2025/3/9 主日礼拝説教
聖書:ヤコブの手紙 1:9-18
今日の第2朗読はヤコブの手紙1章9節からでした。その直前に書かれていることはすべて「試練」ということに関係しています。2節から8節までは一つのまとまりなのですが、その部分は、「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」という言葉から始まっているのです。
当時のキリスト者にとって、具体的に最も身近な試練と言えば、それは「迫害」であったと言うことができます。しかし、「いろいろな試練」と書かれているところを見ますと、ヤコブが念頭に置いているのは、もっと広い意味での様々な苦難であろうと思われます。
さて、そのような試練を「喜びと思いなさい」と書かれているわけですが、それは明らかに信仰を前提として勧めです。この世と同じ見方をしている限り、「試練」が「喜び」になるはずはないのですから。「試練」を喜ぶことができるとするならば、そこには神の御心を見出すことができる「知恵」が必要なのです。この世の「知恵」とは異なる「知恵」が必要なのです。
ですから、その後には、「あなたがたの中で知恵に欠けている人がいれば、だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい」と勧められているのです。そこで言及されている「知恵」とは、明らかにこの世から来る「知恵」ではなく、神から来る「知恵」の話です。そして、この内容は、直接的には今日お読みした12節へと続くのです。
貧しい者、富める者
ちなみに、9節以下の部分は、ちょうどその間に挟まれているような形で書かれています。そこには、貧しい兄弟と富んでいる者について書かれているのです。ここを読んでどう思われますか。一見すると、前後とは全く脈絡がないように見えないでしょうか。実際、この部分をスポッと抜いても、話は通じるのです。いったいなぜここで、突然、貧富の話が出てくるのでしょう。
その一つの理由として考えられることは、現実にこれを読んでいる教会の中に、貧富の問題があったということです。初期の教会を構成していたメンバーの多くは貧しい人々でした。奴隷の身分であった人も少なくありませんでした。しかし、貧しい人たちだけがいたのかと言えば、決してそうではありません。そこにはまた富んでいる人々もいたのです。奴隷とその主人が、主にある兄弟として、一緒の食卓を囲んでいるようなことも起こっていたのです。
経済的格差による身分の違いというものが厳然として存在していた当時の社会において、奴隷とその主人が一緒に食事をしているというようなことは、常識的には絶対にあり得ないことだったのです。しかし、教会にはそのあり得ないようなことが現実に起こっていた。それ自体が、まさに神の救いの御業の証しでもあったのです。
しかし、地上にある教会は完全ではありません。それゆえに、そこにまた貧富の問題、差別の問題が生じることもあったのです。そのような事情はパウロの手紙にも見られます。そして、同じように、このヤコブの手紙においても、後に大きな部分を裂いて、その問題が扱われているのです。ここで貧富の話が出てくるのは、後に扱われる問題に、前もって触れておくという意味もあったのでしょう。
しかし、理由はそれだけではありません。あえて「試練」の話の中に置かれているのは、ここに書かれていることが「試練」に関係しているからです。実際、「試練」というテーマは、貧しい者にも富める者にも関係しているのでしょう。
貧しい者の苦しみの多くは欠乏から来ます。あるいは「貧しい者」と訳されているこの言葉は、直訳すると「身分が低い者」という言葉ですから、他者から見下されたり、卑しめられたりすることも含まれているのだと思います。しかし、そのような貧しい者に対して、「貧しい兄弟は、自分が高められることを誇りに思いなさい」と言われているのです。
ここで「高められること」と訳されていますが、これは必ずしも未来のことを意味する表現ではありません。口語訳ではむしろ「自分が高くされたこと」と訳されています。もっと直訳に近いのは、「自分の高い身分」と訳している新改訳聖書です。「貧しい兄弟は、自分に与えられている高い身分を誇りに思いなさい」と言われているのです。
ここであえて「貧しい《兄弟》は」と言われているのは、どんなに貧しくても、この世において身分の低い者であっても、あくまでも「兄弟」であることが強調されているということです。つまり神の家族に属しているのです。つまり、互いに兄弟であると同時にキリストの兄弟でもあるのです。神の子とされているのです。
それは、王の王、主の主である方の家族とされていることを意味します。ある説教者が言っていました。「あなたたちは神の国の王女であり王子なのですよ!」と。まさにその通りなのです。既に、この上なく高貴な者とされているのです。この世における貧しさや身分の低さではなく、神によって与えられているその驚くべき事実に目を向けなくてはならない。そのことを喜び、そのことを誇れ、とヤコブは言っているのです。
一方、富んでいる者の苦しみは、失うことへの恐れから、あるいは実際に失うことから来るものなのでしょう。事実、当時のキリスト者は、財産を没収されることも少なくなかったのです。キリスト者となったために全財産を失い、名誉も失い、人々から卑しめられるようになることもあったのです。そのようなことは、それまで人々からの誉れを受けてきた人にとっては実に辛いことであったに違いありません。しかし、「富んでいる者は、自分が低くされることを誇りに思いなさい」とヤコブは言うのです。なぜか。「富んでいる者は草花のように滅び去るからです」(10節)。
これは必ずしも富んでいるから裁きを受けるという話ではありません。富は永遠ではなく、永遠に富んでいる者であり続けることはできない、という至極当たり前のことを言っているのです。いわば草花のようなものだと言われれば、それはそうでしょう。草は枯れ、花は散るときが来るのです。そして、富める者も必ず死を迎えます。富は死を免れさせはしません。続くと思っている人生は途中で絶たれるのです。そして当然のことながら、富をその向こうまで持って行くことはできません。全部手放すことになるのです。
富んでいる者が低くされることを「誇る」とするならば、富が永遠ではなく草花のようなものだということを、身をもって知ることになるからでしょう。そして、もっと大きな価値、天の富に目を向ける者となれるからなのです。
神の善意を信じる
さて、そのように貧しい者、富んでいる者の話を経て、12節において再び「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」という話に戻ります。なぜ幸いなのか。4節においては、その理由として、「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と語られていました。そして、ここでは同じことが、次のように表現されています。「その人は適格者と認められ、神を愛する人々に約束された命の冠をいただくからです」と。
「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」と書かれていました。そのように「なりなさい」と言われているわけではありません。それは人間の努力目標ではありません。救いを完成し、私たちを完全な者としてくださるのは神様です。人間にできることは、ただ忍耐することだけです。だから、「あくまでも忍耐しなさい」(4節)とだけ、語られているのです。
そして、今日の箇所においても「試練を耐え忍ぶ人は幸いです」と語られているのです。4節の「忍耐」という言葉も、12節の「耐え忍ぶ」という言葉も、元々は「留まる」という言葉に由来します。信仰に留まることです。言い換えるなら、試練において、どこまでも神に信頼し続けることです。
それゆえに、「誘惑に遭うとき、だれも、『神に誘惑されている』と言ってはならない」(13節)とヤコブは続けるのです。簡単に言えば、「神様が悪い」と言ってはいけない、ということです。苦しい時、辛い時、どうしても言いたくなるかもしれません。「私が神様を離れて罪を犯したとしても、それは神様が悪いんだからね」、と。苦しみが誘惑として働くとき、そう言って自分が罪を犯すことを正当化したくなるかもしれません。しかし、それは「神が罪へと誘惑したんだ」と言っているのと同じなのです。
しかし、ヤコブはそうではないと言うのです。そこで罪へと引っ張って行くのは、神ではなく自分の欲望だと。それはそうなのです。同じ苦しみが「誘惑」にもなるし、忍耐から練達を生じさせる「試練」ともなる。神の意図は私たちを滅ぼすことではありません。私たちはそこで、忍耐強く信仰に留まることが求められているのです。
そこで大切なことは、神の善意を信じることです。「わたしの愛する兄弟たち、思い違いをしてはいけません」とヤコブは言います。そして、こう続けるのです。「良い贈り物、完全な賜物はみな、上から、光の源である御父から来るのです。御父には、移り変わりも、天体の動きにつれて生ずる陰もありません」(17節)。
御父は、良い贈り物をくださる御方です。良いだけでなく、「完全な賜物」と書かれています。御父がくださる賜物は完全です。神様は不完全なものを私たちにくださることは決してありません。この地上の父親は子どもに与えるものについて失敗することはありますが、天の御父が私たちにくださるものに、失敗はありません。
そして、その御父は決して変わることはありません。イエス様を通して示された神の愛は、今日においても決して変わらないのです。天体には移り変わりがあります。変化があります。影があれば光が当たる部分もあり、それは刻一刻と変わります。しかし、御父は違います。神の善意は変わりません。その善意に満ちた御心によって、御父は真理の言葉を私たちに与え、新しく生まれさせてくださいました。私たちを神の国の初穂としてくださいました。私たちがキリスト者であるとはそういうことです。
この賜物こそまさに完璧な賜物です。私たちには、既に全き救いが与えられているのです。私たちは既に与えられているものが完全に現れるのを待っているのです。忍耐強く信仰に留まりましょう。