マタイによる福音書 11:25‐30
休ませてあげよう
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。今日読まれました主の御言葉です。
「疲れた者」と書かれていました。これはもともと「労苦している者」という意味の言葉です。労苦を厭わず、力を尽くして頑張ってきました。しかし、重荷を負うつもりではあるものの、負うべきことは分かっているものの、もう疲れ果ててしまいました。ここに呼びかけられているのは、そのような意味での「疲れた者」です。
一方、「重荷を負う者」と書かれていますのは、正確には「重荷を負わされている者」という意味の言葉です。受け身で書かれているのです。自ら望んだわけではありません。自分が選んだわけでもない。しかし、否応なしに重荷を負わされました。そんな重荷というものが確かにあるものです。負わされた、強制されたと思えば思うほど辛くなる。「重荷を負う者、負わされている者」とはそういう人々です。
そのような「疲れた者、重荷を負う者」にイエス様は呼びかけておられます。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。
考えてみれば驚くべき言葉です。「だれでもわたしのもとに来なさい」などと、普通は言わないし、言えません。しかも、原文では「《わたしが》休ませてあげよう」と、「わたし」が強調された形で書かれているのです。そのような言葉をイエス様は口にされるのです。そして、その言葉が残ったのです。
いい加減な言葉だったら残りません。現実と結び着いていなかったら残りません。この言葉が弟子たちの心に残って伝えられたということは、要するに「本当にそうだ」と弟子たちが思ったということでしょう。どんな重荷を負う人であっても、負わされている人であっても、この方のもとで休みを得ることができる。本当の安らぎを得ることができる、と。
そのように、この言葉は語っている「イエス・キリスト」という存在と切り離すことができないのです。この御方が言われるからこそ意味があるのです。では、イエス様はどうしてこのような言葉を口にすることができたのでしょう。
その直前にはこう書かれています。「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(27節)。そこに言い表されているのは父と子の関係です。愛と信頼に満ちた父と子との交わりです。イエス様はそのような父との交わりの中にいる者として語っておられるのです。そのようなイエス様だからこそ語ることのできた言葉なのです。
父と子との交わり
「父のほかに子を知る者はない」と主は言われました。そこにはある意味でキリストの深い孤独が言い表されています。
多くの人々がイエス様を追い求め、集まってきたのでしょう。ある人々は病気を癒してくれるミラクル・ヒーラーを求めてイエスのもとに来ました。ある人々は政治的な解放者を求めてイエスのもとに集まってきました。近くには常に弟子たちがいました。しかし、主は言われるのです。「父のほかに子を知る者はない」。イエスを追い求める人々も、共に旅する弟子たちも、そこで語っている方が誰であるかを、本当の意味では知らない。イエス様は誰にも理解されなかったのです。「父のほかに子を知る者はない」。
その悲しみは、今日の聖書箇所ではありませんが、20節以下の主の言葉にも見ることができます。「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。『コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない』」(20‐21節)。
数多くの奇跡が行われたのでしょう。多くの病人が癒されたに違いない。しかし、コラジンの人々もベトサイダの人々も、悔い改めて神に立ち帰ることはなかったのです。彼らに語っていたのは、父なる神からすべてのことを任された御子であることを、彼らは認めることはありませんでした。そこでイエス様が「叱った」と書かれていますが、内容は深い嘆きです。「お前は不幸だ」と、そう言わざるを得ないイエス様の嘆きです。また、そう言わざるを得ない時点で、イエス様のそれまでの宣教の労苦は無駄であったように見えなくもありません。
しかし、驚いたことに、そこでなお、イエス様は父なる神をたたえるのです。そこからが今日の聖書箇所です。「そのとき、イエスはこう言われた。『天地の主である父よ、あなたをほめたたえます』」と。これは信仰を告白するという意味の言葉でもあります。無駄に終わったように見える宣教の働きの中に、それでもなお父がなさっていることがある。御心に適うことが実現している。御子なるイエスは信頼に価する完全なる父を知るゆえに、この場面においても父をたたえるのです。
「父のほかに子を知る者はない」。現実には確かにそうなのです。そのような御子として、やがては人々に捨てられ、弟子たちにも逃げられ、十字架にかけられて死んでゆくことになるのです。しかし、それでもなお父には知られているのです。そして、その父を子もまた知っている。「父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」。そこに言い表されているのは、愛と信頼に満ちた父と子との交わりです。
そのような父と子との関わりに生きていたイエス様が言われるのです。そのようなイエス様だからこそこう言われるのです。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28節)。
「休ませてあげよう」――どのようにして?自分がいるところに招くことによってです。天地の主である方を「父よ」と呼ぶ、その交わりの中に招くことによってです。イエス様御自身が休みを得ていた、その交わりの中に招くことによってです。だから「わたしのもとに来なさい」なのです。そのようにして、父を知るのは子だけではなくなるのです。「子が示そうと思う者」もまた父を知ることになるのです。
わたしの軛を負いなさい
そのように主は私たちをも招いてくださいました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と。そのようにして私たちはイエス様のもとに来て、「天にまします我らの父よ」と祈る集まりに身を置いているのです。
しかし、主は「休ませてあげよう」と言われたのであって、「重荷を取り去ってあげよう」とは言われませんでした。もちろん、「休ませてあげよう」には重荷を降ろすことも含まれてはいるのでしょう。私たちは主のもとに来て、降ろすことができる重荷はあります。少なくとも、罪の重荷は降ろすことができます。また主は私たちの思い煩いという重荷も降ろしなさいと語っていてくださいます。そのように私たちが降ろすことのできる重荷、降ろすべき重荷はあります。しかし、それでもなお負わなくてはならない荷物は残るのです。主は「休ませてあげよう」と言われたのです。
それゆえに主は「休ませてあげよう」と言われた後、さらにこう続けるのです。「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(29‐30節)。そこでは負うべき軛について語られ、担うべき荷物について語られています。
「軛」とは二頭の牛をつなげる道具です。同じくびきを負った二頭は共に荷を負い、共に働くことになるのです。そのようにイエス様は「わたしの軛を負いなさい」と言われるのです。イエス様のもとに来て、父との交わりに入れられた人は、そこでイエス様と同じくびきを負って歩き出すのです。そこではイエス様への従順が求められます。軛でつながれているのですから。そして、そこにはまた担うべき荷物についても語られています。軛を負った者が主と共に」担うべき荷物です。それをイエス様は「わたしの荷」と呼ばれました。
現実には、今まで負ってきた重荷と同じものかもしれません。自ら負ったか、それとも自分の意志とは関係なく負わされたか、いずれにせよ、同じ重荷をこれからも負っていくことになるのかもしれません。しかし、主のもとに来た者にとっては、主によって休ませていただいた者にとっては、意味合いが全く違ってくるのです。それは主につながれている者として、主に学ぶものとして、主と共に負っていく荷物、主が「わたしの荷」と呼ばれる荷物となるのです。
主は言われました。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(30節)。負っているのは主の軛だから、そして担っているのは主の荷物だから、そこからまた背負って歩み出すことができるのでしょう。主の言葉が真実であることを代々の信仰者は経験してきたのです。だから私たちにも伝えられているのです。同じ御言葉が、ここにいる私たちにも語られているのです。
(祈り)
2021年5月30日日曜日
「荷を負うために重荷を降ろす」
2021年5月23日日曜日
「隔ての壁を越えて行く神」
使徒言行録 2:1-11
すべては神によって始まった
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1‐4)。
ここに書かれているのは、およそ私たちの日常経験とはかけ離れた奇妙な出来事です。しかし、毎年毎年、聖霊降臨祭にはこの箇所が読まれます。なぜでしょうか。その一つの理由は、教会が何であるかを思い起こすためであると言えます。教会については忘れてはならない大切なことがあるのです。すべては神によって始まったということです。
そこには「突然」と書かれていました。この言葉が既に「人間が計画したことではない」という事実を物語っています。人間が企画し、人間が用意周到に準備して実現したことではないのです。そして、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえたのです。それは地上の風ではないし、地上の音でもありませんでした。「天から」と書かれているとおりです。
そして、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ」ました。「舌」は人体の器官でありますが、そこから発せられる言葉をも意味します。この世の「舌」、一人の人間の炎のような「舌」によって人々が動かされることはあります。一人の「舌」が多くの「舌」に言葉を与えて、一つの運動が起こることはあります。しかし、教会はそのような人間の「舌」によって始まったのではありません。それは神の側から「現れた」のであって、神によって「一人一人の上にとどまった」のです。そして、一人一人に与えられた言葉は、神の霊、聖霊によって与えられたのだとこの聖書箇所は伝えているのです。
この前の章には既に120名ほどの人々が集まっていたことが伝えられています(1:15)。その120名の中で、既にペトロは指導的な役割を果たしていました。イスカリオテのユダに代わる人の選出を導いたのは彼でした。また、今日の箇所の後には、そのペトロが代表して使徒たちと共に立ち、人々に語っている姿を見ることになります。
しかし、だからこそ今日お読みした箇所は、特に大きな意味を持っていると言えるでしょう。ペトロの指導力や使徒たちの働きによって教会が成立したのではないと聖書ははっきり伝えているのです。それは「突然」起こったことなのだ。神の介入によって始まったことなのだ、と。そして、教会はそのことを忘れなかったのです。そして、これからも忘れてはならないのです。
ほかの国々の言葉で
そこで私たちは今日、特に4節の言葉を心に留めたいと思うのです。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」。この「聖霊に満たされた」ということと、「ほかの国々の言葉で話しだした」ということは、どのように関係しているのでしょう。
今日お読みした箇所において強調されているのは、ただ彼らが「ほかの国々の言葉」を語ったということだけではありません。彼らの語る「ほかの国々の言葉」を《聞いていた人たち》がいたことが重要なのです。次のように書かれていました。「さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」(5‐6節)。そして、彼らの「故郷」のリストが、「パルティア、メディア、エラム…」と延々と続くのです。殊更に多くの地名が並べられていることが分かります。
彼らの中にはローマからの滞在者もいたようですが、ほとんどは既にエルサレムに移住していたユダヤ人であると思われます。彼らがそれぞれの祖国を離れてエルサレムに移住してきたのはなぜか。様々な理由があったでしょうが、大きな理由として考えられるのはイスラエルの王国復興の希望です。
それはイエスの弟子たちも抱いていた希望でした。それはイエス様が昇天される直前に弟子たちが尋ねている言葉からもわかります。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(1:6)と彼らは尋ねました。
イエス様から「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(1:4)と言われたとき、弟子たちもまた、エルサレムへの移住が求められていると考えたのかもしれません。いずれにせよ、そのようなメシア待望と結び着いた国家再建の希望を共有する人たちは、当時、決して少なくなかったのです。
そのようにエルサレムに移り住んできた人たちは、いわばパルティア、メディア、エラム、あるいはエジプトやキレネの住民であることよりも、ユダヤ人としてのアイデンティティを大切にし、まさにそのユダヤ人である「自分たちの国家」の再建を望んだ人たちなのです。彼らは「信心深いユダヤ人」と書かれていますから、エルサレムに集結することが神の御心と信じて移住してきたのでしょう。
しかし、彼らがそこで目にしたのは、彼らとは全く逆方向に向かう姿だったのです。「ユダヤ人のために、エルサレムのために」と考えていた人々が耳にしたのは、彼らが後にしてきた故郷の言葉だったのです。そこに彼らが見たのは、いわばイスラエルから外へと向かおうとしておられる神の姿だったのです。聖霊が語らせた言葉は、神がパルティア、メディア、エラム、さらにはエジプトやキレネに関心を向けておられる事実をはっきりと示していたのでした。神はイスラエルを囲む壁の外へと向かおうとしておられたのです。
では、神は何のために外に向かおうとしておられたのでしょう。彼らは自分たちの生まれ故郷の言葉で、何を聞いたのでしょう。彼らは驚いてこう叫んでいます。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(11節)。そうです、彼らはほかの国々の言葉をもって「神の偉大な業」が語られるのを耳にしたのです。「神の偉大な業」とは、既にエルサレムにおいて起こった出来事です。すなわち、イエス・キリストを通して神が成し遂げられた救いの御業です。その内容は、今日は読みませんが、2章の後半でペトロが最初の説教として語られることになるのです。
外へと向かう神と共に
「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(4節)。これが人々の見た、最初の教会の姿でした。神によって始められ、やがては神と共に、自らも外へと向かっていく教会の姿です。やがて地の果てまでも神の偉大な業を告げ知らせることになる教会の姿です。
この出来事を伝える聖書箇所が、毎年ペンテコステになると読み上げられます。それは私たちにとって恵みです。この使徒言行録2章の伝えるところを念頭に置かなければ、私たちは教会を単なる人間の集まりにしてしまうかもしれませんから。
単なる人間の集まりとして教会を考えるなら、私たちはそれを、自分たちのニーズ、人間のニーズを満たすための集団にしてしまうことでしょう。教会生活は、ただ「自分の必要は満たされるか」ということに終始することになるでしょう。私たちはひたすら「自分たちのための教会」を求め、自分たちにとって快適で居心地のよい、自分たちの欲求が満たされる教会の理想を追い求めることになるでしょう。
しかし、代々の教会がそのような教会であったなら、日本に教会は存在しないはずなのです。ここに頌栄教会は存在しないはずなのです。神から遠く離れた異邦人だった私たちが、今ここにいるのは、神がいかなる隔ての壁をも越えて外に向かって行かれる神であったからに他なりません。そして、今度は私たちを用いて、私たちを通して、神はさらに進んで行こうとしておられるのです。
その意味においても4節に語られている「一同は聖霊に満たされ」という言葉は重要です。使徒言行録には、この「聖霊に満たされ」という表現が繰り返し出てくるのです。「聖霊に満たされ」が繰り返される中で、福音がエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで伝えられていくのです。
聖霊降臨祭において思い起こさなくてはならないのは、初めの教会の姿だけではありません。彼らが「聖霊に満たされた」という事実です。それは私たちもまた聖霊に満たされることを求めるということでもあるのです。それは、ただ私たち自身の信仰生活のためではありません。むしろ「わたしの信仰生活」という壁を越えて出て行くために必要なのです。教会が聖霊の満たしを求めるのは、「私たちの教会」という壁を越えて出て行くために必要なことなのです。さらには私たちが様々な形で築いてしまっている様々な隔ての壁を越えていくために必要なことなのです。あらゆる壁を越えて進みゆかれる神と共に進んでいくために必要なことなのです。
(祈り)
2021年5月9日日曜日
「このように祈りなさい」
マタイによる福音書 6:5-15
今日の福音書朗読は、私たちにとって馴染み深い「主の祈り」が書かれている箇所でした。私たちは、毎週の礼拝において必ずこの「主の祈り」を共に祈ります。今日もこの後に一緒に祈ります。ここに集まっている私たちだけでなく、それぞれの場所において共に主の御前に出て礼拝を捧げている人たちと共にに祈ります。
父から愛されている子どもたちとして
「主の祈り」は呼びかけの言葉から始まります。呼びかけるのは、聞いていてくださる御方がおられるからです。私たちが祈るとき、私たちは聞いていてくださる御方の御前にいるのです。
その御方は、聖書によるならば、天地の造り主であり、万物を統べ治めておられる全地の王なる御方です。そのような御方の御前に身を置いて、その御方に呼びかけます。その時に「天におられるわたしたちの父よ」と呼びかけなさいと、イエス様は教えてくださいました。私たちは「主の祈り」を祈る時、天地の造り主に対して、「父よ」と呼びかけているのです。
「父よ」。イエス様が使っておられたアラム語では「アッバ」という言葉です。原音の「アッバ」という言葉のままで、聖書には三回ほど出てきます。イエス様御自身が、祈りの時に使っていた言葉です。これは子どもが家庭において父親に呼びかける言葉です。圧倒的に大きな父親の権威に対して恐れおののきながら使う言葉ではありません。むしろ親しみと愛情を込めた呼びかけです。そのように「父よ―アッバ」と呼びかけなさいとイエス様は教えてくださいました。
もちろん、天地の造り主であり全地の王である方を「アッバ、父よ」と呼ぶことができることは、決して自明のことではありません。どう考えても、本来、あり得ないことです。この計り知れない全宇宙の造り主ですから。いや、それだけではありません。その御方の前で私たちがどう生きてきたのかを振り返っても、それは本来あり得ないことです。私たち人間はどれほど神を侮ってきたことか。神に逆らって歩んできたことか。私たちがまことの神の御前に出るならば、本来ならただ恐れおののかざるを得ないはずです。罪ある私たちが、罪なき神の子と同じように、「アッバ、父よ」と親しみを込めて呼びかけることなど、本来できようはずがありません。
しかし、そのあり得ないことが許されているのです。私たちが「主の祈り」を祈るとはそういうことなのです。神の子イエスが「こう祈りなさい」と言ってくださったのです。「父よ」と祈りなさい、と。いや、イエス様だから言うことができたのです。なぜならこのイエス様こそ、神の憐れみと赦しを携えて来てくださった御方だからです。
罪ある人間がなお神の御前に出て「父よ」と呼ぶことができるために、何が為されなくてはならないかを、イエス様はよくご存じでした。それは父の御心に従って、イエス様御自身が罪の贖いの犠牲となることでした。十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださることでした。それはすべては父なる神の愛から出たことです。いわばキリストを通して、神が一方的な恵みによって、私たちに「父よ」という呼びかけを与えてくださいました。私たちが「アッバ、父よ」と祈れること自体が、実は既に神の愛の現れなのです。私たちは愛されている子どもとして、祈ることが許されているのです。
父を愛する子どもたちとして
そのように神に愛され、神に赦され、「アッバ、父よ」と呼ぶ神の子どもたちとされた私たちたちです。そのような者として私たちは父を愛して生きていく。それが私たちの信仰生活です。私たちは神の愛を獲得するために信仰に励むのではありません。神の好意を得るために敬虔な生活をするのではありません。自分が差し出す何かと引き替えに神の愛を獲得しようとするのは、子どもらしい姿ではありません。子どもたちは既に神に愛されているのです。だから愛されている者として、神を愛して生きていく。一方的に恵みを与えられた者として、その恵みに応えて生きていく。それが私たちの信仰生活です。
子どもたちが父を愛する時、子どもたちは父の関心事を共有するようになります。父の関心事が子どもたちの関心事ともなります。父の望んでいることを子どもたちも望むようになります。そして、父が願っていることが実現することを、子どもたちも願うようになるのでしょう。
そこで、父から愛され父を愛する子どもたちとして共に祈る、三つの祈りをイエス様は教えてくださいました。「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(9‐10節)。主の祈りの前半部分です。
最初に触れましたように、私たちは、毎週の礼拝において必ずこの「主の祈り」を共に祈ります。主日礼拝は、散らされていた神の子たちが、父の御前に集められ、愛されている神の子たちとして、心を合わせて「天におられるわたしたちの父よ」と祈る、そのような集いです。
しかし、そこで続く三つの祈りの言葉を目にしますと、私たちは改めて考えざるを得なくなります。主の日の礼拝において、私たちはこの三つのことを本当に求めて集まっているのだろうか、ということです。私たちは本当に御名があがめられることを求めて集まっているのでしょうか。御国が来ることを求めて集まっているのでしょうか。御心が地の上に行われることを求めて集まっているのでしょうか。むしろ私たちが求めているのは、御名とか御国とか御心についてではなくて、私たち自身のことばかりではないでしょうか。神の御名があがめられるためならば、御国が来るためならば、愛する父の御心が地上において実現するためならば、わたしは喜んでこの身をおささげします、お仕えします、たとえ困難があっても耐え忍びます。そのような思いが果たして私たちの内にどれほどあるでしょうか。
神の子イエスの心と一つになって
「御名があがめられますように。」これは「御名が聖とされますように」というのが直訳です。そのような祈りがなされるのは、もう一方において神の御名が汚されているという現実があるからです。この世においては、神が神とされていない。主の御名は侮られ、軽んじられ、他のものの方がずっと大事であるかのように扱われているのです。
「御国が来ますように。」そのような祈りがなされるのは、もう一方において今、現に目にしているのは御国ではない、という現実があるからです。神ならぬものの支配。私たちがこの世に目にしているのは罪と死の支配であり、悪魔の支配です。ですから、「御国が来ますように」と祈ることはまた、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」と祈ることでもあるのです。私たちが目にしているのは、御心が成っていない世界です。神の御心に反することが行われている世界です。
父の御名が汚され、父の御心に反することが行われているこの世界を見て、そして神の民の現実を見て、父を愛する御子であるイエス様は心を痛めておられたことでしょう。父の御名があがめられ、御心が地上で行われることを誰よりも願っていたのはイエス様であったに違いありません。そのような御子なるイエス様の心を共有して共に祈るようにと、イエス様は主の祈りの言葉を私たちに与えてくださったのです。
「こう祈りなさい」とイエス様は言われました。「祈りなさい」ということは、それを実現するのは神様御自身だということです。そうです。神様の御名があがめられるようになること、神の御国が来ること、神の救いの御心がこの地上において実現すること。すべて神の御業なのであり、神様御自身の戦いなのです。しかし、父なる神はあえてそれを子どもたちと共に進めようとされるのです。父の心を共有し、「御名があがめられますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」と祈り願う子どもたちと一緒に、そのような子どもたちを用いて事を進めようとしておられるのです。
「御名があがめられますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」それが私たちの祈りとなっていくならば、それが私たちの心からの願いとなっていくならば、もはや苦難も困難も信仰のつまずきとはならなくなるのでしょう。教会生活を続けるゆえに生じた困難さえも、信仰のつまずきとはならなくなるはずです。愛する父の御名があがめられれば、御国が来れば、御心が行われれば、それで良いのですから。そのように、問題は苦難があるかないか、教会生活に困難があるかないか、ではないのです。そうではなくて、私たちがいったい何を求めて生きているのか、ということなのです。「主の祈り」が自分の祈りになっているかどうかの問題なのです。
では、「主の祈り」を自分の祈りとするためにはどうしたらよいのでしょうか。先に申しましたように、これは父を愛する子どもたちとしての祈りです。父を愛するということがなければ、「御名があがめられますように」という祈りは出て来ません。そのように父を愛するようになるのは、父から愛されていることを知るからです。
まず、そこから始める必要があるのでしょう。自分が罪を赦されて、全地の王なる御方を「アッバ、父よ」と呼べるということ。罪ある私が滅ぼされるのではなくて、神の子どもとされていること。どれほど大きな恵みを既に与えられているか、私たちが既にどれほど大きな赦しと憐れみの内にあるのか、その事実に繰り返ししっかりと目を向けたいと思うのです。そのようにして、「主の祈り」が本当の意味で私たちの祈り、そして教会全体の祈りとなることを求めていきましょう。
(祈り)
2021年5月2日日曜日
「道・真理・命」
ヨハネによる福音書 14:1-11
心を騒がせるな
「心を騒がせるな」と主は言われます。それは人間がしばしば平安を失い、心を騒がせることを知っておられるからでしょう。そして、まさにその時弟子たちはそのような状態にあったのです。
主がそう言われたのは、最後の晩餐の席においてでした。イエス様は御自分の死が目前に迫っていることを知っておられました。御自分が間もなく捉えられ、鞭打たれ、十字架にかけられることを知っておられました。今日読まれました聖書箇所の直前にはペトロとのこんなやり取りが記されています。
イエス様がペトロに言われました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」。イエス様は十字架に向かっているのです。そこにペトロは、今はついて行くことはできないと主は言われたのです。しかし、ペトロにはイエス様が言っておられる意味が分かりません。しかし、命に関わることを主が言っておられることだけは分かったのでしょう。ペトロは言いました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(13:37)。
ペトロがそう言わざるを得ないほどに、イエスの身に、そして弟子たちの身に、命の危険が迫っていることを彼らは感じ取っていたのでしょう。そもそも、その覚悟でエルサレムに来たのです。「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)とトマスも言っていたようにです。そのように確かに死の力が彼らに押し迫ってきているのです。そのような時に、彼らの心が騒いだとしても無理ありません。
それは私たちにもよく分かります。最終的に人間は死の力に勝てないことを私たちは知っていますから。いかなる人間も、どんなに富んでいようが、どんなに力があろうが、人間は死の力には勝てない。だから死がその片鱗を現す時に、そして、最終的に押し迫ってくる時に、心が騒ぐのを抑えることは難しい。
しかし、主は言われるのです。「心を騒がせるな」と。それは「心を騒がせる必要はない」ということでもあります。それはどうしてか。弟子たちは既に誰を信じたら良いかを知らされているからです。イエス様と共に歩んだ三年半の日々において、弟子たちは繰り返しイエス様が言われるのを聞いてきたはずです。「神を信じなさい」と。そして、多くの人々に主がこう語るのを聞いてきたはずなのです。「あなたの信仰があなたを救った!」と。
イエス様は今一度、最後の晩餐において、そのことを思い起こさせるのです。主は言われます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。「神を信じなさい」だけではありません。「わたしをも信じなさい」と主は言われるのです。まもなく捕らえられることを知っている主が、十字架にかけられて殺されることを知っている主が言われるのです。自分の無残な死に様を見ることになる弟子たちに、それでもなおイエス様は言われるのです。「わたしを信じなさい」と。原文では継続を表す表現で書かれています。「わたしを信じ続けなさい」ということです。
イエス様がそう言われるのは、御自分の死が何を意味するかを知っているからです。そして、それを弟子たちに繰り返し語り聞かせてきたのでしょう。今こそ弟子たちは、心が騒いで仕方ない弟子たちは、思い起こして信じなくてはならない。ですから「わたしを信じ続けなさい」と言われた主は、御自分の死が何を意味するのかを静かに語り始めるのです。
場所を用意しに行く
主は弟子たちに言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(2節)。イエス様は死の力に飲み込まれて滅びるのではないのです。主は十字架の向こうに父の家を見ているのです。自分が帰るべきところを見ているのです。今日は読まれませんでしたが、最後の晩餐の場面は次のような言葉で始まるのです。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)。
自分が父の家に帰ることを知っていたイエス様は弟子たちにこう言っておられました。「あなたがたのために場所を用意しに行く」と。そうです、イエス様は場所を用意しにいくのです。それはイエス様が行くところに、弟子たちもまた行くことができるようになるためです。ですから主はさらにこう言われるのです。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(3節)。
そのように父のもとに行くのはイエス様だけではないのです。弟子たちもまた、イエス様のもとに迎えられるのです。父の家に迎えられることになるのです。これが「心を騒がせるな」と言われるイエス様の約束の言葉です。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われるイエス様の約束の言葉です。確かに、そう言われるイエス様を信じるならば、信じ続けるのならば、もはや心を騒がせる必要はないはずです。
イエス様が帰っていく父の家に、私たちもまた迎えられる。これこそ代々の教会もまた信じてきたことでした。しかし、考えてみれば、これは驚くべきことでしょう。罪を犯すことのなかったイエス様と同じところ私たちも迎えられるのです。自らの罪のゆえに滅びるはずであった私たちが、イエス様のおられるところに迎えられるのです。十字架の死に至るまで神に従い通したイエス様と同じところに私たちもいることになるのです。父の家に私たちの場所があるとするならば、それはまことに驚くべきことです。
だからこそ、イエス様はわざわざ「あなたがたのために場所を用意しに行く」(2節)と言われたのです。「場所を用意しに行く」のです。つまり用意されるまでは「ない」ということです。はじめから私たちの場所があるのではない、ということです。父なる神のみもとに、私たちの場所があるとするならば、それはイエス様が用意してくださったから場所があるのであって、私たちが何かをしたからではありません。ひとえにイエス様がしてくださったことによるのです。
イエス様は場所を用意しに行くと言われました。そして、どうされましたか。主は十字架にかかって死なれたのです。言い換えるならば、イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかられることによって、私たちの場所を用意してくださったのです。私たちの罪を代わりに担うことによって、私たちの罪を贖うことによって、私たちが父の家に迎えられるようにしてくださったのです。
道・真理・命
いや、主は私たちのために場所を用意してくださっただけではありません。キリストはその身をもって十字架にかかり、罪を贖うことによって、私たちの通るべき道ともなってくださったからです。その道は父のもとに行くための道に他なりません。それゆえに主は言われるのです。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)と。
正しい道であるならば、道から外れない限り、必ず目的地に行きつきます。「父のもとに行く」ための道ならば、最後まで道と共にある限り、必ず父のみもとに行き着くのです。最後まで道と共にあるということ、それは最後までイエスと共にあるということです。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。これは「信じ続けなさい」ということだと先ほど申しました。最後まで信じて、従い続けることです。
そのように、父のみもとへ行くための「道」は、イエスという人格をもった一人の御方なのです。それゆえに、救いに至るために私たちが知らなくてはならない「真理」もまた、単に私たちが理解し把握することのできる、ある特定の教えや思想などではあり得ません。キリスト教という《宗教》ですらありません。それは《何か》ではなく、人格を持った一人の御方なのです。私たちのために道となってくださった、キリスト御自身なのです。それゆえに、主は言われるのです。「(わたしは)真理である」と。
真理を知るとは、イエスという御方を知ることです。それは「イエスについて知ること」ではありません。「イエスを知ること」です。それは人格的な関係であり交わりです。それは信じることであり、従うことであり、愛することであり、礼拝することです。復活されて天に挙げられたキリストをそのように知ること、そのように共に生きることは、聖霊によって与えられる霊的な出来事です。真理を知ること、イエスを知ること、それは向こうから、天から与えられる現実です。だから私たちは祈り求めるのであり、祈り求め続けるのです。
そして、「道」であり「真理」である御方は、「わたしは命である」と言われます。かつてイエス様はベタニアのマルタに言われました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」(11:25-26)。イエス様は父のもとに行くための道です。この御方と最後まで共にあるならば父のもとに至ります。ならば、死んでも生きるのでしょう。それは決して死ぬことはない、ということでもあるのでしょう。その意味でイエス様は復活であり永遠の命です。
しかし、永遠の命はただ私たちの行き着く先にあるのではありません。「わたしは命である」と主は言われるのです。ならば、イエスという道を歩んでいる時、イエスという真理を知り、真理と共にある時、既に私たちは永遠の命と共にあるのです。永遠の命にあずかっているのです。その命をもってこの地上を生きているのです。ならば私たちは死に向かっている生きている人のように生きてはなりません。私たちはそれぞれ遣わされている場において、この命をもってどのように生きていったらよいのか。それが私たちに与えられている課題です。
(祈り)