2020年12月27日日曜日

「起きよ、光を放て」

イザヤ書 60:1‐6

起きよ、光を放て
 「起きよ、光を放て」。今年最後の主日において、私たちに与えられている主の御言葉です。「起きよ、光を放て」。――その言葉を最初に耳にしていたのは、エルサレムにいた人々でした。今から2600年近く前の話です。

 紀元前六世紀、バビロニアの軍事侵攻により、ユダ王国が滅亡しました。エルサレムは破壊され、神殿も焼き払われてしまいました。国の主だった人々は、異国の地バビロンへ捕らえ移されていきました。バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。

 その後、時代はバビロニアの支配からペルシアの支配へと移り変わりました。ペルシアの王キュロスは支配下にある諸民族の宗教と文化を保護する政策を採りました。キュロスは、捕らえ移されてきた捕囚の民に対しても、彼らがエルサレムに帰還し、神殿を再建することを許可しました。「キュロスの勅令」と呼ばれます。帰還民たちが神殿の再建に取り組んでいく姿は、旧約聖書のエズラ記に記されております。途中長い中断の時期がありましたが、ついに神殿が完成しました。キュロスの勅令から既に20年の月日が経過していました。

 神殿の再建には多くの労苦が伴いました。しかし、そこには同時に大きな期待もまた伴っていました。神殿が再建されるならば、かつてのダビデ・ソロモンの時代のように、エルサレムは再び繁栄を見ることになる。そう彼らは信じていたのです。そのような期待のもとに、神殿で礼拝は行われるようになりました。また律法の遵守を重んじるコミュニティも形作られていきました。

 しかし、現実にはイスラエルの民を取り巻く環境は、神殿の再建後しばらく経ってもなお何一つ変わってはいませんでした。かつての繁栄を見ることはありませんでした。彼らは依然としてペルシアの支配のもとにある弱小民族の一つに過ぎませんでした。しかも、干ばつと凶作が続き、いなごによる大被害も起こり、繁栄するどころか、人々の生活はますます貧しく苦しくなっていきました。神殿再建当時の熱狂的な興奮はもはや跡形もなく消え去っていました。残っていたのは苦しい生活の中における深い失望と神への不信だけでした。

 旧約聖書のマラキ書には、そんな当時の人々が口にしていた言葉が引用されています。「神に仕えることはむなしい。たとえ、その戒めを守っても/万軍の主の御前を/喪に服している人のように歩いても/何の益があろうか」(マラキ3:15)。そう言っている人々の姿は容易に想像できますでしょう。神から心が離れてしまい、神に仕えることからも、神を礼拝することからも心が離れてしまっている姿――想像できますでしょう。

 しかし、そのような彼らに、そのようなエルサレムに、預言者を通して神は言われたのです。「起きよ、光を放て!」

 「光を放て!」と語られているのは、暗闇がそこにあるからです。闇が覆っているという現実があるからです。では、その暗闇とは何なのでしょう。先にも触れましたように、確かにそこには大国の支配のもとにある弱小民族の苦しい生活がありました。ダビデの時代のエルサレムとは似ても似つかない都の姿がそこにありました。彼らは確かに明るい世の中を見ていたわけではないと思います。

 昨年12月8日、中国の武漢において、新型コロナウイルスの感染者の発症が初めて確認されました。そして、2020年に入り感染は拡大し、まさに今年は新型コロナウイルスに始まり新型コロナウイルスに終わった一年でした。パンデミックとの闘いがありました。経済も極度に落ち込みました。この一年を明るい一年と評する人はまずいないでしょう。私たちが目にしているのも、決して明るい世の中ではありません。

 しかし、神が「光を放て」と言われる時、そのような意味における「暗い世の中」を照らすためではないのです。だからこそ、預言者は「見よ」と言うのです。目を向けさせるのです。主は言われます。「見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる」(2節)。

 預言者は「見よ」と言って、エルサレムに住む人々の苦境に目を向けさせたのではありませんでした。闇が覆っているのはエルサレムではないのです。闇は全地を覆い、国々を包んでいるのだ、というのです。

 ある意味では意外な言葉です。少なくとも周辺諸国はエルサレムの惨状に比べればずっとましな状況にあるのです。経済的にも豊かでしょう。中東を支配していたペルシア帝国は当時繁栄の絶頂にあったのです。実際、エステル記を読みましても、エズラ記、ネヘミヤ記を読みましても、当時のペルシア帝国がどれほど豊かであったかが伝わってまいります。そのような意味においては、むしろ周りの異邦人世界の方が明るかったと言えるでしょう。

 しかし、だからこそ預言者は「見よ」と言うのです。そこに暗闇が満ちていることを見なくてはならないのです。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる」。そこにあるのは、単に不幸や困難や不況や貧困の闇ではないのです。新型コロナウイルスがもたらすような暗闇ではないのです。そうではなくて、人間の罪によってまことの光である神の交わりを失った世界という根本的な暗闇なのです。そこには繁栄はある。権力もある。しかし、まことの光がないのです。

 実際、「コロナ禍」と人は言いますが、しかし、新型コロナウイルスが存在しなかったら、光はあったのでしょうか。いいえ、そうではないでしょう。もともと闇が覆っていたのです。新型コロナウイルスによって、世界を暗闇が覆っているという現実が露呈しただけなのだろうと思うのです。それまでは気づかなかっただけなのです。だから「見よ」と言われているのです。今こそ見なくてはならない。

 「見よ」と預言者は言います。繁栄の中にあるものを見よ。力の支配の中にあるものを見よ。この世の明るさの中にあるものを見よ。「見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。」だからこそ、1節の言葉が語られたのです。「起きよ、光を放て。」この世界の本当の暗さは神の光を失った暗さに他ならないならば、神を信じる者が光を放たなくてはならないのでしょう。自分の望んでいたことが実現しないことで失望し、「神に仕えることはむなしい」などと言っていてはならないのです。神なき世界の暗闇に溶け込んでしまっていてはならないのです。それゆえに神は「起きよ」と呼び掛けられるのです。それは本来の姿ではないからです。身を横たえていたところから起き上がらなくてはならない。立ち上がらなくてはならない。神は今のこの時代であるからこそ、教会にも呼び掛けておられるのでしょう。「起きよ、光を放て」と。

主の栄光は輝いている
 そして、さらに言うならば、主はただ「起きよ、光を放て」とだけ言っておられるのではありません。預言者の言葉には続きがあります。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く」。

 「あなたを照らす光」とは直訳すると「あなたの光」です。しかし、新共同訳がこれを「あなたを照らす光」と訳したのは適切であると思われます。その後に書かれているように、光を放つのはもともと彼らが内に持っている何かではないからです。「光を放て」と言われているのは、彼らを照らす光が既に昇っているからです。それは「主の栄光」です。彼らは照らされて光を放つのです。ちょうど月が太陽の光に照らされて輝いているようにです。

 ならば重要なのは、輝きの源である神との関係なのでしょう。彼らはペルシアに支配される、富も力も持たない、貧しい民に過ぎません。繁栄する異邦人の間にあって、生活苦にあえぎながら、悩みながら、頭をかかえながら生きている人々です。しかし、それでもなお、彼らはエルサレムに集められた人々なのです。そこにあるのは、かつてソロモンの建てた神殿とは似ても似つかないものであったかもしれない。けれど、彼らの間に神殿があり、祭壇があるのです。彼らは礼拝する民として神に集められた民なのです。彼らの姿はボロボロかもしれない。けれど、既に神の栄光は彼らを照らしているのです。

 だから、彼らは自分たちを照らす光に向かって顔をあげたらいいのです。「神に仕えることはむなしい」などと言っていないで、神を礼拝し、心からの賛美を捧げ、神に自らを献げて生きたらいいのです。彼らを照らす光は既に昇っているのですから。すると何が起こるのか。「国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」(3節)。そのようなことが起こるのだと預言者は語るのです。

 「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く」。――時を経て、私たちが同じ言葉を耳にしています。神が同じように私たちに語り掛けておられます。そして、私たちはその光が《誰であるか》を既に知らされています。どのように主の栄光が私たちの上に輝いているのかを知らされているのです。

 「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)。今年のクリスマスの聖書日課として与えられていた御言葉です。そして、このようにも語られていました。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」(同14節)。

 私たちはその御方によって集められてここにいます。もっとも現在はまだ毎週礼拝堂に集まれるわけではありません。しかし、それでもなお週毎に私たちは礼拝へと招かれています。招かれている私たち自身は、輝くものなど何もない、みすぼらしい姿であるかもしれません。しかし、既に私たちを照らす光は昇っているのです。主の栄光は私たちの上に輝いているのです。

 ならば、私たちもまた、私たちを照らす光に向かって顔をあげたらいいのです。神を礼拝し、心からの賛美を捧げ、どのような状態であれ、その自分自身を神に献げて生きたらいいのです。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く」。祈りましょう。

2020年12月24日木曜日

「さあ、ベツレヘムへ行こう」

ルカによる福音書 2:8-20


 「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」(15節)。そう言って羊飼いたちは出発しました。

 「主が知らせてくださったその出来事」。それは野宿をしていた羊飼いたちに主が天使を遣わして知らせてくださったことでした。羊飼いが聞いたメッセージはこのようなものでした。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(10‐12節)。

恐れるな
 「恐れるな。」これが羊飼いたちの聞いた天使の第一声でした。「恐れるな」と語られたのは、羊飼いたちが非常に恐れていたからでした。単に天使を目撃したからではありません。「主の栄光が周りを照らした」と書かれています。それはすなわち、神がまさにそこにおられるということです。羊飼いの側からすれば、《自分たちは、まさに今、神の御前にいるのだ》と自覚したということです。神が共におられる。しかし、その認識は、単純に喜びをもたらしはしませんでした。それは恐ろしいことだったのです。

 宗教的なユダヤ人社会での出来事です。彼らも天地を造られた神について耳にしたことはあったでしょう。しかし、羊飼いたちは、ユダヤの社会においては、完全にアウトサイダーでした。彼らの仕事柄、宗教的な戒律を守って生活することは不可能でした。清めの祭儀を守ることができなければ、宗教的には汚れた者と見なされます。人々は彼らを神から遠い存在と見ていたでしょうし、彼ら自身、たとえ神はいたとしても、自分たちとは関係がないと思っていたことでしょう。

 しかし、羊飼いたちが、自分は神とは無縁の存在だと思っていたとしても、神様の方はそう思っていませんでした。彼らが意識してようとしていまいと、彼らは神によって生かされてきたのだし、神様と無関係であったことは一瞬たりともなかったのです。その神様が羊飼いたちの生活の中に入って来られました。羊飼いたちは、神が共におられ、自分たちが神の御前にあることを知ったのです。しかし、繰り返しますが、そのことは単純に喜びをもたらしはしませんでした。

 それはこの羊飼いに限ったことではありません。聖書において、様々な形における神と人との出会いが描かれていますが、多くの場合、人々の内に起こる反応は「恐れ」です。

 神に対する「恐れ」はどこから来るのでしょう。聖書において、その「恐れ」の歴史を辿ってみると、ほとんど聖書の初めにまで遡ることになります。最初の人間であるアダムとエバです。彼らが神に背いた時、初めて「恐れ」という言葉が聖書に出て来ます。主なる神が近づいてきた時、彼らは「園の木の間に隠れた」と書かれています。神がアダムを呼ばれると、アダムはこう言うのです。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(創世記3:10)。

 裸のままで、ありのままで、神に向い、神を喜ぶことができない。どうしてですか。神に背いていることが分かっているからです。自分が正しくないことを知っているからです。それゆえに神が共におられることは単純に喜びにはならないのです。だから、あの羊飼いたちも恐れたのです。

 しかし、まさにその時、神様の方から声がありました。天使を通して、主は言われたのです。「恐れるな」と。主は「恐れなくてよい」と言ってくださいました。ならば、もう神の顔を避けて、園の木の間に隠れる必要はありません。私たちは恐れずに神に向かって顔を上げることができる。私たちを責め、断罪する神としてではなく、救いの神として仰ぎ望むことができるのです。

救い主がお生まれになった
 そして主は、「恐れるな」と語られた後、御使いを通して、喜びの知らせを聞かせてくださいました。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。

 救い主の誕生を真っ先に知らされたのは「羊飼いたち」でした。先ほども言いましたように、ユダヤの宗教的な社会において、彼らはアウトサイダーでした。救いから遠い汚れた人々。そのように見なされていましたし、自分もそう思っていた、そのような彼らに対して、神様は天使を通してこう言ったのです。「《あなたがたのために》救い主がお生まれになった!」と。

 では、その御方はどのような意味において、わたしの、私たちの「救い主」なのでしょうか。その当時の世界において「救い主」と呼ばれる人物は既に存在していました。ローマの初代皇帝「アウグストゥス」です。彼は長い戦乱の世に終止符を打ち、後に「パクス・ロマーナ(ローマの平和)」と名付けられる「平和」をもたらしました。それは武力によって実現した平和でした。戦争や紛争が無くなることが「平和」であり「救い」であるならば、確かにローマ皇帝は「救い主」なのでしょう。しかし、大きな力が支配するところにおいては、必ず抑圧される人々が存在します。そのような人々は見えないところに追いやられます。力の支配によってもたらされた「平和」はすべての人の「平和」とはならず、「救い」ともなりません。

 しかし、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と告げた御使いは、さらにこう続けました。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(12節)。なんと!ダビデの町にお生まれになった救い主は、「救い主アウグストゥス」とは正反対の姿でそこにいるのです。それは何を意味するのでしょうか。神が与えようとしている救いは「力」をもって実現するのではない、ということです。

 そもそも救いを必要としている人間の根源的な悲惨はどこにあるのでしょうか。それは先ほど、聖書を遡って創世記に見たアダムの姿から明らかです。人が神の顔を避けて、園の木の間に隠れていることです。聖なる神の御前において、私たちは自らの罪を思い、恐れざるを得ないという現実です。まずそこから救われなくてはなりません。そのためにこそ神は「恐れるな」と言って、この世界のただ中に救い主を置かれたのです。もはや誰も恐れる必要がないほどに、無防備な姿で、貧しい姿で。人が安心して神と共に生きられるためにです。そして、その救い主はやがて後の日に、力によってではなく、十字架にかかられることにより、私たちの罪を代わりに背負われることにより、私たちの救いを全うすることになるのです。

 これが主の知らせてくださった出来事です。これが主によって私たちにも知らされている出来事です。羊飼いたちは、言いました。「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」そう言って彼らは出発しました。そして、ついに飼い葉桶に寝かされている乳飲み子を探し当てました。もちろん、それで彼らが苦しみのない別世界に移されたわけではありません。依然として、ローマの支配下にある苦しい生活が、厳しい労働が彼らを待っていたことでしょう。しかし、彼ら自身は以前と同じではありません。彼らは神の救いの内を既に生き始め、味わい始めているのです。何と書かれていますか。彼らは「神をあがめ、賛美しながら帰って行った」(20節)と書かれているのです。

 さて、私たちはまず、この羊飼いのところに身を置いて、この物語を聞くことができるでしょう。「恐れるな」と語り掛けられているのは、私たち自身です。それゆえに、「さあ、ベツレヘムへ行こう」と言って、御子のもとに馳せ参じます。そこで神をあがめ、賛美し、そして「神をあがめ、賛美しながら」生活の場へと帰って行くのです。

 しかし、私たちはまた、羊飼いたちの賛美に加わらせていただく者として、この物語を読むことも必要です。私たちがアウグストゥスではなく、飼い葉桶に寝かされた御子を礼拝するとするならば、そこに真っ先に招かれているのは羊飼いたちなのです。私たちは彼らと共に神をあがめ、そして賛美しながら帰って行くことになるでしょう。私たちにとって、共に御子を礼拝する羊飼いたちとは誰なのでしょうか。

(祈り)
 

2020年12月13日日曜日

「既に始まっていることがある」

マタイ11:2‐15

荒れ野で叫ぶ声
 11月8日の福音書朗読にも出てきましたが、今日の福音書朗読において再び洗礼者ヨハネが登場します。イエス・キリストに洗礼をさずけた人物です。先月読まれた箇所もあわせて見ておきましょう。3章1節から6節までをお読みします。

 「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(3:1‐6)。

 ヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と呼びかけていたのには理由がありました。彼には確信があったのです。最終的な神の裁きが間もなく行われるという確信です。神が審判を下される終わりの日は差し迫っていると彼は信じていたのです。続きをお読みします。「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。・・・・斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』」(3:7‐10)。

 実際、ヨハネにとって、メシアの到来というのはそのような期待だったのです。ヨハネにとって来るべきメシアとは、第一に力ある王なのです。神の権威をもってこの世界に君臨し、この世の悪を正しく裁くことのできる王なのです。

 そのようなメシアの到来をヨハネがどのように思い描いていたかは、彼の描写から分かります。彼はこう言っているのです。「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(3:11‐12)。

 彼が用いているのは脱穀のイメージです。「農夫が箕をもって麦を空中に放ると風がもみ殻を吹き分けます。そして麦は倉に入れられ、殻は焼き払われることになります。そのように、最終的な神の裁きもメシアを通して行われると言うのです。この関連で「聖霊と火による洗礼」も語られております。明らかに「火」とは裁きの象徴です。では、聖霊はどうでしょう。実は、「霊」と「風」とは同じ単語なのです。ですから、ヨハネが意図していたのは「聖なる風」ということです。そうしますと、脱穀のイメージと重なります。こちらももみ殻と麦を吹き分ける裁きの象徴であることが分かります。

 要するに、ヨハネはあくまでも、最後の裁きをなさる方としてのメシアを語っているのです。そして、そのヨハネが「この人こそ来るべきメシアだ」と信じていた人物こそ、あのナザレのイエスだったのです。

来るべき方はあなたですか
 やがて、ヨハネは捕らえられ獄中の人となりました。今日お読みした聖書箇所ではヨハネが牢の中にいることが書かれていましたでしょう。事の顛末は14章に記されております。簡単に言えば、領主ヘロデの罪を指摘し、糾弾したのです。領主ヘロデにも悔い改めを求めたのです。しかし、彼は投獄され、ヘロデは何もなかったかのように平和に生活をしていた。それはヨハネにとっては決して想定外のことではなかったでしょう。それがこの世の現実であるからこそ、メシアは来られるのです。この世は正しく裁かれなくてはならないのです。この世の悪の力によって投獄されたヨハネは、いよいよイエスへの期待を膨らませたに違いありません。自分が世の中から去った後、イエスはどのような行動を起こすのか。神の裁きの風はどのように吹くことになるのか、と。

 ところが、いつまで経っても、何一つ期待どおりのことは聞こえてこないのです。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」(2節)と書かれていました。ヨハネは何を聞いたのでしょう。伝え聞くところによれば、イエスの周りにはいつでも悪霊に憑かれた人や病気で苦しむ人が集まっいて、彼らをいやしておられるらしい。それはまだしも、聞くところによれば、罪人や徴税人たちを集めては一緒に食事をしているらしい。徴税人というのは、いわばヨハネを投獄したヘロデ側の人間です。これはいったいどうしたことでしょう。

 それだけではありません。これも先月読まれた聖書箇所ですが、イエスは弟子たちに「悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」と教えているのです。さらには、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい」などと教えているらしい。挙句の果てには「天の父である神は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」というような教えを説いているとのこと。いったい麦と殻を吹き分ける風はどうしたのでしょう。殻を焼き払うはずの火はどこにあるのでしょう。仮に最終的な審判はまだ先のことだとしても、例えば旧約聖書に出て来るエリヤのように、天から火を下して見せるとか、最後の審判を垣間見させるような奇跡を起こして、神の裁きに心を向けさせることはできるのでしょう。しかし、イエスがそのようなことをしたという話は全く聞こえてこないのです。

 獄中にいるヨハネは揺らぎました。それが今日の福音書朗読で読まれた場面です。もう一度お読みします。「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」(2‐3節)。

見聞きしていることを伝えよ

 その問いに対して、イエス様はこう答えられました。4節以下をご覧下さい。「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。』」(4‐6節)

 ヨハネはメシアの到来のために道を準備するために遣わされた人でした。ヨハネが「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えたのは、メシアの道を準備するためでした。そして、彼は準備を終えて、社会から消えたのです。彼は獄中にいるのです。その彼に「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と主は言われたのです。ヨハネによって道が準備されたその先にいったい何が起こっているのか。彼らはまず、そこに起こっていることをよく見なくてはならない。よく聞かなくてはならないのです。

 イエス様の言葉の背景にはイザヤ書の預言の言葉があります。例えば「その日には、耳の聞こえない者が、書物に書かれている言葉をすら聞き取り、盲人の目は暗黒と闇を解かれ、見えるようになる。苦しんでいた人々は再び主にあって喜び祝い、貧しい人々はイスラエルの聖なる方のゆえに喜び躍る」(イザヤ29:18-19)。例えば「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」(同35:5-6)。

 このような癒しの描写をもって何が語られているのでしょうか。たとえ今は苦しみの中にあったとしても、最終的に神の憐れみが目に見える形でこの世界に現れるということです。確かに、この世界は最終的に正しく裁かれなくてはならない。しかし、最終的な裁きの時はまた、最終的な救いの時でもあるのです。いずれにしても、神が神としてご自身を現されるということです。そして、最終的に現される神の愛と憐れみを、神の救いを、もうあなたたちは目にし始めているではないか。既に耳にしているではないか。そうイエス様は言っておられるのです。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」。彼らはよく見なくてはならない。よく聞かなくてはならないのです。

 ヨハネは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣べ伝えました。しかし、そもそも悔い改めとは何でしょう。神から罰せられないように、悪いことを改めて良い人間になることでしょうか。神の怒りを免れるために、悔いて改めることでしょうか。いいえ、悔い改めとは方向を変えることなのです。方向を変えて神のもとに立ち帰ることなのです。悔い改めとは神への復帰です。神を離れた生活の方向転換をし、神に立ち帰ることなのです。イエス様のたとえ話で言うならば、父のもとを離れて放蕩していた息子がボロボロの姿のまま父のもとに帰ってきたように、そのように神のもとに帰ってくることなのです。

 そして、神のもとに帰るのは、罰を免れるためではないのです。災いを免れるためではないのです。神の怒りを鎮めるためでもないのです。そうではなくて、まことに神を神として、神と共に生きるためなのです。神の愛の内を生きるためなのです。イエス・キリストはその意味において、来るべき方だったのです。神が自らを現されるために遣わされたメシアとして、来るべき方として来られたのです。ならばそこには既に始まっていることがあるのです。

 確かにこの世界は正しく裁かれるべき世界です。この世界を不義が支配しています。正義はねじ曲げられています。正しいヨハネが投獄されるようなことが今日においても起こります。不当な苦しみがある。理不尽な悲しみがある。暗闇が依然として覆っている世界です。しかし、まだ夜が明けていない暗闇の中に、既にメシアは来られたのです。ですから、既に始まっていることがあるのです。確かにあります。ここにも見ることができます。ここには神のもとに立ち帰って、礼拝をささげている人々がいる。ここには神の赦しがあり、私たちの内に働く神の回復の御業がある。私たちは既に神の憐れみに触れながら生活しているのです。その意味で既に天の御国を味わい始めているのです。そこにしっかりと目を向けて生きていきましょう。

(祈り)
 憐れみ深い天の父、
 この世界は、あなたは既に救い主を与えてくださった世界です。この人生は、あなたが既に救い主を与えてくださった人生です。あなたの良き業が、この世にも私たちの人生にも既に始まっていることを感謝いたします。その事実にしっかりと目を向けてこれからも信仰をもって歩んでいくことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020年12月6日日曜日

「悔いる者のもとに来られる神」

イザヤ59:12‐20

光を望んだが闇に閉ざされ
 今日の第一朗読はこのような言葉から始まっていました。「御前に、わたしたちの背きの罪は重く/わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり/わたしたちは自分の咎を知っている」(12節)。自らの罪を認め、罪を悔いる者の言葉です。

 この人が置かれている状況を先に見ておきましょう。今日の朗読には含まれていませんが、9節以下には次のように書かれています。「それゆえ、正義はわたしたちを遠く離れ/恵みの業はわたしたちに追いつかない。わたしたちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ/輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている。盲人のように壁を手探りし/目をもたない人のように手探りする。真昼にも夕暮れ時のようにつまずき/死人のように暗闇に包まれる。」(9‐10節)。

 これがこの人の置かれている状況です。彼が目にしている当時の社会の描写であると言ってもよいでしょう。誰もが光を望みながらも現実には闇に閉ざされている社会。暗闇の中を歩いているかのように、先が見えない。まるで手探りをして歩いているかのように、どちらに進んだらよいのかさえわかない。歩いてはつまずき、歩いてはつまずき・・・・。そのように人々が生きている社会のありようがそこに描き出されています。

 そして、そのような暗闇の中にうなり声が響いているのです。11節はこう続きます。「わたしたちは皆、熊のようにうなり/鳩のような声を立てる。正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」。社会の中に、嘆きの声が響いています。失望と落胆、また怒りと苛立ちの声が響いています。熊のうなり声のように。「正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」と。正義なんかない。救いもない。そのような声が響き渡っているのです。

 そのようなうなり声は声は誰に向けられているのでしょう。「正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」。実際には、社会の中に様々な対象に向けられた諸々の声が響いていたのだと思います。現代においても私たちが目にしているように、「あいつが悪い」「こいつが悪い」と人々が口にしていたのでしょう。しかし、イスラエルの話ですから、その全ては最終的には神に向けられていたとも言えます。「正義を望んだが、それはなかった。救いを望んだが、わたしたちを遠く去った」。

 社会に満ちるうなり声。神に向けられた嘆きの声。失望と落胆、怒りと苛立ちの声。それに対して、神は何と言われるのでしょう。実は、この人にはもうわかっているのです。というよりも、その神の答えこそ、この人自身が社会に向かって語ってきた言葉だったからです。この人は預言者です。預言者は人々に神の言葉を語るのです。

 1節以下に、この人が預言者として語ってきた言葉が記されています。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が/神とお前たちとの間を隔て/お前たちの罪が神の御顔を隠させ/お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(1-2節)。

 そのように語ってきた。だからこの人にはもうわかっているのです。なぜ誰もが光を望みながら現実には闇に閉ざされているのか。なぜ暗闇の中を手探りするように歩いているのか。なぜ暗闇の中を歩くように、歩いてはつまずき、歩いてはつまずき、ということを繰り返しているのか。「正義がない!救いがない!」といううなり声が社会に満ちているけれど、いったい何が問題なのか。この人にはわかっているのです。問題は神と人との間にあるのです。神と人との間が隔てられている。断絶している。関係の破れがそこにある。それこそがこの世界の根本問題であり人生における根本問題なのです。

 だから、うなり声が響いている社会のただ中で、彼はこのような言葉を口にするのです。今日の朗読の冒頭をもう一度お読みします。「御前に、わたしたちの背きの罪は重く/わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり/わたしたちは自分の咎を知っている。主に対して偽り背き/わたしたちの神から離れ去り/虐げと裏切りを謀り/偽りの言葉を心に抱き、また、つぶやく。こうして、正義は退き、恵みの業は遠くに立つ。まことは広場でよろめき/正しいことは通ることもできない」(12‐14節)。

 ここで彼が「わたしたち」という言葉を繰り返していることに注意してください。先ほども言いましたように、彼は預言者として人々に神の言葉を語ってきたのです。社会に向かって語ってきたのです。「お前たちの悪が」「お前たちの罪が」と語ってきたのです。具体的には社会に満ちる不正、権力者たちによる暴虐と圧制、宗教的指導者たちの腐敗を問題として語ってきたのです。それは神に遣わされた者としての使命であり、罪を罪として語る言葉はイスラエルの社会にとっても必要だったのです。いやそれがどこであっても、いつの時代でも、罪が罪として、悪が悪として語られることは必要なことなのです。

 しかし、先にも申しましたように、問題は神と人との関係なのです。ならば神と彼らの関係だけを問題にすることはできません。「お前たちの悪が」「お前たちの罪が」と語っている自分自身もまた神の御前にいるのですから。それが分からなければ、ただ「お前たちの悪が」「お前たちの罪が」とだけ言い続けるのでしょう。しかし、この人はそうではありませんでした。神の御前にある一人の人間として、罪ある人間として、「わたしたちは」と語っているのです。

 「御前に、わたしたちの背きの罪は重く/わたしたち自身の罪が不利な証言をする。背きの罪はわたしたちと共にあり/わたしたちは自分の咎を知っている。」――真に神の御前に立つとはこういうことなのでしょう。この世界に満ちる悪をわが悪として認め、この世界の背きをわが罪として悔いる人の姿がそこにありました。

罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる
 そのような人であるからこそ、彼はまた、神がこの世界をどのように見ておられるかをはっきりと知る人でもあったのです。彼は言います。「主は正義の行われていないことを見られた。それは主の御目に悪と映った」(15節後半)。そして、こう続けるのです。「主は人ひとりいないのを見/執り成す人がいないのを驚かれた」(16節前半)。

 「人ひとりいない」。それは「執り成す人がひとりもいない」ということです。神はその事実に驚きをもって目を向けておられます。「執り成す人がひとりもいない」。「執り成す人」というのは神と人との間に立つ人です。そこに立てる人がひとりもいない。

 問題は神と人との関係だと先ほど申しました。「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」と語られてきたのです。ではその隔てはどうしたら取り除かれるのでしょう。誰が神と人との間に立って、人のために執り成すことができるのでしょう。

 「執り成す人がひとりもいない」――「いいえ、ここにわたしがいます」と彼は言うことができるのでしょうか。いいえ、彼は言うことができない。彼自身もまた「御前に、わたしたちの背きの罪は重いのです」と言わざるを得ない者だからです。彼自身が執り成しを必要としているのです。

 この人には分かっているのです。神の御前に立って人のために執り成すことのできる正しい人は、ひとりもいないということ。神がご覧になっている通りだということ。ならば、それは何を意味するのでしょう。人間の側から救いの道を開くことはもはやできない、ということです。それを成し得る人がいないのですから。

 しかし、この人の言葉はそこで終わらないのです。その先があるのです。人間の側から救いの道を開くことができないゆえに、神が自ら行動を起こされるのです。人間の罪による神との関係の破れについて、人間の側からはどうすることもできないゆえに、それは神の側から始まるのです。それゆえに、「主は人ひとりいないのを見/執り成す人がいないのを驚かれた」という言葉は次のように続くのです。「主の救いは主の御腕により/主を支えるのは主の恵みの御業」(16節後半)。

 神は自ら救いの行動を起こされます。「主の救いは主の御腕による」とはそういうことです。人間によらない。神様がなされるのです。そして、「恵みの御業」という言葉は、「正義」とも訳せる言葉です。しかし、これは人間の正義ではありません。神の正しさです。神が行動を起こされる。それは人間の正しさのゆえではありません。正しい者はいないのです。一人もいない。それゆえに神は神の正しさに基づいて行動されるのです。「主を支えるのは主の恵みの御業(正義)」とはそういうことです。

 そのようにして、主は贖う者として来られるのです。20節に書かれているとおりです。「贖う者」とは「救う者」と言い換えてもよいでしょう。そうです、神は救いの神として来られるのです。しかし、そこにははっきりとこう書かれています。「罪を悔いる者のもとに来ると主は言われる」。

 さて、アドベント(待降節)の期間に、どうしてこの聖書の箇所が読まれたのか、もうお気づきのことでしょう。私たちは、神自ら決定的な行動を起こされたことを祝おうとしているのです。神がこの世界に独り子を与えられた。神がこの世界にキリストをお与えくださった。それがクリスマスにおいて祝われている出来事です。神と人との間を執り成すことのできる正しい人がひとりもいないこの世界に、神が唯一、神と人との間を執り成すことのできる御方を置かれたのです。神と人との間にある罪の隔てを取り除くことのできる御方を置かれたのです。そして、キリストは私たちの罪を自ら背負って十字架にかかり、私たちの罪の贖いをなし、私たちのために執り成してくださったのです。

 その祝いに向かう途上において、私たちは今日、「主は贖う者として、シオンに来られる。ヤコブのうちの罪を悔いる者のもとに来る」と主が言われるのを聞いています。アドベントの期間は、悔い改めのために私たちに与えられている期間です。神と向き合い、この世界と向き合い、そして、自分自身としっかり向き合わなくてはなりません。そのようにして、私たちはこの人と同じところに立つのです。

(祈り)
憐れみ深い天の父
真にあなたの御前にある者として、あなたの光のもとで自らを知ることのできる者とならせてください。私たち自身が断罪しているこの世の罪が私たち自身の内にあることに気づかせてください。どうかまことに罪を悲しみあなたの元に立ち帰る恵みを与えてください。そのためにあなたが与えてくださったこのアドベントのこの時をふさわしく過ごすことができますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

2020年11月29日日曜日

「今この時を生きる」

マタイ24:36-44

 今日から待降節(アドベント)に入りました。週報に書きましたように、クリスマスまでのこの期間は、キリストの到来を心に留める期間です。それは馬小屋に生まれた第一の到来だけでなく、王の王、主の主として来られる第二の到来、キリストの再臨を覚える期間でもあります。

ノアの時と同じである
 主の再臨については、使徒信条において次のように告白されています。「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん。」特に、この「生ける者と死ねる者とを」という言葉について、ファン・ルーラーというオランダの神学者が非常に印象的な言葉をもって講解しています。今日の箇所ともかかわりますので、ご紹介いたします。

 「彼(キリスト)は生きている者をも裁かれるでしょう。最後の審判の日には、既に死んだ者たちだけがそこに存在するのではありません。そこには生きている者もまた存在するのです。これは素朴な表現ですが、そこには重要なことが語られております。最後の審判の日は、一見、何の変哲もない普通の日なのです。それは歴史上の多くの日々のうちの一日です。生活はごく普通に営まれています。しかし、まさにその日、人の子は帰って来られるのです、思いがけなく、夜にやってくる盗人のように。」(A.A.van Ruler "IK GELOOF"より)。

 今日読まれました福音書において、イエス様もまたその日を、一見すると何の変哲もないごく普通の日として語っておられます。それは「ノアの時と同じ」だと言うのです。36節以下をご覧ください。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」(36‐39節)。

 「ノアの時」というのは、直訳すると「ノアの日々」という言葉です。「洪水になる前は」とは、直訳すると「洪水になる前の日々は」です。「日々(days)」――そうです、そこには当たり前のように人々が食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりして過ごしてきた、なんの変哲もない「日々(days)」があったのです。それに対して、「ノアが箱舟に入るその日」は、単数の「日(the day)」です。人々は、まさに「その日」も、いつもと同じ「日々」と同じだと思っていたのです。しかし、そうではありませんでした。それは特別な「日」、「裁きの日」となったのです。

 ある日が、突然、特別な日となってしまうということについて言えば、類似の経験からある程度理解できます。もう9年以上前になってしまいましたが、今なお鮮明な記憶として残っているのは2011年3月11日の大震災でしょう。そして、ある日、首都圏に直下型の大地震が起こるならば、同じように、いつもと同じ日々であると思っていたその日は、突如として「特別な日」となるはずです。

 ならば、キリストの再臨の日も、それと同じであろうことは理解できますし、キリストが語っておられることは想像することもできます。それは「ノアが箱舟に入るその日」と同じです。あるごく普通の日と見える一日が、それまでの歴史を総括し、私たちの人生をも総括する特別な日となるのです。

 ところで、ここでノアの時代の人々について、彼らが滅びたのは悪行のゆえであるとは語られていないことは注目に値します。ただ「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」と語られているだけです。イエス様の言葉の元となっている創世記6章のノアの物語の冒頭は、実はこうなっているのです。「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた」(創世記6:11)。だから、神はノアに「わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(同13節)と言われたのです。しかし、イエス様は人々の不法そのものには全く言及しておられないのです。

 そのように、イエス様が問題にしておられるのは、他のことなのです。それは、彼らが神の正しい裁きの日を考えずに生活していたことです。ある一日が、特別な一日、裁きの一日となることを思うことなく生活していた、ということなのです。これまでの日々のように、明日も、またその次の日も、自分の手の中にあるかのように、自分のコントロール下にあるかのように生きていたことが問題とされているのです。そのような神なき日常性の上に、神の裁きは臨むことになるのです。

 その時、それまでの当たり前の生活の中において、決定的な区別と分離が起こります。神に受け入れられるのか、神に退けられるのか、神に救われるのか、滅びるのか、二通りに分かれるのです。神によって分けられるその区別に比べるならば、この世のいかなる区別も取るに足りないものとなるでしょう。

 そこではまったく個々の人間が問われることになります。まさに神は、個々の人間に真剣に向かわれるのです。「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」(40、41節)とはそういうことです。神が個々の人間と真剣に向き合われ、かかわられる。そこで私たちは他のだれをも問題にできません。親を問題にできません、子供を問題にできません、最終的には何事も妻のせいにも、夫のせいにもできません。「わたし」がどうであるか、「わたし」がどう生きてきたかの問題となるのです。神の裁きにおいては皆、一人の人間です。「一人は連れて行かれ、もう一人は残される」。そういうことです。

だから目を覚ましていなさい
 では、私たちはどうすべきでしょうか。教会は、神を見失ったこの世界に、滅びに瀕しているこの世界に、まず何にもまして、キリストを宣べ伝えるべきでしょうか。もちろんそうです。神の裁きが真剣に受け止められるならば、そこではまた、悔い改めの必要性、罪からの救いの必要性も真剣に受け止められねばならないからです。私たちは、神の御前にあるこの世界に、キリストの名によって「罪の赦しを得させる悔い改め」(ルカ24:47)を宣べ伝えねばなりません。それは教会の大きな使命です。

 しかし、少なくともこの箇所においては、別の事柄が語られていることにきちんと耳を傾けなくてはなりません。主は言われます。「だから、目を覚ましていなさい」(42節)。これは世に対する言葉ではありません。その後に「いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」と書かれています。そのように、これは「自分の主」を知っており、「自分の主」の帰りを待っているはずの者、すなわちキリスト者に対する言葉なのです。つまり、私たちは、まずこの世をではなく、自らを問わねばならないのです。教会は、キリスト者は、まず自らを省みなくてはならないのです。

 目を覚ましているとは、42節の言葉から明らかなように、主の帰りを待つ者として、備えつつ生きるということです。その意味するところについては、今日は朗読されませんでしたが、続く45節以下に次のように書かれています。「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである」(45‐46節)。

 主人を待つ僕について、主人が望んでいるのは、僕が有能であることではありません。単に僕が良く働くことでもありません。主人が望んでいるのは、僕が忠実であることです。忠実な僕は、主人の意思を重んじます。主人が願うことを行おうとします。そして、主人が託してくださっている務めを重んじます。主人が託してくださっている人々(この場合、使用人)を重んじます。

 総じて言えば、忠実な僕とは主人を重んじる僕のことです。それは主人を愛している僕であると言いかえてもよいでしょう。主人を愛している僕は、主人の帰りを待ちわびます。ですから、主人がいつ帰ってきてもよいように備えます。その結果、彼は主人が帰ってきたとき、言われているとおりにしているのを見られることになります。忠実である僕は、こうして賢い僕でもあります。主人は、小さなことに忠実であった賢い僕に、さらに大きなことを託します。

 このように、私たちに求められているのは、主を待つ者として忠実な賢い僕として生きることです。「目を覚ましていなさい」とはそういうことです。ここに明らかなように、忠実であることが問われるのは、私たちの日常です。私たちの「日々」です。すなわち、ごく普通の日常生活であり、毎日のことです。日曜日だけのことではありません。このことは、皆で毎週日曜日に教会に集まることのできない私たちが、特に心にとめるべきことであろうと思います。

 ちょうど8ヶ月前の3月29日、頌栄教会は日曜日にこの場所に皆で集まることができなくなりました。私たちだけではありません。新型コロナウイルスのパンデミックにより、世界中の教会が日曜日に集まることの困難に直面しました。そのことによって何が起こったのか。頌栄誌にも書きましたが、このことによって、いわゆる“サンデークリスチャン”が成り立たなくなったのです。日曜日に教会に行けないのですから。それは改めて世界中のキリスト者が、真に神と共に生きるとはいかなることか、御言葉に聴いて生きるとはいかなることかを問われることになりました。日曜日に集まれない自分が、今、聖書を手にしているということが何を意味するのか。同じように聖書を手にしている友がいることが何を意味するのか。そのことに改めて、目を向けされられる出来事となりました。御言葉に聴いて生きるためには、自ら祈って聖書を開かざるを得なくなったのです。

 実際には、多くの教会でインターネットを介してのオンライン礼拝が始まりました。わたしはそれにはそれなりの意味があろうかと思います。一概に否定するものではありません。しかし、あくまでも用いる「人」によると思いますが、もしオンライン礼拝が、違った形でのサンデークリスチャンを作り出してしまうなら、自ら聖書も開かない、ただ日曜日の1時間ほど画面の前にいるだけのクリスチャンを作り出してしまうなら、それこそ災いであると言わざるを得ません。

 「目を覚ましていなさい」と主は言われます。それは日々のことです。特にアドベントのこの期間、あるべき姿に立ち帰り、日々御言葉に聴き、祈りつつ歩んでまいりましょう。

(祈り)

2020年11月22日日曜日

「羊と山羊が分けられる時」

マタイ25:31-46

 来週の日曜日からアドベント(待降節)に入ります。教会の一年はアドベントから始まりますので、この日曜日は一年最後の日曜日ということになります。ゆえに、この日は「終末主日」と呼ばれまして、特に「終わり」について考える日とされています。ということで、今日の福音書朗読では「最後の審判の話」が読まれました。

右に置かれるか左に置かれるか
 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く」(31節)と書かれていました。人の子、すなわち再び来られるキリストが栄光の座に着かれるのは、最終的な裁きを行うためです。そこで話は次のように話が続きます。「そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く」(32-33節)。

 ここでまず、集められた「すべての国の民」のところに身を置いて、イエス様の言葉に耳を傾けてみましょう。

 そこで聞こえてくるのは、当時のごくありふれた牧羊風景を背景とした話です。昼間には山羊も羊も同じところに一緒に放牧されています。しかし、夜になると山羊は寒さを嫌うので小屋に入れられます。一方、羊は新鮮な空気を好むので戸外の囲いの中に集められます。そのように、夜になると羊飼いによって羊と山羊は分けられるのです。それと同じように、今は全く区別されないように見えたとしても、最終的に、「すべての国の民(つまり全世界の人々)」は、羊と山羊に、右と左に分けられることになるという話です。

 そして、右側の人々に向かって王がこう言うのです。「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」。また、左側の人々には王がこう言うのです。「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ」。

 さて、このように「すべての国の民」のところに身を置いてイエス様の言葉に耳を傾けていますと、やはりここで考えざるを得なくなります。果たしてわたしは羊なのだろうか。それとも山羊なのだろうか。最終的に右に置かれるのか。それとも左に置かれるのか。しかも、それは暫定的なこの世の審判の話ではなく、最終的な裁きの話です。そこで右になるのか左になるのかは小さなことではありません。その意味で、大変恐ろしい話であるともいえます。

 もちろん、「恐ろしい話」が必ずしも「悪い話」とは限りません。「恐ろしい話」には、それなりの教育的な意味があるからです。実際、日本昔話にせよ、西洋の童話にせよ、恐ろしい話は少なくありません。そう考えますと、今日の箇所も教育的な意味において、愛の行いを促すための物語として読むことができるでしょう。最終的には王なるキリストの前で、羊と山羊に分けられるのだ。そこで山羊の側ではなく、羊の側になりたかったら、生きている間に、実際に行動をもって「最も小さい者」に愛を示しなさい。なぜなら、「最も小さい者」にしたことは、キリストにしたことに他ならないから、と。実際、この箇所はしばしばそのように読まれてきたのです。

 しかし、この「恐ろしい話」を読んで、ただ単に最後の審判において山羊の側に置かれないために、羊の側になるために、永遠の火を逃れて神の国に入るために、自分が救われるために、善行や隣人愛の行為を積み上げるとするならばどうでしょう。それはそれで何かがおかしいと言わざるを得ないでしょう。それではまるで自分が救われるために他の人を踏み台にするようなものではありませんか。それはもしかしたら愛の名を借りた究極のエゴイズムと言えなくもありません。

 そもそも、そのような善行や隣人愛ですと、イエス様がなさった話とは全く違った結果になってしまうのです。ちょっと想像してみてください。私たちがイエス様の話を聞いてこう考えたとしましょう。「そうか、最も小さい者にしたことはキリストに対してしたことになるんだな。今、この人にしていることも、キリストに対してしていることになるんだな。キリストに対して多くの愛を示してきたわたしとして、救われるために必要なことを行ってきたわたしとして、最終的にキリストの前に立つことになるのだな。」そう思いながら、そのように人生を送って、やがて王なるキリストの前に立ったとしたらどうでしょう。ここに出て来る「羊たち」とはかなり違ったことを口にするのではありませんか。

 この話に出て来る羊たち、すなわち右側の人たちはこう言っているのです。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか」(37‐39節)。いいえ、あなたのために、何一つしてはおりません、と彼らは言っているのです。そう言って驚いているのです。

 キリストのためにあれもこれもしてきたと思っている人は、それゆえに自分は羊の側であると思っている人は、「いつわたしたちはそのようなことをしたでしょうか」とは言わないだろうと思います。むしろ他の人を指さして言い始めるかもしれません。「あの人たちは山羊ですよね」。――もしそうであったなら、そこにあるのは、この右側の人々とは全く異なる姿なのでしょう。最後の審判、救いか滅びかを動機づけとして行動するところには、どうも大きな落とし穴がありそうです。

最も小さい者として
 さて、まず集められた「すべての国の民」のところに身を置いて、イエス様の言葉に耳を傾けてきました。確かに、そこに身を置いたら、山羊の側になるか羊の側になるかが気になるのは無理もありません。しかし、この話においては、そこだけが唯一の身の置き場ではないのです。王は言うのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)と。その「最も小さい者の一人」のところに身を置いてみるならば、どうでしょう。イエス様の言葉、王の言葉はどのように聞こえてくるでしょうか。

 実際、私たちはある意味では皆、「最も小さい者の一人」なのではないでしょうか。それは「何かをしてあげる側」に身を置いている時にはわからない。人のために「何かをしてあげている」という意識を持っている時にはわからない。しかし、ある日ある時から、ここに書かれているように、食べさせてもらったり、飲ませてもらったり、宿を貸してもらったり、見舞ってもらったり、訪ねてもらったり、ということは起こり得ることです。自分では何一つ為しえない状況で、苦しんで悩んで、助けてもらうしかなくて、自分の無力さや小ささを痛感せざるを得ない状況に置かれることは常に起こり得ることなのでしょう。

 しかし、それは目に見える形で現れただけなのであって、本当は、もともと多くの人に助けられながら、他の人によって支えられながら、やっとやっと生きているのだろうと思うのです。大きな顔をして生きているけれど、実は気づいていないだけで、本当は自分一人ではわが身一つどうすることもできない、そんな小さな存在なのでしょう。この「最も小さい者の一人」という言葉を聞いて、まず誰かほかの人を考えるというのは、もしかしたら恐ろしく傲慢なことなのかもしれません。

 そのような「わたし」として「最も小さい者の一人」のところに身を置いてみるならば、何が聞こえてくるでしょう。どんな風景が見えてくるでしょう。イエス様はわたしの傍らに立っておられます。そのイエス様が向かっておられるのは「すべての国の民」です。すなわち全世界です。イエス様は全世界に向かって、イエス様はたった一人の「わたし」を指さしてこう言われるのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。「はっきり言っておく。この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(45節)。

 そこに聞こえてくるのは何でしょう。それはこの世の常識では推し量ることのできない愛、たった一人の「小さい者」に向けられた、計り知れないイエス様の愛に他なりません。その「小さい者」を、イエス様は「これはわたしの兄弟だ」と言ってくださるのです。そして、わたしが助けを受けるならば、イエス様御自身が受けたかのように感じてくださる。わたしが誰かの愛情に接して心温まる喜びを感じたならば、イエス様自らがその愛の行為を受けたかのように共に喜んでくださる。またもう一方で、わたしが不当な扱いを受けるなら、蔑ろにされたり、軽んじられたりするならば、イエス様御自身が蔑ろにされたり軽んじられたりしたかのように怒ってくださる。「永遠の火に入れ!」とは実に激しい言葉ではありませんか。しかし、それほどにイエス様はこのわたしのことを思っていてくださるということでしょう。

 そのように私たち自身の傍らに立ってくださるイエス様が見えてきますと、もう一つのことが見えてくるはずなのです。他の人の傍らに立っているイエス様です。イエス様が私たちを大切に思ってくださったように、主は他の人たち、私たちの周りの人たち、特に助けを必要としていたり愛されることを必要としている他の人たちについてもこう言われるのです。「これはわたしの兄弟だ。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのだ」と。

 わたしは今、「羊と山羊が分けられる時」という説教題を付けたことをある意味で後悔しています。私たちが目を向けるべきところは、羊の側になるか山羊の側になるかではない。右に置かれるか、左に置かれるかではないのです。そうではなくて、この王なるキリストが「最も小さな者の一人」――そのたった一人をどれほど大切にしているかということなのです。

 そして、これを語られたイエス様が望んでおられることは、その認識から始まっていくのです。地獄の火を免れるための善行でもない、神の国に入るために積み上げる功徳でもない、いかなる形においても自分自身に栄光を帰さない、もしかしたら自分の記憶にさえも残らない、そんな愛の行いが、小さいながらもそこから始まっていくのです。そして、それは小さなことであっても、決して主の目に軽んじられることはないのです。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と主は言われるのです。

(祈り)

2020年11月15日日曜日

「天の父の見様見真似」


マタイによる福音書 5:38-48

悪人に手向かってはならない
 「目には目を、歯には歯を」という言葉が出てきました。よく知られた言葉です。旧約聖書には次のような表現で書かれています。「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」(レビ24:19‐20)。もともとは、無制限な報復に歯止めをかける意味を持つ条文です。例えば、歯を折られたからといって、命まで奪ってはならないということです。

 そのように旧約聖書には「目には目を、歯には歯を」と書かれているのですが、イエス様は「しかし、わたしは言っておく」と言いまして、さらにこう続けるのです。「悪人に手向かってはならない」と。ここで主が語っておられるのは、相手が害を加えてくる場合、しかも、それが明らかに「悪」である場合についてです。いくつかのケースが挙げられています。

 第一に語られているのは、右の頬を打つ人についてです。あくまでも「悪人」ということですから、相手が正当な理由をもって頬を打つ場合ではありません。こちらが悪くて殴られたのではなく、相手が不当にも殴ってきた場合です。さらに言うならば、右利きの人が殴る場合、通常は右の頬は打ちません。右の頬を打つのは手の甲で打つ場合です。ユダヤ人の世界では侮辱の表現です。痛みに耐えるよりも、侮辱に耐える方が難しいとも言えます。しかし、イエス様はその侮辱をあえて受け入れて、反対側の頬も向けよと言われるのです。

 次の「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい」(40節)はどうでしょう。これは裁判の場面です。これも相手が「悪人」ということですから、明らかに前提となっているのは不当な訴えです。例えば権力によって曲げられた裁判によって不当にも何かが奪われる場合です。そのように力ある者によって不当に何かが奪われようとする時に、こちらも何らかの力を行使して戦うのではなくて、むしろ上乗せして与えてしまいなさい、と主は言われるのです。

 第三に挙げられているのは不当な強制です。恐らくここで念頭に置かれているのはローマの占領軍による強制です。異邦人による強要はユダヤ人にとって極めて屈辱的なことでした。しかし、ここでも主はその屈辱に何らかの形で報復するのではなく、「一ミリオン行くように強いられたら、二ミリオン一緒に行ってやったらよいではないか」と主は言われるのです。

 第四の「求める者」や「借りようとする者」も、「悪人」ということですから、ただ困っていて借りに来る人の話ではありません。悪意をもってだまし取ろうとする人です。借りても返す意志がなく、踏み倒そうとしているような人です。そのような人に背を向けるな、と主は言われるのです。

弟子たちへの教え
 さて、このようなイエス様の言葉を耳にしますと、すぐに始まりますのは、「このような教えが実社会に適用できるのか。このような教えによって社会の秩序は成り立つのか」という議論です。そしてまた、私たちはそのような議論の中に逃げ込みたくなるものです。「これは現実的ではない」と。しかし、イエス様はこの世界に対して一般的な教えを述べているのではありません。主は弟子たちに語りかけているのです。イエス様に従い、神を天の父として仰いで生きようとしている弟子たちに語りかけているのです。しかも、一般的な話ではなくて、あえて「《あなた》の右の頬を打つなら」とか「《あなた》を訴えて下着を取ろうとする者には」と言っているのです。これを聞いている《あなたは》どうするのか、ということです。

 実際この後の時代、弟子たちは、教会は、個々のキリスト者は、本当に「どうすべきか」を問われることになったのです。なぜなら、そこにはユダヤ人たちからの迫害があり、さらにはローマの国家権力による迫害があったからです。その時に、当然のことながら、「報復すべきだ」「戦うべきだ」「我々も武器を取るべきだ」という声が起こっても不思議ではないでしょう。しかし、彼らは繰り返しこの主の御言葉を思い起こしたのです。それは復活されたキリストが、繰り返しこの御言葉を語りなおされたということでもあるでしょう。「悪人に手向かってはならない」と。

 これは「悪に手向かってはならない」ということではありません。否、本当の意味で悪に立ち向かうために、悪に打ち勝つために、悪人に手向かわないのです。力を行使すること、報復することを放棄するのです。そうです、ここで求められているのは、本当の意味で打ち勝つことなのです。実際そうではありませんか。報復できたら、本当に悪に勝ったことになるのか。ならないのです。報復は報復の連鎖を生み出すことになるでしょう。連鎖が目に見える形で残らなくても、そこには憎しみが残るでしょう。それで本当に悪に勝ったことになるのか。悪魔に勝ったことになるのか。ならないのです。

 後にパウロがこう言っています。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:21)と。悪に対する本当の勝利は、悪人そのものを勝ち取った時です。そもそもそれが神の戦い方でした。神が人間を勝ち取る戦い方でした。神は人間を裁いて力をもって滅ぼすことによって勝利を得ようとは思われなかったのです。そうではなくて神が望まれた勝利は、人間が悔い改めて、神を愛するようになることだったのです。それゆえにキリストは苦難を受けられた。キリストは人間の手によって十字架にかけられたのです。神はそれを良しとされたのです。相手を叩きのめすことは力があれば力をもってできることです。しかし、相手の悪に打ち勝って相手の心を勝ち取るのは、力の行使によってはできないのです。

 この御言葉との関連で思い起こされるのは、マルチン・ルーサー・キング牧師によって導かれたアメリカの公民権運動です。1967年に行われた南部キリスト教指導者会議での演説でキング牧師はこう語りました。「確かに暴力によって、あなたは殺人者を殺すことはできるかもしれない。しかし殺人行為そのものを殺すことはできない。暴力によって嘘つきを殺すことはできるかもしれない。しかしあなたは真理を確立することはできない。また暴力によってあなたを憎悪する者を殺すことはできるかもしれない。しかしあなたは暴力によって憎悪そのものを殺すことはできないのだ。暗闇は暗闇を消すことができない。それができるのは光だけだ」。私たちは、あまりにもしばしば、暗闇で暗闇を消そうとしている、同じ悪によって悪を消そうとしていることが多いのです。

敵を愛し、迫害する者のために祈れ
 さらに主は、「報復するな」というところに留まらず、「愛すること」を求められました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)。この言葉を聞いても、やはり私たちの内に起こる自然な反応は、「それは無理だ」「それは理想ではあっても現実的ではない」ということでしょう。さらには「それは偽善的だ」と言う人さえあるかもしれません。というのも、多くの人は「愛は自発的ものだ」と考えているからです。自然に溢れてくるものが愛だと思っている人は、他の誰かから「愛しなさい」と命じられて愛するのは、何か純粋なものではない偽善的な愛である、と感じるのでしょう。

 しかし、イエス様は「敵を好きになりなさい」と言っているのではないのです。聖書が語る愛とは、自然に起こってくる感情ではありません。先の場合と同じように、ここでも問題となっているのは、私たちが「どうするのか」ということです。すなわち私たちの決断です。そして、決断に基づく行為です。イエス様は、具体的にどうしなさいと言っておられますか。「祈りなさい」と言っておられるのです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と。

 主がそのように命じる根拠は、私たちと神との関係です。先ほども触れましたように、この言葉は世の中の人一般に語られているのではありません。弟子たちに語られているのです。イエス様に従い、神を天の父と呼んでいる人に対して語られているのです。ですから、イエス様はこう続けます。「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」(45節)。

 「あなたがたの天の父の子となるため」。そうイエス様は言われました。「あなたがたの天の父」と言っておられるのです。まず神が「わたしたちの天の父」となってくださいました。私たちは、神を「天にまします我らの父」と呼ぶことができる。イエス様はそのように祈りなさいと言われました。神を天の父と呼べるということは、決して当たり前のことではありません。神が私たちの天の父となってくださったのは、私たちがふさわしいからではありません。もともと全くふさわしくない私たちが、神を天の父と呼べるとするならば、それは父が、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」という御方だからです。

 そのような神が、そのような神だからこそ、正しくない私たちのためにも、雨を降らせるどころか、御子をさえ世に降されて、御子をさえ十字架にかけて、罪を贖ってくださったのです。そのようにして、私たちの罪を赦して、私たちの天の父となってくださったのです。そのように神が私たちの天の父となってくださったから、私たちもまた父の子となっていくのです。それはすなわち、天の父がしてくださったように、私たちも父と同じようにすることです。その具体的な現れが、例えば「敵を愛し、迫害する者のために祈る」ということなのです。

 そして最終的に、主はこう言われるのです。「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。「天の父が完全である」とは文脈から明らかなように「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」ということです。すなわち、その完全さとは、無償の愛としての完全さです。

 愛なる父は、私たちが復讐心でいっぱいになったまま生きることを望まれないのです。憎しみでいっぱいのまま生きることを望まれないのです。悪に負けたまま生きることを望まれないのです。むしろ、子どもたちが善をもって悪に打ち勝って生きることを望んでおられる。愛なる父は、私たちが「天の父の子」として生きることを望んでおられるのです。それが「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」ということです。パウロは同じことを別の表現でこう言っています。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(エフェソ5:1)。
(祈り)

2020年11月8日日曜日

「恵みの門が開かれている時」

マタイによる福音書 3:1‐12

 マタイによる福音書には、他の福音書と同じように、主の先駆けとして洗礼者ヨハネのことが記されています。ヨハネの口から出る厳しい言葉が、ファリサイ派やサドカイ派の人々に対して投げかけられています。マタイは何のためにこれらを書き記したのでしょうか。この福音書はユダヤ教徒を直接の読者としてはいません。ならば目的は明らかです。その時代の教会に聞かせるために、キリスト者に聞かせるために、このヨハネの言葉もまた書き記されたのです。

 人々に対して悔い改めが呼びかけられています。それは私たちに対して悔い改めが呼びかけられていることを意味します。ヨハネはメシアの到来のために、道を備えようとしています。私たちは既にメシアが来られたことを知っています。そして、その御方が終わりの日に再び来られることを信じ、告白しております。洗礼者ヨハネの言葉が主の第一の到来への備えであったように、今日聞かれている彼の言葉は、私たちにとって、主の再臨への備えなのです。

悔い改めよ、天の国は近づいた
 はじめに1節から6節までをお読みします。
 「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた」(1‐6節)。

 洗礼者ヨハネという人物が突然登場します。彼がどこの誰であるかはさほど重要ではないようです。関心が向けられているのはその働きです。キリストとの関わりにおいて、彼が何を為したか、ということです。聖書はこのヨハネについて「荒れ野で叫ぶ者の声」だと言います。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と叫ぶ声だ、と言うのです。主が来られるために道が整えられなくてはなりません。救い主をお迎えするために道が備えられなくてはなりません。

 それは何を意味するのでしょう。ヨハネは叫びます。「悔い改めよ。天の国は近づいた。」道が整えられるために求められているのは悔い改めです。救いの到来に備えて整えられなくてはならない道は悔い改めです。悔い改めなきところに救いはありません。悔い改めとは、単に悔いることではありません。後悔する人はいくらでもいます。後悔から自己嫌悪に陥る人もあるでしょう。しかし、いかなる後悔も自己嫌悪も、それ自体は救いをもたらすことはありません。悔い改めとは方向を変えることです。悔い改めとは神に立ち帰ることです。神を離れた生活、神に逆らった生活の方向を転換し、神に立ち帰ることなのです。

  それは後悔とは違って、人間の内から自然に出てくるものではありません。これは神からの呼びかけがあって始めて起こり得ることです。ですから、神の言葉を伝える預言者が繰り返し遣わされたのです。ここでも洗礼者ヨハネが神によって遣わされ、悔い改めへの呼びかけがなされているのです。

 方向転換をして神に立ち帰ることが呼びかけられているのは、「天の国は近づいた」からです。天の国というのは、いわゆる極楽のことではありません。ユダヤ人が「天」という時、それはしばしば「神」を意味します。神の名を口にすることを避けて「天」と呼ぶのです。それゆえ「天の国」とは「神の国」に他なりません。神の国とは、神の王国です。王としての神の支配を意味します。神が絶対的な王として来られるところにこそ人間の救いがあるのです。

 しかし、神が王として来られるところに、救いと共に裁きがあります。救いと裁きは同じ神の行為の裏表なのです。これは少し考えれば誰にでも分かることです。神が王として来られることは、神を愛し待ち望む者にとっては救いです。しかし、神を憎む者にとっては恐るべき裁きです。神に従う者にとっては救いです。神に逆らう者にとっては恐るべき裁きです。世が救われる時は、世が裁かれる時でもあります。だから、悔い改めが呼びかけられているのです。この悔い改めへの呼びかけに応え、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々はヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で洗礼を受けたのでした。

悔い改めにふさわしい実を結べ
 続いて7節から10節までをお読みします。
 「ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。』」(7‐10節)

 ヨハネのもとに、ファリサイ派やサドカイ派の人々も大勢やってきました。これは驚くべきことです。少なくとも彼らが神の裁きを真剣に考えたということを意味します。彼らは、自分自身が神との関わりにおいて危機的状況にあることを理解しました。ですから、神の怒りを免れようとしたのです。しかし、単に神の怒りを免れようとすることと、悔い改めとは異なります。

 それゆえに、ヨハネは彼らに対して「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言うのです。これは単に「善い行いをしなさい」とか「善い人間になりなさい」という意味ではありません。「実」は命の通うところに実るのです。ですから、根本的に問われているのは、神との関係なのです。求められているのは、単に神の裁きを逃れようとすることではなくて、苦境や危機を逃れようとすることではなくて、真に神に立ち帰ることなのです。立ち帰って神と共に歩む、命の通った生活が求められているのです。

 そのためには、悔い改めを妨げる一切の拠り所が捨て去られなくてはなりません。彼らにとって、それはユダヤ人としての誇りでした。「我々の父はアブラハムだ」という誇りでした。そんなものは、かえって悔い改めの妨げになるのです。「だからどうした」とヨハネは言うのです。「言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。」つまり、真の悔い改めをなし、ふさわしい実を結ぶことに比べたら、アブラハムの子だなどというユダヤ人の誇りなどは、微塵の価値もない。むしろそれらは捨て去られなくてはならない。そして、これは単に彼らだけの話ではありません。先にも申しましたように、これらの言葉は私たちが聞くために書き記されているのです。

恵みの門が開かれている時に
 最後に11節以下をお読みします。
 「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」(11‐12節)。

 ここでイメージされているのは脱穀の様子です。農夫が箕をもって麦を空中に放るのです。すると風がもみ殻を吹き分けます。そして麦は倉に入れられ、殻は焼き払われることになる。それがメシアを通して行われる最終的な神の裁きだと語られているのです。そして、そのメシアが来られたのです。それがイエスという御方です。福音書はそのことを伝えているのです。この御方こそ、まことの王であり、最終的な裁きの権限を持っておられる御方なのです。

 しかし、ヨハネがここで語っていないことを私たちは既に知らされています。メシアは第一の到来においては、人を罪に定め、裁きを執行する方としてではなく、人を罪から救う方として来られたということです。キリストは吹き分ける箕を手に持つ方としてではなく、私たちの罪を担い、十字架を背負われる方としてこの世に来られたのです。

 それは何のためですか。私たちが罪の赦しを得、神に立ち帰って、神と共に生きる者となるためです。そして、私たちはやがてその御方を再び迎えることになるのです。最初に申しましたとおり、そのような私たちに向けて、これらのヨハネの言葉は記されているのです。恵みの門が開かれている時に、私たちが悔い改め、立ち帰り、神と共に生きるためです。

 この洗礼者ヨハネの聖書箇所は、年によってはアドベントに読まれる箇所でもあります。今月の29日からアドベントに入ります。今年は少し早く、キリストの到来に思いを向けるよう導かれているのには、恐らく深い意味があるのでしょう。というのも、明らかに今年は特別なアドベントを過ごすことになるからです。

 私は今年の春、教会に集まれなくなった中で過ごしたレントの期間を思い起こします。世界中の教会で、日曜日に教会に集まれなくなるということが起こりました。そのことによってどうなったか。ただ日曜日に説教を聞くだけの“サンデークリスチャン”みたいなものは成り立たなくなったのです。それはすなわち、信仰に生きるとはいかなることかを問われる厳粛な時でもありました。本当に神と共に生きるとはいかなることか。御言葉と共に生きるとはいかなることか。神を礼拝する神の民として生きるとはいかなることかを問われたのです。そんなレントを過ごしました。そして、イースターを集まって祝うことはできなかったけれど、いつにもまさる復活祭の恵みをいただいたのだと思います。

 集まれなくなってちょうど8か月が過ぎたところで、今年のアドベントを迎えます。改めて神から悔い改めが呼び掛けられるのでしょう。例年なら12月20日がクリスマス礼拝です。しかし、明らかに皆が集まることができないその日、私たちは本来の「待降節第四主日」として過ごすことになります。まだ飾り布は紫です。そのように、今年は特別なアドベントの期間をいただきます。神に立ち帰り、神を礼拝し、日々、御言葉と共に祈りつつ共に歩みましょう。そうしてこそ、今年、備えられている特別なクリスマスの恵みにもあずからせていただけるのだと思います。恵みの門が開かれている時に、立ち帰らせていただきましょう。

(祈り)

2020年11月1日日曜日

「人生において決定的に重要な時とは」

テサロニケの信徒への手紙一 4:13‐18

神のラッパが鳴り響く時

 本日の第一朗読においては「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(コヘレト3:1)と語られていました。「定められた時」。もちろんお定めになるのは神様です。

 何事にも神の定められた時がある。その中でも、特に、人間にとって決定的に重要な、ある神の定められた時がある。今日の第2朗読では、その決定的に重要な神の定められた時について語られていました。それは何か。「キリストの再臨」です。キリストが再び来られるその時です。私たちが使徒信条においてキリストについて「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と言い表している、その時です。

 テサロニケの信徒たちがどのようにキリストの再臨を信じていたかは、1章において次のように語られています。「すなわち、わたしたちがあなたがたのところでどのように迎えられたか、また、あなたがたがどのように偶像から離れて神に立ち帰り、生けるまことの神に仕えるようになったか、更にまた、どのように御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを。この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」(1:9‐10)。

 キリストの再臨の時は、第一には神の最終的な裁きの時に他なりません。この罪と不正に満ちた世界を、神が最終的に正しく裁いてくださる。それが「来るべき怒り」と表現されています。悪が大きな力を持つ時に、それを誰も裁くことができなくなる。それがこの世の現実です。しかし、そのようなこの世のありさまが永遠に続くのではありません。神が最終的に正しく裁き、神が決着をつけられるのです。

 もちろん私たちも罪に満ちたこの世の一人として、罪ある人間の一人として、神の裁きを他人事にはできません。私たちの人生もまた、すべて神の御前にあります。私たちもまた神の裁きのもとにある。しかし、そこで「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです」と聖書は語るのです。

 来るべきキリストは、かつて来られたキリストです。私たち罪人を招いてくださった方、そして私たちの救いのために十字架におかかりくださった御方です。その方が再び来られるのです。だからこそ、私たちはキリストを待ち望むことができる。その御方は私たちの救い主だからです。キリストに再びお会いする時、私たちは、罪の赦しが何であるかを、本当の意味で知ることになるのでしょう。救いが何であるかを知ることになるのでしょう。キリストの再臨の時、それは最終的な救いの時でもあるのです。

 その出来事がどのように起こるのか。パウロは次のように教えています。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります」(1テサロニケ4:16‐17)。

 そこでは「合図の号令」、「大天使の声」、「神のラッパの鳴り響く音」について語られています。それらによって表現されているのは圧倒的な《神の主権》です。「その時」は神が主権をもってお定めになり、一方的に実現するということです。そこには人間の都合や予定などが入る余地など、まったくないということです。「待ってください、まだです」という余地はないということです。私たちは個人の人生の終わりがそのようなものであることを知っています。「待ってください」が通用しない。同じことが、この世界全体にも言えるということです。


空中で主と出会うため

 そして、死者の復活について語られています。これについては後に触れます。まずは生きている間にキリストの再臨があった場合を考えてみましょう。その時には、「わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます」(17節)と書かれています。なぜ「空中」と表現されているのか。それは「地上ではない」ということです。つまりそこで人間に起こることは、この地上の人生の延長ではないということです。

 私たちのこの地上の歩みの延長にないことが起こる。それは私たちが聖書を理解する上でもとても大事なことです。例えば、この手紙の3章には次のようなパウロの祈りが記されています。「そして、わたしたちの主イエスが、御自身に属するすべての聖なる者たちと共に来られるとき、あなたがたの心を強め、わたしたちの父である神の御前で、聖なる、非のうちどころのない者としてくださるように、アーメン」(3:13)。今、私たちが地上で経験していることの延長において、「非のうちどころのない者となる」ということが実現すると思いますか。思えないでしょう。しかし、キリストの再臨における私たちは、単なる地上の歩みの延長にいるのではないのです。

 そのような「神の定められた時」が来るのです。その時について、イエス様ご自身は福音書の中でこう言っておられます。「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存知である」(マルコ13:32)。ならば本来、私たちの人生における一瞬一瞬は、その時となる可能性と共にあるのです。いつかは分からないのですから。私たちは予定を立てます。しかし、そこにはいつでも「御心ならば」がついて回ります。明日のことを考えます。しかし、いつでも「御心ならば」が前提なのです。

 それゆえに、この再臨の信仰は重要です。なぜなら、これがないと、いつも昨日から今日へと引いた線の延長上に明日を考えるようになるからです。そして、実際、人間は通常そのように生きているのでしょう。そのことがしばしば諦めと倦怠をももたらします。昨日から今日の延長に明日があるのなら、諦めるしかないことはいくらでもあるからです。昨日も苦しかった。今日も苦しかった。その延長としてしか明日を見ることができなければ、明日も必ず苦しいに違いないと思うわけでしょう。そのように、苦しみもまた永遠に続くかのように思ってしまう。決定的な「その時」は、神によって定められていることを忘れているからです。


眠りについた人たちも

 さて、先にも触れたようにテサロニケの信徒たちはキリストの再臨を待ち望む人々でした。自分が生きている間にキリストは再び来られると信じていました。それはパウロも同じです(15節)。それがキリストの再臨を信じる本来のあり方です。しかし、そのように信じていた仲間の中に、再臨の前に死んでしまう者が起こってきました。それは大きな動揺を呼び起こしたようです。それゆえにパウロは次のように書き送ります。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望を持たないほかの人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい」(13節)。

 「眠りについた人」はどのような状態にあるのか、死後の世界はどうなっているのかについて、聖書はほとんど何も語りません。パウロもそのことについてほとんど関心を向けません。大事なことはただ一つ。死んで終わりでない、ということです。だから「眠り」と表現しているのです。

 そして、終わりではないのですから、「主が来られる日まで生き残るわたしたちが、眠りについた人たちより先になることは、決してありません」ということも言えるのです。要するに、キリストの再臨のときに、生きていようが死んでいようが関係ないということです。いやむしろ死んだ人の方が先だ、とパウロは言っているのです。

 これは私たちが生きていく上で極めて重要な認識です。なぜなら、私たちは自分の人生を考える時にも、他の人の人生を考える時にも、「死」という「その時」を決定的に重要なこととして考えているからです。自分についても、他の人についても、「あと何年生きられるか」ということは小さなことではないでしょう。また「どのように死ぬか」ということも決して小さなことではないでしょう。若くして事故で亡くなることは、実に不幸なことと見なされます。事件に巻き込まれて亡くなったなら、不幸な人として語られるのでしょう。

 しかし、本当は、人間にとって決定的に重要な時は、「死の時」ではないのです。最初から申し上げていますように、人間にとって決定的に重要な時とは、キリスト再臨の時なのです。その時に生きていていようが、既に死んでいようが、大きな違いはないのです。本当の意味でキリストと相まみえることとなる「その時」こそが、私たちにとって最も重要な時なのです。私たちすべての人間存在は死に向かっているのではなく、神の定められた「その時」へと向かっているのです。

 それは神が定められる時です。人間はそれがいつであるかを知りません。先にも申しましたように、私たちの人生における一瞬一瞬が、その可能性と共にあるのです。ならば、その一瞬一瞬の「今」こそが、人生における最も重要な時であるとも言うことができるのでしょう。それゆえに、イエス様は繰り返し「目を覚ましていなさい」と言われたのです。キリストの再臨を信じる信仰は、「今」を大切にして生きることへと、私たちを向かわせるのです。

(祈り)


2020年10月25日日曜日

「良きものを心に留めて生きること」

 箴言 8:22‐31


天地創造に関わっていた神の知恵

 今日の第一朗読では箴言が読まれました。そこには「わたし」という言葉が繰り返されていました。「主は、その道の初めにわたしを造られた。いにしえの御業になお、先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは生み出されていた/深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき」(22‐24節)。

 この「わたし」とは何者でしょうか。少し前の12節に「わたしは知恵」と書かれています。今日朗読された聖書箇所においては、「知恵」が語っているのです。続く25節以下にはこう書かれています。「山々の基も据えられてはおらず、丘もなかったが/わたしは生み出されていた。大地も野も、地上の最初の塵も/まだ造られていなかった」(25‐26節)。

 そこにはまだ人間は登場してきません。創世記には「主なる神は、土の塵で人を形づくった」(創世記2:7)と書かれていますが、その地上の塵すらもまだ造られていない時に、既に「わたしは生み出されていた」と言うのです。知恵は人間が人間に伝えます。知恵を伝えることのできる知恵ある者は知者とか賢者と呼ばれます。しかし、「知恵」そのものは人間に由来するのではありません。人間などまだ影も形もなかった時に、既に「知恵」は存在していたというのです。

 そして、さらに27節以下にこう書かれています。「わたしはそこにいた、主が天をその位置に備え、深淵の面に輪を描いて境界とされたとき、主が上から雲に力をもたせ、深淵の源に勢いを与えられたとき、この原始の海に境界を定め、水が岸を越えないようにし、大地の基を定められたとき」(27‐29節)。

 ここに語られているのは神の天地創造の話です。天地創造において、知恵が、「わたしはそこにいた」と言っているのです。「そこにいた」というのは、ただ存在していたということではなく、「関わっていた」という意味です。天地創造に関わっていたというのですから、この「知恵」とは天地を造られた神の「知恵」です。

 この世界の成り立ちに神の知恵が関わっているという認識は、古代から、この世界を見つめる人々に共通した、一番素朴な認識であると言えます。例えば、他にも詩編104編などにも見られます。「主よ、御業はいかにおびただしいことか。あなたはすべてを知恵によって成し遂げられた。地はお造りになったものに満ちている」(詩104:24)。この自然界にはまさに神の知恵が働いたとしか言いようがない美しい秩序があり、法則があり、仕組みがあります。詩編の詩人はその神の知恵に圧倒されているのです。そのような、この被造物世界に現れている神の「知恵」がここで語っているのです。


同じ神に造られた人間として

 さて、続く30節以下に進む前に、今日お読みした「箴言」の言葉を伝えてきたイスラエルの民のことを考えてみたいと思います。

 イスラエルの民は、常に異なる宗教と文化を持つ諸国民との関わりの中に置かれていました。ソロモン王の時代、周辺諸国との貿易は盛んに行われるようになり、急速に国際化が進みました。ソロモン王の後、王国は分裂し、やがて北王国はアッシリアによって滅ぼされ、南王国はバビロニアによって滅ぼされます。生き残ったイスラエルの民は、固有の国土を失い、異教の大国の支配下に置かれました。こうして、イスラエルの民は、バビロニア、ペルシア、ギリシアの支配のもとに生き続けたのです。そのように諸国民との関わり、あるいは諸国民の支配下に置かれている民として、イスラエルがそのアイデンティティを保ち続けることは何よりも重要なことでした。彼らは存続し続けるために、自分たちが何者であるかを、常に意識し続ける必要があったのです。

 それゆえに彼らは自分たちの先祖アブラハム、イサク、ヤコブの物語を忘れることなく子から孫へと伝えていきました。出エジプトの物語を忘れることなく伝えていきました。シナイ山における主との契約について語り伝えました。イスラエルに与えられた律法を保ち続けました。メシアの到来について語り続けてきました。そのようにして、彼らは、強烈なアイデンティティを保持し続けました。イスラエルがイスラエルであり続けることなくして、私たちは今このようにして聖書を手にしていることはなかったでしょう。

 しかし、そのような聖書の中に今日読んだ「箴言」も含まれているのです。それはある意味でとても不思議なことであると言えます。というのも、この「箴言」の中には、イスラエルのアイデンティティとは何の関係もない、むしろイスラエル以外の国々に由来する格言が少なからず入っているからです。

 例えば、箴言の中には「マサの王レムエルが母から受けた諭しの言葉」(31:1)というものも含まれているのです。「マサの王レムエル」というのは異国の王です。その王が母親から受けた教訓が入っているのです。ゆえに、この部分をアラビアの格言集からの引用であると考える学者もいます。そのような言葉が入っているのです。実際、「箴言」を読んだ人はすぐに気づくと思うのですが、ここに含まれる格言の多くは、何もイスラエルに固有のことではないのです。人間なら誰でも「そうですよね」と言える言葉がたくさん書かれているのです。例えば、「明日のことを誇るな。一日のうちに何が生まれるか知らないのだから」(27:1)という格言。語られていることは、イスラエルの民であろうがなかろうが関係ないでしょう。

 そこで先ほどの続きをお読みしたいと思うのです。天地創造に関わった「知恵」が、30節以下において、このように語っているのです。「御もとにあって、わたしは巧みな者となり、日々、主を楽しませる者となって、絶えず主の御前で楽を奏し、主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」(30‐31節)。

 良く聴いてください。「知恵」は「主の造られたこの地上の人々と共に楽を奏し、人の子らと共に楽しむ」と言っているのです。そこにはイスラエルだけではなく「主の造られたこの地上の人々」全体が視野に入っています。それは「神の土地である世界」というのが直訳です。そこではまた「人の子ら」が視野に入っているのです。すべての人間です。神の知恵は、「人の子らと共に楽しむ」と言っているのです。「人の子ら」ですから、そこでは当然のことながら、イスラエルと他の人々との違いよりも、むしろ人間として共通のことに目が向けられているということです。言い換えるならば、神に造られた人間としてイスラエルの民も他の諸国民も同じ地平に立っているのです。


この世に置かれている教会として

 さて、先ほど「イスラエルがそのアイデンティティを保ち続けることは何よりも重要なことであった」と申しました。同じことはキリスト教会とキリスト者についても言えるでしょう。教会もまた、この世界において、様々な異なる宗教と文化を持つ人々との関わりの中に置かれています。私たちが日常生活を共にし、仕事を共にしている人々は、ほとんどの場合キリスト者ではありません。そのような国に存在する教会として、教会がキリストの教会として、またキリスト者がキリスト者としてのアイデンティティを保ち続けることは極めて重要なことです。今日の福音書朗読においても、イエス様が言っておられましたでしょう。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」(マタイ10:32)。そこではキリスト者であることを意識し、人々の前で表明して生きることが求められているのです。

 しかし、そこでなお私たちは、今日読みました「知恵」の語りかけを聞かなくてはならないのです。私たちは、神が、イエス・キリストを遣わされた救いの神であると同時に、天地を創られた創造の神でもあると信じているのです。神がその知恵をもってこの世界を造られた。そこで必然的に教会とキリスト者だけでなく、創造された人間と世界全体が視野に入ってくることになります。そこでは教会とこの世の違い、キリスト者と他の人々との違いよりも、むしろ共に神によって造られた人間として、共通のことに目が向けられることになるのです。キリスト者はただこの世に福音を伝える者として《向き合って》立つだけでなく、同じ人間として、この世界の全ての人間と《並んで》創造の神の御前に立つのです。

 そのように《並んで》立つということとの関連で思い起こされるのは、フィリピの信徒への手紙に書かれているパウロの言葉です。「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や賞賛に値することがあれば、それを心に留めなさい」(フィリピ4:8、新366頁)。

 ここで語られています「真実なこと」「気高いこと」「正しいこと」云々といった徳目は、何もキリスト教会やキリスト者に固有のものではありません。ギリシアの思想家もまた語っていたことなのです。パウロはここで教会の中のことを語っているのではなく、フィリピの教会が置かれているギリシア・ローマ世界を念頭に置いて語っているのです。パウロはそこで、「あなたがたが生きている異教的世界は迷信と偶像礼拝と不道徳だけの真っ黒な世界だ」とは言っていないのです。そこに良きものを見いだしたら、それを心に留めなさい、と言っているのです。

 先に申しましたように、私たちが日常生活を共にしている人々は、ほとんどの場合キリスト者ではありません。そこには未信者の夫、未信者の妻、未信者の同僚や友人たちが共にいます。それらの方々に対して、キリスト者として向き合うことは大事ですが、それと共に重要なことは、神に創造された者として、同じ人間として、並んで立つことでもあるのです。そして、身近な人々の中に、パウロが言いますように、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や賞賛に値することを見出してそれを心に留めることが大事なのです。そのように同じ人間として共に立ってこそ、「人間」に与えられたキリストの救いの恵みもまた共有されていくことになるのです。


(祈り)

2020年10月18日日曜日

「将来と希望を与える神の計画」 

エレミヤ書 29:4‐14


第一次バビロン捕囚

 かつてユダ王国にヨヤキンという王がいました。18歳で王となりました。彼が引き継いだユダの王国は、時の超大国バビロニアの侵攻に遭って既に瀕死の状態でした。彼が王となってほどなくして、エルサレムは完全にバビロニア軍に包囲されました。都の陥落は時間の問題でした。やむなくヨヤキンはバビロンのネブカドネツァルに対して無条件降伏しました。彼は王位から退けられ、その治世はわずか三ヶ月で終わりを告げました。そして、ヨヤキンをはじめ、エルサレムの高官や職人、祭司や預言者など、主だった人々は捕囚として異国の地バビロンに強制連行されました。第一次バビロン捕囚と呼ばれる出来事です。紀元前598年のことでした。

 エルサレムには捕らえ移されずに残された預言者たちもいました。やがてエルサレムでは、そのような預言者たちの活動が活発になりました。敗戦後、気落ちした人々を励ますことが彼らの使命であると感じていたのでしょう。彼らは、神がすぐにでもエルサレムの都を回復し、捕らえ移された人々を連れ戻してくださると語りました。その中にハナンヤという預言者がいました。彼の言葉がエレミヤ書に残されています。彼は人々にこう言って励ましたのです。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしはバビロンの王の軛を打ち砕く。二年のうちに、わたしはバビロンの王ネブカドネツァルがこの場所から奪って行った主の神殿の祭具をすべてこの場所に持ち帰らせる」(28:2‐3)。

 一方その頃、預言者エレミヤは牛がつけるような軛を自分の首にぶらさげてエルサレムを歩き回り、人々にこう語っていました。「首を差し出して、バビロンの王の軛を負い、彼とその民に仕えよ」(27:12)。他の預言者たちと真逆のことを語っていたのです。戦勝国の王に仕えよと語るエレミヤを人々は憎みました。神がすぐにでも救ってくださると語るハナンヤの方が、よほど信仰的に見えたに違いありません。

 しかし、エレミヤにはわかっていたのです。この出来事は単なる災いではない。ここには神の裁きがある、と。ならば本当に大事なことは、ただ元通りになることではありません。神の裁きを裁きとして受けいれて、悔い改めることです。それこそがエレミヤの負っていた軛の意味だったのです。


現在を大切に堅実に生きる

 今日お読みしたのは、そのようなエレミヤが、捕らえ移された人々に書いた手紙です。

 当時の捕囚民の精神的状況は主に二通りに分かれていたものと思われます。一方において、そこには望みを失った人々がいました。それまでの生活のすべてを奪われ、異教の地に連れ去られ、未来に対する展望などまったく持ち得なかった人たちです。彼らの多くはもともと特権階級にいた人たちですから、すべてを失ったときに自暴自棄にならざるを得なかったことは想像できます。

 しかし、もう一方には熱狂的に解放の時を待望している人々がいました。エルサレムに、速やかな解放を告げるハナンヤのような預言者がいたことを思い起こしてください。同じような預言者たちは、捕え移された先のバビロンでも活動していたのです。今日お読みした箇所にこう書かれていました。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちのところにいる預言者や占い師たちにだまされてはならない。彼らの見た夢に従ってはならない」(8節)。実際には、そのような預言者に扇動された人たちがひたすら解放の日を待望していたのです。

 さて、そのような人々に対してエレミヤが書き送った手紙は、このようなものでした。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない」(4-6節)。つまり、エレミヤは、日々の生活において絶望して自暴自棄になるのでもなく、また解放だけを夢見て熱狂的になるのでもなく、異教の地においてもその日々の生活を大切にし、堅実な生活を営み、イスラエルの民として存在し続けるようにと語ったのです。

 このことが先に述べた両者に対して語られていることは重要です。というのも、絶望している人々にも熱狂している人々にも共通していることがあったからです。それは現在を軽んじているということです。今、目の前にある生活を大切にしていないということです。 特に、後者はそれが宗教的であるだけにやっかいです。しばしば、そちらの方が信仰的に見えるからです。いつの時代においても、神による奇跡的な救済を熱望するあまり、人間が自らの責任をもって営まなくてはならない現実の生活をまったく大切にしない人々はいるものです。一見信仰熱心に見えるけれど、まったく地に足がついていないのです。

 しかし、ここでエレミヤは彼らに、本当の信仰は、地上の生活を疎かにさせるのではなく、むしろ出来事の意味を悟らせ、地に足のついた堅実な生活を営ませるものであることを語るのです。そして、エレミヤは彼らに驚くべきことを勧めるのです。彼らを捕囚にしたバビロンの町のために平安を祈れ、と言うのです。バビロンが滅亡することを夢見るのではなく、むしろその町の平安のために祈れ、と。

 その理由はこの手紙の中に明らかにされています。主はバビロンを「わたしが、あなたたちを捕囚として送った町」(7節)と呼ぶのです。そうです、彼らは単に敗戦のゆえに捕え移されたのではないのです。主ご自身が「送った」というのです。彼らがある期間、バビロンで生活することには神の意図があるのです。これは単に不可抗力によってもたらされた災いではないのです。

 神が意図をもって送ったのならば、そこには必ず為すべきことがあるはずです。彼らはそこで最善を尽くさねばなりません。彼らの場合、まずは目の前の町のために平安を祈ることでした。それが彼らに平安をもたらすことでもあるのです。そして、実際にバビロンにおける生活がある期間、平安に保たれたからこそ、歴史物語もまとめられ、このエレミヤ書もまとめられ、このように残っているのです。


主を呼び求めよ

 神様はさらにエレミヤを通して、彼らがそうすることができるように励ましの言葉を語ります。これは私たちもまたしっかり心に刻みつけておかなくてはならない言葉です。「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す。わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(10-11節)。

 すべては「神の時」へと向かっています。聖書はそれを「時が満ちる」と表現します。やがて時が満ちて実現することがあるのです。そこには神の計画があるからです。しかも、その計画は「平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」と主は言われるのです。

 捕囚という出来事は、イスラエルの人々にとっては災いとしか映らなかったでしょう。しかし、主が見ておられるのは計画の全体です。それはイスラエルの将来と希望を与えるための計画なのです。その主が言われます。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている」。主は御自分が立てた計画を知っています。どのようにこれがイスラエルの将来と希望に結びつくのかを知っています。そのように主が「心に留めている」ならば、本当はそれで十分なのです。主が知っていてくださるのですから。

 人が知るべきことは多くはありません。すべてのプロセスを知る必要はありません。知るべきことはただ一つ。神が善であり愛なる御方であるということです。災いと見える出来事のただ中に置かれた時、私たちは未来に不安を抱きます。ある人は未来を知りたいと願うかもしれません。そのような人は占い師のところに行くのでしょう。しかし、本当に大事なことは「未来を知る」ことではなく「主を知る」ことなのです。未来において自分の願いが実現することを求めるのではなく、主を求めることなのです。

 ここを読みまして、どうしても重なってきますのは、今私たちが経験していることです。「コロナ禍」と人は言います。しかし、本当にこれは単なる禍なのでしょうか。対処しなくてはならない禍なのでしょうか。私たちが第一に求めなくてはならないのは、この出来事の終息ではなくて、主ご自身なのでしょう。主は解放を求めている人々にエレミヤを通してこう言われたのです。「そのとき、あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く。わたしを尋ね求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしに出会うであろう、と主は言われる」(12‐14節)。

 実は、12節の「そのとき」という言葉は原文にはありません。つまり、「わたしは聞く」と言われるのは、70年後のことではなく、今なのです。苦難の生活を強いられている今こそ、絶望したり熱狂したりするのではなく、堅実な生活を営みながら神を尋ね求めるべきだと主は言われるのです。そのように尋ね求めるならば、主は「わたしに出会うであろう」と言われるのです。本当の救いは、苦難から解放されるその時に与えられるのではなくて、神を尋ね求め、神に出会うことにおいて与えられるのです。それこそが、本当の意味で将来と希望につながるのです。私たちも、今この時になすべきことは、真剣に、本気で主を求めることなのです。


(祈り)


2020年10月11日日曜日

「テント住まいの人生」

コリントの信徒への手紙二 5:1-10


地上の幕屋が滅びても

 「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」(1節)。そう書かれていました。要するに、私たちは死をもって終わる人生を生きているのではない、ということです。そのことが、ここで「住まい」を喩えとして、また「着物」を喩えとして語られているのです。

 まず、この世に生きる私たちの体が「幕屋」すなわちテントに喩えられています。この体をもって生きるこの世の生活がテント住まいの生活に喩えられているのです。それは感覚的に良く分かります。テントは一時的な住まいです。長く使っていれば綻びてきます。私たちはこの体というテントが何百年ももたないことを知っています。綻びてきますから、修理しながら生活することになります。やがてはこのテントの役目も終わることを知っています。そして、テントを手放すときがくるのです。

 パウロはそのことについて着物をもって喩えます。私たちはこの体という着物を脱ぐ時が来るのです。脱いだら裸になってしまうわけでしょう。ならば、私たちは裸のままなのでしょうか。いいえ「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」(3節)と書かれています。別の着物が用意されているのです。既に1節において、別の着物について語られていたのです。ただし着物ではなく、そこでは住まいに喩えられていました。もう一度お読みします。「わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです」(1節)。

 この世の体は「幕屋」すなわち「テント」です。しかし、神は「建物」を備えていてくださいます。「天にある永遠の住みか」と呼ばれています。それは永遠です。テントのように綻びない、弱らない。一時的なものでもありません。「永遠の住みか」です。それを「上に着るのだ」と言うのです。住まいと着物の比喩がミックスされているので少々奇妙ですが、言わんとしていることは理解できます。この世における生活をパウロはこう表現するのです。「わたしたちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って、この地上の幕屋にあって苦しみもだえています」(2節)。

 「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と彼は言います。その比喩も、ある意味では感覚的に分かります。この体をもって生きることは、苦しいことです。それは弱さを負いながら、綻びを繕いながら生きる苦しみでもあるでしょう。あるいはパウロは迫害の中にありましたから、他者の罪によって苦しめられるという苦しみもあるでしょう。あるいは、別の手紙で「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(ローマ7:18)ということも書いています。この体をもって生きることの大きな苦しみは、思い通りにならないこの体における、自分の罪との戦いということでもあるでしょう。

 確かに、そのように私たちは「この地上の幕屋にあって苦しみもだえている」と言えます。しかし、ただ苦しみもだえているのではありません。「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」と書かれているのです。「願いつつ」の苦しみなのです。言い換えるならば希望を抱きつつの苦しみであるということです。やがてはその願いが現実となる時が来るのです。天から与えられる住みかを上に着る時が来るのです。それは最終的な救いの完成でもあります。すなわち罪と死から完全に解放された栄光の体を着せられるのです。そのように「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願」いつつのテント住まい。それがこの世における私たちの生活だと聖書は言っているのです。


天には建物が備えられている

 さて、ここで「天から与えられる住みかを上に着たいと切に願って」と書かれているのであって、「地上の幕屋を脱ぎ捨てたいと切に願って」と書かれてはいないことに注意してください。つまりパウロがここで語っていることの中心は「脱ぎ捨てること」ではなく、あくまでも「着ること」にあるのです。4節をご覧ください。「この幕屋に住むわたしたちは重荷を負ってうめいておりますが、それは、地上の住みかを脱ぎ捨てたいからではありません。死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうために、天から与えられる住みかを上に着たいからです」(4節)。

 どうしてパウロがこういうことを言っているかというと、脱ぎ捨てることにこそ救いがあると教えていた異端の教師たちがいたからなのです。この肉体は魂の牢獄である。死はそこからの解放なのだ、と。そこで多くの人がこの世の人生には意味がないと考えたのです。ただ苦しいだけの獄中生活。ただ死ぬことにこそ希望がある、と。それはある意味では分からなくありません。絶えざる苦しみを負って生きているならば、そう思わざるを得ないでしょう。脱ぎ捨てることにこそ救いがある、と。

 しかし、同じように絶えざる苦しみを負っていたパウロは、そうは言わないのです。彼は脱ぎ捨てることではなく着ることを思って生きているのです。脱ぎ捨てたいものに目を向けて、脱ぎ捨てる時を待ちつつ今を生きるのと、着せられる完全なものに目を向けて、着せられる時を思いつつ今を生きるのでは、生きる意味合いが全く違ってくるのです。そのようにパウロは地上において苦しみながらも、天に備えられているものを思いながら、既に備えられているものを喜びながら生きていたのです。

 そして、パウロは言うのです。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です」(5節)。どのようにして「ふさわしい者としてくださった」のでしょう。この手紙を読んだコリントの信徒たちには言わずとも分かったはずです。それはキリストの十字架によってである、と。

 もともと「天にある永遠の住みか」は私たちにはふさわしくはないのです。神に背いて生きてきた私たちにふさわしいのは、地上の幕屋と共に滅びていくことなのでしょう。しかし、神はそのような私たちを憐れんで、キリストを与えてくださいました。罪の赦しを与えてくださいました。そして、死ぬはずのものが命に飲み込まれてしまうようにと、永遠の住みかを備えてくださったのです。「わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です」(5節)。そのとおりです。


ひたすら主に喜ばれる者でありたい

 しかし、その先を読みますと、パウロにとって本当に重要だったのは、その永遠の住みかを着ること自体ではなかったことが分かります。もっと大事ことがあるのです。それは、その着せられた永遠の体をもって、主と共にあることだったのです。6節をご覧ください。「それで、わたしたちはいつも心強いのですが、体を住みかとしているかぎり、主から離れていることも知っています。目に見えるものによらず、信仰によって歩んでいるからです。わたしたちは、心強い。そして、体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」(6‐8節)。

 この世のテント住まいで、パウロにとって一番辛いことは何だったのか。それは主から離れているということだったのです。いや、もちろん目に見えずとも、信仰において主と共にある。それはパウロも分かっているのです。しかし、そこにはまたテント住まいにおける限界がある。それもまた事実です。ですから「体を離れて、主のもとに住むことをむしろ望んでいます」と言うのです。この体を離れることを望むのは、この世の苦しみから離れるためではないのです。主のもとに住むためなのです。そのように一番大事なのは、主と共にあることであり、主との交わりなのです。ですから一番の願いもまた、それは「主に喜ばれる者」であることなのだと彼は言うのです。「だから、体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」(9節)。

 私たちのテント住まいもまた、つまるところ、ここに向かっているのでしょう。「体を住みかとしていても、体を離れているにしても、ひたすら主に喜ばれる者でありたい」。ここにこそ、テント住まいをしているこの地上の人生の意味もまたあるのです。これは苦しいだけの牢獄生活ではないのです。これはただ脱ぎ捨てるまで仕方なく着ている体ではないのです。この世の生活は、この世の体は、主に喜ばれる者として生きるための生活であり、体なのです。確かに苦しみがあります。罪との戦いもあります。不当な仕打ちを耐え忍ばなくてはならないこともあるでしょう。しかし、そのようなこの世の人生こそ、主を愛し、主に喜ばれることを求めて生きる実践の場なのです。

 だからまた、主もまたそのような私たちの生活を、関心をもって見ていてくださるのです。私たちが地上におけるテント住まいの人生をどう生きるかは、主にとっての重要事項なのです。10節に書かれているのはそういうことです。「なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(10節)。

 キリストの裁きの座の前に立つ。そのキリストは私たちの罪のために十字架にかかってくださった御方です。私たちの罪を赦し、私たちを信仰によって義としてくださった御方です。ですから、その裁きとは、私たちが救われるか滅びるかの裁きではありません。私たちの報いに関わる裁きです。

 主は私たちのこの地上の人生を、関心をもって見ていてくださる。だから「悪」はすべて主の目の前にあります。ですから、私たちは「どうせ赦されるのだから」と言って、主を侮るような生活をしてはならない。当たり前のことです。しかし、そこでは「悪」だけが裁かれるのではないのです。「善」もまた裁かれるのです。すなわち、報いを受けるということです。

 主の目に「善」とされること、それはもしかしたら、積極的な善行というよりは、ある場合にはただ主を信じて苦難を耐え忍ぶだけのことかもしれません。耐え忍びながら愛を示して仕えることかもしれません。それはこの世においては報われないかもしれない。この世において報われないことはいくらでもあるのでしょう。しかし、主が報いてくださるのです。すべては報われるのです。私たちは、この世において報われるかどうかを気にしないで、ただひたすら主に喜ばれることを考えていたらよいのです。それがこのテント住まいにおいて求められていることなのです。

(祈り)


2020年10月4日日曜日

「すべてのものは神から出て神に向かう」

 ローマの信徒への手紙 11:33-36


 今日の第二朗読は、「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(33節)という言葉から始まっていました。そして、「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」という賛美で終わります。今日の箇所を読んでいますと、そこに深いへりくだりをもって真に神を神として畏れ敬う礼拝者の姿が見えてまいります。そこに見えてくる姿と、今ここにいる私たちの姿は重なるのか。あるいは全く重ならないのか。そのことを改めて考えざるを得なくなる。そんな聖書箇所です。


ああ、なんと深いことか

 「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」(33節a)。このような手紙は口述筆記で書かれていますから、実際に大きな声で「ああ!」と叫んでいたのだと思います。「神の富」すなわち、「神の豊かさ」について、パウロは初めて考えたわけではないでしょう。また「神の知恵」についても「神の知識」についても、初めて考えたわけではないでしょう。それらは聖書が繰り返し語っていることですから。しかし、彼はここで改めて神の富と知恵と知識の深さを思って感嘆の声を上げているのです。

 それはなぜなのか。今日の箇所の直前には次のように書かれているのです。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」(32節)。パウロが今、目を向けているのは、すべての人に向けられた神の憐れみなのです。すべての人を憐れむために、神がしていることがある。言い換えるならば、すべての人を救おうとして、神がしていることがある。そのために神御自身がこの歴史のただ中においてなさっていることがある。パウロが目を向けているのはそのことなのです。

 そのように「すべての人を憐れむため」に、神はどうされたのでしょうか。もう一度お読みします。「神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」。とても不思議な言葉だと思いませんか。その内容について今日は触れません。この手紙の9章から11章までを後でじっくりとお読みください。しかし、それが何を意味するかはさておき、はっきりしていることが一つあります。「すべての人を不従順の状態に閉じ込める」という言葉は「神の憐れみ」と単純に結び着かないということです。

 「すべての人を不従順の状態に閉じ込める」という言葉は、むしろ「神の憐れみ」とは真逆に聞こえます。「神の救い」とは正反対の行為に聞こえます。しかし、それが何であれ、人間の目から見たら救いとは真逆に見えることが、実は「すべての人を憐れむためだった」とパウロは言うのです。そのことをパウロは知ったのです。そこでパウロは「ああ、なんと深いことか!」と叫ばずにはいられなかったのです。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」と。

 すべての人を憐れむために、すべての人を救うために、その計り知れない豊かさを用いて、底知れない知恵を尽くして、その限りない知識を用いて、神は動いておられるのです。また、この世界を動かしておられるのです。しかも、人間の目から見たら憐れみとは真逆に見える出来事さえも用いて、すべての人を憐れもうとしていてくださるのです。

 実際、神が知恵を尽くして動いていてくださったからこそ、私たちが今ここにいるのでしょう。神がそのような神であるからこそ、憐れみを受けた者として、救いに招かれた者として、ここにいるのでしょう。私たちが憐れんでくださいと言う前に、私たちが救ってくださいと言う前に、限りなく豊かな神様が、知恵を尽くして、計り知れない知識を用いて、私たちを憐れむために動いていてくださったのです。そして、今もそのように憐れもうとしていてくださるのです。


誰が究め尽くせよう

 もちろん、その知恵も知識も私たちにとってはあまりにも深いのです。だから、パウロはこう続けるのです。「だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(33節b)。「定め」とは「判断」のことです。それは「究め尽くし難い」と言っているのです。ここで用いられているのは「底まで計れない」という意味の言葉です。あまりに深くて底まで計れない。ですから神様が何をどう判断しておられるのか私たちに分らないとしても、それは当然のことなのです。

 また神の道は理解し尽くせない。神には神の道があるのです。しかし、それは私たちの道とは異なるのです。イザヤ書にこんな言葉があります。「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:8‐9)。

 しかし、だからこそ、神の富、神の知恵、神の知識を前にして人間はへりくだって、真に神を神として畏れ敬い、神を「信じる」ということが大事なのです。私たちには分からない。あまりにも深いから。だからこそ信じるのです。神がすべての人を憐れもうとしていてくださることを、畏れをもって信じるのです。そして、神をたたえるのです。神を礼拝するのです。


誰が主の相談相手であったか

 しかし、現実の私たちの生活を振り返る時に、神の知恵、神の知識への畏敬がいかに失われているかということも思わされます。まるで私たちの方が知恵ある者であるかのように、私たちの方が知るべきことを知っている者であるかのように振る舞ってしまう。だからこそ、続けて旧約聖書を引用して語るパウロの言葉は大きな意味を持っていると言えます。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」(34‐35節)。

 「相談相手」とは「助言者」とも訳せます。確かにいつの間にか助言者のように振る舞っていることがある。神様に助言したくなるのです。「神様、あなたのしていることはおかしい。あなたのしていることは間違っている。なぜこんなことをなさるのですか」と。何が最善であるかを私たちの方が知っているかのように助言したくなる。しかし、知らないのは、本当は私たちの方なのです。「いったいだれが主の心を知っていたであろうか」。そうです、私たちはすべての人を憐れもうとしておられる主の心を知ることなく、「助言者」として主に向かってしまうのです。

 あるいは、助言ではなく取引を始めようとするかもしれません。私たちが望ましいと思える結果を引き出すために、何かを差し出そうとするのです。私はこのようにしますから、神様はわたしが願っているとおりにしてください、と。しかし、聖書は言うのです。「だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか」(35節)。

 実は、新共同訳では若干言葉が異なりますが、これはヨブ記41章3節の引用なのです。そして、その言葉は次のように続くのです。「天の下にあるすべてのものはわたしのものだ」。そう主は言われるのです。私たちが何かを主に差し出したとしても、それはもともと神のものなのです。ならば、私たちは神と取引をする者としてではなく、ただ神をたたえ、礼拝する者として御前に立つべきなのでしょう。

 私たちは神に助言する者としてではなく、神に何か差し出して取引をする者としてでもなく、ただ神をたたえる者として集められているのです。主の日の礼拝に招かれているとはそういうことです。私たちが何をするまでもなく、何かを差し出すまでもなく、既に圧倒的な神の憐れみのもとにあるのです。

 その事実を、パウロはイエス・キリストの内に見出したのです。神は御子を通して御自身の憐れみを現してくださいました。その御方は、私たちを救うために独り子さえ惜しまず与えてくださった神なのです。その神がその計り知れない豊かさを用いて、底知れない知恵を尽くして、その限りない知識を用いて、すべての人を救うために動いてくださった。そして、今も動いておられます。この世界を動かしておられます。人間の目から見たら憐れみとは真逆に見える出来事さえも用いて、すべての人を憐れもうとしていてくださる。その事実を、イエス・キリストによって知ったのです。


ただ神を礼拝する者として

 それゆえに、最終的に彼はこう言って神をたたえるのです。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」(36節)。これはギリシアの神秘思想の言葉であったものをパウロが拝借したものです。しかし、その言葉をもって、パウロは既に述べられた神の憐れみについて、神の救いについて語っているのです。

 すべては神から出ているのです。人間が助言したわけでも、人間が何かを差し出したことに対する報酬でもありません。人間が憐れんでくださいと願ったからですらありません。神の計り知れない富と知恵と知識から既に神の憐れみの行動は始まっているのです。

 そして、すべては神に向かっているのです。最終的に神から遠ざけられ退けられるならば、そこには救いはありません。しかし、そうではないのです。すべては神に向かっているのです。言い換えるならば、神は憐れみによって、神の救いによって、すべてを神へと向かわせておられるのです。私たちの目にどう映ろうが、すべては神に向い、救いの完成へと向かっているのです。

 それでは、始まりと終わりの間はどうなのか。「神によって保たれ」と書かれています。これは意訳ですが、意味を良く捉えています。始まりと終わりの間も神によるのです。神によって保たれているのです。ならばはっきりしていることは、人間はへりくだらなくてはならない、ということです。本当にへりくだらなくてはならない。その具体的な姿は神を礼拝するということです。そこから、神の憐みに応答する生活が生まれてくるのです。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか」。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」。


(祈り)


2020年9月27日日曜日

「内なる人を強めてください」

エフェソの信徒への手紙 3:14‐21


内に働く御力によって

 本日の第二朗読は次のように締めくくられていました。「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(20節)。

 教会の一部の人が、今、礼拝堂に集まって礼拝しています。他の人はそれぞれの場所において礼拝しています。この時間、同じ神様に向かい、共に祈り、共に礼拝をささげています。その神様はどのようなお方であるのか。聖書は今日、私たちに告げています。「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」であると。

 今日は特に「わたしたちの《内》に働く御力によって」という言葉を心に留めたいと思います。というのも、私たちが往々にして求めているのは、神の力が私たちの《外》に働くことだからです。神の力が働いて、自分の置かれている状況が変わるように。物事がうまくいくように。人間関係で悩んでいる人ならば、「神の力が働いて、周りの人々が変わるように」と願い求めるかもしれません。しかしここで聖書は、「わたしたちの《内》に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」と言っているのです。

 神は確かに私たちが求めることをはるかに超えてかなえることがおできになる。しかし、その時に働く神の力は、第一には私たちの《外》にではなく、私たちの《内》に働くのです。まず変わらなくてはならないのは、私たちの《外》にある何かではないからです。それゆえに、今日お読みした聖書箇所に書かれているパウロの祈りもまた、《内》に関わることが祈られているのです。神の御力によって《内》に起こらなくてはならないことがあるからです。


内なる人を強めてください

 「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(16‐17節)。

 パウロはエフェソの信徒たちのために、「内なる人を強めてください」と祈ります。「内なる人を強めてください」とは、「精神的に強くしてください」という意味ではありません。「内なる人」とは、「信仰によって内に誕生した新しい人」のことです。信仰者としての《わたし》です。

 イエス・キリストを信じる時、聖霊によって新しい《わたし》が生まれます。ここでパウロがしているように、天地の造り主なる神を「父」と呼ぶ、新しい《わたし》が生まれます。言い換えるならば、「父」を呼び求める神の子どもとしての新しい《わたし》が生まれるということです。信仰を持って生き始めるとはそういうことです。その「内なる人」は生まれたばかりの時は、いわば赤ん坊です。赤ん坊は弱いのです。ですから、生まれながらの以前からの《わたし》、他の手紙では「外なる人」と呼ばれていますが、その「外なる人」が支配的になることはあり得ます。それは新しい人、「内なる人」が、弱いからです。しかし、父なる神は新しく生まれた「内なる人」を強めてくださいます。ですから私たちの側としては、信仰者として成長すること、「内なる人」が強められることを神に求めて良いし、祈り求めるべきなのです。

 では、「内なる人が強められる」とは、具体的にどのようになることでしょうか。そこで重要なのは、キリストとの関わりです。パウロはこのように祈ります。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(17節)。これが、内なる人が強められるということです。

 「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」。この「愛」とは後に明確に語られていますように、「キリストの愛」です。植物に例えるならば、キリストの愛という大地に深く広く根を張るようになることです。建物に例えるならば、キリストの愛という絶対にゆるぎない土台の上にしっかりと建て上げられた家のようになることです。

 そのことを考えますと、ここで語られているのは聖書をお勉強して少しでも良い人になりましょう、というような次元の話ではないことはすぐに分かります。神が私たちの心の内のもっとも深いところにまで働きかけてくださるのでなければ成り立たないのです。ですから、それは「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださるように」という表現になるのです。そのようにして、内なる人が強められる。キリストの愛に深く広く根を張り、キリストの愛を土台として生きる者となるのです。


キリストの愛を知るように

 以上述べてきたことから明らかなように、内なる人が強められるということは、本当の意味でキリストの愛を知るということでもあります。パウロはさらに続けます。「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(18‐19節)。

 キリストの愛を知るということは、キリストの愛の大きさを知るということです。しかし、パウロはただ「キリストの愛の大きさがどれほどであるか」とは言いません。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」と表現するのです。その言葉はまさに、その愛の中に立っている人の言葉です。外から見て愛の大きさについて語っているのではないのです。

 内に働く神の力は人間の傲慢さを砕きます。神の力は人間の最も深きところにまで及んで、人生の隅々まで及んで、人間の罪を明らかにされます。自分を正しい者として、他者を裁き断罪する側に身を置いていた者が、実は自分こそ神の御前においては裁かれる側にいるのだということを神によって知らされます。そのようにして、パウロもまた神によって砕かれた人でした。

 しかし、そのパウロが、自らの罪を自覚したパウロが、キリストの愛の中に立っている自分自身を見出したのです。そのパウロがキリストの愛を語っているのです。その愛の中に立って見渡しても果てが見えない。前を向いても後ろを見ても、ぐるりと見まわしても果てが見えない。上を見ても下を見ても、果てが見えない。そのようなキリストの愛だからこそ、こんな自分もまたその中にいるのだ、ということをパウロは知っているのです。本来ならば外に放り出されていても不思議ではない私なのに、それでもなお私はキリストの愛の中にいる!「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する」とはそういうことです。

 それは内に働く神の御力による奇跡です。ですから「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり」という表現になるのです。これは本来言葉の矛盾でしょう。人知を超えているのですから、知り得るはずはないのです。しかし、パウロはエフェソの信徒がそれを知るようになることを祈ります。人にはできなくても、神はおできになるからです。だから同じように、エフェソの信徒たちも、ここにいる私たちもまた祈り求めるべきなのでしょう。人の知識をはるかに超えるキリストの愛を知ることができるように、と。


満ちあふれる豊かさのすべてにあずかって

 そして、その愛を知るだけでなく、「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(19節)と祈ります。キリストを信じる生活、新しく生まれた神の子どもとしての生活、「内なる人」の生活、私たちの信仰生活はついにここにまで至るのです。

 計り知れない愛の広さ。計り知れない愛の長さ。計り知れない愛の高さ、深さ。そのような人の知識をはるかに超える愛。その愛そのものであるイエス・キリストが私たちの心の中に住んでくださるというのです。その愛に深く根を下ろした生活、その愛を土台として建てあげられた生活は、どのようなものとなるのでしょう。それはまさにキリストの似姿となるのでしょう。パウロは別の書簡でもこう言っています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。

 それこそまさに「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」という祈りによってパウロが願い求めている姿に他なりません。それは主の霊によるのです。だから祈るのです。

 しかし、これはあまりにも現実離れした祈りではないでしょうか。パウロは本当にこのようなことを信じて祈っているのでしょうか。――そうです、信じて祈っているのです。彼は今、呼び求めている天の父をたたえてこう加えます。「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(20‐21節)。

 天の父はかなえることがおできになる。私たちが求めることをはるかに超えて。「はるかに超えて」というのですから、私たちが現時点で見ているのは、神の為し得ることのまだまだ極々一部であるということでしょう。私たちの内に起こっていることも、神の為し得ることの、まだまだ極々一部です。私たちはこれからも、この世界のために祈り求めると共に、私たち自身が変えられていくことを祈り求めていきましょう。


(祈り)

憐れみ深い天の父よ、

 あなたは私たちを新しく生まれさせ、あなたを天の父と呼んで、あなたを礼拝して生きるようになりました。そのように内なる人を新しく生まれさせてくださったことを感謝いたします。天の父よ、どうぞ私たちの内に力強く御力を現してください。内なる人を強めてください。私たちを変えてください。そのように内なる人が成長し、新しい生活を形作るようになりますように。主の御名によって祈ります。アーメン。


2020年9月20日日曜日

「旅人としてこの世を生きる」

ペトロの手紙一 2:11‐17


仮住まいの身なのですから

 今日の箇所には「悪人呼ばわり」(12節)という言葉が出てきます。当時のキリスト者が、人々から「悪人呼ばわり」されていたという事情が伺えます。具体的にどのようなことを言われていたのかは分かりませんが、まだ国家レベルの迫害が始まる以前から、様々な謂われのない誹謗中傷を受けていたのでしょう。15節に書かれている「愚かな者たちの無知な発言」も同じです。これはもう少し広く、キリスト者や教会に対する誹謗中傷だけでなく、キリスト御自身やキリストの父なる神に対する冒涜的な暴言を含むものと考えられます。そのような言葉を投げかけられることが少なからずあったということでしょう。

 戦時中、クリスチャンホームで育ったある姉妹が、「ヤソ、ヤソ」と言われてよく虐められたという話を聞いたことがあります。ある程度信仰暦の長い方にはそのような経験をされた方も少なくないかもしれません。今日でも、家族から教会に行くことを反対されたり、あるいはそこまでではなくとも、キリスト教信仰について悪しざまに言われたりすることは、起こり得ることなのでしょう。

 それがいつの時代であれ、いずれにせよここで明らかなことは、信仰の故に不都合なことや困難が生じたり、嫌な思いをしたりすることがあったとしても、決して驚くには価しないということです。それはキリスト者が初めから経験してきたことなのです。それはある意味では当然のことなのでしょう。キリストはこの世において十字架につけられたのです。そのような世界に私たちは生きているのです。そのような世界において、十字架につけられたキリストを信じて、主とあがめて、その御方に従って生きようとしているのですから、困難が生じたとしても不思議ではない。信仰を持って生きるとはそういうことです。

 そのような信仰者のこの世における生活を、聖書は「仮住まい」と表現しています。11節に「いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから」と書かれている。確かにそうです。私たちは仮住まいの身です。この世に永遠に留まるわけではありません。この世は私たちの最終的な目的地ではありません。しかし、ペトロがこのことを語るのは、「この世の生活は仮住まいであり、限られた時なのだから困難があっても忍耐しなさい」という話をするためではありません。そうではなく、仮住まいの者が、仮住まいであるゆえに、どう生きるのかという話をするのです。

 仮住まいでなくて、この世に永遠に属する者であるならば、この世において何を獲得するかということが大きな意味を持つのでしょう。しかし、もし旅人であり仮住まいのものであるならば、やがては去っていくのですから、仮住まいの時をどう生きるのかということが重要になるのでしょう。この世における様々な出会いの中で、様々な関わりの中で、旅人として仮住まいしているこの限られた日々を、どのように生きるかが重要になってくる。そこで具体的に心に留めるべきことがあるのです。それが今日お読みした箇所に書かれている内容です。


立派に生活しなさい

 旅人として仮住まいしている者として、心に留めるべきことは何か。まず消極的な表現としては、「避けなさい」ということです。「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」(11節)と。この「肉」というのは肉体のことではありません。人間の罪深い性質のことです。その「肉の欲」がどのような形で現れてくるのかについては、パウロがガラテヤの信徒に宛てた手紙の中で次のように書き記しています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(ガラテヤ5:19‐21)。

 これが「肉の業」です。このようなことを行う肉の欲するままに生きてはならないということです。肉は救われた魂(1:9)に戦いを挑んできている敵なのです。その敵と仲良くしてはならないのです。避けて遠ざけなくてはならないのです。キリスト者として謂われのない中傷を受けるのなら、それはそれで良いのです。しかし、肉に従って生きて「謂われのある中傷」を受けるようであってはならないということでしょう。

 これはより積極的に表現をするならば、「立派に生活しなさい」(12節)となります。この「立派に生活すること」あるいは「立派な行い」というのは、信仰から生じる行いのことです。キリストを信じ、キリストを愛し、キリストとの生き生きとした交わりから生まれる行いのことです。すなわち源が神であるということです。そうでなければ人々はその人を称賛するようにはなっても、「神をあがめるように」はならないでしょう。「あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」とペトロは言うのです。

 そこには「よく見て」と書かれています。これは「観察する」という意味の言葉です。しかも、継続的に観察しているという表現になっているのです。人々は、キリストについて語る言葉、救いについて語る言葉を聞いてくれないかもしれません。しかし、キリストを信じる者の生活を見てはくれます。観察してくれるでしょう。そこにおいては、言葉よりも生きる姿そのものが雄弁に語ります。身近な人々の観察の前では、見せかけは通用しないものです。家族の中では特にそうでしょう。だから本当に信仰から来ていること、神との交わりから来ていること、神を礼拝し、神を畏れ敬う生活から来ていることが重要なのです。


主のために

 13節以下には、より具体的に「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです」(13‐15節)と書かれています。そのように語っているのはペトロだけでなく、既にパウロもローマの信徒への手紙の中で語っていることです(ローマ13:1以下)。

 どうしてこのようなことが語られなくてはならないのでしょうか。それは宗教的熱心あるいは熱狂主義というものが反社会的な行動を生み出すことがあり得るからです。特にその宗教的熱心が「怒り」と結びついた時には往々にしてそのようなことが起こります。実際、聖書にも出てくる「熱心党」と呼ばれるユダヤ教のセクトはその道を行ったのです。戦いのために武器を取った。そのような事例は、今日においても、いくらでも挙げることができるでしょう。

 そのような方向に進んではならないとペトロは言っているのです。信仰のゆえに誹謗中傷されるなら、あるいはキリスト御自身が冒涜されるなら、その発言を封じるために必要なのは暴力でも議論でもないのです。そうではなく、善を行うことだ、とペトロは言うのです。この「善」もまた、当然のことながら信仰から生じる善き行動を意味するのでしょう。ですから「主のために」と書かれているのです。「主のために」あえて暴力を選ばない、あえて論争を選ばない。人から傷つけられても、あえて人を傷つけることを選ばない。そうではなくて愛することを選ぶ時、人々はそこに「主のために」生きている信仰者の姿を見ることになるのです。


自由な人として

 そして、さらにペトロは言います。「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」(16節)。パウロもその手紙の中でこう言っています。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)。

 キリスト者は律法のもとに生きてはいません。キリスト者の生活は戒律に支配された生活ではありません。「このことは禁じられているから、わたしはしない」という生き方はしません。「このことは禁じられていないから、やっていいのだ」という考え方もしません。そうではなくて、「私を愛していてくださる神は何を望んでおられるのだろうか」と考えるのです。「神の僕として行動しなさい」とはそういうことです。

 本当の自由とは、肉に従う自由ではありません。それでは罪の奴隷になってしまいます。そうではなく、神の僕として仕えることのできる自由です。時には自分の権利を放棄することもできる自由、あえて仕えることもできる自由、愛することのできる自由です。「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」(17節)と書かれています。先に述べた、制度に従うこともそうですが、「そうせざるを得ないから」と言って従うのは自由人の姿ではありません。そうではなくて、神がお望みならば喜んでそうします、というのが本当の自由な人の姿です。

 それは信仰から生じる自由です。神を礼拝し、神を畏れ敬う生活から生まれる自由です。それゆえに、私たちの生き方を省みるとするならば、まず、私たちと神との関係を省みなくてはならないのです。すべては神を礼拝し、神を畏れ敬う生活から生まれるのです。

 今、私たちは毎週、礼拝のために礼拝堂に集まることはできません。ならば、ここに集まることのできない主の日を私たちがどう過ごしているかが重要になるのです。そして、さらに言うならば、主の日から主の日へと向かう、一日一日を、御言葉と共に歩んでいるかが重要になるのです。私たちは旅人である仮住まいの者であり、この世に置かれているのは、まことに限られた日々でありますから。

(祈り)


2020年9月13日日曜日

「神の御心に適う願い事」

ヨハネの手紙一 5:13-17

御心が行われますように

 イエス様は「天にまします我らの父よ」という呼びかけで始まる「主の祈り」を教えてくださいました。その中に「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りの言葉があります。「糧」というものは、生きていく上で必要なもの、生活していく上で必要なものの代表であると言えます。ですから、例えば宗教改革者マルティン・ルターなどは、この「糧」という言葉が及ぶ範囲は非常に広いということを書いています。「日用のかてとは何であるか」。彼はこう答えます。「食物、飲み物、着物、履き物、家、屋敷、田畑、家畜、金銭、財産、信仰ある夫婦、信仰ある子供、信仰ある下僕、信仰のある忠実な支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、親友、真実な隣人などのごとく、身体の栄養や必需品に属する一切を含んでいる」(「小教理問答」より)。そうしますと、要するに、必要なものは全て神に求めたらよいのだ、ということでしょう。

 往々にして私たちの問題は神に間違ったものを求めすぎることではなくて、むしろそもそも神に求め無さすぎることにあるのです。この世の与えるものにしか目が向かない。人間が与えるものにしか目が向かない。自分の力で獲得できるものにしか目が向かない。そして、自分で獲得して生きてきたかのように思いあがってしまう。しかし、本当は神様から全てをいただきながら生きてきた、いや生かされてきたのです。私たちはへりくだって、神に願い求めるべきなのです。

 しかし、そのことを心に留めた上でなお、私たちは「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りの前に、このような祈りの言葉があることを忘れてはなりません。「御心の天になるごとく、地にもなさしめたまえ」。新共同訳ですと、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6:10)。

 そのように、神に祈る私たちが、まず神の御心に関心を持つということは、極めて大事なことであると言えます。神様が何を望んでおられるのか。神様が何を願っておられるのか。そのことに全く無関心で、無頓着で、ただ自分の望んでいることが実現するかどうかにしか関心がないとするならば、それは神と人との関係としてはどう考えても健全ではありません。

 今日お読みした聖書箇所には、こう書かれていました。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」(14‐15節)。

 これを書いたヨハネにとっては、ただ祈りが聞き入れられるかどうか、かなえられるかどうかだけが重要なのではないのです。これは神の御心に関心を向けて生きてきた人の言葉です。明らかに神の御心が実現することを願ってきた人の言葉です。そうあってこそ、祈りについても確信が持てるのでしょう。彼は「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」とさえ言うことができる。たとえ実現することが将来であっても、もう既に聞き入れられているのだ、という安心の中で祈り続けることができるのです。


罪を犯している兄弟を見たら

 さて、そのような御心に適う願い求めの一例が16節に挙げられております。いや、一例というよりも、代表と言ってよいかもしれません。こう書かれております。「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」(16節)。

 ここに「死に至らない罪」という言葉が出て来ます。後には「死に至る罪」という言葉が出て来ます。そのことについては後で触れるとしまして、まずここで考えなくてはならないのは、とにかく「罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」と書かれていることです。

 実際、どうでしょう。私たちが御心に適った「祈り」とか「願い」ということを考える時に、真っ先にこのことを考えますでしょうか。これを書いているヨハネは、「御心に適った神への願い求め」ということを話し出すならば、真っ先にこのことが出て来る、そういう人だったということです。その後には、「死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません」(16節)と書かれているので、人を切り捨てる冷たい人であるかのような印象を持つかもしれませんが、そうではないのです。ヨハネにとって、御心に適った祈りとは、まず罪を犯す誰かのために執り成し祈ることだったのです。

 「罪を犯している兄弟を見たら」というのは、実際に誰かが神に背くことを行っているのを目にした場合です。その時にどうするのか、という話です。私たちはどうするでしょう。そのような誰かの背きが、私たちに害を及ぼすこともあるでしょうし、あるいは他の誰かを苦しめている現実を目にすることもあるでしょう。そのような事実を目にするならどうしますか。その人を裁きますか。断罪しますか。自分に降りかかってくるならば、反射的にそうしてしまうかもしれません。

 しかし、そこでまず為すべきことは、神に代わって裁くことではなくて、神に願うことだ、というのです。その人が災いに遭うことを求めるのではなく、裁かれて滅びることを求めるのではなく、その人が悔い改めて赦しを得、命を得ることを願うことなのです。そうするならば、「神はその人に命をお与えになります」というのです。つまりそれは神の御心に適う願いだということです。神は人を滅ぼすことを願ってはおられない。人が永遠の命に生きるようになることを願っておられるのです。その神の願いを、私たちもまた共有することを神は願っておられるのでしょう。

 私たちが願い、神がそれを実現する。そのような形において、罪を犯した人が命を得ることを神は望んでおられる。なぜなら、それこそまさに主が愛してくださったように互いに愛し合うという交わりの実現に他ならないからです。互いに愛し合うということは、互いに赦し合い、互いに罪を執り成し合うとことと無関係ではないのです。私たちが互いに執り成しあうことにおいて、罪が死に至るものでなくなる。これが「死に至らない罪」です。


死に至る罪については

 しかし、もう一方で「死に至る罪があります」とヨハネは語ります。それは明らかに「もはや赦されることのない罪」ということであり、「滅びに至る罪」ということです。このように書かれていますと、私たちはどうしても「死に至る罪とは何だろう」と考えてしまうわけでしょう。実際、聖書の注解書を開きますと、この「死に至る罪」について様々な説明がなされているものです。

 しかし、よくよく考えてみるならば、「死に至る罪とは何だろう」と考えるということは、要するに「死に至らない罪」というのが標準で、「死に至る罪」というのは、何か特別な悪いことであるかのように考えていることではありませんか。しかし、そうなのでしょうか。「死に至らない罪」が標準なのでしょうか。実は聖書はそう言っていないのです。本来すべての罪は「死に至る罪」なのです。神が正しく裁かれるならば、すべての罪は滅びに値する罪であるはずなのです。パウロが「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)と語っているとおりです。

 それにもかかわらず私たちの罪が赦されて命を得られるのは、ひとえにイエス・キリストによる罪の贖いのゆえなのです。「死に至らない罪」があり得るのは、イエス・キリストの十字架のゆえなのです。私たちは罪の赦しを得られることを、当たり前のことのように思ってはならないのです。「悔い改めたのなら赦されて当たり前だろう」などと思ってはならないのです。キリストが苦しみを受けられたことによって、初めて私たちの罪の赦しがあり得るのです。ですから、先ほどのパウロの言葉はこう続くのです。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

 「主キリスト・イエスによる永遠の命」は「神の賜物」だと言われています。それは「プレゼント」なのです。そこでこんなことを考えてみてください。AさんがBさんにプレゼントをあげたとします。Bさんは確かにプレゼントを受け取りました。しかし、BさんがAさんの前でそのプレゼントを投げ捨てたとします。その時に、あなたはAさんに、「Bさんにプレゼントあげてください」とお願いしますか。それを当然のことのように願えますか。願えないでしょう。ここでヨハネが言っているのは、そのような話なのです。

 実際にこの手紙が書かれた時代に、イエス・キリストの福音を捨てて背教した人たちがいたのです。あるいはキリストの十字架を捨てて異端に行ってしまった人たちがいたのです。キリストの十字架を捨て、キリストの福音を投げ捨ててしまうなら、罪は罪としてそのまま裁かれるしかありません。そこにはもはや赦しはありません。それをヨハネは「死に至る罪」と呼んでいるのです。そして、「これについては、神に願うようにとは言いません」とまで語るのです。

 それはもちろん、罪が死に至らないことの恵みがいかに大きいかを知っているからです。神の賜物、神のプレゼントがいかに尊いものであるかを知っているからです。それは神の子が血を流し、命を注ぎだして与えてくださったとてつもなく高価な賜物であることを知っているからなのです。それをヨハネは「永遠の命」と呼んでいるのです。

 「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」という言葉から本日の朗読は始まりました。そのような大きな恵みをいただいているのです。神によって赦された者として生きる恵み、神との交わりに入れられ、永遠の命を既に与えられた者として生きる恵みにあずかっているのです。そのような者として、神に祈りながら生きる生活も与えられているのです。

 だからこそ、私たちは互いに裁き合うのではなく、互いのために神の赦しを求めて祈るのです。そのために祈りを用いるのです。その祈りは必ず聞き届けられるのです。必ず聞き届けられるのです。なぜなら、それは神の願いでもあり、神の御心に適った祈りであるからです。

(祈り)


2020年9月6日日曜日

「神の配慮と目的」

出エジプト記13:17-22

 今日朗読された福音書において、イエス様はこう言っておられました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。イエス様は光です。その光であるイエス様が「わたしに従う者は…」と言うのですから、イメージとしてはただ照らしてくれる光というのではなくて、「先を行く光」です。つまり「導きの光」ということです。

 ところで、「導きの光」と言いますと、イエス様のお話を聞いていた当時の人にはピンと来るものがあったはずです。旧約聖書に、光に導かれた人たちの話が出て来るのです。ユダヤ人の先祖、イスラエルの民の話です。彼らはモーセという人によってエジプトから脱出したのですけれど、その後、荒れ野を延々と旅することになりました。その時に、昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを導いたという話が出て来るのです。だいたい、昼間は暑くて旅するのは困難なのですから、実際には夜に移動することの方が多かったと思います。暗闇の荒れ野を旅するのに、火の柱、導きの光がなかったら、とてもじゃないけれど動けないでしょう。

 本日の第一朗読では、そのように荒れ野を旅するイスラエルの人たちの話が読まれました。雲の柱、火の柱に導かれながら歩むイスラエルの民。そんな彼らの姿に、イエス様という導きの光に導かれて生きる私たち自身の姿が重なります。


遠回りの旅路

 エジプトを脱出したイスラエルの民には目的地がありました。彼らは神が約束してくださった地、カナンの地へと向かっていたのです。そのカナンの地へと向かう一番の近道は地中海に沿ったルートでした。後に「ペリシテ街道」と呼ばれるようになるルートです。 ところが今日読まれた聖書箇所にはこう書かれています。「 さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った」(17‐18節)。つまり、神は彼らを最短のルートではなく、あえて遠回りをさせられたと言うのです。

 目的地が明確である時に遠回りは嫌なものです。無駄な時間は費やしたくない。無駄な労苦はできる限り避けたい。効率よく目的を達成したい。しかし、現実にこの世においては、遠回りを強いられることは少なくありません。それは旧約聖書に見るイスラエルの歴史に良く現れています。聖書に見る人間の営みは、無駄に費やされた時間と無駄に費やされた労苦の連続です。それはこの世界全体の歴史にも言えるでしょうし、私たち自身の人生についても言えるのでしょう。

 そのような遠回りは、一面において、人間の罪と不従順に起因すると言えます。イスラエルは結局この後、40年も荒れ野をさまようことになるのですが、聖書ははっきりとその原因となった人間の不従順について語っています。人間は確かに、神に背いて、あえて遠回りになるような愚かなことをするものです。

 しかし、それが全てではありません。神に従順であれば遠回りをすることはないのか。神に従順であれば、すべては順調に進み、近道を行くことができるのか。必ずしもそうではないことを、今日の聖書箇所は伝えています。彼らは雲の柱、火の柱に導かれながら旅をしているのです。彼らは神に従ったのです。そして、それゆえに遠回りをすることになったのです。神はあえて葦の海に通じる荒れ野の道へと迂回させられたのです。それは決して不従順の結果ではないのです。


神の配慮と目的

 ではなぜなのか。先ほどお読みした聖書の言葉は、そこに神の配慮があったことを教えています。地中海沿岸を進み、そこに住む人々と戦わなくてはならなくなったら、彼らは後悔してエジプトに帰ろうとするかもしれない。神はそう考えて、荒れ野へと彼らを導かれたのだと言うのです。

 私たちは後に、神の判断が正しかったことを知らされます。彼らには確かにその弱さがあったのです。実際、後に荒れ野の旅路の厳しさの中で、彼らはこのように不平を言い始めるのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。…」(16:3)。このような弱さを持つ民が、エジプトから解放された直後に戦いに巻き込まれたらどうなるか、火を見るよりも明らかであったことでしょう。

 神はしばしば人間の弱さに対する配慮から、遠回りの道へと導かれます。もちろん、その神の意図は、人の目には隠されています。ですから、それは人間にとってしばしば不愉快なことでしかありません。しかし、神の配慮は後に明らかになるものです。「神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった」と書かれていました。この「ペリシテ街道」(直訳すると「ペリシテ人の地の道」)という呼び名はモーセの時代のものではありません。後の時代の呼び名です。後にその時のことを振り返っているのです。そのように信仰の目をもって歴史を振り返る時に、そこに神の導きのおける特別な配慮があったことを見ることができるのです。

 さらに言うならば、そこにはわざわざ「葦の海に通じる荒れ野の道」と書かれています。これは続く14章に直接関係します。葦の海で何が起こるのでしょう。そこでイスラエルの民は、《前は海、後ろは追い迫るエジプト軍》という絶体絶命の危機に陥るのです。しかし、神の奇跡により海が分かれ、彼らは海の中にできた道を進んでいくことになります。これが後々まで語り継がれることになります葦の海での奇跡です。つまり、イスラエルの民はそこで、彼らの救いが完全に神の恵みによることを経験することになるのです。

 このように、ただ人間の弱さへの配慮ということだけではなく、積極的な意味において、神は特別な目的のゆえに、民を遠回りの道へと導かれたということなのです。彼らには、約束の地に入る前に経験しなくてはならないことがあったのです。そして、彼らが経験すべき神の恵みは、遠回りを通して初めて得られるものだったのです。


神の約束に信頼して

 さて、私たちはここで「モーセはヨセフの骨を携えていた」(19節)と書かれていることにも注目したいと思います。モーセの行為の理由は、「ヨセフが、『神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように』と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである」(同)と説明されております。モーセは、自分の先祖の誓いを果たしているのです。

 しかし、実は、このヨセフの言葉の前に、もう一つの言葉があるのです。ヨセフは、この前にこう言っているのです。「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」(創世記50:24)。このように、人間の誓いの前に、神の誓いがあるのです。神の約束があるのです。ヨセフが自分の骨について誓わせたのは、《神は必ず子孫を顧みてくださり、約束の地に導き上ってくださる》という、神の真実への信頼に基づいてそうしたのです。

 そのヨセフの骨をモーセは携え上ったのです。単にヨセフがそう願ったからではないのです。モーセはヨセフの骨を携え上ることによって、ヨセフの信仰を共有しているのです。イスラエルの民は必ず約束の地に着くことができる。荒れ野を歩こうが、遠回りしようが、とにかく必ず約束の地に着くことができる。神は必ず導き上ってくださる。そう信じているからこそ、骨を携えて上るのです。そして、彼らが約束の地に着くことができるとするならば、それは彼らの力や強さによるのではなく、神の約束によるのです。モーセもイスラエルの民も、ただ神の約束に信頼して、いわばヨセフの骨と共に「神の約束の言葉」を携え上っているのです。

 私たちは神の御業によってエジプトを脱出したイスラエルの民が、ただちに約束の地に到着したのではないことを忘れてはなりません。それは荒れ野の旅でした。遠回りに見える旅でした。しかし、彼らには伝えられた神の約束の言葉がありました。神は必ず導き上ってくださる、と。ですから、彼らにとって重要なことは、神の約束に信頼して、雲の柱、火の柱をもって導かれる主に、安心して付いて行くことだったのです。

 イエス様は言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。私たちにも神の約束が与えられているのです。私たちもまた必ず約束の地に着くのです。必ず完全な救いにあずかるのです。今は荒れ野の旅であるかもしれません。迂回の連続であるかもしれません。しかし、それがいかなる旅であれ、私たちはそこに神の配慮と目的があることを見失ってはなりません。私たちはひたすら主に信頼し、終わりの日まで、導きの光なる主に従って歩んでいきましょう。私たちを導く光は、永遠の命に至らせる、まことの命の光なのですから。

(祈り)


2020年8月30日日曜日

「解放された新しい生き方」

 ローマの信徒への手紙 7:1‐6

律法に対して死んでキリストのものとなる

 今日の第二朗読は次のような言葉から始まりました。「それとも、兄弟たち、わたしは律法を知っている人々に話しているのですが、律法とは、人を生きている間だけ支配するものであることを知らないのですか」(1節)。

 パウロは律法を知っている人々に話しています。具体的にはユダヤ人のことです。「律法」と言う場合、第一には聖書の初めの五つの書を指します。「創世記」から「申命記」までです。ヘブライ語で「トーラー」と言います。ユダヤ人にとって、この「律法」を学ぶことは極めて重要です。暗記を中心とした律法の学びは幼い時から始まります。これを書いているパウロはそうやって育ってきたのです。またパウロが話しかけている「律法を知っている人々」もまた、そのように育ってきたのです。

 なぜ律法の学びが重要なのか。ユダヤ人にとって、「律法を遵守すること」こそが、すなわち「神に従うこと」だからです。だから、特にファリサイ派のユダヤ人は、この律法を解釈し、生活のすべてに適用して生きようとしたのです。それこそが神に従うことだからです。

 その律法について、パウロは「律法とは、人を生きている間だけ支配するものだ」という話を始めます。その実例として挙げているのは、結婚に関する律法です。これはユダヤ人でない、私たちにも分かりやすい実例です。続きをお読みします。「結婚した女は、夫の生存中は律法によって夫に結ばれているが、夫が死ねば、自分を夫に結び付けていた律法から解放されるのです。従って、夫の生存中、他の男と一緒になれば、姦通の女と言われますが、夫が死ねば、この律法から自由なので、他の男と一緒になっても姦通の女とはなりません」(2‐3節)。

 ある男性がある女性と結婚をしたとします。その両者は生きている限り婚姻に関する律法に縛られます。その夫が生存中は、その夫は律法によって妻と結ばれており、妻は夫に結ばれております。しかし、夫が死んだら、その死んだ夫はもはや律法の下にはいません。死んだ夫がもはや律法の下にない、律法に縛られてはいないということは、その妻が夫に法的に結ばれておらず、自由に結婚できることから分かります。

 そのように、パウロがここで例証しているのは「死んだ者は律法の下にはいない」ということです。さて、なぜこのような話を始めたのでしょう。パウロは何を言いたいのでしょう。――まさに、これがキリスト者であるということなのだ、と言いたいのです。

 この教会の洗礼式において必ず読まれる聖書箇所があります。今日の朗読箇所の前に書かれている6章の御言葉です。「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです」(6:4)。私たちのためにキリストは死なれました。私たちは死んでいません。しかし、バプテスマによって私たちはキリストに結ばれ、キリストの死にあずかるのです。そのようにして、私たちは一度死んだものとされるのです。キリストと共に葬られる。洗礼を受けるとはそういうことです。

 そして、キリストの死にあずかって一度死んだ者とされたのなら、死んだ者は、もはや律法の下にはいない。それが4節に書かれていることです。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。」

 そのように、私たちは律法の下にはいません。律法に対しては死んだ者となっています。しかし、それだけならば律法とは関係なく生きるというだけの話にしかなりません。「律法に縛られることはありません。何をやっても自由です。生きたいように生きましょう。もはや律法の下にはいないのですから」ということになるのでしょう。これを無律法主義と言います。

 もちろん、パウロが言いたいのはそのようなことではありません。大事な続きがあるのです。もう一度4節全体をお読みします。「ところで、兄弟たち、あなたがたも、キリストの体に結ばれて、律法に対しては死んだ者となっています。それは、あなたがたが、他の方、つまり、死者の中から復活させられた方のものとなり、こうして、わたしたちが神に対して実を結ぶようになるためなのです」。

 「律法に対して死んだのは、キリストのものとなるためなのだ」と言うのです。ここには、先ほど例証として用いられた結婚の話が、もう一度ひとひねりした形で用いられています。つまり、死んで「律法」という結婚相手と縁が切れたのは、いわばキリストと結婚するためだったのだ、とパウロは言うのです。そのようにしてキリストと結婚し、キリストのものとして生きることによって、神に仕え、神に対して実を結ぶようになる。それが私たちに与えられている信仰生活なのです。


“霊”に従う新しい生き方へ

 しかし、なぜ律法の下に生き、律法に従うことでは実を結ぶことにならないのでしょうか。続きをお読みします。「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです」(5‐6節)。

 ここでは、律法の下にあって、律法に従って生きる生き方と、死者の中から復活させられたキリストのものとして生きる生き方とが対比されています。一方は「文字に従う古い生き方」(直訳すると『文字の古さにおいて』)と呼ばれています。もう一方は「“霊”に従う新しい生き方(直訳すると『“霊”の新しさにおいて』)と呼ばれています。同じ仕えるにしても、古い生き方をもって仕えるのと新しい生き方をもって仕える二通りがあることです。そして、4節によりますならば、神に対して実を結ぶのは後者だということになるのです。

 なぜ、律法に従う生き方が「文字に従う古い生き方」などと呼ばれているのでしょうか。その理解の鍵となるのは、その前に記されている5節です。パウロは「肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働いた」と言うのです。ただ「罪へ誘う欲情が働いた」というのではありません。「律法によって(律法を通して)五体の中に働いた」と言うのです。

 その詳しい内容は、今日の箇所の続きとして7章全体に書かれていますので各自お読みください。要するにこういうことです。「罪へと誘う欲情」は律法(戒め)の言葉によって力を弱めるか。罪の力は、戒めの言葉があれば、私たちの五体から手を引いてくれるのか。私たちが「これをしてはならない」「あれをしてはならない」という教えの中に身を置けば、罪の力から解放されるのか。――そうはならない!と聖書は言うのです。罪は戒めの言葉に出会って、かえって力を強めるのです。私たちが「むさぼるな」という掟を知り、むさぼりが罪であることを知れば、人の内からはむさぼりが消えるのか。いいえ、そうならないのです。ますますむさぼりの罪は力を増して私たちを支配してくるのです。

 罪の力に対して律法は無力なのだということを認めず、なお律法を遵守することによって神に従って生きようとすることを「文字に従う古い生き方」とパウロは呼ぶのです。律法は文字です。文字は、要求はしますが、私たちを助けてはくれないのです。文字は、私たちを潔める力もなければ、罪に打ち勝たせる力をも持たないのです。律法そのものは私たちを救い出してはくれないのです。律法の文字のもとにいくら身をおいても、成し遂げるのは自分です。文字は助けてくれませんから、百パーセント自分でやらなくてはなりません。自分の力で何とかしなくてはなりません。

 そこで一生懸命に戒めの言葉に従おうと頑張ることでしょう。しかし、文字に従う古い生き方をもって神に仕えようとしても、神に対する実を結ぶ者とはなれないのです。今日の箇所の後に書かれているのですが、そこに生じるのは、深刻な「意志と行為の分裂」なのです。聖書の言葉によるならば、「善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです」(18節)という現実です。「意志」の負け戦です。

 さて、これは律法に厳格に生きようとしたユダヤ人たちだけの問題でしょうか。いいえ、そうではありません。今日のキリスト者においてもいくらでも起こり得ることなのです。

 もし今ここでなされていることが、「文字」としての聖書を学ぶことでしかないならば、それが生み出すのは「文字に従う古い生き方」でしかないでしょう。私たちが「信仰生活」と呼んでいるものが、何かを学び実践するだけのことならば、すなわち「死者の中から復活させられた方」との関わりなしでも成り立つことならば、それは「文字に従う古い生き方」でしかありません。自らを打ち叩き、力を振り絞って聖書の戒めに生きようとしながらも、無力な自分に失望落胆し、疲れ果ててしまうか、あるいは外面だけを一生懸命に繕ってキリスト者らしく生きようとするか・・・いずれにしてもそこで味わわれるのは負け戦の惨めさでしかありません。

 救いをもたらすのは文字ではなく、律法ではなく、死者の中から復活させられた方、生けるキリストなのです。その御方のものとして、その御方の体の一部として、その御方に結ばれて生きることは霊的な出来事なのであって、それは“霊”すなわち聖霊のみがなし得ることなのです。すなわち神のみがなし得ることなのです。だから、私たちは神に祈るのです。神を礼拝するのです。

 こうして礼拝堂においてであれ、それぞれの自宅であれ、日曜日に行われているのは聖書の勉強会ではありません。私たちは共に礼拝しているのです。共に祈っているのです。日々の生活においても、私たちは生けるキリストと結ばれて生きているのです。それは私たちが神に対して真に実を結ぶようになるためです。それこそが私たちに与えられている「“霊”に従う新しい生き方」です。

(祈り)

2020年8月23日日曜日

「知恵とは何か、分別とは何か」

ヨブ記28:20~28

暗黒の果てにまで行く人間

 本日の第一朗読はヨブ記28章20節からお読みしました。このヨブ記28章の冒頭は次のような言葉から始まります。「銀は銀山に産し、金は金山で精錬する。鉄は砂から採り出し、銅は岩を溶かして得る」(1‐2節)。

 ここに書かれているのは、鉱物資源の採掘と精錬の話です。今日の私たちからすれば何ということはありません。しかし、古代ヘブライ人にとって、地底とはまさに恐るべき暗黒の世界であり、その暗黒の果てにまで深く坑道を掘っていき、鉱石を捜し、見つけ出し掘り出し、選鉱し精錬して金属を得る探鉱と採掘と精錬の技術は、当時においていわば最先端の科学技術だったのです。それははげ鷹や、誇り高い獅子には為しえないことであり、人間のみが実現してきたことなのだ、というのがこの28章の11節までに書かれていることです。

 さて、このようなことが書かれているヨブ記ですが、このヨブ記は旧約聖書の中で「知恵文学」と呼ばれるものの一つです。「知恵文学」に分類されるものとして、他にはどういう書物があるかと言いますと、一番分かりやすいのは「箴言」だと思います。聖書を初めて読む人でも、ある意味では分かり易い「格言集」です。そこには数多くの人生訓が並べられています。私たちからすると鉱物資源の採掘の話と「人間はどう生きるべきか」という話は、全く異なる二つの話のように思えますが、知恵文学を記した人たちにとっては別な話ではないのです。要するにそこで重要なことは、探求することであり、見いだしたことを積み重ねることであり、そこから法則を導き出して適用することだからです。

 特にそこにおいて重要なのは積み重ねです。科学技術の話ならば分かり易いでしょう。すべては積み重ねなのです。ですから、そこではただ探求することだけが重んじられるのではなく、先人から伝えられたものを学んで正しく受け取るということが重要になってまいります。そして、それは「人間はどう生きるべきか」ということについても同じなのです。今生きている私たちが自ら経験して見出していくことだけが重要なのではありません。前の世代が経験して見出したことがあるのです。それを次の世代がしっかりと受けとめて、そこに自らの経験を通して見出したことを積み重ねていくことが大事なのでしょう。

 ですから、箴言には「わが子よ」という呼びかけが繰り返し出てくるのです。父が子に語るという形で人生訓が語られるのです。父は前の世代です。子は次の世代です。子は父から教訓を受け取って、そこに自らの経験を積み重ねていくのです。先に生きた人々の経験を軽んじるといことは、いわば鉱石の採掘方法を自分で一から開発しようとするに等しい。それは愚かなことです。

 そのように、知恵文学は、探求すること、積み重ねること、法則を導き出して適用することを重んじます。そして、実際、人類はそのようにして歴史の中を歩んできました。その結果、できなかったことができるようになって今日に至っているわけです。そのような人間の営みを肯定的に見ている。それが知恵文学であり、そのようにヨブ記28章の冒頭もまた書かれているのです。


持ち得ない知恵、持つべき知恵

 しかし、当然のことながら話はそれで終わりません。11節で終わらない。そこまでならば聖書でなくても言うのです。聖書はそこであえて「では、知恵はどこに見いだされるのか。分別はどこにあるのか」(12節)と問うのです。

 先人から伝えられたことを知り、自らも探求し、見いだしたことを積み重ね、法則を導き出し、できなかったことができるようになる。――そのことだけが重んじられるだけならば、人間はどうしたって傲慢になるのです。「私たちはこの世界についても、人生についても分かっている。私たちはかつてできなかったことも今はできるようになった。」と、そのように思い上がった人間が、いかに悲惨な現実を刈り取ってきたか。それは人類の歴史が示すとおりです。

 だからこそ、聖書はそこであえて問うのです。「では、知恵はどこに見いだされるのか。分別はどこにあるのか」。そして、こう続けます。「人間はそれが備えられた場を知らない。それは命あるものの地には見いだされない」。――分かったような顔をして思い上がっている人間よ、知恵はどこに見出されるのか。分別はどこにあるのか。あなたがたはそれを持っていないし、どこにあるかさえも知らないではないか!要するに、聖書はそのように語り始めるのです。

 実は、この28章というのは、ヨブ記において特別な位置にあるのです。27章までで、ヨブ記の前半が終了します。続いて全く脈絡のないように見える28章が間奏曲のように入ってくる。そして、後半が続くのです。

 前半部分は主にヨブと友人たちの論争です。数々の災いに遭って苦しんでいるヨブがいました。そこへ友人たちが見舞いに来るのです。慰めに来たはずです。しかし、そこで論争が起こってしまうのです。その内容についてはそれぞれお読みいただきたいと思いますが、あえて極めて大まかに要約するならば、ヨブの友人たちの主張は要するに、「ヨブよ、お前は罪を犯した。だから苦しみを受けているのだ」ということです。それに対してヨブの主張は「わたしはこんな苦しみを受けるような罪を犯してはいない。間違っているのは神だ」と言っているのです。友人たちは「ヨブが悪い」と言い、ヨブは「神が悪い」と言って論争しているのです。

 さて、真っ向から対立しているこの二つの主張ですが、実はヨブと友人たちには共通点があるのです。どちらも「自分は分かっている」と思っている。「わたしは知るべきことは知っているし、分かるべきことは分かっている」。それが共通点です。実際、ヨブも友人たちも、例えば箴言に書かれているようなことは知っているのです。先人の教えをしっかりと受けとめ、自らの経験を積み重ねてきた人たちです。そして、その自分が「分かっている」ことに従って言うならば、友人たちによれば「ヨブよ、お前が悪い」ということになり、ヨブからすれば「いいや、神が悪い」ということになるのです。

 しかし、そのような双方の主張が繰り広げられた後に、28章が読まれて、その中で改めて「では、知恵はどこに見いだされるのか、分別はどこにあるのか」と問われるのです。それは本日の朗読箇所である20節でもう一度繰り返されます。「では、知恵はどこから来るのか、分別はどこにあるのか。」そして、「すべて命あるものの目にそれは隠されている。空の鳥にすら、それは姿を隠している」と続くのです。

 人間は本当の知恵を持っていないだけでなく、その場所すら知らないのだ、というのです。つまり、そこに至る道すら知らない、ということです。では誰が知っているのか。「その道を知っているのは神。神こそ、その場所を知っておられる」(23節)。そうです、神だけが知っているのです。真の「知恵」は神に属する。神だけが持っているということです。

 確かに、これまで見てきたように、人間は、知り得ることは知っていったらよいし、探求して、経験を積み重ねて、分かるようになっていったらよいし、できるようになっていったらよいのです。先にも申しましたように、そのような人間の営みを知恵文学は肯定しているのです。

 しかし、それでもなお人間には分からないことがある。神の知恵に基づくことは分からないのです。人間はその「知恵」に至る道すら知らないのです。道すら知らないのですから、探求のしようもないのです。人間の努力ではどうにもならないのです。最後まで分からないことはあるのです。ただ知恵ある神だけが分かっている。――ならば私たちは、その神の前でへりくだるしかない。そして、へりくだったらよいのです。分からないことを良しとして、神の前で膝をかがめて、神を礼拝したらよいのです。それが「神を畏れ敬う」ということなのです。

 そして、全く逆説的なのですが、それこそが私たちが持つべき「知恵」なのだと言うのです。28節に「主を畏れ敬うこと、それが知恵」と書かれているとおりです。実は、これは箴言の冒頭にも書かれていることなのです。「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1:7)と。


キリストを信じる者として

 そして、さらに言うならば、そのような知恵が最も必要とされるのは、これがヨブ記に記されているように、苦難の問題においてなのです。苦難において、私たちは問われることになります。分からないことがあるのだということを良しとすることができるのか。神だけが分かっていることがあるということを、本当に受け止めて、神の前に膝をかがめることができるのか。本当にそこで「神を畏れ敬う」ことができるのか。――「主を畏れ敬うこと、それが知恵」。その知恵をもって生きようとするならば、そこで最も大事なことは、神の愛がすべてにおいて貫かれているとことを信じることなのでしょう。私たちには分からなくても、私たちの肉の目にはそう見えなかったとしても、そこには神の愛が貫かれており、全き救いの計画の中にあると信じることなのでしょう。

 そのような神の愛こそが、神を神として畏れ敬うことを可能とするのです。そして、神はその愛をイスラエルの歴史において現され、そして究極において、イエス・キリストの到来において現してくださったのです。私たちもまた、その御方を通して神の愛を知る者とされ、信じる者として今、ここにいるのです。ならばそのような私たちにとって、なおさらこの28章のまとめの言葉は大きな意味を持つと言えるでしょう。「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」。

 私たちは分からないことを良しとして、ただキリストにおいて現された神の愛を信じたらよいのです。私たちが今、神の愛の内にあることを信じて、その神を畏れ敬い、礼拝したらよい。それが私たちに与えられている「知恵」です。その一方で、私たちにも知り得ることがあり、分かることがある。すべてが分からないわけではないでしょう。ならば分かることをもって悪を遠ざけたらよい。分からない、分からないと言い続けているのではなくて、分かることをもって神の御心を行うことを願い求めたらよいのです。それが私たちの持つべき「分別」です。

(祈り)

2020年8月16日日曜日

「神の御心を行うことを願う者」

ヨハネによる福音書 7:1‐24

 今日の箇所にはイエスの弟たちが登場します。そして、続いてユダヤ人たちと共に群衆が登場してまいります。細かいことを言うならば群衆もまたユダヤ人には違いないのですが、この福音書において「ユダヤ人」と書かれていたら、ほとんどの場合、イエスを敵視していたユダヤの政治的・宗教的権力者たちのことを指しています。そして、その他大勢として「群衆」がいるのです。先の「ユダヤ人たち」を恐れながら生きている人たちです。


信じていなかった弟たち

 まずイエスの弟たちから見ていきましょう。弟たちはここで初めて登場するのですが、この福音書は彼らについて「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」(5節)と説明しています。しかし、これはある意味で妙な話です。というのも、彼らは兄であるイエスに対して、公に行動すべきことを勧めているからです。彼らは言うのです。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」(3‐4節)。信じていなければ、普通は「自分を世にはっきり示しなさい」とは言わないでしょう。

 弟たちがこのようなことを口にした背景には、恐らく「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」(6:66)という事情があったものと思われます。人々はイエスの行う奇跡には関心を示したのです。特に、6章は五つのパンと二匹の魚によって男だけでも五千人はいたであろう大群衆を養ったというセンセーショナルな奇跡物語から始まっているのです。人々はパンを与えてくれるイエスを熱狂的に追い求めるのです。そのような人々の中に、イエスの弟子であることを自認する人たちも大勢いたのです。しかし、イエスが与えてくれるものは喜んでも、イエスの語る言葉は受け入れなかったのです。そして、先に引用したとおり、弟子たちの多くは離れていったのです。

 そんな兄の活動は、弟たちから見るならば、まったく実りのないものと映ったに違いない。だからエルサレムの都に行くことを勧めたのです。ちょうど仮庵祭のために多くの人々が都に上ってくる時期でした。人々の前で力ある業を示す絶好の機会です。兄であるイエスが、もしその気になりさえするならば、都において支配的な立場に身を置くことになるでしょう。さらには王なるメシア、救い主として、ローマからの解放を実現してくれるとさえ思っていたのかも知れません。いずれにしても、兄イエスが多くの人々の支持を得、支配力を持つことは、彼らにとっても望ましいことであったに違いありません。だから言うのです。「こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」。

 しかし、それにもかかわらず、聖書は言うのです。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである。」なぜでしょうか。イエスの弟たちの考えていることは、イエスのもとを離れた多くの人々と根本的にはなんら変わらなかったからです。彼らは目に見えるこの世のパンのことしか考えていないのです。イエス様の表現によるならば、それは「朽ちる食べ物」(6:27)なのです。ですからイエス様は言われるのです。「世はあなたがたを憎むことはできないが、わたしを憎んでいる。わたしが、世の行っている業は悪いと証ししているからだ。」目に見えるこの世のものだけを追い求めているならば、世に憎まれることはないでしょう。この世と一緒になって同じものを求めているのですから、世に憎まれることはないでしょう。そのような弟たちについて聖書はこう言うのです。「兄弟たちも、イエスを信じていなかったのである」。


公然と語ることのない群衆

 次に群衆の姿を見てみましょう。12節以下に次のように書かれています。「群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。『良い人だ』と言う者もいれば、『いや、群衆を惑わしている』と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった」(12‐13節)。

 彼らの中には「良い人だ」と言う人もいたのです。非常に好意的な人もいたのです。「いや、群衆を惑わしている」と言う者たちと議論もしていたのでしょう。しかし、好意的に見ていたとしても、結局はイエスとその御言葉は、彼らの生活とは何の関わりもありません。彼らの人生と何の関わりもありません。遠いところから、外から、上から眺めるようにして語っているに過ぎません。そのような仕方で「イエスとはいったい何者か」と語っていても、そこから信仰が生まれることはありません。

 彼らが肯定的にせよ、否定的にせよ、そのような関わり方しかできなかったのは、彼らの内にあった恐れのゆえであったとも言えます。「しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった」と語られているとおりです。そこには9章で「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである」(9:22)という事情がありました。だから彼らは「ユダヤ人たち」を恐れた。それは自分の生活になんらかの不都合が生じることを恐れたということでもあります。だから、不都合が生じないように、自分の生活、自分の人生とはかかわりないところまでに留めたのです。それ以上は深入りしない。それを聖書は「いろいろと《ささやかれていた》」と表現するのです。ささやいているだけならば、自分に不利益は生じない。しかし、そこに信仰も生まれません。


御心を行うことを願うなら

 そして、最後にユダヤ人たちに目を向けましょう。彼らはイエスが神殿の境内に上って教えているのを聞きました。そしてこう言ったのです。「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」(15節)。つまり、彼らが受けて来たような専門教育を受けたわけでないのに、イエスが聖書を解き明かして語っているのを聞いて不思議に思ったのです。それはまた、イエスがどんなに聖書を語っても権威あるものとは認めない、という思いの裏返しでもあったと言えます。

 それに対して、イエス様は言われるのであります。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」(16‐17節)。

 ユダヤ人たちはイエスに敵対していました。それは、この福音書の5章にまで遡りますが、そもそもイエスが安息日に病人を癒したことから始まったのです。労働の禁じられている安息日に治療行為をした。いやそれだけでなく、癒された人に床を担いで歩くという「労働」をさせたことが彼らを怒らせました。それだけではありません。その後イエスが口にした言葉がさらに彼らを憤らせたのでした。イエスは神を「わたしの父」と呼んで、御自分を神と等しい者とされたからです。ゆえに彼らはイエスを憎んで殺そうとしたのです。

 表面的に見るならば、彼らは神に従うことを大切にしているのです。律法を守ることを重んじているのです。しかし、彼らが本当に守りたかったのは何なのか。イエス様には見えているのです。それは彼らの権威だったのです。律法を教え、律法を守らせる側にいる彼らの宗教的な権威なのです。彼らの関心は、神の御心を行うことにはない!だから「この方の御心を行おうとする者は…分かるはずだ」と言うのです。しかし、御心を行うことに関心がないと言うならば、それは彼らだけではないのです。既に見てきたように、それはイエスの弟たちにしても、群衆にしても同じです。

 では、ここにいる私たちはどうなのでしょう。――この福音書が書かれた頃の教会、迫害の中で、困難の中で、なおも集まって礼拝していた紀元一世紀の教会もまた、自らを問われたに違いありません。集まって「主の祈り」ささげてはいます。「みこころの天になるごとく、地にもなさせたまえ」と幾度となく祈ってきたはずです。しかし、本当に御心が地になることを求めているのか。そこに教会が用いられること、我が身が用いられることを、本当に求めているのか。――主は言われるのです。「この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである」。そして、神から出たものであることが分かるなら、どんなに困難であっても信仰に留まるはずでしょう。

 忘れてはなりません。このことを語っておられるのは、自ら命を捧げて御心を行おうとしておられた方なのです。ただひたすら御自分を遣わした天の父の御心を行うことを求めて生きられた方なのです。「わたしの時はまだ来ていない」(6節)と主は言われました。イエス様は明確なひとつの「時」へと向かっておられました。それはこの世の支配者となる「時」でもなく、この世の栄光を勝ち取る「時」でもありませんでした。それは私たちの救いのために十字架にかかられ、命を捨てられるその「時」だったのです。イエス様は明確な神の御心が行われるその「時」へと向かっておられたのです。そのように御心を行うために生きられた方がいて、今の私たちがいるのです。

 ここにいる私たちはどうなのでしょう。その御方を礼拝している私たちの心の中心にあるのは何なのでしょう。私たちは今、神を礼拝している者として、本来あるべきところに立ち帰りたいと思うのです。イエス様は「この方の御心を行おうとする者は…分かるはずである」と言われました。「御心を行っている者は」とは言っていません。「行おうとする者」すなわち「行うことを願う者」です。大事なのは、今、私たちの心の願いがどこに向いているかなのです。

(祈り)


2020年8月9日日曜日

「二つの招き、異なる結果」

箴言9:1‐6、13‐18

 今日の聖書箇所には、全く同じ呼びかけの言葉が二回出てきます。4節と16節です。「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい」。箴言を読んでいますと、この「浅はかな者」あるいは「浅はかさ」という言葉に繰り返し出会います。この言葉は、聖書全体で19回出てきますが、その内の15回は箴言に出てきます。箴言を理解する上で重要な言葉であることが分かります。

 「浅はかな者」と訳されている言葉は、もともと単純さを表す言葉で、「未熟な者」とも訳されます。成熟を必要としている、ということです。成熟を必要としているという意味では必ずしも年齢とは関係ないとも言えます。何歳になりましても、本当の意味で成熟した人間となることは、私たち皆の課題であるからです。その意味において、ここに書かれていることは、私たちすべての者に関係していると言えるでしょう。

 さて、そのような「浅はかな者」「未熟な者」に対して呼びかける二つの声があると本日の聖書箇所は教えています。聖書の表現によりますならば、二人の女性からそれぞれ呼びかける声を聞くのです。一人の女性は「知恵」といいます。もう一人の女性は「愚かさ」といいます。この二人の呼びかけは、どちらも未熟な私たちに対する成熟への呼びかけです。「浅はかな者(未熟な者)はだれでも立ち寄るがよい」と。しかし、呼びかけの言葉は同じでも、その二人の有様と、語る内容は全く異なっております。


異なる招き方

 第一に、その二人の「招き方」が異なります。

 「愚かさ」という女の方から見ていきましょう。彼女は「騒々しい女だ」と表現されています。箴言において「騒々しい女」という言葉は、あるイメージを伴っています。身持ちの悪いふしだらな女性です。今日の箇所に描かれている、「自分の家の門口に座り込んだり、町の高い所に席を構えたりして道行く人に呼びかける」のは、当時の遊女の姿です。彼女は直接的に身を現し、自ら声をかけるのです。

 そのような売春婦やふしだらな女の誘惑のように、「愚かさ」という女の呼びかけは直接的です。人間の理性的な思考にではなく、直接的な感覚に訴えます。人間の欲望に直接働きかけます。「愚かさ」の呼びかけは、しばしば非常に分かりやすく、魅力的です。ですから、その声に惹かれていく者も多いのです。

 一方、1節以下に描かれているように、「知恵」という女は直接人々と出会いません。彼女は家を建て、食卓を整えて待っています。本当の豊かさを用意して、そこに待っているのです。彼女は、自ら赴くのではなく、はしためを人々のところに遣わして呼びかけます。遣わされた者は、「知恵」の言葉を「知恵」に代わって伝えます。

 人々が目にするのははしためです。人々が耳にするのは彼女の言葉です。用意されているご馳走を直接目にするわけではありません。そのように、「知恵」の呼びかけは、直接的に感覚に訴えるものではありません。「知恵」の呼びかけは、「愚かさ」の呼びかけほど、魅力的なものとは感じられないかもしれません。ですから、聞いた者は、自ら良く考え、自分の意志をもって「知恵」を求めて「知恵」の家へと赴かねばならないのです。そうして初めて、その人は「知恵」とその用意したすべての豊かさに与ることができるのです。


異なるメッセージ

 そして、二人の「招き方」が異なるだけでなく、第二に、その二人の「呼びかけの内容」が異なります。

 「愚かさ」という女は意志の弱い者に言います。「盗んだ水は甘く、隠れて食べるパンはうまいものだ」(17節)と。「意志の弱い者」と訳されている言葉は、単に意志薄弱なだけでなく、理解力も欠落していることをも意味する言葉です。その時の感覚的なことだけに動かされ、事の結末についてまで、きちんと考えることができない、ということです。それもまた確かに「未熟さ」の現れに他なりません。そのような未熟な者に、「愚かさ」という女は、悪の魅力について語ります。そして、実際、口に甘く、そして美味しく感じるものなのです。

 そのような悪の甘さ、罪の美味しさを知ることが、成熟への道であるという呼びかけは、いつの時代にも聞かれるものです。「悪いことの楽しさを知ることが、大人になることなのだ」という声が聞こえてくるのです。実際、自分のやってきた悪事を自慢げに話し、それが酸いも甘いも噛み分けた人間になることだと吹聴する大人たちは、いつの時代にもいるのでしょう。そのようないわゆる「大人の世界」をさも魅力的に描く小説家がいます。そのようなテレビのドラマが放映されます。この時代にも、「愚かさ」という女の呼び声は、私たちの周りに響き渡っております。

 一方、「知恵」から遣わされた使者は、人々にこう呼びかけます。「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい」と。とはいえ、使者の手にパンはありません。酒もありません。人々の目に見せることができません。はしためはただ「知恵」の家を指し示します。そして、確かに、実に豊かな食卓が、既に準備されているのです。それはどんな人でも、どんな未熟な人でも連なることのできる、まことの命の祝宴です。そして、使者が伝える「知恵」の言葉を聞き、良く考えて、自ら求めて赴く者が、その豊かさに与るのです。


異なる結果

 そして、二人の「呼びかけの内容」が異なるだけでなく、第三に、その二人の呼びかけがもたらす「結果」が異なります。

 「愚かさ」の招きは魅力的です。悪の味わいは甘美です。それが人を成熟させるようにも見えます。しかし、聖書はそこでこう付け加えるのです。「そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれた者は深い陰府に落ちる」(18節)と。

 死霊は死の世界にいるものです。しかし、愚かさの招きに誘われて、罪の甘美さに人が酔いしれている時、その人のすぐ隣りには死霊がいるのです。つまり、その人は生きながら、既に死の世界にいるということです。生きながらにして既に死んでいるのです。ですから、行き着く先も死の世界です。深い「陰府」こそが、「愚かさ」の招きに従う人の行き着くところだと言うのです。

 一方、「知恵」の招きは6節へと続きます。この節は、原文では三つの命令文から成っています。「浅はかさ(未熟さ)を捨てよ!生きよ!分別の道を進め!」悪の甘さや罪の美味しさを体験することによってではなく、まことの「知恵」の養いによって人は成熟するのだと聖書は教えるのです。そこにこそ真に「生きる」道があるのです。そして、その人は「分別の道」すなわち、「知恵」と「愚かさ」を識別する者の道を進んで行くのです。


神の「知恵」であるキリストの招き

 さて、今日の聖書箇所に登場する「知恵」ですが、箴言においてはある特別な意味合いをもって語られています。例えば、8章において、この「知恵」が次のように語っているのです。「わたしはそこにいた、主が天をその位置に備え、深淵の面に輪を描いて境界とされたとき、主が上から雲に力をもたせ、深淵の源に勢いを与えられたとき、この原始の海に境界を定め、水が岸を越えないようにし、大地の基を定められたとき」(27‐29節)。少々分かりにくかったかもしれませんが、これは天地創造の話なのです。天地創造において、「わたしはそこにいた」と言っているのです。天地創造に関わっていたというのですから、この「知恵」とは天地を造られた神の「知恵」なのです。

 そして、天地創造に関わっていたこの「知恵」は、単に擬人化されて箴言の中に語られるに留まらず、実際に一人の御人格としてこの世界に現れてくださったのだと聖書は教えているのです。イエス・キリストこそ、神の知恵の完全なる現れなのです。この御方こそ、神の「知恵」として、命の糧を豊かに備えて、私たちを食卓へと招いてくださっているのです。私たちは、この御方のもとに来て、真の命に与るのです。

 とはいえ、ここに描かれているように、神の「知恵」なるキリストは、今日、直接人々に姿を現すわけではありません。使者を通して呼びかけるのです。そして、使者は、「知恵」と同一ではなく、「知恵」のはしために過ぎません。

 実際、キリストが遣わされた使徒たちは、キリストそのものではありませんでした。彼らは欠けに満ちた人間に過ぎませんでした。私たちが手にする聖書もまた、キリストを伝えるものですが、キリストそのものではありません。聖書は、この地上において、歴史の中で、人間の手によって書かれたという側面を持っています。同様に、教会も、牧師も、礼拝において語られる説教も、聖餐のパンも、キリストそのものではありません。キリストを指し示すはしために過ぎません。これらはこの世界の中にあり、この歴史の中に存在する、まことに粗末な欠けに満ちたものに過ぎません。

 しかし、そのような使者を通して、神の「知恵」なるキリストは、呼びかけておられるのです。この世界には、「愚かさ」という女の呼びかけだけが響いているのではないのです。確かにもう一つの声が響いているのです。「愚かさ」の語る言葉はしばしば魅力的です。しかし、私たちは「愚かさ」の声に従って、滅びへと向かってはなりません。キリストの声にこそ、聞き従わねばなりません。「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい、浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために」と、キリストは今も招いていてくださっているのです。

(祈り)


2020年8月2日日曜日

「すべての人と平和に過ごしなさい」

ローマの信徒への手紙 12:9‐21

愛には偽りがあってはなりません
 本日の第二朗読ではローマの信徒への手紙が読まれました。ここには具体的なキリスト者の生活についての勧めが、他者との関わりという観点から述べられています。「愛には偽りがあってはなりません」という言葉から始まりました。美しい言葉です。そして、これを否定する人はいないでしょう。しかし、偽りのない愛とはいったい何であるか、ということになりますと、その理解は様々であろうと思います。

 パウロが「愛する」という言葉をどのように理解していたかは、パウロがコリントの信徒に宛てた手紙の言葉を通して知ることができます。どうぞお聞き下さい。「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(1コリント13:4‐7)。

 これを読みますと、聖書が「愛」と呼んでいるものは、いわゆる「好きである」という感情的な事柄ではないという事が分かります。これが分からずに、「偽りのない愛とは、自分の気持に正直であることだ」と考える人は、「愛には偽りがあってはなりません」という聖書の言葉をも誤解することになります。それこそ「好きでもないのに忍耐しているなんて、それこそ偽りだ!」ということにさえなるからです。

 しかし、パウロは、「愛には偽りがあってはなりません」という言葉に続けて、「悪を憎み、善から離れず」と言っているのです。感情にのみ正直な人は、そのようにはなりません。「嫌いなものを憎み、好きなものから離れず」となるのでしょう。そもそも、嫌いなものを憎むことならば、赤ん坊だってできることです。真に困難なことは、悪そのものを憎むことです。

 多くの場合、人が憎んでいるのは悪ではなくて、悪人であったり、悪の結果としての悲惨な状況であったり、悪のもたらす苦しみであったりするものです。真に悪そのものを憎み、悪が取り除かれることを願い、そこに神の御心が成ることを求めるならば、そこには忍耐が必要とされます。真の寛容さ、情け深さが必要とされます。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐えるということが必要とされるのです。すなわち、偽りのない愛が必要とされるのです。

 続けてパウロは言います。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(10節)。「兄弟愛」という言葉は、私たちが一つの家族の中にいることを前提としています。神を父と呼ぶ神の家族です。しかし、そこで求められているのは単に仲の良い家族のように互いに親しくなることではありません。兄弟愛において大切なことは「互いを優れた者と思い、尊敬することだ」とパウロは言うのです。確かに考えて見ますならば、境界線のない親しさよりも、距離があるように見えながらも互いに尊敬し合い、互いを重んじて生きることの方が、共に生きる関係においては重要であるに違いありません。

 そして、「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(11‐12節)と勧められています。心が燃えていることと「霊に燃えて」いることとは異なります。様々な心理的要因によって心はいくらでも燃えるものです。人々の称賛によって心は燃えます。共通の敵に対して団結することによっても心は燃えるのです。 しかし、「霊に燃える」という表現は、これが聖霊によることを意味しています。それは神によるのです。

 心が燃えているだけならば、やがて消えていきます。状況が変われば、熱心さは失われます。称賛されなければ、倦み疲れます。怠惰になります。その時、人は心の情熱に仕えていただけで、主に仕えていたのではないことが明らかになります。それゆえに、パウロは「主に仕えなさい」と言うのです。そして、本当の意味で「主に仕えて」いるのなら、その人は、希望をもって喜び、苦難を耐え忍ぶことができるのでしょう。その希望と忍耐は人からではなく、神から来ているからです。それは、ここにあるように、たゆまぬ祈りにおいて初めて可能となるのです。

すべての人と平和に暮らしなさい
 さらに14節以下をごらんください。ここには様々な勧めの言葉が混在しておりますが、中心にあるのは17節の御言葉です。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」。そして、「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(18節)という言葉が続きます。今日の説教題はここから取りました。

 相手の側を問題にしている限り、「すべての人と平和に暮らす」ことは不可能でしょう。私たちは常に善意に囲まれているわけではありません。常に好意的な人に囲まれて生きているわけではありません。悪意をもって対して来る人もいるのです。それゆえに、相手がどうであるかではなく、私たちはどうするのかということが重要になってくるのです。それゆえにパウロは「せめて《あなたがたは》」と言うのです。相手がどうであるかではないのです。

 そうしますと、この言葉は冒頭の「愛には偽りがあってはなりません」という御言葉と深く関わっていることがわかります。「愛には偽りがあってはなりません」という言葉に続いていたのは「悪を憎み」という言葉であったことを思い起こしてください。悪に悪を返しても、悪そのものに勝つことにはならないのです。悪人には勝てるかもしれません。しかし、悪そのものには敗北することになるのです。そして、悪そのものに勝てないのなら、そこに本当の平和はないのです。

 ですから、パウロは「愛する人たち」と呼びかけて、「自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(19節)と勧めるのです。自分で復讐することは、どれほど正当な理由を伴うものであっても、真に正しい神の聖なる怒りとは一つになれないのです。私たちの罪深い怒りが勝利した時、実はその時点で悪そのものには敗北していることになるのです。

 だから神に任せなさい、と言うのです。怒りは神に任せて、私たちの為すべきことは愛することだ、と言うのです。問題は相手がどうであるかではありません。私たちがどうあるかということです。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と聖書は語るのです。

偽りのない神の愛
 しかし、それにしても、なんと困難な戦いに召されていることでしょう。「「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。しかし、これが「愛する」という戦いなのです。「愛には偽りがあってはなりません」と言われている、その戦いなのです。「できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」と言うけれど、それは愛するという困難な戦いによらなければ実現しないのです。それに比べるならば、怒り憎しみを抱きながら悪人と戦う方が、よほど易しいことなのでしょう。

 しかし、だからこそ私たちはこれを書いているパウロと同じ方向を見ながら、この御言葉を聞かなくてはならないのだと思うのです。「愛には偽りがあってはなりません」。この「愛(アガペー)」という言葉は、実は、この手紙のここに至るまで、人間の愛については用いられていないのです。いつでも神の愛なのです。キリストにおいて現された神の愛なのです。その神の愛にパウロは目を向けつつ、これを語っているのです。

 思い起こしてください。神は私たちの「悪」を憎まれました。そして、「私たち」を愛してくださいました。罪と悪を憎みつつ、罪人である私たちを愛するゆえに、その愛は限りない忍耐と苦悩を伴う愛でした。神は罪そのものを憎まれるゆえに、私たちを裁いて滅ぼされるのではなくて、キリストの十字架において罪そのものを処断され、そして私たちを赦してくださいました。キリストは「敵を愛せよ」と私たちに言われましたけれど、まず敵対している私たちを愛してくださったのは、神様御自身でした。その愛によって十字架は立てられたのです。

 あの十字架に私たちは何を見ますか。私たちはそこに罪に対する神の限りない憎しみを見るのです。しかし、同時に、私たちに対する神の限りない愛と憐れみを見るのです。ここに書かれている言葉はきれい事でも何でもありません。キリスト御自身が肉を裂き、血を流して、それこそ罪そのものとの血みどろの戦いをもって示してくださった愛なのです。神は罪人に勝ったのではなく、罪に勝って、私たちを御自分のものとして獲得してくださったのです。

 生来の私たちに、この「偽りのない愛」がないことを知ることは大切です。自分のうちにないことを知らない人は求めないからです。私たちがキリストに目を向ける時、その神の愛(アガペー)が、私たちの愛となるようにとの祈りが生まれます。その祈りによって初めてキリスト者の日常生活は正しく方向付けられるのです。

 そして、神は私たちの祈りに答えてくださることでしょう。パウロはコリントに宛てた手紙に次のように記しています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。実に、偽りのない愛は、聖霊の結ぶ実りに他ならないのです。





(祈り)

2020年7月26日日曜日

「わたしは主、あなたの神」

イザヤ書 43:1-7

目の見えない人よ、よく見よ
 今日は43章の冒頭をお読みしました。しかし、今日の箇所はその前の42章に続いています。42章18節以下にはこう書かれています。「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ。わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。わたしが遣わす者ほど耳の聞こえない者があろうか。わたしが信任を与えた者ほど目の見えない者、主の僕ほど目の見えない者があろうか。多くのことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに、何も聞こえない」(42:18‐20)。

 ここで「わたしの僕」とか「主の僕」と言われているのはイスラエルの民のことです。時代は紀元前六世紀。この預言者の言葉を聞いていたのは、バビロニア軍によって祖国を滅ぼされ、バビロンに捕らえ移されて捕囚となっていたイスラエルの民です。深い悲しみを味わっていた人々です。

 捕囚と言いましても、奴隷にされていたわけではありません。住む場所が与えられ、家を建て、家庭を営むことが許されていた。普通の生活はできたのです。しかし、彼らの内には深い闇がありました。彼らがしばしば耳にした言葉が詩編に出てきます。「お前の神はどこにいる」(詩編42:4)という言葉です。イスラエルの民を嘲って戦勝国の人々が言うのです。「お前の神はどこにいる」と。

 そのようなバビロニアの支配が何十年と続いたのです。「お前の神はどこにいる」と言われれば、自分たちも考えざるを得ないでしょう。「私たちの神はどこにいる」と。「なにゆえ私たちは異国の民に支配されたままなのだ。主はどこにおられるのだ」。そして、こう考えたに違いない。「私たちの神、主がいたとしても、主は目が見えないのではないか。主は耳が聞こえないのではないか。」――長い苦しみが続いているのです。そのような嘆きの声があがったとしても不思議ではないでしょう。

 しかし、主は預言者を通して、そのような人々に言われるのです。「目の見えないのはどちらだ。耳が聞こえていないのはどちらだ。お前たちの方ではないか」と。「耳の聞こえない人よ、聞け。目の見えない人よ、よく見よ」というのは、そういうことです。人々の嘆きを聞きながら、実は主が嘆いておられるのです。「多くのことが目に映っても何も見えず、耳が開いているのに、何も聞こえない」と主が嘆いておられるのです。

 いったい彼らは何を見なくてはならないのでしょう。何が見えていないのでしょう。聞こえていないのでしょう。預言者はこう言うのです。「あなたたちの中にこれを聞き取る者があるか。後の日のために注意して聞く者があるか。奪う者にヤコブを渡し、略奪する者にイスラエルを渡したのは誰か。それは主ではないか、この方にわたしたちも罪を犯した。彼らは主の道に歩もうとせず、その教えに聞き従おうとしなかった」(42:23‐24)。

 そうです、今こそ見なくてはならないのです。聞かなくてはならないのです。この惨めな捕囚という現実をもたらしたのは、他ならぬ神なのです。ならば、ただ嘆いているだけでは何も始まらないのです。神の御前で、自らの罪を認めなくてはならないのです。「わたしたちは罪を犯した。わたしたちは聞き従おうとしなかった」と。すべてはそこから始まるのです。

あなたはわたしのもの
 そこで、今日お読みした43章に入るのです。自らの罪を認めた、悔いし砕かれた魂にこそ、主はこう語られるのです。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」と。

 「贖う」とは「買い戻す」ということです。借金などの理由で奴隷になった者が自由になるには、その親族が代価を払って彼を買い戻さなくてはなりませんでした。「贖う」とはそういうことです。贖うのは解放するためです。主は彼らに捕囚からの解放を告げたのです。

 しかし、本当に喜ばしいことは、解放されること自体ではありません。それよりももっと大きなことが語られているのです。主は言われるのです。「あなたはわたしのものだ」と。これこそまさに福音です。神に対して罪を犯した者に対して、神に聞き従おうとはしなかった者に対して、それでもなお神は言われるのです、「あなたはわたしのものだ」と。

 しかも主は3節でこう言われるのです。「わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。」主は、ここで大国エジプトをはじめクシュやセバまで《贖いのための代金》とすると言っておられます。それは要するに「あなたをわたしのものとするためなら、どんな大きな代価だって払う」ということです。

 神に背いた者たちに対して、どうしてそこまでなさるのでしょうか。私たちだったら、ゴミは捨てるのでしょう。汚れたものは捨てるのでしょう。それなのに、主は罪に汚れた者を、どうして捨てないのでしょうか。――そこで主は言われるのです。「わたしの目にあなたは価高く、貴いからだ。わたしはあなたを愛しているからだ」と。それが今日お読みした箇所に書かれていることです。

 主はかつて御自分に背いたイスラエルに対してこう語られました。しかし、そのような主の心はただイスラエルに対してのみ向けられたものではありませんでした。そうです、主の目に高価で貴いのは、イスラエルの民だけではないのです。イエスという御方がこの地上に現れた時、神はこの世に対して、「あなたをわたしのものとするためなら、どんな大きな代価だって払う」と言われたのです。そう言って神は独り子をさえ惜しまずに十字架にかけられたのです。

 それは神に背いたこの世のためだったのです。私たちのためだったのです。私たちを御自分のものとするために、独り子の命を支払われたのです。「あなたに背いてきた私のために、あなたはどうしてそこまでなさるのか。」あなたがそう問うならば、主は同じようにこう答えられるでしょう。「わたしの目にあなたは価高く、貴いからだ。わたしはあなたを愛しているからだ」と。

 そのように私たちを貴い存在として見て、贖ってくださる方が「恐れるな」と言われるのです。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。」今日もキリストの十字架のもとに集められた悔いし砕かれた魂に、主はそう語りかけておられるのです。

わたしはあなたと共にいる
 そして、主はもう一度「恐れるな」と言われます。「恐れるな、わたしはあなたと共にいる」(5節)と。主は2節でもこう言っておられました。「水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」(2節)。

 「あなたを贖う。あなたはわたしのものだ」と言われる主は、共に歩んでくださる神様です。「あなたはわたしのものだから水の中を通るようなことはない。火の中を歩くようなことはない」とは言われないのです。そうではなくて、たとえ水の中を通ったとしても、火の中を歩くようなことがあったとしても、わたしはあなたと共にいる、と言われるのです。

 時代はバビロニアの支配からペルシャの支配へと移り変わって行きました。そして、ペルシャの王キュロスにより、捕囚の民はエルサレムに帰還し都を再建することを許可されたのです。確かに解放の時が来たのです。もし主によって贖われたことを信じるなら、罪が赦されたことを信じるなら、今こそ一歩を踏み出し、主と共に歩み出す時なのでしょう。背いてきた者であるにもかかわらず「わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛している」と語られていることを本気で信じるなら、主に贖われた者として、主のものとして歩み出すべき時なのでしょう。

 しかし、主と共に歩むということは冒険でもあります。信仰をもって生きるということは冒険なのです。水の中を通ることになるかもしれません。かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が、水の中を通されたように。あるいは火の中を歩くような、厳しい現実が待っているかもしれません。実際、バビロンを出て廃墟となっているエルサレムへと向かうならば、その先に多くの困難が待ち受けていることは火を見るより明らかだったのです。

 しかし、主はそのただ中において共におられると言われるのです。主が共におられるならば大丈夫なのです。恐れる必要はないのです。「恐れるな」と主は言われる。大事なことは一つだけです。「わたしはあなたと共にいる」と言われる主に従うことなのです。離れることなく、信頼してどこまでも従っていくことなのです。

 「恐れるな、わたしはあなたと共にいる。」かつて主は捕囚の民にそう語りかけられ、主と共に歩む新たな一歩へと導かれました。そして、同じ言葉が、イエス様を信じる私たちにも与えられているのです。私たちを贖うために十字架にかかられたイエス・キリストは、復活して後、こう言われたではありませんか。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)。そうです。私たちもまた、この御方と共に歩んでいくのです。実際、不安に満ちた時代です。いつ水の中を歩くことになるか分かりません。いつ火の中を歩くことになるか分かりません。しかし、主は「恐れるな」と言われる。ならば、私たちは、恐れることなく、この御方を信じて、どこまでも従っていくのです。
(祈り)

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