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2026年5月3日日曜日

「日曜日に教会で起こっていること」

2026年5月3日 主日礼拝説教 

聖書:ペトロの手紙一 2:1‐10

生まれたばかりの乳飲み子のように
 「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(2節)。そのように書かれていました。「乳飲み子のように」という話が出て来るのは、その前に「新たに生まれた」という話が書かれているからです。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(1:23)。

 人は新たに生まれることができます。信仰をもって新しく生き始めるとはそういうことです。それは聖霊による誕生であり、神の子どもとしての誕生です。イエス様が教えてくださった「主の祈り」は、まさに新しい誕生が何であるかを示していますでしょう。「天にまします我らの父よ」――私たちは神を「我らの父」と呼んで、神の子どもたちとして、神の家族として、生きることができるのです。

 そのように、信仰に入るということは、赤ん坊が家族の中に生まれてくるように、新しい関係の中に、すなわち神の家族の中に、新しく生まれることを意味します。それゆえに、神の家族として互いに愛し合う兄弟や姉妹として生きることが求められることになります。1章22節にはこう書かれています。「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」。

 そこには「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」と書かれています。しかし、生まれたばかりの時にはまだ赤ん坊ですから、その「兄弟愛」もはじめは赤ん坊のレベルから始まります。ですから、「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」と言われても、自分についても他の人についても、実際にはそうなっていないという思うことはあるかもしれません。しかし、大事なことは私たちが少しずつでも成長することなのです。神の子どもたちとして、互いの関係においても成長することなのです。

 この世の兄弟でもそうですが、兄弟らしくなって初めて兄弟となるわけではありません。兄弟であるという事実が先にあるのです。私たちもまた、愛し合う神の家族らしくなったから神の家族となるのではありません。新しく生まれたという事実が先にあるのです。家族とされているという事実が先にあるのです。

 極端なことを言えば、仮に兄弟愛が全く見られなかったとしても、それでも家族は家族なのです。しかし、もちろん、そのような状態を神が望んでおられるはずがありません。神が最終的に実現しようとしておられるのは愛の完成した世界ですから。それこそが神の国です。私たちはそのような救いの完成に向けて神の子どもたちとされているのです。だから子どもたちとして成長していくことが大事なのです。それが信仰における成長というものです。

 そこで私たちが生い育っていくためにどうしても必要なことが二つあります。ペトロが今日の箇所ではっきりと書いています。一つは「捨て去ること」です。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って…」と書かれていました。まずは否定的な側面からですが、大事なことは兄弟愛を妨げるものを捨て去っていくことです。

 「捨て去る」と言うのですから、それは自分の意志をもってやらなくてはなりません。何かの理由で悪意を抱いてしまうことはあるでしょう。それはある意味で仕方のないことです。しかし、その悪意を後生大事に抱えているのか、それとも捨て去ろうとするのかは大きな違いです。悪口を言いたくなる。あるいはついつい言ってしまう。そういうことはあるかもしれません。しかし、いつまでも延々と悪口を言い続けるかどうか、それはまた別の話です。持たないということよりも、気づかせていただいたら、その都度、悔い改めて手放すことの方が大事なのです。

 そしてもう一つ大事なことが書かれています。積極的には「霊の乳を慕い求める」ということです。成長するためには栄養を採らなくてはなりません。「霊の乳」は「御言葉の乳」とも訳せる言葉です。霊の乳は御言葉という乳です。御言葉を慕い求めることです。このことなくして絶対に成長はあり得ません。

 主の御言葉を求めるためには、当然のことながら、主のもとに行かなくてはなりません。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい」(3‐4節)と書かれているとおりです。では、「主のもとに行く」とは、具体的にどういうことでしょう。

 実はこの勧めの言葉は詩編34編から来ているのです。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」(詩篇34:9)。その詩編の言葉は、古くから聖餐の式文に用いられてきたものです。

 つまり、ここでペトロはキリスト者が集まって御言葉を聞き、聖餐を行う礼拝を考えているのです。先に語られていたように、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を悔い改めをもって捨て去り、そして霊の乳である御言葉を求めるのは、何よりもまずこうして聖餐卓を囲んで共に集まる主の日の礼拝においてなのです。ここはそのような場所なのです。

霊的ないけにえを献げなさい
 そのように主の日に聖餐卓の周りに集まる教会。悪いものを捨て去りながら、霊の乳を慕い求めて主のもとに集まる教会。その教会について、さらにペトロはもう一つのイメージをもって語り始めます。それはエルサレムにあった「神殿」です。ペトロはこう語ります。「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(4‐5節)。

 聖書において「神の家」と言えば、それは神殿のことです。ですから、ここで語られている「霊的な家」も具体的には神殿を指していると考えてよいでしょう。もちろん「《霊的》な家」ですから、目に見える建造物のことではありません。建物ではなく、集まって礼拝を捧げる信仰者の共同体、すなわち教会のことです。そして、二千年も後に、ここに集まっている私たち。それを神は「霊的な神殿」として見ておられるということです。

 その神殿を建てるための「かなめ石」はキリストです。キリストは人々から捨てられ十字架にかけられましたが、神はそのキリストを復活させ、新しい神殿を建てるための「かなめ石」となさったのだと語られているのです。この「かなめ石」に寄り頼む他の切石が一つ一つ組み合わされて神殿が造り上げられます。そのようなイメージなのですが、その切石こそ私たちなのです。「あなたがた自身も生きた石として用いられ」、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」とはそういうことです。

 その霊的な神殿においては、そこに仕える祭司もいなくてはなりません。それも私たち自身です。「そして聖なる祭司となって」と書かれているとおりです。また、祭司は「いけにえ」を献げるためにそこにいます。ここでは「神に喜ばれる霊的ないけにえ…を献げなさい」(5節)と語られています。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」とは何でしょう。それは私たち自身の体のことです。

 パウロも次のように語っています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)。要するに、ここで私たちは生きている「切石」として神殿を建て上げ、同時に聖なる祭司となって、私たち自身を神に喜ばれる霊的ないけにえとして献げるのです。

 これらすべては神の恵みとして私たちに与えられていることです。考えてみてください。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」と書かれているのです。私たちが自分自身を献げるとき、そのいけにえを神は喜んで受け入れてくださるということです。それは本来、あり得ないことではありませんか。

 現実には、神の意に背くようなことばかりしでかしている私たちです。むしろ、「お前などいらない。神に背いてきた者よ、滅びてしまえ」と言われたとしても仕方のない私たちなのでしょう。しかし、そうではなく、私たちを神は喜んで受け入れてくださるのです。それはまことに驚くべきことです。

 そして、そのようなことがあるとしたら、それはひとえにキリストのゆえなのでしょう。キリストによって与えられた罪の赦しによるのです。ですから、ただ「霊的ないけにえを献げなさい」と言われているのではなく、「イエス・キリストを通して献げなさい」と言われているのです。すべてはキリストを通して与えられた恵みだからです。これが日曜日に教会において起こっていることなのです。

 日曜日ごとに主は恵み深く私たちを御もとに招いてくださいます。私たちは恵み深い主のもとに集まります。神の子どもたちとして、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨て去って、霊の乳である御言葉を慕い求めて主のもとに集まります。私たちは主の恵み深きことを味わい知りながら、霊の乳によって神の子どもたちとして成長していきます。しかし、私たちが集まるのは、ただ私たち自身のためではありません。

 私たちが主のもとに集まる時、霊的な神殿が目に見える形で地上に姿を現すのです。先週も私たちが聖書を通して耳にしたように、私たちは神の神殿なのです。神に礼拝がささげられる神殿なのです。そこにおいて、私たちは皆、神に仕える祭司となります。祭司は神のために、自分自身をイエス・キリストを通して献げるのです。神はイエス・キリストを通してささげられた私たちを神に喜ばれる献げものとして受け入れ、私たちを神のものとしてこの世界に遣わしてくださいます。それが日曜日に教会で起こっていることです。

2026年4月19日日曜日

「神が心にかけていてくださるから」

2026年4月19日 主日礼拝説教 

聖書:ペトロの手紙一 5:6-11

自分を低くしなさい
 今日は、ペトロの手紙一5章6節からお読みしました。その直前には、「皆互いに謙遜を身に着けなさい」(5節)という勧めが書かれています。今日の箇所はその続きです。

 「互いに謙遜を身に着けなさい」という言葉は、ここにいる私たちには、恐らく何の違和感もなく耳に入ってくるだろうと思います。教会の中はもちろんのこと、教会の外においても、「謙遜」は広く美徳と見なされているからです。また、「謙遜」は、より良い人間関係の土台であると考える人も少なくないでしょう。

 しかし、この手紙が書かれた当時の人々が、同じこの言葉を耳にしたら、私たちとはまったく異なる印象を受けただろうと思うのです。というのも、当時のギリシア・ローマ世界においては、「謙遜」は美徳どころか、否定的な意味合いを持つ言葉だったからです。その社会で尊ばれていたのは「名誉」であり「誇り」であり、「人より高くあること」でした。そのような世界において、低くあること、身を小さくすることは、弱さや卑屈さの表れとして軽蔑の対象とされたのです。

 「謙遜」と訳されているのはギリシア語で「タペイノフロシュネー」という言葉です。元になっている「タペイノス」は文字通り「低い」という意味の言葉です。名誉と誇りが人の価値を決める世界において、この「低さ」はまことにネガティブなものとして受け取られていたのです。なのでタペイノフロシュネーが結びつくのも、「卑屈」「自己卑下」「惨めであること」という響きだったのです。

 その「タペイノフロシュネーを身に着けなさい」とペトロは勧めるのです。当時の社会の価値観に真っ向から逆らうような言葉です。それをペトロは当たり前のように手紙に書いて送るのです。それはどうしてか。――これは「教会」に宛てた手紙だからです。すなわち、これは信仰を前提とした勧めなのです。あくまでも、神との関わりにおいて聞かれ、理解されるべき言葉なのです。一般的な謙遜という美徳の話として聞いてはならないのです。

 ですから、ペトロはそこで旧約聖書の箴言を引用してこう続けるのです。「なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです」と。これが理由なのです。それゆえに、お互いに対して謙遜であるかを問う前に、そもそも私たちは「神に対して」謙遜であるかどうかを省みる必要があるのです。実際どうなのでしょう。私たちは人に対してどころか、神に対してさえ、なかなか謙遜になれない者ではないでしょうか。神に対してさえ高ぶって生きているのではないでしょうか。

 かつてスポルジョンという人が説教の中でこう語っていました。「高ぶりは最初の罪であり最後の罪である」と。実際、聖書が語る最初の罪は、アダムとエバが善悪の知識の木から取って食べ、自らが神のようになろうとした高ぶりの罪でした。そして、その高ぶりの罪は私たちの人生が終わるまで、そして世の終わりまでついて回ることでしょう。その意味では確かに「最後の罪」とも言えます。

 だから、ペトロはさらにこう続けるのです。「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」(6節)。繰り返しますが、これは教会に宛てた手紙です。毎週集まって神の御前に礼拝をささげている教会に宛てた手紙なのです。神を礼拝しているはずの信仰者に宛てた手紙です。神を礼拝している私たちが、本当に神の前で自らを低くしているならば、このような勧めの言葉をペトロは書く必要はなかったのでしょう。このような勧めが聖書に記されているのは、往々にして、私たちはそうなっていないからであるに違いありません。

 そして、そこにもう一つの勧めの言葉が続くのです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(7節)。ところで、今、「もう一つの勧めの言葉が続く」と申しましたけれど、しかし、それはあくまでも日本語訳の場合です。実は、原文においては、6節と7節は途中で切れない一つの文なのです。つまり6節の「高ぶり」と7節の「思い煩い」は切り離すことができない、ということです。

 それは、ある意味では当然のことであるとも言えます。先ほど、アダムとエバの話に少しだけ触れましたが、あの創世記の物語を読んでもよく分かります。

 神は、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない」と命じました。しかし、蛇はこう言って誘惑しました。「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と。

 そして、その誘惑に人間は負けました。人間は神を退けて、自らを神の位置に就けました。人間は自分が善悪を知るものと思い上がって、神をさえ裁く者となりました。神を退けて人間がこの世界を治め、神を退けて人間が自らの人生を治めようとする者となりました。「これは私の人生だ」と。

 しかし、人間は神の位置に身を置いても、神にはなれません。神なしにこの世界を治めようとしても人は神にはなれません。神なしに自らの人生を治めようとしても、神にはなれません。いや自らの人生を治めるどころか、今日一日の生活すら私たちは治めることができません。神にはなれないどころか、我が身一つどうすることもできないような私たちです。そんな私たち人間が、自分を頼りにすることと、他の人間を頼りにすることしか考えられなければ、思い煩いを抱えることになるのは、当然のことなのです。

 イエス様はそんな人間の現実を良く御存じでした。ですから、思い煩いで心がいっぱいの人々に、このように語られたのです。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイ6:27)。最もパーソナルな自分自身の寿命の問題でさえ、私たちはそれに指一本触れることができないのです。そんな私たちですから、神に対して高ぶって、自らが神の位置に留っている限り、様々なことに思い悩まざるを得ないのです。

心にかけていてくださる神
  だからペトロは「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」という言葉に、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」という言葉を続けるのです。「お任せしなさい」とは、「投げかける」と訳すことのできる言葉です。手に握ったままで物を投げることはできません。投げるためには手放さなくてはなりません。手放すことができるのは、受け止めて下さる方がおられるからです。私たちの思い煩いを受け止めてくださる方がおられるのです。

 その方について、聖書にはこのように語られています。「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(7節)。「心にかけていてくださる」というのは良い訳だと思います。聖書が伝えているのは、まさにそういうことだからです。いつか「心にかけてくださる」のではないのです。思い煩いをお任せする時に、心にかけてくださるのではないのです。過去においても、未来においても、そしてこの瞬間にも「心にかけていてくださる」のです。

 私たちが高ぶって、神を忘れていたときに、神様は心にかけていてくださったのです。私たちがそのお方に信頼して生きるのではなく、そのお方に背を向け、自分の力に頼って生きていたそのとき、神様は私たちを心にかけていてくださったのです。そして、神は私たちを今も心にかけていてくださるのです。

 これをペトロ自身の経験から出た言葉として聞く時に、これはまことに心を打つ言葉として迫ってまいります。

 最後の晩餐の席において、イエス様が弟子たちの離反を予告した時、ペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」(マルコ14:29)と言いました。しかし、主は言われました。「はっきり言っておくが、あなたは今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」(同30節)。かくしてそのとおりになりました。

 そのような自分が今、使徒とされている。それはまさに驚き以外の何ものでもなかったに違いないのです。どうしてこのようなことがあり得たのか。――「神が心にかけていてくださったから」としか言いようがないでしょう。傲慢にも「わたしはつまずきません」と言い放ったあの時、神は既にわたしを心にかけていてくださった。大祭司の中庭において、三度「知らない」と言った時、神はわたしを心にかけていてくださった。イエス様の言葉を思い出し、自らの罪と弱さに打ちのめされて声を上げて泣いていた時、そんなわたしを神は心にかけていてくださった。

 ペトロにはよくわかったと思います。そしてやがて知るに至ったのです。既にイエス様が十字架にかかられるためにこの世に来られたそのこと自体が、まさに神が心にかけていてくださることを現していたのだと。

 それゆえに、ペトロは「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」と語るのです。そのような、心にかけていてくださる神の御前で身を低くするのです。その力強い御手の下で身を低くするのです。裁く者であることをやめて、身を低くするのです。ただひたすら信頼する者として、身を低くするのです。

 私たちはこうして礼拝の場に集められているわけですが、神を礼拝し、神に祈るとは本来、神の御前で自らを低くすることなのでしょう。心にかけていてくださる神の力強い御手の下で、自らを低くすることなのでしょう。私たちの礼拝の姿は、礼拝する教会の姿は、神様からどのように見えているのでしょうか。

 この神の御前において身を低くすること、それがペトロの語るタペイノフロシュネー(謙遜)です。それを身に着けなさいと言うのです。そして、神の前に身を低くした者として、お互いの関係も築いていくのです。それが「皆互いに謙遜を身に着けなさい」という勧めの意味するところです。それが本来のお互いの関係なのです。ならば、お互いの関係においても、共に神の御前に身を低くすること、共に礼拝することは、中心的な意味を持つのです。

2025年2月16日日曜日

「信仰を生きる生活」

 2025年2月16日主日礼拝説教

聖書:テモテへの手紙一 4:7b‐16

キリスト・イエスの良い僕となるために
 本日の第2朗読は「信心のために自分を鍛えなさい」という言葉から始まっていました。「信心のために自らを鍛える」という言葉は私たちの信仰生活においては、あまり耳にしない表現であるかと思います。そこで、今日は、この内容に入る前に、その前提となっていることを先に見ておきたいと思います。

 その直前には「キリスト・イエスの立派な奉仕者」(6節)という言葉が出てきます。「奉仕者」というのは「召使い」あるいは「僕(しもべ)」とも訳される言葉です。「立派な」と訳されているのは「良い」という言葉ですから、要するに「キリスト・イエスの良い僕」ということです。ここに語られている内容は、大まかに言えば「キリスト・イエスの良い僕として生きる」という話です。

 この手紙を受け取ったテモテはその当時、エフェソの諸教会の牧会を託されていました。そこでパウロは「これらのことを兄弟たちに教えるならば…良い僕になります」とテモテに語っているのです。「これらのこと」というのは、直接的にはその前の3節から5節にかけて書かれていることです。しかし、そこでは「異なる教え」すなわち異端との戦いが問題となっているのですから、より広い意味で「健全な教え」を指していると見てよいでしょう。

 テモテはキリストから特に教えることを託されているのですから、健全な教えを語ることによって、キリストの良い僕となるのです。そして、当然のことながら、良い僕として健全な教えを語るためには、自らが健全な教えによって養われていなくてはなりません。「信仰の言葉とあなたが守ってきた善い教えの言葉とに養われて」(6節)と書かれているのはそういうわけです。

 しかし、より広い見方をするならば、キリスト・イエスの僕となるために召されているのは、何も教えることを務めとするテモテに限ったことではありません。そして、信仰の言葉と善い教えによって養われなくてはならないということもまた、テモテに限らず、誰であっても、キリスト・イエスの良き僕となるためには不可欠であると言えるでしょう。

 要するに、霊的に栄養失調であったなら、良い僕にはなれない、ということです。そこで何を食べるかが重要なのです。私たちはまず「信仰の言葉」を食べなくてはならないのです。当たり前のことですが、この世に満ちている言葉は信仰を前提とはしていません。この世の言葉だけを食べているならば、信仰的には確実に栄養失調になります。福音に基づく信仰の言葉によって養われ満たされなくてはならないのです。

 また、一見宗教的に見えたり、心を揺さぶるような感動的な話であるかもしれないけれど、実のところ福音とは全く相容れない言葉もあります。それをパウロは「俗悪で愚にもつかない作り話」という辛辣な言葉をもって表現します。実際、彼らが当時生きていた世界は、今日の日本よりもはるかに宗教的な世界だったのです。なので、そのような話はいくらでもあったのです。しかし、そのような「俗悪で愚にもつかない作り話」を食べていてはならない。そのようなものは「退けなさい」と言われているのです。そうではなくて、「善い教え」すなわち健全な教えの言葉によって養われなくてはならないのです。

 さて、私たち信仰的なの栄養状態はどうでしょうか。頌栄教会の栄養状態はどうでしょう。そのような信仰の言葉と善い教えの言葉が語られているか。聴かれているか。養われているか。そこにおいて礼拝説教の役割は重要です。しかし、これはただ礼拝説教だけの問題ではありません。新約聖書において繰り返し「励まし合いなさい」と勧められています。信仰の言葉をもって互いに励まし合うということが必要です。頌栄教会におけるお互いの間で交わされているのは「信仰の言葉」でしょうか。それともこの世の言葉でしょうか。

 またその後の教会の歴史を見るならば、パウロの言う、「健全な教え」は「新約聖書」という形で保持されて、伝えられてきたとも言えます。ありがたいことに、私たちはそれを日本語に訳された聖書として手にしているのです。しかし、手にしているだけではだめなのです。私たちは聖書の言葉によって養われなくてはなりません。聖書の言葉そのものに耳を傾けようとしないで、この世のジャンクフードのようなものばかり食べていたら必ず霊的な栄養失調に陥ります。

信心のために自分を鍛えなさい
 そして、今日の箇所において「信心のために自分を鍛えなさい」と続くのです。栄養状態が良いかどうかも重要ですが、パウロはさらに栄養を十分摂った上で、トレーニングが必要だというのです。

 ここで言われている「信心」とは、単に「信じる心」のことではありません。これは「敬虔」とも訳されます。「敬虔」というのは、単に心の中のことではありません。また、礼拝堂の中に限ったことではありません。むしろこの「信心」あるいは「敬虔」ということにおいて重要なのは礼拝堂の外における生活です。重要なのは具体的な生活の仕方です。敬虔な生活とは真に神と共に生きる生活を意味するのです。

 確かに聖書が語るように、人は敬虔であるから救われるのではありません。救いはただ神の一方的な恵みによるのです。しかし、一方的な恵みによって救いにあずかったのなら、その救いは「生活化」される必要があるのです。罪を赦され、神の子どもとされたのですから、神の子どもとして、神と共に生きる生活として具体化されなくてはならないのです。

 それは一方においては聖霊の働きです。聖霊のお働きがなければ、そもそも私たちの信仰生活そのものが成り立ちません。聖霊が私たちの信仰生活を形づくっていくのです。しかし、もう一方において、神と共に生きる生活は、私たちが「身につける」べきものなのです。身につけるべきものは頭ではなく体で覚えなくてはなりません。ここでは明らかに「体の鍛練」との類比で考えられています。実際に水に入って体を動かすことなくして水泳を身に着けることはできません。「信心の鍛錬」も同じことです。

 それゆえに、教会はかなり早い時期に、例えばユダヤ教の伝統から聖書日課を取り入れたり、あるいは朝と夕の祈りに加え、定まった時刻に祈るという習慣を取り入れたりしたのです。(例えば、朝6時、9時、正午、午後3時に祈ることなど)。それはそのように行わなくては救われないという、救いの条件ではないのです。そうではなくて、神と共に生きる生活を形づくる知恵であり体で覚えるための練習だったのです。そのような習慣を現在の我々の教会は持っていませんが、肉の弱さを持つ私たちであるからこそ、そのような練習・訓練が必要であることには変わりありません。私たちに今、与えられているのは日々の聖書日課と、この定められた時に集まってささげる主日礼拝です。

 パウロはここで「体の鍛練も多少は役に立ちますが」と書いています。「多少は」と訳されていますが、原文は「小さい」とか「少ない」という意味の言葉です。そう書かれているのは、死を越えてまで役には立たないからです。あくまでもこの世の命にしか関係していない。実際そうでしょう。しかるに私たちは実際、この世の命のために、健康を保つという目的のために、一生懸命に「体の鍛練」を行うこともするのでしょう。ある人はジムに通い、ある人は朝早く起きてウォーキングをする。ならば、ましてや神と共に生きる生活は、この世だけでなく来るべき世にも関わっているのであり、死んで終わりではないのですから、実際に体を用いた鍛錬によって「身につけること」には、なおさら真剣に取り組んでもよいはずです。

 実際に、このように体を用いた鍛錬によって神と共に生きる生活を「身につけること」「身についていること」の大切さを、私たちは数年前、いやというほど思い知らされたのではありませんか。2020年の3月29日、私たちはこの礼拝堂に集まって礼拝を捧げることができなくなりました。説教も聞くことはできなくなりました。それが6月第2週まで続きました。しかし、考えてみれば、このようなことはコロナ禍でなくても起こり得ることです。

 実際、病気のため、あるいは高齢のため、毎週礼拝に集うことができなくなった方は身近にいくらでもいるでしょう。私たちもやがては集まれなくなります。その時に、信仰生活が「身についている」かどうかは、きわめて重要なことなのでしょう。信心の鍛錬をしてきたか。置かれた状況において、鍛錬を続けているか。それが問われる時は来るのです。今、私たちの信心の鍛錬はどうなっているでしょうか。

 さらにパウロはテモテにこう勧めています。「あなたは、年が若いということで、だれからも軽んじられてはなりません。むしろ、言葉、行動、愛、信仰、純潔の点で、信じる人々の模範となりなさい。わたしが行くときまで、聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい」(12‐13節)。先に触れましたように、牧会者であるテモテに託されていたのは、異端の教えがはびこりつつある教会において、正しく「教える」という務めでした。なのでここで再び「聖書朗読と勧めと教えに専念しなさい」と語られています。

 しかし、教えるということは、ただ正しい教理を語れば良いということではありません。やはり教えることを託された者は、「信じる人々の模範となる」という課題を避けて通ることはできないようです。これは牧師にとって最も厳しい言葉です。しかし、これはまた先に救いにあずかった者が後に続く人々の模範(あるいは「見本」)となるという意味において、すべてのキリスト者に当てはまるとも言えるでしょう。

 いずれにしても、ここに書かれていることは既に述べられた「信心の鍛錬」と切り離すことはできないのです。すべては、信仰の言葉と善い教えの言葉とに養われ、かつ具体的な鍛錬によって信仰生活を「身につける」ことによって生まれてくることだからです。すなわち、「模範となる」ということは、神と共に生きる具体的な生活から生じる実りなのです。「模範となる」ということが先に来るのではないのです。神の水源につながって、水の満ちた井戸であってこそ、そこから汲んで清い水を差し出すことができるのです。水源ににちゃんとつながっていない涸れ井戸から無理をして水を汲み出して与えようとするならば、せいぜい泥水を撒き散らすのが関の山です。日々の信心の鍛錬を大切にしましょう。

2024年4月7日日曜日

「死によって奪われない希望」

ペトロの手紙一 1:3-9

 本日の第2朗読ではペトロの手紙が読まれました。小アジア地方の諸教会に宛てた手紙です。6節に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とありますように、この手紙が宛てられている人々は、様々な苦しみを経験していた人たちです。具体的には迫害のもとにあって苦しんでいたということでしょう。彼らは人々からの軽蔑や嘲笑を耐えなくてはなりませんでした。悪人呼ばわりされ、不当な苦しみを強いられていました。そのような人々に宛てて、この手紙は書かれました。

生き生きとした希望
 迫害に限らず、苦しみというものは、往々にして「未来に期待して待ち望む心」を人から奪っていきます。希望を奪っていくのです。苦しみによって、希望がむしばまれていくと言い換えてもよいでしょう。実際、そうではありませんか。昨日は苦しかった。今日も相変わらず苦しかった。すると明日も苦しい一日であるに違いない。どうしても、そう思えてくるのでしょう。未来は過去から現在への延長にしか見えない。真っ暗闇のトンネルの中を歩いていて、百歩進んでもなお先に光が見えなければ、二百歩進んでも、千歩進んでも暗闇で、永遠に暗黒が続くと思えて来るのでしょう。そのようにして、人は未来に期待する心を失っていく。待ち望むことを止めてしまう。それは彼らに起こり得ることであったし、ここにいる私たちにも起こり得ることだと思います。

 しかし、だからこそペトロは彼らにこう書き送ったのです。3節からもう一度お読みします。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように。神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(3-4節)。

 彼は苦しみの中にある人々に、「生き生きとした希望」について語るのです。これは直訳すれば「生きている希望」という言葉です。大変味わい深い表現です。「生きている希望」というのは、「死んでしまわない希望」ということです。苦しみの中にあっても、苦しみによってむしばまれない、死んでしまわない、命に溢れた希望です。

 先ほど「苦しみによって希望がむしばまれる」と言いましたけれど、だからこそ、苦しみによってむしばまれない、失われない、「生きている希望」が必要なのです。どんな困難の中にあっても、真っ暗闇のトンネルが続く中であっても、「生きている希望」があるならば、人もまたそこで、本当の意味で生きることができるからです。未来に顔を向けて、今を生きることができるのです。

 そして、その「生き生きとした希望」、「生きている希望」は、既に私たちに与えられているのだ、とペトロは語るのです。それはどのようにして与えられたのでしょう。いったい何によって?ペトロは言います。「死者の中からのイエス・キリストの復活によって」と。

 ご存じのように、ペトロはイエス・キリストが捕らえられた時、三度もキリストを「知らない」と言った男です。キリストが十字架にかけられた時、主を見捨てて逃げてしまっていた、そういう男です。キリストが葬られた後も、自分が同じ目に遭わされるのではないかと、家の中に閉じこもり、戸を閉ざしてビクビクしていた、そのような男です。――取り返しのつかないことをしてしまったという罪責感。自分の弱さや醜さに対する深い絶望。もう全ては終わったのだ。そう思わずにはいられなかったに違いない。そうです。何もかも、終わってしまった。あの御方の死と共に、終わってしまった。それでもなお、彼が生きて行くとするならば、死人のように生きていくしかなかったのでしょう。未来に何も待ち望むものを持たないまま、何も希望を持たないまま、生きていくしかなかったのです。すべては終わったのですから。

 しかし、そのようなペトロが、再び立ち上がり、前を向いて希望をもって生きるようになった。それはなぜなのでしょう。未来に向かって顔を上げ、歩み始めることができた。それはなぜなのでしょう。――それは「死者の中からのイエス・キリストの復活によって」だ、と彼は言うのです。

 どこからどう見ても、全く救いのない十字架の死さえも、それで終わりではなかったのです。十字架の死の先にさえ、復活の命の世界が開かれていたのです。十字架においては、「死」というものが、それ以上ないほどに残酷な姿を呈していたことでしょう。しかし、ペトロは知ったのです。そのような残酷な死の先にさえも、待ち望むべき命の世界がある。その死の先にさえも待ち望むべき未来が開かれている。ペトロは確かにそのことを知り、それゆえに語っているのです。

 そのように、どんなことがあっても、何によっても奪われることのない未来、死によっても奪われることない未来、ここにいる私たちもまた期待して待ち望むことができる未来を、彼は次のように表現しました。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(4節)と。

 この「朽ちず、汚れず、しぼまない財産」がいったい何かは分かりません。しかし、それが何であれ、財産を受け継ぐというのですから、喜ばしい未来が表現されていることには間違いはありません。そしてまた、「受け継ぐ」というのですから、明らかにそれは自分が蓄えたものではありません。自分の行ってきたことに対する報酬でもありません。蓄えにせよ報酬にせよ、自分が積み上げてきたものならば、そんなものはたかが知れているでしょう。しかし、そうではないのです。それは純粋に神が備えてくださっているものなのです。

 そのように、私たちは信仰によって、どんな時にも、最終的には人生の終わりにおいてもなお、神が備えてくださっている喜ばしい未来を待ち望むことができるということです。死の床においてさえ、期待をもって最後まで生きることができる。実際、わたしは既に召された人たちの中に、そのような方々を幾人も思い起こすことができます。人は信仰によって、人生最後の一秒に至るまで、最後の一呼吸に至るまで、神の備えてくだっている未来を待ち望みながら生きることができるのです。イエス・キリストの復活によって、神が「生き生きとした希望」を与えてくださったからです。

新たに生まれさせ
 そのように、苦しみによってむしばまれない、失われない希望、「生きている希望」は神から来るのです。他からは来ない。――だからこそ、その希望に生きるために決定的に重要なもう一つのことがあるのです。それは希望の源である神との関係です。

 それゆえにペトロは、ただ「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えてくださった」とだけ書くことはせず、その前に、こう書き記すのです。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ」――それに続けて、「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えてくださった」と書いているのです。

 「新たに生まれさせ」と聖書に書かれていることは何を意味するのでしょう。――人は二度生まれることができるということです。一度目の誕生は、通常の意味における誕生です。「お誕生日おめでとう」を繰り返す、あの誕生のことです。しかし、聖書によるならば、人はもう一度誕生することができるのです。二度目の誕生。それは信仰による誕生です。一度目の誕生において、この世の親の子供として生まれたように、二度目の誕生においては、「神の子供としてのわたし」が生まれます。一度目の誕生において、この世の家族の中に生まれたように、二度目の誕生においては、「神の家族の中にいるわたし」が生まれるのです。

 イエス様は「天にまします我らの父よ」と祈りなさいと教えられました。そのように、神の子供として、「天にまします我らの父よ」と祈りながら生き始める。そのようにして、私たちは二度目の誕生による新しい人生を神の家族の中で生きていく。それが信仰生活であり教会生活なのです。

 そして、ここに語られているように、二度目の誕生は「神の豊かな憐れみ」によるのです。先ほど「二度目の誕生においては、『神の子供としてのわたし』が生まれます」と申し上げましたが、話はそう単純ではありません。

 ペトロはこの直前において、あえて「わたしたちの父である神」ではなくて、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」と言っていますでしょう。その御方は第一には、イエス様が「父よ」と呼んでいた神様なのです。その神様を、私たちもイエス様と同じように「父よ」と呼べることは、決して自明のことでではありません。私たちはイエス様と違って、幾度となく神に背きながら生きてきた者だからです。イエス様と違って、私たちはどう考えても「神の子供」に相応しくない。そのような私たちが神の子供にしていただけるとするならば、それは一重に神の憐れみによるのです。私たちの罪を赦してくださる神の豊かな憐れみによるのです。

 そして、神の憐れみは具体的な形を取って現されたのです。神は独り子を世に遣わされました。罪なき御子を私たちの罪を贖う犠牲とされました。イエス様は、「天にまします我らの父よ」と祈りなさいと言ってくださいましたが、それは神の憐れみを知っている方の言葉です。神の憐れみの現れとしてこの世に来られた方の言葉です。神の憐れみの現れとして、十字架にかかるためにこの世に来られた方の言葉なのです。

 その御方によって、どんな人であっても、新しく生まれた神の子として生き始めることができる。それはまさに福音です。良き知らせです。

 希望に生きるために決定的に重要なもう一つのことがある。それは希望の源である神との関係であると申しました。もうお分かりでしょう。大事なのは、福音を信じて、神の子供たちとして生きることです。形式的、名目的にキリスト者であることではなくて、具体的、実質的に神の子供たちとして神と共に生きることです。

 神との関係がそのような親子関係であるならば、もう安心です。たとえ今がどんなに暗くとも、大丈夫です。良き親なる神様が関わってくださるならば、いつでも未来に期待を抱き続けることができるからです。私たちは、そのようにして、人生最後の時に至るまで、良き未来を待ち望み、生き生きとした希望に生きることができるのです。

2023年7月30日日曜日

「悪をもって悪に報いず」

ペトロの手紙一 3:13-16

「正しくない者たち」のために
 今日はペトロの手紙を読みました。この手紙が書かれたのは、既に教会に対する迫害が激しくなり初めていた頃です。今日の朗読箇所の少し前にはこう書かれています。「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)。このように書かれているのは、現実に悪意をもって苦しめられたり侮辱されたりすることがあったからです。

 そのような中で「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(15節)ということも語られているのです。「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人」というのは、直接的には信仰を求めている人のことではありません。迫害の中での話です。そこで説明が要求される。それは個人的な悪意に満ちた問いかけかもしれませんし、公的な裁きの場に引き出されて訊問されるような場合かもしれません。

 いずれにせよ、そこでペトロは、「いつでも弁明できるように備えていなさい」と言い、そして、こう続けるのです。「それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(16節)。

 そのように悪意をもって向かって来る人に対しても「穏やかに、敬意をもって」弁明しなさいというのです。もちろん、そのように語られているのは、自然にはそうならないからです。相手の敵意はこちらの敵意を引き出しますし、相手の悪意はこちらの悪意を引き出します。常日頃不当な苦しみを強いられているならば、なおさらそのような負の感情が引き出されてしまうものです。だからこそペトロはあえて念を押すように付け加えるのです。「穏やかに、敬意をもって」と。

 しかし、それはとても難しいことなのでしょう。ペトロの勧めの言葉は正しくても実行は極めて困難です。今日の聖書箇所の直後で、ペトロはさらにこう言っています。「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい」(17節)。それはそうです。もっともです。しかし、だからと言って「善を行って苦しむこと」を簡単に受け入れられるかと言えば、それはとても難しい。悪を行って苦しむ方が受け入れやすいのです。自分に原因があれば納得も行く。善を行って苦しむことは、明らかにそれは不当な苦しみなのであって、それが「不当である」というだけで苦しみは増すのです。それを受け入れることは難しい。ましてや、そのような中で穏やかに敬意をもって語ることはなんと難しいことか。それはペトロも分かっているはずです。

 だからこそ、今日の朗読箇所は、それだけでは完結しないのです。今日の御言葉を受け止めるためにも、その先に語られていることに耳を傾けなくてはなりません。18節にはこう書かれています。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」(18節)。このキリストに目を注ぐことなくして、本当の意味で不当な苦しみに打ち勝つことはできないのです。

 不当な苦しみと言うならば、キリストこそまさに不当な苦しみを受けられた方でした。何も悪いことをしてはいないのに、十字架にかけられたのですから。しかし、主はその不当な苦しみを受け入れられたのです。神の御心として受け入れたのです。そして、耐え忍ばれたのです。その意味でキリストは苦しみを負うことにおける模範です。

 しかし、聖書が言いたいのはそれだけではありません。「キリストは正しくない者たちのために苦しまれたのだ」と語られています。「正しくない者たち」とは誰のことでしょうか。迫害者たちでしょうか。敵意をもって向かってくる人々でしょうか。そうではないのです。キリストが苦しまれたのは「あなたがたを神のもとへ導くためです」と言うのです。すなわち、その「正しくない者たち」とはあなたたちだ、とペトロは言うのです。キリストの苦しみは、他ならぬそんなあなたがたを神のもとへ導くためだったではないか、と。

 自分を「正しい者たち」の側に置き、相手を「正しくない者たち」の側に置く時、もはや「穏やかに、敬意をもって」語ることは不可能になります。そして、「正しくない者たち」によって苦しみを負わされることは耐え難いものとなります。

 しかし、十字架の前に立つ時、そこにいるのはもはや「正しい者たち」と「正しくない者たち」という二者ではなくなります。そうではなくて、ただ一人の「正しい方」と残りの「正しくない者たち」になるのです。そこには正しいキリストと、そのキリストに罪を負っていただいた者たちがいるだけなのです。迫害する者も迫害される者も同じところにいることを知る時に、語り方もまた違ってくるのです。

陰府に降られたキリスト
 しかし、ペトロはただキリストが私たちのために苦しまれたことを語ることに留まりませんでした。ペトロの手紙は次のように続きます。「キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです。そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(18-19節)。このように、ペトロはさらに続けて、「陰府に降ったキリスト」について語るのです。ここでは「捕われていた霊たちのところへ行って宣教された」と表現されています。

 私たちは、使徒信条においてキリストに関しての信仰を言い表す時、「十字架につけられ、死にて葬られ」という言葉の次には「陰府にくだり」と続くことを知っています。しかし、実はこの「陰府にくだり」という言葉はもともとの使徒信条にはなかったのです。これが加えられたのは紀元前4世紀の半ばであると言われています。その「陰府にくだり」が加えられた聖書的な典拠として知られているのが、今、お読みしたこの19節なのです。

 実際には、ここはかなり解釈の難しい箇所です。単純ではありません。しかし、この箇所が一つの問いを背景にしていることは考えられます。恐らく誰もが抱く問いです。「地上における生存中に福音を聞く機会を持たなかった人々はその後どうなるのか?」という問いです。先に引用した箇所はその問いに対する一つの答えでもあったと考えられるのです。実際、キリストが陰府にまで降って、キリストが来られる以前に死んだ人たち、あるいは福音を聞くことなく死んだ人たちに宣教したという理解は古くからあって、それは紀元2世紀まで遡ります。

 しかし、ペトロがキリストの苦難を語るだけでなく、さらに「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」と語っているのは、単に死んだ人への関心からではないだろうと思います。そこには、もっと大きな理由があることが垣間見られるのです。続く20節をご覧下さい。「捕らわれていた霊たち」について、わざわざ「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」と説明されているのです。

 ノアが箱舟を作っていた期間、それは神が人々に警告を与えていた期間でもあったと言えます。神はその期間、人々が悔い改め、立ち帰るのを待っておられた。しかし、彼らは最後まで悔い改めなかったのです。ここに言及されているのは、そのような人々の話です。そこで洪水が起こりました。これは明らかに神の裁きです。彼らは神の裁きによって死んだということになります。ならば彼らはそれで終わりであるはずです。しかし、そのような人々のところにまで行ってキリストは宣教されたのだ、と言っているのです。

 ならば、このことを語っているのは、単に死んだ人への関心からではありません。ペトロが語りたいのは、キリストがどのような御方なのか、ということなのです。最後まで悔い改めることなく洪水によって死んだ人たちでさえ、神の裁きによって滅びたと見える彼らでさえ、キリストの目には、まだ終わりとは映っていなかったのです。彼らのところにまでキリストは向かわれたのです。

 ならば、まだこの地上にある人はどうでしょう。キリストの目にはどう映っているのでしょう。どのような人であれ、もう終わりだと映っている人など、一人もいないのでしょう。それがたとえキリストをあからさまに侮辱し、あるいはこの世の権力をもって教会を迫害する人であっても、キリストにとっては終わりではないのです。キリストは彼らのところにも行こうとしておられるのでしょう。あの最後まで悔い改めなかった人たちのところにまで行かれたキリストですから。

 実際、私たちは少なくとも一人は、その実例を知っているのではありませんか。かつて教会の迫害者であったパウロ。キリストはパウロのところにまで行ってパウロに出会われた。語られた。宣教されたのです。

 そして、考えてみてください。キリストがそのような御方であるからこそ、私たちもまたここにいるのではありませんか。本来ならば神に裁かれて終わりであったはずの私たちが、今ここにいるのはなぜですか。陰府にまで降られたキリストが、私たちのところにまで来てくださったからではありませんか。

 そのことが見えてきますと、なぜペトロが「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(16節)と言っているのかがよくわかります。さらにさかのぼって、9節では「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)とも語られていました。それがなぜだか、よく分かります。キリストはわたしたちを神のもとに導くために苦難を耐え忍んでくださっただけではなく、私たちを追い求めてくださったキリストは、今もなおすべての人を追い求めておられるからです。それが、たとえ、私たちを苦しめている人であっても、それはキリストが愛しておられる人であり、出会おうとしておられる人であるに違いないのです。
(祈り)

2022年10月5日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一  5:8~14

 ペトロの手紙一 5:8‐14

 「身を慎んで目を覚ましていなさい」とペトロは言います。「身を慎んで」とは、既に4章において語られていた勧めです。先に申しましたように、これは「醒めていること、冷静であること」を意味する言葉です。その反対は陶酔であり熱狂です。4章では「万物の終わりが迫っています」という言葉に続いて、終末に向かう者の姿勢として語られておりました。この章においては、「身を慎んで、目を覚ましている」ことのもう一つの理由が書かれています。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(8節)と言うのです。

 この世の一般的な感覚からすれば、「身を慎んでいなさい」、すなわち、「冷静でいなさい、醒めていなさい」と語られた直後に悪魔の話が出て来るのは、いささか奇異に思われるかもしれません。というのも、悪魔の話などを始めるのは、どちらかと言えば狂信的な人や現実から遊離している人であると思われているからです。

 しかし、聖書が語るところは全くその逆なのです。既に触れましたように、この手紙の読者は迫害の中にあるのです。そこではどうしても、自分に不当な苦しみを与える人、侮辱したり中傷したりする人に目が行ってしまうのです。あるいは自分が直面している困難や苦難に目が行ってしまうのです。しかし、そこでこそ「身を慎んで目を覚ましていなさい」という言葉を聞かなくてはならないのです。目覚めてこそ、本当の敵が見えてくるのです。本当の敵は人間ではないことが見えてくるのです。本当に戦って克服しなくてはならないのは、苦難そのものに対してでもないことが見えてくるのです。本当の敵は悪魔であるということが冷静になれば見えてくるのです。

 ならば重要なことは一つだけです。悪魔の目的は神から引き離して滅ぼすことにあるのですから、その悪魔に対する抵抗は、神から引き離されないことです。信仰に留まることです。それゆえに「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(9節)とペトロは励ましているのです。具体的には、前とのつながりで言えば、神の力強い御手の下で自分を低くすることです。すなわち、思い煩いを、何もかも神にお任せするということです。他ならぬ神御自身が、わたしたちのことを心にかけていてくださる。心配していてくださる。その神を信じることです。

 また、神に目を向けると共に、周りにも目を向けなくてはなりません。「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」(9節)。悪魔は苦しみを用いて、神の愛を疑わせようとするでしょう。あなたは神に愛されてなどいないのだ。神に見捨てられてしまったのだ。そもそも神などいないのだ。信じているお前が愚かなのだ、と。しかし、その時に苦難の中にいるのは自分だけではないことを知らなくてはならないのです。サタンに立ち向かっているのは、自分たちだけではないことを、この手紙の読者たちは知らなくてはならないのです。

 それは私たちも同じです。私たちは当時のような迫害の中にいるわけではありません。しかし、信仰のゆえにちょっとした困難にぶつかると、すぐに心が萎えてしまうものです。神を信じているのに、どうして?と。しかし、そのような時には、今の時代にあっても、迫害や無理解の中で、あるいは貧困や不安定な社会情勢の中で、苦難を耐え忍びながら御言葉を宣べ伝えているキリスト者たちがいることを考えなくてはならないのです。さらに歴史を辿るならば、私たちがこうして福音にあずかるまでには、おびただしい人たちが涙を流し、血を流して信仰に留まり、福音を宣べ伝えてきたという事実があるのです。私たちは、そのような人々のことを忘れてはならないのです。そのような人々が信仰にしっかり踏みとどまってきたように、私たちも信仰にしっかりと踏みとどまるべきなのです。

 そして、さらに私たちは前に目を向けなくてはなりません。私たちに与えられている希望に目を向けなくて、どうしてサタンに抵抗することができるでしょう。ペトロは言います。「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(10節)。

 そこには「永遠」と「しばらくの間」の対比があります。苦しみは永遠ではありません。「しばらくの間」です。私たちが招かれているのは「永遠の栄光」です。それは一時的なものではありません。「しばらくの間」のことのゆえに、「永遠」の救いを投げ捨ててしまってはならないのです。一杯の食べ物のゆえに、長子の権利を譲り渡したエサウのようであってはならないのです。

 神御自身が「しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」と約束してくださっています。「完全な者とする」とは、完成するという意味の言葉ではありません。「破れたものを修復する」というような意味です。

 もしかしたら、迫害によって肉体的に加えられる危害のことが考えられているのかもしれません。あるいは、様々なものを失うことが考えられているのかもしれません。いずれにせよ、人であれ悪魔であれ、肉体や心にいかなる危害や傷を加えたとしても、あるいは何を奪っていったとしても、神が苦しみの後には完全に修復してくださるのです。すべてを回復してくださるのです。完全な者としてくださる。

 さらには強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださる。今は信仰にしっかりと踏みとどまることは戦いです。揺らぐことが起こってくるから、踏みとどまらなくてはならないのです。しかし、そのような状態が永遠に続くわけではありません。最終的に、完全な勝利の中で、もはや揺らぐことはないようにしてくださるのです。それはすべて神によるのです。ですから、自分が力を得ることが重要なのではありません。「力が世々限りなく神にありますように」とペトロは言っているのです。

 そして、結びの言葉として、「わたしは、忠実な兄弟と認めているシルワノによって、あなたがたにこのように短く手紙を書き、勧告をし、これこそ神のまことの恵みであることを証ししました」と言っています。「これこそ」とは、この手紙に書かれている内容です。すなわち、この手紙の中に書かれ、また勧められているような、苦難と試練の中にありながら、なおも喜びと希望をもって生きることの信仰生活です。これこそが「神のまことの恵み」だと言うのです。神の恵みは、苦難を免れさせるところにあるのではありません。神の恵みは苦難を突き抜けさせるところにあるのなのです。
(祈り)

2022年9月28日水曜日

祈祷会用:ペトロの信徒への手紙一 5:1~7

ペトロの信徒への手紙一 5:1-7

 今日の箇所にはまず長老たちへの勧めが書かれています。これは年長者という意味合いだけでなく、2節に見るように「神の羊の群れを牧する」という職務を担った人たちであることが分かります。また、3節に見るように、その職務にはある権威が伴っていたことが分かります。

 教会の牧会に限らず、教会においてある働きが託されるところにおいては、またある種の誘惑も存在します。「強制されて」「卑しい利得のため」という言葉にその現実が垣間見られます。「権威を振り回す」という言葉にも表れていると言えるでしょう。教会における務めは、神の信任によって託された喜ばしき務めであるはずです。しかし、その働きについて、「強制されて仕方なくやっているのだ」という意識を持ってしまうことはあり得ます。恵みによって託してくださった神に思いを向け、「神に従って、自ら進んで」という姿勢はいかなる働きにおいても重要なことなのでしょう。

 また、そこに権威が伴い、力の行使が伴う場合には、さらに誘惑は大きくなります。その権威や力を行使するに当たっては、「権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい」という言葉をしっかり心に刻んでいる必要があるでしょう。そこで重要なのは、自らがさらに大きな権威の元にあることを見失わないことです。神の羊を牧する長老たちの務めもまた、4節に書かれているとおり、「大牧者」のもとにあるのです。

 そして、5節以下においては、今度は若い人たちに対して、「長老に従いなさい」と勧められています。これは年齢的な「若者」のことではなく、長老のもとにある「執事」という役職を指しているとも考えられます。いずれにせよ、重要なことは、さらに全体に対して「互いに謙遜を身に着けなさい」と書かれていることです。長老と他の教会員との関係においても、若い人たちと長老との関係においても、あるいは職務が関わっているか否かにかかわらず、およそ人と人とが互いに関わり合うところにおいて重要なのは「互いに謙遜を身に着ける」ということなのです。

 しかし、「互いに謙遜を身に着けなさい」と勧められているのは、単に互いのより良い人間関係に必要だからではありません。単に謙遜が美徳だからということでもありません。実際、当時のギリシア・ローマ社会において、謙遜は美徳とは見なされていませんでした。「謙遜」と訳されている「タペイネフロシュネー」という言葉は、一般的には決してポジティブな意味合いを持ってはいなかったのです。なので「互いに謙遜を身に着けなさい」という言葉は当時の一般社会では理解され得ない言葉だったとも言えるのです。

 ではなぜ「互いに謙遜を身に着けなさい」と語られているのか。それはあくまでも信仰に関することなのです。神との関わりにおいて重要な意味を持っているからです。ペトロはその理由を、旧約聖書を引用してこう語ります。「なぜなら、『神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる』からです」(5節)。ここで引用されているのは箴言3章34節のギリシア語訳です。これが理由だというのです。

 「神は、高慢な者を敵とし」とは実に激しい言葉です。しかし、それほどに、私たちが高慢であるか謙遜であるかは、神にとって大きなことなのだということです。それは聖書の始めから既に取り上げられていることからも分かります。スポルジョンという人は、「高ぶりは最初の罪であり最後の罪である」と表現しました。確かに創世記に記されているアダムとエバの物語を読む時に、高ぶりは最初の罪であることを思います。そして恐らく人生の終わりまで、そして世の終わりまでついて回る罪であるに違いないのです。

 アダムとエバの物語については、改めて語るまでもないでしょう。へびの誘惑の言葉は、「それを食べると目が開け、神のように善悪を知る者となることを神はご存じなのだ」(創世記3:5)というものでした。神のように善悪を知るものとなることへの誘惑です。自分を神の位置に就けようとする誘惑です。自らが神のようになって、神をよそに人間が善と悪を決めるのです。自分が善悪を知る者として裁き主の位置に就くのです。そして、人間は自ら神の位置に就いて、神をさえ裁くのです。「主の道は正しくない」(エゼキエル18:25)と。

 まことに高ぶりは最初の罪であり最後の罪です。最後までついてまわる罪です。それゆえに、「皆互いに謙遜を身に着けなさい」と語られなくてはならないのです。私たちは本質的に高慢な者だから。神に対してさえも高慢な者だからです。だからあらゆる人と人との関わりにおいて、あらゆる関わりを通してでも、謙遜を身に着けなくてはならないのです。

 先にも申しましたように、それはただ人間関係において重要だからではありません。神との関わりにおいて重要だからです。それゆえに、ペトロはこう続けるのです。「だから神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」(6節)。ここに至ってこそ、本当の意味で謙遜を身に着けたことになるからです。そして、その勧めには、もう一つの勧めが続きます。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」(7節)。

 今、「もう一つの勧めが続きます」と申しました。しかし、それはあくまでも日本語訳の場合です。実は、原文においては、6節と7節は途中で切れない一つの文なのです。この二つの話題は不可分の関係にあるのです。高ぶりと思い煩いは不可分の関係にあるのです。

 それはある意味で当然のことであるとも言えます。人間は高ぶって神をさえ裁く者となりました。神を退けて人間がこの世界を治め、人間が自らの人生を治める者となりました。 しかし、人間は神の位置に身を置いても、神にはなれません。神なしにこの世界を治め、神なしに自らの人生を治めようとしても、実際には、我が身一つどうすることもできない。無力な御山の大将は手に余る問題に取り囲まれることになるのです。

 イエス様はそんな人間の現実を良く御存じでした。ですから、思い煩いで心がいっぱいの人々に、このように語られたのです。「あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」(マタイ6:27)。そのように、私たち自身の、もっともパーソナルな寿命の問題でさえ、私たちはそれに指一本触れることができないのです。それゆえに、自らが神の位置に留まる限り、様々なことに思い悩まざるを得ない。そのように思い悩みを自らの手に留めていること自体が、実は神に対する高ぶりであり、思い上がりなのです。

 だからペトロは「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」という言葉に、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」という言葉を続けるのです。「お任せしなさい」とは、「投げる」とも訳せる言葉です。手に握ったままで物を投げることはできないでしょう。投げるためには手放さなくてはなりません。そして、手放すことができるのは、受け止めて下さる方がおられるからでしょう。

 その方について、聖書にはこのように語られています。「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(7節)。「心にかけていてくださる」というのは良い訳だと思います。聖書が伝えているのは、まさにそういうことだからです。いつか「心にかけてくださる」のではないのです。思い煩いをお任せする時に、心にかけてくださるのではないのです。過去においても、未来においても、そしてこの瞬間にも「心にかけていてくださる」のです。

 私たちが高ぶって、神を忘れていたときに、神様は心にかけていてくださったのです。私たちがそのお方に信頼して生きるのではなく、そのお方に背を向け、自分の力に頼って生きていたそのとき、神様は私たちを心にかけていてくださったのです。そして、今も心にかけていてくださるのです。神は心にかけていてくださる天の父なのです。

 これをペトロ自身の経験から出た言葉として聞く時に、これはまことに心を打つ言葉として迫ってまいります。ペトロにとって、今の自分があるのは、まさに「神が心にかけていてくださったから」としか言いようがなかったに違いないからです。傲慢にも「わたしはつまずきません」と言い放ったあの時、神は既にわたしを心にかけていてくださった。大祭司の中庭において、三度「知らない」と言った時、神はわたしを心にかけていてくださった。イエス様の言葉を思い出し、自らの罪と弱さに打ちのめされて声を上げて泣いていた時、そんなわたしを神は心にかけていてくださった。ペトロにはよくわかったと思います。イエス様が十字架にかかられるためにこの世に来られたそのこと自体が、まさに神が心にかけていてくださることを現していたのだと。

 それゆえに、ペトロは「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」と語るのです。そのような、心にかけていてくださる神の御前で身を低くするのです。その力強い御手の下で身を低くするのです。ただひたすら信頼する者として身を低くするのです。思い煩いをお任せして、身を低くするのです。私たちはお互いに、そして神の御前において、謙遜を身に着けなくてはなりません。
(祈り)

2022年9月21日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 4:12~19

ペトロの手紙一 4:12-19

 「愛する人たち、あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練を、何か思いがけないことが生じたかのように、驚き怪しんではなりません」(12節)。考えてみれば不思議です。この手紙が書かれたのは、今日の私たちよりも迫害がずっと身近であった時代です。これを読んでいるのは、キリストを信じたならば苦しみに遭うことになるだろう、と覚悟して洗礼を受けた人たちです。しかし、そのような人たちでさえ、実際に試練が身にふりかかってきた時には「思いがけないこと」が生じたように思うことがあり得た。だからこのような言葉を聴かなくてはならなかったのです。ならば、今日の私たちにおいてはなおさらです。その意味では、私たちこそ心に留めなくてはならない御言葉であるとも言えます。

 もしキリストを信じるということが、ただ自分の平安を得るため、ただより良い幸福な生活を手に入れるためであるならば、キリストを信じたゆえに平安を失うような出来事に遭遇したり、「火のような試練」と表現される出来事に直面したりするならば、「キリストを信じているのに、いったいどうして?」ということになるでしょう。

 しかし、キリストを信じるということが、ただ自分の平安や幸いを得る手段ではなくて、キリストの体に加えられ、だれかが救われるために用いられることを意味するならば、キリストの苦しみにも与るのはある意味では当然のことなのです。

 とはいえ、ペトロはただ歯を食いしばって試練を耐え抜けと言っているのではありません。「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど《喜びなさい》」と彼は言うのです。どのような意味において、それは「喜ぶべきこと」なのでしょう。

 ペトロの言葉は次のように続きます。「それは、キリストの栄光が現れる時にも、喜びに満ちあふれるためです」(13節)。ペトロは、「キリストの栄光が現れる時」のことを考えているのです。すなわちキリストが再び来られる終わりの時、私たちの救いが完成するその時です。その時に満ち溢れることになる喜びを考えているのです。今はまだその一部を信仰によって味わっているに過ぎません。しかし、やがてそのすべてに与ります。私たちの現在は、その時に向かう喜ばしいプロセスなのです。

 そして、もう一つ喜ぶべき理由をペトロは示しています。その喜びは終末に関わるだけではありません。現在にも関わるのです。彼は言います。「あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです」(14節)。「とどまってくださる。」これは将来のことではなく、現在のことです。

 ここで神の霊について、あえて「栄光の霊がとどまる」と表現されているのには理由があります。ペトロの念頭にあるのは、恐らくソロモンの神殿に主の契約の箱が安置された場面です。列王記にはその時のことが次のように書かれています。「祭司たちが聖所から出ると、雲が主の神殿に満ちた。その雲のために祭司たちは奉仕を続けることができなかった。主の栄光が主の神殿に満ちたからである」(列王上8:10‐11)。

 一方において聖書は、「天をも地をも、わたしは満たしているではないか」(エレミヤ23:24)という主の御言葉を伝えています。その意味で神はどこにでもおられます。しかし、今読んだ箇所に書かれているのは別のことです。どこにでも神はおられる、というのではなく、まさに神がここに現臨してくださり、栄光を現してくださる。そのような圧倒的な神の臨在をイスラエルの民は「シェキーナー」と呼んで尊んだのです。

 そして、あの神殿で起こったことが、あなたたちに起こるのだ、とペトロは言っているのです。人はどこで神の臨在、シェキーナーに触れるのか、そして、人はどこで神の栄光を輝かせることになるのか。それは試練の中においてなのだ、ということです。人がキリストのゆえに非難される時、その人は栄光を失うのではなくて、むしろそこで神のリアリティに触れ、神の栄光を輝かせることになるのです。

 それゆえにペトロはこう続けるのです。「あなたがたのうちだれも、人殺し、泥棒、悪者、あるいは、他人に干渉する者として、苦しみを受けることがないようにしなさい。しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、決して恥じてはなりません。むしろ、キリスト者の名で呼ばれることで、神をあがめなさい」(15‐16節)。

 「キリスト者(クリスチャン)」という言葉が出て来ました。原文では「クリスティアノス」。「キリストに属する者」という意味です。もともとアンティオキアにおいて始まった、いわば《蔑称》です。キリストを信じる者をバカにする呼び名でした。いわば「キリスト馬鹿」といったところでしょうか。キリストを信じた人たちが、年がら年中「キリスト」と言って、キリストを喜んでいる姿がはたから見たら滑稽だったのでしょう。

 しかし、ペトロはそう呼ばれて馬鹿にされても気にするな。むしろ「神をあがめなさい」と言うのです。このような初期のキリスト者の姿を思います時、改めて考えさせられます。私たちは、馬鹿にされるほど、あるいはそのゆえに苦しめられるほどクリスティアノスだろうか。むしろ単なる善人であるように思われているほうがおかしいのではないか、と。

 学生時代、同じ研究室の後輩にS君という男がいました。学部4年の時には完全にアンチ・キリストで、研究室でも下品な冗談ばかりを言っていた男でした。ところがその彼が修士1年目の時にキリスト者となり、一転して毎日口を開けばキリストの話をするようになったのです。

 研究室の皆は彼を馬鹿にしました。彼は陰口をたたかれ、中傷されました。確かにキリストを伝えるのに、もう少し馬鹿にされない工夫はできたかもしれません。しかし、今思い起こすと、まさに彼はクリスティアノスでした。そして、馬鹿にされても神をあがめていたのです。今日の箇所を読みますと、馬鹿にもされなければ気にもかけられない、もしかしたら信じていることすら知られてもいないキリスト者とは、いったい何なのかと改めて思わせられます。

 そして、さらにペトロは言います。「今こそ、神の家から裁きが始まる時です。わたしたちがまず裁きを受けるのだとすれば、神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか」(17節)。まず神の御前において問われるのはこの世ではありません。裁きは神の家から始まるのです。キリスト者が受ける苦難は、一方においては神の家から裁きが始まることを指し示していると言えます。

 そこで私たちが救われるとするならば、それはただ一重にキリストの十字架による贖いのゆえです。私たちが救われるとするならば、それは当然のことなのではないのであって、まさに「正しい人がやっと救われる」のです。もちろん私たちにおいてその「正しさ」とは、パウロの言う「信仰による義」に他なりません。そのように十字架のゆえに「やっと救われる」ならば、確かにペトロが言うように、「神の福音に従わない者たちの行く末は、いったい、どんなものになるだろうか」ということになるのでしょう。

 ならば自分の平安と幸福の事だけ考えて、試練が降りかかれば「思いがけないこと」のように思うようなキリスト者であってよいはずがありません。私たちが福音を証ししながらこの世をクリスティアノスとして生き抜くということは、この世に対する私たちの大きな責任なのです。ですからペトロは言うのです。「だから、神の御心によって苦しみを受ける人は、善い行いをし続けて、真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい」と。

2022年9月14日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 4:7~11

ペトロの手紙一 4:7‐11

 「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」(7節)と書かれていました。私たちの人生には終わりがあります。人生の終わりだけでなく、万物にも終わりがあると聖書は教えています。聖書が語る「終わり」は、同時に新しい「始まり」でもあります。今の世の終わりは来るべき世の始まりでもあるのです。ですから他の箇所においては、「万物の終わり」ではなくて「万物が新しくなるその時」(使徒3:21)と表現されております。

 「終わり」が文字通り単なる「終わり」ではなく、それが「始まり」でもあるならば、「終わり」について考え、語ることには大いに意味があります。終わりがどうであるかによって、新しい始まりもまた決定されるからです。終わりにおいて重要なことは、神との関係です。神と共にあるならば、神と共にある者として終わりを迎えます。神に逆らっているならば、神に逆らっている者として終わりを迎えます。この二つを分けるのは神の審判です。最後の審判です。新しい始まりはこの裁きの向こう側にあります。ならば「終わり」に向かう者としてどう生きるのか、ということは極めて重要です。そこで聖書はこう教えているのです。「だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」(7節)と。

 「身を慎んで」と訳されているのは、醒めていること、冷静であることを意味する言葉です。その反対は陶酔であり熱狂です。終わりについて考える時に人間が陥りやすいのは宗教的な熱狂です。いつの時代にも「終わりが近い」と言って熱狂し、異常な行動を取る人々、あるいは刹那的な生き方を選ぶ人はいるものです。

 確かにペトロは終わりの時について考えています。私たちもまた、このまま古い世界が永続するかのように考えてはなりません。不義が放置されたままで、罪が支配したままで、そして神が侮られたままで、そのままこの世界が続くと考えてはなりません。しかし、そこで大事なことは冷静になることなのです。祈りは陶酔や熱狂と結びついてはならないのです。そして祈りを伴った真に思慮深い行動が必要とされているのです。

 ペトロはそこで具体的に三つの事柄を挙げております。その第一は、「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」ということです。原文においてこの8節は独立した文ではなく7節に繋がっています。互いに愛し合うことが求められている。しかし、その愛は、思慮深く、冷静で、祈りを伴うものでなくてはならないのです。

 愛が思慮深さと冷静さを失う時、その“愛”なるものは暴走を始めます。人間の熱情ばかりが先走り、もはや神のことを考えられなくなるような、祈りを失った“愛”なるものは、しばしば共同体を破壊し、混乱をもたらします。「愛」という言葉が氾濫している社会の中に生きている私たちは、なおさらこのことを心に留めねばなりません。

 「何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい」。それは本当の意味で関係と交わりを建て上げていくものでなくてはなりません。ですから、続けて「愛は多くの罪を覆うからです」と書かれているのです。罪は交わりを破壊します。自分の罪のゆえに、また他者の罪のゆえに、交わりが傷つけられ壊されるということが、主を信じる者の交わりにおいてさえ起こります。しかし、愛は多くの罪を覆うのです。愛は多くの罪を覆って、壊れた交わりを回復するのです。罪によって傷ついた関係の中に、赦しをもたらし、和解をもたらし、回復をもたらすことができるのは、思慮深く、祈りを伴った愛だけなのです。

 それはちょうど、私たちと神との間に起こったことと同じです。私たちの罪のゆえに壊れてしまった神と私たちとの関係が回復されたのは、ただ神の愛によってでありました。神はその愛のゆえに御子を世に遣わしてくださいました。神はその愛のゆえに御子を私たちの罪の贖いとしてくださいました。神はその愛のゆえに私たちの罪を赦してくださいました。神はその愛のゆえに私たちを御自身との交わりの中へと招いてくださいました。神はその愛によって私たちの多くの罪を覆ってくださいました。

 そのように神と私たちとの間に起こったことが、今度は私たちと誰かの間に起こることを神は望んでおられるのです。そして、そのことを私たちに信頼して委ねてくださっているのです。

 そして、第二にペトロは言います。「不平を言わずにもてなし合いなさい」(9節)。ここで「もてなし合うこと」について言及されているのは、単にそれが美徳だからではなく、当時の教会の事情が「もてなし合う」ことを必要としていたからです。というのも、パウロがそうであったように、多くの伝道者や指導者たちが巡回することによって、当時の教会は成り立っていたからです。

 巡回する教師たちはその地のキリスト者の個人宅に泊まります。場合によっては長期に渡って滞在します。泊める家は必ずしも裕福ではありません。いや初期のキリスト者たちは総じて貧しい人々が多かったのです。当然、負担がかかります。しかも、その負担は集会の構成員全体に均等にかかるわけではありません。ひとりの人に他の人よりも多くの負担がかかることがあります。するといつのまにか不平が生じてくる、ということが起こってまいります。そのように「不平」は人が不公平であると感じ、自分たちは損をしていると感じるところに起こってまいります。

 そのことを考えますと、ペトロがただ「もてなし合いなさい」と勧めているのではなく、特に「不平を言わずに」と言っていることは非常に大事なことであることが分かります。不平が満ちている状態は、その前に書かれている「互いに愛し合う」ことの対極にあるからです。愛することは、時として、あえて損を引き受けることを意味します。愛することは、時として、あえて重荷を引き受けることも意味します。それは、キリストが私たちのためにしてくださったことを考えれば分かります。キリストは私たちの罪の重荷を引き受けてくださいました。キリストはあえて苦しみを引き受けてくださいました。キリストは、いわばあえて喜んで損をしてくださったのです。そのキリストに目を向けるのでなければ、私たちの心はいつでも不平で一杯になってしまいます。

 そして、第三にペトロはこう言います。「あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい」(10節)。やがて私たちの人生もまた終わりを迎えます。その事実は、私たちが今持っているものは本当の意味で私たちの所有ではない、ということを意味します。能力にせよ、他のものにせよ、私たちは人生の途上で手放しながら生きていきます。やがてすべてを手放す時がやってくるのです。それらはある期間私たちに託されているに過ぎません。

 ならば、私たちは所有者のように振る舞ってはなりません。大事なことは、10節にありますように、「善い管理者」になることです。管理者として賜物を用いることです。賜物を用いる上での基本的な原則は「仕える」ということです。神の賜物は、私たちが他者を支配するために与えられているのではありません。他者に仕えるために与えられているのです。

 以上挙げられた三つのこと、すなわち「愛し合うこと」「不平を言わずにもてなし合うこと」「賜物を生かして互いに仕えること」は、教会という共同体を形作ることと関係しています。「万物の終わりが迫っています」という言葉から見てまいりました。その「万物の終わり」が、ペトロの言うように間近にあるのか、それともそれから既に二千年近く経ってしまったように、これからもまだ先のことなのか、それは私たちには分かりません。しかし、いずれにせよ、私たちは終わりに向かって生きているのです。そこで私たちにとって重要なことは、思慮深く、冷静に、祈りをもって、教会の交わりをしっかりと形作っていくことです。神を礼拝し、神に栄光を帰し、神と共に生きる共同体をしっかりと形作り、その交わりの中に生きていくことなのです。

2022年9月7日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 4:1~6

 ペトロの手紙一 4:1-6

 「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから」(1節)と書かれていました。キリストの受けた苦しみについては、これまでも繰り返し言及されてきました。近いところでは3章18節に「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」と書かれています。

 以前も申し上げましたように、そのようにキリストの御苦しみに繰り返し目を向けるのは、先週も触れましたように、この手紙の読者が迫害の中にあったからです。そして、不当な苦しみに対して悪を返すことなく、善を行って耐え忍ぶことは困難なことだからです。それはキリストに目を向けることなくしてなし得ないのです。

 しかし、今日の箇所ではそこに新しい要素が加わっています。「キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい」と言うのです。「武装する」という言葉は当然のことながら戦いを前提とした言葉です。すなわち敵が存在することを前提とした言葉なのです。

 キリストは肉に苦しみをお受けになりました。苦しみを加えたのは具体的にはユダヤ人たちです。しかし、キリストにとってユダヤ人たちは「敵」ではありませんでした。キリストが苦しみを受けたのは、「あなたがたを神のもとへ導くため」だったというのです。ならば、キリストが本当の意味で戦っていたのは、人を神から引き離していた者、すなわち悪魔です。ならば、私たちもまた、苦しみに遭う時に、悪魔と戦うつもりで武装しなくてはなりません。「同じ心構えで武装しなさい」とはそういうことです。

 人間相手に戦うのならば、それなりの武装の仕方があります。実際、そのように人間は個人的な戦いにおいても、国家的な戦いにおいても武装してきたのでしょう。しかし、キリストと同じ心構えで人間相手ではなく悪魔と戦うのなら、武装の仕方は異なります。ペトロはどのように武装したらよいのか、具体的には語りません。それは語られずとも既に皆が了解していたことだからです。

 そもそもキリスト者となること自体が、兵士となることとして理解されていたのです。聖礼典を指す「サクラメント」という言葉があります。それはもともとラテン語でローマの軍隊への入隊式を意味する言葉だったのです。だからキリスト者が武装することは、いわば当たり前のことだったのです。兵士なのですから。

 教会が始めの頃から皆の共通理解としていた武装の仕方の一例は、エフェソ6:14以下に記されています。「立って、真理を帯として腰に締め、正義を胸当てとして着け、平和の福音を告げる準備を履物としなさい。なおその上に、信仰を盾として取りなさい。それによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができるのです。また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい」(エフェソ6:14-17)。今日はその内容には触れませんが、改めてこの箇所をじっくり読んで、自分が何を身に着けなくてはならないか黙想する時間をとってください。

 いずれにせよ、武装するのはただ苦しみに耐えるためではなく、戦うためです。悪魔と戦うということは、いわば悪魔の最も嫌うことをするということです。キリストは、悪魔と戦って、私たちを神のもとへ導いてくださいました。私たちの戦いは、神へと導かれた私たちが罪から離れることです。そして、神の御心に従って生きることです。

 私たちが正しく武装しているならば、不当に与えられる苦しみさえも、神から私たちを引き離すことはありません。既に見て来たように、「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(1:7)ということも起こるのです。

 今日の箇所では「肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです」(1-2節)と表現されています。確かに、苦しみは私たちを罪とのかかわりを断つ力として働きます。また、苦しみは正しく戦いの中にいることのしるしでもあるのです。罪と戦うことを止めて、神の御心に従って肉における残りの生涯を生きようとしないならば、迫害はもはや起こらないし苦難は回避できるのですから。

 ペトロは、実際、彼らがどのような罪の中にいたかを思い起こさせます。「かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです」。そのように、彼らが苦しみを受けているとするならば、それは罪とのかかわりを断ち、正しく戦いの中いるからなのです。

 繰り返しますが、正しく戦いの中に身を置き、キリストと同じ心構えで武装しているということは、悪魔と戦うのであって、人間相手の戦いはしないということを意味します。では苦しみを与える人間についてはどのように見たらよいのでしょうか。例えば、もはや乱行に加わらなくなったことをそしる人々を、彼らはどのように見たらよいのでしょうか。

 ペトロは次のように語ります。「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません」(5節)。不当に苦しみを加える人々をどのように見るのか。今していることを、最終的な審判者の前で申し開きをしなくてはならない人たちとして見るべきだということです。

 それは何を意味しますか。「最後に苦しむのはお前たちだ。ざまあみろ!」ということではありません。ペトロはここでもう一度、3章19節以下で語られていた「キリストの陰府降り」に言及するのです。「死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです」(6節)。

 3章と同じように、この節も決して単純ではなく解釈は分かれます。「死んだ者」を「霊的に死んだ者」と考える人がいます。あるいは「死んだキリスト者」を指すと考える人もいます。最もシンプルに読むならば、「死んだ人」一般を指すのでしょう。そのように解釈してきた人は少なくありません。

 そのように「死んだ人」が誰であれ、重要なのは、キリストによって福音を告げ知らされたのは「神との関係で、霊において生きるようになるため」ということです。それをキリストは切に望んでいるということでしょう。もちろん、「彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません」と言われている「彼ら」もまた例外ではないということです。

 私たちが武装するのは、人間相手の戦いのためではありません。実際に不当な苦しみを与えてくる人々は、私たちが悪魔と戦って、神の御心に従って生き、神のもとに獲得しなくてはならない人々なのです。


2022年8月31日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 3:8~22

 ペトロの手紙一 3:8‐22

 今日お読みしたところには、「終わりに、皆心を一つに、同情し合い、兄弟を愛し、憐れみ深く、謙虚になりなさい。悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい。祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」(8‐9節)と書かれていました。

 「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません」と書かれているところからも、この手紙を受け取った人々は、悪意を持つ人々によって苦しめられたり、侮辱されたりしている人たちだということが分かります。既にお話ししましたように、これが書かれましたのは既に教会に対する迫害が激しくなり始めていた時代なのです。そのような中に生きているキリスト者を励まし力づけるためにこの手紙は書かれたのです。

 さらにペトロは14節以下でこうも言っています。「しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。それも、穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(14‐16節)。

 彼らは不当な苦しみを受けています。正しいことを行なって苦しんでいるのです。彼らはキリスト者や教会に対するいわれのない中傷を耳にします。いや、それだけでなく、キリスト御自身に対する悪意に満ちた言葉を耳にしているのです。そのような人々に対して語る時、穏やかに敬意をもって弁明するようにとペトロは勧めているのです。

 そして、そのような話の流れの中で、ペトロはキリストについて語り始めます。それが18節以下です。22節まで続きます。似たような話の流れは、既に2章18節以下の「召し使いたちへの勧め」で見てきました。ですからペトロがなぜキリストについて語り始めているのか、その理由は明らかでしょう。この勧めの言葉が正しいとしても、その実行は困難だからです。キリストに目を注ぐことなくして、不当な苦しみに打ち勝つことは出来ないからです。彼らが人々を恐れたり、心を乱したりしないためには、そのことが必要なのです。敵意を持つ人々に対しても、自己防衛的な弁明ではなくて、真に愛と謙遜をもって穏やかに敬意をもって信仰の希望を語り得るためには、キリストに目を向けることがどうしても必要だからです。

 彼らが聞かなくてはならなかったのは次のことです。「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです」(18節)。教会が不当な苦しみを受ける以前に、キリストこそ、まさに不当な苦しみを受けられた方なのだ、正しい方が苦しまれたのだ、とペトロは語ります。

 しかも、「キリストは正しくない者たちのために苦しまれたのだ」と言います。正しくない者たちとは誰のことでしょうか。不当に苦しめる人々でしょうか。迫害し、敵意をもって向かってくる人々でしょうか。そうではないのです。キリストの苦しみはあなたがたのためだったのだ、とペトロは言うのです。他ならぬあなたがたを神のもとへ導くためだったではないか、と言うのです。

 敵意を持つ人々を愛することは困難です。怒りと憎しみの感情が沸き上がってきます。悪を行なわれたら二倍にして報復したくなるのが私たちの自然な心情です。「悪いのは彼らではないか」と言いたくなる。しかし、そこで私たちはキリストを見なくてはならないのです。そこには、他ならぬ私たちの罪のために不当な苦しみを背負った御方がおられるのです。その御方を見つめる時に私たちの内にある思いが変えられていくのです。

 しかし、今日特に心に留めたいのは、その先のことです。ペトロは私たちの罪のために苦しまれたキリストを指し示して、直接21節の「復活」および22節の「昇天」に話を進めるのではなく、その間において語っていることがあるのです。彼はあえて「捕われていた霊たちのところへ行って」宣教されたキリストのことを語るのです。それはいったなぜなのかをよく考えたいと思うのです。

 私たちは、使徒信条においてキリストに関しての信仰を言い表す時、「十字架につけられ、死にて葬られ」という言葉の次には「陰府にくだり」と続くことを知っています。しかし、実はこの「陰府にくだり」という言葉はもともとの使徒信条にはなくて、これが加えられたのは紀元前4世紀の半ばであると言われているのです。その「陰府にくだり」が加えられた聖書的な典拠として知られているのが、今日お読みした箇所なのです。

 実際には、ここはかなり解釈の難しい箇所です。単純ではありません。しかし、確かにキリストが陰府にまで降って受肉以前に死んだ人たち、あるいは福音を聞くことなく死んだ人たちに宣教したという理解は古くからありまして、紀元2世紀まで遡ります。そして、この聖書箇所、また「キリストの陰府くだり」の信仰は、ある意味では古くからあった問い、すなわち、「地上における生存中に福音を聞く機会を持たなかった人々はその後どうなるのか?」という問いに対する、一つの答えでもあったと考えられるのです。

 しかし、ペトロがキリストの苦難を語るだけでなく、さらに「捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」と語っているのは、単に死んだ人への関心からではありません。もっと大きな理由があったのです。もう一度20節をご覧下さい。「捕らわれていた霊たち」について、「この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です」と説明されているのです。

 神はノアの箱舟製造を通して警告を与え、彼らの悔い改めを待っておられた。しかし、彼らは最後まで悔い改めなかったのです。そこで洪水となった。これは明らかに神の裁きです。神の裁きによって滅ぼされた。ならば彼らはそれで終わりであるはずなのです。

 しかし、その人々をもキリストは心にかけ宣教されたのだ、とペトロは言っているのです。キリストの目おいては、彼らはまだ終わりではないのです。キリストは、あの時に最後まで悔い改めようとしなかった人々をも追い求めたのだと言うのです。ならば、ましてや今この地上に生きている人を、キリストが追い求めていないはずがない。キリストが宣教しようとしていないはずがない。そういうことでしょう。

 あのノアの洪水はバプテスマの予表であるとペトロは言います。ならばノアの箱舟に乗り込んで救われた8人はバプテスマを受けて救われる人を表していることになります。すると箱舟に乗らなかった人々に宣教するため陰府にまで降られたキリストは、今はどこに行って宣教しようとしておられるのですか。バプテスマを受けていない人々のところに行って宣教しようとしておられるということになるでしょう。

 実際、その人々がどんなにキリストやキリスト者を侮辱する人であっても、不当な苦しみを与える人であっても、キリストは彼らを追い求めておられるということなのです。あのノアの時に逆らい続けた人がキリストの目から見て終わりでないならば、ましてや今この地上にある人が、たとえどのような状態であっても、キリストの目から見て終わりであるはずがない。キリストがあきらめてしまっているはずがない。そういうことなのです。

 そのことが見えてきますと、なぜペトロが「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節)と言われているのか、なぜ、「穏やかに、敬意をもって、正しい良心で、弁明するようにしなさい」(16節)と言われているかが分かってきますでしょう。キリストはただ苦難を耐え忍んだ方として模範であるだけでなく、宣教においても模範である御方だからです。

2022年8月24日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 3:1~7

ペトロの手紙一 3:1‐7

 当時のペトロが目にしていたのは、今日よりもずっと男性優位の社会でした。家庭もまた男性中心の結婚観によって形成されていました。ほとんどの場合、妻は夫の所有物としか見なされませんでした。妻が夫に従うのは当然ことであり、他に選択肢などありませんでした。そのような社会の中に置かれていた教会は、当時の結婚観、夫婦観とどのように向き合っていたのでしょうか。


 一見、当時の結婚観を何の修正も加えずに受け入れていたように見えなくもありません。今日お読みしましたペトロの手紙には「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と書かれておりますし、他のパウロの手紙にも同様の勧めが記されています。しかし、そこに見落としてはならないことがあります。この世と同じように「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と語っていたにもかかわらず、教会の中には当時の社会の中には決して見られなかった全く新しい家庭の姿が存在していたのです。


 そのような新しい家庭の姿は7節に垣間見ることができます。「同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。そうすれば、あなたがたの祈りが妨げられることはありません」(7節)。そこに描かれているのは夫と妻が「命の恵みを共に受け継ぐ者として」生活を共にしている家庭なのです。永遠の命を共に受け継ぐ者として、神の国を仰ぎ望みながら、共に祈りながら生活している夫婦の姿なのです。そのような夫婦関係は、既存の結婚観を拒否したり破壊したりすることによって得られたのではないのです。福音のもたらす命の力によって内側から形成されていったのです。


 しかし次のように言う人がいるかもしれません。「そのようなことが起こるとするならば、夫もまたキリスト者である場合に限られるのではありませんか。確かに夫が神を畏れる人であるならば、『妻たちよ、自分の夫に従いなさい』と語られても、妻が不当に貶められることはないでしょう。しかし、神を畏れぬ夫ならどうなるのでしょうか。その場合には不当な上下関係を改革するために戦うことの方が重要ではないでしょうか。」


 しかし、そのような御言葉を信じない夫に対してであっても、ペトロは「妻たちよ、自分の夫に従いなさい」と言うのです。なぜでしょうか。その理由はいたって単純です。「夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです」(1‐2節)。


 ここで「信仰に導かれる」と意訳されていますが、もとの言葉は「獲得する」という意味の言葉です。本当に獲得しなくてはならないのは、自分の権利ではないのです。対等な地位ではないのです。社会的な平等ですらないのです。本当に獲得しなくてはならないのは、人間なのです。この場合ならば「夫」です。人間を神のもとに獲得しなくてはならないのです。夫が御言葉を信じない人であるからこそ、神のもとに獲得しなくてはならないのです。


 平等の権利を獲得するための戦い方というのは、確かにあるでしょう。しかし、人間を得るための戦い方はそれとは異なります。神のもとに人を得るのはイエス・キリストの福音によるのです。しかし、当時の夫婦関係の中にあっては、妻は夫に言葉をもって福音を伝えることは許されていなかったのです。しかし、福音を「聞かせる」ことができないとしても、「見せる」ことは可能です。もちろん、夫が礼拝に共に参加するのでないかぎり、神を礼拝している姿を見せることはできません。しかし、普段の生活している姿は見せることができます。「神を畏れるあなたがたの純真な生活」、そのような「無言の行い」を見せることはできるのです。


 もちろん、ここに書かれていることは、必ずしも夫婦の間の事柄に留まらないでしょう。人が従属的な立場に置かれるという場面は、他にもいろいろと考えられます。職場において、教師と生徒の関係において、親子や兄弟の間において、地域社会において、しばしば人はそのような立場に置かれます。そのような立場にある時、しばしば私たちは言葉をもってキリストを伝えることに困難を覚えます。しかし、そのような秩序の枠の中においても、無言の行いは人を獲得する力を持つのです。


 もちろん逆のことも言えます。言葉をもって福音を伝える環境にある。事実そのように言葉をもって伝えている。しかし、その言葉をもって伝えていることが「無言の行い」によって否定されてしまう、ということも起こります。実際、ここに書かれている「神を畏れるあなたがたの純真な生活」という言葉は実に重い言葉です。「神を畏れる純真な生活」が問題となるとき、私たちは皆、付け焼き刃のようなものではどうにもならないことを良く知っています。それは内面から現れ出るものでなくてはならないのです。


 それゆえに、続く次の言葉は重要です。「あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです」(3‐4節)。


 外面を装うことは、ある意味で容易なことです。お金さえかければ、いくらでも飾り立てることができます。一方、内面的な人柄を飾ることは容易ではありません。その装いには時間がかかります。内面的な人柄を装うためには、普段からそのことに心を向けていなくてはなりません。


 ここに書かれていることはお洒落に対する批判でも、「女はおしとやかであるべし」などという陳腐な教訓などでもないのです。そうではなくて、普段の生活において、私たちがどこに心を向けているかを問題にしているのです。ペトロは、「このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです」(4節)と言っています。大事なことは、何が神の御前で価値があることなのか、を考えられることなのです。


 さて、既に見ましたように、この箇所は特に、未信者である夫との生活について書かれているところです。この部分を、私たちが普段接している未信者の方々に置き換えて考えてもよいでしょう。その中には、信仰に全く関心のない方、あるいはさらにキリスト教に対して拒否反応を示される方々がいるかもしれません。そのような関わりの中で、時として、「神にとって重要なこと、本当に重要なことを、彼らは分かっていない」などと考えてしまうことがあるかもしれません。


 しかし、今日の聖書箇所は、ある意味で全く逆のことを語っているのです。すなわち、御言葉を信じない人である夫こそが、まさに外面的な飾りや派手な衣服などではなく、神の前で価値あるものに目を向けているのだ、と言うのです。彼らこそが、まさに朽ちないもので飾られた内面的な人柄に目を向けているのだ、神を畏れる純真な生活がそこにあるかどうかを見ているのだ、ということです。


 ですから、御言葉を信じない人との関わりにおいてこそ、神の御前に価値のある装いが真に重要になるのです。実際、そうではありませんか。私たちの周りの未信者の方々の方が、教会の人よりも良く見ていると思います。実に鋭く見ているものです。そのような関わりの中において、付け焼き刃は何の役にも立ちません。地味ではあるけれどしっかりと内実を持った信仰生活、神を礼拝し神を畏れる生活こそが、真に人間を神のもとに獲得し、現実を変革する力を持つのです。

(祈り)


2022年8月17日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 2:18~25

ペトロの手紙一 2:18-25

 「召し使いたち」というのは、一般家庭の下働きをしている奴隷たちです。中には「善良で寛大な主人」のもとで幸福に暮らしていた奴隷たちもいたことでしょう。しかし、もう一方で「無慈悲な主人」のもとにいる奴隷たちも確かにいたに違いありません。そのような主人に仕えるならば、不当な扱いを受け、理不尽な苦しみを味わうことにもなるのでしょう。そのような辛い境遇にある人々もまた教会の中にはいることを重々承知の上で、ペトロはなおこう語りかけるのです。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい」(18節)。

 それはどうしてか。彼はこう続けます。「不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」(19節)。これが理由です。

 この部分だけを読みますと、人間が苦しみを耐えているのを楽しんで眺めている、それこそサディスティックな「無慈悲な主人」としての神の姿を思い描く人がいるかもしれません。しかし、そうではないのです。ペトロはこう続けます。「罪を犯して打ちたたかれ、それを耐え忍んでも、何の誉れになるでしょう。しかし、善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神の御心に適うことです」(20節)。

 そのように、ペトロが思い描いているのは、ただ不当な苦しみを耐えている人の姿ではないのです。そうではなくて、ここに書かれているように、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶ」人の姿なのです。たとえ善を行ったとしても苦しみしか返ってこないことが分かっているのに、苦しみを受けることになって耐え忍ばなくてはならないことが分かっているのに、それでもなおあえて悪を返すのではなく、相手に対して善を行う方を選ぶ人。ペトロが思い描いているのは、そのような人の姿なのです。そして、言うのです。「それこそ神の御心に適うことです」と。

 「御心に適うこと」という言葉が2回繰り返されていますが、このカリスという言葉は通常「恵み」と訳されます。ですからこの部分は、「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍ぶなら、これこそ神と共にある恵みなのです」とも訳せるのです。

 「神の恵み」。それはただ人に与えられてそこに留まるものではありません。人に与えられた恵みは、人を通って他者へと向かうものなのです。言い換えるならば、他者へと向かって現れる時に、与えられた恵みはこの世界に目に見えるものとなるのです。

 ここに恵みを与えられた人がいます。その人は無慈悲な主人に仕える人です。無慈悲な主人なのに、不当に扱うことしかしない主人なのに、それでもなお主人を愛して、心から主人を愛して、心から畏れ敬って、忠実に仕えようとする召し使いの姿がそこにあります。そこに現れているのは何か。神の恵みが形を取って現れているのです。まさに、憎しみと怒りの連鎖によってがんじがらめになっていることの世界に、この世界からではない天から来る恵み、神の恵みが形を取って現れているのです。

 そして、ペトロは言うのです。「あなたがたが召されたのはこのためです」。そうです、このために彼らは召されてキリスト者とされました。そのために私たちもまた召されてここにいるのです。「あなたがたが召されたのはこのためです」。そして、ペトロは召してくださった方のことを語り始めるのです。「というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」(21節)。

 イエス様が模範を残してくださいました。「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった」(22節)。そう書かれています。ならば、本来苦しみを受ける理由はありませんでした。しかし、その御方はののしられました。苦しめられました。それは明らかに不当な苦しみでした。しかし、「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(23節)。そのように主は不当な苦しみを耐え忍ばれました。その意味でイエス様は父なる神に裁きをゆだねて忍耐する姿を見せてくださった模範であったと言えます。

 しかし、イエス様は忍耐の模範である以上に、恵みの現れとしての模範でした。ペトロはこう続けるのです。「そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」(24節)。

 イエス様が担ってくださったのは「わたしたちの罪」だったのだとペトロは言います。この24節はイザヤ書53章をもとにした当時の讃美歌であったろうと言われます。これを読んでいる人たちがこれまでに幾度となく歌ってきた歌かもしれません。そこに歌われているのは、繰り返し聞いてきた福音の言葉です。それを今、不当な苦しみを受けている人たちに、不当な苦しみを受けているからこそ、改めて語って思い起こさせるのです。「十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました」。そう、主が担ってくださったのは、他ならぬ「わたしたちの罪」でした、と。

 そのように、イエス様の受けた苦しみは私たちの罪のためだった。それは言い換えるならば、イエス様を不当に苦しめたのは私たちだった、ということです。あの方に傷を負わせたのは私たちだったということです。あの方を傷だらけにして十字架にかけたのは私たちだったということです。その私たちが負わせた傷に対して、あの方が私たちに返したのは――癒しでした。そのつもりであの方は傷を負われたのです。「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」とあるとおりです。そこに見るのは「恵み」です。天からの恵み以外の何ものでもありません。

 その御方のもとに今、あなたがたはいるのだとペトロは語ります。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」(25節)。主の日の集まりにおいて、主の晩餐を共に食する集まりにおいて、この手紙は繰り返し読まれたに違いありません。

 主の裂かれた体、主の流された血をいただきながら、主が受けられた傷、そして与えられた癒しを思いつつ、この手紙の言葉を思い巡らしたことでしょう。恵みの現れそのものである御方と共にいる幸いを思いつつ、この手紙の言葉を一つ一つ受け取ったことでしょう。

 もはやさまよっている羊ではないのです。そうです、私たちもまた、主のもとにいる羊として、この言葉を聞いているのです。「あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。

 その魂の牧者である御方が、今日もその足跡に続くようにと招いておられます。「善を行って苦しみを受け、それを耐え忍び、恵みの現れとなりなさい」と。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。


2022年8月10日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 2:11~17

ペトロの手紙一 2:11‐17

 今日の箇所には「悪人呼ばわり」(12節)という言葉が出てきます。当時のキリスト者が、人々から「悪人呼ばわり」されていたという事情が伺えます。具体的にどのようなことを言われていたのかは分かりませんが、まだ国家レベルの迫害が始まる以前から、様々な謂われのない誹謗中傷を受けていたようです。15節に書かれている「愚かな者たちの無知な発言」も同じです。これはもう少し広く、キリスト者や教会に対する誹謗中傷だけでなく、キリスト御自身やキリストの父なる神、あるいは神を信じる信仰そのものに対する暴言を含むものと考えられます。

 そのように、キリスト者となってからその信仰の故に嫌な思いをすることがあったとしても決して驚くに価しないということは、私たちの心に留めるべきことなのでしょう。それはキリスト者が初めから経験してきたことなのです。そのようなことが起こり得るこの世に、私たちは「仮住まい」の生活をしているのです。「いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから」(11節)と書かれているとおりです。

 旅人であるとは目的地があるということです。放浪者ではありません。モーセに率いられていたイスラエルの民が約束の地に向かっていたように、私たちもまた神の国へと向かっているのです。この世界は、辛いこともたくさんありますが、これが私たちの最終的な目的地ではないのです。

 しかし、だからと言って、「旅の途中で嫌なことがあったとしても気にするな」という話をするために、このことを言っているのではありません。この地上に生きるキリスト者には、この世における責任があるのです。イスラエルが諸国民の祝福のために地上に置かれていたように、私たちもまた諸国民(異教徒と訳されている言葉を直訳すれば「諸国民」)のために置かれているのです。

 9節に次のように書かれていたことを思い起こしてください。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(9節)。それゆえに、その民が地上の諸国民の間でどう生きるかが問題になってくるのです。そこで具体的に心に留めるべきことがあります。それが今日お読みした箇所に書かれている内容です。

 消極的には「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」(11節)ということです。「肉」というのは肉体のことではありません。人間の罪深い性質のことです。その肉が欲するところに従うとどのような形で現れてくるかはガラテヤ書5章に列挙されています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(ガラテヤ5:19‐21)。このようなことを行う肉の欲するままに生きてはならないということです。

 肉は救われた魂(1:9)に戦いを挑んできている敵なのですから、仲良くしてはならないのです。遠ざけなくてはなりません。キリスト者として謂われのない中傷を受けるのなら良いのですが、肉に従って生きて肉の業をばらまいて「謂われのある中傷」を受けるようであってはならないのです。

 これはより積極的に表現をするならば、「立派に生活しなさい」(12節)となります。この「立派に生活すること」あるいは「立派な行い」というのは、信仰から生じる行いのことです。キリストを信じ、キリストを愛するところから、そのようなキリストとの生き生きとした交わりから生まれる行いです。そうでなければ人々は「神をあがめるようになる」のではなくて、あなたを誉めるようになるでしょう。

 そこには「よく見て」という表現があります。これは観察するという意味です。しかも、継続的に観察しているという表現になっています。私たちがキリストについて語ったり救いについて語ったりする言葉を人々は聞いてくれないかもしれません。しかし、キリスト者の生活を見てはくれています。観察してくれています。そこにおいては、言葉よりも姿そのものが雄弁に語ります。そこでは見せかけは通用しません。家族の中では特にそうでしょう。本当にキリストから来ていることが重要なのです。すなわち根底にある信仰生活そのものが問われるということです。

 13節以下には、より具体的に「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです」(13‐15節)と書かれています。そのように語っているのはペトロだけでなく、既にパウロも語っていることです(ローマ13:1以下)。

 どうしてこのようなことが語られなくてはならないのでしょうか。それは宗教的熱心あるいは熱狂主義というものが反社会的な行動を生み出すことがあるからです。特にその熱心が「怒り」という要素と結びついた場合はそうなります。実際、熱心党と呼ばれるセクトはその道を行ったのです。今日においても実例に事欠くことはないでしょう。

 そのような方向に対して、ペトロはノーと言っているのです。キリスト者が誹謗されるなら、キリスト御自身が中傷されるなら、その口を封じるために必要なのは暴力でも議論でもないのです。善を行うことだ、とペトロは言うのです。この「善」もまた、当然のことながら信仰から生じる善き行動を意味するのでしょう。ですから「主のために」と書かれているのです。あえて暴力を選ばない、あえて論争を選ばない、そうではなくて愛することを選ぶ時、人々はそこに「主のために」生きているキリスト者の姿を見ることになるのです。

 そして、さらにペトロは言います。「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」(16節)。パウロも言っています。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)。

 キリスト者は律法のもとに生きてはいません。キリスト者の生活は戒律に支配された生活ではありません。「このことは禁じられているから、わたしはしない」という生き方はしません。「このことは禁じられていないから、やっていいのだ」という考え方もしません。

 そうではなくて、「私を愛していてくださる神は何を望んでおられるのだろうか」を考えるのです。「神の僕として行動しなさい」とはそういうことでしょう。本当の自由とは、肉に従う自由ではありません。それでは罪の奴隷になってしまいます。そうではなく、神の僕として仕えることのできる自由です。時には自分の権利を放棄することもできる自由、あえて仕えることもできる自由、愛することのできる自由です。

 そこには「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」(17節)と書かれています。先に述べた、制度に従うこともそうですが、「そうせざるを得ないから」と言って従うのは自由人の姿ではありません。そうではなくて、神がお望みならば喜んでそうします、というのが本当の自由な人の姿なのです。自由な人として生きることを求めましょう。

2022年7月27日水曜日

祈祷会用:ペトロの手紙一 2:1~10

ペトロの手紙一 2:1‐10

 既に1章において述べたように、キリスト者であるということは、人生に何かアクセサリーのようなものが加えられることではなく、ちょっとばかり善い人間になったという次元のことではなく、「新たに生まれた」ということです。それは人間の努力によってではなく、神の憐れみよるのであり(1:3)、神の御言葉によるのです。それは「天に蓄えられている…財産を受け継ぐ者」(1:4)とされること、すなわち神の国を受け継ぐことを意味するのであり、「生き生きとした希望」(1:3)、すなわち死を突き抜けた永遠の希望を与えられることを意味するのです。

 そのように新たに生まれるということはまた、新しい関係の中に生まれるということでもあります。赤ん坊が生まれる時には必ず家族の中に生まれてくるように、私たちは神の家族の中に、新しく生まれるのです。その中で私たちが生い育っていくためには、どうしても必要なことが二つあります。ペトロが今日の箇所ではっきりと書いています。一つは「捨て去ること」です。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って…」と書かれていました。まずは否定的な側面からですが、大事なことは新しい家族としての関係に生きることを妨げるものを捨て去ることです。

 「捨て去る」と言うのですから、それは自分の意志をもってやらなくてはなりません。何かの理由で悪意を抱いてしまうことはあるでしょう。それはある意味で仕方のないことです。しかし、その悪意を後生大事に抱えているのか、それとも捨て去ろうとするのかは大きな違いです。悪口を言いたくなる。あるいはついつい言ってしまう。そういうことはあるかもしれません。しかし、いつまでも延々と悪口を言い続けるかどうか、それはまた別の話です。気づかせていただいたら、その都度、悔い改めて手放すことが大事です。

 そしてもう一つ。積極的には「霊の乳を慕い求める」ということです。成長するためには栄養を採らなくてはなりません。「霊の乳」は「御言葉の乳」とも訳せる言葉です。御言葉を慕い求めることです。このことなくして絶対に成長はあり得ません。

 主の御言葉を求めるためには、当然のことながら、主のもとに行かなくてはなりません。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい」(3‐4節)と書かれているとおりです。

 主のもとに行くとは、具体的にどういうことでしょう。実はこの勧めの言葉は詩編34編9節から来ています。その詩編の言葉は、古くから聖餐の式文に用いられてきたものです。つまり、ここでペトロはキリスト者が集まって御言葉を聞き、聖餐を行う礼拝を考えているのです。先に語られていたように、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を、悔い改めをもって捨て去り、そして霊の乳である御言葉を求めるのは、何よりも教会が聖餐卓のまわりに集められている時においてであり、特に主の日の礼拝においてなのです。

 そこでペトロはさらに、もう一つのイメージをもって語り始めます。それはエルサレムにあった「神殿」です。ペトロはこう語ります。「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(4‐5節)。

 後に祭司やいけにえについて語られているように、この「家」とは神殿のことです。もちろん、「《霊的》な家」ですから、建造物のことではありません。主の食卓の周りに集められている信仰者の群れを、神は「霊的な神殿」として見ておられるということです。

 その神殿を建てるための「かなめ石」はキリストです。キリストは人々から捨てられ十字架にかけられましたが、神はそのキリストを復活させ、新しい神殿を建てるための「かなめ石」となさったのだと語られているのです。この「かなめ石」に寄り頼む他の切石が一つ一つ組み合わされて神殿が造り上げられます。その切石こそ私たちなのです。「あなたがた自身も生きた石として用いられ」、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」とはそういうことです。

 その霊的な神殿においては、そこに仕える祭司もいなくてはなりません。それも私たち自身です。「そして聖なる祭司となって」と書かれているとおりです。また、祭司は「いけにえ」を献げるためにそこにいます。ここでは「神に喜ばれる霊的ないけにえ…を献げなさい」(5節)と語られています。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」とは何でしょう。それは私たち自身の体のことです。

 「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)。要するに、ここで私たちは生きている「切石」として神殿を建て上げ、同時に聖なる祭司となって、私たち自身を神に喜ばれる霊的ないけにえとして献げるのです。

 これが教会において起こっていることです。私たちは主のもとに集まります。私たちは捨て去るべきものを手放し、御言葉の乳を慕い求めます。そのように、私たちが主のもとに集まる時に、霊的な神殿が目に見える形でここに姿を現します。私たちは自らを神に喜ばれるいけにえとして献げます。日曜日の集まりは讃美歌付き講演会ではありません。私たちは生けるキリストのもとに集まり、自らを献げて共に神を礼拝するために集まっているのです。そのように、週毎に捨て去るべきものを手放し、慕い求めるべきものを慕い求めていくならば、私たちは信仰者として成長し、教会はまことに神の神殿としての輝きを現していくに違いありません。

 そして、それはただ私たちだけのためではないのです。私たちはまだ福音を受け入れていない世界のただ中に置かれているのです。そこにおいて、ペトロは教会がどのような存在とされているかを語ります。「しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です」(9節)。これらは皆、旧約において神の民イスラエルを表現する言葉です。イスラエルが存在したのは、自分たちのためではなく、この世界のためでした。同じように、神の民として礼拝をささげる私たちについても、次のように語られています。「それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです」(9節)。神は私たちをこの世に遣わされ、自分自身を献げた私たちをこの世のために用いられるのです。
(祈り)

2022年7月20日水曜日

祈祷会用 ペトロの手紙一 1:13~25

ペトロの手紙一 1:13‐25

 今日の聖書箇所に「仮住まい」という言葉が出てきました。聖書は私たちのこの地上の生活を「仮住まい」と表現します。なるほど、そのとおりだと思います。しかし、私たちはまず、ここでペトロが「仮住まい」という言葉をもって思い描いていることを正確に理解しなくてはなりません。そのためにはペトロが念頭に置いていた二つの出来事について良く考える必要があります。二つの出来事とは《出エジプト》と《キリストの復活》です。

 第一に、この「仮住まい」という言葉は、エジプトから解放されたイスラエルの民との関連で理解されなくてはなりません。そこでまず15節に書かれていることに目を留めましょう。ペトロは「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい」(15節)と勧めています。その根拠として、彼は旧約聖書の言葉を引用します。「『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです」(16節)。これは旧約聖書のレビ記19章2節からの引用です。

 このレビ記の言葉は、もともとシナイの荒れ野で語られた言葉です。彼らはエジプトから導き出され、解放された民として、約束の地に向かって旅をしていたのです。途中で彼らはシナイの荒れ野に宿営しましたが、そこは彼らにとって永住の地ではありませんでした。文字通り彼らは「仮住まい」をしていたのです。ペトロの念頭にあったイメージは、まずこのイスラエルの民の姿です。

 それは18節の言葉からも分かります。こう書かれています。「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(1:18)。エジプトから解放されたその夜、イスラエルの民は小羊を屠り、その血を鴨居と柱とに塗りました。それは神が命じられたことでした。神の裁きがエジプト全土に臨む時、その血がしるしとなってイスラエルの家を神の裁きが過ぎ越すためでした。そのように過越の小羊の血を通してエジプトで奴隷であった民は救われ、奴隷としてのむなしい生活から解放されたのです。

 それと同じように、十字架において流されたキリストの血によって、私たちは、罪の負い目から解放され、神から離れたむなしい古い生活から解放され、神に導かれる新しい生活が与えられました。ここでもキリストを信じる者の生活が、エジプトから導き出されたイスラエルの民の生活と重ねられていることが分かります。

 このように、ペトロが「仮住まい」について語る時、それは単に私たちの人生の期間が限られていること、暫定的な生活であることを言っているのではないのです。そうではなくて、目的地へと向かう旅の途上にあることを言っているのです。同じ「仮住まい」でも、向かうべき目的を持たない者は《放浪者》です。ペトロは《放浪者》について語っているのではありません。約束の地に向かって、神に導かれて歩んでいる、神の民としての生活について語っているのです。

 そして第二に、この「仮住まい」という言葉はキリストの復活との関連で理解されなくてはなりません。私たちはいかなる神を信じて「仮住まい」の生活をするのでしょうか。21節を御覧ください。ペトロは私たちにこう語りかけています。「あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです」(1:21)。

 ペトロはここで「希望」という言葉を口にします。しかし、目に見える世界は単純に「希望」とは結びつきません。この世界の有り様は最終的な破局へと向かっているようにしか見えないのです。個人の人生も同じです。この地上において営まれる人生は、ある意味では失っていくプロセスです。能力を失い、健康を失い、友人を失い、社会との繋がりを失い、やがて地上の命を失って死に至る。そのような人生に目を向けて、なお「希望」を語ることができるでしょうか。

 いや、目に見える世界は、「希望」と結びつかないだけではありません。それは極めて不可解なものでもあります。私たちは、この世界が必ずしも私たちの納得の行く仕方で動いてはいないことを知っています。理不尽なことが起こります。「なぜこんなことが!」と叫びたくなるようなことが起こります。善が必ずしも報われるわけではありません。悪が必ずしも裁かれるわけではありません。正しく公平に事が運んだりはしません。目に見えるこの世界はまことに理不尽です。

 しかし、そのような地上の世界に、神はキリストを遣わされました。そして、十字架にかけられて死んだキリストを死者の中から復活させ、栄光をお与えになったのです。そのことを通して、私たちに重大なことを示されたのです。《私たちがこの地上に見ていることはまだ完結していない》ということです。

 理不尽ということを言いますならば、罪のないキリストが十字架にかけられて殺されることほど理不尽なことはありません。しかし、神はそのキリストを復活させ、栄光を与えられたのです。そこで初めて完結するのです。十字架はまだ途中なのです。十字架までの部分は、全体の一部でしかないのです。

 そのように、いわば《十字架までの部分しか見えていない》のが、私たちのこの地上における生活です。だからそれだけに目を向けているならば、それは理不尽にしか見えないし、そこには希望がありません。しかし、私たちは地上の生活だけに目を向けて生きる必要はないのです。私たちは「キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神」を信じているのです。十字架までの部分しか見えていない私たちの地上の生活は、旅路の途上でしかないのです。私たちは、その意味においても、確かに「仮住まい」をしている者に過ぎません。

 そのように、最終的に神様がすべてを完結させてくださいます。この世界の歴史をも、神の民としての教会も、私たちの人生も、正しく完成し完結させてくださいます。それは、ある意味では「神が公平に裁かれる」ということでもあります。それゆえに、私たちは17節の御言葉を心に留めなくてはならないのです。「また、あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を『父』と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです」(1ペトロ1:17)。

 それはある意味では最終的な審判者である神を「怖く思う」ということでもあります。真に恐れるべき一人の御方を知っているというのは、非常に幸いなことです。それは私たちにとって安全なことでもあります。また、それはその他諸々の恐怖から解放されることでもあります。ですから、本当に恐れるべき御方を「怖く思う」ということは大事なことです。

 しかし、既に見てきましたように、神を畏れて生活をするということは、ただ単に神の罰を恐れおののきながら戦々恐々と生活することを意味しません。人生は、死刑の日を待つ死刑囚の独房ではないのです。神は、イスラエルの民の旅路を導かれたように、私たちをも忍耐強く慈しみをもって導き給う御方です。そして、キリストの復活を通して、私たちに生き生きとした希望を与え、希望に向かって歩ませてくださる御方です。私たちはそのような御方を「父よ」と呼ぶ者としていただいたのです。ならば、重要なことは、従順な子供として、父を愛し、敬い、信頼して生きることです。それが私たちの仮住まい生活の仕方です。

(祈り)

2022年7月13日水曜日

祈祷会用 ペトロの手紙一 1:1~12

ペトロの手紙一 1:1‐12

 今日から公同書簡の二通目に入ります。ペトロの手紙一です。この手紙は、宛名としてはポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ベティニアの各地にある諸教会に宛てられたものです。明らかに回覧されるために書かれた手紙です。それは個々の教会の問題を取り扱うのではなく、諸教会に普遍的な問題を取り扱っているということです。ということで、後に「公同書簡」と呼ばれるようになりました。

 これが書かれましたのは既に教会に対する迫害が激しくなり始めていた時代です。困難と苦難が度合いを増してきていた。そのような中に生きているキリスト者を励まし力づけるためにこの手紙は書かれたのです。そこでペトロはまず何を語ろうとしているのでしょうか。彼は挨拶に続けて、次のように書き始めます。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(3節)。

 ペトロは彼らが受けている試練に言及する前に、まず神の御業について語るのです。「人々があなたに与えた苦しみにではなく、神があなたになにをしてくださったか――まずそのことに目を向けようではないか。そして共に神をほめたたえようではないか!」いわばペトロはそのように呼びかけているのです。

 その《神がしてくださったこと》とは何でしょう。ペトロがここで中心的な事柄として語っているのは、次の一事です。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせてくださった!」(3節)。キリストを信じる信仰が与えられ、信仰によって生き始めるということは、今までの人生に何かアクセサリーのようなものが加えられることではありません。ちょうど赤ん坊が家族の中に生まれてくるように、神との交わりの中に、神の家族の中に、新しく生まれるのです。

 そして、赤ん坊が自分の努力で生まれてくるのではないように、私たちが新しく生まれるのは神の憐れみによるのです。私たちは自分の努力でクリスチャンになるのではありません。努力してクリスチャンらしくなって新しく生まれるのではありません。そうではなく生まれることが先です。何もできない赤ん坊であっても、確かにこの世に生まれたなら、既に生まれた人でしょう。クリスチャンも同じです。

 神によって新たに生まれることについて、ペトロは特に二つのことを語っています。新しく生まれるということは、第一に「生き生きとした希望」を与えられるということです。わざわざ「生き生きとした(生きている)希望」について語っているということは、もう一方に「死んでいる希望」があるということを意味します。同じように見えても、生きている花と切り花は異なります。一方には命があり、もう一方には命がありません。希望にも命のある希望と命のない希望があるのです。希望に命がなければやがて枯れます。この世において一般的に「希望」と呼ばれるものは、やがて枯れていく希望です。人が死をもって終わる人生しか知らなければ、滅びをもって終わる世界しか知らなければ、あらゆる希望は結局枯れてしまう希望でしかありません。

 枯れない希望、生きている希望であるためには、死と滅びを突き抜ける希望でなくてはなりません。そのためには永遠なる神との確かな関係が不可欠です。神の家族の中に新しく生まれ、神との交わりの中に新しく生まれてこそ、死を突き抜ける希望に生きることができるのです。その希望を父なる神との真の交わりにある御子イエス様が、特に復活において見せてくださいました。十字架で終わらぬ希望を見せてくださいました。私たちが新しく生まれ、神の子供であるならば、イエス様に対してそうであったように、私たちに対しても死は何の力も持ちません。イエス様の復活の姿はやがての私たちの姿でもあるのです。

 そして、新しく生まれるということは、第二に「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者」とされることでもあります。子供であるならば、当然相続すべきものがあるのです。この世において相続する財産については、多くの人々が多大の関心を払います。しかし、それらは皆、朽ちたり汚れたりしぼんだりするものです。永遠なるものはありません。しかもそれら相続財産は、本当の意味では私たちの「所有」とはなりません。それは既に世を去った人たちがすべてをこの世に置いていったことを見ても明らかでしょう。私たちが本当に受け継ぎ所有することができるのは、神の国において受け継ぐものだけです。

 それは既に私たちのために「天に蓄えられている」ものです。それは私たちが積み立てたものではありません。相続財産の比喩がそのことをよく表しています。自分が積み立てたものを相続財産とは言いません。相続財産は親が用意するのです。そして子に一方的に与える。そのように、神の国における完全な救いは一方的な恵みとして与えられるのです。神が相続者として新たに生まれさせてくださった。だから私たちは相続するのです。

 そして、さらに「あなたがたは…守られています」と聖書は語ります。永遠の希望を与えられ神の国を受け継ぐ者とされた。しかし、その救いに与るのは先の話です。現在の私たちは、いわば嵐に翻弄されながら港へと向かっている船のようなものです。沈んでしまいそうになることが幾たびもあることでしょう。しかし、神は「港まで頑張ってたどり着け」と言っているのではありません。神御自身がその旅路に伴い、御力をもって守ってくださるのです。神の力によって守られるということが何を意味するかは、後でもう一度触れます。いずれにせよ私たちは旅路の途上において、この地上において、神の力を経験するのです。その神の力の通路となるのが「信仰」なのです。ですから「信仰によって」(直訳は「信仰を通して」)と語られているのです。

 このようにペトロは、まず神が私たちに何をしてくだったのか、そして何をしてくださっているのかに目を向けさせます。まず神に向かってこそ、真に現実と向き合うことができるのです。ここに至って初めてペトロは、「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが…」と、信仰者の試練について語り出します。信仰は苦しみを免れる手段ではありません。むしろ神と共に、そして人と共に生きようとするならば、あえて担わなくてはならない苦難というものがある。キリストに従うならば背負うべき自分の十字架があるのです。

 しかし、それは「今しばらくの間」と語られているのです。永遠ではありません。そして、それがあえて「試練」と呼ばれているのには意味があります。単なる「苦しみ」ではありません。これは金属の精錬に喩えられているのです。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(7節)。

 純金の塊は、初めから純金であったのではありません。金鉱が破砕され、粉砕され、選鉱され、火によって精錬され、このプロセスにおいて不純物が取り除かれて、最終的に純粋な金として人々の前に現れるのです。今、「純粋なものとして人々の前に現れる」と言いましたが、そう訳してよい言葉がここにも用いられています。「本物と証明され」と訳されている言葉です。

 金はそのように精錬され純粋にされるのです。しかし、それでもやがて朽ちていきます。神はそのような金よりももっと尊いものを造りだそうとしているのです。それは純粋な信仰です。精錬の喩えからわかりますように、試練はただ信仰をテストするということではないのです。試練は不純物を取り除き純粋にするプロセスなのです。考えて見れば、私たちが信仰と呼んでいるものは往々にして不純物だらけなのです。不純物は取り除かれなくてはならない。そのためには火を経る過程が必要なのです。

 そして、不純物が取り除かれていく精錬のプロセスの中で、私たちは先にペトロが語っていたように、確かに神の力によって守られることを経験するのです。既に見てきたことから明らかなように、それは単に苦しみを遠ざけてくれるという意味での守りではありません。そうではなくて、苦難の中にあってなお喜びを奪われない、希望を奪われない、絶望に落とされないことなのです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(8‐9節)。

 神の力がもたらされる通路は信仰であると申しましたが、その信仰が純粋にされていくならば、ますますキリストを信じ、キリストを愛するようになり、ますます言葉では言い尽くせない喜びに満ちあふれるようになるのです。そこにこそ神の力の現れがあり、神の守りがあるのではありませんか。ならばもう私たちは救いを受けているとさえ言えるのでしょう。それこそが私たちに与えられている信仰生活なのです。

(祈り)

2022年5月1日日曜日

「神は心にかけていてくださいます」

ペトロの手紙一 5:6‐11

悪魔に抵抗しなさい
 今日は第二朗読でペトロの手紙が読まれました。8節をご覧ください。「身を慎んで目を覚ましていなさい」(8節)。そう書かれていました。「身を慎んで」とは、「醒めていること、冷静であること」を意味する言葉です。その反対は熱狂であり陶酔です。そうなってはならない。それはなぜか。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」(8節)。それが理由です。

 今日の一般的な感覚からすると、これは奇妙に聞こえるかもしれません。例えば皆さんが誰かに「悪魔がライオンのように歩き回っているから気を付けなさい」という話をしたら、その人はどう思うでしょう。恐らくその人はあなたを狂信的な人か現実から遊離している人と見なすでしょう。とても冷静に物事を考える人とは見てくれないに違いありません。しかし、ここでペトロが言っていることこそ、まさに冷静で醒めているために必要なことだと言うのです。

 それはなぜか。それはこれを読んでいた人たちのことを考えると分かります。この手紙の読者は、迫害を受けていた教会の人たちです。他の人たちから苦しめられている人たちです。そのような状況に置かれたら、どうしても自分に不当な苦しみを与える人、侮辱したり中傷したりする人に目が行ってしまうものす。だからこそ、本当の敵が誰であるかをペトロは語るのです。

 本当の敵は人間ではなく、「悪魔」なのです。「悪魔」という言葉に抵抗があるならば、「悪そのもの」と呼んでもよいでしょう。人間を相手にした戦いや争いの泥沼に呑み込まれてしまってはならないのです。身を慎んで、冷静に正しい判断をなすことができなくなるからです。「あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています」というこの言葉を、現代に生きる私たちもまた、自分自身のこととして聞かなくてはならないのです。

 人間相手の戦いならば、こちらが相手よりも強くなることが重要になるのでしょう。しかし、悪魔が敵であると認識するならば、戦い方もおのずと違ってまいります。ペトロは何と言っていますか。「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」(9節)とペトロは言います。そうです、悪魔相手の戦いならば、何よりも重要なことは、信仰にしっかりと踏みとどまることなのです。

信仰にしっかり踏みとどまって
 「信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい」ということとの関連で、既に大事なことが前の方で語られていますので、そこも見ておきましょう。今日の第2朗読は6節からでした。もう一度お読みいたします。「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」(6‐7節)。

 その直前には「皆互いに謙遜を身に着けなさい」ということが書かれています。今日の箇所はその続きです。しかし、単に謙遜を美徳として勧めているだけならば、「神の力強い御手の下で自分を低くしなさい」とか「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい」という言葉は必要ありません。明らかにこれは、読者が苦しみの中にあるから書かれているのです。その中で悪魔との戦いの中にあるからこそ書かれているのです。

 苦しみの中にある時、特に、特定の誰かから苦しめられている時、まず考えなくてはならないのは、「わたしは神の御前でへりくだっているか」ということなのです。いつの間にか神に対して恐ろしく不遜な態度を取っていることがあるからです。お互いに謙遜を身に着ける以前に、そもそも神に対して謙遜を身に着けているか。そのことを問わなくてはならないのです。なぜなら、神の力強い御手の下でへりくだることがなかったら、その次に書かれているように、思い煩いを神にお任せするということもできないからです。

 神の力強い御手を侮ってはなりません。私たち自身が、神の力強い御手の下で自分を低くしなくてはなりません。神に対して謙遜を身に着けなくてはなりません。そうしてこそ、《力強い御手を持った神》がまた、《私たちを心にかけていてくださる神》であることを知るようになるからです。

 「神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです」と書かれています。「心にかけてくださるからです」ではありません。「いつか心にかけてくださるでしょう」と言っているのではありません。「いつも心にかけていてくださっている」と言っているのです。

 私たちが高ぶって、神を忘れていたり、不遜な態度を取っていたときにも、神の方は、心にかけていてくださったのです。私たちがそのお方に背を向けて、自分の力に頼って生きていたそのときでさえ、神は私たちを心にかけていてくださったのです。

 神はいつだって心にかけていてくださる天の父です。しかし、私たちが傲慢な態度を取っている限り、その真実は見えてきません。力強い御手の下に低くなった時にこそ、今に至るまで心にかけていてくださった御方の真実に触れることができるのであり、そうあってこそ初めて、思い煩いをゆだねることができるのです。

 「信仰にしっかり踏みとどまる」とは、そのようなことなのでしょう。何か自分が強い者になることではありません。揺るぎない信念を持つようなことでもありません。へりくだることなのです。神の力強い御手の下に身を低くする。そして、心にかけていてくださる御方に私たちの目を向け続けることなのです。それこそが悪魔に対する抵抗ともなるのです。

完全な者としてくださいます
 そして、ペトロは「信仰にしっかり踏みとどまりなさい」と言うだけでなく、信仰に踏みとどまろうとする彼らをつっかえ棒で支えるかのように、彼らが忘れてはならない大事な言葉を付け加えます。「あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。それはあなたがたも知っているとおりです」(9節)。

 日本の教会だけを考えていたら見えてこないかもしれませんが、今の時代であっても、迫害や無理解の中で、あるいは貧困や不安定な社会情勢の中で、私たちの想像も及ばないような苦難を耐え忍びながら、なおも信仰に踏みとどまって言葉と行いをもってキリストを証ししているキリスト者たちが現にいるのです。さらに歴史を遡るならば、私たちがこうして福音にあずかるまでには、おびただしい人たちが涙を流し、血を流して信仰に留まり、福音を宣べ伝えてきたという事実があるのです。苦難の中で神の愛を疑って背を向けるのではなくて、苦難の中でこそ神の変わらない愛を味わい知り、神は確かに心にかけていてくださるということを知って、喜びに溢れて生きてきた人たちがいるのです。実際、これを書いているペトロもそのような一人だったのです。そのような人々のことを忘れてはならないのです。

 そして、さらにペトロはもう一本のつっかえ棒を加えます。こう書かれています。「しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へ招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」(10節)。

 ここには「永遠」と「しばらくの間」の対比があります。苦しみは永遠ではありません。「しばらくの間」です。私たちが招かれているのは「永遠の栄光」です。それは一時的なものではありません。苦しみのその先に、永遠の栄光に招いてくださった神御自身が「しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます」と約束してくださっているのです。

 「完全な者とする」とは、「破れたものを修復する」というような意味の言葉です。もしかしたら、迫害によって肉体的に加えられる危害のことが考えられているのかもしれません。あるいは、様々なものを失うことが考えられているのかもしれません。いずれにせよ、人間であれ悪魔であれ、肉体や心にいかなる危害や傷を加えたとしても、あるいは何を奪っていったとしても、苦しみの後には最終的に神が責任をもって完全に修復してくださり、すべてを回復してくださるのです。

 さらには強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださるとの約束が続きます。今は戦いがあります。信仰にしっかりと踏みとどまることは戦いです。悪魔との戦いです。揺らぐことも起こるでしょう。倒れそうになることもあるでしょう。しかし、そのような状態が永遠に続くわけではありません。最終的に、完全な勝利の中で、もはや揺らぐことはないようにしてくださるのです。もう揺るがない。もう倒れる心配もない。戦いが終わる時が来るのです。

 それはすべて神によるのです。それまで私たちが頑張って強くならねばならないのではありません。繰り返しますが、大切なことは、神の力強い御手の下で身を低くすることです。へりくだることです。ですからここでもペトロは「力が世々限りなく神にありますように、アーメン」と言って締めくくっているのです。

 そうです、私たちにとっても大事なことは、御前にへりくだって、力ある神、そして、心にかけていてくださる神に信頼して、ペトロと共にこう唱和することなのです。「力が世々限りなく神にありますように、アーメン」。


(祈り)

2020年9月20日日曜日

「旅人としてこの世を生きる」

ペトロの手紙一 2:11‐17


仮住まいの身なのですから

 今日の箇所には「悪人呼ばわり」(12節)という言葉が出てきます。当時のキリスト者が、人々から「悪人呼ばわり」されていたという事情が伺えます。具体的にどのようなことを言われていたのかは分かりませんが、まだ国家レベルの迫害が始まる以前から、様々な謂われのない誹謗中傷を受けていたのでしょう。15節に書かれている「愚かな者たちの無知な発言」も同じです。これはもう少し広く、キリスト者や教会に対する誹謗中傷だけでなく、キリスト御自身やキリストの父なる神に対する冒涜的な暴言を含むものと考えられます。そのような言葉を投げかけられることが少なからずあったということでしょう。

 戦時中、クリスチャンホームで育ったある姉妹が、「ヤソ、ヤソ」と言われてよく虐められたという話を聞いたことがあります。ある程度信仰暦の長い方にはそのような経験をされた方も少なくないかもしれません。今日でも、家族から教会に行くことを反対されたり、あるいはそこまでではなくとも、キリスト教信仰について悪しざまに言われたりすることは、起こり得ることなのでしょう。

 それがいつの時代であれ、いずれにせよここで明らかなことは、信仰の故に不都合なことや困難が生じたり、嫌な思いをしたりすることがあったとしても、決して驚くには価しないということです。それはキリスト者が初めから経験してきたことなのです。それはある意味では当然のことなのでしょう。キリストはこの世において十字架につけられたのです。そのような世界に私たちは生きているのです。そのような世界において、十字架につけられたキリストを信じて、主とあがめて、その御方に従って生きようとしているのですから、困難が生じたとしても不思議ではない。信仰を持って生きるとはそういうことです。

 そのような信仰者のこの世における生活を、聖書は「仮住まい」と表現しています。11節に「いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから」と書かれている。確かにそうです。私たちは仮住まいの身です。この世に永遠に留まるわけではありません。この世は私たちの最終的な目的地ではありません。しかし、ペトロがこのことを語るのは、「この世の生活は仮住まいであり、限られた時なのだから困難があっても忍耐しなさい」という話をするためではありません。そうではなく、仮住まいの者が、仮住まいであるゆえに、どう生きるのかという話をするのです。

 仮住まいでなくて、この世に永遠に属する者であるならば、この世において何を獲得するかということが大きな意味を持つのでしょう。しかし、もし旅人であり仮住まいのものであるならば、やがては去っていくのですから、仮住まいの時をどう生きるのかということが重要になるのでしょう。この世における様々な出会いの中で、様々な関わりの中で、旅人として仮住まいしているこの限られた日々を、どのように生きるかが重要になってくる。そこで具体的に心に留めるべきことがあるのです。それが今日お読みした箇所に書かれている内容です。


立派に生活しなさい

 旅人として仮住まいしている者として、心に留めるべきことは何か。まず消極的な表現としては、「避けなさい」ということです。「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」(11節)と。この「肉」というのは肉体のことではありません。人間の罪深い性質のことです。その「肉の欲」がどのような形で現れてくるのかについては、パウロがガラテヤの信徒に宛てた手紙の中で次のように書き記しています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(ガラテヤ5:19‐21)。

 これが「肉の業」です。このようなことを行う肉の欲するままに生きてはならないということです。肉は救われた魂(1:9)に戦いを挑んできている敵なのです。その敵と仲良くしてはならないのです。避けて遠ざけなくてはならないのです。キリスト者として謂われのない中傷を受けるのなら、それはそれで良いのです。しかし、肉に従って生きて「謂われのある中傷」を受けるようであってはならないということでしょう。

 これはより積極的に表現をするならば、「立派に生活しなさい」(12節)となります。この「立派に生活すること」あるいは「立派な行い」というのは、信仰から生じる行いのことです。キリストを信じ、キリストを愛し、キリストとの生き生きとした交わりから生まれる行いのことです。すなわち源が神であるということです。そうでなければ人々はその人を称賛するようにはなっても、「神をあがめるように」はならないでしょう。「あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」とペトロは言うのです。

 そこには「よく見て」と書かれています。これは「観察する」という意味の言葉です。しかも、継続的に観察しているという表現になっているのです。人々は、キリストについて語る言葉、救いについて語る言葉を聞いてくれないかもしれません。しかし、キリストを信じる者の生活を見てはくれます。観察してくれるでしょう。そこにおいては、言葉よりも生きる姿そのものが雄弁に語ります。身近な人々の観察の前では、見せかけは通用しないものです。家族の中では特にそうでしょう。だから本当に信仰から来ていること、神との交わりから来ていること、神を礼拝し、神を畏れ敬う生活から来ていることが重要なのです。


主のために

 13節以下には、より具体的に「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです」(13‐15節)と書かれています。そのように語っているのはペトロだけでなく、既にパウロもローマの信徒への手紙の中で語っていることです(ローマ13:1以下)。

 どうしてこのようなことが語られなくてはならないのでしょうか。それは宗教的熱心あるいは熱狂主義というものが反社会的な行動を生み出すことがあり得るからです。特にその宗教的熱心が「怒り」と結びついた時には往々にしてそのようなことが起こります。実際、聖書にも出てくる「熱心党」と呼ばれるユダヤ教のセクトはその道を行ったのです。戦いのために武器を取った。そのような事例は、今日においても、いくらでも挙げることができるでしょう。

 そのような方向に進んではならないとペトロは言っているのです。信仰のゆえに誹謗中傷されるなら、あるいはキリスト御自身が冒涜されるなら、その発言を封じるために必要なのは暴力でも議論でもないのです。そうではなく、善を行うことだ、とペトロは言うのです。この「善」もまた、当然のことながら信仰から生じる善き行動を意味するのでしょう。ですから「主のために」と書かれているのです。「主のために」あえて暴力を選ばない、あえて論争を選ばない。人から傷つけられても、あえて人を傷つけることを選ばない。そうではなくて愛することを選ぶ時、人々はそこに「主のために」生きている信仰者の姿を見ることになるのです。


自由な人として

 そして、さらにペトロは言います。「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」(16節)。パウロもその手紙の中でこう言っています。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)。

 キリスト者は律法のもとに生きてはいません。キリスト者の生活は戒律に支配された生活ではありません。「このことは禁じられているから、わたしはしない」という生き方はしません。「このことは禁じられていないから、やっていいのだ」という考え方もしません。そうではなくて、「私を愛していてくださる神は何を望んでおられるのだろうか」と考えるのです。「神の僕として行動しなさい」とはそういうことです。

 本当の自由とは、肉に従う自由ではありません。それでは罪の奴隷になってしまいます。そうではなく、神の僕として仕えることのできる自由です。時には自分の権利を放棄することもできる自由、あえて仕えることもできる自由、愛することのできる自由です。「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」(17節)と書かれています。先に述べた、制度に従うこともそうですが、「そうせざるを得ないから」と言って従うのは自由人の姿ではありません。そうではなくて、神がお望みならば喜んでそうします、というのが本当の自由な人の姿です。

 それは信仰から生じる自由です。神を礼拝し、神を畏れ敬う生活から生まれる自由です。それゆえに、私たちの生き方を省みるとするならば、まず、私たちと神との関係を省みなくてはならないのです。すべては神を礼拝し、神を畏れ敬う生活から生まれるのです。

 今、私たちは毎週、礼拝のために礼拝堂に集まることはできません。ならば、ここに集まることのできない主の日を私たちがどう過ごしているかが重要になるのです。そして、さらに言うならば、主の日から主の日へと向かう、一日一日を、御言葉と共に歩んでいるかが重要になるのです。私たちは旅人である仮住まいの者であり、この世に置かれているのは、まことに限られた日々でありますから。

(祈り)


2019年11月3日日曜日

「希望に生きる」

1ペトロ1・3‐9

新たに生まれさせてくださいました
 今日の礼拝ではペトロの手紙が読まれました。小アジア地方の諸教会に宛てた手紙です。6節に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とありますように、この手紙の読者は様々な苦しみの中にあった人たちです。具体的には迫害のもとにあって苦しんでいたということでしょう。彼らは人々からの軽蔑や嘲笑を耐えなくてはなりませんでした。悪人呼ばわりされ、不当な苦しみを強いられていました。そのような中に生きている人たちを励まし力づけるために、この手紙は書かれました。

 そのような教会の人々に対して、ペトロはまず何を語ろうとしているのでしょうか。彼は挨拶に続けて、次のように書き始めます。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(3節)。ペトロは、彼らが受けている試練について語り出す前に、まず神を誉め讃えるのです。そして、神の御業について語るのです。「人々があなたに何をしたかではなく、神があなたに何をしてくださったか――まずそのことに目を向けようではありませんか!」あたかも、そのように語りかけているかのようです。

 では、その《神がしてくださったこと》とは何でしょう。ペトロがここで中心的な事柄として語っているのは、このことです。――「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせてくださいました!」(3節)。

 聖書によるならば、人間は二度生まれることができます。一度目の誕生は、通常の意味における誕生です。毎年「お誕生日おめでとう」を繰り返す、あの誕生のことです。私たちは必ず誰かを親として生まれてきます。誰かを親とする家族の中に生まれてきます。そのようにして私たちはこの人生をスタートする。これが一度目の誕生です。

 この誕生だけを経験して一つの人生を生き、一生を終える人もいます。しかし、聖書によるならば、人はもう一度誕生することができるのです。二度目の誕生。それは信仰による誕生です。信仰によってもう一つの人生がスタートします。一度目の誕生において、この世の親の子供として生まれたように、二度目の誕生においては、「神の子供としてのわたし」が生まれます。一度目の誕生において、この世の家族の中に生まれたように、二度目の誕生においては、「神の家族の中にいるわたし」が生まれます。

 イエス様は「天にまします我らの父よ」と祈りなさいと教えられました。そのように、神の家族として、「天にまします我らの父よ」と祈りながら生き始める。そのようにして、私たちは二度目の誕生による新しい人生を生きていく。それが教会における「信仰生活」です。

 そして、ここに語られているように、二度目の誕生は「神の豊かな憐れみ」によるのです。先ほど「二度目の誕生においては、『神の子供としてのわたし』が生まれます」と申し上げましたが、話はそう単純ではありません。ペトロはこの直前において、あえて「わたしたちの父である神」ではなくて、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」と言っていますでしょう。その御方は第一には、イエス様が「父よ」と呼んでいた神様なのです。

 その神様を、私たちもイエス様と同じように「父よ」と呼べることは、決して自明のことでではありません。私たちはイエス様と違って、幾度となく神に背きながら生きてきた者だからです。イエス様と違って、私たちはどう考えても「神の子供」に相応しくない。そのような私たちが神の子供にしていただけるとするならば、それは一重に神の憐れみによるのです。私たちの罪を赦してくださる神の豊かな憐れみによるのです。

 そして、神の憐れみは具体的な形を取って現されたのです。神は独り子を世に遣わされました。罪なき御子を私たちの罪を贖う犠牲とされました。イエス様は、「天にまします我らの父よ」と祈りなさいと言ってくださいましたが、それは神の憐れみを知っている方の言葉です。神の憐れみの現れとしてこの世に来られた方の言葉です。神の憐れみの現れとして、十字架にかかるためにこの世に来られた方の言葉なのです。

死によっても失われない希望
 そして、この憐れみによる二度目の誕生に伴い、さらに二つのことが語られています。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(3‐4節)。

 第一に、私たちに「生き生きとした希望」が与えられているのだと語られています。「生き生きとした希望」というのは「生きている希望」という言葉です。たいへん味わい深い表現です。「生きている希望」と書かれているということは、もう一方において「生きていない希望」「死んだ希望」もあるということです。同じように見えても、生きている花と切り花は異なります。一方には命があり、もう一方には命がない。希望が真の命を伴っていなければやがて枯れて消えていきます。そのような、やがて枯れてしまう希望は、私たちの周りにいくらでもあります。そのような希望によって、幾度となく浮き沈みを繰り返してきた人は少なくないのでしょう。

 枯れない希望。命ある希望。生きている希望。失われない希望。それはどこから来るのか。今日の聖書箇所に「生き生きとした希望を《与え》」と書いてありました。誰が与えてくれたのか。神様です。生きている希望は神から来るのです。それはこれを書いているペトロの体験でもあったのです。

 皆さんもご存じのように、ペトロはイエス・キリストが捕らえられた時、三度もキリストを「知らない」と言った男です。キリストが十字架にかけられた時、主を見捨てて逃げてしまっていた、そういう男です。キリストが葬られた後も、自分が同じ目に遭わされるのではないかと、家の中に閉じこもり、戸を閉ざしてビクビクしていた男です。――取り返しのつかないことをしてしまったという罪責感。自分の弱さや醜さに対する深い絶望。彼にとって、あの日、彼の人生は終わったのです。全ては終わったのです。それでもなお呼吸を続けるならば、あとは生ける屍として惰性で生きていくしかなかったのでしょう。その先に何も待ち望むものを持たないまま、生きていくしかなかったのです。すべては終わったのですから。

 ペトロ。そんなペトロが、どうして再び立ち上がり、前を向いて希望をもって生きるようになったのか。未来に向かって歩み始めることができたのか。それはペトロにとって終わりであっても、神にとっては終わりではなかったからです。神はその事実をはっきりと現してくださいました。何によって。イエス・キリストの復活によってです。ですからペトロはこう表現しているのです。「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(3節)。

 「死者の中からのイエス・キリストの復活」とは何でしょう。人間にとっては決定的な「終わり」である「死」でさえも、神にとって「終わり」ではないということです。その先へと続くのです。いや、むしろそこから始まるのです。神は終わりを始まりにすることがおできになる。そのように、ペトロの人生も絶望の中で終わったところから、新しく始まりました。ただ神によって!そして、そのように生き生きとした希望を与えられたのはペトロだけではありませんでした。だからこのことが書き記され、読まれ、今日に至るまで伝えられているのです。今もなお、ここにいる私たちにも、その生き生きとした希望、死によってさえも失われない希望は差し出されているのです。

 そして、二度目の誕生に伴って語られている第2のことは次のように表現されています。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。そのように、死によってさえも失われない希望があるということは、言い換えるならば、死によって失われない未来があるということです。

 一般的には、死は未来を奪うのでしょう。死によって未来は失われるのでしょう。元気に生きていた人が死を宣告されるということは、未来を失うということを意味するのでしょう。高齢になり、あるいは病気になり、死が近づいてくるということは、未来を失っていくということなのでしょう。しかし、そうではないと聖書は言うのです。死によって奪われない未来がある、と。

 もちろん死の先は私たちの想像を超えた未来です。具体的に思い描くことができません。なので、たとえば「財産を受け継ぐ」というある意味では陳腐な言葉をもってしか表現できないのでしょう。しかし、それでもなおそこには大事なことが表現されていると言えます。「受け継ぐ」というのですから、それは自分が蓄えたものではありません。自分の行った善き行いに対する報酬でもありません。神の憐れみによって神の子供とされるように、「財産を受け継ぐ」とするならば、それは神の憐れみによるのです。

 死の先の未来を私たちは思い描くことはできません。しかし、「財産を受け継ぐ」というのですから、それは喜ばしい未来であることに間違いはありません。それはただ神の憐れみによって備えられた、喜ばしい未来です。それゆえに、人は死においてもなお、その先に喜ばしき未来を待ち望むことができるのです。実際、皆さんは既に召された人たちの中に、そのような方々を幾人も思い起こすことができるのではありませんか。人は人生最後の一呼吸に至るまで、期待に胸を膨らませて、未来を待ち望みながら生きることができるのです。イエス・キリストの復活によって、神が「生き生きとした希望」を与えてくださったから。受け継ぐべき喜ばしき未来が備えられているから。

(祈り)

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