような少年であったという記述は、示唆に富んでいます。自分は一生懸命にやっている。自分は必死で頑張ってきた。事実自分の力をもって困難を乗り越えてきた。そう思っている人の目には、いつの間にか立ちはだかる困難とそこに立ち向かう自分自身しか映らなくなります。ちょうど、これまで最前線において戦ってきた兵士たちの目にゴリアトの巨大さと自軍の非力さしか映っていなかったようにです。

 そして、自力では到底太刀打ちできそうになければ、恐れおののき、自分の無力さを思ってうなだれるしかありません。そのような時に、信仰の言葉は腹立たしく聞こえるものです。特に、それが年若い者や経験の浅い者の口から聞こえてくるならば、まことに腹立たしく思える。現実を知りもしないで、経験もないくせに、と。

 しかし、実は最前線にいない者の方が、戦いの本質が見えているということがあるのです。そこには敵と自分だけがいるのではなくて、神様がおられるのだということが見えている。往々にして、本当に耳を傾けるべき言葉は、普段目につかない背後にいる人々や、まだ前線に出ていない子供たちの素朴な信仰の声の中にこそあるものです。

2025年9月7日日曜日

「毒麦でも抜いてはなりません」

 2025年9月7日 主日礼拝説教

聖書:マタイによる福音書 13章24節~30節

 今日はイエス様のなさったたとえ話をお読みしました。マタイによる福音書にしか出てこない「毒麦のたとえ」です。そして、今日の福音書朗読には入っていませんでしたが、36節以下ではイエス様がこのたとえ話について解説してくださっています。

畑は世界、敵は悪魔
 たとえ話そのものは至って単純です。ある人が麦の種を蒔きました。すると人々が眠っている間に、敵が来て、毒麦を蒔いて行きました。毒麦と良い麦は、ある程度成長しなければ見分けがつきません。やがて僕たちが異変に気づきます。自然に雑草が生えてきたという程度ではありません。明らかに異常な量の毒麦が生えています。僕たちは主人に報告して言いました。「どこから毒麦が入ったのでしょう」。主人は、「敵の仕業だ」と言いました。

 毒麦は有害な植物です。ですから僕たちは一刻も早く抜き集めようとしました。ところが主人は言うのです。「いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」(29‐30節)。これがイエス様の語られたたとえ話です。

 次にイエス様の説明も見ておきましょう。38節に「畑は世界」と語られています。そして、39節には「毒麦を蒔いた敵は悪魔」であると語られています。悪魔がこの世界に毒麦を蒔いている。――なるほど、言われてみれば、その通りでしょう。誰の目にも明らかなことは、この世界には良い麦と呼べるものだけが成長しているのではない、ということです。確かに毒麦が存在しているのです。しかも力強く成長しているのです。

 実際、悪魔の仕業としか思えないような事が起こります。なぜこんなことが起こるのか?なぜこんな人々が野放しにされているのか?なぜ不正を行う者が繁栄し、正直で善良な人々が詐欺に遭うようなことが起こるのか?実際、毒麦は良い麦以上に成長するものです。

 しかし、聖書が語っているのは、蒔かれた種とその成長だけではありません。39節以下には、刈り入れの時についても語っているのです。「刈り入れは世の終わりのこと」と語られています。つまり、この世界がこのままで永遠に続くのではない、ということです。刈り入れの時が来るのです。結論が出る時が来るのです。それが私たちの死んだ後か死ぬ前か分かりません。しかし、いずれにしても毒麦は集められ、火で焼かれることになる。最終的に神様が正しく裁かれるということです。イエス様が語っておられるのはその意味で世界全体に関わる話です。

たとえ話の中に身を置いてみると
 さて、このたとえ話の中に身を置くと何が聞こえてくるでしょう。

 ある人はこの「毒麦」のところに身を置いて聞くかもしれません。「わたしは外側は取り繕って良い麦のような顔をしているかもしれないけれど、本当は神様から見たら毒麦かもしれない。ならば、最終的には毒麦として集められ、滅ぼされてしまうのではないだろうか。」そのように、「毒麦」のところに身を置く時、このたとえ話はたいへん恐ろしい話としてとして聞こえてまいります。

 しかし、ある人は、「良い麦」のところに身を置いてこの話を聞くかもしれません。「確かにこのたとえ話のとおりだ。良い麦だけではなく、毒麦もいるというのは本当だ。いるいる、毒麦!あの人とこの人は、ぜったいに毒麦ですよね。今は、表面はいい顔して良い麦と区別つかないようにしているかもしれないけれど、最後には絶対に火で焼かれるね。」

 いや、「良い麦」のところに身を置いて、他の人を毒麦と見なすだけではありません。このたとえ話には「僕たち」が出て来るのです。彼らは言うのです。「では行って抜き集めておきましょうか!」この僕たちのところに身を置くと、もしかしたら、ある種の共感を覚えるかもしれません。毒麦はいない方がいい。放っておいたら大変なことになる。早く対処しなくてはならない。そのようなことを心に抱いている自分自身を見出すことになるかもしれません。

 実際、この僕が提案する「毒麦抜き」は、様々な形で歴史において起こってきたのです。ある場合には、文字通り、毒麦と見なされた人々が集められ、抹殺されるという形で起こりました。それは今も世界のどこかで起こっていることです。皆さん、本当に恐ろしいことは、「自分はもしかしたら毒麦かも」と思っているところからは起こらないのです。そうではなくて、正義感に燃えた正しい僕が「では行って抜き集めておきましょうか」と言い出すところから起こるのです。

刈り入れまで育つままに
 そのように、この「毒麦」のたとえ話は、「毒麦」のところに身を置いて聞くこともできるし、「良い麦」のところに身を置いて聞くこともできる。「僕」のところに身を置いて聞くこともできるでしょう。そして、それぞれ聞こえて来ることがあるのです。しかし、このたとえ話の中心は、実は「毒麦」でも「良い麦」でも「僕」でもありません。中心はあくまでも「主人」なのです。

 主人は何と言っているでしょう。「では行って抜き集めておきましょうか」と言う僕たちに、主人は答えます。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」。その理由は何ですか。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」――これが理由です。

 農業の話に限るなら、常識的なセンスを持っているのは、この「僕たち」の方です。毒麦は雑草です。成長すれば良い麦に根がからみもします。影響が小さいうちに、早いところ引っこ抜いてしまうのが良いのです。その時に、多少良い麦が抜かれてしまっても仕方ない。それがこの世の常識です。

 しかし、この風変りな主人はそれがいやなのです。「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない」。そのように、この主人は異常なほどに、あくまでも一本一本の麦が正しく扱われることにこだわるのです。それゆえに途中でではなく、最終的にすべてが正しく扱われる時まで待ちなさいと言うのです。「刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」と。

 そして、もちろんイエス様は天の父の話をしておられるのです。神様は十把一絡げではなく、私たち《一人ひとり》が正しく扱われることを望んでおられるのです。一人ひとりに異常なほどに関心を向けられるのです。私たちは神にとってどうでもよい存在ではないのです。だから神は真剣に取り扱われるのです。

 それゆえに、刈り入れの時まで待つのです。終わりの時まで待つのです。神様はそのような御方なのだ、というのです。神様は、早急に裁くことをされないのです。終わりの時までは、純粋に良い麦だけの畑を求められないのです。じっくりと忍耐をもって、時が来るまで待たれるのです。聖書が「終末における神の裁き」について語っているということは、言い換えるならば、その終わりの時までは、神は忍耐強く待たれる、ということなのです。

毒麦は良い麦に
 このように、このたとえ話の中心は「主人」であり、最も大事なのは主人が語られた言葉です。しかし、実はもっと大事なことがあるのです。それは、このたとえを《イエス・キリストが語られた》ということです。教会は、このたとえを、「イエス・キリストが語られたたとえ話」として伝えてきたのです。そのイエス・キリストとは、私たちの罪を贖うために十字架にかかられて死なれたイエス・キリストです。

 確かに神は良い麦と毒麦を一緒くたにはされません。「どちらであっても良いのだ」とは言われません。最終的に、良い麦と毒麦は区別されます。「刈り入れの時、『まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい』と、刈り取る者に言いつけよう」と主人は言うのです。そのような、ある意味でとても恐ろしい話でもあります。

 しかし、このたとえ話はイエス・キリストの語られたたとえ話なのです。救い主が語られたたとえ話です。救い主によって悔い改めが呼びかけられ、罪の赦しの扉が開かれているところで語られているたとえ話なのです。

 罪の赦しの扉が開かれているということは、言い換えるならば、本来ならば滅びるはずの毒麦が、良い麦として倉に取り入れられる可能性があるということです。自然の農業においては、毒麦はあくまでも毒麦です。良い麦にはなりません。しかし、神の農業においては、毒麦が良い麦になり得るのです。良い麦としてスタートできるのです。罪の赦しがあるならば、そこには悔い改めと、新しいスタートもあり得るのです。毒麦に留まっている必要はない。毒麦であり続ける必要はないのです。

 どうでしょう。もし神様という主人が、あの僕たちの提案に従って、「今すぐ毒麦を抜き集めてしまいなさい」と言われる御方なら、私は、とうの昔に抜き集められ滅ぼされていたに違いありません。それは皆さんにしても同じであろうと思います。しかし、神はそのような主人ではありませんでした。神は終わりの日まで待たれます。結論を出さずに待たれます。人がイエス・キリストを通して与えられた恵みを受け取り、罪の赦しにあずかって、良い麦として生き始めることを待たれます。そして、良い麦として生き続け、失敗したとしても何度でもやり直し、最終的に良い麦として刈り入れられることを神様は望んでおられるのです。そのことのために、神様はどこまでも忍耐強く私たちに関わってくださるのです。

 「行って毒麦を抜き集めておきましょうか」――神はその提案に対して「ノー」と言われます。神がそう言われるならば、私たちもまた、他の人に対して、早急に結論を出してはならないのです。断罪するのではなくて、神様の忍耐と寛容とを思いつつ関わっていくことが求められているのです。

 いや、他の人に対してだけではありません。私たちが本当に忍耐強く寛容をもって関わらなくてはならないのは、自分自身に対してであるかもしれません。自分を毒麦として早急に断罪してしまわないことです。本当に大事なことは、毒麦が発見されることでも、毒麦が抜き集められることでもないからです。大事なことは、毒麦が良い麦に変えられていくことだからです。

2025年9月3日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 16:1~23

サムエル記上 16:1-23

 サウルはアマレクとの戦いに際して、すべてを滅ぼし尽くすようにサムエルを通して主から命じられました。しかし、サウルはその言葉に聞き従いませんでした。「しかしサウルと兵士は、アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした」(15:9)と書かれています。

 それは王として極めて現実的な判断でした。アマレクに勝ったとしても、なおペリシテ人との戦いは続きます。むしろそちらの方が脅威なのです。そのためにも、兵士たちの志気を高めておかねばなりません。そのためには兵士たちへの報償は不可欠です。そのことを考えるならば、戦利品を奪わずに滅ぼし尽くすわけにはいきません。実際、兵士たちからもそのような声が上がっていたのでしょう。サウルはその声に従い、上等なものを残します。そして、「兵士が、ギルガルであなたの神、主への供え物にしようと、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです」(15:21)と言い繕ったのでした。

 しかし、どのように外面を敬虔に繕ったとしても、神様の目は誤魔化せません。サムエルはサウルに対してこう宣言します。「主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる」(15:23)。

 15章の最後にはこう書かれています。「サムエルは死ぬ日まで、再びサウルに会おうとせず、サウルのことを嘆いた。主はサウルを、イスラエルの上に王として立てたことを悔いられた」(15:35)。アマレクに対して大勝利を収め、サウルをはじめ、イスラエル全体は戦勝気分に酔いしれていたことでしょう。しかし、そのような中、サムエルはひとり嘆いていたのです。

 「主の御言葉を退けたあなたは、王位から退けられる」という宣言がなされて悲しんでいたのはサムエルだったのであり、サウルではありませんでした。神によって退けられるということが、いかに悲しむべきことであるかを本当に知っていたのはサムエルであって、サウルではありませんでした。サウルが心配していたのは神と決裂することではなくて、サムエルと決裂することでした。いや、正確に言えば、サムエルと決裂することによって自分の王位が危うくなることでした。だから表面上はサムエルとの決裂を取り繕うことができ、ひとまずは王位が保たれることとなれば、あとはサムエルが死ぬまでサウルと会おうとせずとも、サウルにとっては大した問題ではなかったのです。

 さて、サムエルが嘆き悲しんでいる間に、主は既に事を先に進めておられました。主は言われます。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした。」(1節)。油を注ぐという行為は、サウルの時にも見ましたように、神が王を任職する行為です。エッサイの息子の一人を王に任職せよと主は言われたのです。

 かつてサムエルはそのようにしてサウルに油を注ぎました。しかし、今回は事情が違います。サウルが王位にある間に、新たな王を任職することが何を意味するかは明白でした。それはクーデターを煽動したものとみなされる行為なのです。つまり、どれほど民衆がサムエルを尊敬していたとしても、公にサムエルを処刑することのできる正当な理由をサウルに与えることになるのです。

 それゆえサムエルは行くことをためらいます。すると、神はサムエルに事柄を隠すための知恵をさずけました。主にいけにえをささげるために町に入り、そこにエッサイを招けというのです。それは単にサムエルの身の安全を守るためではありませんでした。新しい王が、神の時が来るまで、すなわち準備が整うまで、隠されているためでもあるのです。

 サムエルが主に言われたようにベツレヘムに着きますと、長老たちは不安げに出迎えました。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか」。どんなにサウルが取り繕ったとしても、サムエルとサウルの決裂は人々の知れるところとなっていたのだと思います。しかし、民の長老たちは、ともかく何事もなく平穏無事に時が過ぎることを望んだのです。信仰的な観点からサウルに多少の問題があったとしても、サムエルには事を荒立てないで欲しいと思っていたのです。

 ましてやベツレヘムを拠点にクーデターなど起こされたら、それこそやっかいなことに巻き込まれることにもなりかねません。だから「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか」と不安げに尋ねたのです。サウルと神との関係はどうであれ、何事もなければ、それに越したことはないのです。

 サムエルは主に与えられた知恵に従って、「主にいけにえをささげに来ました」と答えました。そして、いけにえの会食にエッサイとその息子たちを招いたのです。サムエルは、長男のエリアブに目を留めました。そして、彼こそ主の前に油を注がれる者だと思ったのです。しかし、主は言われました。「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。

 さらに、サムエルは、エッサイの子らをひとりずつ、自分の前を通らせました。そこにいた七人の子らのいずれも、主の選ぶところとはなりませんでした。サムエルは尋ねます。「あなたの息子はこれだけですか」。エッサイは答えました。「末の子が残っていますが、今、羊の番をしています」。その末の子こそ、後の王となるダビデでした。その子が連れてこられると、主は言われました。「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」と。

 神の選びは人の選びと異なります。七は完全を表す数字ですので、八番目はいわば余りものです。しかし、主はそのような人を選ばれるのです。サムエルはダビデに油を注ぎました。「その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」と書かれております。サウルの時と同じです。そのように、ダビデが王とされることも、ダビデの才能や野心によるのではなく、まったく神によるのだということが示されています。もっとも、ダビデが実際に王となるのはこの十数年後です。王となるためには、主の霊が降るだけでなく、彼はなおも厳しい訓練の時を経なくてはならなかったのです。

 さて、一方サウルについては、「主の霊はサウルから離れ、主から来る悪霊が彼をさいなむようになった」(14節)と書かれています。「主から来る悪霊」というのは奇妙な表現ですが、それは大事なことを示しています。つまり、サウルを責めさいなむ苦しみが、ただ彼の置かれている状況や病気によるのではなく、根本的には神との関係の亀裂から生じていることが、このような表現によって言い表されているのです。

 この苦しみを見て、家臣は次のように提案します。「王様、御前に仕えるこの僕どもにお命じになり、竪琴を上手に奏でる者を探させてください。神からの悪霊が王様を襲うとき、おそばで彼の奏でる竪琴が王様の御気分を良くするでしょう」。サウルは、その提案どおりに命じて、竪琴の名手を探させます。こうして連れて来られたのは、先に油を注がれたダビデでありました。彼については従者が「まさに主が共におられる人です」(18節)と表現しています。

 主の霊が離れてしまったサウルと主が共におられるダビデ。神によって既に王位から退けられているサウルと、神によって王に任職されているダビデ。その出会いはこうして実現しました。実に皮肉な出会いであるとも言えます。

 サウルはそこで、自分が「神からの悪霊にさいなまれている」という言葉を家来から聞いています。一方、ダビデについては「主と共におられる人」という言葉を従者の一人から聞いています。しかし、不思議なことに、サウルはそのことでダビデを妬んだりはしていないのです。

 後にサウルがダビデを妬むようになります。しかし、それは、ダビデが手柄を立てた時に女たちが「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」という歌をうたっているのを聞いてからです。要するに、サウルにとっては王権を脅かされるかどうかが重要なのであって、王の位が脅かされない限り、神との関係など、サウルにとってはどうでもよかったのです。

 それゆえに、「神からの悪霊」にさいなまれた時にも、彼が求めていたのは、神との関係が修復されることではなく、ただ一時的にでも気分が良くなることでしかなかったのです。「神の霊がサウルを襲うたびに、ダビデが傍らで竪琴を奏でると、サウルは心が安まって気分が良くなり、悪霊は彼を離れた」(23節)。しかし、これは根本的には何の解決にもなってはいないのです。

 そのように、今日も多くの人が手軽な「癒し」を求めます。しかし、一時的に気分が良くなることよりももっと大事なことがあることを、サウルの姿は私たちに教えているのです。

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