サムエル記上 21:1-16
サウルが誓いを破りダビデを殺害しようとしていることを知ったヨナタンは、約束通りダビデを安全に逃れさせるために、あらかじめ定めておいて合図によってダビデに知らせます。こうしてヨナタンの助けを得て、ダビデはサウルの手を逃れることとなりました。こうして彼は常にサウルに追われる逃亡者となったのです。
かつて主はサムエルにこう言われました。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。わたしはその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした」(16:1)。主が見出した「王となるべき者」こそダビデでした。サムエルはダビデの父の住むベツレヘムを訪れ、そこでダビデに油を注いだのです。このようにしてダビデは主に選ばれた王であることが告げられたのです。
しかし、現実には王として君臨しているのはサウルです。主によって油注がれた者は、王になるどころか、むしろ王の追求を逃れてさまよう者となりました。王国を得るどころか、日々のパンにも事欠く者となりました。権力を得るどころか、むしろ剣一つ持たぬ身となりました。
主は、確かにダビデが王となることを定めておられました。ダビデに約束を与えられました。しかし、ダビデが王となる前に、約束が成就する前に、その途上において、ダビデがこのような惨めな過程を通ることをよしとされたのです。目に見えるところによらず、信仰によって、ただ神の約束を信じることによって生きるしかない、そのような状況を通ることをよしとされたのです。
主の約束が実現する前に、しばしばそれとは逆行するような出来事が起こることは、聖書の中にしばしば見られるパターンです。アブラハムは「多くの国民の父」(創世記17:5)となる前に、子を持たぬ老人とされました。ヨセフは与えられた夢が実現する前に、エジプトに売られて奴隷となりました。主はギデオンに勝利を与えられる前に、兵士の数を極端に減らされました。
約束に逆行する現実の中に置かれる時、それはただ主に信頼することを学ぶ時に他なりません。人間の力や企てが神の約束を実現するのではなく、ただ神の大いなる御力が約束を実現することを学ぶ時であり、そこで人はただひたすら神に信頼し、忍耐をもって待ち望むことが求められているのです。
さて、しかしながら私たちはその過程を歩むダビデを理想化することは許されません。これまで私たちはサウルとの対比の中で信仰の人ダビデの歩みを見てきました。しかし、彼もまた人の子であり、信仰と不信仰の狭間に立っている一人の人間なのです。ですから私たちは、彼の歩みの中に、主に信頼する姿と共に、不信仰のゆえの数多くの失敗をすることを見ることにもなるのです。私たちはダビデの勝利から学ぶと共に、彼の敗北からも学ばねばならないのです。
ダビデは祭司の町ノブに逃れました。かつてはシロに聖所がありました。サムエルがシロの聖所において祭司エリのもとで育てられたことを既に見て来ました。しかし、シロの聖所は祭司エリの時代にペリシテ人によって破壊されてしまったのです。そこで、祭司の一族はそこからノブの町に逃れていったのでした。
22章を見ますと85人もの祭司が集団生活をしていたようです(22:18)。そこには新たな聖所が築かれていたということでしょう。ダビデはそこに住む祭司アヒメレクを訪ねました。アヒメレクはピネハスの孫でありエリの曾孫に当たります。
アヒメレクはダビデを不安げに迎えました。無理もありません。千人隊長であるはずのダビデが従者も連れず、剣も持たないで一人で来たのですから。明らかに異常なことが起こっているのです。アヒメレクはダビデに尋ねます。「なぜ、一人なのですか、供はいないのですか。」ダビデはアヒメレクに偽ってこう説明します。「王はわたしに一つの事を命じて、『お前を遣わす目的、お前に命じる事を、だれにも気づかれるな』と言われたのです。従者たちには、ある場所で落ち合うよう言いつけてあります。」そして、さらにダビデは彼にパンを求めます。そこには聖別されたパンしかありませんでした。聖別されたパンを求める際にも、ダビデは偽りを語ります。「従者たちは身を清めています」と。
このように、ダビデの応答は偽りに満ちています。それは逃亡のためのパンを得るためでした。しかし、実は、この章が伝えているダビデの問題は、偽りそれ自体ではないのです。ここに見るダビデは、かつてたった一人でゴリアトに立ち向かったかつてのダビデと対比されているのです。明らかに、そこにいるのは、もはやあのゴリアトと戦ったダビデではありません。ただひたすら主に信頼して出て行ったダビデではないのです。
そのことは、アヒメレクにパンだけでなく、武器を求める時のやりとりの中にも明らかにされていきます。ダビデが槍か剣がないかと尋ねると、アヒメレクはこう答えました。「エラの谷で、あなたが討ち取ったペリシテ人ゴリアトの剣なら、そこ、エフォドの後ろに布に包んであります。もしそれを持って行きたければ持って行ってください。そのほかには何もありません」(10節)。
アヒメレクの答えは、ダビデにあの日の勝利を思い起こさせるのに十分な言葉であったはずでした。剣など持たずに彼はゴリアトに勝利したのです。それはまた、ゴリアトの剣は決してペリシテの軍隊に勝利をもたらさなかったことをも思い起こさせる言葉であったはずでした。
しかし、ダビデは、かつて勝利を与えてくださった信頼すべき主の真実に思いを馳せることができないのです。主への信頼を失えば、人は自らの手で自分を守るしかありません。ダビデは答えます。「それにまさるものはない。それをください。」今のダビデにとって、ゴリアトの剣にまさるものはないのです。この言葉がダビデの状態を雄弁に物語っていると言えるでしょう。
自らの手で自分を守るしかないならば、必然的に人は恐れに支配されることになります。その事実がこの場面にはよく現れています。彼はアヒメレクのところでドエグというエドム人を見かけました。彼はサウルの家臣です。ドエグはアヒメレクがダビデにパンを与えることをしっかりと目撃していました。
そのことが、アヒメレクをトラブルに巻き込みかねないことを、ダビデに分からないはずがありません。事実、アヒメレクがダビデにパンや剣を与えたということで、アヒメレクだけでなく、祭司の町の住人すべてが皆殺しにされることになるのです。
後にダビデはアヒメレクの息子にこう言っています。「あの日、わたしはあの場に居合わせたエドム人ドエグが必ずサウルに報告するだろう、と気づいていた」(22:22)。そうです、ダビデには分かっていたのです。しかし、恐れに支配されていたダビデは自らを救うことで精いっぱいでした。ですからパンのみならず剣まで求めて、その場を立ち去ってしまったのです。
ダビデはさらに、ガトの王アキシュのもとに逃れました。実は、ダビデがアキシュのもとに身を寄せるという記事は、後に再び27章に出てきます。その時は状況が異なっておりまして、単独ではなく600人の兵と共にガトに移って行きます。アキシュはダビデと兵士たちを受け入れ、ツィクラグを与えてそこに住まわせるのです。しかし、この章においては、ダビデは身分を隠したままガトに逃れているのです。
もちろんダビデであることを隠し通せるはずがありません。アキシュの家臣たちに見破られてしまいます。「この男はかの地の王、ダビデではありませんか。この男についてみんなが踊りながら、『サウルは千を討ち、ダビデは万を討った』と歌ったのです」。この言葉もまた、ダビデにかつての勝利を思い起こさせるに十分な言葉だったに違いありません。あの時にも、ダビデは兵士の数によって勝ったのではなかったのです。主による勝利であったはずなのです。
しかし、彼は主による勝利を思い起こすのではなく、自らの手で自らを守ろうとしたのです。そうなれば当然恐れに支配されることになります。ダビデは捕らえられると、気が狂ったように振る舞い、ひげによだれを垂らし、城門の扉をかきむしりました。アキシュは言います。「見てみろ、この男は気が狂っている。なぜ連れて来たのだ」。こうしてダビデはアキシュに身元を知られぬまま釈放されたのでした。
このように、ダビデは約束が成就に至る途上において、厳しい信仰の試練を通されました。しかし、そこでまず私たちが目にするのは、信仰の盾を失い、恐れに支配されたダビデの姿です。昨日の勇者が今日の勇者とは限りません。それは力の有る無しの問題ではなく、あくまでも信仰の問題なのです。
2025年10月29日水曜日
祈祷会用:サムエル記上 21:1~16
2025年10月26日日曜日
「神の恵みに目を向けて生きる」
2025年10月26日 主日礼拝説教
聖書:マルコによる福音書 10:2~12
イエスを試そうとして
ファリサイ派の人々が近寄って来て、イエスに尋ねました。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。彼らは教えを請いに来たわけではありません。そこには「イエスを試そうとしたのである」と書かれています。答えは既に知っているのです。「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問われると、彼らは自分でこう答えることができました。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と。そうです、既に答えは知っているのです。
「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。彼らがそう尋ねたのは、イエスが離縁に否定的な見解を持っていることを知っていたからです。離縁は律法において許されているのに、この男はその律法に反することを答えるかも知れない。あわよくば「この男は律法に反することを教えている」と訴える口実を得ることができるかも知れない。恐らくそう思ったのでしょう。ですから後で「イエスはこう言った」と証言できるように、彼らは複数でやってきたのでした。
もちろん、イエス様は彼らの意図をご存じでした。ですから、彼らの質問に対して「律法に適っている」とも「律法に適っていない」とも答えなかったのです。主は「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されます。彼らは答えます。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」。すると主はこう答えられました。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」。
そして、律法の書に記されている他の言葉を引用されました。創世記の一章と二章に記されている言葉です。イエス様はそれを要約して語られます。「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。」
イエス様はあくまでも律法の書を引用して話をします。その意味では、ファリサイ派の人々と同じ土俵に乗るのです。しかし、離縁状の話には乗りません。法的な手続きの話には乗りません。法的な手続きが定められる前から、「結婚」という関係は存在するからです。「人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」と書かれている。それはモーセを通して律法が定められる前の話です。そこで主は言われます。「従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」。
ファリサイ派の人々とのやりとりはここまでです。イエスを試そうとして質問を準備してきた彼らの目論みは失敗に終わったと言えます。しかし、私たちはファリサイ派の人々がイエス様にこんな質問をしてくれたことに感謝したいと思います。といいますのも、ファリサイ派の人々の質問から始まるこの話は、神に向かい、神と共に生きる生活の仕方は二通りに分かれることをはっきりと示しているからです。そして、そのどちらに向かって進むかということは、決して小さなことではないのです。
律法に適っているでしょうか
その二通りの生活の仕方、二通りの生き方とは何でしょうか。その第一は、ファリサイ派の人々の問いに表れているような生き方です――「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」。それは、神の目や人の目を恐れながら、「どこまでならば許されるのか」を行動の基準として生きる姿です。信仰の歩みが、何が許されるか、何が禁じられているかという線引きばかりを気にするものになってしまう。そういう生き方です。
先にも言いましたように、彼らは答えを持っていました。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」。彼らが念頭に置いていたのは、次のような申命記の言葉です。「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24:1)。
確かに、夫が妻を離縁することは律法において許されていると言えなくはない。しかし、実はそれほど単純ではありません。「妻に何か恥ずべきことを見いだし」と書かれていたのですが、その「恥ずべきこと」について、当時においても解釈が分かれていたのです。
シャンマイという有力なラビとその弟子たちは、この「恥ずべきこと」に当たるのは姦淫の罪であると考えました。姦淫の罪を女が犯した時は離縁することが出来る。それ以外は出来ない。それに対して、ヒレルというもう一人の有力なラビとその弟子たちは、よりリベラルな立場を採りました。「恥ずべきこと」には様々な事柄が入る。例えば、食べ物を焦がしたとか、容貌が悪いとかなども、離縁の正当な理由となると論じたのです。今日の視点からすれば人権侵害も甚だしい話ですが、当時としては大真面目な議論だったのです。
さて、そこで私たちは考えねばなりません。そもそも「離婚は許されるのか」とか「どこまで許されるのか」という議論はどうして起こるのか、ということです。それは離婚したい人がいるからです。離婚したい人がいなければ、そもそもこういう議論は起こらないのです。
ちなみに、彼らの質問には「夫が妻を離縁すること」しか出て来ません。イエス様は「夫を離縁して他の男を夫にする者も」と言っておられますが、実際には当時は妻から夫を離縁することはほぼあり得い、男尊女卑の時代を背景としている話です。今日とはずいぶん違います。そのような時代には、夫の都合による実に身勝手な離婚がまかり通っていたのです。例えば、それこそ料理を焦がしただけで離縁したがる男がいる。自分の妻よりも美しい女性を見ただけで離婚したがる男がいる。だから、そのような場合の離縁は許されるかどうかという律法解釈の話が出てくるのです。
そのような人にとって、律法とは自分の望んでいることを制限するものでしかありません。「どこまで許されるのか」ということは、裏を返せば「どこまで制限されているのか」ということです。そして、制限には嫌々でも従うのです。なぜなら神が怖いからです。神の制限を越えるならば罰せられる。許されていないことを行うならば罰せられる。それが怖いからです。
しかし、「どこまで許されるのか」ということが話題になる世界においては、現実には怖いのは神の目よりも人の目である場合の方が多いのかもしれません。禁止されていることをしてしまうと人の目が怖い。みんなが守っていることを自分だけやぶったら人の目が怖い。だから一生懸命守るのです。だから「どこまで許されるのか」が気になるのです。
そのような、神の目が怖い、人の目が怖い。宗教的な世界は往々にしてそのような世界になってしまうものなのでしょう。それがあのファリサイ派の人々が生きていた世界だったのです。それが彼らの生き方だったのです。「夫が妻を離縁することは律法に適っているでしょうか」という問いに見られる生き方です。
先行する恵みに応えて生きる
しかし、イエス様はあのファリサイ派の人々とは全く違う世界に生きていたのです。そして、後の弟子たちもそうでした。それゆえに、この物語が伝えられてきたとも言えるのです。
先にも触れましたように、イエス様が引用しているのは、創世記1章と2章の言葉です。「天地創造の初めから、神は人を男と女にお造りになった」と主は言われるのです。「神は」が先にあるのです。人間の行為の前に、神の行為があるのです。神様がしてくださっていることがあるのです。既に私たちが生きているこの世界そのものが神の御業なのです。神の愛から溢れ出た御業、神の恵みの御業なのです。そのような中に私たちは生きている。その一つの現れが、男がおり女がいるということです。「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体になる」。これもまた人間が創り出したことではありません。神の恵みの御業です。
神の恵みの御業が先にあるのです。ならば本当に大事なのは感謝をもって恵みに応えて生きることです。「神が結び合わせてくださった」という恵みに対する相応しい応答は、「人は離してはならない」ということになるのでしょう。イエス様が言われるとおりです。それは神が禁止しているからそうするのではなくて、恵みへの応答なのです。
もちろん、この世界には神の恵みに応えていない人間の現実があることもまた事実です。それを聖書は罪と呼びます。ですから、現実には結婚が壊れてしまうことがあります。夫の罪によって、あるいは妻の罪によって、あるいは神の目から見るならば両者の罪によって、ということになるのかもしれません。いずれにせよ、それは結婚の話だけではありません。この世界全体がすべての営みにおいて、神の恵みに応答していないのです。神の恵みに背を向け、天地創造に始まる神の恵みを蔑ろにしているのです。イエス様には、そんなこの世の有り様が映っていたに違いありません。
にもかかわらずイエス様は「天地創造の初めから…」と神の御業を語られるのです。あくまでも神の恵みの御業が先にあることを語られるのです。そして、神の恵みに応えて生きるように呼びかけられるのです。なぜなら神の恵みの御業は続いているからです。ストップしてはおられないからです。神はこの世を、私たちを、決して見捨ててはおられないからです。さらに言うならば、ここで神の御業について語っておられるイエス様の存在そのものが、神の恵みの御業なのです。そのことが十字架において、復活において、完全に現されることになるのです。
イエス様が生きておられた世界、そして私たちに手渡してくださった信仰の世界――それは、神の目や人の目を恐れて「何が許されているのか」と問いながら生きる不自由な世界ではありません。そうではなく、先立つ神の恵みに目を向けて生きる世界です。天地創造の御業に始まり、すでに現された救いの御業に至るまで、私たちはその恵みの中に置かれているのです。その恵みに感謝をもって応答しながら歩むことこそ、私たちに与えられた信仰の歩みです。それは「何が許されているのか」ではなく、「何が主に喜んでいただけることなのか」を考えて生きることに他なりません。
2025年10月22日水曜日
祈祷会用:サムエル記上 20:24~42
サムエル記上 20:24‐42
まず、これまでの物語を振り返っておきましょう。サウルはヨナタンにダビデを殺さないと誓いました。ヨナタンは父サウルが誓いを守るものと信じていました。しかし、現実にはダビデはサウルに殺されそうになってラマのナヨトまで逃げていたのです。ダビデはラマから帰って「死とわたしとの間はただの一歩です」と主にかけて誓ってヨナタンに訴えます。ダビデに懇願されたヨナタンは、サウルにダビデを害する意思があるかどうかを確かめることにしました。
その方法は、ダビデが新月祭の食事に欠席するというものでした。今まで逃れていたダビデも新月祭にはサウルと同席しなくてはなりません。サウルにとってはダビデを殺す好機となります。そのような時にダビデが理由をつけて欠席するならば、サウルは激怒するに違いない。そのことによって、サウルがダビデに危害を加えようとしていることも明らかになります。もしそのような仕方でサウルの殺意が確認されたなら、必ずダビデに知らせ、無事に送り出すことを、ヨナタンは主にかけて誓いました。
しかし、知らせると言っても、どのようにしたら良いでしょう。サウルが誓いを破り、ダビデを依然として殺そうとしているならば、そのことを知らなかったヨナタンは要するに蚊帳の外に置かれていたことになります。当然、サウルが殺害の意思をヨナタンに明らかにした後でも、ヨナタンはダビデをかばっている者としてマークされることになります。そのようなヨナタンがダビデに接触するならば、ダビデを改めて危険にさらすことになるでしょう。
要するにヨナタンは、ダビデと直接接触しないでサウルの殺意をダビデに知らせなくてはならないのです。そこでヨナタンが考えた方法は、ダビデが隠れている場所付近に矢を放ち、その矢を取りに行く従者に語る言葉をもって暗号とするというものでした。「矢はお前の手前にある、持って来い」と言ったなら出てきても安全。しかし、「矢はあなたのもっと先だ」と言ったら、ダビデは姿を現わさずに逃げなくてはならない。そう定めたのです。
先週も触れましたように、サウルの殺意を知りながらダビデを逃がすことは、ある意味でヨナタンにとっても命がけのことだったのです。しかし、もう一方でダビデもヨナタンの誓いの言葉に命をかけることになります。ヨナタンが裏切ったならどうでしょう。誘き出されて殺されることにもなるでしょう。ですからダビデはヨナタンが誓いを破らないことを命をかけて信じるのです。それは単に愛情や友情のゆえではありません。主の御前において契約を結んだからです。主が間におられる。だから互いを重んじ互いを信じるのです。
そして、今日の聖書箇所に入ります。新月祭の日がおとずれました。その日、ダビデの場所は空席のままでした。聖書は「その日サウルは、そのことには全く触れなかった」と伝えています。その理由については、「ダビデに何事かあって身が汚れているのだろう、きっと清めが済んでいないのだ、と考えたからである」(26節)と説明されています。考えて見ますなら、これは実に皮肉な説明です。そうでしょう。本当に汚れているのは、どちらなのでしょう。
新月祭の食事は単なる祝宴ではなく、これは祭儀的な食事なのです。当然のことながら、これは主への犠牲奉献に伴う食事です。ですから、汚れが問題になるのです。例えば死体などに触れて汚れを負うならば、そのままでは食事に与ることはできないのです。しかし、ダビデは汚れによって欠席しているのではありません。もとをただせばダビデに対するサウルの憎しみのゆえにダビデは欠席しているのです。
しかし、憎しみを抱いているサウルは汚れていない者として食事にあずかり、よりによって「ダビデに何事かあって身が汚れているのだろう」と考えたというのです。そして、実に皮肉なことに、そのように考えているサウルの罪が、本当の意味でのサウルの汚れが、この祭儀的な食事の中において明らかにされていくのです。
新月祭の二日目、再びダビデは欠席しました。ヨナタンはその理由をサウルに説明します。それは内容的には正当な理由でした。しかし、サウルはそれを聞くなり激しく怒り始めます。そして、その怒りの中でサウルの心に秘められていたダビデへの殺意が明らかにされることとなりました。サウルは言うのです。「エッサイの子がこの地上に生きている限り、お前もお前の王権も確かではないのだ。すぐに人をやってダビデを捕らえて来させよ。彼は死なねばならない」(31節)。それに対してヨナタンは言い返します。「なぜ、彼は死なねばならないのですか。何をしたのですか」(32節)。
ここでサウルとヨナタンとの対比が鮮明になります。それはダビデに対する好意と敵意の対比ではないのです。主に向かっているか主に背を向けているかの対比です。以前、サウルにダビデの殺害を思いとどまらせた時、ヨナタンはサウルにこのように語りました。「なぜ、罪なき者の血を流し、理由もなくダビデを殺して、罪を犯そうとなさるのですか」(19:5)。単にダビデが可哀そうだと言っているのではないのです。そこでもダビデが「何をしたのですか」と問うていたのです。つまり、ヨナタンが問題にしているのは、正当な理由なくダビデを殺すことなのです。そのようにして、神の律法に背くことなのです。
ダビデが神の法に照らして本当に死に当たる罪を犯しているならば、むしろダビデは死ぬべきなのです。もしそうならばヨナタンはダビデが死ぬことに反対しないのです。しかし、もしそうでないなら、ダビデは死んではならないのです。一方、サウルは神のことなど考えていません。彼が挙げた理由は何ですか。それは神の律法とは何の関わりもありません。ダビデが存在することがヨナタンへの王位継承に差し障るということだけです。
この場面における一連の出来事が示しているのは、この新月祭における祭儀的食事が、サウルにとっては単なる形式的な宗教的儀式でしかないということです。それは神不在の食事です。いや、単に神不在であるというだけではありません。主がダビデと共にあることを認めつつも、なおダビデを殺害して王権を守るということは、とりもなおさず主に対する反逆に他ならないのです。そのようなサウルの姿は、単にこの食事という一場面のことに限りません。これまでもそうでした。そして、彼が死に至るまで変わらないのです。
このような場面と深く関係していますのは、後に現れる預言者たちによって語られる、王国の祭儀に対する批判です。例えば、主は預言者イザヤを通してこのように語られました。「お前たちの新月祭や、定められた日の祭りをわたしは憎んでやまない。それはわたしにとって、重荷でしかない。それを担うのに疲れ果てた。…お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ。悪い行いをわたしの目の前から取り除け」(イザヤ1:14-16)。
祭儀も祭儀的な食事も本来は主御自身が命じられたものであって、それ自体は大切な意味を持っているものです。しかし、主の関心の中心は祭儀そのものにあるのではありません。その祭儀を行う共同体がどのように生きているかということにあるのです。祭儀を共に行う者同士の間に主がおられるか。そのような関係として生きているかどうかです。ダビデとヨナタンの間のようにです。そこに向かわない単なる形式的な儀式を主は憎まれるのです。
翌朝、取り決めた時刻に、ヨナタンは従者を連れて野に出ました。彼は矢を射ると、それを取りに行った従者に後ろから声をかけます。「矢はお前のもっと先ではないか。」さらに「早くしろ、急げ、立ち止まるな」と叫びました。そしてヨナタンは従者を去らせます。本来でしたら、このままダビデは誰にも見られることなく去っていくはずでした。サウルの殺意が確認され、ヨナタンから知らされたのですから。そのまま消える方が安全なのです。
しかし、ダビデはそのまま去りませんでした。危険を承知であえて姿を現わし、地にひれ伏し、三度礼をしました。主の御前で自分を重んじ、誓いを守ってくれたヨナタンに対して最大限の敬意を表します。ヨナタンも、ダビデと直接接触していることが目撃されるなら自らを不利な立場に置くことにもなるのでしょう。ヨナタンにとって、どうでも良いことだったのです。
彼らは互いに口づけし、共に泣きました。そして、ヨナタンはダビデに言います。「安らかに行ってくれ。わたしとあなたの間にも、わたしの子孫とあなたの子孫の間にも、主がとこしえにおられる、と主の御名によって誓い合ったのだから」(42節)。彼らはこの後、一度だけ相まみえることを許される他、ついに地上において親しく共に過ごすことはありませんでした。しかし、確かに彼らの間には主がおられました。
本来ならば主にある麗しい交わりであるはずの祭儀的共食が神不在の修羅場となり、もう一方においてはこの世の権力によって散らされる人々の間に主がおられる。この二つの場面は実に対照的です。教会もまた、宗教的な儀式はあるけれども人間的な思惑だけが支配する神不在の場にもなり得るし、主によって結びあわされ、主が互いの間におられる、ダビデとヨナタンがいる共同体ともなり得るのです。
2025年10月19日日曜日
「神の愛と真実は変わらない」
2025年10月19日 主日礼拝説教
聖書:ヨハネの黙示録 7:9‐17
ヨハネの見た幻
今日はヨハネの黙示録をお読みしました。この書物が書かれたのは紀元一世紀も終わり頃であると言われます。それはローマ帝国において皇帝礼拝が強要された時代でした。皇帝を神として礼拝すること、またローマの神々を礼拝することを拒否する者には容赦ない迫害が加えられたのです。それは教会にとってまさに艱難の時代でした。
そのような時代においてもなお、キリスト者は礼拝のために集まりました。それはある意味では命がけのことでした。信仰を公にせず、隠れて個人的にキリストを信じ、表面的には皇帝を礼拝して生きていけば危険はなかったのです。しかし、彼らはそうしませんでした。共に集まって聖餐を行うこと、共に祈ること、互いに信仰を励まし合うことを、ある意味では自分の命よりも大事なこととして考えていたのです。そして、ヨハネの黙示録とは、そのような人々のために書かれた書物だったのです。
ヨハネの黙示録の1章には、こんな言葉があります。「この預言の言葉を朗読する人と、これを聞いて、中に記されたことを守る人たちとは幸いである。時が迫っているからである」(1:3)。そのようにこれは朗読されるために書かれたのです。朗読されるのは、命を賭して皆が礼拝のために集まっている場所においてです。その書物が今日、ここにおいても朗読されているのです。ならば、ある意味では私たち自身の姿勢も問われるのでしょう。共に集まって礼拝することは、私たちにとってどれほど大事なこととされているのでしょうか。それほど尊い恵みであると考えられているのでしょうか。
今日は、そのようなヨハネの黙示録の第7章が朗読されました。そこには大群衆の姿が次のように描かれています。「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである』」(9-10節)。
実際にそこに大群衆がいたわけではありません。ヨハネが見ているのは幻です。神が見せてくださった幻です。その大群衆は神の玉座の前と小羊(キリスト)の前に立っていると言われていますから、これは地上の話ではなく、天において礼拝している人々の姿です。ヨハネがそのような幻を見せていただいたのは、「ある主の日のこと」(1:10)であったと書かれています。それはある主の日の礼拝における出来事でした。
もしかしたらヨハネ一人で捧げていた礼拝だったのかもしれません。ヨハネはその時、パトモス島という島に、島流しにされていましたから。しかし、そこで主はヨハネに天の大群衆を見せてくださったのです。神を礼拝している大群衆を見せてくださったのです。ヨハネは決して一人ではなく、天の大群衆と共に主を讃えて礼拝しているのだ、ということを、主は見せてくださったのです。
大きな患難から抜け出て来た者たち
そのように神が見せてくださった、礼拝をささげている天の大群衆について、ヨハネは質問を受けました。「この白い衣を着た者たちは、だれか。また、どこから来たのか。」ヨハネは答えました。「わたしの主よ、それはあなたの方がご存じです」。すると次のような言葉が返ってきました。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(14節)。
「彼らは大きな苦難を通って来た者だ」。別の翻訳ではこうなっています。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです」(7:14新改訳聖書)。実は、この方がむしろ直訳に近いのです。もう一回お読みします。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」
ヨハネが目にしていた人々が、特に「大きな患難から抜け出て来た者たち」と表現されていたことが重要です。それは迫害の時代を背景としていることを考えるとよく分かります。
教会は神の愛とキリストの救いを宣べ伝えているのです。しかし、そのような教会に現実には苦難が次々と襲いかかってくるのです。迫害の中で無残に殺されていく人々がいるのです。現実を見る限り、そこにおいて神の助けは全くないかのように見えるのです。神は本当におられるのか。神は本当に真実な御方なのか。その神を信じることに意味はあるのか。そう問わざるを得ない状況がそこにあるのです。
しかし、そこで神はヨハネに幻を見せたのです。目に見えるところによるならば、患難の中で神の助けも守りもないままに無残に殺されていったように見えるかもしれない。しかし、その彼らが、なんと天において大声で神を誉め讃えているのです。そして、彼らはこう呼ばれているのです。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たち」であると。
ここには驚くべき逆説が語られています。この世的に見るならば、患難の中において神の守りはなかったように見える。神に守られず殺されてしまった人々は、この世的に見れば、神から見捨てられたように見えたかもしれません。しかし、実はそうではなく、神に完全に守られて、むしろ患難から取り出されたのだというのです。そして、彼らは神の玉座の前にいるのです。彼らは神に近いところにいるのです。守られなかった?とんでもない!彼らは神の近くに、玉座の近くに招かれていた人たちなのです。
そして、こう書かれています。「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(17節)。
玉座の中央におられるのは小羊です。しかし、その御方はまたまことの牧者、羊飼いでもあります。ここで詩編23編を思い起こす人も多いかもしれません。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、 魂を生き返らせてくださる」(詩編23:1-3)。葬儀においても良く読まれる詩編です。そこに歌われていたことが、まさに天において実現しているのをヨハネは見たのです。まことの羊飼いによって命の水の泉に導かれた人々がそこにいるのです。地上の苦しみの中で飢え渇き求めていた本当の命はそこにおいて豊かに満たされるのです。
そして、神御自身が涙の涙をことごとくぬぐってくださる。「ことごとく」です。全部です。すなわち流された涙のすべてを神は知っておられるということです。その全てを、ぬぐい取ってくださる。流した涙の全てが、ことごとく報われるのです。
小羊の血によって
そのような天の大群衆をヨハネは見せていただいたのです。そして、彼らについては殊更に「白い衣を着た者たち」と書かれています。なぜ彼らは白い衣を身に着けているのでしょう。14節にはこう書かれています。「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(7:14)。そのように、その衣は小羊の血によって白くされたのです。
先ほどから、迫害の時代に大きな苦難を受けた人々の話をしています。しかし、彼らは殉教したから白い衣を着ているのではないのです。苦難を耐え忍んだから白い衣を着ているのではないのです。それは小羊の血によるのです。小羊の血とは、私たちの罪のためにキリストが流してくださった罪の贖いの血潮です。そこに語られているのはキリストの血による罪の赦しなのです。 天において「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」と大声で賛美している人々は、キリストの血によって罪を贖われた人々なのです。
その意味においては、ここにいる私たちも同じです。私たちもまた、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。それ以外には白くしようがないのです。「救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである」。その通りです。私たちはただそれを受けるしかないのです。
だからこそヨハネの見たこの幻は、時代を超えて代々の教会を通して伝えられてきたのです。この地上の生活において、神の愛と真実は時として見えなくなることは、迫害の時代ならずとも、いつの時代でもあるからです。辛いことが続く時、祈っても事態は何も変わらないように見える時、なんでこんなことが起こるのかと思えるようなことが起こる時、神の愛と真実が見えなくなる。そのようなことはあるのです。
しかし、ヨハネが見せられたように、そして教会に書き送ったように、神の愛と真実とは始めから終わりまで貫かれているのです。神は真実な神であり続けておられるのです。苦難の黒雲は神の真実という太陽を覆い隠す時があるかもしれません。しかし、太陽が無くなるわけではないのです。神の真実は変わらない。やがて患難から抜け出た者たちとして、神によって涙をことごとくぬぐわれて、はっきりとその事実を見る時が来るのです。ヨハネが見せられたあの大群衆のようにです。
ならばこの地上において礼拝している私たちにとって大切なことは何なのでしょうか。見えないならば、信じることです。神の真実が目に見えない時こそ神の真実を信じることです。神の愛が見えなくなった時こそ、キリストの十字架において表された神の愛を信じることです。そして、信仰に踏みとどまることなのです。
疑いと恐れに心を支配させてはなりません。そのために神はヨハネに幻を見せました。そのためにヨハネは教会に書き送りました。そのために教会はこの書を二千年近くの長きにわたって伝えてきました。そのようにして、私たちもまた同じ信仰の言葉を耳にしているのです。私たちが信仰によって生きるためです。
2025年10月15日水曜日
祈祷会用:サムエル記上 20:1~23
サムエル記上 20:1-23
前の章において、私たちはサウルがヨナタンの言葉を聞き入れ、「主は生きておられる。彼を殺しはしない」(19:6)と誓ったことを読みました。しかし、「主は生きておられる」という誓いの言葉は、サウルにとっては形式的な誓いの表現に過ぎなかったのです。彼は本当に「主は生きておられる」とは思っていない。あるいは正確に言うならば、そう思いたくないのです。「主が生きておられる」ことを否定したいのです。ですから、その誓いの言葉は簡単に破られてしまいます。サウルは再びダビデを亡き者にするために画策するようになりました。彼は発作的にダビデを槍で突き刺そうとしただけでなく、彼を殺すためにダビデの家に刺客を送り込んだのです。その時にはミカルの助けによって難を逃れたのでした。こうしてダビデはラマのナヨトにまで逃げていかなくてはなりませんでした。そこでまことに不思議な仕方でダビデが守られたことを私たちは見てまいりました。今日はその続きです。
ダビデはラマから戻るとヨナタンに会って問います。「わたしが、何をしたというのでしょう。お父上に対してどのような罪や悪を犯したからといって、わたしの命をねらわれるのでしょうか」(1節)。これに対してヨナタンは「決してあなたを殺させはしない」と答えます。しかし、これは直訳すると「決してそのようなことはない。あなたは死ぬことはない」と書かれているのです。話の流れからすると、明らかにヨナタンはサウルが誓いを破ったことを知らないのです。(「決してあなたを殺させはしない」と訳してしまうと、ヨナタンがサウルの殺意を知っていることになるので、適当ではありません。もはやサウルの殺意を確かめる必要はないので、今日の箇所に書かれていることは意味がなくなります。)
サウルが刺客まで送り込んでいるのに息子のヨナタンが全くこれを知らないということは驚きですが、ダビデが3節で指摘しているとおり、ダビデ殺害の計画をヨナタンに気付かれないように、サウルは細心の注意を払っていたものと思われます。ヨナタンとダビデの親しい関係を知っていたからです。ということで、ヨナタンは依然として父サウルが誓いを守るものと信じているのです。
それに対して、ダビデもまた主の御前に誓いを立て、確かにサウルに命を狙われていることを訴えるのです。「主は生きておられ、あなた御自身も生きておられます。死とわたしとの間はただの一歩です」(3節)。こうしてヨナタンは二つの誓いの狭間に立たされることになりました。ヨナタンはまだサウルを信じています。しかし、ダビデをも信じているのです。それゆえに、どちらが真実であるのか、確かめざるを得なくなりました
そこでヨナタンはダビデに「あなたの望むことは何でもしよう」と言います。そこでダビデが提案したことは、新月祭の食事にダビデが欠席するというものでした。もしサウルがひどく立腹するならば、ダビデに危害を加えようとしていることが分かるからです。そこでヨナタンもまた誓いを立てます。サウルがもしダビデに危害を加えようと決心していることが分かったら、必ずダビデに知らせることを誓うのです。「父が、あなたに危害を加えようと思っているのに、もしわたしがそれを知らせず、あなたを無事に送り出さないなら、主がこのヨナタンを幾重にも罰してくださるように」(13節)。
さて、このヨナタンの誓いは、ダビデとヨナタンとの関係がいかなるものであったかを示していると言えるでしょう。もしサウルが誓いを守る意思がないことが判明し、しかもヨナタンがこの誓いを守ろうとするならば、ヨナタンは極めて難しい状況に置かれることになります。つまりサウルがダビデを殺そうとしているのに、ヨナタンがそれでもなお主に対する誓いを守ってダビデを助けようとするならば、自らの命を賭けることになるでしょう。しかし、それこそがダビデとヨナタンとの関係だったのです。それは単なる愛情や友情という言葉で表現され得ないものです。それは繰り返し「契約」と表現されているのです。その契約は「主の御前で」(8節)結ばれたものに他ならないのです。
この世における自然な関係においては、常に相手が「私にとってどのような存在か」が問題になります。私にとって都合の悪い存在であれば、サウルにとってのダビデのように、抹殺の対象とさえなります。それは親子のような血縁関係でも同じです。子供はしばしば親にとって自分自身の延長でしかありません。サウルにとってのヨナタンもそうでした。サウルにとってヨナタンが王位を継承しないことは、自ら王位から退けられることに等しいのです。ですから来週読む箇所ですが、自分の延長であるヨナタンが自分の思い通りにならなければ、ヨナタンに対して槍を投げつけることさえするのです(33節)。親子でさえそうですから、ありとあらゆる関係において同じことが言えます。
一方、ヨナタンは自分自身のようにダビデを愛したと書かれていますが(18:1)、しかし、それはこの世の自然の関係としてではなく、主の御前における契約という形を取ったのです。すなわち「わたしとあなた」という直接的な関係ではなく、主が間におられる関係であるということです。「主がとこしえにわたしとあなたの間におられる」(23、42節)と語られているとおりです。主が間におられる関係においては、「私にとってどのような存在か」が重要なのではなく、相手が「主にとってどのような存在か」ということだけが重要となるのです。
さて、そのような主が間におられる関係、主の御前における契約の関係ということで思い起こされるのは、キリストの血によって立てられた新しい契約に基づく契約共同体でしょう。すなわち教会です。ここにいる私たちの関係です。私たちを本質的に結びつけているのは、この世における愛情や友情の類ではありません。もちろん、それらは大事ですが第一のものではありません。私たちは主の御前における契約によって結ばれているのです。私たちの間には主がおられるのです。ですから、「私にとってどのような存在か」が重要なのではなく「主にとってどのような存在か」が重要なのです。すなわち互いをイエスの血によって贖われた人として見て重んじるのです。
ダビデとヨナタンの間はそのような契約によって結ばれていました。ですから、一見すると驚くような言葉がヨナタンの口から発せられることになるのです。彼はダビデに言いました。「主が父と共におられたように、あなたと共におられるように」(13節)。この場合、「主が共におられる」ということは抽象的なことではなく、王位にあることを意味していると考えて良いでしょう。サウルはまぎれもなく神によって選ばれた王であり、神によって立てられた王であり、神が共におられたゆえに王であり得たのです。そして、「あなたと共におられるように」という言葉をもって、ヨナタンはダビデが王位を継承することを承認しているのです。
つまり、サウル王家は一代で終わり、ダビデ王家がこれに取って代わるということです。後にヨナタンはもっとはっきりとこのことを述べています。「恐れることはない。父サウルの手があなたに及ぶことはない。イスラエルの王となるのはあなただ。わたしはあなたの次に立つ者となるだろう。父サウルも、そうなることを知っている」(23:17)。これがダビデとヨナタンが交わす最後の言葉となるのです。
さらにヨナタンはダビデが王となる時に、ヨナタンが生きていても死んでいても、ヨナタンの家系に慈しみを断たないで欲しいと懇願します。古代世界において王朝が交替する時、前の王朝の家族が皆殺しにされるということは決して珍しいことではなかったからです。そうでなくては、現王朝が安定した基盤を持つことはあり得ないでしょう。ですから本来ならサウル王家は皆殺しにされる。しかし、ヨナタンは子孫を滅ぼさないで欲しいと今から願っているのです。ここからも、ヨナタンがダビデが未来の王となることを承認していることがわかります。
滅び行く王家の王子であるヨナタン。次に王位に着くことになるダビデ。この二人の関係は、この世的に見るならば、とうてい共に立ち得ない厳しい関係です。しかし、そこに肉親との交わりよりも麗しい交わりが存在していたのです。それは主の御前における契約のゆえでした。まさにそれは主によってのみ成り立つ交わりでありました。主の食卓を囲む教会の交わりとは、本来そのようなものであることを改めて考えさせられます。
2025年10月12日日曜日
「神は公平?不公平?」
聖書:マタイによる福音書 20:1-16
風変わりな主人
今日お読みしたのは、イエス様の「天の国」のたとえです。天の国の話の中で「主人」が出て来たら、それは神様のことです。神様はどのような御方かを教えているたとえ話です。
主はこのように語り始めました。「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った」(1‐2節)。ここに描かれているのは、ぶどうの収穫時期に見られる、ごくありふれた風景です。
収穫の時期には多くの労働者を必要とします。雨期に入るまでの短い期間に収穫を完了しなくてはならないからです。そこでぶどう園の主人は、できるだけ多くの良い労働者を得るために、夜明けと共に出かけました。日雇いの労働者が集まる広場へと向かったのです。彼は元気に働きそうな人々を見定め、それぞれに一日一デナリオンの賃金を約束して雇い入れました。これは当時の日当の相場であり、極めて常識的な契約です。ここまでは、どこにでもいそうな農園の主人の話です。
しかし、ここから先になりますと、この主人は少々奇妙な行動を取り始めます。彼はわざわざ朝早くに出かけて行って、必要な労働者を雇ったはずではありませんか。ところがこの主人は再び九時頃、広場へと向かうのです。そこで仕事にあぶれた人たちを見つけます。彼はその人たちにも相応しい賃金を約束して雇い入れました。よほど豊作で人手が足りなかったのでしょうか。しかし、それにしても、十二時頃、三時頃にまた出かけていき、ついには五時頃にもう一度広場に行くという行動は理解できません。明らかに常軌を逸しています。五時頃雇って、僅か一時間ばかり働かせて、いったい何になるというのでしょう。
このようにこの主人は、まるで農園の収穫のためではなく、労働者を招いて雇い入れること自体が目的であるかのように振る舞うのです。そのためにせっせと足繁く広場に足を運ぶのです。まことに風変わりな主人であると言わざるを得ません。
しかし、話はそれで終わりません。物語はさらに異常な展開を見せることになります。「夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った」(8節)。これだけ見てもおかしな話です。一日中暑い中を辛抱して一生懸命働いてきた最初の者たちをまずねぎらって賃金を払ってやるのが筋というものでしょう。
しかも、この主人はわずか一時間しか働かなかった者に対して一デナリオンも払ってやったのです。よほど気前の良い主人だと思いきや、そうではなくて最初の者にも支払ったのは一デナリオンだけでした。どう考えても不公平です。
当然、最初に雇われた者たちは不平を言いました。「『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは』」(12節)。最初の者たちが怒るのも無理ないでしょう。
これが天の国のたとえです。天の国の主人、神様の描写です。まことに風変わりな主人であると言わざるを得ません。しかし、考えて見ると、イエス様の話に変わった主人が登場するのは、何もこの話だけではありません。二週間前にお読みした箇所にも、一万タラントン(今のお金に換算すると約六千億円)の借金を帳消しにしてやった王様が出て来ました。無茶苦茶な話です。
イエス様は、このような変な人が登場する話を「天の国のたとえ」として語るのです。要するに《神様は変な方だ》と言っておられるのです。「神様はあなたたちが常識的な頭で思い描くような神様ではないのだ」と言っておられるのです。
神様は、まる一日暑さを辛抱して一生懸命働いた者にも、わずか一時間ばかり夕暮れの涼しい時に働いた者にも、同じものを与えられる神様だというのです。一生懸命仕えた者にも、そうでない者にも、同じものを与えられる神様だというのです。神様のために一生を捧げて労苦した人も、ほとんど神様のために何もしてこなかった者も、最終的に受けるものは変わらないのだというのです。
五時からの労働者
「ならば、人生好き勝手に生きて、最後の部分でちょこちょこっと神様に仕えて、それで同じものをいただいた方が良いではないか」――そんなふうに思う人がいても不思議ではないでしょう。しかし、そのようなつまずきに満ちた話をイエス様はあえてなさるのです。なぜでしょう。それは「まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたち」と思っている人がたくさんいたからです。さらには「最後に来たこの連中は!」という目で他の人を見ている人がたくさんいたからです。
そんな人物が先週読んだ聖書箇所にも出てきました。金持ちの青年です。彼はイエス様の所に来ていいました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」こういう質問というのは、自分がある程度、善いことを積み重ねてきたと思っていなければ出て来ません。案の定、イエス様が、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい』」と律法の一部を列挙すると、彼は言うのです。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」
そのように、「わたしはやってきました!」と自信を持って言える彼でした。明け方に雇われ、明け方から一日汗水流して働いてきた者の意識です。しかし、そんな青年にイエス様はこう言われたのです。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」。金持ちの青年はこの言葉に打ちのめされて帰っていきました。
しかし、そこで、さらに輪をかけて「わたしはやってきました」と思っている人物が口を開くのです。ペトロです。彼は言いました。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従ってまいりました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(19:27)。実は、そのように思っていたのはペトロだけではなかったのです。弟子たちの間では、いつでも「誰が一番偉いのか」という議論が絶えなかったのですから。「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」(18:1)と。
そこにあるのは「わたしはやってきました」という者たちの争いです。「わたしは認められるべきだ。わたしは報いられるべきだ」という者たちの争いです。互いを比べ合っての争いです。
それはある意味でとても分かりやすいと言えます。私たちも現実に、そういう世界に生きていますから。労苦は比較されるのです。功績は比較されるのです。まる一日、暑い中を辛抱して働いた人たちと最後に来て一時間しか働かなかった連中は比較されるのです。それがこの世界では当然のことなのです。だから、私たちにとって、最初に雇われた人たちの不平もたいへん分かりやすい。そういう世界に生きていますから。
しかし、このたとえ話によって、私たちはお互いの比較の世界から、絶対的な神の御前に引き出されるのです。このたとえ話の主人は言うのです。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか」と。これが答えなのです。この話は、そのような主人の話なのです。そのような神の話なのです。神の御前にいるということは、そのような絶対的な神の主権の前に身を置いているということです。私たちが礼拝の場所に身を置いているとはそういうことなのです。
そして、そのような礼拝の場においてこそ、人は神の恵みをも知ることができるのです。「自分のものを自分のしたいようにしては、いけないのか」と言われる主人はまた、こう言っていましたでしょう。「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」。神がしたいようにされるのです。恵みたいように恵まれるのです。
私たちにも一デナリオンをくださる
そして、このたとえにおいて語られているような、絶対的な主権をもって恵まれる神こそ、私たちに救い主イエス・キリストをお送りくださった神であり、私たちをも救ってくださる神なのです。
考えてみてください。そもそも話は、あの青年の質問から始まっていたのです。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。ならばこの1デナリオンが本来指し示しているのは、永遠の命であり天の御国における救いであるはずです。
であるならば、どうでしょう。自分の働きの報酬として、永遠の命を要求できる人などいるのでしょうか。私はそれを得るために十分な働きをしてきましたと言える人はいるのでしょうか。私こそ天の御国にふさわしいと言える人などいるのでしょうか。いないだろうと思うのです。私たちは時として、神様のために大層なことをしてきたかのように思い上がっているかもしれませんが、実際には、この《最初に雇われた人》の位置に自分を置いてこの話を読める人など、一人もいないはずなのです。
この話を読む時に、私たちが本来身を置くべきところは、この「五時ごろに雇われた人たち」のところです。皆さん、私たちは皆、やがて本当に知る時が来るのです。私たちが本当は「五時ごろに雇われた人たち」であることを知ることになるのです。本当は神様のために何もできていなかった。いやそれどころか、神様の心を痛めるようなことしかしてこなかった自分であることを知ることになるのです。
その時に、私たちは神の恵みの大きさをも知ることになるでしょう。あの主人が何度も広場へと足を運んだように、神様が人間を神のぶどう畑へと招くために労苦して、手を尽くしてくださり、最後には落ちていた石ころを拾い上げるかのように、こんな私たちをも拾い上げ、ぶどう園へと招いてくださった。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」と言ってくださった。既に1デナリオンを用意して!
そして、この天の国のたとえに語られていることが起こるのです。天の父なる神が、五時に雇われた労働者である私たちに、1デナリオンをくださるのです。私たちは、見合うようなことは何もしていないのに、天の父が1デナリオンをくださるのです。その時私たちは驚きをもって心の底からこう叫ぶことでしょう。「わたしたちは神の恵みによって救われました」と。
2025年10月8日水曜日
祈祷会用:サムエル記上 19:1~24
サムエル記上 19:1~24
サウルはミカルを与えるとの約束をもってダビデに無理な戦いを強い、自分で手を下すことなくペリシテ人の手によってダビデを殺害しようと試みました。しかし、その試みは失敗に終わったのみならず、ミカルを与えざるを得なくなったことで、かえってダビデを王位継承権を持つ一人にしてしまうという皮肉な結末となったのです。しかもその戦いによってダビデの名声はいよいよ高められることとなりました。
追い詰められたサウルはついに直接息子のヨナタンと家臣とにダビデ殺害を指示するに至ります。もちろんイスラエルの人々はダビデを慕っているわけですから、公に殺害するわけにはいきません。あくまでも内部の人間だけに出された極秘の命令ということだったのでしょう。もはやダビデの命は風前の灯でした。
しかし、命を狙われたダビデは、まさにその内部の人間によって、すなわちヨナタンによって、また妻のミカルによって助け出されることになるのです。そして、さらには不思議なことに、もはや政治的・軍事的な力は何も持たなくなっていた、あのかつての士師サムエルによって、ダビデの命は守られるのです。それがこの章に記されている出来事です。
サウルが息子のヨナタンにもダビデを殺すよう命じたところをみると、この時点において、サウルはまさかヨナタンがダビデの側につくことを予想してはいなかったものと思われます。どんなにヨナタンがダビデと親しかったとしても、ヨナタンはあくまで王位継承第一位にある王子だったからです。サウルは、もちろん自分の王位が脅かされることについて恐れてはいたに違いありませんが、それにもまして、ダビデの殺害は息子のためであるという思いが強かったことでしょう。ダビデが勢力を持てば、ヨナタンの王位継承が脅かされることになるからです。それは後に20:21でサウルが語っているとおりです。
しかし、ヨナタンはダビデの側につきました。彼はダビデの命が狙われていることを本人に知らせます。「わたしの父サウルはあなたを殺そうとねらっている。朝になったら注意して隠れ場にとどまり、見つからないようにしていなさい。あなたのいる野原にわたしは出て行って父の傍らに立ち、あなたについて父に話してみる。様子を見て、あなたに知らせよう」(2‐3節)。
そして、さらに自らはサウルの説得にまわります。ダビデは何ら死に値する罪を犯してはいないこと、むしろサウルにとって大変役に立っていること、などの理由を挙げて、そのダビデを殺害することは罪を犯すことになると、ヨナタンは父サウルに忠言したのです。
驚いたことに、サウルは素直にヨナタンの言葉を聞き入れます。ヨナタンがダビデをかばう場面は20章にも出てきますが、19章と20章では、その反応が著しく異なります。この時点では、ヨナタンがダビデをかばって語ることは、サウルにとってはまったく想定外の意表を突く出来事だったからかもしれません。また、ここはヨナタンの手前、一度命令を引っ込めておいた方が有利であると考えたのかもしれません。後でヨナタンに知られないような形でダビデを確実に亡き者にしようとしたのでしょう。
しかし、そこにいかなる思惑があったにせよ、ここでサウルがヨナタンの言葉を聞き入れて、とにかくも「主は生きておられる。彼を殺しはしない」と誓ったことは極めて大きな意味を持っています。「主は生きておられる」というのは、誓約する時に用いる定型的な決まり文句です。その意味するところは、誓いをもし破ったら、生きておられる主が幾重にも罰してくださってよいという意味です。すなわち、主によって呪われてもかまわないという意味です。
ここで確かにサウルはそのように語っているのです。しかし、そのような伝統的な言葉は、彼にとってあくまでも形式でしかありません。本当の問題は、サウルにとって、主は「生きておられる主」ではないところにあるのです。その問題性は、既に前の章でサウルがダビデに「主の戦いをたたかってくれ」(18:17)と言っているところにも現れております。サウルはそれが「主の戦い」であるとは思っていないのです。いや、思いたくないのです。むしろ「主の戦い」であることを否定するためにそう言ったのです。「主の戦い」に出て行ったダビデが戦死すれば、主が介入される「主の戦い」であることを否定できるからです。
そのようなサウルの誓いの言葉ですから、いとも簡単に破られてしまいます。サウルに悪霊が降った時、サウルは自らの手でダビデを殺そうとしました。そして、誓いを破ったから主から罰せられるとは思っていないのです。あるいはまだ殺してはいないから、厳密には破ってはいないという言い訳もあったかもしれません。いずれにせよ、誓ったことを反故にしたことについては、全く意識にも上らないのです。
一方、ダビデの方はと言えば、驚いたことに、サウルの誓いをそのまま信じて職務に戻るのです。ダビデは、かつて自分が殺されそうになったサウルの館で、再び彼の傍らにおいて竪琴を奏でます。単なる形式に過ぎない「主は生きておられる」という言葉は、ダビデにとっては、いわば命のかかった言葉でありました。彼は、「主は生きておられる」という言葉に命がけの信頼を置いて職務に戻ったと言えるでしょう。結果的には再び槍で突き刺されそうになります。しかし、生ける主はダビデを守り通されるのです。
重要なことは、誓ったサウルが本当に「主は生きておられる」と考えていたかどうかではありません。事実として、主が生きておられるのか否かが重要なのです。そして、生きておられる主は、確かにサウルの言葉を聞いておられたのです。また、ダビデがサウルの誓いの言葉を、まさに誓いの言葉として受け取って、主に信頼して職務に戻ったことを見ておられたのです。そうです、人間が認めようが認めまいが、主は生きておられるのです。人はその事実をこそ恐れるべきなのです。
結果的にはダビデは再びサウルの槍を逃れることとなり、即座に自分の家に戻ります。サウルはダビデの家に使者を遣わして彼を見張らせました。朝になったら捕らえて殺すためでした。民衆に知れないように、秘密裡に殺害しようと企んだのです。しかし、ミカルは家を見張るサウルの使者に気付いたのでしょう。ダビデを夜のうちに逃がします。
ちなみに、詩編59編には「サウルがダビデを殺そうと、人を遣わして家を見張らせたとき」という表題が付いています。この詩編は夜逃げをしたあのダビデの中に神への揺るぎない信頼を見て、その信仰を歌い上げているものです。一方では主に信頼して多くのペリシテ人に立ち向かう戦う人ダビデがいます。一方では、ただ逃げるしかない逃亡者ダビデがいます。しかし、聖書はそこに同じ信仰を見ているのです。
ダビデはどこに向かったのでしょうか。ラマのサムエルのもとに行きました。彼は預言者の間においては指導的な立場にいたようですが、先にも申しましたように、政治的な力はとうに失っておりました。そこにダビデを守ることのできる武装集団がいたわけでもありません。彼がサムエルのもとに赴いたということは、かつて自分に油を注いでくださった主をただひたすら純粋に慕い求めたということでしょう。それ以外にサムエルのもとに赴く理由はありませんから。
そしてダビデの信仰に主は応えてくださいます。主ご自身が直接的にダビデを守られた次第がここには大変ユーモラスに描かれています。サウルはラマのナヨトに使者を遣わします。すると、神の霊がサウルの使者の上に降って預言する状態、すなわちいわば恍惚状態になったのです。ダビデを殺害するために来たものがむしろ神に捕らえられてしまったということでしょう。そのようなことが三度続きまして、ついにサウル自身がラマに向かいます。
そこでサウル自身にも神の霊が降り、預言する状態になったまま、ラマのナヨトまで歩き続けます。彼は、一昼夜、サムエルの前に裸のままで倒れておりました。そのゆえに「サウルもまた預言者の仲間か」ということわざができました。
このことわざには見覚えがありますでしょう。10章12節です。それはサウルに初めて神の霊が降ったときのことでした。神の霊が降り、王として備えられつつあった、祝福に満ちた時が、かつてこの人にもあったのです。しかし、今や、その預言する状態にある姿は同じでありましても、そこにいるのは必死で自分の王位にしがみつき、王位を脅かすものをなんとか抹殺しようとしているサウルでしかないのです。主の祝福の中に留まり得なかった者の悲哀に満ちた姿がそこにあります。
2025年10月5日日曜日
「神に愛されている子どもたちとして」
2025年10月5日 主日礼拝説教
聖書:マタイ19:13‐26
永遠の命を得るには
一人の男がイエス様のもとに来てこう尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)。
この男は何者でしょう。22節では「青年」と呼ばれています。また、「たくさんの財産を持っていた」(22節)とも書かれています。他の福音書によれば、彼は最高法院に議席を持つ「議員」でもあったようです。彼はユダヤ人として、モーセの律法については、「みな守ってきました」(20節)と言っています。そのような言葉に、彼の生い育ってきた家庭環境が伺えます。ユダヤの伝統的な堅実な家庭に育ち、敬虔な父母のもとにあって、幼い時から良い宗教教育を受けてきた人なのだと思います。
ある意味では、人々が望む多くのものを既に手にしていた人でした。彼には若さがありました。財産もありました。地位も名誉も得ていました。良い家庭環境にも恵まれていました。このような人を世の中では幸福な人と呼ぶのでしょう。
しかし、彼のはわかっていたのです。この世で目にするもの、手にするものが全てではない。どんなに良いものであっても、それはみな過ぎ去るものだ。本当に良きものはまだ見ていない。まだ手にしていない。本当の喜びをまだ私は知らない。本当の幸福をまだ私は知らない。味わっていない。それは天において神によって、過ぎ去らない永遠なるものとして備えられている。――それを聖書は「永遠の命」と表現するのです。彼はまだ見ていない、手にしていない、味わっていない、神が与えてくださる完全な救い、「永遠の命」を求めてやまなかったのです。
その「永遠の命」を得るにはどうしたらよいのか。彼はその答えを求め続けてきたのでしょう。そして、そのような彼の前に、ナザレのイエスと呼ばれる人物が現れたのです。このラビは他のラビとは全く違う。この先生こそ、答えを持っているに違いない。ついに彼は意を決して、イエスのもとを訪ねました。彼は勇気を振り絞って、一つのことを問うためにやってきたのです。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。
しかし、驚いたことに、イエス様の口から返ってきたのは何ら特別な答えではありませんでした。「もし命を得たいのなら、掟を守りなさい」(17節)。そして、イエス様は挙げられたのは、十戒のいくつかと、レビ記の言葉だけでした。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」。――そんなことなら、どこのラビでも言いそうなことです。しかし、この人は、なんとかして本当の答えをイエス様の口から引き出そうと粘ります。彼は言いました。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか」。
この人は本当に知りたいのです。何をしたらよいかを知りたいのです。どんな善いことをしたらよいかを知りたいのです。涙が出るほど真面目な人です。しかし、その人に対して、イエス様はこう言われたのでした。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」(21節)。イエス様の言葉はこの青年の肺腑をえぐりました。この青年は、もうそれ以上主に問うことなく、悲しみながら立ち去って行きました。
よりによって、この裕福な青年にとって最も行うことが困難であると思えることを、あえて主は求められたのです。彼に対する意地悪でしょうか。いいえそうではありません。マルコによる福音書では、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」(マルコ10:21)と書かれているのです。意地悪ではない。彼を愛するが故に言われた言葉でした。では、イエス様の意図はどこにあったのでしょう。
「善いこと」ではなく「善い方」
そこで私たちはもう一度、青年とイエス様との対話の最初に戻りたいと思います。この人がイエス様に尋ねました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」。それに対して、イエス様はすぐに「どうしたらよいのか」を答えておられないのです。その前に奇妙な一言が置かれているのです。
「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである」(17節)。――変だと思いませんか。この人は「善いこと」について尋ねているのです。それに対してイエス様は「善い方はおひとりだ」と言われる。明らかに食い違っています。しかし、この食い違いこそが決定的に重要なことを示しているのです。
この人は為すべき「善いこと」に関心があるのです。なぜですか。その「善いこと」をもって「永遠の命」を得ようとしているからです。言い換えるならば、神様と取り引きをしようとしているからです。自分の行う「善いこと」をもって、いわば「永遠の命」を買おうとしているのです。「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」とは、そういうことです。
しかし、イエス様は、「どんな善いことをすればよいのか」を教えるために来られたのではないのです。神様との効果的な取り引きの仕方を教えるために来られたのではないのです。そうではなくて、ただひとりの「善い方」を指し示すために来られたのです。私たちが、ただひとりの「善い方」と共に生きるようになるために来られたのです。
神が「善い方」だということは、言い換えるならば、私たちを愛していてくださる、愛なる御方だ、ということです。神は私たちを愛して、本当に善きものを豊かに与えたいと思っておられる。本当の喜び、本当の幸い、完全な救いを与えようとしておられる。永遠の命を与えようとしておられる。そのためには独り子さえもこの世に遣わされ、罪の贖いとして十字架にだっておかけになる。――「善い方」であるとは、そういうことです。そのような「善い方」である神を私たちが知り、そのような神の子どもたちとして、「善い方」共に生きるようになるために、イエス様は来られたのです。
この青年にも、自分の為しえる「善いこと」ではなく、「善い方」の方に向いて欲しかったのでしょう。だからあえて主は、この人にできそうもないことを言われたのです。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」(21節)。神様との取り引きを推し進めて行くならば、ここにまで至るのです。
自分で買おうと思うならば、全額支払わなくてはならない。いや、たとえ全財産を売り払って、貧しい人々に施したとしても、それで永遠の命が買えるわけじゃない。ですからイエス様は「そうすれば永遠の命を得られる」とは言われませんでした。「そうすれば、天に富を積むことになる」と言われただけです。神の救いは、人間の善い行いで買えるほど安物ではないのです。
そうではなく、救いは「善い方」からの一方的な恵みとして来るのです。大事なのは、神様が「善い方」だと知ることなのです。「善い方」を信じることなのです。「善い方」と共に生きて行くことなのです。
この話の直前には、イエス様が子供たちを祝福したという話が出ていました。イエス様はその時こう言われました。「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである」(14節)と。子供たちは神様と取り引きなどしないのです。「これだけのことを神様のためにしました」と胸を張ったりしないのです。
ただイエス様によって手を置いてもらって、神様に愛されていることを思いながら喜んでいる子供たち。目に見えるようではありませんか。こんな風に、私たちも「善い方」に信頼して、すべてを善意で満ち溢れている神の御業として受け取りながら、「善い方」の子供たちとして共に生きていくことこそ大事なのでしょう。
それが私たちに与えられている信仰生活なのです。週毎に集めていただき、共に礼拝をささげ、共に聖餐にあずかり、神に愛されている子供たちとしてこの世界に出て行く。そして、どこにあっても、どのような状態に置かれても、一日一日「善い方」と共に生きて行く。そのような生活が既に与えられているのです。
あの青年が悲しみながら立ち去った時、イエス様は弟子たちにこう言われました。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(23‐24節)。
「金持ち」とありますが、これは「富んでいる者」という言葉です。ですから、何も財産のことだけではありません。むしろこの人の場合、神様と取り引きができるくらい富んでいたのは、小さい頃から積み重ねてきた律法の行いと善行だったのかもしれません。彼はそれを手放して、何も神様に差し出すものがない、あの子供たちのようになる必要があったのです。そこでこそ、イエス様がこう言われた言葉が意味を持つのです。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」。そうです。神様にはおできになる。人間を救うことも、永遠の命を与えることもおできになる。そして、神様はそうしてくださる。神様は善い方だから。
そして、本当に私たちが為すべき「善いこと」というのは、「善い方」と共に生きる生活から生み出されてくるものなのです。本日の第2朗読にもありました。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい。キリストがわたしたちを愛して、御自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい」(エフェソ5:1‐2)。
そのとき、ある場合には、イエス様が言われたように、全財産を処分して貧しい人々に施すということももしかしたら自発的に起こってくるかもしれない。様々なものを主の御名のために捨てることも起こってくるかもしれない。そのとき、その「善いこと」は、もうそれは、神との取り引きの代金などではないのです。
2025年10月1日水曜日
祈祷会用:サムエル記上 18:17~30
サムエル記上 18:17‐30
前回見ましたように、ダビデの台頭は兵士たちやサウルの家臣をはじめ、イスラエルの多くの人々に好意的に受け入れられました。しかし、そのような中でサウルだけはダビデへの敵意を募らせていきました。その敵意はついに具体的な行動として現れ始めます。はじめは発作的に槍を振り上げるというものでしたが、次第にそれはエスカレートし、本日の箇所に見るように、策略を用いてダビデを抹殺しようと企てるに至ったのです。
そのように、もはやイスラエルにとってなくてはならない存在であり、サウルにとっても極めて有用な家臣であったはずのダビデを亡き者にしようとサウルが躍起になっていたのは、単なるねたみからではありませんでした。サウルの行動の根にあったのはダビデに対する「恐れ」だったのです。この章にはそのことが繰り返し語られているのです。
ダビデが単に優秀な軍人であっただけならば、そこまで恐れることはなかったでしょう。サウルがダビデを恐れたのは、ダビデが信仰の人であったからに他なりませんでした。既に17章に見てきたように、ダビデは主に信頼して出て行って、ゴリアトとの戦いを「主の戦い」として戦い、打ち取ることなどできようはずもないゴリアトに打ち勝ち、その首を携えて帰ってきたのです。いや、それだけではありません。サウルが派遣する度にダビデは先頭に立って出陣したのです。すなわち、恐れることなく主に信頼して戦いに出て、事実、主の名によって勝利を得て帰ってきたのでした。
そのようにして、サウルは主がダビデと共におられることを、もはや否定しようにも否定できなくなりつつありました。だからこそ彼はダビデを恐れざるを得なかったのです。彼はきっとサムエルの言葉を思い起こしていたことでしょう。「主は御心に適う人を求めて、その人を御自分の民の指導者として立てられる」(13:14)。(こいつが、「主の御心に適う人」だと言うのか。この男に王座を渡さなくてはならないのか。)サウルはそのことを考えざるを得なくなりました。
それはまたサウルがある意味で岐路に立たされたことを意味します。彼が恐れから解放されるためには二つに一つしかないのです。一つは主に服従する道です。主がダビデと共にいることを認めて、ダビデを受け入れ、王座を引き渡す準備をすることです。サムエルの言葉を受け入れ、自分の罪を認め、主の言葉に従い、主に服従して生きていくことです。彼は王ではなくなるかもしれませんが、それでもなお神の民の一人として生きていくことはできるでしょう。
しかし、もう一つの道があります。あくまでも主がダビデと共にいることを否定する道です。そのためには、そもそもの「主の戦い」という概念そのものを否定しなくてはなりません。それを古き伝統として葬り去らねばなりません。すなわち、神の介入があることなど認めないことです。人間の力関係がすべてを決定するのだということを証明してみせることです。
もはや「主の戦い」を語る時代ではない。主に信頼して勝利を得るなどと語るべき時代ではない。なぜならイスラエルは既に王と軍隊を擁する王国となったのだから。――もし本当にそう言い切ることができるなら、もはや恐れる必要はないのでしょう。
そして、サウルは後者の道を選んだのです。サウルはダビデに次のように語りました。「わたしの長女メラブを、お前の妻として与えよう。わたしの戦士となり、主の戦いをたたかってくれ」(17節)。その真意はその後に説明されています。「サウルは自分でダビデに手を下すことなく、ペリシテ人の手で殺そうと考えていた」。
そうです、彼はダビデに「主の戦いをたたかってくれ」と言ったのです。そのようにしてダビデが出て行って、「主の戦い」においてペリシテ人に殺されることになればどうでしょう。主がダビデと共におられることを完全に否定できるでしょう。それこそ「主の戦い」そのものを否定できるのです。これまでのダビデの勝利は「主の戦い」による勝利などではなかった。単なる幸運が重なっただけだ。そう言って納得することができる。こうしてダビデをも主をも恐れる必要なくなります。安心して王であり続けることができるのです。
さて、こうして見てきますとサウルの心境はとてもよく理解できるような気がします。誰にでも覚えがあるのではないでしょうか。人が神に背いているならば、神の存在がリアルに立ち現れてくることは、喜ばしいことではないのです。身の回りの出来事に、神のリアリティを感じることほど恐ろしいことはありません。その時、人はどうするのでしょうか。神の御前に悔い改めるか、それとも神のリアリティを否定するしかないのです。「これは偶然なのだ。神がなさったことなどではないのだ」と自分なりに納得するしかないのです。
しかし、サウルの思惑とはうらはらに、ダビデは千人隊の長として先頭に立って出陣しても、戦死した遺体となって帰って来ることはありませんでした。人は自分に都合が悪ければ、いくらでも神の介入を否定しようとするのです。そして、認めないための理屈はいくらでも言うことはできる。しかし、人が否定しようが何しようが、神は生きておられるのです。主は自らを歴史の中に現わされ、現実の世界の中に現わされるのです。
ダビデは生きて帰ってきました。しかし、ダビデはメラブを要求しませんでした。それは古代社会において一般的であった結納金の問題があったからでした。王の娘を娶るとなれば、莫大な結納金が必要となるのです。ダビデがメラブを要求しないのをいいことに、サウルはメラブを他の者に嫁がせました。メラブをダビデに与えることは、「主の戦い」を認めることになるからです。ダビデが確かに「主の戦い」を戦い、主がダビデと共にいたゆえに勝利したことを、サウル自ら認めることになる。それはできませんでした。サウルはこれが「主の戦い」による勝利であることを認めることをあくまでも拒否したのです。
とはいえ、約束を破ってメラブを他の男に嫁がせて、「主の戦い」を拒否したからと言って、サウルの問題が解決したわけではありません。サウルはなんとしてもダビデを抹殺しなくてはなりませんでした。するとある者が、サウルの娘ミカルがダビデを愛していることをサウルに告げたのです。これは好都合です。サウルはもう一度、ペリシテ人の手でダビデを殺すことを企てます。サウルは家臣を用いて、次のことをダビデの耳に入れました。「王は結納金など望んでおられない。王の望みは王の敵への報復のしるし、ペリシテ人の陽皮百枚なのだ」(25節)。
陽皮とは男性生殖器の包皮であり、割礼において切り取られる部分です。ペリシテ人は割礼を受けていません。繰り返し「無割礼の者」と呼ばれているとおりです。つまり、陽皮百枚ということにおいて、間違いなく「ペリシテ人」を百人討ち取ったことを証明することになるのです。恐らくは、その期間が定められていたのでしょう。短期間に多くの者を討ち取ろうとするならば、当然激戦を身に招くことになります。いくらダビデといえども、今度は必ず戦死するに違いないとサウルは考えたのです。
しかし、ダビデは何日もたたないうちに、サウルの要求に倍する二百人を討ち取って、その陽皮を持ち帰ったのです。この度は家臣が関わっております。そして、条件が満たされたことが公に証明されてしまった以上、家臣たちの手前、無為に約束を破棄することもできません。サウルはミカルをダビデに妻として与えざるを得なくなりました。
しかも、娘であるミカルはダビデを愛しているのです。かつて好都合と思えたことが、今やサウルの苦しみに追い打ちをかけることとなったのです。そして、何よりサウルにとって大きなことは、主がダビデと共におられることを、ますます否定することが困難になったということです。
このように、ダビデを抹殺しようとしたサウルの目論みは実に皮肉な結果をもたらしました。ミカルを妻として与えたことにより、ダビデを、王位継承権を持つ一人としてしまったのです。しかも、このダビデの勝利は、彼の名声をますます高めることとなりました。サウルはいよいよ追いつめられることとなるのです。
神御自身が生きて働き給うリアリティは、人間がいくら否定しようと試みても、このように追い迫ってくるのです。繰り返しますが、そこにおいて人は二通りに分かれざるを得なくなります。人間の側が降参し、自ら悔い改めて神の前に自分を投げ出すのか、それとも神のリアリティを認めつつも、なおもそれを否定し神の御業を抹殺するために戦いを展開するのかです。そして、サウルはさらに後者の道を行くことになるのです。