2025年12月28日 主日礼拝説教
聖書:ヨハネの黙示録 21:22‐22:5
今日の第2朗読ではヨハネの黙示録が読まれました。この書物が書かれたのは、紀元一世紀の終わり頃、教会に激しい迫害が加えられていた時代であると言われています。そのような中でも、キリスト者たちは共に集まり、礼拝をささげ、祈り、聖餐を行い、信仰を励まし合っていました。ヨハネの黙示録は、そのような礼拝の中で朗読されるために書かれた書物です。
そこには迫害の中でパトモス島に抑留されていたヨハネが、神によって見せられた幻が記されています。それは一人の人間の神秘体験に留まらず、苦しみの中にあった当時の教会全体に向けて、さらには後の時代の代々の教会に向けて語られた希望のメッセージでもあったのです。
今日読まれた箇所は、その黙示録も終わりに近い部分です。彼が幻の中で見ているのは、聖なる都エルサレムです。それは彼が知っている地上のエルサレムではありません。神の栄光に輝く、新しいエルサレム、救いの世界です。
もちろん、神が見せてくださった最終的な救いの世界を、人間の言葉で描写することには、本質的な限界があるでしょう。それでもなお、ヨハネが言葉を尽くしてこの幻を語ろうとしているのは、苦しみの中にあった人々に、私たちを待っている救いの世界を伝えたいと願ったからです。特にこの21章を読みますと、その熱情がひしひしと伝わってまいります。今日は途中からですが、その言葉に耳を傾けてまいりましょう。
神殿がない、太陽も月もない
その幻の中で、ヨハネはまず一つの重大なことに気づきます。そこには、エルサレムにあるはずの神殿がなかったのです。――しかしすぐに、それはもはや必要がないのだと悟ります。ヨハネはこう語っています。「全能者である神、主と小羊とが都の神殿だからである」。
ここでヨハネが見せられていることは、当時の教会にとって、極めて大きな意味を持つものでした。というのも、この幻が語られた時代、地上のエルサレムには、すでに神殿が存在していなかったからです。紀元70年、エルサレムの神殿はローマ軍によって破壊されてしまったのです。
それまでエルサレムの神殿はユダヤ人にとっては信仰の拠り所でした。初期の教会にとってもそうでした。キリスト者となった後も、使徒たちは神殿での礼拝を続けていたのです。しかし、その神殿が破壊されてしまいました。ユダヤ教のサドカイ派は祭司を中心としていましたから、神殿の喪失と共に歴史から消えていきました。一方、ファリサイ派は残りました。律法の遵守を要として、律法の民として残ったのです。それが今日のユダヤ教の流れです。
一方、キリスト教会もまた残ったのです。どうしてか。復活したキリストこそまことの神殿であると理解していたからです。かつてイエス様がこう言われました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2:19)。ヨハネはこの言葉を次のように説明しています。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」(同21‐22節)。
そのようにイエス様こそが神殿なのです。キリストの体が分け与えられる聖餐の場にこそ神殿があるのです。そして、聖餐によって形作られる信徒の共同体、すなわちキリストの体なる教会こそが神殿なのです。どんなに小さな集まりであっても、それがたとえ迫害の中で地下墓地においてひっそりと集まって礼拝をささげている小さな群れであっても、確かに自分たちは神殿にいると信じて、彼らは礼拝をささげてきたのです。
そして、ヨハネが見た幻は、確かにその理解は間違っていなかったことをはっきりと示していたのでした。終わりの日に、目に見える神殿などないのです。主と小羊が神殿なのです。
またヨハネはもう一つのことに気付きます。太陽も月もないのです。しかも、そこには明かりがいらない。それはなぜか。神の栄光が都を照らしているからです。「神の栄光が都を照らしている」ということが何を意味するのか、ヨハネにはわかったはずです。すぐにイザヤ60章の預言を思い起こしたに違いありません。
そこにはこうあります。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」(イザヤ60:2)。そして、同じ章の19節にはこう書かれているのです。「太陽は再びあなたの昼を照らす光とならず、月の輝きがあなたを照らすこともない。主があなたのとこしえの光となり、あなたの神があなたの輝きとなられる。あなたの太陽は再び沈むことなく、あなたの月は欠けることがない。主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆きの日々は終わる」(同19節)。
そうです。主が永遠の光となる時とは、「あなたの嘆きの日々は終わる」と約束されているその時なのです。夜は永遠に夜なのではありません。嘆きの夜も必ず明ける時が来るのです。太陽の光によらない朝が来る。主の栄光が照らす永遠の朝が来るのです。
閉ざされない門
さらにもう一つの不思議な光景をヨハネは見ることになります。都の門が閉ざされないのです。地上のエルサレムにおいては、その門は夜になると閉ざされ、武装した門番によって守られるのが常でした。しかし、ここで門はずっと開け放たれたままなのです。
一つには、もはや「夜」がないからです。しかし、もう一方において、それが開け放たれているのは、諸国の民が入れるようにです。「人々は諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る」(26節)とあるとおりです。そのように救いの門は全ての民族に広く開かれているのです。しかし、もう一方においてこう書かれています。「小羊の命の書に名が書いてある者だけが入れる」(27節)。
門が閉ざされて入れないのではないのです。門は開かれている。それでもなお、入れないのです。それは神の栄光が照らしているからです。神の栄光が照らす時、それは神がまことの神として自らを現される時です。だから苦しみの時が終わるのです。しかし、もう一方において、神がまことの神として自らを現されるなら、、罪ある人間はそこに近づくことができなくなるのです。
人間の手でこしらえた偶像ならば、いくらでも人間は近づくことができるのです。罪があろうが汚れていようが近づくことができるのです。しかし、神がまことの神として現臨されるなら、罪あるまま汚れたままで近づくことなどできません。神の栄光が照らしているのが最終的な神の都なら、罪あるまま汚れたままで入れるはずがありません。
もしキリストによる罪の贖いがなかったならば、キリストの十字架による罪の赦しがなかったら、汚れを十字架の血によって洗っていただいた人としてでなければ、神の栄光が満ちている都に入れるわけがないのです。最後までキリストを信じた人であること、そのような者として小羊の命の書に名が記されていること、それがどれほど大きな意味を持つかは、この開かれた門を前にした時に明らになるのです。
ヨハネは先にも申しましたように、信仰のゆえにパトモス島に抑留されているのです。信仰の故に苦しみを受けているのです。しかし、キリストのゆえに、屠られた小羊の血のゆえに、罪を赦され汚れを清められた者として、神の栄光が満ちている都に身を置いている自分自身を見せていただいた時、ヨハネにははっきりと分かったに違いないのです。すべては報われる、と。この一時において、すべての苦しみも悲しみも痛みも完全に報われる、と。
命の水の川が流れていく
そして、ヨハネはその都の中に「水晶のように輝く命の水の川」を見ることになります。その川は神と小羊の玉座から流れ出ているのです。
ヨハネが見た光景、それはかつてエゼキエルが見た光景と同じものでした。エゼキエル書には次のように書かれています。「彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた」(エゼキエル47:1)。これが流れ下るにつれて深くなり大きな川となるのです。
そこで大事なのは次の描写です。「川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る」(同9節)。さらに、その川のほとりには実を結ぶ木々が生い茂り、その実は食べ物となり、葉は人を癒すものとなる、と語られています(同12節参照)。
ここを読みますと、もう一つの箇所が思い起こされます。イエス様がこう言われた言葉です。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネ7:38)。ヨハネはこの言葉について次のように説明しています。「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」
イエス様の言葉は明らかに先ほど引用したエゼキエル書の預言を背景として語られています。神殿から流れ出る生ける水の川。それはキリストを信じる人において、ある意味では実現しているのです。イエス様は栄光をお受けになりました。十字架にかけられ、そして復活して天に挙げられました。そして、既に聖霊は降ったのです。キリストを信じる者は神殿となり、そこから聖霊の生ける水が川となって流れ出る。そのようにして確かにこの二千年間人から人へ福音は伝えられてきたのです。
しかし、今日お読みしたヨハネの幻を見ますと、私たちが教会生活において経験していることは、やがて終わりの日に見ることになる、新しいエルサレムの先取りに他ならないことが分かります。私たちが見ていることはまだ一部に過ぎません。私たちが経験していることは、まだほんの一部です。私たちはやがて、本当の命の水の川の流れを見ることになるのです。完全な命の世界、完全な癒しと救いの世界を、見ることになるのです。