コロサイの信徒への手紙 1:15-20
御子は、見えない神の姿
初めに15節から17節までをお読みしましょう。この部分は当時の讃美歌の一部であろうと言われています。ここには万物の創造のみ業との関連においてキリストが語られています。実に壮大なキリスト賛歌です。当時の人たちはこの信仰を高らかに歌いあげていたのです。これこそまさにパウロ自身も知り、経験していたキリストです。私たちが信じているキリストを思い描く時、このようなキリストを思い描いているでしょうか。
その冒頭には「御子は、見えない神の姿であり」と書かれています。「見えない神」――確かに神は本質的に人間の目には見えません。それは単に肉眼で見えないということよりも、人と神とはどれほど隔たっているかということを現わしている言葉です。
人と神とは絶対的に異なる存在です。神と人との間にはなんらの連続性もありません。神ならぬ偶像ならば人間との絶対的な差異を問題にしなくて良いのでしょう。人間が作った神ならば人間が知り得ること理解できることを前提で語ることができるのでしょう。しかし、まことの神であるならば、見えない、知り得ないのは当然なのです。
その見えない、知り得ないはずの神を人間が不完全ながらも知ることができるとするならば、それは神の方から自らを示し、御自分がどのような御方であるかを見せてくださるしかありません。そして、神はそうしてくださったのです。どのようにして?御子なるキリストをお遣わしくださることによってです。「御子は、見えない神の姿であり」とはそういうことです。
いや神が「見えない」というのは、単に人間と神の本質的な隔たりだけを意味するのではありません。それが意味するのは罪による隔たりでもあります。讃美歌66番「聖なる、聖なる」の3節において次のように歌われています。「聖なる、聖なる、聖なるかな、罪ある目には見えねども…」。そうです、罪ある目に神は見えません。罪あるゆえに、人間は神の本来の姿を知りません。そうです、私たちは神の本来の姿を知り得ないのです。
皆さんの多くは、旧約聖書の多くの場面に描かれている神の姿に、何らかの違和感を覚えたことがあるに違いありません。怒りに満ちて皆殺しを命じる神。罪の裁きと滅びを宣言される神。しかし、それは神の本来の姿ではないのです。そのような姿としてしか人間が神を知り得なかったのは、人間に罪があるからなのです。人間と神との関係が歪んでいるからであり、壊れているからです。
そのような人間に対して、人間が創造される以前にまで戻って、万物を創造し、これを良しとされたあの本来の神の姿、溢れ出る愛において天地を創造した神の本来の姿を完全に見せてくださったのは、御子キリストでした。御子こそ、天地創造において働いた神の愛そのものだからです。ですからパウロはここでさらに筆を進めて、万物は「御子において」「御子によって」造られたのだ、と記しているのです。
そのように万物の創造において働いた神の愛そのものである御方が、肉をとられ、人間となって、私たちが足を置いているこの同じ地上を歩まれました。それがナザレのイエスという御方です。その御方が「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言ってくださったのです。その御方こそが「教会の頭」なのです。私たちはそのような方を指して、「われらの主、イエス・キリストを信ず」と言っているのです。
「教会の頭」であり、私たちと共にいてくださる方は、そのような、とてつもなく大きな御方です。今日の聖書箇所を読みまして、改めて思うのです。はたしてそのような意識を持って教会生活を営んでいるだろうか。そのような意識をもってキリストと共に歩んでいるだろうか。私たちはしばしば目の前の現実の方がキリストよりも大きいと考えているのではありませんか。私たちが抱えている問題の方がキリストよりも大きいと考えているのではないでしょうか。
この世界の存続を脅かしている諸問題は確かに大きいかもしれません。あの小さな土地をめぐる「パレスチナ問題」一つとっても、世界中の英知を結集しても解決できないことを、私たちは思い知らされているのではありませんか。しかし、それでもなお私たちは信じ宣言することができるはずなのです。それはキリストよりも大きいわけではない。所詮はすべて被造物世界の中の事柄です。あの御方はこの被造物世界を造られた御方だと語られているのです。私たちはそのような御方を「われらの主」として信じて、わが身をゆだねて生きているのです。
そして、「御子において」「御子によって」だけでなく「御子のために」とも書かれています。御子は万物の目的でもあるのです。万物は御子との関わりにおいて、初めて存在の意味を得るのです。人間について言うならば、御子に向いていてこそ、人は本当の意味で生きるのです。目的を決めるのは被造物ではなく創造主だからです。
私たちが創造主を離れて、どんなに「自分の人生の意味は何であるか」と問うたところで、その問いに答えが見つかるはずはないのです。人間の手を離れたボールペンが「わが存在の目的は何ぞや」と悩んでいる姿を想像してみてください。滑稽ではありませんか。目的は造られた側ではなく造った側が決めるのです。
逆に言えば、仮に私たちがどんなに自分の存在意義を見いだせないような状態にあったとしても、大丈夫なのです。実際に役に立っているように思えなくとも、むしろ迷惑にしかなっていないように思えたとしても、御子に向いてさえいれば大丈夫なのです。あなたは御子のために存在しているのだよ、と神は言ってくださるからです。キリストこそ万物の目的です。
十字架の血によって
さて、15節から17節までに、創造の御業との関連でキリストが語られているとするならば、18節以下には、更に、救いの御業との関連においてキリストが語られています。
先ほどお読みしましたところに「御子は、見えない神の姿であり」とありましたが、19節においては「満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ」と書かれています。つまり、御子のうちには父なる神様ご自身のあらゆる良きものが満ち満ちていたということであります。こうして、御子は父なる神を現わされたのです。
しかし、その御子が十字架にかかられて死なれました。見えない神の姿であられる方が十字架にかかられて死なれました。万物創造の業を担われた方、万物の目的であられる方が、ただ一度この地上に人間として現れ、人間の手によって十字架にかけられて死なれたというのです。父なる神がそれをよしとされました。満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせてくださった父は、その御子が十字架の上で血を流すことをよしとされました。
ここに記されていることを一言一言噛み締めながら読んでいきますならば、20節に書かれている「十字架の血によって」という言葉は私たちの想像を絶するような大変な出来事であることが分かります。その言葉に何の抵抗も驚きも覚えないとするならば、やはり私たちのキリスト理解はどこかおかしくなっているのです。
神の目的は単に人に自らを啓示するということに留まりませんでした。神の目的は、万物をご自身と和解させることにあったのです。なぜ「人間」だけでなく「万物」と言われているのでしょうか。人間が罪を犯したため、人間のみならず全ての被造物が神のもとにある正しい秩序から外れてしまったからです。その結果、人間だけが罪の中で呻き苦しんでいるのではなくて、万物が呻いているのです。本日はそのことにはこれ以上触れません。ローマの信徒への手紙8章をお読みください。今日は特に人間、すなわち私たち自身のことのみを考えたいと思います。
御子の血が注がれることを良しとされた神の目的は、御子によって私たちを御自分と和解させることでした。正しい関係を回復し、交わりを回復するためでした。とは言っても、もともと責任は神様にあったのではありません。人間にあったのです。人間が神に背いたのです。先にも申しましたように、私たち人間の罪が神との交わりを壊したのです。人間が神に背を向けていたのであってその逆ではありません。
しかし、神がその交わりを回復しようとしてくださったのです。交わりの回復のためには罪が処理されなくてはなりません。しかも神にふさわしい、義しい仕方で処理されなくてはなりません。それは罪をただ赦すことではなくて、罪を裁いた上で赦すことでした。これが神の義です。神は罪を裁かれました。どのようにでしょうか。御子を十字架にかけ、血を流すことによってです。「十字架の血によって」とはそういうことです。
万物の創造に関わられた万物の目的である方が血を流して死なれるということは、私たちの理解を越えた、驚くべき出来事です。私たちの小さな頭で把握することのできないほどに大きな事です。それは、人が神と和解して共に生きるということが、決して簡単な小さなことではないことを示しています。それは、本当は人知を越えた恐ろしく大きな出来事なのです。
実際、事柄の大きさを私たちが理解しないために、罪の赦しも、神を礼拝できることも、神に祈れることも、あたかも当然のことであるかのように考えるようになり、あげくの果てには粗末にするようになってしまうのでしょう。それゆえに、私たちはキリストをどのように理解するかが、私たちの信仰生活において、決定的に重要な意味を持っているのです。
そして、御子は、「すべてのものが造られる前に生まれた方」であるだけでなく、「死者の中から最初に生まれた方」と語られています。そこで表現されているのはキリストの復活です。キリストは復活されて今も生きておられます。私たちの救いを為し遂げてくださった方は今も、教会の頭として生きておられます。私たちはその御子の支配下に移されたのです。今もその御方のもとに生かされているのです。改めてその意味をよく考えたいと思うのです。
2023年10月29日日曜日
「見えない神の見える姿」
2023年10月25日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 12:14~29
ヘブライ人への手紙 12:14‐29
先週お読みしたところでは、「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(11節)と書かれていました。神様は私たちを子として取り扱い、必要な鍛錬を与えるのだというのです。そして、それは「義という平和に満ちた実を結ばせる」ための鍛錬なのです。
ここで語られている「平和」とは、単に争いがない状態を意味するのではなく、神様と共にあって、神と調和し命に満ち溢れている状態を意味するのだと申しました。そのような実を結ばせてくださるための鍛錬を神様は与えてくださるのです。そのように語った上で、今日の箇所では、「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい」と勧められているのです。
「すべての人との平和を追い求めなさい」。先に語った「平和」には、もちろん人と人とが愛し合って共に生きることも含まれています。人と人とが引き裂かれたままで、争い憎み合ったままで、神と調和して命に満ちあふれているなどということはあり得ないのですから。
隣人のことを忘れ、この世界のことを忘れ、ただ神との交わりの中に引き籠もって得られる平安。――それは神が与えようとしているシャーロームとは別物です。神様は、神と人とが和解し、神と人との間が平和であるだけでなく、人と人とが和解し、愛し合い、共に生きることを望んでおられるのです。そのような神と人、人と人との間に、神の命を満たそうとしているのです。そこにこそシャーロームがあるのです。
それゆえに「すべての人との平和を追い求めよ」と語られているのです。しかし、すぐに分かることは、これは追い求めて簡単に獲得できる類のものではないということです。この手紙の読者にはすぐに分かったと思います。「すべての人」には迫害する者も含まれているのだ、と。敵対し悪口雑言を言ったり中傷したりする人も含まれるのです。次から次へと苦しみをもたらす人も含まれるのです。主を信じるキリスト者の仲間の間ですら難しいのに、「《すべての人と》の平和を追い求めよ」という勧めをどう受け止めたらよいのでしょう。
しかし、それがどれほど難しくても、聖書の言うように平和を追い求めてこそ身に染みて分かることがあることは事実です。訓練が必要だ、ということです。父の鍛錬、義という平和に満ちた実を結ばせる父の鍛錬が、ぜったいに必要だということです。それなくして本当に身近な人との間にすら平和なんて実現できないわけですから。
平和を追い求めるならば、まずは自分自身が変えられなくてはならないのです。清められなくてはならないのです。ですから、「すべての人との平和を追い求めなさい」とだけ語られているのではなくて、「聖なる生活を追い求めなさい」と勧められているのです。「聖なる生活」と訳されている言葉は、「聖化」と訳せる言葉です。意味合いとしては、「清められていくこと」とか「聖なる者と変えられていく」ということです。そのような生活を求めなさいということです。
10節には「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです」と書かれていました。清められるというのは、神の神聖にあずからせていただくということです。神様の御性質に変えられていくということです。
ならば神の鍛錬は絶対に必要でしょう。神の鍛錬をも含め、聖化を求めていくことなくして、すべての人との平和を追い求めることはできないのです。いやさらに言うならば、そのような聖化を求めていくことこそが、最終的に神にまみえる備えでもあるのです。それなくしては「だれも主を見ることはできません」と書かれているとおりです。
逆に言えば、私たちが神に信頼し、すべての人との平和を求め、神によって聖化されることを追い求めているならば、私たちの信仰生活は、たとえそこにどんな困難があろうとも、様々な闘いがあろうとも、全く心配ないということです。すべて私たちを聖化するために用いられるのであって、すべては神にまみえる備えとなることが分かっているからです。
それゆえにまた、最終的に神にまみえる備えということを考えず、すべての人との平和をも求めず、聖化されることをも追い求めていないならば、神の鍛錬の意味が分からないわけですから、いくらでもかつてのイスラエルの民のようになってしまうということはあり得るわけです。それゆえに「神の恵みから除かれることのないように、また、苦い根が現れてあなたがたを悩まし、それによって多くの人が汚れることのないように、気をつけなさい」と語られているのです。
彼らが神の恵みから除かれたのは、不信仰のゆえであったことは既に語られていたとおりです。「苦い根」は申命記29:17に出てきますが、主に背いて偶像に寄り頼むようになることです。神の鍛錬の意味が分からなければ、手軽に幸せを約束する神、手軽に問題を処理してくれる神を求め、安易に困難を回避する道ばかり求めることになるでしょう。それは即、不信仰につながることは火を見るより明らかです。
それゆえに、そのような道を選ぶことがまた、長子の権利を譲り渡したエサウに喩えられているのです。エサウにとっては、神の約束にかかわる長子の権利よりも、お腹が減った時に一杯の食物を得ることの方が重要だったのです。そのように、神の約束に思いを向けることがなければ、今目の前の困難を回避することや、今目の前の欲望を満たすことの方がずっと大事になってしまうでしょう。ですから、そのように「みだらな者や俗悪な者とならないよう気をつけるべきです」と警告されているのです。
結局、重要なのはどこに目を向けているかなのです。ゴールに向かうレースを走っているのだという認識を持っているか否かが問題なのです。
実際、私たちがレースを走るに当たって、そのはじめに近づかせていただいたもの、触れさせていただいたものは、あのイスラエルの人たちが近づき触れたものとは比べものにならないほど恵みに満ちたものであったはずです。それが18節から24節に語られていることです。私たちは比べものにならないほどに幸いな位置にいるのです。だからこそ「あなたがたは、語っている方を拒むことのないように気をつけなさい」と語られているのです。
この手紙の冒頭には、「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(1:1‐2)とありました。そのように、地上で神の御旨を告げる人々の言葉が語られてきた後、神の言葉そのものである御方が天から来られたのです。神はキリストを通し、天から御旨を告げられたのです。
その内容については、既にヘブライ人への手紙において見てきたとおりです。キリストが自らの体を犠牲として捧げ、私たちを執り成す大祭司として御自身を現してくださったのです。この神の語りかけを拒み、この御方から離れてしまうならば、もはや罪のためのいけにえは残っていません。それゆえに、この語りかけを拒んで、心をかたくなにしてはならないことが繰り返し語られてきたのです。
私たちはイエス・キリストによって現され、私たちに伝えられてきた福音の言葉にこそ錨を降ろさなくてはなりません。わたしたちは目に見えるものによって生きるのではなくて、信仰によって生きるのです。目に見えるものは過ぎ去ります。「わたしはもう一度、地だけではなく天をも揺り動かそう」とハガイの預言したとおりです。動かざるものはありません。動かざるもの、唯一確かなものは「揺り動かされることのない御国」です。これこそが確かな希望です。その揺り動かされることのない御国の約束を私たちは既に受けているのです。ですから「感謝しようではないか」と語られているのです。「感謝の念をもって、畏れ敬いながら、神に喜ばれるように仕えていこう」と。
2023年10月22日日曜日
「無力にされた勇者」
士師記7:1-8
主は共におられます
「エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった」(1節)。今日の朗読はそのような言葉から始まっていました。
イスラエルの陣営とミディアンの陣営が対峙しています。ミディアンの陣営。正確に言うならば、それはミディアン人、アマレク人、東方の諸民族が結束した連合軍です。兵士の数およそ13万5千人(8:10)。対するイスラエルの民は3万2千人です。敵の四分の一にも及びません。どう考えても圧倒的に不利です。彼らはどうして勝ち目がないような戦いに挑もうとしているのでしょう。そもそもこの民を率いているギデオンとは何者なのでしょう。
彼らが向き合っているミディアン人やアマレク人や東方の諸民族というのは、駱駝に乗って移動しながら生活している遊牧民です。彼らは定住している他の民族から略奪することによって生活の資を得ている。そんな人々です。例にもれず、イスラエルの民も度々略奪にあっていました。種を蒔き、農作物を育て、やっと刈り入れという時期になるとミディアン人がやってくるのです。彼らは農作物だけではありません。羊や牛やろばまで奪っていくのです。
6章には次のように書かれています。「彼らはイスラエルの人々に対して陣を敷き、この地の産物をガザに至るまで荒らし、命の糧となるものは羊も牛もろばも何も残さなかった。彼らは家畜と共に、天幕を携えて上って来たが、それはいなごの大群のようで、人もらくだも数知れなかった。彼らは来て、この地を荒らしまわった」(6:4‐5)。
そのような悲惨な時代にギデオンという男が登場してまいります。彼の登場シーンは次のように描かれています。「さて、主の御使いが来て、オフラにあるテレビンの木の下に座った。これはアビエゼルの人ヨアシュのものであった。その子ギデオンは、ミディアン人に奪われるのを免れるため、酒ぶねの中で小麦を打っていた」(6:11)。
酒ぶねの中で小麦を打っていた男。それがギデオンでした。酒ぶねとは岩をくり抜いて作った穴です。そこに隠れて脱穀していたのです。当時の脱穀は風の吹くところで行うものなのです。風で殻を吹き飛ばして実を分けるのです。酒ぶねの中のような、そんな風通しの悪いところでちまちまと小麦を打っていて、うまく脱穀できるはずがありません。しかし、そうせずにはいられないほど、彼はミディアン人の襲来を恐れてビクビクしていたのです。
しかし、そんなギデオンのもとに主の御使いが現れて、こう言ったというのです。「勇者よ、主はあなたと共におられます」(12節)。酒ぶねに隠れているギデオンに「勇者よ」と呼びかけるのは、普通に考えれば、たちの悪い皮肉かジョークです。しかし、神はわざわざ御使いを遣わして大真面目に語られるのです。「勇者よ」と主は彼を呼ばれる。それは彼が強いからでも勇敢であるからでもありません。主にとって重要なのは、今、彼が《何者であるか》ではないのです。彼が《何者になり得るか》ということなのです。そこで決定的に重要なのは続く一言です。「主はあなたと共におられます」。彼が何者になり得るかは、まさにこの一言にかかっているのです。
かつて同じ言葉を聞いた一人の男がいました。彼は殺人を犯して逃亡し、人目を避けて何十年も羊を追いながら生活していた一人の羊飼いでした。その名をモーセといいます。主は彼に現れて言われました。「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」(出エジプト記3:10)。
これも普通に聞けば悪い冗談以外の何ものでもありません。当時の超大国であるエジプトの支配から奴隷の民を連れ出すことなんてことを一介の羊飼いにできるはずがありません。当然モーセは言いました。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」(同11節)。しかし、そこで主が言われた言葉はこうでした。「わたしは必ずあなたと共にいる」(同12節)。
「わたしは何者でしょう」とモーセは言います。しかし、何者であるかは主にとってはどうでもよいのです。主にとって重要なのは彼が《何者になり得るか》ということだからです。そこで決定的に重要なのは「わたしは必ずあなたと共にいる」という一言です。まさにこの一言にかかっているのです。そして、モーセはイスラエルの解放者となりました。そして、今、主は御使いを通してギデオンに語られるのです。「主はあなたと共におられます」と。
主が共におられるからこそ
ギデオンは「主はあなたと共におられます」という言葉を受け止め、立ち上がりました。そうです、主の言葉を信じて立ち上がったのです。そして、彼はやがて《主が共におられる》とはどういうことかを知ることとなるのです。しかし、それはギデオンが予想もしなかった仕方においてでした。それが今日お読みした聖書箇所に書かれていることです。
先にも触れましたように、ミディアン人、アマレク人、東方の諸民族が結集した陣営は13万5千人にも及びました。イズレエルの平野に広がる大軍に、イスラエルはどう考えても太刀打ちできません。しかし、ギデオンは主を信じて戦うことを決断します。彼はついに角笛を吹き鳴らしました。
戦うためには、まず人を集めなくてはなりません。イスラエルには他の諸民族のように、訓練された常備軍がいるわけではありません。人をかき集めて戦うのです。まずギデオンの身内であるアビエゼルの氏族が集まってきました。それだけでは足りません。ギデオンは必死でした。自分が属するマナセの部族の隅々にまで使者を送り、人々を呼び集めます。それでも足りません。さらには北方の部族であるアシェル、ゼブルン、ナフタリにも使者を遣わしました。こうして戦いに備えて人々をなんとかかき集めました。最初に申しましたように、その数は3万2千人です。まあ、よくかき集めたと思います。
もちろんそれでもなお敵の数には遠く及びません。しかし、ギデオンは諦めませんでした。今日お読みした朗読の箇所にはこう書かれています。「エルバアル、つまりギデオンと彼の率いるすべての民は朝早く起き、エン・ハロドのほとりに陣を敷いた。ミディアンの陣営はその北側、平野にあるモレの丘のふもとにあった」(1節)。彼らは3万2千人しかいないのに、それでも進んで行き、戦うつもりでいたのです。
ところが「共におられる主」はギデオンにこう言われました。「主はギデオンに言われた。『あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。』こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った」(2‐3節)。いくらなんでもあんまりではないですか!ただでさえ少ないのです。それだってギデオンが必死でかき集めた人数です。主はそれを三分の一以下にしてしまわれました。主はギデオンの軍隊をあえて弱くされたのです。
ところが主はさらに言われます。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない」(4節)。そして、水辺に下った時、常に戦える用意をしながら水を手にすくってすすった者だけを残したのです。戦いを忘れ、膝をついて水を飲んだ者は帰らせました。残ったのはたった3百人でした。ギデオンがせっかく3万人以上集めたのに。
主が共におられるとはどういうことですか。全てが順調に願った通りに進むことでしょうか。どうもそうではないらしい。主が共におられるということは、時としてこのように、徹底的に弱くされるという形になるのです。
ここに書かれていることは、私たちにも覚えがあります。せっかく集めたものを散らされてしまうようなことが起こります。せっかく積み上げてきたものが崩れてしまうようなことが起こります。せっかく集めた3万2千人を3百人にされてしまうようなことが起こります。それまでの努力が水の泡になってしまうようなことが起こります。力をそがれます。弱くされます。そうです、徹底的に弱くされるようなことが起こります。
しかし、神様は言われるのです。「あなたが頑張って、あなたがかき集めて、あなたが積み上げて、それで乗り越えたならば、心がおごり、『自分の手で救いを勝ち取った』と言うだろう」と。そうです、人は「わたしがやった」「わたしたちがやり遂げた」と言うようになるのです。その時、自分が主と共にいるかどうかは、どうでもよくなるのです。しかし、それは人間にとって本当は最も不幸なことなのです。
だからこそ、そうならないように、主は時として3万2千人を3百人にされるのです。人間の願いとは逆行するようなことが起こるのです。人間の力ではどうにもならないところに置かれるのです。しかし、それが人の目には最悪の状態であったとしても、それは主に見捨てられたことを意味するのではないのです。
その3百人はどうしたのでしょう。彼らは夜中に三つの小隊に分かれ、角笛と空の水がめを持って出て行きました。松明の光を水がめで隠しながら、気付かれないように敵陣を包囲する形で近づいたのです。そして、一斉に角笛を吹き、水がめを割って大きな音を出し、松明をかざして角笛を吹き続けたのです。この奇襲攻撃に敵陣は大混乱に陥りました。そして、結局かの13万5千人の大軍は3百人の前に敗走したのです。
この世の目から見るならば、ギデオンの作戦勝ちと言えるでしょう。しかし、自分が一生懸命集めた人々を神様によって散らされ、頼れる人間の力をそがれ、徹底的に弱くされたてしまったギデオンには分かっていたはずです。これは主の勝利である。人間の願い通りに進まなかったところにおいて、最も弱くされたところにおいて、主の偉大な力が現されたのだ、と。主は確かにギデオンと共におられた。そして、ここにいる私たちと共にいてくださいます。どこまでも主に信頼し、主と共に歩んでまいりましょう。
(祈り)
2023年10月18日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 12:1~13
ヘブライ人への手紙 12:1‐13
二回にわたってヘブライ人への手紙11章を読んでまいりました。信仰者列伝と呼ばれるその箇所には、「信仰によって」という言葉が繰り返され、信仰に生きた人たちの姿が次々と描き出されていました。
そこには生ける神の奇跡を経験し、助け出され、勝利を得た人たちや、死んだ身内を生き返らせてもらった人たちのことが書かれていました。その一方で、迫害の中で拷問にかけられ死んで行った人たちのこともまた書かれていたのです。しかし、彼らは死んだ身内を生き返らせてもらうこと以上のこと、「更にまさったよみがえりに達するために」あえて釈放を拒み、拷問にかけられたのだとこの手紙は語ります。それは「信仰によって」です。彼らは皆、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を見ているかのように確認しながら生きたのです。
先週お話ししましたように、いにしえの信仰者たちを思います時に、私たちは何を見ているのだろう、と思わずにはいられません。私たちは、信仰のゆえにどれほど苦しんだと言うのでしょう。私たちが信仰のゆえに耐え忍んできたことは、どれほどのことだと言うのでしょう。
しかし、考えてみれば、ここで挙げられている人たちは旧約の時代の人たちなのであって、永遠の大祭司であるキリストも、またキリスト自らが罪の贖いの犠牲となってくださったことも知らない人たちなのです。新約の時代の私たちにとっては当然のごとくに耳にしている福音のすべても知らなかった人たちなのです。これらの人たちは、まさに信仰に生きた人たちでした。しかし、私たちは更にまさったものをいただいているのです。「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださった」(40節)と書かれているとおりです。
もちろん、神が私たちのために計画し、与えてくださったキリストの到来と、その後の新約の時代のすべては、いにしえの信仰者たちの歴史によって準備されたものでした。私たちが「更にまさったもの」をいただいているのは、一重に彼らのお陰でもあるのです。彼らの信仰の歩みなくして、今の私たちはないのです。
しかし、ここで非常に興味深いことに、その逆もまた真なりと語られているのです。すなわち、彼らなくして私たちはないように、私たちなくして彼らが全うされることもない、と語られているのです。「わたしたちを除いては(わたしたちなくしては)、彼らは完全な状態に達しなかったのです」(11:40)と。
彼らが信仰の歩みを全うすることが、今の私たちにとって重大なことであるように、私たちが信仰の歩みを全うすることは、彼らにとって重大なことのようです。彼らがどんなに素晴らしい信仰者であっても、彼らだけでは完結しないのです。私たちあってこそ、彼らもまた完結する。彼らも私たちも共に神の安息にあずかり、共に完全な状態に達するのです。
だからこそ、既に信仰の生涯を忍耐強く走り抜いた彼らが、私たちの信仰生活に注目しているのだ、と言うのです。一人や二人ではありません。今日お読みしたところには、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている」と書かれているのです。信仰のゆえにのこぎりで引かれた人たち、剣で斬り殺された人たちもそこにいるのです。いわば彼らは、「わたしたちが苦しみを耐え抜いたことを無駄にしないでくださいよ、あなたたち抜きでは完成しないのですよ」と言いながら、私たちの信仰生活に注目しているのです。
ですから次のように勧められているのです。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(1‐2節)。
「忍耐強く走り抜こう」と表現されている信仰生活は、短距離走というよりもむしろ長距離走に喩えられるのでしょう。長距離をゴールに向かって走るときに、余計なものをごてごてと身につけて走る人はいません。負う必要のない重荷は極力降ろしていく必要があるのです。そのためには生活をシンプルにすること、物事の優先順位を明確にすることが不可欠なのでしょう。長距離を走るランナーは、ゴールに向かって走ることから、すべての優先順位を決めているわけでしょう。信仰生活も同じです。
しかし、重荷以上に深刻なのは「絡みつく罪」の問題です。何かが絡みついてきたら走れなくなるでしょう。ここで「絡みつく罪」ということで具体的にどのようなことが念頭に置かれているかは、既に3章以下に見てきたとおりです。「兄弟たち、あなたがたのうちに、信仰のない悪い心を抱いて、生ける神から離れてしまう者がないように注意しなさい。あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」(3:12‐13)。そのように書かれているように、第一に問題とされているのは不信仰なのです。苦難の中において、神の真実を疑い、心をかたくなにし、生ける神から離れてしまうことなのです。
そうならないためにも二つのことを心に留めなくてはなりません。第一に、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」走るということです。イエス様から目を離さないことです。そのイエス様とは、特に「御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになった」というイエス様です。
そして第二に、旧約聖書に記されている次の勧告の言葉を忘れないことです。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」(5‐6節。箴言3:11‐12からの引用)。
4章にも「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちからでないように、気をつけましょう」(4:1)と書かれていました。約束はまだ続いているのです。ですから苦難や困難があることは、私たちが神に見捨てられたことを意味しないのです。神の愛が失われたことを意味しないのです。神は変わることなく慈愛に満ちた父であり続けているのです。
問題は私たちにそれが分かるかどうかなのです。この世の親子でも子が必ずしも父の意図を理解してはいないように、天の父との関係でもそれが起こります。大切なのは神が愛をもって私たちを子として取り扱っておられることを知ることなのです。
そこには父の目的があります。聖書は私たちに、地上における父親と神様を対比してこう語ります。「肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(10‐11節)。
父の目的は、私たちを清めることです。それは私たちが平和に満ちた実を結ぶようになるためなのです。「平和(シャーローム)」とは、神と共にあって神と調和して命が満ち溢れている状態です。それがこの地上においてだけでなく、永遠にもたらされる、そのような実を結ばせるために、神様は訓練されるのです。私たちが神を離れ、罪を犯し、罪の実ばかりを実らせる者であることを神様が放っておかれるとしたら、それこそ恐ろしい裁きであるに違いありません。
キリストに目を向け、父の意図を知る。そうあってこそ私たちは忍耐強く走り続けることができるのです。
2023年10月15日日曜日
「現在はプロセスに過ぎません」
フィリピの信徒への手紙 1:1-11
わたしは感謝します!
今日は「フィリピの信徒へ手紙」の冒頭部分をお読みしました。最初に挨拶があり、3節から手紙の本文に入ります。原文においては「わたしは感謝します!」という言葉から始まります。これは実に印象的な書き出しです。
この手紙は「獄中書簡」と呼ばれるものの一つです。彼は獄中にいる囚人としてこれを書いているのです。しかも、パウロが獄中にいる間、彼に敵対する者たちが自らの勢力を拡大するために日夜働きを進めていたのです。15節以下にはこう書かれています。「キリストを宣べ伝えるのに、ねたみと争いの念にかられてする者もいれば、善意でする者もいます。一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです」(15‐17節)。
しかし、そのような状況にも関わらず、それでもなお「わたしは感謝します!」と彼は言うのです。このように、彼が神に感謝を捧げているのは、彼が望ましい境遇にあるからではないのです。感謝の言葉など出て来ようはずもない状況において、彼はフィリピの教会を思いつつ、神に感謝を捧げているのです。
彼はフィリピの教会を思い起こしながら、感謝を捧げます。彼自身は望ましい境遇になくても、フィリピの教会そのものは喜ばしい状態にあったからでしょうか。いいえ、そうではなさそうです。例えば、2章においてパウロは次のように書いています。「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください」(2:2)。つまり、現実にはそうなっていないということです。
また、この教会にも、他の教会と同じように異端の教師たちが入り込んでいました。ゆえに、パウロはこの同じ手紙の中で、実に激しい言葉でこのように語っているのです。「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい」(3:2)。このようにフィリピの教会もまた他の教会と同じように、獄中にいるパウロの心を痛め、悩ませる要素を沢山持っていたのです。
しかし、それでもなお彼は「わたしは感謝します!」と言うのです。さらには「あなたがた一同のために祈る度に、喜びをもって祈っています」(4節)と言うのです。彼はそのような状態にあってもなお喜びをもって祈ることができるのです。なぜでしょう。その理由は5節に書かれています。「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」(5節)。
パウロが二回目の伝道旅行においてフィリピを訪れた時、彼らに初めてイエス・キリストの福音が宣べ伝えられました。彼らは福音を聞いてキリストを信じました。彼らの信仰生活が始まりました。それは信じた彼らが始めたと言えなくはありません。しかし、それ以上に重要なことは、神が善き業を始められたということです。神の救いの御業が始まっているのです。「福音にあずかっている」とはそういうことです。
ですから、パウロは神がなさっていることに目を向けてこう言うのです。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)。そうです、だから「わたしは感謝します!」と言っているのです。神に感謝しているのです。
最初の日から今日まで
神が始められた善き業がある。完成へと向かう神の善き業が進行中である。そのように、神がなさっていることに目を向けることは重要です。
しかし、もう一方において、人間の側がしていることに目を向けることも重要です。彼らはキリストを信じて、実際に信仰生活をスタートし、それを継続しているのです。そうです、「継続している」という人間の側のこともまた重要なのです。それゆえに、パウロはここで、「最初の日から今日まで」という言葉を使っているのです。パウロの言わんとしているのは、彼らが「福音にあずかり続けている」ということなのです。
この世における様々な困難や誘惑の中にあってなお、彼らは共に集まり、礼拝を捧げ、聖餐を行い、キリストの体と血とに与り続け、信仰に留まっている。――それがここで語られていることに他なりません。そして、大切なことは、パウロのこの言葉において、明らかに「今日まで」という言葉が「最初の日」という言葉と同じ重みを持っているということです。「最初の日」だけが重要なのではないのです。
この国においてキリスト教人口はいまだ1パーセントに過ぎません。そのような社会の中で洗礼を受けてキリスト者となるということは、一般的に大きな決断を伴います。洗礼を受けるまでに大いに悩んで考えて何年もかけて決心に至る人も少なくありません。そして、神の御前において畏れをもって洗礼を受けるのです。そのように洗礼と入信という、「最初の日」は大変重く受け止められるものです。
しかし、その「最初の日」と同じほどに重要なのが「今日まで」ということなのです。今、ここにおいてキリストを信じる者として恵みにあずかっているという事実なのです。そのように信仰生活が継続されていることなのです。繰り返し変わることなく聖餐卓を囲んで礼拝を続けていることなのです。「洗礼」だけでなく、その後に繰り返しあずかることになる「聖餐」もまた同じように重く受け止められなくてはならないのです。
パウロにはその重さが分かっているのです。実際には問題が山積している教会かもしれない。パウロとの関係も常に良好であったわけではありません。しかし、それでもなお、パウロは彼らを思い起こす度に喜びをもって祈るのです。彼らが「今日まで」福音にあずかり続けていること、信仰生活を続けているということがどれほど大きな意味を持っているかが分かっているからです。それゆえに喜びをもって祈っているのです。
キリスト・イエスの日までに
そのようにパウロが「最初の日」だけでなく「今日まで」を重く見ているのは、その先に「キリスト・イエスの日」があるからです。6節をもう一度読んでみましょう。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています。」
もしある二人が結婚式を挙げようとしているならば、一生懸命に結婚式の準備をするに違いありません。しかし、考えてみれば、結婚式の準備も大事ですが、それ以上に大事なことは結婚の日に向けて自分自身を備えることでしょう。では、結婚式ではなくてお葬式であったらどうでしょうか。最近では生前から葬儀の準備をする人も増えてきました。しかし、これも考えてみれば、葬式の準備以上に大事なことは、葬式の日に向けて、正確に言えば人生の終わりの日に向けて、自分自身を備えることであると言えるでしょう。結婚の日と違いまして、人生の終わりの日にはすべての人が等しく向かっていますから、これは皆に当てはまるわけです。
しかし、私たちは「人生の終わりの日」よりももっと大事な日に向かっているのだと聖書は語っているのです。それは「キリスト・イエスの日」です。「キリスト・イエスの日」というのは、終末におけるキリスト再臨の日であり、私たちがキリストと相見えることになる終わりの日です。ならば、その日に向けて自分自身が備えられることは、人生の終わりに向かうこと以上に重要なことです。
その日に向けて備えられるということで、パウロはどのようなことを考えていたのでしょう。それはパウロの祈りの言葉によく表れています。9節以下をご覧ください。
「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力とを身に着けて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。そして、キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところのない者となり、イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」(9‐11節)。
さて、私たちはそのような者に、本当になれるのでしょうか。他の人についてそう思えますか。自分自身について、そう思えますか。もしかしたら、そうなれると信じることは、とても難しいことかもしれません。
しかし、だからこそ私たちはパウロが「祈っている」という事実を忘れてはならないのです。それはとりもなおさず、このことを神に求めてもよいのだ、ということを意味するからです。究極においては、これは私たちの成し遂げることではなく、神が始め、神が成し遂げてくださることなのです。パウロはこう言っていましたでしょう。「あなたがたの中で善い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」(6節)と。
これは私たちの成し遂げることではなく、神が始め、神が成し遂げてくださること――だからこそ、大切なことは、その神が与えてくださった福音に与り続けるということなのです。「最初の日から今日まで」です。そして、明日も明後日もその次の日も、キリスト・イエスの日まで。「イエス・キリストによって与えられる義の実をあふれるほどに受けて、神の栄光と誉れとをたたえることができるように」、その日に向けて福音に与り続けることが大切なのです。
現在は救いの完成に至るプロセスに過ぎません。結論が出るのはキリスト・イエスの日です。現在、目に映るところがどのような状態であれ、パウロのように「わたしは感謝します!」と神に感謝を捧げながら、神の成し遂げてくださる御業を信じて、共に祈り続けてまいりましょう。
2023年10月11日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 11:17~40
ヘブライ人への手紙 11:17~40
先週から11章に入りました。ここは信仰者列伝と呼ばれる箇所です。その冒頭には、信仰が何であるかが短く次のように表現されていました。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(1節)。そして、実際にそのように生きた人々が次々と登場するのです。今日はその後半部分を見ていきましょう。
先週、特にアブラハムについて見たわけですが、今日の箇所でもその話が続いています。まず著者が目を向けているのは、ご存じのようにアブラハムがイサクを焼き尽くす献げ物として献げよと命じられた話です。創世記22章を見ますと、アブラハムがイサクをモリヤの山に連れて行き、刃物を取ってイサクを屠ろうとした次第が書かれていますが、それは「信仰によって」なのだと著者は語っているのです。「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と約束を受けたアブラハムが、その独り子であるイサクを屠るということが何を意味するかに目を向けさせるのです。
目に見えるところでは、約束に反する方向にことは進んでいるのです。目に見えるところでは、神はどう考えても不真実なのです。創世記の話では、屠ろうとしたまさにその時に神が御使いを通してストップしたことが書かれています。結果的にはイサクは死ななかった。確かにそうです。しかし、アブラハムの心の中では、モリヤへと出発した時から既にイサクは死んでいるのです。神がストップしてくれることは前提になっていないのですから。
死んでしまったら、それが結論であるように見えるでしょう。神が真実か不真実かもそこで決まってしまうように見えるものでしょう。しかし、アブラハムはそれでもなお神を信じたのです。イサクが既に死んでしまったとしても、望みが完全に絶たれたとしても、それでもなお神は約束を守るし、神は真実であるとアブラハムは信じていたのです。旧約聖書にそのとおりに書かれているわけではありませんが、確かにこの手紙が語っているように、いわばアブラハムは、「神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じた」と言えるでしょう。実際、神がストップをかけたわけですが、それはアブラハムにとっては死人をよみがえらせて返してもらうに等しい出来事だったからです。
その後に、イサクの信仰、ヤコブの信仰、ヨセフの信仰について書かれています。自分自身は約束されたものを得ていないのですが、それでもなお子どもたちを祝福するということは、まだ見ていない事実、未来に属する事実を信じているということです。約束してくださった方は真実であると信じ、見ていない事実を信仰によって見ているがごとくに生きたのです。
続いて取り上げられているのはモーセにまつわる話です。最初にモーセの両親、次いでモーセ自身、そしてモーセに率いられたイスラエルの民の信仰について書かれています。
モーセの両親が生まれた男の子を三ヶ月間隠していたのは、「信仰によって」であったと書かれています。目に見えるところにおいては、絶対的な権力を持ち、命じる権威を持っているのは明らかにファラオなのです。しかし、モーセの両親は目に見えるものだけを見て生きなかったのです。目に見えない御方、まことの支配者を見て、その御方に信頼したのです。
この両親に育てられたモーセは、成人した時、王女の子と呼ばれるよりも、神の民と共に虐待される方を選びました。ここにはなんと「キリストのゆえに受けるあざけり」と記されています。モーセはもちろん知らなかったかも知れません。しかし、彼が信仰によって受けたあざけりは、後にキリストのゆえに迫害を耐え忍んだキリスト者の受けたあざけりと同質のものだったのです。それは目に見えない御方、約束してくださった神に信頼し、まだ見ぬ約束された報いに目を注ぐゆえに、あえて受け取っていった苦難だったからです。モーセは「目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいた」のです。それが信仰なのです。
エジプト脱出の時、神は過ぎ越しの小羊を屠り、その血を柱と鴨居に塗ることを命じました。滅ぼす者による裁きを免れたか否かは、彼らが正しい人間であったか否かによるのではありませんでした。神の言葉を信じて、信頼して、血を塗ったか否かによったのです。
エジプトを脱出したあの葦の海を前にしてエジプト軍に追いつかれた時、モーセは人々にこう言いました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい。」
目に見えるのは迫り来るエジプト軍だけなのです。神の軍勢は見えないのです。そのような危機において静かにしていることは困難です。しかし、彼らは信じたのです。そして神によって海が分かれました。彼らは海の中に出来た道を通って向こう側に行けると信じたのです。実際、その道を踏み出すということは、信仰なくしてはできないでしょう。事実同じ道を通りながらエジプト人は滅びたのですから。あの葦の海の奇跡、それはただ神によって海が分かれたということではなくて、「信仰によって」彼らが海を渡る出来事でもあったのだ、と聖書は伝えているのです。
続いてヨシュアの時代の出来事が二つ記されています。一つはエリコ攻略の話(ヨシュア6章)、もう一つは娼婦ラハブが斥候をかくまった話(ヨシュア2章)です。
エリコを攻めるに当たり、神が命じられたのは次のことでした。「あなたたち兵士は皆、町の周りを回りなさい。町を一周し、それを六日間続けなさい。七人の祭司は、それぞれ雄羊の角笛を携えて神の箱を先導しなさい。七日目には、町を七周し、祭司たちは角笛を吹き鳴らしなさい」(同6:3‐4)。
人間の目に映っているのは堅固な城壁に囲まれた町です。その周りを巡ることに何の意味も見出せなかったに違いありません。しかし、彼らは目に見えるものよりも、「見よ、わたしはエリコとその王と勇士たちをあなたの手に渡す」という約束を与えてくださった主を信じたのです。彼らは信仰によって町の周りを回ったのです。そして、まだ見ていなかった報いを信仰によって得たのでした。城壁は崩れ落ちたのです。
ラハブが斥候をかくまった時、彼女はこう言いました。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」(同2:11)。目に見えるところにおいては、彼女は堅固な城壁に囲まれた難攻不落の町の中にいるのです。しかし、彼女は目に見えないまことの神に目を向け、「様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れ」、彼らに救いを求めたのです。
彼女には一つのことが科せられました。窓に真っ赤なひもを結びつけること。そして、一族を家に集め、戸口から外へ出ないことでした。彼女は、まだ見ていない未来の出来事を信じ、まだ何も起こらない内から、真っ赤なひもを窓に結びつけました。彼女とその一族が助かったのは、正しかったからではありません。ただ信仰によったのです。
そして、この著者は「これ以上、何を話そう。もしギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちのことを語るなら、時間が足りないでしょう」とこの著者は言います。まさにその通りでしょう。今日に至るまで、夥しい人々が信仰に生きてきたのです。彼らのある者たちは、生ける神の奇跡を経験し、助け出されたり、勝利を得たりしました。しかし、もう一方において、ある者たちは迫害の中で拷問にかけられたり、のこぎりで引かれたりして死んでいったのです。では彼らは奇跡を経験した人々よりもは不幸な人々なのか。そうではありません。彼らは「さらにまさったよみがえりに達するために、釈放を拒み、拷問にかけられました」と書かれているのです。その直前には、「死んだ身内を生き返らせてもらいました」と書かれているのです。しかし、そのような奇跡を経験することよりも大きな喜び、大いなる神の御業、「さらにまさったよみがえり」に彼らは目を向けていたのです。それを思うならば、拷問にかけられることは何でもなかったというのです。
ここまで読みまして、本当に私たちは何を見ているのだろう、と思わせられます。私たちは、信仰のゆえにどれほど苦しんだと言うのでしょう。私たちが信仰のゆえに耐え忍んできたことは、どれほどのことでしょうか。キリスト者とされたということはどういうことか。それは「信仰によって」と繰り返されてきたその人々の列に、私たちもまた加えられているということなのです。そのことと改めて向き合う必要があろうかと思うのです。
2023年10月8日日曜日
「人と人との関係は変わり得る」
フィレモンへの手紙 4-12
逃亡奴隷オネシモ
本日の第2朗読では、フィレモンへの手紙というパウロが書いた短い手紙の一部が読まれました。この手紙は「獄中書簡」と呼ばれるものの一つです。パウロが監禁されていた時に書かれたものです。
そのように獄中に監禁されていたパウロのもとにオネシモという人物がいました。彼はパウロを通してイエス・キリストを知り、信仰を持った人です。10節に「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」と呼ばれているのは、そのような意味です。しかし、実のところを言いますと、彼は逃亡者なのです。主人のもとから逃亡した奴隷です。
当時のローマ社会はまさに奴隷によって成り立っていると言えるほどに奴隷が多かったのですが、彼もまたその一人でした。そのオネシモが、主人のものを盗んだか、あるいは多大な損害を与えたかして、そのまま逃げたようなのです。罪を犯した逃亡奴隷が捕まったなら、そこには厳しい処罰が待っています。だから彼は逃げた。必死で逃げて、逃げて、逃げ通したのです。しかし、その末に、どういうわけか監禁中のパウロと出会い、そこでキリスト者となったのです。
オネシモは、キリスト者としてしばらくの間、監禁中のパウロの身の回りの世話をしていたようです。それはパウロにとっても有り難いことであったに違いありません。しかし、パウロは近々オネシモをティキコという人物と共にコロサイの教会に送るつもりでいました。コロサイの信徒への手紙4章7節以下には次のように書かれています。
「わたしの様子については、ティキコがすべてを話すことでしょう。彼は主に結ばれた、愛する兄弟、忠実に仕える者、仲間の僕です。彼をそちらに送るのは、あなたがたがわたしたちの様子を知り、彼によって心が励まされるためなのです。また、あなたがたの一人、忠実な愛する兄弟オネシモを一緒に行かせます。彼らは、こちらの事情をすべて知らせるでしょう」(コロサイ4:7‐9)。
このコロサイの教会には、集会のために家を提供していた信徒がいました。その名をフィレモンと言います。今日読まれた手紙の宛先となっている人物です。実は、彼こそが逃亡奴隷オネシモの主人、その人だったのです。つまり、パウロは逃亡奴隷を主人のもとに送り返そうとしていたのです。今日の箇所にも書かれていました。「わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り返します」(12節)。「フィレモンへの手紙」は、そのために書かれた手紙です。
赦しと和解
そのよう手紙ですから、パウロはとにかく考え得る、ありとあらゆる説得の方法を用いて、一生懸命に言葉を選びながら、なんとかフィレモンがオネシモを赦して受け入れるように説き勧めます。「それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします、年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが」(8‐9節)。このような訴えから始まって、ついに18節に至っては、「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう」(18‐19節)とまで言うのです。
ここまでパウロが必死に説得しようとしているのは、フィレモンがオネシモを受け入れるということが、極めて困難であることを予想していたからでしょう。フィレモンはキリスト者なのだから、しかもコロサイの信徒たちの中では中心的な人物なのだから、当然彼はオネシモを赦すだろう、などと考えてはならないのです。なぜなら、当時の社会においては、罪を犯した奴隷を厳しく罰することは、むしろ主人の義務とされていたからです。逃亡奴隷が主人のもとに送り返された時に、赦されて受け入れられるということは、本来あり得ないことだったのです。ですから、これはパウロにとっても、またオネシモにとっても、いわば大きな賭けであったと言えるのです。
そこまでしてパウロはオネシモをフィレモンのもとに送り返そうとしていたのです。なぜでしょう。オネシモもまた同意してフィレモンのいるコロサイに帰ろうとしていたのです。なぜでしょう。そのことを私たちはよく考えたいと思うのです。
先にも申しましたように、フィレモンのもとから逃げたオネシモが、どのような経緯によってかは知りませんが、パウロと出会うことになりました。パウロは、逃亡者オネシモに、福音を伝えたのでしょう。神はあなたを愛しておられる。神はあなたを赦してくださる。イエス・キリストはあなたのために十字架にかかってくださった。罪の贖いは既に成し遂げられた。あなたはキリストを信じて、罪の赦しを受け、神と共に新しく生きることができる。――そして、オネシモはキリストを信じ、バプテスマを受け、罪の赦しを受け、新しく生まれた者として神に仕え、人に仕えていたのです。オネシモを「監禁中にもうけたわたしの子オネシモ」(10節)とパウロが呼んでいるのはそういうことです。
そうです、確かにオネシモは神に赦され、神との間に平和を得たのです。神との関係は正されました。しかし、神との関係が回復されれば、人との関係は壊れたままで良いのか。パウロはそうは考えませんでした。確かに神の一方的な神の恵みによって、神の赦し、神との和解が与えられました。しかし、今度はそれが「人と人との和解」という目に見える実を結ぶようになることを、神は望んでおられるのです。そのために、オネシモはフィレモンのもとにどうしても帰らなくてはならないし、既に神の赦しを受けてキリスト者とされているフィレモンは、オネシモを赦すという困難な課題と向き合わなくてはならないのです。
実際、聖書には神の赦しのみならず、人の赦しについても繰り返し語られているのです。今日の福音書朗読においてもそうです。イエス様は言われました。「あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい」(ルカ17:3‐4)。
普通に考えるなら、「そんな無茶な!そんなことできるか!」という話でしょう。あるいは、「そんなに何度も赦したら、本人のためにならない」などと言いたくなるのではありませんか。しかし、どうですか。神様は私たちに対して、「7回以上赦すとあなたのためにならない」と言って赦すことを打ち切りましたでしょうか。
確かに難しい。赦すことは本当に難しいと思います。しかし、神が私たちに与えてくださった赦しが、私たちの間の赦しとして目に見える実を結ぶことを、神は望んでおられるのです。そのように神の赦しと和解を、私たちの間に目に見える形にすることは、キリストを信じる者がどうしても向き合わなくてはならない課題なのです。オネシモはフィレモンのもとに帰らなくてはならない。フィレモンはオネシモを赦すという課題と向き合わねばならないのです。
さて、フィレモンはどうしたのでしょう。オネシモは赦されたのでしょうか。パウロが望んでいるように、オネシモは愛する兄弟として受け入れられたのでしょうか。この手紙が残っているということは、しかも聖書の中に残っているということは、オネシモが赦され、愛する兄弟として受け入れられ、コロサイの信徒たちにも彼らの一人として受け入れられたことを意味するのでしょう。この小さい手紙は、まさに神の赦し、神と人との和解というものが、人の赦し、人と人との和解という形で実を結ぶことを証しする手紙でもあるのです。
執り成し
そして、さらにもう一つ見落としてはならないことがあります。パウロと彼の手紙が果たした役割です。すなわち《執り成し》です。この赦しも和解も、この《執り成し》なくして実現しなかったわけですから。
先にも引用しましたが、パウロはフィレモンに対して、「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう」(18‐19節)とまで言っています。その直前には、「オネシモをわたしと思って迎え入れてください」と言っているのです。そのように、オネシモを「わたしの心」(12節)とまで言うパウロの、その執り成しの言葉の一つ一つを読みます時に、そこに《キリストの執り成し》が重なって見えてまいります。イエス様は十字架の上で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と執り成し、祈られました。そして、今も、私たちのために天において執り成していてくださるのです(ローマ8:34)。その姿が見えてまいります。
つまり、パウロが果たした役割、執り成しの役割というものは、いわばキリストの執り成しが生み出した目に見える実りに他ならないのです。私たちのために執り成してくださる主は、私たちがそのような実を結ぶことを願っておられるのです。すなわち、キリストの執り成しによって神との間に平和をいただいた人は、今度は人と人との間に平和を実現する者となることが期待されているのです。
そのようにして、執り成された人、赦された人であるオネシモは、その後どうなったのでしょう。聖書の中に彼の名前は、先に引用したコロサイの信徒への手紙にしか出てこないのですが、実は紀元2世紀にアンティオキアの監督イグナティオスによってエフェソの教会に宛てた手紙の中に彼の名前が出てくるのです。「オネシモス(オネシモ)は言い尽くせぬ愛の人、肉においてはあなた方の監督であり、私はあなた方がイエス・キリストに従って彼を愛し、皆彼のようになることを、お祈りしております。あなた方を恵み、こんな監督を持つにふさわしくして下さった方はほむべきかな。」
神の恵みは、罪を犯して逃げ回っていた奴隷を造りかえて、「言い尽くせぬ愛の人」にし、エフェソの教会の監督としたのでした。実に神の御業は、人間の想像を遙かに超える仕方で進められます。しかしそれはまた、神の赦しが、キリストの執り成しが、人の赦しや人の執り成しという目に見える実を結ぶことを通して進められるのです。私たちの内に、神との和解の実が結ばれること、それがたとえ小さい実であっても、私たちが赦すこと、私たちが執り成すことは、神のご計画においては、決して小さなことではないのです。
2023年10月4日水曜日
祈祷会用:ヘブライ人への手紙 11:1~16
ヘブライ人への手紙 11:1~16
これまで繰り返し「信仰」について語られてきました。神が求めておられる唯一のもの、それは信仰なのです。10章末のハバクク書の引用によるように、人が正しい者と見なされるのは、信仰によってなのです。「わたしの正しい者は信仰によって生きる」とあるとおりです。
その「信仰」が何であるかを、著者は次のように短く表現します。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(1節)。望んでいる事柄とは、未来に属する事柄です。まだ手にしていないし、まだ見ていないものです。しかし、人は信仰によって、まだ得ていないものを確信し、見ていないものを確認して生きるのです。すなわち、約束してくださった方は真実であると信じ、約束してくださった方に信頼することによって、まだ得ていないものを確信し、見ていないものを確認して生きるのです。
「望んでいる事柄」「見えない事実」については、既に語られてきました。私たちには、「神の安息にあずかる約束」(4:1)が与えられています。それはまだ未来に属する事柄です。その当時の教会にしても、今日の教会にしても、いまだ苦しみと戦いの中にあるのです。しかし、信仰によって、望んでいる事柄を確信するのです。そして、これは未来に属すると言いましても、その時になって初めて用意されるのではありません。神の安息は既に用意されているのです。「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」と書かれているとおりです。神の御業は既に完成しているのです(4:3)。
神は安息しておられるのです。そして、その安息に私たちをもあずからせようとしておられるのです。それが時間の世界に生きる私たちにはまだ見えていないのです。その見ていないものを見て生きるのです。約束してくださった方は真実であると信頼して、見えない事実を確認して生きるのです。それが信仰です。
神が求めておられるのは信仰です。ですから、信仰なくして神に喜ばれることはできません。それはそうでしょう。神を不真実な方と見なしながら、神に喜ばれることはできないでしょう。「わたしの正しい者は信仰によって生きる」と書かれているとおりです。
その観点から著者は旧約聖書の人物を列挙していきます。最初に上げられているのはアベルです。創世記4章に、アベルの献げ物は受け入れられ、カインの献げ物は受け入れられなかったという話が書かれています。その理由は聖書に記されていません。しかし、既に述べられてきたことからすれば、理由は一つです。それは信仰です。「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神に献げ」たのだとこの著者は言うのです。
エノクについても同じです。「エノクは神と共に歩み、神が取られたのでいなくなった」(創世記5:24)と書かれています。エノクはどうして死を経験しないで天に移されたのか。聖書にはただ「神と共に歩み」とだけ書かれています。しかし、それが何を意味するのかと言うならば、それは「信仰によって」だ、と著者は語るのです。彼が神に喜ばれる者として神と共に歩んだのだとするならば、それは信仰によってなのだ、と。
次に挙げられているノアについては、信仰の事柄がより明らかになっています。ノアは洪水について告げられたのです。それは未来に属する事柄です。まだ見ていない事柄なのです。しかし、ノアはまだ見ていない事柄を見るようにして、箱船を造ったのです。結局、救いと滅びとを分けたのは、善悪ではなかったのです。信仰だったのです。ノアは公に箱船を造ったのであって、その姿はこの世に対するしるしだったのですから。他の人々も信じるなら救われたのです。しかし、ノアは信仰に基づく義を受け継ぐ者となり、世界は不信仰に基づいて罪に定められたのです。
ここまでアベル、エノク、ノアについて語られてきました。それはかなり粗い議論であることは確かです。しかし、それは大して重要なことではありません。彼らの話を助走として本当に語りたいのはアブラハムについてだからです。アブラハムとサラの姿こそ、信仰が何であるかを雄弁の物語っているのです。
アブラハムは、自分が受け継ぐことになる土地に出て行くよう召し出されると、行き先も知らずに出発したのです。約束されたものはまだ見ていないのです。見ることは未来のことです。しかし、約束してくださった方が真実であると信じて出発しました。これが信仰です。
そして彼は約束の地に着きました。しかし、アブラハムの物語に見るように、彼はその土地を得ることはありませんでした。彼が得た土地と言えば、サラが死んだ時に墓とするために買ったマクペラの洞穴ぐらいです。彼は生涯、寄留者として生活することになりました。約束の地にありながら、他国に宿るようにして幕屋に住んだのです。
その息子のイサクも、孫のヤコブも同様です。しかし、アブラハムは神を不真実であると見なしたでしょうか。アブラハムの物語には、彼が神を不真実だと詰る場面は出てこないのです。そうではなくて、アブラハムはこの時でも、なおまだ見ていないものを信仰によって見ていたのだと言うのです。すなわち、アブラハムは神が設計者であり建設者である都を待望していたのだ、と。確かに、彼が買った土地がお墓だけだったということは、そのことを象徴していると言えるでしょう。
サラはどうでしょう。サラは不妊の女でした。年齢も盛りを過ぎていました。しかし、ヘブライ人への手紙は、「約束をなさった方は真実な方であると、信じていた」と語ります。創世記の物語には、実際には彼女は信じなくて「笑った」という話が出てきます。しかし、そのような自分の内にある不信仰にあらがって、彼女は信じたのだ、そして、信じたとおり、多くの子孫が生まれたのだ、と聖書は見ているのです。
しかし、大事なことは、サラにしてもアブラハムと同様、この地上のことだけを考え、死の手前までを考えるならば、「約束されたもの」は手に入れなかったと言えます。そうです、彼らは約束されたものは手に入れないで死んでいったのです。アブラハムとサラのみならず、イサクにしても、ヤコブにしてもそうなのです。
ではこれらの人々は、神の不真実を思って死んでいったのか。いいえ、そうではないのです。先にアブラハムについて言えたことは、アブラハムを含めこれらの人々すべてに言えるのです。次のように書かれているとおりです。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」(13節)。
死の手前までしか見ないなら、神様が不真実に見えることはいくらでもあります。この目に見える地上の人生だけを見、目に見えるこの世界だけを見ているならば、神様が不真実に見えることはいくらでもあるのです。目に見える世界の中においては、彼らは約束のものを得なかった。私たちでもそうです。
しかし、信仰によるならば、死の手前までで神を計ることはしないのです。その向こう側を見るのです。見えない事実を確認するのです。神の真実を信じて、最後まで死の向こうまでを見るのです。彼らは「信仰を抱いて死にました」と聖書が伝えているとおりです。信仰とはそういうものです。彼らは約束されたものをはるかに見て喜びの声を上げていたのだ、と聖書は伝えるのです。信仰とはそういうものです。
彼らは喜びの声を上げながら、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを言い表して生きました。すなわち、あくまでも旅人として生きたのです。旅人には目的地があります。彼らが目指していたのは故郷なのです。この世の故郷ではありません。ヘブライ人への手紙は、これを天の故郷と表現します。これまでに語られてきた神の安息にあずかる希望がこのように表現されています。信仰者はそのように天の故郷に向かう旅路を行く者なのです。
そのように天の故郷を熱望して生きたアブラハム、イサク、ヤコブの神であることを、神は恥となさいませんでした。神自ら「わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である」と名乗られたのです。同じように、私たちもまた信仰によって生きるなら、その名前の列に私たち自身の名前を加えることができるでしょう。神は私たちの神と呼ばれることを恥となさることはありません。
2023年10月1日日曜日
「金持ちとラザロ」
ルカによる福音書 16:19-31
人間の無関心・神の関心
今日の福音書朗読で読まれましたのはイエス様のたとえ話でした。「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。」その金持ちが死んで葬られた後、死後の世界で苦しみ苛まれることになったという話しです。
何のためにイエス様はこのような話をなさったのでしょう。実はこの類いの話はユダヤ人社会においては珍しくなかったと言われます。似たような話がいくつも知られていたのです。恐らくイエス様はそのような中から題材を取られたと思われます。何のためだったのでしょう。金持ちの贅沢を戒めるためでしょうか?金持ちに対する「施しの勧め」でしょうか?
いいえ、恐らくそうではないのです。イエス様が語りかけている相手は金持ちではないからです。この話を聞いているのはファリサイ派のユダヤ人です。少し前を見ると「金に執着するファリサイ派の人々」(14節)と書かれています。これは実に微妙な表現です。普通、ファリサイ派の人は金に執着しているとは思われたくないのです。金に執着して阿漕なことをしている金持ちたちがもう一方にいるからです。その代表は徴税人たちです。ファリサイ派の人たちは、そんな金持ちを軽蔑しているのです。だから彼らと我々は違う、と言いたい。でも本心を言えば、金は欲しい。そんな感じでしょうか。
実際、表向きにはファリサイ派の人は金に執着などしていないのです。律法にかなった正しい生活をしているので悪い金は入ってこない。だから一般的には貧しいのです。その貧しさの中から、敬虔な行いとして「施し」もするのです。イエス様の話を聞いているのは、そんな人たちです。そんなファリサイ派の人たちに「金持ちに対する戒め」を語っても意味がありません。「施しの勧め」などしなくても、既に彼らはしているのです。
ではイエス様がこの話をなさったのは何のためでしょう。これを聞いているファリサイ派の人たちに、イエス様は先にこんなことを言っておられます。「あなたたちは自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである」(15節)。そうです、イエス様が問題にしているのは「心」なのです。このたとえ話においても大事なのはその「心」なのです。
この場合、金持ちなのが問題なのではありません。問題はその「無関心」にあるのです。この金持ちはラザロが門前にいたことは知っています。「ラザロ」の名前さえ知っています。しかし、その苦しみに関心を寄せることはありませんでした。その存在に関心を寄せることはありませんでした。ラザロという人は誰にも心にかけられることはなかった。このラザロに関心を持ったのは犬だけだったと語られているのです。
これが「無関心」の話ならば、それは彼らにもここにいる私たちにも関わっている話です。金持ちであろうがなかろうが関係ありません。貧しい人が他の貧しい人に無関心ということもあり得ますから。愛の反対は憎しみではなく「無関心」なのだと言った人がいました。罪の本質が愛の欠如にあるとするならば、この金持ちの描写は極端に描かれてはいますけれど、実は誰の内にもある罪深さの描写であると言えます。
しかし、ここに語られているのは人間の愛の欠如と無関心だけではありません。そうではなく、神の関心と憐れみもまた語られているのです。犬にしか顧みられなかったラザロ。ひとりぼっちで死んでいき、葬られることすらなかったラザロ。誰からも関心を向けられなかったラザロ。しかし、そのラザロに関心を寄せている方がおられた。神様です。「天使たちによって…連れて行かれた」と書かれていますでしょう。それは、要するに神様によって連れて行かれたということなのです。
死の手前までしか見なければ、ラザロは誰からも顧みられず神からも見捨てられて死んでいった惨めな人と見えるでしょう。しかし、そうではなかったと言うのです。神はラザロを知っておられた。そして、その神が憐れんでくださった。報いてくださった。ラザロが正しい人だったからではありません。貧しかったけれど神を信じる罪のない人であったなどと、どこにも書かれていません。これはラザロがどうであったかではないのです。そこにあるのは人間の苦しみに関心を寄せておられる神の憐れみなのです。
聖書に耳を傾けよ
しかし、このたとえ話は人間の無関心と神の関心を描き出すに留まりません。さらに話は続きます。そして、イエス様が本当に伝えたかったことは後半部分にあるのです。
27節以下を御覧ください。金持ちはラザロと共にいる信仰の父アブラハムに向かって叫びます。「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」。しかし、アブラハムは言うのです。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。」モーセの律法の書と預言者の書を彼らは持っている。つまり彼らは聖書を持っているではないか、ということです。聖書に耳を傾けなさい、と。
これに対して、金持ちはなおも食い下がります。「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」。しかし、これを聞いたアブラハムは彼に言いました。「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(31節)。
死後の世界を知っている者が生き返って、死後の世界の裁きと苦しみを語るなら、それを聞いて人は悔い改めるだろうとこの金持ちは考えました。しかし、本当にそうなのでしょうか。そうではないとアブラハムは言うのです。このたとえ話を通して、イエス様もそう言っておられるのです。
そもそも死後の世界から誰かが生き返って語らなくても、この話を聞いているファリサイ派の人たちは死後の世界を既に信じているのです。ここに語られているように、神の裁きがあること、人によって死後に行く場所が分かれるというのは、他ならぬファリサイ派の人たちが信じていたことなのです。だから、正しい人間が行くところに行きたくて、アブラハムがいるところに行きたくて、宗教的な義務である施しも実践していたのです。
しかし、そのようなところから他者への関心、他者への愛は生まれてくるのでしょうか。いいえ、そうならなかったのです。宗教的な義務として施しをしたとしても、その他の善行を積んだとしても、考えているのは自分の救いのことだけだったのです。ですから、救われるために宗教的な義務は果たすのですけれど、例えば、病気で長い間苦しんできた人がイエス様によって癒されても一緒に喜べないのです。悪霊に憑かれていた人がイエス様によって解放されても一緒に喜べないのです。神に背いて生きてきた人が神に立ち帰っても、そこで一緒に喜べないのです。彼らの苦しみにも彼らの救いにも関心がないからです。
渋谷や新宿で「死後裁きにあう」と大音量でスピーカーを鳴らしている人たちをごらんになったことはありますでしょうか。しかし、他者への関心や愛は、死後の裁きに対する恐怖などから生まれることはないのです。たとえ死後の世界から人が戻っても、死後の世界をリアルに語ったとしても、それによって真の悔い改めが起こることはないのです。この話にしても、イエス様は恐怖を煽るために話しているのではないのです。死後の苦しみをどんなに描き出しても、それによって悔い改めが起こらないことは、イエス様が一番ご存じだからです。せいぜいそこから起こるのは、死後の苦しみをどうしたら免れるかという利己的な関心ぐらいなのです。
では大事なことは何でしょう。この話の中でアブラハムは言っていました。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と。聖書を持っているではないか。聖書に耳を傾けよと言うのです。
聖書が語っているのは、死後の世界の話ではありません。聖書を実際に読んだら分かりますが、聖書には「死んだらどうなる」という話はほとんど全く書かれておりません。そうではなくて、聖書が語っているのは人間の罪と神の愛なのです。人間がどれほど神に背いているのか。そして、それにもかかわらず神がどれほど人間を愛し、赦して救おうとしておられるのかということなのです。その神は、最終的には独り子さえもこの世に遣わして、私たちを赦して救うために御子を十字架にかけられたのです。その神の救いの御業を指し示しているのが聖書なのです。
聖書に耳を傾けなさい。イエス様はこのたとえを通してそう語っておられます。それはさらに言うならば、その聖書の語っていることが、律法と預言者が語っていることが、私において実現していることを知りなさい、罪人を憐れんでくださる神の愛が私において完全に現れされていることを知りなさい、ということでしょう。
そのイエス様の思いは、弟子たちにしっかりと手渡されたのでした。この福音書の最後の部分にこう書かれています。「イエスは言われた。『わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。』そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。『次のように書いてある。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる』」(24:44‐48)。その福音は私たちにも手渡されているのです。