2019年11月24日日曜日

「すべての人の目が彼を仰ぎ見る」

黙示録1:4-8

恵みと平和が三位一体の神から
 今日はヨハネの黙示録をお読みしました。「黙示録」と呼ばれていますが、内容的には手紙です。時は紀元1世紀も終わりの頃。皇帝ドミティアヌスの治世。帝国規模に広がった迫害の中で苦しんでいた教会に宛てられた手紙です。

 それは集まって共に礼拝する中で朗読されるために書かれてた手紙でした。迫害の時代、集まることはそれ自体危険なことでした。しかし、共に礼拝することが命よりも大事だと思っていた人たちがいたのです。そのような人たちに大きな慰めと励ましを与えた手紙です。

 今日は4節以降が朗読されました。手紙ですから「ヨハネからアジア州にある七つの教会へ」という書き出しとなっています。パウロの手紙ですと、たいていは「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」と続きます。しかし、ヨハネの黙示録では三位一体の神を念頭に置いて、挨拶が書かれています。

 まず、父なる神が、「今おられ、かつておられ、やがて来られる方」と表現されています。続いて、聖霊については「玉座の前におられる七つの霊」と表現されています。「七」は完全を現す数字です。聖霊を「七つの霊」と言い表すのは、ヨハネの黙示録にしかない独特な表現です。

 そして、最後にイエス・キリストについては、「証人、誠実な方、死者の中から最初に復活した方、地上の王たちの支配者」と表現されています。このような三位一体の神から「恵みと平和があなたがたにあるように」と挨拶の言葉が記されているのです。ここだけでも、三位一体の神様について、大変豊かな内容が語られています。

 しかし、今日は特に、この挨拶に続いて語られている言葉に耳を傾けたいと思います。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方に、わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン」(5節後半‐6節)。このように、キリストが誉め讃えられています。ヨハネがこのように書いているのは、これを読んでいる私たちもまた、ヨハネと声を合わせてキリストを賛美するためです。先にも申しましたように、これは何よりも礼拝において読まれるために書かれた書ですから。

 さらに続いて、そのように礼拝されている御方が、再び来られることについて語られています。これをキリストの再臨と言います。「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン」(7節)。

 次週から教会の暦においては「待降節(アドベント)」に入ります。教会暦の一年はアドベントから始まります。アドベントという呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。その「到来」とはキリストの到来です。この期間は第一に、キリストが二千年前に「到来した」ことに思いを馳せる時です。キリストが既に来られたことの意味を深く思い巡らすべき時です。しかし、それだけではありません。この期間は第二に、キリストが再び「到来する」こと、すなわち「キリストの再臨」に思いを馳せる時でもあります。こうして教会の一年を締めくくり、そのようなアドベントの季節を迎えようとしている私たちとして、私たちは今日の御言葉に耳を傾けているのです。

天に挙げられた御方が
 再び来られるキリストは、いかなる御方であるのか。まず、「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」だと語られています。「わたしたちを愛し」――これは現在形で語られています。天に上げられたあの御方が、今、私たちを愛していてくださるのです。さらに言うならば、それは「愛し続けていてくださる」というニュアンスの表現です。どんな状態にあったとしても変わることなく愛し続けていてくださる。

 先にも申しましたように、最初にこの言葉を聞いた人たちは迫害の中にあったのです。しかし、救いの時が来て初めて私たちは愛していただくのではないのです。悲しみもある。苦しみもある。そのような現在において、私たちは愛されているのだ、と語られているのです。

 そのように私たちを愛してくださっている方が、私たちを罪から解放してくださいました。「罪から解放してくださった」は過去の一点を指す表現です。すなわち、あの十字架の時を指して語られているのです。私たちはキリストの十字架によって、罪の負い目から自由にされました。もはや私たちは自分の罪のゆえに滅びることはありません。代価は支払われました。罪の負債はすべて支払われました。「御自分の血によって罪から解放してくださった」とはそういうことです。

 さらに言えば、罪の負い目から自由にされただけでなく、本当は罪の力そのものからも既に解放されているのです。今はまだ戦いの中にあるかもしれません。葛藤は続いているかもしれません。しかし、既に勝利は定まっているのです。私たちはあの時、あの一点において、完全な救いにあずかって、完全に罪の力から解放されることが定まっているのです。「御自分の血によって罪から解放してくださった」とはそういうことです。

 そして、キリストは「わたしたちを王とし、御自分の父である神に仕える祭司としてくださった方」だと語られています。それにしても、「わたしたちを王としてくださった」とは驚くべき言葉ではありませんか。

 ローマ帝国においては、それぞれの地域に支配者が立てられていました。その上に皇帝が支配していたのです。ですから皇帝は「地上の王たちの支配者」と呼ばれていたのです。しかし、聖書はそれに否を唱えるのです。「地上の王たちの支配者」は皇帝ではない。真の支配者はキリストであると。ですから5節ではイエス・キリストが「地上の王たちの支配者」と呼ばれているのです。そのキリストが支配する王たちとは誰か。それは私たちだというのです。私たちは最終的に、キリスト以外の何ものにも支配されることはないのです。罪も死も私たちを支配することはできないのです。キリストに支配される王ですから。

 そしてまた、キリストは私たちを「父である神に仕える祭司」としてくださいました。祭司は神と人との間に立つのです。もちろん、真に神と人との間に立って執り成してくださるのはまことの大祭司なるキリストだけです。しかし、その大祭司のもとにある祭司として、私たちもまた務めを果たすのです。

 私たちは自分の罪の赦しを求めるだけでなく、この世の罪の赦しを求めて祈ることができるのです。それは私たちの特権であり、また同時に義務でもあります。祭司として神に仕え、祭司として執り成し祈る義務です。考えてみますならば、まことに罪深い私たち自身がその罪を赦され、他者のために執り成すことが許されているということは、なんと驚くべきことかと思います。それはただキリストのゆえに与えられた恵みなのです。キリストが私たちを愛して、御自分の血によって罪から解放してくださったからなのです。

やがて再び来られる
 そのような御方が天におられる。そして、やがて再び来られるのです。再び来られることについては、次のように書かれています。「見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。」

 キリストが「雲に乗って来られる」という表現は、もともと旧約聖書のダニエル書に用いられていた表現です(ダニエル7:13)。イエス様御自身も大祭司の前で「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と問われた時、「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る」(マルコ14:62)と言われました。

 「雲に乗って」と語られ、あるいは「雲に囲まれて」と語られる。それはあくまで表象を用いた表現です。実際には、キリストの再臨がどのように実現するのかは、私たちの理解を遙かに超えた出来事だと言わざるを得ないのでしょう。しかし、重要なことは、そこで「すべての人の目が彼を仰ぎ見る」ということが起こる、ということです。どのような仕方で来られるにせよ、「すべての人の目が彼を仰ぎ見る」のです。

 ことに「彼を突き刺した者ども」が仰ぎ見ると語られています。「突き刺した」が意味するのは、キリストを十字架にかけたということでしょう。「キリストを十字架にかけた者ども」と言いますと、「自分たちはそうしなかったけれど、そうした奴らは」と言っているように聞こえますが、そうではありません。これを受けとったキリスト者たちは知っているのです、キリストを十字架にかけたのは他ならぬ自分たちの罪であった、と。そうです、ここに書かれているのは、私たち自身を含めたこの世界のことなのです。

 それゆえに「地上の部族は皆、彼のために嘆き悲しむ」と書かれているのです。そのように、この世界全体に「嘆き」が起こるのです。間違えてはならないのは、ここに書かれている嘆きは、裁かれる自分を思っての嘆きではないということです。ですからあえて「彼のために嘆き悲しむ」と訳されているのです。裁かれる自分を思って嘆いているだけならば、「自分のために嘆き悲しむ」だけでしょう。

 「彼のために嘆く」というのは、キリストが何をしてくださったかが分かるということです。私たちの罪のために十字架の上で苦しんでくださったことが分かるということです。自分たちの罪がキリストを苦しめたのだということが分かるということです。「彼のために嘆く」とはキリストの御苦しみを思っての嘆きです。そのように人間の罪と、その罪を贖うためにキリストが苦しんでくださったという事実が、すべての人に明らかにされる時が来るのです。

 それがいつであるかは分かりません。いつであるかは知らされてはいません。ならば大事なのは「その時」ではなくて「今」です。そのような終わりの時に向かっている「今」を生きることです。「わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方」の御前で、私たちは「今」どのように生きているのか。「わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方」の御前で、私たちは「今」どのように生きているのか。その御方をやがてお迎えする私たちとして、私たちは「今」どのように生きているのか。そのことを自らに問いつつこの週を過ごし、アドベントを迎えましょう。

(祈り)

2019年11月10日日曜日

(子ども祝福礼拝) 「あなたはこの世界の祝福となる」

創世記12:1-9

祝福とは何か
 祝福を受けた子どもたち、皆さん、どこに座っていますか。ちょっともう一度手を挙げて見せてくださいますか。神様は今日皆さんをここに招いて祝福してくださいました。今日は、特に祝福を受けた皆さんにお話ししたいと思います。よく聞いていてくださいね。そして、わたしがお話しするだけでなく、神様が皆さんの心に語りかけてくださいますから、よく耳を澄ませて聞いてください。

 今日は「子ども祝福礼拝」です。「祝福」とは何でしょう。「祝福」とは、神様がよいものをいっぱい与えてくださることです。神様がよいものをいっぱい与えてくださって、命に満ち溢れさせ、未来を開いてくださることです。そうです、神様が祝福して未来を開いてくださるのです。

 ですから、昔の人たちにとって神様の祝福と言えば、例えば、農作物がたくさん取れることだったのです。例えば、羊がたくさん子を産んで、羊がどんどん増えていくことだったのです。例えば、子どもがたくさん生まれて、一族が増え広がって繁栄することだったのです。

 もちろん、豊作も多産も繁栄も神様の祝福であると言えるでしょう。しかし、神様がくださる目に見えるものばかりに注目すると、大事なことを見落としてしまいます。一番の祝福とは何でしょう。神様がくださる一番よいことって何でしょう。それは神様が一緒にいてくださることです。神様が恵み深い御方として、いつも一緒にいてくださることです。

 ですから、聖書にはこんな祝福の言葉が出て来ます。「アロンの祝福」と呼ばれる聖書の中で有名な祝福の言葉です。聞いていてくださいね。

「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。
主が御顔を向けてあなたを照らし
   あなたに恵みを与えられるように。
主が御顔をあなたに向けて
   あなたに平安を賜るように。」
           (民数記6:24-26)

 「主が御顔をあなたに向けてくださいますように」というのは、「神様が一緒にいてくださいますように」というのと意味としては同じです。

 一番の祝福は神様が優しい御顔を向けてくださることであり、神様がそのようにして一緒にいてくださることです。だから、今日、私も皆さんを祝福するときに、「主が共にいてください」とお祈りしました。だから、神様は恵み深い御方として、皆さんのことをいつも見ていてくださいますし、そのようにして一緒にいてくださいます。

祝福の約束を受けた人
 さて、今日の聖書箇所には、神様から「わたしはあなたを祝福する」と言われた人が出て来ました。アブラハムです。アブラハムはもともと「アブラム」という名前でした。神様はアブラムにこのように言われたのです。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(2‐3節)。

 神様が祝福して未来を開いてくださいます。神様は開かれるべきアブラムの未来を指し示しながら、「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」と言われました。アブラムにはまだ何も見えていません。未来のことですから。しかし、神様には見えているのです。大いなる国民が見えているのです。アブラムの子孫が増え広がって一つの国になることが見えているのです。祝福とはそういうものです。まだ見ていない未来を約束として受けるのです。

 しかし、それはただ祝福される人自身のためではありません。「祝福の源となるように」と主は言われるのです。神はアブラムを「祝福の源」にしようとしていたのです。「祝福の源」というのは、アブラムから祝福が溢れ流れていくようなイメージ豊かな言葉ですね。実は、もともとの聖書のヘブライ語では「あなたは祝福となるように」と書いてあるのです。

 祝福されて祝福となるのです。アブラハムは祝福されて、今度は誰かにとっての祝福となるのです。神がアブラムを祝福するのは、ただアブラムのためではありませんでした。それはこの世界に祝福をもたらすためだったのです。ですから、主はアブラムに「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」と言われたのです。

 同じように、神様が皆さんを祝福するとするならば、それは単に皆さんが幸せになるためではありません。皆さんは、この世界の祝福となるためです。皆さんがこの世にいることによって、神様の祝福がこの世界にもたらされるのです。皆さんがこの世に存在することによって、神様が恵み深い御方として共にいてくださり、恵みの御顔を向けてくださり、平和を与えてくださるのです。

 大人の人たちも一緒にお祈りしました。子どもたちの上に祝福を祈り求めるということは、子どもたちがこの世界の祝福となることを祈り求めることでもあるのです。それは私たち自身についても同じです。私たちが、そして教会が祝福を求めるということは、私たち自身が隣人にとって、またこの世界にとって祝福となることを求めることでもあるのです。

神に信頼する新しい生活
 そのように、神様はアブラムを祝福すると言われました。しかし、その前に神様が何と言っているか、もう一度聞いてみましょう。神様は一言、このように言っています。「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい』」(1節)。――そう、神様は旅に出なさいと言われたのです。

 アブラムはもともとハランというところに住んでいました。ハランはとても豊かな土地でした。そこでは親戚も一緒に住んでいました。そこには知っている人がたくさんいました。そこで生活していれば安心でした。

 しかし、神様はアブラムに安心していられるその場所を離れて旅に出なさいと言われたのです。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。どこに向かって旅するのか、分かりません。「わたしが示す地」としか言われないのです。神様がどこに連れて行こうとしているのか、アブラムは知りませんでした。

 皆さんだったらどうですか。知っている人たちを離れて、知らないところに向かって旅に出なさい、と言われたら。きっと不安でしょうね。どうなってしまうんだろうと心配でしょうね。アブラムもきっと、とても心配だったと思います。しかし、聖書にはこう書かれているのです。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」。

 アブラムは先のことを思い煩って、頭の中の思い煩いに留まっていませんでした。そうではなくて、神様に信頼して実際に一歩を踏み出したのです。そこから、神様に信頼して生きていく新しい生活が始まったのです。神様はそのような新しい生活を、祝福の約束と共に差し出されました。アブラムは、神様に信頼して生きる新しい生活を、祝福の約束と共に受け取ったのです。

 神様への信頼。アブラムに求められたのは、それだけでした。神に全幅の信頼を置いて生き始めること。神が求めておられるのは、単によい人間になることでも有能な人間となることでもないのです。この世界の祝福となるために、「もっと優しい人であれば」「もっと力があれば」「健康でさえあれば」「もっと若ければ」「もっと有能であれば」と人は思うかもしれません。しかし、もし若さが重要であるならば、もっと若い時にアブラムを旅立たせたことでしょう。彼は召された時75歳だったのです。そんなことは神様にとってはどうでも良かったのです。祝福は人から出るのではないからです。わたしはあなたを祝福すると主は言われる。祝福は神から来るのです。だから求められているのは、その神様にどこまでも信頼して共に歩む人となることなのです。

祭壇を築きながら
 さて、神様に信頼し、御言葉に従って旅立ったアブラムは、その後、どうなったでしょう。アブラムは神様に導かれて、ハランからカナン地方に向かって進みました。やがてカナン地方に入ります。そして、こう書かれているのです。「アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた」(6節)。

 「わたしが示す地に行きなさい」。そう主が言われて着いたところにはカナン人が住んでいました。先に住んでいる人たちがいるところに、後から入って行くのなら、よそ者扱いをされることになります。旅に出る前にハランにいたときにはなかった困難がそこにはあったことでしょう。

 しかし、そこで主は言われました。「あなたの子孫にこの土地を与える」。主はアブラムに開かれた未来を示すのです。そして、7節と8節に繰り返されている言葉があります。「祭壇を築いた」という言葉です。この「祭壇を築いた」という言葉をよく覚えておいてくださいね。

 「祭壇」というのはお祈りの場所です。彼はシケムにおいて、そこで祭壇を築いた。祭壇は石で作ります。石を積み重ね、一生懸命に祭壇を築いた。さらに、そこを発ってベテルの東の山に移り住むと、そこにまた祭壇を築いた。「そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(8節)とあります。主の御名を呼ぶとは、言い換えるならば「祈った」ということです。そのように、祭壇とは祈りの場所です。

 祭壇を築きながら旅をするということは祈りながら生きていくということです。神様に信頼して生きる新しい生活が始まったと言いましたけれど、それは具体的にはお祈りしながら生活していくことです。祭壇を築くとは「お祈りの生活を築く」ということです。

 今日、祝福を受けた皆さん、よく覚えておいてくださいね。大切なことは、どこに行っても、環境が変わっても、状況が変わっても、どんな困難の中に置かれても、そこで常に祭壇を築いて生きていくことです。日曜日には神様を礼拝し、毎日、神様にお祈りしながら生きていく、そのような生活を築いていくことです。神様の祝福はそのような皆さんと共にあります。そして、皆さんはこの世界の祝福となるのです。
 (祈り)

2019年11月3日日曜日

「希望に生きる」

1ペトロ1・3‐9

新たに生まれさせてくださいました
 今日の礼拝ではペトロの手紙が読まれました。小アジア地方の諸教会に宛てた手紙です。6節に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが」とありますように、この手紙の読者は様々な苦しみの中にあった人たちです。具体的には迫害のもとにあって苦しんでいたということでしょう。彼らは人々からの軽蔑や嘲笑を耐えなくてはなりませんでした。悪人呼ばわりされ、不当な苦しみを強いられていました。そのような中に生きている人たちを励まし力づけるために、この手紙は書かれました。

 そのような教会の人々に対して、ペトロはまず何を語ろうとしているのでしょうか。彼は挨拶に続けて、次のように書き始めます。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神が、ほめたたえられますように」(3節)。ペトロは、彼らが受けている試練について語り出す前に、まず神を誉め讃えるのです。そして、神の御業について語るのです。「人々があなたに何をしたかではなく、神があなたに何をしてくださったか――まずそのことに目を向けようではありませんか!」あたかも、そのように語りかけているかのようです。

 では、その《神がしてくださったこと》とは何でしょう。ペトロがここで中心的な事柄として語っているのは、このことです。――「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせてくださいました!」(3節)。

 聖書によるならば、人間は二度生まれることができます。一度目の誕生は、通常の意味における誕生です。毎年「お誕生日おめでとう」を繰り返す、あの誕生のことです。私たちは必ず誰かを親として生まれてきます。誰かを親とする家族の中に生まれてきます。そのようにして私たちはこの人生をスタートする。これが一度目の誕生です。

 この誕生だけを経験して一つの人生を生き、一生を終える人もいます。しかし、聖書によるならば、人はもう一度誕生することができるのです。二度目の誕生。それは信仰による誕生です。信仰によってもう一つの人生がスタートします。一度目の誕生において、この世の親の子供として生まれたように、二度目の誕生においては、「神の子供としてのわたし」が生まれます。一度目の誕生において、この世の家族の中に生まれたように、二度目の誕生においては、「神の家族の中にいるわたし」が生まれます。

 イエス様は「天にまします我らの父よ」と祈りなさいと教えられました。そのように、神の家族として、「天にまします我らの父よ」と祈りながら生き始める。そのようにして、私たちは二度目の誕生による新しい人生を生きていく。それが教会における「信仰生活」です。

 そして、ここに語られているように、二度目の誕生は「神の豊かな憐れみ」によるのです。先ほど「二度目の誕生においては、『神の子供としてのわたし』が生まれます」と申し上げましたが、話はそう単純ではありません。ペトロはこの直前において、あえて「わたしたちの父である神」ではなくて、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神」と言っていますでしょう。その御方は第一には、イエス様が「父よ」と呼んでいた神様なのです。

 その神様を、私たちもイエス様と同じように「父よ」と呼べることは、決して自明のことでではありません。私たちはイエス様と違って、幾度となく神に背きながら生きてきた者だからです。イエス様と違って、私たちはどう考えても「神の子供」に相応しくない。そのような私たちが神の子供にしていただけるとするならば、それは一重に神の憐れみによるのです。私たちの罪を赦してくださる神の豊かな憐れみによるのです。

 そして、神の憐れみは具体的な形を取って現されたのです。神は独り子を世に遣わされました。罪なき御子を私たちの罪を贖う犠牲とされました。イエス様は、「天にまします我らの父よ」と祈りなさいと言ってくださいましたが、それは神の憐れみを知っている方の言葉です。神の憐れみの現れとしてこの世に来られた方の言葉です。神の憐れみの現れとして、十字架にかかるためにこの世に来られた方の言葉なのです。

死によっても失われない希望
 そして、この憐れみによる二度目の誕生に伴い、さらに二つのことが語られています。「神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」(3‐4節)。

 第一に、私たちに「生き生きとした希望」が与えられているのだと語られています。「生き生きとした希望」というのは「生きている希望」という言葉です。たいへん味わい深い表現です。「生きている希望」と書かれているということは、もう一方において「生きていない希望」「死んだ希望」もあるということです。同じように見えても、生きている花と切り花は異なります。一方には命があり、もう一方には命がない。希望が真の命を伴っていなければやがて枯れて消えていきます。そのような、やがて枯れてしまう希望は、私たちの周りにいくらでもあります。そのような希望によって、幾度となく浮き沈みを繰り返してきた人は少なくないのでしょう。

 枯れない希望。命ある希望。生きている希望。失われない希望。それはどこから来るのか。今日の聖書箇所に「生き生きとした希望を《与え》」と書いてありました。誰が与えてくれたのか。神様です。生きている希望は神から来るのです。それはこれを書いているペトロの体験でもあったのです。

 皆さんもご存じのように、ペトロはイエス・キリストが捕らえられた時、三度もキリストを「知らない」と言った男です。キリストが十字架にかけられた時、主を見捨てて逃げてしまっていた、そういう男です。キリストが葬られた後も、自分が同じ目に遭わされるのではないかと、家の中に閉じこもり、戸を閉ざしてビクビクしていた男です。――取り返しのつかないことをしてしまったという罪責感。自分の弱さや醜さに対する深い絶望。彼にとって、あの日、彼の人生は終わったのです。全ては終わったのです。それでもなお呼吸を続けるならば、あとは生ける屍として惰性で生きていくしかなかったのでしょう。その先に何も待ち望むものを持たないまま、生きていくしかなかったのです。すべては終わったのですから。

 ペトロ。そんなペトロが、どうして再び立ち上がり、前を向いて希望をもって生きるようになったのか。未来に向かって歩み始めることができたのか。それはペトロにとって終わりであっても、神にとっては終わりではなかったからです。神はその事実をはっきりと現してくださいました。何によって。イエス・キリストの復活によってです。ですからペトロはこう表現しているのです。「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え」(3節)。

 「死者の中からのイエス・キリストの復活」とは何でしょう。人間にとっては決定的な「終わり」である「死」でさえも、神にとって「終わり」ではないということです。その先へと続くのです。いや、むしろそこから始まるのです。神は終わりを始まりにすることがおできになる。そのように、ペトロの人生も絶望の中で終わったところから、新しく始まりました。ただ神によって!そして、そのように生き生きとした希望を与えられたのはペトロだけではありませんでした。だからこのことが書き記され、読まれ、今日に至るまで伝えられているのです。今もなお、ここにいる私たちにも、その生き生きとした希望、死によってさえも失われない希望は差し出されているのです。

 そして、二度目の誕生に伴って語られている第2のことは次のように表現されています。「また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました」。そのように、死によってさえも失われない希望があるということは、言い換えるならば、死によって失われない未来があるということです。

 一般的には、死は未来を奪うのでしょう。死によって未来は失われるのでしょう。元気に生きていた人が死を宣告されるということは、未来を失うということを意味するのでしょう。高齢になり、あるいは病気になり、死が近づいてくるということは、未来を失っていくということなのでしょう。しかし、そうではないと聖書は言うのです。死によって奪われない未来がある、と。

 もちろん死の先は私たちの想像を超えた未来です。具体的に思い描くことができません。なので、たとえば「財産を受け継ぐ」というある意味では陳腐な言葉をもってしか表現できないのでしょう。しかし、それでもなおそこには大事なことが表現されていると言えます。「受け継ぐ」というのですから、それは自分が蓄えたものではありません。自分の行った善き行いに対する報酬でもありません。神の憐れみによって神の子供とされるように、「財産を受け継ぐ」とするならば、それは神の憐れみによるのです。

 死の先の未来を私たちは思い描くことはできません。しかし、「財産を受け継ぐ」というのですから、それは喜ばしい未来であることに間違いはありません。それはただ神の憐れみによって備えられた、喜ばしい未来です。それゆえに、人は死においてもなお、その先に喜ばしき未来を待ち望むことができるのです。実際、皆さんは既に召された人たちの中に、そのような方々を幾人も思い起こすことができるのではありませんか。人は人生最後の一呼吸に至るまで、期待に胸を膨らませて、未来を待ち望みながら生きることができるのです。イエス・キリストの復活によって、神が「生き生きとした希望」を与えてくださったから。受け継ぐべき喜ばしき未来が備えられているから。

(祈り)

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