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2026年6月28日日曜日

「新しく生まれさせる聖霊」

2026年6月28日 主日礼拝説教 

聖書:ヨハネによる福音書 3:1‐8

 今日は6月の第4主日です。先月も申し上げましたが、今年から毎月第4主日は、年度主題を覚えて礼拝をおささげしましょう、ということになりました。今年の年度主題は――もう週報を見ないでも言えますか。――「聖霊の神殿である私たち」です。主題聖句としては「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(1コリント3:16)が掲げられています。

 神の霊が、私たち、すなわち教会に住んでいてくださる。そして、さらに神の霊が、私たち一人ひとりの体を神殿として、住んでいてくださる。パウロは同じ手紙の中で、こうも言っていますから。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」(1コリント6:19)。

 神の霊、聖霊が住んでいてくださる。これを「聖霊の内住」と言います。聖霊は内住される御方です。ですから、目に見える人間のことだけを見ていてはならないのです。人間の姿や行うことだけに思いを向けていてはならないのです。そこには、神の霊、聖霊がなさっていることがあるからです。

 今日は、この礼拝の後に総会があります。そこにおいても、ただ人間の行うことだけを考えていてはならないのです。単なる事業報告と会計報告ではないのです。教会は一年間、聖霊のお働きによって保たれてきたのです。第2朗読では、パウロがイスラエルの歴史について語っていましたでしょう。しかし、パウロが一貫して語っていたのは、「神が何をしてくださったか」ということだったのです。私たちも同じです。そこに思いを向け、感謝をささげ、献身を新たにする時としたいと思います。聖霊のお働きに、私たちの思いを向けましょう。

 そこで、聖霊のお働きとして、今日は特に、人を新しく生まれさせる聖霊のお働きに思いを向けましょう。今日の福音書朗読の箇所をどうぞお開きください。

教えを請いに来たニコデモ
 そこにはニコデモという人が登場しました。ファリサイ派に属するユダヤ人です。「ユダヤ人たちの議員であった」とも書かれています。そのような人物が、ある夜、イエスを訪ねて言いました。「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(2節)。

 「ラビ!」彼はそのように呼びかけました。「ラビ」と言えば、律法の教師のことです。彼は律法の教師に教えを請いにやってきたのです。実は、このニコデモ自身もまた「教師」なのです。今日の聖書箇所には含まれませんが、10節でイエス様自身がニコデモを「イスラエルの教師」と呼んでいます。イエス様自身もご存じであられた、いわば名だたる教師だったのです。

 そのような律法の教師でもあるニコデモが人目を避けてまでして夜にわざわざやってきたのは、イエス様をただ者ではない特別な教師と見なしていたからです。彼はイエス様を「神のもとから来られた教師」と呼んでいますでしょう。ニコデモは、イエス様の数々の御業の中に、「神が共におられる」という明らかなしるしを見たのです。そのような、神が共におられる特別な律法の教師に、どうしても教えて欲しいことがあったのです。

 「ラビ」と言って教えを請いに来たのですから、その内容は明らかです。「何をすればよいのか」ということです。マタイによる福音書に、ある富める青年がイエス様のもとにやってきて、こう言ったという話が出ています。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)。このニコデモも同じです。彼は教師ですから、これまで教えてきたことがあったのでしょう。もちろん、教えるだけでなく、自ら実行してきたことがあったのでしょう。神の律法に従い、善いことを行ってきたに違いない。しかし、このナザレのイエスという教師を見る時に、自分とは明らかに違う。そのことに気付いたのです。「神が共におられる!」

 神が共におられる教師に教えを請いに来たということは、同じ律法の教師である自分については「神が共におられる」と思えなかった、ということでしょう。律法を教え、律法を実行していながら、それでもまだ神は共におられない。神に受け入れられているとは思えない。神に愛されていると思えない。まだ足りない。まだ神に認められるには十分ではない。このままでは救われない。神の国にも入れない。私が聞かなくてはならない教えがあるはずだ。そう思ったからこそ、人目をはばかるようにしてでも、イエスという教師の教えを請いに来たのです。

新たに生まれる
 そのようなニコデモに対して、主はこう答えられました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。イエス様は、今まで行ってきたことに、さらに何か善いことを付け加えたらよいとは言われませんでした。「あなたがより善い人間になったら、神に受け入れられ、神が共にいてくださるようになり、神の国にも入れてもらえる」とは言われなかったのです。そうではなくて、「あなたに必要なのは新たに生まれることだ」と主は言われたのです。

 「新たに生まれなければならない」。これはニコデモにとっては衝撃的な言葉だったと思います。この「新たに」と訳されている言葉は、「初めから」とも訳せる言葉だからです。ですから、それは、「初めから、赤ん坊からやり直さなくてはならない」という意味に聞こえるのです。明らかに、ニコデモにはそう聞こえたようです。それは、ある意味では非常に厳しい言葉であるとも言えます。「何かこれから善い行いを付け加えるぐらいで、神の国を見ることができると思うな」というようにも聞こえますから。初めから、赤ん坊からやり直しだ、と。

 確かに、やり直しだと言われるなら、やり直したいことはいくらでも思い浮かぶに違いありません。あんなことしなければよかった。こんなことしなければよかった、と。特に、最終的に私たちの人生そのものが神の御前において問われることを考えるなら、私たちが一生をどのように生きて来たかを問われることを考えるなら、なおさらだと思います。人は知らなくても、神様はご存じのことが、いくらでもあるわけですから。それはニコデモも同じだったろうと思うのです。

 しかし、現実には人生をやり直すことなんてできないわけです。拭われないまま残された汚点、放り出してしまったままの問題、神様から問われたら申し開きができないようなことは、いくらでもある。私たちはよく知っているのです。人生やり直しが利かない。年を取れば取るほど、まさに人生のやり直しは利かないということを、いやというほど痛感させられるのです。

 ですからニコデモは言ったのです。「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)。議論のための議論をしているのではありません。これはいわば人間の悲痛な叫びです。後戻りができないという現実と向き合わざるを得ない人間の悲痛な叫びです。

水と霊とによって生まれる
 しかし、イエス様はニコデモに言われました。「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない」(5-7節)。

 主はあくまでも「新たに生まれなければならない」と言われる。ただ、ニコデモが考えていることとは意味合いが違うようです。実はこの「新たに」と訳されている言葉には、「初めから」という意味だけでなく、もう一つ「上から」という意味があるのです。「上から」とは「神から」あるいは「神によって」ということです。要するに、イエス様は「あなたは神によって新たに生まれなければならない」と言っているのです。

 人は神によって新しく生まれることができるのです。イエス様はそれを「水と霊とによって生まれる」と表現しました。この「水」とは「バプテスマ」を指していると考えて良いでしょう。しかし、バプテスマの水そのものが、人を新たに生まれさせるのではないことは言うまでもありません。水はあくまでも水です。人を新たに生まれさせるのは、そこに働く神の霊、聖霊です。

 実は、原文のギリシア語では「霊」という言葉は「風」という言葉と同じなのです。そこで、イエス様は風を引き合いに出して言われました。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)。風はとらえどころないし、目にも見えません。しかし、私たちはその音を聞きます。風が吹けばその風は事を起こします。聖霊も同じです。とらえどころないし目にも見えません。しかし、聖霊は確かに事を起こされるのです。私たちは目に見える人間の姿、人間が行うことだけに思いを向けていてはならないのです。

 聖霊によって人は新しく生まれることができます。神の霊によって生まれたのですから、神の子どもたちになるのです。イエス様が「アッバ、父よ」と呼んでいた神を、私たちもまた「アッバ、父よ」と呼んで生きるようになるのです。人が神の子として天の父に祈り、信頼して生きるようになること。それは、人によって起こったことではありません。聖霊による奇跡です。

 この恵みを経験したパウロは、後にローマの信徒に宛てた手紙の中でこう言っています。「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ8:15)。 ニコデモに必要だったのは、まさにそのことでした。

 神の恵みによって新しく生まれること、神の霊によって神様の子どもにしていただくことです。そして、神を「アッバ、父よ」と呼んで生き始めることなのです。まだ神に愛してはもらえない。まだ神に受け入れてもらえない。まだ足りない。まだ十分ではない。――そのように打ち叩かれることを恐れる奴隷のように生きる必要はないのです。人は神の子とする霊を受けて、神の子として親に信頼し、親を呼び求めながら生きることができる。そのような私たちが神の子どもたちとして神の国を見るのです。それは人間にはできないこと。目に見えない聖霊のお働きです。

2026年5月24日日曜日

「弁護者・助け主としての聖霊」

2026年5月24日 聖霊降臨祭 礼拝説教 

聖書:ヨハネ14:15-27

あなたがたと共に、あなたがたの内に
 今日は5月の第4主日ですが、今年から毎月第4主日は、年度主題を覚えて礼拝をおささげしましょう、ということになりました。今年の年度主題は週報の真ん中に書かれています。「聖霊の神殿である私たち」です。主題聖句としては「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(1コリント3:16)が掲げられています。

 今日はペンテコステ(聖霊降臨祭)でありますが、ちょうど第4主日に当たったことには意味があるのでしょう。今年はこの年度主題をも念頭に置きながら、今日与えられている聖書箇所を通して、主の御言葉に耳を傾けたいと思います。

 主は今日の箇所でこう言っておられました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(14:16-17)。

 この霊、すなわち「聖霊」が、「あなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいる」と主は言われました。これをパウロは、今年の主題聖句において、「自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいる」と表現していました。

 ところで、「あなたがたは知らないのですが」とパウロは言っていました。いや、本当は知っているはずなのです。しかし、知らないかのように振る舞い行動してしまうこと、知らないかのように生活してしまうことは、あるのでしょう。知ってはいるけど、忘れているからです。

 「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」イエス様も「あなたがたはこの霊を知っている」と言ってくださっているのですから、知っていることを忘れないようにしましょう。「この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいる」――ここから改めて、このことを意識して教会生活を送りましょう。そうあってこそ、毎年こうして聖霊降臨祭が巡ってくることにも意味があると言えますから。

 「この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいる」。教会における営みは、ただ人間が計画し、人間が行うことによって成り立っているのではないのです。「この霊があなたがたと共に、あなたがたの内に」。もし、人間が行うことが全てなら、馬鹿げたことをしているとしか言いようのないことが教会にはたくさんあるのです。例えば、このあと行う聖餐式。おままごとじゃあるまいし、みんなが神妙に列を作って、こんな栄養も取れない小さなパンを食べることに何の意味があるでしょう。馬鹿げているとしか言いようがない。

 しかし、そうではないのです。それこそ、迫害に遭おうが、何があろうが、命をかけてでも教会はこのことを二千年間も続けてきたのです。それは人間が行うことがすべてではないからです。「この霊があなたがたと共に、あなたがたの内に」。その聖霊が行っていることがあるのです。そこには永遠の救いに関わること、この世からは絶対に得られない、天来の祝福に関わることが起こっているのです。

 そして、それは教会の中でのことだけではありません。私たちの毎日の生活、私たちの人生においても、私たち自身と、私たちに関わっている人間がしていることがすべてではないのです。私たちがこの世に遣わされ、この世に散らされている時にも、私たちそれぞれは教会の一部、キリストの体の一部なのです。こうして集まっている時だけでなく、私たちが一人でいる時でも、教会の一部、キリストの体の一部なのです。ならば、そこでも同じことが言えるのです。「この霊があなたがたと共に、あなたがたの内に」。

 私たちの生活には、聖霊が行っていることがあるのです。私たちの人生には、聖霊が行っていることがあるのです。それは聖霊なる神が行っていることですから、人間などには想像もつかないような、私たちには計り知れないようなことが起こっているのです。

 「あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」イエス様も仰っているこのことを、忘れないようにしましょう。

別のパラクレートスを遣わしてくださる
 さて、私たちと共におり、私たちの内におられる聖霊について、イエス様は「弁護者」という表現を用いていました。「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(16節)。ここでイエス様は「別の弁護者」について語られます。

 度々申し上げていることですが、「弁護者」と訳されているのは「パラクレートス」という言葉です。「傍らに呼ばれた者」というのが元の意味です。それはとても豊かな内容をもった言葉です。ですから他にも様々な言葉で訳されます。「助け主」「慰め主」「解放者」、そのように傍らに来てくださる方です。共に立ってくださる方です。味方になってくださる方です。それゆえに「友だち」という訳まであります。

 それまでは目に見える姿で共にいてくださったイエス様こそ、まさに弟子たちにとってはパラクレートスでした。「弁護者」「助け主」「慰め主」「解放者」そして、「友だち」。しかし、イエス様がこれが語られたのは、最後の晩餐の場面であることを忘れてはなりません。パラクレートスであるイエス様は、今や世を去って父のもとに帰ろうとしているのです。

 だからイエス様は、父にお願いしてくださると言うのです。そして、父は別のパラクレートスを遣わしてくださる。永遠に一緒にいるようにしてくださる。そうイエス様は言われたのでした。その「別のパラクレートス」こそ聖霊です。イエス様が天に帰られた後、弟子たちのところに聖霊が来てくださると主は言われたのです。

 そして、聖霊は来てくださいました。どのようにして来てくださったかは、第2朗読でお読みしました。今日はその出来事を記念する聖霊降臨祭です。イエス様が天に帰られた後、弟子たちの群れに聖霊が降ったことを毎年こうして祝っているのです。別のパラクレートス、聖霊が来てくださって、教会の歴史は始まりました。そして、「永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」とイエス様が言われたとおり、その時だけでなく、パラクレートスなる聖霊がずっと一緒にいてくださって今日に至るのです。

この方は、真理の霊
 そして、イエス様はそのパラクレートスなる聖霊を「真理の霊」と呼ばれました。「この方は、真理の霊である」と。そのように、聖霊は「真理の霊」として、真理を私たちに示してくださり、伝えてくださり、悟らせてくださる。そのような御方です。

 しかし、そこで重要なのは「真理」とは何かということです。私たちが本当に知らなくてはならない「真理」が、ある「思想」であり「概念」であるならば、それは言葉をもって伝えることができるでしょう。しかし、そうではないのです。イエス様は言われたのです。「わたしは道であり、真理であり、命である」(6節)と。私たちが知るべき「真理」とは抽象的な概念ではありません。それは一人の御方です。イエス・キリストという御方なのです。

 イエス・キリストを知識として知るだけならば、それは言葉による伝達で十分なのでしょう。それは人と人との間でも同じでしょう。誰かについて、知識として知るだけなら、その人の情報を言葉によって知るだけで十分です。しかし、誰かについて、本当の意味で「その人を知っている」と言えるようになるには、人格的な交わりという意味で「その人を知っている」ということならば、その人と出会い、その人と共にいて、実際的な交わりがあるということは不可欠じゃないですか。

 「真理を知る」ということが、イエス・キリスト**を**知るということならば、キリスト御自身に来ていただくしかありません。キリスト御自身が共にいて、キリスト御自身が働きかけ、キリスト御自身が救いの御業を表してくださるしかありません。聖霊が「真理の霊」として、キリストを伝えてくださるというのなら、ただ「イエス様という御方はね・・」と言って教えてくださるだけでなく、キリストを実際にお連れくださるしかありません。そして、それが起こっているのです。聖霊のお働きによって。

 なんか、リモートワークみたいだな、と思う時があります。天に上げられたキリストが、地上において救いの御業をなされるというのは、ある意味では究極のリモートワークともいえます。聖霊を通してのリモートワーク。しかし、私たちが知るリモートワークと決定的に違うのは、声や言葉、映像や働きだけでなく、実際においでくださるということです。

 だから「この霊があなたがたと共におり、これからも、あながたの内にいるからである」と言われた時、さらにこう言われたのです。「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(18-20節)。

 「あなたがたのところに戻って来る」。――それはキリストの復活や再臨をも念頭に置いた言葉でしょうけれど、一番大事なのは、パラクレートスなる聖霊を通して共にいてくださるということです。そのような神とキリストとの豊かな交わりをもたらしてくださる聖霊が、パラクレートスなる聖霊が、私たちと共に、そして私たちの内にいてくださる。私たちはその聖霊の豊かな御業の中にあるのです。今、こうして私たちが共にあつまり礼拝していること自体が、既にその現れなのです。

2025年11月2日日曜日

「主イエスによって備えられた場所」

2025年11月2日 聖徒の日 主日礼拝説教 

聖書:ヨハネによる福音書 14:1-7

 今日は聖徒の日です。天に召された方々の御家族、御親族も大勢見えています。共に礼拝できることをうれしく思います。今日は天に召された方々を思い出しながら、天と地が一つとされているところに身を置いていることを思いつつ、共に礼拝をおささげできたらと思います。

心を騒がせるな
 そのような今年の召天者記念礼拝に与えられている聖書の言葉が先ほど読まれました。今日は特に福音書朗読において読み上げられたイエス様の言葉を心に留めたいと思います。主は言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(1節)。

 「心を騒がせるな」と主は言われます。それは人間がしばしば平安を失い、心を騒がせることを知っておられるからでしょう。そして、まさにその時弟子たちはそのような状態にあったのです。

 主がそう言われたのは、最後の晩餐の席においてでした。イエス様は御自分の死が目前に迫っていることを知っておられました。御自分が間もなく捉えられ、鞭打たれ、十字架にかけられることを知っておられました。今日読まれました聖書箇所の直前にはペトロとのこんなやり取りが記されています。

 イエス様がペトロに言われました。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる」。イエス様は十字架に向かっているのです。そこにペトロは、今はついて行くことはできないと主は言われたのです。しかし、ペトロにはイエス様が言っておられる意味が分かりません。しかし、生と死に関わることを主が言っておられることだけは分かったのでしょう。ペトロは言いました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます」(13:37)。

 ペトロがそう言わざるを得ないほどに、イエス様の上に、そして弟子たちの上に、命の危険が迫っていることを彼らは感じ取っていたのです。確かに死の力が彼らに押し迫ってきているのです。それゆえに弟子たちは心を騒がせずにいられなかったのです。

 それは二千年後の私たちにもよく分かります。死の力に人間は勝てないことを私たちも知っていますから。いかなる人間も、どんなに大金持ちであろうが、どんな権力者であろうが、死の力には勝てない。だから死がその片鱗を現す時に、そして、最終的に押し迫ってくる時に、人間が平安を保つことは困難です。心が騒ぐのを抑えることはできません。

 しかし、主は言われるのです。「心を騒がせるな」と。それは「心を騒がせる必要はない」ということでもあります。それはどうしてか。弟子たちは既に誰を信じたら良いかを知らされているからです。イエス様と共に歩んだ三年半の間に、弟子たちは繰り返しイエス様が言われるのを聞いてきたはずです。「神を信じなさい」と。そして、多くの人々に主がこう語るのを聞いてきたはずなのです。「あなたの信仰があなたを救った!」と。

 イエス様は今一度、最後の晩餐において、弟子たちにそのことを思い起こさせているのです。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。「神を信じなさい」だけではありません。「わたしをも信じなさい」と主は言われるのです。

 まもなく捕らえられることを知っている主が、十字架にかけられて殺されることを知っている主が言われるのです。自分の無残な死に様を見ることになる弟子たちに、それでもなおイエス様は言われるのです。「わたしを信じろ」と。

 イエス様がそう言われるのは、御自分の死が何を意味するかを知っているからです。そして、弟子たちにも繰り返し語り聞かせてきたのでしょう。今こそ弟子たちは――心が騒いで仕方ない弟子たちは――思い起こして信じなくてはならないのです。それゆえに、「わたしを信じろ」と言われた主は、御自分の死が何を意味するのかを静かに語り始めるのです。それが今日の聖書箇所です。

場所を用意しに行く
 主は弟子たちに言われました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」(2節)。イエス様は死の力に飲み込まれて滅びるのではないのです。主は十字架の向こうに「父の家」を見ているのです。自分が帰るべきところを見ているのです。

 今日は読まれませんでしたが、最後の晩餐の場面は次のような言葉で始まります。「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」(1節)。

 自分が父の家に帰ることを知っていたイエス様は、弟子たちにこう言っておられました。「あなたがたのために場所を用意しに行く」と。そうです、イエス様は場所を用意しにいくのです。それはイエス様が行くところに、弟子たちもまた行くことができるようになるためです。ですから主はさらにこう言われるのです。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(3節)。

 そのように父のもとに行くのはイエス様だけではないのです。弟子たちもまた、イエス様のもとに迎えられるのです。父の家に迎えられることになるのです。これが「心を騒がせるな」と言われるイエス様の約束の言葉です。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言われるイエス様の約束の言葉です。確かに、そう言われるイエス様を信じるならば、もはや心を騒がせる必要はないはずなのです。

 イエス様が帰っていく父の家に、私たちもまた迎えられる。これこそ代々の教会もまた信じてきたことです。しかし、考えてみれば、これは驚くべきことでしょう。罪を犯すことのなかったイエス様と同じところ私たちも迎えられるのです。罪ある私たちが迎えられるのです。十字架の死に至るまで神に従い通したイエス様と同じところに、私たちも迎えられるのです。神に背いてばかりいる私たちが迎えられるのです。父の家に私たちの場所があるとするならば、それはまことに驚くべきことです。いったい私たちの誰が真顔で、「神様、あなたのもとに私の場所があることは当然です。あなたの家に迎えられるにふさわしく生きてきましたから」と言えるでしょう。それは本来、あり得ないことなのです。

 だからこそ、イエス様はわざわざ「あなたがたのために【場所を用意しに行く】」(2節)と言われたのです。「場所を用意しに行く」ということは、つまり用意されるまでは「ない」ということです。はじめから私たちの場所があるわけではない、ということです。父なる神のみもとに、私たちの場所があるとするならば、それはイエス様が用意してくださったから場所があるのであって、私たちが何かをしたからではありません。ひとえにイエス様がしてくださったことによるのです。

 イエス様は場所を用意しに行くと言われました。そして、どうされましたか。主は十字架にかかって死なれたのです。言い換えるならば、イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかられることによって、私たちの場所を用意してくださったのです。私たちの罪を代わりに負うことによって、罪人である私たちが父に迎えられるようにしてくださったのです。

わたしは道である
 いや、イエス様はただ場所を用意してくださっただけではありません。主は、わたしは道である」と言われたのです。その道は父のみもとに行くための道です。キリストは十字架にかかり、私たちの罪を代わりに負い、私たちの罪を贖うことによって、私たちの通るべき道ともなってくださったのです。

 実際、私たちは、キリストの十字架による罪の赦しという道を通って、父なる神のみもとにいくしかないのです。なぜなら、神の目から見るならば、私たちは皆、償いきれない罪の負い目を負っているからです。私たちが自分の罪を償いきれないならば、キリストの十字架に寄り頼んで、罪を赦していただくしかないのです。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」とは、そういうことです。

 それは、「あなたが自分の罪を償いきれない罪人であったとしても、わたしを通って父のもとに行きなさい」という呼びかけでもあるのです。主は言われるのです。「わたしがその道だ」と。

 目的地へと通じる道があるならば、その道から外れない限り、必ず目的地に行き着きます。「父のもとに行く」ための道ならば、最後まで道と共にある限り、必ず父のみもとに行き着くのです。最後まで道と共にあるということ、――それは最後までイエスと共にあるということです。最後まで信じて共にあることです。

 主は言われました。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。私たち誰もが直面しなくてはならない死の力に対して、「わたしを信じろ」と言ってくださる方がおられるということは、本当にありがたいことです。この世の誰も、どんなに私たちを愛してくれる近しい人であっても、そんなこと言ってくれないし、言うこともできないでしょう。死の力に直面して心騒ぐときに「わたしを信じろ」と言ってくださるのは、この御方だけです。

 そして、さらに言うならば、この「わたしを信じなさい」という言葉は、「わたしを信じ続けなさい」という意味合いの言葉なのです。大事なことは最後まで信じ続けることです。繰り返します。それが父のみもとに至る道ならば、最後までその道と共にある限り、必ず父のみもとに行き着くのです。

2025年5月11日日曜日

「死んでも生きる人、決して死なない人」

2025年5月11日 主日礼拝説教

聖書:ヨハネによる福音書 11:17‐27

わたしは復活であり、命である
 エルサレムからおよそ三キロメートルほど離れたベタニアという村に、イエス様がしばしば立ち寄られた家がありました。マリアとマルタという姉妹、そしてその兄弟ラザロが住んでいた家でした。マリアとマルタはルカによる福音書にも出て来ます。イエス様と特別親しかった家族のようです。ユダヤ人たちの敵意に囲まれ、命さえ危ぶまれるような緊迫した状況の中で、イエス様が心からくつろぎ憩うことのできる家だったのでしょう。しかし、そのような幸いな家庭を、突然大きな悲しみが襲います。ラザロが病気になったのです。しかも、たいへん重い病でした。ラザロは死に瀕しておりました。

 マリアとマルタは急いでイエス様に使いを送って言いました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。しかし、イエス様が到着したのは、既にラザロが墓に葬られて四日も過ぎた後でした。そこからが今日の聖書箇所です。

 ユダヤ人には民間の俗信がありまして、死んだ人の魂は三日ほど屍のまわりを漂っていると考えられていたようです。ですから、「墓に葬られて四日目」は完全に死んだことを意味します。遅すぎました。もう終わっているのです。そのように、イエス様は人間的見地からすれば完全な絶望の中に来られたのです。しかし、人間にとって《終わり》であっても、主にとっては《終わり》ではありません。私たちには《終わり》としか見えないところに主が来られると、《終わり》が《終わり》ではなくなります。絶望ではなくなります。今日の聖書箇所は、そのことを伝えているのです。

 イエス様が来られたと聞いて、マルタは村の外まで迎えに出ました。マルタは主に言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。そのようなマルタに対して、イエス様は言いました。「あなたの兄弟は復活する」。するとマルタは答えます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)。

 「存じております。知っています。」そうマルタは言いました。「終わりの日の復活の時に復活すること。」それは当時のユダヤ教ファリサイ派における正統的な教理でした。確かに教理は知っているのです。しかし、彼女が知っている正統的な教理は、死の現実に直面した彼女にとって何の助けにもなっていません。そのようなマルタにイエス様は言われたのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(25‐26節)。

 イエス様は悲しみに暮れるマルタに、改めて復活の教理を説明しようとはされませんでした。そうではなくて「わたしは(I am)」と言われたのです。自分を指し示したのです。本当に必要なことは教えや説明ではないからです。本当に必要なのは救い主なのです。「わたしは復活であり、命である」と宣言するイエス・キリストという救い主なのです。

 私たちが単に教えを求めて教会に集まっているならば、私たちはこのマルタと同じところに留まっていることになります。しかし、私たちが、イエス・キリストという御方を求めて教会に集まるならば、私たちは救い主に出会うことになるのです。そして、主は言われるのです。「わたしは復活であり、命である」と。

 わたしは復活であり、命である」。――それはすなわち、「わたしこそが、あなたが言っているその《復活》そのものなのだ、永遠の《命》そのものなのだ」と主は言っておられるのです。復活は「終わりの日」という遠い彼方にあるのではなく、永遠の命も遠い彼方にあるのではない。そう主は言われるのです。そうでなくて、復活の命は、絶望に満ちたこの世界のただ中に来ているのだ、と。イエスを信じる者は、《いつかその時に》ではなく、《今ここにおいて》永遠の命に与ることができるのです。そして、永遠の命をいただいているならば、「死んでも生きる」のです。永遠の命をいただいているならば、「決して死ぬことはない」のです。

 イエス・キリストという御方は、このようなことを大真面目に語られるお方です。そして、主はマルタに問われたのです。「このことを信じるか」と。これは直接的にはある一人の女性に問われた言葉です。しかし、この言葉が福音書に記され、今日に至るまで伝えられてきたのはなぜでしょう。それはすなわち、復活して今も生きておられるキリストの問いかけとして、代々の教会がこの言葉を聞いてきたということでしょう。

 4月20日は復活祭でした。私たちはイエス・キリストの復活を祝いました。そのキリストが今、私たちに問いかけておられるのです。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。あなたはこのことを信じるか」と。さて、私たちは何と答えるのでしょう。

御自分の命と引き替えに
 さて、今日の福音書朗読はそこまでです。しかし、この話には続きがあるのです。イエス様がラザロの葬られている墓に赴き、ラザロを生き返らせたという奇跡物語が続くのです。イエス様は、ラザロが葬られている墓に来られました。墓は洞穴で、石でふさがれていました。イエス様は「その石を取りのけなさい」と言われます。人々が石を取りのけると、主は父なる神に祈り、そして大声で叫びました。「ラザロ、出て来なさい」。墓の中にキリストの声が響き渡ります。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」と書かれています。

 この奇跡物語の詳細について、今日は触れることができません。ただ一つの点にだけ注目しておきたいと思います。それは、ここでの出来事がユダヤ人たちの殺意を引き起こす直接の原因になった、という事実です。45節以下にはこう書かれています。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」(45‐46節)。

 そして、このことが最高法院における議論にまで発展するのです。このようなしるしを行う者を放置しておけば、皆が彼を信じるようになる。それは現体制を危機にさらすことになる。ということで、「彼には死んでもらうことにしよう」というのが大祭司の提案でした。そのゆえに53節には「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」と書かれているのです。ユダヤの最高権力が、イエスを抹殺するために動き出すのです。もちろん、イエス様にはそうなるであろうことは重々分かっているのです。

 そのような緊迫した状況の中で、イエス様は、「わたしは復活であり、命である」と言われたのです。それは十字架へと向かっている御方の言葉に他ならないのです。また、主は十字架へと向かっているお方として、このしるしを行われたのです。

 イエス様は墓の中のラザロに向かって、「大声で叫ばれた」と書かれています。このような表現がイエス様について用いられているのはここだけです。鬼気迫るものを感ませんか。このしるしを行うことが、御自分の身に何をもたらすかを知った上で、主は大声で叫ばれたのです。いわばこれはイエス様の命がけの叫びなのです。イエス様は御自分の命と引き替えに、ラザロを墓から呼び出されたのです。「ラザロ、出て来なさい」と。

 それゆえに、この出来事は一つのしるしとなりました。永遠の命はキリストの死を通して与えられるのだ、ということを指し示すしるしとなったのです。そして、実際そうなのです。キリストは私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださいました。私たちに罪の赦しをもたらし、神との交わりを与えるためでした。この永遠なる神との交わりこそが永遠の命なのです。それゆえに、永遠の命を与えてくださるキリストの十字架と共にあるならば、「死んでも生きる」のです。復活であり命であるお方によって、永遠なる神との交わりの中にあるならば、「決して死ぬことはない」のです。

 わたしはこの箇所を読みますと、かつて出会った一人のご老人のことを思い出します。もう20年以上も前の話です。一応「Iさん」とお呼びしておきますが、その人はとても頑固な方でした。あらゆる人間関係を自ら絶ち切って、孤独の中に閉じこもっていた人でした。ご病気のために、ベッドの上だけが生活の場所でした。体もずいぶん弱っていました。自分の部屋で、ベッドの上で、ただ弱って死んでいくその時を待っている人でした。初めてお会いした時、私はその人が生きている感じが全くしなかったことを思い起こします。彼はすでに死んでいる人のようでした。

 しかし、何度かお会いしてIさんと聖書の話などをしているうちに、彼はイエス様のことを次第に思い出し始めたのです。実は30代の時に洗礼を受けたクリスチャンだったのです。もう長い間、教会からもイエス様からも離れていました。しかし、思い起こしたのです。キリストが私たちの罪のために十字架にかかってくださったこと。そして、神との交わりを与え、永遠の命を与えてくださったこと。ある日、わたしがお訪ねすると、その人は顔を輝かせて言いました。「永遠の命は、キリストの十字架と共にあるのですね」。

 その人は変わりました。性格のことではありません。性格は相変わらず頑固でヘルパーさんたちを困らせていました。しかし、それは大したことではありません。もっと大きなことが起こっていたのです。彼はベッドの上で希望をもって生きるようになりました。それからお訪ねする度に聖餐式をするようになりました。実際、呼吸するのも大変で、少し話すと息が苦しくなるので、本当に短い聖餐式でした。しかし、いつも会う度にIさんは苦しい息の下でも喜びに溢れてこう言ったものでした。「わたしはね、復活の命をいただいているんですよ。もう永遠の命をいただいているんですよ」。

 彼の体は会う度に弱っていきました。しかし、Iさんは既に永遠の命をいただいている者として、死に向かって歩んでいる人ではなくなっていました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。そのイエス様の言葉は、彼の上に確かに実現しているのをわたしは見せていただきました。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。イエス様は私たちにもこう語っていてくださいます。そして言われるのです。「あなたは信じるか」と。私たちには《終わり》としか見えないところに主が来られると、それはもはや《終わり》ではなくなります。「死」でさえそうなのです。主は問われます。「あなたは信じるか」と。

2024年10月14日月曜日

「損得勘定で生きていきますか」

ヨハネによる福音書 11:45‐57

損か得か
 今日の聖書箇所の冒頭には、「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた」(45節)と書かれていました。「イエスのなさったこと」とはこの直前に書かれています。死んで四日経ったラザロをイエス様が生き返らせたという奇跡の話です。

 奇跡を見てイエスを信じた人はいました。そうです、確かにいたのです。しかし、奇跡は必ずしも信仰をもたらすとは限りません。同じように奇跡を見ても、なお信じようとしない人たちはいるのです。実際、あの時にもいました。同じ奇跡を見ていながら、イエスをむしろ危険人物として密告する人たちがいたのです。「しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」(46節)とはそういうことです。

 さて、イエス様のなさったことについての密告を受けた祭司長たちとファリサイ派の人々は、最高法院を召集して言いました。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」(47、48節)。

 彼らはイエス様が「多くのしるしを行っている」ということを認めています。イエス様がなさった数々の御業に目を留めてはいるのです。しかし、彼らの関心はどこにあるのでしょう。彼らは、このイエスという方が真にメシアであるか、そうでないのか、ということには関心がありません。イエスという方が本当に神から遣わされた方であるかどうか、神の子であるかどうかということには関心がありません。信ずべき御方であるのか、そうではないのかということには関心がありません。なぜなら、彼らの関心は別のところにあったからです。

 彼らの関心はどこにあるのか。それはナザレのイエスというひとりの人物の存在が、彼らにとって《得になるか損になるのか》ということだったのです。そして、彼らの結論は《損になる》ということだったのです。イエスが存在することは、彼らにとって決定的な損失になる。「このままにしておけば、皆が彼を信じるようになる。そして、ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまうだろう」。

 これは最高法院が招集された時の発言であったと書かれています。このことを懸念していたのは、特に祭司長たちだったと思われます。彼らは貴族的な特権階級に属します。彼らが望んでいるのは一にも二にも現状維持です。平穏無事であることです。騒ぎは起きて欲しくないのです。メシアが到来したの何だのと言って騒いで欲しくないのです。

 実際エルサレムにおいて騒ぎが起こるなら、ローマの軍隊が介入してくることが予想されました。彼らは帝国を揺さぶるような騒ぎに対しては、情け容赦なく介入してきます。そして、それは祭司長たちにとって決定的な損失となります。だからそのような事態を恐れたのです。「イエスという男が奇跡を用いて民衆の支持を得るならば、まずは自分たちの立場が危ない。いや、それどころか、そのような危険な動きをローマ当局が察知したならば、必ず軍隊を送り込んで来るに違いない。その結果、彼らは神殿をたたき壊し、イスラエルの民を滅ぼしにかかるかもしれない」と。

 ですから、その後に大祭司カイアファが発した言葉も十分理解できます。彼は言うのです。「あなたがたは何も分かっていない。一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」(49、50節)。要するにカイアファが言いたいのは、「あいつには死んでもらうことにしよう」ということです。その方が「好都合」だからです。これは原文では「得である」という意味の言葉です。

 彼らにとって最も大事なこととされているのは、何が真理かということではないのです。何が神に従うことなのか、ということでもないのです。そうではなくて、どちらの方が人間にとって、我々にとって都合が良いのかということなのです。どちらが得かということなのです。

 やがてこの同じ最高法院において、イエスが裁かれることになります。処刑が決定されるのです。その罪状は表面的には「イエスが神を冒涜した」ということでした。しかし、それは建前に過ぎなかったと聖書は言うのです。本音は別のところにありました。イエスに死んでもらうことは、彼らにとって「好都合」だったからだ、彼らにとって得だったからだと聖書は言っているのです。

 今日の聖書箇所が伝えているように、キリストの十字架は、直接的には、彼らの打算によってもたらされました。彼らはイエス様の言葉を聞き、イエス様のなさったことを見ていました。その御方が数々のしるしを行っていることも知っていました。しかし、イエス様を信じるに至りませんでした。彼らの打算がそれを阻んだからです。損得勘定が信仰を妨げたからです。自分にとって得になるか損になるかということからしかキリストを見ることができなかったからです。

わたしたちのために
 このように損得勘定とキリスト教信仰とは、本質的に相容れないもののようです。打算から近づく限り、キリストを信じるには至らない。キリストを信じることが損か得か。そこから近づくならば、キリストを信じるには至らない。

 それはある意味では必然であるとも言えます。なぜなら、神がキリストにおいて私たちにしてくださったこと、キリストが私たちのためにしてくださったこと自体が、そもそも打算からはずれたことだからです。それは人間的な損得勘定からするならば、はなはだ愚かなことに他ならないことだったからです。

 カイアファは「一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか」と言いました。しかし、聖書は大変不思議な説明を加えています。「これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである」(51節)。

 カイアファは損得の話をしていたのです。都合が良いか悪いかの話をしていたのです。しかし、彼の考えとは全く関係なく、図らずもそれがキリストについての預言となっていたというのです。神様がカイアファの言葉をさえ用いて真理を示しておられたのです。それは何か。それはキリストの死は確かに「身代わり」としての死であったということです。

 カイアファは「国民全体が滅びないで済む方があなたがたに好都合だ」と言いました。しかし、人を最終的に滅ぼすのは、軍隊ではないのです。彼らを滅ぼすのはローマの軍事力ではないのです。人を最終的に滅ぼすのは人の力ではないのです。では、人を本当に滅ぼすのは何か。それは人間の罪なのです。そして、罪がもたらす神との断絶なのです。人間にとって本当に絶望的な状況はただ一つのことによるのです。悔い改めて神に立ち帰ることもなく、神の赦しを求めることもなく、神の愛と憐れみを信じることもなく、神から離れたままであるという現実こそが人を滅ぼすのです。神というまことの光を失うならば、人間は本当の暗闇の中に身を置くことになるのです。

 祭司長たちはローマの軍隊を見ていました。キリストの目は人間の罪を見ていました。祭司長たちは自分たちの特権の危機を見ていました。キリストは神から離れた人間の危機を見ていました。祭司長たちは自分たちの都合のためにキリストを殺そうとしていました。キリストは人間の救いのために自ら命をささげようとしていました。そうです、キリストは人間が罪を赦され、神と共に生きることができるように、人間のすべての罪を代わりに背負い、十字架において罪を贖おうとしておられたのです。これが人間の罪とキリストの愛のコントラストです。人間の打算と、打算を超えた愛のコントラストです。

 キリストは愛によって十字架に向かわれました。それは人間的に見るならば愚かなことでした。しかし、愛するということは、時として、あえて愚かになることを意味するのです。あえて損をするという選択を意味するのです。キリストはあえて損をすることを選び、身代わりとして十字架にかかられることを選ばれたのです。

 それゆえに、その方を信じようとするならば、打算によって信じることはできません。キリストを信じることが損になるか得になるかで信じることはできません。キリストの十字架の愛に目を向け、その愛に応えていくこと、それがキリストを信じることであり、キリストに従うことなのです。そこでは打算が沈黙するのです。キリストの愛によって、そこでは打算を越える決断が起こるのです。

 今から300年ほど前のこと、デュッセルドルフの美術館にあった一つの絵の前に長い時間立ち尽くしていた青年がいました。彼の名はニコラウス・フォン・ツィンツェンドルフ。後にモラビア兄弟団という信仰共同体の監督となり、霊的指導者として後世に大きな影響を与えることとなった人物です。彼が見つめていたのは、「この人を見よ」と題されたキリストの十字架の絵でした。茨の冠をかぶせられ十字架に釘づけられているキリストの姿でした。その絵のもとにはラテン語でこう記されていたそうです。「わたしはあなたのためにこのことをなした。あなたはわたしのために何をするのか。」彼はそこで確かにキリストの語りかけを聞いたのだと思います。そして、そこにおいてはもはや何が得であるか何が損であるかなどということは、どうでもよいことだったのです。彼は自らの人生を、そのままキリストに差し出したのでした。

 私たちのための身代わりの十字架。その姿は私たちに向かっても同じことを語っているのでしょう。「わたしはあなたのためにこのことをなした」と。私たちはどうお応えするのでしょう。

2024年10月6日日曜日

「皆が一つになるように」

ヨハネによる福音書 17:20-26

 今日の福音書朗読ではキリストの祈りの言葉が読まれました。場面は最後の晩餐です。この祈りを捧げて、イエス様は弟子たちと共に外に出て行きます。その先に何が待っているかを主はご存じでした。向かった先のゲッセマネの園には、イスカリオテのユダが兵士たちを率いてやってくるでしょう。そして、主は捕らえられることになり、裁きを受け、鞭で打たれ、茨の冠をかぶせられ、十字架にかけられることになります。主はすべてをご存じでした。その意味で、今日お読みした祈りの言葉は、御自分の死を前にした祈りの言葉に他ならないのです。

 祈りの言葉そのものは17章全体に及んでいますが、はっきりと三つの部分に分かれます。第一は1節から5節までです。そこで主は御自分のために祈ります。第二は6節から19節までです。そこで主は弟子たちのために祈ります。第三は今日お読みした20節から26節までです。そこで主は、教会の宣教によって御自分を信じるようになるすべての人々のために祈ります。

彼らもわたしたちの内にいるように
 そこで主はこう祈り始められました。「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20節)。彼らというのは、直接的にはキリストの弟子たちを指しています。イエス様は御自分の弟子たちのことをよくご存じでした。彼らの弱さもご存じでした。彼らが御自分を見捨てて逃げてしまうこともご存じでした。ペトロについては既にこう言っておられます。「はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」(13:3)。

 しかし、主はそのような弟子たちを、それでもなお信頼しておられました。そして、彼らに宣教の働きを託されました。いや、それだけではありません。主は既に、彼らの言葉を通してキリストを信じる人々の群れを見ておられるのです。心の目で見ておられるのです。それゆえに、主はやがて主を信じることになる多くの人々のために祈られたのです。

 そして、主がその時、心の目をもって見ておられたことは、やがて現実となりました。弟子たちの言葉によって、キリストを信じる人々がこの世に次々と生み出されていきました。なんと、それから二千年後の今日、キリストを信じる者たちは、この日本にも存在しているのです。確かにキリストを信じる私たちがここにいるのです。あのときのイエス様の祈りは、ここにいる私たちのための祈りでもあったのです。

 主は私たちのために何を祈っておられるのでしょう。キリストの祈りは次のように続きます。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)。

 キリストは私たちが一つとなることを願い、祈っておられます。「すべての人を」と主は言われました。この言葉はあらゆる範囲に及びます。主はこの地球上のすべての教会が一つとなることを願っておられます。主はこの日本のすべての教会が、すべてのキリスト者が一つとなることを願っておられます。主はこの頌栄教会が一つとなることを願っておられます。主は異なるお互いが一つとなることを願っておられます。

 一つとなるとはどういうことでしょうか。主は「あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」と言われます。単に「みんな仲良くするように」ということではなさそうです。

 父は子の内に、子は父の内に。そこに言い表されているのは、イエス様と父なる神との交わりです。愛と信頼の絆で結ばれた親子の関係をイエス様は見せてくださいました。そして、その交わりの中に私たちもまた加えられることを主は願っておられるのです。「彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」とはそういうことです。イエス様が見せてくださった親子の関係の中に、神の家族の中に、私たちもまたいるようにしてくださいと主は祈られたのです。そして、それこそが、「一つとなる」ということなのです。

 「すべての人を一つにしてください」。それは共に天の父の子供たちとして生きるように、ということです。共にキリストの兄弟として生きるように、ということです。共に神の家族として生きるように、ということです。そのように一つとなるのです。

 ですからそのように一つとなっている目に見える姿は、同じ父に向かって一緒に祈る姿なのです。一緒に礼拝する姿なのです。互いに異なる者たちが、互いに相容れぬものを持っているかもしれない者たちが、様々なことにおいて互いに意見の異なる私たちが、それにもかかわらず同じ父の子供たちとして、共に神に祈りながら、共に神を礼拝しながら生きて行く。それこそが「一つにしてください」というイエス様の祈りの答えなのです。 

完全に一つになるために

 そして、主はこのことを別な言葉をもって次のように表現しています。「あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(22‐23節)。

 「あなたがくださった栄光」とはイエス様が持っておられた神の子としての栄光です。イエス様は、その栄光を私たちにも分かち与えてくださいました。それは、私たちもまた、神の子どもたちとして生きることができるということです。主は、私たちもまた、「天にまします我らの父よ」と共に祈って生きる者としてくださいました。それは「彼らも一つになるためです」と主は言われます。

 そして、そのように同じ父を仰いで一つとなっている姿こそが、キリストをこの世界に証しするものとなるのです。「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)と主は言われました。また、「こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります」(23節)と主は言われるのです。

 確かに、互いに異なる者たちが、同じ天の父を仰いで共に礼拝している姿を通して、福音は伝えられてきたのです。共に礼拝する姿が、今日に至るまで途絶えることがなかったからこそ、私たちもまたキリストを知ることができたのです。その意味で、私たちがここに存在していること自体が、既にキリストの祈りの答えであるとも言えるのです。

彼らも共におらせてください
 さらにキリストの祈りはこのように続きます。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」(24節)。

 最初に申しましたように、この祈りは、死を前にしたキリストの祈りでなのす。主は、この世から父のもとへ帰る御自分の時が来たことを知っておられるのです。そこで、主はこう祈られました。「父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。」

 私たちは、この世において、同じ父に祈る者とされました。この世において、同じ父の子どもたちとして、共に礼拝する者とされました。この世においてイエス様の兄弟姉妹とされ、互いに兄弟姉妹とされました。そして、その絆が、この世の生を終えた後もなお続くことをイエス様は願っていてくださいます。「わたしのいる所に、共におらせてください」と。

 私たちが願う以前に、イエス様が願っていてくださいます。私たちが祈る前にイエス様が祈っていてくださいます。そして、こう祈られたイエス様は、私たちの罪を贖うために十字架へと向かわれたのです。そこに死を越えた希望を私たちが持ち得る根拠があります。私たちもまた、「この世において共に祈りを捧げてきた父のもとに帰るのだ。イエス様がおられるところに私たちもまたいることになるのだ」と言い得る根拠があるのです。

 「それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです」と主は言われました。主は必ず見せてくださいます。そこにおいて、私たちは神の子の栄光を目の当たりにすることになるのです。そして、その時私たちは知ることになるのです。その御方の兄弟とされているということ、神の家族に迎え入れられているということが、どれほど栄光に満ちたことであるのかということを。

 この祈りの直前に、主は「あなたがたには世で苦難がある」と言っておられます。確かにそうなのでしょう。しかし、そのようなこの世のただ中において、私たちは既に愛されている神の子どもたちとして、共に礼拝を捧げる者とされているのです。既にどれほど大きな恵みにあずかっていることか。私たちは恐らく、まだ本当のところを知りません。しかし、やがて知ることになるのです。神の子の栄光を見る時に、はっきりと知ることになるのです。

2024年9月29日日曜日

「何があっても大丈夫」 

ヨハネによる福音書 11:1‐16

あなたの愛しておられる者が病気なのです
 ベタニアという村にはイエス様が大変親しくしておられた姉妹がいました。マリアとマルタという姉妹でした。この二人はルカによる福音書にも出て参ります(ルカ10:38以下)。その家においてイエス様が御言葉を語られていた様子が描かれています。ヨハネによる福音書には彼らの兄弟が登場します。名前はラザロです。彼もまた主を愛し、そして主に愛された一人でした。

 ところが今日の聖書箇所に書かれているのは、そのラザロが病気になってしまったという話です。しかも命にかかわる重病でした。その知らせが使いの者によってイエス様のもとに届けられました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。

 それまでキリストとの豊かな交わりの中にあって喜びに溢れていた家族でした。しかし、その家族を病気という予期せぬ苦難が襲います。家の中は一変して真っ暗になってしまいました。そこでは誰であれ「なぜ?」と問いたくもなるのでしょう。なぜ兄弟が病気にならなくてはならないのか。なぜ私たちがこんな悲しい思いをしなくてはならないのか。 「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです。」

 考えてみれば、「主よ、あなたの愛しておられる者が…」に続く言葉は、必ずしも病気だけではないでしょう。この福音書が書かれた頃は、キリスト教会がユダヤ教の世界から完全に追い出され、非公認宗教として国家的な迫害の対象となっていった時代だと言われます。そうしますと、この福音書の読者にとっては、また別の言葉が心に響いていたかもしれません。「主よ、あなたの愛しておられる者が迫害されているのです。主よ、あなたの愛しておられる者が捕らえられてしまいました。」「主よ、あなたの愛しておられる者が今苦しんでいるのです」。

 イエス様が愛しておられても、ラザロは病気になってしまいました。同じように、イエス様が愛しておられても、初期の教会は迫害で苦しんだのです。それは何を意味するのでしょう。逆に言えば、病気になることは、「イエス様が愛しておられない」ということを意味しないということです。苦難に遭うことは、「イエス様が愛しておられない」ということを意味しないということです。5節にもはっきりとこう書かれています。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。」

 しかし、その先に書かれていることについてはどうでしょう。6節にはこう書かれています。「ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。」イエス様はすぐに来てくださらないのです。イエス様が到着したのは、ラザロが死んでしまってから既に四日経った時でした。ですから二日間遅れなくても、どっちみち間に合わなかったとは言えます。しかし、それでもなお気持ちとしては、「愛してくださっているなら、なぜすぐに来てくださらなかったのですか」となるではありませんか。実際、マルタもマリアも同じことを言っています。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21、32節)。そうです。すぐに来て欲しかった。一緒にいて助けて欲しかったのです。

 さきほど、病気になることは、苦しみに遭うことは、「イエス様が愛しておられない」ということを意味しないと申しました。しかし、たとえば先ほどの話で言えば、迫害されるだけでなく、イエス様は助けに来てくださらなくて、結局殺されてしまったという話ならどうでしょう。この福音書が読まれていた頃には、現実にそのようなことがいくらでも起こっていたに違いないのです。

 実際、迫害ではなくても、私たちもまた似たような思いを抱くことはあるかもしれません。すぐにでも助けて欲しくて、イエス様を呼び求めていたにもかかわらず、主の助けがすぐには来なかった。あるいは間に合わなかった。そのような時、「わたしは主から愛されてなどいない」と思うようなことは起こるかもしれません。

 しかし、だからこそこの物語は語り継がれてきたのです。だからこそ、私たちは聖書の言葉に耳を傾ける必要があるのです。聖書はそれでもなお、確かにこう語っているのです。「イエスは、マルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた」。――目に見えるところはいかにあれ、主はマルタもその姉妹も、ラザロをも愛しておられた。遅いように見えたとしても、それでもなお主は彼らを愛しておられた。そして、目に見えるところはいかにあれ、主は私たちをも、愛しておられるのです。

この病気は死で終わるものではない
 「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。その知らせを聞いたイエス様は、ラザロについてこう言われました。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(4節)と。

 「この病気は死で終わるものではない」。それは「死ぬほどの病気じゃない」という意味ではありません。後にイエス様ははっきりと「ラザロは死んだのだ」(14節)と言っています。ラザロが死んでしまうことは、イエス様には分かっておられたのです。しかし、その病気は死で終わらない。死が最終的に行き着くところではない。その先があるということです。

 実際、この物語はどのように進んでいくのでしょう。イエス様が二日間同じところに滞在された後、ベタニアへと向かいました。今日お読みした箇所の先を読んでみますと、ベタニアで起こった出来事が記されています。17節にありますように、イエス様が到着した時、ラザロは墓に葬られて既に四日が経過していました。しかし、墓に着いたイエス様は、「その石を取りのけなさい」と言われます。そして、イエス様は父なる神に祈った後、墓に向かって大声で叫ばれます。「ラザロ、出て来なさい。」すると、ラザロは手と足を布で巻かれたまま出て来たのでした。

 確かにイエス様が言われたとおりになったと言えます。「この病気は死で終わるものではない」。そうです。死んで終わりではありませんでした。彼は生き返った。しかし、もしそれだけのことならば、この不思議な出来事を信じるか否かにかかわらず、いずれにしても、ここにいる私たちとは何の関係もない話と言えます。というのも、頌栄教会における葬儀では通常このようなことは起こらないからです。いや私たちの教会だけでなく、この福音書が書かれた頃の迫害の時代の教会においても通常このようなことは起こらなかったに違いありません。「主よ、あなたの愛しておられる者が捕らえられてしまいました。そして殺されてしまいました。」その後、四日以上たってから生き返ったという話は、少なくとも私は目にしたことがありません。

 ならばなぜ、一般的な経験とは合致しないこの出来事が、聖書に記されて伝えられてきたのでしょう。――それはあくまでもこの出来事は一つのしるしだからです。この出来事そのものが大切なことを語っているメッセージだからです。その大切なこととは何でしょうか。イエス様がおられるならば、死は終わりではない、ということです。死は絶望ではない、ということです。

 私たちが通常助けを求めるのは、生きている間のこととして求めるのでしょう。ですから時として必死な思いで「早くしてください。遅いと間に合いませんから」と願うのです。そして、生きている間に助けがなかったら、それ以上望むことはないと思うかもしれません。それは絶望を意味するのでしょう。しかし、「そうではないのだ」と今日の御言葉は私たちに語っているのです。

 ある意味で今日の聖書箇所は究極の希望を語っていると言えます。「たとえ死んでも終わりではない。たとえ死んでも大丈夫」とはそういうことでしょう。ユダヤ人の間には、三日間は死んだ人の魂が屍のまわりをただよっているという迷信があったのです。しかし、その迷信によってさえ、四日目になりますともう帰ってきません。つまり、「四日目」は人間の目から見たら完全な終わりを意味するのです。もはや望みはない。しかし、人間の完全な絶望でさえ、イエス様にとっては絶望ではない。それで終わらないです。主はラザロについて、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」(11節)と言いました。もちろん、イエス様が言われたのは、「死んでしまった」という意味だったのです。14節に書かれているとおりです。しかし、たとえ死んでしまったとしても、イエス様にとって、それは一時的な「眠り」に過ぎないのです。

 イエス様にとって死は一時的なことに過ぎない。イエス様がおられるなら死は絶望ではない。「イエス様がおられるならば、たとえ死んでも大丈夫」。それは、言い換えるならば「たとえ何があっても大丈夫」ということに他ならないのです。

 皆さん、私たちはやたらに「大丈夫」という言葉を使いますけれど、本当は「大丈夫」には二通りあるのです。例えば、病気の検査に行く時に、誰かが言います。「病気なんかじゃないよ。大丈夫だよ。」そういう類の「大丈夫」。「あなたが心配しているようなことは《起こらないから大丈夫》。」そして、そのような「大丈夫」を信仰に求める人もいるのでしょう。「神様を信じるならば、心配しているようなことは起こらない。だから大丈夫」と。しかし、そのような「大丈夫」にはいつまで経っても不安がつきまとうのです。そこに本当の平安などありません。

 私たちに必要なのは、そんな「大丈夫」ではないのです。本当に必要なのは、「あなたが心配しているようなことが、たとえ《起こったとしても大丈夫》。何があったとしても大丈夫」という「大丈夫」なのです。私たちに必要なのは、その「大丈夫」を、確信をもって言ってくださる御方なのです。そして、イエス様こそ、そのような御方なのです。「この病は死で終わるものではない」と言い切ることのできる方。死を突き抜けた希望を宣言することのできる方。そして、御自分については、十字架による死でさえも終わりではないことを知っておられた御方です。

 そのイエス様に愛されているのです。病気であることは愛されていないことを意味しない。苦難があることは愛されていないことを意味しない。イエス様が遅いように見えること、私たちが待たなくてはならないことは、私たちが愛されていないことを意味するのではないのです。私たちに必要なのは、そのイエス様を信じ、その御方を通して、本当の意味で「大丈夫」という言葉を聞きながら生きることなのです。


2024年9月22日日曜日

「神の子としてのイエスの御業」

ヨハネによる福音書 10:31-39

あなたたちは神々である
 「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。」そんな言葉から、今日の福音書朗読は始まりました。そのきっかけとなったのは、その直前に発せられたイエス様の一言でした。「わたしと父とは一つである」(30節)。

 これを言ったら彼らは石をつかむだろう。イエス様は分かっておられるのです。しかし、主はあえて彼らに問われました。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」すると彼らは案の定、こう答えました。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」そうです。必ずこのような答えが返ってくる。イエス様は分かっておられるのです。

 そこで主は聖書を引用してこのように反論されました。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか」(34-36節)。

 イエス様が引用しているのは、詩編82編6節の御言葉です。私たちはまず、少し時間を取って、イエス様が引用している聖書の言葉にまで遡って、主の御言葉を思い巡らしたいと思うのです。詩編82編をお開きください。

 主が引用している6節の言葉です。「わたしは言った『あなたたちは神々なのか/皆、いと高き方の子らなのか」と」(詩編82:6)。ここで新共同訳では「神々なのか」と疑問文に訳されていますが、原文ではイエス様の引用のとおり「あなたたちは神々である」という平叙文です。私の知る他のすべての翻訳はそうなっています。しかし、新共同訳が疑問文に訳した理由も分かるような気がいたします。

 ここで「神々」と呼ばれている「あなたたち」というのは、裁きの権威を与えられている世の支配者たちなのです。その権威は神が彼らに与えたのであって、彼らはいわば神の裁きを代行するようにと、支配者として立てられているのです。しかし、この詩編に歌われているように、彼らはその権威を濫用し不正な裁きを行っているのです。神の御心に仕える代行者ではなくて、いわば自ら神のようにふるまっているのです。

 そんな彼らに対して、神は言われるのです。「あなたがたは神々だ」と。また、この詩編の作者も言うのです。「神は神聖な会議の中に立ち/神々の間で裁きを行われる」(1節)。言ってみれば、この「神々」というのは強烈な皮肉なのです。新共同訳は、恐らくこれが皮肉であることを表現しているのです。「おまえたちは神々なのか!」と。

 そのように、皮肉にせよ「あなたたちは神々だ」と書かれている。さらにその次には「皆、いと高き方の子らである」すなわち、「皆、神の子らである」と書かれているのです。この部分は引用されていませんが、イエス様はもちろんこう続くことを知っていますし、聞いているユダヤ人たちも知っているのです。

 そこで主は言われるのです。彼らでさえ聖書において「神々」と呼ばれ、「神の子ら」と呼ばれている。ならば、わたしが自らを「神の子」と呼ぶことが、どうして冒涜になるのか、と主は反論しておられるのです。

 イエス様の言われることは、聖書の文字面だけを用いた屁理屈に聞こえなくもありません。先に申しましたように、実際には神でない者たちが神々と呼ばれているわけですし、およそ神の子らしからぬものたちが、皮肉を込めて「いと高き方の子ら」と呼ばれているわけですから。しかし、それだからこそ、ここでは重大なことが語られているように思うのです。

 詩編82編の悪しき支配者たちが「神の子ら」と呼ばれたら、それは彼らがやっていることを見れば、明らかに事実とは異なる皮肉なのです。しかし、イエス様のなさっていることを見る時に、「神の子」という言葉は皮肉になり得るのだろうか。もし詩編と同じように、神がこの御方に「あなたは神の子だ」と言われたなら、それは皮肉となり得るのだろうか。その言葉を、イエス様が自らに対して用いたとき、それは事実でないことを事実として語っていることになるのだろうか。それこそ彼らが考えなくてはならないことなのです。そして、これを読んでいる私たちもまた、考えなくてはならないことなのです。主は言われるのです。「父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。」

わたしの行う父の業を信じなさい
 だからこそ、主はこう続けられたのです。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」(37-38節)。

 実際、彼らはイエスが行う「父の業」を見てきたはずなのです。先にお読みしたように、イエス様の最初の問いはこれでした。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」聖書協会共同訳では「私は、父から出た多くの善い業をあなたがたに示してきた」となっています。こちらの方が直訳に近いのです。「父から出た多くの善い業」と主は言っておられるのです。これに対して彼らはこう答えています。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。」そのように、彼らは「善い業」については否定しないのです。またその業が、「父から出た」ということも否定していないのです。

 そんな彼らに「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい」と主は言われるのです。「そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう」。これに対して、彼らは反論しないのです。恐らく反論できなかった言った方がよいのでしょう。だから彼らはどうしたか。「そこでユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとした……」と書かれているのです。そのように彼らは、力づくで、イエスを抹殺しようとするのです。そして、その彼らの意図は、続く11章以降ではっきりしてくるのです。

 彼らはどうして石打ちにしようとしたのか。どうして捕らえようとしたのか。続く11章の終わりでは、イエスを抹殺するために最高法院が動き出すのです。どうして、そこまでして、イエスを消し去りたかったのでしょうか。「わたしと父とは一つである」と語ることが神に対する冒涜だからでしょうか。いいえ、そうではないのです。「わたしと父とは一つである」――このことが否定できなくなってきたからなのです。イエスが父の業、すなわち神からの業を行っていることが否定できなくなってきたからなのです。言い換えるならば、この御方を通して父なる神が語っておられること、行動しておられることが、否定できなくなってきたからなのです。

 それはある意味では恐ろしいことなのです。なぜなら、詩編82編に見るように、まことの神が語られるならば、「神々」は裁かれ、否定されることになるからなのです。

 この世の権力に限らず、何にせよ、すべては神から与えられ、託されているのでしょう。にもかかわらず、それを認めないで、あたかも自分に属するものであるかのように、好き勝手に用いているならば、それは神々として生きているのです。その意味では、あのユダヤ人たちも神々として生きていたのです。しかし、「父と一つである方」が語り出すならば、すなわち神が語り出すならば、「神々」は裁かれ、否定されることになる。要するに、イエスの言葉と行動によって、彼らの罪が明らかにされるということです。「父と一つである方」が来られたということは、いわばこの上ない明るい光が、恐ろしく近くにやってきたということなのです。光に照らされるなら、汚れた自分をも認めざるを得なくなるのです。

 そこでなおも、自分の罪を認めたくなければ、その光から逃げるか、光を消し去るしかありません。「わたしと父とは一つである」と言うことが神を冒涜することだから抹殺しようとしたのではないのです。そうではなくて、「わたしと父とは一つである」と主の言葉が真実であることが見えてきたから、神を冒涜したという罪状で抹殺しようとしたのです。そして、恐らく私たちがそこにいても同じことをしたのです。なぜなら、父と一つである御方の前では、私たちの罪もまた明らかならざるを得ないからです。

 しかし、彼らにせよ、私たちにせよ、人間はそのようなものであるからこそ、父の御業はここで終わらなかったのです。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。」イエス様が言われる「父の業」、神の子が行う「父の業」はいったいどこに向かっていたのか。――それは十字架へと向かっていたのです。父は神の子を通して、罪の贖いを成し遂げようとしておられたのです。

 さて、私たちは、最終的に罪の贖いとして成し遂げられる「父の業」、すなわち神の子としてのイエスの御業を既に知らされた者として、毎週、この礼拝の場書に集っているのです。今日もそのような者として、主がこう言われるのを聞いているのです。「もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」

 私たちは、父と一つであるキリストの御言葉に耳を傾けます。神のまばゆい光の前に身を置くときに、私たちの罪も明らかにされます。「あなたたちは神々なのか。」そんな声も聞こえてきます。神々であるならば、その罪は明らかにされます。しかし、私たちはもはや光から逃げる必要はありません。光を抹殺する必要もありません。「わたしは世の光である」(8:12)と言われた方は、世の罪、私たちの罪を照らし出す光でありますが、その御方はまた、私たちが暗闇の中を歩かないための導きの光でもあるのです。今週も、この御方に従ってまいりましょう。





2024年9月15日日曜日

「キリストのものとして、キリストに導かれて生きる」

ヨハネによる福音書 10:22‐30

あなたはメシアであるか
 12月、私たちがクリスマスを祝う頃、ユダヤ人たちは「ハヌカ」と呼ばれる祭りを祝います。ちょうど私たちがクリスマスにするように、彼らは飾り付けをし、キャンドルを灯し、祝福の歌をうたって祝います。現代では、子供にプレゼントをしたりするそうです。これは恐らくクリスマスの影響だと思いますが。

 さて、今日お読みしました福音書朗読は、ちょうどそのハヌカの祭りの時の話です。ちなみに、「ハヌカ」というのは、ヘブライ語で「奉献」という意味でありまして、今日の聖書箇所では「神殿奉献記念祭」と呼ばれています。

 実は、このハヌカの祭りは、過越祭や仮庵祭のように旧約聖書の中に定められている祭りではありません。歴史的には比較的新しい祭りです。新しいと言いましても、始まったのは今から二千年以上も前の話ですが。正確に言いますと、その祝いが始まったのは、紀元前164年のことでした。

 簡単にその顛末をお話ししますと、こういうことです。紀元前2世紀、シリアのアンティオコス四世は、支配下にある全域の人々が一つの民族となるように、おのおの自分の慣習を捨てるよう、勅令を発しました。いわば民族のアイデンティティを捨てさせたのです。その支配下にあったユダヤ人たちもまた、例えば子供に割礼をほどこすことが禁じられ、聖所において犠牲を捧げて自由に礼拝することを禁じられるということが起こりました。さらに、アンティオコス4世は、エルサレムの神殿にゼウスの偶像を設置し、律法の書を焼き払い、ユダヤ人が汚れた動物であるとしていた豚を礼拝のいけにえとして捧げさせるという暴挙に出たのです。王の勅令に逆らう者は、次々と処刑され、殺されていきました。その迫害は女性や子供にまで及んだのです。歴史に残る大迫害の時代でした。

 そのような中で、ついにハスモン家という祭司の一族の指導のもとに独立戦争が始まったのです。そして、最終的にユダ・マカバイという人物が率いる軍隊がシリア軍をやぶり、エルサレム神殿を奪回しました。紀元前164年のことでした。その年のキスレウの月(今日の12月ごろ)の25日に、ユダヤ人たちは、神殿から偶像を取り除いて清め、神殿を再び奉献したのです。そして、その日を記念して、ユダヤ人は年毎の祭日として祝うことにしたのです。これがハヌカの祭りの起源です。このように、ハヌカの祭りは、民族の解放と礼拝の自由の回復を記念する祭りだったのです。

 ですから、毎年巡ってまいりますこの祭りの時には、民族の独立への希望が大きく膨らんだであろうことは容易に想像できると思います。新約聖書の時代、ユダヤ人たちはローマ皇帝の支配下にあったのです。そのような人々がメシアを待望していたのです。そのメシアとは、かつてのユダ・マカバイのように、政治的に彼らを解放し、独立と自由を与えてくれるメシアに他なりませんでした。、

 そのようなわけで、今日の箇所においては、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」というのです。つまり、「あなたは本当に我々を解放してくれるメシアなのか、あのユダ・マカバイのように、ローマを倒してくれるメシアなのか。もしそうなら、はっきりそう言ってくれ。」――それは、「私たちが願っているとおり、事を起こしてくれ」ということでもあるのでしょう。

 そう言って、彼らはイエスを問いただしているわけですが、それに対して、イエス様はこう答えるのです。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない」。そうです、イエス様は既に天から来た、父のもとから来た、と語っておられるのです。ただ彼らが求めるようなメシアとしてではない。だからこう言われるのです。「あなたがたが信じないのはわたしの羊ではないからだ。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」。

 これは何を意味しているのでしょうか。イエス様を取り囲んでいる彼らには彼らなりの要求があるのです。メシアならばこうあるべきだ、という彼らなりの理解と考えがあるのです。それを持ってきて、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか」と迫っているのです。しかし、イエス様は、ご自分が彼らの求めを満たすメシアであるかどうかという前に、彼らがメシア、キリストの羊かどうかを問題にされるのです。彼らが信じないとするならば、それはイエス様の側の問題ではなく、彼らの問題だと言っているのです。

 あの時代のユダヤ人だけではありません。今日においても事情は同じです。人はいつでも勝手な要求をキリストにつきつけます。キリストが自分の願っているような存在なら受け入れもしよう、信じもしよう。あなたは私の期待に応えてくれるのか。私の願いをかなえてくれるのか。あなたは本当に私が考えているようなメシアなのか、私が求めているようなメシアなのか。人はそのように問うのです。

 しかし、そのような私たちにイエス様は問い返されるのです。「あなたは何者なのか。あなたは本当にわたしの羊であるのか」と問い返されるのです。どのような者であるかが問われているのは、イエス様ではなくて、私たちの方なのです。

あなたはメシアの羊であるか
 では、キリストの羊であるとはどのような者を意味するのでしょう。羊は羊飼いの声を聞き分けます。そして、その声を聞き逃すまいと耳を傾けます。その声の主である方についていきます。他の人の声にはついていきません。キリストの羊であるとはそういうことです。「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」(27節)と語られているとおりです。

 今から50年近く前、私が洗礼を受けて後、よく言われた言葉に「あなたはそれでもクリスチャンか」という厳しい言葉があります。ある時は家族から、ある時は友人から言われたものです。どうでしょう。皆さんにはそのような経験はありませんか。

 しかし、極論を言うようですが、もしこれが私たちの人格的な欠点や人間的な弱さを指して言われた言葉であるならば、少しも気にする必要はないと思います。なぜなら、私たちは人格的な完全さによってキリストの羊とされたのではないからです。「あなたはそれでもクリスチャンか」―「はい、それでもクリスチャンです。わたしはキリストの恵みと憐れみによって、キリストのものとされたキリストの羊です。」そう答えれば良いのです。変えられなくてはならない点があるならば、成長の過程において、キリストの手の内にあって、変えられていけばよいことです。

 しかしながら、もし同じ言葉が本質的な意味で言われたならば、それは心に留めなくてはならないと思います。つまり、「あなたは少しもキリストに耳を傾けようとしていないではないか。キリストについていこうとはしていないではないか。キリストから離れてしまっているではないか。キリストとは関係ない生活をしているではないか」―そのような意味で、「あなたはそれでもクリスチャンか」と言われたならば、その時には大いに悩み、悔い改めるべきだと思うのです。

 皆さん、イエス様についていくことを妨げるのは人間の弱さではないのです。むしろ、強さなのです。羊飼いなどなしでやっていける、羊飼いなどいらないと思ってしまう傲慢さなのです。あるいは、自分勝手な要求だけを突きつけて、その御声を聞こうとしない傲慢さなのです。

 「わたしの羊はわたしの声を聞き分けてついてくるのだ」とイエス様は言われます。そして、さらに主は言われます。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(28節)。もし私たちがキリストという羊飼いの羊であるならば、羊飼いは羊である私たちを全力で守ってくださいます。

 イエス様は、御自分の後についてくる羊に、永遠の命を与えてくださると言われます。それは何によっても失われることのない命です。それは死によってさえも奪われることのない命です。それゆえ、「彼らは決して滅びない」とイエス様は言われるのです。それは何者によってもキリストの手から奪われないということを意味します。死でさえも、キリストの手からその羊を奪うことはできないのです。

 この箇所を読みますときに、私は16世紀に書かれたハイデルベルク信仰問答という書物に書かれている、その第一問を思い起こします。そこにはこう書かれております。「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは何ですか。」あなたなら、どのように答えますか。「慰め」という日本語の語感はいくぶん弱々しいので、これを次のように言い換えてもよいでしょう。「生きている時も、死ぬ時も、あなたを最終的に支え得る助けとは何ですか。」もっと簡単に言うならば、「生きている時も、死ぬ時も、これさえあれば大丈夫と言えるものは何ですか」ということです。あなたにとってそれは一体何ですか、そのようなものを持っていますか、と問いかけているのです。

 「生きている時」だけではありません。「死ぬ時」にもです。財産ですか、能力ですか、家族ですか、友達ですか、それらはどれも大切なものであるには違いありません。しかし、それがあれば大丈夫なのでしょうか。死ぬ時でさえあなたに希望を与え、力を与え、支え得る最終的な助けとなるのでしょうか。この書物は、この重大な問いに対してこう答えるのです。「わたしが身も魂も、生きている時も死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであるということであります。」

 まさに、今日読みました箇所においてキリストが約束してくださっているのは、このことなのです。「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」そして「だれも父の手から奪うことはできない。」そのようにイエス様は言われるのです。

 私たちはただこの方の声に耳を傾け、この方に信頼してついていけばよいのです。そうです、キリストの羊とは、キリストの声に耳を傾け、キリストを遣わされた神の子、救い主として信じ、この方に信頼してついていく者です。実際、私たちはわが身ひとつどうすることもできないような者ではありませんか。しかし、大丈夫なのです。主がこう言われるからです。「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」と。

2024年9月8日日曜日

「誰について行きますか」

ヨハネによる福音書 10:1‐6

 今日の福音書朗読の最後には、こう語られていました。「イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」(6節)。ということで、イエス様はさらに言葉を加えられます。それが7節以下です。

 そこで直に聞いていた人々が理解できなかったのですから、ましてや時代も習慣も違う私たちが、このたとえの部分だけを聞いて、理解できるはずがありません。そこで私たちは、イエス様がさらに説明を加えた7節以下をも聞きながら、私たちへの主の語りかけに耳を傾けたいと思います。そこで特に重要なのは、イエス様が御自分についてなされた二つの宣言です。一つは7節にある「わたしは羊の門である」という言葉。もう一つは、11節にある「わたしは良い羊飼いである」という言葉です。キリストは、このたとえにおいて、門であると同時に羊飼でもあるのです。

門を通って来られる羊飼い
 ではこれらの宣言を念頭に置いて、もう一度、たとえ話を聞いてみましょう。イエス様は言われました。「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほかの者たちの声を知らないからである」(1‐5節)。

 ここに羊の囲いの話が出て来ます。朝になると羊は羊飼いによって囲いから導き出されます。そして、夜になるとこの囲いへと導き入れられ、安全に守られます。羊たちの一日は羊飼いと共にあります。羊飼いなくして、羊は一日たりと生きていくことができません。このたとえを聞いた人たちは、羊が羊飼いの声についていくことが、いかに大切なことであるかをよく知っています。イエス様は、御自分がそのような羊飼いであると言われたのです。わたしは良い羊飼いであると。

 「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す」と書かれていました。これが当時の習慣です。私たちから見たら、羊は皆同じに見えるかもしれません。しかし、羊飼いにとってはそうではありません。羊飼いにとって、そこにいるのは単なる「群れ」ではないのです。名前が付いている個々の羊なのです。

 14節にはこう書かれています。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。羊飼いが羊を「知っている」とは、羊とはどういうものであるかを知っている、という意味ではありません。名前をもって呼んでいる個々の羊を知っているということです。

 そして、その羊飼いは門を通って入ってくると書かれています。「門から入る者が羊飼いである」と。さて、ここでややこしいことが起こります。イエス様は、「わたしは羊の門である」とも言われるのですから。

 確かにややこしい話に思われます。しかし、実はここにいる私たちにとっては、とても単純な話なのです。これを聞いていたユダヤ人たちが知らないことを、私たちは既に知っているからです。それは何か。イエス・キリストは、私たちの罪の贖いのために十字架におかかりくださったということです。イエス様はやがて自分が十字架につけられるということを前提として、このたとえを語っておられるのです。ですからその後で「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」と言っているのです。

 そのように、キリストについて語られる時、それは必ず「十字架につけられたキリスト」です。そのキリストが言われるのです。「わたしは門である」と。ならばその門とはキリストの十字架に他なりません。羊飼いは門を通って羊のところに来るのです。羊は羊飼いを、「門を通って来られた羊飼い」として見るのです。私たちは、イエス・キリストという御方を、十字架を通って来られた御方として見るのです。

 先ほど、「羊飼いは羊を知っている」という話をしました。そのようにキリストは私たちを知っています。個々に名前を持った人間として、ここまで固有の人生を生きてきた人間として知っていてくださるのです。ということは、私たちの罪をも知っているということです。そのように私たちは知られているのです。しかし、私たちはそれでも安心して羊飼いについて行ける。なぜなら、イエス様は十字架を通って来られた御方だからです。私たちの罪の贖うために、十字架にかかってくださった御方だからです。

 そのように「門」は、羊飼いが通って来られた十字架の門ですから、それはまた羊たちにとっては救いの門でもあるわけです。羊である私たちは、イエス・キリストが成し遂げてくださった罪の贖いの十字架の門を通って救われるのです。9節にこう書かれているとおりです。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」と。

 「出入りする」というのは、ユダヤ的な表現で、生活することを意味します。羊の門は、羊の生活と共にあるのです。その門あってこそ、豊かな牧草にありつき、命に溢れて健やかに生きるのです。キリストの十字架を通って救われた者たちは、十字架と共に生活をするのです。十字架あってこそ、十字架による神の御赦しがあってこそ、私たちは真に羊飼いと共に生き、命へと導かれながら生きることができるのです。

他のところから入ってくる強盗
 しかし、近づいて来るのは、必ずしも良き羊飼いだけではありません。強盗もまた近づいて来るのです。このたとえはファリサイ派の人々に対して語られたのですから、この「盗人」や「強盗」は、明らかにファリサイ派の人々に関係しています。8節では「わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である」と言われています。そのように、既に存在するファリサイ派の教え、既に存在する戒律宗教、既に存在するエルサレムを中心とした宗教的権威、それらを指して主は「盗人」「強盗」であると言っているのです。

 しかし、強盗や盗人については特に「門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である」と言われています。ですので、それは確かに直接的には当時の宗教的権威のもとにある戒律宗教などを指していたわけですが、より広くは、要するに、十字架を必要としない救いの教えを指していると言うことができます。言い換えるならば、罪の赦しを必要としない救いの教えです。

 十字架を必要としない、罪の赦しを必要としない、とはどういうことでしょう。罪の赦しを必要としないためには、二つの選択肢しかありません。一つは、本当に赦される必要のない罪のない人間になることです。正しい人であることです。そのような正しい人であれば、罪の赦しは当然、必要ではありません。もう一つは、自分の罪を見ないようにすることです。実際に正しい人ではないとしても、臭いものには蓋をするように、自分の罪に対して目を閉ざし、見ないようにしているならば、罪の赦しが必要であるとは《感じなく》なるでしょう。

 さて、その二つの選択肢の第一のものは、真に神を信じて生きようとするときに、閉ざされていくことになります。人間の正しさが、人の前では通用しても、神の前では通用しないことが明らかになっていくからです。人に対しては「わたしは赦される必要などない」と言い得ても、神に対しては言えないことが分かってくるからです。神は光です。神様を信じるということは、強烈な光のもとに身をさらすようなものです。光にさらされるならば、汚いものは目に入ります。生活の中の様々な罪の問題も、はっきりと見えるようになってくるのです。

 そのように、第一の選択肢が閉ざされるならば、第二の選択肢しか残りません。実際には正しくない、罪のある者でありながら、なおも自分の罪には目を向けないで生きるというあり方です。それは光のもとにいては為しえないことです。生ける神に向いながら、罪には目を向けないで生きるということは原理的には不可能です。

 ならばどうしますか。神を遠ざけるしかありません。光を遠ざけるしかありません。光を遠ざけるならば、暗くなりますから、もはや自らの罪も見えなくなります。見る必要はなくなります。そのように光を遠ざけて、代わりのものを持ってくるのです。

 その時になお、宗教的であることを止めたくない人は何を持ってくるか。偶像を持ってくるのです。人を裁くことのない神様を持ってくるのです。向き合ってもこちら側が問われることのない神を持ってくるのです。そのような偶像も持ってきたくない人は何を持ってくるか。「律法」を持ってくるのです。生ける神様と真実に向き合い、神の御前に生きる代わりに、「律法」を持ってくるのです。何かを守ること。何かを行うこと。神の名によって形だけ何かを一生懸命に守ったり行ったりしていながら、本当の意味で神様とは向き合わない。そのような生き方ならば、自分の罪と向き合う必要もありません。

 しかし、そもそも光を遠ざけてしまっているのですから、そこには救いがありません。本当の命もありません。そのようなあり方は、本当の意味において人を生かさない。むしろ殺してしまうのです。だから強盗だと主は言われるのです。まさにイエス様の時代においては、ファリサイ派の教えが、祭司長たちの宗教的権威がそうでした。しかし、盗人や強盗は様々な形を取って私たちの人生にも入り込んでまいります。

 「わたしは良い羊飼いである」とイエス様は言われます。羊飼いは羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるために来てくださいました。羊飼いなるイエス様は、私たちを本当の意味で生かすことがおできになります。なぜなら、繰り返しますが、羊飼いなるイエス様は、門を通って来られた御方だからです。十字架を通って来られた御方だからです。

 「良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」と言われたイエス様は、本当に命を捨ててくださいました。私たちの罪の贖いのために。私たちに罪の赦しを得させるために。ですから、私たちはこの御方に知られていても、安心してこの御方について行くことができるのです。そして、この御方に導かれる時、もはや私たちは光を遠ざけて、暗闇の中に逃げ込む必要はないのです。他の何かを生ける神の代わりにする必要もないのです。イエス様と共に光の中を歩むことができるからです。私たちは、この御方の声に耳を傾けながら、これからもついていきましょう。


2024年9月1日日曜日

「真理によって与えられる自由」 

ヨハネによる福音書 8:31-36

 今日はヨハネによる福音書8章31節からお読みしました。その直前には、「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」(8:30)と書かれています。たいへん喜ばしい報告です。イエス様の伝道が実を結んだわけです。多くの人が信じた、というのですから。

 しかし、イエス様はその事を手放しで喜ぶことをなさいませんでした。今日お読みしたところにおいて、イエス様はこのように語っておられます。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(31‐32節)。わざわざ「御自分を信じたユダヤ人たちに言われた」と書かれていることに注意してください。信じた人です。信じない人ではありません。

 人がある時、ある過程を経てイエス様に出会い、イエス様を信じるに至る。イエス様を信じて洗礼を受ける。教会では「入信」と言いますが、それはそれとして素晴らしいことですし、大切なことでもあります。しかし、実はその先においてもっと大切なことがあるのです。「わたしの言葉にとどまるなら」とイエス様は言われるのです。大切なことは、イエス様の御言葉にとどまることであり、本当の弟子となることであり、真理によって自由にされることだと言うのです。

わたしの言葉にとどまるならば

 「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」とイエス様は言われました。イエス様は「とどまる」人を求められた。それが本当の弟子だ、と言われたのです。一時的に感動する人を求められたのではない。単に「信じる」という一つの決断を求められたのでもない。「とどまる」ことを求められたのです。

 この「とどまる」という言葉は、ヨハネによる福音書に繰り返し現れるキーワードです。これは継続的な結びつき、つながり、交わりを意味する言葉です。後になって同じ言葉が、ぶどうの木と枝のたとえの中に出てきます。「わたしにつながっていなさい」(15:4)と主は言われるのです。「つながる」「とどまる」――原語では同じ言葉です。枝が幹につながっているのは一時的なことではありません。枝と幹の関係。それが「とどまる」という言葉のイメージです。信仰生活は継続です。一時的な興奮でも、熱狂でもありません。キリストとの絶えざる交わりであり、結びつきです。信仰においてはいつも大事なのは「現在」です。継続があってこそ弟子なのです。

 また、イエス様は「わたしの言葉に」とどまるならば、と言われました。「言葉」にです。キリストとの交わりはキリストの御言葉を通して成り立つのです。ただ漠然とキリストを信じるのではなくて、ただ自分の信じたいように信じるのではなくて、イエス様の言葉にとどまるのです。私たちは耳を傾けることによって、そして御言葉を心に受け入れることによって、御言葉を心に宿すことによって、キリストとの交わりに留まるのです。ですから、教会はその礼拝においては「聴く」という要素を大切にしてきたのです。信仰者の生活の大事な要素として「聴く」ということを大切にしてきたのです。そのためにこそ、聖書は用いられ、開かれてきたのです。

罪を犯す者は罪の奴隷である
 さらに主は、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」と言われました。この「真理」、私たちを自由にする「真理」とは何かと問う前に、私たちはそもそも本当に自由になりたいと思っているかを問う必要があろうかと思います。どうでしょう。本当に自由になりたいと思っておられますか。

 イエス様の前にいたあのユダヤ人たちには、「自由になりたい」という切なる願いはなかったみたいです。彼らは言いました。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」彼らは確かにそう言っているのです。

 厳密に言うならば、ここでユダヤ人たちが口にしている言葉は正確ではありません。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません」と彼らは言うのですが、もとをたどれば、彼らはかつてエジプトにおける奴隷だったのです。また、ユダヤ人の長い歴史を見るならば、彼らは繰り返し超大国の支配下に置かれてきたのです。

 しかし、イエス様はそのような歴史的な事実を引き合いに出して、彼らに反論しようとはなさらないのです。イエス様はこう言われました。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」(34節)。人間を不自由になるのは、その人の置かれている環境によるのではなく、政治的な抑圧によるのでもなく、自分自身の罪によってなのだと言うのです。罪が人間を奴隷にする。罪が人間を不自由にする。そうイエス様は言われるのです。

 その意味するところは、その後に続くイエス様の激烈な言葉によって次第に明らかにされてまいります。自分は自由だと主張する人間の仮面がはぎ取られていくのです。今日はお読みしませんでしたが、39節以下においてユダヤ人たちは自分たちを「アブラハムの子」と呼んでいます。さらには自分たちの父は神であるとさえ言うのです。それがユダヤ人の自己理解でした。しかし、イエス様は言います。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである」(44節)。なんと激しい言葉でしょう。イエス様は彼らを「悪魔の子」と呼ぶのです。だから悪魔の望んでいることを行っているではないか。そのようにイエス様は言っておられるのです。

 悪魔は人殺しだとイエス様は言われます。人殺しという行為の根っこはどこにありますか。それは《憎しみ》にあるのです。「悪魔は人殺しだ」とは、要するに悪魔は憎しみと敵意の源だということです。殺人という行為は内にあるものが外に現れたものです。内にあるもの、それは憎しみです。「あんなやついなければよいのに」と心の中で呪うなら、それは言い換えるならば「死んだらいいのに」というのと同じです。それは存在そのものを否定することであり、条件がそろってそれが外に現れると殺人という行為になるのでしょう。まことにイエス様が言われるように、悪魔は憎しみと敵意の源であり、人殺しなのです。そしてさらに、悪魔は偽り者だと言われています。悪魔の内には真実がありません。悪魔はあらゆる偽りの源であり、偽り者の父なのです。

 イエス様の前に立っていたユダヤ人たちは言いました。「わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と。しかし、その心の内はどうだったでしょう。敵意と憎しみ、ねたみと偽りで満ちていました。イエス様は分かっておられるのです。どんなに外側を美しく見せていても、外側は繕うことができても、内側にあるものは悪いもの、汚れたものでいっぱいであることを。だから、人殺しであり偽り者である悪魔の望むことをあなたがたはしているではないか、そのことによって悪魔の子になっているではないか、とイエス様は言われるのです。

 罪を犯す者は罪の奴隷である。イエス様の言われることは、まさにその通りだと思います。そして、罪の奴隷となり悪魔の奴隷となるよりは、人間によって拘束されているほうがまだましかも知れません。肉体的に拘束されたとしても、心は自由であり得るからです。しかし、罪の奴隷となり悪魔の奴隷となるならば、心と生活そのものが束縛されることになるのです。私たちを本当の意味で不自由にするのは外的な束縛ではなく、私たちの内にある罪なのであり、罪をもたらす悪魔なのです。

真理はあなたたちを自由にする
 そして、私たちはその罪の力というもの、悪魔の力というものが、どれほど強大であるかを、本当はよく知っているのです。それは悪しき専制君主のようなものであって、時としてその力には全く抗い得ないような無力さを覚えることもあるのでしょう。何度も決心して抵抗を試みたとしても、結局はその軍門に降るしかない。そう思える時もあるのでしょう。

 しかし、そこでイエス様は言われるのです。「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」そうです。確かに主はそう言っておられるのです。「真理」とは「真実」とも訳せる言葉です。真理はキリストによって現された神の真実です。真実なる神の愛です。キリストの言葉が、そしてイエス・キリスト御自身が、私たちを愛し、私たちを赦し、私たちに永遠の命を与え、私たちを救おうとしておられる神の真実そのものなのです。

 それゆえ、「真理はあなたたちを自由にする」と言われたイエス様はさらに具体的に「だから、もし子(すなわちキリスト)があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」(36節)と言われるのです。キリストが私たちを罪から、悪魔から解放してくださると約束してくださるのです。

 ならば、私たちは絶望的な戦いを孤軍奮闘して戦い続けるのではありません。諦めて戦いを放棄し、罪の支配に身をゆだねる必要もありません。私たちが弱かったとしても、あの御方は弱くはないからです。重要なのは、私たちの決意でも私たちの努力でもありません。私たちの意志の力でもないのです。重要なのは、誰と共にいるのかということなのです。「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」と言ってくださる御方と共にいることなのです。主は言っておられましたでしょう。「わたしの言葉にとどまるならば」と。

 必要なのは日々主と共に歩む生活、キリストとの交わりにある生活です。必要なのは、キリストの言葉に留まることです。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」共に真の自由を求め、御言葉にとどまり、主と共に歩んでまいりましょう。


2024年8月18日日曜日

「イエスの前に連れて来られた人」

ヨハネによる福音書 8:1‐11

訴える口実を得るため
 今日の聖書箇所は、実に不自然な出来事から始まります。「イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。『先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか』」(1‐5節)。

 ここに書かれていますように、その女性は姦通の現場で捕らえられた人でした。人々がどのようにして現場を押さえたのか。よく分かりません。そもそも女だけが連れて来られること自体、不自然です。男の方はどうしたのでしょう。ともあれこの女が抵抗していないところを見ると、姦通の事実はあったのでしょう。

 しかし、通常、このようなケースを扱うのは「小サンヘドリン」と呼ばれる地方裁判所です。どうしてそちらに直接連れていかないのでしょう。なぜわざわざイエスのもとに連れてきたのでしょう。彼らは来て尋ねました。「あなたはどうお考えになりますか」と。教えを請うているのではありません。聖書は次のように説明しています。「イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである」(6節前半)。どうもはじめから、そのつもりで連れてきたようです。

 実際、律法学者たちが提示した質問は、実に考え抜かれ周到に準備されたものでした。イエス様が「モーセの律法にあるとおり、彼女を処刑しなさい」と言ったらどうなるでしょう。彼らはイエスを「訴える口実」を得ることになります。なぜなら、建前としては、死刑を執行する権限は支配者であるローマ人が持っていることになっているからです。後にピラトのもとにイエス様を連れて行った人々が「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」(18:31)と言っているとおりです。ですから、もしイエス様がモーセの律法に従って死刑にしなさいと言うならば、ローマの権威よりもモーセの権威の方が上にあると主張する者、すなわちローマの権力に反逆する者としてでっち上げることができるわけです。

 ではイエス様が「死刑にしてはいけない」と言うならば、どうなるでしょう。イエスをあからさまにモーセの律法を否定する者として攻撃することができるでしょう。モーセの律法に背くことを公然と教える教師として訴えることもできる。いずれにせよ、イエス様は困ることになるわけです。

 そのように律法学者たちが「イエスを試して、訴える口実を得るために」利用したのが、この女性でした。この人は彼らの悪巧みのために利用されて、公衆の真ん中に引き立てられて恥を晒すことになりました。姦淫の現場を押さえられたこと、しかも、それを利用されたこと、それはある意味では、まことに不運であったとも言えるでしょう。

 しかし、私たちはここで一つの大切なことを見落としてはなりません。それはいかなる経緯にせよ、ともかく彼女はイエス様と共にいるという事実です。この人はイエスに全く興味も関心もなかったかもしれません。しかし、ともかく強制的に主の御前に連れてこられたのです。ならばそれは決して不幸なことではありません。それは神が備えてくださった悔い改めへの招きであり、救い主に出会う機会であったのです。恥ずかしく惨めな思いをしたかもしれません。しかし、この物語の中で、ただ一人だけキリストの恵みに触れているのはこの人なのです。

わたしもあなたを罪に定めない
 さて、物語は次のように続きます。「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた」(6後半‐8節)。すると、どうなったか。「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(10節)。このような展開となるのです。

 「罪無き者、まず石を投げよ」と言われたら誰も石を投げられなかった、というのは自然な展開のように見えます。しかし、ここで私たちは状況をよく考えねばなりません。ファリサイ派などの敬虔なユダヤ人の中には、「幼い時より律法は守ってきました」という自負を持っていた人は少なくなかったのです。人間皆が罪人であるというのは、必ずしも共通の認識ではありませんでした。

 もし「わたしは正しく生きてきました」という人が一人でもいて、その人が最初の石を投げたらどうなったでしょう。石打ちの刑には執行の仕方があります。証人が最初の石を投げます(申命記17:7)。それが合図となって皆が石を投げるのです。誰かが主の言葉に従って最初の石を投げたなら、他の人々もいっせいに石を投げ始めたことでしょう。そして、その場はたちまち凄惨な血の海と化したに違いありません。その結果、律法学者たちの目論みどおり、イエスがこの出来事を先導したのだと訴えたに違いありません。そのようなことは、十分に起こり得ることだったのです。

 ですから、この場面に描かれているのは自然な展開だと思わない方が良いのです。不自然な特別なことが起こっているのです。それはイエスという御方の前だからこそ起こった出来事なのです。

 つまり、イエスという御方とその言葉の前に置かれる時、自分は正しいと言い続けてきた人が、そう言えなくなるのです。真実な愛と清さの前に置かれる時、自分の罪と汚れを認識せざるを得なくなるのです。この御方の前では、表向きだけ繕った信心深さなど、何の意味もなくなるのです。ナザレのイエスという御方は、当時のユダヤ人社会においてそのような存在であったし、今日の私たちにとってもやはりそのような存在なのです。「神は光であり、神には闇が全くない」(1ヨハネ1:5)と書かれているように、イエス様という御方は、人間存在の隅々まで照らし出す神の光そのものなのです。

 そのような光に照らされて、主の前から、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去っていきました。このように、明るく照らし出す光に対する人間の反応は、第一には《逃避》です。そこから逃げ出すのです。この場面はそのような人間のあり方を示しています。そして、第二の反応は《敵意》です。光によって照らし出されるのが嫌ならば、イエスを抹殺して光を消してしまうしかないのです。福音書を読み進む時、私たちはそのような人間の姿をも見ることになるのです。

 しかし、聖書はなんと言っているでしょう。そこには逃げなかった一人の人がいたと言うのです。訴えられていたその女性です。皆が去って行ったのですから、彼女も立ち去ることはいくらでもできたはずです。訴える人々がいなくなって災いは回避されました。彼女の身に及んでいた危機は過ぎ去りつつあります。苦しみから逃れることが救いであるならば、まさにそこから立ち去ることが、彼女の救いとなったはずでした。しかし、彼女は立ち去らなかったのです。

 「イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(9節)と書かれています。イエス様は問われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」彼女は答えます。「主よ、だれも」と。そのように、誰も彼女を罪に定めることはできませんでした。いや、一人もいなかったわけではありません。そこに一人だけおられたのです。それはイエス御自身です。真に正しい御方、真に清い御方、父なる神と一つであり、罪なき御方。「罪無き者、まず石を投げよ」と主は言われましたが、その石を投げることのできる唯一の御方がそこにおられたのです。そして、彼女を罪に定めることのできる唯一の御方がこう言われたのです。――「わたしもあなたを罪に定めない。」

 こうして、裁かれるべき罪人が、その罪を赦され、再び生きることを許されました。彼女は確かにその言葉を聞いたのです。救いはただ苦しみを免れるところにあるのではありません。ただ危機から逃れられるところにあるのではありません。そうではなく、キリストによって罪を赦されるところにこそ、真の救いはあるのです。

 どうしてこの人だけが主の赦しの言葉、救いの言葉を聞くことができたのでしょう。それは彼女がイエスのもとに留まったからです。主の光に照らされた一人の罪人として、救い主のもとに、光の中に、留まったからなのです。

もう罪を犯してはならない
 そして、最後に一つのことを申し上げて終わりたいと思います。今日の聖書箇所をお読みになった時、この部分が括弧で囲まれていることに気づかれたことでしょう。結論から申しますと、この部分は本来のヨハネによる福音書の一部ではなく、別に伝承された古い物語なのです。この物語は多くの写本には欠落しています。またある写本ではヨハネによる福音書の最後に付録のように置かれています。また別の写本ではルカによる福音書の中にこの物語が置かれています。これはそのような物語なのです。

 しかし、そのようにヨハネによる福音書とは全く別に伝えられた物語が、何百年かするうちに、この福音書の中に入れられて読まれるようになりました。イエス様が十字架へと向かわれる旅路の途中に、この場面は置かれたのです。そして、そこには大きな意味があると思うのです。

 「わたしもあなたを罪に定めない」とイエス様は言われました。しかし、そのように言われた主はまた、洗礼者ヨハネが語ったように、「世の罪を取り除く神の小羊」(1:29)に他なりませんでした。この御方は、罪を贖う犠牲として屠られるために十字架へと向かっておられたのです。やがて十字架にかかられる御方が、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたのです。すなわち、この言葉はキリストの命の重さをもった言葉なのです。決して安っぽい恵みとして聞いてはならない言葉なのです。

 ですから、私たちはその後に語られた言葉をも一緒に受けとめねばならないのです。主は彼女にこう言われたのでした。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(11節)。真にキリストの赦しの言葉に出会った者は、キリストの命の重さをもった恵みに応えて生きる者となるのです。恵みによって、そこから立ち上がり、神と共に生きる新しい人生へと歩み出すのです。

2024年7月28日日曜日

「天から降って来た命のパン」

ヨハネによる福音書 6:41-59

つぶやいていた人々
 今日の福音書朗読は、ユダヤ人たちがぶつぶつ言っている場面から始まりました。「ユダヤ人たちは、イエスが『わたしは天から降って来たパンである』と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。『これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、「わたしは天から降って来た」などと言うのか』」(41‐42節)。彼らが問題にしているイエス様が「わたしは天から降って来たパンである」と言われたというくだりは、その前に書かれています。

 今日お読みした箇所は、話としては6章の始めから続いています。場所は59節に書かれているようにカファルナウムです。ちなみに、カファルナウムに渡って来たのはイエスと弟子たちだけではありません。イエスを捜し求めて大勢の群衆が追いかけてきたのです。追いかけてきたのは、彼らがある奇跡的な出来事を目撃したからです。奇跡の話は6章のはじめに書かれています。イエス様が五つのパンと二匹の魚を手に取り、感謝の祈りを捧げて人々に分けられると、大群衆が食べて満腹したという話です。

 もちろん、彼らは単にもう一度満腹したいと思って追いかけてきたわけではありません。彼らはイエスの計り知れない力を目の当たりにして、イエスを自分たちの王にしようとしたのです。それは彼らを支配しているローマからの独立を果たすためでした。彼らはローマ人の支配から彼らを解放してくれる政治的なメシアを求めたのです。そのようにイエスを追い求めてカファルナウムまでやってきた人々に対して、今日お読みした言葉は語られているのです。

 彼らは「わたしは天から降って来た」というイエス様の言葉につまずきました。ぶつぶつ言い始めた。その一つの理由は、彼らがイエスの父母を知っていたことにありました。もちろん群衆の全員がイエスの両親を知っていたわけではないでしょう。しかし、知っていた人からすれば、人間から生まれてごく普通の家庭で育てられていた人が、「わたしは天から降って来た」と主張している事自体、受け入れがたいことだったに違いありません。

 しかし、彼らがつぶやいたことは、もう一つのことをも示しています。すなわち、彼らはもともと彼らの救いのために、誰かが「天から降ってくること」など求めてはいなかった、ということです。べつに天から降って来なくても良いのです。あのモーセやエリヤのように、神の力を発揮して、人々を救うことのできる人間で十分なのです。天のことはこの際どうでもよいのです。地上のことで十分なのです。ローマ人から解放されて、ユダヤ人としての誇りが回復し、生活も楽になり、安心して宗教的な生活が送れればそれでよいのです。

 そのような彼らにイエス様はこう言われたのです。今日の朗読箇所の直前にはこう書かれています。「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(38‐40節)。

 「永遠の命を得る」にしても「終わり日に復活させる」にしても、それは神による最終的な完全な救いを意味します。神との交わりに入れられ、神と共に生き、最終的に神によって完全に救われること。永遠の命。終わりの日の復活。確かに、ユダヤ人の世界ではお馴染みの言葉でした。しかし、実際には人々はそのような救いを求めていたわけではないのです。今必要な助けが与えられること。今、解放されること。彼らの必要を満たすことができるなら、その救い主は、別に天から降って来なくてもよいのです。偉大な指導者で十分なのです。

 そのように、イエス様が与えようとしているものと、人々が求めているものには、明らかに食い違いがありました。その食い違いは、今日の教会においても起こっているかもしれません。ある人は心の安らぎを求めて教会に来るかもしれません。ある人は日常生活や仕事に少しでも役立つことを聞こうと、教会に来るかもしれません。ある人は人々との出会いや仲間との交わりの時間を求めて教会に来るかもしれません。ある人は、教会がこの世において少しでも役に立つ存在であることを期待するかもしれません。しかし、そこで出会うのは、例えばイエス様のこんな言葉であるわけです。「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(54節)。

天から降って来たパンを食べる
 そのように、私たちが今抱いている自分の求めや願いを中心に持ってきて、そこからイエス様の言葉を聞こうとするならば、時としてイエス様の語られる言葉は期待はずれに聞こえるかもしれません。彼らにとっても、イエス様からそのような言葉を聞くことは、恐らく期待していなかったに違いないのです。だから、彼らはつぶやき始めたのです。

 しかし、そこで私たちは考えたいと思うのです。私たちが自分の求めや願い、自分の考えがまずあって、それを基準としてイエス様の言葉を判断するということは正しいことなのか。そうではないでしょう。むしろ本来は逆であるはずなのです。すなわち、イエス様の御言葉を基準として、私たちの求めや願望、私たちの考えていることが、逆に問い直されねばならない。今日の聖書箇所においては、むしろ私たちの側が問われているのです。私たちはいったい信仰生活において何を大事なこととして考え、何を求めているのか。そして、それでよいのか。そのことが、主の御言葉を前にして問われているのです。

 人間にとって最も重要なのは神との関係なのです。永遠の命も、終わりの日の復活も、最終的な救いも、すべてはそこにかかっているのです。問題がこの世のことではなく神との関係であるならば、それは人間にはどうすることもできないのです。私たち自身の罪が、神との関係を妨げるからです。旧約聖書におけるアダムとエバの物語が語っているように、人間は神の顔を避けて園の木の間に隠れざるを得ない者だからです。 ならば、救いは神から来なくてはならないのです。天から来なくてはならない。私たちには天から降って来る救い主が必要なのです。

 そして、その救い主は確かに天から来られたのです。その救い主は天から来られて、全ての人の罪を代わりに負って十字架にかかられて死なれたのです。そのようにして、私たちと神とを隔てる私たちの罪を取り除いてくださったのです。天から降って来られた方が、私たち人間の為しえないことを成し遂げてくださったのです。キリストは、私たちが神によって罪を赦されて、神と共に生きることができるように、御自身を献げてくださったのです。

 そのことを表現しているのが「わたしは天から降って来たパンである」という言葉なのです。それが今日の聖書箇所においては、さらに「肉と血」という言葉で表現されています。この言葉のほうが、より一層リアルにキリストの十字架を指し示していると言えます。まさにキリストは私たちの救いのために、十字架においてその肉を与え、血を私たちのために流してくださったのです。

 そのようにイエス様は私たちの救いのために命を献げてくださいました。だからこそ主はこう言われるのです。「イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」(53‐57節)。

 そのようにキリストは私たちのためのキリストとなってくださいました。私たちが赦され、神との交わりに入れられ、永遠の命を得、最終的に完全な救いに与ることができるために、御自分を私たちに与えてくださいました。

 しかし、パンは食べられてこそ初めてパンとしての意味を持つのです。肉と血についても、食べられてこそ意味があるのです。「食べる」という言葉によって表現されているのは、「信仰」です。信じて受け入れることです。ならばなぜ「信じる」ことについて語らず、あえて「食べる」という話にしたのでしょう。少なくともひとつ言えることは、「信じること」と「食べること」は良く似ているということです。食べたり飲んだりすることは、信仰の本質を良く表していると言えるのです。

 私たちは誰かの代わりに食べるということはできません。自らそれを受け取り、口に運び、かみ砕いて飲み込まなくてはなりません。食べ物は自分のための食べ物として自分で食べるのです。そのように、信仰においても、他ならぬ私が信じるのです。誰かが代わりに信じることはできません。さらに言うならば、53節の「食べる」にしても「飲む」にしても、一回のことではなくて、継続を表す表現で書かれています。「食べ続ける」「飲み続ける」ということです。

 誰かの代わりに食べつつけることはできません。生きるためには、本人が食べ続けなくてはならないのです。それは、信仰における神との関係というものが、最終的にはその人自身が問われる極めて厳粛なことであるということでもあります。他の人を問題にすることはできない。最終的には本人が食べたか、食べ続けたか、すなわち、本人が信じたか、信じ続けたか、それだけが問われるのです。

 キリストは天から降って来た命のパンとなってくださいました。また、主は「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」と言ってくださいました。そして、私たちは今日も洗礼の泉のもとに、聖餐の食卓のもとにこうして集められております。私たちが神の恵みを軽んじない限り、私たちが永遠の命を与えるまことの食べ物、まことの飲み物を失うことはありません。永遠の救いは備えられています。しかし、食べるのは、食べ続けるのは、私たち自身がすることです。

2024年7月7日日曜日

「死から命へ」

ヨハネによる福音書 5:19-30

自分を殺そうとしている人々に対して
 今日は5章の途中からお読みしましたが、この章の始めの部分には38年病気で苦しんでいた人をイエス様が癒されたという話が書かれています。しかし、それはユダヤ人の戒律においては労働が禁じられている安息日のことでした。病人を癒すことは、当然、禁じられている労働を行ったと見なされます。それゆえにユダヤ人たちはイエス様を責めたのです。

 すると主はこのように言われました。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」(17節)。「わたしの父」とは神を指していることは明らかです。ユダヤ人の社会においてここういうことを言えば、ただでは済まされません。今日の箇所の直前にはこう書かれています。「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである」(18節)。

 今日の聖書箇所は、そのような理由で、殺意さえ抱いている人々に語られたイエス様の言葉です。主はこう続けます。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」(19節)。彼らにこんなことを語れば、火に油を注ぐことになるのは明らかです。しかし、イエス様は御自分の身を危険にさらすことになるのを百も承知でこう言われるのです。憎まれようが殺されようが、あくまでも父がこの世に遣わされた神の子として語られるのです。なぜなら、これは永遠の救いと裁きに関わることだからです。私たちはイエス様が自らの命を賭して、いったい何を語ろうとしたのか、真剣に耳を傾けなくてはなりません。

父を知りたければ子を見なさい
 主は言われました。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである」(19-20節)。これが父なる神と御子なるイエス様との関係だと主は言われるのです。

 神は目に見えません。それは単に肉眼で見えないというだけでなく、神を知ることはできない、ということでもあります。神御自身についても、神のなさることについても、それは私たちの理解を超えているからです。そして、それは当然のことなのです。神は創造主であり私たちは造られたものに過ぎないからです。

 しかし、ここに神を「わたしの父」と呼ばれる方がおられるのです。そして、「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」と言うのです。それは何を意味していますか。イエス様がなさっていることはすべて、父である神がどのような方であるかを、目に見える姿で表しているのだということです。「父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」。いわば、神がどのような方かを知りたければ、わたしのしていることを見なさい、と主は言っておられるのです。

 先にも触れましたように、この章の始めの部分には、38年もの長きにわたって病んでいた人を主が癒されたという話が書かれています。そこにはこう書かれていました。「さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた」(5‐6節)。 そして、その人は癒されました。

 これは、大勢の病人の中のたった一人に対してなさったことに過ぎません。しかし、この行為もまた、主が言われるように、父なる神がどのような方であるかを表しているのです。神は人間の苦しみを見て、知って、その上で関わってくださる。「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする」。福音書はイエス様の言葉だけでなく、その生きる姿を伝えます。その御子の姿を通して私たちは父なる神を知るのです。

 そのように「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示される」。イエス様は示されたとおりになさいました。ベトザタの池における癒しの業などは、まさにそのような御業の一つでした。しかし、父なる神がイエス様にさせようとしていたのは、そのような癒しの業に留まりませんでした。イエス様はこのように言葉を続けられます。「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる」(20節)。

死から命へと移っている
 イエス様が父なる神から示されて為されるもっと大きな御業があると言うのです。癒しの業はそのしるしであるに過ぎません。イエス様が託された大きな御業とは何でしょうか。21節以下には2つのことが書かれています。「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」(21節)。これが第一のことです。第二は次のように書かれています。「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」(22節)。

 第一の御業、「命を与える」ということについては、24節以下においてイエス様御自身が次のように語っておられます。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる」(24‐25節)。

 さて、ここで語られている「死」とは、明らかに、すべての人に例外なく訪れる肉体的な「死」のことではなさそうです。いったい「死」とは何でしょう。

 ある時にイエス様はこんなたとえ話をなさいました。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった」(ルカ15:11‐12)。下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ちます。ご存じ「放蕩息子のたとえ」です。しかし、本当の問題は息子が放蕩していたことではありません。父から離れていたことです。そして、父から離れていた息子が帰ってきたとき、迎えた父親はこう言うのです。「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」(同23‐24節)。

 息子は生きて帰って来たのですから、その意味では息子は死んではいませんでした。しかし、父との関係においては「死んでいた」のです。父にとっては、父から離れていた息子は「死んでいた」のです。イエス様のたとえ話が語っているのは神と人との関係です。聖書が語る「死」とは、神によって造られた人間がその命の源である神から離れていることです。神との交わりの喪失です。ならば、体は生きているけれども霊的には死んでいるということがあり得るわけです。パウロもエフェソの信徒たちに宛てて次のように書いています。「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいたのです」(エフェソ2:1)。

 イエス様に癒された病人のように、奇跡的な癒しを経験することは喜ばしいことではあります。しかし、癒された人もやがては肉体的には死んでいくわけです。癒しそのものは死を越えた命を与えるものではありません。イエス様は「命を与える」と言われたのです。それは永遠なる神との交わりによって与えられる命です。死によって失われない命、永遠の命です。

 「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」そう主は言われました。

 神の子の声が響いています。今もなおこの世界に響き渡っています。十字架にかけられ、死んで復活された神の子の声が響き渡っています。その声が死んだ者に届きます。罪の赦しを与え、父のもとへと招く声として、神の子の声が届きます。そして、その声を聞いた者は生きるのです。その声を聞いて、子を遣わされた父を信じる者は永遠の命を得るのです。その人は既に死から命へと移っているのです。体が生きようが死のうが、既に死から命へと移っているのです。

 「死から命へと移っている」ことについては、そこに「裁かれることなく」と言い添えられていました。なぜ、裁かれないのでしょうか。裁きは一切子であるキリストに任されているからです。主が第二の御業としてこう言っておられたとおりです。「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」。

 ある人が「人生はレストランのようなものだ」と言いました。好きなものを好きなだけ注文することができる。しかし、やがてレジを通らなくてはならない。私たちはどう生きようと自由である。しかし、生きたように支払わなくてはならない。――それは正しいとも言えるし、正しくないとも言えます。人生の終わりをレジに喩えるなら、それは正しくありません。人は必ずしも自分が生きたように、そのツケを払って死んでいくわけではありません。人生の終わりは必ずしも審判の時ではありません。

 しかし、正しい神がおられる限り、最終的な審判は当然あるのでしょう。それをイエス様は次のように表現しています。「善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ」(29節)。イエス様ははっきりと言っています。人は死んで無になるのではない。私たちの人生は、死んですべてがチャラになるわけではありません。イエス様は、最終的に人は命を受けるか裁きを受けるかのいずれかだと言われるのです。しかし、そこでイエス様はこう言われるのです。「また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」。

 イエス様は、御自分が裁きの一切を任されたのだと言われるのです。そして、最終的に裁きを行う権能を託された方がこう言われるのです。「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている」と。

 私たちは最終的な審判に至る前に、既に審判者の声を聞いているのです。神の子の声を聞いているのです。救いへの招きを聞いているのです。それゆえに、どのような人であっても、信じて父なる神に立ち帰るならば、神と和解し、神との交わりに生きることができるのです。最終的に裁きを行う方が「裁かれることはない」と言われるならば、もはや誰も罪に定めることはできません。自分の罪を知る自分自身でさえ、自分を罪に定めることはできないのです。最後の審判を待つまでもなく、既に死から命に移っているとはそういうことです。私たちはその恵みの中にいるのです。

2024年6月30日日曜日

「御言葉を信じ、信じたように生きる」

ヨハネによる福音書 4:46-54

 今日の聖書箇所には、「王の役人」と呼ばれる人が登場します(46節)。領主ヘロデ・アンティパスに直接仕えていた有力な高官のようです。また、彼が経済的にも裕福であったことは、後に「僕たち」が彼を迎えに来ることからも分かります。

 そのような「王の役人」が、直線距離でも30キロは離れているカファルナウムからはるばるイエスのいるカナまで自ら旅をしてきたのです。しかも、ユダヤ人当局から危険視され始めていたイエスのもとに来て、見栄もプライドも、己の立場もかなぐり捨てて、すがりつくようにして助けを求めているのです。なぜでしょうか。彼の権力をもってしても、彼の持てる富をもってしても、どうすることもできないことによって、彼の人生が根底から揺さぶられていたからです。

 この「王の役人」の人生をそこまで揺るがしたのは、子供の病気というたった一つの出来事でした。その時、彼が持っているものは何一つ、彼を支えることはできなかったのです。実際、「王の役人」に限らず、人間がその人生の土台としているものは何ともろいものかと思います。たった一つの病、たった一つの失敗、たった一つの事件、いやそれどころか、誰かが偶然発したたった一言の言葉によってさえ、揺さぶられ、もろくも崩れていくということが起こります。

 しかし、人生の土台が大きく揺らいだ時に、救い主のもとに赴いたことは、彼にとって実に幸いなことでした。そこにおいて、神との出会いを経験することになったからです。「人間のピンチは神のチャンスである」と言われます。揺らいだ時こそ、揺るぎない御方に出会い、その御方を知るチャンスでもあるのです。

奇跡を見て信じた人々
 この出会いが起こった背景をまず見ておきましょう。今日の箇所の少し前を見ますと、「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた」(43節)と書かれています。イエス様はそれまでいたユダヤを去って、故郷のガリラヤへと向われたのです。しかし、奇妙なことに、その続きはこう書かれているのです。「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある」(44節)。

 翻訳では分からないのですが、実は、原文には「なぜなら」という言葉があるのです。それが理由だということです。つまりイエス様はそこでは御自分が敬われないであろうことを予期しながら、それだからこそ、あえて故郷に行かれた、ということなのです。

 それはなぜなのか。――イエス様が王の役人に語った言葉から見えてくることがあります。主は言われました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)。このようなことが語られるということは、もう一方において、《しるしや不思議な業を見たから》信じた人が少なからずいたということを意味します。

 実は既に2章にこう書かれているのです。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」(2:23)。多くの人がイエス様を信じたのです。それは喜ばしいことではないでしょうか。しかし、聖書はこう続けるのです。「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それはすべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(同24‐25節)。

 イエス様のなさったしるし、不思議な業、奇跡を見て信じた人たちがいた。具体的には病気の癒しなどでしょう。しかし、奇跡を見て信じた人々の心の内に何があるかをイエス様はご存じだったというのです。「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」。すなわち、人々が求めているのは奇跡なのであって神ではないこと。奇跡を起こすイエスの力を求めているのであって、イエスを遣わされた父なる神を求めているわけではないし、キリストを通して語られる神の言葉を求めているわけでもないこと。主は人間の心の中にあることをご存じだったのです。

 ある人々は病気を癒すイエスの力を求めてきました。ある人々は彼らを政治的にローマの支配から解放してくれるイエスの力を求めてきました。後にイエスを王にしようとする人たちまで出てきます。ならば、彼らが求めているものが与えられなければ、どうなるのか。期待どおりにならなければ、やがては「十字架につけよ」と叫び出すことにもなるのです。主は人間の心の中にあることをご存じでした。

 だからこそ、そのような人間的な歓迎と熱狂が拡大することを望まれなかったのです。だからそのような人々を避けて、むしろ歓迎を期待できない故郷へと向かったのです。むしろ歓迎されないことの方がはるかに望ましかったということです。

 しかし、予想に反して、ガリラヤの人々はイエスを歓迎しました。なぜか。こう書かれています。「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」(45節)。

 残念ながら、ここにも奇跡を見て信じた人々がたくさんいたのです。そして、イエス様のしるしと奇跡を期待して待っていたのです。これが本日の聖書箇所が記している場面であり、その背景です。そこにおいて、先ほど申し上げました宮廷の高官とイエス様との出会いが起こったのです。

御言葉を信じて帰って行った
 47節からお読みします。「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた」(47‐48節)。

 この人は必死でした。しかし、イエス様のもとに来たその心の内にあったものは、基本的にはユダヤにおいて「奇跡を見て信じた」人々となんら変わるものではありませんでした。彼はイエス様が病気を癒してくださる方だということを聞いたのでしょう。だから、その癒しの力が必要だと思った。病気である彼の息子にその癒しの奇跡が必要だと思ったのです。

 確かに彼の息子には癒しが必要なのでしょう。息子のためには、イエスの癒しの力が必要なのでしょう。しかし、彼は重大なことを見落としています。それは、救いを必要としているのは息子ではなく、自分自身なのだ、という事実です。人生が根底から揺さぶられているのはこの父親自身なのです。たった一つの出来事で容易に崩れてしまうような人生の土台しか持っていないことを突きつけられているのは彼自身なのです。死という現実を目の前にした時に、死を越えた真の拠り所がないままに生きてきたのだという事実と直面しているのは、実は彼自身なのです。彼に本当に必要なのは、目の前の個々の問題の解決ではなくて、神御自身なのだということに彼は気づいていないのです。

 そう、この役人は気づいていません。だから、イエス様が「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と問題を指摘しても、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と願うのです。彼はなおもイエスの持っている癒しの力を息子のために求めます。そのような父親にイエス様はこう言われたのでした。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(50節)。

 イエス様はその父親に「信じる」ということを求めました。イエス様の御言葉を信じることを求めたのです。御言葉を信じるということは、イエス様御自身を信じるということでもあります。それはイエス様を父なる神から遣わされた御方として信じることでもあります。それは遣わしてくださった父を信じることでもあります。そのように先の見えない現実について、それでもなお、神とキリストとその御言葉に全幅の信頼を置くことを求めたのです。

 そして、イエス様はただ信じることだけでなく、信じたように行動することを求めました。信じたのなら、そこから立ち上がって実際に一歩を踏み出さねばなりません。主は言われます。「帰りなさい」と。「あなたの息子は生きる」と言われる主を信じるなら、彼は立ち上がって、家路につかなくてはならないのです。すなわち、カファルナウムに向かって一歩を踏み出さなくてはならないのです。

 彼はどうしたでしょうか。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(50節)と書かれています。そして、奇跡が起こりました。息子は癒されました。いや主が語られた時に、既に癒されていたのです。そうです、奇跡は起こります。しかし彼は、ただ必死で奇跡を求め、癒しをもたらす力を求めて、それを得たのではありません。信頼すべき御方とその御言葉に信頼して行動したときに、実際にそのように生きたときに、結果として彼は神の御業を見ることになったのです。

 だから、息子が癒されて、「ああ、よかった」で終わりませんでした。また、ただ次なる奇跡や癒しを求めるようになったのでもありませんでした。そうではなく、この出来事はまさに彼にとっても、また家族にとっても、本当の意味で「しるし」となったのです。

 「しるし」いうのは、それ自体が重要なのではなく、重要なことを指し示すものなのです。すなわち、神がイエス・キリストを遣わされたこと。神がイエス・キリストを通して語っておられること。神がイエス・キリストを通して御自分との信頼に満ちた交わりへと招いてくださっていること。イエス・キリストによって永遠の命を与えようとしておられること。――王の役人に起こった出来事は、まさに神の限りない愛と御救いを指し示す「しるし」となりました。それゆえに、このエピソードは次のように締めくくられているのです。「これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである」と。

 そして、この「しるし」が伝えられたのは、後の教会のためでもあり、ここにいる私たちのためでもあります。イエス様は私たちにも、御自身とその御言葉を信じるようにと、そして、信じた者として、信じたように生きることを求めておられるのです。




2024年6月23日日曜日

「イエスの食べ物」

ヨハネによる福音書 4:27-42

イエスの食べ物
 本日の福音書朗読は、先週の続きです。先週、私たちは、イエス様とサマリアの女との対話をお読みしました。この間、弟子たちは食べ物を買うために町に行っていました。今日の箇所はその弟子たちが戻ってきたところからです。「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と言う者はいなかった」(27節)。

 ユダヤ教のラビでしたら、同じユダヤ人であったとしても、外で女性と話をするなどということはまずしなかった。そんな時代の話です。まして、ユダヤ人と仲の悪いサマリア人の女性と話をしていたのですから、弟子たちが驚いたのも無理はありません。

 しかし、「何をこの人と話しておられるのですか」と聞く者はいませんでした。そこには軽々しく踏み込めない厳粛な空気が満ちていたからでしょう。それは既に見てきた対話から分かります。「水を飲ませてください」から始まった対話は、人間の根源的な命の渇きに関わる対話となっていったからです。そして、ついには主が「それ(すなわちキリストと呼ばれるメシア)は、あなたと話をしているこのわたしである」というメシア宣言にまで至ったのです。

 弟子たちの驚きをよそに、女は町へと出て行きました。そして、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と語り出したというのです。人目を避けて正午頃に水を汲みにきたその人だったはずです。人々に触れて欲しくないことがあったからです。しかし、その「わたしが行ったこと」について彼女自らが語り始めたのです。そのようにして、彼女はキリストを指し示すのです。「見に来てください・・・もしかしたらメシアかもしれません」と。

 31節には「その間に」と書かれています。サマリアの女が町に行き、キリストを証ししていた間の話です。弟子たちは、その女性のことには触れないで、すぐに買ってきた食べ物をイエス様に差し出しました。するとイエス様はこう言われたのです。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(32節)。食べ物がないから弟子たちは買いに行っていたのです。これはいったいどうしたことだろう。だれかが食べ物を持ってきたのだろうか。弟子たちは不思議に思いました。しかし、イエス様は井戸の水をきっかけとしてサマリアの女に語られたように、ここでは食べ物をきっかけとして弟子たちに大切なことを教えようとしておられたのです。

 前の場面においては、イエス様が救いを必要としている一人の女に「命の水」について語られました。この場面では、弟子たちに「食べ物」について教えようとしておられたのです。すなわちイエス様は御自分の食べ物について語られることによって、やがて人々の救いのために宣教に遣わされる弟子たちに必要な「食べ物」は何であるかを示そうとしておられたのです。

 では、そのイエス様の「食べ物」とは何だったのでしょうか。イエス様は言われます。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(34節)。

 これはある意味では衝撃的な発言であると言えます。「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることのためにわたしは生きている」という話ならば分かりやすいのです。しかし、イエス様はそうは言っておられません。「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることが、わたしを生かしている」と言っているのです。「わたしの食べ物」であるとはそういうことでしょう。

 実際、その事実は、これまでの話にある程度現れていたと言うことができます。6節には殊更に「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」と書かれていたのです。しかも、弟子たちは食べ物を調達しに行ったわけですから、空腹でもあったのでしょう。そして、渇いてもいた。しかし、父の御心に従ってサマリアの女に御言葉を語られた後には、もはや疲れも渇きも空腹も全く感じられない。むしろ主は言われるのです。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と。主は既に満たされているのです。

 しかし、それはあくまでも表面的な部分でしかないのです。「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げる」とはどういうことか。最終的に、イエス様の宣教はどこに向かっていたのか。それは神の御心とその業を十字架の上で「成し遂げる」ところに向かっていたのです。十字架の上で「成し遂げられた」と言って、息を引き取られるところへと向かっていたのです。しかし、そのことにおいて、主は命を失ったのではなく、命を得たのです。なぜなら、父の御心を行い、その業を成し遂げることこそが、イエス様の「食べ物」、命を与える「食べ物」だったからです。その命はキリストの復活として現されることになるのです。

弟子たちの食べ物
 そのようにイエス様が御自身の「食べ物」について語られているのは、先にも申しましたように、これが弟子たちに必要な食べ物でもあるからです。ですから御自分の食べ物の話しに続いて、「あなたがたは…」と語り始めるのです。弟子たちが「神の御心を行う」ことについて、すなわち弟子たちの宣教の働きについて話しを始められるのです。永遠の命に至る実を集めることについて語られるのです。弟子たちもまた、「御心を行うために生きる」のではなく、「御心を行うことによって生きる」ようになるからです。御心に従って「宣教するために生きる」のではなく、「宣教することによって生きる」ようになるのです。

 そこでイエス様は当時の人々に言い慣わされていた二つの言葉を用いて弟子たちに教えられます。ちなみに、これは弟子たちへの言葉として書かれていますが、内容的には後の教会に対する言葉です。

 その第一は「刈り入れまでまだ四か月もある」(35節)という言葉です。これは、もともとは「種を蒔いたら刈り入れまでは忍耐強く待たなくてはならない」という意味合いの言葉だったものと思われます。それはすべての営みについて言えることだろうと思います。すぐに結果が出ない。結果が出るまでは待たなくてはならない。それは宣教の働きにも言えるのです。忍耐強く待つことが大切です。これは私たちがいつも心に留めなくてはならない真理であるに違いありません。

 しかし、もう一方において、「刈り入れまでまだ四か月もある」と言う言葉が、刈り取りの業を始めない言い訳になってしまうということもあり得ます。「まだだ、時が来ていない」と言っている内に、それが何もしないことへの言い訳になってしまう。それは起こり得ることです。

 ですから、ある意味でイエス様は、「それは本当ですか?」と問いかけておられるのです。まだどこにも刈り入れるべき穂など見あたらないというのは本当ですか?時が来ていないというのは本当ですか?「わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と主は言われるのです。

 イエス様は刈り入れられるべき穂を見ておられるのです。永遠の救いに与り、永遠の命の中へと刈り入れられるべき穂を見ておられるのです。時が来ているのだ、と言われるのです。問題は何でしょうか。私たちがそのことに気づいていないということなのです。気づかないままに、「今なし得ることは何もない。何かを始めるべき時はまだ先のことだ」と言っているのです。私たちは周りをよく見なくてはなりません。神様が私たちを、どこに遣わしておられるのか、誰の救いのために用いようとしておられるのか、よく見なくてはならないのです。

 そして、イエス様はもう一つの言葉を取り上げられます。「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」(37節)。このことわざが現実となるのだ、と言われるのです。もともとこのことわざは肯定的な意味合いを持つ言葉ではなかったと言われます。つまり、「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」というのは、蒔いても必ずしも刈り入れることにはならないというこの世の不条理を言い表している言葉だったのです。

 しかし、イエス様はその言葉に、あえて積極的な意味をもたせて語られました。既に色づいて刈り入れるばかりになっているのはなぜか。それは誰かが既に種を蒔いていてくれたからだ、ということです。「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」(38節)と。

 この日本に福音が伝えられて500年近くになります。この教会も宣教開始から今年で150年となります。今日まで多くの人々が種を蒔いてくれました。時には血を流しながら種を蒔いてくれました。私たちが福音に与ったのは先人たちの労苦のお陰です。そして、私たちが誰かの救いのために用いられるとするならば、それは先人たちの労苦のお陰です。それはまさに「自分では労苦しなかったものを刈り入れる」ということなのです。既に多くの種が蒔かれてきました。だからこそまた、私たちは希望をもって、誰かの救いのために仕えることができるのです。

  さて、その町の多くのサマリア人は、サマリアの女の言葉によって、イエス様を信じました。しかし、興味深いのはその先です。「そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです』」(40‐42節)。

 彼女は人々にとって、ある意味ではもう必要なくなりました。彼女がしたことも、やがて人々の口に上ることもなくなるでしょう。シカルの人々がキリストに出会うきっかけを作ったこの人の名前も、結局は後の世に伝えられることはありませんでした。私たちが知っているのは「サマリアの女」ということだけです。

 しかし、そんなことは彼女にとって、どうでも良いことであったに違いありません。なぜなら、彼女はキリストを宣べ伝えることによって、イエス様と同じ食べ物を、お腹いっぱい食べさせていただいて、豊かな命にあずかっていたに違いないからです。そして、そのことを後の弟子たちも、また代々の教会も経験してきたのでした。私たちも、その食べ物に豊かにあずからせていただきましょう。
 

2024年6月16日日曜日

「命の水が湧き上がる」

ヨハネによる福音書 4:5‐26

 人間はしばしば渇きを経験します。肉体的な渇きは水分を補給することによっていやされます。しかし、人が経験するのは肉体的な渇きだけではありません。精神的な渇きもあります。この殺伐とした世界の中で、常に潤いに満ちた心を保つことは容易ではありません。毎日の生活の中で、他者との関わりの中で、傷つき、干涸らびてカサカサになった心は、特別ないやしを必要とします。そのようないやしを求めて教会に来られる方もあろうかと思います。しかし、人間の経験する渇きはそれだけではありません。肉体的な渇きがいやされても、精神的な渇きがいやされても、なおいやされることのない、より深い根元的な渇きがあります。それは「命の渇き」と表現することができるでしょう。そして、この命の渇きがいやされることこそ、人間にとって最も重要なことなのです。

その水をわたしにください
 今日の聖書箇所には、一人の女の人が登場します。名前は書かれていません。「サマリアの女」とだけ書かれています。彼女は肉体的な渇きを知っています。水がなければ渇きます。ですから今日も水を汲みに井戸までやってきたのです。また、彼女は精神的な渇きをも知っていたに違いありません。後に主イエスが彼女についてこう語っています。「あなたはには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」(18節)。次々と男性を求め、今は「夫ではない」人と共に生活をしているのは、ただ単に物質的な生活の支えが必要だったからではないでしょう。そこにはまた精神的な必要があったのだと思います。彼女の遍歴は繰り返し満たされなくてはならなかった必要、繰り返しいやされなくてはならなかった渇きを示しています。

 そのような人が主イエスと出会いました。それがこの場面です。場所はシカルというサマリアの町です。なぜ主イエスがそこに来られたのか。今日の箇所の少し前には、「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」(3‐4節)と書かれています。これはサマリアを通る道しかなかったからではありません。サマリアを通らないでガリラヤへ行くルートもあったのです。むしろ、普通のユダヤ人であるならば、歴史的に確執のあるサマリア人の土地を避け、ヨルダン川の東側を通ってガリラヤに向かうでしょう。ですから、これは状況に基づく必然ではありません。神の御心による必然です。神の御心のゆえに、キリストはサマリアを通られ、シカルの町で一人の女の人に出会われたのです。

 同じことが私たちにも言えます。私たちがキリストと出会い、こうして共に礼拝をしていることは、決して偶然の結果ではありません。それは神による必然なのです。キリストは、出会うべくして私たちに出会ってくださったのです。

 そして、キリストはサマリアの女に語りかけられます。「神の賜物」について、「生きた水」について語り始めるのです。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)。

 熱い日差しの照りつける正午ごろのことです。この人は肉体的な渇きを覚えていたかもしれません。しかし、肉体の渇きはヤコブの井戸で汲んだ水でいやされます。あるいは精神的な渇きについても、今連れ添っている「夫ではない」人によって、ある程度はいやされていたかも知れません。しかし、キリストは「わたしがだれであるかを知るならば、あなたは生きた水を求めるだろう」と言われました。主は、その人の内になお深い渇きを見ていたのです。肉体の渇きではない、精神的な渇きでもない、根元的な命の渇きに対しては、生きた水、命を与える水が必要なのです。

 この「生きた水」とは何でしょう。かつて主は預言者エレミヤを通して次のように語られました。「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを」(エレミヤ2・13)。「生きた水」の源は神御自身です。命の渇きをいやす生きた水は神から流れて来るのです。やがてこの福音書を読み進んでいきますときに、生きた水とは、神から流れ来る神の霊、聖霊に他ならないことを知ることになります(7:39)。

 では、人はどのようにして生きた水を受けるのでしょう。主イエスはサマリアの女に、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのが《だれであるか知っていたならば》…」と言われました。そうです。その女の人は、目の前にいるのが「だれであるか」を、まず知らなくてはなりませんでした。ですから、主イエスはまず、御自分がどのようなお方であるかを明らかにされたのです。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(13‐14節)。

 そして、さらに主は言われました。「あなたの方から《その人に頼み》、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」。そして、このサマリアの女の人はどうしたでしょうか。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)と言ったのです。「ここにくみに来なくてもいいように」という言葉から分かりますように、彼女の言葉は多分に誤解に基づいています。しかし、その言葉そのものは間違っていません。必要なことは、「その水をください」――そう言って求めることです。与えてくださるお方に、単純に求めたらよいのです。

霊と真理をもって
 しかし、「その水をください」と言って私たちの眼差しをキリストに向けるということは、同時に、そのように求めている《私たち自身》がキリストの眼差しの前に立つということでもあります。

 主イエスは水を求めるサマリアの女に、唐突にもこう言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。その女はとっさに答えました。「わたしには夫はいません」。しかし、主は言われます。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」(17‐18節)。

 これは彼女にとって最も避けたかった話題であったに違いありません。わざわざ他の人が水を汲みに来ない正午頃に井戸にやってきたのは、このことの故でしょう。彼女には他人に触れて欲しくない、光を当てて欲しくない、人生の陰の部分がありました。しかし、キリストの眼差しの前では、すべてが明らかなのです。この女の人は、それまで何食わぬ顔をして、主イエスと対等に言葉を交わしていました。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」などと言っていたのです。しかし、今や彼女は破れに満ちた過去を引きずった、哀れな罪人としてキリストの前に立たざるを得なくなりました。キリストの前に立つとはそういうことです。

 私たちも同じです。罪深い過去の自分をどこかに置いたまま、惨めな日常生活の中の自分をどこかに置いたまま、あたかも自分が何者かであるかのようにキリストの前に立ち、上から見下ろすようにしてイエスを論じ、キリスト教を論じたところで、そこに本当の救いはありません。そのようにしている限り、生きた水を求めることはできないのです。生きた水を求めるには、一人の罪人としてキリストの御前に立たねばなりません。キリストが御覧になられる自分自身のありのままの姿を認めねばなりません。そのようにキリストの眼差しの前に立つことなくして、生きた水を求めることはできないのです。

 しかし、この人はなおもささやかな抵抗を試みます。彼女は言いました。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(19‐20節)。彼女は自分自身に直接関わる話題を避け、一般的な宗教論争の話題を持ち出すのです。サマリアの女が「この山」と呼んでいるのはゲリジム山のことです。ゲリジム山とエルサレムのどちらが神に選ばれた聖所であるのか。それはサマリア人とユダヤ人の間における何百年に渡る宗教的な論争の最大の争点でありました。しかし、そのような論争が、しばしば隠れ蓑として用いられます。今日でも、往々にして私たちは、自分の現実の生活のことは置いておいて、神と自分の関係を問うことは置いておいて、宗教的な議論の中に逃げ込もうとするものです。

 しかし、主イエスはそのような彼女の問いかけを足がかりに、話の核心へと迫ります。主はまことの礼拝について語り始めるのです。「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(21‐24節)。問題は、ゲリジム山かエルサレムか、ではないのです。あなたが霊と真理をもって父なる神を礼拝するか否か、なのです。イエス・キリストは、父によって遣わされ、私たちを霊と真理をもって礼拝する者とするために来られたのです。ですから、キリストが来られた「今がその時である」と主は言われるのです。

 キリストは、人をまことの礼拝者とする真理そのものです。主イエスは、「わたしは道であり真理であり命である」(ヨハネ14:6)と言われました。主イエスは私たちに父を啓示してくださいました。私たちはもはや漠然と神を礼拝するのではありません。私たちを愛して、私たちの罪を赦すため、御子をさえ惜しまず与えてくださった、父なる神を礼拝するのです。キリストは、父なる神を私たちに示してくださった真理そのものです。

 そのキリストが、私たちに生きた水を与えてくださいます。主が与え給う「生きた水」は、人をまことの礼拝者とする神の霊です。主が与えてくださる聖霊により、父なる神を礼拝し、父との交わりに生きるところにこそ、命の渇きのいやしはあるのです。私たちはこのお方に求めねばなりません。「主よ、その水をください」と。

2024年6月9日日曜日

「喜びに満たされている人」

ヨハネによる福音書 3:22-36

競争相手か友だちか
 「だから、わたしは喜びで満たされている」(29節)。今日の福音書朗読にありました洗礼者ヨハネの言葉です。ここに喜びで満たされている人がいます。しかし、その周りには同じ立場にあり、同じものを見、同じことを聞いているのに、明らかに喜びで満たされてはいない人々もいます。ヨハネの弟子たちです。では彼らは何で満たされているのでしょう。それは「妬み」です。

 「喜び」と「妬み」が共存し得ないことは明らかです。同時に人を満たすことはあり得ません。妬みで満たされるなら、喜びは出ていきます。喜びで満たされているなら、妬みが入る余地はありません。

 妬みが生じるのは相手を競争相手と見なすときです。相手を自分との比較対象として見る時です。そして、互いの優劣を問題にするときです。大きいか小さいか、上か下か、先か後かを問題にするときです。ヨハネの弟子たちにとって、イエスとその弟子たちはまさにそのような存在だったようです。

 その頃、洗礼者ヨハネはヨルダン川沿いのアイノンで洗礼を授けていました。まだヨハネが投獄される前のことでした。ちょうど同じ頃、イエスと弟子たちは、ユダヤ地方に行き、そこに滞在して人々に洗礼を授けていました。そんなある日、ヨハネの弟子たちとあるユダヤ人の間で、清めのことで論争が起こりました。その後に書かれているヨハネの弟子たちの反応から察するに、それは洗礼についての論争だったと思われます。

 恐らくそのユダヤ人はこんなことを言ったのでしょう。「みんなあのイエスの方に行っているようだが、あのイエスの洗礼とヨハネの洗礼とどちらの方が人を清めることができるのだろうか」。ヨハネの弟子たちはすぐにヨハネのところに行ってこう訴えます。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行ってしまいます」(26節)。

 イエスの一行と自分たちの比較。競争意識。それはそのユダヤ人との論争によって初めて生じたわけではなかろうと思います。それは初めからのことであったに違いないのです。

 この福音書の一章には、ヨハネの弟子であった二人がイエスの後についていったエピソードが記されています。一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレです。もう一人は名前が書かれていません。いずれにせよ、そのようにヨハネの弟子からイエスの弟子になった者は彼らだけではなかったに違いありません。今日の箇所に出て来る「ヨハネの弟子たち」は、いわばヨハネのもとにあえて残った人々なのです。

 そのような人たちがこちらのラビと向こうのラビを比較し、弟子の群れとしての優劣を問題にしたことは、ある意味では自然な成り行きだったと思います。そのような中で、「みんながあの人の方へ行ってしまいます」という事態が起こった。当然妬みが生じ、妬みが彼らを満たします。彼らの心情は容易に想像ができます。

 しかし、イエスとその弟子たちは本当に争わなくてはならない相手なのでしょうか。本当に競争相手なのでしょうか。どちらが優れているか、どちらが上であるか、どちらが前を行っているかを問題にしなくてはならない相手なのでしょうか。

 これはヨハネとイエス、ヨハネの弟子たちとイエスの弟子たちの間の話ですが、「本当に争わなくてはならない相手なのか」という問いは、私たちにとってもしばしば大事な問いなのだと思います。本当にそうなのか。喜びを失ってまでしてその競争に留まる必要はあるのだろうか。

 「そうじゃないだろう」とヨハネは言っているのです。彼は答えて言うのです。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」(27‐28節)。

 「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない」とは言い換えるならば、「受けているものは天から与えられたものだ」ということです。そうです、確かに人には天から与えられているものと与えられていないものがある。ある人に与えられているものが、ある人には与えられていないのです。ですから神様のなさることは時としてはなはだ不公平に見えます。しかし、不公平に見えようがどう見えようが、大切なことは、与えられているものをしっかりと受け止めることなのでしょう。

 「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない」。それは具体的にヨハネにとっては「自分はメシアではない」ということでした。「自分はあの方の前に遣わされた者だ」ということでした。ヨハネにとっては、それが天から与えられていないものであり、また与えられているものでした。

 ヨハネは「あの方の前に遣わされた者だ」という現実、キリストの先駆者とされているという現実を受けとめたのです。それが天から与えられたものだからです。先駆者はやがて必要なくなるのです。しかし、その現実を受けとめたのです。だからこそ百パーセント先駆者として生きることができたのです。

 そのことをヨハネは花婿と介添え人を例として語ります。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」(29節)。

 介添え人が花婿を競争相手と見なすなら、花嫁を迎えることができる花婿に対して妬みが生まれます。しかし、そんな馬鹿なことは普通起こりません。この「介添え人」と訳されている言葉は「友だち」という言葉なのです。彼は競争相手ではないのです。自分は彼の友だちなのです。だから友として自分の役割を果たすのです。そこにこそ真の喜びがある。花婿が喜びの声を上げて花嫁を迎える。その時、友として務めを果たした自分もまた喜びに満たされる。ヨハネはそのような喜びに満たされているのです。

絶対的なことと相対的なこと
 そのように語るヨハネはいったい何を見ていたのでしょう。ヨハネはその大きな喜びをもってこう言うのです。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(30節)。「ねばならない」とは、神の御心によって定められているという意味です。神によってそうなることになっている。ヨハネは喜びに満たされてそう語るのです。そして、31節から再びキリストについて語り始めます。

 この福音書においては、これを最後にヨハネは表舞台から姿を消します。実際にはこの後に投獄され、首をはねられてその生涯を終えることになるのです。その意味でここに書かれているのはヨハネの最後のキリスト証言とも言えます。ヨハネが何を見、最後に何を語っていたかに耳を傾けてみましょう。

 ヨハネはイエス様を「上から来られる方」、「天から来られる方」、「神がお遣わしになった方」として語り、「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」と語ります。あのイエスという方が単なるこの世の思想家のひとりであるならば、その人を信じようと信じまいと大したことはありません。どんなに偉大な教師であっても、ヨハネが言うように「地から出る者は地に属し、地に属する者として語る」に過ぎないのです。

 しかし、イエスはそのような存在ではないのだ、とヨハネは言っているのです。彼は天から来られた方であり、神から遣わされ、神を語り、神の言葉を語るのです。そのような方が来られた。そのようにヨハネが見ていたのは、およそこの世の比較や競争が入り込む余地のない出来事なのです。

 ですから、今日お読みした箇所の最後にもこのようなことが書かれていたのです。「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」(35‐36節)。ここで全く対照的な二つの言葉がでてきます。「永遠の命を得る」という言葉と「神の怒りがとどまる」という言葉です。

 「永遠の命を得る」とは、「救いを得る」と言い換えてもよいですし、「永遠なる神との交わりを得る」と言い換えてもよいでしょう。要するに、そこに語られているのは神との関係の話です。神に背いて生きてきた人が、神によって赦していただいて、神との交わりに生きるようになるのか。それとも、神に背いて生きてきた人の上に、神の怒りが留まるのか。これは180度異なる神との関わりです。

 人間にとって決定的に重要なことは、神との関係がどうなっているのか、ということです。私たちと神との関係はどうなっているのか。神に背いてきた私たちは本当に赦されるのか。神に顔を上げて、平安の内に神と共に生きることができるのか。それとも神の怒りがとどまるのか。そして、その問いの前に立つ私たちに対して、「御子を信じる者は永遠の命を得ている」と語られているのです。

 皆さん、私たちは御子を信じる者としてここに集められ、御子を信じる教会として今私たちは礼拝を捧げているのです。罪を赦され、永遠の命を与えられ、永遠なる御方をほめたたえ、永遠なる神との交わりの中に生かされているのです。

 そのように既に決定的に重要なことが起こっていることに目を向ける時、重要でないものは後ろに退きます。永遠の命を得ているとは、神との交わりが与えられているとは、いわば天そのものが与えられているということです。天そのものが与えられているならば、この地上に生きる限られた人生において、天から何かが与えられていないということは、少なくとも最も重要なことではありません。与えられているものをしっかり受け止めて、与えられている役割を見出して、しっかり果たしたらそれでよいのです。妬みによって、喜びを奪われるようなことがあってはなりません。

 ヨハネは言いました。「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」。私たちも、そのように生きたいと思うのです。

2024年5月26日日曜日

「キリストの働きを受け継ぐ」

ヨハネによる福音書 14:8‐14

キリストの行う業を行う

 「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである」(12節)。そうイエス様は言われました。

「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行うのだ」と主は言われます。イエス様と同じことをする。言い換えるならば、イエス様のなさっていることを引き続き行うということ、継承するということです。「わたしが父のもとへ行くからである」と主が言っておられるように、イエス様が父のもとに行った後の話です。イエス様が目に見える姿でこの世界におられなくなった後の弟子たちの話です。すなわち、教会の話です。ならば、それはここにいる私たちの話でもあるのです。イエス様が目に見える姿でこの地上におられなくなった後は、私たちが主の御業を継承するのだということです。

 では、継承すべき主の御業とは何でしょうか。イエス様の言われる「わたしが行う業」とは何を意味するのでしょうか。

 イエス様のなさったこととしてすぐに思い出されるのは福音書に書かれている数々の奇跡でしょう。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」。同じように奇跡を行う。――確かに、聖書を読みますと、弟子たちもまた数々の奇跡を行っています。ペトロもそうでした。パウロもそうでした。

 しかし、イエス様が単に「奇跡」の話をしているかと言うと、どうもそうではないらしいのです。その前にこう言っておられるからです。「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである」(10節)。イエス様を通して父なる神が語られる。イエス様を通して父なる神が働いておられる。それこそがイエス様の言われる「わたしが行う業」だったのです。

 私たちはここで同じ福音書に書かれている言葉を思い起こさねばなりません。そもそもなぜイエス様がこの世におられたのか。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。そう書かれています。神は世を愛されたのです。御自分に背を向けているこの世界を愛されたのです。御自分に敵対しているこの世界を愛されたのです。神様はこの世界を愛して救うために、独り子を遣わされたのです。御子はこの世界に対する愛の現れでした。その神が独り子を通して語られ、御子を通して働かれたのです。愛するためです。イエス様の言われる「わたしが行う業」とは、父なる神の愛の現れに他ならないのです。

 だからイエス様はフィリポにこう言っておられますでしょう。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ」(9節)。イエス様を見たなら、既に父を見ているのです。この世を愛しておられる父、独り子をお与えになるほどにこの世を愛しておられる父を既に見ているのです。

 そのイエス様がこう言われるのです。「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」と。この世を愛しておられる神が、イエス様を通して語られたように、今は、信じる者を通して語られるのです。この世を愛しておられる神が、イエス様を通して愛を現されたように、今は、信じる者を通して愛を現そうとしておられるのです。

 「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」。そのように、神はキリストを信じる者に明確な目的を持っておられます。キリストを信じる者は、ただ自分の幸いのためにキリストを信じるのではありません。ただ自分が救われるために、キリスト者になったのではありません。キリストの業を行うようにと、神は私たちを召されたのです。神様は私たちを通して、御自分の愛を伝えようとしておられるのです。言葉と行いをもって御自分の愛を現そうとしておられるのです。

 教会は自分たちの平安と喜びのために存在しているのではありません。この世においてキリストの行う業を行うために存在しているのです。教会を用いて、神様は御自分の愛を伝えようとしておられるのです。

 そして、イエス様はこうも言われました。「また、もっと大きな業を行うようになる」(12節)。これは驚くべき言葉です。イエス様よりももっと大きな業を行うようになる。しかし、これはまた歴史的な事実でもあります。イエス様の働きは、狭い地域に限られていました。イエス様はその公の働きにおいてパレスチナから外へは出なかったのです。そこから外に出て、ユダヤからサマリアへ、さらにはギリシャ、ローマへと働きを拡大したのは、後の弟子たちによってでした。

 そして、神の御業は広がって、この日本にまで至ったのです。「もっと大きな業を行うようになる。」確かにそのようになりました。しかし、もちろん、ここが終着点ではありません。今はここにいる私たちにも言われているのです。「はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と。

わたしの名によって願いなさい
 イエス様は、直接目の前の弟子たちに対して「あなたたちは、わたしが行う業を行い、またもっと大きな業を行うようになる」と言われたのではありません。「わたしを信じる者は」と言われたのです。その意味では、あの場にいた弟子たちと、私たちの区別はありません。使徒であるかないかも関係ありません。「わたしを信じる者は」と主は言われたのです。それだけです。ですから、さらに言うならば、信仰暦が長いか短いか、経験があるかないか、大人か子どもか、元気であるか病気であるかも関係ありません。これは信じる者すべてに与えられている約束です。大事なことは「信じている」ということだけなのです。

 そこで気がつきますことは、「信じる者」に共通して与えられているものがあるということです。この世における一切の違いにかかわず、信じる者に共通して与えられているもの――それは「祈り」です。イエスを信じる者に与えられているのは、イエスの御名による祈りです。ですから、イエス様はこのように話を続けられるのです。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」(13‐14節)。

 イエス様は「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行う」と言われたのです。キリストの業を行うと言われたのです。キリストの業に似たような「人間の業」を行うのではないのです。「キリストの業を行う」のです。ならば、どうしても重要になりますのは「祈り」です。人間が人間の業を行うだけならば「祈り」は必要ありません。しかし、キリストの業を行うならば、「祈り」なくしてはあり得ない。だから私たちはイエス様の名によって願うのです。私たちが「願い」、キリストが「かなえる」という仕方において、キリストの業がなされていくのです。

 実は、これと似たような表現が16章に出てきます。「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる」(16:23‐24)。そこでは、「父はお与えになる」となっています。「キリストがかなえてくださる」というのは、「父がお与えになる」ということでもあるのです。私たちが「祈り」、キリストが「かなえてくださる」という仕方において、父が御自身の愛を現し、父が与えようとしている救いの御業が実現していくのです。

 どうですか。聞いていて、とてもまどろっこしいと思いませんか。不思議なことです。神様はどうしてそんな回りくどいことをなさるのでしょう。どう考えても効率が悪い。そんな回りくどいことをなさらないで、私たちが願うとか祈るとかとは無関係に、直接的に御自分の愛を現し、御自分の愛を伝え、御自分の救いの御業を進めた方が、はるかに効率がよいのでしょう。

 しかし、これが神様のやり方なのです。神様はどうも効率重視の御方ではないのです。神様は効率よりも、私たちの存在というものを重んじてくださるのです。私たちの意志を、すなわち願うこともでき、願わないこともできる、そのような私たちの意志をも重んじてくださるのです。私たちとは無関係に事を進めようとはなさらない。あくまでも、祈りにおける交わりの中で、「一緒にやろう」と言ってくださるのです。

 それは何のためですか。16章でイエス様ははっきりと言っています。「あなたがたは喜びで満たされる」と。神様は私たちの喜びのことを考えていてくださるのです。実際、そうではありませんか。人が救われることに関心のない人は、人が救われる喜びをも知ることはないでしょう。私たちが誰かの救いを心から願い、切に切に祈り続け、そして自分が神の御業のために用いられたなら、そのようにして神の愛が伝わって神が救いを現してくださったなら、そこに大きな喜びが満ち溢れることでしょう。

 教会が本当の喜びに満ち溢れるとするならば、それは単に和気藹々と楽しく過ごすことによってではないのです。そうではなくて、私たちが人々の救いを真剣に祈り求め、そして、その救いが実現していくところにおいてなのです。そのように誰かが救われるために私たちが用いられるところにおいてなのです。キリストの業がそのようにして現れ、さらに大きな業が現れることによってなのです。

 「わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。」それは私たちの祈りを通して実現していきます。ならば、私たちの周りの人々の上に、この地の上に、キリストの御業が現れるように、神の愛がはっきりと形を取って実現するように、大いに祈り求めようではありませんか。「わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」と主は言ってくださるのですから。

2024年5月5日日曜日

「神の愛から引き離されることはない」

ヨハネによる福音書 16:25‐33

はっきり父について知らせる時が来る
 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る」(16:25)とイエス様は言われました。ここで「たとえ」と言われていますが、これはいわゆる「たとえ話」のことではありません。意味が隠されている言葉、直接的には語られていない言葉、そのような言葉であるということです。つまり弟子たちはイエス様の言葉を今は理解できない、はっきりとは分からないということです。

 それまでイエス様は確かに父なる神について語って来られました。イエス様は弟子たちにとって、父なる神を指し示してくださる存在でした。自ら父に祈り、父と共に生きる姿を見せてくださいました。しかし、今日お読みした箇所においてイエス様は弟子たちに対して、「まだ、あなたがたは父についてはっきり知らされてはいない」と言っておられるのです。しかし、ずっとそうなのではありません。今、主は、「はっきり父について知らせる時が来る」と言われるのです。

 ところで、今日お読みしましたのは、最後の晩餐における最後の部分です。この数時間後にイエス様は逮捕されることになるのです。そして、裁判にかけられ、十字架にかけられ、殺されることになるのです。イエス様はそのことをご存じでした。今日お読みした28節にも、「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」と書かれています。ですから、イエス様は明らかに十字架にかけられた後のことについて語っているのです。

 「はっきり父について知らせる時が来る」。そう主は言われます。十字架にかけられた後に、イエス様御自身がはっきり父について知らせてくださると言うならば、それは、もちろん死んでしまった御方としてではなく、復活された御方として、です。復活して父のもとに帰られた御方として、語ってくださるのです。さらに言うならば、父のもとに帰られた復活のキリストが、「真理の霊」である聖霊のお働きを通して、はっきり父について語ってくださるのです。

 「はっきり父について知らせる時が来る」。父について「はっきり」知らされなくてはならないこととは何なのでしょう。それは27節にあるように、父御自身がわたしたちを愛していてくださるということです。

 イエス様は、父との愛の関係を見せてくださいました。御父は御子を愛しておられました。御子は御父の愛に信頼して歩まれました。その父と子との間に見られた愛が、私たちにも向けられているということです。父なる神が私たちを愛していてくださる。どれほどに?私たちのために独り子さえ惜しまずに与えられるほどに、です。私たちの罪を赦すため、御子を十字架にかけられるほどに、です。それほどに私たちを愛していてくださる。イエス様の十字架を通して、そのような父として「はっきり父について知らせる時が来る」と主は言われるのです。

 そして、その時は確かに来たのです。既に来ているのです。主の御復活から既に始まっているのです。イエス様は、十字架の上で罪の贖いを成し遂げ、復活して永遠に生きておられる御方として、そのような父について、はっきり知らせてくださっているのです。今も聖霊のお働きによって、教会を通して、復活されたキリストが語っていてくださるのです。実は、私たちもそのようにして、父が私たちを愛していてくださることを知らされたのです。イエス様が知らせてくださったのです。

 私たちの祈りの生活というものは、そのようにイエス様がはっきり父について知らせてくださったことに基づいて形作られるのです。主は続けてこう言われます。「その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」。イエス様が父を呼び求めたように、私たちも、私たち自らが「わたしたちの父よ」と呼ぶのです。父に愛されている子どもたちとして、父を呼び、父に信頼して生きるのです。

安心しなさい

 そのように、私たちにはっきり父について知らせてくだり、父御自身が私たちを愛していてくださることを知らせてくださったイエス様は、さらに33節においては、次のように語っておられます。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)。

 イエス様は、はっきり父について知らせてくださる御方であるだけではありません。自ら、そのような父と共にあって勝利を取られた御方として、私たちを励まし支えてくださるのです。「勇気を出しなさい」と。

 イエス様がこのように語られたのは、弟子たちの弱さを知っていたからです。弟子たちは胸を張って信仰を言い表していました。「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」(30節)と。つまり、あなたがメシアであると信じますと言っているのです。しかし、イエス様はそのように信仰を言い表す弟子たちが、弱さをさらけ出すであろうことを知っていたのです。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(31‐32節)。

 そのように、主は弟子たちの弱さをご存じであるからこそ、イエス様はあえて御自分の持っている強さを示されたのです。イエス様の強さはどこにあるのか。それは「父が、共にいてくださる」というところにあるのです。人々から捨てられ、弟子たちにも裏切られ、誰も味方になってくれなくとも、誰も一緒に闘ってくれないとしても、「わたしはひとりではない」と言える強さ。「父が、共にいてくださる」と言える強さです。この強さがあるゆえに、明らかに絶望的な情勢へと向かっている時にさえ、イエス様はこう宣言することができたのです。「わたしは既に世に勝っている」と。

 「世」というのは、よってたかってイエス様を十字架にかけようとしている「世」です。しかし、その「世」に既に勝っている。もう勝利は決まっていると主は宣言されたのです。世に勝つとはどういうことですか。世に勝つのは、御自分に敵対する人々を滅ぼすことによってですか。いいえ、そうではありません。御自分を憎む者を愛し抜くことによってです。そして世を罪から救うことによってです。イエス様は世の罪を贖い、救いを成し遂げることができると、確信をもって語っておられるのです。それゆえに勝利を宣言しておられるのです。なぜですか。「父が、共にいてくださる」と言える強さがあるからです。

 そのような本当の強さを見せてくださったイエス様が、父と共にあって勝利宣言をされたイエス様が、私たちに言われるのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい」と。

 確かに、この世にある限り苦難は避け得ません。悪魔が支配している世にある限り、苦難はあるのです。特に、そのような世において、キリストに従って生きようとするならば、苦難は避け得ないのです。そのような世に生きる私たちに主は言われます。「勇気を出しなさい」。

 既にお話ししたことから分かりますように、「勇気を出しなさい」と言うのは、いざとなったら出せるような勇気が弟子たちの内に元々あったからではありません。イエス様は、いざとなったら逃げ出してしまうような弟子たちであることを重々承知の上で語っておられるのです。

 実はこの言葉は、聖書の中のたいへん印象的な場面で使われています。弟子たちが舟に乗ってガリラヤ湖に漕ぎ出した時の話です。彼らは逆風のため漕ぎ悩んでいました。彼らの苦闘は夜明けまで続いたのです。彼らはへとへとに疲れ果て、近付いてくるイエス様を幽霊と間違える程に、恐れと不安の中にいたのです。主はそんな彼らにこう言われました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(マルコ6:50)。この「安心しなさい」というのが同じ言葉なのです。

 まさに真っ暗な湖の上を逆風のため漕ぎ悩んでいるような弟子たちに対して、イエス様は言われるのです。「安心しなさい」と。「勇気を出しなさい」とはそういうことです。あなたがたには世で苦難がある。しかし、安心しなさい。勇気を出しなさい。そうイエス様は言われるのです。

 どうしてですか。イエス様が既に勝利しているからです。本当の強さによって勝利しているからです。父が共にいてくださることによって勝利しているからです。そして、大事なことは、その強さはイエス様だけが持っているのではない、ということです。それを私たちにも与えてくださるのです。「父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである」と言ってくださる。だから私たちもまた、「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださる」と言うことができるのです。それゆえに、イエス様はまた、私たちに「安心しなさい。勇気を出しなさい」とも言われるのです。

 本日の第二朗読では、イエス・キリストによって、はっきり父について知らされ、父と共にある本当の強さを与えられたパウロが、ローマの信徒に宛てた手紙を読みました。それこそ、パウロという人は、ありとあらゆる苦難を経験してきた人でした。しかし、それでもなお彼はローマの信徒たちにこう語るのです。「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」(ローマ8:37)。これは文語訳聖書では「勝ち得て餘(あまり)あり」と訳されていました。私はこの訳が大好きです。ただ負けないだけではない。やっと勝つのでもない。「勝ち得て餘あり!」

 そこにはイエス様から与えられた確信があるからです。パウロはこう続けます。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38‐39)。そうです、何によっても、神の愛から引き離されることはありません。私たちもまた、パウロと共に宣言して、主を讃えましょう。「勝ち得て餘あり!」と。


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