2025年11月30日 主日礼拝説教
聖書:マルコによる福音書 13:28‐37
いちじくの木から学びなさい
「いちじくの木から教えを学びなさい」(28節)と主は言われました。どのような教えでしょう。続きはこうなっています。「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(28‐29節)。ここで「これらのことが起こるのを見たら」と主は言われます。「これらのこと」とは何でしょう。それは今日の朗読箇所の前に書かれていることです。少し前に遡って見てみましょう。
14節には次のように書かれていました。「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つのを見たら――読者は悟れ――、そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい」(14節)。そして、主はやがて来たるべき大きな苦難について語られるのです。
ではその「憎むべき破壊者」とは何を意味するのでしょうか。これはもともと旧約聖書のダニエル書に用いられている表現です(例えば、ダニエル12:11)。細かい話は割愛しますが、ダニエル書においてそれがもともと意味していたのは、紀元前二世紀にエルサレムの神殿の中に造られた異教の祭壇のことなのです。それは当時ユダヤを支配していたシリアの王アンティオコス4世が立てたものです。それは神に敵対するこの世の権力によって立てられたのです。
要するに「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」というのは、神に敵対する大きな権力が支配するようになる、ということです。そのことが苦難の描写と結びつけられているのです。イエス様は来るべき苦難の時代について語られるのですが、それはいわば神に敵対する大きな力によってもたらされる苦難だということです。それゆえに、その苦難は神を信じない者にではなく、むしろ神に従おうとする者に及ぶのです。
そこに見ますように、イエス様の見方はある意味では極めて悲観的です。主は人間の努力と取り組みによってパラダイスが実現するとは決して言われない。「この世は進歩し、調和し、人々は愛し合うようになる」とも言われないのです。むしろ、世界は非常に暗くなる。終わりに近づけば近づくほど、暗く苦しみの多い時が来ると考えておられたのです。
それは、この世界の現実、神に敵対する罪深い人間の現実世界をイエス様はしっかりと見据えておられたからだ、とも言えます。人は撒いたものを刈り取らなくてはなりません。罪を蒔けば死を刈り取ります。ある時は神なき不敬虔な姿をもって、ある時には極めて宗教的な姿をもって、そのいずれの姿においても人間は神に背き続けてきた。それゆえに、最終的な苦難を刈り取ることになる。そのように、主はやがて大きな苦難の時がやってくると言われたのです。
そして、さらに24節以下には次のように書かれています。「それらの日には、このような苦難の後、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は空から落ち、天体は揺り動かされる」(24‐25節)。
古代の人々にとって天体は不変の秩序を代表するものでした。たとえ国家の体制が崩壊するようなことがあっても、変わることなく太陽は昇り沈みます。月と星は定められたとおりに動くのです。それは最後まで信頼できるものの代表とも言えます。しかし、その天体が揺り動かされると主は語られたのです。いわばこの世に信頼できるものはもはや何も残っていない。そのような、まったく希望のない絶望の世界、光のない闇の世界がやって来ると主は言われたのです。
しかし、そこでイエス様が本当に言いたいのは、この世界が闇に包まれて終わってしまうということではありません。人間には絶望しか残されていないということではありません。その闇が最も深くなった時、まさにその時こそ救いのときなのだと主は言われるのです。「あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口に近づいていると悟りなさい」(29節)と主は言われるのです。
「人の子」とはイエス様がしばしば自分自身を呼んだ呼び方です。これもまた、もともとは旧約聖書のダニエル書にでてくる言葉です(ダニエル7:13)。イエス様はやがて再び来られる方として自分自身について語っておられるのです。イエス様がやがて終末において再び来られることを「キリストの再臨」と言います。闇が最も深くなったその時、キリストが再び来られ、この世界を正しく裁かれ、そして全き救いをもたらされるのです。
さて、キリストがこれを語られた時からすでに約二千年が経ちました。いまだに再臨のキリストは来られません。その一方で、現実に目に見える様々な形で、私たちはこの世界の危機に直面しているのです。この世界が存続するために取り組まなくてはならない課題、解決しなくてはならない問題は山積しているし、実際に必死の取り組みが続けられているのです。そのような世界のただ中で、教会があれから二千年もたった「キリストの再臨」を信じ、語ることにいったい何の意味があるのでしょうか。実際、信仰を抜きにして聞いたなら、キリストが世の終わりに「雲に乗って来る」という描写は、まさに荒唐無稽なおとぎ話にしか聞こえないだろうと思うのです。
しかし、もう一方において教会が変わることなく、時として信仰者は命をかけて、二千年もこのことを伝え続けてきたという事実があります。そして、今日この国に生きる私たちまで耳にしている事実がある。ならば、私たちは、信仰をもってその意味することをしっかりと受け止めなくてはならないのだと思うのです。教会が伝えてきたことには、いつの時代の人々にとってもそれだけの大きな意味があるはずだからです。今日は特に二つの点に心を留めたいと思います。
へりくだって待ち望む
第一に、「キリストの再臨」は、私たちに神の御前にへりくだることを教え、時として動き回ることよりも忍耐して待つことが大切であることを教えます。「キリストの再臨」は、要するに、最終的な救いは向こうから来るということです。天から来るということです。最終的な救いは人の力によってもたらされるのではなく、神によってもたらされるのだ、ということです。このようなことがあえて語られねばならないのは、人間は常々そうは思っていないからでしょう。
この世界は人間が動かしていると思っているならば、人生も人間の手に握られていると思うのは当然です。自分の力で成し遂げれば思い上がり、自分の力で失敗すれば失望する。誰かのおかげで成功すれば依存し、誰かのせいで人生が壊れれば憎しみに翻弄される。人間がすることがすべてだと思うなら、人間のゆえに望みを失うことにもなるのでしょう。
しかし、そうではないのだとイエス様は言っておられるのです。この世界についても、私たちの人生についても、すべては主の御手の内にあるのです。主が最後の言葉を持っているのです。往々にして人間のすることがすべてだと思い上がっている私たちは、繰り返し悔い改め、神の権威のもとにへりくだらなくてはならないのです。救いは向こうから来るのです。だから、静まって待ち望むことが重要になるのです。そうあってこそ、苦難の中にあってさえ、本当の意味でなすべきこと、神から託されていることに落ち着いて取り組んでいくこともできるのです。
大事なのは今
そして、第二に、主の御言葉は、私たちに「今」を生きることの大切さを教えます。
「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ」(34節)と主は言われました。もし家の主人がいつ帰ってくるかを「知っている」ならば、大事なのは「その時」でしょう。しかし、もし「知らない」ならば大事なのは「現在」です。そうです。今がその時かもしれないからです。ですから、主はこう続けられるのです。「だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである」(35節)。
そのように「知らない」ということは積極的な意味を持っています。それは「現在」に私たちの意識を集中させることになるからです。そうしますと、今日の聖書箇所でイエス様は一見「未来」のことを話題にしているように見えますが、実は本当に語りたいことは「現在」についてなのです。「目を覚ましていなさい」とはそういうことです。
今日から「アドベント(待降節)」に入ります。週報にも書きましたが、アドベントという呼び名は、「到来」を意味するラテン語に由来します。特に世の終わりにおける主の「到来」、すなわち「キリストの再臨」を思う季節です。しかし、それがいつかを私たちが知らないゆえに、「現在」こそが重要になってきます。アドベントは、その意味で「現在」にしっかりと目を向ける時でもあるのです。それゆえに最初の日に「目を覚ましていなさい」という御言葉を聞いているのです。
私たちはしばしば、過去にばかり目を向けて、過去に縛られて生きていたり、あるいは先のことばかり考えて思い煩いで一杯になっていたり、そのようなことをして「現在」を大切にできていないものです。しかし、本当に問わなくてはならないのは過去でもなく未来でもなく「現在」なのでしょう。問題にしなくてはならないのは、「今、わたしはどういう状態にあるのか」ということなのでしょう。特に私たちの人生において決定的に重要なのは、「神様との関係において、今、わたしはどういう状態にあるのか」ということなのです。
ところで、マルコによる福音書では「目を覚ましていなさい」というこの言葉は今日の箇所の他にはゲッセマネの祈りの場面にしかでてきません。そこで主は言っておられます。「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」(14:38)。主の苦悩を横にして眠りこけている弟子たちの姿。それは私たち自身の姿かもしれません。主は弟子たちに、後の教会に、ここにいる私たちに、「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」と語ってくださいます。祈りの生活を失って、人は目覚めて生きることはできないということなのでしょう。