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2025年5月18日日曜日

「闇は去り、まことの光が輝いている」 


2025年5月18日 主日礼拝説教

ヨハネの手紙一 2:1-11

古くて新しい神の掟
 今日お読みした箇所では、ヨハネが次のようなことを書いていました。「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です」(7‐8節)。

 一回読んだだけで分かりますか。どうも分かりにくい言葉です。「新しい掟」と言い「古い掟」と言う。ヨハネさん、いったいどっちなんですか?そう言いたくなりますが、しかし、改めてじっくり読みますと、どうも古くて新しいところが肝のようです。

 この手紙には「掟」という言葉が繰り返されています。その前には「神の掟」という言葉も出てきます。この手紙において「掟」あるいは「神の掟」と語られた場合、その内容ははっきりしています。それは愛することです。互いに愛し合って生きることなのです。

 例えば次の章においては、こう表現されています。「その掟(神の掟)とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(3:23)。さらにこうも言われています。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。

 これらの言葉は最後の晩餐においてイエス様が語られた言葉に基づいています。主はこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。間もなく捕らえられ、十字架にかけられることが分かっているイエス様、十字架を前にしたイエス様の言葉です。

 皆さん、「互いに愛し合いなさい」と、「愛する」ということならば、それはことさらに新しいことが命じられているわけではないのです。既に旧約聖書に語られていたことです。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)。そして、イエス様が語られた「互いに愛し合いなさい」という言葉も、この手紙を受け取った人たちは、もう信仰をもったはじめの頃から聞いていた言葉なのです。ですから、「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です」とヨハネは言っているのです。

 しかし、先にも触れましたように、最後の晩餐においてイエス様はそれを「新しい掟」と呼ばれたのです。「これは『新しい掟』です」と言って手渡してくださったのです。ならばそこにはやはり特別な新しさがあるのです。それまで人類が経験したことのないような、そんな新しさがあるのです。その新しさとは何でしょう。どうしてイエス様は「新しい掟」と呼ばれたのでしょう。

 ヨハネは言います。「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」(8節)。「闇はもう去ってしまった」と言える、決定的な出来事が既に起こったということです。後に、その決定的な出来事についてヨハネはこう書いています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:9‐10)。そのように、決定的な出来事とは、イエス・キリストが遣わされ、私たちの罪のために十字架にかかってくださったことです。そのようにして、神の愛を示してくださったということです。

 「闇が去って、既にまことの光が輝いている」とは何を意味するのか、もう明らかでしょう。「既にまことの光が輝いている」。その「まことの光」とは神の愛の光です。イエス・キリストを遣わしてこの世界に現してくださった神の愛の光です。神は実に独り子をお与えになるほどに、この世を愛してくださった。神に背いている私たちを愛してくださいました。私たちが罪の中に滅びてしまうことがないように。私たちの罪を赦して救うために、独り子さえも与えて、十字架にかけて、私たちの罪を贖ってくださった。その神の愛の光は既に現されたのです。神が愛してくださっているならば、私たちはもう決して暗闇の中にはいないのです。ちょうど太陽が昇った後ならば、太陽の光が私たちを確実に照らしているのと同じです。

 そのように神がまず私たちを愛してくださったという決定的な出来事のもとで、そのまばゆい光の中でこう語られているのです。「あなたがたは互いに愛し合いなさい」。この命令は、神の愛そのものであるイエス・キリストを通して与えられているのです。そこにこそ新しさがあるのです。ですから、イエス様は「新しい掟」と言われました。ヨハネもまた、「しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です」と言っているのです。

既にまことの光が輝いているのだから
 そのように、神の愛が完全に現され、「闇が去って、既にまことの光が輝いている」のです。にもかかわらず、そこでなお「互いに愛し合いなさい」という新しい掟に背を向けるとするならば、神そのようにして与えてくださっている交わりに背を向けるならば、それは何を意味するでしょうか。

 それはちょうど、太陽が既に昇っているにもかかわらず、部屋の窓を閉め、カーテンを引いて、部屋を真っ暗闇にしているようなものです。あるいは、既に明るい光の中を歩いているはずなのに、自ら目をつぶってしまって、その本人としては真っ暗闇の中を歩いているようなものです。だからヨハネはこう言うのです。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(9節)。

 私たちが持っている新共同訳では、「神を知っている」という言葉も「光の中にいる」という言葉も鉤括弧に入れられていますでしょう。原文に鉤括弧があるわけではありません。しかし、あえてこのように訳出しているのは、そのように主張する人たちが現実にいたことが知られているからなのです。当時の教会には、自分たちには特別な知識が与えられていて「神を知っている」と主張し、また自分たちこそ「光の中にいる」と主張する人たちがいたのです。後に、グノーシス(知識)と呼ばれるようになる異端の人々です。

 その異端の思想そのものはさておき、人が「神を知っている」と言い、「光の中にいる」と主張する背景には、何らかの「体験」というものがあるはずです。特別な知識を与えられたと思える体験がある。それは時として極めて神秘的なスピリチュアルな体験であるかもしれません。

 しかし、そのようなスピリチュアルな体験がイコール「神を知ること」となるのか。それによって「光の中にいること」となるのか。ヨハネは、「そうではない」と言うのです。本当に神を知っているのなら、神の掟を守っているはずだということです。互いに愛し合っているはずだ、と。「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります」(3節)とヨハネは言うのです。

 だから彼はこう続けます。「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(4節)。また、こうも言っています。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(9節)と言うのです。

 そこに互いに愛し合って共に生きているという現実がなかったら、そこで分かれ争い憎み合って生きているのなら、それは「神を知っている」ことにならないのです。「光の中にいる」ことにはならないのです。

 しかし、実際にヨハネがこの手紙を書いた時代に限らず、教会の歴史の中には繰り返しこのようなことは起こってきたのでしょう。敵対し争い合うのは往々にして「神を知っている」という人たちです。憎み合い袂を分かってきたのは「光の中にいる」すなわち、「わたしには見えている」と主張する人たちです。

 いや、それは教会の歴史に留まりません。現代においても憎み合い殺し合うことさえしているのは「神を知っている」という人たちです。「光の中にいる」と言い、「わたしには見えている」と主張する人たちです。それはここにいる私たちにとっても、決して他人事ではないのです。

 皆さん、既にまことの光が輝いているのです。私たちは暗闇の中に自分自身を閉じ込めてはならないのです。暗闇の中に自分を閉じこめてしまうならば、何が起こりますか。実際に、目をつぶったまま歩いたり走ったりしたら何が起こるかを考えてみてください。必ず何かにつまずくことになるでしょう。ですからヨハネはこう言うのです。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません」(10節)。言い換えるならば、闇の中にいたらつまずく、ということです。

 いや、つまずくだけだったら、まだ良いのです。「しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(11節)。真っ暗闇の中を突っ走っている姿を考えて見てください。すぐにつまずいて倒れたならまだ良いのでしょう。また立ち上がることができるかもしれないから。しかし、そうではなくて、そのまま走って行ってしまうなら、それこそ恐ろしいことになります。その先には崖があるかもしれません。何が待ち受けているか分からないでしょう。

 そのように神の愛の光を退けて、兄弟を憎むという暗闇の中を、どこへ行くかを知らないまま進んでいくならば、それは恐ろしいことなのです。何が先に待っているか分からないのです。それは滅びへと向かうことになるかもしれない。憎しみを抱いたまま先へと進んでいくということは、そういうことなのです。

 「闇が去って、既にまことの光が輝いている」。私たちはもう一度、ここに語られている言葉を心に留めましょう。既に光は輝いています。私たちはその事実を知らされているのです。そして、その光の中を歩くようにと招かれたのです。私たちは光の中を歩いていくことができるはずなのです。暗闇の中に自分自身を閉じ込めてはなりません。いつの間にか暗闇の中に身を置いていた自分がいるならば、ここから再び光の中を歩み出しましょう。

2024年8月4日日曜日

「神の子どもとしてこの世に生きる」

ヨハネの手紙一 5:1-5

神から生まれた者
 「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」(1節)。そのように書かれていました。私たちは、イエスをメシア=キリストと信じて集まっています。私たちが教会であるとはそういうことです。イエスをメシアと信じないならば、私たちはもはやキリストの教会ではありません。私たちは毎週、使徒信条において、「我らは、我らの主イエス・キリストを信ず」と信仰を言い表しています。私たちは確かに、イエス・キリスト、すなわちキリストであるイエスを信じているのです。

 ならば、私たちは明確な自己認識を持たなくてはなりません。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。」私たちは単に「教会に行っている人」ではありません。私たちは単に「ある特定の教えを受け入れた人」ではありません。私たちは単に「ある特定の宗教法人に属する人」ではありません。今日の御言葉によるならば、私たちは「神から生まれた者」なのです。

 イエス・キリストを信じる信仰を持つということは、単なる心理的な変化ではありません。イエス・キリストを信じて洗礼を受けるということ、それは単なる入会の儀式ではありません。それは一つの出来事です。人がこの世に誕生するということが、ある一つの決定的な出来事であるように、キリストを信じる者として生き始めることは、それは人間がこの世に誕生すること以上の大きな一つの出来事なのです。

 「神から生まれた者」であるということは、神が親であるということです。神が本当の親であるということです。私たちがこの世に生まれてきた時のことを考えてみてください。私たちは、それぞれ自分の親の子供として生まれてきました。それが第一の誕生です。しかし、私たちにはもう一つの誕生があります。神との親子関係の中に生まれる誕生です。私たちはそのように誕生して、今、こうしているのです。イエス様がこの地上において「アッバ、父よ」と祈られたように、私たちもまた「アッバ、父よ」と呼びかけることができます。「天にまします我らの父よ」と祈ります。私たちは神を「天地の造り主」として礼拝するだけでなく、「全能の父」として礼拝しています。そのように私たちは、神から生まれた者として生きるようになったのです。

 繰り返します。信仰は単なる心理的な変化ではありません。それは私たちがこの地上に誕生したことよりも大きな出来事です。そのような出来事こそが聖書の語っている「わたしたちの信仰」なのです。

 そして、これが「生まれる」と、受け身で表現されていることを心に留めなくてはなりません。この世における親子の関係は、私たちが自分の力で獲得したものではありません。一方的に与えられたものです。私たちは何もできない赤ん坊として生まれてきたのです。もし私たちが王の子として生まれたとしたら、何もできないうちから既に王子です。王子らしくなったら、王子にしてもらえるのではありません。それがある親から「生まれる」ということです。同じように、神から「生まれる」のです。神の子らしくなったから、神の子にしてもらえるのではありません。人間の側の努力によるのではありません。「生まれる」ことについては全くの受け身です。それは神の恵みによるのです。人はただ信じてその恵みを受けるだけなのです。

兄弟を愛する
 そのように神の一方的な恵みとして神から生まれ、神の子供としていただきました。ならば、そのような私たちにおいて最も大事なことは何でしょう。まことの親である神を愛することです。しかし、父である神様を愛するということは、ただ単に「神様、大好き」ということではありません。「好きである」ことは必ずしも「愛する」ことではありません。どんなに大好きであっても、相手を自分の思い通りにしたいという欲求しかなければ、それはストーカーと一緒です。

 本当に愛するならば、相手が何を大切にしているかを知って、自分もそれを大切にしたいと願うはずです。そのためにも相手が何を望んでいるのかを知りたいと願うはずです。愛においては「相手」が中心です。神を愛するということについても同じことが言えるでしょう。それを聖書はこう表現しています。「神を愛するとは、神の掟を守ることです」(3節)。「掟を守る」とは、要するに「お父さんが願っていることを行う」ということです。

 そのお父さんの願いの中心には何があるのでしょう。実は、今日お読みした箇所の直前にはこう書かれているのです。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。今日お読みした1節の後半にも次のように書かれています。「そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」。これは一般的な話です。そのように一般的に言えることから明らかなこととして、2節ではこう言われているのです。「このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します」(2節)。

 神を愛する。それゆえに、神から生まれた神の子供たちをも愛する。この順番と筋道は大事です。まず父なる神を愛する。「わたしたち」が先に来るのではないのです。「わたしたちはお互いに愛し合いましょう」から始めてもうまくいかないのです。私たちがお互いのことしか見ていないなら、愛し合って生きることは困難なのです。私たちがどんなに「一つになりましょう」と言っていても、父親に無頓着な子供たちが集まっているならば一つになれるはずがありません。

 お父さんのことを考える子供たちになりましょう。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」。自分が神から生まれた者、まことの親の子であることをもっと意識しましょう。そうすれば、他の人も「神から生まれた者」であることが見えてきます。他の人も、父にとって大切この上ない父の子であることが見えてくる。「生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」ということが起こってくるのです。

 そのように、神から生まれて神との間が親子の絆で結ばれ、そして神から生まれたお互いが兄弟の絆で結ばれていく。それが私たちの信仰です。そして、このような信仰こそが世に打ち勝つ信仰なのだとヨハネは言うのです。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(4節)と。

世に打ち勝つ勝利
 さて、ここで「世に打ち勝つ」という言葉を聞きます時に、私たちは一つの場面を思い起こすことができるでしょう。それはイエス様がまさに捕らえられようとしていたその夜、弟子たちと食した最後の晩餐の場面です。主は不安と恐れの中にある弟子たちに多くのことを語られた後、最後にこう言われたのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。

 「わたしは既に世に勝っている」と言われたイエス様。その「世」とは何ですか。その「世」とはまさにイエス様を捕らえ、よってたかって十字架にかけようとしている「世」です。愛よりも憎しみの方が勝っているように見える「世」です。命よりも死の方が勝っているように見える「世」です。神様よりも悪魔の方が勝っているように見える「世」です。この世とは、まさにそのような「世」ではないですか。そのような「世」に、イエス様を信じる神の子どもたちも生きていくのです。信仰を持つということは世捨て人になることではありません。そのような「世」に生きる時、弟子たちには苦難があることをイエス様はご存じだったのです。だから言われたのです。「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。

 自分がまさに捕らえられて十字架にかけられようとしている時に、弟子たちを思って「勇気を出しなさい」と言われたイエス様。「わたしは既に世に勝っている」と高らかに勝利を宣言されるイエス様。そのイエス様の強さはどこから来ていたのでしょう。そのことについて、イエス様御自身がはっきり語っておられます。「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」(ヨハネ16:32)。

 このように、イエス様が見せてくださった本当の強さとは、どこまでも「父が、共にいてくださる」と言い得る強さだったのです。神の子としての強さだったのです。そして、その御方は私たちをも、同じ父との交わりの中に入れてくださったのです。私たちもまた、「父が、共にいてくださる」と言い得るようにしてくださったのです。

 私たちは神から生まれた者です。私たちは、神の家族の中に新しく生まれたのです。私たちには、まことの父がいます。この世よりも大いなるまことの父がいます。私たちには、世に打ち勝った神の子イエスがいます。「勇気を出しなさい」と言ってくださる、最強のお兄さんがいます。そして、私たちには、同じように弱さを抱えてはいますが、互いに愛し合って生きるようにと与えられている、他の子どもたちがいます。共に父を仰ぐ兄弟がおり、姉妹がいます。

 ならば、私たちは負けません。世に負けることはありません。世にあるいかなる苦難にも負けることはありません。いかなるものも神の子どもたちを滅ぼすことはできません。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」。


2023年3月29日水曜日

祈祷会用 ヨハネの手紙一 5:16~21

ヨハネの手紙一 5:16‐21

 前回お読みしたところを少し思い起こしたいと思います。

 「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」そう書かれていました。そして、永遠の命を持っているということは、ただ死んだ後や終末にのみ関わるのではありません。そうではなくて、これは今のことに関わっている。すなわち永遠の命を与えられているということは神との交わりが与えられていることであり、神の子供として生きることに他ならないからです。私たちは既に神の子なのです。

 ですから、その後に祈りの話が出て来ます。私たちは神の子供として、父に大胆に祈ることができるのです。そして、御心に適った願いは神が聞き入れてくださる。ならば本当に大事なことは、父の御心を知る子供になることなのです。父の願いを自らの願いとして生きる子供になることなのです。そのような子供であるならば、もはや何も心配する必要はない。父が聞き入れてくださるからです。聞き入れられた祈りの応えが地上に現れるのが、たとえ将来においてであったとしても、御心に適っていることさえ知っているならば、「ああ、既に聞き入れていただいているんだ!」という安心をもって待つことができる。「神に願ったことは既にかなえられていることも分かる」とさえヨハネは言うのです。

 さて、そのような御心に適った願いの代表として挙げられているのが、「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」(16節)ということです。ここに「死に至らない罪」という言葉が出て来ます。後には「死に至る罪」という言葉が出て来ます。そのことについては後で触れるとしまして、まずここで考えなくてはならないのは、とにかく「罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」と書かれていることです。

 実際、どうでしょう。私たちが「祈り」とか「願い」ということを考える時、真っ先にこのことが出て来ますか。これを書いているヨハネは、「神に願う」ということを考える時、真っ先にこのことが出て来る、そういう人だったということです。ヨハネにとって、祈りとはまず罪を犯す誰かのために執り成し祈ることだったのです。

 「罪を犯している兄弟を見たら」というのは、罪を犯している現実の目撃の話です。その時にどうするのか、という話です。そこでまず為すべきことは、神に代わって裁くことではなくて、神に願うことだ、というのです。その人が裁かれて滅びることを求めるのではなくて、人が悔い改めて赦しを得、命を得ることを願うことなのです。そうするならば、「神はその人に命をお与えになります」というのです。

 つまりそれは神の御心に適う願いだということです。神は人を滅ぼすことを願ってはおられない。人が永遠の命に生きるようになることを願っておられるのです。その願いを、私たちもまた共有することを願っておられるのでしょう。私たちが願い、神がそれを実現するという形で、罪を犯した人が命を得ることを望んでおられるのです。なぜなら、それこそまさに主が愛してくださったように互いに愛し合うという交わりの実現に他ならないからです。互いに愛し合うということは、互いに赦し合い、互いに罪を執り成し合うということと不可分のことなのです。そのようにして、罪が死に至るものでなくなる。これが「死に至らない罪」です。

 しかし、もう一方で「死に至る罪があります」とヨハネは語るのです。それは明らかに「もはや赦されることのない罪」ということであり、「滅びに至る罪」ということです。このように書かれていますと、私たちはどうしても「死に至る罪とは何だろう」と考えてしまうわけでしょう。しかし、それはあえて言うならば「死に至らない罪」というのが標準で、「死に至る罪」というのは、何か特別な悪いことであるかのように考えているわけです。しかし、そこで私たちは立ち止まって考えてみる必要があるのです。本当に「死に至らない罪」の方が標準なのでしょうか。そうではなく本来すべての罪は「死に至る罪」であるはずなのではないでしょうか。パウロが「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)と語っているとおりです。

 それにもかかわらず私たちの罪が赦されて命を得られるのは、ひとえにイエス・キリストによる罪の贖いのゆえなのです。「死に至らない罪」があり得るのは、イエス・キリストのゆえなのです。私たちは罪の赦しを得られることを、当たり前のことのように思ってはならないのです。悔い改めたのなら赦されて当たり前だろうなどと思ってはならないのです。キリストによる贖いによって、初めて罪の赦しがあり得るのです。ですから、先ほどのパウロの言葉はこう続くのです。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

 ならば「死に至る罪」とは、本来のとおり罪が罪としてそのまま裁かれるという場合です。それはすなわち、イエス・キリストによる罪の贖いを拒否した場合です。「主キリスト・イエスによる永遠の命」は「神の賜物」だと言われていたことを思い起こしてください。それは「プレゼント」です。AさんがBさんにプレゼントをあげたとします。Bさんは確かにプレゼントを受け取りました。しかし、BさんがAさんの前でそのプレゼントを投げ捨てたとします。その時に、あなたはAさんに、「Bさんにプレゼントあげてください」とお願いしますか。それを当然のことのように願えますか。願えないでしょう。ここでヨハネが言っているのは、そのような話です。具体的にはイエス・キリストの福音を捨てて背教した人たち、あるいは受肉と贖罪の信仰を捨てて異端に行った人たちの話が考えられているのでしょう。それを「死に至る罪」と呼んでいるのです。なぜならキリストの十字架を投げ捨てるならば、罪は罪としてそのまま裁かれるしかないからです。

 もちろんヨハネは、そのような人たちではなく、キリストを信じ、その信仰に留まっている人たちに対して語っているのです。しかし、そのような人たちは一方において迫害の中にあり、またもう一方において異端の誘惑の中にあることは事実です。そのような彼らが、「自分もまたいつかキリストの十字架を投げ捨てるのではないか。自分も異端に陥るのではないか。自分も結局は悪魔に屈して滅びに至るのではないか」と不安に思ったとしても不思議ではありません。

 だからこそヨハネは18節以下で「わたしたちは知っています」を繰り返しているのです。「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません。神からお生まれになった方が、その人を守ってくださり、悪い者は手を触れることができません」(18節)。悪い者、すなわちサタンの手に陥ることを恐れることよりも、むしろ自分が神から生まれた者であることに、もっともっと信頼すべきなのです。本来罪を犯さない神の子供としてのわたしが既に生まれているのです。神の独り子であるイエス・キリストの兄弟とされているのです。ならば兄弟であるキリストが守ってくださることに、もっと信頼すべきなのでしょう。

 さらにヨハネは言います。「わたしたちは知っています。わたしたちは神に属する者ですが、この世全体が悪い者の支配下にあるのです。わたしたちは知っています。神の子が来て、真実な方を知る力を与えてくださいました。わたしたちは真実な方の内に、その御子イエス・キリストの内にいるのです。この方こそ、真実の神、永遠の命です」(19‐20節)。

 この世は「悪い者の内に横たわっている(直訳)」。それは事実です。しかし、目を向けるべきは、そちらではありません。私たちは真実な方の内にいるのです。「真実な」というのは偽物ではなく、本物であるということです。本物の生ける神の内にいるのです。そして、キリストの内にいるのです。そのことにこそ目を向けるべきなのでしょう。既にそのようなものとされているのです。だから偽物を避けたらよいのです。異端の教えを含め、一切の偽物を避けること。ですからヨハネは「子たちよ、偶像を避けなさい」という勧めで手紙を締めくくっているのです。

2023年3月22日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 5:9~15

ヨハネの手紙一 5:9‐15

 今日は9節からお読みしました。「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです」(9節)。

 「わたしたちが人の証しを受け入れる」というのは一般的な話です。証しというのは事実についての証言です。何かを見た人が、「わたしは見た」と言えば、それを自分は見ていなくても、「ああ、そうなんだな」と言って信じる。そういうことがあるわけでしょう。裁判などでは、二人または三人の証言によって事実が確定されるわけです。実際に裁判官が事実を見ていなくても証言が受け入れられるならば、事実が確定されるのです。そのように、私たちは確かに「人の証しを受け入れる」ということをしています。

 それと同じように、受け入れられるべき「神の証し」があると言うのです。神が証言しておられて、それを私たちが信じて受け入れることを神は望んでおられる。それは「御子についてなさった証し」(10節)だと言います。神が御子について証言しておられる。どのようなことを語っておられるのでしょう。11節には次のように書かれています。「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」

 神は御子について何を証言しているのか。二つのことが書かれています。「神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと」と「この命(永遠の命)が御子の内にあるということ」です。これは後の方から考えた方が分かり易いと言えます。

 神は「永遠の命が御子の内にあること」を語られました。そして、永遠の命が御子の内にあることを私たちに語っているのは何のためか。要するに神は「わたしがその御子をあなたたちに与えたということは、御子の内にある永遠の命をあなたたちに与えたということなのですよ」と語っておられるのです。「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです。」

 実際に、どのように神はそのことを語られたのでしょうか。どのように証言されたのでしょうか。ここには書かれておりません。しかし、ここまでの流れで明らかでしょう。グノーシスの異端の人たちが受け入れなかったこと、すなわち受肉と贖罪によってです。御子に肉をとらせて人間とされたこと。そして、その肉をとった御子を十字架にかけて罪の贖いとされたこと。そして肉を取られた御子、イエス・キリストを復活させたこと。これらすべてが御子についての証言なのです。「御子の内に永遠の命がある。その永遠の命が内にある御子をあなたがたに与えた。それは永遠の命をあなたたちに与えるためだった。」これが、イエス・キリストにおいて神が語っておられること、証言しておられることです。

 そうです、神は既に与えてくださっているのです。ならば、必要なのは私たちが受け取ることだけです。永遠の命は、人間が何らかの努力によって昇っていって獲得するものではないのです。それは上から下に、既に与えられているのです。私たちは受け取るだけなのです。

 しかし、永遠の命だけを単純に受け取るということはできないのです。神が証言しておられるように、神はそれを御子の受肉と御子による贖罪という仕方で与えられたのですから。御子の内にある永遠の命として与えられたのですから。だから、私たちは肉を取られた御子、イエス・キリストを受け入れるという仕方で、永遠の命を受け取るのです。

 ですから、次のように書かれているのです。「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」(12節)。この部分は、以前の口語訳の方が直訳に近いのでそちらも挙げておきます。「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(12節口語訳)。

 「御子と結ばれる」とか「御子を持つ」ということは、信仰によって起こる霊的な現実です。御子を持っているのか、持っていないのかは目に見えないことです。しかし、教会は目に見えない霊的な現実に直接かかわっている《目に見えるもの》をも大切にしてきたのです。すなわち、洗礼と聖餐です。ですから御子を持つということは、具体的には信仰によって洗礼を受け、聖餐に与るということです。

 この手紙を読んでいるのは、既に洗礼を受け、聖餐に与っているキリスト者たちです。異端の人たちは、その交わりから出て行ってしまいました。残った彼らは、いくばくかの不安を抱えていたことは既にお話ししたとおりです。しかし、ヨハネは言うのです。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(13節)と。彼らは神の証しを受け入れたのです。御子を受け入れたのです。具体的には洗礼を受けて、「御子を持った」のです。御子の内には永遠の命がある。ならば彼らは既に永遠の命を得ているのです。

 さらに14節には次のように書かれています。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」(14節)。「永遠の命を持っていることを悟らせる」という話から祈りの話に飛ぶのはいささか唐突にも思えます。しかし、実はそうではありません。永遠の命を持っているということは、死んだ後や終末にのみ関わるのではなく、今、ここにおいて私たちが生きることに関わっているからです。ここまでの話で明らかなように、永遠の命とは神との交わりに他なりません。それは言い換えるならば神の子供として生きることに他ならないのです。

 神の子供としての姿の具体的な一面は大胆に神に近づいて祈る姿です。今、「大胆に」と申しましたが、実は14節にある「確信」という言葉は、「大胆に」という意味の言葉なのです。これはヘブライ人への手紙において「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:16)という呼びかけに用いられている言葉です。

 3章に書かれていたように、「神から生まれた人は皆、罪を犯しません」(3:9)。この章でも繰り返されています。「わたしたちは知っています。すべて神から生まれた者は罪を犯しません」(18節)。神の子供としての本来の私たちは罪を犯さない。言い換えるならば、神の心と一つになっているということです。現実には肉のゆえに罪を犯してしまうゆえに、神に告白して清めていただく必要があるのですが(1:9)、永遠の命に生きている新しく生まれた人としては、神の心をわが心として生きているのです。そのような内なる人が確かに信仰によって生まれているではありませんか。

 そのような神の子供として祈る祈りが、ここでは「御心に適った願い」と言い表されています。そして、その願いは必ず聞き入れられるのです。あのラザロの墓の前でイエス様が祈られたようにです。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」(ヨハネ11:41‐42)。このイエス様のように生きることができる。それが永遠の命をいただいた者として生きるということです。そのような命を、私たちは既に与えられているのです。

 言い換えるならば、私たちが人生において心を用いるべきことは、本来的な神の子供として生きること、イエス様と同じように父の心と一つになって生きることだけなのであって、その他の一切の思い煩いは本来的に不要なのだ、ということなのです。人間の目から見て可能か不可能かということは問題にならないということです。それが既に永遠の命を与えられているということであり、既に神の子供とされているということなのです。
(祈り)

2023年3月8日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 4:13~21

ヨハネの手紙一 4:13‐21

 今週も先週の箇所と同じ表現が出て来ました。「神は愛です」(4:16)。グノーシスの異端の人たちは「神を知っている」と言っていました。しかし、神を知るということは、ヨハネに言わせるならば、愛である神を知ることなのです。ヨハネがあふれる喜びをもって「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています」(16節)と語っているとおりです。

 「わたしたちに対する神の愛、神がわたしたちに抱いていてくださる愛」を知った。そして、今なお知っている。いや、知っているだけではありません。彼は信じているのです。愛を信じることができる。愛を信じて生きていける。いや、「生きていける」だけではなく、愛を信じているということは、愛を信じて死んでいくこともできるということなのです。なぜなら神の愛は永遠だからです。これが神を知るということです。愛なる神を知るということなのです。

 ヨハネは神の愛をどのように知ったのか。それは先週お話ししたことを思い起こしてください。10節でヨハネはこう言っていました。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。彼の指先は十字架にかかったキリストを指し示しています。そして、もし彼が礼拝の場にいたならば、彼は聖餐のパンとぶどう酒を指差してこう言ったことでしょう。「ここに愛がある」と。ここに私たちの罪を償ういけにえがある。神自ら備えてくださった、罪の贖いがある、と。

 今日の箇所との関連で、「エデンの園の物語」を思い起こしてください。アダムとエバが禁じられた木の実を食べてしまった後の描写は次のとおりです。「その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。『どこにいるのか。』彼は答えた。『あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから」(創世記3:8‐10)。

 ここに聖書で初めて「恐れ」という言葉が出てきます。さわやかな風が吹く中、野の草花や空の鳥たち、造られたものすべてが神を喜び、神が与えてくださった命を喜んで生きている中、アダムとエバは木の陰に隠れているのです。神の顔を避けて!もはやまっすぐに神に顔を向けて生きられない。そこにあるのは恐れです。これは昔々の話などではありません。今もなお変わらない私たち人間の姿そのものです。

 しかし、そうやって神の顔を避けて、木の間に隠れて生きていた私たちを、神様が追い求めてくださいました。「アダムよ、どこにいるのか」と神様が呼びかけたように。そして、神自らが罪の償いの犠牲を用意して、その犠牲を屠られたのです。イエス・キリストを十字架にかけられたとは、そういうことです。

 それは何を意味しますか。神様があくまでも愛の手を伸ばし続けられたということです。そこにあるのは「あなたは罪人だ。しかし、それでもわたしはあなたを愛している」という神様の意思表示なのです。そう言って、愛の御手を伸ばし続けられた。それが神自ら罪の償いの犠牲を備えてくださったということです。それがキリストの十字架です。だからヨハネは言うのです。「ここに愛がある」と。

 この愛を受け入れ、感謝をもって、この愛を信じて生きていく。さらにはその愛に応えて、互いに愛する者として生きていく。そのことをヨハネは、「愛にとどまる」と表現しているのです。それこそが、愛なる神と共に生きることであり、さらに言うならば、愛なる神と一つになって生きることなのです。「神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」と書かれているとおりです。

 そのように、私たちが愛にとどまるということが大事なのです。確かに神は愛です。愛は神から来るのです。しかし、神の愛は一方通行では完成しないのです。私たちが愛を受け入れ、愛を信じて生き、さらに互いに愛し合って生きる時に、神の愛は全うされるのです。そして、そこにはさらに驚くべきことが書かれております。「こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです」(17節)。

 「イエスのようである」は、原文では「彼のようである」と書かれているのですが、新共同訳のように、内容的にはイエス様のことを言っていると考えてよいでしょう。皆さんは、「この世でわたしは、イエスのようである」と言えますか。「そんなこと、絶対にありえない」と思いますでしょうか。しかし、わたしたちが「愛にとどまる」ならば、そのように言えるのです。「この世でわたしは、イエスのようである」と言えるのです。どのような意味においてでしょう?ただ一点においてです。すなわち、父なる神との関係においてです。神との関係において、「わたしはイエスのようである」と言えるのです。

 神の顔を避けて隠れているイエス様、想像できますか。それはありえないことでしょう。なぜですか。罪のない御方だからです。ですから、イエス様はいつでもまっすぐに父なる神に向かって、「父よ」と呼びかけておられたのです。そして、私たちもそのようなイエス様のように生きることが許されているのです。なぜですか。既に述べましたように、罪を償う犠牲が屠られたからです。だから、もうアダムのように、「あなたの足音が聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております」などと言う必要はないのです。この世にあって、私たちもまた顔を上げて、「父よ」と呼びかけることができるのです。イエス様のように。ならばヨハネが言うように、最終的な裁きの日さえも、もはや恐怖の対象とはなり得ないでしょう。

 ですから彼はさらにこう言っているのです。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです」(19節)。ここで言われている愛、「完全な愛」とは、これまでの流れから明らかなように、償いの犠牲として御子を与えてくださった神の愛です。「神は愛です」――この愛こそが、恐れを外に放り出してくれるのです。ここに「恐れは罰を伴い」と書かれていますが、意味合いとしては「恐れと罰は関係している」ということです。そのように訳している聖書も少なくありません。確かに様々な恐れというものがありますが、究極的に恐ろしいのは神に処罰されることであるに違いありません。アダムも「恐ろしくなり、隠れております」と言いましたでしょう。確かに、「恐れと罰は関係している」のです。

 ならばその恐れを締め出してくれるのは、神の愛以外にはあり得ません。神の愛が人間にとって最も根源的な恐れを外に放り出して締め出すのです。「恐れる者には愛が全うされていないからです」とヨハネは言いました。大事なことは、自分の身を必死で守ろうとすることではないのです。「愛の内に全うされること(直訳)」なのです。キリストにおいて現された神の愛を受け入れ、神の愛を信じて生きること、完全に神の愛の中に身を置いて生きるようになることなのです。

 そのように、神がまず私たちを愛してくださいました。そのような神の愛を知ることは、既に繰り返し語られているように、互いに愛し合って生きることへと導くはずです。「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」とヨハネは言いました。これこそが本当の意味で神を知る人の言葉です。そのように私たちも言えるように、そのように神を知るようにと、私たちは十字架のみもとに集められ、今ここにいるのです。
(祈り)

2023年3月1日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 4:7~12

 ヨハネの手紙一 4:7‐12

 これまで度々グノーシスの異端について述べられてきました。グノーシスとは「知識」という意味です。彼らは神についての特別な知識(グノーシス)を持ち、神との特別な交わりが与えられていると主張していたのです。2章に「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(2:4)と書かれていました。そのように、彼らは「神を知っている」と主張していたのです。

 既に申し上げましたように、彼らが言う知識、そして、その交わりは霊的なものであって、この物質世界に属するいかなるものによっても、決して妨げられることはないと考えられたわけです。この世の生活における倫理的な事柄を問題にするキリスト者は、彼らから見るならば、一段も二段も低いところにいたのです。

 しかし、そのような異端の教えを背景に、ヨハネは教会に対して全く違うことを語っています。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」(7‐8節)。

 「愛する」ということは、この物質世界の中で営まれる具体的な生活に関わっている言葉です。現に存在する隣人とどのように共に生きるのか、ということに関わっている言葉です。そのように具体的に愛して生きるということを欠いているならば、どんなに特異な神秘体験を持っていようが、どんなに特別な知識を持っていようが、どんなに霊的な神との交わりがあると主張しようが、その人は神を知らないのだ、とヨハネは言うのです。それはなぜでしょうか。彼は言います。「神は愛だからです」。

 「神は愛です」とは教会で良く耳にする言葉です。しかし、よくよく考えてみると、これをどう理解するかということは、そう単純ではありません。神は本当に愛なのでしょうか。奇跡的に病気が癒されて「神は愛である」と感謝する人もいます。しかし、病気の癒しが「神は愛である」と語る根拠にならないことは明らかです。自分が経験してきた数々の幸運のゆえに「神は愛である」と言う人もいるでしょう。しかし、その人が不運に見舞われるならば、「神は愛である」と言っていた舌をもって神を呪うことになるかもしれません。

 「神は愛である」という言葉が、単純にこの世の経験から出てこないことは明らかです。なぜなら、この世に満ちている理不尽な出来事、私たちもしばしば経験するこの世の不条理やそれに伴うやり場のない悲しみや怒りは、「神は愛である」という言葉と激しく対立するからです。考えてみてください。ヨハネは悲しみや痛みとは無縁の、平和で幸いに満ちた生活をしていたから、このようなことを書いているのではないのです。迫害の中にあった教会にとって、理不尽な苦しみや悲しみは、むしろ身近な日常の経験だったのです。そして何よりも、ヨハネは最も理不尽な出来事を知っているのです。すなわちイエス様がどれほど惨たらしい仕方で殺されたかを知っているのです。

 「パッション」という映画をご存じでしょう。目を覆いたくなるような残酷なシーンが続きます。しかし私は、あの映画において、残酷さが殊更に強調されているとは思いません。実際に起こっていたことは、もっと残酷であったに違いないとさえ思います。鞭で打たれて飛び散った血と肉によって真っ赤に染まった敷石の上をキリストが引きずられていく場面と「神は愛である」という言葉は結びつきますか。結びつかないだろうと思うのです。そうです、ヨハネはこの世界の中に起こっていることが、まさにそのような事であることを重々承知の上で書いているのです。ですから、「神は愛である」という言葉は、単純にこの世界の一般的な経験の中からは出てきた言葉ではないのです。

 ではどこからでしょうか。実は、10節は「ここに愛があります」という言葉で始まるのです。日本語とは順序が逆になります。「ここに愛がある」――どこに?ヨハネはこう言っているのです。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」。これこそがヨハネの見つめている一点なのです。

 ここで重要なのは、「わたしたちの罪を償ういけにえ」という言葉です。これは旧約の背景を持った言葉です。その言葉が前提としているのは、「罪の赦しを必要としているわたしたちである」ということです。ヨハネは、自分の罪、そして全世界の罪について考えているのです。そして聖なる神と罪深い人間を隔てる、越えがたい深淵を見ているのです。

 自分自身の罪と深刻に向き合うことがないならば、人はいくらでも神に近づくことができると考えることでしょう。自分が近づこうと思いさえすれば、神に近づくことができると思うのです。人間の努力によって、修練によって、積み重ねた善行によって、あるいは瞑想によって、神秘体験によって、いくらでも神に近づき、神に触れ、神と一つになることさえできると考えるものです。そして、そのような神と一つになる体験を得るために、酒や薬物の助けを借りるということも、人間が昔からしてきたことです。

 しかし、私たちが真に光の中に身を置くならば、どうしても私たち自身の罪が問題となるのです。神と人とを隔てる深淵が問題となるのです。いったいその深淵に橋渡しはなされ得るのかが問題となるのです。そこで少なくとも一つ明らかなことは、人間の側から橋はかけられない、ということです。この断絶は人間の罪の故の断絶だからです。神の方から橋をかけてくださるしかない。そして、神はそうしてくださったのです。御子が肉を取って来られた。受肉です。そして、その肉をもって罪を贖ってくださった。贖罪です。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」

 このキリストの出来事に目を向けつつ、ヨハネは「神は愛である」と語っているのです。「神を知る」ということは、そのように十字架において御自身の愛を示された神を知ることに他なりません。それはすなわち、自分に与えられている神との交わりは、百パーセント神の愛に負っていることを知ることに他ならないのです。要するに、私たちは神さまに借りがあるということです。こうして私たちは当たり前のように神に祈るために集まっているのですが、その私たちは本来神さまに対して莫大な愛の借りがあるのです。

 「神は愛です」。その愛なる神を知るならば、その一生は当然のことながら、神に愛をお返ししていく一生となるはずです。もとより返せるような負い目ではありません。そのような私たちのせめてもの恩返しの一生です。しかし、そのように神に愛をお返ししようとする時に、神は私たちに言われるのです。「もしあなたが返そうと思うなら、わたしにではなく、あなたの兄弟に、あなたの隣人に返しなさい」と。ヨハネはそのことを次のように表現しています。「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」(11節)。

 「愛し合うべきです」という表現は、「愛することを負っている」というのが直訳です。負債がある、ということです。負っているのは神に対してですが、返すのは隣人に対してです。それは神が大きな橋を自らかけてくださったように、私たち自身も小さな橋をかけることを意味するのかもしれません。その場合、神の方から御赦しをもって橋をかけてくださることが神の愛であったのですから、私たちが誰かを愛するということは、私たちの側から橋をかけることを意味するのでしょう。こちらから橋をかけなくてはならない人は誰ですか。

 いずれにせよ、神を知るということは、そのように必然的に私たちが互いに愛し合うという形を取るのです。それゆえに、このように書かれていたのです。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」


2023年2月15日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 4:1~10

 ヨハネの手紙一 4:1‐6

 これまで度々グノーシスという異端の話が出て来ましたが、そもそもどうして当時の教会の中にそれほどこの異端が広まったのでしょう。一つには、その背景となっている哲学的な思想体系が知的な人々の欲求を十分に満足させるだけの内容を持っていたということが理由として挙げられます。異端の教師たちはある意味では当時の哲学的な思想に精通していた人々でありましたから、その教えの前には、教会が伝えてきた受肉や贖罪の思想があまりにも素朴で単純に思えたことでしょう。正統的な信仰に留まっている信者は時代に取り残されているかのように感じたかもしれません。

 しかし、それでもなお知的な魅力だけでは、それほど教会の中に異端が広がることはなかっただろうと思うのです。ではなぜ広がったのか。そこには感覚に訴えるものがあったからです。つまり異端の教えには神秘的な現象や霊的な体験が伴っていたということです。肉体という牢獄から解放されるという教えには、実際に肉体から解放されるような恍惚感の体験が伴っていたのでしょう。そのような霊的な体験や現象というものに教会は弱いのです。不思議なことが起これば、それは神から来ていると思ってしまう。神秘的な体験が伴うところで語られることは無条件で真理であると単純に思ってしまうものなのです。

 だからこそ、ヨハネはこう語っているのです。「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい。偽預言者が大勢世に出て来ているからです」(1節)。神秘的な現象が必ずしも神からのものとは限らない。霊的な体験が必ずしも神からのものとは限らない。霊的な力を行使して奇跡を行うような人が語る言葉が、必ずしも神からの言葉とは限らない。そういうことです。そこで語られる言葉は吟味されなくてはならないのです。私たちは神から出たものかどうかを確かめなくてはならない。きちんと判断しなくてはならないのです。

 ではどのように判断したら良いのでしょう。ヨハネはこう言うのです。「イエス・キリストが肉となって来られたということを公に言い表す霊は、すべて神から出たものです。このことによって、あなたがたは神の霊が分かります」(2節)。

 ここで問題となっているのはキリストの「受肉」を信じる信仰です。そして、キリストが肉を取って来られたのは、十字架にかかって罪の贖いをするためですから、「受肉」を信じる信仰は、「贖罪」を信じる信仰と不可分の関係にあります。ですから、ここでは「受肉」についてだけ語っていますが、4章のこの後の部分では「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)と語られているのです。要するに、判断の基準は「受肉」と「贖罪」を信じる信仰を告白しているか否かです。ということは、人間の罪の問題ときちんと向き合っているということです。言い換えるならば、罪の問題が隠れてしまう暗闇の中を歩いているのではなく、光の中を歩いているということです。

 以前も申し上げましたように、グノーシスの異端は受肉と贖罪を否定していました。御子なる神が肉体を取って十字架にかかって死なれたということを否定していたのです。彼らは否定することができたのです。贖罪を否定することは問題にならなかったのです。なぜなら罪そのものの重大さを認めていなかったからです。罪の贖いがなくても、体から解放されるような神秘体験を得ていれば、もうそれで神の結ばれているように思えたし、救われているようにも思えたのです。だからいくら肉体が罪を犯していても、もはや問題にはならなかったのです。肉体をもって憎み合っていても、問題にはならなかったのです。受肉したキリストがかかられた十字架がなくてもやっていけたのです。

 十字架なしでもやっていけるように思わせてしまう神秘体験が、実はどれほど恐るべきものであるか考えてみてください。十字架抜きで、神秘体験そのもので神と結ばれているように思ってしまったら、もはや罪の悔い改めはあり得ないでしょう。罪が明らかにされる光の中に身を置く必要も感じないでしょう。自分は恍惚感の中にあって神と結ばれているように思いながら、実際には行動としては神の律法に背き続け、罪の負債を抱えたままで、もはや神の赦しも憐れみも求めることができない者となってしまう。それは恐ろしいことでしょう。そのような霊的体験は、まさにキリストに逆らうものではありませんか。キリストが来られた目的と真っ向から対立するものではありませんか。ですから、「反キリストの霊です」とまで言われているのです。

 判断基準は受肉と贖罪です。キリストの十字架です。ここから引き離すものは、すべてキリストに逆らっているのであり、反キリストです。聖書は、様々な霊的な現象や霊的な体験があることを否定していません。それは霊的な体験について「それは脳内物質の分泌の問題である」とか、奇跡を目撃した時に「これは偶然が重なっただけである」といった仕方で合理的に説明する必要はありません。合理的な説明を超えたことは起こるのです。占いの類は確かに当たるのであり、だからこそ古代から絶え間なく行われてきたのです。奇跡的な癒しは起こるのです。それもまた古代から人間が目撃してきたことなのです。今日でもいくらでも起こっていることです。ですから今日でも奇跡を売り物にするYoutuberは存在しますし、その手の書物は枚挙にいとまがないほどです。しかし、それは必ずしも神からのものではなく、往々にしてそれは反キリストの霊であるということを私たちは忘れてはならないのです。

 特に、人々が喜んでいる時には、そのことをよく考えなくてはなりません。誰かが奇跡的に癒されて喜んでいたら、単純にそれは良いことだと思うわけでしょう。未来予知の能力を持つ人が誰かの人生についてアドバイスすることによって、その人が安心を得たり、悩みが解決していったりしたら、それは良いことだと思うわけでしょう。グノーシスの異端にしても、必ずしも不道徳の種を撒き散らしていただけではなくて、人々に幸福感を与えたり、喜びを与えたり、悩みの解決を与えたりしていたのだろうと思うのです。しかし、それでもなお、もしそれで人が罪の悔い改めから遠ざけられたり、十字架による救いから遠ざけられたりするならば、それはまさに恐るべき反キリストの霊の業に他ならないのです。

 そうしますと、教会における戦いというものは、まさにこの反キリストの霊との霊的な戦いであることが分かります。外からの迫害についても、本当は迫害者そのものが敵なのではなく、人間そのものと戦ってはならないのと同じように、異端の問題にしても異端の教師たちやその追従者が敵なのではなく、そこにおいても人間そのものに憎しみを向けたり戦ったりしてはならないのです。反キリストの霊との戦いなのです。

 ところで、この霊的な戦いということについて、ヨハネの手紙を読んでいるこの教会はどのように感じていたのでしょうか。グノーシスの異端の方が実は外に対する伝道も進んでいたのです。ギリシアの文化圏の人にとっては、グノーシスの異端の方がはるかに受け入れやすかった。また世の人々にとりましても感覚に訴える体験的な内容も魅力であったに違いありません。ですから正統的な信仰を保とうとしている人たちは、自分たちがかなり劣勢にあると感じていたのではないでしょうか。私たちも、グノーシスの異端ではありませんが、この世に働いている、キリストから引き離そうとする諸々の力に対して、教会は極めて劣勢であるかのように感じることがあるかもしれません。

 しかし、ヨハネは言うのです。「子たちよ、あなたがたは神に属しており、偽預言者たちに打ち勝ちました。なぜなら、あなたがたの内におられる方は、世にいる者よりも強いからです」(4節)。「世にいる者」とは悪魔のことです。神の方が悪魔よりも強い。当たり前のことです。それゆえに、もう既に教会は異端に勝っている、とヨハネは言うのです。実際どうですか。グノーシスの異端は歴史から消えていきました。私たちは心配しなくてはよいのです。ただ必要なことは、きちんと見分けることです。

2023年2月8日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 3:19~24

ヨハネの手紙一 3:19‐24

 私たちは既に神の子です。私たちは既に死から命に移っています。既に永遠の命を与えられています。繰り返しますが、もちろん、その全てを私たちが自分自身の上に見るのは将来においてです。しかし、今既にすべては与えられているのです。だから神の子であることも、死から命に移っていることも、私たちの信仰生活の中で経験されていくことになります。どこにおいてそれが経験され味わわれるかと言えば、それは互いに愛し合うところにおいてなのです。それはキリストが私たちを愛してくださったことに基づきます。

 ですから16節には「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」と書かれているのです。愛するとは命を捨てることです。しかし、それは何も身代わりになって死になさいということではありません。与えられている命、また命に関わるすべてをどう用いるかということなのです。誰かのために、私たちの命、そして私たちの命に関わるものを用いる。そのような具体的なことです。特に教会の中のこととして書かれているので、私たちにとっては、具体的には「献金」のことや「奉仕」のことも含まれることを先週申し上げました。そのように具体的なことですから、「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」と言われていたのです。

 さて、今日はその続きです。今日の箇所もまた、少々読みにくいところです。今日の箇所の読みにくさは、特に「心に責められることがあろうとも」という言葉と、「心に責められることがなければ」という言葉が出て来るところにあります。そうしますと、何か「心に責められることがある人」と「心に責められることのない人」という二通りの人の話のように思ってしまいやすい。あるいは「何か悪いことをして心に責められるとき」と「何も悪いことをしていないから心に責められないとき」という二つの場合の話のように思ってしまいます。しかし、ここは一つの話の流れになっているのです。

 「これによって、わたしたちは自分が真理に属していることを知り、神の御前で安心できます」(19節)とヨハネは言います。「これによって」が指し示しているのは、これまで見て来たことです。すなわち、死から命に移っていることは、互いに愛し合うところにおいて経験されるということです。それはまた、「わたしたちは自分が真理に属していることを知る」という経験ともなるのです。私たちが福音の真理なることを知るのは観念的なことではありません。キリスト者の交わりにおいて具体的に経験的に知るのです。それゆえに、またそれは「神の御前で安心できます」という経験にもなるのです。

 そこにはある意味で不思議なことが書かれています。「心に責められることがあろうとも」(20節)と続くのです。普通に考えるならば、心に責められることがあったら、「神の御前で安心できます」と言えないではありませんか。しかし、そこには明確な理由が付け加えられております。「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです」。

 ここまで読みますと、話の流れが明確に見えてまいります。そもそも、どうして「心に責められることがあろうとも」という言葉が出て来ると思いますか。それは光の中を歩もうとしているからなのです。グノーシスの異端に流れれば、心に責められることなどないのです。罪を正当化できるのですから。不道徳を行おうが、兄弟を憎もうが、心に責められることなどないのです。

 しかし、そうではなく真理に属する者として、光の中を歩み、互いに愛し合って生きようとすれば、どうしたって「心に責められること」が出て来るのです。本気で「わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきである」という言葉を受け止めて生きようとしたら、どうしても完全に愛することができない自分、命を捨てるほどに自分の人生を他者のために遣い尽くすことのできない自分を目の当たりにせざるを得ないのです。

 私たちは既に神の子です。そして、神から生まれた者は罪を犯さないのです(3:9)。それが本来の私たちなのです。しかし、神から生まれた者であることを自覚すればするほど、神の子という本来の自分からかけ離れている自分を目の当たりにせざるを得ないわけでしょう。「心に責められること」が生じてくるのです。

 しかし、そのようなことが起こっても、なお私たちは自分が真理に属することを知り、神の御前で安心することができるのだ、というのです。「神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだから」。

 私たちの「心」は、私たち自身を責めるのです。「心」は「あなたは神の子としては失格だ。あなたは赦されるはずがない」と言うのです。そうです、「心」は責めて断罪するのです。しかし、神は私たちを責めてやまない私たち自身の心よりも大きな方だというのです。「心」が「お前は赦されない」と言ったとしても、心より大きな神様が「あなたは赦されている」と言ってくださる。「心」が「お前は駄目だ」と言ったとしても、「心」よりも大きな神様が「あなたのことは初めからすべて分かっている。そのようなあなたを召して神の子としたのだ」と言ってくださる。

 神様は全てご存じなのです。「心」よりも大きいということはまた、「心」よりも上にあるということでもあるのです。「心」が「お前は駄目だ」と言ったとしても、それよりも偉い方が「お前は大丈夫」と言えば、そちらの方が有効なのです。私たちはどちらの言うことを聞くのか、ということです。「愛し合いなさい」と命じられた方はまた、私たちの心よりも大きい御方なのです。

 私たちは、そのように私たちの心よりも大きな方、そしてすべてをご存じで、それゆえに私たちの罪を贖うためにキリストを十字架にかけられた神様に目を向けるのです。そのことによって、初めて私たちは「心の責め」から解放されて、安心して神の前に立つことができるのです。それは暗闇に身を置いて罪を罪としないで心の責めを免れるのとは、根本的に異なることなのです。

 そのようにして、私たちは心の責めから解放されて、「心に責められることのない」ようになるのです。ならばそこで私たちは大胆に神の御前において、祈り願うことができるのでしょう。「愛する者たち、わたしたちは心に責められることがなければ、神の御前で確信を持つことができ、神に願うことは何でもかなえられます」。

 「確信を持つ」と訳されていますが、これは「大胆になる」という言葉です。ヘブライ4:15以下にこう書かれていますが、そこで用いられている言葉です。「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:14‐16)。

 そうです、大胆に祈りと願いを御前に注ぎ出し、何でもかなえられることを期待したらよいのです。たとえ不完全であり、心の責めが生じるようなことがあったとしても、とにかく神の掟を守り、御心に適うことを行っているならば、そのために必要なすべては御前に祈り願ったらよいのです。

 神の掟とは、「神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(23節)と、改めて語り直されています。信仰と愛、それこそが神の求めたもうことであるということ。その掟を与えた神は私たちの心よりも大きいこと。それゆえに、私たちは安心して大胆に御前に立ち、祈ることができるということ。これらがいわばセットになっているのです。贖罪信仰と神の御前における安心と祈りとを離れた愛の教えは、ただ心の責めと偽善とを生み出すだけになってしまうか、あるいは愛することができない罪深い自分を正当化するために神を離れて暗闇に逃げ込んでしまうかのいずれかになってしまうのです。

2023年2月1日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 3:11~18

ヨハネの手紙一 3:11‐18

 これまで読んできたことを思い起こしてください。私たちは「今既に神の子である」(2節)と書かれていました。もちろん神の子であることが完全に現れ、御子に似た者となるのは将来のことですが、それでも事実として今既に神の子なのです。それと同じように、私たちは既に「死から命へと移った」(14節)と聖書は語ります。もちろん永遠の命に完全に与るのは将来のことですが、私たちは既に命に移された者としてこの永遠の命を経験し始めるのです。

 では、どこにおいて死から命に移されたという事実を経験するのでしょう。どこにおいて永遠の命を味わうのでしょう。14節にはこう書かれています。「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです」(14節)。このように、永遠の命は愛することにおいて経験されるのです。永遠の命の経験は、互いに愛し合う交わりの中にあるのです。

 さて、このことは、私たちの救いの完成についても、大切なことを教えています。救いが完成するということは単に私たちが個人として完成することではないのです。交わりが完成することなのです。それは神との交わりであると同時に隣人との交わりです。永遠の命は、そのような愛の交わりの中にあるのです。

 そもそも命の源である神御自身が、その内に愛の交わりを持っているのだと、私たちは教えられております。神が三位一体の神であるとはそういうことです。神は本質的に愛の交わりを持っているのです。人間はこの神の似姿として造られました。ですから、救いの完成である永遠の命は、愛の交わりの中にこそあるのです。

 そして、そのような永遠の命を、私たちはこの地上における不完全な愛の交わりの中においても、既に経験し始めるのです。しかし、全く逆のことも起こり得ます。人が愛において永遠の命を経験するように、人は憎しみにおいて死を経験するのです。続けてヨハネが次のように語っているとおりです。「愛することのない者は、死にとどまったままです。兄弟を憎む者は皆、人殺しです。あなたがたの知っているとおり、すべて人殺しには永遠の命がとどまっていません」(14節後半‐15節)。

 「兄弟を憎む者は皆、人殺しです」とは実に激しい言葉です。ヨハネは、憎しみというものがいかに命から遠いかを良く知っているゆえに、このような激しい言い方をしているのでしょう。誰かについて「こんな人はいない方が良い」と考えているならば、単に心の中で憎んでいる人であっても、実際に人を殺す人であっても変わりません。その思いそのものが、永遠の命とは対極にあるからです。人を憎んでいる時、そして憎んでいる自分を正当化している時、その人は生物学的に生きていたとしても、経験しているのは永遠の死そのものなのです。

 では人はいかにして憎む者ではなく、愛する者となるのでしょう。「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからだ」と言っていますが、その愛も命も、もともとヨハネが持っていたものではありません。その愛は与えられた愛なのです。愛は愛を通してのみ与えられます。愛されて、愛を知らされて、愛する者とされるのです。ですから、その後に「愛を知った」という話が出て来るのです。

 ヨハネはどこにおいて愛を知ったのでしょうか。16節は、原文では「ここにおいて愛を知った」という言葉から始まります。彼はひたすらに、ただ一点を指し示すのです。「ここなのだ」と。その指の先にはキリストがおられるのです。彼は言います。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」(16節)。彼が指し示すその指の先には、十字架にかけられているキリストがおられるのです。十字架においてこそ、私たちは愛されていることを知るのです。それ以外のところではありません。

 キリストが命を捨てるほどに私たちを愛してくださった。その愛によって私たちは死から命に移されたのです。ですから、「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました」で終わらないのです。当然、その先があるのです。何と書かれていますか。「だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです」(16節)。

 では「兄弟のために命を捨てる」とはどういうことでしょうか。誰かの身代わりになって死ぬことでしょう。いいえそうではありません。ヨハネはすぐにこれを身近な具体的な事柄に置き換えて語り直します。彼はこう言うのです。「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」(17‐18節)。

 そのように、「兄弟のために命を捨てる」と言いましても、何もそこで死に方を考える必要はないのです。結局そこにあるのは、《この命をどう用いるのか。この地上の生をどう用いるのか》という問題だからです。そして、《この命をどう用いるのか》と言いましても、何も大きなことを考える必要はないのです。皆がインドのカルカッタに行ってマザー・テレサのようになる必要はないのです。兄弟は身近にいるからです。重要なのは、ごく当たり前の日常のことであり、そこで私たちがこの地上の生活と、生活に関わるすべてのモノを身近な兄弟のためにどう用いるか、ということなのです。

 このヨハネの言葉の背景にあるのは、富める者が貧しい者を支えることによって成り立っていた、当時の教会の状況です。使徒言行録を読みますと、そこには皆が持っているものを使徒たちのもとに集め、それが必要に応じて分配されるという、初期の教会の姿が描かれています。そもそも、「主の晩餐」がそのように行われていたのです。初めの頃の教会においては、「主の晩餐」と通常の食事(愛餐)の区別は必ずしも明確ではありませんでした。そこでは食べ物を提供することのできる者がそれぞれ持ち寄り、それが神に奉献され、分かち合われて食事がなされたのです。そこでは貧しい者も食べることができました。富める者も貧しい者も皆が食事をする――そこに愛し合う者たちによって捧げられる、主の食卓を囲む礼拝があったのです。

 さて、今日の私たちは持ち寄った食べ物によって聖餐を行うわけではありません。しかし、かつて行われていたことは、形を変えて残っております。何でしょう。献金です。私たちは礼拝において献金をいたします。教会員であれば月次献金を献げます。これはもちろん神に献げるから「献金」と呼ばれているのです。しかし、もう一方において、私たちの献金によって教会のすべての営みは支えられています。すなわち、私たちの献げ物は、他の誰かの信仰生活を支えているのだ、ということです。「兄弟のために命を捨てる」ということは、そのように私たちの「献金」においても起こるのであり、そこにおいても私たちは永遠の命を経験するのです。

 また、それは私たちの奉仕においても起こることです。「この世の富」は、今日の私たちにとって、必ずしもお金とは限りません。私たちの持っている能力であるかもしれませんし、時間であるかもしれません。それを互いのために差し出すことにおいて、「兄弟のために命を捨てる」ということは起こります。互いに愛し合うという具体的な経験なのであり、それはすなわち永遠の命の経験に他ならないのです。
 繰り返しますが、この「兄弟のために命を捨てるべきである」という言葉は、「イエスは、わたしたちのために命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました」という言葉に続いています。その前提と切り離すことはできません。ですから、何よりも大事なことは、ヨハネがひたすら指し示しているその方向に私たちの目を向け、「わたしたちは愛を知りました」と言い表して生きる者となることなのです。

(祈り)

2023年1月25日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 3:4~10

ヨハネの手紙一 3:4‐10

 前回お読みした3章1節には、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」(1節)と書かれていました。私たちは改めて、その愛がどれほどであるかを考える時間をいただきました。

 御父は私たちを愛していてくださいます。それは私たちを神の子と呼んでくださるほどです。いや、呼んでくださるだけでなく、事実、神の子にしてくださったのです。どのようにしてですか。御子をお遣わしくださることによってです。御子に肉を取らせ、私たちのための罪の贖いの犠牲とすることによってです。後に4章において次のような御言葉を聞くことになります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。この愛によって、私たちは神の子とされました。

 ヨハネによって勧められているように、これがどれほど大きな愛であるか、私たちはよく考えなくてはなりません。そして、その愛の内にとどまるのです。神の愛そのものであられる御子の内にとどまるのです。御子の内にあってこそ、私たちは神の子なのですから。「教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい」(2:27)と語られていましたでしょう。

 そのように、私たちは御子の内にあって、既に神の子です。しかし、神の子であるという事実はまだ現れていません。私たちが本当に神の子の姿となるのは将来においてです。それは私たちの想像を超える出来事です。しかし、一つだけはっきりしていることがある。「御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています」(2節)と書かれていました。

 御子に似た者となるとは、どういうことでしょう。今日お読みしたところには、御子についてこう書かれています。「あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません」(5節)。これが御子です。ですから、私たちがやがて御子に似た者になるということは、《罪のない御子》に似た者になるということです。私たちもまた罪のない者になるということです。ですから御子は自分が罪のない御方であるだけでなく、「罪を除くために」来られたのです。

 さて、そのように先週お読みしたところと今週の箇所は続いているのですが、実は今日お読みした箇所は少々読みにくいのです。ここを読むためには、ちょっとしたコツがいるのです。それは「罪を犯す者」と「義を行う者」を○で囲むなり、しるしをつけるなりして、これに注目しておくことなのです。「罪を犯す者」は4節、6節、8節に出て来ます。(厳密には6節は若干異なる表現ですが、同じ意味です。)「義を行う者」は7節に出て来ますし、先週読んだ2章29節にも出て来たのです。

 結論から言いますと、「罪を犯す者」とは反キリストと呼ばれていた、異端を奉じる人々のことで、「義を行う者」は教えられたとおり御子にとどまる者のことなのです。そのことを理解しておきませんと、例えば7節などは同語反復の奇妙な表現としか見えないでしょう。

 以前話したことを思い起こしていただきたいのですが、異端の人たちは、自分たちが肉体から解放された霊の人であると主張していたのです。それゆえに肉体をもって何をしても重要なことではなく、肉体が罪を犯しても決して害を受けることはないと主張していたのです。そして、実際に罪を正当化しながら放縦に身を任せていたのです。それゆえにヨハネは彼らを「罪を犯す者」と呼んでいるのです。それに対比させて、御子に留まるキリスト者を「義を行う者」と呼んでいるのです。そして、その「義を行う者」と「罪を犯す者」との対比が、さらには「神の子たち」と「悪魔の子たち」の対比として語られているのです。

 さて、ここで「義を行う者」すなわち、御子の内にとどまるキリスト者について何が言われているかを見ていきましょう。今日の箇所で「御子の内にいつもいる人(御子の内に留まっている人)」「義を行う者」「神から生まれた人」をすべて「クリスチャン」と言い換えてみたらどうなりますでしょうか。「クリスチャンは罪を犯しません」(6節)。「クリスチャンは、御子と同じように、正しい人です」(7節)。「クリスチャンは皆、罪を犯しません。クリスチャンは、罪を犯すことができません」(9節)。

 さて、どう思いますか。「え、それならわたしはクリスチャンではありえない。偽物クリスチャンだ」と思って落ち込む人がいるかもしれません。あるいはヨハネに反論しようとするかもしれません。「そんな罪を犯さないクリスチャンなんているものか。ヨハネ自身も1章で言っているではないか。『自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません』と」。

 しかし、私たちはここで、前回書かれていたことをもう一度思い起こす必要があります。2節には、「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子です」と書かれていました。明らかにヨハネは、「あなたたちは自分が神の子であるか、省みてみなさい。もしかしたら悪魔の子かもしれませんよ」という意図でこれを書いているのではないのです。御子の内にあるならば、私たちは既に神の子なのです。まだその現実が完全に現れていないけれど、とにかく神の子なのです。2節以下に書かれていたとおりです。

 そして、神の子であるということは、罪がないということなのです。御子は罪を取り除くために来られたのですから。悪魔の働きを滅ぼすために来られたのですから。神の子は罪を犯さないのです。神から生まれたのですから、罪を犯すことなどできないのです。――では罪を犯してしまう私たちは何なのか。当然その問いが生じてくるでしょう。罪を犯してしまう私たちは、本来の私たちではない、ということなのです。それは神の子であるという事実が、現れていないということなのです。そして、これは今の自分自身をどう見るかということに関わる重大な事柄なのです。

 わたしはかつてクリスチャンとしての自分は偽りの姿であると思っていた時期がありました。教会にいる時のわたし。他のクリスチャンと共にいる時のわたし。礼拝している時、祈っている時のわたし。それは全部、いい子ぶりっこしている偽物のわたしで、本当のわたしは悪くて狡くて罪ばかり犯していて、心の中で汚いことを考えているわたし。誰も知らないけれど、こちらが本当のわたしなのだ。クリスチャンとしてのわたしは演技に過ぎないのだ。――と、そう思っていた時期がありました。皆さんは、そのように思ってしまったことは、ありませんか。

 しかし、実はそうではないのです。私たちは確かに神から生まれたのです。既に今、神の子なのです。だから祈るのです。だから礼拝するのです。だから罪に対して心を痛めるのです。神を喜び、神に喜ばれることを願っている方の自分。罪を悲しんでいる方の自分。それが本当の自分なのです。神の子は罪を犯さない。そちらが本当の自分なのです。どうしてそう言えますか。そちらの方が残るからです。永遠に残るのはそちらの方だからです。やがて御子が現れる時、御子に似た者になるのでしょう。罪のない御子に似た者になるのでしょう。そちらが本当のわたしであり、本当のあなたなのです。

 実際、罪を犯す方が本来の自分であると思って、その罪深さを正当化するために、異端の教えの方に流れていく誘惑は常にあったのです。そうです。罪がある方を本来とするならば、必ずそれを正当化するようになるでしょう。暗闇の中に留まることになるでしょう。そうあってはならないのです。

 皆さん、私たちは御子の内にあるならば、既に神の子です。どれほど大きな愛によって愛されて神の子とされたのか、もう一度思い起こしましょう。私たちは神の子です。そして、私たちはさらに言わなくてはなりません。「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」それが本当のわたしたちです。やがてその事実が完全に現れる時が来るのです。
 

2023年1月18日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 2:28~3:3

ヨハネの手紙一 2:28‐3:3

 全回お読みしたところには、「子供たちよ、終わりの時が来ています」(18節)と書かれていました。今日お読みした28節では、その「終わりの時」が「御子の現れるとき」また「御子が来られるとき」と言い換えられています。2節にも「御子が現れるとき」と書かれています。

 全回も触れましたように、この手紙が書かれたのは紀元一世紀の終わり頃でありまして、キリストの再臨が語られ初めて既に六十年以上経っている頃です。六十年何も起こらなかったにもかかわらず「御子が現れるとき」についてなお語り続けているのです。そのように、教会はこの二千年間、常にキリストの再臨について語り続けてきたのです。今がその時であるという意識をもって語り続けてきたのです。ヤコブは主が戸口に立っているというイメージで語っていました。「あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。兄弟たち、裁きを受けないようにするためには、互いに不平を言わぬことです。裁く方が戸口に立っておられます」(ヤコブ5:9)。このイメージを私たちも持ち続けることが大事なのでしょう。

 そこで重要なことは、御子の内に留まるということなのです。「さて、子たちよ、御子の内にいつもとどまりなさい」(28節)。その直前にも「だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい」と語られていました。「教えられたとおり」と語られていたのは、先週見たとおり、彼らが異端の教えによって揺さぶられていたからです。当時のギリシャの哲学的な思想に基づくグノーシスの異端の新しい教えによって揺さぶられていた。しかし、ひるんではならないのです。伝えられている福音について自信を失ってはならないのです。彼らは教えられたとおり御子の内にとどまらなくてはならなかったのです。すなわち、御子が肉体を取って来られたこと、そしてその肉体をもって十字架にかかり罪を贖ってくださったこと、その福音の真理にとどまらなくてはならなかったのです。

 それは今日の私たちにおいても同じです。御子の内にとどまらなくてはなりません。ただ「わたしは神さまを信じています」というキリスト者であってはなりません。そのようなことはグノーシスの異端の人たちだって信じていたのです。それどころか彼らの方が真の神認識を持っていると主張していたのです。私たちはあくまでも御子にこだわらなくてはならないのです。イエス・キリストにおける贖罪の信仰にとどまらなくてはならない。そのようにしてまた、御子との交わりの中にとどまらなくてはならないのです。そのことによってのみ、はじめて「御子が来られるとき、御前で恥じ入るようなことがありません」と言えるからです。

 神は侮られる御方ではありません。グノーシスの異端の人々のように、罪の問題を横に置いたまま、いくら神を知っていると言っても、いくら神秘的な体験を主張したとしても、すべてが明らかになる時が来るでしょう。キリストが来られる時、そこにおいて正しい裁きが行われるのです。どのような仕方において罪が罪でないと主張されようとも、罪の行いが正当化されようとも、すべてが明らかになる時が来るのです。その時にキリストの内にない人は災いです。いったいどのように自らを弁明するのでしょう。ただ恐れとおののきをもって正しい裁きを受けるしかないでしょう。それがここでいう「恥じ入る」ということです。

 もちろん、ヨハネは教会の人々がそうならないことを願って語っているのです。御子の内にとどまっている限り、その人にとって、「終わりの時」「御子が来られるとき」は恐るべき裁きのときではありません。救いの時です。

 ですから、ヨハネは彼らにこう語るのです。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(3:1)。ここで「どれほどわたしたちを愛してくださるか」とありますが、それはもちろん未来の話ではありません。御子が現れるときのことではありません。御父は既に愛していてくださっているのです。そのニュアンスは、むしろ以前の口語訳の方が伝わるかもしれません。「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい」。

 私たちは神の子と呼ばれているのです。いや呼ばれているだけでなく、事実、神の子とされているのです。それはどう考えても当たり前のことではありません。これは神の愛によるのです。私たちの考えも及ばないほどの特別な神の愛によるのです。

 その愛は具体的な形を取りました。それがキリストです。御父が御子をお遣わしくださったということです。それは後に、4章9節以下においてはっきりと書かれています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:9-10)。

 この御子の内にあるからこそ、私たちは神の子と呼ばれ得るし、事実、神の子であり得るのです。パウロもまた次のように語っているとおりです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです」(ガラテヤ3:26‐27)。この神の愛そのものであるキリストの内にとどまることなくして、どうして神の子であり得ましょう。私たちはこの神の愛の大いなることを改めて考えなくてはなりません。

 そのように、私たちはキリストにあって神の子とされています。しかし、現に私たちの目に映っている私たち自身はまことに神の子らしくない。そうでしょう。しかし、既に救いにあずかって、事実、神の子とされているならば、その事実はかならず現れることになるのです。今の私たちが最終形態であるということはあり得ない。ではいったい私たちは最終的にどうなるのでしょう。――ヨハネは「わからない」と言います。「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません」(2節)。

 実際そうだと思うのです。最終的に私たちが完全に救われた状態、本当に神の子供として完全に父の愛に包まれている状態がどのようであるか、私たちの想像も及びません。だからこそ、ワクワクドキドキしながら待つのでしょう。

 しかし、一つだけははっきり分かることがあります。次のように書かれています。「しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」そうです。私たちは御子にお会いするのです。信仰によって、昔の鏡に映った姿のようにおぼろに見ているのではなくて、はっきりと見るようになり、はっきりと知るようになるのです。そして、その御子のようになる。私たちは既に神の子なのですから。そこに私たちの希望があります。

 その希望に生きる神の子であるならば、当然、このように言うことができるでしょう。「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」(3節)。既に神の子とされているならば、そして御子にお会いする時、御子の姿に変えられるその時に向かっているならば、そこに向かう生き方があるのです。それは御子を否定した異端からは決して出てこないものなのです。最初に語られていた「御子の内にいつもとどまる」ということは、決して観念的なことではありません。キリストの再臨に向かう具体的な生活の仕方を含むのです。

2023年1月11日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 2:18~27

ヨハネの手紙一 2:18‐27

 「子供たちよ、終わりの時が来ています」(18節)とヨハネは言います。今の世の終わりは、来るべき世の始まりです。サタンが支配するこの世界の終わりは、神が支配する新しい世界の始まりです。それは神の国の到来であり、待ち望んでいた救いの完成の時です。そのような「終わりの時が来ている」とヨハネは言うのです。

 この手紙が書かれたのは紀元一世紀の終わり頃と考えられます。キリストの復活、昇天から既に六十年以上の時が経っていました。言い換えるなら、教会はその六十年以上も前から「終わりの時が来ている」と言い続けていたのです。六十年以上前の人が「もうすぐキリストが再臨なさる、もう終わりの時が来ている」と言っていて、実際には来なかったにもかかわらず、ヨハネは「終わりの時が来ている」と言っているのです。ペトロも言っていましたでしょう。「万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい」(1ペトロ4:7)と。教会は常に「終わりの時が来ている」と言い続けてきたのです。そして、これを読んでいる今の私たちもそう信じるようにと言われているのです。

 そこに何の意味があるのでしょう。少なくとも大事な二つの意味があります。一つは、今目にしている悪しき世界は永遠ではない、という信仰です。そして、もう一つは常に今この時が終わりの時、救いの時であり得るという信仰です。悪の支配は永遠ではないのです。私たちのいかなる苦しみも永遠ではないのです。常に今、この瞬間が救いの時であるかも知れないのです。少なくともその希望をもって生きてよいのです。

 さらに次のように書かれています。「反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります」。反キリストが減ってきたから救いが近いと分かる、と言っているのではないのです。多くの反キリストが現れている。むしろ事態は悪化している。《だから》終わりの時、救いの時だと言っているのです。私たちの目から見ると救いから遠ざかっているように見える時、事態がどんどん悪くなっているように見える時、神が何もしないで手をこまねいているように見える時、「《だからこそ》救いは近い」と言える。その信仰を持つことが大事なのです。

 さて、その反キリストですが、具体的にはこれまでお話ししてきました異端を指していることは明らかです。反キリストと呼ばれているのが、キリスト者に対してあからさまに敵意を示し迫害してくる人々ではなく、異端の教えを説く人々であることもまた、私たちにとって重要なことです。本当の敵は敵の顔をして近づいては来ないのです。信仰者にとって本当の危険は、いかにも危険に見えるものによってもたらされるのではないのです。

 実際、異端であるグノーシス主義者たちは多くのキリスト者の目に、当初は極めて魅力的に見えたに違いないのです。当時のギリシアの哲学的な思想に造詣が深く、自ら神秘的な体験も持っていて、特別な神知識を得ていると主張する人々。この目に見える世界や自分の肉体からも解放されて霊的な人間となったと主張する人々。そのような彼らが御子の受肉や十字架における罪の贖いを否定して、哲学的な思想に基づく新しい教えを説いていたとしたらどうでしょう。伝えられてきた通りに受肉や贖罪を信じている自分たちの方が無知で時代遅れであるかのように思えてきたとしても不思議ではありません。

 そして、そのような一見魅力的な教師たちが追従者を引き連れて出て行ってしまったのです。19節に書いてあるとおりです。恐らく古くさいところから出て行って、新しい教会を作るのだと言う主張がそこにはあったことでしょう。残された人たちの中には動揺が走ったに違いありません。自分たちは無知のまま取り残されてしまったのではないか。自分たちは教養ある洗練された世界から取り残されて行っているのではないか。また本当の神体験の世界からも取り残されているのではないか、と。そうしますと、一生懸命に《教会外から》何かを取り込まなくてはならないかのように思ってしまうかもしれません。

 しかし、そのような人々に対して、ある意味で自信を無くしているような人たちに、ヨハネはこう言うのです。「あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています」と。油を注がれているとは聖霊を与えられているということです。馬小屋で生まれ、十字架にかけられて死んだナザレのイエスをメシア・キリストであると信じる信仰は、この世からは絶対に出てこないのです。それこそ聖霊のお働きによって信じさせていただいたのです。これは聖霊によって与えられた真理なのです。そして、この罪の贖いのゆえに、私たちは御父と結ばれたのです。「御子を公に言い表す者は、御父にも結ばれています」(23節)と書かれているとおりです。

 ですからヨハネは言います。「初めから聞いていたことを、心にとどめなさい」(24節)。「初めから聞いていたこと」とは、伝えられた福音のことです。過去の教会から手渡された福音です。それをしっかりと自分の内に留めるのです。本当の意味で自分のものにするのです。特にこの手紙が重要なこととして語っている受肉と贖罪の信仰を自分の内に留めなくてはなりません。そのことなくして罪の赦しはないし、当然のことながら御子との交わりもないし御父との交わりもないからです。「初めから聞いていたことが、あなたがたの内にいつもあるならば、あなたがも御子の内に、また御父の内にいつもいるでしょう。これこそ、御子がわたしたちに約束された約束、永遠の命です」(24‐25節)。

 要するに、彼らにとって大きな課題は、伝えられている福音についてもっともっと自信を持つことだったのです。与えられている信仰について、その大いなる価値を認識することだったのです。この手紙はそのために書かれたと言っても良いでしょう。5章にも「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(5:13)と書かれているとおりです。

 現代のクリスチャンについても言えると思うのですが、往々にして私たちの問題は、この世のことについて疎いことではなくて、与えられている福音の価値について疎いことなのです。ヨハネは今日の箇所で言っていますでしょう。「以上、あなたがたを惑わせようとしている者たちについて書いてきました。しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい」(26‐27節)。

 「だれからも教えを受ける必要がない」というのは、この世から教えられる必要はない、ということです。哲学者から教えを受ける必要はない。グノーシス主義の思想家から教えを受ける必要はない。もちろんこれはこの世の学問を否定しているわけではありません。この世に生きる人間である限り、この世の教えは常に相応の価値を持つのでしょう。しかし、こと救いに関する限り、永遠の命に関する限り、既に私たちは聖霊により真理を与えられているのです。時代の思想に対して、全く気後れする必要はないのです。「教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい」(27節)。

(祈り)
 

2022年12月21日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 2:12~17

ヨハネの手紙一 2:12‐17

 先週お読みした箇所には、「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません」(10節)と書かれていました。そして、その真逆についても、「しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(10‐11節)と書かれていました。

 既にキリストによって神の愛が完全に現され、真昼の太陽のように輝き渡っているにもかかわらず、自ら目をつぶってしまうならば、暗闇の中を歩くことになります。「兄弟を憎む」とはそういうことであって、そのように闇の中を歩くならば、必ずつまずくことになるのです。いや、つまずくだけでなく、自分がどこへ行くかを知らずに進むことになる。それはつまずくことよりも怖いことです。暗闇の中を歩いてはならないのです。

 しかし、ヨハネがこのように語るのは、教会の人たちを断罪するためではないことは言うまでもありません。彼は、既に恵みの中にある神の家族として語りかけているのです。既に神の恵みにあずかっているからこそ、このことを聞かなくてはならないのです。

 それゆえに、ヨハネは「子たちよ」「父たちよ」「若者たちよ」と語りかけ、彼らが既にどのようなものとされているかを語り直します。これらの呼びかけは、教会の中のそれぞれの世代として考えることもできるでしょう。しかし、ここに書かれていることは、全てのキリスト者について共通に語られ得ることでもあります。その意味では全てのキリスト者が「子たち」、「父たち」、「若者たち」であるとも言えるのです。

 まず、私たちは「子たち」であり「子供たち」です。12節と14節で訳語が違うのは元の言葉が違うからです。それらの言葉に大きな差はありません。しかし、「子たち」であり「子供たち」であるというのは、二つの面を持っています。一つは「親」に対する「子」ということです。もう一つは「大人」に対して「子供」であるということです。

 私たちは、まず親に対して子であるという面を持っています。私たちは父なる神の子としていただいたのです。共に神を「アッバ、父よ」と呼ぶ者としていただいて、父なる神との交わりに入れられたのです。また、もう一方においては、まだ成長しなくてはならない者という意味でも子どもです。子どもが成長するためには教育や訓練が必要なように、信仰の成熟のための教育と訓練を必要としているのです。

 そのような「子たち」であり「子供たち」である者として自覚しなくてはならないことがあります。それはまず「イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されている」(12節)ということです。罪は複数です。諸々の罪ということです。その罪の赦しはただ一重に「イエスの名」によるものです。なぜなら、イエス・キリストこそ唯一、罪の贖いを成し遂げることのできる御方であり、また事実、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださった御方だからです。

 そのイエス・キリストによる罪の赦しがあったからこそ、父の子として御父を知る者となることができたのです。「あなたがたが御父を知っているからである」と語られているとおりです。そのようにキリストによって罪を赦されて、その上で「子供たち」とされているのだ、という自覚が大事なのです。

 次に「父たち」と呼びかけられています。「父たち」で直接的に呼びかけられているのは、群れに気を配り成長を助ける長老たちを指していると言えます。しかし、ある意味で私たちは皆、この「父」としての側面を持っているのです。さらなる教育と訓練を必要とし、さらに成熟していかなくてはならない「子ども」であるだけでなく、他の子どもたちのケアをし、成熟を助ける「父」としての側面を持っているのです。というのも、教会には新しい信仰の子どもたちが絶えず生まれ続けるからです。何年信仰生活をしていても自分の信仰のことだけで精一杯、というようなことで良いはずがありません。

 「父たち」に対しては繰り返し、「あなたがたが、初めから存在なさる方を知っているからである」と言われています。「初めから存在なさる方」というのは、この手紙の冒頭に書かれているように、御子なるイエス・キリストのことです。その御方を「知っている」。「知る」というのは、御父についても言われていますが、これは単なる知的認識ではありません。交わりです。私たちが、他の子どもたちに対して「父」としての側面において生きるために、どうしても重要なことはキリストを知っている、キリストとの交わりにあるということなのです。ともすると間違えやすいのですが、私たちの能力や私たちの人生経験によって、他の子どもたちのケアをし成熟を助けるのではないのです。

 第三「若者たち」と呼びかけられています。これはキリスト者における「戦う者」「戦士」としての側面です。私たちはただ単に、この人生を平安に生きることができるようにと信仰へ導かれたのではありません。そうではなくて、戦うために召されたのです。この世を支配している悪魔の力と、人間を捕らえて離さない罪の力と戦うために召されたのです。人間を闇の力から救い出し、御子の支配下に取り戻すための戦いです。かつて誰かが戦士として戦ってくださったからこそ、今の私たちがあるのです。今度は私たちが主の戦列に加わる番です。その点においては、実際に年齢的に若者であるか否かは関係ありません。

 そこで重要なのは若者たちに繰り返し語られていることです。「あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである」。私たちの目にはまだ戦いが進行中に見えます。いやそれどころか形勢不利にさえ見えることもあるのです。しかし、ヨハネは言います。「既に勝っている!」と。それは既にイエス様が十字架と復活において、決定的な勝利を取ってしまわれたからです。それゆえに私たちの戦いは、キリストによって私たちが既に悪魔に打ち勝っているその勝利の現実が目に見える形で現れるための戦いのです。

 それは私たち自身の強さによるのではなく、ただ福音の力によってのみ実現するのであって、それゆえに二回目に「若者たち」に語られる時には、「若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである」と書かれているのです。あくまでも福音が内において生きていること、神の言葉が内に留まっていることが重要なのです。

 さらに15節では「世も世にあるものも、愛してはいけません」と勧められています。既に述べられたように、私たちは「子ども」であり「父」である「若者」です。そのような者としてこの世に生きるように召されているのです。御子が肉体をとってこの世を生きられたように、私たちもこの世に生きるのです。グノーシスの異端の人々のように、肉体から解放された霊の人にとってもはや肉体が何を為すかは問題ではないのだ、などとは言いません。あくまでもこの世にあって、この体をもって責任的に関わって生きるのです。

 それゆえにまた、この世においてどう生きるかが重要になってくるのです。この世とどのように関わるかということです。世にあるものが神から私たちを引き離すことを許してはならないのです。

 実際、ヨハネが「世」と言う時に、それは多くの場合悪魔が支配しているこの世を意味するのであって、ここで語られているのもそういうことです。悪魔が支配しているこの世は、確かに人間を神から引き離すものとして働くのです。神から出たのではない、すなわち悪魔から出た「肉の欲、目の欲、生活のおごり」が神から人間を引き離すものとして働くのです。それはキリスト者にとっても、そのように働くのです。ですから、「世も世にあるものも、愛してはなりません」と語られているのです。

 しかし、それは世と一切かかわりを持たない「世捨て人」になることを意味しません。繰り返しますが、キリスト者はこの世に責任的に関わって生きるのです。そこで思い起こすべきは最後の晩餐におけるキリストの祈りでしょう。主はこう祈られました。「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました」(ヨハネ17:15‐18)。世を愛さないとは、世を捨てることではなく、世に遣わされた者として常に神の御心を尋ね求め、「神の御心を行う人」(17節)となっていくことなのです。

(祈り

2022年12月14日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 2:7~11

ヨハネの手紙一 2:7‐11

 前回お読みしたところにこう書かれていました。「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(2:3‐4)。

 ここに語られている「神を知っている」と言っている人というのは、先週触れました、後にグノーシスと呼ばれる異端の人々のことです。彼らは神を知り、肉体の牢獄から解放されるための特別な知識(グノーシス)を得ていると主張していたのです。彼らは自らを「霊の人」と呼びました。しかし、「霊の人」として、肉体から解放されているという思想のゆえに、肉体が行うことについて責任を持たないことが正当化されていたのです。不道徳に身を任せ、目に見える兄弟をも愛することなく、この世における倫理的な責任をも放棄してしまっている。そのような人々について、実際に神の掟を守っていないなら、どうして「神を知っている」と言えようか、とヨハネは言っているのです。まさにそのような生活が異端の内に真理がないことを暴露しているのだ、と。

 異端の人々についてこのように語っているのは、教会の中にいまだにその教えに惹かれている人たちが少なからずいたからです。それゆえに、ヨハネは彼らに「神の掟」が何であるかを改めて思い起こさせます。ここで語られているのは、キリストが最後の晩餐の時に語られた、「新しい掟」のことです。すなわち「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と主が言われたことです。

 教会の人たちは、その言葉を既に良く知っているはずです。ですから、ヨハネは「これは初めて語られることではありません」という意味で、次のように語ります。「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です」(7節)。

 しかし、ヨハネはこの既に教会の人たちが聞いたことのある言葉を、改めて新しく語り直さなくてはならないと感じています。「しかし、わたしは新しい掟として書いています」(8節)と言うのです。もちろん「新しい掟」という表現を最初に使ったのはイエス様御自身です。しかし、ヨハネは、あの時なぜイエス様があえて「新しい掟」と言われたのか、そのことを思い起こさせようとしているのです。それが「新しい掟」であるのは、イエス様にとっても真実であり、それはまた教会の人たちにとっても真実であるはずだからです。

 その新しさとは何だったのでしょう。ヨハネは言います。「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」(8節)。「闇はもう去ってしまった」と言える、決定的な出来事が既に起こったのです。それは言うまでもなく、イエス・キリストの十字架と復活を指しています。

 後に、その決定的な出来事についてヨハネはこう書いています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:9‐10)。

 「闇が去って、既にまことの光が輝いている」とは何を意味するのか、もう明らかでしょう。1章5節には「神は光である」と書かれていました。その光とは、さらに言うならば神の愛の光なのです。イエス・キリストを通して現してくださった、神の愛の光なのです。その光は既に現され、ちょうど太陽が昇った後のように私たちを照らしているのです。

 そのように神がまず私たちを愛してくださったという決定的な出来事の光の中で、「あなたがたは互いに愛し合いなさい」と言われているのです。ただ「愛せよ」と命じられているのではないのです。そこにこそ新しさがあるのです。イエス様が「新しい掟」と言われ、ヨハネが改めて「新しい掟として書いています」というのは、そういうことです。

 そのように、神の愛が完全に現され、「闇が去って、既にまことの光が輝いている」という中にあるにもかかわらず、そこでなお神の光を退け、「互いに愛し合いなさい」という新しい掟を退けるということは、何を意味するのでしょう。それはちょうど、太陽が既に昇っているにもかかわらず、部屋の窓を閉め、カーテンを引いて、部屋を真っ暗闇にしているようなものではありませんか。

 あるいはもっと適切な例を挙げるなら、既に明るい中を歩いているはずなのに、あえて自ら目をつぶって、その本人としては真っ暗闇の中を歩いているようなものです。ですからヨハネはこう言うのです。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(9節)。

 誰でもそうだと思うのですが、神秘的な体験や神のリアリティに触れるような体験をした人は自分が「光の中にいる」ような思いになるのです。「他の人に見えないことが、わたしには見えている」と思うのです。現に異端の人たちは「光の中にいる」と主張していたのです。しかし、それが目に見える兄弟を愛することにつながらないで、相変わらず憎んだり争ったりしているならば、実際には、既にまことの光が輝いているにもかかわらず自分を暗闇の中に閉じこめてしまっているようなものなのだ、と聖書は語っているのです。

 さて、そのように暗闇の中に自分を閉じこめてしまうならば、何が起こるでしょうか。実際に、目をつぶったまま歩いたり走ったりしたら何が起こるかを考えてみてください。必ず何かにつまずくことになるでしょう。ですからヨハネはこう言うのです。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(10‐11節)。

 「つまずく」というのは、もちろん信仰がつまずくことです。信仰がつまずいて神からも離れてしまうことです。光の中にいるならばつまずかないのです。しかし、愛することを止めて、憎しみが支配するならば、つまずくようになります。実際にそうではありませんか。信仰がつまずくときは、たいてい他の人との関係においてつまずくのです。そのような時、「誰かのせいでわたしはつまずいた」と思うのです。しかし、聖書によればそうではなくて、愛することを止めて、暗闇の中に身を置いたからつまずくのです。

 いやつまずくだけだったら、まだ良いのです。そこにはもっと恐ろしいことが書かれています。「兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません」(11節)。目をつぶったまま、歩き続けていたり、走り続けている姿を考えて見てください。すぐにつまずいて倒れたなら、まだ良いのでしょう。そうではなくて、そのまま走って行ってしまうなら、それこそ恐ろしいことになります。その先には崖があるかもしれません。そのように兄弟を憎むという暗闇の中にあって、どこへ行くかを知らないまま進んでいくならば、何が先に待っているか分からないのです。それは滅びへと向かうことになってしまうかもしれません。憎しみを抱いたまま先へと進んでいくということは、そういうことなのです。

 もとより理由なく誰かを憎むということはあり得ません。そこには必ず何らかの理由があるのでしょう。理由があって憎んでいる場合、自分は正しい側の人間になっているはずです。しかし、その正しさを主張したまま先へ先へと進んでいくことは、極めて危険なことなのです。暗闇の中にある人は、自分がどこへ行くかを知らないからです。闇の中にいることを知ったなら、立ち止まらなくてはなりません。暗闇の中を歩いたり走ったりしてはなりません。まず光の中に立ち戻ることが先決なのです。
(祈り)

2022年12月7日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 2:1~6

ヨハネの手紙一 2:1‐6

 先週からヨハネの手紙の学びに入りました。ヨハネは自分たちが見、また聞いたこと、すなわちイエス・キリストを伝えようとしています(1:3)。しかし、この手紙が宛てられている人々に関して言うならば、実はもう既にキリストを知っている人、キリストを信じている人なのです。5章13節を御覧ください。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです。」

 そのように、この手紙は、既に信者である者に、改めて福音を語り直している、そのような手紙であることが分かります。特に、冒頭から明らかなように、ヨハネはイエス・キリストが「目で見たり、手で触れた」りすることができたこと、すなわちキリストの受肉を強調しています。また、今日お読みしたところに、キリストが受肉したのは「全世界の罪を償ういけにえ」となるためであったことが書かれていまして、それは4章でも繰り返されています。

 そのような福音の基本的な事柄が語り直されているのは、教会の信仰が危機に瀕していたからです。既にペトロの手紙の学びにおいても見てきましたように、教会は外からの迫害だけでなく、内側から崩壊させる力を持つ異端の教えによる危機に直面していたのです。キリストの受肉や罪の贖いが語り直されているのは、現実には受肉や贖罪を否定する人たちがいたからなのです。

 後にその異端はグノーシスと呼ばれるようになり長い間教会を苦しめることになります。その教えの特徴を簡単に申し上げますと、その根底にあるのは霊肉二元論です。霊的なもの精神的なものは善であり実在し、物質的なものは悪であり本当は実在などしないとする考えです。ですからキリストが物質的な肉体をとられたとは信じません。肉体を持って死んだのも「そのように見えただけ」とするのです。ですから罪の贖いをも信じない。キリストは十字架にかかるために来られた御方なのではなくて、目に見えない霊の領域から目に見える肉の領域に降って来た神であり、人間の魂を牢獄である肉体から解放して霊の領域に帰らせるために来られ、自分自身もまた霊の領域に帰っていく神なのです。

 彼らはこの解放者であり啓示者であるキリストによって救いの知識(グノーシス)を得て、肉体の牢獄から解放され、神との神秘的な合一を得た霊的な人になっていると考えました。そのような人にとっては物質的な肉体が何を行うかということは本質的に重要なことではなかったのです。ですから、いくらでも不道徳に甘んじることができたし、当然、この世における倫理的な責任を果たす必要もなかったのです。

 そのようなグノーシスの異端というものは、形を様々に変えながら、今日に至るまである意味では続いていると言えます。キリストの受肉も十字架をも必要としない信仰。ただひたすら神秘的な体験とそれによる特別な知識を求める信仰。そして、それを得たら何か特別な人間にでもなったかのように考える。その一方において、目に見える世界を意味無しとするゆえに、自らの罪の問題とは向き合わず、悔い改めを重要なこととも考えない。この世における責任ということも考えない。現実の体をもって他の人々と共に生きるということも重要に考えない。そのような信仰のあり方が、いくらでも教会に入ってくることはあり得るのです。だからこそ、改めて福音が語り直されなくてはならなかったのです。

 そこでヨハネは言います。「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」と。この手紙において、「罪を犯す」という言葉は、狭い意味においては、既に述べてきた異端に転じないということを指しています。しかし、それはまた広い意味においても「罪を犯さないようになるため」ということでもあります。先にも触れましたように、グノーシスの異端は罪の問題と向き合う感覚を麻痺させてしまうからです。それは、神と交わりを持っていると言いながら、罪に目を向けないで済む暗闇の中を歩いているようなものなのです。ですからヨハネは光の中を歩くようにと語るのです。光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められることを語るのです。それは「罪を犯さないようになるため」なのです。

 そこでさらにヨハネはさらに次のように語ります。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(1‐2節)。

 「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者…がおられます」は、それだけ取り出して読めば、罪の容認に見えなくもありません。確かにイエス・キリストが罪を償ういけにえであるという教え、ただイエス・キリストを信じる信仰によって義とされるという教えは、罪を許容する教えであるかのように誤解される危険はありますし、また実際に誤解されてきたことも事実です。しかし、それでもなおこれは本来、私たちが「罪を犯さないようになるため」に与えられているものなのです。

 御父のもとには弁護者がおられることを知らないゆえに、また、全世界の罪を償ういけにえが既に屠られたことを知らないがゆえに、人は光なる神を遠ざけて暗闇の中に逃げ込むのです。現実と向き合わなくなるのです。罪が現実にあるのに、その罪の問題と向き合わなくなるのです。
 そのように光の中を歩み、感謝をもって神の御心を行うようになることこそ、神を知るということなのです。ただ神秘的な神との合一を求め、そのような体験によって神の知識を得たと思っても、それは本当の意味で神を知っていることにはならない。それゆえにヨハネは言います。「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。 『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(3‐4節)。

 「掟」という言葉は、一般的に肯定的な印象を与えない言葉でしょう。しかし、これを読んでいた教会は、それが何を意味するか分かっていたのです。その掟とは――「愛すること」です。互いに愛し合って生きることなのです。次の章にはこう書かれています。「その掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(3:23)。さらにこうも言われています。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。

 この掟はイエス・キリストに由来します。最後の晩餐の席において、イエス様は弟子たちに言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。そのように、神の掟を守ることの中心にあるのは互いに愛し合いなさいというキリストの掟です。

 神を知るということと愛するということは不可分の関係にあります。それは御子として御父との交わりの中に生きられたイエス様御自身が示してくださったことです。イエス様は父なる神の内にあり、父との交わりの中に留まるということがどういうことかを見せてくださいました。それゆえに、ヨハネはこのように記しているのです。「神の内にいつもいる(留まる)と言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まねばなりません」(6節)。イエス様は自ら肉となられてこの地上の世界を歩まれ、具体的に目に見える世界と目に見える現実の人間を愛して生きられたのです。

(祈り)


2022年11月30日水曜日

祈祷会用:ヨハネの手紙一 1:1~10

ヨハネの手紙一 1:1‐10

 ヨハネはここでひとりのお方のことを伝えようとしています。父なる神と共におられた「命の言」、永遠の命そのものであられるお方は、この世界に来られ、この歴史の中に現れ、私たちが見ることができ、手で触れることができる存在となられました。人となられた御子なる神、イエス・キリストのことです。

 「わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです」(1:3)とヨハネは続けます。イエス・キリストを伝えるのは「交わりを持つようになるため」です。伝道とは交わりへの招きです。

 その交わりとは「御父と御子イエス・キリストとの交わり」であるとヨハネは言います。ヨハネたちは既に御父と御子イエス・キリストとの交わりに入れられています。そのような彼らが、イエス・キリストを宣べ伝えて、さらに他の者を交わりへと招きます。教会が二千年間続けてきたことは、まさにこのことです。そして、私たちにも伝えられ、私たちもその交わりへと招かれたのです。信仰生活とは、この交わりに生きることに他なりません。

 ヨハネがこれを書くのは、すなわちキリストを伝え、交わりへと招くのは、「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるため」であると言っています。「わたしたち」というのは、別の写本では「あなたたち」となっています。「あなたがた」を含めた「わたしたち」と言っても良いでしょう。そのように、交わりへの招きは満ちあふれる喜びを共有するためです。

 このように私たちの信仰生活において、「交わり」は本質的な意味を持っています。「個人的に神を心の中で信じていればよいではないか」という考えはキリストの福音とは無縁です。私たちは、既に存在する交わり、すなわち御父と御子と世々のキリスト者との交わりへと加えられることにおいて、神と共に生きるのです。御父と御子との交わりを基とした信仰における兄弟姉妹との交わりに生き、さらに隣人をその交わりへと招くところにおいてこそ、私たちは満ちあふれる喜びを経験するのです。

 そこでさらにこの交わりについて考えてみましょう。「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」。すなわちそれは「神との交わり」でありますから、そこでは当然のことながら、《神はどのようなお方であるか》ということが大きな意味を持つことになります。そこでヨハネはこう言っています。「わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです」(5節)。

 「わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです」――この言葉によって思い描くべき一つの姿は、私たちが明るい光の中を共に歩いている姿です。この正反対の状態も思い描いてみましょう。私たちが真っ暗闇の中を歩いている姿です。「光の中」と「闇の中」、その決定的な違いは、一方で見えるものが他方では見えない、ということです。

 私たちは通常は、物が見えることは望ましいことだ、と考えて生活しているものです。ですから昼間はカーテンをあけて太陽の光を部屋に取り込み、夜は人工的な光をもって部屋を照らします。停電などで真っ暗になってしまうと、本当に困ったことになります。

 しかし、私たちは常に何でも見えることが良いと考えているわけではありません。見えないほうが良いと思っているものもあるのです。その代表は何でしょう。それは「罪」です。私たちの罪深い行い、私たちの罪深い姿が見えてしまうことは、私たちにとって都合の悪いことです。ですから、罪について言うならば、それは他の人に見えないことが望ましい。自分にも見えないことが望ましい。そのために、あえて光を遠ざけて闇の中に身を置く、ということが私たちの人生には起こってまいります。

 「神は光である」とヨハネは言いました。しかし、その光を遠ざけて、闇の中に身を置くならば、見えるべきものが見えません。罪が罪として認識されません。言い換えるならば、闇の中にいる限り、人間は自分の罪深い行いを、いくらでも正当化できるということです。8節にありますように、「自分には罪がない」と言うことができるのです。

 この手紙が書かれた当時、「自分には罪がない」という主張のために援用されていたのはギリシア的な霊肉二元論に関する哲学的思弁や様々な神話でした。そのように、人間はいかなる論理を用いてでも「自分に罪がない」と言い張るものなのです。

 今日の私たちは、当時の人々と異なる論理を用いて、自分を正当化しているかもしれません。いずれにせよ、それは闇の中において可能なことです。ですから、私たちは本当は、「自分には罪がない」という主張が神の明るい光に耐え得ないことを知っているのです。実際、私たちが普段言い張っていることを神の御前で本当に主張することができるか、と問われるならば、口を閉ざさざるを得ないでしょう。

 そして、もう一つ明らかなことがあります。それは闇の中でどんなに「自分には罪がない」と言い続けても、そこに本当の喜びなどない、ということです。思い描いてみてください。真っ暗闇の中を歩いている自分を、そして真っ暗闇の中を歩いている隣人を、闇の中における人間社会の営みを。それは確かに「わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです」というヨハネの言葉とは対極にある姿ではありませんか。「わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行ってはいません」(6節)とヨハネは言います。まことに彼の言うとおりです。

 それゆえ、私たちは闇の中を「歩いて」はならないのです。すなわち、闇の中で生活し、その生活を継続してはならないのです。たとえ闇の中に自らを置いてしまうことがあったとしても、その闇の中に留まり続けてはならないということです。そこで必要なのは悔い改めです。私たちは神のもとに立ち帰り、光の中に立ち帰らなくてはならないのです。

 光の中を歩むなら、罪が罪として見えてくるでしょう。自分の為してきた悪がはっきりと見えてくるでしょう。もはや「自分には罪がない」とは言えません。そこには心の痛みが伴います。しかし、それでもなお、光の中に身を置くべきなのです。なぜなら、私たちには約束が与えられているからです。「しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」(7節)。私たちが光の中にいるかぎり、御子イエスの血が私たちの罪を清め続けるのです。

 そして、そのような光の中においてこそ、闇の中にはなかった互いの真実な交わりも成り立つのです。それは具体的に次のように言い換えられています。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(9節)。

 光の中を歩むために与えられている公の場所、それは私たちが共に集まり神を礼拝する場所です。光の中を歩くということは、単なる精神的な事柄を言っているのではありません。それは共に神を礼拝して生活するという具体的な形を持っているのです。そして、そのような具体的な公の場に、私たちは罪を告白する者として共に立つのです。

 私たちは毎週詩編51編を交読します。「神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。」この言葉を、私たちは公に口にします。これを単なる形式的なお題目にしてはなりません。もし私たちが真実に神の前でこの言葉を告白するならば、それは私たちが悔い改めて、いかなる罪を正当化することをも放棄することを意味するのです。

 そして、私たちが自分の罪を神の御前で認める時、そこに全く逆説的なことが起こるのです。「神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」。

 真実で正しい方であるならば、その後に来る言葉は「赦し」ではなくて「裁き」であるはずでしょう。しかし、赦してくださると言うのです。なぜでしょうか。2章2節に書かれていますように、イエス・キリストがわたしたちの罪、全世界の罪を償ういけにえとなってくださったからです。だから、真実で正しい方が赦してくださるのです。罪を償ういけにえとなられた御子イエスの血が私たちの罪を清めるのです。

 私たちの互いの交わりは、そのような礼拝から始まります。そこから光の中における交わりが始まるのです。神の恵みを共有する、「御父と御子イエス・キリストとの交わり」が始まるのです。そして、私たちはイエス・キリストを宣べ伝え、その交わりへとさらに隣人を招きます。真の喜びが満ちあふれるようになるために!

(祈り)
 

2021年2月28日日曜日

「神の子か悪魔の子か、本当のわたしはどちらですか」

ヨハネの手紙一 3:1‐10

事実、神の子です
 「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい」(1節)。そのように語られていました。この直前には「御子の現れるとき」「御子が来られるとき」のことが語られています。今日読まれた2節にも「御子が現れるとき」という言葉が出てきます。そのようにヨハネはキリストの再臨を念頭に置いて語っています。しかし、「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか」というのは未来の話ではありません。御子が現れるときのことではありません。御父は既に愛していてくださっているのです。2年前に出された聖書協会共同訳という新しい翻訳では次のように訳されています。「私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい。事実、私たちは神の子どもなのです」。

 私たちはよく考えてみる必要があります。私たちはこうして当たり前のように集まって「天にまします我等の父よ」と祈ります。礼拝堂に集まれる時も、集まれない時にも、神の子どもたちとして、共に御前に出て礼拝をささげているのです。このために、どれほどの愛を私たちにお与えくださったか、考えてみなさい」とヨハネは言っているのです。

 「どれほどの愛を私たちにお与えくださったか」――神の愛は具体的な形を取りました。それはキリストです。御子をお遣わしくださったということです。それはこの後の4章10節にはっきりと書かれています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。御父がどれほどの愛を私たちにお与えくださったか、よく考えなくてはなりません。「それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」。

 「事実また、そのとおり」とは「事実、神の子だ」ということです。しかし、神の子であるという事実はまだ現れていません。私たちが本当に神の子の姿となるのは将来においてです。最終的な救いの時においてです。それは私たちの想像を超える出来事です。ですからヨハネも、「わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません」と言うのです。分からないということです。しかし、分かっていることもあります。「しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」。

 御子に似た者となるとは、どういうことでしょう。今日お読みしたところには、御子についてこう書かれています。「あなたがたも知っているように、御子は罪を除くために現れました。御子には罪がありません」(5節)。これが御子です。ですから、私たちがやがて御子に似た者になるということは、罪のない御子に似た者になるということです。私たちもまた罪のない者になるということです。ですから御子は自分が罪のない御方であるだけでなく、「罪を除くために」来てくださったのです。

 そこに私たちの希望があります。それゆえにこのように続くのです。「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」(3節)。自分を清め、清い者となったから神の子になれるのではないのです。神の愛によって既に神の子なのです。やがて罪のない御子に似た者とされるのです。だからこそ、不完全ながらも清さを求める信仰者の願いや営みも意味を持つのです。

罪を犯す者
 さて、このようにヨハネが語るのには、深い理由がありました。それは当時の教会に入り込んでいた異端の教えを奉じる人々の問題です。その異端は後に「グノーシス」と呼ばれるようになり長い間教会を苦しめることになりました。彼らはキリストが肉となって来られたこと――キリストの受肉――を否定する人たちでした。キリストが私たちと同じ体を持った人間となられたことを否定するのですから、当然のことながら、その体をもって成し遂げられた罪の贖いも信じません。というよりも、そもそも罪の贖いを必要としていなかったのです。

 彼らはこの目に見える体も、この物質世界も本質的に無価値で無意味であると考える人たちでした。ですから、その体が物質世界において何を行うかは本質的に何の意味もないのです。この体が悪を行おうが善を行おうが、それはどうでもよいことなのです。この世において、現実のこの体をもって、他の人とどのようなかかわりに生きるか、この世界とどのようなかかわりに生きるかということも問題にはなりません。ですから、自らの罪を悔いることもなければ、神に赦しを願い求めることもありません。魂の牢獄である体から自分の魂が解放されることこそが救いなのです。

 このような思想が罪の問題と向き合う感覚を麻痺させることは火を見るより明らかでしょう。その体をもって何を行っても、「自分には罪がない」と言い続けるわけですから。しかし、だからこそヨハネはこう続けるのです。「罪を犯す者は皆、法にも背くのです。罪とは、法に背くことです」。

 この「法」とは神の律法のことです。それはただユダヤ人に与えられた律法だけでなく、異邦人の心にも記されている神の要求です。それは究極においては「互いに愛し合いなさい」というキリストの律法をも意味すると考えてよいでしょう。彼らがどんなに「自分には罪がない」「わたしの体が何を行おうとも罪ではない」と主張しようが、現実に不法を行っているのです。神の法に背くことを行っているのです。「罪を犯す者」ということでヨハネが念頭に置いているのは、そのような人々のことです。どんなに「罪はない」と主張しようが、ヨハネは彼らを「罪を犯す者」と呼ぶのです。

神から生まれた人は皆、罪を犯しません

 それに対して、「義を行う者」についてヨハネは語ります。それは異端の教えに惑わされることなく、伝えられた信仰にとどまった人たちです。彼らは6節においては「御子の内にいつもいる人(御子の内にとどまる人)」と表現されています。また、9節においては「神から生まれた人」と表現されています。

 ところで、この箇所において「御子の内にいつもいる人」「義を行う者」「神から生まれた人」をすべて「クリスチャン」と言い換えてみたらどうなるでしょう。――「クリスチャンは罪を犯しません」(6節)。「クリスチャンは、御子と同じように、正しい人です」(7節)。「クリスチャンは皆、罪を犯しません。クリスチャンは、罪を犯すことができません」(9節)。どう思われますか。自信をもって全面的に同意できる人はどのくらいいるでしょうか。

 一方において、「それならわたしはクリスチャンとは言えない。偽物クリスチャンだ」と言って落ち込む人がいるかもしれません。もう一方において、ヨハネに反論しようとする人がいるかもしれません。「罪を犯さないクリスチャンなどいるものか。パウロも言っているではないか。『正しい者はいない、ひとりもいない』と。」実際、ヨハネ自身も1章で「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」(1:8-9)と語っています。一見すると、今日お読みした箇所と矛盾するように見えなくもありません。

 しかし、だからこそ今日最初に読んだ部分が重要になってくるのです。もう一度お読みします。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」。

 ヨハネはここで、「あなたたちは神の子ですか。悪魔の子ですか。自分自身を振り返って考えてみなさい」という意図でこれを書いているのではないのです。「事実、私たちは神の子どもなのです」と言っているのです。既に神の子なのです。まだその現実が完全に現れていないけれど、とにかく神の子なのです。

 そして、神の子であるということは、罪がないということなのです。御子は罪を取り除くために来られたのですから。悪魔の働きを滅ぼすために来られたのですから。神の子は罪を犯さないのです。神から生まれたのですから、罪を犯すことなどできないのです。では罪を犯してしまう時の私たちは何なのか。当然その問いが生じてくるでしょう。――罪を犯してしまう私たちは、本来の私たちではないということなのです。それは神の子の本来の姿がまだ現れていないということなのです。

 わたしはかつて、キリスト者としての自分は偽りの姿であるという思いにひどく苦しんだ時がありました。教会にいる時のわたし。他のキリスト者と共にいる時のわたし。礼拝している時、祈っている時のわたし。それは全部、いわば《いい子ぶりっこ》している偽物のわたしで、本当のわたしは悪くて狡くて罪を犯し、心の中で汚いことを考えているわたし。誰も知らないけれど、こちらが本当のわたしなんだ。わたしはキリスト者を演じているだけなんだ。――そのような思いを拭い去ることができなかったのです。

 しかし、聖書的に見るならば、それは間違いなのです。私たちは確かに神から生まれたのです。既に今、神の子なのです。だから祈るのです。だから礼拝するのです。だから罪に対して心を痛めるのです。神を喜び、神に喜ばれることを願っている方の自分。罪を悲しんでいる方の自分。それが本当の自分なのです。神の子は罪を犯さない。そちらが本当の自分なのです。どうしてそう言えると思いますか。そちらが最終的に残るからです。永遠に残るのはそちらの方だからです。やがて御子が現れる時、御子に似た者になるのでしょう。罪のない御子に似た者になるのでしょう。ならば、そちらが本当のわたしでありあなたなのです。

 実際、罪を犯す方が本来の自分であると考えるならば、絶望するか、罪を犯す自分を正当化するしかないでしょう。罪の問題と向き合わないために暗闇に身を置くしかないのです。そのために、異端の教えの方に流れていく誘惑は常にあったのです。そうです。罪がある方を本来とするならば、罪から目を背けるしかありません。暗闇の中に留まるしかありません。しかし、そこに本当の救いはないのです。

 皆さん、私たちは御子の内にあるならば、既に神の子です。どれほど大きな愛によって愛されて神の子とされたのか、もう一度思い起こしましょう。私たちは神の子です。そして、私たちはさらに言わなくてはなりません。「神から生まれた人は皆、罪を犯しません。神の種がこの人の内にいつもあるからです。この人は神から生まれたので、罪を犯すことができません。」それが本当のわたしたちです。やがてその事実が完全に現れる時が来るのです。だからこそ、私たちは光の中に身を置き、赦しを求め、悔い改めて新たに歩みだすことを大切にするのです。今はレント、恵みとして与えられている悔い改めの時です。
(祈り)

2020年9月13日日曜日

「神の御心に適う願い事」

ヨハネの手紙一 5:13-17

御心が行われますように

 イエス様は「天にまします我らの父よ」という呼びかけで始まる「主の祈り」を教えてくださいました。その中に「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りの言葉があります。「糧」というものは、生きていく上で必要なもの、生活していく上で必要なものの代表であると言えます。ですから、例えば宗教改革者マルティン・ルターなどは、この「糧」という言葉が及ぶ範囲は非常に広いということを書いています。「日用のかてとは何であるか」。彼はこう答えます。「食物、飲み物、着物、履き物、家、屋敷、田畑、家畜、金銭、財産、信仰ある夫婦、信仰ある子供、信仰ある下僕、信仰のある忠実な支配者、よい政府、よい気候、平和、健康、教育、名誉、親友、真実な隣人などのごとく、身体の栄養や必需品に属する一切を含んでいる」(「小教理問答」より)。そうしますと、要するに、必要なものは全て神に求めたらよいのだ、ということでしょう。

 往々にして私たちの問題は神に間違ったものを求めすぎることではなくて、むしろそもそも神に求め無さすぎることにあるのです。この世の与えるものにしか目が向かない。人間が与えるものにしか目が向かない。自分の力で獲得できるものにしか目が向かない。そして、自分で獲得して生きてきたかのように思いあがってしまう。しかし、本当は神様から全てをいただきながら生きてきた、いや生かされてきたのです。私たちはへりくだって、神に願い求めるべきなのです。

 しかし、そのことを心に留めた上でなお、私たちは「われらの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りの前に、このような祈りの言葉があることを忘れてはなりません。「御心の天になるごとく、地にもなさしめたまえ」。新共同訳ですと、「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6:10)。

 そのように、神に祈る私たちが、まず神の御心に関心を持つということは、極めて大事なことであると言えます。神様が何を望んでおられるのか。神様が何を願っておられるのか。そのことに全く無関心で、無頓着で、ただ自分の望んでいることが実現するかどうかにしか関心がないとするならば、それは神と人との関係としてはどう考えても健全ではありません。

 今日お読みした聖書箇所には、こう書かれていました。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です。わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」(14‐15節)。

 これを書いたヨハネにとっては、ただ祈りが聞き入れられるかどうか、かなえられるかどうかだけが重要なのではないのです。これは神の御心に関心を向けて生きてきた人の言葉です。明らかに神の御心が実現することを願ってきた人の言葉です。そうあってこそ、祈りについても確信が持てるのでしょう。彼は「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」とさえ言うことができる。たとえ実現することが将来であっても、もう既に聞き入れられているのだ、という安心の中で祈り続けることができるのです。


罪を犯している兄弟を見たら

 さて、そのような御心に適う願い求めの一例が16節に挙げられております。いや、一例というよりも、代表と言ってよいかもしれません。こう書かれております。「死に至らない罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」(16節)。

 ここに「死に至らない罪」という言葉が出て来ます。後には「死に至る罪」という言葉が出て来ます。そのことについては後で触れるとしまして、まずここで考えなくてはならないのは、とにかく「罪を犯している兄弟を見たら、その人のために神に願いなさい」と書かれていることです。

 実際、どうでしょう。私たちが御心に適った「祈り」とか「願い」ということを考える時に、真っ先にこのことを考えますでしょうか。これを書いているヨハネは、「御心に適った神への願い求め」ということを話し出すならば、真っ先にこのことが出て来る、そういう人だったということです。その後には、「死に至る罪があります。これについては、神に願うようにとは言いません」(16節)と書かれているので、人を切り捨てる冷たい人であるかのような印象を持つかもしれませんが、そうではないのです。ヨハネにとって、御心に適った祈りとは、まず罪を犯す誰かのために執り成し祈ることだったのです。

 「罪を犯している兄弟を見たら」というのは、実際に誰かが神に背くことを行っているのを目にした場合です。その時にどうするのか、という話です。私たちはどうするでしょう。そのような誰かの背きが、私たちに害を及ぼすこともあるでしょうし、あるいは他の誰かを苦しめている現実を目にすることもあるでしょう。そのような事実を目にするならどうしますか。その人を裁きますか。断罪しますか。自分に降りかかってくるならば、反射的にそうしてしまうかもしれません。

 しかし、そこでまず為すべきことは、神に代わって裁くことではなくて、神に願うことだ、というのです。その人が災いに遭うことを求めるのではなく、裁かれて滅びることを求めるのではなく、その人が悔い改めて赦しを得、命を得ることを願うことなのです。そうするならば、「神はその人に命をお与えになります」というのです。つまりそれは神の御心に適う願いだということです。神は人を滅ぼすことを願ってはおられない。人が永遠の命に生きるようになることを願っておられるのです。その神の願いを、私たちもまた共有することを神は願っておられるのでしょう。

 私たちが願い、神がそれを実現する。そのような形において、罪を犯した人が命を得ることを神は望んでおられる。なぜなら、それこそまさに主が愛してくださったように互いに愛し合うという交わりの実現に他ならないからです。互いに愛し合うということは、互いに赦し合い、互いに罪を執り成し合うとことと無関係ではないのです。私たちが互いに執り成しあうことにおいて、罪が死に至るものでなくなる。これが「死に至らない罪」です。


死に至る罪については

 しかし、もう一方で「死に至る罪があります」とヨハネは語ります。それは明らかに「もはや赦されることのない罪」ということであり、「滅びに至る罪」ということです。このように書かれていますと、私たちはどうしても「死に至る罪とは何だろう」と考えてしまうわけでしょう。実際、聖書の注解書を開きますと、この「死に至る罪」について様々な説明がなされているものです。

 しかし、よくよく考えてみるならば、「死に至る罪とは何だろう」と考えるということは、要するに「死に至らない罪」というのが標準で、「死に至る罪」というのは、何か特別な悪いことであるかのように考えていることではありませんか。しかし、そうなのでしょうか。「死に至らない罪」が標準なのでしょうか。実は聖書はそう言っていないのです。本来すべての罪は「死に至る罪」なのです。神が正しく裁かれるならば、すべての罪は滅びに値する罪であるはずなのです。パウロが「罪が支払う報酬は死です」(ローマ6:23)と語っているとおりです。

 それにもかかわらず私たちの罪が赦されて命を得られるのは、ひとえにイエス・キリストによる罪の贖いのゆえなのです。「死に至らない罪」があり得るのは、イエス・キリストの十字架のゆえなのです。私たちは罪の赦しを得られることを、当たり前のことのように思ってはならないのです。「悔い改めたのなら赦されて当たり前だろう」などと思ってはならないのです。キリストが苦しみを受けられたことによって、初めて私たちの罪の赦しがあり得るのです。ですから、先ほどのパウロの言葉はこう続くのです。「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」

 「主キリスト・イエスによる永遠の命」は「神の賜物」だと言われています。それは「プレゼント」なのです。そこでこんなことを考えてみてください。AさんがBさんにプレゼントをあげたとします。Bさんは確かにプレゼントを受け取りました。しかし、BさんがAさんの前でそのプレゼントを投げ捨てたとします。その時に、あなたはAさんに、「Bさんにプレゼントあげてください」とお願いしますか。それを当然のことのように願えますか。願えないでしょう。ここでヨハネが言っているのは、そのような話なのです。

 実際にこの手紙が書かれた時代に、イエス・キリストの福音を捨てて背教した人たちがいたのです。あるいはキリストの十字架を捨てて異端に行ってしまった人たちがいたのです。キリストの十字架を捨て、キリストの福音を投げ捨ててしまうなら、罪は罪としてそのまま裁かれるしかありません。そこにはもはや赦しはありません。それをヨハネは「死に至る罪」と呼んでいるのです。そして、「これについては、神に願うようにとは言いません」とまで語るのです。

 それはもちろん、罪が死に至らないことの恵みがいかに大きいかを知っているからです。神の賜物、神のプレゼントがいかに尊いものであるかを知っているからです。それは神の子が血を流し、命を注ぎだして与えてくださったとてつもなく高価な賜物であることを知っているからなのです。それをヨハネは「永遠の命」と呼んでいるのです。

 「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」という言葉から本日の朗読は始まりました。そのような大きな恵みをいただいているのです。神によって赦された者として生きる恵み、神との交わりに入れられ、永遠の命を既に与えられた者として生きる恵みにあずかっているのです。そのような者として、神に祈りながら生きる生活も与えられているのです。

 だからこそ、私たちは互いに裁き合うのではなく、互いのために神の赦しを求めて祈るのです。そのために祈りを用いるのです。その祈りは必ず聞き届けられるのです。必ず聞き届けられるのです。なぜなら、それは神の願いでもあり、神の御心に適った祈りであるからです。

(祈り)


2016年8月28日日曜日

「御心にかなった祈り」

2016年8月28
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 5章13節~15節

永遠の命を得ている
 「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(13節)と書かれていました。ヨハネは既に神の子イエス・キリストを信じている人々に書いています。それは「永遠の命を得ていることを悟らせたいから」だと言います。キリストを信じていても、永遠の命を得ているとは考えていないことがあり得るからでしょう。

 かつてある金持ちの青年がイエス様のところにやって来て、こう尋ねたことがありました。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」(マタイ19:16)。明らかに彼が尋ねているのは来世の命についてです。来世の救いについてです。それを得るためには、今の世においてどんな善いことをしたらよいのかと尋ねているのです。

 しかし、ヨハネは言うのです。「あなたがたは既に永遠の命を得ているのだ」と。それはイエス様御自身も言っておられたことでした。「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている」(ヨハネ6:47)。そうです、既に得ているのです。そのことを悟らせるために「これらのことを書き送る」のだと言っているのです。

 「これらのことを書き送る」。それはこの手紙全体を指すと読むこともできますが、話の流れからすると、まずは直前に書かれていることを指しているのでしょう。そこには「神の証し」について書かれているのです。少し遡って9節を見ますとそこにはこう書かれております。「わたしたちが人の証しを受け入れるのであれば、神の証しは更にまさっています。神が御子についてなさった証し、これが神の証しだからです」(9節)。

 「わたしたちが人の証しを受け入れる」というのは一般的な話です。証しというのは事実についての証言です。何かを見た人が自分の見たことを語ったとき、それを聞いた人がたとえ自分は見ていないとしても、「そうだったのですね」と言って受け入れる。「人の証しを受け入れる」とはそういうことです。また、イスラエルの裁判では、二人または三人の証言によって事実が確定されるわけですが、実際に裁判官が事実を見ていなくても確定されるのです。そのように「人の証しを受け入れる」ということは身近なところでなされていることです。

 それと同じように、受け入れられるべき「神の証し」があるとヨハネは語ります。神が証言しておられて、それを私たちが信じて受け入れることを神は望んでおられる。それは「御子についてなさった証し」(10節)です。神が御子について証言しておられる。どのようなことを語っておられるのでしょう。11節にこうあります。「その証しとは、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるということです」(11節)。

 この部分は前後をひっくり返して見るとわかりやすいでしょう。神さまは御子について「この命(永遠の命)が御子の内にあるということ」を語っています。それは何のためか。要するに神は「わたしがその御子をあなたたちに与えたということは、御子の内にある永遠の命をあなたたちに与えたということなのですよ」と語っておられるのです。

 永遠の命が御子の内にあることを、神ははっきりとこの世界に向かって語られました。証言されました。どのようにでしょうか。御子イエス・キリストの御生涯、そして十字架による死と復活によってです。神はイエス・キリストという存在によって語っておられたのです。ここに永遠の命がある、と。イエス・キリストによって、この世界は確かに永遠の命を見せていただいたのです。

永遠の命とは
 神が語られた永遠の命、この世界がキリストにおいて見せていただいた永遠の命とはなんでしょう。それは永遠なる神との愛の交わりでした。それは父と子との交わりでした。この世界を愛して救おうとしておられる圧倒的な父なる神の愛。その愛に応えて、その愛に信頼して、自らの全てを捧げ尽くそうとしておられた御子の愛。その愛の交わりこそ永遠なのです。この世界はその御子の姿の中に「永遠の命」が何であるかを見せていただいたのです。

 そして、神はその父と子の交わりの中に、私たちをも招いてくださいました。イエス・キリストとは全く異なる姿で、神に背き続けてきた私たちをも、永遠なる神との交わりの中へと招いてくださったのです。どのようにして。神がどこまでも私たちを愛して、私たちの罪を赦すことによってです。

 この手紙の4章にはこのように書かれています。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。そのようにして私たちにも永遠の命を差し出してくださったのです。

 その意味においても、御子の内には永遠の命がありました。私たちのための永遠の命がありました。罪の赦しと共に永遠の命がありました。そうです、そのように神は既に永遠の命を与えてくださっているのです。ならば、必要なのは私たちが受け取ることだけです。永遠の命は、人間が何らかの努力によって昇っていって獲得するものではありません。それは上から下に、既に与えられているのです。私たちは受け取るだけなのです。

 私たちは御子と共に永遠の命を受け取ります。永遠の命は御子の内にあるからです。私たちは御子と共に、罪を償ういけにえとしての御子と共に、永遠の命を受け取ります。「御子と結ばれている人にはこの命があり、神の子と結ばれていない人にはこの命がありません」(12節)と書かれているとおりです。この部分は、以前の口語訳の方が直訳に近いのでそちらも挙げておきます。「御子を持つ者はいのちを持ち、神の御子を持たない者はいのちを持っていない」(12節口語訳)。

 そのように、御子を持つ者はいのちを持つのです。だからこそ、ヨハネは教会に対してこう書いているのです。「神の子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書き送るのは、永遠の命を得ていることを悟らせたいからです」(13節)。

神の御心に適うことを願うなら
 さらに14節には次のように書かれています。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」(14節)。

 「永遠の命を持っていることを悟らせる」という話から祈りの話に飛ぶのはいささか唐突にも思えます。しかし、実はそうではありません。既に見てきたように、永遠の命とは永遠なる神との交わりに他ならないからです。
それは言い換えるならば神の子供たちとして生きることです。そして、神の子供たちとして生きている具体的な一つの姿は、大胆に父である神に近づいて祈る姿です。

 今、「大胆に」と申しましたが、実は14節にある「確信」という言葉は、「大胆に」という意味の言葉なのです。これはヘブライ人への手紙において「大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブライ4:16)という呼びかけに用いられている言葉なのです。

 私たちははばかることなく大胆に父である神に近づいて祈ることができます。なぜなら御子が与えられているからです。罪を償ういけにえとなってくださった御子を持っているからです。だから神に近づくことができる。永遠の命を与えられているとはそういうことです。

 そのように神に近づいて捧げる祈りについて、「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」と語られているのです。その姿を見せてくださったのは他ならぬイエス・キリストでした。福音書の中に見るキリストの祈りの姿に、私たちにも与えられている永遠の命が何であるかを見ることができます。

 例えば、ヨハネによる福音書11章に書かれている話です。イエス様は死んで葬られて四日目になるラザロの墓の前でこう祈りました。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています」(ヨハネ11:42‐43)。そう祈ってから、イエス様は墓に向かって叫びました。「ラザロ、出て来なさい」。

 このエピソードは、イエス・キリストを信じる者にとって、もはや問題は可能か不可能かではないことを示しています。永遠の命を得ているならば、可能か不可能かはもはや問題ではないのです。そうではなく、私たちが心を向けなくてはならないのは、神の御心に適っているか否かなのです。「何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。これが神に対するわたしたちの確信です」。

 これはまた、私たちがこの世にあって永遠の命を生きる上で大事なことは、神に《語ること》以上に《聞くこと》であることを示しています。何が御心に適うことかに耳を傾けること。そのようにして神の願いと私たちの願いが一つになること。御言葉を聞くことによって神の願いを私たちの内に宿していただくこと。先週朗読されたエフェソの信徒への手紙においてもパウロがこう言っていました。「だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい」(エフェソ5:17)。

 そのように御言葉に耳を傾け、神の御心と一つになって与えられた永遠の命を生きるなら、ヨハネと共にさらに大胆にこう続けることもできるのです。「わたしたちは、願い事は何でも聞き入れてくださるということが分かるなら、神に願ったことは既にかなえられていることも分かります」。

2016年7月31日日曜日

「わたしたちは決して負けません」

2016年7月31
日本キリスト教団 頌栄教会牧師 清弘剛生
聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 5章1節~5節

恵みによる二度目の誕生
 ある夜、ファリサイ派の議員であり教師でもあるニコデモという人がイエス様を訪ねてきたという話がヨハネによる福音書にあります。その時、イエス様は彼にこう言いました。「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)。

 後に使徒ペトロが小アジア地方他の諸教会に宛てた手紙の中でこう書いています。「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです」(1ペトロ1:23)。

 イエス様が言われたことが、教会において実現しています。「あなたがたは…新たに生まれたのです」とはそういうことです。そのように人は「新たに生まれる」ことができる。言い換えるならば、二度生まれることができる。聖書は確かにそう教えています。

 一度目の誕生は、通常の意味における誕生です。毎年「お誕生日おめでとう」を繰り返す、あの誕生のことです。私たちは必ず誰かを親として生まれてきます。誰かを親とする家族の中に生まれてきます。もちろん、実際にはその親が親としての役目を果たさず、家族が家族としての機能を果たさず、親も家族をも知らないで育つということはあり得ます。しかし、いずれにせよどのような形であれ、私たちは必ず誰かの子として生まれてくるのであるし、家族の中に生まれてくるのです。そのようにして私たちはこの人生をスタートする。これが一度目の誕生です。

 この誕生だけを経験して一つの人生を生き、一生を終える人もいます。しかし、聖書によるならば、人はもう一度誕生することができる。新しく生まれることができる。二度目の誕生。それは信仰による誕生です。信仰によってもう一つの人生がスタートします。一度目の誕生において、親の子供として生まれたように、二度目の誕生においては、「神の子供としてのわたし」が生まれます。一度目の誕生において、この世の家族の中に生まれたように、二度目の誕生においては、「神の家族の中にいるわたし」が生まれます。

 毎週私たちはイエス様がお教えくださった「主の祈り」を共に捧げております。あの「主の祈り」こそ、まさに新しい誕生に関わっている祈りです。つまり、私たちは神の子供として「天にまします我らの《父よ》」と祈りながら生き始めたのです。神の家族として「天にまします《我らの》父よ」と祈りながら生き始めたのです。そのように私たちは二度目の誕生によって始まるもう一つの人生を生きていくのです。それが信仰生活です。

 そのような二度目の誕生について、今日の聖書箇所でヨハネは次のように語っています。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」(1節)。ここでは二度目に生まれた人について、はっきりと「神から生まれた者」と表現されています。

 神から生まれたならば既に「神の子供」です。何もしていないうちから神の子供です。神の子供らしくなったから神の子供としてもらったのではありません。王の子供として生まれたら、何もしないうちから既に王子です。どら息子でも王子は王子です。王子らしくなったから王子になるのではありません。そのように神から生まれた者は既に神の子供です。「信じる人は皆」とありますでしょう。神の子供とされるのは、神との新しい関係が与えられるのは、ただ信仰により、神の恵みによるのです。

恵みに対する応答
 そのように神の一方的な恵みとして神から生まれ、神の子供としていただくとするならば、その神の恵みに私たちはどうお応えしたらよいのでしょう。

 「恵み」に対するふさわしい応答とは「愛」です。神を愛することです。ですから「生んでくださった方を愛する人は皆」と続くのです。そして、神を愛するならば、そこから必然的に生まれてくることがあります。もう一度1節の初めからお読みします。「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です。そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します」(1‐2節)。

 ここに「掟」という言葉が出てきました。この直後にも「神を愛するとは、神の掟を守ることです」と語られています。神の掟については、今日の箇所の直前にもこう書かれています。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。

 「神の掟」という表現は実にいかめしく感じますが、しかし、それは神を愛することのごく自然な帰結であるとも言えるでしょう。私たちを生んでくださったお父さんは子供たちが愛し合って共に生きることを望んでおられるのです。そのお父さんの思いに応えて生きることこそ恵みに対するふさわしい応答なのしょう。

 「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」。自分が神から生まれた者、まことの親の子であることを意識して生活することは大切です。自分を見つめて「わたしはふさわしくない」とか「わたしは神の子供には見えない」とか言っているのではなく、生んでくださった方を見上げて「わたしは神から生まれた者です」と言ったら良いのです。

 そうすれば、隣の人も「神から生まれた者」であることが見えてくる。神が愛してやまない神の子供であることが見えてくる。父にとって大切この上ない父の子供であることが見えてくる。そうしてこそ、「生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します」ということが起こってくるのです。

世に打ち勝つ信仰
 そのように、神から生まれて神との間が親子の絆で結ばれ、そして神から生まれたお互いが兄弟の絆で結ばれていく。それが私たちの信仰です。そして、このような信仰こそが世に打ち勝つ信仰なのだとヨハネは言うのです。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」(4節)と。

 ヨハネは手紙にこの言葉を書き記したとき、一つの場面を思い起こしていたに違いありません。かつてイエス様の口からこの言葉を聞いたその情景がありありと思い起こされたことでしょう。それはイエス様がまさに捕らえられようとしていたその夜、弟子たちと食した最後の晩餐の席でのことでした。主は不安と恐れの中にある弟子たちに多くのことを語られた後、最後にこう言われたのです。「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。

 「わたしは既に世に勝っている」。確かに主はそう言われた。その「世」とは何でしょう。神の愛を現されたイエス様が十字架につけられて殺されてしまうような世界のことです。愛の力よりも憎しみと怒りの力の方がはるかにまさって強力に支配しているように見えるこの世界のことです。命よりも死の方がはるかに強力に支配しているように見えるこの世界です。神様よりも悪魔の方がはるかに強力に支配しているように見えるこの世界のことです。そう、私たちもそのように見ている、この世界のことです。

 しかし、そこで主は言われたのです。「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と。主は勝利宣言をされたのです。イエス様は負けない。世に負けない。絶対に負けない。その強さはどこから来ていたのでしょう。イエス様の強さはどこにあったのでしょう。イエス様御自身がはっきり語っておられます。「だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」(ヨハネ16:32)。

 そうです、イエス様が見せてくださった本当の強さとは、どこまでも「父が、共にいてくださる」と言い得る強さだったのです。神の子としての強さだったのです。そして、その御方は私たちをも、同じ父との交わりの中に入れてくださったのです。私たちに二度目の誕生を与え、神の子供としての誕生を与え、神から生まれた者として、私たちもまた、「父が、共にいてくださる」と言い得るようにしてくださったのです。

 私たちは神から生まれた者です。私たちは、神の家族の中に新しく生まれたのです。私たちには、まことの父がいます。この世よりも大いなるまことの父がいます。私たちには、世に打ち勝った神の子イエスがいます。「勇気を出しなさい」と言ってくださる、いわば最強のお兄さんがいるのです。そして、私たちには、同じように弱さを抱えてはいますが、互いに愛し合って生きるようにと与えられている、他の子供たちがいるのです。共に父を仰ぐ兄弟がおり、姉妹がいるのです。

 だから、私たちは負けません。世に生きることがいかに過酷であったとしても、決して負けることはありません。私たちは負けて滅びる者ではなく、キリストの勝利にあずかって、完全な救いに至るのです。私たちは暗闇に引きずり込まれていくのではなく、光へと命へと向かって生きていくのです。いかなるものも神の子供たちを滅ぼすことはできません。「世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です」。

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