2019年12月22日日曜日

「闇の中に輝く光」

ヨハネ1:1-14

 「光は暗闇の中で輝いている」。先ほど朗読された福音書の中にそうありました。「光は暗闇の中で輝いている」。また、こうも書かれていました。「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである」。

 すべての人を照らす光が世に来ました。その光が既に輝いているならば、もう真っ暗闇ではありません。もう恐れる必要はありません。私たちがクリスマスを祝うのは、光が既に輝いているからです。もちろん、光の到来ということで、聖書はイエス・キリストについて語っているのです。

言は肉となって、わたしたちの間に宿られた
 イエス・キリストの誕生の次第については、マタイによる福音書とルカによる福音書に詳しく書かれています。その物語は、先週の日曜日の礼拝後にページェント(聖誕劇)として上演されました。ところがこのヨハネによる福音書には、キリスト誕生にまつわる物語がありません。天使ガブリエルもマリアも、ヨセフも羊飼いたちも登場してきません。しかし、その代わりに、キリストの誕生が次のような短い言葉で表現されています。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(14節)。

 この短い言葉の中に、キリスト誕生の物語の全てが、さらにはイエス・キリストの御生涯の全てが言い表されていると言えます。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。この「言」とはキリストのことです。その直後に「父の独り子」と言い換えられています。父なる神の独り子であるキリストです。そのキリストが、神の御子が、「肉となった」。それは「人間となった」ということです。

 しかし、聖書はあえて「人間となった」と言わずに「肉となった」と表現しています。「肉となった」とは実に強烈な表現だと思います。「人間」であることが「肉」と表現される時、そこには肯定的な喜ばしい響きはありません。そこには私たち自身がしばしば感じていることが表現されているとも言えるでしょう。

 私たちがこの世界に目を向ける時、人間が織りなすこの社会の諸相に目を留める時、私たちは人間であることを肯定的に喜ばしいこととして語ることが困難になります。この世に生きている自分の有様を見つめる時、私たちはしばしば人間であることを肯定的に喜ばしいこととして語ることが困難になります。私たちが繰り返し向き合わされる現実、それが「肉」であるということです。

 聖書は「肉」としての人間を、ごまかすことなく美化することなく、そのまま表現している書物です。それは旧約聖書を少しでも読んだことのある人ならば分かると思います。なぜこんなことまで書いてあるのか、と言いたくなるような、読むのをやめてしまいたくなるような、耳を塞ぎたくなるような物語が赤裸々に語られている。それが聖書です。

 そのような旧約聖書の中に詩編という書物がありますが、その詩編の中である詩人が次のように語っています。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください」(詩篇130:1)。この「深い淵」という言葉は聖書に幾度も出てくる言葉ですが、原文では「深い深み」という言葉です。その深い深みのどん底から神に向かって叫んでいるのです。

 その詩編には人間が「肉」であることがどういうことか、良く言い表されています。彼は神に向かって呼びかけ叫びながらもこう語るのです。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐え得ましょう」(同3節)。そこにあるのは、神の御前では全てが明らかであるという認識です。言い換えるなら、神の御前では、すべての人が罪人だという認識です。彼のいる「深い淵の底」――その深さというのは神との隔たりです。人間の罪がもたらした神との隔たりです。

 その意味において、深い淵の底で叫んでいるのは特別な人ではありません。すべての人が叫んでいるかどうかは別として、すべての人が罪のもたらした深い淵の底にいると言えるのでしょう。その深い淵の底にあって泥だらけになってもがいている姿こそ、聖書が描き出している私たち人間のリアルな姿です。私たちが「肉」であるとはそういうことです。

 しかし、聖書はそのような「肉」である私たちの姿をありのまま語るだけではなく、もう一つの事実を伝えているのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。

 キリストが、その深い淵の底にまで下りてきてくださった。高いところから、深みの外から、「そんなところにいてはならない。上がってきなさい」と命じているのではないのです。そうではなくて、いわば穴の底で泥だらけになってもがいている私たちと一緒に泥だらけになってくださったのです。私たちを救うために、あえて泥の中に沈んでくださったのです。「言が肉になって、わたしたちの間に宿られた」とはそういうことです。

恵みと真理とに満ちていた
 そして、ヨハネは言葉を継いで次のように語ります。「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」ヨハネはキリストの弟子として、約三年半の間寝食を共にしました。そのヨハネはその御方を思い起こしてこう語るのです。「わたしたちは、父なる神の独り子としての栄光を見たではないか」と。父なる神の独り子としての栄光を見たということは、言い換えるならば「神を見た」ということです。

 ヨハネはその御方の中に神を見たのです。人間と同じ深い淵の底で泥だらけになってくださった姿の中に神を見たのです。この世にある一人の人間として、罪に悩む者の傍らに立ってくださった御方の中に、神を見たのです。病に苦しみ、希望を失っている者の傍らに立ってくださった御方の中に、神を見たのです。愛する者を亡くして嘆き悲しむ者と共にたたずみ、一人の人間として涙を流された、そういう御方の中に、神を見たのです。

 そして、最終的に罪人として断罪され十字架にかけられた方の中に、彼は神を見たのでした。鞭打たれ、人々に嘲られ、唾をかけられ、殴られ、ボロボロにされ、そして十字架にかけられたその御方、その惨めなキリストの姿、栄光とはほど遠いその姿――その姿の中に、神を見たのです。深い淵の底に共にいてくださる神とその栄光を見たのです。

 そして、その栄光は「恵みと真理に満ちていた」と言って思い起こすのです。「恵みと真理に満ちていた」というのは、少々分かりにくい言葉ですが、ヨハネが念頭に置いていたのは旧約聖書に出て来る「慈しみとまこと」という言葉だと思われます。たとえば詩編の中にこんな言葉があります。「主よ、あなたは情け深い神/憐れみに富み、忍耐強く/慈しみとまことに満ちておられる」(詩編86:15)。このように「慈しみとまこと」はしばしば対になって出て来るのです。

 キリストに満ちていた「恵みと真理」、それは旧約聖書に繰り返し語られている神の「慈しみとまこと」に他なりません。旧約聖書に描かれているイスラエルの民の姿を見ますと、神様に背いて、神様に逆らって、どうしようもない罪深い姿をさらしているわけですけれども、神はそのようなイスラエルの民を捨ててしまわないのです。憐れみをもって忍耐強くよびかけ続けるのです。関わり続けるのです。それが神の「慈しみとまこと」です。聖書に繰り返し記されている、その「慈しみとまこと」がイエスというこの御方に満ちていたのをヨハネは見たのです。そのような神の赦しと愛が、キリストにおいて完全に現されていたのです。

 そのようなキリストが来られた。そこにこそ「肉」に他ならない私たちの希望があります。神から遠く隔たった、深い淵のどん底にいる私たちが、神を知り、神の救いにあずかることができるとするならば、それは神の方からこちらに来てくださって、「慈しみとまこと」を現してくださるしかないのです。そして、神はそうしてくださったのです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。

 これこそが私たち人間に与えられた光です。深き淵の底にまで来てくださったあの御方に満ちていた、慈しみとまことは変わりません。この世界は深い淵の底にあってもなお、決して神から見捨てられてはいません。私たちは暗闇の中にあっても、いかなる意味においても見捨てられてはいません。「光は暗闇の中で輝いている」。――「輝いていた」ではありません。「輝いている」のです。

 「光は暗闇の中で輝いている」。今もなおキリストが宣べ伝えられているとはそういうことです。今もなお主の日ごとに私たちが礼拝へと招かれているとはそういうことです。今日もなお洗礼が授けられるとはそういうことです。今日もなお聖餐が行われているとはそういうことです。「光は暗闇の中で輝いている」。主の慈しみとまことは変わりません。

 (祈り)

2019年12月15日日曜日

「見よ、その日が来る」

マラキ書3:19‐24

神に仕えることはむなしい
 「見よ、その日が来る」と語られていました。今日の朗読はこの言葉から始まります。「見よ、その日が来る」。――来るべき「その日」とはいったいいかなる「日」なのでしょう。今日は19節からお読みしましたが、「その日」を知るために、少し遡ってみることにします。

 13節以下には次のような神の言葉が記されています。「あなたたちは、わたしに/ひどい言葉を語っている、と主は言われる。ところが、あなたたちは言う/どんなことをあなたに言いましたか、と。あなたたちは言っている。『神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても/万軍の主の御前を/喪に服している人のように歩いても/何の益があろうか。むしろ、我々は高慢な者を幸いと呼ぼう。彼らは悪事を行っても栄え/神を試みても罰を免れているからだ』」(13‐15節)。

 「神に仕えることはむなしい」。それが神の耳にしていた人々の言葉でした。「神に仕える」とは、神を礼拝することであり、また神礼拝を基として神を畏れ敬い、神の御心に従って生活することです。しかし、「そんなことをしてもむなしい」と彼らは言うのです。そして、そのような言葉が彼らの口に上るのには、それなりの背景があったのです。

 先々週の礼拝においてイザヤ書が読まれた時、バビロン捕囚という出来事について触れました。紀元前六世紀、バビロニアの軍事侵攻により、ユダ王国が滅亡しました。エルサレムは破壊され、神殿も焼き払われてしまいました。国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。これがバビロン捕囚と呼ばれる出来事です。

 その後、時代はバビロニアの支配からペルシアの支配へと移り変わりました。ペルシアの王キュロスは支配下にある諸民族の宗教と文化を保護する政策を採りました。そのため捕囚の民に対しても、エルサレムに帰還し、神殿を再建することを許可したのです。これは「キュロスの勅令」と呼ばれます。帰還民たちが神殿の再建に取り組んでいく姿は、旧約聖書のエズラ記に記されております。途中長い中断の時期がありましたが、ついに神殿が完成しました。それはキュロスの勅令から20年を経た時でした。

 神殿の再建には多くの労苦が伴いました。しかし、そこには同時に大きな期待もまた伴っていたのです。神殿が再建されるならば、かつてのダビデ・ソロモンの時代のように、エルサレムは再び繁栄を見ることになる。そう彼らは信じていたのです。そのような期待のもとに、神殿で礼拝は行われるようになりました。また律法の遵守を重んじるコミュニティも形作られていきました。

 そして、数十年の時を経ました。現実には神殿の再建後、数十年を経てなおイスラエルの民を取り巻く環境は何一つ変わってはいませんでした。彼らは依然としてペルシアの支配のもとにある弱小民族の一つに過ぎませんでした。しかも、干ばつと凶作が続き、いなごによる大被害も起こり、繁栄するどころか、人々の生活はますます貧しく苦しくなっていきました。神殿再建当時の熱狂的な興奮はもはや跡形もなく消え去っていました。残っていたのは苦しい生活の中における深い失望と神への不信だけでした。

 マラキ書の冒頭には、そのような当時の人々の思いがよく現れています。「わたしはあなたたちを愛してきたと/主は言われる。しかし、あなたたちは言う/どのように愛を示してくださったのか、と」(1:2)。これがマラキ書の背景なのです。「神よ、あなたは私たちを愛していると言うけれども、いったいどのように愛を示してくださったと言うのですか」――そんな人々の思いです。

 神の愛を疑い始めるならば、この世の不条理と理不尽ばかりが目に付きます。そもそも道理に合わないことばかりではないか。悪事を行っても栄える者たちがいる。神を侮り試みたとしても、何の罰を受けない人々がいる。いや、それがごく当たり前に見られるのがこの世界の現実ではないか。

 確かにそうなのでしょう。彼らの言っていることは間違ってはいません。この世界は因果応報で説明はつきません。戒めの遵守と神の報いという単純な因果も成り立たちません。少なくとも現実にはそう見えるのです。ですから神の愛を疑い始めるならば、「神に仕えることはむなしい」という言葉に行き着かざるを得ないのでしょう。私たちの言葉で表現するならば「礼拝することなんてやめてしまおう。信仰生活なんてやめてしまおう」ということです。

義の太陽が昇る
 しかし、そのように人々が「神に仕えることはむなしい」と語る中で、そこに少数ではあるけれども、「神に仕えることはむなしい」とは言わない人たちがいたのです。別の言葉を語り合う人々がいたのです。それが16に語られていることです。「そのとき、主を畏れ敬う者たちが互いに語り合った。主は耳を傾けて聞かれた。神の御前には、主を畏れ、その御名を思う者のために記録の書が書き記された」(16節)。

 彼らは神の愛を疑わない人々です。彼らは「主を畏れ敬う者たち」と呼ばれています。また、「その御名を思う者」とも呼ばれています。「御名を思う」とは「御名を尊ぶ」という意味です。そのように、どこまでも神を尊び、神への信頼をもって生きようとする人々です。見えるところによらず信仰によって生きようとする人々です。そして、あくまでも神への畏れをもって互いに語り合うのです。「神に仕えることはむなしい」とは語らない。

 そこで、主は言われるのです。「わたしが備えている日に、彼らはわたしにとって宝となると万軍の主は言われる。人が自分に仕える子を憐れむように、わたしは彼らを憐れむ。そのとき、あなたたちはもう一度、正しい人と神に逆らう人、神に仕える者と仕えない者との区別を見るであろう」(17節)。すなわち、神の愛を信じたことはむなしく終わらない、ということです。神を畏れ敬って生きたことは決して無駄にならない。そのことが明らかになる日が来ると主は言われるのです。

 さて、本日の第一朗読において「見よ、その日が来る」と語られていました。「その日」とは、そのように神の愛を疑わなかったこと、神を信頼して最後まで畏れ敬って生きたことがすべて報われる「その日」のことなのです。神が備えておられる「その日」のことなのです。

 「その日」が19節以下においては、「炉のように燃える日」として語られます。そのイメージは、パレスチナの人々にとって馴染みの深い生活の一場面から取られています。刈り取られたわらが束ねられます。そのわらの山が焼け付くような日差しによって乾燥します。そして、さらに「炉のように燃える日」において、焼け付く日差しが照りつけるとどうなるか。自然発火を起こすのです。乾燥した空気の中で燃え出したわらは何も残さず灰になるのです。

 そこに子牛が暗い牛舎から出され、解き放たれます。子牛は太陽の光を喜び、躍り出て跳び回ります。このように、わらを燃やす焼け付く日差しが、もう一方でいやしをもたらす光として子牛を照らすのです。これが「その日」において起こることだと主は言われるのです。

 その日差しは「義の太陽」と表現されています。義の太陽がやがて昇る。それは神の正しさが完全に現わされる時が来ることを意味します。「義の太陽」は、神に逆らい「神に仕えることはむなしい」と言っていた人々にとっては焼き尽くす太陽となるのでしょう。「高慢な者を幸いと呼ぼう」と言っていた高慢な者たちにとって、「義の太陽」は焼き尽くす日差し以外の何ものでもないでしょう。

 しかし、主を畏れ、主を待ち望んでいた人にとって、義の太陽はいやす翼となるのです。それまで暗い牛舎の中にいるように、この世の不条理を耐え忍んできた人々、ひたすら神の愛を信じて耐え忍んで生きてきた人々は、やがて義の太陽の光のもとにいやされて、子牛のように躍り出て跳び回るのです。

破滅をもって、この地を撃つことがないように
 さて、ここで私たちは、マラキ書の最初の言葉を再び思い起こす必要があります。「わたしはあなたたちを愛してきたと主は言われる。」そう書かれていました――ならば、この主が望んでおられることは、人々が終わりの日に燃えるわらのようになってしまうことであるはずがありません。マラキ書の最初において表明された主の御心は、この書の最後まで貫かれているのです。

 それゆえに、最後に至って、一つの約束の言葉が与えられるのです。「見よ、わたしは大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって、この地を撃つことがないように」(23‐24節)。

 「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる」。これが何を意味するのかは定かではありません。それゆえ、この言葉についてはありとあらゆる解釈が存在します。しかし、それが何を意味するにせよ、これが悔い改めを表現していることは間違いないでしょう。「わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」。そのためにエリヤが遣わされるのですから。

 実は語順からいいますと旧約聖書の最後の言葉は、この「破滅(ヘーレム)」という言葉なのです。しかし、「破滅をもってこの地を撃つ」という断罪の言葉として語られているのではありません。そうではなく、破滅をもって終わらないように、という神の願いが言い表されているのです。「わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」。旧約聖書は、この神の願いをもって終わるのです。

 さて、そのために「預言者エリヤをあなたたちに遣わす」というマラキ書の約束はどうなったのでしょう。後の日に洗礼者ヨハネが荒れ野に現れ、人々に悔い改めを宣べ伝え、バプテスマを授けていた時、ある人たちが彼に尋ねました。「あなたはエリヤですか」。それに対するヨハネの答えは「違う」でした。ヨハネの自覚としては、彼はエリヤの再来ではなかったのです。彼は言いました。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と」(ヨハネ1:23)。今日の福音書朗読です。

 しかし、荒れ野で叫ぶ声として彼の行っていたことは、まさにマラキ書に記されていた神の願いの現れに他なりませんでした。その意味で彼は神の遣わされたエリヤであったとも言えるのです。ですからイエス・キリスト御自身は、洗礼者ヨハネについてこう言われたのです。「あなたがたが認めようとすれば分かることだが、実は、彼は現れるはずのエリヤである。耳のある者は聞きなさい」(マタイ11:14-15)。

 このようにして、「わたしが来て、破滅をもってこの地を撃つことがないように」と願われた神は、先駆者としてエリヤを遣わされ、そして救い主として御子イエスを遣わされました。そのようにして、「その日」が来る前に、立ち帰る者が神の赦しにあずかり、神と共に歩む道が備えられることとなったのです。それゆえに、私たちにも、「その日」が来る前に、今、その恵みにあずかってここにいるのです。

(祈り)

2019年12月8日日曜日

「人を生かす耳障りな言葉」

列王記上22:13‐17

アハブの預言者たち
 今日は第一朗読において、列王記上22章の一部が読まれました。22章は内容的に20章に続いております。

 20章には北王国イスラエルとアラムとの間に起こった戦争とその結末について書かれています。アラムはイスラエルの北方の王国で、今日のシリアに当たります。アラムの王ベン・ハダドが全軍を集めて引き起こした戦争は、二回の戦闘の末、最終的にはイスラエルの勝利に終わりました。

 ベン・ハダドは全面降伏し、占領地から撤退して奪った町々を返還することを約束して命乞いをします。そこでイスラエルの王アハブはベン・ハダドと協定を結んだ上で彼を帰国させました(20:34)。そして、22章に入り「3年間、アラムとイスラエルの間には戦いがなかった」(1節)と続きます。

 さて、そのようにアラムとイスラエルの間に結ばれた協定でしたが、占領した町々をすべて返還するという約束は守られなかったようです。もともとベン・ハダドの目的は危機を免れることにあったので、協定を完全に履行することは初めから意図していなかったのかも知れません。

 いずれにせよ、そのように返還がなされなかった町の一つがラモト・ギレアドでした。いまだにアラムに占拠されたままになっているのです。業を煮やしたアハブ王はついに軍事行動に出ることを決意します。「イスラエルの王は家臣たちに、『お前たちはラモト・ギレアドが我々のものであることを知っているであろう。我々は何もせずにいて、アラムの王の手からそれを奪い返せないままでいる』と言った」(3節)。

 折しも南王国ユダの王ヨシャファトが来訪中のことでした。あるいはヨシャファトの来訪を機に軍事行動に出ることを決意したのかもしれません。もともとイスラエルの王アハブはユダの王ヨシャファトに援軍を要請するつもりでいたのでしょう。彼はヨシャファトに尋ねました。「わたしと共に行って、ラモト・ギレアドと戦っていただけませんか」(4節)。これに対してヨシャファトは「わたしはあなたと一体、わたしの民はあなたの民と一体、わたしの馬はあなたの馬と一体です」(同)と言って要請に応えたのでした。

 さて、南王国ユダの王ヨシャファトとは、いかなる人物だったのでしょう。ヨシャファトに対する聖書の評価は概ね好意的です。「彼は父アサの道をそのまま歩み、それを離れず、主の目にかなう正しいことを行った」(43節)。彼は主に従う敬虔な王として描写されているのです。それゆえに、ヨシャファトは共に出陣することを約束するに当たり、一つの条件を付けました。「まず主の言葉を求めてください」(5節)。ヨシャファトにとっては、主が何と言われるかが重要だったのです。

 そこでアハブは400人の預言者を召集します。「主の言葉を求める」ために集められたのですから、彼らはバアルの預言者ではありません。しかし、この章において最後まで彼らは「主の預言者たち」と呼ばれることはないのです。では何と呼ばれているのか。22節において、「彼(アハブ)のすべての預言者たち」と呼ばれているのです。アハブはその「彼の預言者たち」に尋ねました。「わたしはラモト・ギレアドに行って戦いを挑むべきか、それとも控えるべきか」。王の問いに対して、彼らは答えます。「攻め上ってください。主は、王の手にこれをお渡しになります」(6節)。

主の預言者ミカヤ
 すると、ヨシャファトは「ここには、このほかに我々が尋ねることのできる主の預言者はいないのですか」(7節)と問いました。なぜヨシャファトがもう一人を求めたのかは定かではありません。しかし、一つのことははっきりしています。ここでは「アハブの預言者たち」に対してひとりの「主の預言者」が対比されているということです。そして、ただひとりの「主の預言者」として登場するのが本日の朗読にその名前が出て来た預言者ミカヤなのです。

 主の預言者ミカヤについて、アハブはこう語っています。「もう一人、主の御旨を尋ねることのできる者がいます。しかし、彼はわたしに幸運を預言することがなく、災いばかり預言するので、わたしは彼を憎んでいます。イムラの子ミカヤという者です」(8節)。

 さて、ここにおいて「アハブの預言者たち」と「主の預言者」の違いがはっきりと現れてまいります。主の預言者ミカヤは「災いばかり預言する」と言われています。災いを預言するというのは、言い換えるならば「神の裁きを預言する」ということです。神の裁きが語られるのは、そこに人間の罪があるからです。神の言葉は人間の罪を明らかにするのです。そして、それはまた悔い改めを求める言葉でもあるのです。神が望んでおられるのは災いを下すことではなく、人が神に立ち帰ることだからです。

 しかし、アハブはもとより悔い改めを求める言葉など欲してはいないのです。アハブにとって、主が何と言われるかなどはどうでもよいのです。主の御言葉によって人生が変えられることも、社会が変えられることも望んではいないのです。彼が欲しているのは自分について幸運を語る言葉であり、そのように耳に心地良い言葉を語ってくれる預言者たちなのです。そして、実際、アハブの望みを満たしてくれる預言者たちはいたのです。だから「彼(アハブ)の預言者たち」と呼ばれているのです。

 そのような預言者たちがイスラエルの王とユダの王の前で語ります。「ラモト・ギレアドに攻め上って勝利を得てください。主は敵を王の手にお渡しになります」(12節)。そのように彼らが口々に預言しているところに、ミカヤが呼ばれます。そこからが本日の第一朗読でした。ミカヤを呼びに行った使いの者は、言いました。「いいですか。預言者たちは口をそろえて、王に幸運を告げています。どうかあなたも、彼らと同じように語り、幸運を告げてください」(13節)。

 ミカヤに求められたのは、他の預言者と同じことを言うことでした。先にも申しましたように、主が何と言われるかなどはどうでもよいのです。しかし、ミカヤにとっては主が何と言われるかが重要なのです。ミカヤは使いの者に言いました。「主は生きておられる。主がわたしに言われる事をわたしは告げる」(14節)。ミカヤはアハブの預言者ではなく、主の預言者だからです。

幸運か災いか
 主の預言者として、ミカヤはアハブに、彼の見た二つの幻について語りました。一つ目は「イスラエル人が皆、羊飼いのいない羊のように山々に散っているのをわたしは見ました」(17節)というものです。羊飼いに喩えられているのは王です。アハブ王です。イスラエル人が羊飼いのいない羊のようであるのは、もはや王がそこにいないからです。すなわち、この幻は明らかに出陣した後に王が戦死することを意味しているのです。今日の聖書朗読はここまででした。

 しかし、この第一の幻の意味するところは、ミカヤの見た、もう一つの幻によって明らかされるのです。第二の幻の中では、「偽りを言う霊」が主によって世に遣わされます。その「偽りを言う霊」は、預言者たちを通して、アハブを唆して戦わせ、戦死させるために遣わされるのです。神様御自身が「偽りを言う霊」を遣わすというのは、ある意味では難解な話ではありますが、ミカヤが伝えようとしているメッセージは極めて単純です。アハブの預言者たちが語っているのは神の言葉ではないということです。それは「偽りを言う霊」の言葉なのだということです。

 ミカヤは第二の幻について、このようにまとめます。「今御覧のとおり、主がこのあなたのすべての預言者の口に偽りを言う霊を置かれました。主はあなたに災いを告げておられるのです」(23節)。自分の耳に心地良い言葉ばかりを求めているならば、「偽りを言う霊」が語りかけてくる。――ここに書かれている第二の幻は、私たちもまた心に留めておくべきものでしょう。

 注目すべきは23節の最後の言葉です。「主はあなたに災いを告げておられるのです」。実際には、アハブが耳にしているのは幸運を告げる言葉なのです。それが彼の求めていた言葉なのです。しかし、どんなに快い言葉であっても、「偽りを語る霊」の言葉であったらどうでしょう。そこで自分の本当の姿は見えてきません。罪の自覚も生じません。悔い改めに導かれることもありません。それは本当に幸運なことなのでしょうか。いいえ、そうではありません。それこそ「災い」なのだとミカヤは言っているのです。自分の耳に心地良い言葉ばかりを求めているならば、「偽りを言う霊」が語りかけてくる。それは人間にとって「災い」です。

 しかし、それはいつの時代にも起こることで、後にパウロが伝道者テモテに次のように勧めています。「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」。そして、次のように将来を予告して言うのです。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(2テモテ4:2‐4)。

 パウロが予告したことは、教会の歴史において繰り返し起こってきたことでした。「自分に都合の良いことを聞こうとして」とは、これは直訳すると「聞く耳をくすぐってもらおうとして」という言葉です。当たり前のことですが、心地良い言葉で聞く耳をくすぐってもらったぐらいで人は救われません。私たちは救いにもならないことのために集まっているのではありません。私たちは神の言葉を慕い求めて集まっていることを改めて意識したいと思うのです。

 神の言葉は必ずしも聞く人の耳をくすぐりません。神の言葉は必ずしも心地よさを与えない。むしろ時としてそれまであった心地よさを奪います。なぜなら神の言葉は神の光のもとに人間を引き出すからです。光の中にあることは本来喜ばしいことですが、同時に光は人間の罪をも照らし出します。自分自身にすら隠されている罪が光のもとにさらされます。罪が照らし出されるからこそ、悔い改めも起こります。そのようにして、人は神との交わりの中に留まります。そして、そこに救いもあるのです。

(祈り)

2019年12月1日日曜日

「廃墟が歓声を上げ、喜び歌う時が来た」

イザヤ書52:7‐10

 時は紀元前六世紀。バビロニアの軍事侵攻により、かつてダビデ・ソロモンの王国として繁栄を極めたユダ王国は、ついに滅亡することとなりました。王国の都エルサレムの城壁は破壊され、彼らの心の拠り所であったエルサレムの神殿も焼き払われてしまいました。そして国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。後に残ったのは廃墟となったエルサレムでした。

 それから五十年近くの時が流れました。捕囚とされた民の中に一人の預言者が現れ、神の言葉を宣べ伝え始めました。その預言はイザヤ書40章以降に記されています。今日読まれたのもその一つです。彼は言います。「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃墟よ」(9節)。大変不思議な言葉です。「共に喜び歌え」と呼びかけられているのは、美しく建て直されたエルサレムではありません。廃墟とされたエルサレムが、いまだ廃墟のままであるにもかかわらず、いまだボロボロの惨めな姿であるにもかかわらず、「歓声をあげ、共に喜び歌え」と呼びかけられているのです。

 それはいったいなぜなのでしょうか。この呼びかけには次のような言葉が続きます。「主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」。この行の先頭には、訳出されてはいませんが、「なぜなら」と訳し得る小さな言葉が置かれています。つまり、これが「喜び歌え」と語られている理由であり根拠なのです。主の「慰め」と「贖い」です。

主はその民を慰められた
 「主はその民を慰められた!」聖書が語る「慰め」とは何でしょう。一般的に私たちが思い描く「慰め」は、「歓声」や「喜びの歌」とは結び着かないように思います。廃墟に向かって「歓声をあげ、共に喜び歌え」と言うからには、その根拠となる「慰め」は、私たちが思い描くものとは全く異なるものであるに違いありません。

 それは何であるのか。そこで必要なのは、まず語りかけられている「廃墟」を理解することであろうと思います。この廃墟となったエルサレムについては、バビロニアに破壊されたのだということを既に述べました。しかし、預言者はこれを単純に戦争の結果としては語りません。51章17節まで遡ると、そこには次のように書かれています。「目覚めよ、目覚めよ、立ち上がれ、エルサレム。主の手から憤りの杯を飲み、よろめかす大杯を飲み干した都よ」。

 そのように、エルサレムを実際に破壊したのは、バビロニアの軍隊なのですが、彼はそこに神の裁きを見ているのです。彼らの罪に対する神の怒りの現れを見ているのです。廃墟をもたらしたのはバビロニアではなく、イスラエルの罪だというのです。それが「廃墟」の意味するところなのです。

 しかし、そのエルサレムに対して、一転して慰めが語られるのです。怒りを現された主御自身が、今度は「慰めるもの」としてエルサレムに語りかけられるのです。「わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰めるもの」(51:12)と言われるのです。その意味するところは明白です。「罪の赦し」です。エルサレムは確かに神の怒りのもとにありました。しかし、その怒りは取り除かれたのです。「あなたの主なる神、御自分の民の訴えを取り上げられる主はこう言われる。見よ、よろめかす杯をあなたの手から取り去ろう。わたしの憤りの大杯を、あなたは再び飲むことはない」(51:22)と主は言われるのです。

 神が赦してくださるということは、決定的な転換を意味します。そこで運命が変わるのです。それゆえに、「目覚めよ、目覚めよ、立ち上がれ、エルサレム」(51:17)と語りかけられているのです。そして、52章に入って、「奮い立て、奮い立て、力をまとえ、シオンよ。輝く衣をまとえ、聖なる都、エルサレムよ」(52:1)とまで語られているのです。

 エルサレムは廃墟の中から立ち上がることができるのです。罪が赦されたからです。もはや主の怒りのもとにはないからです。これが聖書の語る主の「慰め」です。神が人間の罪を赦してくださる。そこにこそ、真に回復の力をもった「慰め」があるのです。主はその民を慰められました。それゆえ、エルサレムの廃墟は歓声をあげ、喜び歌うことができるのです。

主はエルサレムを贖われた
 さらに、「(主は)エルサレムを贖われた」と書かれております。「贖う」という言葉も、この書に繰り返されている鍵語の一つです。同じ言葉が3節では「買い戻す」と訳されています。この「贖う」という言葉は、もともと奴隷を「買い戻す」という意味合いで用いられた言葉だったのです。例えば、レビ記25章に出てきます。貧しい人が身売りして誰かの奴隷になった場合、その人の兄弟や一族の血縁の者がその人を買い戻すことができるのです。そのように土地や人などを買い戻すことを「贖い」と言います。そして、買い戻す義務を負う近親者を「贖う者(ゴーエール)」と呼んだのです。

 「エルサレムを贖われた」という言葉は、このような背景を持っています。「贖われた」と語られているということは、それまで奴隷状態にあったことを意味します。事実、2節では、「捕らわれのエルサレム」「捕らわれの娘シオン」と呼ばれています。これは第一にはバビロニアに征服されたことを指しているのでしょう。しかし、そのエルサレム・シオンが主によって買い戻されるのです。「ただ同然で売られたあなたたちは、銀によらず買い戻される」(52:3)と主は言われるのです。

 実際、その時代に、政治的には大きな変化がありました。バビロニアの支配から、ペルシアの支配へと変わりました。新しい支配者であるペルシアの王キュロスは、被占領民族の文化と宗教を尊重する政策を採りました。ですから、捕囚のイスラエルの民についても勅令が発布され、彼らはエルサレムへの帰還と神殿の再建が許可されたのです。その意味において、捕囚の民は確かに解放されました。これは驚くべき大いなる出来事であったに違いありません。

 しかし、預言者はこれを全く異なる視点から語ります。彼らは単に政治的に解放された者としてエルサレムに帰るのではないのです。そうではなくて、捕囚の民は、神によって買い戻された民としてエルサレムに帰るのです。

 先にも言いましたように、エルサレムの廃墟に現れていたのは、神の怒りであり裁きでした。売られて奴隷となったのは、その罪の負い目のゆえでした。そのような民を、もはや買い戻す価値のないようなエルサレムを、主は憐れみと赦しをもってあえて買い戻されたのです。御自分のものとされたのです。すなわち、本当に大きな出来事は、政治的な変化ではなく、神と人との関係の変化なのです。

 それゆえに、彼らを治めるのは、もはやバビロニアの王ではなく、ペルシアの王でもありません。主が彼らの王として即位されるのです。バビロニアをもペルシアをも支配し給う主が、全地の主である御方が、彼らの王として、御自分のものとされた都に帰ってこられるのです。

 もちろん、そのことが起こるのは、あくまでも未来のこととして語られています。現実にエルサレムを支配しているのはペルシアです。エルサレムはいまだに廃墟のままです。何も変わってはいないように見えます。しかし、事は既に起こったのです。神との関係において、既に決定的な転換が起こっているのです。主はエルサレムを贖われました。それゆえに、エルサレムの廃墟は、もはや嘆きの中に座り込んでいる必要はないのです。歓声をあげ、共に喜び歌うことができるのです。


歓声をあげ、共に喜び歌え
 さて、今週から「待降節(アドベント)」に入りました。先週申し上げましたとおり、アドベントという呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。キリストの到来です。救い主は来られました。そのことを思います時に、今日与えられている御言葉は、特別な響きをもって私たちに呼びかけてきます。「歓声をあげ、共に喜び歌え、エルサレムの廃虚よ。主はその民を慰め、エルサレムを贖われた」。

 救い主は来られました。救い主は世に来られて私たちの罪のために十字架におかかりくださいました。救い主は世に来られて、私たちの罪の代価を完全に支払ってくださいました。そのようにして、私たちを主のものとしてくださいました。主の慰めが訪れました。主は私たちを贖ってくださいました。

 そして、その良き知らせが、私たちのところにも伝えられているのです。「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」(7節)と書かれているようにです。そして、私たちにも「歓声をあげ、共に喜び歌え」と呼びかけられているのです。私たちが今なお廃墟のような有様であったとしても、そのような私たちに呼びかけられているのです。「歓声をあげ、共に喜び歌え」と。既に救い主は来られたからです。既に主によって贖われ、主のものとされているからです。

 そして、主のものとされているならば、廃墟は廃墟のままでは終わらないのです。やがて完全に救われる時が来るのです。私たちが救いに到達するのではありません。最終的な救いは向こうから来るのです。「到来」するのです。既に救い主は到来しましたが、聖書はもう一つの「到来」について教えています。キリストが再び来られる。これをキリストの再臨と言います。最終的な完全な救いは向こうから来るのです。

 その意味において、私たちは「すでに」と「いまだ」の間に立っています。既に私たちは罪を赦され、主の慰めを得ました。既に私たちは主によって贖われ、主のものとされました。そのような者として、私たちは最終的な救いを待ち望んでいます。それが私たちの信仰生活です。その意味において、アドベントは「すでに」と「いまだ」の間にあることを意識する期間であると言えるでしょう。その時の間を私たちはどのように生きるのか。この問いに、このアドベントの期間、しっかりと向き合い、自らを省みたいと思います。

(祈り)

2019年11月24日日曜日

「すべての人の目が彼を仰ぎ見る」

黙示録1:4-8

恵みと平和が三位一体の神から
 今日はヨハネの黙示録をお読みしました。「黙示録」と呼ばれていますが、内容的には手紙です。時は紀元1世紀も終わりの頃。皇帝ドミティアヌスの治世。帝国規模に広がった迫害の中で苦しんでいた教会に宛てられた手紙です。

 それは集まって共に礼拝する中で朗読されるために書かれてた手紙でした。迫害の時代、集まることはそれ自体危険なことでした。しかし、共に礼拝することが命よりも大事だと思っていた人たちがいたのです。そのような人たちに大きな慰めと励ましを与えた手紙です。

 今日は4節以降が朗読されました。手紙ですから「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」という書き出しとなっています。パウロの手紙ですと、たいていは「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と続きます。しかし、ヨハネの黙示録では三位一体の神を念頭に置いて、挨拶が書かれています。

 まず、父なる神が、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と表現されています。続いて、聖霊については「玉座の前におられる七つの霊」と表現されています。「七」は完全を現す数字です。聖霊を「七つの霊」と言い表すのは、ヨハネの黙示録にしかない独特な表現です。

 そして、最後にイエス・キリストについては、「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」と表現されています。このような三位一体の神から「恵みと平和があなたがたにあるように」と挨拶の言葉が記されているのです。ここだけでも、三位一体の神様について、大変豊かな内容が語られています。

 しかし、今日は特に、この挨拶に続いて語られている言葉に耳を傾けたいと思います。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(5節後半‐6節)。このように、キリストが誉め讃えられています。ヨハネがこのように書いているのは、これを読んでいる私たちもまた、ヨハネと声を合わせてキリストを賛美するためです。先にも申しましたように、これは何よりも礼拝において読まれるために書かれた書ですから。

 さらに続いて、そのように礼拝されている御方が、再び来られることについて語られています。これをキリストの再臨と言います。「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン」(7節)。

 次週から教会の暦においては「待降節(アドベント)」に入ります。教会暦の一年はアドベントから始まります。アドベントという呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。その「到来」とはキリストの到来です。この期間は第一に、キリストが二千年前に「到来した」ことに思いを馳せる時です。キリストが既に来られたことの意味を深く思い巡らすべき時です。しかし、それだけではありません。この期間は第二に、キリストが再び「到来する」こと、すなわち「キリストの再臨」に思いを馳せる時でもあります。こうして教会の一年を締めくくり、そのようなアドベントの季節を迎えようとしている私たちとして、私たちは今日の御言葉に耳を傾けているのです。

天に挙げられた御方が
 再び来られるキリストは、いかなる御方であるのか。まず、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」だと語られています。「わたしたちを愛し」――これは現在形で語られています。天に上げられたあの御方が、今、私たちを愛していてくださるのです。さらに言うならば、それは「愛し続けていてくださる」というニュアンスの表現です。どんな状態にあったとしても変わることなく愛し続けていてくださる。

 先にも申しましたように、最初にこの言葉を聞いた人たちは迫害の中にあったのです。しかし、救いの時が来て初めて私たちは愛していただくのではないのです。悲しみもある。苦しみもある。そのような現在において、私たちは愛されているのだ、と語られているのです。

 そのように私たちを愛してくださっている方が、私たちを罪から解放してくださいました。「罪から解放してくださった」は過去の一点を指す表現です。すなわち、あの十字架の時を指して語られているのです。私たちはキリストの十字架によって、罪の負い目から自由にされました。もはや私たちは自分の罪のゆえに滅びることはありません。代価は支払われました。罪の負債はすべて支払われました。「御自分の血によって罪から解放してくださった」とはそういうことです。

 さらに言えば、罪の負い目から自由にされただけでなく、本当は罪の力そのものからも既に解放されているのです。今はまだ戦いの中にあるかもしれません。葛藤は続いているかもしれません。しかし、既に勝利は定まっているのです。私たちはあの時、あの一点において、完全な救いにあずかって、完全に罪の力から解放されることが定まっているのです。「御自分の血によって罪から解放してくださった」とはそういうことです。

 そして、キリストは「わたしたちを王とし、御自分の父である神に仕える祭司としてくださった方」だと語られています。それにしても、「わたしたちを王としてくださった」とは驚くべき言葉ではありませんか。

 ローマ帝国においては、それぞれの地域に支配者が立てられていました。その上に皇帝が支配していたのです。ですから皇帝は「地上の王たちの支配者」と呼ばれていたのです。しかし、聖書はそれに否を唱えるのです。「地上の王たちの支配者」は皇帝ではない。真の支配者はキリストであると。ですから5節ではイエス・キリストが「地上の王たちの支配者」と呼ばれているのです。そのキリストが支配する王たちとは誰か。それは私たちだというのです。私たちは最終的に、キリスト以外の何ものにも支配されることはないのです。罪も死も私たちを支配することはできないのです。キリストに支配される王ですから。

 そしてまた、キリストは私たちを「父である神に仕える祭司」としてくださいました。祭司は神と人との間に立つのです。もちろん、真に神と人との間に立って執り成してくださるのはまことの大祭司なるキリストだけです。しかし、その大祭司のもとにある祭司として、私たちもまた務めを果たすのです。

 私たちは自分の罪の赦しを求めるだけでなく、この世の罪の赦しを求めて祈ることができるのです。それは私たちの特権であり、また同時に義務でもあります。祭司として神に仕え、祭司として執り成し祈る義務です。考えてみますならば、まことに罪深い私たち自身がその罪を赦され、他者のために執り成すことが許されているということは、なんと驚くべきことかと思います。それはただキリストのゆえに与えられた恵みなのです。キリストが私たちを愛して、御自分の血によって罪から解放してくださったからなのです。

やがて再び来られる
 そのような御方が天におられる。そして、やがて再び来られるのです。再び来られることについては、次のように書かれています。「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。」

 キリストが「雲に乗って来られる」という表現は、もともと旧約聖書のダニエル書に用いられていた表現です(ダニエル7:13)。イエス様御自身も大祭司の前で「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問われた時、「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(マルコ14:62)と言われました。

 「雲に乗って」と語られ、あるいは「雲に囲まれて」と語られる。それはあくまで表象を用いた表現です。実際には、キリストの再臨がどのように実現するのかは、私たちの理解を遙かに超えた出来事だと言わざるを得ないのでしょう。しかし、重要なことは、そこで「すべての人の目が彼を仰ぎ見る」ということが起こる、ということです。どのような仕方で来られるにせよ、「すべての人の目が彼を仰ぎ見る」のです。

 ことに「彼を突き刺した者ども」が仰ぎ見ると語られています。「突き刺した」が意味するのは、キリストを十字架にかけたということでしょう。「キリストを十字架にかけた者ども」と言いますと、「自分たちはそうしなかったけれど、そうした奴らは」と言っているように聞こえますが、そうではありません。これを受けとったキリスト者たちは知っているのです、キリストを十字架にかけたのは他ならぬ自分たちの罪であった、と。そうです、ここに書かれているのは、私たち自身を含めたこの世界のことなのです。

 それゆえに「地上の部族は皆、彼のために嘆き悲しむ」と書かれているのです。そのように、この世界全体に「嘆き」が起こるのです。間違えてはならないのは、ここに書かれている嘆きは、裁かれる自分を思っての嘆きではないということです。ですからあえて「彼のために嘆き悲しむ」と訳されているのです。裁かれる自分を思って嘆いているだけならば、「自分のために嘆き悲しむ」だけでしょう。

 「彼のために嘆く」というのは、キリストが何をしてくださったかが分かるということです。私たちの罪のために十字架の上で苦しんでくださったことが分かるということです。自分たちの罪がキリストを苦しめたのだということが分かるということです。「彼のために嘆く」とはキリストの御苦しみを思っての嘆きです。そのように人間の罪と、その罪を贖うためにキリストが苦しんでくださったという事実が、すべての人に明らかにされる時が来るのです。

 それがいつであるかは分かりません。いつであるかは知らされてはいません。ならば大事なのは「その時」ではなくて「今」です。そのような終わりの時に向かっている「今」を生きることです。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」の御前で、私たちは「今」どのように生きているのか。「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方」の御前で、私たちは「今」どのように生きているのか。その御方をやがてお迎えする私たちとして、私たちは「今」どのように生きているのか。そのことを自らに問いつつこの週を過ごし、アドベントを迎えましょう。

(祈り)

2019年11月10日日曜日

(子ども祝福礼拝) 「あなたはこの世界の祝福となる」

創世記12:1-9

祝福とは何か
 祝福を受けた子どもたち、皆さん、どこに座っていますか。ちょっともう一度手を挙げて見せてくださいますか。神様は今日皆さんをここに招いて祝福してくださいました。今日は、特に祝福を受けた皆さんにお話ししたいと思います。よく聞いていてくださいね。そして、わたしがお話しするだけでなく、神様が皆さんの心に語りかけてくださいますから、よく耳を澄ませて聞いてください。

 今日は「子ども祝福礼拝」です。「祝福」とは何でしょう。「祝福」とは、神様がよいものをいっぱい与えてくださることです。神様がよいものをいっぱい与えてくださって、命に満ち溢れさせ、未来を開いてくださることです。そうです、神様が祝福して未来を開いてくださるのです。

 ですから、昔の人たちにとって神様の祝福と言えば、例えば、農作物がたくさん取れることだったのです。例えば、羊がたくさん子を産んで、羊がどんどん増えていくことだったのです。例えば、子どもがたくさん生まれて、一族が増え広がって繁栄することだったのです。

 もちろん、豊作も多産も繁栄も神様の祝福であると言えるでしょう。しかし、神様がくださる目に見えるものばかりに注目すると、大事なことを見落としてしまいます。一番の祝福とは何でしょう。神様がくださる一番よいことって何でしょう。それは神様が一緒にいてくださることです。神様が恵み深い御方として、いつも一緒にいてくださることです。

 ですから、聖書にはこんな祝福の言葉が出て来ます。「アロンの祝福」と呼ばれる聖書の中で有名な祝福の言葉です。聞いていてくださいね。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし
   あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて
   あなたに平安を賜るように。」
           (民数記6:24-26)

 「主が御顔をあなたに向けてくださいますように」というのは、「神様が一緒にいてくださいますように」というのと意味としては同じです。

 一番の祝福は神様が優しい御顔を向けてくださることであり、神様がそのようにして一緒にいてくださることです。だから、今日、私も皆さんを祝福するときに、「主が共にいてください」とお祈りしました。だから、神様は恵み深い御方として、皆さんのことをいつも見ていてくださいますし、そのようにして一緒にいてくださいます。

祝福の約束を受けた人
 さて、今日の聖書箇所には、神様から「わたしはあなたを祝福する」と言われた人が出て来ました。アブラハムです。アブラハムはもともと「アブラム」という名前でした。神様はアブラムにこのように言われたのです。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(2‐3節)。

 神様が祝福して未来を開いてくださいます。神様は開かれるべきアブラムの未来を指し示しながら、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と言われました。アブラムにはまだ何も見えていません。未来のことですから。しかし、神様には見えているのです。大いなる国民が見えているのです。アブラムの子孫が増え広がって一つの国になることが見えているのです。祝福とはそういうものです。まだ見ていない未来を約束として受けるのです。

 しかし、それはただ祝福される人自身のためではありません。「祝福の源となるように」と主は言われるのです。神はアブラムを「祝福の源」にしようとしていたのです。「祝福の源」というのは、アブラムから祝福が溢れ流れていくようなイメージ豊かな言葉ですね。実は、もともとの聖書のヘブライ語では「あなたは祝福となるように」と書いてあるのです。

 祝福されて祝福となるのです。アブラハムは祝福されて、今度は誰かにとっての祝福となるのです。神がアブラムを祝福するのは、ただアブラムのためではありませんでした。それはこの世界に祝福をもたらすためだったのです。ですから、主はアブラムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と言われたのです。

 同じように、神様が皆さんを祝福するとするならば、それは単に皆さんが幸せになるためではありません。皆さんは、この世界の祝福となるためです。皆さんがこの世にいることによって、神様の祝福がこの世界にもたらされるのです。皆さんがこの世に存在することによって、神様が恵み深い御方として共にいてくださり、恵みの御顔を向けてくださり、平和を与えてくださるのです。

 大人の人たちも一緒にお祈りしました。子どもたちの上に祝福を祈り求めるということは、子どもたちがこの世界の祝福となることを祈り求めることでもあるのです。それは私たち自身についても同じです。私たちが、そして教会が祝福を求めるということは、私たち自身が隣人にとって、またこの世界にとって祝福となることを求めることでもあるのです。

神に信頼する新しい生活
 そのように、神様はアブラムを祝福すると言われました。しかし、その前に神様が何と言っているか、もう一度聞いてみましょう。神様は一言、このように言っています。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい』」(1節)。――そう、神様は旅に出なさいと言われたのです。

 アブラムはもともとハランというところに住んでいました。ハランはとても豊かな土地でした。そこでは親戚も一緒に住んでいました。そこには知っている人がたくさんいました。そこで生活していれば安心でした。

 しかし、神様はアブラムに安心していられるその場所を離れて旅に出なさいと言われたのです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。どこに向かって旅するのか、分かりません。「わたしが示す地」としか言われないのです。神様がどこに連れて行こうとしているのか、アブラムは知りませんでした。

 皆さんだったらどうですか。知っている人たちを離れて、知らないところに向かって旅に出なさい、と言われたら。きっと不安でしょうね。どうなってしまうんだろうと心配でしょうね。アブラムもきっと、とても心配だったと思います。しかし、聖書にはこう書かれているのです。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」。

 アブラムは先のことを思い煩って、頭の中の思い煩いに留まっていませんでした。そうではなくて、神様に信頼して実際に一歩を踏み出したのです。そこから、神様に信頼して生きていく新しい生活が始まったのです。神様はそのような新しい生活を、祝福の約束と共に差し出されました。アブラムは、神様に信頼して生きる新しい生活を、祝福の約束と共に受け取ったのです。

 神様への信頼。アブラムに求められたのは、それだけでした。神に全幅の信頼を置いて生き始めること。神が求めておられるのは、単によい人間になることでも有能な人間となることでもないのです。この世界の祝福となるために、「もっと優しい人であれば」「もっと力があれば」「健康でさえあれば」「もっと若ければ」「もっと有能であれば」と人は思うかもしれません。しかし、もし若さが重要であるならば、もっと若い時にアブラムを旅立たせたことでしょう。彼は召された時75歳だったのです。そんなことは神様にとってはどうでも良かったのです。祝福は人から出るのではないからです。わたしはあなたを祝福すると主は言われる。祝福は神から来るのです。だから求められているのは、その神様にどこまでも信頼して共に歩む人となることなのです。

祭壇を築きながら
 さて、神様に信頼し、御言葉に従って旅立ったアブラムは、その後、どうなったでしょう。アブラムは神様に導かれて、ハランからカナン地方に向かって進みました。やがてカナン地方に入ります。そして、こう書かれているのです。「アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた」(6節)。

 「わたしが示す地に行きなさい」。そう主が言われて着いたところにはカナン人が住んでいました。先に住んでいる人たちがいるところに、後から入って行くのなら、よそ者扱いをされることになります。旅に出る前にハランにいたときにはなかった困難がそこにはあったことでしょう。

 しかし、そこで主は言われました。「あなたの子孫にこの土地を与える」。主はアブラムに開かれた未来を示すのです。そして、7節と8節に繰り返されている言葉があります。「祭壇を築いた」という言葉です。この「祭壇を築いた」という言葉をよく覚えておいてくださいね。

 「祭壇」というのはお祈りの場所です。彼はシケムにおいて、そこで祭壇を築いた。祭壇は石で作ります。石を積み重ね、一生懸命に祭壇を築いた。さらに、そこを発ってベテルの東の山に移り住むと、そこにまた祭壇を築いた。「そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(8節)とあります。主の御名を呼ぶとは、言い換えるならば「祈った」ということです。そのように、祭壇とは祈りの場所です。

 祭壇を築きながら旅をするということは祈りながら生きていくということです。神様に信頼して生きる新しい生活が始まったと言いましたけれど、それは具体的にはお祈りしながら生活していくことです。祭壇を築くとは「お祈りの生活を築く」ということです。

 今日、祝福を受けた皆さん、よく覚えておいてくださいね。大切なことは、どこに行っても、環境が変わっても、状況が変わっても、どんな困難の中に置かれても、そこで常に祭壇を築いて生きていくことです。日曜日には神様を礼拝し、毎日、神様にお祈りしながら生きていく、そのような生活を築いていくことです。神様の祝福はそのような皆さんと共にあります。そして、皆さんはこの世界の祝福となるのです。
 (祈り)

2019年11月3日日曜日

「希望に生きる」

1ペトロ1・3‐9

新たに生まれさせてくださいました
 今日の礼拝ではペトロの手紙が読まれました。小アジア地方の諸教会に宛てた手紙です。6節に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とありますように、この手紙の読者は様々な苦しみの中にあった人たちです。具体的には迫害のもとにあって苦しんでいたということでしょう。彼らは人々からの軽蔑や嘲笑を耐えなくてはなりませんでした。悪人呼ばわりされ、不当な苦しみを強いられていました。そのような中に生きている人たちを励まし力づけるために、この手紙は書かれました。

 そのような教会の人々に対して、ペトロはまず何を語ろうとしているのでしょうか。彼は挨拶に続けて、次のように書き始めます。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(3節)。ペトロは、彼らが受けている試練について語り出す前に、まず神を誉め讃えるのです。そして、神の御業について語るのです。「人々があなたに何をしたかではなく、神があなたに何をしてくださったか――まずそのことに目を向けようではありませんか!」あたかも、そのように語りかけているかのようです。

 では、その《神がしてくださったこと》とは何でしょう。ペトロがここで中心的な事柄として語っているのは、このことです。――「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせてくださいました!」(3節)。

 聖書によるならば、人間は二度生まれることができます。一度目の誕生は、通常の意味における誕生です。毎年「お誕生日おめでとう」を繰り返す、あの誕生のことです。私たちは必ず誰かを親として生まれてきます。誰かを親とする家族の中に生まれてきます。そのようにして私たちはこの人生をスタートする。これが一度目の誕生です。

 この誕生だけを経験して一つの人生を生き、一生を終える人もいます。しかし、聖書によるならば、人はもう一度誕生することができるのです。二度目の誕生。それは信仰による誕生です。信仰によってもう一つの人生がスタートします。一度目の誕生において、この世の親の子供として生まれたように、二度目の誕生においては、「神の子供としてのわたし」が生まれます。一度目の誕生において、この世の家族の中に生まれたように、二度目の誕生においては、「神の家族の中にいるわたし」が生まれます。

 イエス様は「天にまします我らの父よ」と祈りなさいと教えられました。そのように、神の家族として、「天にまします我らの父よ」と祈りながら生き始める。そのようにして、私たちは二度目の誕生による新しい人生を生きていく。それが教会における「信仰生活」です。

 そして、ここに語られているように、二度目の誕生は「神の豊かな憐れみ」によるのです。先ほど「二度目の誕生においては、『神の子供としてのわたし』が生まれます」と申し上げましたが、話はそう単純ではありません。ペトロはこの直前において、あえて「わたしたちの父である神」ではなくて、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」と言っていますでしょう。その御方は第一には、イエス様が「父よ」と呼んでいた神様なのです。

 その神様を、私たちもイエス様と同じように「父よ」と呼べることは、決して自明のことでではありません。私たちはイエス様と違って、幾度となく神に背きながら生きてきた者だからです。イエス様と違って、私たちはどう考えても「神の子供」に相応しくない。そのような私たちが神の子供にしていただけるとするならば、それは一重に神の憐れみによるのです。私たちの罪を赦してくださる神の豊かな憐れみによるのです。

 そして、神の憐れみは具体的な形を取って現されたのです。神は独り子を世に遣わされました。罪なき御子を私たちの罪を贖う犠牲とされました。イエス様は、「天にまします我らの父よ」と祈りなさいと言ってくださいましたが、それは神の憐れみを知っている方の言葉です。神の憐れみの現れとしてこの世に来られた方の言葉です。神の憐れみの現れとして、十字架にかかるためにこの世に来られた方の言葉なのです。

死によっても失われない希望
 そして、この憐れみによる二度目の誕生に伴い、さらに二つのことが語られています。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(3‐4節)。

 第一に、私たちに「生き生きとした希望」が与えられているのだと語られています。「生き生きとした希望」というのは「生きている希望」という言葉です。たいへん味わい深い表現です。「生きている希望」と書かれているということは、もう一方において「生きていない希望」「死んだ希望」もあるということです。同じように見えても、生きている花と切り花は異なります。一方には命があり、もう一方には命がない。希望が真の命を伴っていなければやがて枯れて消えていきます。そのような、やがて枯れてしまう希望は、私たちの周りにいくらでもあります。そのような希望によって、幾度となく浮き沈みを繰り返してきた人は少なくないのでしょう。

 枯れない希望。命ある希望。生きている希望。失われない希望。それはどこから来るのか。今日の聖書箇所に「生き生きとした希望を《与え》」と書いてありました。誰が与えてくれたのか。神様です。生きている希望は神から来るのです。それはこれを書いているペトロの体験でもあったのです。

 皆さんもご存じのように、ペトロはイエス・キリストが捕らえられた時、三度もキリストを「知らない」と言った男です。キリストが十字架にかけられた時、主を見捨てて逃げてしまっていた、そういう男です。キリストが葬られた後も、自分が同じ目に遭わされるのではないかと、家の中に閉じこもり、戸を閉ざしてビクビクしていた男です。――取り返しのつかないことをしてしまったという罪責感。自分の弱さや醜さに対する深い絶望。彼にとって、あの日、彼の人生は終わったのです。全ては終わったのです。それでもなお呼吸を続けるならば、あとは生ける屍として惰性で生きていくしかなかったのでしょう。その先に何も待ち望むものを持たないまま、生きていくしかなかったのです。すべては終わったのですから。

 ペトロ。そんなペトロが、どうして再び立ち上がり、前を向いて希望をもって生きるようになったのか。未来に向かって歩み始めることができたのか。それはペトロにとって終わりであっても、神にとっては終わりではなかったからです。神はその事実をはっきりと現してくださいました。何によって。イエス・キリストの復活によってです。ですからペトロはこう表現しているのです。「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(3節)。

 「死者の中からのイエス・キリストの復活」とは何でしょう。人間にとっては決定的な「終わり」である「死」でさえも、神にとって「終わり」ではないということです。その先へと続くのです。いや、むしろそこから始まるのです。神は終わりを始まりにすることがおできになる。そのように、ペトロの人生も絶望の中で終わったところから、新しく始まりました。ただ神によって!そして、そのように生き生きとした希望を与えられたのはペトロだけではありませんでした。だからこのことが書き記され、読まれ、今日に至るまで伝えられているのです。今もなお、ここにいる私たちにも、その生き生きとした希望、死によってさえも失われない希望は差し出されているのです。

 そして、二度目の誕生に伴って語られている第2のことは次のように表現されています。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。そのように、死によってさえも失われない希望があるということは、言い換えるならば、死によって失われない未来があるということです。

 一般的には、死は未来を奪うのでしょう。死によって未来は失われるのでしょう。元気に生きていた人が死を宣告されるということは、未来を失うということを意味するのでしょう。高齢になり、あるいは病気になり、死が近づいてくるということは、未来を失っていくということなのでしょう。しかし、そうではないと聖書は言うのです。死によって奪われない未来がある、と。

 もちろん死の先は私たちの想像を超えた未来です。具体的に思い描くことができません。なので、たとえば「財産を受け継ぐ」というある意味では陳腐な言葉をもってしか表現できないのでしょう。しかし、それでもなおそこには大事なことが表現されていると言えます。「受け継ぐ」というのですから、それは自分が蓄えたものではありません。自分の行った善き行いに対する報酬でもありません。神の憐れみによって神の子供とされるように、「財産を受け継ぐ」とするならば、それは神の憐れみによるのです。

 死の先の未来を私たちは思い描くことはできません。しかし、「財産を受け継ぐ」というのですから、それは喜ばしい未来であることに間違いはありません。それはただ神の憐れみによって備えられた、喜ばしい未来です。それゆえに、人は死においてもなお、その先に喜ばしき未来を待ち望むことができるのです。実際、皆さんは既に召された人たちの中に、そのような方々を幾人も思い起こすことができるのではありませんか。人は人生最後の一呼吸に至るまで、期待に胸を膨らませて、未来を待ち望みながら生きることができるのです。イエス・キリストの復活によって、神が「生き生きとした希望」を与えてくださったから。受け継ぐべき喜ばしき未来が備えられているから。

(祈り)

2019年10月27日日曜日

「光あれ!」 

創世記1:1‐5

 本日の第一朗読では、創世記に書かれています天地創造物語の冒頭部分が読まれました。私たちは今日、特に3節の言葉を心に留めたいと思います。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(3節)。

地は混沌であり
 その前の節において、「光あれ」と神が言われる前の状態が次のように描写されています。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(2節)。「地は混沌であって」という部分は、以前の聖書協会訳では「形なく、むなしく」と訳されていました。二つの言葉からなる熟語です。聖書に三回しか出て来ません。地は形なく、むなしく、秩序もなく、存在の意味もない。まさに底なしの深みを闇が覆っているような虚無の世界。聖書は「地」――すなわちこの世界――の初めの状態を、そのような言葉をもって表現しているのです。

 その混沌と闇の世界に神が語りかけます。「光あれ」と。すると光があった。そこから全く新しいことが始まります。光と闇とが分けられます。一つ一つの秩序が生まれます。今日は「第一の日」の部分しか読まれませんでしたが、その後続くのは、神の創造の御業によってこの世界が形を取り、秩序があり意味がある世界になっていく物語です。「神は言われた」「そのようになった」が繰り返され、混沌の世界が、神の栄光の表現として造られた世界となっていくのです。

 この素朴な物語には、私たちが生きている「地」をどう見るか、この目に見える世界をどう見るかということについての、聖書の強烈な主張が込められています。それは何か。――この世界に形を与え、秩序を与え、意味を与えてくださったのは神なのだということです。神の言葉と神の御業がなければ、この世界はもともと混沌であり闇でしかなかったのだ、ということです。そして最も重要なことは、今述べたことの当然の帰結となるわけですが、神から離れてしまうならば、この世界は初めの混沌と暗黒に戻らざるを得ないのだ、ということです。神が光を与えたのですから。神が秩序を与え、意味を与えたのですから。その神から離れてしまうならば、最初に書かれていた、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」という状態に逆戻りしてしまうことになるのです。

 今申し上げたことは、聖書の別の箇所において、もっとあからさまに語られております。今から二千五百年以上も前、紀元前七世紀から六世紀にかけて、このメッセージを人々に激しく語った一人の人物がいたのです。その人の名はエレミヤと言います。彼は神に背いたイスラエルの民に、このような神の言葉を語りました。「まことに、わたしの民は無知だ。わたしを知ろうとせず、愚かな子らで、分別がない。悪を行うことにさとく、善を行うことを知らない」(エレミヤ4:22)と。

 そして、そのような人々が迎えることになる結末を、エレミヤは既に目の前に見ているかのように、このように語るのです。「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった。わたしは見た。見よ、山は揺れ動き、すべての丘は震えていた。わたしは見た。見よ、人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた。わたしは見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり、町々はことごとく、主の御前に、主の激しい怒りによって打ち倒されていた」(同23‐26節)。

 そこに書かれています「大地は混沌とし」という表現に見られるのは、先ほど創世記に見た「地は混沌――形なく、むなしく」という言葉なのです。旧約聖書に三回出てきますと言いましたが、その一つです。地は混沌としていた。そのような大地を「わたしは見た」と彼は言うのです。地は形なく、むなしくなり、光を失って真っ暗闇になってしまうことをエレミヤは見ていたのです。この世界に秩序を与え意味を与える神を離れるなら、そのように神に背いた世界はやがて確実に崩壊し、暗闇の中に落ちていくことを、エレミヤは心の目をもって見ていたのです。

 そして、エレミヤが語っていたことが真実であることを、イスラエルの民はやがて自ら歴史において経験することとなりました。ユダの王国は崩壊し、人々が依り頼んでいた神殿は焼き払われ、エルサレムの城壁は崩されて瓦礫の山となり、主だった人々はバビロンに連れ去られ捕囚となったのです。「大地は混沌とし、空には光がなかった。」――確かに、人々は現実にそのような世界を見ることとなりました。「大地は混沌とし、空には光がなかった」――その言葉はまさに彼らの人生における実感だったのです。

 そのような人々にとって、あの天地創造物語は、単なる遠い昔話やおとぎ話ではありませんでした。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった」。そう語る初めの状態の描写は、まさに彼らの生きている世界の描写、彼らの生活の描写に他ならなかったのです。

神は言われた「光あれ」
 さて、《彼ら》の話をしてきました。ではそれから二千五百年以上後の《私たち》はどうなのでしょう。現代の多くの人にとって、この創世記の物語は、あまりにも原始的な、あまりにも素朴な物語に聞こえるに違いありません。しかし、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった」というこの言葉は、私たちにとっていよいよ身近な言葉となっているのではないかと思うのです。実際私たちは、それこそ文字通り全地について、すなわち地球規模において、その現実を目にし始めているのではないでしょうか。

 しかし、そのように「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり」という言葉が自分自身との関わりにおいて読まれ、天地創造の物語がまさに《私たちの物語》として読まれる時にこそ、続く3節の言葉が私たちにとって大きな意味を持つのです。その混沌と闇の中に神の言葉が響き渡るのです、「光あれ」と。

 「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(3節)。そこから神の御業が始まりました。混沌と闇の状態を決定的に変えてしまう神の御業が始まりました。そしてこの後、物語は実に秩序正しく進んでいきます。「神は言われた」「そのようになった」「神はこれを見て、良しとされた」という言葉の繰り返しの中で、神の良しとされる秩序ある世界が造り出されていくのです。想像して見てください。この単純な繰り返しによる物語は、バビロンに連れ去られた民、混沌と暗闇を見ていた人々にとって、どれほど大きな慰めと希望を与える物語であったことかと思うのです。

 先ほど、「この世界に秩序と意味を与える神から離れてしまえば、この世界は初めの混沌に戻らざるを得ないのだ、という主張がここにある」と申しました。しかし、本当はもっと大きなことが語られているのです。それは「神が初めにこの世界に形を与え、秩序を与え、意味を与えたのだから、混沌となった世界にも再び形を与え、秩序を与え、意味を与えることがおできになるはずだ」というメッセージです。世界の創造の物語は、神が《世界を再創造することもおできになる》ことを語る物語でもあるのです。

 あの「初め」において、混沌とした大地、闇が深淵を覆っているような世界を、神はそのまま捨てて置かれませんでした。ならば、今のこの世界も、神は混沌と暗闇の中に、そのまま捨てて置かれるはずがありません。混沌と暗闇の中にある人生も、神はそのまま捨てて置かれるはずがありません。神が語られるならば、神が「光あれ」と言われるならば、そこには光がもたらされるのです。そこには新しい秩序が生まれ、新しく意味が生まれるのです。新しい創造がそこで起こるのです。そこにこそ彼らの希望はあったし、そこにこそ私たちの希望もあるのです。

二度目の「光あれ」
 そして事実、神はこの世界に向かって、もう一度、決定的な仕方で、「光あれ」と語られたのです。そのことを私たちに伝えているのが、今日の福音書朗読で読まれた聖書の言葉です。ヨハネによる福音書の冒頭の言葉です。

 この箇所が創世記の天地創造物語を念頭に置いて書かれていることは一目瞭然です。ここでキリストは「言」と呼ばれています。そして、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)と語られているのです。言は人間となって、ナザレのイエスという人間として、この地上を歩まれました。すなわち、そのようにして神は、最終的に決定的な仕方で語られたのです。父なる神と一つである御子なる神をこの世界に送られることによって、神はこの世界に語られたのです。かつてこの世界の創造にたずさわった《言》が、神に背いて混沌となった世界に来られました。その言の内には命がありました。神の命がありました。そして、「命は人間を照らす光であった」と書かれています。そうです、あの時と同じ「光」です。いわば、神はあの初めの時と同じように、もう一度「光あれ」と言って、御子をこの世界に遣わされたのです。

 そして、神が「光あれ」と語られたのですから、既にこの地上に光がもたらされているのです。イエス様はこう言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。光は既に与えられているのです。ですから、イエス様と共にあるならば、その人は命の光を持つのです。もはや混沌の暗闇の中を生きていく必要はないのです。

 先ほど、「世界の創造の物語は、神が《世界を再創造することもおできになる》ことを示している」と申しました。神は二度目の「光あれ」を語られました。ですから新しい創造の御業は既に始まっているのです。馬小屋の中で生まれ、あのゴルゴタの十字架の上で死なれ、空になったあの墓において復活され、あのオリーブ山から天に挙げられた、あの御方を通して神が語られた「光あれ」。そこから新しい創造は始まっているのです。

 パウロもこう言っています。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(2コリント5:17)と。そのような新しい創造がキリストの到来と共に始まっているならば、それは完成へと向かっているのです。そのキリストが私たちにも宣べ伝えられました。光なるキリストが私たちの人生にもたらされました。キリストに結ばれた私たちにおいても新しい創造が始まっています。そして、その善き神の御業は完成へと向かっているのです。

(祈り)

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