2025年12月28日日曜日

「光輝く命の水の川」

2025年12月28日 主日礼拝説教 

聖書:ヨハネの黙示録 21:22‐22:5

 今日の第2朗読ではヨハネの黙示録が読まれました。この書物が書かれたのは、紀元一世紀の終わり頃、教会に激しい迫害が加えられていた時代であると言われています。そのような中でも、キリスト者たちは共に集まり、礼拝をささげ、祈り、聖餐を行い、信仰を励まし合っていました。ヨハネの黙示録は、そのような礼拝の中で朗読されるために書かれた書物です。

 そこには迫害の中でパトモス島に抑留されていたヨハネが、神によって見せられた幻が記されています。それは一人の人間の神秘体験に留まらず、苦しみの中にあった当時の教会全体に向けて、さらには後の時代の代々の教会に向けて語られた希望のメッセージでもあったのです。

 今日読まれた箇所は、その黙示録も終わりに近い部分です。彼が幻の中で見ているのは、聖なる都エルサレムです。それは彼が知っている地上のエルサレムではありません。神の栄光に輝く、新しいエルサレム、救いの世界です。

 もちろん、神が見せてくださった最終的な救いの世界を、人間の言葉で描写することには、本質的な限界があるでしょう。それでもなお、ヨハネが言葉を尽くしてこの幻を語ろうとしているのは、苦しみの中にあった人々に、私たちを待っている救いの世界を伝えたいと願ったからです。特にこの21章を読みますと、その熱情がひしひしと伝わってまいります。今日は途中からですが、その言葉に耳を傾けてまいりましょう。

神殿がない、太陽も月もない
 その幻の中で、ヨハネはまず一つの重大なことに気づきます。そこには、エルサレムにあるはずの神殿がなかったのです。――しかしすぐに、それはもはや必要がないのだと悟ります。ヨハネはこう語っています。「全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである」。

 ここでヨハネが見せられていることは、当時の教会にとって、極めて大きな意味を持つものでした。というのも、この幻が語られた時代、地上のエルサレムには、すでに神殿が存在していなかったからです。紀元70年、エルサレムの神殿はローマ軍によって破壊されてしまったのです。

 それまでエルサレムの神殿はユダヤ人にとっては信仰の拠り所でした。初期の教会にとってもそうでした。キリスト者となった後も、使徒たちは神殿での礼拝を続けていたのです。しかし、その神殿が破壊されてしまいました。ユダヤ教のサドカイ派は祭司を中心としていましたから、神殿の喪失と共に歴史から消えていきました。一方、ファリサイ派は残りました。律法の遵守を要として、律法の民として残ったのです。それが今日のユダヤ教の流れです。

 一方、キリスト教会もまた残ったのです。どうしてか。復活したキリストこそまことの神殿であると理解していたからです。かつてイエス様がこう言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2:19)。ヨハネはこの言葉を次のように説明しています。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(同21‐22節)。

 そのようにイエス様こそが神殿なのです。キリストの体が分け与えられる聖餐の場にこそ神殿があるのです。そして、聖餐によって形作られる信徒の共同体、すなわちキリストの体なる教会こそが神殿なのです。どんなに小さな集まりであっても、それがたとえ迫害の中で地下墓地においてひっそりと集まって礼拝をささげている小さな群れであっても、確かに自分たちは神殿にいると信じて、彼らは礼拝をささげてきたのです。

 そして、ヨハネが見た幻は、確かにその理解は間違っていなかったことをはっきりと示していたのでした。終わりの日に、目に見える神殿などないのです。主と小羊が神殿なのです。

 またヨハネはもう一つのことに気付きます。太陽も月もないのです。しかも、そこには明かりがいらない。それはなぜか。神の栄光が都を照らしているからです。「神の栄光が都を照らしている」ということが何を意味するのか、ヨハネにはわかったはずです。すぐにイザヤ60章の預言を思い起こしたに違いありません。

 そこにはこうあります。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」(イザヤ60:2)。そして、同じ章の19節にはこう書かれているのです。「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。あなたの太陽は再び沈むことなく、あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる」(同19節)。

 そうです。主が永遠の光となる時とは、「あなたの嘆きの日々は終わる」と約束されているその時なのです。夜は永遠に夜なのではありません。嘆きの夜も必ず明ける時が来るのです。太陽の光によらない朝が来る。主の栄光が照らす永遠の朝が来るのです。

閉ざされない門
 さらにもう一つの不思議な光景をヨハネは見ることになります。都の門が閉ざされないのです。地上のエルサレムにおいては、その門は夜になると閉ざされ、武装した門番によって守られるのが常でした。しかし、ここで門はずっと開け放たれたままなのです。

 一つには、もはや「夜」がないからです。しかし、もう一方において、それが開け放たれているのは、諸国の民が入れるようにです。「人々は諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る」(26節)とあるとおりです。そのように救いの門は全ての民族に広く開かれているのです。しかし、もう一方においてこう書かれています。「小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」(27節)。

 門が閉ざされて入れないのではないのです。門は開かれている。それでもなお、入れないのです。それは神の栄光が照らしているからです。神の栄光が照らす時、それは神がまことの神として自らを現される時です。だから苦しみの時が終わるのです。しかし、もう一方において、神がまことの神として自らを現されるなら、、罪ある人間はそこに近づくことができなくなるのです。

 人間の手でこしらえた偶像ならば、いくらでも人間は近づくことができるのです。罪があろうが汚れていようが近づくことができるのです。しかし、神がまことの神として現臨されるなら、罪あるまま汚れたままで近づくことなどできません。神の栄光が照らしているのが最終的な神の都なら、罪あるまま汚れたままで入れるはずがありません。

 もしキリストによる罪の贖いがなかったならば、キリストの十字架による罪の赦しがなかったら、汚れを十字架の血によって洗っていただいた人としてでなければ、神の栄光が満ちている都に入れるわけがないのです。最後までキリストを信じた人であること、そのような者として小羊の命の書に名が記されていること、それがどれほど大きな意味を持つかは、この開かれた門を前にした時に明らになるのです。

 ヨハネは先にも申しましたように、信仰のゆえにパトモス島に抑留されているのです。信仰の故に苦しみを受けているのです。しかし、キリストのゆえに、屠られた小羊の血のゆえに、罪を赦され汚れを清められた者として、神の栄光が満ちている都に身を置いている自分自身を見せていただいた時、ヨハネにははっきりと分かったに違いないのです。すべては報われる、と。この一時において、すべての苦しみも悲しみも痛みも完全に報われる、と。

命の水の川が流れていく
 そして、ヨハネはその都の中に「水晶のように輝く命の水の川」を見ることになります。その川は神と小羊の玉座から流れ出ているのです。

 ヨハネが見た光景、それはかつてエゼキエルが見た光景と同じものでした。エゼキエル書には次のように書かれています。「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた」(エゼキエル47:1)。これが流れ下るにつれて深くなり大きな川となるのです。

 そこで大事なのは次の描写です。「川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」(同9節)。さらに、その川のほとりには実を結ぶ木々が生い茂り、その実は食べ物となり、葉は人を癒すものとなる、と語られています(同12節参照)。

 ここを読みますと、もう一つの箇所が思い起こされます。イエス様がこう言われた言葉です。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)。ヨハネはこの言葉について次のように説明しています。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」

 イエス様の言葉は明らかに先ほど引用したエゼキエル書の預言を背景として語られています。神殿から流れ出る生ける水の川。それはキリストを信じる人において、ある意味では実現しているのです。イエス様は栄光をお受けになりました。十字架にかけられ、そして復活して天に挙げられました。そして、既に聖霊は降ったのです。キリストを信じる者は神殿となり、そこから聖霊の生ける水が川となって流れ出る。そのようにして確かにこの二千年間人から人へ福音は伝えられてきたのです。

 しかし、今日お読みしたヨハネの幻を見ますと、私たちが教会生活において経験していることは、やがて終わりの日に見ることになる、新しいエルサレムの先取りに他ならないことが分かります。私たちが見ていることはまだ一部に過ぎません。私たちが経験していることは、まだほんの一部です。私たちはやがて、本当の命の水の川の流れを見ることになるのです。完全な命の世界、完全な癒しと救いの世界を、見ることになるのです。

2025年12月21日日曜日

「真に幸いな人とは」

ルカによる福音書 1:39-56

 今日の福音書朗読は「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」(39節)という言葉から始まっていました。マリアは急いでいました。一刻も早く会って話をしたい人がいたからです。親戚の老婦人エリサベトです。

受胎告知
 この直前には「受胎告知」の場面が書かれています。天使ガブリエルがマリアに現れて、彼女がメシアを身ごもっていることを伝えたというくだりです。天使はマリアに言いました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」。これが第一声でした。しかし、天使が持ってきた話は、単純におめでたい話ではありませんでした。

 ガブリエルは続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。「恐れることはない」と言いますが、これほど恐ろしい話はありません。マリアはこの時、ヨセフと婚約していたのです。マリアはヨセフと共に幸せな家庭を築くことを夢見ていたごく普通の娘だったに違いない。しかし、そんなささやかな望みがこの天使の言葉で打ち壊されてしまいました。

 婚約している娘が身ごもるということがユダヤ人社会においてどのように受け止められるか、マリアが知らなかったはずはありません。天使は「聖霊によって身ごもった」と言いますが、いったい誰がそんな説明を信じるでしょう。事実、今日でも信じない人の方が圧倒的に多いのですから。彼女の場合、姦淫の罪として告発されればまず有罪は免れません。仮にヨセフが告発しなかったとしても、彼との関係は終わりでしょう。しかし、その全てをマリアは受け止めたのです。彼女は言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。これがマリアの信仰でした。

共に信じる交わり
 しかし、マリアに不安や恐れがなかったはずがありません。ヨセフとの関係が壊れてしまうことを考えたら、どれほど辛く悲しかったか知れません。そんな思いを抱えて、彼女はユダの山里へと急ぎました。エリサベトに会うために。どうしてですか。エリサベトだったら分かってくれるからです。なぜなら、エリサベトもまた神によって男の子を与えられた人だったからです。不妊の年老いた女がただ神の力によって奇跡的に身ごもったのです。彼女ならば分かってくれる。

 いや、それだけではありません。それ以上に大事なことがあります。そこで神のことを語り合えるということです。人生に起こっていることを神の御業として語り合える。マリアはそんなエリサベトに会うために急いだのです。

 マリアは間違ってはいませんでした。確かにエリサベトこそ、マリアが会うべき人でした。「そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」(40節)と書かれています。この場面は物語がかなり端折られているようにも思います。実際には挨拶の言葉に次いで、これまで起こってきたこと、自分の思いなどをマリアは語ったでしょう。あるいは不思議なことにエリサベトには語らずして事情が分かったということかもしれません。いずれにせよ、大事なことは、深刻な事態に置かれているマリアに対してエリサベトはこう言ったということです。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」(42節)。

 祝福するのは神様です。神様がマリアをも胎内の子も祝福してくださっている。そのように、神がなさっていることとして、一緒に信じて語ってくれた、それがエリサベトでした。彼女は言ったのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)。

 マリアがこれから直面せざるを得ない困難は、もちろんエリサベトにも分かっているのでしょう。しかし、エリサベトが目を向けているのはそちらじゃないのです。そうではなくて、神のご計画の方なのです。必ず実現へと向かっていく神の御業について語っているのです。そうです、困難があろうが何があろうが、神の御業を一緒に信じて、一緒に語り合ってくれる人こそ、マリアには必要だったのです。

 このエリサベトがいたからこそ、その後の「マリアの賛歌」が続くのです。そこで爆発的な喜びに満たされてマリアは歌うのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(46‐47節)。ここで初めて、マリアの口から「喜ぶ」という言葉が出て来るのです。

 事態は何も変わってはいません。困難が無くなったわけではありません。しかし、一緒に信じるところで、一緒に神の御業について語り合うところで、悩みが喜びに変えられていくのです。不安や恐れが賛美へと変えられていくのです。悩みについて語り合える人や場所はこの世にいくらでもあるかもしれません。しかし、悩み多き人間にとって、本当に必要なのは、当たり前のように神について語り合うことができ、そして、共に信じて神を賛美することができる交わりなのです。そして、それは私たちにも、こうして与えられているのではありませんか。

最も喜ばしきこと
 マリアとエリサベトの間において何が起こったのか。今日の私たちについて言うならば、教会において何が起こり得るのか。マリアが歌っている言葉に、もう少し耳を傾けてみましょう。

 マリアは何を喜んでいるのでしょう。「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と言った後、彼女はこう続けるのです。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」(48節)。そうです。彼女は主が自分に「目を留めてくださった」ことを喜んでいるのです。だからそんな自分について「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と語るのです。

 しかし、彼女が単純に自分の個人的な「幸い」を考えて喜んでいるのではないことは、このマリアの賛歌全体から明らかです。後半に入ると、例えば、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ・・・」というような、まるで革命歌であるかのような言葉が続くのです。つまり彼女の目は自分の小さな幸福に向けられているのではなくて、その目はこの世界に向けられているのです。

 この世界とはどういう世界ですか。ここに歌われているように、実際に「思い上がる者」が存在する世界です。「思い上がる者」が権力と富を追い求めている世界です。言い換えるなら、最終的にはカネと力がモノを言うと考えられている世界です。しかし、そこで彼女はこう歌うのです。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」

 マリアは何を言っているのか。――要するに、最後にモノを言うのはカネと力じゃない、と言っているのです。この世の力など、アッという間にひっくり返されるし、この世の富など、アッという間に失われるのです。では最後にモノを言うのは誰なのか。それは神なのだ、と言っているのです。ならば私たちは思い上がってはならないのです。人間がこの世界を動かしているかのように思い上がってはならないのです。

 そして、それは私たち人間にとって、本当は幸いなことなのです。なぜなら、もし人間がこの世界を動かし、その運命を握っているならば、最終的に救いはないからです。それはそうでしょう。こんな愚かで、愚かなことを繰り返している、まことに罪深い私たち人間がこの世界を動かしているならば、どう考えたって最終的に破滅しかないでしょう。

 それは個人の人生を考えても同じです。私たちの人生を動かし、運命を握っているのが、私たち自身であったり、他の人間であったりするならば、どう考えても救いはありません。ろくでもない人間が動かしているのですから。しかし、聖書は「そうじゃない!」と言っているのです。この世界を支配しているのは神なのです。私たちの人生を手にしているのも神なのです。そして、その神が、この世界をも私たちをも救おうとしていてくださるのです。

 マリアはこの世界に目を向け、この世界に生きて働いておられる神、救い主を与え、救いのご計画を進めておられる神に目を向けて歌っているのです。そうすると、「目を留めてくださった」と言って喜んでいる意味も分かるでしょう。自分はこの世においては取るに足りない小さな存在かもしれない。この世においては「身分の低い」者であるかもしれない。しかし、そんなわたしにも神は目を留めてくださって、この世界におけるご計画の中で用いてくださる。わたしは主のお役に立つことができる。そのことを喜んでいるのです。

 もし人が自分の幸・不幸だけを考えているならば、人生はまことに不可解な重荷に満ちていると言えます。なぜ自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。なぜ私ばかりがこんな重荷を負わなくてはならないのか。そう言って嘆かざるを得ないのでしょう。しかし、そうではなくて、目をこの世に転じて、この世における神の御業に目を転じ、神がなさろうとしていることを考え始める時、一方的に天使が運んできた重荷の意味もまた見えてくるのです。

 そして、既に傍らにはエリサベトが与えられているのです。当たり前のように神について語り合い、そして、共に信じることができる交わりが与えられているのです。そこにおいて、神に用いていただける喜びを分かち合い、悩みが喜びに変えられ、不安や恐れが讃美へと変えられていくことを共に喜ぶことができる。――こういう人をこそ、こういう人たちをこそ、本当の意味で「真に幸いな人」と呼べるのでしょう。そして、私たちはここにおいて、そのように生きるようにと招かれているのです。

2025年12月17日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 27:1~12

サムエル記上 27:1~12

 26章と27章を続けて読みます時に、ダビデの姿のその落差に誰でも戸惑いを覚えるに違いありません。

 26章においてダビデはアビシャイと共にサウルの陣地に下っていきます。そこで彼が目にしたのは明らかなる神の介入でした。サウルが眠っている。アブネルも兵士もその周りで眠っていた。まさに神がサウルをダビデの手に渡されたと言える出来事でした。アビシャイは自分がサウルを殺すことを申し出ます。しかし、ダビデはアビシャイに「殺してはならない」と言ったのです。理由は24章の出来事と同じです。ダビデにとってサウルは敵ではなく、主に油注がれた方なのです。

 サウルは命を救われたことを悟り、ダビデに言います。「わたしが誤っていた。わが子ダビデよ、帰って来なさい。この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない」(26:21)。しかし、ダビデにとってもはやサウルが危害を加える意志があるか否かは問題ではありませんでした。そうではなくて、神の約束こそが意味を持つのであり、神が約束を実現しようとされるなら、サウルが何を企んでも問題ではないのです。

 ダビデは言いました。「今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主もわたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように」(26:24)。これが26章に見るダビデの姿です。信仰によって自らの命を主の手に委ねたダビデです。しかし、なんとその直後の27章においてダビデは自らの心に言うのです。「このままではいつかサウルの手にかかるにちがいない。ペリシテの地に逃れるほかはない」(1節)。いったいこれはどうしたことでしょう。

 もちろん、事情を考えるならば、ダビデがそう言わざるを得なかったことも理解はできます。明らかにサウルは前言を撤回し、再び追跡を初めています。ダビデに従う兵は六百人。しかし、共にいるのは兵士だけではありません。自分の家族、また兵士らの家族も共にいるのです(3節)。ダビデは彼らをも守らなくてはなりません。また、彼らに食料を調達して食べさせていかなくてはなりません。これまでの経験から言って、ユダの町々に頼れないことは明らかでした。ダビデは幾度も裏切られてきたのですから。ですので、「ペリシテの地に逃れるほかない」という考えが、ダビデにとって苦肉の策であったことは理解できます。

 しかし、問題は単に彼がペリシテ人の地に行ったことではありません。彼がどのように決断したかなのです。なんとこの章にはただの一度も主の名が現れてはこないのです。エフォドを携えるアビアタルも登場しません。ダビデは「心に思った」と書かれています。これは「自分の心に言った」というのが直訳です。彼は主に御心を問うのではなく、自分の心と語り合って決めたのです。つまり、そこには主との対話がないのです。

 この事実がすべてを物語っています。主は生ける神です。主との関係は人格的な交わりです。信仰の人であるということは信念の人であるという意味ではありません。信念はそう簡単には変わらない。しかし、信仰の命は主との生ける交わりです。昨日まで信仰の人であったとしても、主との対話を失えば、ペリシテ人と何ら変わることはありません。生ける神に向くことがなければ、ダビデに与えられている約束も意味を持つことはないでしょう。そのようなダビデとして、彼はペリシテの地へと向かったのです。

 ダビデがガトの地に逃れたのは、これが初めてではありません。21章において彼はガトを訪れています。あの時、彼は恐れに捕らわれ、狂人を装ってそこから逃れたのでした。彼は再び同じところへと向かいます。

 今度は事情が違うこともありました。既に、ダビデがイスラエルにおいては反逆者と目され、サウルに追われている身であるというニュースは、ペリシテ人の各都市に伝えられていたことでしょう。そして、ダビデのもとには少なくとも六百人の兵士が共にいます。ペリシテ軍は積極的に傭兵を受け入れておりましたし、その中には寝返ったヘブライ人が少なからずいたようですから(14:21)、いわば反乱軍とされている彼らはペリシテ人に歓迎されることでしょう。ダビデにはそのことが分かっていたのです。

 ダビデの目算はみごと当たりました。サウルは追跡を断念しました。そして、ガトのアキシュから厚遇されました。しかし、いくつか残されている問題がありました。ガトに住み、王のもとにいるならば、当然のことながらペリシテ人との交流が避けられません。ペリシテ人の神ダゴンの祭儀にも参加を要請されることでしょう。

 そして、もう一つの大きな問題があります。傭兵としてそこにいるかぎり、やがてユダの人々と戦わなくてはなりません。ダビデはアキシュのもとに身を寄せましたが、寝返ってペリシテ人の軍隊に組み込まれているヘブライ人と同じではありませんでした。ダビデがサウルをあくまでもサウルを主に油注がれた者として見なしたように、ダビデにとってイスラエルはあくまでも神の選びの民なのです。そこから自らを切り離すようなことはできませんし、戦うこともできません。

 そこでダビデは策を講じます。まずある程度アキシュのもとから離れて共同で住むことのできる場所を求めました。ダビデの言葉は巧みです。彼は謙遜を装ってこう言うのです。「御厚意を得られるなら、地方の町の一つに場所をください。そこに住みます。僕が王国の首都で、あなたのもとに住むことはありません」(5節)。アキシュは彼にツィクラグを与えました。これである程度の独立は保てました。

 そして、さらにダビデと兵士たちは、イスラエルと敵対し、しばしば被害をもたらしている周辺諸民族を襲い始めたのです。そして、彼らを全滅させ、分捕り品を携えてアキシュのもとに帰って報告したのです。ユダのネゲブを、エラフメエル人のネゲブを、カイン人のネゲブを襲いました、と。

 エラフメエル人はユダの一氏族です。カイン人はモーセの身内でしたから、歴史的にユダと親交関係にあります。つまり、あたかもユダの諸氏族やユダの味方を討ってきたかのように装ったのです。しかも、この偽りが発覚しないように、彼らを皆殺しにしたのでした。

 この記述に私たちは人道的に許し難いものを感じますが、私たちが、このダビデの行為について、現代人の感覚をもって過剰に反応することは正しくないでしょう。ダビデの展開した戦闘は、イスラエルにとって経常的な戦闘の延長でしかありませんでした。何ら特別なことをしていたわけではないのです。しかし、それにしても、やはりこれを神の命じた戦い、主の戦いと同一視することはできないでしょう。明らかにダビデは神の御心に背いているのです。

 それでもなお、結果的に見るならば、ダビデの策略はすべて成功しました。ツィクラグの地も得ましたし、アキシュはすっかりダビデを信じていました。「彼は自分の民イスラエルにすっかり嫌われたから、いつまでもわたしの僕でいるだろう」(12節)と思っていたのです。気の毒なくらいのお人好しです。ともかくアキシュの人の良さのゆえに、ダビデは当面の成功を収めたのでした。

 しかし、偽りは偽りを次々に生んでいくものです。そのうちに偽りの糸はほどけなくなるほどに絡まっていく。そして、次第に偽る者を窮地に追いやるのです。ダビデの偽りもまた例外ではありませんでした。偽りを巧みに操ったダビデの策略が、彼自身を窮地に追い込むことになるのです。ほどなくして、ペリシテとイスラエルがついに全面戦争に突入することになるからです。ペリシテ人が軍を集結させたとき、アキシュはダビデに言いました。「あなたもあなたの兵もわたしと一緒に戦陣に加わることを、よく承知していてもらいたい」(28:1)。

 そして、もう一つ。最も賢い選択であったはずのツィクラグへの居住が、恐るべき悲劇をもたらすことになります。ダビデと兵士たちがペリシテ軍と合流してアフェクに集結している間に、策略として討っていたアマレク人が報復攻撃をしかけ、町に火をかけ兵士の家族を連れ去ってしまうのです。ダビデは苦しみの中で、主に向かざるを得ないところまで追い込まれることになるのです(30:6)。しかし、それはダビデにとっては良いことでありました。それは神に立ち帰る契機となったからです。


2025年12月14日日曜日

「主の道を備えよ」 

マルコによる福音書 1:1‐8

 今日の聖書箇所には洗礼者ヨハネという人物が登場しました。ヨハネについては次のように説明されています。「預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(2‐4節)。

 ヨハネはキリストより先に神に遣わされた者として登場します。何のために遣わされたのか。今日の聖書箇所によるならば、ヨハネは、「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ者として遣わされた人だというのです。つまりキリストが来られる前に、人々が聞くべき声があったということです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声です。

 それは、実は私たちも同じなのです。来週、私たちはクリスマス礼拝をおささげし、キリストがこの世に来られたことを祝おうとしています。しかし、その前に聞かなくてはならない声があるのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。私たちはクリスマスを祝う前に、今日、この声に耳を傾け、二つのことを御一緒に考えたいと思います。第一は、「主の道」とは何を意味するのか、ということ。そして第二は、主の道を「整える」とはいかなることを意味するのか、ということです。

主が通られる道
 「主の道」とは何を意味するのか。このことを考えるために、この引用の元でありますイザヤ書を開いてみましょう。今日の第一朗読の聖書箇所です。若干言葉が違いますが、イザヤ書40章3節が元になっていることはすぐに分かります。こう書かれています。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」(イザヤ40:3)。

 「主のために、荒れ野に道を備え」るのは、主が通られるためです。では、主はその道を通ってどこに向かわれるのでしょうか。実は、主の行き先はシオン、すなわちエルサレムなのです。

 この言葉の背景を簡単に説明しておきます。この時、エルサレムには、破壊された神殿の跡があったのです。紀元前六世紀に、バビロニア軍によって、エルサレムは神殿もろとも破壊され、廃墟とされてしまったからです。なぜ神の都と呼ばれたエルサレムが廃墟となってしまったのか。それは戦争によってです。しかし、預言者は単に戦争によって破壊されたのだ、とは言いませんでした。人間の罪のゆえに廃墟になったの、と言うのです。

 しかし、神は廃墟となったエルサレムを見捨ててしまわれませんでした。神は預言者にこう語られたのです。「エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の罪は償われた、と」(2節)。苦役の時は終わったと神が宣言してくださったのです。そして、主が廃墟となった都に、破壊されてしまった神殿に、再び帰ってきてくださるというのです。ですから、「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と呼び掛けられているのです。このように、預言者が語っている「主の道・主のための道」とは、罪によってもたらされた悲惨な現実の中に、神様が来てくださるための道なのです。

 さて、その後、廃墟であったエルサレムはどうなったのでしょう。破壊されてしまった神殿はどうなったのでしょう。歴史的な出来事としては、後の時代に、エルサレムに帰還することを許された人々によって、神殿が再建されました。エルサレムの城壁も修復されました。神殿における祭儀も復活しました。彼らは新しい共同体社会を作り上げていきました。苦役の時は終わったと神が宣言してくださったことは、長い時を経て、確かに実現したように見えたかもしれません。壊れたものが元通りになることが重要ならば、これでメデタシ、メデタシ、ということになるのでしょう。

 しかし、彼らは「主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ」と呼び掛けられていたのです。そして、その言葉がこうしてイザヤ書に記されてて、後の時代においても、それこそエルサレムが再建された後にも、読まれてきたのです。それはなぜなのか。――それは私たち人間にとって、とてつもなく大きな意味を持っているからなのです。

 私たちは誰でも、何かが壊れたなら、それが元通りになることを願います。しかし、人間の罪によって壊れたものは、ただ元通りになれば良いのではないのです。人間の罪のゆえに廃墟となった都は、ただ復興すれば良いのではないのです。破壊された神殿は、ただ建て直されれば良いのではないのです。形だけ元通りになってもだめなのです。大切なことは、神が来てくださることなのです。そこにこそ、真の回復と救いはあるのです。ですから、「主の道」が重要なのです。

 だからこそ、それから数百年後に、同じ声が荒れ野に響きわたったのです。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」。まさに、そのように叫ぶ声そのものであるヨハネが現れたのです。なぜか。主が来られるからです。イエス・キリストが来られるからです。その御方において、神が来られるからです。そして、神が来てくださるところにこそ、真の回復と救いはあるからです。

主の道を整えよ
 では、どのようにして、主のために道を備えるのでしょう。主の道を「整える」とはいかなることを意味するのでしょうか。

 4節にはこう書かれています。「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(4節)。これが「主の道を整えよ」と叫ぶ声であるヨハネが実際に行ったことでした。そして、ヨハネがそのように悔い改めの洗礼を宣べ伝えた結果として、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(5節)と書かれています。これが主の道を「整える」ということだったのです。

 「悔い改めの洗礼」と書かれています。しかし、洗礼そのものはヨハネが何もないところから思いついたものではありません。旧約聖書のレビ記にも、身を洗って清めることが定められています(レビ15:13)。当時の人々にとっても、神の前に出るために身を清めるということ自体は、決して珍しいことではなかったのです。けれども、ここを読みますかぎり、ヨハネが宣べ伝えていた洗礼は、ふだんの清めのための水浴びとは違います。罪の赦しを願い、悔い改めと結びついた、決定的な行為だったのです。

 そのように考えますと、ここに書かれているように、多くの人々がヨハネのもとに行ったということは、実に驚くべきことだとも言えます。というのも、彼らの多くは幼い時から聖書を学び、神の律法を重んじる世界に生きて来た人々だからです。彼らは律法を持たない異邦人を汚れた者と見なし、また同じユダヤ人であっても徴税人など「罪人」と呼ばれた人々との交わりを避けて生きて来た人々なのです。まさに、罪人は外にいる、問題は他の誰かにある、そう思いやすいのが人間なのでしょう。ところがヨハネは、そうした人々に対しても、「悔い改めよ」と叫び、罪を告白し、洗礼を受けることを求めたのです。それは本来、激しい反発を呼び起こしても不思議ではない行為だったはずです。にもかかわらず、「ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て」と書かれているのです。

 しかし、もう一方において、現実的に考えるなら、「皆」が来ることはあり得ないとも言えます。これは明らかに誇張表現です。彼のもとに来なかった者も少なくはなかったはずなのです。事実、この福音書11章には、ヨハネのもとに来なかった祭司長、律法学者、長老たちが出てくるのです。

 なぜ彼らはヨハネの言葉を受け入れなかったのでしょうか。自分が本当に赦されなくてはならない罪人であるなどと思わなかったからです。要するに、自分を正しい者だと考える者は、決してヨハネのもとには来なかったのです。「悔い改め」とは、方向転換をすることを意味します。神に立ち帰ることです。方向転換は、方向が間違っていることを認めないとできないのです。

 ローマ人の支配下にあった当時のユダヤ社会において、貴族階級や特権階級以外の民衆は、一般的に苦しい生活を強いられていたことと思います。多くの人々が救いを求めていたに違いありません。しかし、支配しているローマ人、異邦人のゆえに自分たちは苦しい生活を強いられているのだとしか考えられないなら、悔い改め、つまり方向転換はできないのでしょう。一般的に言って、自分以外の人間が皆悪いためにこのような苦しみを負っているのだ、と考えるところにとどまっている限り、方向転換はできないのです。環境が悪い、時代が悪い、世の中が悪い、為政者が悪い、あの人が悪い、この人が悪い、――そう言ってすべてを他者の責任としている限り、方向転換は起こりようがないのです

 しかし、そうではなく、ヨハネの言葉を聞いて、他の誰かではなく、そもそも自分の生き方そのものがおかしいのではないか、そもそも神との関係がおかしいのではないか、ということに気づいた人々がいたのです。自分の人生の方向そのものがおかしいのではないか、自分こそ赦しを必要としている罪深い者なのではないか、ということに気づいた人々がいたのです。そして、そのような人々が、ユダヤ人としてのプライドも、周りの人々との間のしがらみもかなぐり捨てて、ヨハネのもとに来たのです。そこに起こっていた悔い改めこそ、まさに「主の道を整え、その道筋をまっすぐにする」ことに他ならなかったのです。

 人はキリストの前に、洗礼者ヨハネに出会わなくてはなりません。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」荒れ野で叫ぶ者の声を、私たちはこの待降節第三週に耳にしています。私たちは、クリスマスを相応しく迎えるために、この言葉をしっかりと受け止めなくてはなりません。私たちは、あのヨルダン川において、自分の罪を告白し、悔い改め、方向を変えて生き始めた無数の人々の姿を思い描くべきでしょう。そして、私たちもまた、その中に身を置くべきであろうと思います。悔い改めへの呼びかけこそ、この期間、私たちが第一に聞かなくてはならない言葉なのです。

2025年12月10日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 26:1~25

 サムエル記上 26:1~25

 今日の箇所を読むに当たっては、24章に記されていた出来事を思い起こす必要があります。その時、ダビデと600人の兵士たちはエン・ゲディの要害に潜んでおりました。洞穴の多いその地域は彼らが身を隠すのに絶好の場所でした。しかし、彼らの居場所が密告され、サウルは三千人の兵士を率いてダビデに追い迫ります。

 その途中、サウルは洞窟を見つけ、そこで用を足すために入りました。しかし、なんとその洞窟の奥にはダビデと兵士たちが隠れていたのです。サウルを殺すには絶好のチャンスでした。兵士たちはサウルを殺すように勧めます。ところがダビデはサウルの上着の端を切り取っただけで戻ってきてしまったのです。ダビデはサウルに油注いで王とされた神を畏れたのです。

 サウルが洞窟を出るとダビデも続いて洞窟を出て背後から声をかけました。そして、サウルを殺すことのできるところにいながら手をかけなかったことを示します。サウルは声を上げて泣いて言いました。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した」と。

 今日お読みした26章の内容は24章の話と非常に似通っていることがわかります。しかし、だからこそ私たちは両者の間に顕著な違いがあることを見落としてはなりません。そして、その違いにこそ、聞くべきメッセージがあるのです。

 24章においては、サウルを殺す機会がいわば偶然に訪れました。サウルがたまたま用を足しに入ってきたのです。これに対して26章では、明らかに神の特別な奇跡として、神がなさったこととして、サウルを殺すチャンスが与えられているのです。これが注目すべき第一の点です。

 サウルは前と同じように精鋭三千を率いてダビデを追ってきました。ダビデは斥候を出してサウルが来たことを確認しました。また自らサウルの陣営の近くまで行き、サウルとアブネルの寝場所を確定します。そして、夜になってアビシャイを伴ってサウルに近づいたのでした。

 それは普通に考えるならば、極めて危険なことでした。「サウルは幕営の中で寝ており、兵士がその周りに宿営していた」(5節)と書かれています。三千もの兵士に守られているサウルに近づこうとしているのです。そのうちの一人にでも気付かれたなら、ダビデとアビシャイの二人など、たちどころに捕らえられるか、あるいはその場で殺されてしまうことでしょう。

 しかし、なんと「アブネルも兵士もその周りで眠っていた」と書かれているのです。ただ一人さえも目を覚まさなかった。そんなことは通常あり得ないことでしょう。これは明らかに神の奇跡として描かれているのです。12節にこう書かれているとおりです。「見ていた者も、気づいた者も、目を覚ました者もなかった。主から送られた深い眠りが彼らを襲い、全員眠り込んでいた」(12節)。

 つまり、ダビデとアビシャイは、両方とも神の特別な御業を目の当たりにしているのです。奇跡の事実を見ているのです。ところが、興味深いことに、そこで両者の判断が分かれるのです。

 アビシャイはダビデに言いました。「神は、今日、敵をあなたの手に渡されました。さあ、わたしに槍の一突きで彼を刺し殺させてください。一度でしとめます」(8節)。つまり、アビシャイはこの奇跡を、《神が敵をダビデの手に渡されたのだ》と解釈しているのです。

 一方、この事態が神によって起こっていることについてはダビデの見解も同じでした。しかし、ダビデはそれを「敵をあなたの手に渡された」とは解釈しなかったのです。サウルは敵ではないからです。「神が油注がれた方」なのです。ですからダビデは「殺してはならない」と言ったのです。「主が油注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない」(9節)。つまりここで神の任職と油注ぎについてのダビデの信仰的な判断が生きているのです。

 人は状況から単純に神の御心を判断してしまいやすいものです。特にそこに神の奇跡があり、明らかな神の介入がある時に、その出来事と神の御心を短絡的に結びつけてしまいやすいのです。

 例えば、何か望んでいることがある時に奇跡的にお金が与えられたら、その望みの実現のためにお金を使いなさい、と神が言っておられると単純に考えるものでしょう。しかし、本当に大切なことは、そこにおいて本当に神が望んでおられることは何なのか、何が神の御前で正しいことなのかを考えられることなのです。

 ダビデはアビシャイを制し、いわばアビシャイからサウルの命を守りました。それこそが、神の御前に正しいことであると信じたからです。彼はただ槍と水差しを取って立ち去りました。そして、ダビデは遠く離れた山の頂に立ち、そこから語りかけるのです。

 そこで注目すべき第2の点は、ダビデが語りかけている相手が違うことです。24章では最初からサウルに語りかけていました。しかし、ここではアブネルと兵士に語りかけているのです。なぜ相手がアブネルであり兵士なのでしょうか。それは15節の言葉から明らかです。ダビデは、アブネルも兵士も死に値すると言っているのです。なぜなら、彼らはサウルを守れなかったからです。すなわち主が油注がれた方を守れなかったからです。

 「敵兵が一人、お前の主人である王を殺そうと忍び込んだのだ」(15節)とダビデは言います。この場合、「一人」とはアビシャイのことです。ダビデは初めから殺すつもりはなかったのですから。それどころか、ダビデは油注がれた方を守ることができた唯一の人物だったのです。

 サウルも兵士も、「ダビデは死に値する」と言って追っていたことを思い起こしてください。しかし、こうなった今、唯一死に値しないのはダビデだけなのです。彼の手元にある槍と水差しはそのことを雄弁に物語っていたのです。

 この声の主がダビデであることにサウルは気付きました。ダビデはサウルに「なぜわたしを追跡なさるのですか」と問います。そして、さらにダビデは「わが主君、王よ。僕の言葉をお聞きください」と言って言葉を続けます。そこで語られる内容は24章の場合と大きく異なります。

 24章では、「わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした」(24:12)と言っていたのです。つまり重要なポイントは、ダビデが「サウルに対して罪を犯していない」ということだったのです。しかし、26章においてダビデは、ただ「サウルに対して」罪を犯していないということを言っているのではないのです。

 ダビデは言います、「もし、王がわたしに対して憤られるように仕向けられたのが主であるなら…」と。つまり、もしかしたら、サウルに対しての罪はなくても、神に対して罪を犯し、その結果、神がサウルを仕向けて憤らせているのかもしれない、ということです。もしそうならば「主が献げ物によってなだめられますように」(19節)とダビデは言います。この場合、問題は神とダビデの間のことなのであって、いずれにせよサウルはもはや怒る必要はないのです。

 そしてさらに、「もし、人間であるなら」とダビデは言います。つまり、王がダビデに対して憤るように仕向けたのが神ではなく、ダビデを追放するために誰かが策略をめぐらしたのであるなら、ということです。もしそうならば、「主の御前に彼らが呪われますように」とダビデは言います。この場合も、サウルはダビデに対してもはや憤る必要はありません。誰かの策略なのですから。いずれにせよ、サウルがダビデを殺そうとする必要はないのだとダビデは言っているのです。

 サウルは自らの誤りを認めました。そして言います。「わが子ダビデよ、帰って来なさい。この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない。」しかし、ダビデはもはやサウルのもとには帰りません。ダビデは答えます。「王の槍はここにあります。従者を一人よこし、これを運ばせてください。」ダビデにとって、サウルが「二度と危害を加えない」と約束してくれるかどうかは、もはや重要なことではないのです。

 「この日わたしの命を尊んでくれたお前に、わたしは二度と危害を加えようとはしない」という21節のサウルの言葉と、「今日、わたしがあなたの命を大切にしたように、主も、わたしの命を大切にされ、あらゆる苦難からわたしを救ってくださいますように」という24節のダビデの応答には決定的なずれがあることは注目に値します。

 ダビデの命が守られるかどうかはサウルの決意や約束によるのではなく、神の約束とその真実によるということ――これがダビデがこの二回の出来事(24章と26章)を通して悟ったことでありました。そして、サウルはまだそのことを悟っていないのです。こうして結局、サウルとダビデは最後まで異なる道を行くことになります(25節)。そして、彼らはもはや二度と生きて相見えることはありませんでした。


2025年12月7日日曜日

「神の言葉は生きている」

2025年12月7日 主日礼拝説教 

聖書:テモテへの手紙二 4:1-8

自分に都合の良いことを聞こうとして
 今日の第二朗読でパウロがテモテにこう言っていました。「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」(3‐4節)。この言葉は今日の私たちにも、とてもよく分かります。このようなことはいつの時代にも起こりえることだからです。

 人は自分に都合の良いことを聞きたいものです。自分に都合の良いことを語ってくれる人を求めます。誰かに相談事をする時もそうでしょう。「どうしたら良いのでしょうか」と言いながら、実はどうするかもう自分で決めている。ただ自分のしようと思っていることを肯定してくれる人を求めているだけ、ということが往々にしてあるものです。否定されたら別な人のところに行く。また否定されたらまた別な人のところに行く。そんなことを繰り返すこともあるのでしょう。

 そのようなあり方を、ともすると信仰の世界にも持ち込んでしまいます。自分の願い求めが先にあって、そのような自分の願いを肯定してくれる言葉を求めているだけ。もう先にしっかりと握りしめている自分の見方、考え方、生き方が先にあって、それと折り合いの付く言葉だけしか受け入れない。そんなことも起こります。

 ちなみに、「自分に都合の良いことを聞こうとして」というのは、直訳すれば「聞く耳をくすぐってもらおうとして」という言葉です。耳をくすぐってもらうだけならば、顔を向けている方向を変える必要はありません。向かっている方向も変える必要はありません。そのままで何を変えることもなく、心地よさを味わえるのでしょう。

 しかし、本当のことが語られる時、その言葉は必ずしも耳をくすぐるとは限りません。むしろ本当のことが語られる時、その言葉は往々にして耳に痛いことが多いのです。なぜなら私たちの生活には偽りが多いからです。他者に対してだけではありません。自分自身に対して偽っていることも多いのだと思います。本当は分かっているのに、本当は知っているのに、認めたくない、認めようとしない。そんな実際の生活があり、そんな自分の本当の姿がある。そんな自分の姿を明るみに出すような言葉、本当の言葉は耳をくすぐることはありません。

 ですから、せっかく本当のことが語られても、そのような言葉から耳を背けてしまうことも起こります。今日の聖書箇所にも、「真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります」と書かれていましたでしょう。そう、パウロの言うとおり、実際にそのようなことは、後の時代に繰り返し起こってきたのです。

 しかし、本当は、それはまことに不幸なことなのです。「真理」から耳を背けたとしても、「事実」は変わらないからです。現実から目を背けて、「作り話」や神話の中に身を置いたとしても、何も変わらないからです。作り話によって、気休めの言葉によって、真理ではないものによって、たとえ一時的に気を紛らわせたとしても、そこに本当の救いはない。そんなことは分かり切ったことなのです。

御言葉を宣べ伝えなさい
 本当の救いは、私たちがリアリストになるところにあります。現実的になって、現実の自分自身を認めて、自分の暗闇の部分、自分自身の罪深さも認めて、そこから神を仰ぎ、神と向き合うところにしかないのです。そこにおいて神の赦しを求め、神の赦しにあずかり、赦された者として神と共に生きる。そこにしか救いはないのです。だからパウロはテモテに言っているのです。「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい」(2節)。「御言葉」とは「神の言葉」です。神は本当のことを語られるのです。その神の言葉を宣べ伝えなさいとパウロは言っているのです。

 しかし、「御言葉を宣べ伝えなさい」とテモテに対して語られているのは、もう一方において、御言葉でないものを宣べ伝えたくなるという誘惑があるからでしょう。人々が自分の都合の良いことを聞こうとして、真理から耳を背けるという誘惑があるように、伝える側にも、人々が望んでいることを語りたくなる誘惑がある。真理ではなくても、ひとときの気休めになるような言葉を語りたくなる。しかし、教会においてそのような言葉しか語られなくなったなら、そのような言葉しか聞かれなくなったら、教会は教会ではなくなってしまうでしょう。

 ではどのようにして教会は御言葉が語られ、御言葉が聞かれるところであり続けることができるのでしょうか。そこで今日の朗読箇所の直前に書かれていることに目を向けたいと思います。こう書かれていました。「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです」(3:16‐17)。

 聖書(この場合は旧約聖書)が神の霊の導きの下に書かれたということは、この書物の背後に神がおられ、この書を通して神が語られるということです。それはその後に新約聖書が成立した後にも教会が保持してきた信仰です。日本キリスト教団信仰告白においても次のように言い表されています。「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」。聖書を離れて「御言葉を語る」ということはあり得ないし、「御言葉を聞く」ということもあり得ないのです。

 先にも申しましたように、人は自分に都合の良いことを聞きたいし、また人はそう望んでいる人に都合の良いことを語りたいものです。だからこそ、私たちは自分に都合よく変えることのできない「聖書」に繰り返し立ち戻らねばならないのです。

 それゆえに、これは今日においても私たちを試す試金石ともなります。教会の様々な営みにおいて聖書が重んじられなくなり、私たちの生活から聖書が失われていくならば、それは由々しき事態です。「御言葉を語りなさい」――これは語る者に対しては至上命令であり、聞く者にとっては命綱なのです。

折りが良くても悪くても
 それゆえにパウロは「折りが良くても悪くても」と付け加えます。先に言いましたように折りが悪くなる時が来ることが分かっているからです。だから人々が求めようが求めまいが、人々が受け入れてくれようが受け入れてくれまいが、御言葉が語られなくてはならない。聖書から語られなくてはならないのです。「しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい」(5節)とパウロはテモテに命じているのです。

 パウロがこのことをどのような思いをもって命じているのかは、本日の朗読の最初にこう語られていました。「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます」(1節)。

 パウロは目の前のことだけを考えて、今この時だけのことを考えて語っているのではないのです。そうではなくて最終的にキリストの御前に立つ時、終わりの時を思いつつ語っているのです。私たちがどう生きて来たかが神の御前において問われる時を念頭において、パウロは語っているのです。

 その意識は、それは御言葉を語るにしても、聞くにしても、決定的に重要なことなのでしょう。実際、私たちの信仰生活において最も大事なことは何なのでしょう。何を思って聖書の言葉を聞いているのでしょう。この不安に満ちた世の中にあって、少しでも平安に生きられることでしょうか。毎日の生活に役立つ教えを得ることでしょうか。悩みを解決する手だてを得ることでしょうか。もしそれだけのことならば、何も神の言葉が語られなくても、この世の言葉や巧みな作り話でも同等の効果は得られるかも知れません。

 しかし、最終的にキリストの御前に立つ時を思うならば、本当に重要なことは、その時に自分が神との真実な交わりの中にあるかどうかでしょう。信仰を全うした者として神の御前にあるかどうかが決定的に重要なこととなるのでしょう。そのために必要なのは、自分にとって都合の良い言葉や、耳に心地よい言葉ではないはずです。そうではなくて、神の言葉が語られ、聞かれることなのです。

 そのように、パウロはイエス・キリストの再臨とその御国とを思いつつ、語っていたのです。いや、彼はテモテに対して命じるだけでなく、自らそう生きてきたのだと語るのです。「わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです」(7‐8節)。

 ここだけ読みますと、パウロは自分のしてきたことをただ誇っているかのように見えるかもしれません。しかし、そうではないことはその直前の言葉から明らかです。「わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました」(6節)と彼は言うのです。つまりそれは殉教の死が間近いということです。彼は自分の人生の終わりが近いことを知っているのです。自分の人生の終わりが近いなら、人に向かって自分を誇ったところで、大して意味はないでしょう。

 むしろこの世的な誉れなどどうでも良いことが分かっているからこそ、このようなことが書けるのです。死を前にした自分があえてこう語ることによって、本当に大事なことが何かを示しているのです。キリストが義の栄冠をさずけてくださる。そして、これが単に自分のことを語っているのではないことをパウロは付け加えます。「しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます」(8節)。


2025年12月3日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 25:18~44

サムエル記上 25:18-44

 今日は25章の後半をお読みしました。今日の箇所に入る前に、前回お読みした部分を振り返っておきましょう。

 25章の冒頭には、サムエルの死が短く報告され、続いて一つのエピソードが記されています。そこにはナバルとアビガイルという夫婦が登場します。ナバルは「羊三千匹、山羊千匹を持っていた」(2節)とありますように、裕福な牧場主でした。その頃、ちょうど羊の毛刈りの季節、すなわち農業でいうならば収穫感謝祭に相当する祝いの時を迎えていました。

 そこでダビデは従者を十人送り、「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのものすべてに平和がありますように。羊の毛を刈っておられると聞きました。…この祝いの日に来たのですから、お手もとにあるものを僕たちと、あなたの子ダビデにお分けください」(6‐8節)と伝えさせます。しかし、ナバルはこれを拒絶します。「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。わたしのパン、わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか」(10‐11節)と答えてダビデの送った従者をののしって送り返したのでした。

 ダビデのもとに戻った従者は事の一部始終を報告します。これを聞いたダビデは、すぐさま「各自、剣を帯びよ」と命じました。そして、200人を荷物に残し400人を率いて進軍を開始したのです。その意図は次のように本日の箇所に記されています。「荒れ野で、あの男の物をみな守り、何一つ無くならぬように気を配ったが、それは全く無益であった。彼は善意に悪意をもって報いた。明日の朝の光が射すまでに、ナバルに属する男を一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰してくださるように」(21‐22節)。

 さて、この章に見るダビデの姿は、24章でサウルに手をかけなかった姿とは対照的です。まことに人間というものは、強者からの脅威には耐えられても、弱者からの侮辱には耐えられないものです。しかし、本当に深い問題は「彼は善意に悪意をもって報いた」という言葉に見ることができます。サウルもかつて「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した」(24:18)と言いましたが、それは本質を理解していない言葉でした。重要なのは人間の善意とか悪意ではなく、神を畏れるか否か、裁きを神に委ねるか否かだからです。しかし、今回はダビデ自身がサウルと同じ次元で事態を見、本質的に重要なことを見失い、自ら報復しようとしていたのでした。

 今日の箇所は、その続きです。ナバルがダビデの従者たちをののしったことを聞くと、妻のアビガイルはすぐさま贈り物を携えてダビデのもとに向かいます。そして、進軍してくるダビデのまえにひれ伏して、報復を思い留まるよう願います。まず、このアビガイルの言葉に耳を傾けましょう。

 彼女は言いました。「御主人様が、あのならず者ナバルのことなど気になさいませんように。名前のとおりの人間、ナバルという名のとおりの愚か者でございます」(25節)。アビガイルが言っているように、「ナバル」というのは「愚か者」という意味です。それは恐らく本名ではなく、彼の行動を象徴的に表す呼び名として物語の中で用いられているのです。

 しかし、もう一方において、彼の行動は、この世的に見るならば、単純に「愚か」とは言えないのです。先週も触れましたように、ダビデが求めていたのは、単に祝いにあずからせてくれ、ということではありませんでした。それはヤクザがみかじめ料を求めるようなものだったのです。当時は警察が治安を守るわけではなく、羊の群れは常に略奪の危険にさらされていました。ダビデの集団はそれを防ぐ代わりに分け前を求めたのです。それを拒絶したナバルの行動は、今日で言えば、暴力団の介入を拒絶した企業のトップのような判断のようなものです。また、現実的な問題として、ダビデに利益供与することは、まかり間違えばサウルの怒りを買うことになり、ノブの町のように滅ぼされかねない危険もあったのです。その意味で、ダビデの要求をはねつけたことは、一面においては賢い合理的な行動だったとも言えるのです。

 にもかかわらず、聖書は彼を「愚か者」と呼ぶのです。それはなぜなのか。その理由については、この世的な見方ではなく、聖書が「賢い人」として見ているアビガイルと対比して考える必要があるのでしょう。アビガイルについては「妻は聡明で美しかった」(3節)とありますが、この「聡明」というのは洞察力があること、事の本質をしっかりと見ていることを意味するのです。アビガイルが洞察していたこと、彼女に見えていたこととは、いったい何なのでしょうか。

 ナバルはダビデを主人のもとを逃げ出した逃亡奴隷に喩えました。それが彼に見えていたことでした。彼には、ダビデの今の状況しか見えていなかったとも言えます。そして、その見方に従って行動したのです。しかし、アビガイルは違っていました。彼女は、ダビデを主との関係において見ているのです。彼女は言います。「主は必ずあなたのために確固とした家を興してくださいます。あなたは主の戦いをたたかわれる方で、生涯、悪いことがあなたを襲うことはございませんから。…また、主が約束なさった幸いをすべて成就し、あなたをイスラエルの指導者としてお立てになるとき、いわれもなく血を流したり、御自分の手で復讐なさったことが、つまずきや、お心の責めとなりませんように」(28‐31節)。

 これは単にダビデの怒りを鎮めるためのへつらいではありません。彼女はダビデをあくまでも主によって立てられた未来の王として見ているのです。彼女は目に見えるこの世の出来事やあり様の上に主の支配があることを見ている人なのです。ですから、最終的な神の裁きに委ねるのではなく、ダビデが自分の手で復讐することは神に対する罪になるのだ、と言っているのです。これが聖書の語る「賢さ」です。それに対して、ナバルは人の支配しか見ていないのです。人と人との関わりしか見ていない人なのです。それが聖書の語る「愚かさ」です。それは既に見てきたように、サウルの「愚かさ」でもありました。

 もう一つ大変興味深いのは、この物語が、イエス様の語られた「愚かな金持ち」の喩え(ルカ12:16以下)とよく似ている点です。11節のナバルの言葉を見てください。彼の言葉を直訳するとこうなります。「わたしのパン、わたしの水、それにわたしの毛を刈る者にとわたしが準備したわたしの肉をわたしが取って素性の知れぬ者にわたしが与えるべきであるというのか」。しかし、その翌日にはすべて「わたしの」ものを世に残したまま死んでしまうのです。彼はダビデを主との関係に見られなかっただけではありませんでした。自分の持ち物も、自分自身も、すべて主の支配のもとにあることをわきまえない人だったということなのです。聖書はこういう人を「愚か者」と呼ぶのです。

 しかし、先にも触れましたように、実はダビデもまた、その愚かさを共有する者となりかけていたのです。サウルを神の油注がれた者として見、神を畏れて自らの手で報復することをしなかった24章のエピソードの直後に、この物語が来ていることには意味があります。前の章において、危機に瀕している時、ダビデの目に映ったのは主の全き支配でした。だから、彼は神を畏れて行動し、サウルを殺さなかったのです。しかし、サウルが去り一息つくと、この章においては、主への畏れを忘れ、人間のことしか見えなくなり、自ら報復しようとしていたダビデがそこにいるのです。そのダビデの目を開かせ、立ち帰らせたのはアビガイルでした。ダビデはそこで再び主の御支配を見、自分の手で復讐することを主御自身が引き留めてくださったことを認めたのです。

 ナバルが死んだ後、ダビデが人を遣わしてアビガイルを妻にしたいと申し入れ、彼女がその申し入れに応えてダビデの妻となったこともまた、今まで述べてきたこととの関連で考える必要があります。ダビデはこの世的に見るならば、いまだ逃亡生活を続けている、ヤクザのようなならず者集団の頭なのです。その彼がアビガイルを求めたのは、彼に主の支配を指し示してくれたアビガイルという存在がどれほど大きな意味を持ったかということを示しているのでしょう。それはまさに26章のダビデの行動にもつながるのです。

 そして、もう一方において、アビガイルは逃亡者ダビデの中に未来の王を見続けたのです。それはこの世的観点からは見えてきません。あくまでも主との関わりにおいてしか見えてこないことです。アビガイルがダビデの妻となったことは、それがどれほど大きな意味を持っているかを示しているのです。そこに見えてくるのは、本当の「賢さ」です。

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