2025年11月30日日曜日

「救いは向こうからやって来る」

2025年11月30日 主日礼拝説教 

聖書:マルコによる福音書 13:28‐37

いちじくの木から学びなさい
 「いちじくの木から教えを学びなさい」(28節)と主は言われました。どのような教えでしょう。続きはこうなっています。「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(28‐29節)。ここで「これらのことが起こるのを見たら」と主は言われます。「これらのこと」とは何でしょう。それは今日の朗読箇所の前に書かれていることです。少し前に遡って見てみましょう。

 14節には次のように書かれていました。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」(14節)。そして、主はやがて来たるべき大きな苦難について語られるのです。

 ではその「憎むべき破壊者」とは何を意味するのでしょうか。これはもともと旧約聖書のダニエル書に用いられている表現です(例えば、ダニエル12:11)。細かい話は割愛しますが、ダニエル書においてそれがもともと意味していたのは、紀元前二世紀にエルサレムの神殿の中に造られた異教の祭壇のことなのです。それは当時ユダヤを支配していたシリアの王アンティオコス4世が立てたものです。それは神に敵対するこの世の権力によって立てられたのです。

 要するに「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」というのは、神に敵対する大きな権力が支配するようになる、ということです。そのことが苦難の描写と結びつけられているのです。イエス様は来るべき苦難の時代について語られるのですが、それはいわば神に敵対する大きな力によってもたらされる苦難だということです。それゆえに、その苦難は神を信じない者にではなく、むしろ神に従おうとする者に及ぶのです。

 そこに見ますように、イエス様の見方はある意味では極めて悲観的です。主は人間の努力と取り組みによってパラダイスが実現するとは決して言われない。「この世は進歩し、調和し、人々は愛し合うようになる」とも言われないのです。むしろ、世界は非常に暗くなる。終わりに近づけば近づくほど、暗く苦しみの多い時が来ると考えておられたのです。

 それは、この世界の現実、神に敵対する罪深い人間の現実世界をイエス様はしっかりと見据えておられたからだ、とも言えます。人は撒いたものを刈り取らなくてはなりません。罪を蒔けば死を刈り取ります。ある時は神なき不敬虔な姿をもって、ある時には極めて宗教的な姿をもって、そのいずれの姿においても人間は神に背き続けてきた。それゆえに、最終的な苦難を刈り取ることになる。そのように、主はやがて大きな苦難の時がやってくると言われたのです。

  そして、さらに24節以下には次のように書かれています。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(24‐25節)。

 古代の人々にとって天体は不変の秩序を代表するものでした。たとえ国家の体制が崩壊するようなことがあっても、変わることなく太陽は昇り沈みます。月と星は定められたとおりに動くのです。それは最後まで信頼できるものの代表とも言えます。しかし、その天体が揺り動かされると主は語られたのです。いわばこの世に信頼できるものはもはや何も残っていない。そのような、まったく希望のない絶望の世界、光のない闇の世界がやって来ると主は言われたのです。

 しかし、そこでイエス様が本当に言いたいのは、この世界が闇に包まれて終わってしまうということではありません。人間には絶望しか残されていないということではありません。その闇が最も深くなった時、まさにその時こそ救いのときなのだと主は言われるのです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(29節)と主は言われるのです。

 「人の子」とはイエス様がしばしば自分自身を呼んだ呼び方です。これもまた、もともとは旧約聖書のダニエル書にでてくる言葉です(ダニエル7:13)。イエス様はやがて再び来られる方として自分自身について語っておられるのです。イエス様がやがて終末において再び来られることを「キリストの再臨」と言います。闇が最も深くなったその時、キリストが再び来られ、この世界を正しく裁かれ、そして全き救いをもたらされるのです。

  さて、キリストがこれを語られた時からすでに約二千年が経ちました。いまだに再臨のキリストは来られません。その一方で、現実に目に見える様々な形で、私たちはこの世界の危機に直面しているのです。この世界が存続するために取り組まなくてはならない課題、解決しなくてはならない問題は山積しているし、実際に必死の取り組みが続けられているのです。そのような世界のただ中で、教会があれから二千年もたった「キリストの再臨」を信じ、語ることにいったい何の意味があるのでしょうか。実際、信仰を抜きにして聞いたなら、キリストが世の終わりに「雲に乗って来る」という描写は、まさに荒唐無稽なおとぎ話にしか聞こえないだろうと思うのです。

 しかし、もう一方において教会が変わることなく、時として信仰者は命をかけて、二千年もこのことを伝え続けてきたという事実があります。そして、今日この国に生きる私たちまで耳にしている事実がある。ならば、私たちは、信仰をもってその意味することをしっかりと受け止めなくてはならないのだと思うのです。教会が伝えてきたことには、いつの時代の人々にとってもそれだけの大きな意味があるはずだからです。今日は特に二つの点に心を留めたいと思います。

へりくだって待ち望む
 第一に、「キリストの再臨」は、私たちに神の御前にへりくだることを教え、時として動き回ることよりも忍耐して待つことが大切であることを教えます。「キリストの再臨」は、要するに、最終的な救いは向こうから来るということです。天から来るということです。最終的な救いは人の力によってもたらされるのではなく、神によってもたらされるのだ、ということです。このようなことがあえて語られねばならないのは、人間は常々そうは思っていないからでしょう。

 この世界は人間が動かしていると思っているならば、人生も人間の手に握られていると思うのは当然です。自分の力で成し遂げれば思い上がり、自分の力で失敗すれば失望する。誰かのおかげで成功すれば依存し、誰かのせいで人生が壊れれば憎しみに翻弄される。人間がすることがすべてだと思うなら、人間のゆえに望みを失うことにもなるのでしょう。

 しかし、そうではないのだとイエス様は言っておられるのです。この世界についても、私たちの人生についても、すべては主の御手の内にあるのです。主が最後の言葉を持っているのです。往々にして人間のすることがすべてだと思い上がっている私たちは、繰り返し悔い改め、神の権威のもとにへりくだらなくてはならないのです。救いは向こうから来るのです。だから、静まって待ち望むことが重要になるのです。そうあってこそ、苦難の中にあってさえ、本当の意味でなすべきこと、神から託されていることに落ち着いて取り組んでいくこともできるのです。

大事なのは今
  そして、第二に、主の御言葉は、私たちに「今」を生きることの大切さを教えます。

 「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」(34節)と主は言われました。もし家の主人がいつ帰ってくるかを「知っている」ならば、大事なのは「その時」でしょう。しかし、もし「知らない」ならば大事なのは「現在」です。そうです。今がその時かもしれないからです。ですから、主はこう続けられるのです。「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである」(35節)。

 そのように「知らない」ということは積極的な意味を持っています。それは「現在」に私たちの意識を集中させることになるからです。そうしますと、今日の聖書箇所でイエス様は一見「未来」のことを話題にしているように見えますが、実は本当に語りたいことは「現在」についてなのです。「目を覚ましていなさい」とはそういうことです。

 今日から「アドベント(待降節)」に入ります。週報にも書きましたが、アドベントという呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。特に世の終わりにおける主の「到来」、すなわち「キリストの再臨」を思う季節です。しかし、それがいつかを私たちが知らないゆえに、「現在」こそが重要になってきます。アドベントは、その意味で「現在」にしっかりと目を向ける時でもあるのです。それゆえに最初の日に「目を覚ましていなさい」という御言葉を聞いているのです。

 私たちはしばしば、過去にばかり目を向けて、過去に縛られて生きていたり、あるいは先のことばかり考えて思い煩いで一杯になっていたり、そのようなことをして「現在」を大切にできていないものです。しかし、本当に問わなくてはならないのは過去でもなく未来でもなく「現在」なのでしょう。問題にしなくてはならないのは、「今、わたしはどういう状態にあるのか」ということなのでしょう。特に私たちの人生において決定的に重要なのは、「神様との関係において、今、わたしはどういう状態にあるのか」ということなのです。

 ところで、マルコによる福音書では「目を覚ましていなさい」というこの言葉は今日の箇所の他にはゲッセマネの祈りの場面にしかでてきません。そこで主は言っておられます。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(14:38)。主の苦悩を横にして眠りこけている弟子たちの姿。それは私たち自身の姿かもしれません。主は弟子たちに、後の教会に、ここにいる私たちに、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と語ってくださいます。祈りの生活を失って、人は目覚めて生きることはできないということなのでしょう。

2025年11月26日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 25:1~17

 サムエル記上 25:1~17

  まずは、24章を振り返っておきましょう。ダビデはマオンの荒れ野から逃れ、死海のほとりのエン・ゲディへ移りました。洞窟の多いその地は、彼と六百人の兵士が身を隠すのに適していました。しかし密告により居場所が知られ、サウルは三千の精鋭を率いて「山羊の岩」へ進軍します。ダビデと兵士たちは羊の囲い場近くの洞窟に潜み、ただ通り過ぎてくれることを願いましたが、足音は近づき、ついに彼らの洞窟の前で止まります。緊張の極みにあったその時、洞窟に入ってきたのは兵士ではなくサウル本人であり、しかも一人でした。

 兵士たちは「主が敵をあなたの手に渡すと約束されたのはこの時だ」と促し、サウルを殺すよう勧めました。彼らにとっても命がけの状況であり当然の反応でした。しかしダビデはサウルに手をかけず、ただ上着の端を切り取るにとどめます。そして「主が油を注がれた方に手をかけることを、主は許されない」と語り、兵士たちを説得しました。ここで強調されているのはダビデの寛容さではなく、神への畏れです。ダビデがサウルを殺さなかったのは、サウルは命を狙う者であっても、なお主に油注がれた王であり、その任職は人ではなく神によるものだからです。ダビデは神を畏れたのです。

 洞窟を出たダビデはサウルに声をかけ、上着の端を示して「殺すことができたが罪を犯さなかった」と告げました。彼の目的はサウルの態度を変えることではなく、裁きを神に委ねることでした。「主があなたとわたしの間を裁き、わたしに報復されますように。わたしは手を下しません」と語ったダビデの姿は、詩編に見られる「復讐を神にゆだねる」祈りと同じ信仰の姿を示しています。人はしばしば「心から赦せるか」を問題にしますが、本当に大事なのは「裁きと赦しの権威を持つ神を畏れるかどうか」なのです。

 サウルは涙を流し「お前はわたしより正しい」と告げましたが、本質を悟ってはいません。問題は善意と悪意ではなく、神を畏れるか否かです。ダビデが王となるのも人柄ゆえではなく、神が定められたからです。サウルは一時的に悔いたものの、神への反逆を認めず悔い改めには至りませんでした。結局、彼は館に帰り、ダビデは要害に上って行きます。神との関係が変わらなければ、人間関係も本質的には変わらないのです。

 そして、25章に入ります。1節にはサムエルの死が短く報じられています。しかし、この節は直接的には2節以下に繋がりません。サムエルの死に関しては28章3節にも記されています。これがダビデの逃亡中の出来事であることは間違いないと思うのですが、いつの時点のことであるかは定かではありません。また、「パランの荒れ野に下った」とありますが、「パラン」は地図を見るとわかりますが、シナイ半島の半ばですから、南に逃げたとしても遠すぎます。七十人訳では「マオン」となっていますが、恐らくそちらの方が正しいものと思われます。ダビデは、サムエルの葬りにも当然立ち会うことはできなかったでしょうし、一つの時代の終わりを感じながら、マオンの周辺に従者たちと留まっていたものと思われます。

 続く、2節以下の長いエピソードには、ナバルとアビガイルという夫婦が登場します。「ナバル」という名前は、後にアビガイルが説明していますが「愚か者」を意味します。生まれて来た我が子に「愚か者」と名付ける親はないでしょうから、これは実際の本名ではないでしょう。彼の行動を象徴的に表す名前としてこの物語の中で特別に付けられた名前です。それは妻アビガエルの「賢さ」と対比されているのです。

 しかし、このナバルという人物は、聖書に「頑固で行状が悪かった」(3節)と描写されているように、確かにそのような人物であったとは言えますが、この世的に見るならば、単純に「愚か者」とも言えないのです。

 彼は非常に裕福な人でした。「羊三千匹、山羊千匹を持っていた」(2節)と書かれています。さらに、「彼はカルメルで羊の毛を刈っていた」と書かれています。羊の毛を刈るのは年に一度、春の終わりから初夏にかけてです。その時期は、農業で言うならば収穫感謝祭に当たります。盛大な祝いの時でもあります。

 ちょうどその頃合いを見計らってダビデは従者を十人、ナバルのもとに送ってこう言わせました。「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのものすべてに平和がありますように。羊の毛を刈っておられると聞きました。あなたの牧童は我々のもとにいましたが、彼らを侮辱したことはありません。…この祝いの日に来たのですから、お手もとにあるものを僕たちと、あなたの子ダビデにお分けください」(6‐8節)。

 丁寧な言葉に訳されていますが、要するに、ダビデはいわゆる「みかじめ料」を要求しているのです。当時の社会は、警察が治安を守っているわけではありませんから、羊の群れは常に外からの略奪者の危機にさらされています。そこで略奪者から羊の群れを守ってやる代わりに、分け前を要求するということが起こるのです。以前、ダビデを親分とする、いわばヤクザの一家のような集団が形成されていったと表現しましたが、実際、ここに見るような形でダビデは兵士たちの食べさせていたものと思われるのです。

 これに対してナバルはダビデの要求を拒否します。彼は言います。「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。わたしのパン、わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか」(10‐11節)。それは愚かなことでしょうか。いいえ、必ずしもそうとは言えません。

 彼は確かに粗野であったかもしれませんが、この世的には成功者です。単なる愚か者では裕福な牧場主などにはなれないでしょう。また、ダビデの要求を拒否したことについては、今日で言えば、暴力団の介入を拒絶した企業のトップに比することができるでしょう。また、実際的な問題として、ダビデに何かを提供することは、常にリスクを伴ってもいたのです。まかり間違えば、サウルによって滅ぼされた祭司の町ノブの二の舞になりかねません。その意味では、彼は適切な判断を下したとも言えるのです。

 しかし、それにもかかわらずなぜ「ナバル(愚か者)」と呼ばれているのか。彼の名前の意味を語るアビガエルの言葉を次回読みますので、その時に改めて考えることにしましょう。今日は、むしろこの一見賢そうに見え、正しそうにも見え、にもかかわらず聖書によって「ナバル(愚か者)」と呼ばれる人物に接した時の、ダビデの対応に注目したいと思うのです。

 私たちは一人の「愚か者」であるサウルに対して、ダビデがどのように対応したかを、この冒頭部分で少し時間をとって振り返りました。それに対して、この章におけるダビデの行動はどうでしょう。

 ダビデの従者は道を引き返して帰り着くと、言われたままをダビデに報告しました。すると、ダビデは兵に、「各自、剣を帯びよ」と命じたのです。戦闘態勢に入ったということです。200人を荷物のところに残し、400人を連れて進軍しました。その意図は、次週読む箇所にこう記されています。「荒れ野で、あの男の物をみな守り、何一つ無くならぬように気を配ったが、それは全く無益であった。彼は善意に悪意をもって報いた。明日の朝の光が射すまでに、ナバルに属する男を一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰してくださるように」(21-22節)。

 この章におけるダビデの姿は24章においてサウルに手をかけなかったダビデの姿とは対照的です。自分よりも強い者によって命を脅かされるという危機には耐えられても、自分より弱い者からの侮辱に耐えられない。そのようなことが確かに起こります。人間は自らが力をもった時、かえって誘惑には弱くなるものなのでしょう。

 しかし、それよりも問題はもっと深いところにあります。今引用した言葉において印象深いのは「彼は善意に悪意をもって報いた」という言葉です。24章において、サウルが声を上げて泣いてこう言ったことを見ました。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した」(24:18)。しかし、先週申し上げたように、サウルは事の本質が分かっていませんでした。これは善意と悪意の問題ではなく、神を畏れているか否かの問題だったからです。

 しかし、今週の箇所では、ダビデが同じ言葉を使っているのです。問題はそこにあります。「彼は善意に悪意をもって報いた」。ダビデにはそのことしか、今、見えていません。しかし、本当に重要なのは、神を畏れるか否かの問題なのです。そして、神に信頼し、裁きを神に委ねるか否かの問題なのです。

 ダビデにはそれが今、見えなくなっています。だから、主を畏れてサウルに自ら手を下すことをしなかったダビデが、一息ついた時に、自ら報復する行動に出ようとしているのです。しかし、主はダビデが自ら罪を犯さないように、一人の女性を用いて働きかけられます。そこで立ち止まることができたことは、ダビデにとって幸いなことでした。


2025年11月23日日曜日

「いついかなる場合にも対処する秘訣」

2025/11/23 主日礼拝説教 

聖書:フィリピの信徒への手紙 4:10-20

主において非常に喜びました
 フィリピの教会は、パウロの宣教の働きを積極的に物心両面から支援してきた教会でした。今日お読みした15節以下にもこう書かれています。「フィリピの人たち、あなたがたも知っているとおり、わたしが福音の宣教の初めにマケドニア州を出たとき、もののやり取りでわたしの働きに参加した教会はあなたがたのほかに一つもありませんでした。また、テサロニケにいたときにも、あなたがたはわたしの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれました」(15‐16節)。

 そのようなフィリピの教会ではありましたが、その後パウロへの援助においてしばらくの空白期間が生じたようです。フィリピの教会の事情によるのか、あるいはパウロとの関係が一時期悪くなったのか、その理由については定かではありません。しかし、そのようなフィリピの教会からエパフロディトという人物が獄中のパウロのもとにやってきました。彼が携えてきたのは、フィリピの教会からの贈り物でした。パウロは喜びました。その喜びこそが、この手紙を書いた一つの理由でした。

 パウロはフィリピの教会にこう書き送ります。「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表わしてくれたことを、わたしは主において非常に喜びました。今までは思いはあっても、それを表わす機会がなかったのでしょう」(10節)。なんとも不器用な表現だと言えなくもありません。聞きようによっては随分な嫌味とも受け取られかねません。しかし、パウロにとっては彼らに精神的な負担をかけないための精一杯の配慮であると共に、最大限の喜びの表現だったのでしょう。彼はただただ嬉しかったに違いないのです。

 しかし、ここで重要なのは彼がただ「非常に喜びました」とだけ言っているのではないということです。「《主において》非常に喜びました」と彼は言います。パウロの意識の中には、与えるフィリピの教会と受け取る自分だけがいるのではないのです。これは単なる人間の善意と感謝の話ではないのです。そこに主がおられる。これは主との関わりにおける出来事であり、パウロが現しているのは主にある信仰による喜びなのです。このことを心に留めて、その先を読んでいきましょう。

わたしを強めてくださる方のお陰で
 パウロは次のように続けます。「物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(11‐12節)。

 「習い覚えた」と訳されている言葉は、経験によって知ることを意味する言葉です。実際、パウロ自身、実に極貧の状態を経験してきた人でした。他の手紙において、彼はそれまでの生活を振り返って次のように述べています。「苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました」(2コリント11:27)。そのようなパウロが「貧しく暮らすすべを知っている」と言う時、その言葉にはまことに重みがあります。

 しかし、彼は「貧しく暮らすすべを知っている」だけではありません。「豊かに暮らすすべも知っている」と彼は言うのです。それはさらに難しいことなのかも知れません。イエス様は、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者」(ルカ12:21)について語られました。多くを託された時、その多くを正しく用いることは難しいものです。人はしばしば豊かさの中で豊かさのゆえに罪を犯し、豊かさの中で豊かさによって神から引き離されるのです。「豊かに暮らすすべも知っている」とはまことに重い言葉です。

 それだけでなく、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっている」と彼は言います。いったい、パウロの言うところの「秘訣」とは何だったのでしょうか。その詳細についてパウロは何も語りません。ただ一言、彼はこう言うのです。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」(13節)。この言葉にすべてが言い尽くされていると言って良いでしょう。

 パウロの生まれ故郷はタルソという町でした。このタルソという町は、当時のストア派哲学の中心となっていた場所のひとつであると言われます。ですから、当然パウロもまたこのストア派の哲学に馴染んでいたのです。11節の「満足する」という言葉はストア派哲学からの借用です。それは、誰の世話にもならず、何も欲しがらず、何にも関心を持たず、何にも心を動かされない、彼らの理想を表わす言葉でした。

 しかし、パウロが「満足することを習い覚えた」と言い、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授かった」というのは、言葉はストア主義と同じ言葉を用いているかも知れませんが、内容は全く違うのです。彼にとって決定的に重要なことは、どのような心の状態を会得したかということではなくて、誰と共にあるかということだったからです。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」。そのような御方と共に生きることこそが、彼の人生における「秘訣」だったのです。そのように神と共に生き、「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」と言い得る生活こそ、彼が習い覚えてきた生活だったのです。

あなたがたの益となる豊かな実
 パウロはそのように主と共に生きる人として、同じように主と共に生きるフィリピの教会を見ています。それゆえに、フィリピの教会からの支援再開についても、パウロは「主において」喜んでいるのです。それはただ与える人々と受ける人との間のことではないのです。

 最初に見ましたように、パウロは15節以下でかつてフィリピの教会が行ってきた援助について言及しています。フィリピの教会は実際、パウロの窮乏を救おうとして、何度も物を送ってくれた教会なのです。もちろん、パウロがそのことについてどれほど感謝していたか知れません。しかし、その感謝以上にパウロが伝えたかったことがあるのです。かつての支援にしても、今回エパフロディトが携えてきた贈り物にしても、これからの援助にしても、それが神の御前においてどのような出来事なのか、ということです。

 彼はこう続けるのです。「贈り物を当てにして言うわけではありません。むしろ、あなたがたの益となる豊かな実を望んでいるのです」(17節)。前半は文字通りには「贈り物を求めているのではない」という言葉です。

 人間と人間との関係でしか見なければ、ここで起こっているのは、《パウロの必要》を《フィリピの人々》が満たしているという出来事です。およそ援助とか支援とはそういうものでしょう。教会でしばしば行われる支援募金など、まさにそのようなものであると言えます。あるいは通常の教会の献金についても同じことが言えるかもしれません。教会の必要がある。それを人が満たす。だから必要が大きくなれば、財務部会から「献金のお願い」を呼び掛けることもあるわけです。

 しかし、本当はこのようなことは全て、人間と人間との関係だけで見ていてはならないのです。実際、パウロはそうは見ていないのです。全く違った見方をしているのです。彼は「贈り物を求めているのではない」と言うのです。「必要」という観点からだけで話をするならば、「必要はない」と言い切ってしまうのです。「わたしはあらゆるものを受けており、豊かになっています」(18節)と。

 もちろん、パウロは獄中にいるのですから、様々な必要はあったに違いないのです。しかし、パウロは満ち足りていると言うことができる。なぜなら、満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっているからです。だから「必要」という観点から言うならば必要ない。では何を求めているのか。それは「あなたがたの益となる豊かな実」だと彼は言うのです。

 フィリピの教会の人々は、確かにパウロの必要を満たすために贈り物をエパフロディトに託したのかもしれません。しかし、それを受け取ったのは、実はパウロではなかったのです。「それは香ばしい香りであり、神が喜んで受けてくださるいけにえです」(18節)と彼は言うのです。そうです、彼らは神様に献げたのであり、神様が受け取ってくださったのです。

 そして、神様が受け取ってくださったのなら、本当の意味で豊かになるのは献げた彼ら自身であることをパウロは良く知っているのです。それはとてつもなく豊かな神様との関わりにおけることだからです。それは「あなたがたの益となる豊かな実」となるということをパウロは知っているのです。なぜなら、パウロは自分自身の経験からこう断言することができるからです。「わたしの神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」(19節)。献げる彼らは、献げた分だけ欠けるのではなく、主によって満たされるのです。

 だからこそ、パウロはこう言っていたのでした。「さて、あなたがたがわたしへの心遣いを、ついにまた表わしてくれたことを、わたしは主において非常に喜びました」と。そこには必要としている人間と必要を満たす人間だけがいるのではありません。そこには主が共におられる。強めてくださる御方がおられ、満たしてくださる御方がおられる。教会における出来事はすべて主との関わりにおける出来事です。与えることも、仕えることも、全てそれは主との関わりにおける出来事です。それゆえに、そこには人間が人間に与える喜びだけがあるのではなく、天からの喜び、主における喜びがあるのです。


2025年11月19日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 24:1~23

 サムエル記上 24:1~23

 ダビデはマオンの荒れ野で九死に一生を得て、そこから死海のほとりのエン・ゲディに移りました。洞窟の多いその地域が、600人の兵士と共に身を隠すのには適切であると判断したのでしょう。ところが、すぐにサウルの耳に「ダビデはエン・ゲディの荒れ野にいる」との密告情報が届けられます。サウルは選りすぐった三千の兵を率い、ダビデとその兵を追って「山羊の岩」付近に向かいました。

 ダビデと兵士らは、サウルの軍隊が接近していることを知ると、羊の囲い場近くの洞窟に身を隠しました。彼らは、おびただしい数のサウルの兵士らが彼らに気づくことなく通り過ぎて行くことだけを、ひたすら願っていたに違いありません。しかし、サウルの軍隊の行軍の足音は次第に大きくなってきます。彼らが隠れている当の洞穴の方に進んで来ていることは明らかでした。そして、まさにダビデの隠れていた洞窟の前で、行軍の足音が止まったのです。

 そこに潜んでいたダビデと兵士たちにとっては絶体絶命の危機でした。ここで発見されたなら、もはや逃げおおすことはできません。正面から戦っても勝ち目はありません。皆殺しとなることは免れないでしょう。ダビデたちが洞穴の奥で極度の緊張のもと息を潜めている様子が、目に浮かぶようではありませんか。

 やがて洞窟の中に人が入ってきました。それは兵士ではありませんでした。なんと、それはサウルであり、しかも従者もなく、彼一人で入ってきたのです。入ってきたのは洞穴の中を調べるためではなく、用を足すためだったのです。

 その時、ダビデの兵が言いました。「主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです」(5節)。つまり「この絶好の機会にサウルを殺すべきだ。それが神の御心だ」と言っているのです。ダビデの兵士たちがこのように強く勧めたのも無理はありません。これはダビデだけの問題ではなかったからです。ダビデと共にいる者全員が命の危険にさらされているのです。

 もちろん、ダビデもまた、これが彼だけの問題ではないことを知っています。かつてダビデのためにノブの町全体が滅ぼされた忌まわしい記憶も頭によぎったに違いありません。ダビデは促されるままに、気づかれないようにサウルに近づいていきます。しかし、ダビデはサウルに手をかけることなく、ただ上着の端を切り取っただけで戻って来たのでした。

 兵士たちの驚きの眼差しをよそに、ダビデは兵士たちにこう言いました。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ」(7節)。もちろん、ダビデがやらぬなら自分が、と言って出て行こうとする者もいたことでしょう。しかし、ダビデは彼らを説得して、サウルを襲うことを許しませんでした。

 ダビデの兵は「わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す」という主の言葉を引き合いに出しました。この言葉そのものは聖書に記されていません。ダビデに対してどこかで与えられた預言の言葉なのでしょうか。いずれにしても重要なことは、ダビデにとってサウルは、ダビデの命を狙っている者ですが、ダビデの「敵」ではなかった、ということです。サウルは主に油を注がれた王なのです。たとえ主がサウルを王位から退けられ、やがてダビデが立つにしても、まだその時には王なのであり、その任職は人の選出に基づいているのではないのです。

 ダビデがサウルを殺さなかったのは、ダビデが人並みはずれて寛容だったからではありません。神を畏れていたからです。それ以外の何らの理由もありません。22章でサウルが、神によって油注がれ任職された祭司たちを殺したのと対照的です。あの時、神を畏れる家臣たちは、手を下して祭司たちを討とうとはしませんでした。

 このように、神への畏れは単に感情的なことや観念的なことではありません。表面的な敬虔さや神妙な顔つきのことでもありません。人は宗教的な振る舞いによって神への畏れをいくらでも演出することができるのです。しかし、本当に神を畏れているか否かは、現実にどのような選択や決断をするかということに現れるのです。

 それは、ダビデに見られるように、時として生死を左右する選択であったり決断であったりするのです。それは真に神を神として重んじるのか、真にすべての上にある権威として服するのか、また真にその御手に自らを委ね信頼するのかが問われる、具体的な事柄なのです。

 さて、サウルが洞窟を出ると、ダビデは後からついて出て、サウルに背後から声をかけました。そして、自分がサウルを殺せる状況にありながら殺さなかったことを告げました。彼は上着の端を見せて言います。「わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした」(12節)。

 しかし、ダビデの目的は、寛容を示してサウルの態度を変えることにはありませんでした。これはダビデの、いわゆる「太陽政策」ではないのです。ですから、ダビデは公然と神がサウルを裁かれることを求めます。「主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しません」(13節)。

 ここには、いわゆる復讐の詩編などに見られるのと同じモチーフが現れています。詩編には復讐を求める言葉が散見します。その言葉に抵抗を覚えたり、問題を感じたりする人は少なくありません。しかし、そのような人は往々にして、一番重要なことを見落としているのです。それは、自ら手を下そうとはしていないということです。報復は神にゆだねているのです。ちょうどダビデが、「わたしは手を下しません」と言っているようにです。それは神への畏れと信頼に基づいているのです。

 私たちはしばしば他者を「心から赦せているか」「心から受け入れているか」を問題にします。それも大事なことでしょう。しかし、ここでダビデはそんなことを問題にしてはいないことを心に留めてください。もっと大事なことがあるのです。それは「最終的に裁きと赦しの権威を持っておられる神を、本当に畏れているのか」ということなのです。

 サウルはダビデの言葉を聞いて、声をあげて泣きました。そして言います。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった」。

 しかし、残念ながら、サウルは問題の本質が分かっていません。これは悪意と善意の問題ではないのです。神を畏れているか否かの問題なのです。サウルはダビデに悪意をもって対していたのではなくて、神を畏れず、神に敵対していたのです。ダビデはサウルに対して善意を示したのではなくて、神を畏れたのです。そして、神に信頼し、裁きを神に委ねたのです。

 さらにサウルは言います。「今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエルの王国はお前の手によって確立される」。サウルは悟ってはいません。サウルが見ているのは、ダビデの驚くべき行為です。サウルはそこに王となるべき人物を見ただけなのです。しかし、ダビデが王となるのは、その人となりの故ではありません。神がそう定めたのです。王国が確立されるのは、人によってではなく、神によることであることを、サウルは最後まで悟らないのです。ですから、彼はダビデが王となるべき人であると言いながら、26章で再びダビデを抹殺しようとするのです。神によることを悟らないからです。

 サウルは涙を流して自らの行いを悔いました。しかし、悔いることと悔い改めることとは異なります。涙を流して悔いたとしても、悔い改めない人はたくさんいます。悔い改めるとは神に立ち帰ることです。サウルはダビデに対する悪意を認めましたが、神に対する反逆を認めていません。ゆえに、「今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう」などと言うのです。

 神に対する罪を認めなければ、神に立ち帰ることはできません。結局、サウルは自分の館に帰って行き、ダビデとその兵は要害に上って行きました。これは、サウルが悔いたことが、彼らの関係を本質的には変えなかったことを示しています。そうです。神との関係が変わらなければ、本質的には何も変わってはいないのです。

2025年11月16日日曜日

「『わたしは主である』と言われる神」

2025年11月16日 主日礼拝説教 

聖書:出エジプト記 6:2-13

わたしは主である

 神はモーセに言われました。「わたしは主である。」今日の聖書箇所において繰り返されています。それはモーセがどうしても聞かなくてはならない言葉でした。そこには、どうしても聞かなくてはならない事情があったのです。そこでまず、「わたしは主である」とモーセに語られるまでの出来事を簡単に振り返っておきましょう。

 イスラエルはエジプトの国における奴隷の民でした。苦しみ叫ぶイスラエルを救うため、主はモーセを選ばれました。ミディアンの地で羊飼いをしていたモーセに主は言われました。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(3:10)。

 それは人の目から見るならば、どう考えても不可能でした。だからモーセは断るのです。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(同11節)。すると帰ってきた答えはこうでした。「わたしは必ずあなたと共にいる」。

 細かい話は割愛しますが、結局モーセは神に押し切られ、神に従うのです。彼はファラオのもとに向かったのでした。モーセはファラオに言います。「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい」と」(5:1)。もちろん、そのような要求をファラオが受け入れるはずがありません。案の定、ファラオは要求をはねつけました。

 いや、それだけではありません。次のように書かれています。「ファラオはその日、民を追い使う者と下役の者に命じた。『これからは、今までのように、彼らにれんがを作るためのわらを与えるな。わらは自分たちで集めさせよ。しかも、今まで彼らが作ってきた同じれんがの数量を課し、減らしてはならない。彼らは怠け者なのだ。・・・』」(同6‐8節)

 わらはれんがを作る時のつなぎです。それまでは脱穀した後に残ったわらを与えられていました。これが与えられなくなったら、畑に残っている切り残しを自分で抜いて来るしかありません。これはれんが作りよりもさらに辛い作業となります。モーセが主に従ったために、イスラエルの民は苦境に立たされることになりました。モーセはイスラエルの民から責められることになりました。

 モーセは主に従ったのです。しかし、それは結果的にイスラエルの民を救うことにはなりませんでした。いや、かえって彼らを苦しめることになったのです。それはただ自分が苦しむこと以上に苦しいことだったに違いありません。モーセは苦しみの中から主に訴えます。すると主は言われたのです。「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる。わたしの強い手によって、ついに彼らを国から追い出すようになる」(6:1)。

 「今や」と主は言われます。その「今」とは、事態がますます悪くなっていくように見える「今」です。モーセもイスラエルの民も苦境に立たされている「今」です。しかし、そのような「今」こそ、「あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう」と主は言われるのです。「わたしがすること」すなわち「神がすること」を見るであろう、と。

 そこで主はモーセに言われたのです。「わたしは主である」と。

「主である」とは
 「主」と訳されているのは「ヤハウェ」という言葉です。「わたしはヤハウェである」と神はモーセに言われたのです。アルファベットで言うならばYHWHという子音4文字の単語なので、どう発音するか正確には不明です。学者は恐らく「ヤハウェ」と読んだのだろうと推測します。しかし、大事なのは発音よりも意味です。その意味するところは、既にモーセに知らされているのです。

 3章まで遡ると、こんなことが書かれています。まだファラオのもとに行く前のことです。モーセは主にこう尋ねました。「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか」。すると主はこう答えたのです。「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと」(3:14)。

 これこそまさに「ヤハウェ」という神の名前の意味するところなのです。「わたしはある」。普通の言い方ですと「わたしはいる」となります。しかし、「わたしがいる」と言っても、自分と無関係な神がどこかに「いる」ということならば大した意味はないでしょう。明らかにここで言われているのはそういうことではありません。「わたしがいる」とは、モーセと共にいる、ということです。「ヤハウェ」という神は、「共にいる神」なのです。そのような意味において、今日の箇所においても「わたしは主である。わたしはヤハウェである」とモーセに語っておられるのです。「わたしは共にいる神だ」と。

 いや、「わたしは主である」という言葉は、ただモーセだけが聞けばよいのではありません。イスラエルの民もまた聞かなくてはならないのです。ですから、主はモーセに言われるのです。「それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい。わたしは主である」と。主はイスラエルの民にも「わたしはヤハウェである。共にいる神である」と語ろうとしておられたのです。

イスラエルの人々に言いなさい
 6節から8節にかけて、モーセが民に語るために与えられた言葉が記されています。それは「わたしは主である」という言葉に始まり、「わたしは主である」という言葉に終わります。そこには「わたしは主である」という言葉が何を意味するのか、神が「共にいる神」であるとはどういうことかが明瞭に語られているのです。

 「わたしは主である」と言われる主は、さらにこう続けます。「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し、奴隷の身分から救い出す。腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」(6節)。そのように神は腕を伸ばされる神なのです。「腕を伸ばす」とは、神がこの地上の現実において力を現すことを意味します。

 神はこの世界の歴史に介入し、この地上において営まれる私たちの生活に介入される神なのです。神は観念の神でもなければ、ただ心の中におられる神ではありません。神は腕を伸ばして、奴隷であったイスラエルをエジプトから解放される神なのです。

 主の言葉はさらにこう続きます。「そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」(7節)。このような関係を聖書は「契約」と呼びます。「わたしは主である」と言われる神は、人と契約を結ばれる神なのです。

 「契約」と聞きますと、私たちの感覚からすると、なんとなく心の伴わない、冷たい、法律的な関係に聞こえるかもしれません。しかし、聖書の言わんとしていることに一番近いのは、恐らく結婚関係なのです。なので、聖書には神とイスラエルの民との関係が、しばしば結婚関係に喩えられているのです。

 結婚をすると、お互いはお互いにとって単なる「一人の男性」、単なる「一人の女性」ではなくなります。「あなたはわたしの夫」「わたしはあなたの妻」という関係になるのです。主はそのような関係を求められる神なのです。神を信じて生きるとは、単に「神が存在する」ということを信じることではなくて、「あなたはわたしの神、わたしたちはあなたの民」と言って生きることなのです。それを聖書は「契約」という言葉で表現するのです。

 さらに主はこう言われます。「わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を上げて誓った土地にあなたたちを導き入れ、その地をあなたたちの所有として与える」(8節)。「土地を与える」。それは彼らが世代を超えて地上に存続するためです。「あなたはわたしの神です。わたしたちはあなたの民です」と言って生きる人々が、具体的に目に見える形で、この世界のただ中に存続することを主は望んでおられるということです。皆さん、モーセの時代から三千数百年を経た今日もなお、教会が存在し、私たちたちがここに集まって主を礼拝しているとは、そういうことなのです。

 「わたしは主である」。苦しみの中にあったモーセに神はそう語られました。モーセは苦しみの中にあるイスラエルの民にこの主の言葉を伝えました。「わたしは主である」。ファラオが支配しているとしか見えないエジプトの世界のただ中において、彼らは「わたしは主である」という言葉を確かに聞いたのです。

 もっとも、「彼らは厳しい重労働のため意欲を失って、モーセの言うことを聞こうとはしなかった」と書かれています。しかし、彼らはやがて見ることになるのです。神が「わたしは主である」と言ってくださるということは、どういうことであるか。彼らは目の当たりにすることになるのです。それが出エジプト記に記されている出来事です。

 そして、同じ言葉を私たちは今日、耳にしているのです。「わたしは主である」と。もちろん、私たちはエジプトの奴隷であったかつてのイスラエルの民とは置かれている状況は異なります。しかし、私たちが自らの力ではどうすることもできない様々な力の支配のもとに置かれ、しばしば振り回され、翻弄されて生きているという意味では変わらないとも言えます。私たちは実際、この世界のことはおろか、わが身一つどうすることもできない者ではないですか。しかし、そのような現実のただ中で、私たちは「わたしは主である」という言葉を聞くのです。そう言ってくださる方がおられるのです。

 その神こそ、イエス・キリストを通して御自身を現された神です。まさに私たちと共にいてくださる神であることをキリストによって現してくださった神です。だから私たちは今週も、「あなたはわたしの神です。私たちはあなたの民です」と信仰を言い表して生きて行くのです。

2025年11月12日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 23:1~28

 サムエル記上 23:1-28

 ダビデの逃亡生活は続きます。アドラムの洞窟に難を避けていたダビデは、一旦モアブのミツパに行き、自分の両親の安全を確保した上で、ユダの地にあるハレトの森に身を隠しました。アドラムにいた頃からダビデのもとには困窮している者、負債のある者、不満を持つ者などが集まり始め、その数が400人ほどになり、さながらダビデを親分とするヤクザの一家のような集団を形成していたことは、先週お読みしたとおりです。今週の箇所に入りますと、その集団はさらに大きく膨れ上がり600人ほどになっていることがわかります(13節)。

 そんなダビデのもとに、ペリシテ人がケイラを襲い、麦打ち場を略奪している、という知らせが届きました。ケイラはアドラムの南方にあるユダの町です。ダビデにとって同族の町が危機にさらされていました。そこでダビデは主に託宣を求めました。

 既にダビデのもとには預言者ガトだけでなく祭司アビアタルもおります。託宣は通常、祭司がエフォドに収められているウリムとトンミムによって問うのです。(ちなみに、6節で「アヒメレクの子アビアタルが、ケイラのダビデのもとに逃げてきたとき」と書かれていますが、逃げてきた時点では、まだダビデはケイラにはいなかったので、聖書の記述は若干出来事が前後しています。)

 祭司を通してダビデが「行って、このペリシテ人を討つべきでしょうか」と問うと、主はダビデに答えられました。「行け、ペリシテ人を討って、ケイラを救え」。

 ダビデがケイラを助けに行こうとしたのは、もちろん同族の危機を見過ごしにできないという道義的な理由によることは言うまでもありません。しかし、それだけではないのです。現実的なもう一つの理由がありました。それは「食糧」の問題です。

 ペリシテ人が麦打ち場を略奪していることから分かりますように、時期はちょうど刈り入れの直後、麦打ち場に穀物がある時です。ダビデは彼らを守ってやることにより、その見返りとして共にいる600人を養うための食糧の提供を受けることができると考えたのだろうと思います。(ダビデはそのような方法によって従者の生活を支えていたことを、後に25章において見ることになります。)

 しかし、そうとは言え、現実的に考えますならば、これは極めて危険な決断であったことは確かです。第一に、戦闘に入れば当然のことながらダビデの居場所がサウルに知られることになります。あえて居場所を知らせてやるようなものなのです。第二に、ダビデと共にいる者はの時点で六百人に膨らんでいるとはいえ、それでもペリシテの略奪隊と闘うには十分な戦力とは思えなかったに違いありません。

 ですから、これはあまりにも危険すぎると、従者たちは考えたようです。「我々はここユダにいてさえ恐れているのに、ケイラまで行ってペリシテ人の戦列と相対したらどうなるでしょうか」(3節)。従者の言い分はダビデにも理解できたので、ダビデは再び託宣を求めることにしました。

 すると、主は再び答えられました。「立て、ケイラに下って行け。ペリシテ人をあなたの手に渡す」(4節)。「あなたの手に渡す」――これは主の戦いにおける決まり文句です。そこでダビデは、ついぞ忘れていた「主の戦い」の原則、そして「主による勝利」を再び思い起こします。ダビデは主に信頼し、兵を率いてケイラに下っていくのです。そして、結果的にはペリシテ軍に大打撃を与え、ケイラの住民を救うことができたのです。

 さて、予想されていたように、ケイラでの戦いはサウルに知れるところとなりました。サウルにとっては、ダビデとその一隊が城壁のある町に籠城してくれる方が、荒れ野を逃げ隠れされているよりはありがたいことです。しかし、サウルが進軍してくることは、いち早くダビデの耳に入りました。そこでダビデは主に問います。「サウルはケイラに下って来るでしょうか」。主は「下って来る」と答えられました。そこでさらにダビデは問います。「ケイラの有力者らは、わたしと兵をサウルの手に引き渡すでしょうか」。主は「引き渡す」と答えられました。

 このエピソードは、この時のダビデの逃亡生活が極めて厳しい状況にあったことを示しています。彼はもはや同族の町、しかも助けてあげたばかりの町をも信頼することができない状態にあったのです。

 しかし、ケイラの人たちの不義理と不人情を責めることもできません。ある意味でそれは無理もないことだったのです。既に祭司の町ノブが滅ぼされているのです。ただ一人の祭司がダビデにパンと剣を与えたという理由によってです。その悲惨な出来事をケイラの町の住人が知らなかったはずがありません。もしダビデの側につけば、ケイラの町自体、滅びることは免れないでしょう。結局ダビデはそこを逃れ、荒れ野をさまよい、ジフの荒れ野の山地に留まることになりました。

 ダビデが国家のヒーローであった時には多くの町々、多くの人々がダビデを愛し、ダビデを称えていたものでした。しかし、ダビデが逃亡者だと知れた今、自らの身を危険にさらしてまでダビデを守ろうとする町はありませんでした。危機から救ってもらったばかりのケイラの町でさえそうだったのです。それがこの世の現実なのです。

 しかし、そこで聖書は次のように語っているのです。「神は彼をサウルの手に渡されなかった」(14節)。最終的には人間がどうするかの問題ではないのです。主がどうされるかなのです。主はあくまでも計画を進められます。主はダビデと共におられ、彼を守られるのです。

 そして、そのような状態にあったダビデに、主は深い慰めを具体的に備えておられたのです。ヨナタンが訪ねて来てくれたのです。逃亡しているダビデの居場所をサウルよりも早く突き止めることは極めて困難なことだったでしょう。しかも、単独で隊列から離れてダビデのもとに赴くことは非常に危険なことであったに違いありません。

 しかし、ヨナタンはその危険を冒してまでしてダビデを訪れ彼を励ましたのです。「神に頼るようにとダビデを励まし…」(16節)という言葉は印象的です。まさにダビデに必要なことは、そのことだけだったのです。二人は主の御前で契約を結び、そして別れます。ここで交わした言葉は、二人にとって最後の言葉となりました。彼らはこの地上では、二度と顔を合わせることはありませんでした。

 そのような慰めに満ちた一時があった一方、ジフの荒れ野はまたダビデにとって悲しみの場所ともなりました。同族のジフの人々もまた、ダビデをサウルに売り渡したのです。彼らはサウルに言いました。「ダビデは我々のもとに隠れており、砂漠の南方、ハキラの丘にあるホレシャの要害にいます」(20節)。ダビデはそのゆえに、さらに南方のマオンの荒れ野に逃れざるを得ませんでした。

 サウルはそのことを聞き込み、ダビデを追跡しました。そして、ついに山をはさんだところにまで追いつめたのです。ダビデは急いで逃れましたが、既にサウルの兵はダビデを包囲していました。もはやダビデが捕らえられることは時間の問題でした。しかし、まさにその時、使者がサウルのもとに到着して告げたのです。「急いでお帰りください。ペリシテ人が国に侵入しました」(27節)。そこでサウルはダビデを追うことをやめて、戻らざるを得なかったのです。

 ペリシテの侵入そのものは殊更に特別なことではありません。王国た絶えず経験してきたことでした。しかし、この瞬間に「ペリシテ人が国に侵入しました」というニュースが届けられたことには、まさに神の介入以外の何ものでもありませんでした。主は確かにダビデをサウルに渡されなかったのです。そのためには、ペリシテ人の侵略さえも用いられたのです。

 サウルは「神がダビデをわたしの手に渡された」と言いました。実際、そのようにしか見えない状況だったのです。また、ジフの人々は「王の手に彼を引き渡すのは我々の仕事です」と言いました。それが世知辛いこの世の現実です。しかし、本当は人が何を言おうと何をしようと問題ではないのです。「神は彼をサウルの手に渡されなかった」からです。確かにヨナタンの言うとおり、ダビデに必要なことは、神に頼ることだけだったのです。

2025年11月9日日曜日

「神を信じるということ」

2025年11月9日 こども祝福礼拝説教 

聖書:創世記15:1-6 
 

神の約束
 今日は聖書に出てくるアブラハムという人の話をしたいと思います。教会では時々耳にする名前です。聖書に出てくる有名人ですから、ぜひ覚えておいてください。

 アブラハムはもともと「アブラム」という名前でした。今日の聖書箇所では、まだ「アブラム」と呼ばれています。アブラムはもともとカルデアのウルというところに住んでいました。やがて父に連れられてハランに移りました。ハランはとても豊かな土地でした。親戚も一緒に住んでいました。そこには知っている人が沢山いました。アブラムも、そこでみんなと一緒に生活していれば安心でした。

 しかし、神様はアブラムに言われました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。神様はそこを離れて、お父さんの家族や親戚からも離れて旅に出なさいと言われたのです。アブラムが安心していられるその場所を離れて「わたしが示す地に行きなさい」と神様は言われたのです。

 神様がどこに連れて行こうとしているのか、アブラムは知りません。先のことを考えると不安にもなったでしょう。怖くもなったでしょう。しかし、アブラムは神様を信じて、言われる通りに旅に出ました。これからどうなってしまうのか全く分からないけれど、とにかく神様を信じて一歩を踏み出したのです。

 そのようなアブラムに、ある時神様はこう言われました。「さあ、目を上げて、あなたがいる場所から東西南北を見渡しなさい」。そして、こう続けられたのです。「見えるかぎりの土地をすべて、わたしは永久にあなたとあなたの子孫に与える」(13:5)。

 その時、アブラムは小さな土地さえも自分の土地として持っていませんでした。旅をしている人ですから。目に見える形では自分が子孫に受け継がせることのできる土地などありません。そもそも子孫などいないのです。アブラムには子どもがいなかったからです。今はまだまだ土地もなければ子どもいない。しかし、神様はさらにこう言われたのでした。「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」。

 そのように神様は、アブラムがまだ子どももなく土地もない時に、子孫が増えること、そして、見渡す限りの土地を与えることを約束してくださいました。

恐れるな
 さて、どうなったでしょう。しばらくの時が流れました。アブラムは年を取りました。でも相変わらず自分の土地を持たない旅人でした。そして、アブラムの家にはまだ一人の子どもも産まれていませんでした。

 そんなアブラムの心の隙間から疑いが入ってきました。神様を疑い出したら恐れがやってきました。旅になど出なかった方がよかったのではないか。神様を信じたのは間違いだったのではないか。これから先、どうなってしまうのだろう。神様を疑い出したら、これからのことがとても心配になりました。そうです、神様を信じられなくなりますと、いろいろな恐れがやってくるのです。

 そんな時でした。神様がアブラムに語りかけてくださったのです。「これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」(1節)。そうです、恐れと不安で一杯になっていたアブラムに神様はこう言われたのです。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」。

 神様はアブラムのことをよくご存じでした。恐れで一杯になっていることをご存じでした。だから言われたのです。「恐れるな」と。どんなに沢山の矢が飛んできても、大きな盾があったら大丈夫でしょう。神様が「わたしはあなたの盾である」って言ってくださいます。ならば大丈夫です。そして、誰が報いてくれなくても、神様が報いてくださる。「あなたの報いは大きい」と神様は言ってくださったのです。だから恐れる必要はないのです。「恐れるな」と主は言われるのです。

天を仰いでみなさい
 しかし、アブラムの心の中には、まだ疑いが残っていたようです。アブラムは神様に皮肉たっぷりに言いました。「御覧のとおり、あなたはわたしに子孫を与えてくださいませんでしたから、家の僕が跡を継ぐことになっています」(3節)。

 多くの子孫と言っても、現実には子どもひとり与えてくださらないではありませんか。家の跡継ぎすらいないんですよ。どう考えたって不可能ではないですか。――アブラムは神様にそう言いたかったのでしょう。アブラムの家にはエリエゼルという召し使いがいました。現実的に考えるならば、その召し使いが跡継ぎになるしかないのかな、と思っていたのでした。

 しかし、主は言われます。「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」(4節)。そして、アブラムを外に連れ出して言われました。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」

 ここを読みますと、アブラムが見上げた星空はどのようなものだったのだろう、と思います。東京の夜空とは明らかに違うでしょう。東京の夜空を見上げても満天の星空という感じはしません。空気は澄んでいませんし、まわりが明るいので、あまり多くの星が見えません。

 しかし、地方に行くと違った夜空が見られます。昔、ある夜、兵庫県の山奥を車で走っていたときに、途中で車を止めて、夜空を見上げたことがありました。車のライトを消したら、文字通り真っ暗なんです。そこで見上げた星空をわたしは忘れることができません。ちょうど今頃です。空気の澄んだ秋の夜空には、天の川がはっきりと見えて、まさに空は大小の星でびっしり埋め尽くされていました。まさに星空に圧倒されていました。また、そこに立っている自分のなんと小さなことかと思わされました。

 アブラムが見ていた星空もきっとそのような星空ではなかったかと想像します。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と主は言われました。アブラムはその数え切れない星を造られた神様の御前に立っているのです。数えきれない、神様の圧倒的な御業を目にしながら立っているのです。これが神様のなさることなのだ、と。

 星を数えきることができないように、神様のなさることを人間は計り知ることはできないのです。神様の知恵と力がどれほど大きいかを、私たちは知り尽くすことはできないのです。それゆえにまた、神が人の未来に何を成し得るかということもまた、人の計り知ることのできないことなのです。ならば、私たちにできることは、ただとてつもなく大きな御方に信頼することだけなのでしょう。その計り知れない知恵と力を誉め讃えることしかできないのです。本当はそうなのです。

アブラムは主を信じた
 そこで今日の聖書箇所にはこう書かれているのです。「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」。

 実は聖書に初めて「信じる」という言葉が出て来るのはこの箇所なのです。その「信じる」という言葉は「アーマン」というヘブライ語に由来します。「アーメン」と似ていますでしょう。この二つは深いつながりがあります。祈りの最後に唱和する「アーメン」は「そのとおりです」という意味です。そのように「信じる」とは、主の言われることに対して「そのとおりです」と信頼して、受け入れることです。

 アブラムは主を「信じた」。それは主のなさることが理解できたからではありません。常識的に考えるならば主の言われることは不可能なのでしょう。彼の経験からすればあり得ないことなのでしょう。現実を見るならば、多くの子孫はおろか、子ども一人生まれていないのですから。そして、アブラムも奥さんも既に年を取っているのですから。しかし、それでもなおアブラムは主を信じたのです。無条件で「アーメン」と言って受け入れたのです。そのように主とその約束に全面的に信頼したのです。ならば、信頼したように行動するのです。主の御言葉を信じる者として生きて行くのです。

 アブラムは主を信じた。そして、主はそれを彼の義と認められたのです。「義と認める」というと難しいけれど、簡単に言えば神様が大きなマルをつけてくださったということです。「それでよし。あなたは正しい」と言って、ハナマルをつけてくださった。神様に信頼しているアブラムは、神様の目から見たら百点満点だったのです。

 しかし、それはまた全て神様のおかげだとも言えます。既に見てきたように、アブラムは常に主を信じて揺るぎない人ではありませんでした。アブラムの内には疑いがありました。アブラムの内には疑いから来る恐れがありました。しかし、そんなアブラムに「恐れるな」と言ってくださったのは神様でした。皮肉たっぷりに言い返したアブラムに、それでもなお語り続けてくださったのは神様でした。神様の言葉があってこそ、初めて「アブラムは主を信じた」があるのです。

 そして、神様は私たちにも語りかけていてくださいます。その究極の語りかけ、神の言葉はイエス・キリストです。神はその御方によって、十字架と復活によって、決定的な仕方で語られたのです。そして、復活されたキリストによって今も御言葉が語られています。キリストの体である教会によって、神の言葉が語られているのです。かつてパウロもまたこう言っていました。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。

2025年11月5日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 22:1~24

サムエル記上 22:1-24

 前章では、逃亡者となったダビデの姿を見てきました。彼はまず祭司の町ノブに赴き、祭司アヒメレクのもとを訪れてパンを求めました。しかし、そこには折悪しくサウルの家臣であるエドム人ドエグが居合わせていたのです。逃亡者であるダビデがアヒメレクと接触するのを目撃されるということは、アヒメレクにも危害が及ぶ可能性があることを意味していました。

 それにもかかわらず、ダビデはそのことを承知しながら、自分が逃亡者であることを隠したままパンを求め、さらにはゴリアトの剣まで受け取ってその場を立ち去ったのでした。その結果、どのような事態が起こったのかが、この22章に記されています。後ほど見ていきましょう。

 さらにダビデは身分を隠したまま、ガトの王アキシュのもとに逃れます。しかし、身分を完全に隠すことはできませんでした。アキシュの家臣に正体を見破られたダビデは、狂人のふりをしてその場を逃れたのです。

 今日はその続きです。ダビデはその後、アドラムの洞窟に身を隠しました。アドラムはベツレヘムから西へ約20キロほどの場所で、ダビデの出身地であるユダに属します。彼がアドラムに逃れたことを知ると、彼の親族がそこへ下ってきました。ダビデが反逆者とされたことで、エッサイの一族にも危険が及んでいたためでしょう。

 ダビデは年老いた両親を守るため、モアブのミツパに赴き、モアブの王に両親を託します。実はモアブにはダビデの親戚がいるのです。ダビデの父エッサイの祖母はルツであり、ルツはモアブ人でした(ルツ記1:4)。したがって、具体的にはモアブにいる親戚のもとに両親を一時的に避難させたということだったものと思われます。

 さらに、ダビデのもとには「困窮している者、負債のある者、不満を持つ者」が集まってきたと記されています。ダビデがユダの地に逃れた時、そのような人々が集まってきたのは理解できます。

 ユダの地はベニヤミン同様、ペリシテ人の地に直接接しています。ペリシテ人の勢力がベニヤミンのギブアにまで及んでいたことを考えると、ユダの地にも広範囲にわたってペリシテ人による占領地があったことが想像されます。つまり、土地を奪われた人々がいたということです。土地を奪われれば生活は困窮します。ある者は借金で首が回らなくなり、世の中に対する不満も募ります。

 そうして、現実的に食べていけなくなった人々が、強さで知られたダビデのもとに集まってきたのです。ダビデは彼らを養うことになります。どのようにしてでしょうか。後に見るように、略奪によってです。こうして、ダビデを親分とする、いわばヤクザの一家のような集団が形成されていったのでした。

 しかし興味深いことに、そこに突然ガドという預言者が登場します。この章の終わりでは、アビアタルという生き残った祭司がダビデの集団に加わります。ここで預言者と祭司が登場することには大きな意味があるのです。

 これまで見てきたように、油を注ぐことは神による任職のしるしですが、油を注がれて任職されるのは王だけでなく、祭司と預言者も同様です。つまり、この三つの職務が王国の柱なのです。この時点でダビデはまだサウルの追及を逃れている逃亡者です。しかし、それにもかかわらず、すでに油を注がれたダビデと共に、祭司と預言者がそろったのです。つまり、そこには小さな王国が出現しているのです。

 これは未来を示す予表です。実際、ダビデが王となった時、ガドもアビアタルも王国の預言者と祭司となるのです。このような形で、確かに主の計画は進められていることが分かります。

 一方、それに対して6節以下には、自らの王権と王国にしがみつくサウルの姿が、まったく対照的に描かれています。王国はすでに存在していますが、サウルの王国は確実に崩壊に向かっていることが明らかになっていくのです。

 ここに描かれているのは、もはや側近さえも信じることができなくなった、猜疑心に凝り固まったサウルの姿です。彼は「お前たちは皆、一団となってわたしに背き、わたしの息子とエッサイの子が契約を結んでもわたしの耳に入れない」(8節)と責め立てます。実際には、家臣が背いたわけではありません。ダビデとヨナタンの契約は、サウルの家臣から見れば何の問題もなかったのです。ダビデは忠実な千人隊長だったのですから。問題はサウル自身にあったのです。

 そのことに気づかず、家臣の非を責めるサウルは孤立せざるを得ませんでした。ただ一人、サウルに近づいてきたのは、あのドエグでした。彼はエドム人であると記されています。真にサウルのことを思って進言したヨナタンを退け、今まで忠実に仕えてきた家臣をも信じられなくなったサウルには、最後には主の御心にまったく関心のない、報酬目当てで擦り寄ってくるエドム人しか残らなかったのです。

 そのドエグの報告によって、ノブの祭司たちに悲劇が訪れます。ダビデがアヒメレクのもとに来たこと、アヒメレクがダビデのために主に託宣を求め、食料を渡し、ゴリアトの剣を与えたことを告げたのです。アヒメレクと祭司たちは王のもとに引き出され、死罪が宣告されました。それはまったく理不尽な判決でした。

 それが理不尽な、神を畏れぬ判決であることは、サウルの家臣の目にもそう映ったのです。ですから、サウルが近衛兵に祭司たちを殺すよう命じた時、彼らは手を下しませんでした。それは神に逆らうことであり、それがどれほど恐ろしい罪であるかを、誰もがよく知っていたからです。仕方なく、王はドエグに祭司たちを討つよう命じました。主を恐れぬドエグは、彼らを皆殺しにしました。そしてサウルは、祭司の町ノブを乳飲み子や家畜に至るまで絶滅させたのでした。

 この出来事は、かつて主がサウルに命じられたことを思い起こさせます。かつて主はサウルに、「行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない」(15:3)と命じられました。そのときサウルは、アマレクの王アガグを生かしておき、羊と牛の最上のものを惜しんで滅ぼさなかったのです。そのことにより、サウルは王位から退けられることを主から宣告されたのでした。皮肉なことに、そのサウルが今や、罪のない祭司の町ノブを滅ぼし尽くしたのです。サウルは、自らを執り成す祭司さえも失うことになったのでした。

 主がアマレクの絶滅を命じられたことは、多くの人にとってつまずきであり、受け入れがたいことであるに違いありません。しかし、最終的に救いと滅び、生と死を決定する権威を神のみが持っていることを認めなければ、何が起こるでしょうか。人間の勝手な判断、人間の都合による判断によって、もっと恐ろしい悲惨なことが起こるのです。ノブの住人が、サウルという一人の権力者の一存によって皆殺しにされるというようなことが、まさにそれです。そしてこれは、現代においても起こっていることなのです。

 さて、アヒメレクの息子が一人、難を逃れてダビデのもとにやって来ます。彼の一族はダビデのゆえに殺されたのですから、本来であれば、最もダビデを憎んでいても不思議ではない立場にある人物です。普通に考えれば、そのような人物は、将来の報復を恐れて抹殺しておかなければ自分の身が危ないと考えるかもしれません。しかし、ダビデはその人物の前において、自らの非を認めるのです。父の一族が殺されたのは自分の責任であると。そしてその上で、アビアタルを自分のもとに留まらせるのです。ある意味では、命がけで誠意を示すダビデの姿がそこにあります。

2025年11月2日日曜日

「主イエスによって備えられた場所」

2025年11月2日 聖徒の日 主日礼拝説教 

聖書:ヨハネによる福音書 14:1-7

 今日は聖徒の日です。天に召された方々の御家族、御親族も大勢見えています。共に礼拝できることをうれしく思います。今日は天に召された方々を思い出しながら、天と地が一つとされているところに身を置いていることを思いつつ、共に礼拝をおささげできたらと思います。

心を騒がせるな
 そのような今年の召天者記念礼拝に与えられている聖書の言葉が先ほど読まれました。今日は特に福音書朗読において読み上げられたイエス様の言葉を心に留めたいと思います。主は言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(1節)。

 「心を騒がせるな」と主は言われます。それは人間がしばしば平安を失い、心を騒がせることを知っておられるからでしょう。そして、まさにその時弟子たちはそのような状態にあったのです。

 主がそう言われたのは、最後の晩餐の席においてでした。イエス様は御自分の死が目前に迫っていることを知っておられました。御自分が間もなく捉えられ、鞭打たれ、十字架にかけられることを知っておられました。今日読まれました聖書箇所の直前にはペトロとのこんなやり取りが記されています。

 イエス様がペトロに言われました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」。イエス様は十字架に向かっているのです。そこにペトロは、今はついて行くことはできないと主は言われたのです。しかし、ペトロにはイエス様が言っておられる意味が分かりません。しかし、生と死に関わることを主が言っておられることだけは分かったのでしょう。ペトロは言いました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(13:37)。

 ペトロがそう言わざるを得ないほどに、イエス様の上に、そして弟子たちの上に、命の危険が迫っていることを彼らは感じ取っていたのです。確かに死の力が彼らに押し迫ってきているのです。それゆえに弟子たちは心を騒がせずにいられなかったのです。

 それは二千年後の私たちにもよく分かります。死の力に人間は勝てないことを私たちも知っていますから。いかなる人間も、どんなに大金持ちであろうが、どんな権力者であろうが、死の力には勝てない。だから死がその片鱗を現す時に、そして、最終的に押し迫ってくる時に、人間が平安を保つことは困難です。心が騒ぐのを抑えることはできません。

 しかし、主は言われるのです。「心を騒がせるな」と。それは「心を騒がせる必要はない」ということでもあります。それはどうしてか。弟子たちは既に誰を信じたら良いかを知らされているからです。イエス様と共に歩んだ三年半の間に、弟子たちは繰り返しイエス様が言われるのを聞いてきたはずです。「神を信じなさい」と。そして、多くの人々に主がこう語るのを聞いてきたはずなのです。「あなたの信仰があなたを救った!」と。

 イエス様は今一度、最後の晩餐において、弟子たちにそのことを思い起こさせているのです。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。「神を信じなさい」だけではありません。「わたしをも信じなさい」と主は言われるのです。

 まもなく捕らえられることを知っている主が、十字架にかけられて殺されることを知っている主が言われるのです。自分の無残な死に様を見ることになる弟子たちに、それでもなおイエス様は言われるのです。「わたしを信じろ」と。

 イエス様がそう言われるのは、御自分の死が何を意味するかを知っているからです。そして、弟子たちにも繰り返し語り聞かせてきたのでしょう。今こそ弟子たちは――心が騒いで仕方ない弟子たちは――思い起こして信じなくてはならないのです。それゆえに、「わたしを信じろ」と言われた主は、御自分の死が何を意味するのかを静かに語り始めるのです。それが今日の聖書箇所です。

場所を用意しに行く
 主は弟子たちに言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(2節)。イエス様は死の力に飲み込まれて滅びるのではないのです。主は十字架の向こうに「父の家」を見ているのです。自分が帰るべきところを見ているのです。

 今日は読まれませんでしたが、最後の晩餐の場面は次のような言葉で始まります。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)。

 自分が父の家に帰ることを知っていたイエス様は、弟子たちにこう言っておられました。「あなたがたのために場所を用意しに行く」と。そうです、イエス様は場所を用意しにいくのです。それはイエス様が行くところに、弟子たちもまた行くことができるようになるためです。ですから主はさらにこう言われるのです。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(3節)。

 そのように父のもとに行くのはイエス様だけではないのです。弟子たちもまた、イエス様のもとに迎えられるのです。父の家に迎えられることになるのです。これが「心を騒がせるな」と言われるイエス様の約束の言葉です。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われるイエス様の約束の言葉です。確かに、そう言われるイエス様を信じるならば、もはや心を騒がせる必要はないはずなのです。

 イエス様が帰っていく父の家に、私たちもまた迎えられる。これこそ代々の教会もまた信じてきたことです。しかし、考えてみれば、これは驚くべきことでしょう。罪を犯すことのなかったイエス様と同じところ私たちも迎えられるのです。罪ある私たちが迎えられるのです。十字架の死に至るまで神に従い通したイエス様と同じところに、私たちも迎えられるのです。神に背いてばかりいる私たちが迎えられるのです。父の家に私たちの場所があるとするならば、それはまことに驚くべきことです。いったい私たちの誰が真顔で、「神様、あなたのもとに私の場所があることは当然です。あなたの家に迎えられるにふさわしく生きてきましたから」と言えるでしょう。それは本来、あり得ないことなのです。

 だからこそ、イエス様はわざわざ「あなたがたのために【場所を用意しに行く】」(2節)と言われたのです。「場所を用意しに行く」ということは、つまり用意されるまでは「ない」ということです。はじめから私たちの場所があるわけではない、ということです。父なる神のみもとに、私たちの場所があるとするならば、それはイエス様が用意してくださったから場所があるのであって、私たちが何かをしたからではありません。ひとえにイエス様がしてくださったことによるのです。

 イエス様は場所を用意しに行くと言われました。そして、どうされましたか。主は十字架にかかって死なれたのです。言い換えるならば、イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかられることによって、私たちの場所を用意してくださったのです。私たちの罪を代わりに負うことによって、罪人である私たちが父に迎えられるようにしてくださったのです。

わたしは道である
 いや、イエス様はただ場所を用意してくださっただけではありません。主は、わたしは道である」と言われたのです。その道は父のみもとに行くための道です。キリストは十字架にかかり、私たちの罪を代わりに負い、私たちの罪を贖うことによって、私たちの通るべき道ともなってくださったのです。

 実際、私たちは、キリストの十字架による罪の赦しという道を通って、父なる神のみもとにいくしかないのです。なぜなら、神の目から見るならば、私たちは皆、償いきれない罪の負い目を負っているからです。私たちが自分の罪を償いきれないならば、キリストの十字架に寄り頼んで、罪を赦していただくしかないのです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とは、そういうことです。

 それは、「あなたが自分の罪を償いきれない罪人であったとしても、わたしを通って父のもとに行きなさい」という呼びかけでもあるのです。主は言われるのです。「わたしがその道だ」と。

 目的地へと通じる道があるならば、その道から外れない限り、必ず目的地に行き着きます。「父のもとに行く」ための道ならば、最後まで道と共にある限り、必ず父のみもとに行き着くのです。最後まで道と共にあるということ、――それは最後までイエスと共にあるということです。最後まで信じて共にあることです。

 主は言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。私たち誰もが直面しなくてはならない死の力に対して、「わたしを信じろ」と言ってくださる方がおられるということは、本当にありがたいことです。この世の誰も、どんなに私たちを愛してくれる近しい人であっても、そんなこと言ってくれないし、言うこともできないでしょう。死の力に直面して心騒ぐときに「わたしを信じろ」と言ってくださるのは、この御方だけです。

 そして、さらに言うならば、この「わたしを信じなさい」という言葉は、「わたしを信じ続けなさい」という意味合いの言葉なのです。大事なことは最後まで信じ続けることです。繰り返します。それが父のみもとに至る道ならば、最後までその道と共にある限り、必ず父のみもとに行き着くのです。

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