イザヤ書 49:7-13
2021年最後の主日となりました。年末年始は一つの区切りです。区切りがあるということはありがたいことです。少なくとも過ぐる365日を振り返り、次の365日をどう生きるかを考える機会となりますから。そこで、今日は同じように一つの時代の区切りを迎えていた人々が耳にした預言者の言葉を通し、私たちへの主の語りかけを聞きたいと思います。
前に進むのか、それとも留まるのか
本日の礼拝におきましてはイザヤ書の49章が読まれました。今日お読みした箇所の背景となっている一つの区切りとはバビロニア帝国の滅亡です。ネブカドネツァル二世の時代に諸民族を次々に支配下において巨大化していったバビロニア帝国は結局のところ長くは続きませんでした。内部において反乱が繰り返され、紀元前6世紀後半には既に内側から崩壊しつつあったのです。その一方において、新勢力として台頭してきたのはキュロス率いるペルシアでした。そして、紀元前539年、ついにペルシア軍が都バビロンを占領し、バビロニア帝国の歴史は終わりを告げることとなったのです。代わってペルシアの時代が到来したのでした。
これはバビロンに捕囚となっていたユダの人々の置かれていた境遇が大きく変化することを意味しました。というのも、バビロニアの支配とは異なり、ペルシアの王キュロスは被占領民族に対して非常に寛容な政策を採ったからです。彼は諸民族の文化と宗教を重んじ、また故郷への帰還と再建を許可したのでした。かつてバビロニアの支配下にあった人々にとって、ペルシアの王キュロスは新しい支配者であるよりは、むしろ解放者であったのです。バビロンに捕囚となっていたユダの人々にとっても同じでした。彼らもエルサレムへの帰還と神殿の再建が許されたのです。
捕囚の民が解放されることについては、既に預言者が語ってきたことでした。その預言の言葉はイザヤ書40章以降に記されています。ちょうど二週間前、主日礼拝においてイザヤ書40章前半が読まれました。そこにおいて「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる」(40:1)と語られていましたが、その慰めとは具体的には捕囚からの解放を意味しました。神がなさろうとしていることについては、44章の終わりにはっきりと語られています。主はこう言われるのです。「キュロスに向かって、わたしの牧者、わたしの望みを成就させる者、と言う。エルサレムには、再建される、と言い、神殿には基が置かれる、と言う」(44:28)。
エルサレムが再建される。神殿も再建される。それは50年近く捕囚であった人々にとっては、まことに信じ難い言葉であったに違いありません。しかし、預言者は人々が信じようが信じまいが、とにかく語り続けたのです。神の言葉こそが永遠に立つことを信じて、忍耐強く語り続けたのです。そして、ついに時は満ち、歴史が動きました。先ほど申しましたように、キュロスはバビロンを征服し、翌年、出された勅令によって捕囚の民は解放されたのです。彼らはエルサレムに帰還することができる。再建することができるのです。
しかし、神の恵みによって実現した捕囚からの解放を、すべての人々が喜んだわけではありませんでした。一つの区切りに立った時、人は二通りに分かれるのです。これを機に前に進む者がいる。しかし、同じところに留まる者もいるのです。
繰り返しますが、彼らは50年近く捕囚であった人々です。異国の地の生活とはいえ、それなりに生きてきたのです。生活も成り立ってきたのです。既にその地に根ざした産業もありました。また、ダニエル書に出て来るダニエルや友人たちのように、中にはある程度高い地位に就いている人もいたのです。「何を好きこのんでバビロンを離れ、厳しい過酷な旅へと出発しなくてはならないのか。むしろ、このままでよいではないか。」そのように言う人がいたとしても不思議ではないでしょう。
実際、エルサレムに帰還したからといって、そこでの生活が保障されていたわけではないのです。それでもなお神を信じて一歩を踏み出すのか。それとも同じところに留まるのか。神に期待し神の御業を見るために前に進んでいくのか。それとも「今のままでいいじゃないか」と言って同じところに立ち続けるのか。彼らはその問いの前に立たされていたのです。
彼らが直面していた問いは、ある区切りに人が立たされた時、いつも直面せざるを得ない問いなのでしょう。ここにいる私たちにとっても同じです。前に進むのか。同じところに留まるのか。2022年を迎えようとしています。そこから始まる365日、神に従って前に進むために具体的な一歩を踏み出すのか。それともこの一年と同じような一年をもう一度繰り返すのか。はっきりしていることは、この繰り返しのトータルが私たちの一生だということです。一生を終える時に、今と同じところに居るつもりなのか。それとも神の御心に従って一歩でも前に進むつもりでいるのか。年の区切りに立つ私たちが問われているのはそういうことなのでしょう。
わたしの救いを地の果てまでもたらす者に
そこで私たちが考えねばならないもう一つの大事なことがあります。私たちがどちらを選ぶかは、ただ私たち自身だけに関わっているのではない、ということです。
今日の朗読箇所は7節からでしたが、この言葉は6節と切り離すことはできないのです。6節の終わりにはこう書かれていました。「わたしはあなたを国々の光とし、わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」(6節)。直接的には預言者に対する言葉ですが、ただ預言者個人ではなく、これは預言者の言葉を聞いている帰還民に対する主の御心でもあるのです。
主はただ彼らをエルサレムに帰還させようとしているだけではないのです。ただエルサレムを再建させようとしているだけではないのです。そうではなくて、解放された人々を通して、全世界に神の救いが伝えられることこそ、神が望んでおられることなのです。そのような神の大きな目的のもとにあって、7節以下の言葉は語られているのです。
7節において、彼らについてはこう語られていました。「イスラエルを贖う聖なる神、主は、人に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者に向かって、言われる」(7節)。
確かにそのとおりなのです。捕囚の民は、「人々に侮られ、国々に忌むべき者とされ、支配者らの僕とされた者」です。そのような彼らがエルサレムを再建するのは実に困難なことであるに違いありません。しかし、バビロンを後にしてエルサレムへと向かうことは、ただ彼ら自身のためではないのです。そうではなくて、諸国の人々が神を知り、神を畏れ敬うようになるためなのです。先ほどの言葉はこう続きます。「王たちは見て立ち上がり、君侯はひれ伏す。真実にいますイスラエルの聖なる神、主があなたを選ばれたのを見て。」
もともと力ある者が大きなことを実現したとしても、そこに神のリアリティは見えてはこないでしょう。彼らが人々に侮られている捕囚の民であるからこそ、神が彼らを選び、神が彼らを通して働かれたのだということが見えてくるのです。
主は言われました。「わたしは恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。わたしはあなたを形作り、あなたを立てて、民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる。捕らわれ人には出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる」(8‐9節)。ここで繰り返されているのは「わたしは…あなたを」という言葉です。原文ですとより顕著です。主語はあくまでも神なのであって人間ではありません。ここに語られているのは神の御業なのです。
しかし、その神の御業は、人間が神に従い、自ら一歩を踏み出していく時に現れるのです。9節後半以下には次のように書かれていますでしょう。「彼らは家畜を飼いつつ道を行き、荒れ地はすべて牧草地となる。彼らは飢えることなく、渇くこともない。太陽も熱風も彼らを打つことはない。憐れみ深い方が彼らを導き、湧き出る水のほとりに彼らを伴って行かれる。わたしはすべての山に道をひらき、広い道を高く通す」(9‐11節)。彼らが飢えることもなく、渇くこともないのは、「憐れみ深い方が彼らを導」いておられ、「彼らを伴って行かれる」からなのです。そして、立ちはだかる山に道が開かれるのは、彼らが同じところに留まるのではなく、神に従って歩んでいくからこそ実現することなのです。そのように、神に従う時に、人は神の御業を見るのです。
そして、繰り返しますが、それはただ彼らだけのためではないのです。神は御自分の救いを「地の果てまで」もたらそうとしておられるのです。彼らは、そのような神の目的にこそ思いを向けなくてはならないのです。
さて、ここにいる私たちは何を考えているのでしょう。私たちの思いはどこに向けられているのでしょう。信仰者が自分の救いのことだけを考え、教会が自分たちの救いのことだけを考えるならば、何も荒れ野に向かって旅立つ必要はありません。立ちはだかる山に向かって一歩を踏み出す必要もないでしょう。同じところに留まってもう一年過ごしてもよいのです。一生の終わりが来るまで同じところに留まっていたとしても、自分の救いのことだけを考えているならば、何ら問題はないのでしょう。
しかし、私たちの信仰生活は自分の救いだけに関わっているのではないのです。主は御自分の救いを地の果てにまで至らせようとしておられるのです。私たちが来たる一年をどう生きるのか、どのような信仰生活を送るのか、私たちが同じところに留まっているのか、それとも神に導かれて「湧き出る水のほとり」に伴われていくのかは、この世界の救いに関わっているのです。
この年末年始が、私たちにとって単なるカレンダー上の区切りではなく、私たちが信仰の一歩を踏み出す区切りとなりますように。
(祈り)
2021年12月26日日曜日
「留まっているのか、前に進むのか」
2021年12月15日水曜日
祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 1:24~29
コロサイの信徒への手紙 1:24-29
「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし」(24節前半)。――そうパウロは書いていました。パウロがコロサイの教会を愛しているから。もちろんそうです。しかし、それだけではありません。彼はこう続けます。「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(同後半)。
「キリストの苦しみの欠けたところを満たす」というのは不思議な表現です。しかし、ともかくパウロが自分の苦しみをキリストの苦しみと結びつけていたことは分かります。パウロの苦しみが先にあるのではないのです。キリストの苦しみが先にあるのです。キリストがコロサイの教会を愛し、コロサイの人たちのために苦しみを耐え忍んでくださっているのです。パウロはその苦しみの一部を満たしているに過ぎないのです。
では、その「キリストの苦しみ」とは何なのでしょう。明らかにそれは十字架における罪の贖いのための苦しみではありません。もしそうならば、「キリストの苦しみの欠けたところ」があるはずがないからです。罪の贖いの御業は、完全にキリストの御業なのであって、人間が参加する余地などないのです。そもそも、ここで「苦しみ」と訳されている言葉は、罪の贖いのための苦しみについては一度も使われていない言葉なのです。
では、何なのか。それはパウロがどのように「キリストの苦しみの欠けたところ」を満たしていたかを考えれば分かります。パウロの苦しみとは宣教のための苦しみです。彼は言うのです。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」(25節)。また、彼は言います。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています。 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています」(28‐29節)。
そのようにパウロの苦しみは宣教のための苦しみです。宣教のための労苦であり闘いなのです。そのためにパウロは投獄さえされたのです。この手紙は獄中から書いているのです。彼は人々を愛し、教会を愛し、神の言葉を伝えるために、キリストを伝えるために苦しみを負ってきたのです。しかし、彼は知っているのです。自分の労苦が先にあるわけではない。そうではなくて、キリストが先にコロサイの教会をも、他の教会をも愛して、喜んで苦しみを担っておられる。自分の苦しみは、その「キリストの苦しみ」の隅っこの一部に過ぎないのだと分かっていたのです。「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」とはそういうことです。
それでは、さらに近づいて、「キリストの苦しみ」に、またその一部を満たしているパウロの苦しみに目を向けてみましょう。
先にも触れましたように、パウロはこう言っていました。「神は御言葉をあなたがたに余すところなく伝えるという務めをわたしにお与えになり、この務めのために、わたしは教会に仕える者となりました」(25節)。そのように余すことなく伝えるべき「御言葉」とは何であるのか。それは26節に書かれています「秘められた計画」だと言うのです。
「秘められた計画」は、聖書協会訳では「奥義」となっていました。今や明らかとなったその「奥義」とは何なのか。いや、この問いは正確ではありません。聖書は、それが「何であるか」ではなくて、「誰であるか」を語っているからです。「その計画(奥義)とは、あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」(27節)と。
神の救いの御心とご計画は、一人の御方を通して、その十字架の死と復活に至る一人の御人格を通して、完全に現わされたのです。奥義とは、この一人の御方です。キリストです。ですから、御言葉を伝えることを自らの務めとして語っていたパウロは、ここで「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えて」いるのだ、と言うのです。
そして、キリストが宣べ伝えられる時、そのキリストとは、もはや過去の存在ではないのです。聖霊のお働きにより、生ける御人格として、キリストは人と出会われるのです。そして、キリストが信ずる者たちの内に留まられるのです。ですからパウロは言うのです。「あなたがたの内におられるキリスト」と。
「あなたがたの内におられるキリスト」――ここで語られている「あなたがた」とは、27節で「異邦人」と呼ばれている「あなたがた」です。その異邦人である「あなたがた」については、21節で次のように語られていました。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。」そのような「あなたがた」です。神に敵対しているのですから、神に裁かれて滅ぼされても仕方のない「あなたがた」です。しかし、そのような「あなたがた」の内にキリストが来てくださったのだ、というのです。「あなたがたの内におられるキリスト」と。
そして、キリストのおられるところに罪の赦しもまたあるのです。14節に書かれていたとおりです。ゆえに、そこには神と人との和解があり、平和があります。そして、神と人との間が平和であるところにこそ、まことの希望はあるのです。それゆえ、「あなたがたの内におられるキリスト、栄光の希望です」と語られているのです。
だからこそ、このキリストをパウロは宣べ伝えているのです。パウロの苦しみはそのための苦しみです。ならば、キリストの苦しみもそのための苦しみです。実際、それがここにいる私たちにも現されたキリストの愛であり、キリストの苦しみではありませんか。ここに異邦人である私たちがいます。かつて神に敵対していた私たちがいます。しかし、キリストはそのような私たちを愛してくださいました。そして、私たちの内におられるキリスト、栄光の希望となるために苦しんでくださいました。
事実、その「キリストの苦しみ」の一部をその身をもって満たした人たちがいたではありませんか。キリストの苦しみを苦しんだ人たち、自分自身を献げて労苦した人たちがいました。だからここに教会が立っているのです。だから今もなおキリストが宣べ伝えられているのです。私たちの現在は、ただ「キリストの苦しみ」によって成り立っているのです。そのようにして、キリストは「私たちの内におられるキリスト」となられたのです。
ならば大事なことは何ですか。パウロは言っています。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)。またこうも言っています。「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」(28節)。「完全な者」とは「欠陥がない」という意味ではなくて、むしろ「成熟した大人」を意味する言葉です。
そうです、大切なことは信仰の踏みとどまること。そして、キリストにあって成熟を目指して進むことです。キリストは私たちの内にいてくださいます。この方こそ栄光の希望です。そして、今度は私たちが宣教の労苦を担い、キリストの苦しみの一部を満たしていくのです。
(祈り)
2021年12月12日日曜日
「見よ、あなたたちの神」
イザヤ書 40:1‐11
草は枯れ、花はしぼむ
今日の旧約聖書の朗読では「草は枯れ、花はしぼむ」(7節)という言葉が読まれました。旧約の預言者の言葉です。彼が見つめているのは人間です。彼はそれを「肉なる者」と呼びます。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」(6節)と。その「草は枯れ、花はしぼむ」と言っているのです。私たちは人間の一生を思う時、確かにそうであると言わざるを得ません。草は枯れ、花はしぼみます。
しかし、この人は、ただ個々の人間の一生を思って語っているのではありません。彼はまた人間の営みによって成り立っている社会そのものをも見つめているのです。人間が積み上げてきたもの。人間が築き上げてきたもの。それもまた肉なるものです。それもまた「草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの」なのです。彼は実際に枯れてしまったユダの王国、枯れてしまった野の花であるイスラエルを見て語っているのです。
時は紀元前六世紀。バビロニアの軍事侵攻により、かつては繁栄を極めたユダの王国は崩壊しました。エルサレムの城壁は破壊され、彼らの心の拠り所であったエルサレムの神殿も焼き払われてしまいました。そして国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。彼は崩壊したユダの国、捕囚となったイスラエルを思いつつ語るのです。「草は枯れ、花はしぼむ」と。
「栄枯盛衰は世の習い」と言います。栄える時があれば衰退する時もまたある。人間が築き上げていく時があり、その築き上げてきたものが崩壊する時がある。それは今日の社会においても身近に起こってきたことですし、私たち自身も多かれ少なかれ経験してきていることです。
しかし、この人は単に「栄枯盛衰は世の習い」と言いたいのではなさそうです。「草は枯れ、花はしぼむ」と言った後、彼はこう付け加えるのです。「主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」(7節)。彼はそこに「主の風」を見たのです。
パレスチナの自然においては、東から熱風が吹きつける時、それまで華やかに咲き誇っていたアネモネやケシの花がまたたくまにしおれてしまい、一夜にして茶褐色の野山にもどってしまうと聞いたことがあります。その姿を思いながら、「主の風が吹き付けたのだ」と語る時、彼が思い描いているのは神の裁きに他なりません。言い換えるならば、人間の罪とその結果を思いながらこれを語っているのだということです。
私たちは往々にして表に現れていることにしか目がいかないものです。栄えたものが衰退する。築き上げてきたものが崩壊する。それを単純に「災い」とか「不幸」と呼んでしまう。しかし、この預言者は、ただ表に現れている枯れ草のような姿やしぼんだ花のようなありさまに目を向けて、「なんと不幸なことか」と嘆いているのではありません。そうではなく、さらに深いところ、それをもたらした本質的な問題、すなわち人間の罪に目を向けていたのです。神に背いているという現実、神に背き続けている現実を見ていたのです。そのような意味において、聖書は「草は枯れ、花はしぼむ」と語るのです。
それが預言者の見ていた世界であり、それが私たちの見ている世界です。そこで確かに人は、「草は枯れ、花はしぼむ」としか語れない。正しい神の裁きを思う時、罪深い現実と正直に向き合うならば「草は枯れ、花はしぼむ」としか語れないのです。しかし、「人」がもはやそこまでしか語り得ないところで、「神」が語られることがあるのです。人間の言葉が終わるところに、神の言葉はあるのです。それゆえに、預言者はもう一度「草は枯れ、花はしぼむ」と繰り返した後、こう続けるのです。「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」。
とこしえに立つのは、永遠であるのは、人間が語る言葉ではなくて、神が語る言葉なのです。では、神は何を語られるのでしょう。「草は枯れ、花はしぼむ」としか言えない人間の現実に対して、何を語られるのでしょう。枯れ草としぼんだ花を目にしていた預言者が聞いたのはこのような言葉でした。「慰めよ、わたしの民を慰めよ」。1節の言葉です。
見よ、あなたたちの神
「慰めよ、わたしの民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ、苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」(1節)。「慰める」とは、単に悲しみを和らげることではありません。これは励まし力づけることを意味します。励まし力づけるのは立ち上がらせるためです。希望のない者たちが希望を得、命のない枯れ草が再び生き返って立ち上がるためです。
神がそのことを望んでいてくださる。しかも、神は「《わたしの民を》慰めよ」と言ってくださったのです。神は御自分に背き続け、ついに枯れ草のようになった人々を、いまだに「わたしの民」と呼んでくださるのです。神は今もなお「あなたたちの神」だと言ってくださるのです。そのように神は憐れんでくださる。神は赦してくださる。だから「草は枯れ、花はしぼむ」で終わらないのです。
さらに天からの声はこう続きます。「呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを、肉なる者は共に見る。主の口がこう宣言される」(3‐4節)。勝利を得た王が凱旋する時のように広い道を備えて通せと言われる。それは神が来てくださるからです。
ですから9節にはこう書かれているのです。「見よ、あなたたちの神」。何を意味しますか。神に背いて枯れてしまった枯れ草が、神に背いてしぼんでしまった花が、それでもなお「わたしの神、わたしたちの神」として神を見上げることができるということです。「見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む」(9‐10節)。
神が来られる。力を帯びて来られる。その力は滅ぼすための力ではありません。なぜなら、その神は「慰めよ、わたしの民を慰めよ」と言ってくださる神だからです。神は救うために来てくださるのです。そして、恵みをもって治めるために来てくださるのです。人はこの神と共に、再び生きることができるのです。
ならば、もはや朽ちていくだけの枯れ草ではありません。まったく異なる描写がそこにあります。「主は羊飼いとして群れを養い、御腕をもって集め、小羊をふところに抱き、その母を導いて行かれる」(11節)。そこで人はもはや望みなき者として生きる必要はありません。人はもはや見捨てられた者のように生きる必要はありません。主に養われる羊の群れとして生きることが許されているのです。
このように、救いをもたらす神の支配の到来――これこそ、人間がもはや何も語り得ないところでなお神が語られることなのです。とこしえに立つ神の言葉がそこにあるのです。
力を帯びて来られた神
さて、本日の福音書朗読においては、マルコによる福音書の冒頭の言葉が読まれました。そこにはこう書かれていました。「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(マルコ1:1‐4)。
ここで再び私たちはあの旧約の預言者が聞いた言葉を耳にすることになります。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」主の道を整えるのは何のため。神の支配が到来するためです。そのようにして来られた御方こそが、イエス・キリストに他ならないのです。
しかし、「彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される」と語られたあの言葉は本当に実現したのでしょうか。この世界が見たのは、およそこの世の力とはかけ離れた御方ではなかったでしょうか。その御方は、この世の権力によって十字架にかけられ殺されてしまったではありませんか。しかし、そのようなキリストにこそ、聖書は《力を帯びて来られた神》を見ているのです。その御方において確かに神の支配が到来したと語るのです。確かに神は統治するために来られた、と。
それは、この世の権力や武力の支配とは全く異なる支配です。それはある意味で当然のことでしょう。神の支配が人間の支配と同じであろうはずがありません。そもそも権力や武力は人の心まで支配することはできないのです。人は従順に振る舞いながら、後ろを向いて唾を吐くことができるのです。人の心まで、人格の最も深いところまで支配するのは、真の力によるのです。それは何か。愛の力です。神の愛の力です。
ナザレのイエスという一人の御方において、神は確かに力を帯びて来られたのです。そして、神の力、神の愛の力は、あの罪の贖いの十字架とキリストの復活において完全に現されたのです。そして、その御力をもって、主は統治されるのです。実際、私たちはこの世の権力によって強制されてここにいるのではないでしょう。私たちは確かに、主の愛の力によるご支配のゆえに、ここにいるのです。主の愛のご支配のゆえに、自らを献げ、仕えて生きようとしているのです。
私たちは主の風が吹き付けるならば滅びるしかないこの世界に生きています。私たちは、主の風が吹くならば滅びるしかない「肉なる者」に過ぎません。しかし、そこにおいてもはや「草は枯れ、花はしぼむ」としか語り得ない私たちに、神は永遠に揺らぐことのない救いの御言葉をもって、今日も私たちに呼びかけていてくださいます。「見よ、あなたたちの神」と。
(祈り)
2021年12月8日水曜日
祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 1:21~23
コロサイの信徒への手紙 1:21-23
私たちは主の日に礼拝をささげるために集まります。こうして祈祷会にも集まって祈ります。そのように私たちは神に祈りながら生活しています。しかし、そのような生活はこの国においては一般的ではないことを知っています。日曜日に教会に集まる人は、この国においては圧倒的に少数です。ですから、ともすると私たちは何か特別なことをしているかのように思ってしまいます。しかし、聖書の見方は違います。私たちは何も特別なことをしているわけではありません。本来の姿に戻って、本来のしているはずのことをしているだけなのです。
今日の聖書箇所にはこう書かれていました。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました」(21節)。「あなたがた」とはコロサイのキリスト者です。特に異邦人キリスト者を念頭に置いて語っているのでしょう。彼らにとっての「以前は」は、もちろんキリスト者となる以前です。キリスト者となる以前、彼らは神とは無関係に生きていたことでしょう。実際、この国においても多くの人は自分は神とは関係ないと思って生きていると思います。なので、キリスト者の中にも、信仰を持っていない人に神は無関係であると思っている人もいなくはありません。
しかし、本当に無関係なのでしょうか。パウロは「「あなたがたは、以前は神から離れ」ていたと語るのです。本来、無関係であるならば、「離れていた」ことが語られることに意味はありません。「神から離れていた」と語られているのは、人間が本来神と無関係ではないからです。すべての人間が本来神と共にあるべき存在だからです。しかし、離れてしまっていた。いやそれだけではありません。「心の中で敵対していた」というのです。これが聖書の見方です。神と関係なく生きているそのことこそが、まさに心における神への敵対であり、そこにあるのは「悪い行い」なのだというのです。
「あなたがたは、以前は神から離れ・・」。遠ざけていたのは神の方ではありません。人間が、その行いによって、そして、その心において、神を遠ざけていたのです。イエス様はそんな私たちの姿を、父のもとから去って行った放蕩息子に喩えました。そこにある最大の悪は何であるのか。あの息子が放蕩に身を持ち崩したことではないのです。父のもとから離れることを願い求めたこと、そして実際に無関係に生活したことなのです。
しかし、そのように神から離れていた私たちに対して、神がしてくださったことを聖書は次のように語っています。「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」(22節)。
まず書かれているのは、神が和解してくださったということです。背いている者と和解してくださったというのですから、それは言い換えるならば「赦してくださった」ということです。しかし、そこにはただ「和解してくださった」「赦してくださった」ということだけが書かれているのではありません。「御子の肉の体において、その死によって」と書かれているのです。
「御子の肉の体において」とは、御子が人となられたことを指しています。イエス・キリストという御方の話です。「その死によって」とは、そのイエス・キリストが十字架にかかって死んでくださったということです。そのことによって、そのことのゆえに、神は「赦してくださった」というのです。
赦していただくとするならば、本来は赦していただく方が犠牲を払うのでしょう。これだけのことをしますから。これだけの苦しみを負いますから。だから赦してください、と。そして、償いきれなければ、赦しを求めることはできなくなるのでしょう。しかし、神は人間の側に償いの犠牲を求めることはなさらなかったのです。ただ「御子の肉の体において、その死によって和解してくださった」というのです。和解のために受けるべき杯は、私たちではなく、イエス様が苦しんで受けてくださったのです。
そして、「御自身の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」と続きます。「してくださいました」と訳されていますが、原文では「立たせてくださいました」という言葉が使われています。「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として、御自分の前に立たせてくださった」と書かれているのです。
私たちは現在においては「きずのない者」でも「とがめるところのない者」でもないことをよく知っています。「聖なる者」が私たちの完全であることを意味するならば、とても自分についてそのように語ることはできないでしょう。私たちは神から離れ、神に背いて生きていたというだけでなく、神から離れ、神に背いてきた私たちの罪は私たちの現在の生活の深いところにまで及んでいるのです。神に立ち帰った今もなお、肉においてそこに宿る罪との戦いは続いているのです。
しかし、そのような私たちを、神は「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として御自分の前に立たせてくださったのです。神はそのような者として私たちを見ていてくださる。それは私たちが何をしたかではなく、ただ「御子の肉の体において、その死によって」なのです。それが「和解してくださった」「赦してくださった」ということです。だからこそ、私たちは神の御前において礼拝をささげているのです。だからこそ、私たちははばかることなく神に近づいて祈ることができるのです。
そして、そこにこそ私たちの希望があるのです。神が今、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として御自分の前に立たせてくださったのならば、やがて神がそのような者としてくださるからです。神の始められた救いは必ず完成するからです。そのような者として立たせてくださったのなら、終わりの日には、文字通り、「聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者」として立つことになるのです。
それゆえに、このように勧められています。「ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません」(23節)。必要なことは多くはありません。信仰に踏みとどまり、希望から離れないことです。
ここで「揺るぐことなく踏みとどまる」と訳されているのは、「土台の上にしっかりと立ち続ける」という意味の言葉です。既に述べてきたように、すべてはキリストによるのです。信仰の土台はキリストです。その土台の上に立ち続け、キリストを信じる信仰に踏みとどまるのです。そして、すべての希望はキリストによるのです。
(祈り)
2021年12月5日日曜日
「神の言葉を聞いて生きるために」
マルコによる福音書 7:1‐13
心は神から遠く離れている
ファリサイ派の人たちがイエス様に尋ねました。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」(5節)。実際、イエス様の弟子たちは手を洗わないで食事をしていたのです。それに対して、「不衛生じゃないか」と言っているのではありません。「なぜ、あなたの弟子たちは、手を洗うという宗教儀式を行わないで食事をしているのか。どうして昔の人の言い伝えに従って生活しないのか」と言っているのです。
彼らが守ってきた「昔の人の言い伝え」は、ずいぶんたくさんあったようです。ここに実例が出ています。「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある」(3‐4節)。
そのようにたくさんあった「昔の人の言い伝え」は、もともと神の御心に従って生きたいという熱意から生まれてきたものでした。あるいは神の御心に反することはしたくないという聖なる畏れから生まれてきたものでした。彼らは神を愛し従うということを観念的なこととはせずに、具体的な生活において実践しようとしたのです。そのために、モーセの律法の言葉を解釈し、現実の生活に適用したのです。あるいはうっかり御心に反することをしてしまわないように、いわば垣根を巡らすように様々な細かい規定を定めたのです。そのように、「昔の人の言い伝え」は、もともとは良い意図から定められてきたものでありますし、神を愛する心によって伝えられてきたものなのです。
しかし、あることが定められ、皆によって行われるようになってしばらく経ちますと、その定めそのものが一人歩きを始めるようになります。ただ「定められたことを守る」ということが重要になり、もともとの心が抜け落ちて形だけが残るということも起こってまいります。ファリサイ派の人たちは、ある意味では極めて真面目な人たちでした。行うことになっていることはきちんと行う。定められていることはきちんと守るのです。しかし、そこには心がない。神に向けられた心がない。その事実をイエス様は見抜いておられたのです。
それゆえにイエス様は非常に厳しい言葉をもって彼らの現実を指摘されたのです。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(6‐8節)。
「その心はわたしから遠く離れている」。どんなに敬虔な行為であっても、「定められているから守る」というだけでは意味がないのです。何かを行うとするならば、大事なのは心なのです。神に向けられた心なのです。
何かを行う時に、心がそこにないならば、今日の聖書箇所のようなことが起こります。神に向けられた、神を愛する心から行うのではなく、「定められているから守る」ということをしていますと、守っていない人、きちんと行っていない人に対して批判的になります。そして、人を非難したり批判したりすることに一生懸命になっていると、実は一番重大なこと、その心が神から遠く離れていることに気付かなくなってしまうのです。
今日の聖書箇所に登場してきた人たちは、「エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」と書かれています。エルサレムからイエス様のいるゲネサレトまで、百キロちかくはあります。そんな遠くからわざわざやってきたのです。イエスとその弟子たちのあら探しをし、批判するためにやってきたのです。これが初めてではありません。既に3章において、エルサレムからやってきた律法学者たちがイエス様を批判し、論争をしています。
イエス様の周りには豊かな神の恵みが目に見える形で現れていたのでしょう。イエス様とその弟子たちを通して、神がなさっている素晴らしいことがあるのでしょう。しかし、そこには目が行かない。彼らは「洗わない手で食事をする」という弟子たちのあらを目ざとく見出します。口にするのは、「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか」という言葉です。「自分たちは昔の人の言い伝えに従って歩んでいる」という自負があるからです。
そのような彼らに主は言われました。「あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」(8節)。そして更に、イエス様はこう言われました。「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」(9節)。ここで「神の掟」と「人間の言い伝え」また「自分の言い伝え」が対比されています。「神の掟」という時に、大事なのは「神の」という部分なのでしょう。その心が神から遠く離れているならば、神に心が向けられていないなら、どんなに細かい定めを真面目に守っていたとしても、どんなに一生懸命なすべきことを守っていたとしても、それは所詮「人間の言い伝え」を守っているに過ぎないのです。
神の言葉を無にしない
さて、先週から教会の暦においてはアドベント(待降節)という季節に入りました。クリスマスに向かうこの期間は、私たち自身を振り返る時です。さて、私たちはどうでしょう。心はどこにありますでしょうか。神から遠く離れていないでしょうか。
御子は人となってこの世界に来られました。私たちは今年もクリスマスにおいて、この世界にキリストが来られたことを祝おうとしています。その御方によって、私たちは罪を赦されて、義とされて、神との交わりの中に入れていただきました。神を天の父と呼んで、神を仰いで、神の子どもたちとして共に生きる生活を与えていただきました。にもかかわらず、私たちの心が神から遠く離れているならば、それはまことに悲しむべきことです。
そこで私たちが特に心に留めなくてはならないのは、ファリサイ派の人々と律法学者たちに主が言われたこの言葉です。「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」(13節)。それが彼らの問題だったのです。ならば重要なことは「神の言葉を無にしない」ということなのでしょう。
しかし、「神の言葉を無にしない」とはどういうことでしょう。ユダヤ人の世界において、「神の言葉」と言ったら、それはまず「聖書」だったのです。そして、ある意味で彼らは聖書を無にしてはいないのです。そこにいたのは律法学者たちです。律法の専門家です。聖書の専門家なのです。「受け継いだ言い伝え」も、それはつまるところ聖書の言葉の解釈です。彼らは聖書を重んじています。粗末になんかしていません。しかし、イエス様は彼らが「神の言葉を無にしている」と言われるのです。どうしてでしょう。
主は実例を挙げて説明しています。「モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っている。それなのに、あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と」(10‐12節)。これが実例です。「神の言葉を無にしている」実例です。
「コルバン」というのは「供え物」を表わすヘブライ語です。「コルバン」すなわち「供え物」についての律法は、旧約聖書のレビ記などに事細かに出ています。それによるならば、「コルバン(供え物)」は神に捧げた神聖な物なので、他の日常のことに使うことは出来ないのです。これが「コルバンの規定」です。彼らは確かにそれを守っているのです。先祖がしてきたように、イエス様の時代の人も守っているのです。
しかし、そこでこういうことが起こっていたというのです。たとえば、子が親と仲たがいして、自分の持っているものを親の扶養のために使いたくないと思ったとします。そこで彼は言います。「私の持っているものはコルバン用なので、あなたのために用いることは出来ません」と親に言ったとする。するとそれは日常の用途に使えませんから、親を扶養するためにも使わなくてよいのです。
その場合、確かに形の上ではコルバンの規定を守っています。しかし、そんなことを神様は望んでおられるのでしょうか。彼らは神様が望んでおられることを聖書から聞き取っていたのでしょうか。神様の心を聞き取っていたのでしょうか。明らかに神様はそのようなことを望んではおられない。彼らは聖書の言葉を自分に都合よく利用していたに過ぎません。
言葉というものは心を伝えるものです。そして、相手の心は自分の心が共にある時に、初めて聞くことができるのです。心がそこにないならば、相手の心は聞けません。神の心も同じです。神の心を聞いていなければ、神の言葉を聞いたことにはならないのです。
私たちの心が特に問題になるのは、聖書に向かう時であり、聖書の言葉を耳にする時です。心はどこにありますか。今こうしている時、心はどこにありますか。「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」と、神はここにいる私たちにも言われるでしょうか。
アドベントの第二週に入りました。私たちはこの期間を通して、私たちの心があるべきところに立ち帰らせていただきましょう。神の言葉を無にしてはなりません。本当の意味で神の言葉を聞いて生きる生活をひたすら求めてまいりましょう。
(祈り)
2021年12月1日水曜日
祈祷会用:コロサイの信徒への手紙 1:15~20
コロサイの信徒への手紙 1:15-20
初めに15節から17節までをお読みしましょう。この部分は当時の讃美歌の一部であろうと言われています。ここには万物の創造のみ業との関連においてキリストが語られています。
その冒頭には「御子は、見えない神の姿であり」と書かれています。「見えない神」――確かに神は本質的に人間の目には見えません。それは単に肉眼で見えないということよりも、人と神とはどれほど隔たっているかということを現わしている言葉です。
人と神とは絶対的に異なる存在です。神と人との間にはなんらの連続性もありません。神ならぬ偶像ならば人間との絶対的な差異を問題にしなくて良いのでしょう。人間が作った神ならば人間が知り得ること理解できることを前提で語ることができるのでしょう。しかし、まことの神であるならば、見えない、知り得ないのは当然なのです。その見えない、知り得ないはずの神を啓示し、見せてくださった御方、それが御子・キリストなのです。「御子は、見えない神の姿であり」とはそういうことです。
いや神が「見えない」というのは、単に人間と神の本質的な隔たりだけを意味するのではありません。それが意味するのは罪による隔たりでもあります。讃美歌66番「聖なる、聖なる」の3節において次のように歌われています。「聖なる、聖なる、聖なるかな、罪ある目には見えねども…」。罪ある目に神は見えません。罪あるゆえに、人間は神の本来の姿を知りません。そうです、私たちは神の本来の姿を知り得ないのです。
皆さんの多くは、旧約聖書の多くの場面に描かれている神の姿に、何らかの違和感を覚えたことがあるに違いありません。怒りに満ちて皆殺しを命じる神。罪の裁きと滅びを宣言される神。しかし、それは神の本来の姿ではないのです。そのような姿として神が啓示されているのは、そのような姿としてしか神を知り得なかったのは、人間に罪があるからです。人間と神との関係が歪んでいるからです。壊れているからです。
そのような人間に対して、人間が創造される以前にまで戻って、万物を創造し、これを良しとされたあの本来の神の姿、溢れ出る愛において天地を創造した神の本来の姿を完全に見せてくださったのは、御子なる神なのです。御子こそ、天地創造において働いた神の愛そのものだからです。ですからパウロはここでさらに筆を進めて、万物は「御子において」「御子によって」造られたのだ、と記しているのです。
そのように万物の創造において働いた神の愛そのものである御方が、肉をとられ、人間となって、私たちが足を置いているこの同じ地上を歩まれました。それがナザレのイエスという御方です。その御方が復活されて「世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と言ってくださったのです。その御方こそが「教会の頭」なのです。
「教会の頭」であり、私たちと共にいてくださる方は、そのように計り知れなく大きな御方です。はたしてそのような意識を持ってキリストと共に歩んでいるだろうかと考えさせられます。私たちはしばしば見える現実の方がキリストよりも大きいと考えているのです。私たちが抱えている問題の方がキリストよりも大きいと考えているのです。この世界の存続を脅かしている諸問題は確かに大きいかもしれません。しかし、キリストよりも大きいわけではありません。所詮は被造物世界の中の事柄です。あの御方はこの被造物世界を造られた御方です。私たちはそのような御方を「われらの主」として信じているのです。
そして、「御子において」「御子によって」だけでなく「御子のために」とも書かれています。御子は万物の目的でもあるのです。万物は御子との関わりにおいて、初めて存在の意味を得るのです。人間について言うならば、御子に向いていてこそ、人は本当の意味で生きるのです。目的を決めるのは被造物ではなく創造主だからです。
私たちが創造主の目的とするところを離れて、どんなに「自分の人生の意味は何であるか」と問うたところで、その問いに答えが見つかるはずはありません。人間の手を離れて部屋の隅に転がっているボールペンが「わが存在の目的は何ぞや」と悩んでいる姿を想像してみてください。滑稽ではありませんか。目的は造られた側ではなく造った側が決めるのです。
逆に言えば、私たちがどんなに自分の存在意義を見いだせないような状態になっても、大丈夫なのです。御子に向いているならば大丈夫なのです。あなたは御子のために存在しているのだよ、と神は言ってくださるからです。キリストこそ万物の目的です。
さて、15節から17節までに、創造の御業との関連でキリストが語られているとするならば、18節以下には、更に、救いの御業との関連においてキリストが語られています。
先ほどお読みしましたところに「御子は、見えない神の姿であり」とありましたが、19節においては「満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ」と書かれています。つまり、御子のうちには父なる神様ご自身のあらゆる良きものが満ち満ちていたということで。
しかし、その御子が十字架にかかられて死なれました。見えない神の姿であられる方が十字架にかかられて死なれました。万物創造の業を担われた方、万物の目的であられる方が、ただ一度この地上に人間として現れ、人間の手によって十字架にかけられて死なれたというのです。父なる神がそれをよしとされました。満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせてくださった父は、その御子が十字架の上で血を流すことをよしとされました。
ここに記されていることを一言一言噛み締めながら読んでいきますならば、20節に書かれている「十字架の血によって」という言葉は私たちの想像を絶するような出来事であることが分かります。その言葉にいつのまにか驚きも感動も覚えなくなっているとするならば、やはり私たちのキリスト理解はどこかおかしくなっているのです。
神の目的は単に人に自らを啓示するということに留まりませんでした。それは万物をご自身と和解させるためでした。なぜ「人間」だけでなく「万物」と言われているかと申しますと、人間が罪を犯したため、人間のみならず全ての被造物が神のもとにある正しい秩序から外れてしまったからです。その結果、人間だけが罪の中で呻き苦しんでいるのではなくて、万物が呻いているのです。ローマの信徒への手紙8章に書かれている通りです。
人間の罪が問題なのですから、万物の回復のためには人間の罪が処理されなくてはなりません。しかも神にふさわしい、義しい仕方で処理されなくてはなりません。それは罪をただ赦すことではなくて、罪を裁いた上で赦すことでした。これが神の義です。神は罪を裁かれました。御子を十字架にかけ、血を流すことによってでした。「十字架の血によって」とはそういうことです。
万物の創造に関わられた万物の目的である方が血を流して死なれるということは、私たちの理解を越えた、驚くべき出来事です。それは、人が神と和解して共に生きるということが、決して簡単な小さなことではないことを示しています。それは、本当は人知を越えたとてつもなく大きな出来事なのです。
実際、事柄の大きさを私たちが理解しないために、罪の赦しも、神を礼拝できることも、神に祈れることも、あたかも当然のことであるかのように考えるようになり、そして粗末にするようになってしまうのでしょう。それゆえに、私たちはキリストをどのように理解するかが、私たちの信仰生活において、決定的に重要な意味を持っているのです。