2026年8月30日日曜日

「愛は決して滅びない」

2026年8月30日 主日礼拝説教 

聖書1コリント13:1-13

もっと大きな賜物を
 今日の箇所の直前には、「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」(12:31後半)と書かれています。今日の朗読箇所には、その「最高の道」が書かれていることが分かります。さて、その「最高の道」が何であるかはさておき、そもそもパウロはどうして「最高の道」について語っているのでしょう。その直前にはこう書かれています。「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(同前半)。そのように、「最高の道」の話は、「賜物を受ける」という話に続いているのです。まず、そのことを心に留めてください。

 「賜物」という言葉は教会ではよく耳にしますが、一般的に言うならば、これを「能力」あるいはその能力を用いた「働き」という言葉に置き換えると分かりやすいかもしれません。「賜物を受ける」とは、要するに何かが「できるようになる」ということです。

 私たちは自分についても他人についても、何かが「できる」か「できないか」を気にしながら生きていると言えます。他の人ができることが自分にできなかったり、他の人が良い働きをしているのに自分が役に立っていなかったりすると、他人を羨んだり落ち込んだりすることもあるのでしょう。だから他の人と自分を比較して、自分も「できるようになりたい」と願うことは、多かれ少なかれ誰もが経験することだろうと思うのです。

 もちろん、「できるようになりたい」と思うこと自体は悪いことではありません。ですからパウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と言うのです。

 実際、コリントの教会の人たちはそのことに熱心でした。一般的な能力や働きだけでなく、それこそ奇跡的な超自然的な能力や働きについても彼らは熱心に求めていたようです。人を癒すことのできる力、奇跡を起こす力、そのような超自然的な「パワー」を宗教に求める人は、今日も珍しくはないので、私たちにも分からなくはありません。

 そのような超自然的な能力や働きをも含めて、パウロは「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」と勧めます。しかし、だからこそ彼はこう続けるのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と。その「最高の道」とは何でしょう。その続きの朗読を先ほど聞いて、既にお気づきのことと思います。そこで繰り返されている言葉は「愛」です。「愛」こそが、「最高の道」であるとパウロは言うのです。

 いや、さらに言うならば、その「最高の道」を歩むのでないならば、どんな能力を得たとしても、どんな働きをしたとしても無益だとさえ言うのです。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどらややかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(13:1‐2)とはそういうことです。

 それだけではありません。その「最高の道」を歩むのでないならば、他の人のために何をしようとも、どんな大きな自己犠牲があっても無益だというのです。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」(13:3)。

 実に激しい言葉です。どうして、パウロはコリントの人たちにここまで語らなくてはならなかったのでしょうか。――それはコリントの人たちが、様々なことを「できるようになりたい」と願いながら、そして実際に有能な人が決して少なくはなかったにもかかわらず、もう一方においてお互いの間に分裂があり、仲たがいや争いが絶えなかったからです。まさに豊かな賜物をいただいていながら、バラバラだったからです。だからこそ、パウロは歩むべき「最高の道」について語るのです。愛について語るのです。

愛は忍耐強い
 しかし、そこで語られている「愛」とは、一般に通常考えられている「愛」とは恐らく異なるものです。愛は自然に生じる感情ではありません。「愛する」ということと「好きだ」ということは異なります。彼は言います。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(13:4‐7)。

 この箇所を読みます時に思い出されるのは。6年前に天に召されたカトリックの岡田武夫元大司教のことです。彼が柏教会の神父であられた時にこんなことを書いておられました。「罪は人と人とを引き離し、バラバラにし、対立させ反目させます。それは人間のコントロールの外にある闇の力のようなものです。だれでも他者とひとつになりたいと願いながら、ついつい人と争ったり人を恨んだりしてしまうのです。それは罪のなせる業です。わたしたちは、ひとつになるためには、罪とたたかわなくてはなりません。」

 「罪」と聞くと「犯罪」という言葉を連想するかもしれません。あるいは「不道徳」という言葉を思い浮かべるかもしれません。しかし、「犯罪」も「不道徳」も、人と人とを引き裂く罪の現れの一つの側面に過ぎません。それはあくまでも一面なのであって、罪そのものはそう単純ではありません。なぜなら、「罪」は時として道徳的な顔をしたり、正義の仮面をかぶってやってくるからです。そして、互を引き離し、バラバラにし、しばしば正義の名のもとに殺し合うことさえさせるからです。

 先ほど引用した文章にあったように「ひとつになるためには、罪とたたかわなくてはなりません」。人間とではなく、「罪」と戦わなくてはなりません。バラバラにする力とたたかわなくてはなりません。どうしてこの文章を引用したか、もうお分かりでしょう。パウロが語る「愛」とは、まさにこの戦いに他ならないのです。バラバラにする力とのたたかいです。

 どのように戦うのですか。人間相手の戦いならば、武器を手にして戦えるでしょう。しかし、罪との戦いであるならそうはいきません。どのように戦うのですか。忍耐強くあることによってです。情け深くあることによってです。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」。実際、これは大きな戦いでしょう。

 何かができるようになることは確かに大事です。だからより大きな賜物を求めたらいい。しかし、バラバラにする力、分裂と争いをもたらす力と戦う人になることは、もっと大事なことです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」。その道を歩もうとしないなら、与えられたどんなに大きな能力も、大きな働きも、無に等しいものとなってしまうのです。いや、愛を離れた能力ほど、恐ろしいものはありません。

愛は決して滅びない
 とは言うものの、私たちはここで改めて考えざるを得ません。その道を歩むことはなんと困難なことでしょう。実際、これまでどれほどその戦いに苦戦してきたことでしょう。何度敗北を喫してきたことでしょう。

 私たちは現実に、自分の内にも、自分の周りにも、教会の中にも、この世界の至るところにおいても、罪の力がありとあらゆる形を取って猛威を振るっているのを目の当たりにしているのです。自分の心の内に働く罪の力にさえ苦戦を強いられているのに、いったいこの世界に働いている巨大な罪の力とどう戦ったらよいのでしょう。普通に考えたら、最後は罪の勝利に終わるのであって、世界は崩壊してバラバラになって終わりを迎えるとしか思えないのでしょう。ただその「最高の道」を歩きなさいと勧めるだけならば、これほど過酷な勧めはありません。

 しかし、パウロはここで単にその「最高の道」を歩きなさいと勧めているのではないのです。実際、「~しなさい」という勧めや命令の表現は全く用いてはいないのです。「愛を追い求めなさい」という言葉は14章になって初めて出て来るのです。その前にパウロは何を語っていますか。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。…」と書いていって、そしてこのように宣言しているのです。「愛は決して滅びない!」

 最後に勝つのは罪ではないのです。愛が最後に勝つのです。愛が最後まで残るのです。愛という道を行く時、私たちは幾度となく困難を経験し、敗北の惨めさを味わうかもしれません。しかし、私たちがその道を行くことは決して無駄に終わらないのです。どんな大きな能力も働きもそれ自体は一時的なものです。しかし、愛は永遠なのです。なぜなら、愛は永遠なる神の本質だからです。ヨハネの手紙に「神は愛です」(1ヨハネ4:16)と表現されているとおりです。

 実際、神と人、人と人を引き離す罪の力と戦っておられるは、他ならぬ神御自身なのです。罪との戦いとしての「愛」を、神はキリストを通して見せてくださったのです。そして、その「愛」が永遠であることを、神はキリストの十字架と復活において現してくださったのです。

 そのキリストの中に、私たちは招き入れられ、キリストの体の部分とされているのです。この前の章にこう書かれているとおりです。「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です」(12:27)。私たちはキリストの体の部分として、ここに書かれている「最高の道」を歩んでいくのです。ならば、どんなに困難を極めていたとしても、今は度々敗北するようなことがあっても大丈夫なのです。キリストにおいて現された愛は決して滅びないからです。

 パウロが今日の箇所で語っているとおり、確かに私たちが見ているのは、不完全な途中の状態でしかありません。「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている」(13:12)と語られているとおりです。私たちが知るところは一部分に過ぎません。しかし、最終的には完成を見るのです。完全な愛を知ることになるのです。「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」。――その道を共に進んでいきましょう。

2026年8月26日水曜日

祈祷会用:サムエル記下 19:41~20:22

 サムエル記下19:41~20:22

 アブサロムのクーデターは失敗に終わりました。ダビデは息子を失った嘆きの中から立ち上がり、再び王座に着くためにヨルダンを渡りエルサレムへと向かいます。国家的な危機は回避されました。しかし、その一方において既に戦後の利権争いが非常に醜い形で始まっていいたことを、私たちは今日の箇所に見ることになるのです。

 一歩先に出ていたのはダビデと血縁関係にあったユダ族でした。北イスラエル諸部族が、戦後のダビデ政権とどのような関係を持っていくかについて議論がなされていた時に(19:10)、ユダ族はダビデに使者を遣わして「家臣全員を共に帰還してください」と言い送り、ヨルダン川を渡るのを直接に助けることをしたのです。

 しかし、19:12に書かれていたことをここで思い起こしていただきたいのですが、実はユダ族が遅れを取らないようにと、北の諸部族の動きをリークしたのは他ならぬダビデ自身だったのです。ユダ族を王家との特別な関係に置くことは、ダビデの意向でもあったのです。戦後の政権を安定させるためには、これまで何かとギクシャクしていたユダ族の保守層との関係を良好にしなくてはならない。それがダビデの政治的な判断だったのです。しかし、ユダ族が先んじてダビデを迎えたことは、かえって新たな争いの火種をもたらすこととなりました。

 「王はギルガルへ進んだ。キムハムも共に行き、ユダの全兵士もイスラエルの兵士の半分も王と共に進んだ」(41節)とあるとおり、そこにはユダの兵士だけがいたのではなく、イスラエルの兵士の半分、すなわち北イスラエル諸部族の和平推進派の人々がいたのです。そして、彼らはユダ族に出し抜かれたことを怒ったのでした。その結果、彼らの間で論争が生じます。ユダ族は自分たちがダビデの近親であるから当然だと主張しました。一方、北の諸部族は、自分たちの方が部族の数にしても多いのだと主張いたします。しかし、結局はユダの声の方が大きかったようです。

 さて、この対立に乗じて権力の座を夢見たのがシェバという人物でした。彼はベニヤミン人であったと記されております。あのシムイと同様に、ダビデがサウル王家から王座を奪ったものと信じていた人なのかもしれません。彼は角笛を吹いて反旗を翻しますと、「イスラエルの人々は皆ダビデを離れ、ビクリの息子シェバに従った」(2節)と書かれています。私たちはここで、あのアブサロムの反乱におけるのと同じように、再び人々の不満が結集していくのを見ることになるのです。

 しかし、アブサロムの反乱は、二万人以上のイスラエル人の血を流す結果に終わったのではなかったでしょうか。あの悲劇は、何をももたらさなかったのでしょうか。結局、私たちは、あの悲劇の結果、イスラエルの人々の内に、真の悔い改めは起こらなかったという事実を見るのです。災いが起こる。様々な形で人が死んでいく。それはまことに悲しむべきことです。しかし、本当の悲劇とは災いそのものではありません。人が悲しみや嘆きを通してさえ悔い改めに至らないということこそ真の悲劇なのです。

 敗戦したイスラエルの人たちが、「我々が油を注いで王としたアブサロムは戦いで死んでしまった」(19:11)と語るのを既に見てきました。彼らはその事実が何を意味するのかを深く考えることはありませんでした。それが神に対する反逆であったのか否かを考えることはありませんでした。人々の内にあったのは、戦後をいかに有利に生きるかということだけでした。有利か不利か、得をするか損をするか、それしか考えられない。ならば、不利益を被り損をすれば、再び不満が生じるだけの話です。不満は結集して同じことが繰り返されます。同じ悲劇へと向かうのです。

 さて、今回の場合、人々の心がシェバから離れるのは早かったようです。不満によって一致団結したのですから、人々の心の中には利害の意識しかありません。シェバに従うことが不利益となるのであれば、もはや従う意味がないのです。不満と怒りによって担がれた人の最後はまことに惨めです。

 14節には「シェバはイスラエルの全部族を通って行って、ベト・マアカのアベルまで来ていた。選び抜かれた兵が寄り集まり彼に従った」と書かれています。この言葉がある意味ですべてを物語っていると言えます。「選び抜かれた」と訳されれば聞こえはいいですが、要するにそれだけしかいなかったという話です。

 さらには「選び抜かれた兵」という部分は「ビクリびと」という読み方の方が一般的です。協会訳ではそう訳されていました。身内しか残らなかったということです。アベルはイスラエルの北のはずれです。結局、そこに追いつめられるまで、彼を支持する部族はなかったということです。20:14には、「シェバはイスラエルの全部族を通って行って、ベト・マアカのアベルまで来ていた」と書かれていましたでしょう。そうです、全部族の地を通ったにも関わらず、彼の元には実際にはダビデと戦えるだけの兵士は集まらなかったということです。「選び抜かれた兵」にせよ「ビクリびと」にせよ、実情はそのようなものだったということです。

 彼が最終的に籠城したアベルの町は、追跡していたダビデの家臣によって包囲されました。町に向けて外壁の高さほどの塁が築かれ、町の陥落が時間の問題になった時、知恵ある女が町から呼ばわった次第が16節以下に記されております。

 彼女はヨアブと交渉を開始します。彼女は、アベルの町について、「アベルで尋ねよ」ということわざが残っているほどに、イスラエルの伝統を保持した由緒ある町であることを指摘して、何故この「母なる町」を滅ぼそうとするのか、と訴えます。ヨアブも、アブサロムの反乱の時に見たように、もともと内戦の拡大を望んではいなかった人です。北イスラエルの古い町が滅亡することがあれば、一気に内戦は拡大することになるでしょう。それやヨアブの望むところではありません。

 そこでヨアブは、ビクリの子シェバを差し出すようにと求めます。女は知恵を用いてその要求に応えました。こうしてシェバが殺されて、彼が起こした反乱は鎮圧されることとなったのです。結局、シェバはアブサロムと同じ道を辿ることとなりました。

 さて、そのような反乱の経緯を記している中に、一つのエピソードが挿入されております。アマサの暗殺です。

 ダビデがヨアブに代えてアマサを軍の司令官に任じた次第は19:14に見たとおりです。ヨアブは更迭されました。7節には「ヨアブの兵、クレタ人とペレティ人、および勇士の全員が彼に従ってエルサレムを出発し、ビクリの息子シェバを追跡した」と書かれていますでしょう。「彼に従って」の「彼」とは、弟のアビシャイのことです。すなわち、ヨアブの軍は弟のアビシャイのもとに置かれることとなったのです。

 一方、ヨアブに代わって軍の司令官となったアマサは実際にはその務めを遂行する実力を伴ってはいませんでした。王はアマサに「ユダの人々を三日のうちに動員してここに来なさい」と命じたにもかかわらず、期日までに戻ることはできなかったのです。ユダの人々は、ヨアブに従うようには彼に従わなかったということです。結局、ダビデはアビシャイ(この時点ではヨアブの上官)に命じて自分の親衛隊を率いさせ、シェバを追跡させることになったのです。

 事件は、その追跡の途上で起こりました。彼らがギブオンにさしかかった時に、王のもとへと向かうアマサに出会ったのです。そこでヨアブはアマサを殺害したのでした。剣で刺し殺した次第が詳しく書かれています。アマサはまさか自分が殺されるとは夢にも思ってもみなかったようです。

 ヨアブがアマサを殺害したのは、もちろん、自分の地位を奪ったアマサに対する恨みを晴らしたということでもあるでしょう。かつてアブネルを殺したヨアブは、ここでも自分の地位を回復するためにアマサを殺したのでした。

 しかし、それ以上に、ヨアブは王国の行方を案じていたということでもあろうと思います。ヨアブという男は、たとえ更迭されて弟のアビシャイの元に置かれても、お国のためなら、王のためなら、軍務に忠実であろうとする人物です。そのような彼の目から見て、実力の伴わないアマサが軍の司令官であり続けるということは、王国そのものの危機と映ったことでしょう。そして、そのように見ていたのはヨアブ一人でないことは、彼がアマサを殺害したことについて、誰一人として異論を唱える者がいなかったことからも分かります。

 さて、このように、人間の様々な思惑によって、王国は動いて行ったのでした。これがイスラエルの民であり、ダビデの王国です。そうです、人間の目には、人間が王国を動かしているように見えるのです。しかし、それにもかかわらず、かつてナタンが預言したように(7:12)、王国は揺るぎないものとされていったのです。ある意味では実に不思議であると言わざるを得ません。しかし、その不思議さを通して明らかにされるのは、王国を王国たらしめているのは人間の力や知恵ではなく、ただ神の恵みであるということなのです。ですから神の恵みが離れた時、いや王国が神の恵みから自らを引き離した時、その王国は滅びていくことになるのです。それはそのまま教会について言えることです。パウロはローマの信徒への手紙においてこう言っています。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」(ローマ11:22)

2026年8月23日日曜日

「死から命へ――聖霊によって生かされる」

2026年8月23日 主日礼拝説教 

聖書:ローマの信徒への手紙 8:1-17

 8月も第4主日を迎えました。今月も、この第4主日においては、特に年度主題を覚えて礼拝をおささげしたいと思います。「聖霊の神殿である私たち」。これが年度主題です。今週も、私たちはまず、神の霊が、聖霊が、私たちを神殿として宿っていてくださるという事実に思いを向けましょう。

神の霊が宿っている限り
 今日の第2朗読ではローマの信徒への手紙が読まれました。その8章9節以下にはこのように書かれていました。

 「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(9‐11節)。

 「宿っている」という言葉が繰り返されていましたでしょう。これは「家」という言葉に由来します。一時的な滞在ではありません。そもそも「神殿」ですから、まさに住んでくださるということです。

 ちなみに、「聖霊の神殿である私たち」ということですが、私たちを神殿として聖霊が宿っていてくださるとパウロが言う場合、その一つは、「私たち」すなわち「教会」に宿っていてくださるという意味です(1コリント3:16)。そして、もう一つは、私たち一人一人、すなわち個々のキリスト者の体に宿っていてくださるという意味です。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(同6:19)。

 今日の箇所において繰り返されている「宿っている」は、主に後者の意味合いです。すなわち、私たち一人一人の体に宿っていてくださる、ということです。ここでパウロは、ローマの信徒たちに、自分が何者とされているかを思い起こさせているのです。これはパウロがこの手紙において、既に他の章でもしてきたことです。

 例えば、洗礼式において必ず読まれる聖書の言葉があります。この手紙の6章です。パウロは既に洗礼を受けた人々にこう言っているのです。「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、その死にあずかるために洗礼を受けたことを」(6:3)。

 そして7章ではさらに、「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」(7:4)と語られています。私たちは、復活されたキリストのもの、キリストに属する者とされたというのです。そして、パウロはここでさらに、キリストと結ばれて、キリストのものとされた者には、神の霊が宿っているのだ、ということを語っているのです。

 ところで、ここで、「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり」とパウロは言っていますが、これは「神の霊が宿っているかもしれないし、宿っていないかもしれない。そこで、もし宿っているとするならば…」と言いたいのではありません。ここはむしろ「神の霊があなたがたの内に宿っているので」と訳してもよい言葉なのです。「神の霊が宿っている」ということを前提として語っているのです。

 さて、皆さん、「神の霊が宿っている」といいますが、実感できますでしょうか。まさか見えはしないでしょう。しかし、パウロはここで、聖霊が宿っておられるということについて、感覚的な根拠は持ち出さないのです。感じられるかどうか、ではないのです。ただ彼らが「キリストに属する者」とされている事実こそが重要なのです。「キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません」(9節)とあえて言っているのはそのためです。

 ここでは聖霊が「キリストの霊」と言い換えられています。「キリストの霊を持たない者」と言っているのは、「あなたがたの中には、キリストの霊、聖霊を持つ者と持たない者がいる」と言いたいからではありません。先ほど触れましたように、パウロは彼らがキリストのものとなっていること、キリストに属していることを前提で話をしているのです。キリストのものであるならば、キリストに属しているならば、キリストの霊を持たないはずはない、と言っているのです。

体は罪によって死んでいても
 さて、そのように「神の霊」が宿っていることについて語られているのは、もともと宿っている別なものがあるからです。それはこの前の章、7章に書かれています。「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(7:18-20)。

 もともと住んでいるものとは何ですか。それは「罪」です。ここで「わたし」という言葉が繰り返されているように、これはパウロ自身の深い経験に裏打ちされた言葉であると言えるでしょう。

 「それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」。――他の人が言ったなら、これは単なる責任転嫁に聞こえるかもしれません。「『もはやわたしではない』って言いますけど、いやそれをしているのはあなたでしょう」と言いたくなるかもしれません。

 しかし、彼は「自分の望む善」を行おうと恐らく死ぬほど努力してきた人なのです。「望まない悪」を行わないために必死で努力してきた人なのです。文字通り罪と格闘してきた人なのです。だからこそ、内に宿っているものがいかにおぞましいものであるか、また、いかに強力なものであるか、骨身に染みて分かっているのです。

 私たちは、恐らくパウロほどには、自分の内に住む罪と向き合ってはいないのです。こうしたいと思ってもできなくて、ああなりたいと思ってもなれなくて、自分の弱いところ、自分の悪いところばかりに思い至って自己嫌悪に陥ることはあるかもしれません。しかし、自分の内に「罪」が住んでいるという深刻な問題とは、恐らくパウロほどは向き合っていないのです。逆に言えば、だからせいぜい自己嫌悪どまりなのだ、とも言えるのでしょう。

 そのような私たちだからこそ、意識して、「『罪』が住んでいるのだ」とパウロが語る言葉に、私たちは繰り返し耳を傾けなくてはならないのだと思います。それはもはや、私たちの努力が頑張りや決心でどうにかなるようなことではないからです。

 パウロは10節において「体は罪によって死んでいても」という言い方をしています。皆さん、どう思われますでしょうか。「わたしはなんてダメなんだ。なんて情けないんだ。なんて汚いんだ」という程度の話ではないのです。もう「死んでいる」というのです。もちろん生物としては生きていますけれど、パウロに言わせれば、私たちに自覚があろうがなかろうが、既に「死んでいる」というのです。罪が住んでいるとはそういうことなのです。

聖霊による命
 しかし、感謝なことに、今や、罪だけが住んでいるのではないのです。死んでいるところに聖霊が来られたのです。キリストの霊が宿ってくださったのです。そして、キリストの霊が宿ってくださったことが、さらにこう言い換えられています。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています」(10節)。

 死んでいるところに、「命」が来てくださった!もちろん、それで「罪」がいなくなったわけではありません。罪は依然として猛威を振るい、私たちを支配しようとします。それゆえ、戦いは続いているのです。しかし、それは望みのない孤独な戦いではありません。そこにはキリストもおられるからです。

 「義によって」と書かれていました。それは「救いによって」と言い換えてもよいでしょう。聖霊が宿っていてくださるとは、私たちの救い主であるキリストがいてくださるということなのです。私たちの罪のために十字架にかかられ、復活されたキリストがいてくださいます。ならば、もはや死んだままではありません。聖霊が宿っていてくださるとは、そういうことなのです。

 ですからさらに、神の霊は「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と呼ばれているのです。キリストは復活され、栄光の姿で弟子たちに現れました。そのように神の国における栄光の姿を与えられた方の霊が、私たちにも与えられているのです。それは何を意味するのでしょう。キリストの栄光の姿は、やがて与えられる私たちの姿でもあるということです。やがては完全な救いに至るのです。復活において、私たちの体は、罪からも死からも完全に自由なものとなるのです。戦いが終わる時が来るのです。

 そして、先に復活された方の霊が今、私たちに宿っていてくださるということは、最終的に完成するこの救いが、既に始まっていることをも意味します。そうです。事は始まっているのです。

 パウロが語っているのは神の御業です。完成に至る神の御業です。ならば私たちはこちら側ばかりに思いを向けていてはなりません。自分を含め、人間の姿や行いに一喜一憂していてはなりません。私たちの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿なのです。神が私たちの内になしていてくださること、そして、私たちを通して、私たちを用いてなそうとしておられることに、もっと思いを向けて、信仰の歩みを共に続けてまいりましょう。

2026年8月19日水曜日

祈祷会用:サムエル記下 19:16~40

 サムエル記下 19:16‐40

 今日の聖書箇所は、かつて都落ちをした惨めな姿で渡ったヨルダン川を、ダビデが再び渡ってエルサレムへと向かう場面です。そこで私たちは、既に登場した幾人かの人々に再び会うことになります。そこには一方において、シムイとツィバがあり、他方において、メフィボシェトとバルジライがおります。特にこの4人に注目しますと、彼らが実に対照的に描かれていることが分かります。

 初めにシムイとツィバに目を留めましょう。この二者はダビデについて、明らかに全く異なる予想を抱いていました。

 まずはシムイから。シムイにとって、都落ちをしたダビデは失脚した王であって、二度と再びエルサレムに戻ることはないと思われました。ですから、彼はここぞとばかりに、石を投げつけて、ダビデを呪ったのです。「出て行け、出て行け。流血の罪を犯した男、ならず者」(16:7)と。落ちぶれた姿とはいえ、ダビデにも兵士たちが同行していたのですから、これはある意味では命がけの行為であったと言えます。

 しかし、今日の箇所を読みますと、シムイがそのような行動に出ることを可能にしたのは、ある程度の後ろ盾があったからであることが分かります。シムイがベニヤミン族の者千人を率いて来ているというところを見ると、彼がもともとベニヤミン族の中にあってかなりの実力者であったものと考えられます。彼の背後にはダビデがサウルの王座を奪ったと見なす人々、それゆえにダビデに元々敵対心を持っていた相当な勢力が控えていたものと思われるのです。

 さて、そのシムイが今や手のひらを返したように、好意的にダビデを迎えに下ってきたのです。もちろんそれは、彼の予想に反してダビデが再び王位に戻ることになったからです。ダビデが正式に王座に着いたときに、かつてのシムイの無礼が取りざたされるならば、彼は死罪を免れることはないでしょう。彼の一族も滅ぼされることになるでしょう。それゆえに彼は先手を打って、いち早くヨルダンへと王を出迎えに行き、王の前にひれ伏してとにかく謝罪したのです。

 彼は言いました。「どうか、主君がわたしを有罪とお考えにならず、主君、王がエルサレムを出られた日にこの僕の犯した悪をお忘れください。心にお留めになりませんように。わたしは自分の犯した罪をよく存じています。ですから、本日ヨセフの家のだれよりも早く主君、王をお迎えしようと下って参りました」(20‐21節)。王の帰還の時点で恩赦の言葉をなんとか得ておくこと。それがシムイの目論みでした。それが失敗に終わればシムイは処刑されます。彼もまたそのことを良くわきまえていたので、千人の者たちを率いてきたのでしょう。謝罪が受け入れられなければダビデと戦うまでのこと。その姿勢がよく現れています。

 当然のことながらダビデの側近であるアビシャイはシムイが処刑されるべきであることを主張しました。しかし、ダビデはシムイの謝罪を受け入れ、「お前を死刑にすることはない」と誓ったのです。これを単純にダビデの寛大さと考えてはなりません。シムイがベニヤミン族における実力者であるとするならば、今後のベニヤミン族との関係を考えて政治的な恩赦を宣言せざるを得なかったとも考えられます。実際、ダビデは最期を迎えるときに、シムイの処刑をソロモンに委ねるのです(列王上2:8以下参照)。

 さて、もう一方においてツィバはダビデが再びエルサレムに戻るであろうことを、ある程度予想していた人物でした。彼はダビデが都落ちをする時に、しっかりとダビデに恩を売っておくのです。サムエル下16章において読んだことを思い起こしてください。彼は、主人であるはずのメフィボシェトについて偽りの訴えをなし、主人に属するものを先に手に入れておいたのです(16:4)。このようなことは、再びダビデが王座に着かなければ意味がないのです。

 彼の予想どおりダビデが勝利を得てエルサレムに帰還するに当たって、再びツィバは息子たちと召使いとを率いて現れます。そして、シムイの率いてきた千人に分け入るかのようにして、自ら渡し場を渡って(原文の表現は「繰り返し渡って」の意)、王家の人々を助けたのです。それはヨルダンを渡るに困難な子供や年老いた者たちのことを考えてではありません。その目的は何か。聖書はそれを「王の目にかなうよう」(19節)と表現しています。

 あくまでも王の目にどう映るかが問題なのです。そこに働いていたのは、かつてメフィボシェトの財産を自らのものにしたときに働いていたのと同じ打算でありました。彼は王の目にかなうようにと、自らずぶ濡れになりながら、一生懸命に王家の人々を渡らせたのです。そのツィバの姿が目に浮かぶようです。

 このように、当初の予想は全く異なる二人でありますが、ダビデを迎えた意図においては一致していました。ダビデの恩赦にせよ、ダビデの好意にせよ、彼らはダビデから良きものを引き出すためにせっせと立ち回るのです。私たちは、ダビデが勝利を得るや否や、手の平を返したように立ち回る北イスラエルの人々の姿、そしてユダ族の姿も見てきました。加えて、このようなシムイやツィバの姿を読んで、なんと浅ましいことかと思わせられます。

 しかし、その浅ましさは、他ならぬ私たちの姿であるかもしれません。彼らがエルサレムへ帰るダビデを迎えた姿は、私たちのメシアに対するあり方を考えさせられます。私たちがキリストに一生懸命に仕えるのも、また神妙に罪を言い表すのも、それはキリストからただ良きものを引き出そうとしている打算の現れであるかもしれません。

 しかし、もう一方で、シムイやツィバとは全く異なる姿が私たちの目を引きます。メフィボシェトとバルジライの姿です。

 メフィボシェトも王を迎えるために下ってきました。ツィバは、まさか足の不自由なメフィボシェトがダビデを出迎えに下って来るとは思いもよらなかったに違いありません。とはいえ、メフィボシェトがたとえ王を出迎えたとしても、彼自身としては王のために何が出来るわけでもありません。ならば何のために来たのか。メフィボシェトは、ただ王の帰還を喜ぶために下って来たのです。

 彼がどれほど王の帰りを待ちわびていたかは、その姿が物語っていました。「彼は、王が去った日から無事にエルサレムに帰還する日まで、足も洗わず、ひげもそらず、衣服も洗わなかった」(25節)と書かれています。メフィボシェトは、ツィバに欺かれた次第を語りました。ツィバに欺かれた結果、彼に属するものは、すべてツィバのものとなってしまいました。しかし、メフィボシェトは、それらを取り返すために王に訴えているのではありません。ダビデが帰ってきた今、そんなことはもはやどうでも良いのです。彼は言いました。「主君、王が無事に王宮にお帰りになったのですから、すべてツィバのものとなってもかまいません」(31節)。そこには、打算を超えた、打算とはもはや無関係な愛がそこにあるのを見るのです。

 また、渡し場での出来事とは前後しますが、32節以下にはバルジライがヨルダン川まで見送りに来ていたことが伝えられています。彼は、ダビデがマハナイムに逃れていた時に、王と兵士たちの生活を支えていた人たちの一人です。既に、彼は八十歳になっていたと聖書は記します。ヨルダン川においても、あのツィバの一族のような奉仕が出来るわけではありません。ただダビデとの別れを惜しんで、純粋に王を見送るために、老いの身をおして、ヨルダンまで共に旅をしたのです。

 王はそんなバルジライに言いました。「わたしと共に来てくれないか。エルサレムのわたしのもとであなたの面倒を見よう」(34節)。もはやあの亡命者ダビデではありません。再び、全イスラエルの王としてエルサレムに戻るダビデのありがたい申し出です。しかし、バルジライは、その申し出を丁寧に断わりました。王は彼に口づけして祝福し、バルジライは自分の町へと帰って行ったのです。

 メフィボシェトとバルジライの打算を越えた王への愛と忠誠。キリストと私たちの関係において失ってはならない大切なことを示しているように思います。


2026年8月16日日曜日

「神に倣って生きる」

2026年8月16日 主日礼拝説教 

聖書:エフェソの信徒への手紙 4:25‐32

 本日は第2朗読において、パウロがエフェソの教会に書き送った手紙が読まれました。今日は4章25節から読みましたが、その直前にはこう書かれています。「だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。」(22-24節)。信仰者として生きるということが、このような言葉で表現されているわけです。

 古い人を脱ぎ捨てる。そして、新しい人を着る。身に着ける。そのような言葉で表現されているのは「生き方」であり「生活」です。信仰はただ頭や心の中の事柄ではありません。生活です。その人がどう生きるのか、日々、どのように生活するのか、ということに関わっているのです。ですから、「真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」と語られているわけです。

 しかし、「真理に基づいた正しく清い生活」と言われても、具体的にイメージできますでしょうか。言葉としては分かりますが、では実際に具体的にどのように生きたらいいのかという話になると、どうも漠然としていてよく分からない。ですから、パウロは今日の箇所で、具体的な生活の話を始めるのです。それは6章9節まで続きます。

 もちろん生活の全ての場面が扱われているわけではありません。語られているのはごく一部のことです。しかし、そこから見えてくるものがある。それが大事なのだと思います。それでは、そこに列挙されている勧めを見ていきましょう。

新しい生き方
 まず、「だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」という言葉から始まります。「真実を語りなさい」とはどういうことでしょうか。偽りではない、本当のことを語りなさい、ということでしょうか。では、「本当のこと」とは何でしょう。本当に「偽りではないもの」とは何でしょうか。

 実は、この「真実」とは、前の節の「真理」と同じ言葉なのです。パウロは「真理を語りなさい」と言っているのです。この世界は偽りに満ちています。人間は皆偽りに満ちています。しかし、そのような世界のただ中で、そのような人間である私たちに、本当の意味で偽りでないもの――真理――が知らされたのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)と宣言される御方を通して、偽りのない神の愛、神の救い、すなわち福音の真理を知らされたのです。

 だから「それぞれ隣人に対して真理を語りなさい」と言われているのです。そこで、その「隣人」とは誰でしょう。その次に「わたしたちは、互いに体の一部なのです」と書かれています。「体」と言えばキリストの体なる教会のことです。すなわち、この場合、「隣人」とは教会におけるお互いのことです。私たちはお互いの間で、何を口にしているのでしょう。24節に語られている、「真理に基づいた生活」を送りたいならば、まず教会の中で互いに福音の真理を語り、また聞くということが起こらなくてはならない。言われてみれば当たり前のことであるとも言えるでしょう。

 続いて、「怒ることがあっても、罪を犯してはなりません」と語られています。これもまた、教会の中の話です。もちろん正しい意味で怒りが必要な時はあるのでしょう。「怒ること」自体がすべて罪であるわけではありません。しかし、怒り続けていると、悪魔にすきを与えることになるというのは本当でしょう。「怒り」が悪魔に利用されて「罪」となってしまう。「怒り」によって神から引き離されてしまう。そのようなことは起こります。ですから、「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」と言うのです。ユダヤの数え方では日が暮れると次の日です。次の日まで怒りを持ち越さないように、ということです。そして、先ほども言いましたように、このことも重要になってくるのは教会の中においてです。教会の中におけるお互いの話です。

 その次には「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません」と言われています。教会の中には、かつて泥棒だった人もいたのでしょう。キリスト者になってからも、どうも手癖が悪い人がいたようです。しかし、パウロはただ「盗みは悪いことだ」ということを言っているのではありません。むしろ「困っている人々に分け与えるようにしなさい」と言うのです。

 これも教会の中のことです。初期の教会には、特に奴隷や被差別階級の人など貧しい人が多かったのです。ですから、互いに支え合って教会を形づくっていたのです。そのように他の兄弟を助けることができるように働きなさい、とパウロは勧めるのです。そのように、これは一般的な道徳の話ではありません。キリストの体の部分であるお互いの間でどうあるべきかという話です。

 続いて、「悪い言葉を一切口にしてはなりません」と言われています。「悪い言葉」が何であるかは後で考えることにして、大事なことは、「ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」と勧められていることです。実は、原文には「その人を」という言葉はありません。もちろん、「人」が恵みを得て成長するということでも間違いではないのですが、ここでパウロが念頭に置いているのはただ個人のことではなく、教会を「造り上げる」ことなのです。

 そうすると「悪い言葉」とは、教会を「造り上げる」のとは反対の言葉、破壊する言葉であることが分かります。通常、そのような言葉は、怒りや悪意から生じてまいります。なので、少し飛びますが、31節では「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」と言われているのです。そのようなものから生じる言葉が、教会を造り上げることに結びつかないのは明らかだからです。またそれは30節にあるように、聖霊を悲しませることでもあるのです。むしろ大切なことは、その後に書かれているように、「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」ということなのです。

神に倣う生活
 さて、最初に申し上げましたように、これらは24節の「真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」という勧めの具体的な展開なのです。今日は6章まで続く具体的な勧めの一部分を見てきました。しかし、これだけを読みましても、この世において語られる、いわゆる「清く正しい生活」というのとは、ずいぶんイメージが異なりますでしょう。個人として清く正しい人間になることではなく、これらの勧めは教会を造り上げること、すなわち教会におけるお互いが「共に生きる」ということに関わっているのです。

 しかし、それにしても難しいことだと感じた人も、少なくないに違いありません。私自身、勧めとしては理解できるけど、やはり難しいことであると感じます。しかし、だからこそ5章に入って、「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)と語られていることが大きな意味を持つとも思えるのです。

 「神に倣う」という表現は聖書の中でここにしか出てきません。極端な表現にも思えます。そもそも神に倣うことなどできるはずがない、とも思えます。しかし、もう一方において「倣う」とは「まねる」という意味の言葉ですから、ここで求められているのは、所詮は「ものまね」に過ぎないとも言えます。神になれるわけではない。同じことができるわけでもない。所詮は不完全な真似事の話です。

 例えば、一流の料理人である人がいて、その人に小学生の息子がいたとします。その息子は料理人である父親を尊敬して、憧れて、その仕事を真似したくなる。その子が父親を真似して何かを作ったとしても、恐らくできるのは料理とはとても呼べない代物だろうと思うのです。しかし、それを見て父親は、「こんなもの店に出せるか」と言って叱りつけたりはしないでしょう。父親に憧れて、見よう見まねで息子がやったことを、大いに喜んで誇りに思うだろうと思うのです。

 教会生活とはそのようなものだと、この箇所を読む度に思うのです。「あなたがたは神に愛されている子供ですから」と聖書は言うのです。私たちは神に愛されている子供たちなのです。ここに書かれていることが完全にできたら愛されるのではなくて、既に愛されている子供たちなのです。

 そこで、愛されている子供として、父である神を愛して、神にあこがれて、神様が私たちを愛して、私たちにしてくださったことを真似てみるのです。神様と私たちとの違いは、料理人とその息子の腕の違いどころではありません。ですから、それこそ私たちが真似てみたところで、似ても似つかぬことをすることになるのでしょう。食べられないような料理を作るのでしょう。しかし、それでも愛されている子供として真似てみるのです。

 それが例えばその直前に書かれている「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」(4:32)ということであったりするのです。さらに言うならば、先ほど見て来た一つ一つの具体的な勧めもまた同じです。これらはすべて、私たちを愛して、とてつもなく大きなことを私たちのためにしてくださった神の「ものまね」なのです。

 「ものまね」ですから、恐らく実際に私たちがやることは、あまり似てないのです。「わたしはこれだけ親切にしました」「人を赦しました」「怒りと悪意を捨てました」と言っても、なんら誇るほどのことでもないのです。たぶん神には全く似ていないのですから。恐らくは猿まね以下のことなのです。

 しかし、それでもよいのです。私たちは「神に愛されている子供たち」として生きるようにと招かれているのです。神に愛されている子供たちとして共に生きるようにと、神に愛されている子供たちとして共に教会を造り上げて行くようにと、招かれているのです。だから、似ていようがいまいが、それでも神の「ものまね」をして生きるのです。ただただ私たちを赦して愛してくださった天の父に感謝して、天の父に憧れて、父の愛を目に見える姿で現してくださったイエス・キリストに憧れて、神に倣って生きるのです。そのような思いをもって、今日見て来た一つ一つの勧めにしても、まずやってみるのです。取り組んでみるのです。それこそが、私たちに恵みとして与えられている、「真理に基づいた正しく清い生活」に他ならないのです。

2026年8月12日水曜日

祈祷会用:サムエル記下 19:2~15

サムエル記下19:2~15

 ダビデの息子アブサロムが起こした反乱は、最終的にアブサロムが討ち取られることによって終結しました。ヨアブは角笛を吹いて戦闘の終わりを知らせ、兵士たちは追撃をやめさせます。そして、ダビデの待つ町に凱旋する前に、使者が送られダビデに事の結末が知らされることとなりました。

 ヨアブは、アブサロムが死んだという知らせをダビデが決して良き知らせと受け取ることはないと知っていました。事実そのとおり、ダビデはこの知らせを聞くや、身を震わせ、城門の上の部屋に閉じこもってしまったのです。「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ、わたしの息子よ。」そう言ってダビデは泣いていたのです。

 さて、ここで私たちが思い出さなくてはならないことがあります。ダビデがウリヤの妻とのことで大きな罪を犯したとき、ナタンはダビデに神の言葉を告げてこう言ったのです。「見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう」(12:11)。そして、神の言葉の通りになりました。

 しかし、さらに遡るとナタンを通してダビデはこのような約束をいただいていたことが書かれています。「あなたが生涯を終え、先祖と共に眠るとき、あなたの身から出る子孫に跡を継がせ、その王国を揺るぎないものとする」(7:12)。この約束の言葉は、たとえダビデが罪を犯したとしても取り消されてはいないのです。この約束によればダビデはクーデターで王座を失うことはあり得ないのです。そして、神はその約束を確かに守られたのです。

 また、ダビデは、都落ちした時、神の箱を持って従おうとしていた祭司たちにこう言いました。「神の箱は都に戻しなさい。わたしが主の御心に適うのであれば、主はわたしを連れ戻し、神の箱とその住む所とを見せてくださるだろう」(15:25)。また、アヒトフェルが裏切ったことを知った時、彼は「主よ、アヒトフェルの助言を愚かなものにしてください」(15:31)と祈りました。そして、実際にその通りになったのです。神はダビデの祈りを聞いておられました。

 人間は自分が祈ったことも、聞いたことも忘れてしまうものです。しかし、人間が忘れても神様は覚えておられます。だから人間の不真実にもかかわらず、神の真実は貫かれますし、神の約束は実現するのです。祈られたことには、人が忘れていても、神が応答してくださるのです。

 確かに、ダビデの悲しみの深さは理解できます。ダビデが大声で泣いたことも無理ありません。しかし、聖書はダビデの心情を単純に肯定しません。明らかに、このすべての出来事の背後に神が生ける御方として動いておられます。ならば、たとえ嘆き悲しんだとしても、ダビデはその嘆きの中に留まってはならないのです。ダビデが死ぬのではなく、アブサロムが死んでダビデが残されました。神によって残されたのです。主に油注がれた者として残されたのです。ならば残された者には責任があります。生かされている者の責任があります。彼は嘆きの中に留まっていてはならないのです。

 それゆえにダビデは強制的に涙の中から立ち上がらされることとなります。それが今日お読みした聖書箇所に書かれていることです。ダビデはヨアブによってそのことを強いられることとなるのです。もちろん、ヨアブは信仰的な観点からダビデを詰ったわけではありません。彼が与えているのは極めて常識的な忠告です。ダビデのため、王家のために戦った家臣たちの顔に泥を塗るようなことをすれば、彼を支持していた人々の心は離れ去ることになる。当たり前の話です。

 「とにかく立って外に出、家臣の心に語りかけてください。主に誓って言いますが、出て来られなければ、今夜あなたと共に過ごす者は一人もいないでしょう」というヨアブの言葉は、厳しくも正しい判断でした「王は立ち上がり、城門の席に着いた」と書かれています。それはまた、神がヨアブを用いてダビデを立ち上がらせた出来事でもありました。

 一方、アブサロムを失ったイスラエル軍が敗退した後、イスラエル諸部族の間に議論が起こりました。要するに、今後もなおダビデと対立を続けるのか、それとも和解してその支配下に身を置くのか、という議論です。

 イスラエル諸部族とは、ユダを除く北方の諸部族です。10節以下に記されているのは、和平推進派の意見です。アブサロムが死んだ今、諸外国に対する防衛を考えるならば、ダビデを亡命者のままにしておかないで、もう一度統一王国の王とする方が良い、というのが彼らの主張でした。しかし、ダビデ王家の支配体制に対する不満は、北の諸部族に依然として根強く残っていたようです。それが後にシェバの反逆(20章)として表面化することになります。

 また、ダビデと戦ったのは北方の諸部族だけではなかったことを思い起こさなくてはなりません。ユダ部族の保守層もまたアブサロムの側に着いていたのです。今日の箇所に「ユダの長老たち」と出てきますが、それはユダの保守層を代表していると見てよいでしょう。ヘブロンからエルサレムに都を移したり、外国人を多数登用したりするダビデの新体制に反発する彼らは、アブサロムの側に着いたのです。

 そのようなユダの保守層を再び統一王国に取り込むために、ダビデは先に述べた北の和平推進派の動きを使いました。ダビデは、エルサレムに留まっているツァドクとアビアタルを通して、ユダの長老たちに、「あなたたちは王を王宮に連れ戻すのに遅れをとるのか」(12節)と伝えさせたのです。そのように、北の動きを引き合いに出し、彼らを優遇する姿勢を見せたのです。「あなたたちはわたしの兄弟、わたしの骨肉ではないか」(13節)とは、そういうことです。

 また、ダビデはアマサに対して彼を軍の司令官にすることを約束するのです。これはまことに驚くべきことと言わざるを得ません。アマサはダビデに敵対した反乱軍の司令官だったのです。ダビデが復帰した後は、当然、アブサロムの側に付いたアマサは処刑され、ヨアブが統一王国の軍の司令官に収まるのが筋でしょう。ところが、ダビデは復帰後もアマサを司令官として残すことを約束したのです。

 その措置は対外的に何を意味したか。ダビデに敵対した彼らの罪状を問わないことを意味したのです。このダビデの説得は功を奏しました。「ダビデはユダのすべての人々の心を動かして一人の人の心のようにした」(15節)と書かれているとおりです。

 さて、このようにして内戦後の国家体制再建が始まりました。しかし、果たしてこれで良いのだろうかと、これを読んでいる私たちはひっかかります。これではまるで、アブサロムが罪を問われないで都に戻された時と同じではないかと思うのです。

 確かに一つの国家的危機が乗り越えられました。しかし、この出来事が神の目にどう映っているのかを考える人は誰一人として登場してこないのです。

 イスラエル諸部族において和平を進めようとしている人々は言いました。「我々が油を注いで王としたアブサロムは死んでしまった」。そうです。彼らがアブサロムを王としたのです。彼らにはその責任があるのです。その結果、多くの人が死に、王の息子も死んだのです。自分たちが油注いだ王がどうして死んだのか。アブサロムを王としたことは神の前に正しかったのか。それとも大きな罪であったのか。そのことを神の御前において問い直す人はいませんでした。

 ですから本当の意味における悔い改めもないのです。彼らが考えたことはただ何が今後自分たちの益となることなのかということだけでした。今後の自分たちにとっては、今、ダビデを連れ戻した方が益となる。その意味で「なぜあなたたちは黙っているばかりで、王を連れ戻そうとしないのか」と言っているのです。それはイスラエルの諸部族だけでなく、ユダの長老たちも同じです。今後を考えれば、イスラエル諸部族が動き出す前に、いち早くユダの主導でダビデ復帰を進めた方が自分たちに有利であるから、ユダの人々は一致して「家臣全員と共に帰還してください」(15節)と言ったのです。

 神の前に自らの罪を見いだし、神の御前において悔い改めるのでなく、ただ利益か不利益かということしか考えられなければ、結局は同じことが繰り返されることになります。そして、事実、そのようになりました。それはこの直後のシェバの反乱にしてもそうですし、イスラエルの歴史全体がそうであったとも言えるでしょう。それは最終的にイスラエルが滅びるまで続くのです。彼らが真に歴史を神の前に悔い改めをもって見直したのは、国が滅びた後のことでした。


2026年8月9日日曜日

「互いに仕え合いなさい」

聖書:エフェソの信徒への手紙 5:21-33

互いに仕え合いなさい
 今日はエフェソの信徒への手紙5章21節からお読みしました。この章の22節から6章9節までには、夫婦、親子、奴隷と主人が、具体的にどのように生活したら良いか、ということについて書かれています。奴隷と主人については、今日においては社会における労使関係に置き換えて考えてもよいでしょう。もちろん、これで信仰者の関わるこの世の全ての人間関係が言い尽くされているわけではありません。しかし、すべての関係について考えるための土台となるべき原則をパウロはその冒頭に記しています。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」(21節)。私たちはまず、この御言葉を心に留めたいと思います。

 「互いに仕え合いなさい」とあえて言葉にして勧められているのは、そのような行動が自然には生まれてこないからであるとも言えます。私たちは「仕える」ことではなく、「仕えさせること」「支配すること」を考えて生きているものだからです。

 「いいえ、私はそんなことは考えていません」と言う人がいるかも知れません。しかし、現実に誕生以来のあらゆる人間関係を考えてみてください。その中心には誰がいますか。自分です。私たちは生まれた時から様々な人間関係を、自分を中心として構築してきたのです。他の人間を「わたしにとってどのような存在であるか」という目で見て判断してきたのです。「私にとって良い両親か」「私にとって良い教師か」「私にとって良い友人か」「私にとって良い夫か(妻か)」。そのようにすべての人を「私にとって」どういう存在であるかと評価しながら生きているのです。

 それは言い換えるならば、私に仕える存在として見ているということです。ですから自分の思い通りにならないと苛立ちます。腹が立ちます。そのように人は程度の差こそあれ、他者を「仕えさせよう」として生きているものです。それが私たち人間が自然に持っている傾きなのです。だからこそ、その傾きに逆らって、聖書はあえて言葉にして勧めるのです。「互いに仕え合いなさい」と。

 しかし、パウロはただ「互いに仕え合いなさい」とだけ勧めているのではありません。彼はそこに大事な一言を加えています。「キリストに対する畏れをもって」。――互いに仕えるということを考える時、ただ相手と自分のことだけを考えていてはならないのです。私たちはまずキリストに目を向けなくてはならないのです。

 それはなぜでしょうか。キリストこそ、私たちに仕えてくださった御方であるからです。「キリスト」というのは「油注がれた者」という意味であり、その第一に意味するところは神によって任職された「王」です。しかし、王である御方は、力をもって服従させる権利を放棄され、自分を捨て、十字架を背負われ、その十字架について死なれたのです。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(マルコ10:45)と書かれているとおりです。

 キリストがそのように仕えてくださったのは、私たちの罪の贖いのためであったこと思い起こさなくてはなりません。キリストは私たちの罪が赦されるために仕えてくださったのです。キリストは、罪人である私たちを愛し、赦し、受け入れて、私たちのために仕えてくださったのです。そうです。キリストにとって「仕える」とは、私たちを赦し、受け入れることでもあったのです。

 そのような「キリストに対する畏れをもって」互いに仕え合うようにと勧められているのです。「畏れる」とは怖がることではありません。キリストが仕えてくださった事実、愛し、赦し、受け入れてくださった事実を、真に重んじるということです。それはすなわち、キリストが私たちを赦し、受け入れてくださったように、私たちもまた互いに赦し合い、受け入れ合うということに他なりません。

 私たちが互いに仕えるということを考えるならば、ただ相手と自分のことを考えるだけでなく、このキリストに目を向けることがどうしても必要になってくるのです。実際、そうではありませんか。「互いに仕え合う」ということを何が困難にさせるのか。それは相手に受け入れがたい部分があるという事実でしょう。時として互いに相手が赦し難くなるという事実ではありませんか。それはいかなる人間関係においても起こり得ることでしょう。私たちは天使ではありません。互いに罪を持った人間です。その罪人同士が仕え合うとするならば、それは互いに赦すこと、受け入れることを抜きにしてあり得ないことなのです。

 ならば私たちは、まず私たちを赦し、受け入れてくださったキリストに目を向けることが必要なのです。まず自分自身が受け入れていただいた罪人なのだという事実に目を向けるしかないのです。それゆえに「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と勧められているのです。

キリストの体の一部として
 そこでさらに今日与えられた聖書の言葉に耳を傾けましょう。ここでは特に、夫婦の関係について書かれています。ここを読みましてまず気が付きますのは、話がかなり混線しているということです。夫と妻のことを話しているのか、キリストと教会の話をしているのか、どうも良く分かりません。これはある意味では仕方のないことです。パウロは話の構成を考えながらパソコンで文章を打っているわけではないからです。彼の手紙はほとんどの部分が口述筆記なのです。彼が思うままに語り、それが筆記されたものなのです。

 いや、これは単に「仕方のないこと」であるだけでなく、むしろこのような混線が起こっていること自体が私たちに大事なことを教えているとも言えます。パウロは夫と妻の関係を語る時に、どうしてもキリストと教会のことを思わずにはいられなかったということです。つまり夫婦関係についての話題とキリストと教会についての話題は、パウロにとって異なる別の話ではなかったということなのです。

 一方、私たちはどうでしょう。結婚とか家庭の事柄を考える時、そこで同時にキリストと教会のことを考えるでしょうか。もしかしたら、キリストのことは考えるかも知れません。キリストが仕えられたように、私たちも仕えなくてはならないと。しかし、ここで重要なのは、パウロが「教会」をも考えていたということです。夫婦の事柄は教会と深く結びついているのです。

 30節に「わたしたちは、キリストの体の一部なのです」と書かれています。「キリストの体」ということでパウロが考えているのは教会です。私たちは教会、すなわちキリストの体の一部として夫婦生活を送り、家庭生活を送り、社会生活を送っているのです。「家庭のことは家庭のこと。教会のことは教会のこと」ではないのです。

 さらに言うならば、パウロはただ教会を思いつつ夫婦関係について語っているというだけではありません。「キリストがどれほど教会を愛しているか」ということを思いつつ語っているのです。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした」(26‐27節)。

 キリストは**わたしの**罪のために十字架にかかってくださった――もちろんそうです。しかし、それだけを考えていてはならないのです。キリストは**教会のために**御自分をお与えになったのです。25節にそう書かれていますでしょう。

 26節に「言葉を伴う水の洗い」と書かれていますが、これが「洗礼」を指していることは明らかです。「洗礼」はただ個人が受けるだけではありません。「キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし」と書かれています。「言葉を伴う水の洗い」すなわち「洗礼」は教会に授けられているのです。私たちが教会を見る時に、「これは洗礼を受けた教会なのだ」と考えねばならないのです。

 教会の歴史を考えても、私たちの教会の現実を考えても、それはある意味で罪に汚れたボロボロのありさまかもしれません。しかし、それは水の洗いを受けて、罪を赦された教会なのです。そのようにしてキリストによって受け入れられた教会なのです。そして、最終的には御自身の花嫁として、聖なる汚れのない教会、栄光の教会を御前に立たせるために、キリスト御自身が心にかけ関わってくださっている教会なのです。それほどにキリストは御自身の体である教会を愛しておられるのです。

 パウロは「そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません」と言うのです。そのように言えたのは、キリストと教会のことをも考えているからなのです。夫と妻の場合は、あくまでも自分の体「のように」と書かれています。しかし、キリストの場合は教会を文字通り御自分の体としてくださっているのです。夫婦については、「人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と語られています。しかし、それが完全な意味で実現しているのは、第一にはキリストと教会においてなのです。ですからわざわざパウロは、「この神秘は偉大です。わたしはキリストと教会について述べているのです」(32節)と言っているのです。

 なるほどこれは驚くべき神秘です。私たち自身が、まさにキリストと一体とされるほどの愛をもって愛されているのです。一体とされるほどに、受け入れられているのです。「わたしたちは、キリストの体の一部なのです」とはそういうことです。そのようなキリストと教会の関係の中に、体の一部として私たちは置かれているのです。

 そのようなキリストにまず思いを向け、キリストの体の一部として受け入れられている自分自身であることに思いを向けてこそ、ここに書かれている夫と妻とに関する勧めの言葉も意味を持つのでしょう。いや夫と妻との関係だけではありません。私たちはあらゆる関係を、「教会を愛し、教会のために御自分をお与えになった」キリストと教会との関係を思いつつ、建て上げていくことを期待されているのです。「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と。

2026年8月5日水曜日

祈祷会用:サムエル記下 18:19~19:1

サムエル記下18:19‐19:1

 今日の箇所において繰り返されているのは「良い知らせ」という言葉です。これは名詞と動詞の形で出てきます。20節の「知らせる」「報告する」も同じ言葉ですから、日本語で見るよりも原文ではずっと多くなります。この箇所を理解する上で、この「良い知らせ」とは何かということが重要な意味を持っていることが分かります。

 前回お読みした部分を振り返っておきましょう。ダビデは当初共に出陣するつもりでいましたが、兵士たちの言葉により町に留まることとなりました。そこで三部隊の長であるヨアブ、アビシャイ、イタイに命じてこう言ったのです。「若者アブサロムを手荒には扱わないでくれ」(5節)。この三人だけでなく、「兵士は皆、アブサロムについて王が将軍たち全員に命じるのを聞いていた」(同)と書かれています。

 しかし、ヨアブは既にアブサロムを討ち取るつもりでいました。実際、アブサロムを討ち取る好機が訪れたとき、ためらうことなくヨアブとその部下たちはとどめを刺したのです。ヨアブがそう考えていたのは全く政治的な理由からでした。いわば王国の将来を考えてのことだったのです。

 アブサロムさえ討てばクーデターは失敗に終わり戦いは終結します。これ以上、イスラエルの兵士が死ぬ必要はなくなります。事実、アブサロムにとどめが刺されると、ヨアブは角笛を吹いて、それ以上イスラエル軍を追跡しないよう兵士を引き留めたのです。ヨアブにとって、この結末は最善以外の何ものでもなかったのです。

 さて、ここに改めて登場するアヒマアツにとっても、ヨアブとは異なった観点において、これは最善の結末だったのです。ですから、彼はこの「良い知らせ」を、なんとしてもダビデに伝えようといたします。「どんなことになろうと、わたしもクシュ人を追って走りたい」と主張する彼の熱意は異常にさえ思えます。このアヒマアツの行動を理解するためには、彼が何者かを思い起こす必要があります。ですので、ここでわざわざ「ツァドクの子アヒマアツ」と呼ばれているのです。

 ツァドクは祭司です。15章24節を御覧ください。ダビデがエルサレムを追われた時、ツァドクをはじめレビ人全員が神の契約の箱を担いでエルサレムを出て、ダビデに従おうとしていたことが書かれていました。つまり祭司たちは、神の箱はアブサロムと共にエルサレムに留まるべきではないと判断したのです。神の箱はあくまでもダビデと共にあるべきだと。彼らにとってアブサロムは、ただダビデに反逆した者ではないのです。神の油注がれた者に戦いを挑んでいる者なのです。すなわち神に敵対する者なのです。

 しかし、ダビデは彼らをエルサレムに帰したのです。ダビデはそうして、自らを神の懲らしめの御手に委ねたのでした。しかし、当然のことながら、ツァドクら祭司としては、アブサロムがそのままエルサレムで王位につき、聖所を支配するようになるとは思っていないのです。それが御心に適ったことであるとは、到底思えなかったに違いない。ですからツァドクが素直にエルサレムに戻ったのは、あくまでもエルサレムの様子をダビデに伝えるためだったのです。

 そのツァドクの子アヒマアツも、同じ思いを共有していたからこそ、危険に身をさらしてさえ、伝令の役目を引き受けたのでしょう。そのようなアヒマアツにとって、アブサロムが倒れたことは、政治的な観点からではなく、信仰的観点から見て、まさにダビデに伝えるべき「良い知らせ」だったのです。

 さらに言うならば、彼はダビデが将軍らにアブサロムを保護するよう命じたことは聞いていないのです。アヒマアツは兵士ではありませんから。ですから彼はヨアブに言うのです。「走って行って、主が王を敵の手から救ってくださったという良い知らせを王に伝えます」。彼にとって、これは「主の勝利」に他ならない。だから、どうしてもこの主の勝利の良い知らせをダビデに伝えようとしたのです。

 しかし、ヨアブには分かっているのです。ダビデはこれを決して「良い知らせ」とは受け取らない、と。ですからヨアブは「今日、お前が知らせるのは良くない」と言ってアヒマアツを引き留めます。ヨアブは「王の息子が死んだのだ」と言ってアヒマアツに説明し、留めようとするのです。かつてイシュ・ボシェトが殺された時、その知らせを伝えた者が処刑されたこと(4章)をも思い起こしたのかも知れません。ですので、彼は代わりにクシュ人を報告に遣わそうとするのです。

 ところが、アヒマアツはどうしてもダビデに伝えると言って聞きません。彼がどれほど純粋にこの結果を信仰的な事柄として受け止めていたかが分かります。すなわち、誰が何と言おうと、これは善なることなのです。イスラエルにとって最も良き結末であったと確信しているのです。ヨアブは根負けして、彼が行くことを許可します。アヒマアツはクシュ人を追い抜くほどにひたすら走ります。

 一方、ダビデはマハナイムにおいて、良い知らせを待っていました。しかし、人間が待ち望む「良い知らせ」と、神が与えようとしている「良い知らせ」は、必ずしも一致するとは限りません。神は確かに御自身の正義を貫かれ、そしてダビデを救われたのです。ダビデは再びエルサレムで王位に着くのです。それが神の目に正しいことであり、神が与えようとしていた「良い知らせ」でした。しかし、ダビデが待っていた「良い知らせ」とは、アブサロムの無事に他なりませんでした。

 24節以下には、人間がいかに自分が考える「良い知らせ」を待っているものであるかが、滑稽なほどに強調されて描かれています。見張りは、一人の男が走ってくることをダビデに伝えます。ダビデは「一人だけならば良い知らせをもたらすだろう」と全く根拠のないことを言います。しかし、実際には一人ではなく二人でした。また一人走って来ることが伝えられると、「これもまた良い知らせだ」と言うのです。そして、アヒマアツのようであることが伝えられると、「良い男だ。良い知らせなので来たのだろう」と言うのです。滑稽ですが、これが往々にして私たちのしていることです。自分が考える「良い知らせ」をひたすら待ち望み、そのような知らせが伝えられるであろうと一生懸命に思い込もうとしているのです。

 アヒマアツはダビデに主の勝利と救いとを伝えました。「あなたの神、主はほめたたえられますように。主は主君、王に手を上げる者どもを引き渡してくださいました」(28節)。しかし、ダビデの第一声はアヒマアツを驚かせます。王はこう聞いたのです。「若者アブサロムは無事か」と。

 アヒマアツは事態を悟りました。ゆえにアブサロムが死んだことを伝えることをためらいます。彼はこう答えるのです。「ヨアブが、王様の僕とこの僕とを遣わそうとしたとき、大騒ぎが起こっているのを見ましたが、何も知りません」。

 するとそこにクシュ人が到着し、アヒマアツと同じことを伝えます。「主君、王よ、良い知らせをお聞きください。主は、今日あなたに逆らって立った者どもの手からあなたを救ってくださいました」。王はクシュ人にも尋ねます。「若者アブサロムは無事か」と。クシュ人は、アブサロムの死を伝えます。「主君、王の敵、あなたに危害を与えようと逆らって立った者はことごとく、あの若者のようになりますように。」

 これを聞くと、ダビデはすぐにアブサロムが死んだことを悟ります。ダビデは城門の上の部屋に上って「わたしの息子アブサロムよ、わたしの息子よ。わたしの息子アブサロムよ、わたしがお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、わたしの息子よ」と言って泣いたのでした。

 自然な情としては当然のことです。しかし、この嘆きを単に自然なこととして肯定してはなりません。ここで嘆いているダビデは、かつてアブサロムに対して神の前における罪を問わないで王宮に戻してしまった、あのダビデに他ならないのです。罪に対する主の裁きを決して見ようとしないダビデなのです。信仰的な人が、こと家族のことになると、もう神との関わりはどこかに行ってしまって、肉的な観点からしか見られなくなることは起こるものです。ダビデの姿は、私たちの姿であるかも知れません。

2026年8月2日日曜日

「父なる神の切なる願い」

 

2026年8月2日 主日礼拝説教 

マルコによる福音書 9:42~50

命にあずかる方がよい
 「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい」(43‐47節)。

 たいへん恐ろしいことが書かれています。ここでイエス様は繰り返し「地獄(ゲエンナ)」について語っています。「地獄の消えない火の中に落ちる」とか「地獄に投げ込まれる」という表現に、私たちは恐怖を抱きます。脅迫されているようにも感じます。

 しかし、イエス様が「地獄に投げ込まれる」ことについて語っているということは、少なくとも私たちは地獄の外にいるということを意味しているとも言えます。私たちがいるこの世界はたとえ苦しみに満ちていたとしても決して地獄ではないということです。神の刑罰の場ではなく、神から見捨てられた世界でもないということです。

 それどころか、この世界は神がイエス・キリストを遣わされた世界だと聖書は教えているのです。神が罪の贖いの十字架を打ち立てられた世界だと。この世界がどれほど神に背こうとも、なおも神に愛されている世界です。ですから、そこには救いの約束が与えられ、救いへの招きが与えられているのです。それをイエス様は「命にあずかる」また「神の国に入る」と表現しておられるのです。

 私たちが今日、聞いているのは、そのような救いの約束のもとにある者たちへの言葉なのです。繰り返されているのは「地獄」という言葉だけではありません。もう一つ繰り返されているのは「つまずかせるなら」という言葉です。そもそもこういう言葉から始まっていました。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」(マルコ9:42)。

 この言葉自体もそうとう過激ではありますが、言わんとしていることはよく分かります。「わたしを信じるこれらの小さな者」とありますが、キリストを信じる者は、たとえこの世においてどんなに小さな存在であっても、軽んじられる存在であっても、キリストにとっては、決して小さな存在ではないということです。その人がつまずいてしまうかどうかはキリストにとって大問題なのです。この世においては迫害があるかもしれません。罪への誘惑があるかもしれません。しかし、なんとしてもつまずかないで欲しい。この過激な言葉に言い表されているのは、そのようなキリストの願いです。

 先ほどの「地獄」の話にしても同じです。そこに言い表されているのは、何としてでもつまずかないで欲しいという願いなのです。いかなる人によってもつまずかされないで欲しい。いかなるものによってもつまずかされないで欲しい。いやそれだけでなく、自分の手や足や目によってさえもつまずかされないで欲しいということです。神から引き離されないで欲しい。最後まで信仰を全うして命にあずかって欲しい。最終的に神の国における完全な救いにあずかって欲しい。そのようなキリストの強烈な願いがここに言い表されているのです。そして、これこそがキリストを世に遣わされた天の父なる神の願いでもあるのです。

 考えてみれば、このイエス様の言葉は、迫害の時代の教会にとってはどれほど大きな慰めであったかとも思います。現実に自分で切り落としたりえぐりだしたりするまでもなく、迫害者によって片手や片足を切り落とされたり、目をえぐりだされたりするということもあったのでしょう。あるいは場合によっては、自分の手や足や目よりも大事だと思えるものを失うことさえあったのでしょう。しかし、そこで彼らは主の言葉を聞くことができたのです。「片手になっても命にあずかる方がよい。」「片足になっても命にあずかる方がよい。」「一つの目になっても神の国に入る方がよい」と。

 いや、迫害の時代だけの話ではありません。人はこの世にあっては様々なものを失いながら生きていくのでしょう。ある場合には心身の健康を失い、愛する者を失い、生き甲斐であったものを失うこともある。私たちもまた、自分の手や足や目よりも大事だと思えるものを手放さなくてはならないこともあるのでしょう。しかし、それでもなお私たちは地獄にいるのではないのです。神による救いの約束のもとにあるのです。何としてでもつまずかないで欲しい。命にあずかって欲しい。神の国における完全な救いにあずかって欲しい。そのような神の強烈な願いのもとにあるのです。

父の訓練
 この神の切なる願いは、聖書においてもう一つ別の言葉をもって表現されています。本日の第二朗読、ヘブライ人への手紙が用いていたのは「訓練」という言葉でした。そちらも見ておきましょう。

 この手紙は苦しみの中にあるキリスト者に宛てられた手紙です。既に迫害を経験し、さらに大きな迫害が予期される時代に書かれた手紙です。その手紙において、今日お読みしたところには次のような旧約聖書の言葉が引用されています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(ヘブライ12:5‐6)

 これは旧約聖書の箴言3:11以下の引用です。恐らくはこの手紙を受け取ったヘブライ人ならば誰でも知っている言葉であったに違いありません。また父親が子供に対して絶対的な主権を持っていた当時の社会を考えても、この言葉は彼らの生活において非常に身近に感じられた言葉であったろうと思います。しかし、今日の私たちが読むと、ここに書かれていることは「親による虐待」を連想させるかもしれません。

 しかし、私たちはここで鬼の形相をもって鞭を振るっている父親の姿を思い浮かべてしまうと、方向を誤ってしまいます。現代の私たちの感覚を持ち込むことは差し控えなくてはなりません。この箴言の言葉を引用している人は、この父が、私たちの救いのために独り子さえも惜しまず与えた神であることを知っているのです。それほどまでに私たちを愛していることを知っている人なのです。先ほど述べてきたような神の願いを知っている人なのです。どんな苦しいことがあってもつまずかないで欲しい。迫害の中にあってもつまずかないで欲しい。必ず命にあずかって欲しい。完全な救いにあずかって欲しい。そのような切なる神の願いを知っている人が引用して書いているのです。

 ここに書かれていることは極めて単純なことです。苦しみがあることは神から見捨てられていることを意味しないということです。苦しみがあることは神から忌み嫌われていることを意味しないということです。むしろそこでこそ、神の子供とされていることを思ったらよいのです。そこでこそ、イエス様がなさったように、「アッバ、父よ」と祈ったらよいのです。そう、十字架への道を歩まれたイエス様が、最後までそうなさったように。

 天の父は、私たちが命にあずかることを願っていてくださいます。そして、ただ最終的に命にあずかって欲しいと願われるだけでなく、この世にある生活の中において私たちに関わってくださるのです。この世にある限り、様々な形において苦難を避け得ない私たちです。しかし、私たちは無意味に苦しむことはないのです。父はそのような私たちの人生に目的をもって関わっていてくださるからです。

 ヘブライ人への手紙にはこう書かれています。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:10‐11)。

 そのように、天の父は罪に汚れた私たちを神の子供とし、罪から解放し、御自分の神聖にあずからせようとしていてくださいます。今、この世の生活において、既にその御業は始まっているのです。

 それは平和に満ちた実を実らせるためだと書かれています。「平和」とはヘブライ語で「シャーローム」と言います。単に争いのない状態のことではありません。完全な調和と真の豊かさをもって命が満ち溢れている状態を意味します。それがこの地上においてだけでなく、永遠にもたらされる、そのような実を結ばせるために、神はこの世におけるあらゆる苦しみをさえ用いられるのです。

 実際に様々な苦しみを通して、それまで絡みついて離れることなかった罪から解放されるということがある。私たちの多くは、身をもってそのことを知っているのでしょう。苦しみを通して本当の「平和」すなわち「シャーローム」が与えられるということを既に味わい始めているのでしょう。実際に天の父は教会の歴史において、迫害に代表されるような、不当な苦しみさえも「シャーローム」を与えるために用いてこられたのです。

 大事なことは、主のなさることを軽んじないことです。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない」。そうです、父の鍛錬を軽んじてつぶやかないことなのです。神に背を向けてつまずかないことなのです。たとえ何が起こったとしても、いかなる人間が何をしたとしても、何を言ったとしても、それらが私たちを救いの道から引き離すことを許さないことなのです。私たちは天の父の子供たちです。天の父は私たちを愛しておられます。私たちが平和に満ちた実を結ぶことを望んでおられます。私たちが命にあずかることを願っておられます。

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