サムエル記上 24:1~23
ダビデはマオンの荒れ野で九死に一生を得て、そこから死海のほとりのエン・ゲディに移りました。洞窟の多いその地域が、600人の兵士と共に身を隠すのには適切であると判断したのでしょう。ところが、すぐにサウルの耳に「ダビデはエン・ゲディの荒れ野にいる」との密告情報が届けられます。サウルは選りすぐった三千の兵を率い、ダビデとその兵を追って「山羊の岩」付近に向かいました。
ダビデと兵士らは、サウルの軍隊が接近していることを知ると、羊の囲い場近くの洞窟に身を隠しました。彼らは、おびただしい数のサウルの兵士らが彼らに気づくことなく通り過ぎて行くことだけを、ひたすら願っていたに違いありません。しかし、サウルの軍隊の行軍の足音は次第に大きくなってきます。彼らが隠れている当の洞穴の方に進んで来ていることは明らかでした。そして、まさにダビデの隠れていた洞窟の前で、行軍の足音が止まったのです。
そこに潜んでいたダビデと兵士たちにとっては絶体絶命の危機でした。ここで発見されたなら、もはや逃げおおすことはできません。正面から戦っても勝ち目はありません。皆殺しとなることは免れないでしょう。ダビデたちが洞穴の奥で極度の緊張のもと息を潜めている様子が、目に浮かぶようではありませんか。
やがて洞窟の中に人が入ってきました。それは兵士ではありませんでした。なんと、それはサウルであり、しかも従者もなく、彼一人で入ってきたのです。入ってきたのは洞穴の中を調べるためではなく、用を足すためだったのです。
その時、ダビデの兵が言いました。「主があなたに、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。思いどおりにするがよい』と約束されたのは、この時のことです」(5節)。つまり「この絶好の機会にサウルを殺すべきだ。それが神の御心だ」と言っているのです。ダビデの兵士たちがこのように強く勧めたのも無理はありません。これはダビデだけの問題ではなかったからです。ダビデと共にいる者全員が命の危険にさらされているのです。
もちろん、ダビデもまた、これが彼だけの問題ではないことを知っています。かつてダビデのためにノブの町全体が滅ぼされた忌まわしい記憶も頭によぎったに違いありません。ダビデは促されるままに、気づかれないようにサウルに近づいていきます。しかし、ダビデはサウルに手をかけることなく、ただ上着の端を切り取っただけで戻って来たのでした。
兵士たちの驚きの眼差しをよそに、ダビデは兵士たちにこう言いました。「わたしの主君であり、主が油を注がれた方に、わたしが手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ」(7節)。もちろん、ダビデがやらぬなら自分が、と言って出て行こうとする者もいたことでしょう。しかし、ダビデは彼らを説得して、サウルを襲うことを許しませんでした。
ダビデの兵は「わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す」という主の言葉を引き合いに出しました。この言葉そのものは聖書に記されていません。ダビデに対してどこかで与えられた預言の言葉なのでしょうか。いずれにしても重要なことは、ダビデにとってサウルは、ダビデの命を狙っている者ですが、ダビデの「敵」ではなかった、ということです。サウルは主に油を注がれた王なのです。たとえ主がサウルを王位から退けられ、やがてダビデが立つにしても、まだその時には王なのであり、その任職は人の選出に基づいているのではないのです。
ダビデがサウルを殺さなかったのは、ダビデが人並みはずれて寛容だったからではありません。神を畏れていたからです。それ以外の何らの理由もありません。22章でサウルが、神によって油注がれ任職された祭司たちを殺したのと対照的です。あの時、神を畏れる家臣たちは、手を下して祭司たちを討とうとはしませんでした。
このように、神への畏れは単に感情的なことや観念的なことではありません。表面的な敬虔さや神妙な顔つきのことでもありません。人は宗教的な振る舞いによって神への畏れをいくらでも演出することができるのです。しかし、本当に神を畏れているか否かは、現実にどのような選択や決断をするかということに現れるのです。
それは、ダビデに見られるように、時として生死を左右する選択であったり決断であったりするのです。それは真に神を神として重んじるのか、真にすべての上にある権威として服するのか、また真にその御手に自らを委ね信頼するのかが問われる、具体的な事柄なのです。
さて、サウルが洞窟を出ると、ダビデは後からついて出て、サウルに背後から声をかけました。そして、自分がサウルを殺せる状況にありながら殺さなかったことを告げました。彼は上着の端を見せて言います。「わが父よ、よく御覧ください。あなたの上着の端がわたしの手にあります。わたしは上着の端を切り取りながらも、あなたを殺すことはしませんでした。御覧ください。わたしの手には悪事も反逆もありません。あなたに対して罪を犯しませんでした」(12節)。
しかし、ダビデの目的は、寛容を示してサウルの態度を変えることにはありませんでした。これはダビデの、いわゆる「太陽政策」ではないのです。ですから、ダビデは公然と神がサウルを裁かれることを求めます。「主があなたとわたしの間を裁き、わたしのために主があなたに報復されますように。わたしは手を下しません」(13節)。
ここには、いわゆる復讐の詩編などに見られるのと同じモチーフが現れています。詩編には復讐を求める言葉が散見します。その言葉に抵抗を覚えたり、問題を感じたりする人は少なくありません。しかし、そのような人は往々にして、一番重要なことを見落としているのです。それは、自ら手を下そうとはしていないということです。報復は神にゆだねているのです。ちょうどダビデが、「わたしは手を下しません」と言っているようにです。それは神への畏れと信頼に基づいているのです。
私たちはしばしば他者を「心から赦せているか」「心から受け入れているか」を問題にします。それも大事なことでしょう。しかし、ここでダビデはそんなことを問題にしてはいないことを心に留めてください。もっと大事なことがあるのです。それは「最終的に裁きと赦しの権威を持っておられる神を、本当に畏れているのか」ということなのです。
サウルはダビデの言葉を聞いて、声をあげて泣きました。そして言います。「お前はわたしより正しい。お前はわたしに善意をもって対し、わたしはお前に悪意をもって対した。お前はわたしに善意を尽くしていたことを今日示してくれた。主がわたしをお前の手に引き渡されたのに、お前はわたしを殺さなかった」。
しかし、残念ながら、サウルは問題の本質が分かっていません。これは悪意と善意の問題ではないのです。神を畏れているか否かの問題なのです。サウルはダビデに悪意をもって対していたのではなくて、神を畏れず、神に敵対していたのです。ダビデはサウルに対して善意を示したのではなくて、神を畏れたのです。そして、神に信頼し、裁きを神に委ねたのです。
さらにサウルは言います。「今わたしは悟った。お前は必ず王となり、イスラエルの王国はお前の手によって確立される」。サウルは悟ってはいません。サウルが見ているのは、ダビデの驚くべき行為です。サウルはそこに王となるべき人物を見ただけなのです。しかし、ダビデが王となるのは、その人となりの故ではありません。神がそう定めたのです。王国が確立されるのは、人によってではなく、神によることであることを、サウルは最後まで悟らないのです。ですから、彼はダビデが王となるべき人であると言いながら、26章で再びダビデを抹殺しようとするのです。神によることを悟らないからです。
サウルは涙を流して自らの行いを悔いました。しかし、悔いることと悔い改めることとは異なります。涙を流して悔いたとしても、悔い改めない人はたくさんいます。悔い改めるとは神に立ち帰ることです。サウルはダビデに対する悪意を認めましたが、神に対する反逆を認めていません。ゆえに、「今日のお前のふるまいに対して、主がお前に恵みをもって報いてくださるだろう」などと言うのです。
神に対する罪を認めなければ、神に立ち帰ることはできません。結局、サウルは自分の館に帰って行き、ダビデとその兵は要害に上って行きました。これは、サウルが悔いたことが、彼らの関係を本質的には変えなかったことを示しています。そうです。神との関係が変わらなければ、本質的には何も変わってはいないのです。