サムエル記上 25:18-44
今日は25章の後半をお読みしました。今日の箇所に入る前に、前回お読みした部分を振り返っておきましょう。
25章の冒頭には、サムエルの死が短く報告され、続いて一つのエピソードが記されています。そこにはナバルとアビガイルという夫婦が登場します。ナバルは「羊三千匹、山羊千匹を持っていた」(2節)とありますように、裕福な牧場主でした。その頃、ちょうど羊の毛刈りの季節、すなわち農業でいうならば収穫感謝祭に相当する祝いの時を迎えていました。
そこでダビデは従者を十人送り、「あなたに平和、あなたの家に平和、あなたのものすべてに平和がありますように。羊の毛を刈っておられると聞きました。…この祝いの日に来たのですから、お手もとにあるものを僕たちと、あなたの子ダビデにお分けください」(6‐8節)と伝えさせます。しかし、ナバルはこれを拒絶します。「ダビデとは何者だ、エッサイの子とは何者だ。最近、主人のもとを逃げ出す奴隷が多くなった。わたしのパン、わたしの水、それに毛を刈る者にと準備した肉を取って素性の知れぬ者に与えろというのか」(10‐11節)と答えてダビデの送った従者をののしって送り返したのでした。
ダビデのもとに戻った従者は事の一部始終を報告します。これを聞いたダビデは、すぐさま「各自、剣を帯びよ」と命じました。そして、200人を荷物に残し400人を率いて進軍を開始したのです。その意図は次のように本日の箇所に記されています。「荒れ野で、あの男の物をみな守り、何一つ無くならぬように気を配ったが、それは全く無益であった。彼は善意に悪意をもって報いた。明日の朝の光が射すまでに、ナバルに属する男を一人でも残しておくなら、神がこのダビデを幾重にも罰してくださるように」(21‐22節)。
さて、この章に見るダビデの姿は、24章でサウルに手をかけなかった姿とは対照的です。まことに人間というものは、強者からの脅威には耐えられても、弱者からの侮辱には耐えられないものです。しかし、本当に深い問題は「彼は善意に悪意をもって報いた」という言葉に見ることができます。サウルもかつて「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した」(24:18)と言いましたが、それは本質を理解していない言葉でした。重要なのは人間の善意とか悪意ではなく、神を畏れるか否か、裁きを神に委ねるか否かだからです。しかし、今回はダビデ自身がサウルと同じ次元で事態を見、本質的に重要なことを見失い、自ら報復しようとしていたのでした。
今日の箇所は、その続きです。ナバルがダビデの従者たちをののしったことを聞くと、妻のアビガイルはすぐさま贈り物を携えてダビデのもとに向かいます。そして、進軍してくるダビデのまえにひれ伏して、報復を思い留まるよう願います。まず、このアビガイルの言葉に耳を傾けましょう。
彼女は言いました。「御主人様が、あのならず者ナバルのことなど気になさいませんように。名前のとおりの人間、ナバルという名のとおりの愚か者でございます」(25節)。アビガイルが言っているように、「ナバル」というのは「愚か者」という意味です。それは恐らく本名ではなく、彼の行動を象徴的に表す呼び名として物語の中で用いられているのです。
しかし、もう一方において、彼の行動は、この世的に見るならば、単純に「愚か」とは言えないのです。先週も触れましたように、ダビデが求めていたのは、単に祝いにあずからせてくれ、ということではありませんでした。それはヤクザがみかじめ料を求めるようなものだったのです。当時は警察が治安を守るわけではなく、羊の群れは常に略奪の危険にさらされていました。ダビデの集団はそれを防ぐ代わりに分け前を求めたのです。それを拒絶したナバルの行動は、今日で言えば、暴力団の介入を拒絶した企業のトップのような判断のようなものです。また、現実的な問題として、ダビデに利益供与することは、まかり間違えばサウルの怒りを買うことになり、ノブの町のように滅ぼされかねない危険もあったのです。その意味で、ダビデの要求をはねつけたことは、一面においては賢い合理的な行動だったとも言えるのです。
にもかかわらず、聖書は彼を「愚か者」と呼ぶのです。それはなぜなのか。その理由については、この世的な見方ではなく、聖書が「賢い人」として見ているアビガイルと対比して考える必要があるのでしょう。アビガイルについては「妻は聡明で美しかった」(3節)とありますが、この「聡明」というのは洞察力があること、事の本質をしっかりと見ていることを意味するのです。アビガイルが洞察していたこと、彼女に見えていたこととは、いったい何なのでしょうか。
ナバルはダビデを主人のもとを逃げ出した逃亡奴隷に喩えました。それが彼に見えていたことでした。彼には、ダビデの今の状況しか見えていなかったとも言えます。そして、その見方に従って行動したのです。しかし、アビガイルは違っていました。彼女は、ダビデを主との関係において見ているのです。彼女は言います。「主は必ずあなたのために確固とした家を興してくださいます。あなたは主の戦いをたたかわれる方で、生涯、悪いことがあなたを襲うことはございませんから。…また、主が約束なさった幸いをすべて成就し、あなたをイスラエルの指導者としてお立てになるとき、いわれもなく血を流したり、御自分の手で復讐なさったことが、つまずきや、お心の責めとなりませんように」(28‐31節)。
これは単にダビデの怒りを鎮めるためのへつらいではありません。彼女はダビデをあくまでも主によって立てられた未来の王として見ているのです。彼女は目に見えるこの世の出来事やあり様の上に主の支配があることを見ている人なのです。ですから、最終的な神の裁きに委ねるのではなく、ダビデが自分の手で復讐することは神に対する罪になるのだ、と言っているのです。これが聖書の語る「賢さ」です。それに対して、ナバルは人の支配しか見ていないのです。人と人との関わりしか見ていない人なのです。それが聖書の語る「愚かさ」です。それは既に見てきたように、サウルの「愚かさ」でもありました。
もう一つ大変興味深いのは、この物語が、イエス様の語られた「愚かな金持ち」の喩え(ルカ12:16以下)とよく似ている点です。11節のナバルの言葉を見てください。彼の言葉を直訳するとこうなります。「わたしのパン、わたしの水、それにわたしの毛を刈る者にとわたしが準備したわたしの肉をわたしが取って素性の知れぬ者にわたしが与えるべきであるというのか」。しかし、その翌日にはすべて「わたしの」ものを世に残したまま死んでしまうのです。彼はダビデを主との関係に見られなかっただけではありませんでした。自分の持ち物も、自分自身も、すべて主の支配のもとにあることをわきまえない人だったということなのです。聖書はこういう人を「愚か者」と呼ぶのです。
しかし、先にも触れましたように、実はダビデもまた、その愚かさを共有する者となりかけていたのです。サウルを神の油注がれた者として見、神を畏れて自らの手で報復することをしなかった24章のエピソードの直後に、この物語が来ていることには意味があります。前の章において、危機に瀕している時、ダビデの目に映ったのは主の全き支配でした。だから、彼は神を畏れて行動し、サウルを殺さなかったのです。しかし、サウルが去り一息つくと、この章においては、主への畏れを忘れ、人間のことしか見えなくなり、自ら報復しようとしていたダビデがそこにいるのです。そのダビデの目を開かせ、立ち帰らせたのはアビガイルでした。ダビデはそこで再び主の御支配を見、自分の手で復讐することを主御自身が引き留めてくださったことを認めたのです。
ナバルが死んだ後、ダビデが人を遣わしてアビガイルを妻にしたいと申し入れ、彼女がその申し入れに応えてダビデの妻となったこともまた、今まで述べてきたこととの関連で考える必要があります。ダビデはこの世的に見るならば、いまだ逃亡生活を続けている、ヤクザのようなならず者集団の頭なのです。その彼がアビガイルを求めたのは、彼に主の支配を指し示してくれたアビガイルという存在がどれほど大きな意味を持ったかということを示しているのでしょう。それはまさに26章のダビデの行動にもつながるのです。
そして、もう一方において、アビガイルは逃亡者ダビデの中に未来の王を見続けたのです。それはこの世的観点からは見えてきません。あくまでも主との関わりにおいてしか見えてこないことです。アビガイルがダビデの妻となったことは、それがどれほど大きな意味を持っているかを示しているのです。そこに見えてくるのは、本当の「賢さ」です。