2024年6月30日日曜日

「御言葉を信じ、信じたように生きる」

ヨハネによる福音書 4:46-54

 今日の聖書箇所には、「王の役人」と呼ばれる人が登場します(46節)。領主ヘロデ・アンティパスに直接仕えていた有力な高官のようです。また、彼が経済的にも裕福であったことは、後に「僕たち」が彼を迎えに来ることからも分かります。

 そのような「王の役人」が、直線距離でも30キロは離れているカファルナウムからはるばるイエスのいるカナまで自ら旅をしてきたのです。しかも、ユダヤ人当局から危険視され始めていたイエスのもとに来て、見栄もプライドも、己の立場もかなぐり捨てて、すがりつくようにして助けを求めているのです。なぜでしょうか。彼の権力をもってしても、彼の持てる富をもってしても、どうすることもできないことによって、彼の人生が根底から揺さぶられていたからです。

 この「王の役人」の人生をそこまで揺るがしたのは、子供の病気というたった一つの出来事でした。その時、彼が持っているものは何一つ、彼を支えることはできなかったのです。実際、「王の役人」に限らず、人間がその人生の土台としているものは何ともろいものかと思います。たった一つの病、たった一つの失敗、たった一つの事件、いやそれどころか、誰かが偶然発したたった一言の言葉によってさえ、揺さぶられ、もろくも崩れていくということが起こります。

 しかし、人生の土台が大きく揺らいだ時に、救い主のもとに赴いたことは、彼にとって実に幸いなことでした。そこにおいて、神との出会いを経験することになったからです。「人間のピンチは神のチャンスである」と言われます。揺らいだ時こそ、揺るぎない御方に出会い、その御方を知るチャンスでもあるのです。

奇跡を見て信じた人々
 この出会いが起こった背景をまず見ておきましょう。今日の箇所の少し前を見ますと、「二日後、イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた」(43節)と書かれています。イエス様はそれまでいたユダヤを去って、故郷のガリラヤへと向われたのです。しかし、奇妙なことに、その続きはこう書かれているのです。「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある」(44節)。

 翻訳では分からないのですが、実は、原文には「なぜなら」という言葉があるのです。それが理由だということです。つまりイエス様はそこでは御自分が敬われないであろうことを予期しながら、それだからこそ、あえて故郷に行かれた、ということなのです。

 それはなぜなのか。――イエス様が王の役人に語った言葉から見えてくることがあります。主は言われました。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」(48節)。このようなことが語られるということは、もう一方において、《しるしや不思議な業を見たから》信じた人が少なからずいたということを意味します。

 実は既に2章にこう書かれているのです。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」(2:23)。多くの人がイエス様を信じたのです。それは喜ばしいことではないでしょうか。しかし、聖書はこう続けるのです。「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それはすべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」(同24‐25節)。

 イエス様のなさったしるし、不思議な業、奇跡を見て信じた人たちがいた。具体的には病気の癒しなどでしょう。しかし、奇跡を見て信じた人々の心の内に何があるかをイエス様はご存じだったというのです。「イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」。すなわち、人々が求めているのは奇跡なのであって神ではないこと。奇跡を起こすイエスの力を求めているのであって、イエスを遣わされた父なる神を求めているわけではないし、キリストを通して語られる神の言葉を求めているわけでもないこと。主は人間の心の中にあることをご存じだったのです。

 ある人々は病気を癒すイエスの力を求めてきました。ある人々は彼らを政治的にローマの支配から解放してくれるイエスの力を求めてきました。後にイエスを王にしようとする人たちまで出てきます。ならば、彼らが求めているものが与えられなければ、どうなるのか。期待どおりにならなければ、やがては「十字架につけよ」と叫び出すことにもなるのです。主は人間の心の中にあることをご存じでした。

 だからこそ、そのような人間的な歓迎と熱狂が拡大することを望まれなかったのです。だからそのような人々を避けて、むしろ歓迎を期待できない故郷へと向かったのです。むしろ歓迎されないことの方がはるかに望ましかったということです。

 しかし、予想に反して、ガリラヤの人々はイエスを歓迎しました。なぜか。こう書かれています。「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」(45節)。

 残念ながら、ここにも奇跡を見て信じた人々がたくさんいたのです。そして、イエス様のしるしと奇跡を期待して待っていたのです。これが本日の聖書箇所が記している場面であり、その背景です。そこにおいて、先ほど申し上げました宮廷の高官とイエス様との出会いが起こったのです。

御言葉を信じて帰って行った
 47節からお読みします。「この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。イエスは役人に、『あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない』と言われた」(47‐48節)。

 この人は必死でした。しかし、イエス様のもとに来たその心の内にあったものは、基本的にはユダヤにおいて「奇跡を見て信じた」人々となんら変わるものではありませんでした。彼はイエス様が病気を癒してくださる方だということを聞いたのでしょう。だから、その癒しの力が必要だと思った。病気である彼の息子にその癒しの奇跡が必要だと思ったのです。

 確かに彼の息子には癒しが必要なのでしょう。息子のためには、イエスの癒しの力が必要なのでしょう。しかし、彼は重大なことを見落としています。それは、救いを必要としているのは息子ではなく、自分自身なのだ、という事実です。人生が根底から揺さぶられているのはこの父親自身なのです。たった一つの出来事で容易に崩れてしまうような人生の土台しか持っていないことを突きつけられているのは彼自身なのです。死という現実を目の前にした時に、死を越えた真の拠り所がないままに生きてきたのだという事実と直面しているのは、実は彼自身なのです。彼に本当に必要なのは、目の前の個々の問題の解決ではなくて、神御自身なのだということに彼は気づいていないのです。

 そう、この役人は気づいていません。だから、イエス様が「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と問題を指摘しても、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と願うのです。彼はなおもイエスの持っている癒しの力を息子のために求めます。そのような父親にイエス様はこう言われたのでした。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」(50節)。

 イエス様はその父親に「信じる」ということを求めました。イエス様の御言葉を信じることを求めたのです。御言葉を信じるということは、イエス様御自身を信じるということでもあります。それはイエス様を父なる神から遣わされた御方として信じることでもあります。それは遣わしてくださった父を信じることでもあります。そのように先の見えない現実について、それでもなお、神とキリストとその御言葉に全幅の信頼を置くことを求めたのです。

 そして、イエス様はただ信じることだけでなく、信じたように行動することを求めました。信じたのなら、そこから立ち上がって実際に一歩を踏み出さねばなりません。主は言われます。「帰りなさい」と。「あなたの息子は生きる」と言われる主を信じるなら、彼は立ち上がって、家路につかなくてはならないのです。すなわち、カファルナウムに向かって一歩を踏み出さなくてはならないのです。

 彼はどうしたでしょうか。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」(50節)と書かれています。そして、奇跡が起こりました。息子は癒されました。いや主が語られた時に、既に癒されていたのです。そうです、奇跡は起こります。しかし彼は、ただ必死で奇跡を求め、癒しをもたらす力を求めて、それを得たのではありません。信頼すべき御方とその御言葉に信頼して行動したときに、実際にそのように生きたときに、結果として彼は神の御業を見ることになったのです。

 だから、息子が癒されて、「ああ、よかった」で終わりませんでした。また、ただ次なる奇跡や癒しを求めるようになったのでもありませんでした。そうではなく、この出来事はまさに彼にとっても、また家族にとっても、本当の意味で「しるし」となったのです。

 「しるし」いうのは、それ自体が重要なのではなく、重要なことを指し示すものなのです。すなわち、神がイエス・キリストを遣わされたこと。神がイエス・キリストを通して語っておられること。神がイエス・キリストを通して御自分との信頼に満ちた交わりへと招いてくださっていること。イエス・キリストによって永遠の命を与えようとしておられること。――王の役人に起こった出来事は、まさに神の限りない愛と御救いを指し示す「しるし」となりました。それゆえに、このエピソードは次のように締めくくられているのです。「これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである」と。

 そして、この「しるし」が伝えられたのは、後の教会のためでもあり、ここにいる私たちのためでもあります。イエス様は私たちにも、御自身とその御言葉を信じるようにと、そして、信じた者として、信じたように生きることを求めておられるのです。




2024年6月26日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 20:12-21

 出エジプト記 20:12‐21

 先週に引き続き十戒を学びます。今週は後半です。先週も申し上げましたように、十戒には先行する神の救いの恵みがあります。十戒に記されているのは、神の恵みへの応答としての生活です。神の恵みへの応答は、神を愛し、隣人を愛することです。前半部分には、神を愛することについて記されておりました。後半部分には、隣人を愛することについて記されています。

 主は言われました。「あなたの父母を敬え」(12節)。この戒めの言葉を十戒の前半部分に数える人もいます。父母は家族という生活共同体において、神によって立てられた、神を代表する存在と見ることができます。そうしますと、父母との関係は、即神との関係を意味することになりますから、むしろこの戒めは人との関係よりも、神との関係を表していることになるわけです。このような見方は十分な根拠がありますし、前半後半五戒づつとなって形としても整います。

 もう一方で、第五戒を後半に入れる見方もあります。現実的には父母との関係もまた、その後に出てくるような殺人や姦淫や盗みなどが入り込みうる人間同士の関係に他ならないからです。そのように、この戒めを後半部分に入れますと、ここで父母について語っていること自体、大きな意味を持っているように思われます。いかなる人にとっても、父母は一般化できないある特定の個人です。しかも、それはある期間生活を共有する、もっとも身近な個人です。そうしますと、隣人との関係について語る時、主はまず目に見える具体的な特定の個人について語っていることになります。

 博愛主義者になることよりも、身近な個人を愛することは、より大きな困難を伴います。世界の平和について語る人が、家族と平和であるとは限りません。主はまず父母を指し示して言われます。「父母を敬いなさい」と。

 「敬う」と訳されているのは「重んじる」という意味の言葉です。親が重んじられるべき理由は特に記されてはおりません。これは、父母が重んじられるべき根拠が父母自身にあるのではないことを意味します。根拠は主の命令にあるのです。主がそうお望みであるゆえに、子は父母を重んじるのです。この場合、父母という隣人を愛することは、神が与えられた関係を重んじることに他なりません。

 ちなみに、これはしばしば「年老いた両親への尊敬と配慮」についての戒めであると理解されてきました。確かに、親と子との関係は、互いの人生の途上にて変化します。子が親に依存する期間があり、親が子に依存する期間があります。親が扶養し、養育し、教育する期間が永遠に続くわけではありません。しかし、そのような関係の変化にかかわらず、子は父母を重んじなくてはならないのです。理由は一つ、それは神がそう望んでおられるからです。

 これは親もまた心に留めるべき神の言葉です。敬われるべき根拠を自分の内に求め、子に対して一生懸命に自分自身を指し示している親は気の毒です。親が子に指し示すべきであるのは、自分ではなく神なのです。神を指し示さないということは、父母が重んぜられるべき根拠を、親自らが放棄することになるのです。

 次に短い言葉で表現された四つの戒めが続きます。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない」(13‐16節)。ここには隣人の命、結婚、所有、名誉を重んじるべきことが語られております。隣人を愛するとは、神が隣人に与えておられるものを重んじることでもあるということです。

 主は「殺してはならない」(13節)と言われました。しかし、私たちはこの戒めの言葉がある限定のもとにあることをも見落としてはなりません。ここには法的手続きを経た死刑は含まれておりません。また、さらに困惑させられますのは、ここに戦争行為が含まれていないということです。実際、同じ旧約聖書の中には、神が死刑を命じられる場面や神が戦争を命じられる場面が出てきます。これは簡単に論じることができない、深く大きな問題です。しかし、考える上で大事なポイントはいくつかあります。

 古代イスラエルにおいては、本来、死刑や戦争は、神の命令に基づいて《のみ》行われるものとされています。言い換えるならば、権力者の個人的な利益のために死刑が行われてはならないし、単純に国益のために戦争が行われてはならないということです。そのような力の行使は厳しく戒められているのです。まさに十戒の「殺してはならない」という言葉は、そのような人間の利益追求や怨念による殺人を禁止しているのです。

 そして、私たちが非常に抵抗を覚えるような極端な形ですが、神が死刑を命じられたり戦争行為を命じられたりする記述は、そのように命を与え、あるいは奪う権利は、あくまでも《神のみ》が保持しているという主張に他なりません。実際には、このことを認めないゆえに、極めて恐るべき悲惨なことがこの世界で起こってきたし、今も起こっているのです。隣人を愛することとは、まず命に関する最終的な権威をお持ちである神が隣人に与えたその命を重んじることです。

 次に主は「姦淫してはならない」(14節)と言われました。なぜなら姦淫は、結婚を破壊し、家庭を破壊するからです。姦淫が禁じられているのは、単に自分の結婚が壊れるからではありません。他者の結婚を壊すからです。結婚の破壊は、姦淫が表沙汰になった時に始まるのではありません。裏切りが生じた時点で既に始まります。聖書がその初めから語っているとおり、結婚および性の交わりは、人からのものではなく、神からのものです。それは神が祝福して与えてくださった賜物です。私たちはそのことに畏れを抱かなくてはなりません。隣人を愛するとは、神が隣人に与えられた賜物と神が隣人に与えた関係を、畏れをもって最高度に重んじることです。

 主はまた「盗んではならない」(15節)と言われました。この戒めは、もともと、人を盗むこと、すなわち誘拐することを禁じた戒めであったであろうと考える人もいます。誘拐するのは労働力にするためです。その場合、その人から自由を奪うことになります。しかし、教会は伝統的にこれを「盗み」の行為一般を禁じたものと理解してきました。その場合、奪い取られるのは自由だけでなく、所有一般ということになります。自由にせよ、所有物にせよ、真の所有者は神御自身です。その神が各々に御心に従って分かち与えられるのです。隣人を愛するとは、神が分かち与えられた隣人の所有を、真の所有者への畏れをもって、重んじることに他なりません。

 主はさらに「隣人に関して偽証してはならない」(16節)と言われました。ここで語られているのは、もともとは法廷における証言のことです。法廷における証言は、時として隣人の生死に関わります。ですから正しい証言がなされることは重要です。しかし、偽りの証言が関わるのは単に刑罰だけではありません。根本的には隣人の名誉に関わります。偽りによって名誉が奪われるのです。そして、そのような場面は、実は法廷以外にいくらでも見出されます。無責任な小さなうわさ話という《虚偽の証言》によってさえ、人の名誉は回復不可能なほどに損なわれ、人が死に追いやられることさえあるのです。隣人を愛するとは、隣人の名誉を重んじこれを守ることでもあるのです。

 以上、第五戒から第九戒までを通して言えることは、「隣人」をただその人として見るのではなく、その背後に命を与え、すべてを与えて生かしておられる神を見るということが大事だということです。神への畏れをもって隣人を重んじ、大切にする。そのことを神は私たちと隣人との関係において求めておられるのです。

 そして、最後に第十戒について考えましょう。主は言われました。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(17節)。第十戒は、このように、思考と欲望について語っている点で、他とは異なると言えるでしょう。もっとも、この「欲する」という言葉は、実際に奪い取る行為をも含むものです。しかし、確かにここには人間の心の内に始まることについても語られているのです。

 私たちはここで、既に見てきました殺人や姦淫や盗みについても、問題は既に行為として現れる前に心の中に始まっていることを考えさせられます。使徒ヨハネはその手紙の中に「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」(1ヨハネ3・15)と記しています。憎しみは既に心の中に始まっている殺人です。主イエスも次のように語られました。「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5・27‐28)。そのように言われた時、確かに主は第七戒の本質を語られたと言うことができるでしょう。

 十戒に先立って「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と語られておりました。この第十戒を読みますと、改めてこの十戒が先行する神の恵みに基づいていることの重大さを思わされます。これは神の恵みにあずかった神の民に与えられた戒めなのです。隣人の家を欲するのは、自分の与えられている恵みの大きさが分からないからです。

 私たちに必要なのは、隣人のものを自分のものにすることではなくて、既に与えられている神の恵みを知り、それを喜び祝うことなのです。本当に欲しなくてはならないのは、神の恵みを知ることであり、そして神の恵みの支配が心の深き所にまで至ることなのです。その意味においても、やはり十戒において求められている生活は、神を愛することについても、隣人を愛することについても、《神の恵みに対する感謝の応答》に他ならないのです。

2024年6月23日日曜日

「イエスの食べ物」

ヨハネによる福音書 4:27-42

イエスの食べ物
 本日の福音書朗読は、先週の続きです。先週、私たちは、イエス様とサマリアの女との対話をお読みしました。この間、弟子たちは食べ物を買うために町に行っていました。今日の箇所はその弟子たちが戻ってきたところからです。「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と言う者はいなかった」(27節)。

 ユダヤ教のラビでしたら、同じユダヤ人であったとしても、外で女性と話をするなどということはまずしなかった。そんな時代の話です。まして、ユダヤ人と仲の悪いサマリア人の女性と話をしていたのですから、弟子たちが驚いたのも無理はありません。

 しかし、「何をこの人と話しておられるのですか」と聞く者はいませんでした。そこには軽々しく踏み込めない厳粛な空気が満ちていたからでしょう。それは既に見てきた対話から分かります。「水を飲ませてください」から始まった対話は、人間の根源的な命の渇きに関わる対話となっていったからです。そして、ついには主が「それ(すなわちキリストと呼ばれるメシア)は、あなたと話をしているこのわたしである」というメシア宣言にまで至ったのです。

 弟子たちの驚きをよそに、女は町へと出て行きました。そして、「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と語り出したというのです。人目を避けて正午頃に水を汲みにきたその人だったはずです。人々に触れて欲しくないことがあったからです。しかし、その「わたしが行ったこと」について彼女自らが語り始めたのです。そのようにして、彼女はキリストを指し示すのです。「見に来てください・・・もしかしたらメシアかもしれません」と。

 31節には「その間に」と書かれています。サマリアの女が町に行き、キリストを証ししていた間の話です。弟子たちは、その女性のことには触れないで、すぐに買ってきた食べ物をイエス様に差し出しました。するとイエス様はこう言われたのです。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」(32節)。食べ物がないから弟子たちは買いに行っていたのです。これはいったいどうしたことだろう。だれかが食べ物を持ってきたのだろうか。弟子たちは不思議に思いました。しかし、イエス様は井戸の水をきっかけとしてサマリアの女に語られたように、ここでは食べ物をきっかけとして弟子たちに大切なことを教えようとしておられたのです。

 前の場面においては、イエス様が救いを必要としている一人の女に「命の水」について語られました。この場面では、弟子たちに「食べ物」について教えようとしておられたのです。すなわちイエス様は御自分の食べ物について語られることによって、やがて人々の救いのために宣教に遣わされる弟子たちに必要な「食べ物」は何であるかを示そうとしておられたのです。

 では、そのイエス様の「食べ物」とは何だったのでしょうか。イエス様は言われます。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」(34節)。

 これはある意味では衝撃的な発言であると言えます。「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることのためにわたしは生きている」という話ならば分かりやすいのです。しかし、イエス様はそうは言っておられません。「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることが、わたしを生かしている」と言っているのです。「わたしの食べ物」であるとはそういうことでしょう。

 実際、その事実は、これまでの話にある程度現れていたと言うことができます。6節には殊更に「イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた」と書かれていたのです。しかも、弟子たちは食べ物を調達しに行ったわけですから、空腹でもあったのでしょう。そして、渇いてもいた。しかし、父の御心に従ってサマリアの女に御言葉を語られた後には、もはや疲れも渇きも空腹も全く感じられない。むしろ主は言われるのです。「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と。主は既に満たされているのです。

 しかし、それはあくまでも表面的な部分でしかないのです。「わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げる」とはどういうことか。最終的に、イエス様の宣教はどこに向かっていたのか。それは神の御心とその業を十字架の上で「成し遂げる」ところに向かっていたのです。十字架の上で「成し遂げられた」と言って、息を引き取られるところへと向かっていたのです。しかし、そのことにおいて、主は命を失ったのではなく、命を得たのです。なぜなら、父の御心を行い、その業を成し遂げることこそが、イエス様の「食べ物」、命を与える「食べ物」だったからです。その命はキリストの復活として現されることになるのです。

弟子たちの食べ物
 そのようにイエス様が御自身の「食べ物」について語られているのは、先にも申しましたように、これが弟子たちに必要な食べ物でもあるからです。ですから御自分の食べ物の話しに続いて、「あなたがたは…」と語り始めるのです。弟子たちが「神の御心を行う」ことについて、すなわち弟子たちの宣教の働きについて話しを始められるのです。永遠の命に至る実を集めることについて語られるのです。弟子たちもまた、「御心を行うために生きる」のではなく、「御心を行うことによって生きる」ようになるからです。御心に従って「宣教するために生きる」のではなく、「宣教することによって生きる」ようになるのです。

 そこでイエス様は当時の人々に言い慣わされていた二つの言葉を用いて弟子たちに教えられます。ちなみに、これは弟子たちへの言葉として書かれていますが、内容的には後の教会に対する言葉です。

 その第一は「刈り入れまでまだ四か月もある」(35節)という言葉です。これは、もともとは「種を蒔いたら刈り入れまでは忍耐強く待たなくてはならない」という意味合いの言葉だったものと思われます。それはすべての営みについて言えることだろうと思います。すぐに結果が出ない。結果が出るまでは待たなくてはならない。それは宣教の働きにも言えるのです。忍耐強く待つことが大切です。これは私たちがいつも心に留めなくてはならない真理であるに違いありません。

 しかし、もう一方において、「刈り入れまでまだ四か月もある」と言う言葉が、刈り取りの業を始めない言い訳になってしまうということもあり得ます。「まだだ、時が来ていない」と言っている内に、それが何もしないことへの言い訳になってしまう。それは起こり得ることです。

 ですから、ある意味でイエス様は、「それは本当ですか?」と問いかけておられるのです。まだどこにも刈り入れるべき穂など見あたらないというのは本当ですか?時が来ていないというのは本当ですか?「わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」と主は言われるのです。

 イエス様は刈り入れられるべき穂を見ておられるのです。永遠の救いに与り、永遠の命の中へと刈り入れられるべき穂を見ておられるのです。時が来ているのだ、と言われるのです。問題は何でしょうか。私たちがそのことに気づいていないということなのです。気づかないままに、「今なし得ることは何もない。何かを始めるべき時はまだ先のことだ」と言っているのです。私たちは周りをよく見なくてはなりません。神様が私たちを、どこに遣わしておられるのか、誰の救いのために用いようとしておられるのか、よく見なくてはならないのです。

 そして、イエス様はもう一つの言葉を取り上げられます。「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」(37節)。このことわざが現実となるのだ、と言われるのです。もともとこのことわざは肯定的な意味合いを持つ言葉ではなかったと言われます。つまり、「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」というのは、蒔いても必ずしも刈り入れることにはならないというこの世の不条理を言い表している言葉だったのです。

 しかし、イエス様はその言葉に、あえて積極的な意味をもたせて語られました。既に色づいて刈り入れるばかりになっているのはなぜか。それは誰かが既に種を蒔いていてくれたからだ、ということです。「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」(38節)と。

 この日本に福音が伝えられて500年近くになります。この教会も宣教開始から今年で150年となります。今日まで多くの人々が種を蒔いてくれました。時には血を流しながら種を蒔いてくれました。私たちが福音に与ったのは先人たちの労苦のお陰です。そして、私たちが誰かの救いのために用いられるとするならば、それは先人たちの労苦のお陰です。それはまさに「自分では労苦しなかったものを刈り入れる」ということなのです。既に多くの種が蒔かれてきました。だからこそまた、私たちは希望をもって、誰かの救いのために仕えることができるのです。

  さて、その町の多くのサマリア人は、サマリアの女の言葉によって、イエス様を信じました。しかし、興味深いのはその先です。「そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです』」(40‐42節)。

 彼女は人々にとって、ある意味ではもう必要なくなりました。彼女がしたことも、やがて人々の口に上ることもなくなるでしょう。シカルの人々がキリストに出会うきっかけを作ったこの人の名前も、結局は後の世に伝えられることはありませんでした。私たちが知っているのは「サマリアの女」ということだけです。

 しかし、そんなことは彼女にとって、どうでも良いことであったに違いありません。なぜなら、彼女はキリストを宣べ伝えることによって、イエス様と同じ食べ物を、お腹いっぱい食べさせていただいて、豊かな命にあずかっていたに違いないからです。そして、そのことを後の弟子たちも、また代々の教会も経験してきたのでした。私たちも、その食べ物に豊かにあずからせていただきましょう。
 

2024年6月19日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 20:1~11

 出エジプト記20:1‐11

 前回は主がシナイ山に降られたところまでをお読みしました。今日は20章に入ります。そこには契約の中心となる十戒が記されています。この十戒を今週と来週の二回に分けて学びたいと思います。ちなみに、その後22節から23章の終わりまでの部分は「契約の書」と呼ばれます。この「契約の書」については各自で読んでいただくとして、この後は、「契約の書」に言及している契約締結の実際の場面を伝えている24章をお読みする予定です。

 さて、十戒の内容に入ります前に、私たちはまず、その前文とも言える部分に目を留めたいと思います。次のように書かれております。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(2節)。十の戒めはこれに続きます。

 主は戒めを先に与えて、「これを守ったら私はあなたを救い出す。これらを守ったらあなたの神となる」と言われたのではありません。主の救いが戒めの前にあるのです。主の恵みが戒めに先行しているのです。結論から言いますならば、十戒に示されているのは、先行する神の恵みに対する感謝の応答としての生活なのです。

 では、人はいかなる仕方において、神の恵みに応えて生きるのでしょうか。ある時、一人の律法学者が主イエスに尋ねました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」。主イエスは次のように答えられました。「イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(マルコ12:29‐31)。

 神の恵みに対する相応しい応答は、神を愛することです。そして隣人を愛することです。そして、この二つの掟は、明らかに十戒の前半と後半に対応しています。今日お読みしました十戒の前半には、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして神を愛することについて書かれております。後半には、自分を愛するように隣人を愛することについて書かれております。つまり、十戒には、神の愛に応えて、どのように神を愛したらよいのか、隣人を愛したらよいのかが、記されているのです。

 では、どのように神を愛したら良いのでしょうか。本日の聖書箇所から明らかなように、それは単に情緒的なことではありません。十戒の前半部分が示しているように、それは一言で表現するならば、「神を正しく礼拝すること」です。

 主は言われました。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(3節)。「わたしをおいてほかに」とは「わたしと並べて」という意味です。神を神として正しく礼拝するということは、神ならぬ何ものをも神格化し絶対化して神と並べないことを意味します。

 この世の中においては、そのような神格化・絶対化が、あらゆる対象において起こります。天体や自然が神格化されます。人間が神格化されることもあります。人間の作った体制が、国家が、権力が、富が、イデオロギーが、崇高な理想が、ある場合には芸術が、神格化され絶対化されることもあります。人間はそれらに依り頼み、それらは人間を支配するようになります。

 しかし、神は私たちを他の何もの手にも渡そうとはされません。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」という命令は、「わたしは主、あなたの神」という神の激しい主張に基づきます。神は御自分の民との関係をいいかげんにはなさいません。神は「わたしはあなたの神である」と言われるのです。そして、そう語りかけられる者を完全に御自分のものとされるのです。他の何者の手にも渡そうとはされないのです。それゆえ、私たちが神を愛するとは、ただ神の御手にのみ自分自身を引き渡すことに他なりません。それこそが、まことの神礼拝です。そこにおいて、私たちは、自分自身を含め、神ならぬ一切を相対化するのです。

 そして、第二に主は言われました。「あなたはいかなる像も造ってはならない」(4節)。この像とは、5節に書かれているように、ひれ伏したり、仕えたりする対象となる像のことです。礼拝に用いる像のことです。それらを造るなと主は言われるのです。

 古代オリエントにおいて、神の像は神の居場所を意味しました。像のあるところに神はおられると考えられたのです。神の像の製造、それは神を限定する行為に他なりませんでした。いわば人間の意思のもとに神を置く行為、神を人間の手に所有する行為に他ならなかったのです。

 神を所有したい、神を自分の思い通りにしたいという欲求は、古くから人間の心の内に横たわる、根元的な欲求であると言えるでしょう。逆に言えば、そのように所有できない、自分の思い通りにならない存在を、人は神として認めたくないのです。ある人が聖書を読んでこう言いました。「こんなの私の考えている神さまと違う!」そうです、聖書の神は、どう考えても私たちの思考の内に手の内に収めることはできません。人間の思い通りに表現された神の像の前にひれ伏す時、人はもはや神の前にはいないのです。神ならぬものに対してひれ伏しているのです。

 信仰とは、私たちが《神を自分のものにすること》ではありません。私たちが神のものとなるのです。聖書には、私たちを完全に自分のものとすることを欲せられる神の意志が、非常に激しい言葉で表現されています。「わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である」(5節)。「熱情の神」は、通常「ねたむ神」と訳されます。この御方は、御自分の民を他の何者の手にも渡そうとはされないのです。完全に御自分のものとしなくてはおさまらない御方なのです。

 さらに第三に、主は言われます。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」(7節)。「みだりに唱える」とは、主の名の呪術的な使用です。神々の名を呪術に用いるという例は、古代社会にはいくらでも見出されます。なぜ、呪術を行うのでしょう。それは超自然的な力を思い通りに使用するためです。これもまた人間の根元的な欲求です。主なる神は、主の名をそのような仕方で用いてはならないと命じられたのです。それは言い換えるならば、主の力を自分のために思い通りに用いようとしてはならないということです。

 主は、そのような形においても、人に所有されることを拒まれます。主が人を御自分のものとされるのです。さらに言うならば、主が求めておられるのは、「わたし」「あなた」という言葉に見られるように、向かい合った人格的な関係です。愛が成り立つのは人格的な関係です。これこそが神を神として礼拝することに他なりません。私たちが神を「あなた」としてではなく、自分の思い通りになる「それ」として捉えることを、主は良しとされないのです。

 そこに第四の安息日の掟が続きます。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(8節)。安息日というのは、週の第七日目です。特定の日です。このように、第四の掟は「時間」に関わっています。時間に関わっているということは、直接私たちの具体的な生活に関わっているということです。

 既に見てきました三つの戒めは、神を正しく礼拝することにおいて、私たちは自分自身を神の手に、神《のみ》の御手にゆだねるべきことを語っておりました。繰り返しますが、神が私たちのものとなるのではなく、私たちが神のものとして生きるのです。そして、そのように生きるということは抽象的なことではありません。単に「わたしの心はあなたのものです」というような情緒的なことでもありません。これは具体的に私たちが生きる「時間」というものに関わっているのです。

 主は、「これを聖別せよ」と言われました。聖別せよとは神のものとするということです。七日間のうちの一日を神のものとするのです。これが神のものとして生きるということと直接的に結びついております。それは少し考えれば誰にでも分かることです。七日の一日をも神のものとせず、七日のすべての時を人間の思いと都合にまかせて用いておいて、「私は神を愛しています。私は神のものです」とはたして言えるでしょうか。言えないだろうと思うのです。神を愛し、神を礼拝して生きるということは、私たちが生きる時間にも関わる、非常に具体的なことなのです。

 しかし、ここで私たちは、最初に見ましたように、これらの戒めが先行する神の恵みに基づいているということを忘れてはなりません。「安息日」という言葉は「止まる」という言葉に由来します。これは「動きなさい」という命令ではなくて「止まりなさい」という命令であり、「働きなさい」という命令ではなく、「休みなさい」という命令なのです。私たちが止まることができるのは、神が先に動いていてくださるからです。私たちが休むことができるなら、それは神が先に働いていてくださるからです。

 そこで、聖書は、さらに私たちの目を神の創造の業に向けさせます。「六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである」(11節)。この天地の創造に関して、私たちは何もしていないのです。私たちが何もしなくても、この天地は成立したのです。この天地は私たちがいなくても成り立っていたのです。この天地は私たちが支えているのではありません。だから、私たちは休んでも大丈夫なのです。安心して時を神のものとして良いのです。

 キリスト者は、第七日の土曜日を安息日として聖別することに代えて、第一日であり第八日である日曜日を主の日として守ってきました。それは私たちの救いに関わる決定的なことが、既にあの週の最初の日、復活の日になされていると信じるからです。だから、私たちはさらに安心して、この主の日を神のものとするのです。こうして、私たちは安心して主に身をゆだね、主のものとして生き、主を愛し、主を礼拝して生きるのです。

2024年6月16日日曜日

「命の水が湧き上がる」

ヨハネによる福音書 4:5‐26

 人間はしばしば渇きを経験します。肉体的な渇きは水分を補給することによっていやされます。しかし、人が経験するのは肉体的な渇きだけではありません。精神的な渇きもあります。この殺伐とした世界の中で、常に潤いに満ちた心を保つことは容易ではありません。毎日の生活の中で、他者との関わりの中で、傷つき、干涸らびてカサカサになった心は、特別ないやしを必要とします。そのようないやしを求めて教会に来られる方もあろうかと思います。しかし、人間の経験する渇きはそれだけではありません。肉体的な渇きがいやされても、精神的な渇きがいやされても、なおいやされることのない、より深い根元的な渇きがあります。それは「命の渇き」と表現することができるでしょう。そして、この命の渇きがいやされることこそ、人間にとって最も重要なことなのです。

その水をわたしにください
 今日の聖書箇所には、一人の女の人が登場します。名前は書かれていません。「サマリアの女」とだけ書かれています。彼女は肉体的な渇きを知っています。水がなければ渇きます。ですから今日も水を汲みに井戸までやってきたのです。また、彼女は精神的な渇きをも知っていたに違いありません。後に主イエスが彼女についてこう語っています。「あなたはには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」(18節)。次々と男性を求め、今は「夫ではない」人と共に生活をしているのは、ただ単に物質的な生活の支えが必要だったからではないでしょう。そこにはまた精神的な必要があったのだと思います。彼女の遍歴は繰り返し満たされなくてはならなかった必要、繰り返しいやされなくてはならなかった渇きを示しています。

 そのような人が主イエスと出会いました。それがこの場面です。場所はシカルというサマリアの町です。なぜ主イエスがそこに来られたのか。今日の箇所の少し前には、「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった」(3‐4節)と書かれています。これはサマリアを通る道しかなかったからではありません。サマリアを通らないでガリラヤへ行くルートもあったのです。むしろ、普通のユダヤ人であるならば、歴史的に確執のあるサマリア人の土地を避け、ヨルダン川の東側を通ってガリラヤに向かうでしょう。ですから、これは状況に基づく必然ではありません。神の御心による必然です。神の御心のゆえに、キリストはサマリアを通られ、シカルの町で一人の女の人に出会われたのです。

 同じことが私たちにも言えます。私たちがキリストと出会い、こうして共に礼拝をしていることは、決して偶然の結果ではありません。それは神による必然なのです。キリストは、出会うべくして私たちに出会ってくださったのです。

 そして、キリストはサマリアの女に語りかけられます。「神の賜物」について、「生きた水」について語り始めるのです。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」(10節)。

 熱い日差しの照りつける正午ごろのことです。この人は肉体的な渇きを覚えていたかもしれません。しかし、肉体の渇きはヤコブの井戸で汲んだ水でいやされます。あるいは精神的な渇きについても、今連れ添っている「夫ではない」人によって、ある程度はいやされていたかも知れません。しかし、キリストは「わたしがだれであるかを知るならば、あなたは生きた水を求めるだろう」と言われました。主は、その人の内になお深い渇きを見ていたのです。肉体の渇きではない、精神的な渇きでもない、根元的な命の渇きに対しては、生きた水、命を与える水が必要なのです。

 この「生きた水」とは何でしょう。かつて主は預言者エレミヤを通して次のように語られました。「まことに、わが民は二つの悪を行った。生ける水の源であるわたしを捨てて、無用の水溜めを掘った。水をためることのできない、こわれた水溜めを」(エレミヤ2・13)。「生きた水」の源は神御自身です。命の渇きをいやす生きた水は神から流れて来るのです。やがてこの福音書を読み進んでいきますときに、生きた水とは、神から流れ来る神の霊、聖霊に他ならないことを知ることになります(7:39)。

 では、人はどのようにして生きた水を受けるのでしょう。主イエスはサマリアの女に、「もしあなたが、神の賜物を知っており、また『水を飲ませてください』と言ったのが《だれであるか知っていたならば》…」と言われました。そうです。その女の人は、目の前にいるのが「だれであるか」を、まず知らなくてはなりませんでした。ですから、主イエスはまず、御自分がどのようなお方であるかを明らかにされたのです。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(13‐14節)。

 そして、さらに主は言われました。「あなたの方から《その人に頼み》、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう」。そして、このサマリアの女の人はどうしたでしょうか。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」(15節)と言ったのです。「ここにくみに来なくてもいいように」という言葉から分かりますように、彼女の言葉は多分に誤解に基づいています。しかし、その言葉そのものは間違っていません。必要なことは、「その水をください」――そう言って求めることです。与えてくださるお方に、単純に求めたらよいのです。

霊と真理をもって
 しかし、「その水をください」と言って私たちの眼差しをキリストに向けるということは、同時に、そのように求めている《私たち自身》がキリストの眼差しの前に立つということでもあります。

 主イエスは水を求めるサマリアの女に、唐突にもこう言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」。その女はとっさに答えました。「わたしには夫はいません」。しかし、主は言われます。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」(17‐18節)。

 これは彼女にとって最も避けたかった話題であったに違いありません。わざわざ他の人が水を汲みに来ない正午頃に井戸にやってきたのは、このことの故でしょう。彼女には他人に触れて欲しくない、光を当てて欲しくない、人生の陰の部分がありました。しかし、キリストの眼差しの前では、すべてが明らかなのです。この女の人は、それまで何食わぬ顔をして、主イエスと対等に言葉を交わしていました。「あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか」などと言っていたのです。しかし、今や彼女は破れに満ちた過去を引きずった、哀れな罪人としてキリストの前に立たざるを得なくなりました。キリストの前に立つとはそういうことです。

 私たちも同じです。罪深い過去の自分をどこかに置いたまま、惨めな日常生活の中の自分をどこかに置いたまま、あたかも自分が何者かであるかのようにキリストの前に立ち、上から見下ろすようにしてイエスを論じ、キリスト教を論じたところで、そこに本当の救いはありません。そのようにしている限り、生きた水を求めることはできないのです。生きた水を求めるには、一人の罪人としてキリストの御前に立たねばなりません。キリストが御覧になられる自分自身のありのままの姿を認めねばなりません。そのようにキリストの眼差しの前に立つことなくして、生きた水を求めることはできないのです。

 しかし、この人はなおもささやかな抵抗を試みます。彼女は言いました。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」(19‐20節)。彼女は自分自身に直接関わる話題を避け、一般的な宗教論争の話題を持ち出すのです。サマリアの女が「この山」と呼んでいるのはゲリジム山のことです。ゲリジム山とエルサレムのどちらが神に選ばれた聖所であるのか。それはサマリア人とユダヤ人の間における何百年に渡る宗教的な論争の最大の争点でありました。しかし、そのような論争が、しばしば隠れ蓑として用いられます。今日でも、往々にして私たちは、自分の現実の生活のことは置いておいて、神と自分の関係を問うことは置いておいて、宗教的な議論の中に逃げ込もうとするものです。

 しかし、主イエスはそのような彼女の問いかけを足がかりに、話の核心へと迫ります。主はまことの礼拝について語り始めるのです。「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。…まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」(21‐24節)。問題は、ゲリジム山かエルサレムか、ではないのです。あなたが霊と真理をもって父なる神を礼拝するか否か、なのです。イエス・キリストは、父によって遣わされ、私たちを霊と真理をもって礼拝する者とするために来られたのです。ですから、キリストが来られた「今がその時である」と主は言われるのです。

 キリストは、人をまことの礼拝者とする真理そのものです。主イエスは、「わたしは道であり真理であり命である」(ヨハネ14:6)と言われました。主イエスは私たちに父を啓示してくださいました。私たちはもはや漠然と神を礼拝するのではありません。私たちを愛して、私たちの罪を赦すため、御子をさえ惜しまず与えてくださった、父なる神を礼拝するのです。キリストは、父なる神を私たちに示してくださった真理そのものです。

 そのキリストが、私たちに生きた水を与えてくださいます。主が与え給う「生きた水」は、人をまことの礼拝者とする神の霊です。主が与えてくださる聖霊により、父なる神を礼拝し、父との交わりに生きるところにこそ、命の渇きのいやしはあるのです。私たちはこのお方に求めねばなりません。「主よ、その水をください」と。

2024年6月12日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 19:10~25

 出エジプト記19:10~25

 先週から19章に入りました。ここから舞台はシナイの荒れ野となります。「イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した」(1節)。彼らがシナイの荒れ野を出発するのは、民数記10章です。「「第二年の第二の月の二十日のことであった。雲は掟の幕屋を離れて昇り、イスラエルの人々はシナイの荒れ野を旅立った。雲はパランの荒れ野にとどまった」(民10:11)。ここまでの間が、期間にすると約11か月です。この期間の話に聖書は大きな紙面を割いていることが分かります。それは重要だからに他なりません。その期間の中心的な出来事は、「主なる神との契約が結ばれた」ということです。契約締結の出来事そのものは出エジプト記24章に記されています。

 神との「契約」とは、神と人との間に特別な関係が与えられることです。単に創造主と被造物との関係ではなく、神と契約において結ばれた民、すなわち神の民となるのです。そのような契約を与えるために主がシナイ山に降られたというのが、今日お読みした箇所です。

 主がシナイ山に降られる前に、主はモーセに次のようなことを命じておられます。「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである。民のために周囲に境を設けて、命じなさい。『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう注意せよ。山に触れる者は必ず死刑に処せられる。その人に手を触れずに、石で打ち殺すか、矢で射殺さねばならない。獣であれ、人であれ、生かしておいてはならない。角笛が長く吹き鳴らされるとき、ある人々は山に登ることができる』」(10-13節)。ここで命じられているのは「準備すること」です。契約を結ぶ前に、どうしてもしなくてはならない準備があるのです。

 まず、衣服を洗うことです。水の乏しい荒れ野を旅する彼らにとって、当然のことながら、衣服を洗うということは日常の事ではありません。それは彼らが清められる必要があることを象徴的に表す特別な行為でした。彼らはまだ十戒を与えられていませんから、エジプトで行ってきた偶像礼拝が神に背く行為であることを知りません。律法を与えられていませんから、何が神の目に罪とされるかも知りません。しかし、神との契約、そして与えられる神の民としての未来は、今までの日常の延長ではないのだということ、衣服を洗うように彼ら自身とその生活が清められなくてはならないということは、はっきり自覚しなくてはなりませんでした。それは必要な準備だったのです。

 そして、主が命じられたもう一つのことは、人々が山に登らないように境を設けよ、ということでした。当然のことながら、「山に登らぬよう」と主が言われるのは、山に登ろうとする人たちが一定数いるであろうことを想定して語っているのです。主が降られたときに、安易に近づこうとする人たちがいるということです。後で21節では「民が主を見ようとして越境し・・・」と書かれています。そのように、降られた主を「見よう」とする人々がいるということです。だから、「境を設けよ」と主は言われるのです。

 この命令を理解するためには、彼らがどのような人々であったかと思い起こす必要があります。彼らは三ヶ月前までエジプトの中で生活していた奴隷だったのです。エジプトの偶像礼拝の世界にいたのです。そこでエジプト人と同じように偶像に仕えていたのです(エゼキエル20:5-8)。偶像の神は人間の側からいくらでも近づくことができる神なのです。彼らはそのような世界にいたのです。

 その彼らが「主(ヤハウェ)」と名乗る目に見えない神が、モーセとアロンを通して語られ、また、彼らを通して驚くべき様々な出来事を引き起こすことを目の当たりししたのです。しかし、そこでも引き起こされた災いは彼らに降ることはありませんでした。むしろ彼らにとっては、今まで鞭を振るっていたエジプト人を叩いてくれる神、鞭打たれてきた彼らにとっては、主は味方となってくれる神に他ならなかったのです。

 そして、彼らはエジプトを脱出し、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって導かれたのでした。そこにおいても、主は彼らにとっては近づくことのできる存在であり、むしろ離れずについて行くべき存在だったのです。そこには本当に意味で主への畏れはなかったことは、彼らがすぐに不平を言い出したことからも分かります。水のないレフィディムにおいては、「『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試した」(17:7)ということまで書かれているのです。しかし、それでも彼らが食べ物がないと不平を言えば、主によってマナが与えられ、水がないと言って不平を言えば、岩から水が出て彼らは飲むことができたのです。そのような彼らにとって、主は味方となり、必要を満たしてくれる神に他ならなかったのです。

 そのような彼らが、「三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られる」という言葉を聞いたらどうでしょう。ある人々は、そのように特別に主が近くの山に降られるという出来事を、楽しみに待ち遠しく思う者もいたに違いありません。また、主が降られたら、我々もその山に登って行ってみよう、と考えた人々がいても不思議ではありません。その「主」とやらをこの目で見てみようではないか、と。つまり、彼らにとって、主は本質的にはエジプトの偶像となんら変わらなかったのです。当然のことながら、そのままで本当の意味で「主」と出会うことはできないし、契約を結ぶこともできないでしょう。そのままで神の民となることはできない。だから、三日目に向けて準備をさせたのです。ここで彼らの意識が変えられなくてはならないからです。

 そのように、山の周囲に境を設けるのは、主が聖なる御方で、罪ある人間が近づくことのできない御方であることを、目に見える形で示すためでした。そして、実際、罪人が主に近づくことは死を意味したのです。しかし、興味深いのは、彼らが越境した場合、彼らは主に撃たれることになるとは書かれていないことです。主は、そのように民に告げよとモーセに言われなかったのです。そうではなく、越境に関する死刑制度を作ることを求められたのです。すなわち、境界に触れ、山に触れた者は、石打ちにされるか、矢で射殺されるか、いずれかの方法で処刑されることとしたのです。

 神に撃たれるという言葉を、畏れをもって聞くことのできない人は、実際に誰かが神に撃たれて死ぬのを見るまで、あるいは自分が撃たれるまで、その意味することは分からないでしょう。しかし、神の手で罰せられるという言葉で言われても分からない人であっても、人の手で罰せられるということなら分かります。誰かが撃たれて死ぬ前でも分かります。その意味では、死刑に処すことを命じられたのは、神の憐れみであったとも言えます。もちろん、誰も死刑にならないことを願ってのことでしょう。

 そのような二日を経て、三日目に主が降られました。「三日目の朝になると、雷鳴と稲妻と厚い雲が山に臨み、角笛の音が鋭く鳴り響いたので、宿営にいた民は皆、震えた」(16節)。雷鳴と稲妻は、もとより古代の人々にとっては大きな恐怖の対象でした。厚い雲が山に臨んで山が見えなくなり、どこからともなく鋭い角笛の音が突然なり響いたことも、彼らの内に恐怖を引き起こしたに違いありません。皆、恐怖で震えたのです。そして、火と煙の中に主は降られたのでした。

 エジプト脱出の時や、荒れ野での旅の時とは異なります。主はあえて恐怖を引き起こすような仕方で山に降られたのでした。それは彼らにとって、どうしても必要なことだったのだと思います。先にも触れましたように、彼らにとってこれまで主は近づくことのできる神だったからです。そのような彼らは、主は本来近づくことができない神であり、近づくことは死を意味する聖なる御方であることを感覚的にも知る必要があったのです。契約とは、そのように本来近づくことのできない神が契約の仲保者(この場合はモーセ)と通して特別な関係を与え、神の民としてくださることに他ならないからです。それゆえに、そこで保たれなくてはならないのは、主への畏れなのです。

 主はシナイ山の頂に降られ、モーセを山の頂に呼び寄せられました。モーセは主のもとに登っていきます。主はモーセに言われました。「あなたは下って行き、民が主を見ようとして越境し、多くの者が命を失うことのないように警告しなさい。また主に近づく祭司たちも身を清め、主が彼らを撃たれることがないようにしなさい」(21-22節)。これはある意味で変な話です。既にモーセが主から命じられて境を設け、越境したら死刑に処せられることも伝えて警告しているのです。ですからモーセは答えました。「民がシナイ山に登ることはできません。山に境を設けて、それを聖別せよとあなたがわたしたちに警告されたからです」(23節)。

 もう既に警告しています、とモーセは言っているのです。それでもなお、越境して自らの身に死を招くとしたらそれは自己責任である、ということでもあります。しかし、主はあえてモーセを下らせるのです。主にとっては、「多くの者が命を失うことのないように」ということが重要だからです。主は罪人の死を望まれない。だから何度でも警告するのです。この主の姿は、後にはイスラエルの民に繰り返し預言者を送るという形で歴史の中に見ることができます。それは主の憐れみに他なりません。

 そのように憐れみに満ちた神であり、罪人が近づくことのできない聖なる神。その御方との契約を与えられ、神の民とされ、しかも新約においては「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:16)と語られている。そのことの意味を深く思い巡らしたいと思います。

2024年6月9日日曜日

「喜びに満たされている人」

ヨハネによる福音書 3:22-36

競争相手か友だちか
 「だから、わたしは喜びで満たされている」(29節)。今日の福音書朗読にありました洗礼者ヨハネの言葉です。ここに喜びで満たされている人がいます。しかし、その周りには同じ立場にあり、同じものを見、同じことを聞いているのに、明らかに喜びで満たされてはいない人々もいます。ヨハネの弟子たちです。では彼らは何で満たされているのでしょう。それは「妬み」です。

 「喜び」と「妬み」が共存し得ないことは明らかです。同時に人を満たすことはあり得ません。妬みで満たされるなら、喜びは出ていきます。喜びで満たされているなら、妬みが入る余地はありません。

 妬みが生じるのは相手を競争相手と見なすときです。相手を自分との比較対象として見る時です。そして、互いの優劣を問題にするときです。大きいか小さいか、上か下か、先か後かを問題にするときです。ヨハネの弟子たちにとって、イエスとその弟子たちはまさにそのような存在だったようです。

 その頃、洗礼者ヨハネはヨルダン川沿いのアイノンで洗礼を授けていました。まだヨハネが投獄される前のことでした。ちょうど同じ頃、イエスと弟子たちは、ユダヤ地方に行き、そこに滞在して人々に洗礼を授けていました。そんなある日、ヨハネの弟子たちとあるユダヤ人の間で、清めのことで論争が起こりました。その後に書かれているヨハネの弟子たちの反応から察するに、それは洗礼についての論争だったと思われます。

 恐らくそのユダヤ人はこんなことを言ったのでしょう。「みんなあのイエスの方に行っているようだが、あのイエスの洗礼とヨハネの洗礼とどちらの方が人を清めることができるのだろうか」。ヨハネの弟子たちはすぐにヨハネのところに行ってこう訴えます。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行ってしまいます」(26節)。

 イエスの一行と自分たちの比較。競争意識。それはそのユダヤ人との論争によって初めて生じたわけではなかろうと思います。それは初めからのことであったに違いないのです。

 この福音書の一章には、ヨハネの弟子であった二人がイエスの後についていったエピソードが記されています。一人はシモン・ペトロの兄弟アンデレです。もう一人は名前が書かれていません。いずれにせよ、そのようにヨハネの弟子からイエスの弟子になった者は彼らだけではなかったに違いありません。今日の箇所に出て来る「ヨハネの弟子たち」は、いわばヨハネのもとにあえて残った人々なのです。

 そのような人たちがこちらのラビと向こうのラビを比較し、弟子の群れとしての優劣を問題にしたことは、ある意味では自然な成り行きだったと思います。そのような中で、「みんながあの人の方へ行ってしまいます」という事態が起こった。当然妬みが生じ、妬みが彼らを満たします。彼らの心情は容易に想像ができます。

 しかし、イエスとその弟子たちは本当に争わなくてはならない相手なのでしょうか。本当に競争相手なのでしょうか。どちらが優れているか、どちらが上であるか、どちらが前を行っているかを問題にしなくてはならない相手なのでしょうか。

 これはヨハネとイエス、ヨハネの弟子たちとイエスの弟子たちの間の話ですが、「本当に争わなくてはならない相手なのか」という問いは、私たちにとってもしばしば大事な問いなのだと思います。本当にそうなのか。喜びを失ってまでしてその競争に留まる必要はあるのだろうか。

 「そうじゃないだろう」とヨハネは言っているのです。彼は答えて言うのです。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる」(27‐28節)。

 「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない」とは言い換えるならば、「受けているものは天から与えられたものだ」ということです。そうです、確かに人には天から与えられているものと与えられていないものがある。ある人に与えられているものが、ある人には与えられていないのです。ですから神様のなさることは時としてはなはだ不公平に見えます。しかし、不公平に見えようがどう見えようが、大切なことは、与えられているものをしっかりと受け止めることなのでしょう。

 「天から与えられなければ、人は何も受けることはできない」。それは具体的にヨハネにとっては「自分はメシアではない」ということでした。「自分はあの方の前に遣わされた者だ」ということでした。ヨハネにとっては、それが天から与えられていないものであり、また与えられているものでした。

 ヨハネは「あの方の前に遣わされた者だ」という現実、キリストの先駆者とされているという現実を受けとめたのです。それが天から与えられたものだからです。先駆者はやがて必要なくなるのです。しかし、その現実を受けとめたのです。だからこそ百パーセント先駆者として生きることができたのです。

 そのことをヨハネは花婿と介添え人を例として語ります。「花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」(29節)。

 介添え人が花婿を競争相手と見なすなら、花嫁を迎えることができる花婿に対して妬みが生まれます。しかし、そんな馬鹿なことは普通起こりません。この「介添え人」と訳されている言葉は「友だち」という言葉なのです。彼は競争相手ではないのです。自分は彼の友だちなのです。だから友として自分の役割を果たすのです。そこにこそ真の喜びがある。花婿が喜びの声を上げて花嫁を迎える。その時、友として務めを果たした自分もまた喜びに満たされる。ヨハネはそのような喜びに満たされているのです。

絶対的なことと相対的なこと
 そのように語るヨハネはいったい何を見ていたのでしょう。ヨハネはその大きな喜びをもってこう言うのです。「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(30節)。「ねばならない」とは、神の御心によって定められているという意味です。神によってそうなることになっている。ヨハネは喜びに満たされてそう語るのです。そして、31節から再びキリストについて語り始めます。

 この福音書においては、これを最後にヨハネは表舞台から姿を消します。実際にはこの後に投獄され、首をはねられてその生涯を終えることになるのです。その意味でここに書かれているのはヨハネの最後のキリスト証言とも言えます。ヨハネが何を見、最後に何を語っていたかに耳を傾けてみましょう。

 ヨハネはイエス様を「上から来られる方」、「天から来られる方」、「神がお遣わしになった方」として語り、「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた」と語ります。あのイエスという方が単なるこの世の思想家のひとりであるならば、その人を信じようと信じまいと大したことはありません。どんなに偉大な教師であっても、ヨハネが言うように「地から出る者は地に属し、地に属する者として語る」に過ぎないのです。

 しかし、イエスはそのような存在ではないのだ、とヨハネは言っているのです。彼は天から来られた方であり、神から遣わされ、神を語り、神の言葉を語るのです。そのような方が来られた。そのようにヨハネが見ていたのは、およそこの世の比較や競争が入り込む余地のない出来事なのです。

 ですから、今日お読みした箇所の最後にもこのようなことが書かれていたのです。「御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる」(35‐36節)。ここで全く対照的な二つの言葉がでてきます。「永遠の命を得る」という言葉と「神の怒りがとどまる」という言葉です。

 「永遠の命を得る」とは、「救いを得る」と言い換えてもよいですし、「永遠なる神との交わりを得る」と言い換えてもよいでしょう。要するに、そこに語られているのは神との関係の話です。神に背いて生きてきた人が、神によって赦していただいて、神との交わりに生きるようになるのか。それとも、神に背いて生きてきた人の上に、神の怒りが留まるのか。これは180度異なる神との関わりです。

 人間にとって決定的に重要なことは、神との関係がどうなっているのか、ということです。私たちと神との関係はどうなっているのか。神に背いてきた私たちは本当に赦されるのか。神に顔を上げて、平安の内に神と共に生きることができるのか。それとも神の怒りがとどまるのか。そして、その問いの前に立つ私たちに対して、「御子を信じる者は永遠の命を得ている」と語られているのです。

 皆さん、私たちは御子を信じる者としてここに集められ、御子を信じる教会として今私たちは礼拝を捧げているのです。罪を赦され、永遠の命を与えられ、永遠なる御方をほめたたえ、永遠なる神との交わりの中に生かされているのです。

 そのように既に決定的に重要なことが起こっていることに目を向ける時、重要でないものは後ろに退きます。永遠の命を得ているとは、神との交わりが与えられているとは、いわば天そのものが与えられているということです。天そのものが与えられているならば、この地上に生きる限られた人生において、天から何かが与えられていないということは、少なくとも最も重要なことではありません。与えられているものをしっかり受け止めて、与えられている役割を見出して、しっかり果たしたらそれでよいのです。妬みによって、喜びを奪われるようなことがあってはなりません。

 ヨハネは言いました。「花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている」。私たちも、そのように生きたいと思うのです。

2024年6月5日水曜日

祈祷会用:出エジプト記 19:1~9

 出エジプト記 19:1-9


 19章に入りますと、「シナイの荒れ野に到着した」と書かれています。出エジプト記においてこれ以降のことはすべて「シナイの荒れ野」の出来事として書かれています。いや、それだけでなく、レビ記全体、民数記の初めの部分までが、シナイの荒れ野を背景として書かれているのです。「第二年の第二の月の二十日のことであった。雲は掟の幕屋を離れて昇り、イスラエルの人々はシナイの荒れ野を旅立った。雲はパランの荒れ野にとどまった」(民10:11)。ここまでのすべては、シナイの荒れ野での出来事です。この約11ヶ月のこととして描かれているのです。

 このように、この11ヶ月のことに大きな紙面が割かれているのは、とりもなおさず、これが重要だからです。その11ヶ月の間に起こった決定的に重要な出来事は、「神との契約が結ばれた」ということです。今日の聖書箇所において「わたしの契約を守るならば」(5節)と語られている、この「契約」のことです。契約締結の出来事そのものは出エジプト記24章に記されています。

 これは聖書全体にとっても中心的な出来事と言えます。私たちが持っている聖書の「新約」と「旧約」とは、新しい契約、古い契約という意味ですから。そこで語られている「契約」とは、「神が特別な関係を結んでくださる」ということに他なりません。

 この世界全体は神によって創造されました。ゆえに、既に「創造者」と「被造物」という関係は初めからあると言えます。それは人間に限らず、全ての被造物に共通して言えることです。しかし、「契約」というのは、そのような「創造」における関係ではありません。神が特別な目的のために「神の民」としてくださるということです。そのような特別な関係を結んでくださることです。

 「旧約」すなわち「古い契約」において、イスラエルは神の特別な関係を与えられて「神の民」となりました。これに対して、私たちには「新約」すなわち「新しい契約」が与えられ、「新しい契約」によって、新しい神の民、教会とされているのです。それゆえに、私たちがクリスチャンとされているとはどういうことか。教会とされているとはどういうことかを本当の意味で知るためには、この古い契約に遡って、「契約」とは何であるかを学ばなくてはならないのです。その意味で、これからの部分は私たちにとっても極めて重要な意味を持っているのです。

 「契約」についてまず心に留めなくてはならないのは、それが一方的な神の恵みによって与えられたということです。そこで今日、まず注目したいのは3節から6節の部分です。

 イスラエルはシナイの荒れ野に天幕を張り、そこで山に向かって宿営しました。その山とはシナイ山です。しかし、そこでは「モーセが神のもとに登って行くと」と書かれています。実際には山に登って行ったのです。どうして山に登ることが「神のもとに登って行く」ことになるのでしょうか。

 実は、シナイ山は聖書の他の箇所では「ホレブの山」と呼ばれております。特に後の「申命記」において、その呼び方が繰り返し出てきます。実は、「ホレブの山」が出てくるのは、ここが始めてではありません。3章に出て来ているのです。それゆえに2節ではただ「山(The Mountain)」と書かれているのです。

 思い起こしてください。あの日モーセは「神の山ホレブ」(3:1)に来たのです。そして、そこでモーセは火に燃えているのに燃え尽きない柴を見たのです。そして、その柴の間から声がした。モーセは主に出会ったのでした。そこで主は言われました。「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから」(3:5)。つまり、あの時モーセは「神の山ホレブ」で主と出会い、そこからエジプトへと派遣され、イスラエルの人々をエジプトから導き出し、再び「神の山ホレブ」に戻ってきたという、そのような話の流れになっているのです。それゆえに、その山に登るということは、神のもとに登って行くことに他ならないのです。

 それゆえにまた、そこで主は、「あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを」と語っているのです。つまり、モーセを派遣してエジプトを脱出させることは、まさにイスラエルの民を「鷲の翼に乗せてわたしのもとに連れて来る」ということだったのです。

 「鷲の翼に乗せて」で表現されているのは、一言で言えば「神の一方的な恵み」です。彼らは自分の力でエジプトを脱出したのではありません。それはあたかも鷲の翼に乗せられて飛び立つような出来事だったのです。だから「わたしがエジプト人にしたこと」と書かれているのです。それは既に見てきたとおりです。実際、エジプトから脱出するために本質的なことは、イスラエルの民は何一つしていないのです。彼らが蛙を出したわけでも、雹を降らせたわけでもない。いやモーセでさえ、ある意味では重要なことは何一つしていないとも言えます。まさに「鷲の翼に乗せて」です。

 そのように「鷲の翼に乗せて連れて来られて」、契約を与えられることになるのです。すなわち、契約の前提は神の一方的な恵みなのです。イスラエルの民が神と特別な関係に入れられるのは、ただ神の一方的な恵みによるのです。

 5節には「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば」という言葉が出て来ます。しかし、間違ってはなりません。彼らが声に聞き従ったから、そのような従順な民だから、契約を与えられたのではないのです。彼らが聞き従うも何も、まだエジプトの奴隷であったとき、しかも、偶像礼拝のただ中にあってエジプト人と同じようなことをしていたときに、一方的な神の恵みによって解放されたのです。聞き従うから契約を与えられたのではなく、恵みによって契約を与えられたからこそ、そこで初めて、それを「守る」という課題について語られ得るのです。

 それは「新しい契約」においてはもっとはっきりしています。神が独り子をお送りくださって、罪と死から解放するためにイエス・キリストを十字架にかけ、そして復活させられた。そして、聖霊が降された。そうやって教会が誕生した。そこで人間は何もしていません。ただ神がなさったことです。それを根拠に、イエス様の流された血を根拠に、新しい契約が与えられたのです。神との特別な関係が与えられました。だからイエス様は最後の晩餐において、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と言われたのです。私たちの努力や従順によって立てられるのではない。あくまでもイエス様の血によって立てられる契約なのです。

 そのように契約とは神の一方的な恵みによって与えられるものなのです。そして、第2に心に留めるべきことは、契約には目的があるということです。

 出エジプトの出来事は、単に苦しんでいるイスラエルを解放するためではありませんでした。救いは救い自体が目的ではないのです。彼らは、シナイ山に連れて来られるために救われたのです。なぜ神のもとに連れて来られたのか。神はなぜ契約を結ぼうとされたのか。神にはしようとしていることがあるからです。神には目的があるからです。

 その目的とは何か。「あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる」と書かれています。神は彼らを御自分の宝にしようとしていたのです。契約とはそういうことです。それは神の宝になることに他なりません。

 神の宝となるとはどういうことか。「自分たちは神にとって特別な存在なのだ。他の民とは異なるのだ」と言って誇るためでしょうか。そうではありません。6節にはこう書かれています。「あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」と。ここで「祭司の王国」という言葉が重要です。祭司とは神と人との間に立って執り成し、神と人とが交わりを持つことができるようにする存在です。イスラエルとは、まさに他の民が神と結びつくことができるように、交わりが持てるようになるために、その役割を持つのです。

 そのような「祭司の王国」が必要なのは、実際には、この世界が神に背いているからに他なりません。「世界はすべてわたしのものである」と主は言われます。しかし、現実には世界はそう動いていないのです。これは神との交わりを失っている世界です。イスラエルももともとはそのような世界に属するものでした。しかし、神は彼らをエジプトから救い出し、まず彼らを特別な関係に入れました。神との交わりに入れました。それはやがては神のものである世界全体が神との交わりに入れられるためなのです。そのために仕えるのが、先に選ばれ契約を与えられたイスラエルなのです。彼らが特別な存在として世にあってこそ、この世に仕えることができるのです。

 彼らは一方的な恵みによって契約を与えられるのです。神との特別な関係を与えられるのです。神の民とされるのです。ならば、そこで大事なことは、神の民として生活することです。神との特別な関係を与えられたものとして生きることです。それはすなわち、他の民とは違ったように生活することです。そうあってこそ、祭司の王国としての務めが果たせるのです。そのように神の民として生活することこそ、「契約を守る」ということなのです。であるから、どのように生活したら良いかが語られるのです。その中心は何か。この後にすぐ出てくるのは、幕屋の作り方です。つまり礼拝なのです。神の民として生活することの一番の特徴は何かと言えば、神を礼拝していることなのです。

 新しい契約の民の目的も同じです。この世界に仕えるために存在し、この世界が神のものとなるために仕えるのです。それが新しい契約の民、教会です。そのために必要なことは、まずは礼拝する民となることなのです。だから教会が第一に大事にしているのは礼拝なのです。

 契約には目的があります。神は御自分の世界を御自分のものとするために、まず先に御自分の民を選ばれ、契約を与えられました。それがイスラエルの民であり、それが教会なのですキリスト者がキリスト者として生活してこそ、この世に仕えることができるのであって、この世と同じことをすることによって、この世に仕えるのではありません。塩が塩味を失ったらいったい何の役に立つか、とイエス様も言われました。もはや何の役にも立たず投げ捨てられて踏みつけられるだけである、と。信仰者は信仰者としてのアイデンティティ、塩味を失ってはならないのです。


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