2020年9月27日日曜日

「内なる人を強めてください」

エフェソの信徒への手紙 3:14‐21


内に働く御力によって

 本日の第二朗読は次のように締めくくられていました。「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(20節)。

 教会の一部の人が、今、礼拝堂に集まって礼拝しています。他の人はそれぞれの場所において礼拝しています。この時間、同じ神様に向かい、共に祈り、共に礼拝をささげています。その神様はどのようなお方であるのか。聖書は今日、私たちに告げています。「わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」であると。

 今日は特に「わたしたちの《内》に働く御力によって」という言葉を心に留めたいと思います。というのも、私たちが往々にして求めているのは、神の力が私たちの《外》に働くことだからです。神の力が働いて、自分の置かれている状況が変わるように。物事がうまくいくように。人間関係で悩んでいる人ならば、「神の力が働いて、周りの人々が変わるように」と願い求めるかもしれません。しかしここで聖書は、「わたしたちの《内》に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方」と言っているのです。

 神は確かに私たちが求めることをはるかに超えてかなえることがおできになる。しかし、その時に働く神の力は、第一には私たちの《外》にではなく、私たちの《内》に働くのです。まず変わらなくてはならないのは、私たちの《外》にある何かではないからです。それゆえに、今日お読みした聖書箇所に書かれているパウロの祈りもまた、《内》に関わることが祈られているのです。神の御力によって《内》に起こらなくてはならないことがあるからです。


内なる人を強めてください

 「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(16‐17節)。

 パウロはエフェソの信徒たちのために、「内なる人を強めてください」と祈ります。「内なる人を強めてください」とは、「精神的に強くしてください」という意味ではありません。「内なる人」とは、「信仰によって内に誕生した新しい人」のことです。信仰者としての《わたし》です。

 イエス・キリストを信じる時、聖霊によって新しい《わたし》が生まれます。ここでパウロがしているように、天地の造り主なる神を「父」と呼ぶ、新しい《わたし》が生まれます。言い換えるならば、「父」を呼び求める神の子どもとしての新しい《わたし》が生まれるということです。信仰を持って生き始めるとはそういうことです。その「内なる人」は生まれたばかりの時は、いわば赤ん坊です。赤ん坊は弱いのです。ですから、生まれながらの以前からの《わたし》、他の手紙では「外なる人」と呼ばれていますが、その「外なる人」が支配的になることはあり得ます。それは新しい人、「内なる人」が、弱いからです。しかし、父なる神は新しく生まれた「内なる人」を強めてくださいます。ですから私たちの側としては、信仰者として成長すること、「内なる人」が強められることを神に求めて良いし、祈り求めるべきなのです。

 では、「内なる人が強められる」とは、具体的にどのようになることでしょうか。そこで重要なのは、キリストとの関わりです。パウロはこのように祈ります。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」(17節)。これが、内なる人が強められるということです。

 「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ」。この「愛」とは後に明確に語られていますように、「キリストの愛」です。植物に例えるならば、キリストの愛という大地に深く広く根を張るようになることです。建物に例えるならば、キリストの愛という絶対にゆるぎない土台の上にしっかりと建て上げられた家のようになることです。

 そのことを考えますと、ここで語られているのは聖書をお勉強して少しでも良い人になりましょう、というような次元の話ではないことはすぐに分かります。神が私たちの心の内のもっとも深いところにまで働きかけてくださるのでなければ成り立たないのです。ですから、それは「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせてくださるように」という表現になるのです。そのようにして、内なる人が強められる。キリストの愛に深く広く根を張り、キリストの愛を土台として生きる者となるのです。


キリストの愛を知るように

 以上述べてきたことから明らかなように、内なる人が強められるということは、本当の意味でキリストの愛を知るということでもあります。パウロはさらに続けます。「また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(18‐19節)。

 キリストの愛を知るということは、キリストの愛の大きさを知るということです。しかし、パウロはただ「キリストの愛の大きさがどれほどであるか」とは言いません。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」と表現するのです。その言葉はまさに、その愛の中に立っている人の言葉です。外から見て愛の大きさについて語っているのではないのです。

 内に働く神の力は人間の傲慢さを砕きます。神の力は人間の最も深きところにまで及んで、人生の隅々まで及んで、人間の罪を明らかにされます。自分を正しい者として、他者を裁き断罪する側に身を置いていた者が、実は自分こそ神の御前においては裁かれる側にいるのだということを神によって知らされます。そのようにして、パウロもまた神によって砕かれた人でした。

 しかし、そのパウロが、自らの罪を自覚したパウロが、キリストの愛の中に立っている自分自身を見出したのです。そのパウロがキリストの愛を語っているのです。その愛の中に立って見渡しても果てが見えない。前を向いても後ろを見ても、ぐるりと見まわしても果てが見えない。上を見ても下を見ても、果てが見えない。そのようなキリストの愛だからこそ、こんな自分もまたその中にいるのだ、ということをパウロは知っているのです。本来ならば外に放り出されていても不思議ではない私なのに、それでもなお私はキリストの愛の中にいる!「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する」とはそういうことです。

 それは内に働く神の御力による奇跡です。ですから「人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり」という表現になるのです。これは本来言葉の矛盾でしょう。人知を超えているのですから、知り得るはずはないのです。しかし、パウロはエフェソの信徒がそれを知るようになることを祈ります。人にはできなくても、神はおできになるからです。だから同じように、エフェソの信徒たちも、ここにいる私たちもまた祈り求めるべきなのでしょう。人の知識をはるかに超えるキリストの愛を知ることができるように、と。


満ちあふれる豊かさのすべてにあずかって

 そして、その愛を知るだけでなく、「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」(19節)と祈ります。キリストを信じる生活、新しく生まれた神の子どもとしての生活、「内なる人」の生活、私たちの信仰生活はついにここにまで至るのです。

 計り知れない愛の広さ。計り知れない愛の長さ。計り知れない愛の高さ、深さ。そのような人の知識をはるかに超える愛。その愛そのものであるイエス・キリストが私たちの心の中に住んでくださるというのです。その愛に深く根を下ろした生活、その愛を土台として建てあげられた生活は、どのようなものとなるのでしょう。それはまさにキリストの似姿となるのでしょう。パウロは別の書簡でもこう言っています。「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(2コリント3:18)。

 それこそまさに「そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」という祈りによってパウロが願い求めている姿に他なりません。それは主の霊によるのです。だから祈るのです。

 しかし、これはあまりにも現実離れした祈りではないでしょうか。パウロは本当にこのようなことを信じて祈っているのでしょうか。――そうです、信じて祈っているのです。彼は今、呼び求めている天の父をたたえてこう加えます。「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン」(20‐21節)。

 天の父はかなえることがおできになる。私たちが求めることをはるかに超えて。「はるかに超えて」というのですから、私たちが現時点で見ているのは、神の為し得ることのまだまだ極々一部であるということでしょう。私たちの内に起こっていることも、神の為し得ることの、まだまだ極々一部です。私たちはこれからも、この世界のために祈り求めると共に、私たち自身が変えられていくことを祈り求めていきましょう。


(祈り)

憐れみ深い天の父よ、

 あなたは私たちを新しく生まれさせ、あなたを天の父と呼んで、あなたを礼拝して生きるようになりました。そのように内なる人を新しく生まれさせてくださったことを感謝いたします。天の父よ、どうぞ私たちの内に力強く御力を現してください。内なる人を強めてください。私たちを変えてください。そのように内なる人が成長し、新しい生活を形作るようになりますように。主の御名によって祈ります。アーメン。


2020年9月20日日曜日

「旅人としてこの世を生きる」

ペトロの手紙一 2:11‐17


仮住まいの身なのですから

 今日の箇所には「悪人呼ばわり」(12節)という言葉が出てきます。当時のキリスト者が、人々から「悪人呼ばわり」されていたという事情が伺えます。具体的にどのようなことを言われていたのかは分かりませんが、まだ国家レベルの迫害が始まる以前から、様々な謂われのない誹謗中傷を受けていたのでしょう。15節に書かれている「愚かな者たちの無知な発言」も同じです。これはもう少し広く、キリスト者や教会に対する誹謗中傷だけでなく、キリスト御自身やキリストの父なる神に対する冒涜的な暴言を含むものと考えられます。そのような言葉を投げかけられることが少なからずあったということでしょう。

 戦時中、クリスチャンホームで育ったある姉妹が、「ヤソ、ヤソ」と言われてよく虐められたという話を聞いたことがあります。ある程度信仰暦の長い方にはそのような経験をされた方も少なくないかもしれません。今日でも、家族から教会に行くことを反対されたり、あるいはそこまでではなくとも、キリスト教信仰について悪しざまに言われたりすることは、起こり得ることなのでしょう。

 それがいつの時代であれ、いずれにせよここで明らかなことは、信仰の故に不都合なことや困難が生じたり、嫌な思いをしたりすることがあったとしても、決して驚くには価しないということです。それはキリスト者が初めから経験してきたことなのです。それはある意味では当然のことなのでしょう。キリストはこの世において十字架につけられたのです。そのような世界に私たちは生きているのです。そのような世界において、十字架につけられたキリストを信じて、主とあがめて、その御方に従って生きようとしているのですから、困難が生じたとしても不思議ではない。信仰を持って生きるとはそういうことです。

 そのような信仰者のこの世における生活を、聖書は「仮住まい」と表現しています。11節に「いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから」と書かれている。確かにそうです。私たちは仮住まいの身です。この世に永遠に留まるわけではありません。この世は私たちの最終的な目的地ではありません。しかし、ペトロがこのことを語るのは、「この世の生活は仮住まいであり、限られた時なのだから困難があっても忍耐しなさい」という話をするためではありません。そうではなく、仮住まいの者が、仮住まいであるゆえに、どう生きるのかという話をするのです。

 仮住まいでなくて、この世に永遠に属する者であるならば、この世において何を獲得するかということが大きな意味を持つのでしょう。しかし、もし旅人であり仮住まいのものであるならば、やがては去っていくのですから、仮住まいの時をどう生きるのかということが重要になるのでしょう。この世における様々な出会いの中で、様々な関わりの中で、旅人として仮住まいしているこの限られた日々を、どのように生きるかが重要になってくる。そこで具体的に心に留めるべきことがあるのです。それが今日お読みした箇所に書かれている内容です。


立派に生活しなさい

 旅人として仮住まいしている者として、心に留めるべきことは何か。まず消極的な表現としては、「避けなさい」ということです。「魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい」(11節)と。この「肉」というのは肉体のことではありません。人間の罪深い性質のことです。その「肉の欲」がどのような形で現れてくるのかについては、パウロがガラテヤの信徒に宛てた手紙の中で次のように書き記しています。「肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです」(ガラテヤ5:19‐21)。

 これが「肉の業」です。このようなことを行う肉の欲するままに生きてはならないということです。肉は救われた魂(1:9)に戦いを挑んできている敵なのです。その敵と仲良くしてはならないのです。避けて遠ざけなくてはならないのです。キリスト者として謂われのない中傷を受けるのなら、それはそれで良いのです。しかし、肉に従って生きて「謂われのある中傷」を受けるようであってはならないということでしょう。

 これはより積極的に表現をするならば、「立派に生活しなさい」(12節)となります。この「立派に生活すること」あるいは「立派な行い」というのは、信仰から生じる行いのことです。キリストを信じ、キリストを愛し、キリストとの生き生きとした交わりから生まれる行いのことです。すなわち源が神であるということです。そうでなければ人々はその人を称賛するようにはなっても、「神をあがめるように」はならないでしょう。「あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります」とペトロは言うのです。

 そこには「よく見て」と書かれています。これは「観察する」という意味の言葉です。しかも、継続的に観察しているという表現になっているのです。人々は、キリストについて語る言葉、救いについて語る言葉を聞いてくれないかもしれません。しかし、キリストを信じる者の生活を見てはくれます。観察してくれるでしょう。そこにおいては、言葉よりも生きる姿そのものが雄弁に語ります。身近な人々の観察の前では、見せかけは通用しないものです。家族の中では特にそうでしょう。だから本当に信仰から来ていること、神との交わりから来ていること、神を礼拝し、神を畏れ敬う生活から来ていることが重要なのです。


主のために

 13節以下には、より具体的に「主のために、すべて人間の立てた制度に従いなさい。それが、統治者としての皇帝であろうと、あるいは、悪を行う者を処罰し、善を行う者をほめるために、皇帝が派遣した総督であろうと、服従しなさい。善を行って、愚かな者たちの無知な発言を封じることが、神の御心だからです」(13‐15節)と書かれています。そのように語っているのはペトロだけでなく、既にパウロもローマの信徒への手紙の中で語っていることです(ローマ13:1以下)。

 どうしてこのようなことが語られなくてはならないのでしょうか。それは宗教的熱心あるいは熱狂主義というものが反社会的な行動を生み出すことがあり得るからです。特にその宗教的熱心が「怒り」と結びついた時には往々にしてそのようなことが起こります。実際、聖書にも出てくる「熱心党」と呼ばれるユダヤ教のセクトはその道を行ったのです。戦いのために武器を取った。そのような事例は、今日においても、いくらでも挙げることができるでしょう。

 そのような方向に進んではならないとペトロは言っているのです。信仰のゆえに誹謗中傷されるなら、あるいはキリスト御自身が冒涜されるなら、その発言を封じるために必要なのは暴力でも議論でもないのです。そうではなく、善を行うことだ、とペトロは言うのです。この「善」もまた、当然のことながら信仰から生じる善き行動を意味するのでしょう。ですから「主のために」と書かれているのです。「主のために」あえて暴力を選ばない、あえて論争を選ばない。人から傷つけられても、あえて人を傷つけることを選ばない。そうではなくて愛することを選ぶ時、人々はそこに「主のために」生きている信仰者の姿を見ることになるのです。


自由な人として

 そして、さらにペトロは言います。「自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい」(16節)。パウロもその手紙の中でこう言っています。「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)。

 キリスト者は律法のもとに生きてはいません。キリスト者の生活は戒律に支配された生活ではありません。「このことは禁じられているから、わたしはしない」という生き方はしません。「このことは禁じられていないから、やっていいのだ」という考え方もしません。そうではなくて、「私を愛していてくださる神は何を望んでおられるのだろうか」と考えるのです。「神の僕として行動しなさい」とはそういうことです。

 本当の自由とは、肉に従う自由ではありません。それでは罪の奴隷になってしまいます。そうではなく、神の僕として仕えることのできる自由です。時には自分の権利を放棄することもできる自由、あえて仕えることもできる自由、愛することのできる自由です。「すべての人を敬い、兄弟を愛し、神を畏れ、皇帝を敬いなさい」(17節)と書かれています。先に述べた、制度に従うこともそうですが、「そうせざるを得ないから」と言って従うのは自由人の姿ではありません。そうではなくて、神がお望みならば喜んでそうします、というのが本当の自由な人の姿です。

 それは信仰から生じる自由です。神を礼拝し、神を畏れ敬う生活から生まれる自由です。それゆえに、私たちの生き方を省みるとするならば、まず、私たちと神との関係を省みなくてはならないのです。すべては神を礼拝し、神を畏れ敬う生活から生まれるのです。

 今、私たちは毎週、礼拝のために礼拝堂に集まることはできません。ならば、ここに集まることのできない主の日を私たちがどう過ごしているかが重要になるのです。そして、さらに言うならば、主の日から主の日へと向かう、一日一日を、御言葉と共に歩んでいるかが重要になるのです。私たちは旅人である仮住まいの者であり、この世に置かれているのは、まことに限られた日々でありますから。

(祈り)


2020年9月13日日曜日

「神の御心に適う願い事」

ヨハネの手紙一 5:13-17

御心が行われますように

 イエス様は「天にまします我らの父よ」という呼びかけで始まる「主の祈り」を教えてくださいました。その中に「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りの言葉があります。「糧」というものは、生きていく上で必要なもの、生活していく上で必要なものの代表であると言えます。ですから、例えば宗教改革者マルティン・ルターなどは、この「糧」という言葉が及ぶ範囲は非常に広いということを書いています。「日用のかてとは何であるか」。彼はこう答えます。「食物、飲み物、着物、履き物、家、屋敷、田畑、家畜、金銭、財産、信仰ある夫婦、信仰ある子供、信仰ある下僕、信仰のある忠実な支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、親友、真実な隣人などのごとく、身体の栄養や必需品に属する一切を含んでいる」(「小教理問答」より)。そうしますと、要するに、必要なものは全て神に求めたらよいのだ、ということでしょう。

 往々にして私たちの問題は神に間違ったものを求めすぎることではなくて、むしろそもそも神に求め無さすぎることにあるのです。この世の与えるものにしか目が向かない。人間が与えるものにしか目が向かない。自分の力で獲得できるものにしか目が向かない。そして、自分で獲得して生きてきたかのように思いあがってしまう。しかし、本当は神様から全てをいただきながら生きてきた、いや生かされてきたのです。私たちはへりくだって、神に願い求めるべきなのです。

 しかし、そのことを心に留めた上でなお、私たちは「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りの前に、このような祈りの言葉があることを忘れてはなりません。「御心の天になるごとく、地にもなさしめたまえ」。新共同訳ですと、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6:10)。

 そのように、神に祈る私たちが、まず神の御心に関心を持つということは、極めて大事なことであると言えます。神様が何を望んでおられるのか。神様が何を願っておられるのか。そのことに全く無関心で、無頓着で、ただ自分の望んでいることが実現するかどうかにしか関心がないとするならば、それは神と人との関係としてはどう考えても健全ではありません。

 今日お読みした聖書箇所には、こう書かれていました。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」(14‐15節)。

 これを書いたヨハネにとっては、ただ祈りが聞き入れられるかどうか、かなえられるかどうかだけが重要なのではないのです。これは神の御心に関心を向けて生きてきた人の言葉です。明らかに神の御心が実現することを願ってきた人の言葉です。そうあってこそ、祈りについても確信が持てるのでしょう。彼は「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」とさえ言うことができる。たとえ実現することが将来であっても、もう既に聞き入れられているのだ、という安心の中で祈り続けることができるのです。


罪を犯している兄弟を見たら

 さて、そのような御心に適う願い求めの一例が16節に挙げられております。いや、一例というよりも、代表と言ってよいかもしれません。こう書かれております。「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」(16節)。

 ここに「死に至らない罪」という言葉が出て来ます。後には「死に至る罪」という言葉が出て来ます。そのことについては後で触れるとしまして、まずここで考えなくてはならないのは、とにかく「罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」と書かれていることです。

 実際、どうでしょう。私たちが御心に適った「祈り」とか「願い」ということを考える時に、真っ先にこのことを考えますでしょうか。これを書いているヨハネは、「御心に適った神への願い求め」ということを話し出すならば、真っ先にこのことが出て来る、そういう人だったということです。その後には、「死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません」(16節)と書かれているので、人を切り捨てる冷たい人であるかのような印象を持つかもしれませんが、そうではないのです。ヨハネにとって、御心に適った祈りとは、まず罪を犯す誰かのために執り成し祈ることだったのです。

 「罪を犯している兄弟を見たら」というのは、実際に誰かが神に背くことを行っているのを目にした場合です。その時にどうするのか、という話です。私たちはどうするでしょう。そのような誰かの背きが、私たちに害を及ぼすこともあるでしょうし、あるいは他の誰かを苦しめている現実を目にすることもあるでしょう。そのような事実を目にするならどうしますか。その人を裁きますか。断罪しますか。自分に降りかかってくるならば、反射的にそうしてしまうかもしれません。

 しかし、そこでまず為すべきことは、神に代わって裁くことではなくて、神に願うことだ、というのです。その人が災いに遭うことを求めるのではなく、裁かれて滅びることを求めるのではなく、その人が悔い改めて赦しを得、命を得ることを願うことなのです。そうするならば、「神はその人に命をお与えになります」というのです。つまりそれは神の御心に適う願いだということです。神は人を滅ぼすことを願ってはおられない。人が永遠の命に生きるようになることを願っておられるのです。その神の願いを、私たちもまた共有することを神は願っておられるのでしょう。

 私たちが願い、神がそれを実現する。そのような形において、罪を犯した人が命を得ることを神は望んでおられる。なぜなら、それこそまさに主が愛してくださったように互いに愛し合うという交わりの実現に他ならないからです。互いに愛し合うということは、互いに赦し合い、互いに罪を執り成し合うとことと無関係ではないのです。私たちが互いに執り成しあうことにおいて、罪が死に至るものでなくなる。これが「死に至らない罪」です。


死に至る罪については

 しかし、もう一方で「死に至る罪があります」とヨハネは語ります。それは明らかに「もはや赦されることのない罪」ということであり、「滅びに至る罪」ということです。このように書かれていますと、私たちはどうしても「死に至る罪とは何だろう」と考えてしまうわけでしょう。実際、聖書の注解書を開きますと、この「死に至る罪」について様々な説明がなされているものです。

 しかし、よくよく考えてみるならば、「死に至る罪とは何だろう」と考えるということは、要するに「死に至らない罪」というのが標準で、「死に至る罪」というのは、何か特別な悪いことであるかのように考えていることではありませんか。しかし、そうなのでしょうか。「死に至らない罪」が標準なのでしょうか。実は聖書はそう言っていないのです。本来すべての罪は「死に至る罪」なのです。神が正しく裁かれるならば、すべての罪は滅びに値する罪であるはずなのです。パウロが「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)と語っているとおりです。

 それにもかかわらず私たちの罪が赦されて命を得られるのは、ひとえにイエス・キリストによる罪の贖いのゆえなのです。「死に至らない罪」があり得るのは、イエス・キリストの十字架のゆえなのです。私たちは罪の赦しを得られることを、当たり前のことのように思ってはならないのです。「悔い改めたのなら赦されて当たり前だろう」などと思ってはならないのです。キリストが苦しみを受けられたことによって、初めて私たちの罪の赦しがあり得るのです。ですから、先ほどのパウロの言葉はこう続くのです。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

 「主キリスト・イエスによる永遠の命」は「神の賜物」だと言われています。それは「プレゼント」なのです。そこでこんなことを考えてみてください。AさんがBさんにプレゼントをあげたとします。Bさんは確かにプレゼントを受け取りました。しかし、BさんがAさんの前でそのプレゼントを投げ捨てたとします。その時に、あなたはAさんに、「Bさんにプレゼントあげてください」とお願いしますか。それを当然のことのように願えますか。願えないでしょう。ここでヨハネが言っているのは、そのような話なのです。

 実際にこの手紙が書かれた時代に、イエス・キリストの福音を捨てて背教した人たちがいたのです。あるいはキリストの十字架を捨てて異端に行ってしまった人たちがいたのです。キリストの十字架を捨て、キリストの福音を投げ捨ててしまうなら、罪は罪としてそのまま裁かれるしかありません。そこにはもはや赦しはありません。それをヨハネは「死に至る罪」と呼んでいるのです。そして、「これについては、神に願うようにとは言いません」とまで語るのです。

 それはもちろん、罪が死に至らないことの恵みがいかに大きいかを知っているからです。神の賜物、神のプレゼントがいかに尊いものであるかを知っているからです。それは神の子が血を流し、命を注ぎだして与えてくださったとてつもなく高価な賜物であることを知っているからなのです。それをヨハネは「永遠の命」と呼んでいるのです。

 「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」という言葉から本日の朗読は始まりました。そのような大きな恵みをいただいているのです。神によって赦された者として生きる恵み、神との交わりに入れられ、永遠の命を既に与えられた者として生きる恵みにあずかっているのです。そのような者として、神に祈りながら生きる生活も与えられているのです。

 だからこそ、私たちは互いに裁き合うのではなく、互いのために神の赦しを求めて祈るのです。そのために祈りを用いるのです。その祈りは必ず聞き届けられるのです。必ず聞き届けられるのです。なぜなら、それは神の願いでもあり、神の御心に適った祈りであるからです。

(祈り)


2020年9月6日日曜日

「神の配慮と目的」

出エジプト記13:17-22

 今日朗読された福音書において、イエス様はこう言っておられました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。イエス様は光です。その光であるイエス様が「わたしに従う者は…」と言うのですから、イメージとしてはただ照らしてくれる光というのではなくて、「先を行く光」です。つまり「導きの光」ということです。

 ところで、「導きの光」と言いますと、イエス様のお話を聞いていた当時の人にはピンと来るものがあったはずです。旧約聖書に、光に導かれた人たちの話が出て来るのです。ユダヤ人の先祖、イスラエルの民の話です。彼らはモーセという人によってエジプトから脱出したのですけれど、その後、荒れ野を延々と旅することになりました。その時に、昼は雲の柱、夜は火の柱が彼らを導いたという話が出て来るのです。だいたい、昼間は暑くて旅するのは困難なのですから、実際には夜に移動することの方が多かったと思います。暗闇の荒れ野を旅するのに、火の柱、導きの光がなかったら、とてもじゃないけれど動けないでしょう。

 本日の第一朗読では、そのように荒れ野を旅するイスラエルの人たちの話が読まれました。雲の柱、火の柱に導かれながら歩むイスラエルの民。そんな彼らの姿に、イエス様という導きの光に導かれて生きる私たち自身の姿が重なります。


遠回りの旅路

 エジプトを脱出したイスラエルの民には目的地がありました。彼らは神が約束してくださった地、カナンの地へと向かっていたのです。そのカナンの地へと向かう一番の近道は地中海に沿ったルートでした。後に「ペリシテ街道」と呼ばれるようになるルートです。 ところが今日読まれた聖書箇所にはこう書かれています。「 さて、ファラオが民を去らせたとき、神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった。それは近道であったが、民が戦わねばならぬことを知って後悔し、エジプトに帰ろうとするかもしれない、と思われたからである。神は民を、葦の海に通じる荒れ野の道に迂回させられた。イスラエルの人々は、隊伍を整えてエジプトの国から上った」(17‐18節)。つまり、神は彼らを最短のルートではなく、あえて遠回りをさせられたと言うのです。

 目的地が明確である時に遠回りは嫌なものです。無駄な時間は費やしたくない。無駄な労苦はできる限り避けたい。効率よく目的を達成したい。しかし、現実にこの世においては、遠回りを強いられることは少なくありません。それは旧約聖書に見るイスラエルの歴史に良く現れています。聖書に見る人間の営みは、無駄に費やされた時間と無駄に費やされた労苦の連続です。それはこの世界全体の歴史にも言えるでしょうし、私たち自身の人生についても言えるのでしょう。

 そのような遠回りは、一面において、人間の罪と不従順に起因すると言えます。イスラエルは結局この後、40年も荒れ野をさまようことになるのですが、聖書ははっきりとその原因となった人間の不従順について語っています。人間は確かに、神に背いて、あえて遠回りになるような愚かなことをするものです。

 しかし、それが全てではありません。神に従順であれば遠回りをすることはないのか。神に従順であれば、すべては順調に進み、近道を行くことができるのか。必ずしもそうではないことを、今日の聖書箇所は伝えています。彼らは雲の柱、火の柱に導かれながら旅をしているのです。彼らは神に従ったのです。そして、それゆえに遠回りをすることになったのです。神はあえて葦の海に通じる荒れ野の道へと迂回させられたのです。それは決して不従順の結果ではないのです。


神の配慮と目的

 ではなぜなのか。先ほどお読みした聖書の言葉は、そこに神の配慮があったことを教えています。地中海沿岸を進み、そこに住む人々と戦わなくてはならなくなったら、彼らは後悔してエジプトに帰ろうとするかもしれない。神はそう考えて、荒れ野へと彼らを導かれたのだと言うのです。

 私たちは後に、神の判断が正しかったことを知らされます。彼らには確かにその弱さがあったのです。実際、後に荒れ野の旅路の厳しさの中で、彼らはこのように不平を言い始めるのです。「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。…」(16:3)。このような弱さを持つ民が、エジプトから解放された直後に戦いに巻き込まれたらどうなるか、火を見るよりも明らかであったことでしょう。

 神はしばしば人間の弱さに対する配慮から、遠回りの道へと導かれます。もちろん、その神の意図は、人の目には隠されています。ですから、それは人間にとってしばしば不愉快なことでしかありません。しかし、神の配慮は後に明らかになるものです。「神は彼らをペリシテ街道には導かれなかった」と書かれていました。この「ペリシテ街道」(直訳すると「ペリシテ人の地の道」)という呼び名はモーセの時代のものではありません。後の時代の呼び名です。後にその時のことを振り返っているのです。そのように信仰の目をもって歴史を振り返る時に、そこに神の導きのおける特別な配慮があったことを見ることができるのです。

 さらに言うならば、そこにはわざわざ「葦の海に通じる荒れ野の道」と書かれています。これは続く14章に直接関係します。葦の海で何が起こるのでしょう。そこでイスラエルの民は、《前は海、後ろは追い迫るエジプト軍》という絶体絶命の危機に陥るのです。しかし、神の奇跡により海が分かれ、彼らは海の中にできた道を進んでいくことになります。これが後々まで語り継がれることになります葦の海での奇跡です。つまり、イスラエルの民はそこで、彼らの救いが完全に神の恵みによることを経験することになるのです。

 このように、ただ人間の弱さへの配慮ということだけではなく、積極的な意味において、神は特別な目的のゆえに、民を遠回りの道へと導かれたということなのです。彼らには、約束の地に入る前に経験しなくてはならないことがあったのです。そして、彼らが経験すべき神の恵みは、遠回りを通して初めて得られるものだったのです。


神の約束に信頼して

 さて、私たちはここで「モーセはヨセフの骨を携えていた」(19節)と書かれていることにも注目したいと思います。モーセの行為の理由は、「ヨセフが、『神は必ずあなたたちを顧みられる。そのとき、わたしの骨をここから一緒に携えて上るように』と言って、イスラエルの子らに固く誓わせたからである」(同)と説明されております。モーセは、自分の先祖の誓いを果たしているのです。

 しかし、実は、このヨセフの言葉の前に、もう一つの言葉があるのです。ヨセフは、この前にこう言っているのです。「わたしは間もなく死にます。しかし、神は必ずあなたたちを顧みてくださり、この国からアブラハム、イサク、ヤコブに誓われた土地に導き上ってくださいます」(創世記50:24)。このように、人間の誓いの前に、神の誓いがあるのです。神の約束があるのです。ヨセフが自分の骨について誓わせたのは、《神は必ず子孫を顧みてくださり、約束の地に導き上ってくださる》という、神の真実への信頼に基づいてそうしたのです。

 そのヨセフの骨をモーセは携え上ったのです。単にヨセフがそう願ったからではないのです。モーセはヨセフの骨を携え上ることによって、ヨセフの信仰を共有しているのです。イスラエルの民は必ず約束の地に着くことができる。荒れ野を歩こうが、遠回りしようが、とにかく必ず約束の地に着くことができる。神は必ず導き上ってくださる。そう信じているからこそ、骨を携えて上るのです。そして、彼らが約束の地に着くことができるとするならば、それは彼らの力や強さによるのではなく、神の約束によるのです。モーセもイスラエルの民も、ただ神の約束に信頼して、いわばヨセフの骨と共に「神の約束の言葉」を携え上っているのです。

 私たちは神の御業によってエジプトを脱出したイスラエルの民が、ただちに約束の地に到着したのではないことを忘れてはなりません。それは荒れ野の旅でした。遠回りに見える旅でした。しかし、彼らには伝えられた神の約束の言葉がありました。神は必ず導き上ってくださる、と。ですから、彼らにとって重要なことは、神の約束に信頼して、雲の柱、火の柱をもって導かれる主に、安心して付いて行くことだったのです。

 イエス様は言われました。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」。私たちにも神の約束が与えられているのです。私たちもまた必ず約束の地に着くのです。必ず完全な救いにあずかるのです。今は荒れ野の旅であるかもしれません。迂回の連続であるかもしれません。しかし、それがいかなる旅であれ、私たちはそこに神の配慮と目的があることを見失ってはなりません。私たちはひたすら主に信頼し、終わりの日まで、導きの光なる主に従って歩んでいきましょう。私たちを導く光は、永遠の命に至らせる、まことの命の光なのですから。

(祈り)


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