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2025年3月9日日曜日

「試練のただ中で神の善意を信じること」

2025/3/9 主日礼拝説教

聖書:ヤコブの手紙 1:9-18

 今日の第2朗読はヤコブの手紙1章9節からでした。その直前に書かれていることはすべて「試練」ということに関係しています。2節から8節までは一つのまとまりなのですが、その部分は、「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」という言葉から始まっているのです。

 当時のキリスト者にとって、具体的に最も身近な試練と言えば、それは「迫害」であったと言うことができます。しかし、「いろいろな試練」と書かれているところを見ますと、ヤコブが念頭に置いているのは、もっと広い意味での様々な苦難であろうと思われます。

 さて、そのような試練を「喜びと思いなさい」と書かれているわけですが、それは明らかに信仰を前提として勧めです。この世と同じ見方をしている限り、「試練」が「喜び」になるはずはないのですから。「試練」を喜ぶことができるとするならば、そこには神の御心を見出すことができる「知恵」が必要なのです。この世の「知恵」とは異なる「知恵」が必要なのです。

 ですから、その後には、「あなたがたの中で知恵に欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」と勧められているのです。そこで言及されている「知恵」とは、明らかにこの世から来る「知恵」ではなく、神から来る「知恵」の話です。そして、この内容は、直接的には今日お読みした12節へと続くのです。

貧しい者、富める者
 ちなみに、9節以下の部分は、ちょうどその間に挟まれているような形で書かれています。そこには、貧しい兄弟と富んでいる者について書かれているのです。ここを読んでどう思われますか。一見すると、前後とは全く脈絡がないように見えないでしょうか。実際、この部分をスポッと抜いても、話は通じるのです。いったいなぜここで、突然、貧富の話が出てくるのでしょう。

 その一つの理由として考えられることは、現実にこれを読んでいる教会の中に、貧富の問題があったということです。初期の教会を構成していたメンバーの多くは貧しい人々でした。奴隷の身分であった人も少なくありませんでした。しかし、貧しい人たちだけがいたのかと言えば、決してそうではありません。そこにはまた富んでいる人々もいたのです。奴隷とその主人が、主にある兄弟として、一緒の食卓を囲んでいるようなことも起こっていたのです。

 経済的格差による身分の違いというものが厳然として存在していた当時の社会において、奴隷とその主人が一緒に食事をしているというようなことは、常識的には絶対にあり得ないことだったのです。しかし、教会にはそのあり得ないようなことが現実に起こっていた。それ自体が、まさに神の救いの御業の証しでもあったのです。

 しかし、地上にある教会は完全ではありません。それゆえに、そこにまた貧富の問題、差別の問題が生じることもあったのです。そのような事情はパウロの手紙にも見られます。そして、同じように、このヤコブの手紙においても、後に大きな部分を裂いて、その問題が扱われているのです。ここで貧富の話が出てくるのは、後に扱われる問題に、前もって触れておくという意味もあったのでしょう。

 しかし、理由はそれだけではありません。あえて「試練」の話の中に置かれているのは、ここに書かれていることが「試練」に関係しているからです。実際、「試練」というテーマは、貧しい者にも富める者にも関係しているのでしょう。

 貧しい者の苦しみの多くは欠乏から来ます。あるいは「貧しい者」と訳されているこの言葉は、直訳すると「身分が低い者」という言葉ですから、他者から見下されたり、卑しめられたりすることも含まれているのだと思います。しかし、そのような貧しい者に対して、「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい」と言われているのです。

 ここで「高められること」と訳されていますが、これは必ずしも未来のことを意味する表現ではありません。口語訳ではむしろ「自分が高くされたこと」と訳されています。もっと直訳に近いのは、「自分の高い身分」と訳している新改訳聖書です。「貧しい兄弟は、自分に与えられている高い身分を誇りに思いなさい」と言われているのです。

 ここであえて「貧しい《兄弟》は」と言われているのは、どんなに貧しくても、この世において身分の低い者であっても、あくまでも「兄弟」であることが強調されているということです。つまり神の家族に属しているのです。つまり、互いに兄弟であると同時にキリストの兄弟でもあるのです。神の子とされているのです。

 それは、王の王、主の主である方の家族とされていることを意味します。ある説教者が言っていました。「あなたたちは神の国の王女であり王子なのですよ!」と。まさにその通りなのです。既に、この上なく高貴な者とされているのです。この世における貧しさや身分の低さではなく、神によって与えられているその驚くべき事実に目を向けなくてはならない。そのことを喜び、そのことを誇れ、とヤコブは言っているのです。

 一方、富んでいる者の苦しみは、失うことへの恐れから、あるいは実際に失うことから来るものなのでしょう。事実、当時のキリスト者は、財産を没収されることも少なくなかったのです。キリスト者となったために全財産を失い、名誉も失い、人々から卑しめられるようになることもあったのです。そのようなことは、それまで人々からの誉れを受けてきた人にとっては実に辛いことであったに違いありません。しかし、「富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい」とヤコブは言うのです。なぜか。「富んでいる者は草花のように滅び去るからです」(10節)。

 これは必ずしも富んでいるから裁きを受けるという話ではありません。富は永遠ではなく、永遠に富んでいる者であり続けることはできない、という至極当たり前のことを言っているのです。いわば草花のようなものだと言われれば、それはそうでしょう。草は枯れ、花は散るときが来るのです。そして、富める者も必ず死を迎えます。富は死を免れさせはしません。続くと思っている人生は途中で絶たれるのです。そして当然のことながら、富をその向こうまで持って行くことはできません。全部手放すことになるのです。

 富んでいる者が低くされることを「誇る」とするならば、富が永遠ではなく草花のようなものだということを、身をもって知ることになるからでしょう。そして、もっと大きな価値、天の富に目を向ける者となれるからなのです。

神の善意を信じる
 さて、そのように貧しい者、富んでいる者の話を経て、12節において再び「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」という話に戻ります。なぜ幸いなのか。4節においては、その理由として、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と語られていました。そして、ここでは同じことが、次のように表現されています。「その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」と。

 「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と書かれていました。そのように「なりなさい」と言われているわけではありません。それは人間の努力目標ではありません。救いを完成し、私たちを完全な者としてくださるのは神様です。人間にできることは、ただ忍耐することだけです。だから、「あくまでも忍耐しなさい」(4節)とだけ、語られているのです。

 そして、今日の箇所においても「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と語られているのです。4節の「忍耐」という言葉も、12節の「耐え忍ぶ」という言葉も、元々は「留まる」という言葉に由来します。信仰に留まることです。言い換えるなら、試練において、どこまでも神に信頼し続けることです。

 それゆえに、「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはならない」(13節)とヤコブは続けるのです。簡単に言えば、「神様が悪い」と言ってはいけない、ということです。苦しい時、辛い時、どうしても言いたくなるかもしれません。「私が神様を離れて罪を犯したとしても、それは神様が悪いんだからね」、と。苦しみが誘惑として働くとき、そう言って自分が罪を犯すことを正当化したくなるかもしれません。しかし、それは「神が罪へと誘惑したんだ」と言っているのと同じなのです。

 しかし、ヤコブはそうではないと言うのです。そこで罪へと引っ張って行くのは、神ではなく自分の欲望だと。それはそうなのです。同じ苦しみが「誘惑」にもなるし、忍耐から練達を生じさせる「試練」ともなる。神の意図は私たちを滅ぼすことではありません。私たちはそこで、忍耐強く信仰に留まることが求められているのです。

 そこで大切なことは、神の善意を信じることです。「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません」とヤコブは言います。そして、こう続けるのです。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」(17節)。

 御父は、良い贈り物をくださる御方です。良いだけでなく、「完全な賜物」と書かれています。御父がくださる賜物は完全です。神様は不完全なものを私たちにくださることは決してありません。この地上の父親は子どもに与えるものについて失敗することはありますが、天の御父が私たちにくださるものに、失敗はありません。

 そして、その御父は決して変わることはありません。イエス様を通して示された神の愛は、今日においても決して変わらないのです。天体には移り変わりがあります。変化があります。影があれば光が当たる部分もあり、それは刻一刻と変わります。しかし、御父は違います。神の善意は変わりません。その善意に満ちた御心によって、御父は真理の言葉を私たちに与え、新しく生まれさせてくださいました。私たちを神の国の初穂としてくださいました。私たちがキリスト者であるとはそういうことです。

 この賜物こそまさに完璧な賜物です。私たちには、既に全き救いが与えられているのです。私たちは既に与えられているものが完全に現れるのを待っているのです。忍耐強く信仰に留まりましょう。

2022年11月27日日曜日

「農夫のように忍耐強く、実りの時を待ち望む」

ヤコブの手紙 5:7‐11

●主が来られるときまで忍耐しなさい
 「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」(ヤコブ5:7)と語られていました。今日の箇所において語られておりますこの「忍耐」は、「試練」ということを背景として語られております。この手紙の一章を読みますと、例えば「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(1:2)、「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」(1:12)ということが語られております。

 この試練が、具体的にどのような状況を意味するのかは定かではありません。恐らく、教会に対する迫害を彼らは経験していたことでしょう。あるいは、富める者や権力者たちによる抑圧に苦しむ貧しい人々がいたことでしょう。いずれにせよ、ここで「いろいろな試練」と書かれておりますから、その具体的状況は一つではなかろうと思います。実に様々な場面において、信仰者はその信仰が問われます。試されるのです。この世はキリストを主とし王として従っている世界ではありません。その中において、キリストに従って生きようとするときに、ありとあらゆる事柄が、信仰の試練となり得ます。その点においては、ヤコブの手紙の時代も現代も変わりません。

 そのような「試練」を背景として「忍耐しなさい」と語られております。ところで、新約聖書において「忍耐」と訳される言葉は一つではありません。大きくは二通りに分かれます。一つは「留まる」という言葉に由来します。どんな困難があろうとも、今置かれた状況下にあえて留まること。それを「忍耐」と言います。有名な箇所としては、例えば、「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3-4)というパウロの言葉が挙げられます。そこで語られている「忍耐」とは、「留まること」です。

 しかし、もう一つの「忍耐」があります。それは「留まること」というよりも、「待つこと」と関係しています。今日読まれた7節で用いられている「忍耐」という言葉はもともと「気を長く持つ」ことを意味する言葉なのです。

 試練は永遠ではありません。すべての試練には終わりがあります。そのことを知っている人は、試練の中で耐え忍んで待つことができます。試練の向こう側を考えることができます。私たちは、その終わりを聖書において教えられております。私たちが信じるキリストの再臨こそ、究極的にはすべての試練の終わりです。

 もちろん、それは裁きの時でもあります。この世と一つになり、神に敵対しているならば、キリストが到来するその時は、世と共に裁かれる時となるでしょう。しかし、神を愛し、キリストを主とし、その御体に連なり、主を待ち望んでいる者にとっては、まさにキリストの再臨こそ最終的な希望であり、神の報いの時であり、試練の終わりの時に他ならないのです。ですから、ここで「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」(7節)勧められているのです。

 それは農夫が忍耐強く実りの時を待つのと同じです。農夫は待つことを知っています。農夫は実りの時までにはプロセスがあることを知っています。種まきの直後に秋の雨が降ります。そして、実が熟す直前に春の雨が降ります。この定められた時を経なくては実りを見るに至りません。実りをすぐに見られないからと言って、畑を投げ出してしまう愚かな農夫はいないでしょう。彼が待つのは、実りの時が来ることを知っているからです。だから忍耐しながら待つのです。

 それは信仰においても同じです。様々な試練は、人に信仰を投げ捨てさせ、神から引き離す誘惑ともなります。だからこそ、その誘惑に屈してはならないのです。ゆえにヤコブは「心を固く保ちなさい」と勧めます。主が定められた終わりの時まで、心を保ち、忍耐しつつ備えて待たねばならないのです。

●互いに不平を言わないように
 そして、次に、「兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです」(9節)と勧められています。実は、この手紙を含め、言葉に関する勧めや戒めは少なくありません。人間の舌というものの恐るべき力をヤコブは既に3章で語っています。

 「ご覧なさい。どんなに小さな火でも大きい森を燃やしてしまう。舌は火です。舌は『不義の世界』です。わたしたちの体の器官の一つで、全身を汚し、移り変わる人生を焼き尽くし、自らも地獄の火によって燃やされます」(3:5‐6)。そして、「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出て来るのです。わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」(3:9‐10)と彼は言います。さらに、4章で、「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません」(4:11)と勧めているのです。

 なぜ言葉についてヤコブが繰り返し語るのかは分かるような気がします。試練の時には、舌を制御することが、困難になるからです。苦しみや困難が、私たちを不平や不満で満たしてしまうということを、私たちはしばしば経験いたします。かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が、荒れ野の旅の苦しさの中で、繰り返し不平や不満をつぶやいたのと同じです。

 普段は穏やかに語れるのに、困窮している時には同じように語れなくなります。普段なら全く気に留めないであろう他人の言動が、妙に気に障るようになる。そのような経験はありませんか。しかし、普段ならば気にならないということは、本当の問題は他人の行為や言葉ではなくて、こちらの状態にあるのです。にもかかわらず、往々にして問題は相手にあると私たちは思い込んでしまうのです。

 その結果、悪口や不平が舌という器官を通して言葉となって外に現れるようになります。教会が外からの迫害と圧迫を受けた時、本当の危機は実は外にではなく、内にありました。教会に不平や不満の言葉が満ちるならば、それは確実に教会の交わりを腐らせていくに違いないからです。崩壊は外からではなく内側から起こります。もちろん、試練のもとにあった当時のキリスト者たちには、互いに解決しなくてはならない問題がたくさんあったに違いありません。しかし、不平や不満が互いの関係を建て上げ、教会を建て上げる力となることは絶対にないのです。

 そこで私たちは何を考えねばならないのでしょうか。ヤコブは続けてこう言います。「裁く方が戸口に立っておられます」(9節)。終末におけるキリストの再臨を空間的に表現するとこうなります。キリストが戸口に立っておられます。そして、ある瞬間に、キリストが戸を開いて入ってこられるのです。そこで、キリストは何を耳にするのでしょう。私たちの言葉です。私たちが今しがたまで語っていた言葉です。いや、もう既にキリストはずっと聞いておられたのです。戸口におられたのですから。

 私たちはそのことを知る時、同じことを語り続けることができるでしょうか。不平を言う時には、自分が正しいと思っているものです。その言葉を、裁く方、すなわち再臨のキリストを前にしても、なお語り続けることができるならば、キリストが来ておられない今、口にすることに何ら問題はないでしょう。しかし、本当に主の前でそう言えるだろうか、ということを一度は考えてみなくてはなりません。その意味においても、再臨のキリストを、戸口に立っておられ、今まさに入って来ようとしておられるキリストとして思い描くことは、私たちにとっても大事なことです。

●預言者たちを忍耐の模範としなさい
 そして、再び話は忍耐のことに戻ります。「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい」(10節)。旧約聖書に見る預言者たちの姿を考えて見ましょう。彼らは神に召され、神の言葉を語りました。しかし、多くの人々は彼らに耳を傾けませんでした。預言者たちは悔い改めを呼びかけました。しかし、人々は手軽な平和と幸いを求めました。預言者たちは神の裁きを語りました。しかし、人々は耳に好ましいことを語る偽預言者の言葉の方を求めました。預言者たちは国家の滅亡を語りました。しかし、彼らが語った滅亡はすぐに実現したわけではありませんでした。預言者たちは人々の嘲笑と敵意を耐え忍ばなくてはなりませんでした。

 彼らは自分の力によって自分の正しさを示そうとはしませんでした。神の言葉の正しさは神自らが証明されます。彼らは、神の正しい裁きに自らをゆだね、神の時を待ちました。そうです、預言者たちは、まことに神の時を待つ人々でありました。彼らはそのように生き、語り、そして死にました。ヤコブは、預言者たちを指し示し、これが忍耐だと言うのです。

 さらに彼はヨブについて語ります。「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います」と言って、苦難の人ヨブを指し示すのです。なぜヨブが幸いなのでしょうか。「あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています」(11節)とヤコブは言います。私たちは、神が最終的にヨブの繁栄を回復してくださったことだけを考えてはなりません。もっと重要なことは、ヨブが神にまみえたということなのです。ヨブ記に出てくるヨブの最後の言葉は神に対する次のような言葉です。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(ヨブ42:5‐6)。

 苦しみは私たちを神から引き離す誘惑ともなります。また、そこから生じる不平や不満は、互いの関係を崩壊させる原因ともなり得ます。しかし、苦しみは私たちの信仰を確かにし、純化し、神を目で見るかのように深く知る契機ともなるのです。何が必要なのでしょうか。それは、つぶやかずに神の時を待つ忍耐です。最終的には主が来られるときを待つことのできる忍耐です。

(祈り)

2022年7月6日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 5:12~20

 ヤコブの手紙 5:12‐20

 ヤコブの手紙も最後の部分にさしかかりました。今日まずお読みしたのは「誓いを立ててはなりません」という勧めです。これはご存じのようにイエス様の言葉から来ています(マタイ5:33以下)。ところが、教会においては、結婚式をはじめ、様々な式において実際には「誓約」が行われています。それはどうしてでしょうか。

 実は、私どもが教会において神様の御前で誓約をすることと、イエス様やヤコブが言っている「誓い」は全く別なものなのです。それを理解するためには、ユダヤ人社会において「誓い」が日常会話の中において多用されていたことを知っておく必要があります。

 天を指して誓う。地を指して誓う。あるいは自分の頭を指して誓うこともありました。もちろん「神にかけて誓う」と言う場合もあります。どうしてそうしなくてはならないのでしょう。自分の言っていることを信じてもらうためです。「本当ですよ」と主張するためです。しかし、そのように信じてもらうための「誓い」は、日頃から言動において信用されている人ならば不要なはずなのです。その人が「はい」と言ったら、本当にそうなんだな。その人が「いいえ」と言ったら、本当に「いいえ」という意味なのだな。そう思われている人には「誓い」は不要です。

 要するにここでヤコブは、そのような人になりなさいと言っているのです。「然り」は「然り」とする。つまり本当は「否」なのに「然り」と言うようなことはしない、ということです。それはただ単に対人関係の話ではありません。それは「(神の)裁きを受けないようにするため」だと言うのです。なぜなら、他の人はごまかせても、神様をごまかすことはできないからです。

 続いて13節以下には祈りについて書かれています。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」(13節)。苦しみにしても、喜びにしても、まずは神様のところに正直に持って行くということです。

 苦しい時に、神様に向かって「苦しいです」と言うのです。その苦しみを神様の前に注ぎ出すことです。すると何が起こるのでしょう。苦しみによって人と神とが結びつくのです。それまでにないほどに深く結びつくのです。

 そのような祈りを、私たちは詩編の中に数多く見ることができます。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」(詩編130:1‐2)。この人は、確かに深い淵の底にいるような経験をしているのでしょう。しかし、どんなに深い闇の中にいても、彼は神と共にいることを実感しているのです。しっかりとつながっている。そこに既に救いがあるのです。

 そして、喜びも同じです。人は喜びによっても、神と結びつくことができるのです。ただ喜ぶだけでなく、喜びの背後におられる神を讃美することによってです。そのようにして、この地上の一時的な出来事を通して人は永遠の世界に触れるのです。

 そのようにして、まず神のもとに持って行くということが起こると、人との関係も変わってくるのです。ここで取り上げられているのは、まず教会の長老との関係です。ここで「長老」というのは、今日の教会で言えば「役員」であるとも言えますし「牧師」を指すとも言えます。

 苦しみの具体的な一つの例は病気でしょう。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(14節)とヤコブは勧めます。具体的な病気という苦しみが、「誰かに祈ってもらう」という関係を生み出すのです。そのような関係における祈りについて、「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」と書かれています。主が癒してくださる、ということです。

 ところで「癒し」とは何でしょう。それはいわば神の国の前味です。神の国を考えるならば、私たちはどんな病気であっても最終的には完全に癒されると言えます。神の国に病気はないのですから。それは完全に命の支配する世界であり、完全な癒しの世界です。その神の国を様々な形で部分的に味わいながら生きるのが信仰生活です。

 ですから、神の国の味わいを病気の癒しという形で体験することはあるのです。あるいは病気そのものは治らなかったとしても、神の国を味わいながら召されることもあるでしょう。それはまたもう一つの癒しの経験であると言えるのです。

 さらには、「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」と書かれています。全ての病気を罪と結びつけることは避けなくてはなりません。しかし、しばしば病気や様々な苦しみが罪に起因することは事実です。主は癒してくださるだけでなく、その背後にある罪をも赦してくださいます。そのように、苦しみの中で「誰かに祈ってもらう」時に、そこで永遠の世界に触れるということが起こるのです。

 そして、それは教会の長老との間に留まりません。本来は長老であるなしにかかわらず、信徒相互の関係がそのようなものであるはずなのです。「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」(16節)とヤコブは言うのです。

 罪を告白し合うというのは、自分の最も暗い部分を明らかにすることであり、自分の弱さや惨めさをさらけ出すことでしょう。それを為しえるとするならば、その「お互い」が十字架のもとにある時だけです。私たちが自分の罪を告白して「お祈りしてください」と言えるとするならば、それぞれがイエス様に対して「わたしの罪を赦してください」と言う者であり、ただ主の恵みによって赦され救われたことを知る場合だけなのです。

 逆に言うならば、それこそが教会の交わりなのです。ただ親しい友人というだけならば、何も教会の中だけでなく外にもいるだろうと思うのです。しかし、教会にしかない関係があるのです。それは「お互いのために祈る」という関係です。自分の問題を口にして「祈ってください」と言える関係です。そのような関係を知らないならば、それは教会の交わりを知らないに等しいのです。それは本当にもったいない。実に残念なことです。

 そのように互いに祈る関係において人は神の国に触れることになります。この地上において神の御業を見るのです。「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」とヤコブは言います。その正しさとは、神との関係における正しさです。その意味においては、私たちは皆、イエス・キリストによって罪を贖われ、神との関係において義人とされているのではありませんか。神の国がこの地上に現れるための通路となるのは、何も特別な人ではありません。「エリヤは、わたしたちと同じような人間でした」と書かれています。私たちがお互いのために祈る時、お互いが神の御業の現れるための通路となるのです。

 そして、教会の交わりは、互いに祈る関係であるだけでなく、互いの魂を心に懸ける関係でもあります。「わたしの兄弟たち、あなたがたの中に真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を真理へ連れ戻すならば、罪人を迷いの道から連れ戻す人は、その罪人の魂を死から救い出し、多くの罪を覆うことになると、知るべきです」(19‐20節)。

 誰かが真理から迷い出たら、誰かが連れ戻すのです。お互いの魂の状態について、互いが無関心ではなく、いつも心に懸けている。そのような教会を主は求めておられます。迷い出た羊を追い求めているのは羊飼いなるキリストです。しかし、今日、キリストは私たち一人一人を通して、迷い出る魂を追い求め、連れ戻そうとしておられるのです。

2022年6月29日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 5:1~11

ヤコブの手紙 5:1‐11

 今日の聖書箇所は「富んでいる人たち、よく聞きなさい」という言葉で始まります。そして、富んでいる人に対する、非常に厳しい糾弾とも告発とも言える言葉が続きます。ここで問題とされているのは、自らのために富を蓄えながら決して他者のために用いようとはしないエゴイズムです。また、ここで問題とされているのは、彼らが富を蓄えるために取った不正な手段であり、富める者の力によって曲げられた正義です。

 しかし、私たちはここでヤコブが、ただ「お前たちがしていることは悪いことだから改めなさい」と言っているのではないことに注意しなくてはなりません。彼らは「悪い」のではなくて「不幸だ」と言われているのです。「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい」(1節)。ですから、この箇所で重要なことは、降りかかってくる不幸とは何なのか、ということです。ここで語られているのは、単なる悪の告発ではないのです。

 そこで私たちが決して読み過ごしてならないのは3節の後半です。「あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えたのでした」(3節後半)。そのように聖書は確実にやってくる「終わりの時」について語っているのです。それはここだけではありません。聖書は繰り返し「終わりの時」について語っているのです。「終わりの時」とは何らかの結論が出る時です。肯定的にせよ否定的にせよ、最終的にはある判断が下され結論が出る。私たちの人生にも、この世界にも、最終的な判断が下され結論が出る時が来るのです。その判断を下すのは誰か。人間ではありません。神です。

 個々の人生に「終わりの時」があるということを理解することは難しくありません。なぜなら人間は必ず死ぬからです。そこで結論が出る。その結論を出すのは神です。私たちは人がどのように亡くなったかで、幸不幸を判断します。しかし、どのように死んだか、安らかであったか否か、床の上であったか道路の上であったかは、本当はさほど重要なことではないのです。なぜなら判断を下すのは神だからです。ならば決定的に重要なことは、その人が神との関わりにおいてどう生きたか、神の御前でどのように生きたか、ということなのでしょう。

 そのように、個々の人間も、この世界全体も、神が裁きを下す「終わりの時」に向かっているからこそ、例えばここに書かれているような、富んでいる人々のあり方が問題となるのです。エゴイズムや不正が問題となるのです。それは単に人道的な問題ではないからです。そうではなくて、神の前における問題なのです。ならば、ここに書かれていることは、私たちすべての者に関係しているとも言えます。裕福であるか否かにかかわらず、私たちもまた、同じように終わりの時に向かって存在しているからです。

 しかし、私たちは「終わりの時」を5節にあるように「屠られる日」としてのみ見る必要はありません。7節以下において、ヤコブは全く異なるイメージを用いてこの「終わりの時」について語るのです。

 7節を御覧ください。「兄弟たち、主が来られるときまで忍耐しなさい」(7節)と書かれております。実は、訳出されておりませんが、ここには「それゆえに」という言葉があります。話はその前と繋がっているのです。5節にあるように、「地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり、屠られる日に備え、自分の心を太らせ」ているだけであるならば、「終わりの時」はまさに恐るべき時であるに違いありません。しかし、教会はキリストを通して、それとは全く異なるイメージを与えられているのです。聖書はそれを「主が来られるとき」(7節)と表現します。私たちが週ごとに告白している使徒信条においては、「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」と言い表されています。

 それは恐るべき言葉でしょうか。いいえ、そうではありません。そのような「主が来られるとき」について語るこの聖書箇所には、まったく悲壮感がただよっていないでしょう。むしろ明るい希望が満ちているのです。なぜでしょうか。それは生ける者と死ねる者とを裁き給うキリストは、まったく知らない御方ではないからです。否、むしろその御方を既に知っているということが、キリスト教信仰の本質だからです。

 教会がこれを「キリストの再臨」と呼び慣わしてきたことは極めて正しいことです。来られるのは「二度目」なのです。裁くために来られるのは、かつて私たちのために肉を取ってこの地上を歩まれ、私たちを愛し、私たちのために苦しみを受けられ、私たちのために十字架にかかられ、私たちの罪が赦されるために血を流してくださった御方です。その御方は私たちが義とされるために復活され、天に上げられたた御方です。その御方は教会の頭(かしら)として、聖霊において、御言葉を通して、今も私たちと共にいてくださり、私たちを治めてくださっている御方です。私たちは、こうして御赦しに与った者として、共に礼拝を捧げ、その御方に心からの感謝の讃美を捧げているのです。

 その御方が来られるのです。再び来られるのです。「終わりの時」は私たちにとって、そのような「主が来られるとき」に他なりません。ですから、その終わりの時に向かうということは、《好きなだけ食べて肥え太った牛が屠られる時を待つこと》に例えられるのではなくて、《農夫が忍耐強く大地の尊い実りを待つこと》に例えられるのです。

 私たちが経験的に知っているように、信仰は必ずしも労苦や苦難の免除を意味しません。むしろ信仰をもって神と共に、また人と共に真実に歩もうとするならば、それゆえの労苦や苦難を引き受けなくてはならないものです。そして、そのような労苦や苦難が必ずしもすぐに報いられるわけではありません。死ぬまで報いられないこともある。死んだ後でさえ、だれにも知られず、感謝の言葉一つかけられないこともあり得ます。

 しかし、「忍耐しなさい」と聖書は言うのです。この「忍耐」という言葉は「気を長く持つ」という意味の言葉です。農夫は大地を耕す労苦がすぐに報いられないことを気にしません。なぜなら、最終的には実りの時が来ることを知っているからです。だから気長に待つのです。同じように、主が再び来たり給うことを知る者は、労苦に報いが伴わないことを気にしなくて良いのです。

 その「主が来られる時」は、ヤコブが書いているように「迫っている」のかもしれません。あるいは、そう書かれてから既に二千年近くが経ってしまったように、まだ先のことなのかもしれません。しかし、それは大して重要なことではありません。いずれにせよ、私たちの人生は主の御前にあるのです。それはあたかも私たちがいる家の戸口に主が立っておられるようなものです。

 「主が来られるときまで忍耐しなさい」――その具体的な実践は、「互いに不平を言わないこと」であるとヤコブは言います。不平を言い合っている時、私たちは戸口に主が立っておられることを思い描かなくてはなりません。不平を言い合っている姿もまた、主の御前にあることを忘れてはならないのです。

 「忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」(11節)。主が苦しんだヨブに対してどのようにしてくださったか――それはただ単に繁栄を回復してくださっただけではありません。何よりも大いなることは、ヨブが最終的に、「あなたのことを、耳にはしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます」と言い得る者とされたということです。私たちもやがて「慈しみ深く、憐れみに満ちた方」である主に顔と顔とを合わせてまみえる時が来るでしょう。それこそが、私たちに約束されている、何よりも大きな報いなのです。
(祈り)


 

2022年6月22日水曜日

祈祷会用 ヤコブの手紙 4:11~17

ヤコブの手紙 4:11‐17

 今日の箇所の直前には、「主の前にへりくだりなさい」(10節)と書かれていました。今日お読みしました16節にも、「ところが、実際は、誇り高ぶっています。そのような誇りはすべて、悪いことです」と書かれています。そうしますと、そこに挟まれている今日の箇所は、主に「高ぶりとへりくだり」に関係していることが分かります。そのような流れの中で「兄弟たち、悪口を言い合ってはなりません」と書かれているのです。悪口を言い合うというのは、高ぶっている、ということなのです。

 それは容易に理解できます。誰かの悪口を言っている時、私たちは自分を相手の上に置いていることは確かですから。しかし、ここで言われているのは、単に人に対する高ぶりということではなさそうです。ヤコブはこう言っているのです。「兄弟の悪口を言ったり、自分の兄弟を裁いたりする者は、律法の悪口を言い、律法を裁くことになります。もし律法を裁くなら、律法の実践者ではなくて、裁き手です」(11節)。つまり、それは「律法に対する高ぶり」であり、さらに言うならば律法を与えた神に対する高ぶりだということです。

 ここでまず気付きますのは、「兄弟の悪口を言う」が「兄弟を裁く」と言い換えられていることです。「悪口」を言うと「裁く」は似ていますが、やはり違います。「悪口を言う」ならば、明らかに悪いことだと分かります。では「裁く」はどうでしょう。イエス様は「人を裁くな」と言われました。しかし、繰り返し頭をもたげてくる疑問は、「では、明らかに間違ったことをしている人に対してはどうするのか」ということでしょう。「裁くのは良くないことですから、何も言わないでおきましょう」で本当に良いのか、ということです。間違ったことを正さなくてよいのでしょうか。「裁く」ことと「正す」ことは、どう違うのでしょう。

 そこで重要なことは、「自分の兄弟を裁いたりする者は、…律法を裁くことになります」と語られていることなのです。前に「自由をもたらす完全な律法」(1:25)という言葉が出てきました。それは一言で表現すれば「愛する」ということだ、と申しました。もともとモーセの律法にしても、その本質は「愛する」ということを求めているのです(2:8)。そうです。問題は相手を愛しているか、愛そうとしているか、ということにあるのです。

 聖書は、明らかに罪を犯している人を放置しなさいとは言っていません。パウロも「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい(直訳は「正しなさい」)」(ガラテヤ6:1)と言っています。しかし、そこで問われるのは、相手を本当に愛しているか、なのです。具体的にはいくつのことが言えるでしょう。相手が本当に正しい道に立ち帰ることを願っているか。そのために相手が罪から解放されることを祈っているか。そのことを信じて期待しているか。そのために自分も重荷を負って労苦するつもりでいるか、等々。それらのこと抜きにして悪を指摘しているだけならば、それは「悪口」でしかない。実際、そのように悪口を言っているだけである、ということがいくらでもあるのでしょう。

 それは「律法を裁く」ことでさえある、とヤコブは言うのです。律法は「愛しなさい」と言っている。しかし、私たちがただ「悪口」を言っているだけならば、「あんな奴、愛する値打ちもありません」と言っているのと同じです。それは「愛しなさいと言っている律法の方が間違っているし、あんな奴を愛せよと命じる神の方が間違っている」と言っているのと同じなのです。そのような私たちに対してヤコブは、「あなたはいつから神を飛び越えて審判者になったのか」と問いかけます。「律法を定め、裁きを行う方は、おひとりだけです。この方が、救うことも滅ぼすこともおできになるのです。隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか」(12節)と。

 これが高ぶりの問題なのです。悪口を言うことは、ただ相手に対する高ぶりなのではありません。本当の審判者である神に対する高ぶりなのです。「あなたは、いったい何者か」という言葉をしっかりと受け止めねばなりません。私たちに命じられているのは審判を下すことではなくて、あくまでも愛することなのです。私たちに求められているのは「律法の実践者」となることであって、「裁き手」となることではないのです。

 続いてもう一つの「高ぶり」の実例が13節以下に挙げられています。「『今日か明日、これこれの町へ行って一年間滞在し、商売をして金もうけをしよう』と言う人たち」です。このヤコブの言葉についての最良の注解は、ルカによる福音書に記されている「愚かな金持ちのたとえ」でしょう(ルカ12:13‐21)。そのたとえの中で、金持ちが言うのです。「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と」。するとその人に対して神様は言われます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と。

 この金持ちは、この世的な観点からすれば決して愚かではないのです。先を見据えてきちんと計画を立てているのですから。ヤコブの言及している商売人も同じです。賢いのです。しかし、神はあの金持ちを「愚かな者」と呼びました。なぜでしょう。それはその人の言葉から分かります。彼は言いました。「こう自分に言ってやるのだ」と。「自分」とは直訳すれば「わたしの命(魂)」です。「わたしの命に言ってやるのだ」と言っているのです。それに対して、神様は「その『おまえの命』とやらは、今夜取り上げられる」と言っているのです。そうです、そこから明らかなように、それはそもそも「わたしの命」ではなかったのです。

 イエス様が用いられた「取り上げる」という言葉は、もともとは「要求する」という言葉です。返還することの要求です。それは神様から一時的に託されていたものに過ぎないということです。その託されていたものを、では、誰が支えていたのかと言えば、それは神様御自身なのです。神様が神様のものをもって、神様のものである命を支えていてくださったのです。それが分からず自分の命が自分のもので自分の手の内にあるかのように高ぶっていたゆえに、あの金持ちは「愚かな者」と呼ばれてしまったのです。

 ヤコブも私たちがへりくだって何を認めなくてはならないかを語ります。「あなたがたには自分の命がどうなるか、明日のことは分からないのです。あなたがたは、わずかの間現れて、やがて消えて行く霧にすぎません」(14節)。それは単に私たちが不安定な存在であるとか、儚い存在であることを突きつけるために言っているのではありません。大事なことは、そのような存在であっても主が御自分の与えた命として、今この時にも私たちを支えていてくださるという事実なのです。支えてくださる主があってこその命なのです。ですから「主の御心であれば」という言葉が大事になってくるのです。

 私たちは将来の計画を立てます。計画することは大事です。無計画ではいけません。しかし、「主の御心」を抜きにして、ただ私たちの意志こそが未来を拓き、計画を実現に至らせるのだなどと高ぶってはならないのです。私たちは主の御前においてへりくだらなくてはなりません。

 そして、最後にヤコブは以上のことをまとめて、「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」(17節)と語ります。この場合、なすべき善というのは、善いこと一般を指しているのではありません。これまでの流れから明らかなように、それは「へりくだること」です。私たちは、本当はへりくだりが何であるかを知っているはずなのです。肉となられた御子を知っているのですから。それなのに私たちが高ぶっているとするならば、それは御前において私たちの罪と見なされる。それは当然のことです。私たちは高ぶりの罪ということの重大さを認識しなくてはなりません。

2022年6月15日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 4:1~10

 ヤコブの手紙 4:1-10

 前回の箇所は「義の実は、平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」(3:18)という言葉で終わっていました。しかし、その通りになっているならば、この手紙が書かれる理由もありません。現実にはそうなっていないから、この手紙が書かれているのです。

 「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか」(1節)とヤコブは言います。「あなたがた」すなわち、教会において戦いや争いが起こっていることが前提とされています。それは何故に起こるのか。「あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか」とヤコブは言うのです。

 私たちは神の恵みによって救われて、神の民とされました。教会生活とはこの神の恵みに答えて、神を愛し、隣人を愛する生活です。私たちが集められたのは、キリストが私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うためです。

 しかし、現実には自分の欲求の満たしが教会生活の中心となってしまうことはあり得ます。その時、教会は自分の欲求を満たすための場となり、お互いは欲求の満たしを求める対象となります。しかし、自分の欲していることが得られないことはあるのでしょう。相手が自分の願いどおりにしてくれない時に、そこに怒りが生じ、争いが生じます。

 そこで、「あなたがたは欲しても得られず、人を殺します」とヤコブは言います。いくらなんでも、私たちは人を殺したりはしていないと言うかもしれません。しかし、ヤコブは何の説明もしていませんが、ヨハネははっきり語っています。「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」(1ヨハネ3:15)と。問題は実際に手を下したか否かではないのです。この人はいて欲しくないと思う時、存在しないで欲しいと思う時、神の目から見れば、それは殺しているのと一緒なのです。

 そのように、「あなたがたは欲しても得られず、人を殺します」。しかし、そこで続けて、「得られないのは願い求めないから」とヤコブは言います。「願い求めない」――誰に?神様に、です。本当は、人に求める前に、まず神に願い求めるべきなのです。しかし、神に願い求めるならば、当然のことながら、その願い求めの根底にあるものが問われます。神の御心に適っているか否かが問われます。

 ですから、「願い求めても、与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めるからです」(3節)と書かれているのです。いや、実際には「自分の楽しみのため(快楽のため)」という意識ではないかもしれません。「神のために!」「キリストのために!」と思っているかもしれないのです。しかし、だからこそ神の御前において本当の動機の部分に光が与えられなくてはならないのです。結局は「自分のため」ということがいくらでもあるからです。

 そのように自分の欲求の満たしが中心となった教会生活。それぞれが自分のことばかりを求めているキリスト者の集まり。互いに要求し合い、願いがかなわないところで争い合っている神の民の姿。教会がそのような姿であるならば、神に背いたこの世界、聖書が「世」と呼ぶ世界と、少しも変わりません。自らの欲望の満たしのために戦いや争いを絶え間なく続けてきた「世」と同じなら、それは「世の友」に他なりません。

 ヤコブが「世の友」と呼ぶとき、それは必ずしも信仰的なことには無頓着な、世俗のことにしか関心がない世俗的な人を指しているわけではありません。実際に、教会において戦いや争いが起こる時、信仰者同士が分かれ争う時、その姿は時として非常に信仰熱心であり、まさに神のために戦っている姿を呈しているかもしれないのです。

 しかし、最も深い動機のところにおいて自分が中心にいるならば、それは「世の友」なのであって、それは「神の敵となることだ」と言うのです。そこまで言うのは、ヤコブが聖書から神の心を聞き取っているからです。「それとも、聖書に次のように書かれているのは意味がないと思うのですか。『神はわたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに深く愛しておられ、もっと豊かな恵みをくださる』」(5-6節)。

 この通りの言葉で聖書に記されているわけではありません。しかし、聖書に書かれているのは、まさにこういうことではありませんか。ヤコブが「聖書」と呼んでいるのは旧約聖書ですから、「わたしたちの内に住まわせた霊」とは、聖霊降臨後に与えられた聖霊の内住ではありません。創世記に記されている命の息です。まさにそのようにして生きる者となった私たちを、神はねたむほどに愛しておられる。すなわち、完全に御自分のものとしたいと欲しておられるのです。そして、その神がもっと豊かな恵みをくださろうとしておられるのです。ならば、その御心に背いて、世の友になってはならないのです。

 それゆえに、「世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです」とヤコブは言うのです。しかし、ある意味で事柄はそう単純ではありません。自分が「世の友になりたがっているのだ」という自覚が常にあるとは限らないからです。先週の箇所において読みましたように、知恵があり分別があると自認している人の知恵が、実際には「上から出たものではなく、地上のもの、この世のもの、悪魔からでたもの」であることはあり得るからです。そのような知恵によって動かされ、自覚ないままに世の友になっていることはあり得るからです。

 そこにこそ、まさに「世」についてだけでなく、「悪魔」について語られなくてはならない理由もあるのでしょう。だからこそ、ヤコブはこう続けるのです。「だから、神に服従し、悪魔に反抗しなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げて行きます」(7節)。
 教会において戦いや争いが起こっていることが前提とされていると最初に申しました。そのような時に、本当に必要なことは戦っている相手に打ち勝つことではないのです。問題は神との関係にあるのです。神に従って相手と戦っていると思っているかもしれないけれど、神に服従するならば、本当の敵と戦わなくてはならないのです。悪魔に立ち向かわなくてはならないのです。人間同士の争いから悪魔を追い出さなくてはならないのです。

 ではどのようにして悪魔に反抗するのでしょう。悪魔が最も嫌う仕方においてです。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」(8節)。ではどのように神に近づくのでしょう。悔い改めによってです。「罪人たち、手を清めなさい。心の定まらない者たち、心を清めなさい。悲しみ、嘆き、泣きなさい。笑いを悲しみに変え、喜びを愁いに変えなさい。主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高めてくださいます」(8-10節)。

 戦いがあり争いがある時、他者の悪はいくらでも見えてくることでしょう。しかし、本当に見えてこなくてはならないのは自分自身です。心の最も深い動機の部分です。手を清めるために、心を清めるために、何よりも必要なのは本当の意味で神によって照らされて、自分自身を知って、本当の意味でへりくだり、正しく悲しみ、嘆き、泣くことなのだろうと思います。「神に近づきなさい。そうすれば、神は近づいてくださいます」。

(祈り)

2022年6月8日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 3:13~18

 ヤコブの手紙 3:13‐18

 「あなたがたの中で、知恵があり分別があるのはだれか」(13節)。「知恵」と「分別」がイスラエルの伝統において、いかに重んじられてきたかは、たとえば旧約聖書のうち知恵文学と呼ばれる箴言やコヘレトの言葉、あるいはヨブ記などを読みますとよく分かります。そのように重んじられてきた知恵や分別が何であるかが、一番明確に表明されているのは、恐らくヨブ記28:28でしょう。「主を畏れ敬うこと、それが知恵、悪を遠ざけること、それが分別」(ヨブ28:28)。

 知恵と分別を持っているということは、要するに「わたしは分かっている」ということなのですが、何が分かっているか、また身につけているかと言えば、それは主を畏れ敬うことであり悪を遠ざけることなのです。言葉を加えて言うならば、「わたしは何が信仰的であり信仰的でないかが分かっている。何か神の望まれることであり、何が神の厭われることかが分かっている。わたしは何が悪であり、何が善であり、何を遠ざけ、何に親しんだらよいかが分かっている」ということです。

 そのように分かっているということ、そのような知恵と分別を身につけるということは、イスラエルにおいては教育の大事なテーマでした。要するに、それが主を信じる者としての成長であるとも理解されていたのです。

 そのような背景を持つユダヤ人キリスト者を念頭に置きながら、ヤコブは問うのです。「あなたがたの中で、知恵がある分別があるのはだれか」。これは知恵があり分別があると自負している人々がいることが前提とされた問いです。実際、ユダヤ人キリスト者に限らず、いつの時代のどこの教会においても、「わたしは分かっている」と自負している人たちはいるのです。もちろん、いなくては困ります。知恵と分別は大事なのですから。しかし、ヤコブはあえてその自負に対する吟味を求めるのです。「もし知恵があり分別があり、『わたしは分かっている』というならば、その事実を自らの良い生き方(直訳)によって示せ」というのです。

 良い生き方の特徴は何か。それは「柔和な行い」に満ちていることです。これは「謙遜」とも訳される言葉です。「謙遜」は心の中に始まります。それが外に出て謙遜な行いになるのです。知恵があり分別が本当に天からのものであるならば、それはまず心の中に謙虚さ柔和さを生み出すはずだということです。

 これは特にユダヤ人キリスト者にとっては、ある意味では身に染みて分かる言葉だったと思います。というのも、彼らはユダヤ人社会において、全く逆のことを経験してきたからです。確かに彼らはユダヤ人として、神を畏れ、律法を遵守し、何が悪であり何が善であるかの判断を大切にしてきたのです。しかしその一方で、律法を持たぬ異邦人を軽蔑し、汚れた犬のごとくに扱い、また同胞であるユダヤ人の中においても羊飼いなど「地の民」と呼ばれる人たちや徴税人たちを見下して生きてきたのです。

 また、もともとは神を畏れるということが重要であったはずなのに、実際には他の人からの評価の方がはるかに重要であったのです。知恵と分別をきちんと身につけた立派なユダヤ人として見られることです。それは人との比較の問題ですから、いつでも妬みや利己心が入り込みます。利己心というのは「党派心」とも訳せる言葉です。ねたみと党派心。それが知恵と分別を重んじるユダヤ人社会の現実だったのです。

 ですから、本当の知恵と分別を持っているならば、そこには謙遜さがあるはずだ。謙遜な行いに満ちた、良い生き方があるはずだ、とヤコブは言うのです。もしそこにねたみや党派心が渦巻いているならば、「わたしには分かっている」と思っているその人の知恵や分別は、天から来たのではない。それは地上のもの、この世のもの、悪魔から出たものだ、と語られているのです。そのように、人間が「わたしには分かっている」と思う自負さえも悪魔は用いるのです。

 実際に、それが悪魔から出たものであることが明らかにされた決定的な出来事があったではありませんか。イエス様の裁判を考えてみてください。福音書を読む時、私たちは外から見ています。ですから、そこに渦巻いているのは、ねたみと利己心や党派心であるということが良く分かります。しかし、その場にいる当の本人たちは「わたしはねたみによって行動しているのだ。党派心によって行動しているのだ」などとは思っていないのです。わたしは何が正しいか分かっている。何が悪であるかも分かっている。そう思っているのです。その判断によれば、このイエスという男は極悪人で、極めて不敬虔な神の冒涜者である。本気でそのように断罪し、イエスを十字架にかけたのです。

 「ねたみや党派心のあるところには、混乱やあらゆる悪い行いがある」とヤコブは言います。その通りではありませんか。本当に分かっている人が多いならば、混乱や悪い行いなどないはずです。しかし、現実には「わたしには分かっている」と主張する人が多いところに混乱があるのです。悪い行いもあるのです。なぜヤコブがこれを書いているか分かりますでしょう。これはユダヤ人社会だけの話ではない。教会にも起こり得ることだからです。だから教会宛にこのことを書いているのです。

 私たちは、もし「知恵と分別がある」と思っているならば、それを吟味しなくてはなりません。そこに柔和で謙遜な行いが伴っているか。柔和で謙遜な行いに満ちた良い生き方が伴っているか。自分が持っている知恵と分別は、悪魔からのものではないのか、と。そして私たちは、地上からの知恵、悪魔からの知恵ではなく、上からの知恵、神からの知恵を求めなくてはならないのです。そうしてこそ知恵を得て子どもが大人に成長していくように、上からのまことの知恵と分別を身につて、信仰者として成長することもできるのです。

 自分が身につけているのは上からの知恵であるのか、それとも地上からのものなのか。17節以下には判断の基準が記されています。こうして吟味したらよいのです。まずそこに純真さが伴っているか。それは清さと純粋さがあるかということです。この世の知恵にはいつでも裏があるものです。表と裏を使い分ける人がしばしば知恵ある者と見なされる。しかし、そのような知恵ではなく、本当に透き通った純真さに近づいていく。それが上からの知恵です。この世から見れば愚かに見えるかもしれません。しかし、それが本当に神を畏れるということなのでしょう。「上から出た知恵は、何よりもまず、純真で・・・」とヤコブは言うのです。

 そして、「更に、温和で、優しく、従順なものです。憐れみと良い実に満ちています」とヤコブは続けます。温和であるとは無闇に争わず、むしろ平和をもたらすものであるということです。「優しく」が意味しているのは「寛容である」ということ。「従順」は「温順」とも訳され、頑固でないことです。異なった意見にも耳を傾け、自分自身を柔軟に変えることもできる、ということです。知恵があり分別があると自負していると、ともすると他者と争いやすくなる。異なる考えを持つ人に対して不寛容になる。そして、他人の言葉に決して耳を傾けようとしない凝り固まった頑固な人間になる。それは起こり得ることではありませんか。しかし、それが上から来た知恵ならば、そうはならないはずだとヤコブは言うのです。

 次いで「偏見はなく、偽善的でもありません」と書いています。実際には、自分は分かっていると思っている人が、実際には極めて偏見に満ち、偽善的であるということが起こり得るということでしょう。もしそうならば、そこにあるのは地上からの知恵、悪魔からの知恵なのであって、上からの知恵ではないと語られているのです。

 私たちが知恵と分別を得て成長しなくてはならないのは、単に私たちのためではありません。私たちが実を結ぶようになるためです。義の実、救いの実を結ぶためです。しかし、それは「平和を実現する人たちによって、平和のうちに蒔かれるのです」と語られているのです。そのためには本当の知恵、上からの知恵、神からの知恵と分別を求めなくてはなりません。天からのものによって成長した、本当の意味で成熟したキリスト者となることを求めていきましょう。


2022年6月1日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 3:1~13

 ヤコブの手紙 3:1‐13

 今日の箇所では、まず「わたしの兄弟たち、あなたがたのうち多くの人が教師になってはなりません」という言葉から始まります。教師について言及しているのは、「言葉」の問題を論じたいからです。ヤコブは前の章で、「行いを伴わない信仰は死んだものです」と語っていました。そして、信仰に伴うべき「行い」について語るとき、まず彼が取り上げているのは「言葉」の問題なのです。

 ヤコブは、言葉の問題が決して小さくはないことを、三つのものに喩えます。一つは馬のくつわです。くつわは小さな馬具です。しかし、これによって大きな馬の体全体が御せられます。そのように大きな影響力を持っているのです。もう一つは、船の舵です。舵は小さな部品に過ぎませんが、それは船全体を操るのです。それほど大きな影響力をもっています。

 そのような舌が及ぼす大きな影響を、さらに「火」の喩えを用いて語ります。山火事のイメージを持ってくるのです.確かに、小さな火であっても大惨事をもたらす力があるのです。火の使い方を誤れば山火事が起こるように、舌の使い方を誤れば恐ろしいことが起こります。何が起こり得るかについて、ヤコブは三つのことを語ります。

 第一に、舌は「全身を汚す」と語られています。私たちが「献身」と言った時、ただこの肉体を献げることではなくて、その生活を献げることを意味しているように、ここで「全身」が意味するのは現在の生活です。私たちの悪い言葉によって、具体的な生活全体が汚されるのです。それはそうでしょう。9節以下に書かれているように、その口で他の人を呪いながら、神の御心に適った清い生活を形成できるはずありません。生活を整えようと思ったら、まずは言葉からなのです。

 しかし、言葉は現在の生活を汚すだけではありません。第二に「移り変わる人生を焼き尽くし」と書かれています。舌が悪い言葉を吐くにまかせているならば、人生そのものに大きな影響が及ぶのです。これもよく分かります。言葉によって人生を台無しにした人は、世の中にいくらでもいるからです。

 さらにヤコブは続けます。舌の問題はそれで終わらないのです。「自らも地獄の火によって燃やされます」と書かれています。イエス様も言われました。「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる」(マタイ12:36)。舌をどう用いるかは、永遠の裁きに関わっているのです。

 私たちは、舌がそのような恐るべき力を持っていることを認識しなくてはなりません。ヤコブは言います。「舌は、疲れを知らない悪で、死をもたらす毒に満ちています」(8節)。「疲れを知らない」とは常に動き回っているということです。言わなくてもいい時に言わなくてもいいようなことを言うのです。それだけではありません。舌は人を殺すことさえできると語られています。死をもたらす毒を持った毒蛇のようなものです。実際、言葉には人を死に追いやるだけの力があるのです。

 そして、そのような舌の持つ根本的な問題が明らかにされます。「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います」(10節)。どのようにして舌が火となるのか。現在も将来もまた永遠の運命までをも焼き尽くす火となってしまうのか。それがこの言葉によって明らかにされています。舌が関わっているのは単にこの世の人間関係だけではないからなのです。それは神と関わっているのです。だからその用い方を誤ると山火事になってしまうのです。

 主を賛美するために舌を用いたのなら、主なる神が御自分にかたどって創造された人間に対しても、その舌の相応しい用い方があるはずです。しかし、そこで人はその同じ舌をもって、神にかたどって造られた人間を呪うようなことをするのだ、とヤコブは指摘するのです。

 「わたしの兄弟たち、このようなことがあってはなりません」と彼は言います。それは「そんなことしてはならない」という意味ではなく、「本来あり得ないことなのだ」という意味です。それは人間以外の自然界では起こり得ないような、極めて不自然なことなのだと、ヤコブは泉や植物を例に挙げて語っているのです。

 そのような本来あり得ないようなことを、私たちはしばしばやっている。その認識こそがまず重要なのでしょう。人を呪いながら、「これが人間というものだ」などと開き直ってはならないのです。確かに、ヤコブは「舌を制御できる人は一人もいません」と言います。だからこそ、私たちは神に祈り、この舌を神によって御支配いただくことが必要なのです。

2022年5月18日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 2:14~26

 ヤコブの手紙 2:14‐26

 今日の箇所との関連で、一つの聖書箇所を開いておきます。ローマ4:1以下です。「では、肉によるわたしたちの先祖アブラハムは何を得たと言うべきでしょうか。もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません。聖書には何と書いてありますか。『アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた』とあります。ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」(ローマ4:1‐5)。

 行いによって義とされ救われるのではない。信仰によって義とされ救われるのである。――この教理は「信仰義認」と呼ばれます。ローマの信徒への手紙において、パウロが引用しているのは、創世記15:6の言葉です。その時にアブラハムにはまだ子供が与えられていませんでした。しかし、主は彼を外に連れ出してこう言われたのです。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」と。そして、「あなたの子孫はこのようになる」と言われました。その言葉に続いて、先の引用の言葉が来るのです。信仰が義と認められたのです。その同じ言葉を、今日の箇所でヤコブも引用しています(23節)。ですから、ヤコブの手紙においても「信仰義認」の教理は前提なのです。その上でこれらのことが語られているのです。

 それゆえ、この手紙を読むに当たって、私たちもまた、まず「信仰義認」をしっかりと受け止めておく必要があります。私たちは何かを行うことによって神に義と認められるのではありません。何かを行うことによって、その報いとして救われるのではないのです。救いは恵みによるのです。私たちはただ信じて救われるのです。しかし、そのことを踏まえた上で、なお聞くべきことがある。それがヤコブの手紙のメッセージです。

 14節にはこう書かれています。「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」ここを読みますと、信仰義認を踏まえた上で、なお聞くべき言葉がある理由が見えてきます。要するに「行いの伴わないキリスト者」の問題です。行いが伴わないことが、悔い改めの方向に向かうのならよいのです。そうではなくて、行いが伴わなくても「自分は信仰を持っている」と主張して、それで十分なのであると開き直る人々がいたということです。「人は行いによるのではなく、信仰によって義とされるのである。行いが伴わないことに何の問題があるか」という主張です。

 言い換えるならば、それは「行い」と「信仰」とを切り離してしまうという問題です。18節には「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」という言葉で表現されています。ちなみにこれはヤコブから見た「あなた」「わたし」ですから、本人が言っている言葉そのものは「わたしには信仰があり、あなたには行いがある」となります。いずれにしても、そのように両者を切り離すことはできるのでしょうか。いや、それはできないのだ、というのがここに語られているテーマなのです。

 「信仰」と「行為」は切り離せない。それは単純に考えてみればすぐに分かることです。私たちの日常において、「信じること」と「行動」は密接に結びついているからです。

 例えば、私たちは食べ物に毒が入っていないと「信じている」から、口に入れます。落ちないと「信じている」から飛行機にも乗ります。それが信じられなかったから決して口に入れないし、飛行機にも乗らないでしょう。「信じること」には、必然的に信じた者の行動が伴うのです。口でいくら「信じている」と言っても、行動がそれを否定していたら、信じていることにならないのです。

 ヤコブは、何も与えないでいて、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言う人の場合を例に挙げています。「満腹するまで食べなさい」という言葉は、何か食べるものを与えてこそ意味を持つのです。同じように、「信じます」という言葉は、信じるゆえの行動が伴ってこそ、意味を持つのです。そうではない、ただ「信じます」という言葉だけが行いから分離されるならば、それは何の役にも立たない、とヤコブは言うのです。

 このような話が出てくる背景には、教会の中に定型化した信仰告白の言葉が生まれてきたという事情があります。最古の信仰告白の言葉の一つとして知られているのは、1コリント12:3にも出てきます「イエスは主である」という言葉です。他にも、たとえば1コリント15章に、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと」(1コリント15:3‐4)というほぼ定型化した信仰告白の言葉が出てきます。今日私たちが唱える使徒信条は、その発展した形です。

 そのような信仰告白の発展は、異端との戦いにおいて絶対に必要なことでした。教会は自分たちが何を信じているのかを明確にする努力をしてきたのです。しかし、もう一方において信仰というものが信仰箇条に対する知的な同意であるかのように見なされる危険がありました。そして実際に、信仰箇条に同意し受け入れれば「信仰によって義とされる」のだと考える人たちも出てきたのです。

 そのような考えに対して、この手紙では「神は唯一である」という旧約時代からの定型化した信仰箇条を例として反論しています。信仰が行いから切り離され、信仰箇条に同意するだけならば、そんなことは悪霊どもだってそうしている、とヤコブは言うのです。本当に重要なのは、信仰箇条を受け入れ、同意を言い表すことではないのです。そうではなくて、言い表しているその信仰を実際に生きているかどうか、なのです。

 そのことを旧約時代の二人の信仰者を例に挙げて説明しています。一人はアブラハムです。先にも引用しましたように、彼については「アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた」と語られています。しかし、それはただ神様が与えてくださった約束に対して、「信じます」と告白したということではありません。彼は信じたように生きたのです。

 ここで取り上げられているのは創世記22章に書かれている「イサク奉献」の物語です。神様はアブラハムに「わたしが命じる山の一つに登り、彼(イサク)を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(創世記22:2)と言われました。アブラハムは、実際に献げようとした。どうしてですか。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。あなたの子孫はこのようになる」と言われた主を信じたからでしょう。

 目に見える現実としては、その約束は実現しないように見えるのです。たった一人の子孫が死んでしまうのですから。しかし、アブラハムは主を信じるゆえに、その言葉に従ったのです。そして、そのように行動したのです。その行動によって、あの星空のもとで主を信じたその信仰が全うされたのです。

 ですから、この出来事を引用して「これであなたがたも分かるように、人は行いによって義とされるのであって、信仰だけによるのではありません」と言うのです。その意味するところは明らかでしょう。パウロの語る信仰義認を否定しているのではありません。人が義とされるのは、行いから切り離された「信仰だけ」によるのではない、ということです。もう一つの娼婦ラハブの例も同じです。なぜ、敵であるはずのイスラエル人をかくまったのか。「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」と信じたからです。それが言葉だけではなかったからです。

 行いから切り離された「信仰だけ」――それはヤコブに言わせれば死んだ信仰です。辛辣な言葉です。しかし、ヤコブは読者を断罪するために書いているのではありません。ヤコブは、私たちが何の役にも立たない死んだ信仰の中に開き直って留まるようなことが決してないようにと心から願っているのです。

2022年5月11日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 2:1~13

ヤコブの手紙 2:1‐13

 今日の箇所では、「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(1節)と語られています。ただ「人を分け隔てすることは良くないことだから、人を分け隔てしてはなりません」と語られているのではありません。そうではなく、主イエスを信じる信仰と分け隔ては本来相容れないものであるはずだ、ということです。

 以前にも触れましたが、初期の教会が社会に与えた強烈なインパクトの一つは、本来なら共にいないはずの人々が同じ食卓についていることでした。ユダヤ人と異邦人がパンを裂いて食べている。奴隷の階級の人と自由人とが、富める者と貧しい者が、同じ部屋にいて共に賛美して食事を共にしている。これはあり得ないことだったのです。

 そのようなあり得ないことがどうして起こったのかと言えば、それはイエス・キリストを信じる信仰の絶大な価値を認識していたからです。信じて洗礼を受けていること、キリストの体の一部とされていること、キリストにあって神を父と呼べること、神の国を受け継ぐ者とされていること、その絶大な価値のゆえに、その他のこの世的な違いなど、一気に色あせてしまったのです。

 その事実をパウロは次のように表現しています。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:26‐28)。

 ここでヤコブが「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じていながら」と言っているのはそういうことなのです。そのような信仰を持っているはずなのに、分け隔てをしていたらおかしいでしょう、とヤコブは言っているのです。

 しかし、現実の教会においては、そのようなおかしなことが起こります。2節から4節にかけて、一例が挙げられています。裕福な人が特別席に案内され、貧しい人には席がないという話です。恐らくヤコブが例に挙げているようなことは、あちらこちらの教会で現実に見られたことだったのでしょう。私たちのルーツであるメソジスト教会にも、かつて教会に有料の特別席が設けられていた時代がありました。富裕層が前の方の席を買い占めるわけです。ちょうどこの教会が産声を上げた今から150年前頃、アメリカのメソジスト教会ではそのようなことが実際に起こっていたのです。

 私たちの教会ではどうでしょう。お金持ちのための特別席などはありませんが、様々な形での分け隔てや差別は起こっているかもしれません。そもそも、初期の教会で「立派な身なりの人」が優遇されていたとするならば、それは明らかにそのような人の存在が教会にとって有利であると見なされたからです。貧しい人が多かった初期の教会。実際の活動も困難であったに違いありません。聖餐のパンや食事も、裕福な人が主に用意したのです。集会の場所も裕福な人たちが提供していたのです。6節以下にあるように、この世の富裕層からしばしば教会が酷い目に遭わされたり脅かされたりする時、教会の中に富裕層の人たちがいることは安心をもたらすことになるでしょう。教会の中に起こる分け隔てや差別というものは、単にこの世的な差別意識が持ち込まれたという単純なものばかりではありません。そうではなくて、自分たちにとって有利な存在であるか不利な存在であるかによって起こるのです。

 ですから、それはこの例のような金銭的な富だけでなく、能力や年齢、性別などによっても起こり得ます。例えば、日本の多くの教会において、「若い人がもっと教会に来て欲しい」と言う声が聞かれます。それは純粋に若い人たちを愛して、若い人たちに福音を伝えたいという願いから出た言葉であるかもしれません。しかし、同じ言葉であっても、「日本の教会は高齢化しているから、もっと若い人たちに来て欲しい」という意味であったらどうでしょう。教会を維持するために必要だというだけならば、今日の聖書箇所に書かれている事例と内容的には少しも変わりません。それは「お金持ちがもっと教会に来て欲しい」と言うのと変わらない。そのように、今日の聖書箇所のようなあからさまな形でなくて、時として非常に見えにくい形で、分け隔てや差別は起こってくるのです。

 そのようにキリストを信じる信仰とは相容れないことが、現実のこの地上の教会においては起こり得ます。私たちはどうしたら良いのでしょう。そこで注目すべきは4節です。「あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」結局、信仰とは相容れないことが起こっているのですから、問題は信仰に関わる部分にあるのです。信仰によって本当に見るべきところに目を向け、信仰によってのみ認識できる価値を認識しているかどうかなのです。そうなっていない時の判断、それが「誤った考えに基づいて判断を下した」と書かれている内容なのです。世の人が「差別をするのは間違っている。それは間違った考え方だ」と言うのとは違うのです。あくまでも信仰を問題にしているのです。

 ですから「よく聞きなさい」と言って、ヤコブは見るべきところに目を向けさせようとするのです。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」(5節)。どこに目を向けていますか。肉の目が見ているのは、教会の中にいる貧しい一人の信徒です。しかし、ヤコブが指し示しているのは、神が選ばれたという事実です。信仰に富ませてくださったという事実です。

 そうです、既にこの上なく豊かなのです。そして、神の国を受け継ぐ者とされているという事実です。神の国は、神を愛する者に約束された国ですから、大事なことは神を愛しているということです。それ以上に大事なことはないのです。そのように、クリスチャンとされ、神を愛する者とされたという驚くべき事実に目を向けるなら、この世の富によって富んでいるか貧しいかの違いはまったく小さなものとなるはずなのです。その神様がしていることに目を向けないから、教会にとって有利にならないと考えて、「貧しい人を辱める」ということが起こるのです。

 そして、もう一つ注目したいのは先週お読みした1:25の言葉です。「しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です。このような人は、その行いによって幸せになります」。この「完全な自由の律法(直訳)」とは、神によって愛されている者として愛することだと先週申しました。神様が求めておられることは、それに尽きるのです。その律法に照らすならば、人を分け隔てすることは明らかに律法違反となるでしょう。「しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違反者と断定されます」(9節)。分け隔てを行うことは罪であるという認識が重要なのです。

 モーセの律法でありましても、例えばわたしは人殺しをしたけれど、姦淫はしていないから違反者ではない、などということはあり得ないわけです。その人は違反者とみなされる。同じように、愛するということに関しても、どんなに伝道熱心であっても、どんなに大きな愛の奉仕をしていたとしても、教会の中で差別が起こっていたら、その教会はあの自由の律法に違反していることになるでしょう。ですから「自由をもたらす律法によっていずれは裁かれる者として、語り、またふるまいなさい」と勧められているのです。

 さて、そのように語り、またふるまうということは、私たちの教会において、また、それぞれ置かれている日々の生活の場において、いかなることを意味するのでしょうか。

(祈り)
 

2022年5月4日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 1:19~27

ヤコブの手紙 1:19‐27

 この手紙の宛先は、「離散している十二部族の人たちに挨拶します」と書かれています。聖書の中の他の書簡には見られない、独特の書き方です。このような手紙はもちろん教会に対して書かれたものであって、そこにはユダヤ人もいれば異邦人もいるわけです。しかし、あえて「十二部族」と書かれているところを見ると、この読者の中にはユダヤ人キリスト者がいることが初めから念頭に置かれていることが分かります。

 ユダヤ人キリスト者というのは、律法の世界の中からキリスト者となった人たちです。それはすなわち、もともとは律法の行いによって義とされ救われると信じて疑わなかった人たちだ、ということです。そのような人たちが、「真理の言葉」(18節)に出会って、人は律法の行いによってではなく、ただイエス・キリストを信じる信仰によって救われると知ったのです。そのような人たちが念頭に置かれていることが分かると、今日の聖書箇所も理解しやすくなります。

 ヤコブは言います。「わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい」(19節)。ここに出てくる「怒る」というのは、単に誰かから酷いことをされて怒ることではありません。そうではなくて、いわば正義の怒りです。ですから、「人の怒りは神の義を実現しない」という話になるのです。不義に対する怒り、正義が失われていることに対する怒りです。

 ユダヤ人キリスト者たちはもともと律法の世界にいたのです。それは少なくとも表向きには、神の定められたことを守り、正しく生きることが重んじられる世界です。それは言い換えれば、定められたことを守らないこと、正しく生きていないことは厳しく裁かれる世界です。裁かれないように自分自身に正しさを要求するならば、当然、人にも要求するようにもなります。人の正しくない部分が目につきます。批判したくなます。正したくなります。律法の世界からキリスト者になった人には、そのような残渣が残っていたに違いない。そして、そのような在り方は周りの異邦人キリスト者にも影響を与えます。

 しかし、ヤコブは勧めるのです。「聞くのに早く、話すに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。」それはなぜか。「人の怒りは神の義を実現しない」からなのです。人の怒りは神の目から見て正しいことを実現することはないのです。人の怒りによって神の目から見て正しい神と人との関わりは生まれないのです。「人の怒りは神の義を実現しない」。まずしなくてはならないのは、怒って何かを語ることではありません。別なことです。ヤコブは言います。「だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。」

 この「素直に」は、「捨て去る」にかかると読むこともできますが、その後につながっていると読むこともできます。つまり、「心に植え付けられた御言葉を素直に受け入れなさい」とも読めるのです。この「素直に」というのは、「へりくだって」という意味の言葉です。御言葉はまず私たち自身に語られているのです。他の誰かではありません。私たち自身の罪と悪を明らかにするのです。その言葉を受け入れるには「へりくだり」が必要なのでしょう。そして、示された悪を捨てるのにもまた、へりくだりが必要なのです。

 さて、律法の世界の残渣を残したユダヤ人キリスト者がいる一方で、反対の方向に極端に触れてしまった人々もまたいたようです。すなわち、「人は行いによるのではなく、信仰によって救われるのだから、もはや行いはどうでもよいのだ」と考えてしまった人たちです。そのような人たちを念頭に置いた言葉はこの後にも繰り返し出てくるのですが、ここもまたそのようなものと考えられます。ヤコブは言うのです。「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません」(22節)と。

 御言葉を聞く時に、私たちは、本当は分かっているのです。これは自分に対して語られたのであり、神の言葉は私たち自身の応答を求めている、と。しかし、その一方で私たちは自分自身を欺きにかかるのです。「でも、御言葉に応答しないとしても、私たちはどうせ赦されるのだから。御言葉を行っても、行わなくても、どちらにしても救われるのだから」と。すると、もはや応答を前提として御言葉を聞くことはできなくなります。それこそ「ただ聞くだけ」になってしまう。

 それは「生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています」とヤコブは言います。鏡に映すように、私たちは御言葉によって私たちの現実を見せられるのです。実際の自分の姿を見せられるのです。しかし、応答することを前提とせずにただ聞くならば、結局は自分の姿を見せられても、意味がなくなってしまいます。どうせその姿は忘れ去られるだけですから。鏡を離れたら自分の姿を忘れてしまうように!

 そうならないために大事なことは、「自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る」ことなのです。律法の行いによって救われるのではないからと言って、律法を軽んじるのではなく、むしろ「自由をもたらす完全な律法」に目を注ぐべきだというのです。これは「完全な自由の律法」が直訳です。完全な自由の律法とは、キリストによって神の愛を啓示された者として、愛する者となることです。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」というキリストの律法です。福音の真理は、ただ神の愛を示すだけでなく、愛し合う生活へと向かわせるのです。愛することを求める律法は、神の要求を満足させるために与えられているのではなくて、私たちの幸いのためであり、私たちの祝福のためなのです。ですから、「このような人は、その行いによって幸せになります」と語られているのです。

 そしてさらに、ここで語られている「行い」というものが、いわゆるユダヤ人的な信心深さとは異なることをヤコブは語ります。祭儀的な事柄をきちんと守り、様々な戒律を落ち度なく守ったとしても、自分の舌を制御せずに、父である神を賛美したその同じ舌をもって隣人を呪っているとするならば、それは本当に神を崇めていることになるのか、と言うのです。舌が問題となるのは、それはまさに「愛する」ということに深く関わっているからなのです。

 そして、舌を制御することに加えて、「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること」を挙げています。みなしごとやもめは、社会の中において弱い立場にある人々を代表しています。私たちは、「すべての人を愛し、すべての人を受け入れます」などと言う必要はありません。なにも大きなことが求められているのではないのです。すぐ目の前に助けを必要としている人がいる。支えを必要としている人がいる。その人を助け支える。それは具体的なことです。そのためには世捨て人になってはなりません。信仰者はこの世のただ中に生きなくてはならないのです。御子があえて肉を取られてこの世のただ中で生活されたようにです。だからこそ世の汚れから自分を守ることが課題となるのです。

 身近な人間を愛することを抜きにした清さや信心深さとは何なのか。怒りばかりが燃え立っている《正しさ》の主張とは何なのか。何が本当に神の望んでおられることなのか。改めて問われているように思います。私たちが一心に目を向けるべきは完全な自由の律法、救い主であるキリストが与えてくださった律法です。

2022年4月27日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 1:9~18

 ヤコブの手紙 1:9‐18

 先週は、試練について語られている御言葉を聴きました。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」具体的に最も身近な試練は迫害であったわけですが、「いろいろな試練」と書かれているところには、もっと広い意味での様々な苦難が含まれているものと思われます。そのような試練を喜ぶとするならば、そして忍耐強く信仰に留まるとするならば、そこに神の御心を見ることのできる神からの知恵が必要なのでしょう。ですから、「あなたがたの中で知恵に欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」と勧められているのです。そして、この内容は12節へと続きます。

 その間に挟まっている9節以下の部分は、貧しい兄弟と富んでいる者について語られています。一見、前後との脈絡がないように思えます。実際、この部分がなくても話は通じます。なぜ突然、貧富の話が出てくるのでしょう。

 その一つの理由として考えられることは、現実にこれを読んでいる教会の中に貧富の問題があったということです。初期の教会を構成していたメンバーの多くは貧しい人々でした。奴隷の身分であった人も少なくありませんでした。しかし、貧しい人たちだけがいたのかと言えば、決してそうではありません。富んでいる人々もいたのです。奴隷と主人が兄弟として一緒の食卓を囲んでいたのです。経済的格差による身分の違いが厳然としていた当時の社会において、それは絶対にあり得ないことだったのです。そのあり得ないことが起こっていること自体が、また救いの証しでもあったのです。

 しかし、地上にある教会は完全ではありませんから、そこにまた貧富の問題、差別の問題も生じることはあったのです。そのような事情はパウロの手紙にも見られますし、このヤコブの手紙においても大きな部分を裂いてその問題が扱われています。ここで貧富の話が出てくるのは、後に扱われる問題に、前もって触れておくという意味もあったのでしょう。

 しかし、理由はそれだけではありません。あえて「試練」の話の中に置かれているのは、ここに書かれていることが「試練」に関係しているからです。実際、「試練」というテーマは、貧しい者にも富める者にも関係しているのです。

 貧しい者の苦しみの多くは欠乏から来ます。あるいは「貧しい者」というこの言葉は直訳すると「身分が低い者」となりますから、他者から見下されたり、卑しめられたりすることも含まれているのでしょう。しかし、そのような貧しい者に対して、「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい」と言われているのです。ここで「高められること」と訳されていますが、これは必ずしも未来のことを意味する表現ではありません。口語訳ではむしろ「自分が高くされたこと」と訳されています。もっと直訳に近いのは、「自分の高い身分」としている新改訳聖書です。

 ここであえて「貧しい《兄弟》は」と言われているのは、どんなに貧しくても、あくまでも「兄弟」であることが強調されているということです。つまり神の家族に属しているのです。互いに兄弟であると同時にキリストの兄弟でもあるのです。神の子とされているのです。王の王、主の主である方の家族とされているのです。既に、この上なく高貴な者とされているのです。この世における貧しさや身分の低さではなく、神によって与えられているその驚くべき事実に目を向けなくてはならない。そのことを喜び、そのことを誇れ、とヤコブは言っているのです。

 また富んでいる者の苦しみは、失うことへの恐れから、あるいは実際に失うことから来るものです。事実、当時のキリスト者は、財産を没収されることも少なくなかったのです。キリスト者となったために全財産を失い、名誉も失い、人々から卑しめられるようになることもあったのでしょう。そのようなことは、それまで人々からの誉れを受けてきた人にとっては実に辛いことであったに違いありません。しかし、「富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい」とヤコブは言うのです。なぜか。「富んでいる者は草花のように滅び去るからです」(10節)。

 これは必ずしも富んでいるから裁きを受けるという話ではありません。富は永遠ではなく、永遠に富んでいる者であり続けることはできない、という至極当たり前のことを言っているのです。いわば草花のようなものだと言われれば、それはそうでしょう。草は枯れ、花は散るときが来るのです。そして、富める者も必ず死を迎えます。富は死を免れさせはしません。続くと思っている人生は途中で絶たれるのです。そして当然のことながら、富をその向こうまで持って行くことはできません。全部手放すことになります。

 富んでいる者が低くされることを「誇る」とするならば、富が永遠ではなく草花のようなものだということを、身をもって知ることになるからでしょう。そして、もっと大きな価値、天の富に目を向ける者となれるからなのです。

 さて、12節において再び「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」という話に戻ります。その理由として、4節では、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と語られていました。ここでは同じことが次のように表現されています。「その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」と。

 先週申し上げたように、救いを完成し、私たちを完全に、大人にしてくださるのは神様です。ここに書かれていることは、人間の努力目標ではありません。私たちは、ただ忍耐をもって信仰に留まるだけです。神が精錬してくださるのです。しかし、その結果について、なんと神様はあたかも私たちが勝ち取ったかのように、栄冠をくださるというのです。神様がしてくださったにもかかわらず、私たちを誉めてくださる。もちろん忍耐することは大変なことです。でも、神様はそのことをも分かっていてくださる。認めてくださるのです。

 だから私たちは信仰に留まるのです。「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはならない」(13節)とヤコブが言うのはそのためです。簡単に言えば、「神様が悪い」と言ってはいけない、ということです。苦しい時、辛い時、どうしても言いたくなるかもしれません。「私が神様を離れて罪を犯したとしても、それは神様が悪いんだからね」、と。苦しみが誘惑として働くとき、そう言って自分が罪を犯すことを正当化したくなる。それは「神が罪へと誘惑したんだ」と言っているのと同じです。

 しかし、ヤコブはそうではないと言うのです。そこで罪へと引っ張って行くのは、神ではなく自分の欲望だと。それはそうなのです。同じ苦しみが誘惑にもなるし、忍耐から練達を生じる試練ともなる。神の意図は私たちを滅ぼすことではありません。私たちは忍耐強く信仰に留まることが求められているのです。

 そこで大切なことは、神の善意を信じることです。御父は、良い贈り物をくださる御方です。良いだけでなく、「完全な賜物」と書かれています。御父がくださる賜物は完全です。神様は不完全なものを私たちにくださるのではありません。この地上の父親は子どもに与えるものについて失敗することはありますが、天の御父が私たちにくださるものに、失敗はありません。

 そして、その御父は決して変わることはありません。イエス様を通して示された神の愛は、今日においても決して変わらないのです。天体には移り変わりがあります。変化があります。影があれば光が当たる部分もあり、それは刻一刻と変わります。しかし、御父は違います。神の善意は変わりません。その善意に満ちた御心によって、御父は真理の言葉を私たちに与え、新しく生まれさせてくださいました。私たちを神の国の初穂としてくださいました。私たちがキリスト者であるとはそういうことです。

 この賜物こそまさに完璧な賜物です。私たちには、既に全き救いが与えられているのです。私たちは既に与えられているものが完全に現れるのを待っているのです。忍耐強く信仰に留まりましょう。

(祈り)

2022年4月20日水曜日

祈祷会用:ヤコブの手紙 1:1~18

ヤコブの手紙 1:1‐18

 ヤコブの手紙第一章には「試練」という言葉が繰り返し出てきます。また「誘惑に遭う」あるいは「誘惑する」という言葉が出てきます。名詞と動詞の違いはありますが、基本的には同じ言葉が用いられています。「試練」と「誘惑」は、日本語としてはかなり意味合いが異なりますが、原文では同じ言葉です。

 それが指し示している具体的な事柄は信仰者の身に降りかかってくる苦難です。当時のキリスト者にとっては、迫害ということが大きな割合を占めていたに違いありません。しかし、ここに「いろいろな試練」とありますように、苦難の内容は必ずしも迫害だけではありません。ある場合は、教会の中に生じた混乱が苦しみの原因であったかもしれません。あるいはパウロが経験したように肉体に与えられた棘、すなわち病気かもしれません。苦難の内容は必ずしも単純ではありません。

 いずれにせよ、そのような苦しみは、確かに「誘惑」として働きます。人間を神から引き離し、罪へと引きずり込む力として働きます。しかし、そのように苦難が悪魔の力として働く場面は、また同時に、そこにおいて私たちの信仰が試される場面でもあります。信仰の内容が問われるのです。いったい誰を信じているのか。何を信じているのか。信仰を言い表して洗礼を受けたこと、信仰を言い表して聖餐に与っていること、それはいったい何を意味しているのか。内容を問われるのです。

 それゆえ「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(ヤコブ1・2)と書かれています。苦難が誘惑すなわち悪魔の力としての意味しか持たないならば、どう考えてもそれは喜びにはなりません。しかし、そうではないのです。私たちが経験するのは、単なる誘惑以上のことなのです。

 信仰が問われること、試されることは、それ自体悪ではありません。それはむしろ時として必要なことです。神にとってではありません。人間にとって必要なのです。それは良きものが私たちの内に生じるためです。聖書はそれを「忍耐」と呼びます。「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(3節)。

 信仰が試される時、信じてきたことの中身が問われます。私たち自身、もう一度自分の足場を見直さざるを得なくなります。そして私たちは、既におぼろげに見えているものを、もう一度はっきり見ようと望むようになります。目を凝らします。するとより良く見えてきます。信仰の内容と共に希望がはっきりと見えてくるのです。それが試練の中で起こるのです。

 そのように、信仰が試される場は、信仰が確かにされる場ともなり得ます。そのように人は信仰に留まる力を与えられるのです。そして、信仰に留まるということは、時として具体的な苦難の中にあえて留まるということをも意味します。放棄しない。逃げ出さない。神の御心がそこにあるならば、留まり続ける。それが忍耐です。信仰が試されることで、そこに忍耐が生じるのです。

 そして、ヤコブはさらにこのように言います。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(4節)。「あくまでも忍耐しなさい」というのは、「忍耐を十分に働かせなさい」という表現です。忍耐が働く時、それはさらに良きものをもたらすのです。しかし、それにしても「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」というのは言い過ぎではないでしょうか。確かに、これが単なる私たちの努力目標であるならば、とうてい受け入れることはできない。しかし、これは努力目標ではなく、信仰に留まるところにおける神の御業として語られているのです。

 ここの「完全」という言葉は「大人」を表す言葉です。そこにイメージされているのは成長です。そして、成長させてくださるのは神ご自身なのです。この箇所との関連で思い起こされるのは、ローマの信徒への手紙5章のパウロの言葉です。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3‐4)。

 ちょうど、ヤコブが言っていることは、この「練達」に当たります。これは金属に例えますならば、精錬を経て純度が上げられ、合格の品質となったことを意味する言葉です。そのように神が私たちを精錬してくださるのです。忍耐の働きは無駄におわりません。私たちを信仰者として成長させ、完成へと向かわせ、神の国へと備えるのです。そのことにおいて、私たちの内には大きな希望がますます確かにされていくのです

 しかし、そうは言いましても、「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」というヤコブの勧めは、やはり困難な勧めであると言えます。具体的な「試練」については、なかなか「この上ない喜び」とは思えないものです。しかし、そのような私たちであるからこそ、さらに次のように書かれているのです。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(5節)。

 ここで語られているのは一般的な意味における「知恵」ではありません。上手に苦難を回避して世渡りするための知恵ではありません。そのような知恵ならば神に求める必要はないでしょう。しかしもし私たちが単に苦難を回避するだけでなく、直面している現実の中に神が与えてくださっている意味や神の目的を見出し、忍耐強く留まろうとするならば、神からの洞察力、神からの知恵が必要となります。だから神に求めねばならないのです。

 実際、私たちの日常には、「なぜ」と問わざるを得ないことは少なくありません。「なぜこんなことが起こるのか」。「なぜ私はこんな目に遭うのか」。自分の周りを見回しても、わけの分からないことがあまりに多いように思えます。しかし、私たちが「なぜ」と口にする時、必ずしも答えを求めているとは限りません。私たちが本当に分かりたい、知りたい、と思っているとは限らない。人にせよ神にせよ誰かを責めたいだけかもしれません。

 もし本当に答えが欲しいなら、もし本当に分かりたいと思うなら、知りたいと思うなら、やはり私たちは本気で神に向かわなくてはならないのです。本気で神に求めなくてはならないのです。現実を理解するための知恵を、本気で神に求めるべきなのです。「もう神を信じられない」などとつぶやいている場合ではありません。聖書は、「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。疑う者は、風に吹かれて揺れ動く海の波に似ています。そういう人は、主から何かいただけると思ってはなりません」(6‐7節)と語ります。そうです、疑ってなどいる場合ではありません。私たちは、神に求め神から受けるのでなければ、結局は人の知恵、自分の知恵、自分の理解力をもって生きるしかないのです。そして、自分の知恵をもって生きるなら、結局、一生「なぜ、なぜ」とぼやきながら生きるか、どこかで諦めて、問うことを終わりにするしかないのです。

 苦難は自動的に忍耐を生み出し、練達へと導くわけではありません。それは自然に信仰者の成長へと結びつくわけではありません。先にも申しましたように、それは第一には誘惑として働くのです。悪魔の力として働くのです。そのような誘惑に陥らないために必要なのは神からの知恵です。ですから、ヤコブが言うように、私たちは、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えくださる神に、願い求めるべきなのです。

(祈り)

2022年2月20日日曜日

「互いのために祈りなさい」

ヤコブの手紙 5:12‐20

苦しみにおいても、喜びにおいても
 本日の第2朗読ではヤコブの手紙が読まれました。13節には次のように書かれていました「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」(13節)。

 苦しんでいるときに、その苦しみを打ち明けることのできる誰かがそばにいる人は幸いです。また、喜びを抱いている時に、その喜びを分かち合い、一緒に喜んでくれる人がそばにいる人は幸いです。しかし、そのような人がいる人であっても、いない人であっても、大事なことは、苦しみの内にある時に、あるいは喜びを抱いている時に、まずは人の所にではなく、神様のところに持って行くということです。苦しみも喜びもそのまま携えていく。「あなたがたの中で苦しんでいる人は、祈りなさい。喜んでいる人は、賛美の歌をうたいなさい」(13節)とはそういうことです。

 苦しい時には、神様に向かって「苦しいです」とそのまま言ったらよいのです。その苦しみを神様の前に携えて行って注ぎ出す。するとそこで何が起こるのでしょう。その苦しみによって、神と人とが結びつくのです。苦しみのゆえに、さらに深く結びつくのです。

 そのような祈りの実例を、私たちは詩編の中に数多く見ることができます。詩編全150編の内の多くは「嘆きの歌」として分類されます。詩編に嘆きの歌が多いということは、言い換えるならば、嘆きの中において人は繰り返し神と共にあること、そして神との豊かな交わりを経験してきたということなのです。

 例えば詩編130編はこのような言葉から始まっています。「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈るわたしの声に耳を傾けてください」(詩編130:1‐2)。彼が「深い淵の底」と呼んでいる具体的な状況は分かりません。それが病気なのか、人生の失敗なのか、人間関係における苦悩なのか、外敵による迫害なのか分かりません。しかし、そこから彼は声の限りに神を呼ぶのです。「主よ、この声を聞きとってください」と。

 その言葉から分かるように、初めに彼が苦しみの中で経験しているのは、遠くにいる神なのです。だから「この声を聞きとってください」と叫ばざるを得ない。しかし、詩編はこのように続くのです。「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐ええましょう。しかし、赦しはあなたのもとにあり、人はあなたを畏れ敬うのです」(同3-4節)。その苦しみの深き淵の底において彼が知ったのは、自らの罪深さであり、そして、その罪を赦してなお共にいてくださる神の恵みだったのです。いわば彼は、深い淵の底にいながらも、そこで救いの神に出会っているのです。それは詩編の中の一例に過ぎません。しかし、確かに聖書は苦しみにおいて神と結びついた多くの人の姿を私たちに示していると言えるでしょう。

 同じことは喜びについても言えます。人は喜びによっても、神と結びつくことができるのです。人が喜びを抱くのは、喜びをもたらす出来事があるからでしょう。それは何でしょうか。願ったことが実現したことでしょうか。あるいは願いもしなかった喜ばしいことが実現したことでしょうか。しかし、本当に大事なことは、その出来事そのものにではなく、その背後におられる神様に目を向けることなのです。喜びにおいて神を賛美するとはそういうことです。

 この世の出来事は過ぎ去り、移り変わります。喜ばしい出来事もそれはやがて過ぎゆく人生の一こまに過ぎません。しかし、私たちは神を賛美することによって、この地上の一時的な出来事を通して、永遠なる神と共にいることができるのです。そして、一時的でない永遠の喜びに触れることができるのです。

誰かに祈ってもらうという関係
 そのように、苦しみにしても喜びにしても、まず神のもとに持って行く。祈りにおいて賛美において神のもとに持っていく。そのような神との関わりに生きる時、人との関係も変わってくるのです。

 14節においてまず語られているのは、教会の長老との関係です。ここで「長老」というのは、今日の教会で言えば「役員」であるとも言えますし、あるいは「牧師」を指すと言うこともできます。「苦しみ」の具体的な一つの例として挙げることができるのは「病気」でしょう。それゆえにヤコブはさらに次のように勧めるのです。「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい」(14節)。そのように、「病気」という具体的な一つの苦しみが、「誰かに祈ってもらう」という関係を生み出すのです。

 そのような関係を象徴する麗しい出来事を、今日の福音書朗読において読まれた箇所は伝えています。屋根を壊して中風の人をつり降ろした四人の男たちの姿がそこに描かれていました。中風という病気による一人の人の苦しみは何を生み出したのでしょうか。屋根をぶち壊してでもイエス様のもとに連れて行ってあげたいという四人の男と、この中風の人との関係を生み出したのです。そして、彼らの関わりをイエス様も目にしていました。聖書は何と伝えていますか。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」(5節)。まさにそれは、彼らの信仰の目に見える現れだったのです。

 「病気」という具体的な一つの苦しみ生み出した、その人をイエス様のもとに連れて行くという関係――それはまさに、「病気」という具体的な一つの苦しみが、「誰かに祈ってもらう」という関係を生み出すことを指し示す、象徴的な出来事であったといえるでしょう。

 そのような関係における祈りについて、聖書にはさらに次のように書かれています。「信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます」(15節)。すなわち、イエス様が癒してくださる、ということです。

 今日の福音書朗読もそうですが、福音書にはイエス様が病気を癒されたという話が繰り返し出てきます。そして、聖書によれば、それはイエス様が地上を歩いておられた時だけでなく、その後にも主は癒しの業を続けておられる、ということが分かります。使徒言行録には、イエス様がなさった癒しの業が、今度は使徒たちと教会を通して行われていることが伝えられています。今日お読みしたヤコブの手紙を見ても、人の祈りを通して、主が癒しの業をなさっていることが分かります。

 実際、教会生活をしていますと、様々な形で神の「癒し」を経験いたします。ところで「癒し」とは何でしょう。聖書的に見るならば、それは神の国のしるしです。神の国の前味と表現しても良いかもしれません。私たちが神の国に入れられるのは将来のことであったとしても、私たちは既に神の国を経験しながら生きているのです。神の国の前味。それが信仰生活です。

 神の国を考えるならば、私たちが今どのような病気を患っていたとしても、最終的には完全に癒されると言うことができます。神の国に病気はないのですから。それは完全に命の支配する世界であり、完全な癒しの世界です。そのような神の国を、私たちは今、信仰生活において、様々な形で味わいながら生きているのです。ですから、神の国の味わいを病気の癒しという形で体験することはあります。もちろん、「病気」そのものは治らないこともあります。人生最後の病気は治りません。しかし、神の国を味わいながら平安の内に天に召されるならば、それもまた、もう一つの癒しの経験であると言えるでしょう。

 そして、さらに、「その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます」(15節)と書かれています。全ての病気を罪と結びつけることは避けなくてはなりませんが、多くの場合において、病気や様々な苦しみが罪に起因することは事実です。主は癒してくださるだけでなく、その根底にある罪をも赦してくださいます。罪を赦すことは最終的には永遠なる神にしかできないことです。そのように、苦しみの中で「誰かに祈ってもらう」時に、あの詩編130編のように、そこで神の赦しにあずかり、永遠の命の世界に触れるということが起こるのです。

罪を告白し合いなさい
 そして、それは教会の長老との間に留まりません。本来は長老であるなしにかかわらず、信徒相互の関係がそのようなものであるはずなのです。それゆえに、ヤコブは次のように続けます。「だから、主にいやしていただくために、罪を告白し合い、互いのために祈りなさい」(16節)。罪を告白し合うというのは、自分の最も暗い部分を明らかにすることであり、自分の弱さや惨めさをさらけ出すことです。それを為しえるとするならば、その「お互い」がキリストのもとにあり、十字架のもとにある時だけであると言えるでしょう。

 立派で正しい人であるかもしれないけれど他人を裁いて見下している人に対して、自分の問題を話して「お祈りしてください」と言えるでしょうか。絶対に言えないだろうと思います。私たちが自分の罪に関わる問題を口にして「お祈りしてください」と言えるとするならば、それはそれぞれがイエス様の十字架のもとに身を置いて「わたしの罪を赦してください」と祈る者である時だけなのです。ただ主の恵みによって赦され救われたことを知る者だけが、互いに罪を告白し、祈り合うことができるのです。

 そして、本来、それこそが教会の交わりなのです。教会にしかない互いの関係であるはずなのです。ただ親しい友人というだけならば、何も教会の中だけでなく外にもいるでしょう。人間的な意味では、教会の外の人の方が親しいということもあり得るでしょう。しかし、教会にしかない関係があるのです。それは「お互いのために祈る」という関係です。自分の問題を口にして「祈ってください」と言える関係です。そのような関係を知らないならば、それは教会の交わりを知らないに等しいのです。それは実に残念なことです。私は頌栄教会の人がそのような関係に生きるお互いであって欲しいと思います。

 そのように互いに祈る関係において、人は神の国に触れるのです。この地上において神の御業を見るのです。「正しい人の祈りは、大きな力があり、効果をもたらします」(16節)とヤコブは言います。その正しさとは、神との関係における正しさです。その意味においては、私たちは皆、イエス・キリストによって罪を贖われ、神との関係において義人とされているのではありませんか。神の国がこの地上に現れるための通路となるのは、何も特別な人ではありません。「エリヤは、わたしたちと同じような人間でした」と書かれています。私たちがお互いのために祈る時、お互いが神の御業の現れるための通路となるのです。

(祈り)

2021年9月12日日曜日

「分け隔てをしてはなりません」

ヤコブの手紙 2:1-13

分け隔てをしてはなりません
 今日の箇所では、「わたしの兄弟たち、栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てしてはなりません」(1節)と語られています。それが人道的に良くないことだから「人を分け隔てしてはなりません」と言っているのではありません。主イエス・キリストを信じる信仰と「分け隔て」とは本来相容れないものであるからです。それゆえに、「《わたしたちの主イエス・キリストを信じながら》、人を分け隔てしてはなりません」と言っているのです。

 そして次のような一例が挙げられています。「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(2‐4節)。

 いかにもえげつない話です。世の人が聞いたなら、「信仰云々の前に人としてどうなのか」と言われるかもしれません。しかし、ここに書かれているのは、単にこの世の差別意識が教会にも持ち込まれたという単純な話ではないのです。このようなことは、教会生活を大事にし、教会のことを真剣に考える敬虔な人々であるからこそ、起こっていたのかも知れないのです。

 そもそも、初期の教会で「立派な身なりの人」が優遇されていたとするならば、それはそのような人の存在が教会にとって有利であったからです。実際には貧しい人が多く、奴隷の身分の人も決して少なくはなかった初期の教会の話です。聖餐のパンや食事も、主に共同体の中の比較的裕福な人々が用意したのです。集会の場所もある程度広い場所が確保できる裕福な人たちが提供していたのです。

 そればかりではありません。迫害もあれば、様々な形での妨害もあります。6節以下に書かれているように、この世の富裕層から酷い目に遭わされたり、脅かされたりすることが実際にあったのでしょう。そのような時、教会の中にある程度力を持った人間がいること、富裕層の人たちがいることは実際的に大きな助けとなったことが考えられるのです。

 ですから、ヤコブがここで挙げている一例は、先にも申しましたように、実際には不敬虔でいかにもこの世的な人々によって起こるだけでなく、一見すると敬虔で信仰的で教会をとても大切にしている人々によっても起こるのです。教会を大切に思う人が、教会を守りたい一心で、ある人の存在を教会にとって有利か否か、役に立つか否かという判断をしてしまう。そして、それが結果的に「分け隔て」や「差別」を生み出してしまうということが起こるのです。

 ですから、それはこの例のような金銭的な富だけでなく、能力や年齢、性別などによっても起こり得ます。例えば、日本の多くの教会において、「若い人がもっと教会に来て欲しい」と言う声が聞かれます。それは純粋に若い人たちを愛して、若い人たちに福音を伝えたいという願いから出た言葉であるかもしれません。しかし、同じ言葉であっても、「日本の教会は高齢化しているから、もっと若い人たちに来て欲しい」という意味であったらどうでしょう。教会を維持するために必要だというだけならば、今日の聖書箇所に書かれている事例と内容的には少しも変わりません。それは「お金持ちがもっと教会に来て欲しい」と言うのと変わらないでしょう。そのように、今日の聖書箇所のようなあからさまな形でなくて、時として非常に見えにくい形で、分け隔てや差別は起こってくるのです。

 そして、さらに言うならば、そのような分け隔ては「他者」に対して行われるだけではありません。「自分」に対しても起こり得ます。他の人について「あの人は必要、あの人は必要ではない」というだけでなく、自分についても「わたしは必要な人」と考え、あるいは「わたしは必要ない人」と考える。しかし、それは他者を見る目がそのまま自分に向けられているだけなのです。自分は貧しいからいてもいなくてもいい人。自分は能力がないから必要ない人。そのように、自分は~だから必要のない人と思っている人は、まず自分が他の人をどう見て、どう判断しているかを省みてみる必要があろのです。

目を向けるべきところに向けて
 そこで私たちは特に、4節の御言葉を心に留めたいと思います。「あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか」(4節)。

 ここで「誤った考え」とあるのは原文では「悪い考え」という言葉です。確かに差別は悪いことです。それは「悪い考えに基づく判断だ」と言うことができるでしょう。しかし、ここでヤコブが言っているのは、そのようなことではありません。冒頭で触れたように、要するにそれは信仰とは相容れないということなのです。あくまでも問題は信仰に関わることなのです。信仰によって本当に見るべきところに目を向けているか、信仰によって価値あるものを価値あるものとして見ているかどうか、ということなのです。そうなっていない時に起こってくる考えとそれに基づく判断。それが「悪い考えに基づいて判断を下した」と書かれている内容なのです。

 ですから「よく聞きなさい」と言って、ヤコブは見るべきところに目を向けさせようとします。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか」(5節)。彼はどこに目を向けていますか。肉の目が見ているのは、教会の中にいる貧しい一人の信徒です。しかし、ヤコブが指し示しているのは、神が信仰に富ませてくださったという事実です。そうです、既にこの上なく豊かなのです。

 神が信仰に富ませてくださった。その「信仰」とは、1節にあるように「栄光に満ちた、わたしたちの主イエス・キリストを信じる信仰」です。すなわちイエス・キリストによって実現したことに心を向ける信仰です。それは、キリストの十字架のゆえに罪の赦しにあずかったこと、神に受け入れられ神の子供たちとされ、そこに書かれているように「御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者」とされたということです。

 そのように、神が既にしてくださった偉大なことがあるのです。神が既にしてくださった偉大なことに、私たちが等しく与っているという事実があるのです。そのようなお互いであることに目を向けないから、他のことに目が行くのです。この世的な違いに目が行くのです。自分たちにとって有利か不利か、役に立つか立たないかというところにばかり目がいくのです。そして結果的には神がしてくださった大いなることを踏みにじることになるのです。例えばここに書かれているように「貧しい人を辱めた」という形で起こってくるのです。

憐れみは裁きに打ち勝つ
 さて、このように今日の聖書箇所においては「人を分け隔てしてはなりません」という勧めがなされていたのですが、最後に、この部分が次のように締めくくられていることに注目しておきたいと思います。次のように書かれています。「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」(13節)。

 ここで「憐れみをかける」という話が出て来るのはいささか唐突な感じがしないでもありません。「人を分け隔てしない」ということと「憐れみをかける」ということは、基本的には別なことのように思います。また、そのように扱うことが正しいように思えます。というのも、「分け隔てをしない」ということが、イコール「憐れみをかける」ということになりますと、何か上から人を見て「分け隔てをしないであげよう」という意味合いにもなりかねませんから。

 しかし、今日の福音書朗読において読まれたイエス様のたとえ話に耳を傾ける時、「憐れみをかける」という言葉は全く違った意味合いをもって響いてまいります。そこで語られていたのは、王によって一万タラントンの借金を帳消しにされた家来の話でした。借金を帳消しにされた家来が外に出ると、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会います。百デナリオンは一万タラントンの六十万分の一です。自分は六十万倍もの借金を帳消しにしてもらったにもかかわらず、彼はその仲間の首を絞めて「借金を返せ」と言い、借金を返すまでと牢に入れた」というのです。

 それを聞いた王は怒りました。そして、こう言ったのです。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」(マタイ18:32‐33)。

 この王とは神であり家来は私たちです。「憐れんでやるべきではなかったか」と神は言われます。その根拠は神の「憐れみ」です。「わたしがお前を憐れんでやったように」と神は言われるのです。ですから、要するに「憐れみをかける」とは、神がしてくださったことに目を向けて、神がしてくださったことに基づいて判断し、行動することなのです。

 「分け隔てをしない」ということは、まさにそのようなことではありませんか。神様がしてくださったことに基づいて判断し、行動するならば、分け隔ては起こらないはずなのです。そうでない判断は「悪い考えに基づく判断」と呼ばれていました。ちなみに4節で「判断を下した」と訳されているのは「裁く者となった」という言葉です。悪い考えに基づく裁き、すなわち神がしてくださったことを思わない「裁き」、それが「憐れみをかけない」ということです。「憐れみをかけない」ならば、「憐れみのない裁きが下されます」と語られているのです。

 私たちに対する神の憐れみがなかったかのように私たちが他者を裁くなら、そのように私たちも神に裁かれることになるでしょう。自分が裁く裁きで裁かれるのです。逆に神の憐れみが先にあることを思いつつ、それに基づいて裁く(すなわち「判断する」)なら、そのように神もまた憐れみに基づいて裁いてくださるのです。私たちにおいて「憐れみが裁きに打ち勝つ」なら、神においても「憐れみが裁きに打ち勝つ」のです。そうです、その時には憐れみの方が裁きよりも遙かに大きいのです。

(祈り)

2020年2月16日日曜日

「試練から生まれるもの」

ヤコブ1:2‐5

誘惑と試練
 本日の第2朗読は「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(2節)という言葉から始まりました。「試練」と訳されているこの言葉は、多くの場合「誘惑」と訳されます。「試練」と「誘惑」は、日本語としてはかなり意味合いが異なりますが、原文では同じ言葉です。

 この手紙の文脈において「試練」と訳されている言葉が指し示している具体的な事柄は明らかです。信仰者の身に降りかかってくる苦難です。当時のキリスト者にとっては、迫害ということが大きな割合を占めていたに違いありません。しかし、ここに「いろいろな試練」とありますように、苦難の内容は必ずしも迫害だけではありません。ある場合は、教会の中に生じた混乱が苦しみの原因であったかもしれません。あるいは、パウロが経験したように、肉体に与えられた棘、すなわち病気が苦しみの大きな原因となっていたかもしれません。いくつかの苦しみは互いに絡み合っているものです。苦難の内容は必ずしも単純ではありません。

 いずれにせよ、それがいかなる苦難であれ、苦難は確かに「誘惑」としても働きます。人間を神から引き離す力として働くのです。苦難は神への「信頼」から「疑い」へと導きます。そして、人間を罪へと引きずり込む力として働きます。人間を死へと導く力として働きます。苦難は確かに人間に対して悪魔の力として働くのです。

 しかし、そのように苦難が悪魔の力として働く場面はまた、そこにおいて私たちの信仰が試される場面でもあります。それは私たちの信仰の内実が問われる場面であると言ってもよいでしょう。私たちはいったい誰を信じているのか。何を信じているのか。どのように信じているのか。そのことが問われるのです。

 毎週の礼拝において信仰告白を唱和していること、それはいったい何を意味しているのでしょうか。信仰を言い表して洗礼を受けたこと、信仰を言い表して聖餐に与っていること、それはいったい何を意味しているのでしょうか。そのことが問われます。私たちは確かに具体的な苦難の中で、悪魔の力が神から私たちを引き離そうと働く中で、信仰が試され、普段私たちが信仰と呼んでいるものの内実を問われるのです。

 そこでヤコブの手紙は次のように私たちに語りかけるのです。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(ヤコブ1:2)。もし、苦難が誘惑でしかないならば、悪魔の力としての意味しか持たないならば、どう考えてもそれは喜びにはなりません。しかし、そうではないのです。既に述べたように、私たちが経験するのは、単なる誘惑以上のことなのです。

 信仰が問われること、試されることは、それ自体悪ではありません。それはむしろ時として人間に必要なことなのです。そうです、それは神にとって必要なのではありません。私たちの信仰を知るために、わざわざ神が人間にテストを課す必要はありません。それは神にとって必要なのではなく、人間にとって必要なのです。それは良きものが私たちの内に生じるためです。その良きものとは何でしょうか。聖書はそれを「忍耐」と呼びます。「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(3節)と書かれているとおりです。

 ここで言われている「忍耐」とは、人間の性質としての「我慢強さ」のことではありません。我慢強さということならば、生来我慢強い人もいれば、そうでない人もいます。しかし、ヤコブが語っているのは、そのような人間の性質のことではありません。彼がここで「わたしの兄弟たち」と言って語りかけていることに注意してください。彼は信仰における兄弟たちに語りかけているのです。ここで話題とされているのは、あくまでも信仰に関することなのです。この「忍耐」という言葉はもともと「留まる」という言葉に由来します。それはあえて留まることのできる力です。どこに留まるのでしょう。信仰に留まることです。

 信仰に留まると言いましても、その信仰の内容が明瞭でないならば、留まることはできないでしょう。誰を信じているのか。何を信じているのか。どのように信じているのか。漠然としているならば、留まることはできないでしょう。しかし、既に申しましたように、試練の中で、信じている私たちが問われます。信仰の中身を問われるのです。ですから、私たちも自らに問わざるを得なくなります。「私は誰を信じているのか。何を信じているのか。どのように信じているのか」と。

 そして私たちは、既におぼろげに見えているものを、もう一度はっきり見ようと望むようになります。かすかに聞こえていたものをはっきりと聞き取ろうとするようになります。目を凝らします。耳を澄ませます。するとより良く見えてきます。より良く聞こえてきます。漠然としていたことがはっきりとしてきます。信仰の内容がはっきり見えてくるならば、信仰と共に希望がはっきりと見えてくるのです。それが試練の中で起こることです。

 こうして講壇に立って皆さんと共に礼拝をしていると良く分かります。試練の中にある人の目の輝きが変わってくる。聖書を開く顔つきが変わってくる。礼拝をしている時の姿勢が変わってくる。そのようなことが起こります。そのように、信仰が試される場は、信仰が確かにされる場ともなり得ます。希望が確かにされる場ともなり得ます。そのようにして、人は信仰に留まる力を与えられるのです。忍耐が与えられるのです。

 そして、信仰に留まるということは、時として与えられている具体的なその場にあえて留まるということをも意味いたします。放棄しないことです。逃げ出さないことです。神の御心がそこにあるならば、留まり続ける。それが忍耐です。信仰が試されることで、そこに忍耐が生じるのです。

 そして、ヤコブはさらにこのように言います。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(4節)。「あくまでも忍耐しなさい」というのは、「忍耐を十分に働かせなさい」という表現です。忍耐が働き始める時、忍耐はさらに良きものをもたらすのです。

 しかし、それにしても「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」というのは言い過ぎではないでしょうか。確かに、これが単なる私たちの努力目標であるならば、とうてい受け入れることはできないでしょう。しかし、これはあくまでも信仰に留まるところにおける神の御業として語られているのです。ここの「完全」という言葉は「大人」を表す言葉です。そこにイメージされているのは成長です。そして、成長させてくださるのは神ご自身なのです。

 この箇所との関連で思い起こされるのは、ローマの信徒への手紙5章のパウロの言葉でしょう。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3‐4)。ちょうど、ヤコブが言っていることは、この「練達」に当たります。これは金属に例えますならば、精錬を経て純度が上げられ、合格の品質となったことを意味する言葉です。そのように神が私たちを精錬してくださるのです。忍耐の働きは無駄におわりません。私たちを信仰者として成長させ、完成へと向かわせ、神の国へと備えるのです。そのことにおいて、私たちの内には大きな希望がますます確かにされていくのです


知恵を求めよ
 しかし、それでもなお現実の信仰生活において、「いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」というヤコブの勧めは、やはり困難な勧めであると言えるでしょう。こうして静かに礼拝の場に座っている時は良いけれど、いざ日常の生活の中に置かれる時、なかなか聖書の言葉と現実とが結びつかないということが起こってまいります。抽象的な概念ではなく、具体的な「試練」については、なかなか「この上ない喜び」とは思えないものです。

 しかし、そのような私たちであるからこそ、さらに次のように書かれているのです。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(5節)。

 ここでも語られているのは一般的な意味における「知恵」ではありません。苦難に満ちた世を上手に渡っていくための処世の知恵でもありません。そのような知恵ならば、何も神に求める必要はないでしょう。しかし、もし私たちが、単に苦難を回避するだけでなく、今直面している現実の中に神が与えてくださっている意味、神が持っておられる目的を見出して生きていこうとするならば、神から与えられる洞察力、神からの知恵が必要となります。だから神に求めねばならないのです。

 実際、私たちの日常には、「なぜ」と問わざるを得ないことは少なくありません。「なぜこんなことが起こるのか」。「なぜよりによってこの私に起こったのか」。「なぜ私ばかりこんな目に遭うのか」。自分の周りを見回しても、わけの分からないことがあまりに多いように思えます。しかし、考えてみてください。私たちが「なぜ?なぜ?」と口にしている時、必ずしも答えを求めているとは限らないでしょう。「ああ、分からない」と言っている時、私たちが本当に分かりたい、知りたい、と思っているとは限らないでしょう。

 もし本当に答えが欲しいなら、もし本当に分かりたいと思うなら、知りたいと思うなら、やはり私たちは宙に向かってボヤいたり、人に向かって問うていたりするだけではだめなのです。神に向かわなくてはならないのです。そして、神に向かうとするならば、本気で向かうべきなのです。現実を理解するための知恵を、本気で神に求めるべきなのです。私たちは、神に求め、神から受けるのでなければ、結局は人の知恵、自分の知恵、自分の理解力をもって生きるしかありません。そして、自分の知恵をもって生きるなら、結局は、一生「なぜ、なぜ」を繰り返しながら生きるか、あるいはどこかで諦めて、問うことを終わりにするしかないのでしょう。

 苦難は自動的に忍耐を生み出し、練達へと導くわけではありません。それは自ずと信仰者の成長へと結びつくわけではありません。先にも申しましたように、それは第一に誘惑として働くのです。悪魔の力として働くのです。そのような誘惑に陥らないために必要なのは神からの知恵です。ですから、ヤコブが言うように、私たちは神に知恵を願い求めるのです。神は「誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えくださる神」であると書かれています。神に問うてもとがめられることはありません。神は惜しみなく与えてくださいます。
(祈り)

2016年1月31日日曜日

「試練がこの上ない喜びに」

2016年1月31日   
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヤコブの手紙 1章2節~8節


この上ない喜びと思いなさい
 「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(2節)。本日の聖書箇所はこのような言葉から始まっていました。

 このような言葉に出会いますと、まず考えるのは「そんなことがいったい可能だろうか」ということだろうと思います。わたしもこれまで何度この言葉の前に立ち尽くしたことかと思います。しかし、この聖書の言葉を前にして可能か否かを考えていることは恐らく意味がないのです。なぜなら、これを書いているヤコブはそんなことを全く問題にしていないからです。「この上ない喜びと思いなさい」と彼は言うのは、そう思ってよいことを知っているからなのです。

 それが何であれ、その価値を知っている人は言うことができます。「それを得たなら、喜びと思いなさい」と。例えば、家に昔からある汚い古い壺。「じゃまだな。こんなもの取っておいて何の意味があるのかな」とその家の人が思っています。しかし、それが実は室町時代の著名な作家の作品だと知っている人は言えるのです。「それを持っているなら、この上ない喜びと思いなさい」と。

 ヤコブは試練の価値を知っているからこう言えるのです。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」。いや本当はあなたたちも知っているはずでしょう、と言わんばかりです。彼はこう続けるのです。「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(3節)。「忍耐が生じる」。そこに彼はこの上ない価値を見出しているのです。さて、私たちはそこにどれほどの価値を見出しているでしょう。

信仰が試されて忍耐が生じる
 試練の時、私たちが往々にして求めるのは私たちの外にある何かが変わることです。その試練が、例えば迫害であるならば、迫害がなくなることを求めるのでしょう。ここでは「いろいろな試練」とありますから、必ずしもヤコブが考えているのは迫害だけではありません。次から次へと襲い来る困難な状況、理不尽な仕打ち、苦しみ、悲しみ。そのような中にあったなら、やはり困難な状況がなくなるように、苦しみをもたらす人々がいなくなるようにと願うものでしょう。

 しかし、試練の中にあって本当に重要なことは外なるものの変化ではなくて内なるものの変化なのです。試練の中で何が起こってくるのか。そこで「信仰が試される」のだと彼は言います。何もなければ「わたしはまったく不信仰で・・・」などと平気で言っていられるかもしれません。しかし、試練の中においては、それでもなお信じるのか、どこまでも信じるのか、信仰に留まるのかが問われます。
 そこでなお信じるとするならば、真剣にならざるを得ない。そこで既におぼろげに見えているものを、もう一度はっきり見ようと望むようになります。かすかに聞こえていたものをはっきりと聞き取ろうとするようになります。目を凝らします。耳を澄ませます。するとより良く見えてくる。より良く聞こえてくる。信仰による希望がはっきりと見えてくる。そのようなことが試練の中で起こるのです。

 それは皆さんと共に教会生活をしていると良く分かります。試練の中にある人の目の輝きが変わってくる。聖書を開く顔つきが変わってくる。礼拝をしている時の姿が変わってくる。そのようなことは確かに起こります。このように、信仰が試される時は、信仰が確かにされる時ともなるのです。希望が確かにされる時ともなるのです。

 そこから何が生じるのでしょう。忍耐が生じるのだ、とヤコブは言うのです。「忍耐」という言葉は「留まる」という言葉に由来します。それは留まる力です。どこに留まるのか。信仰に留まるのです。ですからこれはまた「期待」とか「待望」をも意味する言葉でもあります。ただ留まるだけではない。そこから希望をもって未来に目を向けるのです。どんな時にも、どんな状況においても、信仰に留まり、希望を失わないでいられるようになること。忍耐が生じるとはそういうことです。

 外なる変化ではなく、内的な変化、内側に生じる忍耐という変化の方がはるかに価値あることは明らかです。なぜなら外なるものはいずれ移り変わっていくからです。苦しみをもたらすものが取り除かれたとしても、別な苦しみがやってくるのです。やっかいな人がいなくなったとしても、別なやっかいな人が現れるのです。外なるものの変化は最終的な解決にはならないのです。

 しかし、内に生じたものは、真に身に着けたものは、周りが変わっても変わらないで残ります。それはどこに行っても、どんな状況に置かれても、ついてまわります。自分の内にあるのですから。良いものが内に生じるなら、それは一生ついてまわるのです。それほどありがたいことはない。大切なことは、良いものが内に生じることです。

 そして、忍耐という良いものが生じるならば、信仰に留まり続け、神との交わりに留まり続けるわけですから、忍耐だけで終わることはないのです。ヤコブはさらに言います。「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(4節)。

 「あくまでも忍耐しなさい」というのは、「忍耐を十分に働かせなさい」という表現です。忍耐は働くのです。そして、さらに良きものをもたらすのです。しかし、それにしても「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」というのは言い過ぎではないでしょうか。確かに、これが単なる私たちの努力目標であるならば、「それは無理です」と言わざるを得ない。しかし、これは努力目標ではなく、信仰に留まるところにおける神の御業として語られているのです。だから感謝して信じるのです。

 ここの「完全」という言葉は「大人」を表す言葉です。そこにイメージされているのは成長です。そして、成長させてくださるのは神ご自身なのです。この箇所との関連で思い起こされるのは、ローマの信徒への手紙5章のパウロの言葉です。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3‐4)。

 ちょうど、ヤコブが言っていることは、この「練達」に当たります。これは金属に例えますならば、精錬を経て純度が上げられ、合格の品質となったことを意味する言葉です。そのように神が私たちを精錬してくださるのです。忍耐の働きは無駄におわりません。私たちを信仰者として成長させ、完成へと向かわせ、神の国へと備えるのです。そのことにおいて、私たちの内には大きな希望がますます確かにされていくのです。

 それゆえヤコブは言うのです。「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」。それは価値を知る人の言葉、喜びと思って良いことを知っている人の言葉です。

知恵を求めよ
 しかし、「試練」と訳されているこの言葉はまた「誘惑」とも訳される言葉でもあります。一つの苦難は既に述べたような価値ある「試練」ともなり得ます。しかし、同じ苦難が「誘惑」ともなり得るのです。それは人間を神から引き離し、罪へと引きずり込む力としても働き得るのです。だからこそ、ヤコブはさらに続けてこう語るのです。「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。そうすれば、与えられます」(5節)。

 ここで語られているのは一般的な意味における「知恵」ではありません。問題を回避しながら上手く世渡りするための知恵でもありません。そのような知恵ならば神に求める必要はないでしょう。しかし、悪魔の欺きによって神から引き離されないためには、神からの知恵が必要です。苦難を誘惑にしないためには知恵が必要です。直面している現実の中に神が与えてくださっている価値あるものをしっかりと見て生きるためには、神からの知恵が必要となります。だから神に求めねばならないのです。

 実際、私たちの日常には「なぜ」と問わざるを得ないようなことが起こります。この世界の現実を見ていても「なぜ」と問わざるを得ないのです。「なぜこんなことが起こるのか」。「なぜこんな目に遭うのか」。しかし、もしただ「なぜ」を宙に向かって、あるいは人に向かって繰り返しているだけならば、それは誘惑に対して扉を開くことになります。悪魔はいくらでもそこから入ってきて人を神から引き離しにかかるでしょう。

 もし本当に答えが欲しいなら、もし本当に分かりたいと思うなら、知りたいと思うなら、やはり私たちは宙に向かってボヤいたり、人に向かって問うているだけではだめなのです。詩編の中にも見るように、本気で神に向かわなくてはならないのです。本気で神に問わなくてはならない。現実を正しく見るための知恵を、本気で神に求めなくてはなりません。「神様、わたしはあなたを信じられない」などと言っている場合ではありません。聖書は、「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい」(6‐7節)と語ります。

 そうです。疑ってなどいられる場合ではありません。神に求め神から受けるのでなければ、結局は粗末な人間の知恵、自分の知恵をもって生きるしかないのです。そして、苦難があれば誰かを悪者にし、挙げ句の果てには神を悪者にして生きるか、あるいはもう何も問うことなく現実に目をつぶって生きるしかないのです。そこでは何も良きものは内に生じることもないでしょう。

 そのように、苦難は自動的に忍耐を生み出し、練達へと導くわけではありません。それは自ずと信仰者の成長へと結びつくわけではありません。苦難は自動的に価値ある「試練」になるわけではありません。それは誘惑としても働くのです。悪魔の力としても働くのです。そのような誘惑に陥らないためにも、必要なのは神からの知恵です。苦難の中にある時にこそ神に向かなくてはなりません。祈らなくてはなりません。ヤコブが言うように、私たちは、誰にでも惜しみなくとがめだてしないでお与えくださる神に知恵を願い求めるべきなのです。

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