2025年5月25日日曜日

「あなたの父に祈りなさい」

2025年5月25日 主日礼拝説教

聖書:マタイによる福音書 6:1-8

奥まった部屋に入りなさい
 今日の福音書朗読において、イエス様はこのように言っておられます。「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている」(5節)。

 ユダヤ人の社会には、決まった時間にお祈りをするという習慣がありました。その時、彼らは、立って、両手を挙げて祈りました。そして、ユダヤ人にとって、この祈りの立ち姿は敬虔さの証しでもあったのです。ですから、祈りの時間にちょうど人が集まっている会堂にいること、あるいは大通りの角にいることを好む人もおりました。それは、自分が敬虔なユダヤ教徒であることを人々に示す絶好の機会だったからです。

 しかし、そのような人々をイエス様は「偽善者」と呼びました。もっとも「偽善者」というのは意訳です。もともとは「役者」を意味する言葉です。役者は人々に見せるために舞台に立ち、人々の拍手によって報われます。敬虔さを示すために祈るなら、賞賛された時点で目的は達せられたことになります。だからイエス様は言われるのです。「彼らは既に報いを受けている」と。

 しかし、それでは本当の意味で祈りにはなりません。ゆえに主は言われます。「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる」(6節)。

 もちろん、イエス様はこの言葉をもって、「共に祈ること」を否定しているわけではありません。この後に教えられています「主の祈り」においても、私たちは「天にまします《われらの》父よ」と祈るように教えられているのです。それは共に祈ることを前提とした祈りです。

 しかし、ここではあえて「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めなさい」と主は言われます。つまり「隠れなさい」ということです。ここで大事なことは何でしょう。「人の目から自由になること」です。実は、この話はそもそも次のような言葉から始まっていたのです。「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい」(1節)。

 人の目ばかりを気にして、人の言葉と評価に振り回されて生きることは、実に不自由なことです。それは私たちもある程度経験して知っています。特に、イエス様が生きていたのはユダヤ人の戒律の世界ですから、なおさらだったと言えます。それは監視社会です。互いに戒律を守っているかを監視している社会です。そこで人は他の人を厳しい目で見ることになります。すると、今度は自分がどう見られているかが気になります。だから外側だけを一生懸命に繕うようになります。「見てもらおうとして」何かを行うようになります。

 それは私たちの社会生活においてもある程度起こっていることなので、私たちにも分かることです。しかし、信仰生活において本当に大事な部分というのは、人の目からは隠されているところにあるのでしょう。人の目ばかりを気にして、「見てもらおうとして」、外側ばかりを取り繕うことに意識を奪われてしまったら、本来の信仰生活が成り立たなくなってしまいます。

 だからこそ、「人の目から自由になる時間」が必要なのです。そのために主は「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めなさい」と言われたのです。これは当時どの家にもあった貯蔵室のことです。窓のない小部屋です。まさに奥まった隠れた部屋――そこに入るのです。窓がないから人目から全く隔絶されることになります。そこに隠れるのです。

 そのように私たちには人の目から自由になる時間が必要なのです。そのように奥まった場所に身を置く時間が必要なのです。

あなたの父に祈りなさい

 そのように主は、「奥まった自分の部屋に入って戸を閉めなさい」と言われました。そして、こう続けます。「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」。

 この「隠れたところ」がまず意味するのは、祈る者が隠れて身を置いた密室です。私たちがそのように「隠れたところ」に入ると、「隠れたところにおられるあなたの父」がそこにおられるのだ、というのです。人々の目から解き放たれ、人々の求めからも身を引き離して、隠れたところに一人で入ると、そこには先に待っていてくださる「あなたの父」がいるのです。19世紀から20世紀にかけて人々に大きな影響を与えたアンドリュー・マーレーという人は、その著作の中でこう勧めています。「御父は隠れたところにおられ、そこで私を待っておられます。心が冷えて祈れなくなっているからこそ、愛の御父の御前に出なさい。」

 そこにおいて「祈り」は、隠れたところにおける親子の対話となります。他の誰も入り込めない、親密な交わりがそこにあります。イエス様はここであえて「あなたの父」という言葉を使われました。イエス様が「あなたの父」と言うのは実は珍しいのです。ほとんどの場合「あなたがたの(天の)父」です。しかし、密室の祈りにおいて向き合うことになるのは「あなたの父」なのです。他の誰も入り込めない、父と子の交わりがそこにあるのです。

 そのように、イエス様は「隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」と言われました。そして、「隠れたところ」がもう一つ意味するのは、肉の目に隠されているということでもあります。隠れたところにおいて待っていてくださる父は、そこで祈る者に対しても身を隠しておられるのです。だから、祈る人には見えない。それゆえに、時として祈りは独り言のように感じられるかもしれません。

 しかし、こちらからは見えないのだけれど、そのお方は「隠れたことを見ておられるあなたの父」と言われているのです。ここで「隠れたこと」が意味しているのは、隠れたところにおける祈りです。こちらからは見えないけれど、見えない神の側からは見えているし、聞こえているのです。ならば本当はこちらから見えないことなど、どうでもよいことなのです。神は見ていてくださるし、聞いていてくださるからです。

 そして、さらに主はこう言われました。「また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」(6‐7節)。

 「くどくどと述べてはならない」とは、「長い祈りをしてはならない」ということではありません。イエス様がある時には夜を徹して祈られたことを福音書は伝えています(ルカ6:12)。では何が問題なのでしょう。「異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」ということです。まるで神様は説得か交渉の相手のようです。そうなっては、もはやイエス様が言われる「あなたの父」ではありません。「あなたの父」については、その必要はないのだと主は言われるのです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と。

すべてをご存じであるから

 しかし、願う前から必要なものをご存じであるならば、なぜ祈る必要があるのでしょう。願う前から知っているならば祈る必要はないではないですか。

 しかし、このイエス様の言葉は、祈ることが《何でないか》をはっきり示していると言えます。私たちは、神が知らないので教えてあげるのではありません。私たちにどれだけ必要かを認識していない神に、「必要なんだ」とアピールすることでもありません。それらは異邦人がしていることだと主は言われるのです。

 私たちは、本当に必要なことがなんであるかをご存じである方に祈るのです。むしろ本当に必要なことがなんであるかを知らないのは私たちの方なのです。

 それはこの世の親子を考えればある程度分かります。まともな大人である親ならば、幼子に何が必要なのか、少なくとも幼子よりは分かっているはずです。確かに親の方が分かっている。しかし、だからといって子供に「何も求めるな。わかっているんだから」とは言いません。むしろ幼子の求めに、より大きな知識をもって答えようとするものです。

 子供は子供なりに、必要と思えるものがあるのです。それは時として絶対に必要なのであり、それは泣き叫ぶほどのものなのです。そのように、私たちには、「私たちに絶対に必要と思えるもの」があるのです。時として、私たちもまた求めてもがいて泣き叫ぶのです。様々な必要は、時として私たちを苦しめ、焦らせ、悲しませます。しかし、そのような苦しみや焦りや悲しみを、私たちはどこにも持って行きようがないのではありません。それを安心して持っていくことができる父がおられるのです。なぜならその御方は、私たち以上に必要なものをご存じであるからです。

 その必要を、私たちは隠れたところにおいて、他のだれも介入できないところにおいて、神に打ち明けることができるのです。何も知らない人に一から説明するように祈る必要はありません。神は事の詳細をすでにご存じです。だから、必要と思えることだけを話すことができる。信頼して話すことができるのです。

 パウロは後にこう書いています。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6-7)

 そして、「隠れたところにおられるあなたの父は報いてくださる」とイエス様は言われるのです。その祈りは、隠れたところにおられる父に語られます。それはときとして壁に向かって語っているように、カーテンに向かって語っているように感じるかもしれません。しかし、そこには見ていてくださり、聞いていてくださる方がおられる。祈りは「報いられる」のです。

 そのような祈りの時間を、教会は昔から「密室の祈り」と呼んで大切にしてきました。後に私たちは「主の祈り」を祈ります。「天にまします我らの父よ」と。その父は、隠れたところで私たちたち一人ひとりと共に時を過ごそうと、私たちを待っていてくださいます。 


2025年5月21日水曜日

祈祷会用: サムエル記上 3:1~21

 サムエル記上 3:1-21

 3章は少年サムエルが預言者として召される次第が記されております。預言者とは、神の言葉を民に告げる者です。この章の終わりには、「主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された」と書かれています。しかし、サムエルが召された時のイスラエルの状況は次のように描写されているのです。「そのころ、主の言葉が臨むことは少なく、幻が示されることもまれであった」(1節)。

 既に私たちは当時の宗教的な堕落がいかに甚だしかったかを見てきました。しかし、イスラエルの危機的状況は、究極的には、秩序の崩壊でも道徳的な腐敗でもありませんでした。それはイスラエルの民が神の言葉を失っていることなのです。後の時代に、アモスという預言者が次のように語っています。「見よ、その日が来ればと主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく、水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(アモス8:11)。まさに、その飢えと渇きによって死にかけていたのが、サムエルが預言者としての召命を受けた頃のイスラエルの状況だったのです。

 もちろん、多くの人はその症状を自覚してはいないのです。人は肉体的な飢えや渇きには敏感です。一生懸命に対処しようとするものです。それに対して主の言葉の飢餓についてはまことに鈍感なものです。しかし、それこそが本当の死をもたらすのであり、国家にも個人にも滅びをもたらすのです。イスラエルの危機がそのような御言葉の飢饉であるゆえに、それは御言葉が語られることにおいてしか救われないのです。これがサムエルの召命の背景です。

 サムエルが預言者とされたのは、ある日の出来事によってでした。それは神の側から一方的に言葉が臨むことによって起こりました。しかし、神の側から臨む特別な出来事というものは、いつでもそれ以前のごく普通の日常と無関係に訪れるのではありません。ある事が起こるとするならば、そのための準備があるのです。時が満ちる時まで、神が準備をされるのです。その備えはごく普通の日常の中でなされます。サムエルの誕生の場合もそうでしたでしょう。主は毎日毎日続く辛い日常の中でハンナを備えられたのです。それはサムエルが預言者として召される場合も同じです。

 少年サムエルには日常の生活がありました。「少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた」(1節)と書かれています。ここで「主に仕えていた」とあるのですが、7節では「サムエルはまだ主を知らなかったし」と書かれています。つまり、彼が預言者として知るような主のリアリティを彼はまだ経験していたわけではないのです。彼は幼い時から神殿に預けられました。彼が為していたのは、下働きとしてのルーチンワークです。そして、恐らく年老いて目がかすんで見えなくなっていた祭司エリのお世話をしながら日々仕えていたのでしょう。

 想像してみてください。堕落した祭司たちが仕切っている祭壇に人々が形式的に犠牲を捧げに来る。それがシロの聖所の日常です。そのような祭儀に仕えることが、若いサムエルにとってそれほど興奮に満ちたものであったとは思えません。エリもまた年老いて、もはや指導力を持ってはおりません。しかし、日々の平凡な仕事の繰り返しにおいて、そして老人エリに仕えることにおいて、彼は従順を学んだのです。ですから、その毎日について「主に仕えていた」と聖書は表現しているのです。

 今日お読みした場面には同じ出来事が三回繰り返されています。主がサムエルを呼ばれます。サムエルは「ここにいます」と答えて、エリのもとに走って行き、「お呼びになったので参りました」と言うのです。サムエルの答えは三回とも原文において一字一句違わず同じです。ここに愚直なまでのサムエルの従順さが現れております。それがサムエルの日常だったのです。しかし、そのように日々忠実に仕える中で彼は備えられ、そのようにして初めて主の言葉はサムエルに臨んだのです。

 四度目に主から呼ばれた時、サムエルはこう言っています。「どうぞお話しください。僕は聞いております」。これはエリから教わった言葉でした。エリはサムエルにこう教えたのです。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕は聞いております』と言いなさい」と。まさに、そのとおりに主に答えたのです。しかし、これまで従順を学び続けてきたサムエルにとって、この言葉は単なる教わった言葉のオウム返しではなかったに違いありません。本当に聞くつもりで、そして忠実に従うつもりで、サムエルはそう言っているのです。

 私たちはどうでしょう。このような預言者の召命という特別な場面ではなくても、主に対して「どうぞお話しください。僕は聞いております」と言い得るようになるためには、やはり同様の従順の訓練が必要なのではないでしょうか。この世の事柄において従順かつ忠実であり得ない者が、神の言葉に従順であり忠実であるということはあり得ないでしょうから。

 ある東方教会の教師は次のように書いています。「修道院にいる修練士のほうが家庭にいるあなたがたより、従順になる練習をする機会が多いというわけではないのである。あなたがたは仕事の中でも隣近所のつきあいの中にでも同じようにその機会を見つけるであろう」。

 さて預言者として召されたサムエルに与えられた最初の言葉、最初の務めは、エリの家に対する裁きを告げることでありました。彼は次のようにエリに告げることを求められたのです。「見よ、わたしは、イスラエルに一つのことを行う。それを聞く者は皆、両耳が鳴るだろう。その日わたしは、エリの家に告げたことをすべて、初めから終わりまでエリに対して行う。わたしはエリに告げ知らせた。息子たちが神を汚す行為をしていると知っていながら、とがめなかった罪のために、エリの家をとこしえに裁く、と。わたしはエリの家について誓った。エリの家の罪は、いけにえによっても献げ物によってもとこしえに贖われることはない」(3:11‐14)。それは決定的な裁きの言葉でした。サムエルがエリにこの言葉を告げるのを恐れたのも無理ありません。

 しかし、そこでこそ彼は従順を問われたのです。彼が預言者として召されたのならば、人の望む言葉ではなく、主の告げられる言葉を語らねばなりません。もしそうでなければ預言者とは言えません。後の時代に現れる偽預言者と同じになってしまいます。サムエルはエリに聞いたことを残らず語りました。エリはすべてを聞いてこう語ります。「それを話されたのは主だ。主が御目にかなうとおりに行われるように」。長く祭司を務めてきたエリが、まだ少年に過ぎないサムエルの言葉を神の言葉として受け入れたのでした。そして、語られた裁きを裁きとして受け止めたのです。

 こうしてサムエルは預言者となり、主は彼を通して、主の言葉の飢餓状態にあったイスラエルに対して語り始められたのでした。

 さて、このサムエルとエリとのやりとりは、この書物が記された時代にとっても大きな意味を持ったに違いありません。捕囚を経験したイスラエルの民は、いったいいかなる言葉を聞いて受け入れるのかが問われていたからです。

 典型的な一場面がエレミヤ書28章に出て来ます。預言者ハナンヤと預言者エレミヤの対決です。ハナンヤという預言者はこう語ったのです。「そして、ハナンヤは民すべての前で言った。『主はこう言われる。わたしはこのように、二年のうちに、あらゆる国々の首にはめられているバビロンの王ネブカドネツァルの軛を打ち砕く』」(エレミヤ28:11)。しかし、預言者エレミヤはそのように速やかな救いを告げる預言者たちの言葉に反対し、国家の滅びを神の裁きとして受け止めるようにと語ったのです。この歴史物語も、その延長上にあると言えるでしょう。神の言葉が、時として非常に厳しい言葉として臨むことも事実であろうと思います。しかし、真の慰めと救いの言葉は、それとは別のところにあるのではなく、その向こうにあるのです。


2025年5月18日日曜日

「闇は去り、まことの光が輝いている」 


2025年5月18日 主日礼拝説教

ヨハネの手紙一 2:1-11

古くて新しい神の掟
 今日お読みした箇所では、ヨハネが次のようなことを書いていました。「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です。しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です」(7‐8節)。

 一回読んだだけで分かりますか。どうも分かりにくい言葉です。「新しい掟」と言い「古い掟」と言う。ヨハネさん、いったいどっちなんですか?そう言いたくなりますが、しかし、改めてじっくり読みますと、どうも古くて新しいところが肝のようです。

 この手紙には「掟」という言葉が繰り返されています。その前には「神の掟」という言葉も出てきます。この手紙において「掟」あるいは「神の掟」と語られた場合、その内容ははっきりしています。それは愛することです。互いに愛し合って生きることなのです。

 例えば次の章においては、こう表現されています。「その掟(神の掟)とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです」(3:23)。さらにこうも言われています。「神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(4:21)。

 これらの言葉は最後の晩餐においてイエス様が語られた言葉に基づいています。主はこう言われました。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)。間もなく捕らえられ、十字架にかけられることが分かっているイエス様、十字架を前にしたイエス様の言葉です。

 皆さん、「互いに愛し合いなさい」と、「愛する」ということならば、それはことさらに新しいことが命じられているわけではないのです。既に旧約聖書に語られていたことです。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)。そして、イエス様が語られた「互いに愛し合いなさい」という言葉も、この手紙を受け取った人たちは、もう信仰をもったはじめの頃から聞いていた言葉なのです。ですから、「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。この古い掟とは、あなたがたが既に聞いたことのある言葉です」とヨハネは言っているのです。

 しかし、先にも触れましたように、最後の晩餐においてイエス様はそれを「新しい掟」と呼ばれたのです。「これは『新しい掟』です」と言って手渡してくださったのです。ならばそこにはやはり特別な新しさがあるのです。それまで人類が経験したことのないような、そんな新しさがあるのです。その新しさとは何でしょう。どうしてイエス様は「新しい掟」と呼ばれたのでしょう。

 ヨハネは言います。「闇が去って、既にまことの光が輝いているからです」(8節)。「闇はもう去ってしまった」と言える、決定的な出来事が既に起こったということです。後に、その決定的な出来事についてヨハネはこう書いています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:9‐10)。そのように、決定的な出来事とは、イエス・キリストが遣わされ、私たちの罪のために十字架にかかってくださったことです。そのようにして、神の愛を示してくださったということです。

 「闇が去って、既にまことの光が輝いている」とは何を意味するのか、もう明らかでしょう。「既にまことの光が輝いている」。その「まことの光」とは神の愛の光です。イエス・キリストを遣わしてこの世界に現してくださった神の愛の光です。神は実に独り子をお与えになるほどに、この世を愛してくださった。神に背いている私たちを愛してくださいました。私たちが罪の中に滅びてしまうことがないように。私たちの罪を赦して救うために、独り子さえも与えて、十字架にかけて、私たちの罪を贖ってくださった。その神の愛の光は既に現されたのです。神が愛してくださっているならば、私たちはもう決して暗闇の中にはいないのです。ちょうど太陽が昇った後ならば、太陽の光が私たちを確実に照らしているのと同じです。

 そのように神がまず私たちを愛してくださったという決定的な出来事のもとで、そのまばゆい光の中でこう語られているのです。「あなたがたは互いに愛し合いなさい」。この命令は、神の愛そのものであるイエス・キリストを通して与えられているのです。そこにこそ新しさがあるのです。ですから、イエス様は「新しい掟」と言われました。ヨハネもまた、「しかし、わたしは新しい掟として書いています。そのことは、イエスにとってもあなたがたにとっても真実です」と言っているのです。

既にまことの光が輝いているのだから
 そのように、神の愛が完全に現され、「闇が去って、既にまことの光が輝いている」のです。にもかかわらず、そこでなお「互いに愛し合いなさい」という新しい掟に背を向けるとするならば、神そのようにして与えてくださっている交わりに背を向けるならば、それは何を意味するでしょうか。

 それはちょうど、太陽が既に昇っているにもかかわらず、部屋の窓を閉め、カーテンを引いて、部屋を真っ暗闇にしているようなものです。あるいは、既に明るい光の中を歩いているはずなのに、自ら目をつぶってしまって、その本人としては真っ暗闇の中を歩いているようなものです。だからヨハネはこう言うのです。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(9節)。

 私たちが持っている新共同訳では、「神を知っている」という言葉も「光の中にいる」という言葉も鉤括弧に入れられていますでしょう。原文に鉤括弧があるわけではありません。しかし、あえてこのように訳出しているのは、そのように主張する人たちが現実にいたことが知られているからなのです。当時の教会には、自分たちには特別な知識が与えられていて「神を知っている」と主張し、また自分たちこそ「光の中にいる」と主張する人たちがいたのです。後に、グノーシス(知識)と呼ばれるようになる異端の人々です。

 その異端の思想そのものはさておき、人が「神を知っている」と言い、「光の中にいる」と主張する背景には、何らかの「体験」というものがあるはずです。特別な知識を与えられたと思える体験がある。それは時として極めて神秘的なスピリチュアルな体験であるかもしれません。

 しかし、そのようなスピリチュアルな体験がイコール「神を知ること」となるのか。それによって「光の中にいること」となるのか。ヨハネは、「そうではない」と言うのです。本当に神を知っているのなら、神の掟を守っているはずだということです。互いに愛し合っているはずだ、と。「わたしたちは、神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります」(3節)とヨハネは言うのです。

 だから彼はこう続けます。「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」(4節)。また、こうも言っています。「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」(9節)と言うのです。

 そこに互いに愛し合って共に生きているという現実がなかったら、そこで分かれ争い憎み合って生きているのなら、それは「神を知っている」ことにならないのです。「光の中にいる」ことにはならないのです。

 しかし、実際にヨハネがこの手紙を書いた時代に限らず、教会の歴史の中には繰り返しこのようなことは起こってきたのでしょう。敵対し争い合うのは往々にして「神を知っている」という人たちです。憎み合い袂を分かってきたのは「光の中にいる」すなわち、「わたしには見えている」と主張する人たちです。

 いや、それは教会の歴史に留まりません。現代においても憎み合い殺し合うことさえしているのは「神を知っている」という人たちです。「光の中にいる」と言い、「わたしには見えている」と主張する人たちです。それはここにいる私たちにとっても、決して他人事ではないのです。

 皆さん、既にまことの光が輝いているのです。私たちは暗闇の中に自分自身を閉じ込めてはならないのです。暗闇の中に自分を閉じこめてしまうならば、何が起こりますか。実際に、目をつぶったまま歩いたり走ったりしたら何が起こるかを考えてみてください。必ず何かにつまずくことになるでしょう。ですからヨハネはこう言うのです。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません」(10節)。言い換えるならば、闇の中にいたらつまずく、ということです。

 いや、つまずくだけだったら、まだ良いのです。「しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」(11節)。真っ暗闇の中を突っ走っている姿を考えて見てください。すぐにつまずいて倒れたならまだ良いのでしょう。また立ち上がることができるかもしれないから。しかし、そうではなくて、そのまま走って行ってしまうなら、それこそ恐ろしいことになります。その先には崖があるかもしれません。何が待ち受けているか分からないでしょう。

 そのように神の愛の光を退けて、兄弟を憎むという暗闇の中を、どこへ行くかを知らないまま進んでいくならば、それは恐ろしいことなのです。何が先に待っているか分からないのです。それは滅びへと向かうことになるかもしれない。憎しみを抱いたまま先へと進んでいくということは、そういうことなのです。

 「闇が去って、既にまことの光が輝いている」。私たちはもう一度、ここに語られている言葉を心に留めましょう。既に光は輝いています。私たちはその事実を知らされているのです。そして、その光の中を歩くようにと招かれたのです。私たちは光の中を歩いていくことができるはずなのです。暗闇の中に自分自身を閉じ込めてはなりません。いつの間にか暗闇の中に身を置いていた自分がいるならば、ここから再び光の中を歩み出しましょう。

2025年5月14日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 2:27~36

 サムエル記上 2:27‐36

 「主の慈しみに生きる者の足を主は守り、主に逆らう者を闇の沈黙に落とされる」(2:9)とハンナは歌いましたが、その「主に逆らう者」としてまず登場してくるのは、周辺のペリシテ人ではありませんでした。そうではなく、シロの聖所に仕える祭司エリの息子たちだったのです。

 当時の宗教的な堕落がいかに甚だしかったかが、12節以下に描かれていました。彼らの犯した罪、それは主への供え物を軽んじることであり、また、臨在の幕屋の入り口で仕えている女たちとたびたび床を共にしていたことでした。彼らの行いについて耳にしたエリは「なぜそのようなことをするのだ」と諭します。しかし、彼らは父の声に耳を貸そうとはしませんでした。

 シロの聖所がそのような状態にあった時、一人の「神の人」すなわち預言者がエリのもとに来て主の言葉を告げたというのが今日の箇所です。それはエリの家に対する神の裁きの預言でした。ここでいくつかの点に注目してみましょう。

 まず、この言葉は問題の息子たちに対してではなく、父であるエリに対する言葉として語られています。エリはシロにあった聖所の祭司として登場しますが、彼がイスラエルにおいて特別な位置を持っていたことは後になって分かります。エリが死んだ時、そこにはこう書かれています。「彼は四十年間、イスラエルのために裁きを行った」(4:18)。これは士師記に繰り返されていた、士師の在任期間を示す表現と同じです。

 そのように、エリが政治的な意味においても指導的な立場にあったことが分かります。彼は四十年の長きに渡ってイスラエルを治めたのでした。しかし、彼は自分の家庭を治めることができなかったのです。そして、彼と子孫に対する厳しい裁きの言葉は、そのことのゆえに語られているのです。

 旧約聖書を見ると、このような人物は少なくないことが分かります。サムエルの息子たちも彼の道に従いませんでした(8:4)。ダビデもまた子育てに失敗しています。息子たちの間の殺し合いは、さらにはダビデ王に対するクーデターに発展しました(サムエル記下15章)。列王記に入りまして、主に従った敬虔な王として挙げられるのはヒゼキヤ王とヨシア王です。どちらも宗教改革を行った王です。しかし、後継者はどちらも主に逆らう者となっています(列王下21:1以下、列王下23:31以下)。

 これはいったいどうしてなのでしょう。ある意味ではとても不思議なことと言わざるをえません。しかし、もう一方で、このことは人類の歴史において、恐らく初めから繰り返されてきた現実でもあろうかと思うのです。それほどに家庭を治め、子供を正しく育てることは難しい。ある意味では国家を治める以上に難しいということなのでしょう。改めて親の責任というものはいかに重いものであるかを思わされます。

 この厳しい裁きの言葉は、特にエリが「神よりも自分の息子を大事にした」ことへと向けられていることをも心に留めなくてはなりません。確かに、エリは息子たちを咎めてはいます。「なぜそのようなことをするのだ」と。しかし、エリが息子たちに語っている言葉をよく見てください。エリがまず問題にしているのは、神が軽んじられていることではないのです。そうではなくて、息子たちについて悪い噂が立っていることなのです。

 エリは言いました。「人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう」。実は、これは一般的な話ではないのです。通常は、人が主に罪を犯したら、執り成すのは祭司の役割なのです。しかし、エリの息子たちについてはそうはいかないのです。祭司である彼らが主に罪を犯すならばもはや執り成してくれる者がいない、ということです。実際、彼らは祭司の業そのものを侮っているわけですから、もはや執り成しはどこにもない。そのことが問題なのです。一見すると神に対する悪行を咎めているように見えますが、気に懸けているのは神のことではないのです。祭司である息子たちには執り成す者がいないことを心配しているのです。

 本来ならば、神が侮られないためにも、彼らを聖所から追い出さなくてはならないのです。いや聖所から追い出すだけでなく、イスラエルから断たなくてはならないのです。しかし、エリは神よりも自分の息子を重んじた。そのことに対して裁きの預言が語られているのです。

 そもそもエリが自分の息子を神よりも大事にしたのは、この時に始まったわけではないでしょう。むしろ、その結果をここに見ると言ったほうがよいかもしれません。私たちは子供を大事にすれば正しく育てられると思いがちです。しかし、神よりも子供を大事にするならば、神を畏れ敬う子は育ちません。それは本当の意味で子供を大事にすることにもならないのです。

 さらに、私たちはここに神の裁きの厳しさを見なくてはなりません。25節には「主は彼らの命を絶とうとしておられた」と書かれておりますが、その前には訳されておりませんが「なぜなら」という言葉があります。「彼らの命を絶とうとしておられたから、彼らは父の声に耳を貸そうとしなかった」というのは逆のような気がします。しかし、そうではないのです。彼らが「父の声に耳を貸そうとしなかった」こと自体が、もう既に裁きなのだということです。神を軽んじて、悔い改めようとしない者は、それに対する裁きとして、ついに悔い改めること自体ができなくなるのです。

 そして、神の裁きは確実に現実の世界の中に形を取っていきます。「わたしがあなたの腕とあなたの先祖の家の腕を切り落とす日が来る」(31節)と主は言われました。腕とは子孫のことです。これはサムエル記上22:11以下で実現します。サウルがアヒトブの子アヒメレクと、その一族を皆殺しにするのです(22:18)。このアヒトブというのは、エリの息子ピネハスの子です。ここでアビアタルという名の息子が一人だけ助かります。それが33節で「わたしは、あなたの家の一人だけは、わたしの祭壇から断ち切らないでおく」と言われている一人です。

 しかし、そのアビアタルもまた、やがて祭司の職から退けられることになるのです。代わりにザドク家の者が祭司の家系となるのです。アビアタルが退けられるのは列王記上2:27ですが、そこにはこう書かれています。「ソロモンはアビアタルが主の祭司であることをやめさせた。こうして主がシロでエリの家についてお告げになったことが実現した」。まことに戦慄するような言葉です。エリの時代から百年も経った後に、なお神の裁きは実現するのです。

 神に対する罪は、その人だけ、あるいはその目に見える家族だけに関わるのではありません。人は先祖と子孫の連鎖の中に存在するのです。つまり、私たちが今いかに生きるかということが後々の子孫にまで関係しているのです。主は言われました。「わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる」(30節)。神の裁きの厳しさは、神に対する態度がいかに重大な意味を持っているかを示しているのです。

 最後に、この預言者が主の裁きの言葉の前提として語っていることに耳を傾けましょう。27節と28節です。ここには主が自らを啓示し、彼らの先祖に祭司の務めを与え、祭儀を執り行わせて主の御前に立たせ、また本来主のものである献げものから祭司の受けるべき分として与えてきたことが語られているのです。 つまり、彼らが祭司であることは神の先行する恵みによるのであって、それ自体光栄に満ちた務めであったということです。

 それほどにまで主がしてくださったことに対し、「あなたはなぜ」と現実を問うているのです。なぜ、彼らは主を侮るようなことをしたのでしょう。それは主が何をしてくださったかを忘れたからです。自分たちのような者がイスラエルの民とされていることに、祭司とされていることに、何の驚きも感謝もなくなってしまっていたということです。

 恵みに馴れてしまうということは恐ろしいことです。それは私たちにも起こります。私たちは、既にどれほど大きな恵みにあずかっているかを決して忘れてはならないのです。

2025年5月11日日曜日

「死んでも生きる人、決して死なない人」

2025年5月11日 主日礼拝説教

聖書:ヨハネによる福音書 11:17‐27

わたしは復活であり、命である
 エルサレムからおよそ三キロメートルほど離れたベタニアという村に、イエス様がしばしば立ち寄られた家がありました。マリアとマルタという姉妹、そしてその兄弟ラザロが住んでいた家でした。マリアとマルタはルカによる福音書にも出て来ます。イエス様と特別親しかった家族のようです。ユダヤ人たちの敵意に囲まれ、命さえ危ぶまれるような緊迫した状況の中で、イエス様が心からくつろぎ憩うことのできる家だったのでしょう。しかし、そのような幸いな家庭を、突然大きな悲しみが襲います。ラザロが病気になったのです。しかも、たいへん重い病でした。ラザロは死に瀕しておりました。

 マリアとマルタは急いでイエス様に使いを送って言いました。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」。しかし、イエス様が到着したのは、既にラザロが墓に葬られて四日も過ぎた後でした。そこからが今日の聖書箇所です。

 ユダヤ人には民間の俗信がありまして、死んだ人の魂は三日ほど屍のまわりを漂っていると考えられていたようです。ですから、「墓に葬られて四日目」は完全に死んだことを意味します。遅すぎました。もう終わっているのです。そのように、イエス様は人間的見地からすれば完全な絶望の中に来られたのです。しかし、人間にとって《終わり》であっても、主にとっては《終わり》ではありません。私たちには《終わり》としか見えないところに主が来られると、《終わり》が《終わり》ではなくなります。絶望ではなくなります。今日の聖書箇所は、そのことを伝えているのです。

 イエス様が来られたと聞いて、マルタは村の外まで迎えに出ました。マルタは主に言いました。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。そのようなマルタに対して、イエス様は言いました。「あなたの兄弟は復活する」。するとマルタは答えます。「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」(24節)。

 「存じております。知っています。」そうマルタは言いました。「終わりの日の復活の時に復活すること。」それは当時のユダヤ教ファリサイ派における正統的な教理でした。確かに教理は知っているのです。しかし、彼女が知っている正統的な教理は、死の現実に直面した彼女にとって何の助けにもなっていません。そのようなマルタにイエス様は言われたのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(25‐26節)。

 イエス様は悲しみに暮れるマルタに、改めて復活の教理を説明しようとはされませんでした。そうではなくて「わたしは(I am)」と言われたのです。自分を指し示したのです。本当に必要なことは教えや説明ではないからです。本当に必要なのは救い主なのです。「わたしは復活であり、命である」と宣言するイエス・キリストという救い主なのです。

 私たちが単に教えを求めて教会に集まっているならば、私たちはこのマルタと同じところに留まっていることになります。しかし、私たちが、イエス・キリストという御方を求めて教会に集まるならば、私たちは救い主に出会うことになるのです。そして、主は言われるのです。「わたしは復活であり、命である」と。

 わたしは復活であり、命である」。――それはすなわち、「わたしこそが、あなたが言っているその《復活》そのものなのだ、永遠の《命》そのものなのだ」と主は言っておられるのです。復活は「終わりの日」という遠い彼方にあるのではなく、永遠の命も遠い彼方にあるのではない。そう主は言われるのです。そうでなくて、復活の命は、絶望に満ちたこの世界のただ中に来ているのだ、と。イエスを信じる者は、《いつかその時に》ではなく、《今ここにおいて》永遠の命に与ることができるのです。そして、永遠の命をいただいているならば、「死んでも生きる」のです。永遠の命をいただいているならば、「決して死ぬことはない」のです。

 イエス・キリストという御方は、このようなことを大真面目に語られるお方です。そして、主はマルタに問われたのです。「このことを信じるか」と。これは直接的にはある一人の女性に問われた言葉です。しかし、この言葉が福音書に記され、今日に至るまで伝えられてきたのはなぜでしょう。それはすなわち、復活して今も生きておられるキリストの問いかけとして、代々の教会がこの言葉を聞いてきたということでしょう。

 4月20日は復活祭でした。私たちはイエス・キリストの復活を祝いました。そのキリストが今、私たちに問いかけておられるのです。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。あなたはこのことを信じるか」と。さて、私たちは何と答えるのでしょう。

御自分の命と引き替えに
 さて、今日の福音書朗読はそこまでです。しかし、この話には続きがあるのです。イエス様がラザロの葬られている墓に赴き、ラザロを生き返らせたという奇跡物語が続くのです。イエス様は、ラザロが葬られている墓に来られました。墓は洞穴で、石でふさがれていました。イエス様は「その石を取りのけなさい」と言われます。人々が石を取りのけると、主は父なる神に祈り、そして大声で叫びました。「ラザロ、出て来なさい」。墓の中にキリストの声が響き渡ります。「すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た」と書かれています。

 この奇跡物語の詳細について、今日は触れることができません。ただ一つの点にだけ注目しておきたいと思います。それは、ここでの出来事がユダヤ人たちの殺意を引き起こす直接の原因になった、という事実です。45節以下にはこう書かれています。「マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた」(45‐46節)。

 そして、このことが最高法院における議論にまで発展するのです。このようなしるしを行う者を放置しておけば、皆が彼を信じるようになる。それは現体制を危機にさらすことになる。ということで、「彼には死んでもらうことにしよう」というのが大祭司の提案でした。そのゆえに53節には「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくらんだ」と書かれているのです。ユダヤの最高権力が、イエスを抹殺するために動き出すのです。もちろん、イエス様にはそうなるであろうことは重々分かっているのです。

 そのような緊迫した状況の中で、イエス様は、「わたしは復活であり、命である」と言われたのです。それは十字架へと向かっている御方の言葉に他ならないのです。また、主は十字架へと向かっているお方として、このしるしを行われたのです。

 イエス様は墓の中のラザロに向かって、「大声で叫ばれた」と書かれています。このような表現がイエス様について用いられているのはここだけです。鬼気迫るものを感ませんか。このしるしを行うことが、御自分の身に何をもたらすかを知った上で、主は大声で叫ばれたのです。いわばこれはイエス様の命がけの叫びなのです。イエス様は御自分の命と引き替えに、ラザロを墓から呼び出されたのです。「ラザロ、出て来なさい」と。

 それゆえに、この出来事は一つのしるしとなりました。永遠の命はキリストの死を通して与えられるのだ、ということを指し示すしるしとなったのです。そして、実際そうなのです。キリストは私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださいました。私たちに罪の赦しをもたらし、神との交わりを与えるためでした。この永遠なる神との交わりこそが永遠の命なのです。それゆえに、永遠の命を与えてくださるキリストの十字架と共にあるならば、「死んでも生きる」のです。復活であり命であるお方によって、永遠なる神との交わりの中にあるならば、「決して死ぬことはない」のです。

 わたしはこの箇所を読みますと、かつて出会った一人のご老人のことを思い出します。もう20年以上も前の話です。一応「Iさん」とお呼びしておきますが、その人はとても頑固な方でした。あらゆる人間関係を自ら絶ち切って、孤独の中に閉じこもっていた人でした。ご病気のために、ベッドの上だけが生活の場所でした。体もずいぶん弱っていました。自分の部屋で、ベッドの上で、ただ弱って死んでいくその時を待っている人でした。初めてお会いした時、私はその人が生きている感じが全くしなかったことを思い起こします。彼はすでに死んでいる人のようでした。

 しかし、何度かお会いしてIさんと聖書の話などをしているうちに、彼はイエス様のことを次第に思い出し始めたのです。実は30代の時に洗礼を受けたクリスチャンだったのです。もう長い間、教会からもイエス様からも離れていました。しかし、思い起こしたのです。キリストが私たちの罪のために十字架にかかってくださったこと。そして、神との交わりを与え、永遠の命を与えてくださったこと。ある日、わたしがお訪ねすると、その人は顔を輝かせて言いました。「永遠の命は、キリストの十字架と共にあるのですね」。

 その人は変わりました。性格のことではありません。性格は相変わらず頑固でヘルパーさんたちを困らせていました。しかし、それは大したことではありません。もっと大きなことが起こっていたのです。彼はベッドの上で希望をもって生きるようになりました。それからお訪ねする度に聖餐式をするようになりました。実際、呼吸するのも大変で、少し話すと息が苦しくなるので、本当に短い聖餐式でした。しかし、いつも会う度にIさんは苦しい息の下でも喜びに溢れてこう言ったものでした。「わたしはね、復活の命をいただいているんですよ。もう永遠の命をいただいているんですよ」。

 彼の体は会う度に弱っていきました。しかし、Iさんは既に永遠の命をいただいている者として、死に向かって歩んでいる人ではなくなっていました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。そのイエス様の言葉は、彼の上に確かに実現しているのをわたしは見せていただきました。

 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。イエス様は私たちにもこう語っていてくださいます。そして言われるのです。「あなたは信じるか」と。私たちには《終わり》としか見えないところに主が来られると、それはもはや《終わり》ではなくなります。「死」でさえそうなのです。主は問われます。「あなたは信じるか」と。

2025年5月7日水曜日

祈祷会用:サムエル記上 2:1~26

 サムエル記上 2:1‐26

 先週はサムエルの誕生の話でした。聖書には繰り返し「誕生」の話が出て来ます。歴史の流れを変える人物の誕生にまつわる話は、聖書にたくさん出てきますが、その誕生の次第は実に様々です。しかし、どのような仕方で誕生するにせよ、それが人間の力が及ばない神の領域であることが、共通して語られていると言えるでしょう。まさに、新しい命の誕生は、人間の思いを超えた神の支配を指し示す代表的な出来事であると言うこともできるのです。

 ですからもう一方において、聖書には「不妊」の話も繰り返し出て来るのです。特に、サムエルの誕生のように、不妊の女から誕生したという物語は、その誕生が純粋に神の意志によること、まさに神の特別な計らいによる出来事としか言いようがないわけです。人間はどうすることもできないのですから。

 そのように聖書に繰り返し出てくる誕生の物語は、特に不妊の女からの誕生の物語は、そうやって一人また一人と誕生することによって綴られていくイスラエルの歴史が、さらには人類の歴史そのものが、まさに人間の力を越えた、神の支配と導きの中にあることを指し示していると言えるでしょう。

 その事実を深く受け止めていたのは、サムエルの母ハンナでした。自分の力ではどうすることもできないことに直面して、そのことのゆえに与えられる多くの苦しみを経験して、その中で彼女がなおも神に向かい続け、魂を注ぎ出すような祈りを捧げ、その末に一人の子供が産まれた。それは、まさに神の特別な計らいのもとで神からの命が誕生したとしか言いようがない出来事でした。

 もちろん、ハンナのケースに限らず、本来はすべての子供の誕生がそうなのですが、しかし残念なことに、ある意味ではハンナのようなプロセスを経ないと、なかなかその認識を持てないというのも事実です。それゆえに、神を畏れることなく「わたしの子、わたしの子」と言って、あたかも本来的に自分の所有物であるかのように子供を扱ってしますということも起こってまいります。

 しかし、ハンナはそうではなかったのです。それは彼女がまず神への誓いを果たそうとしたことから分かります。イスラエルにおける乳離れはだいたい1~2歳です。赤子が一番可愛い時期、彼女はサムエルを手放すのです。彼女は神に赤子をゆだね、シロの聖所にあずけて言うのです。「わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です」(1:26)と。さらに「彼らはそこで主を礼拝した」と書かれています。それこそが毎年シロにおける礼拝の度にペニナのことで苦しんできたハンナにとっての「礼拝」であったのです。

 今日お読みしたのは、そのようなハンナの祈りです。詩編に類似を見る典型的なイスラエルの賛歌です。また、受胎告知を受けたマリアの讃歌にも似ていることに気付かれましたでしょう。そこで今日は、この祈りにおいていくつかの点に注目したいと思います。

 まず第一に注目すべきことは、この祈りが個人的な感謝の祈りにとどまらず、民全体の勝利を宣言する祈りとなっていることです。この歌の背景は、これまでに見てきたように、不妊のためにもう一人の妻ペニナによって苦しめられてきた一人の女が主に祈って子供を得たという、非常に個人的な事柄です。しかし、1節の「敵」は複数であって、単にペニナのことではないのです。その時のイスラエルにとって敵とは直接的にはペリシテ人のことです。それは4章になって明らかになります。もちろん、この歌が伝えられていく過程において、国家的な敵は変化していきました。アッシリアである時もあり、バビロニアとなる時もあります。しかし、それが何であれ、神の民を滅ぼそうとする大きな力に対する勝利が宣言されているのです。

 それは10節に「王」「油注がれた者」という言葉が出てくることからも分かります。「油注がれた者」とはメシアのことですが、この場合、「王」と同義です。ハンナの時代はまだ王国ではありませんから、王はいません。この言葉がいかにしてこの歌に入ってきたかは不明ですが、いずれにせよ、この祈りが単に個人的な祈りに留まっていないことは明らかです。

 考えてみてください。ハンナが経験したこと自体は一つの家庭における極めてパーソナルな出来事だったのでしょう。しかし、そこでハンナは当たり前のように、いわば国家に関わる歌をうたっているのです。それは私たちには奇妙に移りますが、しかしそれは極めて大事なことなのです。一人の人生において経験される神の御業は、ただ個人の領域に留まっているわけではないからです。神様はこの世界に対して行動しておられるのです。例えば、私たちが救われたこと、信仰者とされたこと、どのような信仰生活を送るかということ、それは単に個人的な事柄ではないのです。それはこの世界に関わる意味を持つのです。

 第二に注目すべきことは、その根拠として挙げられている事柄です。個人に対して働かれる神が、同時に世界の創造主であると語られているのです。4節から8節に至るまで、主が働かれる時にいかなることが起こるかということが書かれています。それは簡単に言えば「逆転」です。現実に目に見える事柄が逆転するのです。どんなに力ある者も低くされる。どんなに力のない者も、抑圧されて這い蹲って生きている者も、永遠に打ち捨てられたままではないのです。神が介入される時に、彼らは高くされるのです。

 ハンナはペニナとの関わりにおいて、個人的にそのことを経験したと言えます。しかし、ハンナはそれがイスラエルの民に起こることとして歌うのです。それは個人の人生に働かれる神は、世界の創造主なる神であるからです。「大地のもろもろの柱は主のもの。主は世界をそれらの上に据えられた」(8節)。世界の主が恵みによって現実に働かれる。これがこの歌を貫いている柱となっている信仰の事実です。

 第三に注目すべきことは、取り上げられている対立が、単にイスラエルとペリシテ人の民族的な対立ではないということです。問題は単に民族的な事柄ではありません。この歌で対比されているのは、9節に見るように、「主の慈しみに生きる者」と「主に逆らう者」なのです。

 それゆえに3節でも、「驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない」と語られているのです。この直接的な背景は、イスラエルを支配する大国の勢力の傲慢さと、支配されるイスラエルの貧しさであることは確かです。神は高ぶった力ある者を打ち倒されるのです。その神は、すべてを知っておられ、人の行いを正されるのです。「人の行いが正されずに済むであろうか」と書かれておりますが、これは「人の行いを量られる」という言葉です。神は正しく量られるのです。

 なので、先にこの歌を、「民全体の勝利を宣言する祈りとなっている」と表現しましたが、それは単に民族的な意味でのイスラエルの他民族への勝利ということにはならないのです。問題の中心は神との関係にあるからです。なので、イスラエル自身がこの「主に逆らう者」として扱われることもあり得るのです。そして、事実、そのようなことが起こるのです。

 ですから、12節以下ですぐにエリの息子たちの話に移るのです。神に逆らう者としてまず登場してくるのはペリシテ人ではないのです。祭司の家の者なのです。彼らがしたことは二つです。一つは犠牲の肉をむさぼったことです。これはイスラエルの犠牲に関する習慣と関わります。犠牲として献げられた肉の一部は祭司とレビ人のものとなるのです。エリの息子たちは、ある意味において、これを賢く合理的に行おうとしたのだと思います。しかし、これが神に関する事柄であることを見失っていたのでした。神に関わることを人間的に扱うことを、神は御自身に対する敵対とみなされるのです。

 第二は姦淫です。「臨在の幕屋の入り口で仕えている女たちとたびたび床を共にしていることも耳にして」と書かれています。これはカナンの習慣においては決して珍しいことではなかったと思われます。カナンにおいて、祭儀と性行為は深く結びついていたからです。エリの息子たちがカナンの習慣に深く影響されていたということなのでしょう。あるいは、積極的に、異教的な習慣を取り入れようとしたのかもしれません。

 いずれにせよ、エリの息子たちの行為は、イスラエルの現実を物語っております。問題の根は単にペリシテ人の支配にあったのではありません。イスラエルの中にこそあったのです。神は正しく量られます。慈しみに生きる者を神は引き上げますが、高ぶって逆らう者に神は厳しく臨まれるのです。

 サムエル記はさらに列王記へと続きます。その物語は国家の滅びを記すに至ります。これを書き記した者に、ハンナの歌は新たな響きをもって迫ってきたに違いありません。

2025年5月4日日曜日

「しるしを見たら本当に信じますか」

2025年5月4日 主日礼拝説教

聖書:マタイ12:38‐42

しるしを見せてください

 何人かの律法学者とファリサイ派の人々がイエス様に言いました。「先生、しるしを見せてください」。「しるし」とは証拠です。神から遣わされたメシアである証拠です。「証拠を見たらあなたがメシアだと信じましょう」ということでしょう。それに対して、イエス様はこうお答えになりました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない」(39節)。

 注意してください。「しるしを欲しがることはよこしまで神に背くことだ」とは言っていません。しるしを欲しがること自体が悪いことだと言っているのではないのです。「よこしまで神に背いた時代の者たちは往々にしてしるしを欲しがるものだ」と言っているのです。しるしを求めること自体は悪いことではなく、むしろ昔から受け継いできたユダヤ人の伝統的なものの考え方なのです。

 例えば、神がモーセが人々のもとに遣わされた時、モーセが杖を地面に投げると、その杖が蛇になった。そんな話が聖書に出てきます。神がそうしろと言われたのです。そのようにして、しるしを見せるのです。そして、そのしるしを見て人々が信じたということが書かれているのです。今日の第一朗読(列王記上17:17‐24)で読まれたエリヤの物語もそうです。エリヤによって死んだ息子を生き返らせてもらった母親が言うのです。「今わたしは分かりました。あなたはまことに神の人です。あなたの口にある主の言葉は真実です」と。

 神から遣わされた者にはしるしが伴う。つまり、神が遣わされたのなら神自らがそれを証明なさるということです。それはユダヤ人の伝統的な考え方なのです。ですから逆に言えば、どんなに有能な人物であっても、どんなに説得力を持った力強い言葉を語っても、主の御名によってどんなに有り難いことを言ってくれたとしても、やたらに信じたりはしないのです。しるしを求める。本当に神から来たものかを確認するのです。それはそれとして大事なことであるとも言えるのです。

信じないためにしるしを求める人
 しかし、同じ「しるしを求める」にしても、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」という場合は、意味合いが違ってまいります。それは今日の聖書箇所を少し前から読んでみますと良く分かります。今日の箇所は「すると」という言葉から始まっているのです。つまりその前に何かあったから、「しるしを見せてください」という要求が出て来たのです。その前に何が書いてありますか。実は、イエス様がファリサイ派の人たちに対して、実に辛辣なことを言っているのです。「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(34節)。

 実際そうでしょう。心にあふれているものが口から出て来る。その前の話を見ても、それが真実であることが良く分かります。22節を見ますと、悪霊に取りつかれて目が見えず口の利けない人がイエス様のもとに連れて来られたらしい。いつものように、イエス様は憐れに思って彼を癒されました。長い間苦しんできた人が癒され解放されました。どれほど嬉しかったことか。いや、彼だけではありません。その人が癒されることを願っていた人たち、イエス様のもとに彼を連れてきた人たちがいたのです。どれほど嬉しかったことか。イエス様が病人を癒されたその場は喜びに包まれていたに違いありません。その喜びの出来事の中に、メシアの到来のしるしを見た人たちがいたのです。「この人はダビデの子ではないだろうか」と彼らは言ったのです。

 一方、そこには宗教的な指導者たちもおりました。そこにはファリサイ派の人たちがいたのです。もし彼らが常々、人々の解放と癒しを願っていたならば、そのような愛と憐れみが心に満ちていたならば、そこからあふれてくる喜びの言葉が口から出たことでしょう。

 しかし、もし人の苦しみなどには関心が無く、人々の解放や癒しを願ってもなく、ただ自分より力ある者に対する妬みと敵意が心にみちているならば、そのような言葉が口から出て来るに違いありません。そして、実際に出て来たのです。彼らは冷ややかにこう言ったのです。「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」(24節)。

 律法学者とファリサイ派の人々は、模範的なユダヤ人です。最も敬虔であると見なされていた人たちです。しかし、イエス様には彼らの心に何が満ちているのかが見えていたのです。だからイエス様は彼らに言ったのです。「蝮の子らよ、あなたたちは悪い人間であるのに、どうして良いことが言えようか。人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」と。

 そのように、「あなたたちは悪い人間だ」と言われた人たちが、イエス様に尋ねたのです。「先生、しるしを見せてください」。意味合いは明らかでしょう。信じるためにしるしを求めているのですか?いいえ、そうではありません。信じないためにしるしを要求しているのです。相手の言葉を拒否して、自分は悪い人間だと認めないために、自分を守るために、しるしを要求しているのです。

 例えばこんなことを考えて見てください。ある人があなたを見て言いました。「わたしは医者です。あなたの様子を見る限り、あなたはかなり重い病気です。大きな病院で検査を受け、早く治療した方がいいですよ」。実際に具合も悪い。そこで自分が病気だと認めた人はすぐに病院に行くと思います。しかし、どうしても自分が病気だと認めたくなかったらどうしますか。もしかしたらこう言うかもしれません。「そんなことを言うあなたが本当に医者だという証拠を見せてください」。医者だと信じたくない。医者の言葉だと信じたくない。ならば退けるためにしるしを求めるのではないでしょうか。今日読んだ場面はそれと同じです。

 そのように、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがる」のです。よこしまで神に背いているから、しるしを求めるのです。そのような自分であることを認めたくないから、しるしを求めるのです。実際にはたとえどんなしるしを見せられても、信じないのです。目の前で人が癒されて、神の国の喜びが地上に満ちるような出来事を見せられたとしても、信じない理由はいくらでも付けられるのです。「悪霊の頭ベルゼブルの力によって追い出したのだ」とさえ言えるのです。そうです、不思議な出来事は、いくら起こったとしても、信じないためにしるしを要求している人は絶対に信じることはないのです。

与えられているヨナのしるし
 要は明らかにされた自分自身を認めるか、認めないかなのです。そこで人は二通りに分かれることになるのです。キリストは私たちの内にあるものを明らかにされます。内にあるものが外に出て来ているという事実を私たちに示されます。私たちの内にある罪を、神に赦していただかなくてはならないこと、神によって清めていただかなくてはならないこと、神によって救っていただかなくてはならないことが、キリストによって明らかにされます。そのような、自分ではどうにもならない自分自身を認めるか認めないか、なのです。

 明らかにされた自分自身を認めて、主の御前にひれ伏して、わたしの罪を赦してください、わたしを清めてください、わたしを癒してください、わたしを変えてください、わたしを救ってください、と願い求めるのか。それとも、自分自身を認めないで、「しるしを見せてください」と言うのか。ならばどんなに不思議な出来事を見せられても、おそらくは意味がないでしょう。しかし、もし主に赦しと救いを求めるならば、主が与えてくださる特別なしるしが意味を持つのです。イエス様はそのしるしを「預言者ヨナのしるし」と呼びました。

 それはどのようなしるしでしょうか。イエス様は言われました。「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(39‐40節)。

 人の子が三日三晩大地の中にいるというのは、十字架にかけられて死なれたイエス様が葬られて三日目に復活することを指しています。 神様から遣わされた者にはしるしが伴う。だからしるしは求めてもよいのです。しかし、メシアの到来に伴う決定的なしるしは十字架と復活だと主は言われるのです。主に言わせれば、それこそが唯一のしるしなのです。

 実際、主は様々な奇跡を行われましたが、その奇跡をもって御自分がメシアであることを証明しようとはなさいませんでした。むしろ癒された人には多くの場合「誰にも言ってはならない」と口止めされたのです。十字架と復活こそがしるしだからです。

 それは信じようとしない人が否応なく信じざるを得なくなるような、いわゆる客観的な「証拠」ではありません。もし神がそれをお望みだったなら、弟子たちが人々に示すことができるように、復活したキリストをエルサレムの中心街に常駐させたことでしょう。しかし、神はそうなさらなかった。人間にとって本当に必要なのは悔い改めだったからです。神の光のもとにありのままの自分を認めること、神に立ち帰り赦しを求めること、救いを求めること――それは客観的な「証拠」によっては起こりません。

 主が明らかにされたように自分が罪人であり救いを必要としていることを認めた時、はじめて罪の贖いの十字架と復活がメシアのしるしとして心に迫ってくることになるのです。そして、この御方こそ確かに私たちを罪と死から救うために来てくださったメシアである、と御前にひれ伏すのです。そのように、主を礼拝して生きるようになる。そして、私たちの罪のために十字架にかけられ復活して永遠に生きておられるメシアに従って生きていく者となるのです。

以前の記事