2025年12月21日日曜日

「真に幸いな人とは」

ルカによる福音書 1:39-56

 今日の福音書朗読は「そのころ、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った」(39節)という言葉から始まっていました。マリアは急いでいました。一刻も早く会って話をしたい人がいたからです。親戚の老婦人エリサベトです。

受胎告知
 この直前には「受胎告知」の場面が書かれています。天使ガブリエルがマリアに現れて、彼女がメシアを身ごもっていることを伝えたというくだりです。天使はマリアに言いました。「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」。これが第一声でした。しかし、天使が持ってきた話は、単純におめでたい話ではありませんでした。

 ガブリエルは続けます。「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。「恐れることはない」と言いますが、これほど恐ろしい話はありません。マリアはこの時、ヨセフと婚約していたのです。マリアはヨセフと共に幸せな家庭を築くことを夢見ていたごく普通の娘だったに違いない。しかし、そんなささやかな望みがこの天使の言葉で打ち壊されてしまいました。

 婚約している娘が身ごもるということがユダヤ人社会においてどのように受け止められるか、マリアが知らなかったはずはありません。天使は「聖霊によって身ごもった」と言いますが、いったい誰がそんな説明を信じるでしょう。事実、今日でも信じない人の方が圧倒的に多いのですから。彼女の場合、姦淫の罪として告発されればまず有罪は免れません。仮にヨセフが告発しなかったとしても、彼との関係は終わりでしょう。しかし、その全てをマリアは受け止めたのです。彼女は言いました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」。これがマリアの信仰でした。

共に信じる交わり
 しかし、マリアに不安や恐れがなかったはずがありません。ヨセフとの関係が壊れてしまうことを考えたら、どれほど辛く悲しかったか知れません。そんな思いを抱えて、彼女はユダの山里へと急ぎました。エリサベトに会うために。どうしてですか。エリサベトだったら分かってくれるからです。なぜなら、エリサベトもまた神によって男の子を与えられた人だったからです。不妊の年老いた女がただ神の力によって奇跡的に身ごもったのです。彼女ならば分かってくれる。

 いや、それだけではありません。それ以上に大事なことがあります。そこで神のことを語り合えるということです。人生に起こっていることを神の御業として語り合える。マリアはそんなエリサベトに会うために急いだのです。

 マリアは間違ってはいませんでした。確かにエリサベトこそ、マリアが会うべき人でした。「そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した」(40節)と書かれています。この場面は物語がかなり端折られているようにも思います。実際には挨拶の言葉に次いで、これまで起こってきたこと、自分の思いなどをマリアは語ったでしょう。あるいは不思議なことにエリサベトには語らずして事情が分かったということかもしれません。いずれにせよ、大事なことは、深刻な事態に置かれているマリアに対してエリサベトはこう言ったということです。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています」(42節)。

 祝福するのは神様です。神様がマリアをも胎内の子も祝福してくださっている。そのように、神がなさっていることとして、一緒に信じて語ってくれた、それがエリサベトでした。彼女は言ったのです。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」(45節)。

 マリアがこれから直面せざるを得ない困難は、もちろんエリサベトにも分かっているのでしょう。しかし、エリサベトが目を向けているのはそちらじゃないのです。そうではなくて、神のご計画の方なのです。必ず実現へと向かっていく神の御業について語っているのです。そうです、困難があろうが何があろうが、神の御業を一緒に信じて、一緒に語り合ってくれる人こそ、マリアには必要だったのです。

 このエリサベトがいたからこそ、その後の「マリアの賛歌」が続くのです。そこで爆発的な喜びに満たされてマリアは歌うのです。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」(46‐47節)。ここで初めて、マリアの口から「喜ぶ」という言葉が出て来るのです。

 事態は何も変わってはいません。困難が無くなったわけではありません。しかし、一緒に信じるところで、一緒に神の御業について語り合うところで、悩みが喜びに変えられていくのです。不安や恐れが賛美へと変えられていくのです。悩みについて語り合える人や場所はこの世にいくらでもあるかもしれません。しかし、悩み多き人間にとって、本当に必要なのは、当たり前のように神について語り合うことができ、そして、共に信じて神を賛美することができる交わりなのです。そして、それは私たちにも、こうして与えられているのではありませんか。

最も喜ばしきこと
 マリアとエリサベトの間において何が起こったのか。今日の私たちについて言うならば、教会において何が起こり得るのか。マリアが歌っている言葉に、もう少し耳を傾けてみましょう。

 マリアは何を喜んでいるのでしょう。「わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」と言った後、彼女はこう続けるのです。「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」(48節)。そうです。彼女は主が自分に「目を留めてくださった」ことを喜んでいるのです。だからそんな自分について「今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう」と語るのです。

 しかし、彼女が単純に自分の個人的な「幸い」を考えて喜んでいるのではないことは、このマリアの賛歌全体から明らかです。後半に入ると、例えば、「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ・・・」というような、まるで革命歌であるかのような言葉が続くのです。つまり彼女の目は自分の小さな幸福に向けられているのではなくて、その目はこの世界に向けられているのです。

 この世界とはどういう世界ですか。ここに歌われているように、実際に「思い上がる者」が存在する世界です。「思い上がる者」が権力と富を追い求めている世界です。言い換えるなら、最終的にはカネと力がモノを言うと考えられている世界です。しかし、そこで彼女はこう歌うのです。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」

 マリアは何を言っているのか。――要するに、最後にモノを言うのはカネと力じゃない、と言っているのです。この世の力など、アッという間にひっくり返されるし、この世の富など、アッという間に失われるのです。では最後にモノを言うのは誰なのか。それは神なのだ、と言っているのです。ならば私たちは思い上がってはならないのです。人間がこの世界を動かしているかのように思い上がってはならないのです。

 そして、それは私たち人間にとって、本当は幸いなことなのです。なぜなら、もし人間がこの世界を動かし、その運命を握っているならば、最終的に救いはないからです。それはそうでしょう。こんな愚かで、愚かなことを繰り返している、まことに罪深い私たち人間がこの世界を動かしているならば、どう考えたって最終的に破滅しかないでしょう。

 それは個人の人生を考えても同じです。私たちの人生を動かし、運命を握っているのが、私たち自身であったり、他の人間であったりするならば、どう考えても救いはありません。ろくでもない人間が動かしているのですから。しかし、聖書は「そうじゃない!」と言っているのです。この世界を支配しているのは神なのです。私たちの人生を手にしているのも神なのです。そして、その神が、この世界をも私たちをも救おうとしていてくださるのです。

 マリアはこの世界に目を向け、この世界に生きて働いておられる神、救い主を与え、救いのご計画を進めておられる神に目を向けて歌っているのです。そうすると、「目を留めてくださった」と言って喜んでいる意味も分かるでしょう。自分はこの世においては取るに足りない小さな存在かもしれない。この世においては「身分の低い」者であるかもしれない。しかし、そんなわたしにも神は目を留めてくださって、この世界におけるご計画の中で用いてくださる。わたしは主のお役に立つことができる。そのことを喜んでいるのです。

 もし人が自分の幸・不幸だけを考えているならば、人生はまことに不可解な重荷に満ちていると言えます。なぜ自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。なぜ私ばかりがこんな重荷を負わなくてはならないのか。そう言って嘆かざるを得ないのでしょう。しかし、そうではなくて、目をこの世に転じて、この世における神の御業に目を転じ、神がなさろうとしていることを考え始める時、一方的に天使が運んできた重荷の意味もまた見えてくるのです。

 そして、既に傍らにはエリサベトが与えられているのです。当たり前のように神について語り合い、そして、共に信じることができる交わりが与えられているのです。そこにおいて、神に用いていただける喜びを分かち合い、悩みが喜びに変えられ、不安や恐れが讃美へと変えられていくことを共に喜ぶことができる。――こういう人をこそ、こういう人たちをこそ、本当の意味で「真に幸いな人」と呼べるのでしょう。そして、私たちはここにおいて、そのように生きるようにと招かれているのです。

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