2026年5月3日 主日礼拝説教
聖書:ペトロの手紙一 2:1‐10
生まれたばかりの乳飲み子のように
「生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。これを飲んで成長し、救われるようになるためです」(2節)。そのように書かれていました。「乳飲み子のように」という話が出て来るのは、その前に「新たに生まれた」という話が書かれているからです。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(1:23)。
人は新たに生まれることができます。信仰をもって新しく生き始めるとはそういうことです。それは聖霊による誕生であり、神の子どもとしての誕生です。イエス様が教えてくださった「主の祈り」は、まさに新しい誕生が何であるかを示していますでしょう。「天にまします我らの父よ」――私たちは神を「我らの父」と呼んで、神の子どもたちとして、神の家族として、生きることができるのです。
そのように、信仰に入るということは、赤ん坊が家族の中に生まれてくるように、新しい関係の中に、すなわち神の家族の中に、新しく生まれることを意味します。それゆえに、神の家族として互いに愛し合う兄弟や姉妹として生きることが求められることになります。1章22節にはこう書かれています。「あなたがたは、真理を受け入れて、魂を清め、偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから、清い心で深く愛し合いなさい」。
そこには「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」と書かれています。しかし、生まれたばかりの時にはまだ赤ん坊ですから、その「兄弟愛」もはじめは赤ん坊のレベルから始まります。ですから、「偽りのない兄弟愛を抱くようになったのですから」と言われても、自分についても他の人についても、実際にはそうなっていないという思うことはあるかもしれません。しかし、大事なことは私たちが少しずつでも成長することなのです。神の子どもたちとして、互いの関係においても成長することなのです。
この世の兄弟でもそうですが、兄弟らしくなって初めて兄弟となるわけではありません。兄弟であるという事実が先にあるのです。私たちもまた、愛し合う神の家族らしくなったから神の家族となるのではありません。新しく生まれたという事実が先にあるのです。家族とされているという事実が先にあるのです。
極端なことを言えば、仮に兄弟愛が全く見られなかったとしても、それでも家族は家族なのです。しかし、もちろん、そのような状態を神が望んでおられるはずがありません。神が最終的に実現しようとしておられるのは愛の完成した世界ですから。それこそが神の国です。私たちはそのような救いの完成に向けて神の子どもたちとされているのです。だから子どもたちとして成長していくことが大事なのです。それが信仰における成長というものです。
そこで私たちが生い育っていくためにどうしても必要なことが二つあります。ペトロが今日の箇所ではっきりと書いています。一つは「捨て去ること」です。「だから、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口をみな捨て去って…」と書かれていました。まずは否定的な側面からですが、大事なことは兄弟愛を妨げるものを捨て去っていくことです。
「捨て去る」と言うのですから、それは自分の意志をもってやらなくてはなりません。何かの理由で悪意を抱いてしまうことはあるでしょう。それはある意味で仕方のないことです。しかし、その悪意を後生大事に抱えているのか、それとも捨て去ろうとするのかは大きな違いです。悪口を言いたくなる。あるいはついつい言ってしまう。そういうことはあるかもしれません。しかし、いつまでも延々と悪口を言い続けるかどうか、それはまた別の話です。持たないということよりも、気づかせていただいたら、その都度、悔い改めて手放すことの方が大事なのです。
そしてもう一つ大事なことが書かれています。積極的には「霊の乳を慕い求める」ということです。成長するためには栄養を採らなくてはなりません。「霊の乳」は「御言葉の乳」とも訳せる言葉です。霊の乳は御言葉という乳です。御言葉を慕い求めることです。このことなくして絶対に成長はあり得ません。
主の御言葉を求めるためには、当然のことながら、主のもとに行かなくてはなりません。「あなたがたは、主が恵み深い方だということを味わいました。この主のもとに来なさい」(3‐4節)と書かれているとおりです。では、「主のもとに行く」とは、具体的にどういうことでしょう。
実はこの勧めの言葉は詩編34編から来ているのです。「味わい、見よ、主の恵み深さを。いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は」(詩篇34:9)。その詩編の言葉は、古くから聖餐の式文に用いられてきたものです。
つまり、ここでペトロはキリスト者が集まって御言葉を聞き、聖餐を行う礼拝を考えているのです。先に語られていたように、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を悔い改めをもって捨て去り、そして霊の乳である御言葉を求めるのは、何よりもまずこうして聖餐卓を囲んで共に集まる主の日の礼拝においてなのです。ここはそのような場所なのです。
霊的ないけにえを献げなさい
そのように主の日に聖餐卓の周りに集まる教会。悪いものを捨て去りながら、霊の乳を慕い求めて主のもとに集まる教会。その教会について、さらにペトロはもう一つのイメージをもって語り始めます。それはエルサレムにあった「神殿」です。ペトロはこう語ります。「この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」(4‐5節)。
聖書において「神の家」と言えば、それは神殿のことです。ですから、ここで語られている「霊的な家」も具体的には神殿を指していると考えてよいでしょう。もちろん「《霊的》な家」ですから、目に見える建造物のことではありません。建物ではなく、集まって礼拝を捧げる信仰者の共同体、すなわち教会のことです。そして、二千年も後に、ここに集まっている私たち。それを神は「霊的な神殿」として見ておられるということです。
その神殿を建てるための「かなめ石」はキリストです。キリストは人々から捨てられ十字架にかけられましたが、神はそのキリストを復活させ、新しい神殿を建てるための「かなめ石」となさったのだと語られているのです。この「かなめ石」に寄り頼む他の切石が一つ一つ組み合わされて神殿が造り上げられます。そのようなイメージなのですが、その切石こそ私たちなのです。「あなたがた自身も生きた石として用いられ」、霊的な家に造り上げられるようにしなさい」とはそういうことです。
その霊的な神殿においては、そこに仕える祭司もいなくてはなりません。それも私たち自身です。「そして聖なる祭司となって」と書かれているとおりです。また、祭司は「いけにえ」を献げるためにそこにいます。ここでは「神に喜ばれる霊的ないけにえ…を献げなさい」(5節)と語られています。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」とは何でしょう。それは私たち自身の体のことです。
パウロも次のように語っています。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)。要するに、ここで私たちは生きている「切石」として神殿を建て上げ、同時に聖なる祭司となって、私たち自身を神に喜ばれる霊的ないけにえとして献げるのです。
これらすべては神の恵みとして私たちに与えられていることです。考えてみてください。「神に喜ばれる霊的ないけにえ」と書かれているのです。私たちが自分自身を献げるとき、そのいけにえを神は喜んで受け入れてくださるということです。それは本来、あり得ないことではありませんか。
現実には、神の意に背くようなことばかりしでかしている私たちです。むしろ、「お前などいらない。神に背いてきた者よ、滅びてしまえ」と言われたとしても仕方のない私たちなのでしょう。しかし、そうではなく、私たちを神は喜んで受け入れてくださるのです。それはまことに驚くべきことです。
そして、そのようなことがあるとしたら、それはひとえにキリストのゆえなのでしょう。キリストによって与えられた罪の赦しによるのです。ですから、ただ「霊的ないけにえを献げなさい」と言われているのではなく、「イエス・キリストを通して献げなさい」と言われているのです。すべてはキリストを通して与えられた恵みだからです。これが日曜日に教会において起こっていることなのです。
日曜日ごとに主は恵み深く私たちを御もとに招いてくださいます。私たちは恵み深い主のもとに集まります。神の子どもたちとして、悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨て去って、霊の乳である御言葉を慕い求めて主のもとに集まります。私たちは主の恵み深きことを味わい知りながら、霊の乳によって神の子どもたちとして成長していきます。しかし、私たちが集まるのは、ただ私たち自身のためではありません。
私たちが主のもとに集まる時、霊的な神殿が目に見える形で地上に姿を現すのです。先週も私たちが聖書を通して耳にしたように、私たちは神の神殿なのです。神に礼拝がささげられる神殿なのです。そこにおいて、私たちは皆、神に仕える祭司となります。祭司は神のために、自分自身をイエス・キリストを通して献げるのです。神はイエス・キリストを通してささげられた私たちを神に喜ばれる献げものとして受け入れ、私たちを神のものとしてこの世界に遣わしてくださいます。それが日曜日に教会で起こっていることです。