サムエル上1章
今日からサムエル記を読み始めます。まずは、サムエル記が直接つながるのは士師記ですから、士師記の最後の部分を読んでおくことにしましょう。士師記の最後は「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」(士師21:25)という言葉によって締めくくられています。これがサムエル記の冒頭の時代背景です。
まだ王国ではありません。その頃治めていたのは士師と呼ばれる人たちです。士師とは「裁きを行う人」というのが原意です。それぞれの地域を治める指導者です。また、外敵の襲来などの危機の時に力を発揮する軍事的な指導者でもあります。そのような人たちが治めていた頃の話です。そのような部族連合とでも呼べるような共同体が、やがて王国となっていくわけです。
後に詳しく見ていくことになりますが、サムエル記は必ずしも王国への移行を肯定的に見ているわけではありません。しかし、では王国でなかった時代を古き良き時代として回顧しているかといえば、そうではないのです。その時代は、「それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた」と表現されているのです。その一例は、来週お読みすることになる、2章12節以下に描かれている宗教的な荒廃です。士師の時代は、何よりも霊的な暗黒時代として描写されているのです。
そのような霊的暗黒のイスラエルに光り輝く彗星のごとく現れたのがサムエルという人物でした。そのような時代に、何よりも、神に献げられた人物、神に従い、神の御心を行う人物が必要とされたのです。そのような、神に献げられた人サムエルの誕生の次第から、このサムエル記は始まるのです。
それは実に不思議なプロセスでした。しかし、モーセの誕生もそうでしたが、そのようにして歴史の中に登場する人物は聖書において珍しいわけではありません。実に神の計画は私たちの思いをはるかに越えていて、その時点では全く理解不可能な仕方で進められていくのです。そのようなサムエルの誕生の仕方は、このサムエル記全体を指し示しているような出来事であるとも言えます。人間の罪の現実は確かにある。しかし、そこに神の御心が貫かれ、神の支配が人間の思いを超えた仕方で実現していくのです。
神がサムエルを誕生させるために選ばれたのは、エルカナの妻ハンナでした。「エルカナには二人の妻があった。一人はハンナ、もう一人はペニナで、ペニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった」(2節)。当時、一夫多妻は決して珍しいことではありませんでした。しかし、この習慣は家庭内にあらゆる不幸をもたらすことが常でした。特に妻たちの間の争いは熾烈です。旧約聖書にはしばしばこの争いについて記されております。ハンナとペニナの間にも争いがありました。その争いはハンナにとって、まことに不利でした。子供がいなかったからです。
しかし、ペニナは単に「わたしと彼との間には子供がいるのよ。あなたと彼との間には子供がいないじゃない」と言って苦しめたのではありません。あるいは「跡継ぎになるのはわたしの子なのよ」と言って苦しめたのでもありません。聖書には何と書かれているでしょう。「彼女を敵と見るペニナは、《主が子供をお授けにならないことで》ハンナを思い悩ませ、苦しめた」(6節)と書かれているのです。
つまりハンナの苦しみは、「主がお授けにならない」というところにあったのです。ですから、特にペニナがハンナを悩ましたのは年ごとに主の宮に上る時であったのです。「あなたは神様から見放されているのよ。だから子供が生まれないのでしょう。そんなあなたが主の宮に行ってどうなるの。」――ペニナはそう言ってハンナを苦しめたのだと思います。今の私たちからすれば、「そんな馬鹿なこと」と思いますが、残念ながらそれが当時の一般的な理解でしたから、ハンナとしてはペニナに返す言葉がありません。「毎年このようにして、ハンナが主の家に上るたびに、彼女はペニナのことで苦しんだ」(7節)。ここにハンナの苦悩がいかに深かったかがうかがわれます。
ところが、そのような彼女にひとつの転機が訪れます。子供が産まれたということではありません。聖書には、単純に「ハンナは立ち上がった」(9節)と書かれております。何のために立ち上がったのでしょう。祈るために立ち上がったのです。神のもとに行くために立ち上がったのです。
子供が生まれないハンナが素直に神に向かうことができなかったとしても不思議ではありません。彼女はペニナを憎く思ったでしょうが、それ以上に、そのような苦しみの中に彼女を置かれた神にハンナが恨みを覚えたとしても無理のないことだったと思います。しかし、主を恨み続けることは何の解決にもなりません。トンネルが延々と続くだけです。そのようなある日、彼女は「立ち上が」って主のもとに行ったのです。そこから新しい展開が始まるのです。
ハンナは悩み嘆きながら主に祈りました。「ハンナは悩み嘆いて主に祈り、激しく泣いた」(10節)と書かれております。後でハンナは言っています。「主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました」(15節)。この「心からの願い」と訳されている言葉は、もともと「命」とか「魂」と訳されるべき言葉です。彼女は「主の御前に魂(命)を注ぎだしておりました」と言ったのです。つまり、彼女は単に願いを注ぎ出していたのではないのです。命を注ぎ出していたのです。いわば彼女の全存在を主の前に注ぎ出していたのです。「願い」というような部分的なものではないのです。
彼女の内にあったのは単に願いだけではなかったはずです。そこにはペニナに対する恨みもあったでしょう。自分の苦しみを本当には理解してくれていない夫についての悲しさもあったでしょう。彼女がずっと抱えてきた孤独感もあったに違いありません。なぜ自分がこんな思いをしなくてはならないのかという神に対する恨みがあったかもしれません。彼女はそれらすべてを含めて全存在を神の前に注ぎ出していたのです。
そのような中でハンナは産まれてくる子供を捧げる決心へと導かれます。「はしために御心を留め、忘れることなく、男の子をお授けくださいますなら、その子の一生を主におささげし、その子の頭には決してかみそりを当てません」(11節)。かみそりを頭にあてないことは、その子がサムソンのように聖別されたナジル人となることを意味します。これこそまさに神の望まれたことでした。イスラエルの救いのために与えられたサムエルはまったく神のために聖別される必要があったのです。そのためには子供を神に捧げる母の信仰を必要としたのです。
今まで彼女には、自分を苦しめるペニナと苦しめられている自分しか見えていなかったに違いありません。ペニナに苦しめられれば、ペニナに負けたくないという思いも湧いてきたに違いありません。しかし、今やハンナにとって求めるものがはっきりしたのです。それは子供を得てペニナから責められなくなることでも、彼女を見返すことでもなかったのです。
彼女は何を求めたのでしょう。それは主が「御心を留め」てくださることです。それはつまり、主が自分を覚えていてくれればよい、ということです。たとえ子供が産まれたとしても、その子は主にささげよう。ただ私を覚えていてくれればよい。彼女の思いは明確に神と自分の関係に向かったのでした。これこそ、サムエルの誕生に際して、神がハンナに求めておられた信仰でした。
さて、祭司エリは、ハンナが酔っているものと誤解しました。ハンナはエリに説明します。「ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました」と。エリは彼女に言います。「安心して帰りなさい」(17節)。これは祭司が礼拝の中でしばしばイスラエルの民に語る救いの託宣と呼ばれているものです。彼女は祭司の言葉を、信仰をもって受け止めました。神が自分を罰しているのではない。裁いておられるのではない。神は私を顧みていてくださる。彼女の心にそのような確信が与えられました。そして神の恵みを信じて帰って行ったのです。
その後、彼女はどうなったでしょうか。「彼女の表情はもはや前のようではなかった」(18節)。子供が生まれたわけではありません。ペニナの悪口がなくなったわけでもありません。状況は何一つ変わってはおりません。しかし、彼女が変わりました。顧みてくださる神を信じる者となったのです。
やがてハンナに子供が生まれました。サムエルの誕生です。しかし、誕生の出来事そのものについては多くの言葉が用いられることはなく、実にあっさりと書かれています。むしろ、言葉が費やされているのは、その後のことです。子供は約束どおり、神に捧げられたということです。
例年のように夫エルカナが家族と共にいけにえを献げるために上って行こうとした時、ハンナは行こうとはしませんでした。そこでハンナは自らの決心を夫に告げるのです。「この子が乳離れしてから、一緒に主の御顔を仰ぎに行きます。そこにこの子をいつまでもとどまらせましょう」(22節)。夫はハンナの決意を受け入れます。
そして、サムエルが乳離れした後、ハンナはシロにある聖所に仕える祭司エリのもとにサムエルを連れていきます。そして、こう告げたのでした。「わたしはこの子を授かるようにと祈り、主はわたしが願ったことをかなえてくださいました。わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です」(27-28節)。そして、彼らは主を礼拝したのでした。こうして、サムエルという人物がイスラエルの中に備えられることになったのです。
2025年4月30日水曜日
祈祷会用:サムエル記 1:1~28
2025年4月27日日曜日
「わたしたちに送られた救いの言葉」
2025年4月27日 主日礼拝説教
聖書:イザヤ書 65:17‐25
今日は第一朗読においてイザヤ書が読まれました。最終的な神の救いが次のように表現されていました。「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない」(17節)。
救いの描写の縮小版
「見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する」。――「天と地」の組み合わせによって表現されているのは、被造物世界の全体、全宇宙を含めて、見えるものと見えないものとの全体です。そのすべてを全く新しくすると主は言われるのです。
そのように語られた次点で事柄は私たちの思考の枠を完全に越えてしまいます。もはや私たちには想像することすらできない。だから「それはだれの心にも上ることはない」と書かれているのです。ここに語られていることは、要するに、私たちの想像することもできないようなことを最終的に神様はなさるのだ、ということです。
逆に言うならば、そうでもしなかったら私たちは救われないのだ、ということです。それほどまでに救いがたいのが人間です。神が新しい天と新しい地を創造するようなことでもなければ、私たちは救われない。そして、神様はそのようなことをしてでも救ってくださる神様だということです。
さて、そのように神が最終的に行おうとしておられることは、本質的に私たちの想像を遙かに超えた出来事です。しかし、神様はそれを私たちの想像の枠内に収まるように語り直してくださるのです。それが18節以下です。そこには救いの世界が、私たちもある程度想像できるような仕方で書かれているのです。
長寿が祝福となる世界
そこで18節以下に目を向けますと、その中心に描かれているのは、救われた人々が「長寿」であることです。「そこには、もはや若死にする者も、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる」(20節)。
救いの世界が「長寿の世界」として表現されているのは、決して自明のことではありません。実際、この世における「長寿」について考えてみてください。「長寿」は単純に「救い」と結びつくでしょうか。「長寿」は単純に「祝福」と考えられますでしょうか。日本は世界一の長寿国です。だからと言って単純に日本の高齢者は幸せだ、と言えるのでしょうか。言えないだろうと思います。
長寿が祝福として語られるためには、どうしてもその前提が必要です。それは「喜びがある」ということです。生きていることに喜びが伴っているということです。ですから、長寿について語られる前に、まず喜びについて語られているのです。主は言われます。「代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」(18節)。
若い時に経験した喜びの多くは、歳を重ねるに従って失われていきます。ここにあるように神が喜び楽しませてくださってこそ、長寿は祝福となるのです。いや、ここにはさらに深い喜びが語られています。「わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする」(19節)。つまり真の喜び、変わることのない喜びは、神が喜び楽しませてくださるだけでなく、《神の喜び》となるところにあるのです。神はそのような喜びを与えると言われるのです。
狼が小羊と共に生きる世界
そして、その喜びは21節以下に書かれていることと深いところで結びついています。そこには次のように書かれています。「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを、他国人が食べることもない」(21‐22節)。
ここで「他国人」と訳されていますが、元来の意味は「他人」です。自分が建てたものに他人が住み、植えたものを他人が食べる。それが意味するのは、「他人に奪われる」ということです。奪われることに怯えて生きざるを得ないのは、私たちが奪い合いの世界に生きているからです。小さな家庭内の兄弟喧嘩から、国家間の戦争に至るまで、まさに人類が今日に至るまで織りなしてきたものは、この奪い合いの歴史です。
しかし、ここに描かれているのは、もはや奪われることのない世界です。害されることのない世界です。奪われる恐れがないのは、神が近くおられ、神が治めてくださるからです。「彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」(24節)。それほどに神は近くにいてくださるのです。
いや、ここに書かれていることはより大きなことです。神は近くにいて奪われる者を奪う者から守ってくださるだけではありません。そもそもの奪い合う《悪そのもの》を取り除いてくださるのです。害し合う悪そのものを取り除いてくださるのです。そして、皆が本当の意味で共に生きるようにしてくださるのです。
25節に書かれているのはそういうことです。「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」(25節)。そのように共に生きることができる。そして、共に生きる世界にこそ、神の与えてくださる喜びが満ちるのです。
キリストの十字架のゆえに
さて、このようなエルサレムの描写は、先に述べたように新しい天と新しい地そのものの描写ではありません。人間の思考の枠に収まるように加工されたものです。しかし、これらの言葉から、少なくとも神様が何を私たちに与えたいと望んでいてくださるかは分かります。
主は、奪い合い害し合う「悪」そのものが取り除かれた世界を望んでおられる。私たちが共に生きる世界を望んでおられる。そして、長寿が祝福とみなされるような喜びが満ちた世界、神の喜びを共有する世界を望んでおられるのです。もちろん、望んでおられるだけでなく、神様は与えてくださるのです。そのために、神はこの世界にキリストを遣わしてくださったのです。
しかし、キリストが来られた時、預言者イザヤの書に書かれているようなことは実現しませんでした。そこで何が起こったのか。私たちは良く知っています。神が遣わしてくださったキリストは、人間の手によって十字架にかけられ、殺されてしまったのです。
今日の第二朗読において、パウロは次のように語っていました。「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました」(使徒13:27‐29)。
そのように、神が救いのために遣わされたキリストを、人間は罪に定めて十字架にかけて殺してしまったのです。そのような形において人間の罪が白日のもとにさらされることになりました。あくまでも自分の正しさを主張し、神の子さえも裁いて罪に定めて殺してしまう、そんな人間の罪が明らかにされたのです。
そうです、あの日、イザヤ書に書かれている救いの世界は実現しませんでした。むしろ、私たち人間がいかに救いから遠いか、私たちがいかに救いがたい罪深い存在かということが明らかにされたのです。しかし、そこでパウロは言うのです。「イエスについて書かれていることがすべて実現した」と。すなわち、神様が計画しておられたことがすべて実現した。そのように聖書は語っているのです。
つまり、イザヤ書65章に語られていた救いの世界が実現する前に、この地上には十字架が立てられなくてはならなかった、ということなのです。奪い合い害し合う悪そのものを取り除いてくださる前に、私たちが共に生きる世界を神が与えてくださる前に、喜びが満ちる世界、神の喜びを共有する世界を与えてくださる前に、神は私たち人間の罪を赦すために、十字架をこの地上に立てなくてはならなかったのです。御子イエスの血によって罪の贖いを成し遂げなくてはならなかったのです。すべては既に書かれていたことでした。神のご計画の中にあったことでした。
だからこそ、十字架には続きがあるのです。パウロはこう続けます。「しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」(使徒13:30)。
神は私たちの想像を超えたことをなさいます。キリストの復活という出来事自体が、既に私たちの思考や想像を超えています。「だれの心にも上ることはない」ようなことを神はなさいました。そして、最終的に「だれの心にも上ることはない」ような仕方で、救いを実現してくださいます。奪い合い害し合う悪そのものを取り除いてくださいます。私たちが共に生きる世界を与えてくださいます。喜びが満ちる世界、神の喜びを共有する世界を与えてくださいます。「新しい天と新しい地の創造」としか表現できないような仕方において与えてくださるのです。
そして、救いの言葉は既に私たちに送られ、こうして私たちは受け取っています。私たちは最終的な完全な救いを信じて、希望をもって生きることができるのです。いや、私たちは救いを待ち望んで生きるだけでなく、私たちは既にその新しい天と新しい地を味わい始めているのです。大きなデコレーションケーキの端っこのクリームをなめさせていただくような仕方で味わい始めているのです。それが信仰生活です。
既に罪の赦しの十字架は立てられました。十字架につけられたイエスの御名による罪の赦しが宣べ伝えられています。私たちは罪を赦していただいた者として、信仰生活の恵みにあずかります。そして、罪を赦していただいた者として、新しい天と新しい地における救いの完成を待ち望んで生きるのです。
2025年4月23日水曜日
祈祷会用:ホセア書 14:1~8
ホセア書 14:1-8
2024年12月4日からホセア書を読み始め、今日、最後の14章をお読みしました。1節は直接的には先々週お読みした13章の続きです。かつて栄えたエフライムに対して主が滅亡を宣言し、最終的に次のように締めくくられたのです。「サマリアは罰せられる。その神に背いたからだ。住民は剣に倒れ、幼子は打ち殺され、妊婦は引き裂かれる」(1節)。しかし、これが最後の言葉なのではありません。主が滅ぼして終わりにするつもりであるならば、初めから滅亡の予告などしないで、滅ぼしたらよいでしょう。しかし、主の意図はそこにあるのでありません。主はあくまでもイスラエルの人々に向かって呼び掛けるのです。「イスラエルよ、立ち帰れ」と。
2節以降には次のように語られています。「イスラエルよ、立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ。あなたは咎につまずき、悪の中にいる。誓いの言葉を携え、主に立ち帰って言え。『すべての悪を取り去り、恵みをお与えください。この唇をもって誓ったことを果たします。アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬に乗りません。自分の手が造ったものを、再びわたしたちの神とは呼びません。親を失った者は、あなたにこそ憐れみを見いだします』」(2‐4節)。
「イスラエルよ、立ち帰れ!」と語られていますように、彼らがどんなに惨めな状態であっても、それでもなお立ち帰るべき神がおられるのです。「あなたの神、主のもとへ」と書かれていますでしょう。立ち帰ることができるのは、主がまだ「あなたの神」だからです。確かに神に背き続けてきました。神の呼びかけにも答えませんでした。神の警告にも耳を傾けませんでした。今や蒔いた種を刈り取りつつあります。王国の滅亡は時間の問題でした。まさに「あなたは咎につまずき、悪の中にいる」と言われても仕方のない者です。しかし、それでもなお「主はあなたの神」なのです。
3章に語られていたことを思い起こしてください。妻の不貞のゆえに苦しむホセアに、「行け、夫に愛されていながら姦淫をする女を愛せよ」(3:1)と命じられたのは、他ならぬ主なる神でした。神が命じるように、ホセアは自ら苦しみながらも、犠牲を払って妻を受け入れたのです。あくまでもゴメルの夫であり続けることを主はホセアに要求したのです。ですから、ホセアは知っているのです。主なる神もまた同じだということを。主は、不貞の妻に等しいイスラエルの夫であり続けようとされる御方だということを、ホセアは知っているのです。それゆえ、ホセアは「あなたの神に立ち帰れ」と叫ぶのです。
では、どのようにして、主に立ち帰ったらよいのでしょう。立ち帰るとはどういうことなのでしょうか。かつて預言者ホセアを通して主はこう語られました。「彼らは羊と牛を携えて主を尋ね求めるが、見いだすことはできない」(5:6)。そうです、彼らはこれまでも多くの羊や牛を捧げることにおいては熱心だったのです。いつの時代でも、幸福を求め、自分の願いの実現を求めて、人はいくらでも熱心に儀式を行い、多くの犠牲を捧げるものなのです。しかし、神が求めておられるのは形だけの儀式や犠牲の羊や牛ではありません。人間の真実です。真実から出る言葉です。どのような言葉でしょうか。3節以下にその言葉が記されています。
まず語られている言葉は「すべての悪を取り去り、恵みをお与えください」という祈りです。「すべての悪を取り去ってください」という祈りは、自分の内に悪があることを認めなくてはできません。往々にして、私たちが自分自身に悪を認めるのは一番最後です。災いにおいて、危機において、自らの経験した不幸について、いくらでも他者を悪者にできるものです。最終的には神をさえ悪者にするのです。しかし、主は立ち帰る者に、まず自らの悪を認めることを求められます。へりくだって神の恵みを求める罪人として御前に近づくことを求められるのです。
そして、ただ神のみに依り頼んで生きていくことを、神の前に申し述べねばなりません。彼らはかつてアッシリアに頼りました。アッシリアこそ救いだと思いました。しかし、アッシリアは救いとなるどころか、むしろ彼らを滅ぼすものとなりました。また、彼らはエジプトにも頼りました。エジプトから多くの軍馬を得ようとしました。この世の力にこそ救いがあると思いました。しかし、その軍馬も、またエジプトも、最終的には何の頼りにもなりませんでした。また、彼らは多くの偶像を作りました。神の像を据えることで安心していました。多くの偶像に囲まれていれば、あたかも神が身近にいて願い求めを聞き入
れてくれるものと思っていました。しかし、偶像はただ神との真実な関係を失わせるだけだったのです。
そのような彼らにとって国家が滅亡へと向かうプロセスは、神ならぬものがあくまでも神ではないことを悟らされるプロセスとなりました。人の経験する多くの苦難は、しばしばそのような過程であると言えるでしょう。神に立ち帰るということは、そこで「アッシリアはわたしたちの救いではありません。わたしたちはもはや軍馬には乗りません。自分の手が造ったものを再びわたしたちの神とは呼びません」と神に向かって言い表すことなのです。そして、「親を失った者はあなたにこそ憐れみを見いだします」と言って、自らがまことの親を失っていたような者であったことを認めて、ただ神の憐れみを求めることなのです。
人がそのように神に立ち帰る時、主は応えてくださいます。「わたしは背く彼らをいやし、喜んで彼らを愛する。まことに、わたしの怒りは彼らを離れ去った。露のようにわたしはイスラエルに臨み、彼はゆりのように花咲き、レバノンの杉のように根を張る。その若枝は広がり、オリーブのように美しく、レバノンの杉のように香る。その陰に宿る人々は再び、麦のように育ち、ぶどうのように花咲く。彼はレバノンのぶどう酒のようにたたえられる」(5‐8節)。
主は「喜んで彼らを愛する」と言われます。立ち帰る者たちに対して、自らを彼らの癒し主として語られます。人間が本当の意味で回復された者として再び命に満たされて生きる道は、神の赦しと癒しにしかありません。
主が立ち帰る者をどのように回復してくださるかは、6節以下に記されています。主は「露のようにわたしはイスラエルに臨む」と言われます。乾燥した地に生きる人々は、露がいかに草木を生かすものであるかを知っています。そのように、枯れ木のようになったイスラエルに神は命を与える露のように臨んでくださるのです。その時、とうてい花が咲き得ないような枯れ果てた枝に、再び蕾がつき花が咲くのです。死んでしまったような木から、再び大地に向かって根が伸び始めるのです。赤茶けて葉もすべて落ちてしまったような木々に、再び若枝が生じ、伸びて広がっていくのです。
これらはすべて命の現れです。命の源である神につながってこそ、具体的な命の現れを見るようになるのです。そのように、真の希望は神のもとにこそあります。唯一の希望は人が神に立ち帰るところにこそあるのです。それゆえ、ホセアは言うのです。「立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ」と。これこそ、神の愛から出た神の叫びに他なりません。
ホセアがこのように語った時から七百年の後に、イエス様は人々のもとに現れ、罪人らと食事を共にしてこう言われました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5:31‐32)。イエス様は、そのように罪人が神に立ち帰り、神との交わりのうちに回復せられるために、自ら罪を代わりに背負い、罪の贖いを成し遂げられたのでした。この方の姿こそ、預言者を通して語られた神の言葉が肉となり、一人の人格としてこの地上に来られた姿に他なりませんでした。
ペトロも後に、こう書いています。「そして、(キリストは)十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻ってきたのです」(1ペトロ2:24‐25)。その御方によって、今もこの世界は呼びかけられています。「立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ」と。
2025年4月20日日曜日
「死の扉を開く鍵はキリストの手の中に」
2025年4月20日 イースター礼拝説教
聖書:黙示録1:12‐18
主の日の出来事
今年のイースター礼拝では、第2朗読において「ヨハネの黙示録」が読まれました。聖書の最後の書物です。読んだことのある人はご存じだと思いますが、この書は実に不可思議な神秘的な描写に満ちています。無理もありません。この書はヨハネという人物の神秘体験に基づいて書かれているからです。しかし、そのような書物が聖書の中に収められ、2千年後の今日に至るまで読まれているのはなぜでしょう。それは、そこに書かれていることは、単なる一個人の神秘体験に留まらず、ここにいる私たちにとっても、大きな意味を持っているからに他なりません。今日お読みした箇所からも、私たちは、ここに書かれている不思議な描写が、今日の私たちにとって、いったい何を意味するのかを、しっかり聞き取りたいと思うのです。
今日の第2朗読は次のような言葉から始まっていました。「わたしは、語り掛ける声の主を見ようとして振り向いた」。
この「わたし」というのは、先にも申しましたように、ヨハネという人物です。このヨハネはどこにいるかと言いますと、エーゲ海に浮かぶ小さな島、パトモス島というところにいるのです。今日では観光地ですが、当時は流刑地です。ヨハネは信仰のゆえに島流しとなってそこにいるのです。
当然のことながらそこに教会はありません。信仰を同じくする仲間もいません。その意味で彼は孤独です。彼は皆と集まって共に礼拝することもできません。かつてボンヘッファーという人がこんなことを書いていました。「一つの信仰共同体が、この世において、神の言葉と礼典にあずかるために、目に見える形で集まることを許されるということは、神の恵みである。すべてのキリスト者が、この恵みにあずかるわけではない。囚われ人、病人、散らされて孤独の中にいる人、異邦の国にいる福音の宣教者、などの人たちはただひとりでいる。彼らは、『目に見える交わりが恵みである』ということを知っている」。その意味では、ヨハネもまたそのような一人であったと言うことができるでしょう。
しかし、そのような孤独な状況に置かれていたヨハネにも、やはり同じように日曜日は訪れるのです。ヨハネは日曜日に礼拝をささげている諸教会を思いながら、その日、一人で礼拝をささげていました。今日お読みしたのは、そのような日曜日、「主の日」における出来事です。そのような日曜日における神秘体験と言っても良いかもしれません。
ヨハネは突然、背後に大声で語り掛ける声を聞きました。ヨハネは声の主を見ようと振り返ります。すると、まず目に入ってきたのは七つの金の燭台でした。後でヨハネは、その七つの金の燭台が何を意味するかを知ることになります。今日の朗読には入っていないのですが、1章20節には「七つの燭台は七つの教会である」というキリストの言葉を聞くのです。つまり、ヨハネは一人孤独に礼拝をささげていると思っていたのですが、実はそうではなかった。彼は本当は孤独ではなかったのです。ヨハネが振り返る前から、そこには既に七つの燭台があった。つまり七つの教会が共にいたのです。主の日の礼拝の中で、彼は教会と共にいたのです。
そして、その中央に「人の子のような方」を見ました。十字架にかけられ復活されたキリストでした。流刑となって教会と引き離されたヨハネは、迫害の中にある一つ一つの教会のことを案じていたに違いありません。しかし、その中央にキリストが立っているのを見たのです。そもそも燭台というものは燭台自身が火を灯し続けるのではありません。火を灯し続けてくださる人がいるから光を保てるのです。教会も同じです。燭台の中央にキリストがおられるなら、燭台はどのような状態にあっても輝き続けるのです。
キリストの御姿
しかし、そこに書かれているキリストの描写はどうでしょう。長い衣を着て金の帯を締め、髪の毛は雪のように真っ白で、目はまるで燃え盛る炎のよう、足は精錬された真鍮のように輝き、声は大水のとどろきのようだった……というのです。しかも、口からは鋭い両刃の剣が突き出している。さらに顔は照り輝く太陽のようだった、というのです。
少し時間をとって、想像してみてください。振り向いたら、そこにはそのようなキリストがおられた。私たちがヨハネだったら、そこで何を感じ、何を思うでしょうか。
一方において、福音書に描かれているキリストの姿、それもまた私たちの知るキリストの姿です。福音書はただかつてのキリストの姿を伝えているだけではありません。復活して永遠に生きておられる私たちの救い主はこのような御方なのだと、私たちに伝えているのです。福音書に見るイエス様の姿は、まさに永遠に私たちと共にいてくださるイエス様の姿に他なりません。
しかし、それが全てではないのです。聖書には、今日お読みしたようなキリストの描写もあるのです。それは馴れ馴れしく近づくことのできないキリストの姿です。まさにそのような描写をもって伝えられているのは、神としての権威と力です。最終的に正しくこの世界を裁く御方としての権能です。本当の意味で、私たちが恐れなくてはならない御方としてのキリストです。今年の復活祭においては、復活されたキリストとは、そのような御方なのだということを心に刻みたいと思うのです。
先ほど、「私たちがヨハネだったら、そこで何を感じ、何を思うのでしょうか」と申しました。しかし、実際に私たちがそこにいたなら、何を感じるとか、何を思うという、そんな悠長な話にはならないでしょう。ヨハネはどうでしたか。「わたしはその方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった」と書かれているのです。恐らく私たちもそうなるのです。
何一つごまかしの利かない御方の、正しく人間を裁くことのできる圧倒的な神の権威と力の前に立たされるとはこういうことなのです。そして、仮にヨハネのような神秘体験の中でそのような姿を見なくても、本当はここにいる私たちもまた、そのようなキリストの前にいるのです。私たちが主の御前に出るということは、私たちはまさに裁かれて死ぬべき罪人として、そこに身を置いているということなのです。
しかし、倒れて死んだようになったヨハネに対して、キリストはこう語りかけられたのです。「恐れるな」と。最終的な裁きの権威が与えられている方から「恐れるな」と言われたのです。これこそまさに聖書の伝える福音です。これこそがまさに聖書の語る罪の赦しなのです。これがキリストの十字架によって罪を贖われているということなのです。
最終的に裁くことのできる御方から「恐れるな」という言葉を聞くことができ、もはや最後の審判をさえ恐れる必要がないならば、本当は他の何も恐れる必要はないのです。本当は、迫害も死をも恐れる必要はない。この世で何が起ころうとも恐れる必要がない。ヨハネは、自分がそのような者とされていることを、流刑の苦しみのただ中で知ることとなったのです。そして、それは私たちにも与えられている恵みなのです。
死の鍵を持っている
そして、「恐れるな」と語られたキリストは、さらにこう言われました。「わたしは最初の者にして最後の者、また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」(17‐18節)。
キリストは殊更に強調するかのように二度「生きている」を繰り返します。これは「ゾーン」という言葉で、英語の聖書では"living"と訳されます。この言葉が本当の意味で当てはまるのはキリストだけです。私たちの場合、厳密には「生きている(living)」ではなくて「死につつある(dying)」なのです。確実に死に向かっているわけですから。しかし、キリストは本当の意味で「生きている」。なぜなら死はキリストを閉じこめることはできなかったからです。
それゆえにキリストは、死に打ち勝った御方として、「死と陰府の鍵を持っている」と語られているのです。御自分が死に閉ざされなかっただけでなく、私たちをも死の支配から解放することができるということです。私たちは死の鍵を持っておられる方を主としているのです。それゆえに、死は絶望を意味しないということも知っているのです。
かつて教会には殉教した仲間の棺を聖餐卓としてその上で聖餐を行っていた時代がありました。それは地下墓地で礼拝を行っていたという状況もありますが、しかし、その一方で彼らは「あえて」そうしていたのです。棺の上でキリストによる救いを祝っていた。それは迫害に対する、死に対する、勝利の宣言でもあったのです。
実は、私たちの教会においても、葬儀の日程の関係から、礼拝堂に棺を置いたまま主日礼拝をささげたことがありました。そして、それは確かに、私たちが信じている御方が、まさに「死と陰府の鍵を持っている」と宣言する御方であることを、目に見える形で証しする機会となったことを思い出します。
実際、もし死を越えた希望がないならば、主日礼拝の中であろうと、通常の葬儀の中であろうと、礼拝堂に棺を置くことに何の意味もありません。というよりも、葬儀そのものを行うことに、何の意味もなくなるのでしょう。そして、さらに言うならば、もし死を越えた希望がないなら、この世に長く生きようが短く生きようが、何の意味があるか、ということにすらなるのでしょう。
しかし、実際には、そうではないことを私たちは知っています。復活されたキリストが、「恐れるな」と言ってくださる。そして、「見よ、世々限りなく生きて、死と陰府の鍵を持っている」と高らかに宣言してくださるのです。
だからこそ、たとえ、私たちの愛する仲間の棺がここに置かれていたとしても、私たちはそこで神を讃えることができるし、希望に満ちた祈りをささげることができるのです。事実私たちはそうしてきたし、これからもそのように主を礼拝することでしょう。そして、やがて私たち自身の棺が置かれる時が来るのです。その時にも、棺は、希望に満ちた祈りと賛美の中に置かれることになるのです。復活された主が、死の鍵を持っておられる方が、世々限りなく生きておられ、私たちと共にいてくださるからです。
2025年4月13日日曜日
「救い主が成し遂げてくださったこと」
2025年4月13日棕櫚の聖日 礼拝説教
聖書:マタイ27:32-56
今日の福音書朗読は、イエス様が十字架にかけられ、息を引き取られるまでのことを伝えている聖書箇所でした。
それは世界の片隅で起こった小さな出来事でした。特殊な力をもったあるユダヤ人が宗教裁判にかけられ、後にローマ人の法廷において裁かれ、十字架刑に処せられて死んだ。この世的に見るならば、それだけの話です。当時は十字架刑で処刑された人などいくらでもいた時代ですから、そこで起こった出来事も、やがて時の流れと共に忘れ去られたとしても、決して不思議ではなかったのです。
しかし、現実にはそうはなりませんでした。その人の話は二千年後の遠く離れた日本においても語り継がれ、あの日の出来事はこの世界を変えた出来事として記憶されてきたのです。それゆえに、なんと、あの時用いられた死刑の道具が、二千年後の日本の教会にもこうして掲げられているのです。
あの日、あそこで何が起こったのか。あの方が十字架の上で死んだことは、いったい何を意味するのか。聖書は実に様々な仕方で、言葉を尽くして、あの出来事の意味を伝えようとしているのです。今日読まれた箇所もその一つです。
そこには確かに、今日の私たちからすると、首をかしげてしまうようなことが書かれています。昼の十二時に全地は真っ暗になった。神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。さらには墓が開いて、死者が生き返ったという話まで出て来ます。――明らかにマタイが伝えようとしているのは、人間が行った何かではありません。あの十字架の出来事は、ただ人間が人間に対して行ったことではないのだ、ということを伝えようとしているのです。そこには神がなさった特別なことがあるのです。では、それは何なのか。一つ一つ見ていきましょう。
全地は暗くなった
まず書かれているのは「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(45節)ということです。
かつてイスラエルには、最も明るいはずの真昼が暗闇となることを預言した人がいました。預言者アモスです。アモス書には次のように書かれています。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする」(アモス8:9‐10)。
アモスが語っているのは裁きの預言です。彼は神が最終的にこの世の罪を裁かれる「その日」について語るのです。アモスは「その日」を「主の日」と呼びます。そして、その「主の日」が、暗闇として到来することを預言したのです。
そして、今日の聖書箇所は、ついに「その日が来た」と伝えているのです。旧約聖書の預言のとおり、「昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と。神が白昼に大地を闇とする日、そして、神が喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変えられる日、苦悩に満ちた日が、ついに到来したのです。
しかし、地上に神の裁きが行われる「その日」が到来したにもかかわらず、現実に起こったことは、アモスの預言の通りではありませんでした。地上の人々は嘆きの歌など口にしていませんでした。――そうです、たった一人を除いては。
嘆きの歌を口にしていたのは、ただ一人、十字架の上のキリストだけだったのです。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。それは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味であると説明されています。それは嘆きの歌と呼ばれる詩編の一つ、詩編22編の言葉です。そのように、ただキリストだけが神に裁かれ、見捨てられた者として、嘆きの歌を口にし、苦悩の叫びを上げておられたのです。
他の人々は、主の日が到来し、神の裁きが地上に行われているなどと夢にも思ってはいませんでした。本当は神の正しい裁きのもとに苦悩しながら滅びるしかなかった自分であることを誰も知りませんでした。そんなことはつゆ知らず、人々はキリストに向かってあざけりの言葉を投げつけていたのです。そして、そのただ中で、罪なきキリストが、まるで避雷針のように、すべての人に代わって、すべての人の罪をその身に負って、神の裁きを一身に受けられたのです。
そして、主は死なれました。「イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた」(50節)と書かれています。主の最後の叫び、それは「成し遂げられた」という叫びであったとヨハネによる福音書は伝えています。救い主が成すべきことを成し遂げられたのです。ならば、それはまた、この地上に決定的な何かが始まった瞬間でもあるのでしょう。
それゆえに、マタイは「そのとき」という言葉をもって、さらに神のなされた二つのことを伝えるのです。ちなみに「そのとき」というのは、「すると、見よ!」というのが直訳です。「見よ!」という言葉で、その瞬間から始まった出来事に注目させているのです。そこで注目すべきは単に事柄の不思議さでも異常さでもありません。大事なのは、それが「何を意味しているのか」ということです。先にも申しましたように、聖書は言葉を尽くして、あの日の出来事の「意味」を伝えようとしているのです。
垂れ幕が裂かれた
まずそこに語られているのは、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け」たということです。
「垂れ幕」とは、神殿の一番奥にある「至聖所」と呼ばれる部屋の前にかかっている垂れ幕のことです。その至聖所には通常誰も入ることができません。ただ一年に一回だけ、大祭司が垂れ幕を通って至聖所に入ることが許されています。大祭司は罪を贖う犠牲の血を携えて入るのです。贖いの血を携えなければ通ることができない神殿の垂れ幕は、神と人間との関係を象徴的に表しています。人間には罪があるゆえに、本来、聖なる神に近づくことはできない、ということです。その事実を示しているのが、この垂れ幕です。
しかし、その垂れ幕が真っ二つに裂けたのです。「裂けた」と書かれていますが、正確には「裂かれた」と書かれているのです。誰が裂いたのか。神が引き裂いたのです。ですから「上から下まで」と書かれているのです。あの瞬間、キリストが息絶えた瞬間、神御自身が垂れ幕を引き裂いたのです。
キリストが成し遂げてくださったことのゆえに、もはや神と人間とを隔てるものはなくなりました。神によって垂れ幕は引き裂かれた。そこにあるのは罪の赦しです。罪の赦しによって、人間が神に近づく道が、永遠に開かれました。その道が神の御手によって開かれました。これが、あの瞬間にこの地上において起こった第一のことです。
墓が開いた
そして、さらにこう書かれております。「地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた」(51‐52節)。
私たちの目に大地は動かざるものと映ります。人間はその確かさの上に家を建て、町を築きます。しかし、大地は決して動かざるものではありません。地震が起これば揺れ動きます。そして、決して裂けるとは思えなかった岩が裂けるのです。
キリストの死において始まったのは、まさにそのような出来事だったというのです。最も確かに思えたものが揺り動かされ、打ち壊されたのです。
人間にとって最も確かなことって何ですか。それは人間が「死ぬ」ということでしょう。死の支配ほど確かなものはありません。死の中に閉じこめられない者は誰もいません。墓に入った者は、二度と外に出てくることはありません。それが最も確かなことです。そうです、確かなことであった……はずでした。しかし、その最も確かなものが揺り動かされ、打ち壊されたのです。死の支配が打ち壊されたのです。「墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」という描写が意味しているのは、そういうことです。
そして、墓が開かれたことが、神殿の垂れ幕が裂かれたことと共に記されているのです。この二つは切り離すことができないのです。
考えてみてください。私たちが死んだ後で、再び墓から出てくることが出来れば、それが救いになるでしょうか。本当の意味で死の克服になるでしょうか。あるいは、そのまま永遠に長生きして死なないとするならば、それは死の克服になるでしょうか。いいえ、ただそれだけならば、それはきっと地獄を意味するに違いありません。
本当に必要なのは、罪の赦しであり、隔てが取り除かれた者として神との交わりが回復されることなのです。そのこと抜きにして、ただ墓から出てくるだけなら、苦悩の日々が永遠に伸びるだけなのです。
今日は4月の召天月礼拝でもあります。4月に天に召された方々を記念して礼拝を捧げています。それらの方々をも含め、私は、今まで病の床において共に祈り、そして亡くなっていった幾人もの人たちを思い起こします。人が人生の終局にさしかかる時、もはや富も名誉も大きな意味を持ち得ません。豪華なご馳走も、意味を持ちません。食べられないんですから。最終的に死が克服されるために必要なのは、何ですか。それは、キリストの十字架であり、「あなたの罪は赦された」という神の宣言であり、神と人との隔てが取り除かれて、人が神と共に生きるようになることなのです。そこにこそ真の救いはあるのです。
私たちは十字架におけるキリストの死において実現したことを見てきました。今日から受難週に入ります。イースターまでの一週間、キリストの十字架において成し遂げられた救いの恵みを深く思い巡らす時として過ごしましょう。
2025年4月9日水曜日
祈祷会用:ホセア書 13:1~15
ホセア書 13:1‐15
13章の預言は、紀元前721年に北イスラエル王国が滅亡する直前に語られたものと思われます。一つの国家が崩壊し、滅亡するということは、恐るべき危機的状況です。その危機的状況の中で預言者は人々に語ります。しかし、彼は、単に危機を逃れる方法を語っているのではありません。安易な救いを約束しないのです。
国家的な危機であっても、小さな家庭のトラブルであっても、往々にして人は「どうしたらよいのか」とだけ問い、答えを得ようといたします。しかし、聖書は、安易に「どうしたらよいか」という答えを与えてくれません。その前に、「何が問題であるのか」を語るのです。そこで人間の罪を明らかにするのです。それは私たちの耳に決して心地良い言葉ではありません。しかし、私たちはまずその言葉をしっかりと聞き取らねばならないのです。病が真に癒されるためには、場合によっては腹が切り裂かれ、病巣が露わにされねばなりません。それが神の方法です。
初めに1節から3節までをお読みしましょう。「エフライムが語れば恐れられ、イスラエルの中で重んじられていた。しかし、バアルによって罪を犯したので彼は死ぬ。今も、彼らはその罪に加えて、偶像を鋳て造る、銀を注ぎこみ、技巧を尽くした像を。それらはみな、職人たちの細工だ。彼らは互いに言う。『犠牲をささげる者たちよ、子牛に口づけせよ』と。彼らは朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ。麦打ち場から舞い上がるもみ殻のように、煙出しから消えて行く煙のようになる』」(1‐3節)。
エフライム族は、イスラエルの諸部族の中でいつも優位に立っていました。モーセの後継者となったヨシュアはエフライム族の出身でしたし、王国が南北に分裂した時、北のイスラエル十部族の王となったのはエフライム族のヤロブアムでした。しかし、そのようにイスラエルの中でどれほど重んじられてこようと、「彼は死ぬ」と言われるのです。「死ぬ」とは、神に裁かれ、捨てられ、滅びることを意味します。なぜ神に裁かれるのでしょうか。バアルによって罪を犯したからです。子牛の像を造り、拝み、偶像に口づけしたからです。
人間の罪は、しばしばその祈りと礼拝とにおいて、最も醜い姿を現します。聖なる御方に向かうべき場が、人間のありとあらゆる欲望によって支配されるのです。人は神の像を造ります。それは人間の欲望の投影です。神の像に向かう時、本当は人は神に向かってなどいないのです。その人にとって重要なことは、自分の願望が実現し、自分の欲求が満たされることでしかないからです。そこには神と人との真実な関係は存在しません。そのような礼拝によって、神と共に生きる生活、神の御前に生きる生活が形作られるはずがありません。
神ならぬものが神とされているならば、それはやがて失われていくことになります。神ならぬものは消え去るのです。それは朝の霧、すぐに消え失せる露でしかありません。人間の欲によって神とされていたものが消え去る時、人は神ならぬものを神としていた現実を思い知らされるのです。
続いて4節から8節までをお読みしましょう。「わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしのほかに、神を認めてはならない。わたしのほかに、救いうる者はない。荒れ野で、乾ききった地で、わたしはあなたを顧みた。養われて、彼らは腹を満たし、満ち足りると、高慢になり、ついには、わたしを忘れた。そこでわたしは獅子のように、豹のように道で彼らをねらう。子を奪われた熊のように彼らを襲い、脇腹を引き裂き、その場で獅子のように彼らを食らう。野獣が彼らをかみ裂く」(4‐8節)。
主はエジプトの奴隷であったイスラエルの民を心に留め、救い出し、エジプトの地から導き上られました。イスラエルの民が救われるに価する民であったからではありません。ただ神が彼らを愛されたのです。救いは一方的な神の恵みと憐れみによるものでした。そして、神の方から「わたしこそあなたの神、主」と名乗ってくださったのです。ただ神の恵みによって、イスラエルの民は神のものとされました。そして、エジプトからイスラエルの民を導き出された主なる神は、彼らを荒れ野においても養われます。こうして彼らは、乳と蜜の流れる地、豊かなカナンの地へと導き入れられたのでした。彼らは神の賜る豊かさに与りました。それは神との交わりの豊かさに基づくものでした。そうです、まず神との生きた関係があり、豊かさはその神からの賜物でありました。
しかし、豊かさの中に罠がありました。彼らにとって、豊作と繁栄は、神御自身との生きた交わりよりも大切なものとなりました。神の言葉も、神への従順も、神の恵みへの応答も、一切どうでもよいこととなってしまいました。「養われて、彼らは腹を満たし、満ち足りると、高慢になり、ついには、わたしを忘れた」と書かれている通りです。
それはいつの時代にも目にすることのできる人間の姿に他なりません。あらゆる形における偶像礼拝の根元には、この人間の高慢があります。神を忘れた人間の高慢があります。信仰生活の危機、神と共に生きる生活の危機は、苦難と悲しみの荒れ野にあるのではありません。むしろ、満ち足りた生活の中に、豊かさの中に、神ならぬものを手軽に神にしておけばなんとかなる、そんな生活の中にこそあるのです。
この人間の高慢にこそ、神の怒りは向けられます。神は怒りをもって、人間の心の高ぶりを打ち砕かれます。エフライムは豊かでした。しかし、その豊かな国も滅ぼされます。ホセアは、かつて豊かであった都サマリアも陥落し、エフライムが滅びることを予見しております。具体的にはアッシリアによって滅ぼされるのです。その現実を、ホセアは野獣に獲物が裂かれる姿をもって描きます。しかし、彼は国がアッシリアによって滅ぼされるとは語りません。その背後に神の怒りがあることを見ています。高慢な民に猛獣のように攻め上って来たのは、アッシリアではなくて神御自身なのです。
そこで、主はさらにホセアを通して次のように語られます。「イスラエルよ、お前の破滅が来る。わたしに背いたからだ。お前の助けであるわたしに背いたからだ。どこにいるのか、お前の王は、どこの町でも、お前を救うはずの者、お前を治める者らは。『王や高官をわたしにください』と、お前は言ったではないか。怒りをもって、わたしは王を与えた。憤りをもって、これを奪う。エフライムの咎はとどめておかれ、その罪は蓄えておかれる。産みの苦しみが襲う。彼は知恵のない子で、生まれるべき時なのに、胎から出て来ない。陰府の支配からわたしは彼らを贖うだろうか。死から彼らを解き放つだろうか。死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか。憐れみはわたしの目から消え去る」(9‐14節)。
ここで神は、人間の高ぶりが採った、もう一つの具体的な形に言及します。それはイスラエルの王制です。そもそも、イスラエルはどうして王国という形を採ったのでしょうか。その発端はサムエル記上8章5節以下に記されています。イスラエルの長老たちが、宗教的かつ政治的指導者であったサムエルに要求したのです。「今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」(サムエル上8:5)。20節にも同様の言葉が記されています。「我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」(同8:20)。
ここで問題は「ほかのすべての国々のように」「他のすべての国民と同じように」という言葉です。これが民の求めたことでした。彼らは、エジプトから彼らを救われた神のみがイスラエルを守り、治め、導くという伝統的なあり方を放棄したのです。彼らは、エドムやモアブなど周りの国々が採っている、人間が統治する確かな制度を求めたのでした。
要するに、危機的状況において「神様に依り頼みなさい。信頼しなさい」などと言わなくても安心していられる、目に見える確かさと救いを求めたということです。分かるような気がするではありませんか。「神を信じなさい。神に依り頼みなさい」などと言っていないで生活している方が、確かな安定した生活であるように見えるものなのです。時は、ペリシテ人の支配が具体的に問題となっている時でした。そこで彼らは「他の国々のようになりたい」と思ったのです。
神は民の要求に応え、王を与えられました。それでも、王と民が神に従順であるならば、イスラエルはなお神の治める国として生きていくことができるでしょう。しかし、現実にはそうなりませんでした。王が神に背き、その結果として民が神に背き、国は滅びへと向かっていきました。この預言が語られた時点で、最後の王ホシェアはアッシリアの捕虜となっているのです。そこで主は問われます。「どこにいるのか、お前の王は、どこの町でも、お前を救うはずのもの、お前を治める者らは」(10節)。これこそ、人が傲慢にも神の支配を斥けて、人であれ物であれ、目に見えるものによる確かさと安定を求めた結果でありました。人はそこで自らが頼りにしていたものが全く頼りにならず、そこで助けを求めても、もはやどこにも助けがないことに気づくのです。
満ち足りて神を忘れたイスラエルを、産みの苦しみが襲います。産みの苦しみは、赤子が生み出されるならば意味を持つでしょう。しかし、イスラエルは生まれるべき時なのに、胎から出てこない、知恵のない子と呼ばれます。子が生まれないならば、そこにあるのは意味のない苦しみだけです。彼らが悔い改めて神に立ち帰ることがないならば、ただ意味のない苦しみだけがあり、滅亡という事実だけが残ることになるでしょう。
そこで主は死と陰府に命じます。「死よ、お前の呪いはどこにあるのか。陰府よ、お前の滅びはどこにあるのか」(14節)。これは、「その呪いと滅びを今、イスラエルに向けよ。滅ぼせ」ということに他なりません。その結果は15節に記されています。「エフライムは兄弟の中で最も栄えた。しかし熱風が襲う。主の風が荒れ野から吹きつける。水の源は涸れ、泉は干上がり、すべての富、すべての宝は奪い去られる」(15節)。
聖書は真の問題が何であるのかを語ります。人間の罪を明らかにするのです。それは私たちの耳に決して心地良い言葉ではありません。しかし、私たちはその言葉をしっかりと聞き取らねばなりません。病巣が明らかにされるのは、真の癒しがもたらされるためです。そこでこそ私たちは真の癒しをもたらす言葉を聞くのです。
「イスラエルよ、立ち帰れ、あなたの神、主のもとへ」(14:2)。
2025年4月6日日曜日
「神の霊が宿っているのだから」
2025年4月6日 主日礼拝
聖書:ローマの信徒への手紙 8:1-11
本日の第2朗読には二通りの人が出てきました。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」。それは二通りの生き方、と言ってもよいかもしれません。人は「肉に従って」生きることもできますし、「霊に従って」生きることもできるのです。
肉の支配下にある者
「肉に従って歩む者」という表現は、私たちの日常においては使われません。これは聖書における独特の表現です。しかし、「肉」という言葉から連想されるのは「肉欲」という言葉でしょう。なので、「肉に従って歩む者」と聞いたら肉欲に振り回されて放縦な生活をしている人を想像する人がいるかもしれません。不道徳なだらしない人を思い描く人もいることでしょう。
しかし、「肉に従って歩む者」と言う時、第一に念頭においているのは、恐らくはこの手紙を書いているパウロ自身のかつての姿なのです。それは7章と8章を続けて読むと分かります。今日はお読みしませんでしたが、例えば7章にはこのような言葉が出てきます。「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです」(7:14‐15)。明らかにパウロは自分自身の経験を念頭に置いて「肉の人」について語っているのです。
そうしますと、「肉に従って歩む者」とは単に不道徳なだらしのない人のことではありません。というのもパウロは恐らくここにいる私たちの誰よりも道徳的に真面目に生きてきた人であったからです。しかし、彼もまた「肉に従って歩む者」だったのです。では「肉に従って歩む者」とは何を意味するのでしょう。
パウロはファリサイ派に属するユダヤ人でした。彼にとって宗教とは、神の律法を学び、神の前に正しい人間となり、救いを獲得し永遠の命に至ることでした。そのような理解は私たちにも馴染みがあります。この国においても、宗教の中心は善い教えを学び、正しい生き方を身につけることあると考える人は、恐らく少なくはないでしょう。
あるいは、宗教の目的を道徳的行為に見るのではなく、精神的な強さや心の平安に見る人もいるでしょう。何が起ころうとも揺るがない精神力を持つこと、あるいは悩み多きこの世界において心の平安を得ること。そのために宗教は大きな意味を持っていると考える人もまた少なくないことでしょう。
そのように、宗教について考える時、ある人は重点を人間の行為に置き、ある人は重点を人間の心理的な状態に置くかもしれません。そして、この二つは異なるように見えて、実は共通しているものがあるのです。それは「人間の」ということです。行為にせよ心の状態にせよ、どちらにしても人間のことが関心の中心にあるということです。言い換えるならば関心の中心には「わたし」がいるということです。
分かりますでしょう。これが「肉に従って歩む者は、肉に属することを考える」ということなのです。「肉に属することを考える」ということは、言い換えるなら「神に属すること、霊に属することは考えない」ということです。関心がない。神御自身、神の御業、神の霊の働きには関心がないということです。
これに対して、「霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」とパウロは言います。霊に従って歩む者は、こちら側に目を向け続けるのではなく、あちら側に目を向けます。霊に従って歩む者は、神御自身に関心を向けます。神はどのような御方であるか。神が何をしてくださったか。神が何をしてくださっているか。神が何をしてくださろうとしているのか。神は何を望んでおられるのか。そのように、神様御自身に関心が向けられます。「霊に属することを考える」とは、そういうことです。
そのように「肉に従って歩む者は、肉に属することを考える」「霊に従って歩む者は、霊に属することを考える」という二通りの生き方について語り、さらにこう続けます。「肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません」(6‐8節)。
肉に属することを考え、肉に従って歩むということは、先にも申しましたように、それ自体は必ずしも不道徳なことを意味しません。一般的に言いまして、それは極めて真面目な営みとも見えるのです。「私の努力」「私の精進」「私の向上」「私の心の変化」に関心を向け、すべては「人間の努力次第だ」と考えることは、悪いことには思えないでしょう。神様について語られるよりも、「すべてはあなたの努力次第ですよ」と言われる方が正しいように聞こえるものではありませんか。
しかし、それこそまさに「肉の思い」なのです。そして、そのように考えている人は、神に喜ばれることはできない。いやむしろ神に敵対しているのだ、と言われているのです。神の御心にかなわないのです。それは一見神の律法に従っているように見えても、実は従っていないのだと言うのです。
霊の支配下にある者
神が望んでおられるのは、私たちが肉に属することを考え、人間の方に向いて、自分の方を向いて「すべては自分の努力次第だ」「すべては人間の努力次第だ」と言って生きることではなく、「霊に従って歩む者」として生きることなのです。すなわち霊に属すること、神に思いを向け、神の御業を考えて生き、神と共に生きることなのです。
そこでパウロはさらに次のように語ります。9節以下をご覧ください。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」(9‐11節)。
「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり」とパウロは言います。これは「神の霊がもし宿っているとするならば…」と言う意味ではありません。ここはむしろ「神の霊があなたがたの内に宿っているので」と訳してもよい言葉です。キリスト者として生きるということは、神の霊を宿した者として生きることです。パウロはまずその事実に目を向けさせるのです。
パウロは一方において、私たちがこの世に生きる人間である限り肉の内には罪が住んでいると語ります(7:18‐20)。しかし、もはやただ罪が住んでいるだけではありません。神の霊が宿っていてくださるのです。そして、神の霊が宿っているかぎり、肉ではなく霊の支配下にあるのです。それゆえ、罪との戦いは継続しているにしても、「すべては私の努力次第」と言って、孤軍奮闘している者のように生きる必要はないのです。
そして、神の霊が宿っているという事実について幾つかの言い換えがなされています。「神の霊」が「キリストの霊」と言い換えられています。さらに、「キリストがあなたがたの内におられるならば」(10節)と言います。神の霊、すなわちキリストの霊が宿っているということころに、キリストが現臨されます。いわば復活のキリストが内に住んでくださるということです。
もちろん、キリストが内に住んでくださると言いましても、罪が無くなってしまったわけではありませんから、死もあるわけです。神の霊に敵対する罪を宿す体ですから、これは死ななくてはなりません。体は死に行く体です。しかし、キリストのおられるところには、キリストを通して与えられた「神の義」があるのです。「神の義」のゆえに、神から切り離された者ではありません。命につながっているのですから、命がそこにあるのです。永遠の命は死後に与えられるのではなく、未だ罪と激しく格闘している現在において、既に与えられているのです。聖霊が与えられていること自体が義によって命となっているのです。
さらに、神の霊は「イエスを死者の中から復活させた方の霊」と呼ばれております。この呼び名は、キリストの復活と私たちを結び付けます。キリストは復活され、栄光の姿で弟子たちに現れました。このようにキリストを死者の中から復活させ、栄光の姿を与えられた方の霊が、私たちにも与えられているのです。
これは何を意味するのでしょう。キリストの栄光の姿は、やがて与えられる私たちの姿でもあるということです。戦いはやがて終わるのです。復活において、私たちの体は、罪からも死からも完全に自由なものとなるのです。
パウロは、キリストに結ばれた者が聖霊の支配のもとにあることを思い起こさせます。キリストに属する者とされ、神の霊が与えられているということは、最終的に完成するこの救いが、既に始まっていることを意味するのです。そうです。事は始まっているのです。パウロが語っているのは神の御業です。神が完成してくださるのです。私たちはそれゆえ、こちら側にひたすら関心を向けて生きるのではなく、向こう側、神の側に思いを向けて生きるのです。「すべては人間の努力次第だ」と言いながら生きるのではなく、神御自身に、神の御業に思いを向けて生きるのです。
そこで重要になるのは何か。もう明確ではありませんか。第一は、日々の祈りの生活です。「すべては人間の努力次第だ」という人はそもそも祈りはしないでしょう。それこそがまさに「肉に従って生きること」に他ならないのです。そして、第二は主日毎に共に集まって捧げる主日礼拝です。私たちはそこにおいて、まさにこちら側ではなくて、向こうに、神御自身に思いを向けるのです。その主日礼拝を失うならば、肉に従って生きる生活にならざるを得ないことは明白ではありませんか。そして、第三は今日共に与る聖餐です。私たちはそこでキリストの体と血とにあずかるのです。私たちが何をしたかではなくて、まさに神がキリストを通して成し遂げてくださったことに与るのです。「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます」。私たちはレントの時を過ごしている今、霊に従って歩む者となるように招かれているのです。
2025年4月2日水曜日
祈祷会用:ホセア書 12:1~15
ホセア書 12:1‐15
ホセアはここで、イスラエルの古い物語を用いて、神の言葉を伝えています。「エフライムは偽りをもって、イスラエルの家は欺きをもって、わたしを取り巻いた。ユダはいまだに神から離れてさまよい、偶像を聖なるものとして信頼している。エフライムは風の牧者となり、一日中、熱風を追って歩く。欺瞞と暴虐を重ね、アッシリアと契約を結び、油をエジプトへ貢ぐ。主はユダを告発される。ヤコブをその歩みにしたがって罰し、その悪い行いに報いられる。ヤコブは母の胎にいたときから、兄のかかとをつかみ、力を尽くして神と争った。神の使いと争って勝ち、泣いて恵みを乞うた。神はベテルで彼を見いだし、そこで彼と語られた。主こそ万軍の神、その御名は主と唱えられる」(1‐6節)
ここにアッシリアとエジプトの名が出てきます。この二つの国名が現れる背景は、列王記下17章に記されています。イスラエルの最後の王ホシェアの治世のことです。「アッシリアの王シャルマナサルが攻め上ってきたとき、ホシェアは彼に服従して、貢ぎ物を納めた。しかし、アッシリアの王は、ホシェアが謀反を企てて、エジプトの王ソに使節を派遣し、アッシリアの王に年ごとの貢ぎ物を納めなくなったのを知るに至り、彼を捕らえて牢につないだ」(列王記下17:3‐4)。
イスラエルの本質的な問題は、いみじくもこの外交政策とその結果に現れているとホセアは見ているのです。つまり、国の危機に際して、真に自らの罪を悔い改めて神に立ち帰るのではなく、ある時にはアッシリアにおもねり、ある時にはエジプトの大国に頼り、その間を行ったり来たりしているということです。
彼らは「何が本当の問題であるのか」ということを考えず、ただ「この現状をどうしたらよいのか」ということしか考えていないのです。そうやって右往左往しているうちに、自らに滅びを招くのです。
そのような姿を、ホセアは、羊の牧者ではなく「風の牧者」と呼びます。風の後を追うことは虚しいことです。目の前の危機を回避することだけに捕らわれて、ひたすら人間的な策を講ずることしか考えられないならば、それは風を追って歩くような愚かなことだと言っているのです。
そこで、ホセアはイスラエルの先祖であるヤコブに言及します。まず、その第一の意味は、「あなた方は先祖の悪いところをそのまま受け継いでいる」という指摘です。ヤコブとはどのような人物だったのでしょうか。彼の誕生の次第は創世記25章に出てきます。そこを読みますと、彼は産まれてくる時、双子の兄であるエサウのかかとをつかんで産まれてきたと書かれています(創世記25:26)。つまり、自力で長子となろうとしたのがヤコブであった、と物語は伝えているのです。
そのエピソードはヤコブの人生全体を象徴的に表しています。事実、ヤコブはその後、エサウを騙して長子の特権を得、さらに目の見えない父親を騙して本来エサウが得るはずだった祝福を奪い取るのです(創世記25、27章)。しかし、ヤコブはその結果エサウから命を狙われます。結局、自らの為したことによって、自らを絶望の淵に追い込んでしまうのです。
このようなヤコブの姿を示すことによって、ホセアは「人の力と策略に依り頼んで、結局滅びを招きつつあるあなたも、彼と同じではないか」と言っているのです。
しかし、ここでホセアはヤコブの誕生の話で終わらせません。さらに、ペヌエルでの出来事(創世記32章)に話を進めます。「神の使いと争って勝ち」という表現は、創世記32章の物語から来ています。しかし、そこで実際にヤコブがしたことは「泣いて恵みを乞うた」ことだったとホセアは語っているのです。彼は神によって打ち砕かれ、ただ神にすがりつくのです。そして、神は御使いを通して恵みを示し、ヤコブを祝福したのでした。
そして、創世記と順序は逆になりますが、ホセアはさらにベテルでの出来事(創世記28:10以下)について語ります。そこにはこう書かれています。「ヤコブはベエル・シェバを立ってハランへ向かった。とある場所に来たとき、日が沈んだので、そこで一夜を過ごすことにした。ヤコブはその場所にあった石を一つ取って枕にして、その場所に横たわった。すると、彼は夢を見た。先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた。見よ、主が傍らに立って言われた。『わたしは、あなたの父祖アブラハムの神、イサクの神、主である。…』」(創世記28:10‐13)。
ヤコブが見た階段は、地上から天に向かって伸びていたのではありません。天から地に向かって伸びていたのです。これは一方的な神の恵みを示します。絶望の中でヤコブが神を見出したのではありません。神が闇の中にいるヤコブを見出したのです。そして、彼と語られた。それは一方的な神の恵みでありました。
ここにヤコブに言及していることの第二の意味があります。あのヤコブにさえ向けられていた神の恵みを示すことです。悔い改め立ち帰る者に、いやその前から、神はいかに恵み深いお方であるか、ということです。それゆえに、ホセアは続けて、声を大にしてこう呼び掛けるのです。「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」(7節)と。
続けて、8節から11節までをお読みしましょう。「商人は欺きの秤を手にし、搾取を愛する。エフライムは言う。「わたしは豊かになり、富を得た。この財産がすべて罪と悪とで積み上げられたとはだれも気づくまい。」わたしこそあなたの神、主。エジプトの地からあなたを導き上った。わたしは再びあなたを天幕に住まわせる、わたしがあなたと共にあった日々のように。わたしは預言者たちに言葉を伝え、多くの幻を示し、預言者たちによってたとえを示した」(8‐11節)。
9節にはエフライム(イスラエル)の人々の言葉が記されています。彼らは、「わたしは豊かになり、富を得た」と言います。しかし、ホセアは、来るべき神の裁きによって国は滅び、彼らが築き上げてきた富もまた失われようとしていることを知っていたのです。ホセアはここで出エジプトの物語を取り上げます。主はホセアを通してこう言われるのです。「わたしは再びあなたを天幕に住まわせる」と。イスラエルが天幕に住んでいたのは、カナンに定住する前、荒れ野を旅していた時です。神は、再び彼らをその荒れ野の生活に戻すと言われるのです。
しかし、それは神が彼らを見捨ててしまうということではありません。その意味するところは、既にこの預言書の2章において語られておりました。夫を裏切った不貞の妻に等しいイスラエルの民に対して、主はこう言われたのです。「それゆえ、わたしは彼女をいざなって、荒れ野に導き、その心に語りかけよう。そのところで、わたしはぶどう園を与え、アコル(苦悩)の谷を希望の門として与える。そこで、彼女はわたしにこたえる。おとめであったとき、エジプトの地から上ってきた日のように」(2:16‐17)。
今日お読みしました箇所でも、主は言われます。「わたしは再びあなたを天幕に住まわせる、わたしがあなたと共にあった日々のように」。主が望んでおられるのは、再び荒れ野に戻された彼らが、かつてのように主と共に生きるようになることなのです。アコル(苦悩)の谷が実は希望の門なのだということが明らかになるのは、彼らが再び主と共に生きるようになる時なのです。そこに神の本来の意図があるのです。
神はあくまでも自らを指して「わたしこそあなたの神、主」と名乗られます。主こそ、人々が立ち帰ることを求め続けて預言者たちに言葉を与えて遣わし、呼びかけてこられた神なのです。
さらに12節以下には次のように書かれています。「ギレアドには忌むべきものがある。まことにそれらはむなしい。ギルガルでは雄牛に犠牲をささげている。その祭壇は畑の畝に積まれた石塚にすぎない。ヤコブはアラムの野に逃れ、イスラエルは妻を得るために仕え、また妻を得るために群れを守った。主は一人の預言者によってイスラエルをエジプトから導き上らせ、預言者によって彼らを守られた。エフライムは主を激しく怒らせた。主は流血の報いを彼に下し、その恥辱を彼に返される」(12‐15節)。
ギレアドにもギルガルにも聖所がありました。主の名によって礼拝が捧げられていました。しかし、現実に行われていたのは、カナンの豊穣神礼拝、バアル礼拝に他なりませんでした。「ギルガルでは雄牛に犠牲を捧げている」と書かれています。各地の聖所に置かれていた雄牛の像は、生殖力を象徴します。雄牛の像を拝むことによって追い求められているのは、ただ多産と豊作と繁栄でしかないことが分かります。そこでは神との人格的な関係、真実に神と共に生きる生活は求められてはおりません。
それゆえ、その祭壇は「畑の畝に積まれた石塚にすぎない」と主は言われるのです。そこでヤコブが再び引き合いに出されます。アラムに逃れたヤコブは妻を得るために叔父であるラバンに仕えました(創世記29章)。ヤコブは叔父であるラバンを愛していたわけでも、敬っていたわけでもありません。妻を得るために仕えたのです。そのような姿に、繁栄を求めてバアルを礼拝するイスラエルの民の姿が重なるということなのでしょう。
しかし、これに対して、ホセアは神とその民との関係が、本来どのようなものであったかを、出エジプトの出来事を用いて指し示します。主は奴隷の民であったイスラエルを一人の預言者、すなわちモーセによって、エジプトから救い出されました。そして、その荒れ野の旅路を、モーセを通して守られたのであります。まず先に神の愛と恵みがありました。それがイスラエルと神との関係でありました。神が求めていることは、御自分の民がただ神の恵みに信頼し、神の愛に応えて生き、神と共に歩むことだったのです。
このように、ホセアは古い物語を用いつつ、イスラエルの罪を明らかにし、それにもかかわらず神はなおも彼らの神であり続けようとしておられるその恵みの大きさを語ろうとしているのです。その中心は先にお読みした7節にあります。これが今日、古い物語を通して、私たちにも語りかけられている言葉です。
「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち、常にあなたの神を待ち望め」。