2019年12月22日日曜日

「闇の中に輝く光」

ヨハネ1:1-14

 「光は暗闇の中で輝いている」。先ほど朗読された福音書の中にそうありました。「光は暗闇の中で輝いている」。また、こうも書かれていました。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。

 すべての人を照らす光が世に来ました。その光が既に輝いているならば、もう真っ暗闇ではありません。もう恐れる必要はありません。私たちがクリスマスを祝うのは、光が既に輝いているからです。もちろん、光の到来ということで、聖書はイエス・キリストについて語っているのです。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた
 イエス・キリストの誕生の次第については、マタイによる福音書とルカによる福音書に詳しく書かれています。その物語は、先週の日曜日の礼拝後にページェント(聖誕劇)として上演されました。ところがこのヨハネによる福音書には、キリスト誕生にまつわる物語がありません。天使ガブリエルもマリアも、ヨセフも羊飼いたちも登場してきません。しかし、その代わりに、キリストの誕生が次のような短い言葉で表現されています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)。

 この短い言葉の中に、キリスト誕生の物語の全てが、さらにはイエス・キリストの御生涯の全てが言い表されていると言えます。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。この「言」とはキリストのことです。その直後に「父の独り子」と言い換えられています。父なる神の独り子であるキリストです。そのキリストが、神の御子が、「肉となった」。それは「人間となった」ということです。

 しかし、聖書はあえて「人間となった」と言わずに「肉となった」と表現しています。「肉となった」とは実に強烈な表現だと思います。「人間」であることが「肉」と表現される時、そこには肯定的な喜ばしい響きはありません。そこには私たち自身がしばしば感じていることが表現されているとも言えるでしょう。

 私たちがこの世界に目を向ける時、人間が織りなすこの社会の諸相に目を留める時、私たちは人間であることを肯定的に喜ばしいこととして語ることが困難になります。この世に生きている自分の有様を見つめる時、私たちはしばしば人間であることを肯定的に喜ばしいこととして語ることが困難になります。私たちが繰り返し向き合わされる現実、それが「肉」であるということです。

 聖書は「肉」としての人間を、ごまかすことなく美化することなく、そのまま表現している書物です。それは旧約聖書を少しでも読んだことのある人ならば分かると思います。なぜこんなことまで書いてあるのか、と言いたくなるような、読むのをやめてしまいたくなるような、耳を塞ぎたくなるような物語が赤裸々に語られている。それが聖書です。

 そのような旧約聖書の中に詩編という書物がありますが、その詩編の中である詩人が次のように語っています。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください」(詩篇130:1)。この「深い淵」という言葉は聖書に幾度も出てくる言葉ですが、原文では「深い深み」という言葉です。その深い深みのどん底から神に向かって叫んでいるのです。

 その詩編には人間が「肉」であることがどういうことか、良く言い表されています。彼は神に向かって呼びかけ叫びながらもこう語るのです。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐え得ましょう」(同3節)。そこにあるのは、神の御前では全てが明らかであるという認識です。言い換えるなら、神の御前では、すべての人が罪人だという認識です。彼のいる「深い淵の底」――その深さというのは神との隔たりです。人間の罪がもたらした神との隔たりです。

 その意味において、深い淵の底で叫んでいるのは特別な人ではありません。すべての人が叫んでいるかどうかは別として、すべての人が罪のもたらした深い淵の底にいると言えるのでしょう。その深い淵の底にあって泥だらけになってもがいている姿こそ、聖書が描き出している私たち人間のリアルな姿です。私たちが「肉」であるとはそういうことです。

 しかし、聖書はそのような「肉」である私たちの姿をありのまま語るだけではなく、もう一つの事実を伝えているのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。

 キリストが、その深い淵の底にまで下りてきてくださった。高いところから、深みの外から、「そんなところにいてはならない。上がってきなさい」と命じているのではないのです。そうではなくて、いわば穴の底で泥だらけになってもがいている私たちと一緒に泥だらけになってくださったのです。私たちを救うために、あえて泥の中に沈んでくださったのです。「言が肉になって、わたしたちの間に宿られた」とはそういうことです。

恵みと真理とに満ちていた
 そして、ヨハネは言葉を継いで次のように語ります。「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネはキリストの弟子として、約三年半の間寝食を共にしました。そのヨハネはその御方を思い起こしてこう語るのです。「わたしたちは、父なる神の独り子としての栄光を見たではないか」と。父なる神の独り子としての栄光を見たということは、言い換えるならば「神を見た」ということです。

 ヨハネはその御方の中に神を見たのです。人間と同じ深い淵の底で泥だらけになってくださった姿の中に神を見たのです。この世にある一人の人間として、罪に悩む者の傍らに立ってくださった御方の中に、神を見たのです。病に苦しみ、希望を失っている者の傍らに立ってくださった御方の中に、神を見たのです。愛する者を亡くして嘆き悲しむ者と共にたたずみ、一人の人間として涙を流された、そういう御方の中に、神を見たのです。

 そして、最終的に罪人として断罪され十字架にかけられた方の中に、彼は神を見たのでした。鞭打たれ、人々に嘲られ、唾をかけられ、殴られ、ボロボロにされ、そして十字架にかけられたその御方、その惨めなキリストの姿、栄光とはほど遠いその姿――その姿の中に、神を見たのです。深い淵の底に共にいてくださる神とその栄光を見たのです。

 そして、その栄光は「恵みと真理に満ちていた」と言って思い起こすのです。「恵みと真理に満ちていた」というのは、少々分かりにくい言葉ですが、ヨハネが念頭に置いていたのは旧約聖書に出て来る「慈しみとまこと」という言葉だと思われます。たとえば詩編の中にこんな言葉があります。「主よ、あなたは情け深い神/憐れみに富み、忍耐強く/慈しみとまことに満ちておられる」(詩編86:15)。このように「慈しみとまこと」はしばしば対になって出て来るのです。

 キリストに満ちていた「恵みと真理」、それは旧約聖書に繰り返し語られている神の「慈しみとまこと」に他なりません。旧約聖書に描かれているイスラエルの民の姿を見ますと、神様に背いて、神様に逆らって、どうしようもない罪深い姿をさらしているわけですけれども、神はそのようなイスラエルの民を捨ててしまわないのです。憐れみをもって忍耐強くよびかけ続けるのです。関わり続けるのです。それが神の「慈しみとまこと」です。聖書に繰り返し記されている、その「慈しみとまこと」がイエスというこの御方に満ちていたのをヨハネは見たのです。そのような神の赦しと愛が、キリストにおいて完全に現されていたのです。

 そのようなキリストが来られた。そこにこそ「肉」に他ならない私たちの希望があります。神から遠く隔たった、深い淵のどん底にいる私たちが、神を知り、神の救いにあずかることができるとするならば、それは神の方からこちらに来てくださって、「慈しみとまこと」を現してくださるしかないのです。そして、神はそうしてくださったのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。

 これこそが私たち人間に与えられた光です。深き淵の底にまで来てくださったあの御方に満ちていた、慈しみとまことは変わりません。この世界は深い淵の底にあってもなお、決して神から見捨てられてはいません。私たちは暗闇の中にあっても、いかなる意味においても見捨てられてはいません。「光は暗闇の中で輝いている」。――「輝いていた」ではありません。「輝いている」のです。

 「光は暗闇の中で輝いている」。今もなおキリストが宣べ伝えられているとはそういうことです。今もなお主の日ごとに私たちが礼拝へと招かれているとはそういうことです。今日もなお洗礼が授けられるとはそういうことです。今日もなお聖餐が行われているとはそういうことです。「光は暗闇の中で輝いている」。主の慈しみとまことは変わりません。

 (祈り)

2019年12月15日日曜日

「見よ、その日が来る」

マラキ書3:19‐24

神に仕えることはむなしい
 「見よ、その日が来る」と語られていました。今日の朗読はこの言葉から始まります。「見よ、その日が来る」。――来るべき「その日」とはいったいいかなる「日」なのでしょう。今日は19節からお読みしましたが、「その日」を知るために、少し遡ってみることにします。

 13節以下には次のような神の言葉が記されています。「あなたたちは、わたしに/ひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う/どんなことをあなたに言いましたか、と。あなたたちは言っている。『神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても/万軍の主の御前を/喪に服している人のように歩いても/何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え/神を試みても罰を免れているからだ』」(13‐15節)。

 「神に仕えることはむなしい」。それが神の耳にしていた人々の言葉でした。「神に仕える」とは、神を礼拝することであり、また神礼拝を基として神を畏れ敬い、神の御心に従って生活することです。しかし、「そんなことをしてもむなしい」と彼らは言うのです。そして、そのような言葉が彼らの口に上るのには、それなりの背景があったのです。

 先々週の礼拝においてイザヤ書が読まれた時、バビロン捕囚という出来事について触れました。紀元前六世紀、バビロニアの軍事侵攻により、ユダ王国が滅亡しました。エルサレムは破壊され、神殿も焼き払われてしまいました。国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。これがバビロン捕囚と呼ばれる出来事です。

 その後、時代はバビロニアの支配からペルシアの支配へと移り変わりました。ペルシアの王キュロスは支配下にある諸民族の宗教と文化を保護する政策を採りました。そのため捕囚の民に対しても、エルサレムに帰還し、神殿を再建することを許可したのです。これは「キュロスの勅令」と呼ばれます。帰還民たちが神殿の再建に取り組んでいく姿は、旧約聖書のエズラ記に記されております。途中長い中断の時期がありましたが、ついに神殿が完成しました。それはキュロスの勅令から20年を経た時でした。

 神殿の再建には多くの労苦が伴いました。しかし、そこには同時に大きな期待もまた伴っていたのです。神殿が再建されるならば、かつてのダビデ・ソロモンの時代のように、エルサレムは再び繁栄を見ることになる。そう彼らは信じていたのです。そのような期待のもとに、神殿で礼拝は行われるようになりました。また律法の遵守を重んじるコミュニティも形作られていきました。

 そして、数十年の時を経ました。現実には神殿の再建後、数十年を経てなおイスラエルの民を取り巻く環境は何一つ変わってはいませんでした。彼らは依然としてペルシアの支配のもとにある弱小民族の一つに過ぎませんでした。しかも、干ばつと凶作が続き、いなごによる大被害も起こり、繁栄するどころか、人々の生活はますます貧しく苦しくなっていきました。神殿再建当時の熱狂的な興奮はもはや跡形もなく消え去っていました。残っていたのは苦しい生活の中における深い失望と神への不信だけでした。

 マラキ書の冒頭には、そのような当時の人々の思いがよく現れています。「わたしはあなたたちを愛してきたと/主は言われる。しかし、あなたたちは言う/どのように愛を示してくださったのか、と」(1:2)。これがマラキ書の背景なのです。「神よ、あなたは私たちを愛していると言うけれども、いったいどのように愛を示してくださったと言うのですか」――そんな人々の思いです。

 神の愛を疑い始めるならば、この世の不条理と理不尽ばかりが目に付きます。そもそも道理に合わないことばかりではないか。悪事を行っても栄える者たちがいる。神を侮り試みたとしても、何の罰を受けない人々がいる。いや、それがごく当たり前に見られるのがこの世界の現実ではないか。

 確かにそうなのでしょう。彼らの言っていることは間違ってはいません。この世界は因果応報で説明はつきません。戒めの遵守と神の報いという単純な因果も成り立たちません。少なくとも現実にはそう見えるのです。ですから神の愛を疑い始めるならば、「神に仕えることはむなしい」という言葉に行き着かざるを得ないのでしょう。私たちの言葉で表現するならば「礼拝することなんてやめてしまおう。信仰生活なんてやめてしまおう」ということです。

義の太陽が昇る
 しかし、そのように人々が「神に仕えることはむなしい」と語る中で、そこに少数ではあるけれども、「神に仕えることはむなしい」とは言わない人たちがいたのです。別の言葉を語り合う人々がいたのです。それが16に語られていることです。「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された」(16節)。

 彼らは神の愛を疑わない人々です。彼らは「主を畏れ敬う者たち」と呼ばれています。また、「その御名を思う者」とも呼ばれています。「御名を思う」とは「御名を尊ぶ」という意味です。そのように、どこまでも神を尊び、神への信頼をもって生きようとする人々です。見えるところによらず信仰によって生きようとする人々です。そして、あくまでも神への畏れをもって互いに語り合うのです。「神に仕えることはむなしい」とは語らない。

 そこで、主は言われるのです。「わたしが備えている日に、彼らはわたしにとって宝となると万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう」(17節)。すなわち、神の愛を信じたことはむなしく終わらない、ということです。神を畏れ敬って生きたことは決して無駄にならない。そのことが明らかになる日が来ると主は言われるのです。

 さて、本日の第一朗読において「見よ、その日が来る」と語られていました。「その日」とは、そのように神の愛を疑わなかったこと、神を信頼して最後まで畏れ敬って生きたことがすべて報われる「その日」のことなのです。神が備えておられる「その日」のことなのです。

 「その日」が19節以下においては、「炉のように燃える日」として語られます。そのイメージは、パレスチナの人々にとって馴染みの深い生活の一場面から取られています。刈り取られたわらが束ねられます。そのわらの山が焼け付くような日差しによって乾燥します。そして、さらに「炉のように燃える日」において、焼け付く日差しが照りつけるとどうなるか。自然発火を起こすのです。乾燥した空気の中で燃え出したわらは何も残さず灰になるのです。

 そこに子牛が暗い牛舎から出され、解き放たれます。子牛は太陽の光を喜び、躍り出て跳び回ります。このように、わらを燃やす焼け付く日差しが、もう一方でいやしをもたらす光として子牛を照らすのです。これが「その日」において起こることだと主は言われるのです。

 その日差しは「義の太陽」と表現されています。義の太陽がやがて昇る。それは神の正しさが完全に現わされる時が来ることを意味します。「義の太陽」は、神に逆らい「神に仕えることはむなしい」と言っていた人々にとっては焼き尽くす太陽となるのでしょう。「高慢な者を幸いと呼ぼう」と言っていた高慢な者たちにとって、「義の太陽」は焼き尽くす日差し以外の何ものでもないでしょう。

 しかし、主を畏れ、主を待ち望んでいた人にとって、義の太陽はいやす翼となるのです。それまで暗い牛舎の中にいるように、この世の不条理を耐え忍んできた人々、ひたすら神の愛を信じて耐え忍んで生きてきた人々は、やがて義の太陽の光のもとにいやされて、子牛のように躍り出て跳び回るのです。

破滅をもって、この地を撃つことがないように
 さて、ここで私たちは、マラキ書の最初の言葉を再び思い起こす必要があります。「わたしはあなたたちを愛してきたと主は言われる。」そう書かれていました――ならば、この主が望んでおられることは、人々が終わりの日に燃えるわらのようになってしまうことであるはずがありません。マラキ書の最初において表明された主の御心は、この書の最後まで貫かれているのです。

 それゆえに、最後に至って、一つの約束の言葉が与えられるのです。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」(23‐24節)。

 「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる」。これが何を意味するのかは定かではありません。それゆえ、この言葉についてはありとあらゆる解釈が存在します。しかし、それが何を意味するにせよ、これが悔い改めを表現していることは間違いないでしょう。「わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」。そのためにエリヤが遣わされるのですから。

 実は語順からいいますと旧約聖書の最後の言葉は、この「破滅(ヘーレム)」という言葉なのです。しかし、「破滅をもってこの地を撃つ」という断罪の言葉として語られているのではありません。そうではなく、破滅をもって終わらないように、という神の願いが言い表されているのです。「わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」。旧約聖書は、この神の願いをもって終わるのです。

 さて、そのために「預言者エリヤをあなたたちに遣わす」というマラキ書の約束はどうなったのでしょう。後の日に洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ、人々に悔い改めを宣べ伝え、バプテスマを授けていた時、ある人たちが彼に尋ねました。「あなたはエリヤですか」。それに対するヨハネの答えは「違う」でした。ヨハネの自覚としては、彼はエリヤの再来ではなかったのです。彼は言いました。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」(ヨハネ1:23)。今日の福音書朗読です。

 しかし、荒れ野で叫ぶ声として彼の行っていたことは、まさにマラキ書に記されていた神の願いの現れに他なりませんでした。その意味で彼は神の遣わされたエリヤであったとも言えるのです。ですからイエス・キリスト御自身は、洗礼者ヨハネについてこう言われたのです。「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい」(マタイ11:14-15)。

 このようにして、「わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」と願われた神は、先駆者としてエリヤを遣わされ、そして救い主として御子イエスを遣わされました。そのようにして、「その日」が来る前に、立ち帰る者が神の赦しにあずかり、神と共に歩む道が備えられることとなったのです。それゆえに、私たちにも、「その日」が来る前に、今、その恵みにあずかってここにいるのです。

(祈り)

2019年12月8日日曜日

「人を生かす耳障りな言葉」

列王記上22:13‐17

アハブの預言者たち
 今日は第一朗読において、列王記上22章の一部が読まれました。22章は内容的に20章に続いております。

 20章には北王国イスラエルとアラムとの間に起こった戦争とその結末について書かれています。アラムはイスラエルの北方の王国で、今日のシリアに当たります。アラムの王ベン・ハダドが全軍を集めて引き起こした戦争は、二回の戦闘の末、最終的にはイスラエルの勝利に終わりました。

 ベン・ハダドは全面降伏し、占領地から撤退して奪った町々を返還することを約束して命乞いをします。そこでイスラエルの王アハブはベン・ハダドと協定を結んだ上で彼を帰国させました(20:34)。そして、22章に入り「3年間、アラムとイスラエルの間には戦いがなかった」(1節)と続きます。

 さて、そのようにアラムとイスラエルの間に結ばれた協定でしたが、占領した町々をすべて返還するという約束は守られなかったようです。もともとベン・ハダドの目的は危機を免れることにあったので、協定を完全に履行することは初めから意図していなかったのかも知れません。

 いずれにせよ、そのように返還がなされなかった町の一つがラモト・ギレアドでした。いまだにアラムに占拠されたままになっているのです。業を煮やしたアハブ王はついに軍事行動に出ることを決意します。「イスラエルの王は家臣たちに、『お前たちはラモト・ギレアドが我々のものであることを知っているであろう。我々は何もせずにいて、アラムの王の手からそれを奪い返せないままでいる』と言った」(3節)。

 折しも南王国ユダの王ヨシャファトが来訪中のことでした。あるいはヨシャファトの来訪を機に軍事行動に出ることを決意したのかもしれません。もともとイスラエルの王アハブはユダの王ヨシャファトに援軍を要請するつもりでいたのでしょう。彼はヨシャファトに尋ねました。「わたしと共に行って、ラモト・ギレアドと戦っていただけませんか」(4節)。これに対してヨシャファトは「わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です」(同)と言って要請に応えたのでした。

 さて、南王国ユダの王ヨシャファトとは、いかなる人物だったのでしょう。ヨシャファトに対する聖書の評価は概ね好意的です。「彼は父アサの道をそのまま歩み、それを離れず、主の目にかなう正しいことを行った」(43節)。彼は主に従う敬虔な王として描写されているのです。それゆえに、ヨシャファトは共に出陣することを約束するに当たり、一つの条件を付けました。「まず主の言葉を求めてください」(5節)。ヨシャファトにとっては、主が何と言われるかが重要だったのです。

 そこでアハブは400人の預言者を召集します。「主の言葉を求める」ために集められたのですから、彼らはバアルの預言者ではありません。しかし、この章において最後まで彼らは「主の預言者たち」と呼ばれることはないのです。では何と呼ばれているのか。22節において、「彼(アハブ)のすべての預言者たち」と呼ばれているのです。アハブはその「彼の預言者たち」に尋ねました。「わたしはラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」。王の問いに対して、彼らは答えます。「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」(6節)。

主の預言者ミカヤ
 すると、ヨシャファトは「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」(7節)と問いました。なぜヨシャファトがもう一人を求めたのかは定かではありません。しかし、一つのことははっきりしています。ここでは「アハブの預言者たち」に対してひとりの「主の預言者」が対比されているということです。そして、ただひとりの「主の預言者」として登場するのが本日の朗読にその名前が出て来た預言者ミカヤなのです。

 主の預言者ミカヤについて、アハブはこう語っています。「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤという者です」(8節)。

 さて、ここにおいて「アハブの預言者たち」と「主の預言者」の違いがはっきりと現れてまいります。主の預言者ミカヤは「災いばかり預言する」と言われています。災いを預言するというのは、言い換えるならば「神の裁きを預言する」ということです。神の裁きが語られるのは、そこに人間の罪があるからです。神の言葉は人間の罪を明らかにするのです。そして、それはまた悔い改めを求める言葉でもあるのです。神が望んでおられるのは災いを下すことではなく、人が神に立ち帰ることだからです。

 しかし、アハブはもとより悔い改めを求める言葉など欲してはいないのです。アハブにとって、主が何と言われるかなどはどうでもよいのです。主の御言葉によって人生が変えられることも、社会が変えられることも望んではいないのです。彼が欲しているのは自分について幸運を語る言葉であり、そのように耳に心地良い言葉を語ってくれる預言者たちなのです。そして、実際、アハブの望みを満たしてくれる預言者たちはいたのです。だから「彼(アハブ)の預言者たち」と呼ばれているのです。

 そのような預言者たちがイスラエルの王とユダの王の前で語ります。「ラモト・ギレアドに攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」(12節)。そのように彼らが口々に預言しているところに、ミカヤが呼ばれます。そこからが本日の第一朗読でした。ミカヤを呼びに行った使いの者は、言いました。「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください」(13節)。

 ミカヤに求められたのは、他の預言者と同じことを言うことでした。先にも申しましたように、主が何と言われるかなどはどうでもよいのです。しかし、ミカヤにとっては主が何と言われるかが重要なのです。ミカヤは使いの者に言いました。「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」(14節)。ミカヤはアハブの預言者ではなく、主の預言者だからです。

幸運か災いか
 主の預言者として、ミカヤはアハブに、彼の見た二つの幻について語りました。一つ目は「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました」(17節)というものです。羊飼いに喩えられているのは王です。アハブ王です。イスラエル人が羊飼いのいない羊のようであるのは、もはや王がそこにいないからです。すなわち、この幻は明らかに出陣した後に王が戦死することを意味しているのです。今日の聖書朗読はここまででした。

 しかし、この第一の幻の意味するところは、ミカヤの見た、もう一つの幻によって明らかされるのです。第二の幻の中では、「偽りを言う霊」が主によって世に遣わされます。その「偽りを言う霊」は、預言者たちを通して、アハブを唆して戦わせ、戦死させるために遣わされるのです。神様御自身が「偽りを言う霊」を遣わすというのは、ある意味では難解な話ではありますが、ミカヤが伝えようとしているメッセージは極めて単純です。アハブの預言者たちが語っているのは神の言葉ではないということです。それは「偽りを言う霊」の言葉なのだということです。

 ミカヤは第二の幻について、このようにまとめます。「今御覧のとおり、主がこのあなたのすべての預言者の口に偽りを言う霊を置かれました。主はあなたに災いを告げておられるのです」(23節)。自分の耳に心地良い言葉ばかりを求めているならば、「偽りを言う霊」が語りかけてくる。――ここに書かれている第二の幻は、私たちもまた心に留めておくべきものでしょう。

 注目すべきは23節の最後の言葉です。「主はあなたに災いを告げておられるのです」。実際には、アハブが耳にしているのは幸運を告げる言葉なのです。それが彼の求めていた言葉なのです。しかし、どんなに快い言葉であっても、「偽りを語る霊」の言葉であったらどうでしょう。そこで自分の本当の姿は見えてきません。罪の自覚も生じません。悔い改めに導かれることもありません。それは本当に幸運なことなのでしょうか。いいえ、そうではありません。それこそ「災い」なのだとミカヤは言っているのです。自分の耳に心地良い言葉ばかりを求めているならば、「偽りを言う霊」が語りかけてくる。それは人間にとって「災い」です。

 しかし、それはいつの時代にも起こることで、後にパウロが伝道者テモテに次のように勧めています。「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」。そして、次のように将来を予告して言うのです。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(2テモテ4:2‐4)。

 パウロが予告したことは、教会の歴史において繰り返し起こってきたことでした。「自分に都合の良いことを聞こうとして」とは、これは直訳すると「聞く耳をくすぐってもらおうとして」という言葉です。当たり前のことですが、心地良い言葉で聞く耳をくすぐってもらったぐらいで人は救われません。私たちは救いにもならないことのために集まっているのではありません。私たちは神の言葉を慕い求めて集まっていることを改めて意識したいと思うのです。

 神の言葉は必ずしも聞く人の耳をくすぐりません。神の言葉は必ずしも心地よさを与えない。むしろ時としてそれまであった心地よさを奪います。なぜなら神の言葉は神の光のもとに人間を引き出すからです。光の中にあることは本来喜ばしいことですが、同時に光は人間の罪をも照らし出します。自分自身にすら隠されている罪が光のもとにさらされます。罪が照らし出されるからこそ、悔い改めも起こります。そのようにして、人は神との交わりの中に留まります。そして、そこに救いもあるのです。

(祈り)

2019年12月1日日曜日

「廃墟が歓声を上げ、喜び歌う時が来た」

イザヤ書52:7‐10

 時は紀元前六世紀。バビロニアの軍事侵攻により、かつてダビデ・ソロモンの王国として繁栄を極めたユダ王国は、ついに滅亡することとなりました。王国の都エルサレムの城壁は破壊され、彼らの心の拠り所であったエルサレムの神殿も焼き払われてしまいました。そして国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。後に残ったのは廃墟となったエルサレムでした。

 それから五十年近くの時が流れました。捕囚とされた民の中に一人の預言者が現れ、神の言葉を宣べ伝え始めました。その預言はイザヤ書40章以降に記されています。今日読まれたのもその一つです。彼は言います。「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ」(9節)。大変不思議な言葉です。「共に喜び歌え」と呼びかけられているのは、美しく建て直されたエルサレムではありません。廃墟とされたエルサレムが、いまだ廃墟のままであるにもかかわらず、いまだボロボロの惨めな姿であるにもかかわらず、「歓声をあげ、共に喜び歌え」と呼びかけられているのです。

 それはいったいなぜなのでしょうか。この呼びかけには次のような言葉が続きます。「主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」。この行の先頭には、訳出されてはいませんが、「なぜなら」と訳し得る小さな言葉が置かれています。つまり、これが「喜び歌え」と語られている理由であり根拠なのです。主の「慰め」と「贖い」です。

主はその民を慰められた
 「主はその民を慰められた!」聖書が語る「慰め」とは何でしょう。一般的に私たちが思い描く「慰め」は、「歓声」や「喜びの歌」とは結び着かないように思います。廃墟に向かって「歓声をあげ、共に喜び歌え」と言うからには、その根拠となる「慰め」は、私たちが思い描くものとは全く異なるものであるに違いありません。

 それは何であるのか。そこで必要なのは、まず語りかけられている「廃墟」を理解することであろうと思います。この廃墟となったエルサレムについては、バビロニアに破壊されたのだということを既に述べました。しかし、預言者はこれを単純に戦争の結果としては語りません。51章17節まで遡ると、そこには次のように書かれています。「目覚めよ、目覚めよ、立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した都よ」。

 そのように、エルサレムを実際に破壊したのは、バビロニアの軍隊なのですが、彼はそこに神の裁きを見ているのです。彼らの罪に対する神の怒りの現れを見ているのです。廃墟をもたらしたのはバビロニアではなく、イスラエルの罪だというのです。それが「廃墟」の意味するところなのです。

 しかし、そのエルサレムに対して、一転して慰めが語られるのです。怒りを現された主御自身が、今度は「慰めるもの」としてエルサレムに語りかけられるのです。「わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの」(51:12)と言われるのです。その意味するところは明白です。「罪の赦し」です。エルサレムは確かに神の怒りのもとにありました。しかし、その怒りは取り除かれたのです。「あなたの主なる神、御自分の民の訴えを取り上げられる主はこう言われる。見よ、よろめかす杯をあなたの手から取り去ろう。わたしの憤りの大杯を、あなたは再び飲むことはない」(51:22)と主は言われるのです。

 神が赦してくださるということは、決定的な転換を意味します。そこで運命が変わるのです。それゆえに、「目覚めよ、目覚めよ、立ち上がれ、エルサレム」(51:17)と語りかけられているのです。そして、52章に入って、「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ」(52:1)とまで語られているのです。

 エルサレムは廃墟の中から立ち上がることができるのです。罪が赦されたからです。もはや主の怒りのもとにはないからです。これが聖書の語る主の「慰め」です。神が人間の罪を赦してくださる。そこにこそ、真に回復の力をもった「慰め」があるのです。主はその民を慰められました。それゆえ、エルサレムの廃墟は歓声をあげ、喜び歌うことができるのです。

主はエルサレムを贖われた
 さらに、「(主は)エルサレムを贖われた」と書かれております。「贖う」という言葉も、この書に繰り返されている鍵語の一つです。同じ言葉が3節では「買い戻す」と訳されています。この「贖う」という言葉は、もともと奴隷を「買い戻す」という意味合いで用いられた言葉だったのです。例えば、レビ記25章に出てきます。貧しい人が身売りして誰かの奴隷になった場合、その人の兄弟や一族の血縁の者がその人を買い戻すことができるのです。そのように土地や人などを買い戻すことを「贖い」と言います。そして、買い戻す義務を負う近親者を「贖う者(ゴーエール)」と呼んだのです。

 「エルサレムを贖われた」という言葉は、このような背景を持っています。「贖われた」と語られているということは、それまで奴隷状態にあったことを意味します。事実、2節では、「捕らわれのエルサレム」「捕らわれの娘シオン」と呼ばれています。これは第一にはバビロニアに征服されたことを指しているのでしょう。しかし、そのエルサレム・シオンが主によって買い戻されるのです。「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらず買い戻される」(52:3)と主は言われるのです。

 実際、その時代に、政治的には大きな変化がありました。バビロニアの支配から、ペルシアの支配へと変わりました。新しい支配者であるペルシアの王キュロスは、被占領民族の文化と宗教を尊重する政策を採りました。ですから、捕囚のイスラエルの民についても勅令が発布され、彼らはエルサレムへの帰還と神殿の再建が許可されたのです。その意味において、捕囚の民は確かに解放されました。これは驚くべき大いなる出来事であったに違いありません。

 しかし、預言者はこれを全く異なる視点から語ります。彼らは単に政治的に解放された者としてエルサレムに帰るのではないのです。そうではなくて、捕囚の民は、神によって買い戻された民としてエルサレムに帰るのです。

 先にも言いましたように、エルサレムの廃墟に現れていたのは、神の怒りであり裁きでした。売られて奴隷となったのは、その罪の負い目のゆえでした。そのような民を、もはや買い戻す価値のないようなエルサレムを、主は憐れみと赦しをもってあえて買い戻されたのです。御自分のものとされたのです。すなわち、本当に大きな出来事は、政治的な変化ではなく、神と人との関係の変化なのです。

 それゆえに、彼らを治めるのは、もはやバビロニアの王ではなく、ペルシアの王でもありません。主が彼らの王として即位されるのです。バビロニアをもペルシアをも支配し給う主が、全地の主である御方が、彼らの王として、御自分のものとされた都に帰ってこられるのです。

 もちろん、そのことが起こるのは、あくまでも未来のこととして語られています。現実にエルサレムを支配しているのはペルシアです。エルサレムはいまだに廃墟のままです。何も変わってはいないように見えます。しかし、事は既に起こったのです。神との関係において、既に決定的な転換が起こっているのです。主はエルサレムを贖われました。それゆえに、エルサレムの廃墟は、もはや嘆きの中に座り込んでいる必要はないのです。歓声をあげ、共に喜び歌うことができるのです。


歓声をあげ、共に喜び歌え
 さて、今週から「待降節(アドベント)」に入りました。先週申し上げましたとおり、アドベントという呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。キリストの到来です。救い主は来られました。そのことを思います時に、今日与えられている御言葉は、特別な響きをもって私たちに呼びかけてきます。「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」。

 救い主は来られました。救い主は世に来られて私たちの罪のために十字架におかかりくださいました。救い主は世に来られて、私たちの罪の代価を完全に支払ってくださいました。そのようにして、私たちを主のものとしてくださいました。主の慰めが訪れました。主は私たちを贖ってくださいました。

 そして、その良き知らせが、私たちのところにも伝えられているのです。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」(7節)と書かれているようにです。そして、私たちにも「歓声をあげ、共に喜び歌え」と呼びかけられているのです。私たちが今なお廃墟のような有様であったとしても、そのような私たちに呼びかけられているのです。「歓声をあげ、共に喜び歌え」と。既に救い主は来られたからです。既に主によって贖われ、主のものとされているからです。

 そして、主のものとされているならば、廃墟は廃墟のままでは終わらないのです。やがて完全に救われる時が来るのです。私たちが救いに到達するのではありません。最終的な救いは向こうから来るのです。「到来」するのです。既に救い主は到来しましたが、聖書はもう一つの「到来」について教えています。キリストが再び来られる。これをキリストの再臨と言います。最終的な完全な救いは向こうから来るのです。

 その意味において、私たちは「すでに」と「いまだ」の間に立っています。既に私たちは罪を赦され、主の慰めを得ました。既に私たちは主によって贖われ、主のものとされました。そのような者として、私たちは最終的な救いを待ち望んでいます。それが私たちの信仰生活です。その意味において、アドベントは「すでに」と「いまだ」の間にあることを意識する期間であると言えるでしょう。その時の間を私たちはどのように生きるのか。この問いに、このアドベントの期間、しっかりと向き合い、自らを省みたいと思います。

(祈り)

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