2020年10月25日日曜日

「良きものを心に留めて生きること」

 箴言 8:22‐31


天地創造に関わっていた神の知恵

 今日の第一朗読では箴言が読まれました。そこには「わたし」という言葉が繰り返されていました。「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた/深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき」(22‐24節)。

 この「わたし」とは何者でしょうか。少し前の12節に「わたしは知恵」と書かれています。今日朗読された聖書箇所においては、「知恵」が語っているのです。続く25節以下にはこう書かれています。「山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが/わたしは生み出されていた。大地も野も、地上の最初の塵も/まだ造られていなかった」(25‐26節)。

 そこにはまだ人間は登場してきません。創世記には「主なる神は、土の塵で人を形づくった」(創世記2:7)と書かれていますが、その地上の塵すらもまだ造られていない時に、既に「わたしは生み出されていた」と言うのです。知恵は人間が人間に伝えます。知恵を伝えることのできる知恵ある者は知者とか賢者と呼ばれます。しかし、「知恵」そのものは人間に由来するのではありません。人間などまだ影も形もなかった時に、既に「知恵」は存在していたというのです。

 そして、さらに27節以下にこう書かれています。「わたしはそこにいた、主が天をその位置に備え、深淵の面に輪を描いて境界とされたとき、主が上から雲に力をもたせ、深淵の源に勢いを与えられたとき、この原始の海に境界を定め、水が岸を越えないようにし、大地の基を定められたとき」(27‐29節)。

 ここに語られているのは神の天地創造の話です。天地創造において、知恵が、「わたしはそこにいた」と言っているのです。「そこにいた」というのは、ただ存在していたということではなく、「関わっていた」という意味です。天地創造に関わっていたというのですから、この「知恵」とは天地を造られた神の「知恵」です。

 この世界の成り立ちに神の知恵が関わっているという認識は、古代から、この世界を見つめる人々に共通した、一番素朴な認識であると言えます。例えば、他にも詩編104編などにも見られます。「主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている」(詩104:24)。この自然界にはまさに神の知恵が働いたとしか言いようがない美しい秩序があり、法則があり、仕組みがあります。詩編の詩人はその神の知恵に圧倒されているのです。そのような、この被造物世界に現れている神の「知恵」がここで語っているのです。


同じ神に造られた人間として

 さて、続く30節以下に進む前に、今日お読みした「箴言」の言葉を伝えてきたイスラエルの民のことを考えてみたいと思います。

 イスラエルの民は、常に異なる宗教と文化を持つ諸国民との関わりの中に置かれていました。ソロモン王の時代、周辺諸国との貿易は盛んに行われるようになり、急速に国際化が進みました。ソロモン王の後、王国は分裂し、やがて北王国はアッシリアによって滅ぼされ、南王国はバビロニアによって滅ぼされます。生き残ったイスラエルの民は、固有の国土を失い、異教の大国の支配下に置かれました。こうして、イスラエルの民は、バビロニア、ペルシア、ギリシアの支配のもとに生き続けたのです。そのように諸国民との関わり、あるいは諸国民の支配下に置かれている民として、イスラエルがそのアイデンティティを保ち続けることは何よりも重要なことでした。彼らは存続し続けるために、自分たちが何者であるかを、常に意識し続ける必要があったのです。

 それゆえに彼らは自分たちの先祖アブラハム、イサク、ヤコブの物語を忘れることなく子から孫へと伝えていきました。出エジプトの物語を忘れることなく伝えていきました。シナイ山における主との契約について語り伝えました。イスラエルに与えられた律法を保ち続けました。メシアの到来について語り続けてきました。そのようにして、彼らは、強烈なアイデンティティを保持し続けました。イスラエルがイスラエルであり続けることなくして、私たちは今このようにして聖書を手にしていることはなかったでしょう。

 しかし、そのような聖書の中に今日読んだ「箴言」も含まれているのです。それはある意味でとても不思議なことであると言えます。というのも、この「箴言」の中には、イスラエルのアイデンティティとは何の関係もない、むしろイスラエル以外の国々に由来する格言が少なからず入っているからです。

 例えば、箴言の中には「マサの王レムエルが母から受けた諭しの言葉」(31:1)というものも含まれているのです。「マサの王レムエル」というのは異国の王です。その王が母親から受けた教訓が入っているのです。ゆえに、この部分をアラビアの格言集からの引用であると考える学者もいます。そのような言葉が入っているのです。実際、「箴言」を読んだ人はすぐに気づくと思うのですが、ここに含まれる格言の多くは、何もイスラエルに固有のことではないのです。人間なら誰でも「そうですよね」と言える言葉がたくさん書かれているのです。例えば、「明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから」(27:1)という格言。語られていることは、イスラエルの民であろうがなかろうが関係ないでしょう。

 そこで先ほどの続きをお読みしたいと思うのです。天地創造に関わった「知恵」が、30節以下において、このように語っているのです。「御もとにあって、わたしは巧みな者となり、日々、主を楽しませる者となって、絶えず主の御前で楽を奏し、主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」(30‐31節)。

 良く聴いてください。「知恵」は「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」と言っているのです。そこにはイスラエルだけではなく「主の造られたこの地上の人々」全体が視野に入っています。それは「神の土地である世界」というのが直訳です。そこではまた「人の子ら」が視野に入っているのです。すべての人間です。神の知恵は、「人の子らと共に楽しむ」と言っているのです。「人の子ら」ですから、そこでは当然のことながら、イスラエルと他の人々との違いよりも、むしろ人間として共通のことに目が向けられているということです。言い換えるならば、神に造られた人間としてイスラエルの民も他の諸国民も同じ地平に立っているのです。


この世に置かれている教会として

 さて、先ほど「イスラエルがそのアイデンティティを保ち続けることは何よりも重要なことであった」と申しました。同じことはキリスト教会とキリスト者についても言えるでしょう。教会もまた、この世界において、様々な異なる宗教と文化を持つ人々との関わりの中に置かれています。私たちが日常生活を共にし、仕事を共にしている人々は、ほとんどの場合キリスト者ではありません。そのような国に存在する教会として、教会がキリストの教会として、またキリスト者がキリスト者としてのアイデンティティを保ち続けることは極めて重要なことです。今日の福音書朗読においても、イエス様が言っておられましたでしょう。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」(マタイ10:32)。そこではキリスト者であることを意識し、人々の前で表明して生きることが求められているのです。

 しかし、そこでなお私たちは、今日読みました「知恵」の語りかけを聞かなくてはならないのです。私たちは、神が、イエス・キリストを遣わされた救いの神であると同時に、天地を創られた創造の神でもあると信じているのです。神がその知恵をもってこの世界を造られた。そこで必然的に教会とキリスト者だけでなく、創造された人間と世界全体が視野に入ってくることになります。そこでは教会とこの世の違い、キリスト者と他の人々との違いよりも、むしろ共に神によって造られた人間として、共通のことに目が向けられることになるのです。キリスト者はただこの世に福音を伝える者として《向き合って》立つだけでなく、同じ人間として、この世界の全ての人間と《並んで》創造の神の御前に立つのです。

 そのように《並んで》立つということとの関連で思い起こされるのは、フィリピの信徒への手紙に書かれているパウロの言葉です。「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」(フィリピ4:8、新366頁)。

 ここで語られています「真実なこと」「気高いこと」「正しいこと」云々といった徳目は、何もキリスト教会やキリスト者に固有のものではありません。ギリシアの思想家もまた語っていたことなのです。パウロはここで教会の中のことを語っているのではなく、フィリピの教会が置かれているギリシア・ローマ世界を念頭に置いて語っているのです。パウロはそこで、「あなたがたが生きている異教的世界は迷信と偶像礼拝と不道徳だけの真っ黒な世界だ」とは言っていないのです。そこに良きものを見いだしたら、それを心に留めなさい、と言っているのです。

 先に申しましたように、私たちが日常生活を共にしている人々は、ほとんどの場合キリスト者ではありません。そこには未信者の夫、未信者の妻、未信者の同僚や友人たちが共にいます。それらの方々に対して、キリスト者として向き合うことは大事ですが、それと共に重要なことは、神に創造された者として、同じ人間として、並んで立つことでもあるのです。そして、身近な人々の中に、パウロが言いますように、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や賞賛に値することを見出してそれを心に留めることが大事なのです。そのように同じ人間として共に立ってこそ、「人間」に与えられたキリストの救いの恵みもまた共有されていくことになるのです。


(祈り)

2020年10月18日日曜日

「将来と希望を与える神の計画」 

エレミヤ書 29:4‐14


第一次バビロン捕囚

 かつてユダ王国にヨヤキンという王がいました。18歳で王となりました。彼が引き継いだユダの王国は、時の超大国バビロニアの侵攻に遭って既に瀕死の状態でした。彼が王となってほどなくして、エルサレムは完全にバビロニア軍に包囲されました。都の陥落は時間の問題でした。やむなくヨヤキンはバビロンのネブカドネツァルに対して無条件降伏しました。彼は王位から退けられ、その治世はわずか三ヶ月で終わりを告げました。そして、ヨヤキンをはじめ、エルサレムの高官や職人、祭司や預言者など、主だった人々は捕囚として異国の地バビロンに強制連行されました。第一次バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。紀元前598年のことでした。

 エルサレムには捕らえ移されずに残された預言者たちもいました。やがてエルサレムでは、そのような預言者たちの活動が活発になりました。敗戦後、気落ちした人々を励ますことが彼らの使命であると感じていたのでしょう。彼らは、神がすぐにでもエルサレムの都を回復し、捕らえ移された人々を連れ戻してくださると語りました。その中にハナンヤという預言者がいました。彼の言葉がエレミヤ書に残されています。彼は人々にこう言って励ましたのです。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる」(28:2‐3)。

 一方その頃、預言者エレミヤは牛がつけるような軛を自分の首にぶらさげてエルサレムを歩き回り、人々にこう語っていました。「首を差し出して、バビロンの王の軛を負い、彼とその民に仕えよ」(27:12)。他の預言者たちと真逆のことを語っていたのです。戦勝国の王に仕えよと語るエレミヤを人々は憎みました。神がすぐにでも救ってくださると語るハナンヤの方が、よほど信仰的に見えたに違いありません。

 しかし、エレミヤにはわかっていたのです。この出来事は単なる災いではない。ここには神の裁きがある、と。ならば本当に大事なことは、ただ元通りになることではありません。神の裁きを裁きとして受けいれて、悔い改めることです。それこそがエレミヤの負っていた軛の意味だったのです。


現在を大切に堅実に生きる

 今日お読みしたのは、そのようなエレミヤが、捕らえ移された人々に書いた手紙です。

 当時の捕囚民の精神的状況は主に二通りに分かれていたものと思われます。一方において、そこには望みを失った人々がいました。それまでの生活のすべてを奪われ、異教の地に連れ去られ、未来に対する展望などまったく持ち得なかった人たちです。彼らの多くはもともと特権階級にいた人たちですから、すべてを失ったときに自暴自棄にならざるを得なかったことは想像できます。

 しかし、もう一方には熱狂的に解放の時を待望している人々がいました。エルサレムに、速やかな解放を告げるハナンヤのような預言者がいたことを思い起こしてください。同じような預言者たちは、捕え移された先のバビロンでも活動していたのです。今日お読みした箇所にこう書かれていました。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない」(8節)。実際には、そのような預言者に扇動された人たちがひたすら解放の日を待望していたのです。

 さて、そのような人々に対してエレミヤが書き送った手紙は、このようなものでした。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない」(4-6節)。つまり、エレミヤは、日々の生活において絶望して自暴自棄になるのでもなく、また解放だけを夢見て熱狂的になるのでもなく、異教の地においてもその日々の生活を大切にし、堅実な生活を営み、イスラエルの民として存在し続けるようにと語ったのです。

 このことが先に述べた両者に対して語られていることは重要です。というのも、絶望している人々にも熱狂している人々にも共通していることがあったからです。それは現在を軽んじているということです。今、目の前にある生活を大切にしていないということです。 特に、後者はそれが宗教的であるだけにやっかいです。しばしば、そちらの方が信仰的に見えるからです。いつの時代においても、神による奇跡的な救済を熱望するあまり、人間が自らの責任をもって営まなくてはならない現実の生活をまったく大切にしない人々はいるものです。一見信仰熱心に見えるけれど、まったく地に足がついていないのです。

 しかし、ここでエレミヤは彼らに、本当の信仰は、地上の生活を疎かにさせるのではなく、むしろ出来事の意味を悟らせ、地に足のついた堅実な生活を営ませるものであることを語るのです。そして、エレミヤは彼らに驚くべきことを勧めるのです。彼らを捕囚にしたバビロンの町のために平安を祈れ、と言うのです。バビロンが滅亡することを夢見るのではなく、むしろその町の平安のために祈れ、と。

 その理由はこの手紙の中に明らかにされています。主はバビロンを「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町」(7節)と呼ぶのです。そうです、彼らは単に敗戦のゆえに捕え移されたのではないのです。主ご自身が「送った」というのです。彼らがある期間、バビロンで生活することには神の意図があるのです。これは単に不可抗力によってもたらされた災いではないのです。

 神が意図をもって送ったのならば、そこには必ず為すべきことがあるはずです。彼らはそこで最善を尽くさねばなりません。彼らの場合、まずは目の前の町のために平安を祈ることでした。それが彼らに平安をもたらすことでもあるのです。そして、実際にバビロンにおける生活がある期間、平安に保たれたからこそ、歴史物語もまとめられ、このエレミヤ書もまとめられ、このように残っているのです。


主を呼び求めよ

 神様はさらにエレミヤを通して、彼らがそうすることができるように励ましの言葉を語ります。これは私たちもまたしっかり心に刻みつけておかなくてはならない言葉です。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(10-11節)。

 すべては「神の時」へと向かっています。聖書はそれを「時が満ちる」と表現します。やがて時が満ちて実現することがあるのです。そこには神の計画があるからです。しかも、その計画は「平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」と主は言われるのです。

 捕囚という出来事は、イスラエルの人々にとっては災いとしか映らなかったでしょう。しかし、主が見ておられるのは計画の全体です。それはイスラエルの将来と希望を与えるための計画なのです。その主が言われます。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている」。主は御自分が立てた計画を知っています。どのようにこれがイスラエルの将来と希望に結びつくのかを知っています。そのように主が「心に留めている」ならば、本当はそれで十分なのです。主が知っていてくださるのですから。

 人が知るべきことは多くはありません。すべてのプロセスを知る必要はありません。知るべきことはただ一つ。神が善であり愛なる御方であるということです。災いと見える出来事のただ中に置かれた時、私たちは未来に不安を抱きます。ある人は未来を知りたいと願うかもしれません。そのような人は占い師のところに行くのでしょう。しかし、本当に大事なことは「未来を知る」ことではなく「主を知る」ことなのです。未来において自分の願いが実現することを求めるのではなく、主を求めることなのです。

 ここを読みまして、どうしても重なってきますのは、今私たちが経験していることです。「コロナ禍」と人は言います。しかし、本当にこれは単なる禍なのでしょうか。対処しなくてはならない禍なのでしょうか。私たちが第一に求めなくてはならないのは、この出来事の終息ではなくて、主ご自身なのでしょう。主は解放を求めている人々にエレミヤを通してこう言われたのです。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(12‐14節)。

 実は、12節の「そのとき」という言葉は原文にはありません。つまり、「わたしは聞く」と言われるのは、70年後のことではなく、今なのです。苦難の生活を強いられている今こそ、絶望したり熱狂したりするのではなく、堅実な生活を営みながら神を尋ね求めるべきだと主は言われるのです。そのように尋ね求めるならば、主は「わたしに出会うであろう」と言われるのです。本当の救いは、苦難から解放されるその時に与えられるのではなくて、神を尋ね求め、神に出会うことにおいて与えられるのです。それこそが、本当の意味で将来と希望につながるのです。私たちも、今この時になすべきことは、真剣に、本気で主を求めることなのです。


(祈り)


2020年10月11日日曜日

「テント住まいの人生」

コリントの信徒への手紙二 5:1-10


地上の幕屋が滅びても

 「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」(1節)。そう書かれていました。要するに、私たちは死をもって終わる人生を生きているのではない、ということです。そのことが、ここで「住まい」を喩えとして、また「着物」を喩えとして語られているのです。

 まず、この世に生きる私たちの体が「幕屋」すなわちテントに喩えられています。この体をもって生きるこの世の生活がテント住まいの生活に喩えられているのです。それは感覚的に良く分かります。テントは一時的な住まいです。長く使っていれば綻びてきます。私たちはこの体というテントが何百年ももたないことを知っています。綻びてきますから、修理しながら生活することになります。やがてはこのテントの役目も終わることを知っています。そして、テントを手放すときがくるのです。

 パウロはそのことについて着物をもって喩えます。私たちはこの体という着物を脱ぐ時が来るのです。脱いだら裸になってしまうわけでしょう。ならば、私たちは裸のままなのでしょうか。いいえ「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」(3節)と書かれています。別の着物が用意されているのです。既に1節において、別の着物について語られていたのです。ただし着物ではなく、そこでは住まいに喩えられていました。もう一度お読みします。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」(1節)。

 この世の体は「幕屋」すなわち「テント」です。しかし、神は「建物」を備えていてくださいます。「天にある永遠の住みか」と呼ばれています。それは永遠です。テントのように綻びない、弱らない。一時的なものでもありません。「永遠の住みか」です。それを「上に着るのだ」と言うのです。住まいと着物の比喩がミックスされているので少々奇妙ですが、言わんとしていることは理解できます。この世における生活をパウロはこう表現するのです。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」(2節)。

 「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と彼は言います。その比喩も、ある意味では感覚的に分かります。この体をもって生きることは、苦しいことです。それは弱さを負いながら、綻びを繕いながら生きる苦しみでもあるでしょう。あるいはパウロは迫害の中にありましたから、他者の罪によって苦しめられるという苦しみもあるでしょう。あるいは、別の手紙で「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(ローマ7:18)ということも書いています。この体をもって生きることの大きな苦しみは、思い通りにならないこの体における、自分の罪との戦いということでもあるでしょう。

 確かに、そのように私たちは「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と言えます。しかし、ただ苦しみもだえているのではありません。「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」と書かれているのです。「願いつつ」の苦しみなのです。言い換えるならば希望を抱きつつの苦しみであるということです。やがてはその願いが現実となる時が来るのです。天から与えられる住みかを上に着る時が来るのです。それは最終的な救いの完成でもあります。すなわち罪と死から完全に解放された栄光の体を着せられるのです。そのように「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願」いつつのテント住まい。それがこの世における私たちの生活だと聖書は言っているのです。


天には建物が備えられている

 さて、ここで「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」と書かれているのであって、「地上の幕屋を脱ぎ捨てたいと切に願って」と書かれてはいないことに注意してください。つまりパウロがここで語っていることの中心は「脱ぎ捨てること」ではなく、あくまでも「着ること」にあるのです。4節をご覧ください。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」(4節)。

 どうしてパウロがこういうことを言っているかというと、脱ぎ捨てることにこそ救いがあると教えていた異端の教師たちがいたからなのです。この肉体は魂の牢獄である。死はそこからの解放なのだ、と。そこで多くの人がこの世の人生には意味がないと考えたのです。ただ苦しいだけの獄中生活。ただ死ぬことにこそ希望がある、と。それはある意味では分からなくありません。絶えざる苦しみを負って生きているならば、そう思わざるを得ないでしょう。脱ぎ捨てることにこそ救いがある、と。

 しかし、同じように絶えざる苦しみを負っていたパウロは、そうは言わないのです。彼は脱ぎ捨てることではなく着ることを思って生きているのです。脱ぎ捨てたいものに目を向けて、脱ぎ捨てる時を待ちつつ今を生きるのと、着せられる完全なものに目を向けて、着せられる時を思いつつ今を生きるのでは、生きる意味合いが全く違ってくるのです。そのようにパウロは地上において苦しみながらも、天に備えられているものを思いながら、既に備えられているものを喜びながら生きていたのです。

 そして、パウロは言うのです。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です」(5節)。どのようにして「ふさわしい者としてくださった」のでしょう。この手紙を読んだコリントの信徒たちには言わずとも分かったはずです。それはキリストの十字架によってである、と。

 もともと「天にある永遠の住みか」は私たちにはふさわしくはないのです。神に背いて生きてきた私たちにふさわしいのは、地上の幕屋と共に滅びていくことなのでしょう。しかし、神はそのような私たちを憐れんで、キリストを与えてくださいました。罪の赦しを与えてくださいました。そして、死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうようにと、永遠の住みかを備えてくださったのです。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です」(5節)。そのとおりです。


ひたすら主に喜ばれる者でありたい

 しかし、その先を読みますと、パウロにとって本当に重要だったのは、その永遠の住みかを着ること自体ではなかったことが分かります。もっと大事ことがあるのです。それは、その着せられた永遠の体をもって、主と共にあることだったのです。6節をご覧ください。「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」(6‐8節)。

 この世のテント住まいで、パウロにとって一番辛いことは何だったのか。それは主から離れているということだったのです。いや、もちろん目に見えずとも、信仰において主と共にある。それはパウロも分かっているのです。しかし、そこにはまたテント住まいにおける限界がある。それもまた事実です。ですから「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」と言うのです。この体を離れることを望むのは、この世の苦しみから離れるためではないのです。主のもとに住むためなのです。そのように一番大事なのは、主と共にあることであり、主との交わりなのです。ですから一番の願いもまた、それは「主に喜ばれる者」であることなのだと彼は言うのです。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(9節)。

 私たちのテント住まいもまた、つまるところ、ここに向かっているのでしょう。「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。ここにこそ、テント住まいをしているこの地上の人生の意味もまたあるのです。これは苦しいだけの牢獄生活ではないのです。これはただ脱ぎ捨てるまで仕方なく着ている体ではないのです。この世の生活は、この世の体は、主に喜ばれる者として生きるための生活であり、体なのです。確かに苦しみがあります。罪との戦いもあります。不当な仕打ちを耐え忍ばなくてはならないこともあるでしょう。しかし、そのようなこの世の人生こそ、主を愛し、主に喜ばれることを求めて生きる実践の場なのです。

 だからまた、主もまたそのような私たちの生活を、関心をもって見ていてくださるのです。私たちが地上におけるテント住まいの人生をどう生きるかは、主にとっての重要事項なのです。10節に書かれているのはそういうことです。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(10節)。

 キリストの裁きの座の前に立つ。そのキリストは私たちの罪のために十字架にかかってくださった御方です。私たちの罪を赦し、私たちを信仰によって義としてくださった御方です。ですから、その裁きとは、私たちが救われるか滅びるかの裁きではありません。私たちの報いに関わる裁きです。

 主は私たちのこの地上の人生を、関心をもって見ていてくださる。だから「悪」はすべて主の目の前にあります。ですから、私たちは「どうせ赦されるのだから」と言って、主を侮るような生活をしてはならない。当たり前のことです。しかし、そこでは「悪」だけが裁かれるのではないのです。「善」もまた裁かれるのです。すなわち、報いを受けるということです。

 主の目に「善」とされること、それはもしかしたら、積極的な善行というよりは、ある場合にはただ主を信じて苦難を耐え忍ぶだけのことかもしれません。耐え忍びながら愛を示して仕えることかもしれません。それはこの世においては報われないかもしれない。この世において報われないことはいくらでもあるのでしょう。しかし、主が報いてくださるのです。すべては報われるのです。私たちは、この世において報われるかどうかを気にしないで、ただひたすら主に喜ばれることを考えていたらよいのです。それがこのテント住まいにおいて求められていることなのです。

(祈り)


2020年10月4日日曜日

「すべてのものは神から出て神に向かう」

 ローマの信徒への手紙 11:33-36


 今日の第二朗読は、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(33節)という言葉から始まっていました。そして、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」という賛美で終わります。今日の箇所を読んでいますと、そこに深いへりくだりをもって真に神を神として畏れ敬う礼拝者の姿が見えてまいります。そこに見えてくる姿と、今ここにいる私たちの姿は重なるのか。あるいは全く重ならないのか。そのことを改めて考えざるを得なくなる。そんな聖書箇所です。


ああ、なんと深いことか

 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」(33節a)。このような手紙は口述筆記で書かれていますから、実際に大きな声で「ああ!」と叫んでいたのだと思います。「神の富」すなわち、「神の豊かさ」について、パウロは初めて考えたわけではないでしょう。また「神の知恵」についても「神の知識」についても、初めて考えたわけではないでしょう。それらは聖書が繰り返し語っていることですから。しかし、彼はここで改めて神の富と知恵と知識の深さを思って感嘆の声を上げているのです。

 それはなぜなのか。今日の箇所の直前には次のように書かれているのです。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(32節)。パウロが今、目を向けているのは、すべての人に向けられた神の憐れみなのです。すべての人を憐れむために、神がしていることがある。言い換えるならば、すべての人を救おうとして、神がしていることがある。そのために神御自身がこの歴史のただ中においてなさっていることがある。パウロが目を向けているのはそのことなのです。

 そのように「すべての人を憐れむため」に、神はどうされたのでしょうか。もう一度お読みします。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」。とても不思議な言葉だと思いませんか。その内容について今日は触れません。この手紙の9章から11章までを後でじっくりとお読みください。しかし、それが何を意味するかはさておき、はっきりしていることが一つあります。「すべての人を不従順の状態に閉じ込める」という言葉は「神の憐れみ」と単純に結び着かないということです。

 「すべての人を不従順の状態に閉じ込める」という言葉は、むしろ「神の憐れみ」とは真逆に聞こえます。「神の救い」とは正反対の行為に聞こえます。しかし、それが何であれ、人間の目から見たら救いとは真逆に見えることが、実は「すべての人を憐れむためだった」とパウロは言うのです。そのことをパウロは知ったのです。そこでパウロは「ああ、なんと深いことか!」と叫ばずにはいられなかったのです。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と。

 すべての人を憐れむために、すべての人を救うために、その計り知れない豊かさを用いて、底知れない知恵を尽くして、その限りない知識を用いて、神は動いておられるのです。また、この世界を動かしておられるのです。しかも、人間の目から見たら憐れみとは真逆に見える出来事さえも用いて、すべての人を憐れもうとしていてくださるのです。

 実際、神が知恵を尽くして動いていてくださったからこそ、私たちが今ここにいるのでしょう。神がそのような神であるからこそ、憐れみを受けた者として、救いに招かれた者として、ここにいるのでしょう。私たちが憐れんでくださいと言う前に、私たちが救ってくださいと言う前に、限りなく豊かな神様が、知恵を尽くして、計り知れない知識を用いて、私たちを憐れむために動いていてくださったのです。そして、今もそのように憐れもうとしていてくださるのです。


誰が究め尽くせよう

 もちろん、その知恵も知識も私たちにとってはあまりにも深いのです。だから、パウロはこう続けるのです。「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(33節b)。「定め」とは「判断」のことです。それは「究め尽くし難い」と言っているのです。ここで用いられているのは「底まで計れない」という意味の言葉です。あまりに深くて底まで計れない。ですから神様が何をどう判断しておられるのか私たちに分らないとしても、それは当然のことなのです。

 また神の道は理解し尽くせない。神には神の道があるのです。しかし、それは私たちの道とは異なるのです。イザヤ書にこんな言葉があります。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:8‐9)。

 しかし、だからこそ、神の富、神の知恵、神の知識を前にして人間はへりくだって、真に神を神として畏れ敬い、神を「信じる」ということが大事なのです。私たちには分からない。あまりにも深いから。だからこそ信じるのです。神がすべての人を憐れもうとしていてくださることを、畏れをもって信じるのです。そして、神をたたえるのです。神を礼拝するのです。


誰が主の相談相手であったか

 しかし、現実の私たちの生活を振り返る時に、神の知恵、神の知識への畏敬がいかに失われているかということも思わされます。まるで私たちの方が知恵ある者であるかのように、私たちの方が知るべきことを知っている者であるかのように振る舞ってしまう。だからこそ、続けて旧約聖書を引用して語るパウロの言葉は大きな意味を持っていると言えます。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」(34‐35節)。

 「相談相手」とは「助言者」とも訳せます。確かにいつの間にか助言者のように振る舞っていることがある。神様に助言したくなるのです。「神様、あなたのしていることはおかしい。あなたのしていることは間違っている。なぜこんなことをなさるのですか」と。何が最善であるかを私たちの方が知っているかのように助言したくなる。しかし、知らないのは、本当は私たちの方なのです。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか」。そうです、私たちはすべての人を憐れもうとしておられる主の心を知ることなく、「助言者」として主に向かってしまうのです。

 あるいは、助言ではなく取引を始めようとするかもしれません。私たちが望ましいと思える結果を引き出すために、何かを差し出そうとするのです。私はこのようにしますから、神様はわたしが願っているとおりにしてください、と。しかし、聖書は言うのです。「だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」(35節)。

 実は、新共同訳では若干言葉が異なりますが、これはヨブ記41章3節の引用なのです。そして、その言葉は次のように続くのです。「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ」。そう主は言われるのです。私たちが何かを主に差し出したとしても、それはもともと神のものなのです。ならば、私たちは神と取引をする者としてではなく、ただ神をたたえ、礼拝する者として御前に立つべきなのでしょう。

 私たちは神に助言する者としてではなく、神に何か差し出して取引をする者としてでもなく、ただ神をたたえる者として集められているのです。主の日の礼拝に招かれているとはそういうことです。私たちが何をするまでもなく、何かを差し出すまでもなく、既に圧倒的な神の憐れみのもとにあるのです。

 その事実を、パウロはイエス・キリストの内に見出したのです。神は御子を通して御自身の憐れみを現してくださいました。その御方は、私たちを救うために独り子さえ惜しまず与えてくださった神なのです。その神がその計り知れない豊かさを用いて、底知れない知恵を尽くして、その限りない知識を用いて、すべての人を救うために動いてくださった。そして、今も動いておられます。この世界を動かしておられます。人間の目から見たら憐れみとは真逆に見える出来事さえも用いて、すべての人を憐れもうとしていてくださる。その事実を、イエス・キリストによって知ったのです。


ただ神を礼拝する者として

 それゆえに、最終的に彼はこう言って神をたたえるのです。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」(36節)。これはギリシアの神秘思想の言葉であったものをパウロが拝借したものです。しかし、その言葉をもって、パウロは既に述べられた神の憐れみについて、神の救いについて語っているのです。

 すべては神から出ているのです。人間が助言したわけでも、人間が何かを差し出したことに対する報酬でもありません。人間が憐れんでくださいと願ったからですらありません。神の計り知れない富と知恵と知識から既に神の憐れみの行動は始まっているのです。

 そして、すべては神に向かっているのです。最終的に神から遠ざけられ退けられるならば、そこには救いはありません。しかし、そうではないのです。すべては神に向かっているのです。言い換えるならば、神は憐れみによって、神の救いによって、すべてを神へと向かわせておられるのです。私たちの目にどう映ろうが、すべては神に向い、救いの完成へと向かっているのです。

 それでは、始まりと終わりの間はどうなのか。「神によって保たれ」と書かれています。これは意訳ですが、意味を良く捉えています。始まりと終わりの間も神によるのです。神によって保たれているのです。ならばはっきりしていることは、人間はへりくだらなくてはならない、ということです。本当にへりくだらなくてはならない。その具体的な姿は神を礼拝するということです。そこから、神の憐みに応答する生活が生まれてくるのです。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」。


(祈り)


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